金元藩

金元藩

金元藩は江戸時代までの手野市の領域にあった藩である。
元々は911年金元寺寺領や郁芳家氏寺の愛雲寺寺領として、後には1399年砂賀家領地として、さらに1600年には砂賀支藩としての金元藩が発足する。
なお、本藩である砂賀藩は別ページに記す。

目次



概要

金元藩は、各寺領として、1399年以後は砂賀家中領あるいは金元寺領と呼ばれていた。
砂賀藩同様の藩の組織をしていた。
なお砂賀藩については別記する。


陣屋

金元藩は、金元寺そばに陣屋がおかれた。
金元陣屋と呼ばれるとともに、代々砂賀家の血統が藩主として陣屋に詰めた。
なお、参勤交代をしなくてもよいとされた藩の一つであり、後に城主各大名とされた。
一方、名称は陣屋のままであったため、多少の手はくわえられているものの、現在も金元陣屋として一般に公開されている。


春雷会

現在ある春雷会は、江戸時代中期1728年に設立された砂賀家、砂賀家分家の山砂賀家、同じく手野家の相談役及び後見のための組織の直系となる。
ここでは江戸時代での春雷会を記す。なお、金元藩のみならず砂賀藩もかかわっているため、一部の記述は砂賀藩も含む。


組織

金元藩の組織としては、藩主などを別格とし、それぞれ金枠銀枠銅枠鉄枠無枠の5つの家格に分けられている。
それぞれの家格に応じて、極官となる役職が決まっていた。
金元藩に属さない者は、この家格とは関係ない。

別格

別格は金元藩の藩主、砂賀藩主が当たる。

金枠

銀枠

銅枠

鉄枠

無枠



藩主

金元藩は、藩主は砂賀家一族が一貫して就いているが、寺領時代、砂賀家領地時代、そして金元藩時代の3期に分けることができる。
このうち、寺領時代は、金元藩として発足する以前であり、各寺の住職あるいは長老などがその藩主とみなされる。
砂賀家領地時代は、砂賀家が直轄して治めていた時代であり、この時代には砂賀藩の藩主が金元藩を兼ねるという形となっていた。
なお、金元藩の成立は1399年砂賀家領地とされたときとされる。
この時点でも、現在の手野市の4割ほどの面積が金元藩とされ、残りは各寺領のほかに郁芳家領とされた範囲が占めていた。


最終更新:2020年01月26日 17:33