伊藤智仁

伊藤 智仁(いとう ともひと、1970年10月30日 - )は平成期(1990年代後半~2000年代前半)のプロ野球選手(投手;右投げ右打ち)である。京都府京都市出身。

==来歴・人物 ==

花園高を経て、三菱自動車京都に進む。1992年のバルセロナ五輪では小桧山雅仁とエースを争った。1992年のドラフト会議でヤクルトスワローズ、広島、オリックスの3球団が1位指名、ヤクルトに入団。

ルーキーイヤーの1993年、MAX147km/hの直球(怪我から復活した97年は球威を取り戻しMAX155km/hを記録)と、球界最高峰の変化球と呼ばれた真横に滑るような140km台のスライダーの武器に、右肘を故障する7月までに7勝2敗、防御率0.91、4試合完封、セリーグタイ記録となる16奪三振など、数々の驚異的な成績を残す。前半戦の華々しい活躍が認められ、実働3ヶ月にも拘らず新人王を獲得した(シーズンを通し戦力だった中日鶴田泰、巨人松井秀喜など対抗馬は居たが、得票数は圧倒的多数だった)。

華々しいデビューを飾った伊藤だが、1994年、ヒジの痛みは肩の痛みを引き起こし一軍登板数0に終わる。この年肩を手術し、翌1995年も登板数0。ほぼ3年間を故障でリハビリに費やす事になるが、1996年ようやく久々の1勝を挙げ、プロ入り初セーブも記録する。

1997年はクローザーとして7勝19セーブを挙げ完全に復活、カムバック賞も受賞。1998年からは再び先発に転向し6勝、158.2イニングを投げ防御率2.72の成績を残す。

1999年には8勝、2000年は8勝を挙げるが、この頃から右足内転筋痛や血行障害などにも悩まされ、1999年10月に右肩をバイパス手術。2001年4月には肩痛で離脱、3度目となる肩の手術を受けることになる。2002年、2軍でリハビリを続けた伊藤はシーズン終了後の10月24日、復活を賭けコスモスリーグの対近鉄バファローズ戦で約1年半ぶりに実戦のマウンドに立ち、直球は最速138km/hながら1人目を見逃し三振に取る。しかし、2人目への初球となるこの日9球目を投じた際右肩を亜脱臼、再び投球不能となってしまう。後日引退勧告とヤクルト本社への入社を勧められるも、本人の強い要望により9割減(8000万>1000万)という異例の大幅減俸と引き換えに現役を続行。

2003年10月24日、多くのファンが見守る中、コスモスリーグの対巨人戦(於ヤクルト戸田球場)で約1年ぶりの実践登板。新たに習得したナックルも試すが、直球は最速で僅か109km/h。打者3人でサードゴロ、2四球で降板。29日、現役引退を表明した。関節の可動範囲が常人より広いこと(所謂ルーズショルダー。普通の人より脱臼・亜脱臼しやすい)に任せた投球フォーム故、驚異的な投球が可能となったが、幾度となく肩を壊す要因ともなった。早すぎる引退に対し、野村克也監督は投手コーチが止めるのにもかかわらず球数を投げさせ潰してしまった事を雑誌上で「申し訳ないことをした」と謝罪している。投手生命は短かったが、その短期間の間に見せたインパクトは強く、記録よりも記憶に残る投手と言える。

引退後はヤクルトの2軍育成コーチとなり、現在はヤクルトの2軍投手コーチを務めている。

==タイトル ==

  • 新人王 1993年
  • カムバック賞 1997年



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最終更新:2007年05月15日 13:27