春雷会

春雷会

春雷会は、手野財閥並びに手野グループの一定の基準の会社の社長あるいは代表取締役または頭取が参加することができる、企業間組織の一つである。
江戸時代、戦前期、戦後期の3つに分けて考えることができる。

目次



江戸時代

江戸時代、砂賀家文書類に春雷会という文言は散見される。
これは、砂賀家及び分家である山砂賀家、手野家を統括するために設けられた相談役及び後見のための組織である。
春雷は春を告げる雷のことであり、これから命が芽吹く時期へと向かっていくことを意味している。
このことから、繁栄の象徴として春雷を名前として付けたとされている。
古文書によれば、1728年に設立され、江戸時代を通して、藩主である砂賀家を支えた家臣団によって組織されることとなっていた。
春雷会は長を砂賀家当主としており、筆頭家老をその副長としている。
その他の家老、年寄は春雷会の会員に名を連ねていた。
設立当初から金元藩に支部を置き、特に手野家の監視を行っていた。


戦前期

御一新によって明治が始まると、手野繊維を代表する手野財閥及び全体を統制する当主である砂賀家の諮問機関となる。
春雷会は、旧態依然の状況であり、明治新政府へと1875年に5万両を貸出した際も、春雷会が決定したうえで行った。
一方で、徐々に近代化の波が押し寄せると、いち早く手野財閥は反応した。
国立銀行条例による国立第百三十七銀行の設立を決定し、重工業へと参入した。
新聞を発行したり、鉄道敷設などを推し進めたのも、春雷会によって決定されたとされる。

日清戦争が終了したころから、春雷会は徐々に江戸時代のころの居並ぶ面々から、変化をし始める。
砂賀家及び手野家の家政機関となりながらも、同時に手野財閥の議会のようになった。
この時代では、手野財閥全体の話し合いから、新たな社長などの役員の決定までが行われている。
中枢会社と呼ばれる手野財閥の中でも、より重要な会社がいくつか指定され、これによって春雷会の会員となった。
会員となるのは、その会社を代表とする者及びその代表を補佐する首席の者である。

1910年に春雷会株式会社を組織し、会員の身分によってその株式が分配されることとなった。
なお、会員の種別は以下の通りである。全ての種別ごとに3分の1ずつが振り分けられ、さらに会員の人数ごとに按分される。
特別会員
手野家並びに砂賀家の各当主、副当主格、及びこれら以外の手野家砂賀家の代表者
古参会員
御一新以前から春雷会の会員であった者のうち、直系卑属である者
企業会員
手野財閥のうち、春雷会の会員となるべき企業の代表する者及びその代表を補佐する首席の者

1914年には特別会員の資格を変更することとなった。
海外へと進出を強めた時期であり、海外で協力している2家を事業に参画する必要があったためである。
グッディ子爵及びテック・カバナー家は、本来は当主本人がくることとなるが、遠くにいるため、当主による代理人が参加することとなった。
そのため、1914年から終戦までは、以下のような会員となった。
特別会員
手野家並びに砂賀家の各当主、グッディ家並びにテック・カバナー家の当主代理人、及び手野家並びに砂賀家の代表者
古参会員
御一新以前から春雷会の会員であった者のうち、直系卑属である者
企業会員
手野財閥のうち、特別会員及び古参会員の総議によって会員となるべきと決された企業の代表者

また、上記会員以外にも、株式会社のために必要な機関が置かれた。
各会員のうち、特別会員から3名、古参会員から3名、企業会員から2名が取締役として、また互選により代表取締役が決定された。
各任期は通常は2年であり、再選が可能ということになっていた。
なお、代表取締役は特別会員から選ばれることが暗黙の規則となっていた。
取締役会には、取締役の他に監査役や会社専属の弁護士が入ることができた。
1931年から2年間はグッディ家当主代理人が、さらに1937年から1年間はテック・カバナー家当主代理人が代表取締役となった。
なお、グッディ家当主代理人によって、極東地域の映画産業隆盛のために手野極東国際映画祭が行われた。
この映画祭は、現在も行われ続けている。

この体制は、戦時体制になると変更がされることになっていた。
主として、以下のような変更点が加えられる。
変更点 平時 戦時
会合の頻度 月1回~4回 3か月1回
会合の場所 手野家邸宅 手野統括地下大会議室

1941年に交戦国籍者の軟禁が当局から命じられ、イギリス国籍を有するグッディ家当主代理人、アメリカ国籍を有するテック・カバナー家当主代理人は当局による監視下に置かれることとなる。
1942年の第一次日米交換船によってテック・カバナー家当主代理人が帰国し、同年の第一次日英交換船によってグッディ家当主代理人が帰国した。
彼らの利益代表者として、それぞれが指名した弁護士が復代理人として活動することとなった。


戦後期

1945年に終戦を迎えると、復代理人の業務を終了させ、すぐに当主代理人を日本へと呼んだ。
手野財閥の解体、GHQからの指令、分割していた事業の統廃合、その他様々な事柄を決定するためである。
このため、グッディ家からは専属事務弁護士を団長とするグッディ視察団、テック・カバナー家からは当主本人を団長とするカバナー視察団が構成されて訪日した。
財閥解体となり、手野財閥が中心を失う際、アフリカ及び欧州並びにロシアはグッディ家が、南北アメリカ及びオセアニアはテック・カバナー家が継承することとなった。
なおアジア地域については、春雷会が当分の間管轄することとなる。
一方で、春雷会は、その立ち位置と株主の範囲から、財閥解体の際の指定から逃れることとなった。
テック・カバナー家が裏で手を回したとされるが、事実は闇の中である。
この時点でも、株式を会員資格ごとに按分して保有している。会員資格については以下のようになる。
特別会員
手野家当主、砂賀家当主、グッディ家当主代理人、テック・カバナー家当主代理人
古参会員
戦前から古参会員の資格を有していた者のうち、直系卑属である者
企業会員
元手野財閥の企業のうち、特別会員及び古参会員の総議によって会員となるべきと決された企業の代表者

1951年に財閥解体の流れが途絶すると、すぐに春雷会を中心とした手野グループの再編事業が始まった。
膨大な数の企業を、系列にまとめ、それらを束ねる支柱としての春雷会である。
しかしながら、企業問題が多様化し、複数の業務を兼ねることが大変となったため、独自の組織である手野系列社長会を組織した。
この社長会において、春雷会が財閥解体以降もっていた手野グループの統帥権を譲渡し、以前のような家政機関へと戻った。
一方で、中心となりうる親会社がない手野グループは、その緩いつながりのために、求心力として春雷会を利用していた。
このため、完全に手野グループと縁が切れたということはない。

1962年に、手野家、砂賀家の所蔵品の数々を公開することとなり、手野財団を設立。
手野総合博物館を開設し、以後、手野財団は数々の研究機関や手野賞などの発表機関となる。

1970年には手野グループの総親会社として手野産業が設立され、手野系列社長会とともに手野グループをけん引する役割を持つこととなった。
この時点で、会員資格について編成に変更がなされた。1970年時点での会員資格については、以下のようになる。
当主会員
手野家当主、砂賀家当主、グッディ家当主、テック・カバナー家当主
なお、当主会員については、代理人を別に指名し、その者に会員業務を委任することができる。
上席会員
以前の古参会員の直系卑属である者
特別会員
当主会員及び上席会員の総議によって、会員となるべきと決した者

2010年に、見直しと称した改革が行われたが、会員資格について、以下のように定められた。
当主会員
手野家当主、砂賀家当主、グッディ家当主、テック・カバナー家当主
当主については、代理人を別に指名し、他の当主会員に承認された場合に限り、その者に当主会員としての業務を委任することができる
上席会員
以前の古参会員の直系卑属である、かつ以前の古参会員又は上席会員だった者の長子である者
特別会員
当主会員及び上席会員の総議によって、会員となるべきと決した者
栄典会員
手野家、砂賀家、グッディ家、テック・カバナー家によって栄典が授けられた者

なお、2010年による見直しでは、当主会員、上席会員並びに特別会員については正会員として取り扱い、それぞれ3分の1ずつの春雷会の株式を有する。
一方、栄典会員は準会員として取り扱われ株を有さない。
当主会員で委任された場合は、当主代理会員と称される。
なお、日本国籍、イギリス市民としてのイギリス国籍、アメリカ国籍のいずれかの国籍を有していなければ、当主代理会員にはなることができない。
上席会員については、子がいない場合は古参会員又は上席会員の兄弟姉妹とし、兄弟姉妹がいない場合はイトコとし、イトコがいない場合には6親等内の自然血族内において立候補を募り正会員の総議によって選任する。
この立候補がいない場合には、当主会員の預となり、後にその会員資格については当主会員の総議によって廃止される。

最終更新:2018年11月02日 21:49