天夜奇想譚

天夜奇想譚 -狼- Chapter6

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kohaku

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 夜気が冷え込む中。
 周囲を封鎖された公園から離れた場所に、一台の護送車が止まっている。
 犯罪者を収容する車にしては、その形も強度も並大抵のものではない。
 完全に周囲を鋼鉄で囲った後ろは、完全な棺桶と化しており、空気穴として空いている複数の穴からは、差し込む日差しがあれば、中にわずかばかりの光を灯していただろう。
 しかし、深夜の外では、月明かりと電灯の淡い光しか届きそうもなかった。
 その護送車の箱が、先ほどから騒々しい音と共にぐらぐらと揺れている。
 微かにもれてくる中からの音に、傍にいた制服姿の警官が一度、手にしていた警棒で側面を打ちつける。
「うるさいぞ、いい加減に静かにしろ!!」
『うるさいとかいうな!!』
 若い男の声にも、車両を護衛している男達は気にした風がない。
 中からの音は、乱暴というにはまるで破砕音の様な衝撃と音を伴うが、その車両の壁が打ち破られる様子がない。
 警備をする男達も、その事に信頼を置いているのか中からの衝撃に、気にした風がない。
 ただ、一人はひとつの疑問を持って、退屈そうに周囲を見張っている相方へと視線を向けた。
「なあ…」
「ああん?」
「中の奴は子供だろ。何であんな乱暴な音が出せるんだよ?
 あれじゃまるで、熊か何かが体当たりしてるみたいじゃねぇか」
 心配そうに車両に視線を送る連れに、慣れた様子の男はああ、と分かったような顔をした。
「そういえば、異形の護衛はお前は初めてだったな。
 俺も、感染者の護送は初めてだが…。まあ、要はあいつらを人と思うなってことだ」
「――人と、思うな?」
「ああ。異形に感染された人間は、既に人間じゃねぇ。姿形が人であっても、そいつらは平気で人一人を素手で殺せるだけの力がある」
 自分が口にする言葉に、男は苦虫をつぶしたような表情をすると、くるりと振り返って暴れる護送車の中へ発砲した。
「うるせぇって言ってるだろう!? ここで蜂の巣にされたくなかったら大人しくしていろ!!」
「お、おい!!」
 相方の凶行に、慌てて持ち上げた銃を下ろさせた。
「――俺の仲間も、もう何人も殺されてる。俺達は、いつもそんなバケモノたちを相手にしてるんだ」
 だから、と男は続けようとしてふと男はこちらを見ている視線に気がついた。
 幽鬼のように佇む白い影に、男は怪訝な表情をする。
 白い外套を羽織った、背の高い青年。
 女性と見紛う程の貌には、月明かりの下からでは表情というものが伺えなかった。
 その姿に、連れは男よりも先に動いた。
「キミ、此処は今立ち入り禁止区だ。悪いが大人しく――」
 男は、追い立てるように青年へと近づいた連れが、突然糸の切れた人形のように地面に崩れ落ちる光景を見た。
「――な」
 何が、と口にするまもなく。連れに阻まれていた相手の姿を見て声を失った。
 白い外套を血で汚す事無く、鮮血に染めた爪を持つ右腕をみたからだ。
 その手は、人の手はなかった。
 白い毛に覆われ、真っ赤な血を滴らせた鎌のような爪を持った、獣の手。
「貴様、まさか――」
 不意に下ろしていた銃を持ち上げ、相手を威嚇するように銃口を相手に向ける。
 口を開こうとする男に、青年は静かに一歩を踏み出した。
「止まれ!! 貴様異形だな?」
 叫ぶ男の言葉にも、青年は歩みを止めることをしない。
 不意に月光に照らされた貌は、自分の前に向けられた銃口すら気にした様子もなく、ただ男を素通りして護送車へと向かっていく。
「クソ――!!」
 不意に無防備な背中へ、男は銃を発砲したが、弾は肉を貫く事無く護送車の側面に火花を散らした。
「!!――どこだ?」
 相手を見失った男は、相手を探すように周囲を見渡し――、
「――え?」
 自分の腹から突き出る爪と鮮血に気がついた。
「――邪魔をするな」
 不意に耳元から聞こえる感情のない声に、男はゆっくりと視線を後ろへと向けた。
 其処には、声とは裏腹に泣き出しそうな悲しげな男の貌が自分を見ていた。
 その銀白の瞳を見つめながら、男は崩れ落ちる中振り絞るように口を開く。
「――バケモノ、め…」

          ◇
 不意の外の静寂に気づき、藤代雄二は暴れるのを止めた。
 どさりと何かが落ちる音を聞き、雄二は扉から離れる。
 すると、先ほどまでピクリともしなかった護送車のドアが、開錠の音と共に小さく開いた。
「誰だ?」
 雄二は罠かと外へと呼びかけるが、隙間を作った扉はそれ以上開こうとしない。
 出ることを一瞬躊躇った雄二だが、外に出られるのならば、例えどれだけ銃器を持った奴らがいたところで、自分の爪で引き裂くことが出来るということに思い至る。
 雄二は先ほどまで頬を腫れさせていた顔に醜悪な笑みを浮かべると、扉を蹴破るように外へ飛び出した。
「なんだぁ?」
 視界に飛び込んだ血の海に、雄二は意気揚々と飛び出した事など忘れ、そんな声を上げていた。
 腹から血を流す亡骸に視線を送った雄二は、その横に静かに佇む人影に気づいた。
「アンタは――なんだ、助けが来たのか? ははは…。やっぱりそうか。あの人は僕が必要なんだな! だからアンタが助けに来たんだろ?」
 雄二は佇む男――ナッシュに駆け寄った。
「それにしても、すごい手際だね。これ、後ろからずっぷりだろ? 不意を打ったにしたってこんな鮮やかな真似、僕にもまだ出来ないよ。
 あーあ。早く僕もこれくらい出来るようにならないと。そうすれば、あんな奴に遅れを取る事だって…」
 不意に、頬の痛みを思い出して、雄二は感嘆と死体を見下ろしていた表情を怒りに変えた。
「そうだ、アイツだ!! あの空かした奴、今度あったら絶対に殺してやる!! この僕の顔にあんなものを叩きつけるなんて、絶対に許さないんだからな」
 なあアンタ、と続けようとした雄二は、しかし一人先に歩き出すナッシュに気づき、慌てて追いかける。
「おい、ちょっと待ってくれよ。助けに来てくれたんだろ、アンタ? だったら早く安全な所に案内してくれよ。あのアジトはさ、勇‘イサム’の奴が捕まった時に喋っちまったんだよ。アイツ、ちょっと銃をちらつかされたくらいで、べろべろと話しやがって。あいつも裏切り者だよ。今頃ほら、統括だっけ? あいつらがアジトに押し入ってるからさ。僕達は別の安全な場所で一旦ほとぼりがさめるまで――」
「少し、黙ってろ」
 止まることを知らない雄二の言葉を、冷たい視線と共にナッシュは押し留めた。
 その冷たい瞳に、雄二は本能的な恐怖を感じて口を閉じた。
「な、なんだよ。そんな目で見ることないじゃないか。助けに来てくれたくせにさ」
「お前を助けに来たのは事実だが、助けた後の事は俺の知ることじゃない」
 冷たく言い放つナッシュの言葉に、雄二は驚いて足を止める。
「なんだよ、それ!! お前はあの人の部下なんだろ? なら、あの人のためにこの僕を迎えに来たんじゃないのか?」
「夢を見るのは勝手だが、俺はアイツの命令で動いているわけじゃない。あの男に付いて行くなら此処へ行け。俺には俺のやることがある」
 そういって、ナッシュは外套のポケットから一枚の紙を取り出すと、雄二へと放り投げた。
 受け取った紙には、集合場所が書かれていたが、雄二にはそんな事はどうでも良かった。
「おい、待てよアンタ? あの人もそうだったけど、あんた達は一体に何しにこんな所へ来たんだよ?」
 雄二は、目の前の異形と呼ばれる存在に力を与えられたが、その実彼らの目的を何も知らなかった。
 いつもの様に仲間とつるんで夜の街を歩き回っていた雄二たちの前に現れたナッシュたちに、雄二は一方的に襲われ、その力を与えられた。
 そして、生かされた雄二たちが命ぜられた事は、この力で人を殺し、嬲り、弄ぶ事だった。
「アンタにはこの力を与えられた事に感謝してるんだ。僕はこの力で退屈な毎日を変えることができた。本当だ、本当に感謝している」
 毎日親に命ぜられるままに、勉強に向かわされる毎日が嫌で、同じ様に鬱憤のたまった仲間を集めて雄二は夜の街を出歩いていた。
 そんな自分の前に現れたナッシュを、雄二は神のような存在だと感じたのだ。
 後で知った異形という存在についても、雄二は恐れる所か畏敬の念さえ抱いていた。
 人間というくだらない存在より上を行く高貴な存在。それが、社会というシステムに囚われる人間を侮蔑していた雄二の心に、感動と憧憬を抱かせたのだ。
「だからさ!! アンタがあの人――いや、アイツとは関係ないって言うんなら、僕、俺はアンタに付いて行くよ! アンタに貰った力だ。俺はアンタのためにこの力を使ってやる!! だからさ――」
 立ちふさがるようにナッシュの前に向かう雄二に、ナッシュは何を思うでもなく雄二の顔を見ると、視線を外して横を通り過ぎた。
 相手にされていない事への悔しさに、雄二は握りこぶしを作りながらも、目の前で何かを成そうとしてるナッシュの後姿に、雄二はなおも追いすがろうとして――、
「――見つけました。あなた、藤代雄二ですね」
 不意に聞いた事のない鈴の音のような少女の声に、ナッシュと雄二は動きを止めた。

          ◇
 夜気の冷たさが厳しい夜の道に、一輪の花がそこにあった。
 自己主張のしない、道端に生えている様な小さな花を思わせる少女は、しかし、今は厳しい視線で二人の人影を見つめている。
 白と黒のメイド服姿の少女は、特に構えるでもなく礼儀正しく二人の前に立つと、小さく――しかしよく通る声を発した。
「藤代雄二。貴方を処分します。大人しく縛についてください」
 少女――マチの言葉に、怪訝そうな顔をした雄二は初めてマチの方へ姿勢を向けた。
「なんだよ、このガキ。この僕が誰か知ってるって事は、ここに転がっている奴らの仲間か? そんな華奢な身体でこの僕を捕まえようなんて、本気で言ってるの?」
 面白い冗談だと、雄二は可笑しそうに笑う。
 その横に立つナッシュは、静かにマチの方に視線を向けていた。
「大人しく捕まってくれないんですね…」
「冗談はその格好だけにしろよ。メイド服はな、お前みたいなガキには過ぎた代物だよ」
 雄二の言葉に、マチはその表情に怒りの感情を浮かべると、そうですか、と小さく呟くとその手を動かした。
 構え、というには何処か服装とはちぐはぐな凶器を持って、マチは雄二に視線をぶつける。
「はっ、チェーンソー? なんだよそれ、台無しどころかお前、それってメイド服への冒涜じゃねぇ?」
「これは、大切な人にお仕えする正装です。貴方の趣味なんて知りません」
「そうかい。じゃあ、僕が捕まえてその身体にたっぷりと教え込んでやるよ。“お仕えする”ってことをな!!」
 雄二はマチへと肉薄する刹那、その腕を獣化させる。
 コンクリートの路面を打ち抜く跳躍は、瞬きするまもなく距離をゼロにする。マチは雄二の動きに回避の動作を取るが、雄二にとっては遅すぎて話しにならない。
 奇跡でも起きない限り、雄二の爪がマチへの首に突きたてられる事は、誰の目にも明らかだった。
 風を切る様に打ち出された雄二の爪は――
「――なに?」
 マチの細い首を捕らえる事無く空を切った。
「悔い、改めない」
 無駄のない動作で振り上げられたチェーンソーが、雄二の肉を欲しがるように唸りを上げる。
 しかし、雄二はその刃に恐れる事無く、今度はマチから離れるように跳躍する。
 振り下ろされるマチの凶器は、しかし、影を残す雄二の動きに目的にしていた雄二の胴体を逃す。獣化させた雄二の腕を掠めるに留めると思われた刃は――、
「――ぐあっ!」
 しかし、何の因果か、足を滑らせた雄二の腕を断った。
 飛び退るはずだった雄二は、痛みと崩したバランスで、路面へと盛大に倒れこむ。
 自分の血で紅く染まる自分の腕が、目の前に転がって、その激痛に貌を顰める。
「な、なんだよこれ。なんでこんなトロい奴に、俺の腕がぁ…」
「――運がないですね。悪さばかりするからです」
 チェーンソーを持ったマチが、倒れこんだ雄二の下へ歩み寄る。
 返り血を浴びていないマチは、静かに雄二の横に立つと、手にしている凶器を持ち上げた。
「残りの腕と、後は足も断っておきましょうか。逃げられたら困ります」
「おい、ガキ…」
「大丈夫。貴方は異形です。運がよければ出血多量では気を失うだけです」
 そうじゃねぇ、と雄二は口にしようとするが、痛みで声が出せない。切断された腕が、先を探すように治癒しようと肉を膨れさせている。その痛みに、雄二は泣き叫ぶことも出来ない。
「往生際が、悪いです」
 容赦なく刃を振り下ろそうとするマチに、影のように忍び寄ったナッシュが、チェーンソーの刃の側面に蹴りをいれた。
 打ち上げられるような衝撃に、手を離すマチは、飛び退るように後ろに下がる。
 宙を舞ったチェーンソーは、刃を下にしてマチの真横に突き立った。
「危ないです。運が悪かったら私の体に当たっていました」
 言葉とは裏腹に、マチは驚いた風もなく唸り続けるチェーンソーに視線を向ける。
「そういう風に、蹴ったつもりなんだがな」
「恐ろしい人ですね。でも、当たりませんでした」
「ああ。蹴る瞬間にソレが変な動きをした。お前の言葉で言うなら、“運”がないんだな」
 ナッシュは、そういうと雄二に一瞥をくれることなくマチへと身構えた。
「あなた、知ってます。欧州での仕業――私の耳にも入っています」
「極東には、知られていないはずだが?」
「私ももともとは欧州から来た身です。ナッシュ アシュフィード。教会から指名手配を受けた異形…。いえ、半端モノ、ですね」
 マチの言葉に、ナッシュは初めてその表情に険呑な色を浮かべた。
「なるほど。聖ラザロ騎士団が極東にアプローチをかけた事は聞いています。
 貴方がいるという事はラザロの騎士たちが追っているのも貴方でしょう。
 それに、《狼人間》である貴方なら、今回の事件の首謀者ともありえます。実行犯の藤代雄二と共にいる時点で、他に疑いようがないです」
「見た目と違って、よく喋るな…」
「そうですか? 私、お仕えする人の傍では静かに後ろに佇んでます。今は貴方と後ろの“イヌ”を捕まえることが任務です」
「――また、イヌって言ったな」
 マチの言葉に、倒れていた雄二が声を上げた。
「あなたのような駄犬に、手を煩わせている暇はないの。おとなしくしていてください」
「ウルサイ!! どいつもこいつも、僕のこと馬鹿にしやがって!! 僕はな、お前らなんかに――」
 叫ぶ雄二の襟首を浮かんだナッシュは、抵抗できない雄二をそのまま放り投げた。吹き飛んでいた腕も一緒に投げると、今度こそマチの方へ対峙の姿勢で身構えた。
「お前はそこで腕でもくっつけていろ」
「ウルサイ!! それは僕の獲物だ!! アンタにやらせるわけには――」
「強くなりたいなら、黙って俺の戦いを見ていろ。お前は無駄が多すぎる。この力の使い方をお前に見せてやる」
 ナッシュの言葉に、雄二は口を閉ざした。
「生憎、こっちも時間がない。あまり時間を費やす気はない」
「今から時間の計算ですか? 私に勝つことを前提しての物言い、傲慢ですね。それでは、あなたも運を逃しますよ?」
「おしゃべりはもういい。行くぞ――」
 マチの言葉を遮ると、ナッシュは音もなく走り出した。

          ◇
 自分を置いてけぼりにした戦いに、しかし雄二は口を挟めずにいた。
 一目で分かる、自分とは一つも二つも上の戦いがそこにあったからだ。
 互いに肉薄した影は、残像を残す速さで互いの攻撃を相手に届かせようと閃光を走らせている。
 自分の背丈ほどもある、機械と鉄の塊であるチェーンソーをマチと名乗った少女は小枝を振るように振り回している。
 決して早い振りとはいえないが、必殺の間合いを持って迫るナッシュを、もう何度も迎撃し、退けている。
 対するナッシュも、決してマチに遅れを取っているわけではなかった。
 そもそも、速度から見ればナッシュの動きの方が圧倒的に速いのだ。
 ナッシュの爪は、マチに捌けるものではなく、刹那の中で連撃を組み込んでくるナッシュの攻撃を、マチはほとんどバランスを崩しながらでしか受けれていない。
 だが、どういうわけは、ナッシュの攻撃が決定打の感触を感じ取れていない。
 本人の感覚と結果とのギャップによる一瞬の逡巡が、マチに反撃の隙を与えている。

 ――だが、ソレはおかしい。

 ナッシュの意図しない結果を、まるで目の前で反撃する少女は――、
「読んでいる…分かっているの、か?」
 どちらにせよ、雄二には二人の次元の違う戦いが理解できない。
 徐々に速度を上げていく二人の戦いは、既に雄二の人狼の目を持ってしても終えなくなっていたからだ。

          ◇
 これで、何度目だ。
 そんな刹那の思考が、迫り来るノコギリの刃をかわしながらナッシュの思考の片隅に上がる。
 目の前のマチの服は、既に自分の爪で所々が切り裂かれている。
 マチの変則的かつ突発的な攻撃も、紙一重でかわし致命傷にはなっていない。
 お互いが、致命的な隙を見せているのに、どちらも致命的な一撃を入れられていない。
「――なかなかの運ですね」
 不意に、笑みを浮かべながらマチの声が上がる。
 その声に気をとられないように、こちらの首を狙う上段からの斬撃を、ナッシュは横っ飛びをしてかわす。
 既に場所は護送車の前から、規則的に植えられた木々を飛び越え隣の湖の傍にまで移っている。
 街中の公園にしては、贅沢なまでの敷地の広さ。
 周囲は人が全て追い払われているが、決してゼロではない。
 見つかればもっとも面倒な奴らが、この周囲を巡回しているはずなのだ。
「統括の兵を心配しているんですか? それなら、無駄な心配です。私の結界内には、生半可な退魔士では入れません」
 こちらの思考を読んで、追撃してきたマチが答える。
「――ずいぶんと、用意周到なことだな」
 迫ってくる刃の側面を殴り倒しながら、ナッシュはまた距離をとる。
 同時に地面に降り立ったマチは、更なる追撃をしようとして自分の手の獲物が稼動していないことに気がついた。
「また、壊れました。中古の安物はいけませんね。なるべく、血を吸ったものを選んでいるのですけど」
 そういってガラクタとなった黄色いボディのチェーンソーを放り捨てると、背後から真っ赤なエンジンカバーの突いたチェーンソーを取り出した。
「一体、いくつ持ってるんだ…」
 呆れとも疲れとも取れるため息を吐くナッシュに、マチは心外だとでも言いたそうな貌をする。
「乙女の秘密は、軽々しく知りたがるものじゃありません。――琴歌が言ってました」
「――そうかいっ!」
 バネの様な跳躍で、ナッシュはマチへと襲い掛かった。

          ◇
 迫る攻撃をかわしつつ、マチは脳裏に「強い」という言葉を放った。
 噂に聞く目の前の男の強さは、対峙して初めてそれ以上だということに気づかされる。
 狼男という種族の能力も、その特性も知り尽くしているはずの自分だったが、目の前のそれが、そんな情報のはるか上を行っている事に気づかされるからだ。
 攻防は一進一退。
 しかし、じわじわと自分が押されている事がひしひしと感じられていた。
 今なお自分が立っていられるのは、まさに運の賜物。
 自分が持つ《幸運の手繰り寄せ》故の、一時の時間稼ぎでしかない。
 最初に藤代雄二を見つけたときには、勇んで前に立ちはだかったが、今では後悔せずにはいられない。
 仲間への連絡は済んでいる。
 誰かが此処に来てくれるかもしれないが、それまで持ちこたえられかどうかは分からない。
(なんとか、しないと…)
 なんともならない現実が、マチの心に焦りの感情を強くさせる。
「――どうした。動きが鈍ってきたぞ」
 不意の言葉に、マチは自分の死角から攻撃が来るのに気づく。
 反応は既に遅い。このままでは確実に自分の胸を目の前の爪が貫く。
「―――!!」
 マチは、自分に襲い掛かる負の色の流れを感じ取り、それを覆すために力を発動する。
 胸元の服の下が僅かに輝くと、マチは不意に足元を取られたのに気づいた。
 ずるり、と湿った地面に足を滑らせ、マチは尻餅を付くように地面に倒れた。
 戦いの最中でバランスを崩す事は、敗北を示すといっても良い。しかし、今はその転倒がナッシュ・アシュフォードの攻撃をかわす事になった。
 ――まさに、不幸中の幸い。しかし…。
(もう、こんな幸運しか手繰り寄せられない!!)
 明らかに、次の一撃をかわす手立てが自分にない。
 突然姿を消したように見えたマチの動きに、ナッシュが一瞬の隙を見せたが、そこを突く間も与えずにナッシュの視線はこちらへと向けられる。
 相手は、こちらの能力に気づいている。
 マチは、隙を増やすために片手でチェーンソーをナッシュへと振るう。
「――なっ!?」
 しかし、刃は火花を散らしながら獣化した相手の手につかまれてしまった。
「どうやら、此処までのようだな…」
 返す言葉がなくて、マチはチェーンソーを手放すと一目散に背を向ける。
 追撃の爪を足に受けるが、かすり傷程度で済んだそれを気にする事無く、先ほどやってきた護送車のある方へと木々を突っ切って飛び越える。
 背を向けたこちらに驚きの表情を浮かべたナッシュだったが、マチは既に標的を視界に納めていた。
 自分の《討滅対象》-ターゲット-。藤代雄二は、まだ護送車の側面にもたれて腕をつなげようとしていた。
 木々から飛び出したこちらに気づいた藤代雄二は、驚きの顔を上げる。
 攫っている余裕はない。捕縛できない際は――、
「殺す…」
 マチは、ミニスカートの中から錆びたチェーンソーを取り出すと、藤代雄二の首へと刃を向けた。
「な、てめぇ!?」
 庇おうとする腕ごと切り落とそうと掴む手に力を込めたときだった。
「グアウゥゥゥ――!!」
 獣の咆哮。
 それを背後で聞いた横で、白銀の旋風が駆け抜けた。
 風は、マチの横をやすやすと駆け抜けると、藤代雄二との間に割って入った。
 その姿に、マチは息を呑む。
 白銀の毛並みを持った、二足歩行をする狼の貌。銀白の両眼は、鋭い三白眼でもってマチを捕らえていた。
「藤代雄二は、どうでも良かったんではないですの?」
 マチは、構えられた狼男の腕を見つめながら、小さくため息をついた。
「―――」
 返事のない狼男に、マチは相手になのか、それとも自分になのか分からない笑みを浮かべる。
 藤代雄二へと飛び掛った身体は、目の前の狼男の爪へと吸い込まれていった。

          ◇
 気づけば目を閉じていたマチは、胸を貫く痛みではなく、不意に抱きしめ引き戻される衝撃を感じた。
 その衝撃を錯覚して目を強く瞑ったが、一向に痛みが来ることがない。
 不思議に思って目を開けるとそこには――、
「僕の仲間がずいぶんと世話になったみたいですね」
 首切り包丁にも見える、血と錆に塗れた大剣を持つ――、
「なぎさ…」
 自分の名を告げるマチに、柔らかな笑みを浮かべる風見渚-かざみなぎさ-に、マチはほっとした表情を浮かべるとそのまま意識を失った。

          ◇
「さて、と…」
 抱えていたマチを近くのベンチに下ろすと、渚は地面に突き立てていた大剣を取った。
「さて、本当なら痛み分け、と行きたいところですが。本土で《最重要対象》とされているナッシュ・アシュフォードに、僕らの今回の《討滅対象》。逃がすわけにも行きません」
 対峙する渚に、獣化したナッシュは低い唸り声を返すだけだ。
 狼男と化したナッシュには、すでにあの落ち着き払った姿はなく、必死に暴れようとする肉体を押さえ、身体を膨張させる獣の姿があるだけだった。
「この極東の地で、狼男としての力が何処まで働くのかも見てみたいですしね。すみませんが、もうしばらく付き合ってもらいますよ!!」
 剣をひと振るい。ナッシュへと走りよる渚に、夜空を裂く咆哮が木霊した。

To be continued.

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