松井光介

松井 光介(まつい こうすけ、1978年8月24日 - )は、東京ヤクルトスワローズ所属のプロ野球選手。北海道札幌市豊平区出身。ポジションは投手。右投右打。171cm、80kg。背番号は44。

170cm程度の小さな身体から投げ込む、最速150km/h近い速球と鋭いフォークボール、多彩な変化球を武器とし、気迫溢れるピッチングが魅力。シニア、高校時代は松坂大輔の2年先輩で、今でも松坂から尊敬されている。松坂が横浜高校3年生の時に夏の甲子園に出場する際、新聞社が全選手に行ったアンケートで「目標とする選手」の欄に「松井光介」と書いた話は有名。

==来歴・人物 ==

中学2年の時、父の転勤で東京に移住。江戸川南シニアを経て、1994年に横浜高校に入学。シニア時代は投手だったが、同期に丹波慎也がいたため、松井は外野手としてプレイし、投手としては2番手という存在だった。同年夏の選手権大会、横浜高は5年振りに夏の甲子園出場を果たすが、那覇商に初戦で敗れている(松井ら1年生達はアルプススタンドでの応援だった)。
翌1995年春夏も甲子園出場を目指したが、叶わなかった。夏の神奈川予選敗退後、エースで4番の丹波慎也を中心とする新チームを結成、翌1996年春夏の甲子園を目指しての猛練習が始まった。ところがその直後の1995年8月17日の朝、その丹波が心臓発作を起こして急逝してしまう。当時の横浜高校ナインを初め、渡辺元智監督達も悲しみに暮れたが、この悲劇をきっかけに松井は急遽横浜高校のエースの座を引き継ぎ、チームを引っ張っていくことになる。その横浜高校は、1996年に念願の甲子園春夏連続出場を果たした。
1996年春センバツ大会では一回戦、大阪学院大高にわずか1点差で敗れた。しかし同年夏の甲子園は初戦、現ソフトバンク・山田秋親のいる北嵯峨を、8回表まで0-1とリードされていたが、8回裏に逆転で下して勝利を飾る。次の試合では福井商に8回裏までに4-2とリードしながらも、勝利寸前の9回表に自らの悪送球をきっかけに、逆転で敗れてしまった。奇しくも福井商に敗れたその日は前年亡くなった丹波慎也の命日であった。高校時代から小柄ながらもきれいなフォームで観客を魅了した。松井と同じ横浜高校のチームメートには、オリックス・バファローズの阿部真宏、元中日ドラゴンズの幕田賢治らがいる。また高校の同級生にプロロードレーサーの山本雅道もいる。
高校卒業後は亜細亜大学に進学し、日米大学野球の代表選手にも選ばれる。ちなみに、現在チームメイトの吉川昌宏は大学時代の同期である。
その後社会人のJR東日本へ入社。社会人ではエースとして都市対抗野球にも出場するが、プロからの指名は長らくなかった。しかし2005年の大学・社会人ドラフトにて、ようやくプロからの指名を得て、松井は27歳にして遂にプロ球団へ入団する。3巡で松井を指名した球団はヤクルトスワローズ。丹波慎也の兄、丹波幹夫が所属した球団であった(幹夫は1998年ドラフトで8位指名、2002年に退団)。


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最終更新:2007年05月22日 15:00