土橋勝征

土橋 勝征(どばし かつゆき、1968年12月5日 - )は、千葉県船橋市出身。昭和末期から平成期(1980年代後半-2000年代前半)に東京ヤクルトスワローズで活躍した元プロ野球選手。現在は同チームの2軍打撃コーチ。右投右打。夫人は女優の白島靖代。

==来歴・人物 ==

正式なポジションは内野手だが、入団後しばらくは外野手でよく出場しており、登録も一時期は外野手であった。投手と捕手以外の全てのポジションを守った経験があるユーティリティプレーヤーであるが、レギュラー定着後は二塁手としての出場がほとんどであった。打撃面では、追い込まれたカウントでもファウルで懸命に粘ったり、難しいボールを巧みに右打ちするなど、玄人好みの打撃が光り、良い意味でいやらしい選手との評価が高い。目立つほど短くバットを持つのが特徴的である。手が下がらないように、余った柄の途中にテープをグルグル巻いてストッパーにしている。

長らく控え・準レギュラー的な存在だったが、1994年に欠場のジェラルド・クラークに代わり左翼手を務めると、一時3割を越える好打率をマーク。クラーク復帰後は二塁手のポジションに定着し、入団8年目にしてレギュラーの座を勝ち取る。

1995年はシーズン途中から3番に座って打率3割をマーク、チームの日本一に貢献した。この年の土橋、トーマス・オマリー、古田とアベレージヒッターをクリーンアップに並べたヤクルト打線は、優勝候補と目され、その年にヤクルトからFA移籍した広沢克己ら長距離砲を並べながら優勝を逃した巨人の重量打線と何かと比較されたものである。その後は、若手の台頭もあって下位打線を打つことが多い。2003年・2004年には規定打席数未満ながら打率3割をマーク、健在ぶりを示す。

しかし2006年はグレッグ・ラロッカ加入もあって代打にまわったものの成功率は低く、若手起用の方針もあって2軍暮らしが続き、ついに引退を決断、同年10月15日の試合を最後に現役を引退した。表情を崩さないことで有名な土橋も、この日ばかりは目を潤ませての引退挨拶となった。引退後は、ヤクルトの二軍打撃コーチへの就任が決まっている。

野村克也はヤクルト監督時代に土橋を非常に重宝しており、古田欠場時には4番を打たせたこともあった。1995年にリーグ優勝した際には、「土橋は裏MVPだ」と最大級の賛辞を送っている(実際にMVPを受賞したのはトーマス・オマリー)。選手に対して厳しい野村が広沢克己、池山隆寛、飯田哲也といった当時のレギュラークラスの選手をも何度となく叱責したのに対し、こと土橋に関してはほとんど叱ったことがないと言われるほど強い信頼をおいており、「ID野球の優等生」とも呼ばれた。読売ジャイアンツの上原浩治に、「最も投げにくい選手」と言わしめたこともある。

ハマの大魔神こと佐々木主浩に引導を渡したことでも印象深い選手である。2004年8月8日の横浜戦で岩村、古田と共に9回表に3者連続ホームランを放ち、佐々木のその後の登板機会を奪う。2005年シーズンでも4月21日の横浜戦9回裏に佐々木からサヨナラ勝ちとなるタイムリーヒットを打つ。救援失敗が続いた佐々木はこの試合を最後に二軍落ちし、8月9日の巨人戦で事実上の引退登板(1/3回)をした後マウンドから姿を消した。

以前は古田と同様にメガネがトレードマークの時代があったが、2000年オフにレーシック(視力矯正手術)をし、メガネを外した。

ヤクルトファンを公言している村上春樹は、なかでも土橋選手を贔屓にしていた。冗談としてではあるが「どば」で「夢のサーフシティー土橋選手」と変換されるよう単語登録することを勧めている。「夢のサーフシティー」は本の題名にもなっている。

2000年と2001年は規定打席に到達したが規定打席達成者の中で一番打率が低かった(規定打席最下位)。

==略歴 ==

  • 高校時代は千葉県立印旛高等学校に在学。高校3年の夏、千葉県大会決勝で飯田哲也を擁する拓殖大学紅陵高等学校に敗れ甲子園出場を逃す。
  • プロ時代のプレースタイルからは想像も出来ないが、この時彼が記録した1大会5本の本塁打は現在も千葉県大会の1大会最多本塁打記録である。
  • 1987年 ドラフト2位でヤクルトに入団。当時の背番号は38。
  • 1995年 背番号を5に変更。内野手登録になる。フルに近い129試合に出場し、日本一に貢献。
  • 1997年 規定打席不足も打率.301を記録。この年も日本一に貢献。
  • 2006年 現役引退を表明。10月15日の対巨人22回戦において2番セカンドで先発出場し、現役最終打席となった第3打席で中前安打を放ち山部太と共に現役生活に幕を下ろす。
  • 奇しくも、高校野球千葉県予選決勝を戦い、ヤクルトに同期入団した飯田哲也と同じ年に引退し、ともにヤクルト二軍コーチへ就くこととなった。


==通算成績==

1464試合 4208打数 1121安打 79本塁打 427打点 打率.266




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最終更新:2007年05月15日 13:07