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『4seasons』 秋/静かの海(第一話)

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匿名ユーザー

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§プロローグ

――私たちは、海のような関係だと思う。

 ※  ※  ※

 スターターが右手を高々と挙げると、競技場に緊張感が走った。
 両手を突き、ぐっと腰を上げて前方を見つめる選手達。それぞれに少しずつフォームは
違えど、ゴールを見据える眼差しの強さは皆同じだった。
 ターン、と乾いた音が高い空に吸い込まれれば、皆一様に走り出す。
 スタートのタイミングはばらばらで、その瞬間すでに勝敗の何割かはついてしまっている。
 高く腿を上げ、振り子のように正確に腕を振る。そのかもしかのような脚に、引き締まった腕に、
余分な肉のそぎ落とされた身体の線に、のびやかな力強さがみなぎっていた。
 その有様が、美しいと思った。
 ただ自分の身体を動かすことだけを追求して、ただ自分の肌だけで世界と触れあって。
余分なこと――自意識とか、自分らしさとか、思想とか――そういうものを全部とっぱらって、
ただ最小の自分、肉体を持つ動物としての自分であるということ。
 そんな人間のありようが、美しいと思った。
 見とれているうちにも、団子状態だった集団から飛び出してくる者がいる。
 ココア色の髪、胡桃色の瞳。
 いつもの満ち足りたようにだらけきったあいつからは想像もできない精悍な顔付きで、
ただゴールのみを見据えていた。
 みるみるうちに二位以下を引き離して、日下部みさおはトップでゴールテープを切った。

「やったな! 決勝進出おめでとう!」
「おう! あんがとなひいらぎぃー」
「ふふ、でもまだあんまり褒めないであげてね。これからが本番なのに、みさちゃん気を
抜いちゃったら大変」
「あー、そっか。さすがマネージャーはよくわかってるわね」
「へ? 別にあやのは陸上部のマネージャーじゃねぇぞ?」
「誰も陸上部のマネージャーなんて云ってないだろ。あんた専属のマネージャーって意味だ」
 呆れたように私が云うと、日下部は我が意を得たりと目を輝かせて云った。
「ああ、そっかもな。いっつも栄養とかマッサージとかうるせぇんだあやの」
「うるせぇんだ、じゃないでしょ。本当は自分で管理しないと駄目なんだよ。放っとくと
みさちゃんお肉ばっかだし、家帰って身体もほぐさないですぐ寝ちゃうから、私が仕方なく
口出してるんじゃない」
「……な?」
「な? じゃないだろ。なんで得意気なんだよ。ちゃんと感謝しろよ」
 まったくこいつは昔から変わらない。私が呆れたようにため息を吐くと、日下部は憮然とした
表情で口を尖らせた。
 もう十月が始まろうかという時期だった。
 少しづつ暑さも和らいで、涼しく肌を撫でる風に、心地よさと夏の終わりを感じるこんな季節、
千葉県の陸上競技場に私たちはいた。国体へ出場する日下部の応援だった。
 今年の国体は千葉開催で、ちょっと脚を伸ばすだけでこれるところだったから、峰岸に
誘われた私は一も二もなくうなずいた。日々机に齧りついてひたすら知識を頭につめこむ
受験勉強に飽き気味だったので、気分転換にちょうどいいと思ったのだ。
 日下部が、三年生が出場するには微妙な時期の国体に参加したのには訳がある。夏の
インターハイで六位入賞を果たした日下部には、大学からのスカウトがあったのだ。けれど、
着々と記録を伸ばしていたとは云え、高校から陸上を始めた日下部は、まだ全国で余り名を
残していなかった。だから、インターハイでの成績がフロックではないことを証明する必要があり、
その場がこの国体なのだ。

 条件としてはあまり良いとは云えないだろう。
 受験で入ろうとするなら、少しでも早く勉強を始めないといけない。だから三年生が秋の
大会に出るのはそれだけで冒険だ。もし良い成績を残せなくて推薦入学がとれなかったら、
大きく遠回りをすることになってしまう。それに、日下部に課せられた条件はただ決勝に
進出すればいいというものではなく、メダルを取れというものだった。
 厳しいと思う。
 そう思うのだけれど、きっと日下部は悩む暇もなく即答したのだろう。それは、この話を
私に告げたときの峰岸の苦笑からも伺いしれた。
 それを、素直に羨ましいと思った。
 そんな風に簡単に、自分の未来のことを決められる日下部が。それを笑って受け入れて、
なお献身的に面倒を見られる峰岸が。そんな二人の関係が、少しだけ羨ましかった。
「――それにしても」
「ふみゅ?」
 私のつぶやきに、幸せそうにイチゴホイップのサンドイッチにぱくついていた日下部が、
不思議そうな目でこちらを見る。
「その専属栄養士が、試合前にこんなに選手に食べさせていいのか?」
 峰岸の持参したバスケットには、サンドイッチがぎっしり詰められていた。具もさまざまで、
ハムサンドやらカツサンドやらの重いものから、デザート系のピーナッツクリームやら
イチゴホイップやら盛りだくさんだった。
「あ、いいのいいの。みさちゃん鉄の胃袋だから。おなかいっぱいになれないと機嫌悪いんだ」
「ほふ、ふみゃほんはふほうはえ!」
「飲み込んでからしゃべれよ!」
 ――本当にもう、なんで私の周りはこんな奴ばっかなんだ。

 ふと、青い髪がちらつく。
 いつでも頭から離れない、私の“こんな奴”
 無軌道なネズミ花火みたいにはね回って、片時も目を離せないあいつ。
 一日会えないだけで、ふと思い出すだけで、今でもこんなに切なくなる、私の大切なあいつ。

「――らぎぃ?」
 日下部の声に、どこかあっちの世界に飛びかけていた私の意識が戻ってくる。
「あ、ごめん、ぼーっとしてた、なんだ?」
「いや、あのさ……今日は来てくれてあんがとな?」
 珍しく神妙な顔をして殊勝なことを云う日下部だった。
「な、なんだよ急に……」
 急にそんなことを云われるとは思わなくて、妙に照れくさかった。
「や、ひいらぎってあんま私の試合とか見に来てくんなかったしなぁ。正直こんな時期に来て
くれるなんて思わなかったぜ」
「……う、まあ、ね。その、あんたとは長い付き合いなのに、なんかさ。妙に仲良くなる
切っ掛けが掴めなかったっていうか、その……」
「おお?」
「柊ちゃん?」
 峰岸まできょとんとした顔で私をみつめている。五年来の友人にそんな目で見られる自分が、
なんだか情けなくなってきた。私ってそんなに薄情なことばかりしてきたのだろうか。ふと不安に
なって、今まで自分がしてきたことを思い出してみる。
 体力測定のとき、途中で峰岸と日下部をほっぽってこなたとつかさと話してた。
 昼休みはほとんどこなたとつかさがいる教室で過ごしていた。
 合同授業があると大抵B組に混ざっていた。
 修学旅行、自由行動はずっとこなたの班だった。

 ――してきたな。

 あらためて思い返すに、冷や汗が出る思いだった。
「あのさ?」
「うん?」
 なんだか真剣な表情をして、日下部が問いかける。
 ――こいつも、スポーツをしているとき以外でもこんな真剣な表情ができるんだ。初めて見た
その大人びた表情に、少しだけ戸惑った。
 変わってない変わってないと思っていても、こいつも、峰岸も、私も、もうあの頃とは違うんだ。
改めてそれに気づく。
「柊たち、なんかあった?」
「みさちゃん!」
 慌てたように云う峰岸の様子からすると、以前から二人の間で話題にのぼっていたことなのだろう。
「……私たち、って?」
「とぼけんなよ、ちびっこと愉快な仲間達のことだろ。夏休み明けから、なんかちょっと違う感じするぜ?
でもなんか、喧嘩してるって感じでもないんだよな」
 ああ、ばればれなんだな。
 小さく笑う。
 風が吹いて私の髪を揺らした。
「何も、ないよ」
 そう、何もない。私たちの間で、何事もおきなかった。

 ただ、ちょっと。

 ただ少し、みんなが大人になっただけ。

「――ふーん? そっかぁ」
 ぱんぱんとパン屑を振り払って、日下部は立ち上がる。
 腕を頭の上で組んで、大きく伸びをした。
「ま、いいけどよ。お前らのことだかんな。ただちょっと気になってさ」
 背中を向けて、晴れ上がった青空を見上げながら日下部が云う。
 その後ろで、峰岸が私に笑いかけていた。ごめんとか、困ったとか、でも少し寂しいとか。
峰岸の笑顔にはいつも色んな意味があって、そんな表情一つで奥ゆかしく他人に感情を
伝えようとする峰岸が、私は昔から好きだった。
 日下部だってそうだ。前向きで、一生懸命で、大らかで。中学時代も、女だてらに野球部を
ひっぱっている日下部を見ていて、ガリ勉だった私はいつでも眩しく感じていた。
「そろそろ時間かな?」
「んあ、そだな。んじゃ行ってくるわ」
 私に背中を向けたまま手を振って、日下部はトラックに向かおうとする。
 これでいいのだろうか。いや、よくないと思う。これではなんのためにここまで応援に
きたのかよくわからない。云えなかった言葉を伝えるのは、今しかないと思った。
 だから私はその背中に向けて声をかけた。
「あ、あのさ!」
「ん?」
 首だけを回して、ちらりと私をみる日下部に云った。
「その、がんばれよ……み、みさお!」
 これは予想外に恥ずかしい。五年来つきあってきて今更呼び方を変えることがこんなに
恥ずかしいとは思わなかった。いや、きっとこんなことで顔を赤らめるなんて、自意識過剰な
私くらいなんだろう。他の人はもっと自然で素直に呼び合えるに違いない。
 みさおは、驚いたように目を丸くしたあと、お陽様みたいに笑って云った。
「おう、あんがとな、かがみ!」

 ――みさおは、二位でゴールテープを切った。

 お祝いを云おうとして控え室に行った私は、そこで異様な光景を目にすることになった。
 身も張り裂けんばかりに泣きじゃくるみさお。奥のベンチに横たわって、何も目に入らない
様子で号泣している。
 部員もマネージャーも、すでに慣れている風で遠巻きに様子をうかがっているだけだった。
「かがみちゃん」
 その専属マネージャーであるところのあやのが、私に気づいて声をかけてくる。
「ど、どうしたのよみさお。怪我でもしたのか?」
「ううん、みさちゃんいつもああなんだ。負けたときはね」
「……負けた?」
 あやののその言葉に、私は驚いた。
 そうか、みさおは負けたのか。
 国体で二位。見事大学推薦を獲得。
 私は、勝ちだと思った。だからお祝いの言葉を用意してこの部屋に入ってきたのだけれど。
 でも、一位以外は全て負けなのだ。
 少なくともみさおにとっては。
 私はそこで、スポーツの世界のシビアな現実を思い知った。
 トップ中のトップ以外は常に負けの世界。個性とか役職とか技能とか、そんなものは全て
無意味になる世界。一番早いとか、一番強いとか、一番上手いとか、そんな人以外は全て
負けになる。そういう世界で、アスリートは生きているのだ。
 ただその身体一つで、ただその最小の自分である肉体のみでこの世界と渡り合って。

 みさおが飛び込んだのは、そんな海なのだ。

 茫漠として、行き先も知れず、島影も他の船も見あたらない。
 天と海、二つの青に挟まれて、ただ水平線のみが見える海。

 そんな海を、みさおはその身体一つで泳ぎきろうというのだ。

 強い。
 全身全霊を篭めて泣きじゃくるみさおを見て、そう思った。


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 4 s e a s o n s

 秋 / 静 か の 海

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§1

 黄昏時の陽射しはひたすらにオレンジ色で、真横から差し込むその光に青い影がどこまでも
長く伸びていた。
 駿台模試の帰り道、ポプラ並木を私たちは歩いていた。菱形をした枯れ葉が風が吹く度
舞い落ちて、髪に肩に降り掛かる。
 地面に落ちた私たちの影が、何かの奇怪な生物のように動き回っている。それを作って
いるのが私たちのこんなに小さな身体だなんて、なんだか信じられない。私たちの小さな
動き一つで、風に髪の毛がなびくだけで、影たちはまるでそこに深い意味があるかのように
秘密の舞踏を踊るのだ。
 十月は黄昏の国。
 そんなフレーズが突然頭の中に蘇る。
 これはなんの言葉だったっけ? 詩かなにかだろうか。
 少しだけ考えて思い至る。たしかお父さんの蔵書にあった本のタイトルだ。SFの棚にあった
ものだけれど、そのSFっぽくないタイトルが不思議と気になっていた。
「まあ、日下部さん、そんなに悔しがっていらしたんですか」
「うん。まあ、次の日からは得意顔で自慢しまくってたけどな。なんか、スポーツ選手とかって
華やかに見えるけど、やっぱり凄い辛い世界なんだなぁって思ったわけよ」
「そうですね。きっとどんな人生を選んでも、それなりに辛いことが待っているのでしょうね」
 みゆきのそんな言葉に、思わず笑みがこぼれてしまった。
 まるで私に云い聞かせているように聞こえたからだ。
 みゆきはそんな風に遠回しに匂わすようなことは云わないから、きっと私の自意識過剰
なんだと思うけど。
 そんなことを考えていたとき、後ろから伸びた手がしゅるりと私のリボンをほどいていった。
「あ、こら! なにすんだよ!」
 途端にばさりと肩におち、夕暮れの風に踊り出した髪の毛を抑えながら、こなたに怒鳴り
つける。
「へっへー、かがみんの萌え要素もーらい!」
「はあ?」
 首を傾げて問いかける私の前で、こなたはいそいそとその長髪をツインテールに結んでいく。
みると、頭の上でちょこんとつかさのリボンが結ばれている。
「こなちゃん、まってよー」
 こなたと後ろを歩いていたはずのつかさが、慌てておいかけてくる。どうやらつかさも
トレードマークのリボンを奪われているようだった。
「いや、ね、みんなのトレードマークな萌え要素を一人に集めたら凄いかなって思ったのだよ」
「思うなよ、ってか変だろそれ」
 頭の上にリボン。その両脇にもリボン。やたらとリボンが結ばれたその髪型は、なんだか
冠でも被っているように見える。なんというか“弥生時代の巫女の想像図”みたいな感じに
なっていた。
「や、でもまだ完成じゃないから。ってわけで失礼、みゆき!」
「はうっ。こなたさん何するんですかー」
 あたふたとしているみゆきに襲いかかって、その眼鏡を強奪するこなただった。
「……おい、完成したら余計に変だろ」
 私の突っ込みを無視して、“ぢゅわっ”なんて掛け声を発しながら、こなたは眼鏡を掛ける。
「お、おおおお? こ、これは、世界が回る~」
 度の強い眼鏡に目を回してふらふらと踊り出したこなたが面白くて、お腹を抱えて笑った。
 同じように爆笑しているつかさの横で、みゆきが「なにも見えません~」と寂しそうに呟いた。
 そんな私たちの影は、複雑にもつれ合いながら奇妙な紋様を描き出していて、楽しそうに
笑う女子高生たちとは似ても似つかないものだった。

 ――私たちは、いつのまにか随分嘘が上手くなった。

 恋心をどこまでも隠して、私は上手く笑えるようになった。
 劣情を何重にも覆って、気軽に触れあえるようになった。
 その度に心のどこかが張り裂けそうになるけれど、そんな痛みこそ自分が自分である証なの
だと、そう思えるようになった。
 それはきっとみゆきもつかさも、そして多分こなただってそうなのだ。
 つかさもみゆきも、私がこなたのことを好きだと云うことを知っていて、それをおくびにも
出さずに振る舞った。
 知っていることを知られているとわかっていてなお、何も知らないふりをして。
 それは小さな小さな嘘だった。そして、みんながそんな嘘を抱えながら、笑い合っている
のだ。作り物めいた、本心を隠した、ごまかしで云った言葉と知りながら、それでもそれを伝え合う
ことで嬉しくなり、暖かくなり、心から笑い合うことができる。
 それがきっと、大人になるということなのだと思う。
 なんの隠し事もなく、開けっぴろげな心で触れあえたらそれはきっと素敵なことなのだろう
けれど。きっと人間は生きていくうちに色々なしがらみを得て、譲れない思いを抱いて、密やかな
秘密を抱えて、そうして一人一人違っていくものだろうから。だからそう、誰にも話せないこと、
誰にもみせられない部分を持ちながらそれでも親友であり続けることは、特別珍しいことでも
ないのだろう。
 そう、私たちにはただそれが急に訪れたというだけのこと。
 あの夏が過ぎて。
 私たちは、否応なく大人になってしまったのだ。
 私だけじゃない。皆が皆、少しずつ変わっていってしまった。

 つかさは、随分と綺麗になった。
 その表情や佇まいや、まなざしが。時々見知らぬ人に見えてはっとすることがある。優しい
部分や穏やかなところがなくなったわけじゃない。でもその裏に何か一本通った芯の強さが
伺えるようになって、つかさは一人で輝きだした。
 そんなつかさを見るにつけ、妹を守っているつもりだった今までの私は、なんて見当違いを
していたのだろうかと自嘲する。守っているつもりが、ずっとそれを支えにしていたのは自分の
方だったのだ。今、私という覆いを外されて、つかさは眩しいくらいに輝いている。
 羽化した蝶のように、雲間から差し込む太陽のように。
 そんなつかさを見る度に、誇らしい思いで一杯になる。
 きっとこの優しさは、子供の頃に手折られていたら簡単に失われていたものだと思うのだ。
そういう意味では私が護ってきたことは無駄ではなかったはずだと思いたい。
 だから私は、つかさのことを誇らしく思い、そして自慢にも思うのだ。
 これが私の妹なんだと。この綺麗で優しい生き物が、私の妹なのだと、全世界に吹聴した
くなるほどに。

 みゆきは、より冴え渡った知性を発揮するようになった。
 それはきっとそう、あの日私にくれた言葉と関係しているのだろう。
 あの日、誕生日パーティの日、“何があっても私の味方だ”と云ってくれたみゆき。
 みゆきはその約束を違えなかった。こなたと話していて、口ごもったり、対応に困って
うろたえたり、何気ない一言に心をえぐられてしまっても、みゆきはそんな間隙をすかさず
捕らえて、自然な流れになるように、私が問題なく言葉を返せるように適切なフォローを
してくれるのだ。
 その頭の回転の速さと気遣いに、舌を巻く思いだった。
 ――思えば少し不思議だったことがある。
 あの夏の日、こなたと喧嘩別れみたいになって、私が熱を出して寝込んだ頃のこと。
 あの日こなたの方から私の部屋にきてくれたことが、私にはなんだか不思議だった。
あんな風な行き違いがあったとき、こなたはきっと押しつぶされるように自閉するだろうと
思っていた。誰よりも寂しがりやのこなたは、殊更に他人からの拒絶に弱い。それは普段の
ひょうひょうとした態度からは伺い知れないことだけれど、ずっと見てきた私にとって
それは自明なのだ。
 だから、自分の方からアクションをしてきたあの日のこなたの行動は、私の中ではありえない
ものだった。
 それに、後日私がこなたの家に行ったときも、随分スムーズに私の謝罪を受け入れてくれた
ものだと思っていた。
 今になって思えば、そのどちらにもみゆきが絡んでいたのだろう。
 あの日、私のケータイに掛けて異変を察知したつかさは、みゆきに相談したらしい。その後の
行動も、すべてみゆきの意志が働いていたようなのだ。
 おそらく、こなたと一緒に私がでかけたと聞いて、みゆきは私たちの間に何がおきたのか、
すぐにわかったのだと思う。
 だから、その後色々とあってなるようになったのも、全部みゆきの掌の上にある。もっとも、
さすがに私がお見舞いにきたこなたを追い返すとは思っていなかっただろうけれど。
 そのときにみゆきとこなたの間でどんな話があったのか、私は知らない。それは聞いても
仕方がないことでもあるし、また聞かないほうがいいことでもあるのだろう。
 ただ、こなたとみゆきは、いつのまにか名前で呼び合うようになっていた。泉さんとみゆきさん
ではなく、こなたさんとみゆき、と。それは夏に二人の間であった色々なことを想像させるに
十分な出来事だろう。
 人は、きっとそうやって変わっていく。
 漫画やアニメのキャラクターではなく、生身の人間なのだから。
 永遠に変わらない関係なんてありえないから、だから私たちは否応なく変わっていくのだ。

 ふらふらとしていたこなたの向こうから、自転車がやってきているのに気がついた。
「ほら、あぶないだろ」
 そう云って脇によって手をひくと、足がひっかかったのか、こなたは私の胸の中にしなだれ
かかってくる。
 肌寒くなってきた季節に、その体温が暖かい。
 ただの熱量のはずなのに、こなたの身体が暖めた空気だと思うとなぜか嬉しくなるから
不思議だ。
 ふわりと漂ってくるこなたの匂いが鼻腔をくすぐった。
 ――何やってんだ、私は。
 通り過ぎていく自転車に頭を下げながら、いつこの胸の高鳴りが気づかれてしまうかと、
気が気じゃなかった。
 やぶ蛇というかなんというか、大口開けて待ちかまえてる虎の前に自分で飛び込んでいった
ようなものじゃないか。
 自分に呆れながらため息をついて、こなたの眼鏡をひょいと取り上げる。
「はしゃぐのはいいけど、ちゃんと周りのことみとけよ、あんたは」
「……ご、ごめん。てかあんがと」
 つかさと一緒に脇によっていたみゆきに眼鏡を渡して、ついでにリボンも取り返して結び
直そうとする。
 風に暴れる髪を纏めるのに手間取った。
「ちぇー。あ、じゃさ、かがみとつかさでリボン交換してみようよ。なのフェイみたいに」
「なんだよなのフェイって」
「なのは無印の最終回で、なのはとフェイトちゃんがリボンを交換した」
「しらんわ」
「うー、かがみが冷たい……」
 これみよがしに落ち込んで見せるこなただった。

 こなた。
 こいつも、ちょっとだけ変わった。
 普段はこんなだけれど、ちゃんと自分一人で計画を立てて勉強をするようになっていた。
『一応やるだけやってみようと思うんだ。後々後悔するのやだしね』
 そう云ったこなたを覚えている。
 MARCH辺りを狙いにしているようだったけれど、一体どれだけ伸びるのか、それが少し
だけ楽しみだ。頭の回転は早いし、テスト範囲を一夜漬けで覚えきれるくらいの要領の良さは
あるし、なによりうちの学校に入れるのだから、元々やればできるはずなのだ。
 こなたはバイトも辞めた。固定客もついていたようだし、フロアもバックもばりばりこなして
かなり頼られていたようだから、色々と大変そうだった。結局、受験期間の間だけ休業して、
落ち着いたらまた戻るかもしれない、ということだ。
 こなたが誰かに頼られていることを知るのは少しだけ嬉しく思うのだけれど、無邪気に男に
愛想を振りまいているこなたを想像すると、胸からどす黒い塊がせり上がってくるのを感じて
しまう。だから、できれば戻らないでいてくれたらと思うのだけれど、そんなことを云えるはずも
なくて、結局私はそんな願望も、鎧った恋心の隣にそっと埋葬するのだった。
 鋼鉄の板と鎖で何重にも閉ざされたその秘密の小部屋は、今や沢山の小物でいっぱいだ。
「――かがみ?」
「……ん、あ、ごめん。なに?」
 少しだけぼーっとしていたところに声を掛けられて、意識が覚醒する。
「や、みゆきとつかさ、いっちゃうよ?」
 みればいつのまにかこなたと二人になっていて、つかさたちは先に歩きだしていた。
「ああ、悪い」
 駆けだしたこなたに追いつこうと、私も小走りになっておいかける。
 オレンジ色の夕陽はもう沈みかけていて、遠くを歩くつかさとみゆきの顔は、宵闇に染まって
よく見えない。
 急に襲ってきた得も云われぬ寂しさに、ぎゅっと胸が締めつけられるのを感じていた。
 私はせめて目の前の背中から離れないように、それだけは見失わないようにと必死で
みつめていた。

 ふと、ひるがえったこなたの髪がさーっと横になびいて、視界を青く染め上げた。

 それは、まるで、海みたいだった。

 ――私たちの関係も、海みたいだな。
 そんなことを考える。

 一見凪いでいるようにみえる。けれどその底では複雑な海流が渦巻いていて、海上からは
それを伺い知ることもできない。それを見るため潜ろうとすると、たちまち冷たさに凍えて
二度と再び浮き上がれない。

 茫漠として、先も宛もなく、ただ青く。一度そこに漕ぎ出してしまえば、海流にのって
どこに辿り着くのかもわからない。

 凪いで、静寂だけが満たされた。

 そこはまるで、静かの海のようだと、そのときふと思った。

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
『4seasons』 秋/静かの海(第二話)へ続く








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  • この人神だよ!!尊敬の域を超えて崇め奉るよ!! -- 名無しさん (2008-05-31 19:12:48)
  • 物語が進むにつれて心の成長するキャラクター達の描写がとても丁寧で美しくでも、どこか切なくて“少し大人になっただけ”このフレーズが胸に突き刺ささりました。 -- 名無しさん (2008-03-31 05:58:18)
  • あれ、神がいる -- 名無しさん (2008-03-12 00:59:04)
  • 同意。まさに神ですね。崇めざるをえないでしょ。
    俺も出来るならば神様みたいな文章書けるように
    なりたい!!
    だからね、日々精進です。 -- 名無しさん (2008-02-16 01:00:33)
  • 俺もさ、思うんだよ。この人神でしょ?それは認めるしかないんだよ、うん。
    もうさ、同じSS書きとしてこの人の神すぎる作品見ると作品の内容が鬱じゃなくても鬱になりますって。
    主に嫉妬で。だからね、思ったわけよ、俺も崇拝するわ。 -- 名無しさん (2008-02-12 02:53:48)
  • うん。 -- 名無しさん (2008-02-11 22:42:46)
  • もうね、あれだよね、この人さ神でしょ? 
    俺さ、崇めても良いよね? だって神じゃん?
    崇拝するよ? うん。 -- 名無しさん (2008-02-11 14:45:21)
  • 小説でかなり上の質
    ジャンル問わず今まで読んでたネット小説では一番の出来と言わざるをえない。綺麗な文章だ、うん。 -- 名無しさん (2008-02-11 02:02:41)

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