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川島亮

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川島亮


  • 2003年のドラフト自由獲得枠で指名を受け、青木、佐藤賢らとともに入団。
  • 2004年は10勝4敗・防御率3.17で新人王となった、燕の右のエースナンバー「17」を背負う男である。
  • 持ち球はカットボール、スライダーで、ストレートも150km/h近くを投げるが、何といっても古田のサインに首を振るほどの強気のピッチ、制球力の良さが光る。
  • 翌年は怪我で出遅れたが復帰後は29イニング無失点を記録し、防御率など良くなるものの(2.81)無援護に悩まされ、10勝に到達できなかった。(9勝10敗)
  • 怪我に悩まされがちで2006年、2007年はそれぞれ2勝(2敗)、4勝(3敗)止まり。
    ガラスのエースと呼ばれることも。
  • ブログの顔文字がかわいい。が、そのブログが…
  • 元々は地元千葉ロッテのファンでジョニー黒木を尊敬し、清水投手とも親交が深いことをブログで公表。
  • さらにイケメンなため女性ファンも多い。
  • 2008.7.8神宮での横浜戦に登板、交際中と噂される(ってか、一緒に住んでるんだよね?)マイコーが観戦しているとの現地情報あり これを知ってか知らぬかしっかり勝ち投手となり、マイコーもご満悦だった模様 何とも羨ましい話しである。
  • ちなみにマイコーの祖父は大手製紙会社の創業者、叔父は元静岡県知事や前述大手製紙会社の元社長、兄は元防衛庁長官。
    最後にお父さんは証券会社の会長兼社長であるとともに、有名な馬主さん。
    日本競馬の歴史を変えた偉大なる種牡馬サンデーサイレンス初年度産駒で、朝日杯3歳S覇者「幻の三冠馬」フジキセキ、ダービー馬ジャングルポケット(現在はノーザンファーム代表に譲渡)、他にもアイルラヴァゲイン、スマイルジャックなどを所有!最近では競馬関係のTVでタレントのほしのあきが命名したハシッテホシーノも10月25日に東京競馬の2歳未勝利戦に出走し、2戦目で初勝利する。 すげぇ…
    こんなスゴイ家系に入って大丈夫か?
  • …と思われたが、2009年末の親の占いに関する番組でズバリではないが、マイコーが別れてしまったような発言が飛び出し物議を醸し出す…。
  • 話しは逸れたが、AAではいつもダンボールに潜んでいる。
  • 2008年はローテの関係かわからんが巨人戦に当たることが多かった。結果は(ry
    そんなこともあり成績は7勝9敗・防御率4.70と不本意な結果に終わる。特にシーズン終盤は登板のたびに被弾・大炎上で、やくせん民もガッカリの連続…
  • そんな彼も2009年から選手会の書記と、(いつの間にか)投手キャプテンに。役職に就くことはチームの軸であることの証し。
    多くのスワローズファンが今季の復活を望むでしょう。
  • …というか復活してもらわんといかんがな。
    歴代エースナンバーを背負ってきた松岡弘氏、川崎憲次郎氏らが嘆くぞ!

  • 2009年はケガによるリハビリもなく、万全の状態で開幕を迎え開幕3戦目に登板し、6回3失点ながら白星スタートで復活の期待も大きかった。
  • 以降もおおよそ5回~6回 100球前後で降板、勝ち負けを繰り返すすもローテの一角として投げていたが、6.7の日本ハム戦の敗戦後に4勝4敗 防御率3.44の成績で戸田行き。ストレート、変化球、制球力も全盛期を知る住民から見ると、どれを取っても中途半端な印象は否めず。
  • 復帰後初登板となった7.1の横浜戦では2回2/3を被安打7の4失点。7月は4試合に登板したが5回を投げたのは1度、1勝はあげたのの内容が悪く再び戸田行き。
  • 1軍復帰はASを明けであったが、かつてのピッチングに光が戻らない。
    再度1軍復帰した8.26の広島戦でも4回9失点で降板。
  • 8.26の登板が2009年最後の1軍登板で三度戸田行き。再び1軍へ戻ることはなかった。
  • 2009年の成績は14試合 5勝6敗・防御率4.81。特に7.1以降は勝ち星がなく防御率8.27(5試合 20回2/3・被安打30・与四死球12・失点21・自責点19)と、住民の期待から大きく反する結果に。 ……と同時にチームはローテの一角を失ったことで先発投手不足を招き、シーズン後半の大失速へ…。

  • 2008年から始めた一旦タメを作るフォームに変更してのシーズンだったが、肝心のコントーロルが悪くなり四面楚歌状態に。本人は肩のスタミナ不足と(変更した)フォームを崩してまったことを要因に挙げているが、そのほかにも何か要因があるのではないか…。
    速球は捨てて技巧派に転身するのか彼のキャリアの中で今まさに分岐点に差し掛かっている。

  • 2010年は先発1試合、リリーフ6試合に登板。先発した試合で見事勝利を挙げるもまたもや怪我で離脱。それ以降登板することなくシーズンが終了した。

  • 2010年のオフに「来年が最後だと思う。肩が壊れても良い」という彼の談話が発表されて、全やくせん民が泣いた。
  • 技巧派ではなく、元の本格派で勝負することを宣言。神風投法と自ら名付け、一軍の先発争いに名乗りを挙げる。
  • 河端を思い出したのは俺だけじゃないはず…。

  • 2010年オフには保育士の方との結婚が発表された。

  • 2011年もキャンプ当初は先発4本柱に次ぐ先発5番手、6番手を期待されたがまたもや怪我で脱落。戸田より懸命にリハビリに励んでる様子がもたらされた。
  • 俺はまだ諦めないぞ。

  • また、一軍で彼の雄姿を。


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