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【無音声ピアノソナタ】第二楽章/ラルゴ

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匿名ユーザー

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第二楽章/ラルゴ(幅広くゆるやかに)
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§3

 その日のうちに、みなみは『熱情』のピアノピースを買った。
 楽譜メーカーの判定した難易度は、当然のようにF。最高難度のランクを与えられていた。
 うきうきとした気持ちで、みなみはピアノ部屋に駆け込んだ。
 地下のガレージを改築したピアノ部屋は、みなみにとって居心地のいい空間だ。うちっぱなしだったコンクリート壁も基礎から壁材を塗り込んで、アイボリーの壁紙で暖かく仕上げられている。毛足の長い羅紗の絨毯はふわふわとしていて、みなみは裸足でそこを歩く感触が好きだった。備え付けのキッチンではお茶を淹れることもできるし、専用のサニタリースペースまである。
 よくここに籠もってピアノを弾いたものだった。一日中閉じこもって、ピアノを弾いたものだった。
 さすがに完全な防音というわけにもいかず、どうしても音がリビングやキッチンに漏れるけれど。母や、よく家に遊びにくるみゆきの母のゆかりにとっては、それはそれで喜ばしいことのようだった。
 着替えをするのももどかしかった。乱れた部屋着もそのままに、それでもオレンジペコーを丁寧に淹れて、みなみは書き物机の前にいそいそと座る。その白磁のような頬が、興奮に少しだけ朱に染まっていた。
 紅茶を一口飲んで、逸る気持ちを抑えながらみなみは楽譜を開く。
 新しい楽譜を開くときはいつだってわくわくする。新たな音楽に繋がるその瞬間は、早く起きた朝に感じるときめきと同じ物だった。
 今度も、みなみの胸にそのときめきは訪れた。けれど今回はそれと同じくらい、強い衝撃を受けたのだ。
 ――なんという美しい、そして緻密な曲なのだろう。
 その構成の巧みさに、眩暈すら感じた。
 あの日聴いた『熱情』は、とにかく激烈な感情に満ちていたという印象だったけれど。その荒れ狂う感情に芸術的感銘を与えていた原因は、この水も漏らさぬほど精緻な音楽的構成にあったのだ。
 五線譜に踊る音符は、さながら新造形主義の絵画のようですらあった。さすがにベートーヴェンの三大ピアノソナタと呼ばれるだけのことはある。みなみはそう思った。
 こんな曲を、果たして自分は弾けるのだろうか。
 ――きっと弾けない。私には、この曲が弾けない。
 けれどそれは、『水の戯れ』や『幻想ポロネーズ』をみたときも思ったことだった。そして今やその曲もみなみは自らのものとしていた。であるならば、この『熱情』もいつかきっと弾けるようになるはずなのだ。
 弾けないものを弾く。それがきっと、ピアニストというものなのだろう。
 ぱらぱらと楽譜をめくりながら、みなみは頭の中で自然とその曲を組み立てていた。楽譜をみるだけでも、頭の中でその曲を演奏することはできる。
 楽譜に書かれた音符と、頭の中で弾いた自分の演奏と、そうしてあの日聴いたかおるの音を重ね合わせてみた。
 その余りの違いに、みなみは我知らず顔を赤らめた。
 発想力、着想、そしてその楽曲理解。
 どれをとっても足下にも及んでいなかった。
 けれどそれは仕方のないことだった。楽譜をみただけでいきなりこの曲を弾きこなせるなら、それは正しく詩神の御業だろう。ホロヴィッツならぬ半人前のピアニストたるみなみは、少しずつ少しずつその階段を上っていくしかないのだ。
 第一楽章の中盤以降見せる大きな跳躍は、破裂しそうな緊張感を孕みながらも氷のような冷静さで弾ききらなければならない。
 第二楽章、短調から長調へと移り、たおやかな変奏曲を情感豊かに弾ききろう。
 そして第三楽章。再び短調に戻って。
 みなみはそこを見る度、頭を抱えそうになる。
 この旋律はなんだ。
 マグマのように煮えたぎる、この和音はなんだ。
 けれどもそこで吹き出してはならないのだ。激甚な感情を表出しながらも、あくまでも構成を見据えて溜め続け。
 そうしてプレスト。圧倒的な感情の爆発。
 ビッグバンのようなコーダ。宇宙が崩壊するときの音。
 それはまるで、クライマックスで全ての登場人物が死に絶える映画のようで。
 ――一体、どうやって弾けばいいのだろう。
 まるでイメージできなくて、みなみは頭を抱えてうずくまってしまった。

 その夜、みなみはなかなか寝付けなかった。


§4

 頭の中で音符がはね回っていた。
 朝の糟日部駅前には色々な音が溢れている。道行く人々の笑い声。電車が到着するアナウンス。車のエンジン音。パチンコ屋の呼び込みが張り上げる声。どこにでもある、街の喧噪。
 そんな音が、みなみの頭の中で音符となってはねまわる。みなみには、その全ての音がピアノで奏でられた音階のように聞こえていた。
 A、D、C♭、B♯、FにGにA♯♯。
 そのピアノを弾いているのは一体だれなのだろう。半ば眠ったままの頭で、みなみはそう思う。
 考えるまでもない。それはきっと、それぞれの人々なのだ。それぞれの人が、それぞれのピアノを弾いている。誰にも弾けない自分だけの曲を弾いている。
 であるならば、自分が『熱情』を弾けないのも、きっとそれが私の曲ではないからなのかもしれない、そんなことをみなみは考えて、すぐにそれが逃げなのだと思い直した。
 あの日『熱情』を弾くと云ったときのかおるの楽しそうな表情を、みなみは思い出している。かおるはきっとみなみがこうして悩みこむことを見越していたのだろう。そうしてどうやってみなみがそれを切り抜けるか、それとも切り抜けられないか、それを見ることを楽しみに思って笑ったのに違いない。
 食えない人だ、と改めてみなみはそう思う。
 けれどきっと、許可をだした以上、みなみはなんとかあの曲を弾くことができると、かおるは思っていたのに違いない。
 いや、本当にそうだろうか。
 引退して、みなみを独り立ちさせようと思っているかおるのことだから。もしかしたら、本当にみなみが一人でやっていけるかを見るための試金石として考えていたのかもしれない。
 ならば、みなみには弾けないと考えていた可能性もある。
 そんな思考の泥沼に陥っていたみなみだったが、ふと聞こえてきたメロディに途端に現実に立ち返ってきた。
 どんな雑踏の中でさえ、みなみの耳がその音を聞き誤ることはない。
 学校指定の革靴が、アスファルトを踏んで立てる音。
 軽い体重と、ふわふわとした足取り。その歩幅の小ささに関わらず、跳ねるようにゆっくりとした拍子の跫音。
 小さな足が一生懸命に立てる、その跫音。
 ふりむくと、そこにいつものようにゆたかがいる。紅梅色の髪、草色の瞳。みなみよりも頭一つ分小さい女の子が、出会えた喜びに顔を輝かせて、そこに立っている。
「おはよう、みなみちゃん」
「……おはよう、ゆたか」
 そう云って、二人は笑い合った。心から浮かべた満面の笑みと、こぼれ落ちるような控えめな微笑と。
「……あのさ、みなみちゃん? 二人の世界に入ってるとこ悪いけど、私も一応いるからね?」
 思わぬところから聞こえてきた声に振り向くと、そこに泉こなたが立っていた。糸のように目を細めて、口角を上げてにまにまと笑っている。
「……お、おはようございます、泉先輩」
「うむ。おはよ~みなみちゃん。んじゃ、ゆーちゃんは王子様にお任せするね」
「もー、お姉ちゃん! みなみちゃんは王子様とかじゃないってばー」
 ぽかぽかとこなたを殴るような動作をして、怒りを示すゆたかだった。けれどそうすればするほど、こなたはよりいっそう猫のような口を悪戯っぽい笑いの形に変えていく。
「あれー? じゃお婿さん?」
「ちがうもん! ちがうもん!」
「わかった、旦那さんだ!」
「……いい加減その発想から離れろよ」
 その言葉に反応したようにこなたが後ろを振り向くと、そこでは柊かがみがじっとりとした目でこなたを睨んでいるのだった。
「ふぉっ! かがみんいつのまに!」
「最初からいたわよ。っていうかいつもここで待ち合わせだろ」
 かがみと一緒にきていたつかさと、みなみと田園調府から同じ電車に乗ってきたみゆきが、困ったような顔で笑った。
「大体あんたな、みなみちゃんに失礼だろ。スレンダーでクールな印象があるからって、簡単に男役みたいに云うなよ」
 みんなで歩きながら、かがみがこなたを諭していた。
「むう、それもそうだね。ごめんね、みなみちゃん」
「……いえ、大丈夫です。お気になさらず……」
 とは云うものの、やはり胸がなくて女らしくないと云われているようで、少しだけもやもやしたものを感じていたみなみだった。けれどそんな思いも、こなたのその言葉で全て水に流すことができた。かがみの気遣いに、みなみは感謝した。
「……えへへ」
 嬉しそうに笑うゆたかは、なんだか全てを見透かしているようにも見える。途端に気恥ずかしくなったみなみは、ついぶっきらぼうな口調でゆたかに問いかけた。
「……満員電車、平気だった?」
「もー、みなみちゃんまで。わたしだって、少しくらいなら大丈夫だよぉ」
「……そう。そうだよね、ごめん」
「……みなみちゃん? みなみちゃんこそ、大丈夫?」
「……え?」
「なんだか、具合悪そう」
 なるべく表に出さないようにしていたはずだった。
 やっぱりゆたかには敵わないなと、みなみは思う。
 普通の感情ですらよくわからないと周りの人に云われるものなのに、なぜだかゆたかにはまるで隠し事ができないのだった。
「……学校で、全部話すから」
「うん、わかった」
 どこから説明しよう。また悩み始めたみなみだったが、ふいにその手がふわりと柔らかい物に包まれるのを感じて驚いた。
 ゆたかの手だった。
 自然にみなみの手を握ってくれた、ゆたかの小さな手だった。
 みなみの心の中から、暖かく、それでいて涼やかな感情が、泉のように湧き出しては滴り落ちていく。
 そうして心の表にまでこぼれ落ちたその雫が、みなみの顔を微笑みの形へと変えていく。
『水の戯れ』が聞こえた気がした。
 それは、ゆたかがみなみに与えてくれた感情だ。
 その感情を想うことで、みなみはようやく『水の戯れ』を自家薬籠中の物とすることができた。そんな感情だ。

 ――言葉にするならば。

 それはきっと“優しさ”と呼ばれるものかもしれないと、みなみは思う。


§5

「……そう。みなみちゃんは、みなみちゃんが弾くには難しい曲に挑戦してるんだね」
 どこからどう説明したらいいかわからなかったので。
 最初から全部を話した。そうしたら、お昼休みをまるまる使うことになってしまった。それでもちゃんと全部伝わっているのかどうか、みなみはまるで自信がなかった。
 案の定、田村ひよりはなんだかぴんとこないような表情をしている。その横で、パトリシア=マーティンはひたすらにこにこと笑っていた。これは多分、日本語がわからなくてごまかしているときの笑顔だ。今までの長い付き合いで、みなみにもそれはわかっていた。
 ひよりはともかく、パティには伝わらなくても仕方ないのかな、と思う。ただでさえ支離滅裂な自分の話が、言語の壁を越えられるとはまるで思っていなかった。
 みなみは、喋るのが苦手なのだ。
 少なくともピアノを弾くことよりは、随分と。
 それでも、ゆたかはそんなみなみの話を十分理解しているようだった。
「えっとね。演奏って、ただ音を出せばいいわけじゃなくて、演奏で何を表現するかが大事みたいなの。それで、みなみちゃんはどう表現すればいいかって、悩んでるんだよね?」
 通訳をするようにひよりとパティに話していたゆたかは、最後に小首を傾げてみなみに問いかけた。おおむねその通りだったので、みなみはうなずいた。
 うなずいて、そして嬉しかった。
 どんなときでも、たとえ他の誰にも伝わらなくても、ただゆたかにだけは自分の言葉が伝わるのだ。いや、それは言葉だけではなかった。今朝のように何も云わずに黙然としているときも、言葉につまってそれを飲み込んだときも、不思議とゆたかにはみなみの考えていることが伝わっているのだった。コンプレックスだった口べたな性格も、ゆたかの前でだけはそれを気にしないでいられる。
 だからみなみは、ゆたかといるとそれだけで幸せになってしまうのだ。
 そして同時に、ずっとそれではいけないのだとも思う。
 みなみは、自分がゆたかを必要としているように、ゆたかも自分を必要としているのだと、おぼろげながらにわかっている。身体の弱いゆたかにとって、いつでもゆたかのことを気にかけているみなみの存在は、きっと大きな助けとなっているのだろう。
 そして、そんな風に他人に加護を求めないと生きられない身体に、ゆたかが自己嫌悪の念を抱いていることも、みなみは気づいている。 みなみに依存せず自分自身の足で歩くこと。
 ゆたかはそれを望んでいるのだとみなみは思う。
 お互いがお互いにないものを持っているがために、みなみはゆたかと深く結びついてしまったけれど。二人でもたれかかっているだけでは、前に進んで行くことはできない。
 ――だから。
 ――だからみなみは、やはり『熱情』を弾かないといけないと思うのだ。
 ゆたか以外の誰かに聴かせるための、自分自身の曲を弾かないといけない。
 いつでも自分をわかってくれているゆたかに甘えず、他人に伝えられる言葉を手に入れないといけない。
 みなみは、そう思っているのだった。
「おお、なんとなくわかったっスよ! 原作の脚本があって、そこで原作者が表現したいことはわかるんだけど、自分の表現としてそのシーンを構成した絵が描けない、みたいなことかな?」
「……そう……かな? 漫画のことはわからないけど、多分すごく近いと思う。……演奏はどっちかっていうと演劇に近いから、楽譜は脚本みたいな感じ……」
「うーん、わかりませんネ。Evangelionに喩えてもらえますカ?」
「“こんなとき、どういう顔したら良いかわからないの”かな? ってパティそれ無茶振りすぎだよ!」
「Oh! つまりミナミがアヤナミに似てるってことですネ、わかります」
「わかってないってば」
「……そんなに」
「え?」
「そんなに私、そのキャラに似ているの……?」
 みなみのその言葉に、ひよりは少しだけ驚いた顔をした。普段みなみがそういう話に乗ってくることは少なくて、ひよりとパティの二人とみなみとゆたかの二人で話していることが多かった。
 せっかく友達になれたのだから、もっともっと仲良くなりたい。 みなみは常々そう思っていたし、そういうときに自分が取り残されないよう、気を遣って話しかけてくるゆたかにも悪いと思っていた。
 だからたまには、歩みよってみるのもいいと思う。
「似てる似てる、ソックリだヨー。ミナミがアヤナミコスしたら、ウチのお店でもたちまち人気者ですネ!」
「……お、お店……?」
「モチロン、コスプレ喫茶でス。Oh! そうしたら、ワタシとコナタとミナミでunit作りまショウ。その名も『吸収Girls』デス!」
「……きゅう、しゅう?」
 ぱちくりと瞳を瞬かせながら、ゆたかが不思議そうに訊ねた。
「足して三で割ると意外と平均値だったりするんだヨ」
 得意そうに胸を張りながら、人差し指を左右に振るパティだった。その横で、ひよりがうんざりした顔をしている。
「パティ、それってもしかしなくても、バストの話……?」
「モチロン?」
 ――歩みよろうとした自分が馬鹿だったのかもしれない。
 あたふたと慌てるゆたかをよそに、みなみは机に突っ伏した。


§6

 荒れ狂え。
 荒れ狂え。
 氷のように冷静沈着に荒れ狂え。
 たぐり寄せるは不安定な第一主題。
 揺れ動く旋律に猛る熱情を重ねていけ。
 引き絞れ。
 引き絞れ。
 益荒男の腕にしなる弓のように引き絞れ。
 展開するは優雅なる狂気、第二主題。
 典雅な調べに身もだえしそうな激情を載せていけ。
 駆けめぐれ。
 駆けめぐれ。
 五線譜の海を、激情を散らして駆けめぐれ。
 指よ、動け。
 心よ、叫べ。
 この鍵盤を叩くために、ただその音を鳴らすために。
 ほら、そこにある。押すべき鍵はそこにある。
 和音。
 和音。
 和音。
 和音。
 和音。
 プレスト。急速に。激甚に。
 たわめきった激情を爆発させて、終末のコーダを――

 ドゥン、と押し間違えた指が不協和音を奏でて、みなみは動きを止めた。
 はあはあと、荒い息を吐く。心臓の音が、まさにそのプレストのように激しく鳴り響いていた。
 ずるり、と力を抜いて。姿勢良く座っていた腰を前に浅く突き出して、背もたれにもたれかかった。
 天井を見上げて思う。
 ――弾けない。
 みなみは深くため息を吐いた。
 ただスピードを上げて速く弾くのはたやすい。けれどそれでは情感が出せない。
 そして情感のことばかりを考えていると、ミスタッチが多くなる。
 その繰りかえしだった。
 もっとも、みなみはミスタッチそのものはさほど問題視をしているわけではなかった。完璧な情感を掴めれば、出すべき感情と達成しなければいけない音楽的課題を見極められれば、あとはひたすらに弾いていけばいいだけだ。反復練習は裏切らない。指に覚えさせてしまえば、ミスタッチも減っていくだろう。
 問題は、別のところにあった。
 ――どう情感をだしていけばいいか、わからない。
 ためにためて解き放つべき感情が、掴み切れていないのだ。
 コーダにかけて高まっていく感情。山を駆け上がっていくような和音の連打。
 そこまではいい。感情を抑えこんで、身を震わせて駆け上がる。
 だがコーダのプレストに入り、いざためきった激情を発露しようと思っても。
 そこに、爆発させるべき感情が見あたらない。
 持っていると思っていた感情が、抑えこんでいたはずの感情が、実のところただ“感情を抑えこもうという感情”そのものでしかないことに気づくのだ。まるで恋に恋する少女のような、そんな勘違いに。
 曲想は掴めているのだ。そこにどんな感情が必要なのかはわかっている。
 ――熱情。アパショナータ。
 この曲の通称ともなっている、それだった。
 その感情が、心の奥底から湧いてこない。
 元々この“熱情”というタイトルは、ベートーヴェンがつけたものではない。後年の出版商が便宜上つけたタイトルだったが、それがあまりにもこの曲に溢れる情感を的確に差し表した言葉だったがために、以降その名前で呼ばれることになったのだ。
 そして殊更にその熱情で溢れているのが、この第三楽章なのだった。ベートーヴェンは、散歩の途中ふと思いついた曲想を元に、ピアノにも座らず、演奏者のことなど何一つ考えず、この楽章を書き上げたのだと聞く。
 ――なんて迷惑な。
 二百年前の作曲者の思いつきで苦労させられなんて、たまったものではない。みなみは心の中で独りごちた。もっとも、その苦労も半ば以上はみなみの自業自得ではあるのだが。
 そしてなにより、その思いつきこそが正に天才のひらめきであるのだと、この音楽的驚異に充ち満ちた譜運びが語っているのだから。
 だからみなみは、ピアノの前で探している。
 その感情を、ずっとずっと探している。
 ふと視線を感じたみなみが戸口の方を振り向くと、少しだけあいた扉から、犬のチェリーがのぞき込んでいた。
 その光景に、思わず顔をほころばせるみなみだった。
 頭のいいチェリーは、みなみがピアノ部屋にいるときに、吠えて音楽をかき乱したりはしない。そっとドアのレバーに手を掛けて、音を出さないようにドアを開けてのぞき込むのだ。別にピアノを弾いている最中に吠えたことを叱ったわけでもないのに、いつのまにかチェリーはそうするようになっていた。
「ごはんかな?」
 みなみが問いかけると、チェリーは開いたドアから部屋に身体を滑り込ませてきた。そうして、みなみの足下にちょこんと座り、尻尾を振りながらみなみをみつめるのだった。
「よしよし、いい子いい子。すぐごはんにするからね」
 そう云って頭を撫でると、喜んだ様子でチェリーは辺りをはね回る。
 どんなに煮詰まっているときも、どれだけ落ち込んでいるときも。チェリーの柔らかな毛並みを撫でると、みなみはいつだって落ち着くことができるのだ。
 だからこの時もみなみは、とことこと後をついてくるチェリーをひきつれて、いつもと同じ様子で台所に向かった。
 その途中、ふとリビングを覗くと、みなみの母とみゆきの母であるゆかりが楽しそうに談笑をしているところにでくわした。
「あら、みなみちゃん、お邪魔してるわね」
 そう云って、ゆかりはにこやかに笑った。
 会釈を返しながらもみなみは、相変わらずなんて無防備な笑顔をする人なんだろう、と思う。昔からそうだった。みゆきが段々に複雑で大人びた笑顔を身につけていったのに対して、むしろそうすればそうするほど、ゆかりは少女らしくなっていったようにも思える。みなみが子供の頃、思い出の中のゆかりは、少なくとも他の大人と同じくらいにはしっかりしていたはずなのに。
 それだけ娘のみゆきが頼れる性格に育っていったということだろうか。あるいはまた単純に、みなみが成長したことで、周りの大人を自分と同じ目線で見られるようになってきたということなのかもしれない。
 それはわからない。
 それはわからないけれど。
 どれだけ子供っぽく見えたとしても、みなみはこのゆかりのことを甘く見たことはなかった。やはり目上の大人として尊敬しているということもあるし、それよりなにより、この人はにこやかに笑いながら本質的なことをためらいなくずばりと云ってのける。そういう人なのだと、みなみは常々思っていた。
 そしてその特性は、この時にも遺憾なく発揮されることになるのだった。
「うふふ、ピアノ聴かせてもらっていたわよ。凄いのねみなみちゃん」
「……あ、ありがとうございます」
 いつものように頬を少し赤らめて、丁寧にお辞儀をしたみなみは、その後に続いた言葉に思わず固まった。
「でも、一生懸命難しい曲を弾いてるみなみちゃんより、『ねこふんじゃった』を弾いてるみなみちゃんのほうが好きかも」
「――ちょっとゆかちゃん、頑張ってるみなみに対してそれはないわよ」
「えー? 褒めたつもりだったんだけどなぁ。さっきの曲もすごく綺麗だったけど、綺麗で凄いなぁって思っただけだったのよ。無理しないで楽しそうにピアノ弾いてるみなみちゃんをみてるときは、私も楽しくなれるもん」
 笑いながらゆかりが云ったその言葉に、みなみは返事をすることができなかった。
 精一杯なんでもないような振りをして。
 精一杯作り笑いを浮かべて。
 精一杯失礼にならないような会釈を返して。
 そうしてその場から逃げ去った。

 チェリーが嬉しそうにごはんを食べる所を見ていると、いつもは心が温かくなるのに。
 その日だけはみなみの心も沈んでいた。
 ――一生懸命難しい曲を弾いている。
 ――頑張って弾いている。
 ――綺麗だと思っただけだった。
 それは本人も云っていたように、純粋にねぎらおう、いたわろうとしての発言だったのだろう。『ねこふんじゃった』を弾いているときのみなみを褒めようとして云った言葉だったのだろう。
 けれどそのねぎらいは、ピアニストとしては聴きたくない言葉なのだった。
 演奏を聴いて、一生懸命ピアノを弾いていると思われるということ。
 それは、感情を、情念を、曲想を、感動を感じさせるべき演奏であるはずなのに、ただ“ピアノを弾いている”ことしか伝わっていないということを意味していた。
 感情が、まるで伝わっていないのだ。
 ――本当の“熱情”は綺麗で凄いだけの曲では決してないのに。
 その現実に、みなみは力なくピアノにもたれかかった。
「……どうすれば“熱情”を出せるんだろう」
 そんな一人言を口にしたとき、みなみの心の表面に、ようやくその疑問が思い浮かんだのだ。
 ――熱情って一体どういう感情なのだろう。
 それに気がついて、そうしてみなみは青ざめた。
 自分が、そもそも伝えるべき熱情を何も持っていなかったのだと云うことに。
 自分が未だかつて、熱情と呼ばれる物を感じたことがないことに。

 ――ああ、そうか。
 ――それでは、弾けなくて当たり前だ。

 そんな諦観に打ちのめされながら。
 ふと弾いてみた『ねこふんじゃった』は、破鐘が鳴るような音に、みなみには聞こえたのだった。





















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  • クラシックとか全然しらないのに、ついピアノをひきたくなってしまいました -- 名無しさん (2008-04-01 15:28:12)

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