手野グループ関連家系

手野グループ関連家系

手野グループの中心となるのは手野家及び砂賀家である。
手野家は江戸時代から現在に至るまで、手野財閥、手野グループを統括している。
一方、砂賀家とは、手野家の本家にあたる血筋である。
手野財閥および手野グループにおいては、『統裁合議』が行われている。
このため、合議の手野と称されることがある。
また、海外進出の過程で、海外にあるグッディ家、テック・カバナー家と婚姻関係を結んでいる。
その他、砂賀家の関連、手野家の関連、グッディ家、カバナー家についても併せて記す。
なお、砂賀家、手野家の祖先にあたるとされる公家の郁芳家、さらには何らかの協力関係があった摂関家の絃時家についても記すこととする。

目次



砂賀家

砂賀家はその始祖を平安中期にいたとされる人物に定めている。
但し、さらにさかのぼると、嵯峨源氏に連なる。
以前は架空であると思われていたが、2010年に郁芳家の文書集が見つかり、郁芳文庫として整理された際に、砂賀行内の資料が発見され、嵯峨源氏の庶流であることが判明した。

家祖は、砂賀行内(さがぎょうじ)とされている。
1100年代前半に墾田により土地を得て、そこから生まれた作物の売買により富を重ねた。
氏を源、姓を真人(まひと)としている。
3代目、砂賀山路(さがやまみち)によって小作業が始まった。
1300年代に入り、砂賀家は、大地主となっており、周囲を守るために人を雇い入れた。
砂賀武装団と呼ばれる彼らは、砂賀家のために働くこととなり、砂賀家は今でいう所の守護のようにふるまった。
これが12代目、砂賀清霜(さがきよしも)の時代である。
現在、岡山県砂賀町にはその当時の荘園が残されている。
砂賀清霜自身も、刀を振るいその土地を守ることに執心した。
このため、砂賀武装団は一致して砂賀清霜を土蔵へと押し込め、隠居させた。
これを『砂賀武装団の乱』と呼んでいる。
この前後に、鉄(くろがね)と呼ばれる鍛冶集団を専属の刀工として雇っている記録がある。
砂賀家は、砂賀武装団の乱の後、13代目の砂賀万(さがよろず)が家督を相続した。
また、1338年に室町幕府から正式に守護として認められ、弟あるいは息子を守護代とした。
その後、約5000石という見立てが行われ、守護大名の一つと数えられるようになっていく。
名実ともに守護大名となった砂賀家は、砂賀武装団を改め、砂賀臣下団と称させた。
この臣下団のうち、鉄一族の長を迎え入れ、砂賀の字のうち一字を与えた。
これが、鉄砂家のはじまりである。
鉄砂家は、砂賀家、手野家、砂賀家臣団の共通の刀工、砂賀家による鍛冶職人集団の頂点となった。
また、このときから当主による日記が書かれており、砂賀家当主日記集とされ、第一級の史料とされている。
なお、これには庭に生えている木の一部を用いて、生物観察記録も別冊として附けられている。
守護と認められると前後して官位が授けられた。
それによると当時の13代目砂賀家当主である砂賀万には美作介(みまさかのすけ)従六位上が授けられた。
以後、当主には代々この官位が授けられることとなったが、位階は時によって変動することとなる。

守護大名と認められるころ、和歌集の編纂を行うようになった。
おおよそ毎年、砂賀家私選集として毎年の元号年を冠し公表される。
実際の編纂には砂賀家から嘱託された春雷会会員と有識者によって行われることになっている。
ちなみに、おおよそ10年ごとに、特選砂賀家私選和歌集を編纂している。

戦国時代に突入すると、第16代目砂賀汐方(さがしおかた)は、砂賀臣下団を砂賀家中団へと改称させた。
さらに、砂賀検地と呼ばれる、領地内の検地が行われ、それにより1万6千石と確定された。
砂賀家は砂賀家を中心とした政権を打ち立て、現在の岡山県砂賀町一帯を支配する戦国大名の一つとされた。
砂賀家中団は砂賀家によく仕え、また砂賀家も彼らを重用した。
これにより、砂賀家には反乱らしいものもなかったとされる。
これは、農民の中に分け入り、共に良き生活を目指した砂賀汐方の人となりのおかげであるともいわれている。

戦国時代末期、織豊政権が成立しても、砂賀家は名目上は守護大名であった。
砂賀家は、今まで使っていた城の大規模な修繕へと乗り出し、砂賀城と称することとなった。
江戸時代では九州佐賀藩と間違えやすいということもあり、藩の名称は砂賀(すなが)藩となっていた。
これに伴い、城の名称も砂賀(すなが)城と称した。
なお、今まで使っていた城の上に、新たな城を建てたということになっており、現に発掘調査によっていくかの遺構が発見されている。

関ケ原の戦いにおいて、手野家は、徳川方に付いた。
この戦いの功績により、手野家は譜代大名とされた。
また、江戸幕府が開かれた後には、帝鑑間に詰めることとされた。

江戸時代に入り、一国一城が定められたが、砂賀城は例外措置として砂賀城のまま使用することが許された。
なお、家の名前としては砂賀(さが)であるが、城の名前は砂賀(すなが)である。
これは、九州に佐賀藩があるため、そちらを優先したということらしいが、事実は不明である。
また、検地によって3万5千石とされた。
検地後は官位についても同様にするようにという書状が届いたものの、家督相続の時点で美作介を官職として名乗り、さらに従五位下が授けられることとなる。
さらに武家官職として神祇副伯が従五位上に位階が進むと同時に授けられることとなった。
この美作介は武家官位ではなく、朝廷から直接請求し、授けられることを通例とした。
これは、室町時代から250年以上にわたり受け継がれてきたことが認められたのだとされ、同時に守護を名乗ることも承認されている。
数年経つと従五位上、あるいは正五位下が授けられ、その後位階はほぼ定期に上がり続け、30年後には正四位上が授けられることとなっている。
このころには、たいがいは隠居しているので、ここまで位階があがることは1名を除いてなかった。
このため、極位極官は正四位上、美作介、侍従、参議とされた。
なお、参議は授けられたのは1名のみ、侍従も授けられたのは4名のみであった。
これらのことから、砂賀家当主を美作介殿と呼ぶこともある。

1728年、23代目砂賀家当主、砂賀強弥(さがきょうや)には息子が3人いた。
そのうち1人は夭折し、2人のうち次男は独立して家を作ることとなった。
砂賀繊維の源流になる、綿花栽培の開始である。
綿花の砂賀家ということで、砂賀綿(さがわた)と呼ばれるようになる。
また、この傍流は、その住んでいるところから、山砂賀家と呼ばれるようになるが、苗字は砂賀のままである。

1750年、4代目山砂賀が綿花から布の製造を開始。
そして、1798年、いよいよ砂賀繊維を創業することとなる。
このころ、本家である砂賀家は藩の財政の工面に必死であった。
そのため、布を売って利益を上げていた山砂賀に対して、藩内での販売特権の代わりに、一定の利益を上納するようになった。

その品質は、天下無二と称されるほど良く、数多くの者が求めたという。
1799年には、近隣の養蚕家と提携し、絹布の製造も開始する。
高品質な布の名声は京にも響き、1800年には京都にある呉服店に布地の納入を始める。

ここで少しさかのぼり1771年、5代目山砂賀の弟が大坂へと出向き、綿布を販売するようになる。
この時点では移動販売であったが、手に入れた金を使い、現在の大阪府手野市にある荒地を開墾するようになる。
『手に入る野原』が精いっぱいだったため、今後の精進と希望を込めて手野と苗字を改めることとなった。
これが手野家の最初である。以後の手野家については手野家に詳述することとする。

山砂賀は、1820年、8代目の死亡と同時にその血筋が途絶えることとなる。
そして、砂賀繊維をどうするかについて、砂賀家内で紛争が起こることとなる。
34代目砂賀家当主は、自らの弟筋に砂賀繊維を任せるように工面。
一方で家臣団は、また32代目当主からわかれた傍流に任せようと奔走した。
半年ほどして、手野家に任せるということになった。
これは、分家である手野家であれば、本家の影響が及ぶということ、すでに手野村の開墾を行っており実績があるということ、大坂においての商売の巧みさを買われたものだとされる。
ただ、この時期は、書物に残されることが少なく、そのため資料が不足している。
蛇足ではあるが、山砂賀の血筋は娘が一人おり、その者が手野に嫁いだとされている。
これについても、それを裏付ける資料は存在しない。

幕末となると、砂賀家は揺れ動いた。
幕藩体制へと付き従うか、それとも新政府へと移るかである。
家中団との協議の席が設けられ、その結果、明治新政府につくことを決定した。
明治新政府方へとついた時点で、砂賀家中団を、砂賀家臣団と名称を変更させた。

36代目砂賀家当主は、手野家との相談により、2万5千両を新政府へと融通することを決定した。
その他、華族制度発足に伴って、子爵位が当主には授けられることとなった。
また、家臣団の一部、手野家などには、男爵が授けられることが決定された。
明治5年時点において、砂賀藩は3万石とされた。
同年、さらに新政府へと出資することを決定し、さらに2万5千両を貸出した。
〆て5万両は、今も返されていない。
ちなみに言えば、新暦の7月1日には政府へと嘆願書として5万両を5万円としたうえで、合わせて利息を支払うように要請しているが、無視されているようだ。
初めはさらに現在価値に直していたが、今はそのまま5万円と利息(年率20%、複利)を請求している。
なお、2020年時点で148年経過しているため、約2京6169兆4394億437万6641円となる。

この5万両の代わりということもないだろうが、国立銀行条例に基づく国立第百三十七銀行の設立の認可が下りた。
明治6年のことである。
国立第百三十七銀行は、明治15年に手野銀行へと改組され、これが現在の手野銀行の源流となる。
この年には、手野財閥の中枢中の中枢となる純粋持株会社の手野統括が発足。
春雷会が持っていた権能の大半を手野統括が引き継ぐこととなり、この手野統括の社長には手野家当主が、会長として砂賀家当主がそれぞれ就くこととなった。
社長は実務を担当し、会長は手野統括を代表し対外的な活動に尽力することとなる。

1880年代、砂賀家当主はUKこと英国に目を付けていた。
当時の英国は大英帝国と呼ばれ、日の沈まぬ国となっていた。
自らは手野統括やその他の仕事のために日本を離れるわけにはいかないということで、代理として春雷会に籍を置き、手野統括でも役員としてなっていた元筆頭家老にイギリスへと向かわせることを決定した。
しかし、おりしも日清戦争が勃発し、その計画はとん挫。
それでも1900年の初頭に再度計画は上がり、3月には出港することとなった。
目的としては、英国だけではなく、当時の欧州全域を見て回ることであったが、最大の目標は手野財閥が欧州やその植民地への足掛かりを本国に造ることであった。
当然、その筆頭に挙げられていたのが英国である。

元筆頭家老との砂賀家当主はその書簡の中で、最大に安く、最大に高くということを書いている。
これは今も手野グループの指針となっているものの一つで、自身の利益は安く、他者の幸せは高く、という意味合いだと取られている。
が、当時は値切って安く買い、自らが売るときには高く売る、ということを説いているとされる。

英国や米国の人を自らの財閥に入れるということは、リスクが高いということもあったが、それぞれ必要な知識、金銭、その他があると判断して決行した。
英国はグッディ子爵家であり、米国はテック・カバナー家である。
これによって手野財閥は国際的になったとされ、さらに財閥解体時に春雷会や手野の名称がGHQから承認された遠因となったとされる。
なお、1900年には第36代が病死し、第37代が跡を継いだ。

1901年、砂賀当主の孫娘の一人である砂賀テルが英国留学を希望。
華族や庶民子弟向けの英語の家庭教師になること、そして手野財閥が作ろうとしている学校の教員となることが目的であった。
翌年にはグッディ家があっせんし、試験に合格したため、アマーダン大学へと入学が許可された。
その際、グッディ家の邸宅へと寝泊まりし、そこで結婚することができずにいた第28代グッディ子爵と恋仲に落ちる。
日露戦争を挟み、1905年に結婚式を挙げることとなり、さらに第29代グッディ子爵となる男子を産んだ。

1908年、砂賀当主の弟の砂賀幸宗(さがたかむね)の長男である砂賀幸力(さがゆきちか)が、砂賀家としては初めての高等試験外交科試験に合格した。
選択言語は英語であり、領事として英国アマーダンにある総領事館に赴任した。

全世界へと販路を拡大した手野財閥の中枢として砂賀家はあり続けた。
手野家が権力の象徴とされるのであれば、砂賀家は権威の象徴である。
そのため、手野財閥の傘下企業は、手野家がそれぞれの役員を決定し、砂賀家がそれを認証し、春雷会において公表されるという手続きを経ることとなった。
1910年までには、このシステムが確立されたとされ、春雷会は手野財閥全体の議会とされ、そのために株式会社化することが決定された。

1910年にグッディ子爵を欧州総代理店総店長として、さらに同時に手野統括欧州統括部を新設し、その部長とすることを、手野当主とともに決定する。
この時点で、新たな販路拡大とともに、科学技術の獲得のために、ドイツ帝国テューリンゲン州エアフルトに大規模な研究所を設立することを決定。
砂賀当主の弟である砂賀幸宗がエアフルト郊外に大規模な研究所を建設し、特に染料の研究を行うこととなった。

1920年までに、手野財閥の権威として活躍をするようになると、海外の同胞の後援を行うようになる。
特に、グッディ家、テック・カバナー家とは姻族となった関係もあり、国内におけるそれぞれの代表として、砂賀家が行動することもあった。
このため、当時の米国大使館、英国大使館と連絡を取り合い、大阪に総領事館を設置するための運動にも参加することとなる。
当時は神戸が一大貿易港として発展しつつあるときであり、そのためにそれぞれ設置することが利益になると説いた。
また、欧米において手野財閥が販売網を拡大するのにあたり、グッディ家、テック・カバナー家が協力するように根回しをしたのも、当時の当主であった。
1925年、今までの心労がたたったのか、37代が死去。
第38代が即日跡を継いだ。

1928年、砂賀幸宗はエアフルトにおいて客死。
研究所長として砂賀幸力が跡を継いだ。
このとき、幸力は外務省から退官した。
最終任地はアメリカ合衆国ロサンゼルスだった。
1か月後、砂賀幸力がエアフルト砂賀繊維研究所所長となった。

春雷会において、1930年総会が行われ、その時に次年度の代表取締役として指名したのはグッディ子爵であった。
これは、砂賀家臣団や、春雷会の会員から反対意見は多かった。
明治以来、独立で行ってきたのにもかかわらず、それを戻すつもりであるのか、といったものや、欧米人を単純に信用することができないといったところまであった。
そのことを、砂賀当主は自らの家族であるという言葉とともに反論し、最終的に全会一致として春雷会代表取締役としてグッディ子爵を推薦することを決定した。
子爵自身は英国に、その職務ゆえに常駐する必要があるため、代理人がたてられることとなった。
その代理人は春雷会に実際に出席する代理人と同一であり、必要に応じてグッディ子爵と連絡を取り、また代表取締役としての職務に当たるとされた。
ここでは、砂賀当主、手野当主がその者を応援し、国家機関とのやり取りも手伝うことがあった。
これを契機とし、春雷会、砂賀財閥については、国際化の話を発展させることになる。

戦前、最も輝いていたとされる時期は1930年ごろから1940年ごろの10年間にある。
このころ、極東地域の映画産業隆盛のための手野極東国際映画祭が行われるようになった。
さらに、テック・カバナー当主が春雷会代表取締役となることになり、日米英の3国にいる財閥による共同統治と発展する。

1935年に大日本帝国外務省がドイツ領内に新たに総領事館を設置することとし、砂賀幸力が総領事職を拝命した。
赴任先はエアフルトであった。
このとき、研究所敷地内に総領事館を設置し、ドイツ政府から承認を得た。
当時は戦争が目前に迫っており、総領事館内に警察組織を設置し、手野武装社がそのための人員を派遣した。
なお、完全武装しており、周囲の軍であっても内部に入ることはできないとされた。
研究所は総領事館の敷地と一致しており、総領事館の中に研究所があるとされた。
迫害されていた者を砂賀繊維研究員として家族ともども総領事館へ受け入れ、保護した。
迫害を受けていた者らのために、研究所の一角にそのための居住地や簡易な宗教施設を作った。
これらの土地は全て砂賀研究所が保有しており、その警備は手野武装社が管理していた。

1941年、大東亜戦争がはじまると、それに伴い敵国となった英国、米国それぞれの国籍を持っていた当主代理人及びその部下の一部については、当局による軟禁命令とともに監視下におかれることとなる。
そのため、早期の帰国を望むこととなり、復代理人を選定し、それとともに砂賀家は春雷会を切り盛りすることとなる。
なお、それぞれの国籍の者は、1942年の交換船によって帰国をすることとなった。
英国と分断されたため、迫害されている者は総領事館内の研究所で保護し続けることとなる。
手野財閥、砂賀財閥ともに研究所で無数の仕事を与え続け、ドイツ官憲から仕事があるため、という名目と、総領事館による特権を主張し続け排除し続けた。

砂賀家は大東亜戦争に伴う責任の一端を担うということとともに、海軍、陸軍それぞれに物資供給を行うための企業に複数が指定されることとなる。
手野家とともに、それぞれの会社を運営することとなるが、それについて春雷会が深くかかわることになっている。
一方で、砂賀家にも複数の人物が出征し、帰らぬ人となった。
砂賀家の家系においては、次男、四男が陸軍、三男が海軍に従軍し、三男、四男が戦死した。
長男は兵役法によって兵役免除となったが、もともと視力が悪く、右が0.4、左が0.8という記録が残っている。
次男は1943年に第一国民兵役として召集を受けた。
直後、南方戦線へと出征し、昭南(シンガポール)守備部隊へ配置される。
予備役から現役となり、階級は予備役少尉から陸軍中尉となって従軍した。
終戦に伴い復員し、以後このころの話は一切しなかったという。
なお、1971年に次男は死去した。

ドイツ敗戦により、旧ドイツ兵が迫害を受けた際、砂賀研究所はそれらの者を保護した。
すでに研究所内にいた保護されていた者らは、兵らを迫害をしていたものとして排除するように要請したが、砂賀幸力はその要求を拒否した。
正当なる理由なしに迫害を受けたる者を保護することは、博愛の精神の発露である。故に、ただ敗戦という事柄のみで迫害を受けたる者を保護することは正当な行為であるという内容のことを話したとされるが、本人の日記にも、周辺の者の記録にもそれらは載っていない。
何はともあれ、この状況は日本終戦時まで継続される。

1945年9月2日、日本の降伏文書調印を迎えると、継続して総領事の職を行うようにという指令が来る。
このため、周辺にいた日本国籍者を総領事館内に迎え入れた。
周辺が東ドイツとなった時点でも、総領事館として大日本帝国、そして日本国の領土とされ続けた。
この結果、1935年以降の砂賀繊維研究所は、複数の民族が入り混じる宗教的、民族的混在地となっていた。
それでも繊維の研究は続いており、もはや意地だともいわれるようになっていた。
この状況は、1952年にサンフランシスコ条約が締結されると同時に少しずつ変わるようになる。
一応、表向きには手野財閥の解体にともない、砂賀研究所はグッディ家が管轄することとなった。
だが、実質的な所長として幸力が就いていた。

終戦とともに、砂賀家は、公職追放を受けそうになる。
それに対して、極めて有用であるということを示したのはテック・カバナーである。
終戦と同時に、春雷会の取締役としての権限によって来日した当主当人が財閥による経済の安定化を提言し、GHQはそれを修正したのちに受け入れた。
そのため、指定財閥として指定された場合には解散となり、手野財閥はそのために換算を余儀なくされた。
その一方で、綿花を中心として岡山に本拠を構える砂賀財閥については解散されることはなかった。
また、春雷会は一定の一族の独占ではなく、国内のみならず英国、米国の国籍を有している者を取り入れ、さらにはほかにはない取締役、代表取締役をも戦前にしていたということが評価され、財閥としての連合体ではない、と判断された。
一部の者を除いて公職追放が免れたのは、砂賀幸力の影響や、テック・カバナー、グッディなどの海外からの圧力があったためだとされているが、真相は謎である。

1952年、サンフランシスコ条約締結とともに、砂賀幸力は手野繊維研究所所長を辞した。
しかしながら総領事の職にはとどまり続けていた。
傍系である幸力ではあったが、欧州では砂賀家の顔となっており、それがために欧州大陸のあちこちを総領事として移動することがあった。
研究所所長には、幸力の子が就いた。
総領事館内で保護していた人らについては、出るか、残るかの選択を行うこととなった。
なお、ドイツから迫害されていた者らは9割ほどが出た。
一方で、ドイツ敗戦後に保護した者は7割ほどが残った。
残ったものらはについては、砂賀繊維が雇用契約を結び、研究員としての雇用を行うこととなった。
また、住居についても、そのまま使い続けることとなった。
彼らについては、1990年のドイツ再統一を経て、居住地制限を撤廃した。

本家となる砂賀家当主では、終戦の前から終戦後を見据えた財閥の行動指針を作成した。
1945年1月には春雷会により議決され、それが決定された。
砂賀家当主は、春雷会の名誉会長の地位を占めることとし、春雷会から手を引く。
また、終戦と同時にテック・カバナー家、グッディ子爵家へと伝達を行い、速やかに手野財閥の解体、あるいは権限の委譲についてを話し合う。
これらのことを柱とした戦後計画である。
この戦後計画により、一時的に、春雷会を代表とし、手野家、砂賀家は一線から退くことが決定された。
一方で、グッディ子爵、テック・カバナーはそれぞれ春雷会を通して、全体を差配することとなった。
この戦後計画は第1次、第2次、第3次まで続くこととなるが、これらがその前に決定されたため、通称として第0次戦後計画と呼ばれる。
第0次計画により、手野統括が解散され、GHQが定めた、テック・カバナー家とグッディ子爵の共同保有会社へと手野財閥が引き渡されることとなった。
しかし、その決定の直後、春雷会がその共同保有会社となることが決まったため、参加企業はほぼ変わることはなかった。
1947年の第1次計画により、春雷会から地域別の財産管理となり、それぞれ管理者としてグッディ子爵、テック・カバナー家が指名される。
第2次計画は1950年に開始され、春雷会に再び手野家、砂賀家が深く関与するようになる。同時に、手野財閥の財産の集積が開始され、GHQの指導のもとという条件のなか、春雷会を中心としての旧手野財閥の復活を旗印にした。
この際に、グッディ子爵やテック・カバナー家は戦前から同様に春雷会を通しての関与と変わり、財産管理は春雷会となる。
第3次計画は、復旧から復興へという名目で、会社の再編や中枢企業、準中枢企業を指定し、1964年まで続くこととなる。

1961年、第39代が後を継ぎ、戦災復興の最終段階へと進むこととなる。
1964年、第39代が中心となり、手野系列社長会を組織することを提案。
この手野系列社長会は、統括不在時代において春雷会と並んで、手野グループの中心組織となった。
春雷会が手野財閥の議会と呼ばれたように、手野系列社長会は、手野グループの中枢企業、準中枢企業の親睦会という位置づけであった。
これらの企業も、もとをただせば手野財閥から財閥解体の際に解体させられた企業の集合体であり、1964年以降も増減を繰り返していた。
この手野系列社長会が組織された年をもって、すなわち1964年をもって、手野グループの戦災復興は一応の完了をみたとされる。
戦災復興計画は1966年で完了し、以後は数年ごとに策定される企業計画によって運営されることとなる。

1979年、当主が交通事故で死去。
即日、第40代が当主を継いだ。

第40代は病気がちで、継いだ直後に呼吸器不全により寝たきりとなる。
そのため、第41代を早々に指名し、死後のことは春雷会を後見とし宜しくするようにと残した。
その後、入院期間が1年を経過した時点で隠居を決意。
この時点で第41代へ当主を交代することを宣言した。
なお、明治改元以来、生前に当主が交代することは初めてであり、前当主はそのまま入退院を繰り返し、15年後に死去した。

2015年時点で、砂賀家当主は、46代目を数える。


手野家

手野家は砂賀家の分家に当たる。
5代目山砂賀から別れた家を初代と定めている。
初代手野雷吾(てのらいご)は、その商才が著しく高かったとされる。
布に等級を定め、それにより売価を変えているところだ。
また、初めは店子、または移動販売として売っていたものの、それらを自家生産、自家販売とした。
手野村と称する地域は1810年に確定された。
これは、新たに開墾された地域を指していた。
その地域を使い、綿花を栽培し始めた。
また、砂賀藩から養蚕農家を連れてきて、絹布の製造も行うようになった。
これらは、砂賀藩に戻され、そこで売られることとなった。
1798年に砂賀繊維において販売を開始。
1800年には現在の手野村と呼ばれるところから直接京都へと輸送を行うことになる。
また後に大坂店を、そして江戸店を開業するまでに大きくなる。
1820年、砂賀家内紛による砂賀繊維の販売権移譲により、砂賀繊維を手野繊維へと転換する。
それと同時に、砂賀繊維に属する一切の事業を手野家へと禅譲することとなった。
手野繊維は現在も法人として維持している。
なお、同年には江戸への出店を果たしている。
一方、砂賀繊維にあった養蚕業については、藩内産業保護という名目で砂賀家が直営することとなった。

3代目手野当主は、『面白い』と思うことを大切にするという指針を設けた。
このため、手野繊維内に茶店を開き、より客を招き入れようとした。
1850年のことである。
またその10年後には、手野陸運、手野海運を官許により設立し、運送業を開始した。
翌年には手野陸運において、1枚120文で手紙の配達を開始した。
この手紙は、手野繊維の出店がある大坂、江戸の他には、関係している店がある岡山、広島、福岡、先代、加賀の各都市を結ぶようにしていた。
なお、京都には手野繊維の店はあるが、手紙配達の対象とはなっていない。

幕末期にいたり、砂賀家、砂賀家中団との協議により、明治新政府へと帰属することとした。
5代目手野当主は、さらに手野家中団から改められた手野家臣団の名誉団長となる。


海外関連家

手野家、砂賀家以外に重要な家として、海外においては、スコットランド貴族であるグッディ家テック・カバナー家がある。

グッディ家

ピクト人の王を祖先とするとされるグッディ家は現在、子爵位を有する貴族家系で、その歴史は1199年にイール・グッディが叙されたときにさかのぼる。
スコットランド氏族の一つであるグッディ族の族長(clan chief of Godiy)である。
昔のグッディ州周辺に分布していたグッディ族は、3つの支族(ガンピール支族、シミュル支族、ラドシャ支族)を有している。
その中でも、グッディ家は中心で居続け、古代からの文化を比較的よく保持しているとされる。
モットーは『我が旗のもとに(Et originali vexillum meum)』である。

西暦500年には、グッディ男爵と名乗っていた記録が残っているが、実際には、自ら名乗っているに過ぎないとされる。
自らの軍団を組織し、後にそれらは2つの騎士団並びにアマーダン連隊へと統合されていくこととなる。
一方で、アマーダン周辺の支配を強めていたが、それ以外の領域を徐々に失っていく。
1000年になるまでには、アマーダン周辺はアルバ王国の直轄地とされ、グッディは一家臣とされた。
規模は小さかったため、特に叙爵されるということはなかったようである。
1199年に多額の献金を行い、男爵とされる。なお、スコットランドにおける男爵は貴族として認められていない。
ただし、グッディ家としての公に認められたということもあり、家史ではここで大きく変わったと記される。
1235年にスコットランド議会に席を持つためロードシップ・オブ・パーラメント(Laird o Pairlament, Load of Godiy)に叙される。
1550年には初代グッディ子爵(Vixcount of godiy)に叙せられた。
1565年には、グッディ子爵邸宅となる、アマーダン・ハウスを建設し、居住を開始。
領地からの安定した収益によって、1700年までに邸宅以外に建物を3つ保有する。
1565年建設を開始したアマーダン・ハウスは、カントリーハウスとして著名な建物で、修道院の跡地に建てられたものであった。
敷地は15000エーカーを超え、極めて豪奢な建物である。
元が修道院ということもあって、スコットランド国教会の教会が併設されており、聖職者のための建屋もある。
1590年に建設を開始したエディンバラにあるタウンハウスであるエディンバラ・アマーダン・ハウスがある。
それまで、議会が開かれるたびに近くの宿泊施設に泊まっていたようだが、以後はアマーダン・ハウスに住みつつ、議会へ出るようになった。
さらに、1631年に建設を開始したロンドンに作られたロンドン・アマーダン・ハウスを運用した。
また、1661年にはアマーダン騎士団のためのナイトハウスをアマーダンに建てた。
ナイトハウス・オブ・アマーダンとして知られており、アマーダン騎士団の本部とともに、英国陸軍アマーダン連隊の本営が置かれている。

1661年には、連隊長(Colonel-in-Chief)としてアマーダン連隊を指揮するようになっていた。
このアマーダン連隊は騎士団となり、アマーダン騎士団へと発展する。
アマーダン騎士団を置く勅許を得る代わりに、グッディ子爵は当時のスコットランド王であるチャールズ2世に忠誠を誓い、その殿部隊とされる。
殿部隊とされたことにより、国王が移動する際には付き従うということとなった。
このとき、グッディ子爵の爵位を有する者を、国王あるいは女王の殿部隊として遇することとなり、その象徴として、金銀で飾られた杖が授けられた。
このことから、金銀王冠杖官(The Gentleman Rear of The Crown of Golden and Sliver Rod)という役職が設けられ、通称金杖官(Golden Rod)と呼ばれるようになる。

1707年、合同法により、これまで保有していたスコットランド議会の貴族としての席は、グレートブリテン議会の貴族としての席となる。
合同法を経て、1761年には『アマーダン州のアマーダンのアマーダン男爵(Baron Amadan, of Amadan in the County of Amadan)』というグレートブリテン貴族に列せられる。
また、1790年、これまでの戦功により男爵からいきなり公爵へと叙されることが決定したが、それについては後に保留という形になる。
これは現時点に至るまでの大いなる謎の一つとされ、まれに公爵候補子爵閣下と当主が呼ばれることがあるが、それはこれのためである。
保留という体裁をとっているため、あくまでも公爵に叙することは既定路線であり、それがいつになるのかが分からないということだ。
なお、2020年をもって、保留されていたすべての爵位が叙されることとなった。

1730年、アマーダン騎士団は陸軍の連隊として再編成され、以後は世俗騎士団のアマーダン騎士団と、陸軍の一連隊であるアマーダン連隊に分かれることとなった。
なお、アマーダン連隊は現在に至るまでグッディ子爵がその費用の全額を支弁している。
このため、法的な所有者は英国政府であるが、事実上の連隊の所有者はグッディ子爵とされる。
アマーダン連隊は、その名誉連隊長(カーネル・イン・チーフColonel-in-Chief)をグッディ子爵としている。

1830年、産業革命による事業の投資に失敗し、自宅となるアマーダン・ハウス以外の領地を売払う。
また、自宅も荒廃し、手の付けようがない状態となった。
この際、ノエル流テック・カバナーに土地を譲り渡し、代わりに金銭を貸してもらうこととした。
これらの金銭については、1925年までに利息をつけて全額返済をしている。
さらに金銭の消費貸借契約を結ぶと、アマーダン騎士団、アマーダン連隊の保持を行うことができるようになる。
最低限の状況とは言え、そのためにカーネル・イン・チーフの地位を維持し続けることができた。
1860年、アマーダン騎士団について、国王へとその主催者を移転した。
但し、形式的に動かしたということのようで、実質的主催者はグッディ子爵である。
同年、ノエル流テック・カバナー家の英国進出の深化をはかるため、マーク・テック・カバナーがシミュル支族の支族長であるシミュル・ガンビーという女性と結婚した。
これにともなって、姓がシミュルからカバナーとなった。

1875年には、アマーダン州はダンディ州と合併した。
存続法人としてはダンディ州が選ばれ、アマーダン州は全域を行政長官が統治するダンディ州として扱われることとなった。

1900年、欧州視察を行っていた手野家、砂賀家合同調査団が、英国で売りに出されていたアマーダン・ハウスを購入することを決定。
なお、アマーダン・ハウスは現在では手野不動産が管理している。
グッディ子爵は、この時点で居住権を失うこととなったが、手野家が砂賀家からの承認を受けて、引き続きの居住を許可。
そのうえ、砂賀家から一部の人物を留学させるための拠点とすることとした。
この時派遣された留学生の一人が砂賀テルであり、後に未婚であった第28代グッディ子爵と結婚することとなる人物である。
英国を中心として欧州全域へと販路を広げたい手野財閥は、グッディ子爵をそのために必要な人物とした。
1903年、グッディ子爵がテルへと求婚し、テルはそれを受諾。
その後結婚のための準備をしていたが、1904年に日露戦争が勃発すると終戦まで延期とされた。

1901年には、支族の一つであるシミュル支族の支族長にカバナー男爵が授けられた。
なお、カバナー男爵の授与にともなって、支族の姓をシミュル=カバナーへと変更が申請され、受理された。

1905年、日露戦争終結によって砂賀家は引き伸ばしにされていた、グッディ子爵と結婚をすることとした。
この結婚により、砂賀家の娘をグッディ子爵と結婚させる代わりに、アマーダン・ハウスへの子爵家の居住を永続的に認めるということとなった。
また、グッディ子爵のその知識、見識、また欧州で仕事をするうえで必要な人材についてなどを一任するために、手野財閥としての欧州総代理店を設立することが決定。
1910年、欧州統括部及び手野財閥欧州総代理店の部長及び総店長として第28代グッディ子爵が就任した。
この年、後に第29代となる子が産まれる。

1914年、第1次世界大戦勃発と同時に、手野財閥総代理として、グッディ子爵は莫大な財を築くこととなる。
手放した数々の別荘地を買い戻し、そのうえ広大な領土を買った。
大英帝国の植民地にも土地を買い、それを手野財閥のためや、自らのために用いた。
1919年、終戦の時には戦前よりも3倍以上に財産が増えていたとされている。
また、フランスにあるボルドーワインのシャトーを保有するに至った。

1930年、グッディ子爵が第29代になると同時に、日本に年に1回、特に年末年始に旅行することとなる。
これについては、テック・カバナー当主とともに、手野財閥全体についての話し合いをするためとされる。
この年、英国国王の勅許を経て私設騎士団であるサクラ騎士団が設立された。

1931年、砂賀家諮問機関、砂賀家及び手野家の家政機関、手野財閥議会である春雷会の代表取締役に第29代グッディ子爵が選出され、実務をグッディ家当主代理人に委任しつつ務めた。
また、翌年も代表取締役に選出され、同様に行った。
このこと及びテック・カバナー当主が春雷会代表取締役についたことが、後の財閥解体時に春雷会が解散しなかった理由の一つとされる。
なお、この当主代理人は、他の当主及び当主代理人により承認を受けた者であり、グッディ子爵と懇意である日本、米国あるいは英国の国籍を有する者である。
グッディ子爵の代理人の場合は、英国国籍を有する必要があり、当主代理人は英国の事務弁護士の資格を有している。

1935年から砂賀幸力が、大日本帝国がドイツのエアフルトに設置した総領事館の総領事となると、ナチスによる迫害から逃れる者へのビザを発給し続けることとなる。
そのビザはドイツからアマーダンへと向かうルートであった。
グッディ子爵は彼らを受け入れ、さらにアメリカのテック・カバナー財閥が受け入れることを表明したため、ドイツ領域やその衛星国から英国アマーダン経由でテック・カバナー財閥の総本部があるマサチューセッツ州カバナーへのビザを承認し続けた。

1941年、交戦国籍者の軟禁が日本当局より文書で命令される。
これにより、当主代理人が当局による監視下に置かれることとなり、翌年の第一次日英交換船によって帰国することとなる。
その後、1945年の終戦と同時に帰還し、速やかに事業の引継ぎを行った。
この当主代理人は、グッディ家専属事務弁護士であり、グッディ視察団団長を兼ねた。

1949年、第30代グッディ子爵となる。
手野財閥解体と同時に、総欧州支配人の職は解かれたが、アフリカ、欧州の全体及びソ連(現ロシア)について手野財閥並びに後継組織の手野グループの利益代表者とされた。

1970年、手野グループ総親会社の手野産業が設立され、取締役に名を連ねることとなる。
また、アフリカ、欧州及びロシア担当取締役という肩書となった。

1973年、第31代グッディ子爵となる。
1979年、先代が交通事故により死亡。
これにより長男が第32代グッディ子爵を継承した。

1999年、議会法改正により、貴族院において世襲貴族の議席数は制限されることとなったが、グッディ子爵は貴族院に世襲によって席を有することが許された。
これは国王あるいは女王に対する殿部隊としてのグッディ子爵の役割があり、議会に国王あるいは女王が出席する際には、常にその登壇、退出全てに付き従う。
そして最後尾の警護を担当することとなっているためとされた。
このため、1999年以後は特に王室が議会に来る際の警護担当となっている。

2000年、第33代グッディ子爵となる。
2000年時点でのグッディ子爵が保有する爵位は、以下の通りとなる。
  • スコットランド貴族である、ロードシップ・オブ・パーラメント(Load of Godiy)
  • スコットランド貴族である、第33代グッディ子爵(33th Vixcount of Godiy)
  • グレートブリテン貴族である、第15代アマーダン州のアマーダンのアマーダン男爵(15th Baron Amadan, of Amadan in the County of Amadan)
全ての爵位について、初代グッディ子爵の直系の男系子孫かつ長子優先となっている。

1790年に作成され、2020年1月1日に有効となる特許状に基づいて、当日現に生存しているグッディ子爵は以下の連合王国貴族の爵位を授けられることとなった。
  • 初代アマーダン公爵(1th Duke of Amadan)
  • 初代チェリー侯爵(1th Marquess of Cherry)
  • 初代グッディ伯爵(1th Earl of Godiy)
  • 初代ポッシュ伯爵(1th Earl of Posh)
  • 初代ポッシュ子爵(1th Viscount of Posh)
  • 初代ダンディー州のアマーダンのミーチャン男爵(Baron meychan, of Amadan in the County of Dundee)

なお、2020年1月1日以降、アマーダン公爵の法定推定相続人はチェリー侯爵を儀礼称号とし、その子はポッシュ伯爵を儀礼称号とする。
これらすべての爵位については、1790年に定められたグッディ家への特許状に基づいて、男系の男子のみが継承することとされる。

各支族に対して授与されている爵位もある。これらはグッディ家のそれとは異なり、特別継承規定によって男子優先長子相続となる。
このため、まず男系で相続され、男系が途絶えた際には女系で相続し、後に再び男系で相続することになっている。
各支族の支族長の爵位については、2020年1月1日付で以下のようになっている。なお初代とあるのは同日付で叙爵される爵位である。
  • ガンピール支族長
    • 連合王国貴族である、初代ガンピール子爵(1st Viscount of Gampir)
    • グレートブリテン貴族である、第11代アマーダン州のアマーダンのガンピール男爵(11th Baron Gampir, of Amadan in the County of Amadan)
  • シミュル支族長
    • 連合王国貴族である、初代シミュル伯爵(1st Earl of Symul)
    • グレートブリテン貴族である、第10代アマーダン州のアマーダンのシミュル男爵(10th Baron Symul, of Amadan in the County of Amadan)
    • 連合王国貴族である、第5代カバナー男爵(5th Baron Cabiner)
    • 連合王国準貴族である、第6代シミュル准男爵(6th Baronet Symul)
  • ラドシャ支族長
    • 連合王国貴族である、第4代ラドシャ男爵(4th Baron Landqsh)

テック・カバナー家

アメリカ四大財閥の筆頭に数えられることもあるカバナー財閥は、現在では手野グループの北米担当である。
また、一族によって米国マサチューセッツ州プリマス郡カバナー市の市長をほぼ独占している。
元々は1630年にオランダからの植民船によってアメリカのマサチューセッツ湾植民地へとやってきた。
医師として働く傍ら、現在ではボストンの南にあるカバナー湾と呼ばれる港湾の村長になった。
この植民地へ初めてきたテック・カバナー一族の長を、初代テディ・テック・カバナーとしている。
当時の資料によれば、村長として日々の業務の日記をつけていたようだ。
1770年代には、大陸会議に出席し、植民地からの代議員の一人として名を連ねた。
第6代テディのころの話である。
しかしながら、7代目からは、政治への興味を失い、代わりに貿易や漁業といった産業へと注目するようになる。

1800年にはいる頃、一つの工場を作ることとなる。
今では国指定史跡とされているカバナー瓶詰工場である。
これは、水揚げしたての魚を油に漬けて、瓶詰したもので、味は保証できない品物であった。
それでも、飛ぶように売れたため、これで蓄財をすることとなった。
1810年にはカバナー湾全体の経済を支配するようになった。
また、1815年には工場を増やし、会社を設立することとなる。
これが、現在に残っているカバナー食品となる。
この食品会社は、テック・カバナー兄弟と呼ばれたテディ・テック・カバナーとノエル・テック・カバナーの二人が設立したこととされている。
テック・カバナー財閥の社史の冒頭は、この食品会社の説明で始まるのは、ここを端緒としているためである。
テディ・テック・カバナーはテディ流、ノエル・テック・カバナーはノエル流と呼ばれるそれぞれの家系を形成し、兄であるテディ流が本家のような扱いを受けることとなる。

食品会社は発展をつづけ、カバナー湾は小さな漁村から大規模な工場が港に立ち並ぶ漁港へと発展を遂げる。
街の基盤を作り、教会を作り、そして新たな産業を作ることとした。
軍である。
他の地域からも一目置かれるようになると、羨望の的となると同時に、やっかみも増える。
その守りをするために、自ら武器を持ち、自衛するための組織が必要となった。
今の手野武装警備の姉妹会社であるテック・カバナー総合軍事会社のはじまりである。
1841年に設立された当時にはテック・カバナー自主防衛組合という名前であった。
自主防衛組合のための教育機関として、テック・カバナー軍事教練学校が作られ、さらに整備された。
この防衛組合に武器類を供給するための会社として、テック・カバナー軍需工場が設立される。
この時、港から物資を水揚げし、軍需工場までの間を輸送するためのショートラインが設立され、これが現在のアメリカコンチネント鉄道へとつながる。

1830年、イギリスに支社を置くため、ノエル流はロンドン内に支社を構えることとなった。
この支社はグッディ子爵が持っていた土地建物を間借りしていたものであったが、グッディ子爵が資金繰りに困ると、金を貸す代わりに土地建物の権利一切を譲るようにした。
現在、この地にはテック・カバナー百貨店と呼ばれる大規模な商業施設がある。

テック・カバナー財閥として繁栄をするためには資金が足りないと考え、さらに立法措置が必要とされた。
ここで当時の当主テディ流5代目が弁護士の資格を取り、さらに政治家としての道を歩むこととなる。
連邦議会下院で議席を持っていたテディの家系は、テック・カバナー財閥の繁栄のため、数多くの名政治家を輩出することとなる。
一方資金を調達するための才能はノエル流4代目が最も優れていた。
大資本家として銀行を設立し、さらに多くの企業へと融資を続け、支配を強めていった。
これがノエル流が企業家として発展をするきっかけとなる。
それまで協同して一つの事業を行っていた2つの嫡流であったが、ここで同じ目的のために別々の場所で動くこととなる。

テディ流は、1860年にはマサチューセッツ州州議事堂横にオフィスを構え、州議会下院議員として勤務していた。
主に、テック・カバナー財閥などの産業保護、税制の優遇措置、州法の制定といったものに尽力していた。
大企業擁護を主としていた一方で、大量の従業員や雇用、解雇などの諸条件についても、従業員側が有利になるように働きかけていた。
安定した雇用は、安定した生活へとつながり、それが安定した購買になると信じているからだ。
その気持ちはノエル流も変わらないようで、10年間の雇用確保と、以降もできるだけ長期にわたる継続雇用ということを打ち出した。
ただし、このことは当時の政党から反感を買うことになり、無所属として出馬し続けることとなる。
このことは、今もさほど変わっていないが、テディ流の一族がテディ一族となり、複数人の集団をつくることができるほどになると、政治集団として認識されるようになる。
この集団はカバナー党とも呼ばれる政治集団を形成しており、主に労働者権利の保護の立場からの発言をしており、幅広く一定の支持者がいる。
なお、集団の名称は、公称としてはない。そのため、カバナー党と呼ばれるのも通称に過ぎない。
テディ流は1891年にテディ家と名を変え、テック・カバナー家の政治部門として動くようになった。

一方のノエル流は、1860年のテディ流のオフィスの建物を保有し、さらなる資産の構築を目指した。
全米の津々浦々にテック・カバナー財閥の企業が設立され、全米をつなぐように鉄道が敷かれることとなった。
この鉄道が、現在のアメリカコンチネント鉄道である。
また、イギリス支社に出向していたノエル流の子孫であるマークは、グッディ氏族の一つ、シミュル支族の支族長シミュル・ガンビーと結婚することとなる。
なお、ガンビーと結婚したことにより、米国籍を放棄し、英国籍となる。
鉄道とともに、アメリカ・カナダ全域へ食品を販売するための小売業を行い、さらに全国へと販売店を設置した。
これらのために鉄道を主とする運送業を開始し、それは鉄道部門の一部門とされ、今も存続している。
ノエル流は1891年までにノエル家として名を変え、テック・カバナー家の事業部門として動くようになった。

テディ家、ノエル家ともに当主がいる。
しかしながら、通常手野家、砂賀家、グッディ子爵家とともに当主として呼ばれるのはノエル家当主である。
テディ家は商業から政治へと足を踏み入れたがために、彼らとは一線を画すこととなり、そのためにテディ家当主はテック・カバナー家の当主として認められることは少ない。
ただし、政治からの視点でいけば、ノエル家よりも優位にあるため、政治的な話題についてはテディ家が当主として扱われることが多い。

1900年、春雷会から海外へと目を向けるべきという意見により、春雷会から手野財閥の販路拡大を期してアメリカ並びに英国へと人員が派遣された。
それを受け入れたうちの1人がテディ家であった。
他の者よりも、テディ家は後発にいたと、テック・カバナー家総合博物館所蔵の古文書類に記している。
当時の米国へと派遣された春雷会代表の日記によれば、後発組の1つであった日本の、さらに首都以外にある財閥とあれば、見向きもされなかっただろうが、テディ家は迎えてくれたとある。
そこでテック・カバナー家と手野家が協力体制にはいることとなった。
米国の第1支社は日本に近いほうが良いだろうということでロサンゼルスに、第2支社は東海岸のカバナー市に設置された。
それぞれ、手野財閥の出先企業となり、テック・カバナー家が所有する建物に入居することとなった。
一方、賃料はテック・カバナー財閥の出先企業を手野町などに設置することとなり、それぞれ相殺することとなった。

1907年、ノエル家当主の三男と手野家当主の二女が結婚することとなった。


その他

その他の項には、現在与えられている栄典としての名誉称号及び上記に記していない家系その他を記す。

鉄砂家

その他の家系として、砂賀家から名をもらった鉄砂家がある。
鉄砂家は、古くは大和国にいた鉄(くろがね)家と呼ばれていた一族で、鉄工集団である。
鉄家は、奈良時代に、一つ目の身長が10尺はある巨人から鉄の扱い方を学んだとされている。
この巨人は、今では鉄一目神(くろがねのひとつめのかみ)としてあがめており、それは天目一箇神と同一視されている。
なお、この神は、岡山県砂賀町において、鉄金神社(くろがねじんじゃ)で祀られている。
この名前から、鉄流(くろがねりゅう)とも、後の苗字となる名前から鉄砂流(くろすなりゅう)とも呼ばれる鉄工集団と発展する。

1200年代に砂賀家に招聘されて、今でいう岡山県へとやってくると、砂賀家及びその家臣団の専門の鉄工職人となった。
守護大名となった砂賀家は、自らの刀をはじめとして、身の回りの品をほとんどを鉄家に頼み、さらに苗字を書出し、砂の字を与えた。
これは、砂鉄が非常に重要な製鉄の資源であったことが理由とされているが、定かではない。
これをもって、鉄砂(くろすな)一族が生まれることとなった。
なお、鉄砂当主が、砂賀当主の持ち刀を鍛造することとなっており、それはいまだに続いている。
この招聘時に初めて造った刀は、今は手野総合博物館の所蔵品となっており展示されている。
銘を『初砂(はつすな)』と称しており、中反りの大太刀である。
なお、旧国宝、重要文化財を経て、2010年に国宝に指定されている。

1393年には、砂賀家として生まれた男児の守り刀を鍛造するようになる。
守り刀は現在に至るまで複数が残されている。
戦死したと推定される者については、墓所にともに埋葬せずに、位牌とともに祀られたためである。
これら以外は埋葬とともに、埋められることになっていた。
最古の守り刀は1451年の、当時の筆頭家老宛てのものが残されており、刃渡り6尺の短刀である。
この守り刀はレプリカが手野総合博物館に所蔵されている。

鉄流は、茎に銘を篆刻することが多く、その際には鉄の一字を刻み、そのうえで自らの名を一字刻み、最後に刀剣の名を刻むこととなっていた。
このため、鉄流の刀剣はその銘を判別することが分かりやすく、銘を刻んでいないものは少ない。
また、初砂の鍛造以後のほぼ全ての刀剣その他の記録が残されているため、少なくとも誰のために造られたものなのかが判明している。
その記録類は砂賀家に保存されており、今は鉄砂鍛剣文書(くろすなたんけんもんじょ)としてまとめられている。
この文書は、国指定重要文化財とされている。

1500年になり戦国の世となると、砂賀家が周囲からの圧迫を受けるようになる。
そのため武装を強化するために多数の刀剣や槍などを鍛造するようになる。
このころの有名なものとしては、『蝉突(せみつき)』と呼ばれる槍、『磐砕(いわくだき)』と呼ばれる大刀がある。
蝉突は飛んでいる蝉を一突きにしたことから、磐砕はためしとして庭にあった巨岩を砕いたことから名付けられたとされている。
それぞれ、国指定重要文化財となっている。
1548年には鉄板を編み上げることによる甲冑を作成した。
これは、刀として使うことがなかった金属類をつなぎ合わせることによって作られ、重さは甲冑だけで50kgとなる。
実用に不向きとされたため、実戦使用はされなかったようだが、『鉄甲冑(くろがねかっちゅう)』と称し、現在では国宝となっている。

1600年代となり江戸時代へと入ると、太平の世となる。
刀剣や甲冑類の仕事が減り、暇になった鉄砂家は、面白半分に砂賀家へと収めるための小物を作り出した。
鉄小物(くろがねこもの)と呼ばれるものは、当主はたいそう気に入り、それを家臣団らへと下賜することもよくあった。

1707年、砂賀家臣団と名乗る偽物が出現。
強盗として捕まった者が、質流れ品を使っていたことから、鉄小物を使った証書を作ることを、当主から依頼される。
翌年にその小物は完成し、当主へと一つ目が納められた。
それが大変に好評であったことから表に砂賀家の家紋、裏に作成の年月日と自らの家紋、氏名を刻んだものを砂賀家中団の証書とすることを決定。
この最初に作ったものは、宝永五年閏一月二十三日(1708年3月15日)と彫られており、当時の砂賀家当主の名が彫られている。
なお、裏は砂賀家の替紋が彫られている。
これについては、鉄小物の証書となっているため、鉄証書(くろがねしょうしょ)あるいは鉄証(くろがねのあかし)と呼ばれる。
1つ目から連番で作られ続け、今も春雷会の一員となったときに作られることになっている。
鉄証書冊子にその番号、作成年月日、作成時の砂賀家当主の名前、作成先の相手の名前、作成時点の官位官職、その他雑記がなされている。
この鉄証書冊子は砂賀町指定文化財となっているが、今も作られるたびに当時と同じように冊子にその情報が綴じられている。

鉄小物については、さらに一般に頒布されるようなものも作るようになった。
これに対して砂賀家は独占販売権を与え、鉄器製造はすべて鉄砂家及びその支配下にいる鍛冶において行われることとなった。
刀治場(とうじば)と呼んでいるその中心施設は、その名の通り刀剣類の鋳造のために使われたところで、ここで鉄砂家や砂賀藩内の鉄器製造の一切が決定されることとなった。
なお、1792年に刀治場として作られた建物は、今も現存しており、今なお刀剣製造の場所として使われている。
砂賀家や春雷会のメンバー、手野家、その他春雷会の承認によって鉄砂家が造る守り刀は、この刀治場において造られる。

1876年3月28日において廃刀令が発布され、施行されると、刀剣類の鍛造はごく少数となる。
そのため、以前から作り続けていた鉄小物に注力を注ぐこととなり、すでに作っていた小物類、鉄証書などのほかにも、彫像や台座、胸像といった大型のものにも手を出すこととなる。

1890年に帝室技芸員制度が発足すると同時に、鉄砂家当主が帝室技芸員として選任された。
さらに、1899年に鉄砂家当主に対して男爵が授けられた。
これは、今までの政府へ対する貢献が評価されたとされる。
また、帝室技芸員として、数振りの刀剣を作成した。

1905年、日露戦役の功により、砂賀家臣団筆頭家老役が元帥陸軍大将となる。
ここで、元帥刀の作刀が政府より命ぜられ、鉄砂当主が自ら作刀した。
それ以後、砂賀家、手野家、春雷会会員が軍の親補職あるいは親任官に補職された際に、作刀などを担当することとなった。
そのため、砂賀家から元帥陸軍大将が3人、手野家から元帥海軍大将が1人、春雷会会員から元帥海軍大将が2人、元帥陸軍大将が3人でているが、これらすべての作刀は鉄砂家に下命されている。
同年にはアマーダン騎士団の騎士団長であるグッディ子爵と砂賀テルの結婚により日本刀一振りをグッディ子爵へ献上。
この日本刀はそのまま騎士団長から騎士団副長へと下賜されることとなり、以後、騎士団副長が入れ替わるときには日本刀を献上する慣例ができた。

手野財団賞が設立され、鉄小物がその正賞となり、その作成が鉄砂家に一任されることとなった。
鉄小物は、その美しさから、美術品価値がでている。

鉄砂家当主は新設された文化勲章を1938年4月29日に受勲した。

1945年、終戦と同時に元帥を筆頭とする陸海軍が解体されると元帥刀の作刀命令はなくなる。
そのうえ、守り刀のような刃物を作ることがGHQから直接禁止するようにと命令された。
しかしながら、刀としない刃物を民生用として作成することは条件付きで許されることとなる。
この条件とは、以下のようなものであった。
  • 海外への輸出品であること、かつすでに購入契約が結ばれていること
  • 国内用の場合は、すでに購入契約が結ばれていること、かつ刃渡り8cm未満であること

海外用の場合は刃渡りの制限がない代わりに、美術品としての作刀となる。
また国内の場合は刃渡りの制限があり、さらに年15件までという作刀制限が設けられた。
もっとも、最近の主流としては鉄小物であったため、作刀制限があってもさほど問題はなかった。

刀剣の作刀制限がなされていたが、真の日本刀という触れ込みで作刀を要請する者は後を絶たなかった。
そのため、1952年には予約限定で一般の作刀を再開。
ただし、それでも鉄砂家が創りだす日本刀は評価が高く、しかし作刀には時間がかかることもあり、月に2振りが限界であった。
これらの間であっても、アマーダン騎士団への騎士団副長の日本刀の献上は特例として作刀制限外として認められていた。

1960年に入り、鉄砂家は独立した鉄砂鍛刀所として株式会社となる。
この株式は、鉄砂家当主が20%、従業員持ち株会が20%、砂賀家当主が10%、手野家当主が10%、春雷会が40%という割合となる。
従業員持ち株会は、鉄砂鍛刀所に雇用される従業員が入ることができる持株会である。
また、のちに春雷会の株式の一部を手野重工業へ売却し、春雷会が10%、手野重工業が30%となり、手野重工業の子会社となった。

1980年、鉄砂鍛刀所は、初めて公募により刀工希望者を募集した。
今までは、刀工の子孫やその紹介によって刀工を確保していたが、徐々に減りつつある刀工希望者によって、今後の確保が困難になると判断したためである。
なお、公募は数年に1回のペースで現在も行われており、毎回10から7名程度の人数を受け入れている。

2000年までに、鉄砂鍛刀所は大師匠、師匠、刀工、見習いの4段階に階級を整理した。
大師匠はさらに筆頭大師匠と大師匠に分けられるが、筆頭大師匠は鉄砂家当主が代々つくこととなっていた。
また大師匠以上は役員として遇され、師匠以上で作刀委員会を組織する。
作刀委員会は2000年に新たに作られた組織で、これまで鉄砂家当主が決定していた刀の階級を委員会の審議によって決定することとなった。
これにともなって、鉄砂鍛刀所で作刀された日本刀は極上物、最上物、上々物、上物、中物、以外物として分類されることとなった。
なお、この分類は、2000年以降新たに造られた日本刀に対して適用されるため、これまでの刀はこれまで通りの分類となる。

絃時家

絃時家(いとどきけ)は藤原家成立前後と時を同じくして成立した摂関家の一つである。
その始まりは飛鳥時代にまでさかのぼり、藤原不比等のころにはすでに成立していたと記録がある。

郁芳家

郁芳家(いくほうけ)は嵯峨源氏の大臣家である。
家名である郁芳とは、大内裏の門の名から採ったとされる。
源直流嵯峨源氏であり、極官は太政大臣であるが、実際に受けた官職としては4名を除き右大臣が最高である。
現在では極位極官は従一位右大臣とされる。また、正官の大納言を世襲し、そのことから当主となった際に大納言殿と呼ばれることもあった。
2010年、当主が書庫整理として蔵を空けた所、地下室があることが判明。
そこにあった古文書から砂賀家の祖となることが判明した。

氏祖とされるのは、源常の子の源直の孫の源要とされる。
900年ごろに郁芳門そばに家を構え、それを氏族の名とすることとした。
家業としては和歌、装束、有職故実である。
現在の手野市の領域に郁芳郡があり、そこを所領とした。
石高は250石である。

950年、寄進を受けて、砂賀町の領域に一致するように支配するための代官を派遣するようになる。
西郁芳郡と呼ばれるようになる。
後、単に郁芳郡と呼ばれるようになる。

1000年前後にいた当主である郁芳為貞(いくほうためさだ)は郁芳文書と呼ばれるようになる日記を書くようになる。
この日記は、日付、出来事、天候、日々の雑記や仕事の愚痴、話のやり取り、メモ、天候、さらに鶯の初鳴き、梅と桜の初咲の日、紅葉の日のほかにも、所領の話が月に1回ほど記されている。
多少かけているところがあるとはいえ、以後の当主は現在までの約1000年間にわたり日記を書き続けており、その内容はほぼ変わっていない。
また、所領となっていた郁芳郡にはその書類の保管蔵が造られ、一部のものはそちらに保管され続けている。
保管蔵は郁芳保管蔵とされ、手野市指定の文化財となっている。
中心となっているのは、1400年ごろに作られた郁芳家住宅内にある蔵で、一ノ蔵、二ノ蔵、三ノ蔵の3つがある。
ちなみに、2010年の書庫整理の際に地下室があることが判明したのは三ノ蔵である。

1099年、郁芳家として、5代郁芳貞定(いくほうさださだ)がはじめて従二位内大臣となる。
これは、貞定の娘が女御として入内したためとされる。
以前は全員が正三位参議、大納言となっていたが、これ以来、従二位あるいは正二位となるのが通例となり、内大臣が極官となる。
また、6代越貞(こしさだ)が続けて従二位内大臣となることをもって大臣家として遇されるようになる。
さらにこの時家紋をつくることとし、下りカズラを定めた。
同時に通字として貞の字を使うことを決めた。
家紋と通字については、今も守られており、900年以上継がれてきている。

1131年、郁芳家は代官として庶流である郁芳行内(いくほうぎょうじ)を派遣した。
出発前、行内からの申請を受けて、氏を源、姓を真人とすることを上奏し、裁可を受けた。
また、苗字を改め、砂賀と名乗ることとした。
ここに郁芳行内改め砂賀行内となり、砂賀家が誕生することとなる。
なお、この苗字の由来としては、郁芳家文書によれば、砂は数多いという意味で子孫繁栄を、賀は寿ぐことであるとされている。
すなわち、分家として独立することを祝い、子々孫々が栄えるようにということとなる。

郁芳家は大臣家の家格となり、後には以下のように大臣に叙されることとなる。
太政大臣
11代貞家(さだいえ)
左大臣
8代義貞(よしさだ)、10代公貞(きみさだ)、24代貞織(さだおり)
右大臣
7代宗貞(むねさだ)、9代長貞(ながさだ)、12代実貞(みつさだ)、13代貞永(さだなが)、17代貞鶴(さだつる)、18代仲貞(なかさだ)、21代光貞(みつさだ)、27代鉦貞(かねさだ)、28代恒貞(つねさだ)、29代萠貞(もえさだ)、33代貞路(さだみち)、35代貞松(さだまつ)、38代鳥貞(とりさだ)

さらに、太政大臣は正一位を、左大臣は従一位を、右大臣は従一位あるいは正二位が授けられた。
また、6代以降、全ての者が大納言を本官、参議を兼官とし、正三位の叙位となり、内大臣となると同時に従二位となることとなった。
なお、内大臣にならない者は位階があがっていき、おおよそ40台後半の時点で従一位准大臣となった。
60歳に官職を辞し、前大納言となり、従一位となることが通例となった。
なお、24代、33代については死後正一位が贈られた。

南北朝時代には、郁芳家も分裂し、分家とされる南郁芳家、本家とされる郁芳家に分かれた。
南郁芳家は南朝方につき、吉野へと下る。
そして南朝の各天皇の補佐として信頼を勝ち得た。
南郁芳家は後亀山天皇が出家すると同時に出家し、大覚寺へと入山する。
1400年代中ごろに南郁芳家は男系としては途絶えたが、女系の血統として今も存続をしている。

郁芳家は代々、郁芳門そばに居を構えた。
現在の郁芳家住宅は、標準的な大臣家の邸宅として知られ、天明の大火により焼けたため改築されたものである。
天明8年2月11日にはすでに焼け跡を整理していたようで、蔵を中心として、現在知られる形になっていた。
一ノ蔵には代々当主が継承する祭祀類や物品類が保管されており、日々の雑記は二ノ蔵、三ノ蔵に保管されている。
雑記類などは蔵に保管されていたため、焼けずに残り、そのために1000年前後からの代替わり前後を除くほぼすべての日付の日記が現存している。
なお、現在の京都御所には郁芳門はないが、南西方向に居を構えている。
これにより、御所の裏鬼門を守る家としても知られるようになった。
南北朝のころ、現在の京都御所に御所の機能が移転したのちに、現在地へと居宅を移転した。
ただし、1300年にはすでに一部は移転していたようで、1400年までに以前の居宅地は別荘のように使われていたようだが、応仁の乱の前後に放棄したようである。
現在の郁芳家住宅は、そのような理由もあり、京都御所の南西、冷泉家住宅の1.5倍ほどの面積がある。

明治維新が果たされた際、当時の当主第38代従一位行左大臣であった郁芳鳥貞は、明治新政府から江戸改め東京へと向かうように命じられた。
家財を見ず知らずの土地に持っていくことを憚った鳥貞は、息子のうち、長男を自らの嫡子とし、次男を分家として西郁芳家とすることにした。
京都にある郁芳家住宅、家宝の一切、その他東京に持っていくべきではないとしたものについては全て西郁芳家に下げ渡した。
本家は通称として東郁芳家と呼ばれるようになったが、正式には家名を変えていない。
東郁芳家は、大臣家であるということが考慮され、後に伯爵位が与えられた。
また、西郁芳家に対しては維新後の分家ということにより男爵位が与えられることとなった。
なお、東郁芳家は、郁芳家の本家ということで、郁芳本家とも、ただ本家と呼ばれることもある。

東京へと移った郁芳家は、関東大震災によって家宝の一部を滅失することとなったが、その丁寧な写しが西郁芳家内に保管されていたため、そちらを使うということになった。
東京大空襲によりその写しも被災したが、1960年代に、写しを作成する際の設計図が発見され、それを基にして新たに作成された。
なお、これら家宝については、戦後造られたものをのぞき、不必要なときには手野総合博物館に展示、保管されている。

東郁芳家は戦後も東京池袋にある郁芳家住宅に住み続け、現在も同じところに居を構える。
西郁芳家は明治に分家されて以来、継続して京都の郁芳家住宅に住み続けている。
ちなみに、東郁芳家は、大納言の正官であり続けたため、大納言殿と呼ばれることがある。
東郁芳家の郁芳家住宅は、1946年に再建され、東京大空襲で焼け残ったものと含めて、月に数回、予約が必須ではあるが公開されている。
なお、一部の建物については、文化財として指定されているものもある。
特に京都にある郁芳家住宅は、公家住宅として重要文化財に指定されている。


ダベン家

ダベン家はアマーダンから船で6時間ほど離れたところにある島の領主を務めている。
陸地からはおおよそ170km、面積270.19平方キロメートルのダベン島にはおおよそ8万人の人口がある。
観光地となっている遺跡や鉱山跡などのほかに、ダベンポート海軍基地がある。

バイキングに起源をもつ旧ダベン王国は1280年にグッディ卿により征服され、スコットランド国王へ島は献上された。
その直後にグッディ卿に下賜され、グッディ領とされた。
グッディ卿は代官としてラドシャ支族長を派遣しようとしたが、その代理としてジェームズ・ラドシャを派遣することとした。

遠隔地であるダベン島に赴任したジェームズは、現地ではダベン領主としてふるまった。
それはとがめられたが、複数回グッディ卿が兵を派遣した者の全て追い返すことに成功したことにより黙認されることとなった。
さらにはスコットランド国王からもダベン領主と名乗ることが許されるようになり、スコットランド貴族のラドシャ男爵に叙された。
この前後、ダベン王国の生き残りの元王女と結婚した。
ラドシャ男爵は先代の男子にその継承がなされることとなっていた。

1340年、第3代ラドシャ男爵の際にダベンポート伯爵として叙爵を受けた。
このころ、グッディ卿とラドシャ支族長から連名で一族からの絶縁が宣言された。
ここでラドシャの姓を捨て、新たな氏族であるダベンとした。
結果、初代ダベンポート伯爵、第3代ラドシャ男爵はポール・ラドシャからポール・ダベンとなった。
なお、ダベンポート伯爵については初代の直系男子への継承がなされることとなっていた。

1500年、第7代ラドシャ男爵を最後に、ラドシャ男爵位は断絶する。
一方、第6代ラドシャ男爵の弟にダベンポート伯爵の地位は継承されることとなった。
ここで、第5代ダベンポート伯爵となる。

1530年、以前から北方の要となる軍港を探していたとき、天然の良港として名高かったダベンポートにその居を構えることとなった。
ダベンポート海軍基地の始まりである。
このとき、第6代ダベンポート伯爵は、ダベン島全土を領有している領主であったため、英国国王に対して使う場合の地代を請求した。
それが認められ、以後、英国政府がその借地料を支払っている。
ダベンポートへは軍艦2隻を提供し、ヘンリー8世へと適示差し出すこととなった。

1660年、第9代ダベンポート伯爵は王党派として活躍し、ダベンポートにあった艦隊を派遣した。
この年、さらに私掠船免許を取得することができ、自身の軍艦を私掠船として活動させた。
これらを原資として、宮廷内に一定の地位を築き、保つことができるようになった。
さらに、ダベン島全体も開発を行いはじめ、牧畜や農業のみでなく、新たに発見された鉄鉱山から鉄を精錬し大もうけをした。
これら以外にも、ダベン島全体の地主としての地代収入などもあったため、安定して生活することができるようになった。

1710年、これまでの功績から第13代ダベンポート伯爵はグレートブリテン貴族であるダベンポート公爵、およびダベン男爵となった。
これにともなって、ダベンポート伯爵、ダベン男爵はそれぞれダベンポート公爵の従属爵位と去れ、伯爵は公爵の法定推定相続人が名乗る儀礼称号となった。
さらに、ダベンポート伯爵はダベン島領主と同一の地位があることが認定された。

サクラ騎士団

1930年、当時の英国国王の勅許により設立される。
この際、勅許の条件の一つとして、特定の教会守護があり、『St.POSH教会のためのサクラ騎士団』と呼ばれることもある。
世俗騎士団の一つであり、主催者は常に英国元首となる。
サクラ騎士団は司令長官、司令官、司令、幹部並びに団員、及び名誉司令、名誉幹部並びに名誉団員の地位に分類される。
司令官は常にグッディ子爵がなる。
司令はグッディ子爵が任命した者であり、名誉司令は司令のうち英国籍を有さない者がなる。
幹部並びに団員についてはグッディ子爵及び騎士団幹部会が認めた者であり、名誉幹部並びに名誉団員については英国籍を有さない者がなる。

設立当初は名誉司令、名誉幹部はなかった。
1960年、名誉幹部の地位が新設され、1980年に名誉司令の地位が新設された。
2001年1月1日より、定員の変更はない。
2020年1月1日時点では、以下の表の通りとなる。
正式称号 日訳 対象者 定員
Grand Chief Commander of Order of the Cherry サクラ騎士団司令長官 英国元首(国王あるいは女王) 1名
Chief Commander of Order of the Cherry サクラ騎士団司令官 グッディ子爵 1名
Commander of Order of the Cherry サクラ騎士団司令 グッディ子爵が任命した者 50名
Officer of Order of the Cherry サクラ騎士団幹部 グッディ子爵及び騎士団幹部会が認めた者 250名
Members of Order of the Cherry サクラ騎士団団員 1250名
Honorary Commander of Order of the Cherry 名誉サクラ騎士団司令 グッディ子爵が任命した者
英国籍を有さない者
50名
Honorary Officer of Order of the Cherry 名誉サクラ騎士団幹部 グッディ子爵及び騎士団幹部会が認めた者
英国籍を有さない者
250名
Honorary Members of Order of the Cherry 名誉サクラ騎士団団員 1250名

アマーダン騎士団

紀元前1世紀ごろに、ローマ帝国の進軍を抑えるためにカール・グッディを首領とする、現在でいうところの騎士団が組織され、ゲリラ的展開をとった。
その組織された場所の名をとってアマーダン騎士団と呼ばれる。

西暦500年ころには、グッディ男爵の騎兵団となっており、800年ごろに独自の連隊として成立したとされる。
騎兵連隊として、その後歩兵部隊も追加して保有することとなった。

子爵となってからは、アマーダン騎士団として成立した。
騎兵隊1個大隊、歩兵相当2個大隊を持つ騎士団であった。
独自の騎士団を持つにあたり、男系で世襲しなければならないという条件が付けられ、それは現在も有効だとされている。
それにより、アマーダン騎士団長はグッディ子爵となったが、一方で後にはスコットランド国王、さらには連合王国首長が主催者とされた。
なお、実質的な主催者としては、グッディ子爵がその地位にいる。

1661年に正式に発足したものとされ、以後アマーダン騎士団として陸軍連隊の一つとされる。
1730年、陸軍の一連隊としてアマーダン騎士団は陸軍と分離し、名誉の世俗騎士団となった。
以後の陸軍の連隊はアマーダン連隊と称することとなった。

英国国王あるいは女王の殿部隊としては、半年はアマーダン騎士団が、残り半年はアマーダン連隊が担当することとなっている。

1905年、グッディ子爵と砂賀テルの結婚に伴い、鉄砂家から日本刀一振りがグッディ子爵へと献上され、騎士団副長へと下賜される。
以後、騎士団副長が入れ替わるたびに、その者へ日本刀一振りが献上されることとなる。

2020年時点の定員は以下の通りとなっている。
正式称号 日訳 対象者 定員
Grand Chief Commander of Order of the Amadan アマーダン騎士団司令長官 英国元首(国王あるいは女王) 1名
Chief Commander of the Amadan アマーダン騎士団司令官 グッディ子爵 1名
Commander of Order of the Amadan アマーダン騎士団司令 グッディ子爵が任命した者 25名
Officer of Order of the Amadan アマーダン騎士団幹部 グッディ子爵及び騎士団幹部会が認めた者 125名
Members of Order of the Amadan アマーダン騎士団団員 625名
Honorary Commander of Order of the Amadan 名誉アマーダン騎士団司令 グッディ子爵が任命した者
英国籍を有さない者
25名
Honorary Officer of Order of the Amadan 名誉アマーダン騎士団幹部 グッディ子爵及び騎士団幹部会が認めた者
英国籍を有さない者
125名
Honorary Members of Order of the Amadan 名誉アマーダン騎士団団員 625名

騎士団長は騎士団司令長官が、また、騎士団長補佐として騎士団司令官がそれぞれ就く。
役員としては騎士団副長が実務を司る。
騎士団副長は騎士団司令のうち、騎士団長補佐が騎士団長へ推薦し、騎士団長が任命する。
また、騎士団司令のうち役員として、宗務長官、騎士長官、管理長官を騎士団副長が騎士団長補佐へ推薦し、騎士団長補佐が任命する。
ただし、宗務長官は騎士団以外から選任することも可能となっており、現在まで騎士団員以外で選任されているのはPOSH教会の司教が就いている。

なお、2025年ごろをめどとして、騎士団司令以上をナイト爵とすることが検討されている。

アマーダン連隊

アマーダン連隊は、現在のイギリス陸軍地域軍直轄の連隊の一つである。
1730年、勅令によりアマーダン騎士団から分離して編成された。
当時は2個歩兵大隊、1個竜騎兵大隊、1個鼓笛隊分隊及び司令部であった。
また、同時に議会から10年ごとに承認が必要であるとされ、以後下一桁が0の年に議会が継続して連隊設置の承認を行っている。
1800年、人員拡張にともなって、2個歩兵大隊、1個騎兵大隊、1個竜騎兵大隊、管理中隊が設置される。
さらに、1820年になると3個歩兵大隊、2個騎兵大隊と広がった。
それぞれ、管理中隊内に鼓笛隊が組織されることとなっている。
しかしながら、のちに本家が借金まみれとなり、徐々に数を減らさざるを得ない状況となる。
それでも、1850年には1個歩兵大隊、1個竜騎兵中隊、1個騎兵中隊、1個管理中隊、1個鼓笛小隊があった。

1910年、手野財閥とのかかわりにより資金が潤沢となり、当初計画通りに4個歩兵大隊、2個騎兵大隊、1個竜騎兵大隊、管理大隊と編成が変更される。
そして、アマーダン連隊は師団規模を持つ連隊として知られるようになる。

第一次世界大戦では、軍の一連隊として出征しており、主に欧州戦線において任務に就いた。
詳細は、いまだに軍機とされているものがあるが、明らかになっているものとしては、主に斥候任務、基地防衛任務といった裏方に近いことをしていたようだ。
また、日本とアメリカのつながりを生かして、それぞれの部隊の受け入れ任務にも従事していた。

1925年、第二次世界大戦前最後の再編が行われ、以下の部隊を有するようになる。
  • 2個歩兵大隊
  • 2個遊兵大隊
  • 1個騎兵大隊
  • 2個竜騎兵大隊
  • 1個管理大隊
なお、管理大隊内に鼓笛中隊が組織され、連絡員として各大隊に鼓笛小隊が組織されることとなった。
各大隊附属の鼓笛小隊は、管理上は鼓笛中隊の指揮を受けることとされ、軍役上の指揮は各大隊長から受けることとなっていた。

第二次世界大戦中は、英国は日本と敵対していたこともあり、その日本に関する知識が必要とされ、主に英国情報部を中心とした情報収集部隊と、戦地に赴いて戦闘を行う実戦闘部隊に分けられることとなった。
主に歩兵大隊、騎兵大隊、竜騎兵大隊は実戦闘部隊に、遊兵部隊は情報収集部隊となり、管理大隊はそれぞれの役割を補佐するための2個中隊へと編成された。
管理大隊内には実戦闘部隊用の鼓笛小隊が置かれることとなっている。

第二次世界大戦後の1955年、再編成が行われた。
  • 2個歩兵大隊
  • 2個遊兵大隊
  • 1個騎兵大隊
  • 1個竜騎兵大隊
  • 1個管理大隊

以降も幾たびの再編成の結果、2020年時点では、以下のような編成となっている。
  • 3個歩兵大隊
    • 2~3個歩兵中隊または機械化中隊
      • 第一歩兵大隊儀仗中隊
  • 1個砲兵大隊
    • 1個戦車中隊
    • 1個砲兵中隊
    • 1個射撃中隊
    • 1個工兵中隊
  • 1個騎兵大隊
    • 1個騎兵中隊
    • 1個儀仗騎兵小隊
  • 1個竜騎兵大隊
    • 1個竜騎兵中隊
    • 1個竜騎兵小隊
  • 1個電子戦大隊
    • 1個通信中隊
    • 1個支援中隊
    • 1個攻勢中隊
  • 1個予備役大隊
    • 1個予備歩兵中隊
    • 1個予備砲兵中隊
    • 1個予備騎兵中隊
    • 1個予備竜騎兵中隊
  • 1個管理大隊
    • 1個鼓笛中隊
    • 1個管理中隊
    • 1個儀仗鼓笛中隊
  • 1個教育連隊
    • 1個歩兵教育大隊
    • 1個砲兵教育大隊
    • 1個騎兵教育大隊
    • 1個竜騎兵教育大隊
    • 1個電子教育大隊
    • 1個下士官教育大隊
    • 1個士官教育大隊

中隊の名称に儀仗とある部隊については、駐屯地はロンドン周辺にあるアマーダン連隊ロンドン駐屯地となる。総称してアマーダン連隊儀仗部隊とされる。
その他の部隊は、原則としてアマーダン周辺にある駐屯地において駐屯し、有事の際にはその周辺に展開することとなっている。
徴兵制の時代には、騎兵、竜騎兵、電子の各大隊を除き、アマーダン州あるいは同一の地域からの徴兵のみの補充となっており、そのため欠員が多くあった。
徴兵制度が消滅して以降については、英国全土から選抜して採用することとなっているが、アマーダン州周辺を優先するという制度になっている。
教育連隊は、グッディ子爵記念軍事学院において教育を行う。
教育連隊には、通常の英国陸軍とは異なる階級が設定されており、これらはそれぞれ志願兵の教育が行われる。
なお、教育の質は、通常の英国陸軍と異ならない。

アマーダン連隊は、現在も名誉連隊長(カーネル・イン・チーフ)をグッディ子爵としている。
なお、2020年以降、新たに爵位が創設されて以降については、アマーダン公爵及びグッディ子爵が名誉連隊長となることが決定されている。
これらの爵位については、同一人物が襲爵することになるため、実質的にはこれまでと変わる所はない。

アマーダン連隊の階級については、以下のように定められている。
なお、この階級についても10年ごとの議会の連隊設置承認と同時に更新されることとなっている。
以下の表については、幹部のみを記すものとする。
役職名 階級 説明
カーネル・イン・チーフ
Colonel-in-Chief
名誉英国陸軍元帥
Honorable Field Marshal
グッディ子爵
アマーダン連隊長
Amadan Regiment of Chief
少将
Major General
連隊指揮官
連隊長特別補佐
Amadan Regiment of Specialty Cheif Aide
名誉准将
Honorable Brigadier
紀州犬「手賀号」
Morgan Horse「Mr.Cabiner」
連隊長代理
Amadan Regiment of Surrogate Cheif
大佐
Colonel
連隊運用担当
連隊参謀長
Amadan Regiment of Chief of staff
大佐
Colonel
連隊付参謀
歩兵大隊長
1st,2st,3st Amadan Infantry battalion of Cheif
中佐
Lieutenant Colonel
第1、第2、第3の各歩兵大隊長
第1歩兵大隊長は連隊参謀長代理を兼務
砲兵大隊長兼砲兵参謀
1st Amadan Artillery battalion of Cheif
Amadan Regiment of Artillery staff
中佐
Lieutenant Colonel
第1砲兵大隊長
騎兵大隊長兼騎兵参謀
1st Amadan Cavalry battalion of Cheif
Amadan Regiment of Cavalry staff
中佐
Lieutenant Colonel
第1騎兵大隊長
電子戦大隊長兼電子参謀
1st Amadan Electronic battalion of Cheif
Amadan Regiment of Electronic staff
中佐
Lieutenant Colonel
第1電子戦大隊長
竜騎兵大隊長
1st Amadan Dragoon battalion of Cheif
中佐
Lieutenant Colonel
第1竜騎兵大隊長
管理大隊長
1st Amadan Management Unit of Cheif
中佐
Lieutenant Colonel
第1管理大隊長
予備役大隊長
1st Amadan reserve Unit of Cheif
予備役中佐
Reserve Lieutenant Colonel
第1予備役大隊長


家系図

家系図では、砂賀家手野家グッディ家テック・カバナー家の初代当主から現在までの名前、当主の期間を記す。

砂賀家

手野家

グッディ家

テック・カバナー家



最終更新:2023年05月22日 17:38