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変わっていくヒト 2

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匿名ユーザー

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だれでも歓迎! 編集
 あの昼休み以来、私の目に映る世界は一つの色彩を失ってしまったかのようだった。何をするにもやる気が起きず、何をやり遂げても何の実感も無く、まるで五月病に罹ってしまったみたいに私は無気力に日々を過ごしている。
 でも、それは誰にも見られる事の無い私の裏面。多分、他人から見た私は以前と大差無く見えるのだと思う。現に「元気が無いね」とか「最近おかしいよ」とか、そんな言葉を全く聞いていないのだ。私に何か異常があると友人たちが少しでも疑ったなら、彼女らは何の躊躇も無く私を気遣うのだろうし、それが今まで一度も無いという事は私が普段通りの私を上手に演じられているからに他ならない。
 それで良いと私は思っている。私の本性が白日の下に晒されたなら、私は今の親友たちと――何より妹と、今までの関係を続けていくのは無理になるのだ。さながら今の私は、例えるなら狼男のようだった。満月である必要は無いけれど、夜の私は確実に狂気に侵されているのだろう。狂気が、狂喜が私を動かすのだ。毎晩毎晩、理性の塊の私を殺して、そして朝になる頃には生き返らせて、私に普段の私を演じさせるのだ。どうせなら記憶も消してくれればいいのに、何回そう思っても狂気に支配された私は、自分への戒めの為に記憶を残しておいてしまう。その罪悪感を一身に背負うのは私なのに。
 そんな夜が何日も続いて、それは今も変わらない。
 その間にも、つかさは見るからに大人びていった。隣に私がいなくてもハッキリとした返事を返せるようになったし、前に私がいなくても一人で歩けるようになった。この頃は彼氏が大きい大会に出場する事になったと言って、ほぼ毎日のように練習や試合の応援などに行ったりしている。当初は、自分の何倍もある背の高い男子たちに囲まれるのは怖い、と行く度にビクついていたようだが、今や花の無いバスケ部に潤いを与えるアイドル的存在になっているらしい事を、クラスの男子が話していたのを聞いて分かった。
 最初は帰りが遅いと心配したお母さんやお父さんも、いつも玄関先までつかさを送ってくる律儀な彼氏を見てからは、特に何も言わなくなった。この前、恋人の紹介をする為に、つかさがわざわざ彼氏を家に連れてきた時の印象が余程良かったんだろう。
 その時、彼は私にも挨拶してきたが、その時の態度は同級生に対するものとは思えないくらい丁寧で、遠慮がちだったのを覚えている。いのり姉さんやお母さん達に質問攻めにされていた時も、妙にギクシャクして声に硬さが残っていたし、女性と話すのが本当に苦手らしかった。唯一まともに話せていたのはつかさの他にはお父さんくらいで、お母さん達は「可愛い彼氏が出来たわね」と楽しそうにつかさをからかっていた。
 最早、つかさはすぐに私を頼りにする気の弱い妹ではなかった。大学入試も近づいてきて、必然的に勉強の量が急上昇するこの時期になっても、弱音を吐く事は少なく、逆につかさの身が心配になってしまう程の頑張りをあの子は見せている。私の正面の部屋からは、深夜になっても電気スタンドの明りが扉の隙間から洩れていて、カリカリと必死に過去問の問題用紙の上を滑っているであろう鉛筆の音は中々途絶えない。
 最初は調理師を目指すとつかさは言っていたが、その考えは日々の中で改められ、結局は彼と同じ国立大を目指すのだという。その事は、既に去年から決めていたのだろう。私が不思議で仕方がなかったつかさの勉強への熱意は、最初から彼と同じ大学に行きたいという願望から湧いていたものだったのだ。
 それでも、彼の学力は学年でも上の下と言ったところだし、当然の事ながら、学力的に言えばつかさの目標は少しばかり高いと言える。私は「無理せずに確実に入れる所にいったら?」と忠告したが、一回決心すると途端に強情になるつかさは「お料理はいつでもお母さんに教えて貰えるから、できるだけあの人と一緒にいたいなあ……なんて……」と考えを変えるつもりはないようだった。つかさの将来を案じての私の言葉が否定されたのは、思ったよりも胸が苦しくて、心が痛んだ。
 私の方はというと、最初から決めていた法律関係の大学を目指すという事で変わっていない。それなりにレベルは高いし、楽に行ける道程では無かったが、担任の先生と二年の時に進路相談した時は『今の成績を落とさなければ、十分狙っていける』と大鼓判を押されていた。でも、三年に進級してからの私の成績は芳しくなく、急に担任に呼び出されたと思ったら『諦めた方が良いかも知れない』と忠告を受けた。
 成績低下の原因は簡単だった。私は私の為の勉強の時間を削ってまでして、つかさにつかさの為の勉強を教えていたのだから。毎日やっていた復習も、その時間に消えていった。それでも懲りずに、私は自分の為の勉強時間を増やさなかった。つかさもその事は知らなかった筈だ。私は先生に言われた言葉を、誰一人として教える気は無かった。
 しかし、それから何日か経った後、つかさが私の部屋に来る回数がめっきり減った。
「一人で大丈夫なの? 分らないトコとか無い?」私は尋ねる。
「う、うん……今のところは大丈夫だよ。お姉ちゃんはどう?」つかさはそう返した。妙に罪悪感に染まった顔色だった。
 つかさは嘘が下手だ。私が改めてそう確信したのは、妹が同じ返事を五回くらい使い回していたからだった。「分らないなら教えてあげるから、無理しないのよ」と問題集を気難しい顔で睨んでいる妹に私が声を掛けると、つかさは決まって似たような言い訳しか返さないのだ。私に対してどれほどの遠慮をしているのか、探らずとも分かってしまうくらいに。
 今までは、つかさが私にそんな余所余所しい態度を取る事など有り得なかったのに、どうして。
 答えは数日後、お父さんから聞かされた。
『最近、成績が落ちてるって先生が心配してたんだけど、かがみ、何か悩み事でもあるのかい? つかさにも、お姉ちゃんの勉強の邪魔をあまりしないようにって――』
 その時は体調が最近良くないとか適当な事を言って誤魔化していたが、内心、私は笑い出したい気持ちでいっぱいだった。盲目的な自分に嘲笑の喝采を浴びさせ、罵倒の嵐を聞かせてやりたくて。私は必死になって、悲しくなるほど虚しい叫び声を喉の奥に押し込んだ。
 皮肉にも、私はつかさと一緒にいる時間を増やしたくて積極的に勉強を教えていたのに、その行動は確実に距離を開く事になる伏線となっていたのだ。
 それ以来、つかさは私を頼らなくなった。
 分らないところを誰に教えてもらっているのかと思えば、あの子は当然のように彼の名前を出した。今まで私がいた居場所に、彼の名前があった。
 必要とされていないわけじゃない。ただ、あの子は私に迷惑を掛けたくないだけ。でも、どうしても私はそれを理解するのに手間取ってしまう。いつの間にか、私は自分が随分と悲観的になったのを知って、その事実に愕然とした。
 つかさが夜遅くに帰ってくる事も多くなった。この前など、いつまで経っても帰ってこない妹を心配して家族全員でメールを送ったりしていたら、その直後にあの子は帰って来た。家族総出で玄関まで殺到すると、そこには携帯のメール画面を見て驚愕しているつかさと、申し訳なさそうに帰りを遅くさせてしまった事を謝る彼が、居心地悪そうに並んでいた。時刻は午前一時。理由は彼の家で勉強していたら、いつの間にか遅い時間になっていたとつかさは言いにくそうにお父さんとお母さんに話していたのを、気づいたら私は部屋の外から盗み聞きしていた。
 そして、つかさの言った事は嘘だと、勝手に決め付けていた。いくら勉強に集中する為に携帯をマナーモードにしたって、電源を切ったって、帰りが遅くなるのにつかさが一つの連絡も寄越さないわけが無いのだ。それならば、つかさが一通のメールですら寄越さなかったわけは何なのか。簡単だった。
 だって、玄関にいた妹の顔は〝あの顔〟をしていたのだから。何回も何回も、私に散々見せたあの表情を。
 私はそれを考えないようにする為、必死に自分の勉強に集中しようと努力したが、皮肉にも集中しようと思えば思うほど、忘れようとすればするほど、私の頭の中には精神の安寧を脅かすイメージが次々に浮かび上がってきて、気づけばシャーペンを持っていた手は虚空の中に放り出され、見ていたと思った問題集は水に滲んで見にくくなって。私はその時になって初めて、自分が大粒の涙を流していた事に気づくのだ。
 なぜ? 何回も考えた。そして、その数だけ答えを知る事を諦めてきた。いくら理解しようともがいても、いくら知ろうとして足掻いても。色濃く立ち込めた霧の向こうにある答えに、私のこの手が届く事は無い。もどかしさに、胸を焦がすような感情に、気が狂いそうだった。……気が狂ってしまった。
 私は何を見るわけでもなく見つめていた天井から視線を外して、すぐ横に置いてある時計に目を向けた。見ると、時刻は丑三つ時をゆうに過ぎていて、明日のセンター模試を考えれば起きていて良い筈がない。それなのに、私には薄弱な眠気ですらやってくる事は無く、今カーテンを開ければ、そこには昼間と同じように明るい太陽が光り輝いているのではないかと思ってしまうくらい、私の目は冴えていた。
 のろのろと私に掛かっていた布団を脇に押しのけ、私は立ち上がる。暖房のタイマーが切れて何時間も経っているせいで、部屋の中は鳥肌が立つくらい冷たい。今すぐベッドに戻るべきだ。理性が私に警告する。でも、私の足はそれとは正反対の方向に向かって足音を忍ばせる。まるで、足が脳の制御下から解放されたかのように、私の足はごく自然に歩みを進めていた。
 一つ床を踏みしめるたびに、ギシッと割と大きな音が夜の廊下によく響く。二つ目が鳴った時には、私は目的の場所の前に行き着いていた。来てしまっていた。激しい後悔と嫌悪が私を襲ったけれど、ここまで来た私は私であって私では無い。止められない事だけは、やけにはっきりと分かっていた。
 ドアに手を掛け、開く。私の部屋とは違って、人為的温かさが満ちていた。見れば、暖房が我が身が機能している事を緑色のランプで主張していて、僅かな起動音と共に冬の寒さを忘れさせる暖かな息を吐き出している。我が家の決まり事を破った主は、口元まで引き寄せた布団の中で静かな寝息を何も知らぬ顔で立てていた。私には綺麗すぎるその顔は正に純真無垢と言って間違い無く、同じ双子なのに、汚れ過ぎた私の心とは全然違った。
 そっと、その寝顔を見下ろす。オレンジ色の光だけを灯している部屋の明かりは、年の割に幼く見える妹の顔を照らし出した。
 違和感。それは私のよく知る顔、もう見る事が無くなった顔。すぐに私を頼って泣きついてくる、弱気で控え目で、そのくせ甘えたがりの、昔の妹が私の眼下で目を閉じている。安心感。頼られる事への優越感。花のような笑顔で礼を言う妹の顔が、私の頭に思い出として浮かんでくる。

『お姉ちゃん、宿題忘れちゃってたよぅ……黒井先生、忘れたら日曜日強制補習だって言ってたし、これじゃ遊びにもいけないよぉ……』

『もう、だから早めに終わらせときなさいよってあれだけ言ったじゃないの』

『ご、ごめんね、お姉ちゃん……私のせいで――』

『あー、もういいわよ。私の貸してあげるからチャッチャと終わらせちゃいなさいよ』

『え、でも……いいの?』

『別にあんたの為じゃないわよ。買い物行けなくなったら私も困るし……だから速く終わらせなさいよね』

『……うん!』

 ……嬉しい。私は静かに、笑っていた。
 考えてもみれば、私はいつもこうだった。表面上ではあんたの為じゃないと言って、その実、私は一番にあの子の事を考えているのだ。素直になるのが何だか癪で、私は少し不機嫌な風を装いながら宿題のノートを渡して、つかさが私の顔色を窺いつつも申し訳なさそうに、嬉しそうに私からノートを受け取る。
 私はその後、つかさに見えないように微笑むのだ。そして、あの子が私にノートを返しに来る時は、満面の笑みと共に紡がれる〝ありがとう〟という言葉を惜しげもなく私に見せて、私はそれでも潔く〝どういたしまして〟とは言わずに、意地悪く次は気をつけなさいと忠告する。
 つかさは今度は絶対に自分でやるからと言っても、結局はいつものように最後には私を頼りに来て、私は呆れているフリをしながらも、込み上げてくる喜悦の笑みを必死に押し殺して。私にだけ見せてくれるあの笑顔を、私のだけのあの笑顔を、私は心に焼き付ける。
 それで楽しかった。そんな仲がいつまでも続けば良いと思って、きっとそうだと信じて疑わなかった。この子の寝顔は、あの時の事を残酷なまでに鮮明に思い出させてくれる。私が戻りたくてしょうがないのに戻れない過去を、この子の顔は彷彿させる。
 その顔が、不意に唇の両端を緩やかに釣り上げた。私は心が急速に収縮して、消え入りそうになるくらい小さくなったのを感じた。心臓は胸を打つ鼓動の速度を速め、それなのに私の顔からは次々に血の気が引いていく。それでも、私はその穏やかな笑みの寝顔から目を離す事が出来ないでいた。
 そっと、安眠の妨げにならぬよう、感触も感じさせないくらいの力で、小さく見えてしまうつかさの頭を撫でた。サラサラした髪の毛は掌に心地良く、これから阻喪していくだろう私の心を僅かに安らげてくれる。それは優しい温もりであると同時に、これ以上に無く残忍で、酷薄で、無慈悲な仕打ちだった。
 それでも私は止めない。頭にあった私の手は、いつの間にかつかさの頬を滑り、そのまま首筋に落ちていく。
 その時、つかさの笑みの形に釣り上った唇が何事かを呟いた。

「――くん」

 ……その名前は、私を壊す。私を崩す。私を狂わせる。腹の奥から漏洩していく見にくいモノが、私の中に満ちていく。私の見る世界が真っ赤なフィルターを通して、すべてをおぞましい赤色に変えてゆく。心が、真黒に染まっていく。
 分かっていた。期待なんかしていない。ましてや、望んでだっていない。私が一番に考えるのは、いつだってあの子の事なのだから。一番に望むのはつかさの幸せなのだから。だから、期待も望んでもいない。……呟かれる名前が、もしも私だったら、なんて。そんな事を、私は微塵にでも考えてはならないのだ。
 辛い。悲しい。虚しかった。日を重ねるごとに、自分への嫌悪は無限大に膨れ上がっていく。いっそ、こんな自分を殺してしまえたら。私は、自らの頸動脈を包丁で切り裂いているイメージを頭に思い浮かべた。
 ……でも、それは一番やってはならない事。私が死ねば、きっとつかさは悲しむだろう。自分に降りかかる幸せを、つかさは素直に享受する事が出来なくなるだろう。なぜ死んでしまったの、と悲しみ嘆きながら憎みもするかもしれない。紛れもなく、私が原因で。
 だからこそ、そんな事はできなかった。
 では一体、私はこんな嫌な自分をどうやって吐き出せば良い? 殺したくて消し去りたくて、醜い自分の消滅をこんなにも願って止まないのに、それはつかさがいる為に叶わない――叶える事の出来ない、願いなのだ。それを、私はどうやって我慢すればいい? 何もしないで我慢していれば、必ず爆発する事が分かっている爆弾を放っておけと言うのか。……私は、どうすれば私のままでいられる?
 行き着いた答えは、狂気染みていた。
 私は力なくぶら下がっていた左手を、右手と同じようにつかさの頭に置いた。それは右手の軌跡を這うように辿っていき、頬を滑り、首筋に落ちて行く。
 細い首は、少し力を入れてしまえば折れてしまいそうなくらい頼りなくて。私は両手を使って、それを包み込む。そう、まるで首を絞めるような形で。
 トク、トク。指に感じる血液の脈動は、止まる事を知らないようにつかさの命を繋ぎ止めている。それを少し遮ってみようと少しだけ力を入れてみれば、途端に苦悶に歪んでいくつかさの表情。緩めれば、また穏やかな寝顔に戻って静かな寝息を繰り返す。私は心が楽になるのを感じていた。
 独占欲を満たす事で、私は心を安定させる事が出来る。
 今この場で、私はつかさの生死を握っている。それは、つかさが私のモノであるという錯覚を私に与えてくれるのだ。例えそれがこの場しのぎの幻、気休めだとしても、私はそうする事によってでしか、きっと自分を保っていられない。だから、悪循環だと分かっていながら、私は今日もこうしてつかさの首に手を添える。
 もしも、つかさが目を覚ましてしまったら、私を見てこの子は何を思うだろう。恐怖におののくだろうか。嫌悪に顔を歪めるだろうか。それはどれも有り得る事で、その時の事を想像すると、私は手に伝わる温もりを執拗に、貪欲に求めたくなる。でなければ、すぐにでも自分を見失ってしまいそうだった。
 ……もしかしたら、つかさは目を覚ましているんじゃないだろうか。時々、そう思う時がある。正気の沙汰じゃない私を知っていながら、つかさは私に笑って接してくれているのではないのか?
 でも、この時の私はつかさが目を開けているのかどうかを確かめるのが怖くて、決まって目を閉じている。そうすると、つかさの温かさをより深くに感じられる事も理由だったかもしれない。でもやっぱり、私は背筋に纏わりつく恐怖を感じずにはいられないのだ。
 そうして十分も経てば、どす黒い感情は心の奥に吸い込まれるようにしまい込まれて、私は自分を取り戻す。その時に私の頭に残っているのは、激しい後悔と自分に対する嫌悪感。私はつかさの首筋から手を離して、その場に崩れ落ちる。
 辛い。悲しい。虚しかった。知らぬ間に流れ出ていた涙は、絨毯に幾つもの染みを作っていた。
「ごめん……ごめんね」
 必死に押し殺した嗚咽と一緒に零れるのは、聞こえないだろう懺悔の言葉。自己欺瞞の言葉。
 姉として生まれてなんてこなければ良かった。本気でそう思う。それなら、素直に認める事も出来たかもしれないのに。
 だって、常識的に考えておかしいではないか。……姉が妹に対して抱く感情が、姉妹以上の好き、だなんて。
 私は自負していた。自惚れでは無く、まさしく私は頼りになる姉として慕われ、愛され、つかさにとって良き姉でいれている、と。その自負があったからこそ、私は常に〝良い姉〟としていようと思えていた。
 でも、今は……こんな有様だ。
 憎い。嫌い。気持ち悪かった。毎晩行ってきた自分の所業と、気づいてしまった自分の感情が、どうしようもなく醜くて、救いようが無くて。こんな私は、あの子に笑顔を向けられる資格は無いんだと思うと、私の胸は大きく抉られてぽっかりと穴をあける。そこを通り抜ける虚無感の風は、私の傷跡をジクジクと痛めるのだ。
 私は床に蹲りながら、その痛みに泣いていた。昨日も一昨日もそうしたように、声を押し殺して、この部屋の主を起こさないように咽び泣いた。周りなんて見えない。見てはいけない。きっと、見えるものはすべて幻のようなもの。
 だから、私の頭の上に感じる温かさも、僅かな重みも。ましてや、撫でられてる感触なんて。全部、私が私に感じさせている都合の良い幻想にすぎない。私がやった事を知っていながら、あの子が私から離れないでいてくれるわけが無いから、つかさは眠っている。何も知らずに、眠っている。私にとって、そうでなければならない。
 だけど、どうせ幻なら……私はそれに甘えても良いのだろうか。朝起きれば、きっと覚めてしまう夢ならば、その夢の中だけは素直にこの温かみを感じても良いのだろうか。
 暗い部屋。時刻は丑三つ時をとっくに回っていて、私が洩らす嗚咽以外すべてのものが沈黙を守っている。感じるのは未だにつけっ放しの暖房の風と、頬を滑り落ちていく涙の雫、そして頭に感じる夢想の温もりだけ。その夢想が現実になる事が怖くて、私は染みのついた絨毯をひたすらに見下ろしながら切望する。
 朝になれば、私は元の私でいられると、信じながら。





















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  • これは…完結なのか?続きを続きを -- 名無しさん (2008-03-03 21:15:57)
  • かがみん…。・゚・(ノД`)・゚・。
    心理描写が物凄く上手いですね…GJです -- 名無しさん (2008-02-14 14:07:15)
  • なんて悲しい話だ -- 名無しさん (2008-02-14 09:22:49)

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