石井弘寿

石井 弘寿(いしい ひろとし、1977年9月14日 - )は、千葉県市原市岩崎出身のプロ野球選手。東京ヤクルトスワローズに所属。ポジションは投手。左投げ左打ち。背番号は61番。愛称は「ゴリ」「ゴリさん」

==来歴・人物 ==

1995年のドラフト会議で、ヤクルトスワローズから4位指名を受け入団。ルーキー年となる1996年にいきなり13試合に登板し、防御率3.38の好成績を残すも、その後は制球に苦しみ2年目は僅か1試合の登板、3年目は故障の影響で一軍登板無しに終わる。25試合投げた1999年も、防御率は6.28と不本意な成績に終わり、翌シーズン前に打者転向を示唆されるほどであった。石井は打者と投手の練習を並行して進めるという逆境にめげず、伊東昭光コーチ指導の下で課題の制球を徐々に克服。2000年から中継ぎに定着し、チームのリリーフ陣にとってなくてはならない存在として成長していく。
現在では球界屈指のリリーフピッチャーである。150km/h超の速球と切れ味抜群のスライダーで三振の山を築く。投球イニング数を上回る三振を毎年のように奪っており、特に2003年には36試合登板(45回1/3イニング)で61奪三振、奪三振率12.57という驚異的な数字を残している。
2002年10月11日の横浜ベイスターズ戦(神宮球場)で記録した球速155km/hは、日本の左腕最速の公式記録である(読売ジャイアンツ・辻内崇伸が高校時代に記録した156km/hは公式記録ではない)。また、2002年の69試合登板は、金田正一の記録を46年ぶりに超える球団新記録である。同僚の五十嵐亮太と合わせて「ロケットボーイズ」の愛称を持つ。
2004年、アテネオリンピック野球日本代表に選出。同じ日本代表の相川亮二(横浜)は、東京学館高校の1年先輩。石井一久に憧れて東京学館高に入学したが、実は石井一久は別の東京学館浦安高校の出身だったことが入学後に判明したというエピソードを持つ。2005年、五十嵐の故障と不調が原因でクローザーに転向。投打は左だが、日常生活は右利きである。
アメリカメジャーリーグ行きを強く志望していることで有名だが、メジャーからも左の中継ぎ投手としての評価は高い。何度かメジャー移籍を志願したもの、球団フロントの反対にあっており、特に2005年は移籍を容認する姿勢を示していた球団側が、オフになると一転して移籍を認めず、ポスティング移籍を望む石井と越年交渉の末にヤクルト残留が決まった。結局チームメイトで同じくメジャー志望の岩村明憲とともに、「今年(2006年)活躍すれば」という条件でフロントが移籍を容認し、オフの移籍は確実と思われていたが、左肩の負傷で先送りとなり、2007年もヤクルト残留が決定した。しかし2007年シーズンの登板は怪我のためシーズン絶望とみられている。
関口宏の東京フレンドパークIIにアテネ五輪代表として出演した事があるが、アトラクションでミスを連発し、クイズ!ボディ&ブレインでは関口宏に「ヤクルトのブラッド・ピットと呼ばれているそうですが?」と聞かれた時、女性の観客から「え~!!」と言われた事がある(その後、苦笑いして「はい」と答えている)。
06年シーズン終了現在中日ドラゴンズの岩瀬仁紀から本塁打を打った最後の左バッター。

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最終更新:2007年05月22日 15:05