山部太

山部 太(やまべ ふとし、1971年1月4日 - )は平成期(1990年代後半 -2000年代前半 )の東京ヤクルトスワローズ所属の元プロ野球選手(投手)。左投左打の技巧派軟投左腕。愛媛県八幡浜市出身。

==来歴・人物 ==

愛媛県立八幡浜工業高等学校(高3夏の県大会は決勝で敗れる)から、NTT四国を経て1993年ドラフト1位でヤクルトに入団。入団当時の背番号は19(2000年まで)。当時の野村克也監督が現役時代に付けていた番号をもらう。2年目の1995年、先発ローテーションに入り2桁勝利をあげ、左の速球派として、同じく左腕の石井一久と優勝に貢献。しかし、生来の神経の細かさで投球バランスを崩し、さらに怪我が追い打ちをかけた。

左投手は総じて右投手よりコントロールが悪い傾向があるが、御多分に漏れず。その制球難矯正に手間取る間に故障で離脱。唯一の武器だったスピードまで失ってしまった。1999年に6勝で持ち直したものの、その後また故障低迷。スピードが極端に落ちた。その後、思い切って軟投派に転向。スリークオーターで左手から繰り出すスローカーブと緩急つけたピッチングを持ち味に、左のワンポイントから、時には先発までこなす。

2002年先発で復帰し5勝も、防御率5点台でいまいち。しかしリリーフに専念した2003年は防御率1点台と、見違えるような結果を残した。変化球を効果的に使い、球の切れで高い奪三振率もマーク。体調が良かったのか球威もなかなかのもので、完全なイメージチェンジに成功した。しかしながら2004年は相手に慣れられた事もあったか防御率9.78という自己最低の防御率をマーク。2005年もワンポイントの起用に限定されていたとはいえ防御率6.43と低迷が続いていた。2006年は球速を取り戻すことをテーマとしていたが、一軍登板のないまま10月に戦力外通告を受け、現役引退と2軍コーチ就任を表明。10月15日の対巨人22回戦において9回に登板、堀田一郎を三振に打ち取って現役生活に幕を下ろした。

==通算成績 ==

  • 269試合 708 1/3投球回 45勝45敗2セーブ 防御率4.60 651奪三振(実働13年)

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最終更新:2007年05月15日 14:40