砂賀藩

砂賀藩

砂賀藩は現在の岡山県砂賀町に当たる領域を、廃藩置県まで治めていた藩の名前である。
1100年代前半から廃藩置県まで、砂賀藩は砂賀家によって統治されていた。
また、1600年には砂賀支藩として金元藩が成立する。

目次



概要

砂賀藩はもともと星観神社の社領地であった。
800年ごろ、星観神社の門前で、砂賀家の祖先となる人物が用心棒のような形で居座る。
その後、貴族の庇護を求めた星観神社は、郁芳家から人員を派遣してもらう。
郁芳家は大臣家であり、庇護者としては最適だと考えたのだろう。
このとき派遣された人物が、用心棒の子孫と結婚し、ここから砂賀家としての血脈がはじまるとされる。
なお、用心棒の家系は別の人物が継いだとされるが、詳細は不明となっている。
1100年代、砂賀寺が建立し、一帯は門前町として栄えた。
砂賀家はこの際に、砂賀寺を一族の菩提寺とすることとし、以来、すべての当主はここで菩提を弔われている。



居城

砂賀藩居城は砂賀城(すながじょう)と名乗っていた。
これは佐賀藩に配慮したとされているが、実際は佐賀藩の成立以前から城については『すなが』城とし、氏族としての名は『さが』家としていた。
そのため、本来はすながの名が正式なのではないかとされているが、今となっては謎である。


組織

長い歴史の中で、砂賀藩は新しい組織を作っては改組し、あるいは併せて、もしくは廃止した。
その中で、門前用心棒の代わりとなる組織を作り、それが最も長続きしている。
現在の春雷会の前身ともいえ、明治時代初期まで存続した軍事組織だ。
他には、行政組織、司法組織、さらに各地にある屋敷ごとの組織もあった。
全て中心にあったのは藩主である砂賀家当主であり、それを補佐する者、補佐の部下となる者など、さまざまな職階に分かれていた。

行政組織

行政として、さらに他の組織のトップの集団として家老らが置かれる。
通常の行政については、家老らが直接指揮を執ることとなるが、他の組織については、家老らあるいは藩主が命令を出し、各組織長がそれらを執行することとなる。
また、領外組織についても、家老らによる指揮を受ける。
家老はおおよそ3~8名程度であり、1名は必ず江戸詰め、1名は必ず金元藩詰めとなることになっていた。
家老のうち1名は家老頭(かろうがしら)として砂賀藩詰めとなっていた。
家老の下には、複数の奉行、年寄や何々頭、あるいは何々長官と呼ばれる人らがおり、行政の組織を支えていた。
家老頭は数名就くことがあったが、その場合は家老頭の中で筆頭家老を1名選任することとなっていた。
筆頭家老は通常、家老頭の任期が最も長い者がなるという慣例があり、江戸期を通してそれが破られたことはなかった。
年寄職は、家老の補佐とし、場合によっては家老の代理として動くことがあった。
おおよそ3~5名程度が常時在勤しており、江戸詰め年寄が最低でも1名必要であった。
年寄は砂賀藩と京・大阪・手野や江戸との往復を行い、必要な通知や決定をそれぞれ往還するための使者として遣わされることがあった。
各家老は原則として担当する地域が決められており、それぞれの行政長官としての特性もあった。

司法組織

司法として、格式奉行(きゃくしきぶぎょう)をいわゆる最高裁長官とした体形が作られていた。
この格式奉行を長とし、町方奉行(まちかたぶぎょう)、郡方奉行(こおりかたぶぎょう)がそれぞれ副官としておかれた。
町方奉行は城下町とあらかじめ指定されている地域を担当し、郡方奉行は砂賀藩の領内で町方奉行が担当しない全地域を担当とした。
なお、指定されているのは行政地域と一致するようにされた。

立法組織

立法的組織として、著名なものに春雷会がある。
何らかの布告をする際には、通常は家老頭がそれに署名し、その名において布告される。
一方、重要な事項や格式奉行が先例にないような判断を下す必要がある場合、藩主による諮問、その他必要な事項について、家老や奉行などが集まって会議を開くこととなっていた。
それが春雷会であり、砂賀家当主が代表となり、筆頭家老あるいは家老頭がその副長となることとなっていた。

軍事組織

軍事組織としては、兵部長官(ひょうぶのかしら)が指揮官となる体制となっていた。
この兵部長官の下に、歩兵部隊の部隊長である徒士奉行(かちぶぎょう)、騎兵部隊の部隊長である騎士奉行(きしぶぎょう)の2人が副官として置かれ、その奉行の下に実戦部隊が置かれた。

領外組織

領外組織としては、金元藩のほかに、江戸屋敷、京屋敷がある。
それぞれ、藩邸として扱われていたが、大坂に置いた砂賀蔵も、領外組織として差配された。
江戸屋敷は藩主が江戸にいる間は藩主が代表となり、いない間は江戸詰め家老が差配するとされた。
そのため、江戸詰め家老は江戸屋敷権官(えどやしきごんかん)という役職が兼務として与えられており、この役職をもって江戸屋敷を差配するとされた。
京屋敷は文字通り京都に置かれた藩の屋敷であり、金元藩詰め家老が差配するとされた。
また、大坂の砂賀蔵についても金元藩詰め家老の配下にあるとされた。


家格

砂賀藩では、一定の基準によって定められる家格があった。
家格は別枠を筆頭とし、以下、金枠銀枠銅枠鉄枠無枠の6つに分けられていた。
この家格は砂賀藩の内部での家格であり、他の藩や幕府などに対してはその効力が及ばないものとされている。
ただし、砂賀藩が独自に贈るという形でその家格であった者はいる。

別枠

別枠は藩主、次期藩主、金元藩藩主すなわち手野家当主がこの地位にある。


金枠

銀枠

銅枠

鉄枠

無枠



藩史


最終更新:2023年03月13日 21:51