堀 辰雄 ほり たつお
1904-1953(明治37.12.28-昭和28.5.28)
小説家。東京生れ。東大卒。芥川竜之介・室生犀星に師事、日本的風土に近代フランスの知性を定着させ、独自の作風を造型した。作「聖家族」「風立ちぬ」「幼年時代」「菜穂子」など。


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)。


もくじ 
風立ちぬ(二)堀 辰雄


ミルクティー*現代表記版
風立ちぬ(二)

オリジナル版
風立ちぬ(二)

地名年表人物一覧書籍
難字、求めよ
後記次週予告

※ 製作環境
 ・Macintosh iBook、Mac OS 9.2.2、T-Time 2.3.1
 ・ ポメラ DM100、ソーラーパネル GOAL ZERO NOMAD 7(ガイド10プラス)
※ 週刊ミルクティー*は、JIS X 0213 文字を使用しています。
※ この作品は青空文庫にて公開中です。著作権保護期間を経過したパブリック・ドメイン作品につき、引用・印刷および転載・翻訳・翻案・朗読などの二次利用は自由です。
(c) Copyright this work is public domain.

*凡例〔現代表記版〕
  • ( ):小書き。〈 〉:割り注。
  • 〔 〕:編者もしくは、しだによる注。
  • 一、漢字、かなづかい、漢字の送りは現代表記に改めました。
  •    例、云う → いう / 言う
  •      処  → ところ / 所
  •      有つ → 持つ
  •      這入る → 入る
  •      円く → 丸く
  •      室  → 部屋
  • 一、同音異義の一部のひらがなを、便宜、漢字に改めました。
  •    例、いって → 行って / 言って
  •      きいた → 聞いた / 効いた
  • 一、若干の句読点を改めました。適宜、ルビや中黒や感嘆・疑問符をおぎないました。一部、改行と行頭の字下げを改めました。
  • 一、漢数字の表記を一部、改めました。
  •    例、七百二戸 → 七〇二戸
  •    例、二萬六千十一 → 二万六〇一一
  • 一、ひらがなに傍点は、一部カタカナに改めました。
  • 一、カタカナ漢字混用文は、ひらがな漢字混用文に改めました。
  • 一、和暦にはカッコ書きで西暦をおぎないました。年次のみのばあいは単純な置き換えにとどめ、月日のわかるばあいには陰暦・陽暦の補正をおこないました。
  • 一、和歌・俳句・短歌は五七五(七七)の音節ごとに半角スペースで句切りました。
  • 一、表や図版キャプションなどの組版は、便宜、改めました。
  • 一、書名・雑誌名は『 』、論文名・記事名および会話文は「 」で示しました。
  • 一、「今から○○年前」のような経過年数の表記や、郡域・国域など地域の帰属、団体法人名・企業名などは、底本当時のままにしました。
  • 一、差別的表現・好ましくない表現はそのままとしました。

*尺貫・度量衡の一覧
  • 寸 すん  一寸=約3cm。
  • 尺 しゃく 一尺=約30cm。
  • 丈 じょう (1) 一丈=約3m。尺の10倍。(2) 周尺で、約1.7m。成人男子の身長。
  • 歩 ぶ (1) 左右の足を一度ずつ前に出した長さ。6尺。(2) 土地面積の単位。一歩は普通、曲尺6尺平方で、一坪に同じ。
  • 間 けん  一間=約1.8m。6尺。
  • 町 ちょう (1) 一町=10段(約100アール=1ヘクタール)。令制では3600歩、太閤検地以後は3000歩。(2) (「丁」とも書く) 一町=約109m強。60間。
  • 里 り   一里=約4km(36町)。昔は300歩、今の6町。
  • 合 ごう  一合=約180立方cm。
  • 升 しょう 一升=約1.8リットル。
  • 斗 と   一斗=約18リットル。
  • 海里・浬 かいり 一海里=1852m。
  • 尋 ひろ (1) (「広(ひろ)」の意)両手を左右にひろげた時の両手先の間の距離。(2) 縄・水深などをはかる長さの単位。一尋は5尺(1.5m)または6尺(1.8m)で、漁業・釣りでは1.5mとしている。
  • 坪 つぼ 一坪=約3.3平方m。歩(ぶ)。6尺四方。
  • 丈六 じょうろく 一丈六尺=4.85m。



*底本

底本:「昭和文学全集 第6巻」小学館
   1988(昭和63)年6月1日初版第1刷発行
底本の親本:「堀辰雄全集 第1巻」筑摩書房
   1977(昭和52)年5月28日初版第1刷発行
http://www.aozora.gr.jp/cards/001030/card4803.html

NDC 分類:913(日本文学 / 小説.物語)
http://yozora.kazumi386.org/9/1/ndc913.html





風立ちぬ(二)

堀 辰雄

    �


 とうとう真夏になった。それは平地でよりも、もっと猛烈なくらいであった。裏の雑木林では、なにかが燃え出しでもしたかのように、蝉がひねもすまなかった。樹脂のにおいさえ、開け放した窓からただよってきた。夕方になると、戸外ですこしでも楽な呼吸をするために、バルコニーまでベッドを引き出させる患者たちが多かった。それらの患者たちを見て、わたしたちははじめて、このごろにわかにサナトリウムの患者たちの増え出したことを知った。しかし、わたしたちはあいかわらず誰にもかまわずに二人だけの生活を続けていた。
 このごろ、節子は暑さのためにすっかり食欲を失い、夜などもよく寝られないことが多いらしかった。わたしは、彼女の昼寝を守るために、前よりもいっそう、廊下の足音や、窓から飛びこんでくるはちあぶなどに気をくばりだした。そして暑さのために思わず大きくなるわたし自身の呼吸にも気をもんだりした。
 そのように病人の枕元で、息をつめながら、彼女の眠っているのを見守っているのは、わたしにとっても一つの眠りに近いものだった。わたしは彼女が眠りながら呼吸を速くしたりゆるくしたりする変化を、苦しいほどはっきりと感じるのだった。わたしは彼女と心臓の鼓動をさえ共にした。ときどき軽い呼吸困難が彼女をおそうらしかった。そんなとき、手をすこし痙攣けいれんさせながらのどのところまで持って行って、それをおさえるような手つきをする、―夢におそわれてでもいるのではないかと思って、わたしが起こしてやったものかどうかとためらっているうち、そんな苦しげな状態はやがてすぎ、あとに弛緩しかん状態がやってくる。そうすると、わたしも思わずホッとしながら、いま彼女の息づいている静かな呼吸に自分までが一種の快感さえおぼえる。――そうして彼女が目をさますと、わたしはそっと彼女の髪に接吻をしてやる。彼女はまだるそうな目つきで、わたしを見るのだった。
「あなた、そこにいたの?」
「ああ、ぼくもここですこし、うつらうつらしていたんだ」
 そんな晩など、自分もいつまでも寝つかれずにいるようなことがあると、わたしはそれがくせにでもなったように、自分でも知らずに、手をのどに近づけながらそれをおさえるような手つきを真似まねたりしている。そしてそれに気がついたあとで、それからやっとわたしは本当の呼吸困難を感じたりする。が、それはわたしにはむしろ、こころよいものでさえあった。

「このごろなんだか、お顔色が悪いようよ」ある日、彼女はいつもよりしげしげと見ながら言うのだった。「どうかなすったのじゃない?」「なんでもないよ」そう言われるのはわたしの気に入った。「ぼくはいつだってこうじゃないか?」
「あんまり病人のそばにばかりいないで、すこしは散歩くらいなすっていらっしゃらない?」「この暑いのに、散歩なんかできるもんか。……夜は夜で、真っ暗だしさ。……それに毎日、病院の中をずいぶん行ったり来たりしているんだからなあ」
 わたしはそんな会話をそれ以上にすすめないために、毎日廊下などで出逢であったりする、ほかの患者たちの話を持ち出すのだった。よくバルコニーのふちにひとかたまりになりながら、空を競馬場に、動いている雲をいろいろそれに似た動物に見立てあったりしている年少の患者たちのことや、いつも付きい看護婦の腕にすがって、あてもなしに廊下を往復している、ひどい神経衰弱の、無気味なくらい背の高い患者のことなどを話して聞かせたりした。しかし、わたしはまだ一度もその顔は見たことがないが、いつもその部屋の前を通るたびごとに、気味のわるい、なんだかゾッとするようなせきを耳にする例の第十七号室の患者のことだけは、つとめてけるようにしていた。おそらくそれがこのサナトリウム中で、いちばん重症の患者なのだろうと思いながら。……


 八月もようやく末近くなったのに、まだずっと寝苦ねぐるしいような晩が続いていた。そんなある晩、わたしたちがなかなか寝つかれずにいると、(もうとっくに就寝時間の九時はすぎていた。……)ずっと向こうの下の病棟がなんとなく騒々そうぞうしくなりだした。それにときどき廊下を小走りにしていくような足音や、おさえつけたような看護婦の小さなさけびや、器具の鋭くぶつかる音がまじった。わたしはしばらく不安そうに耳を傾けていた。それがやっとしずまったかと思うと、それとそっくりな沈黙のざわめきが、ほとんど同時に、あっちの病棟にもこっちの病棟にも起こり出した、そしてしまいには、わたしたちのすぐ下のほうからも聞こえてきた。
 わたしは、今、サナトリウムの中を嵐のように暴れまわっているものの何であるかぐらいは知っていた。わたしはその間に何度も耳をそば立てては、さっきから明かりは消してあるものの、まだ同じように寝つかれずにいるらしい隣室の病人の様子をうかがった。病人は寝返りさえ打たずに、じっとしているらしかった。わたしも息苦しいほどじっとしながら、そんな嵐がひとりでに衰えてくるのを待ち続けていた。
 真夜中になってからやっとそれが衰えだすように見えたので、わたしは思わずホッとしながら少しまどろみかけたが、突然、隣室で病人がそれまで無理におさえつけていたような神経的なせきを二つ三つ強くしたので、ふいと目を覚ました。そのまますぐそのせきは止まったようだったが、わたしはどうも気になってならなかったので、そっと隣室に入って行った。真っ暗な中に、病人は一人でおびえてでもいたように、大きく目を見ひらきながら、わたしのほうを見ていた。わたしは何も言わずに、そのそばに近づいた。
「まだ、だいじょうぶよ」
 彼女はつとめて微笑をしながら、わたしに聞こえるか聞こえないぐらいの低声こごえで言った。わたしは黙ったまま、ベッドのふちに腰をかけた。
「そこにいてちょうだい」
 病人はいつもに似ず、気弱そうに、わたしにそう言った。わたしたちはそうしたまま、まんじりともしないでその夜を明かした。
 そんなことがあってから、二、三日すると、急に夏が衰え出した。

    �


 九月になると、すこし荒れ模様の雨が何度となく降ったりやんだりしていたが、そのうちにそれはほとんど小止こやみなしに降り続き出した。それは木の葉を黄ばませるより先に、それを腐らせるかと見えた。さしものサナトリウムの部屋部屋も、毎日窓を閉め切って薄暗うすぐらいほどだった。風がときどき戸をバタつかせた。そして裏の雑木林から、単調な、重くるしい音を引きもぎった。風のない日は、わたしたちは終日、雨が屋根づたいにバルコニーの上に落ちるのを聞いていた。そんな雨がやっと霧に似だしたある早朝、わたしは窓から、バルコニーの面している細長い中庭が、いくぶん薄明くなってきたようなのをぼんやりと見おろしていた。そのとき、中庭の向こうのほうから、一人の看護婦が、そんな霧のような雨の中をそこここに咲き乱れている野菊やコスモスを手あたりしだいに採りながら、こっちへ向かって近づいてくるのが見えた。わたしはそれがあの第十七号室の付きい看護婦であることを認めた。「ああ、あのいつも不快なせきばかり聞いていた患者が死んだのかもしれないなあ」ふとそんなことを思いながら、雨にぬれたままなんだか興奮したようになってまだ花を採っているその看護婦の姿を見つめているうちに、わたしは急に心臓がしめつけられるような気がしだした。
「やっぱりここで一番重かったのはあいつだったのかな? が、あいつがとうとう死んでしまったとすると、こんどは? ……ああ、あんなことを院長が言ってくれなければよかったんだに……」
 わたしはその看護婦が大きな花束をかかえたままバルコニーのかげに隠れてしまってからも、うつけたように窓ガラスに顔をくっつけていた。
「何をそんなに見ていらっしゃるの?」ベッドから病人がわたしに問うた。
「こんな雨の中で、さっきから花を採っている看護婦がいるんだけれど、あれは誰だろうかしら?」
 わたしはそうひとごとのようにつぶやきながら、やっとその窓から離れた。

 しかし、その日はとうとう一日じゅう、わたしはなんだか病人の顔をまともに見られずにいた。なにもかも見ぬいていながら、わざと知らぬような様子をして、ときどきわたしの方をじっと病人が見ているような気さえされて、それがわたしをいっそう苦しめた。こんなふうにお互いに分たれない不安や恐怖を抱きはじめ、二人が二人ですこしずつ別々にものを考え出すなんということは、いけないことだと思い返しては、わたしは早くこんな出来事は忘れてしまおうとつとめながら、またいつのまにやらそのことばかりを頭に浮かべていた。そしてしまいには、わたしたちがこのサナトリウムにはじめていた雪のふる晩に病人が見たという夢、はじめはそれを聞くまいとしながらついに打ち負けて病人からそれを聞き出してしまったあの不吉な夢のことまで、いままでずっと忘れていたのに、ひょっくり思い浮かべたりしていた。――その不思議な夢の中で、病人は死骸になってひつぎの中にふせていた。人々はそのひつぎを担いながら、どこだか知らない野原をよこぎったり、森の中へ入ったりした。もう死んでいる彼女はしかし、ひつぎの中から、すっかり冬れた野面のづらや、黒いもみの木などをありありと見たり、その上をさびしく吹いてすぎる風の音を耳に聞いたりしていた、……その夢からさめてからも、彼女は自分の耳がとても冷たくて、もみのざわめきがまだそれをたしているのをまざまざと感じていた。……


 そんな霧のような雨がなお数日降り続いているうちに、すでにもう他の季節になっていた。サナトリウムの中も、気がついて見ると、あれだけ多数になっていた患者たちも一人去り二人去りして、そのあとには、この冬をこちらで越さなければならないような重い患者たちばかりが取り残され、また、夏の前のようなさびしさに変わりだしていた。第十七号室の患者の死がそれを急に目立たせた。
 九月の末のある朝、わたしが廊下の北側の窓から何気なにげなしに裏の雑木林のほうへ目をやって見ると、その霧ぶかい林の中にいつになく人が出たり入ったりしているのが異様に感じられた。看護婦たちにいてみても何も知らないような様子をしていた。それっきりわたしもつい忘れていたが、翌日もまた、早朝から二、三人の人夫がきて、その丘の縁にある栗の木らしいものをり倒しはじめているのが霧の中に見えたり隠れたりしていた。
 その日、わたしは患者たちがまだ誰も知らずにいるらしいその前日の出来事を、ふとしたことから聞き知った。それはなんでも、例の気味のわるい神経衰弱の患者がその林の中で縊死いししていたという話だった。そういえば、どうかすると日に何度も見かけた、あの付きい看護婦の腕にすがって廊下を行ったり来たりしていた大きな男が、昨日から急に姿を消してしまっていることに気がついた。
「あの男の番だったのか……」第十七号室の患者が死んでからというものすっかり神経質になっていたわたしは、それからまだ一週間と立たないうちに引き続いておこったそんな思いがけない死のために、思わずホッとしたような気持ちになった。そしてそれは、そんな陰惨いんさんな死から当然わたしが受けたにちがいない気味わるさすら、わたしにはそのためにほとんど感ぜられずにしまったといっていいほどであった。
「こないだ死んだ奴の次ぐらいに悪いといわれていたって、なにも死ぬと決まっているわけのものじゃないんだからなあ」わたしはそう気軽そうに、自分に向かって言って聞かせたりした。
 裏の林の中の栗の木が二、三本ばかりり取られて、なんだか間のけたようになってしまった跡は、今度はその丘の縁を、引きつづき人夫たちが切りくずしだし、そこからすこし急な傾斜で下がっている病棟の北側に沿ったすこしばかりのき地にその土を運んでは、そこいら一帯をゆるやかななぞえ〔斜面〕にしはじめていた。人はそこを花壇に変える仕事に取りかかっているのだ。

    �


「お父さんからお手紙だよ」
 わたしは看護婦から渡された一束の手紙の中から、そのひとつを節子に渡した。彼女はベッドに寝たままそれを受け取ると、急に少女らしく目をかがやかせながら、それを読み出した。
「あら、お父さまがいらっしゃるんですって」
 旅行中の父は、その帰途を利用して近いうちにサナトリウムへ立ち寄るということを書いてよこしたのだった。
 それはある十月のよく晴れた、しかし風のすこし強い日だった。近ごろ、寝たきりだったので食欲が衰え、ややせの目立つようになった節子は、その日からつとめて食事をし、ときどきベッドの上に起きていたり、腰かけたりしだした。彼女はまたときどき、思い出し笑いのようなものを顔の上にただよわせた。わたしはそれに、彼女がいつも父の前でのみ浮かべる少女らしい微笑の下描きのようなものを認めた。わたしはそういう彼女のするがままにさせていた。


 それから数日たったある午後、彼女の父はやって来た。
 彼はいくぶん前よりか顔にもおいを見せていたが、それよりももっと目立つほど背中をかがめるようにしていた。それがなんとはなしに病院の空気を彼がおそれでもしているような様子に見せた。そうして病室へ入るなり、彼はいつもわたしのすわりつけている病人の枕元に腰をおろした。ここ数日、すこし身体を動かしすぎたせいか、昨日の夕方いくらか熱を出し、医者のいいつけで、彼女はその期待もむなしく、朝からずっと安静を命じられていた。
 ほとんどもう病人はなおりかけているものと思いこんでいたらしいのに、まだそうして寝たきりでいるのを見て、父はすこし不安そうな様子だった。そしてその原因を調べでもするかのように、病室の中を仔細しさいに見まわしたり、看護婦たちのいちいちの動作を見守ったり、それからバルコニーにまで出て行ってみたりしていたが、それらはいずれも彼を満足させたらしかった。そのうちに病人がだんだん興奮よりも熱のせいでほお薔薇色ばらいろにさせだしたのを見ると、「しかし顔色はとてもいい」と、娘がどこか良くなっていることを自分自身に納得させたいかのように、そればかりくり返していた。
 わたしはそれから用事を口実にして病室を出て行き、彼らを二人きりにさせておいた。やがてしばらくしてから、ふたたび入って行ってみると、病人はベッドの上に起きなおっていた。そして掛布の上に、父のもってきた菓子箱かしばこやほかの紙包みをいっぱいにひろげていた。それは少女時代彼女の好きだった、そして今でも好きだと父の思っているようなものばかりらしかった。わたしを見ると、彼女はまるで悪戯いたずらを見つけられた少女のように、顔をあかくしながら、それをかたづけ、すぐ横になった。
 わたしはいくぶん気づまりになりながら、二人からすこし離れて、窓ぎわの椅子いすに腰かけた。二人は、わたしのために中断されたらしい話のつづきを、さっきよりも低声こごえで、続け出した。それはわたしの知らないなじみの人々や事柄に関するものが多かった。そのうちのある物は、彼女に、わたしの知り得ないような小さな感動をさえ与えているらしかった。
 わたしは二人のさもたのしげな対話をなにか、そういう絵でも見ているかのように、見くらべていた。そしてそんな会話のあいだに父に示す彼女の表情や抑揚よくようのうちに、なにか非常に少女らしい輝きがよみがえるのをわたしは認めた。そしてそんな彼女の子どもらしい幸福の様子が、わたしに、わたしの知らない彼女の少女時代のことを夢みさせていた。……
 ちょっとの間、わたしたちが二人きりになったとき、わたしは彼女に近づいて、からかうように耳打ちした。
「おまえは、今日はなんだか見知らない薔薇色ばらいろの少女みたいだよ」
「知らないわ」彼女はまるで小娘のように顔を両手で隠した。

    �


 父は二日滞在して行った。
 出発する前、父はわたしを案内役にして、サナトリウムのまわりを歩いた。が、それはわたしと二人きりで話すのが目的だった。空には雲ひとつないくらいに晴れきった日だった。いつになく、くっきりとあかちゃけた山肌を見せている八ヶ岳などをわたしがして示しても、父はそれにはちょっと目を上げるきりで、熱心に話をつづけていた。
「ここはどうも、あれの身体には向かないのではないだろうか? もう半年以上にもなるのだから、もうすこし良くなっていそうなものだが……」
「さあ、今年の夏はどこも気候が悪かったのではないでしょうか? それにこういう山の療養所なんぞは冬がいいのだといいますが……」
「それは冬まで辛抱しんぼうしていられればいいのかも知れんが……しかし、あれには冬まで我慢がまんできまい……」
「しかし、自分では冬もいる気でいるようですよ」わたしは、こういう山の孤独がどんなにわたしたちの幸福をはぐくんでいてくれるかということを、どうしたら父に理解させられるだろうかともどかしがりながら、しかし、そういうわたしたちのために父のはらっている犠牲のことを思えばなんともそれを言い出しかねて、わたしたちのちぐはぐな対話を続けていた。「まあ、せっかく山へ来たのですから、いられるだけいてみるようになさいませんか?」
「……だが、あなたも冬までいっしょにいてくだされるのか?」
「ええ、もちろんいますとも」
「それはあなたには本当にすまんな。……だが、あなたは、いま、仕事はしておられるのか?」
「いいえ……」
「しかし、あなたも病人にばかりかまっておらずに、仕事もすこしはなさらなければいけないね」
「ええ、これから少し……」とわたしはくちごもるように言った。
 ――「そうだ、オレはずいぶん長いことオレの仕事をうっちゃらかしていたなあ。なんとかして今のうちに仕事もしださなけりゃあいけない」……そんなことまで考え出しながら、何かしらわたしは気持ちがいっぱいになってきた。それからわたしたちはしばらく無言のまま、丘の上にたたずみながら、いつのまにか西のほうから中空にずんずん拡がり出した無数のうろこのような雲を、じっと見上げていた。
 やがてわたしたちはもうすっかり木の葉の黄ばんだ雑木林の中を通りぬけて、裏手うらてから病院へ帰って行った。その日も、人夫が二、三人で、例の丘を切り崩していた。そのそばを通りすぎながら、わたしは「なんでもここへ花壇をこしらえるんだそうですよ」と、いかにも何気なにげなさそうに言ったきりだった。


 夕方、停車場まで父を見送りに行って、わたしが帰ってきてみると、病人はベッドの中で身体を横向きにしながら、激しいせきにむせっていた。こんなに激しいせきはこれまで一度もしたことはないくらいだった。その発作がすこししずまるのを待ちながら、わたしが、
「どうしたんだい?」とたずねると、
「なんでもないの。……じき止まるわ」病人はそれだけやっと答えた。「その水をちょうだい」
 わたしはフラスコからコップに水をすこしそそいで、それを彼女の口に持って行ってやった。彼女はそれを一口飲むと、しばらく平静にしていたが、そんな状態は短い間にすぎ、またも、さっきよりも激しいぐらいの発作が彼女を襲った。わたしはほとんどベッドの端まで乗り出して、身もだえしている彼女をどうしようもなく、ただこういたばかりだった。
「看護婦を呼ぼうか?」
「…………」
 彼女はその発作がしずまっても、いつまでも苦しそうに身体をねじらせたまま、両手で顔をおおいながら、ただうなずいて見せた。
 わたしは看護婦を呼びに行った。そしてわたしにかまわず先に走って行った看護婦のすこし後から病室へ入って行くと、病人はその看護婦に両手で支えられるようにしながら、いくぶん楽そうな姿勢に返っていた。が、彼女はうつけたようにぼんやりと目を見開いているきりだった。せきの発作は一時止まったらしかった。
 看護婦は彼女を支えていた手をすこしずつ放しながら、
「もう止まったわね。……すこうし、そのままじっとしていらっしゃいね」と言って、乱れた毛布などをなおしたりしはじめた。「いま注射をたのんできてあげるわ」
 看護婦は部屋を出て行きながら、どこにいていいかわからなくなってドアのところに棒立ちに立っていたわたしに、ちょっと耳打ちした。「すこし血痰けったんを出してよ」
 わたしはやっと、彼女の枕元に近づいて行った。
 彼女はぼんやりと目は見開いていたが、なんだか眠っているとしか思えなかった。わたしはそのあおざめた額にほつれた小さなうずをまいている髪をかきあげてやりながら、その冷たく汗ばんだ額をわたしの手でそっとなでた。彼女はやっとわたしの温かい存在をそれに感じでもしたかのように、ちらっと謎のような微笑をくちびるにただよわせた。

    �


 絶対安静の日々が続いた。
 病室の窓はすっかり黄色い日覆ひおおいをおろされ、中は薄暗くされていた。看護婦たちも足を爪立つまだてて歩いた。わたしはほとんど病人の枕元につきっきりでいた。夜伽とぎも一人で引き受けていた。ときどき病人はわたしのほうを見て何か言い出しそうにした。わたしはそれを言わせないように、すぐ指をわたしの口にあてた。
 そのような沈黙が、わたしたちをそれぞれ各自の考えのうちにひっこませていた。が、わたしたちはただ相手が何を考えているのかを、痛いほどはっきりと感じ合っていた。そしてわたしが、今度の出来事をあたかも自分のために病人が犠牲にしていてくれたものが、ただ目に見えるものに変わっただけかのように思いつめているあいだ、病人はまた病人で、これまで二人してあんなにも細心に細心にと育てあげてきたものを、自分の軽はずみから一瞬に打ち壊してしまいでもしたようにいているらしいのが、はっきりとわたしに感じられた。
 そしてそういう自分の犠牲を犠牲ともしないで、自分の軽はずみなことばかりを責めているように見える病人のいじらしい気持ちが、わたしの心をしめつけていた。そういう犠牲をまで病人に当然の代償のようにはらわせながら、それがいつ死の床になるかも知れぬようなベッドで、こうして病人とともにたのしむようにして味わっている生の快楽――それこそわたしたちを、このうえなく幸福にさせてくれるものだとわたしたちが信じているもの、―それははたしてわたしたちを本当に満足させおおせるものだろうか? わたしたちがいま、わたしたちの幸福だと思っているものは、わたしたちがそれを信じているよりは、もっとつかのもの、もっと気まぐれに近いようなものではないだろうか? ……
 夜伽よとぎに疲れたわたしは、病人のまどろんでいるそばで、そんな考えをとつおいつしながら、このごろ、ともすればわたしたちの幸福が何物かにおびやかされがちなのを、不安そうに感じていた。


 その危機は、しかし、一週間ばかりで立ち退いた。
 ある朝、看護婦がやっと病室から日覆ひおおいを取りけて、窓の一部を開け放して行った。窓からさしこんでくる秋らしい日光をまぶしそうにしながら、
「気持ちがいいわ」と病人はベッドの中からよみがえったように言った。
 彼女の枕元で新聞をひろげていたわたしは、人間に大きな衝動をあたえる出来事なんぞというものは、かえってそれが過ぎ去った跡はなんだかまるで他所よそのことのように見えるものだなあと思いながら、そういう彼女のほうをチラリと見やって、おもわず揶揄やゆするような調子で言った。
「もうお父さんがきたって、あんなに興奮しないほうがいいよ」
 彼女は顔を心持ちあからめながら、そんなわたしの揶揄をすなおに受け入れた。
「こんどはお父さまがいらっしたって、知らん顔をしていてやるわ」
「それがおまえにできるんならねえ……」
 そんなふうに冗談でも言い合うように、わたしたちはお互いに相手の気持ちをいたわり合うようにしながら、いっしょになって子どもらしく、すべての責任を彼女の父におしつけ合ったりした。
 そうしてわたしたちはすこしもわざとらしくなく、この一週間の出来事がほんの何かの間違いにすぎなかったような、気軽な気分になりながら、いましがたまでわたしたちを肉体的ばかりでなく、精神的にも襲いかかっているように見えた危機を、こともなげに切り抜け出していた。少なくとも、わたしたちにはそう見えた。……


 ある晩、わたしは彼女のそばで本を読んでいるうち、突然、それを閉じて窓のところに行き、しばらく考え深そうにたたずんでいた。それからまた、彼女のそばに帰った。わたしはふたたび本を取り上げて、それを読み出した。
「どうしたの?」彼女は顔を上げながら、わたしに問うた。
「なんでもない」わたしは無造作にそう答えて、数秒時、本のほうに気をとられているような様子をしていたが、とうとうわたしは口を切った。
「こっちへ来て、あんまり何もせずにしまったから、ぼくはこれから仕事でもしようかと考え出しているのさ」
「そうよ、お仕事をなさらなければいけないわ。お父さまもそれを心配なさっていたわ」彼女はまじめな顔つきをして返事をした。「わたしなんかのことばかり考えていないで……」
「いや、おまえのことをもっともっと考えたいんだ……」わたしはそのとき、とっさに頭に浮かんできたある小説のばくとしたイデエをすぐその場で追いまわし出しながら、ひとごとのように言い続けた。「オレはおまえのことを小説に書こうと思うのだよ。それよりほかのことは、今のオレには考えられそうもないのだ。オレたちがこうしてお互いに与えあっているこの幸福、―みながもう行き止まりだと思っているところからはじまっているようなこの生のたのしさ、―そういった誰も知らないような、オレたちだけのものを、オレはもっと確実なものに、もうすこし形をなしたものに置き換えたいのだ。わかるだろう?」
「わかるわ」彼女は自分自身の考えでもうかのようにわたしの考えをっていたらしく、それにすぐ応じた。が、それから口をすこしゆがめるように笑いながら、
「わたしのことなら、どうでもお好きなようにお書きなさいな」とわたしを軽くあしらうように言いした。
 わたしはしかし、その言葉を率直に受け取った。
「ああ、それはオレの好きなように書くともさ。……が、今度のやつは、おまえにもたんと助力してもらわなければならないのだよ」
「わたしにもできることなの?」
「ああ、おまえにはね、オレの仕事のあいだ、頭から足の先まで幸福になっていてもらいたいんだ。そうでないと……」
 一人でぼんやりと考えごとをしているのよりも、こうやって二人でいっしょに考え合っているみたいなほうが、よけい自分の頭が活発に働くのを異様に感じながら、わたしはあとからあとからとわいてくる思想に押されでもするかのように、病室の中をいつか、行ったり来たりしだしていた。
「あんまり病人のそばにばかりいるから、元気がなくなるのよ。……すこしは散歩でもしていらっしゃらない?」
「うん、オレも仕事をするとなりゃあ……」とわたしは目をかがやかせながら、元気よく答えた。「うんと散歩もするよ」

    �


 わたしはその森を出た。大きな沢をへだてながら、向こうの森を越して、八ヶ岳の山麓さんろく一帯がわたしの目の前にはてしなく展開していたが、そのずっと前方、ほとんどその森とすれすれぐらいのところに、一つの狭い村とその傾いた耕作地とがよこたわり、そして、その一部にいくつもの赤い屋根をつばさのようにひろげたサナトリウムの建物が、ごく小さな姿になりながら、しかし明瞭めいりょうに認められた。
 わたしは早朝から、どこをどう歩いているのかも知らずに、足の向くまま、自分の考えにすっかり身をまかせきったようになって、森から森へとさまよいつづけていたのだったが、いま、そんなふうにわたしののあたりに、秋のすんだ空気が思いがけずに近よせているサナトリウムの小さな姿を、不意に視野に入れた刹那せつな、わたしは急に何か自分にいていたものからめたような気持ちで、その建物の中で多数の病人たちに取り囲まれながら、毎日毎日を何気なにげなさそうにすごしているわたしたちの生活の異様さを、はじめてそれから引き離して考え出した。そうしてさっきから自分のうちき立っている制作欲にそれからそれへとうながされながら、わたしはそんな、わたしたちの奇妙な日ごと日ごとを一つの異常にパセティック〔悲壮〕な、しかも物静ものしずかな物語に置き換え出した。……「節子よ、これまで二人のものがこんなふうに愛し合ったことがあろうとは思えない。いままで、おまえというものはいなかったのだもの。それからわたしというものも……」
 わたしの夢想は、わたしたちのうえに起こったさまざまな事物のうえを、あるときは迅速にすぎ、あるときはじっとひとところに停滞し、いつまでもいつまでもためらっているように見えた。わたしは節子から遠くに離れてはいたが、そのあいだ絶えず彼女に話しかけ、そして彼女の答えるのを聞いた。そういうわたしたちについての物語は、生そのもののように、はてしがないように思われた。そうしてその物語はいつのまにかそれ自身の力でもって生きはじめ、わたしにかまわず勝手に展開しだしながら、ともすればひとところに停滞しがちなわたしをそこに取り残したまま、その物語自身があたかもそういう結果を欲しでもするかのように、病める女主人公の物悲ものがなしい死を作為さくいしだしていた。――身の終わりを予覚よかくしながら、その衰えかかっている力をつくして、つとめて快活に、つとめて気高く生きようとしていた娘、―恋人の腕に抱かれながら、ただその残される者の悲しみを悲しみながら、自分はさも幸福そうに死んでいった娘、―そんな娘の影像がくうに描いたようにはっきりと浮かんでくる。……「男は自分たちの愛をいっそう純粋なものにしようと試みて、病身の娘をさそうようにして山のサナトリウムに入って行くが、死が彼らをおびやかすようになると、男はこうして彼らが得ようとしている幸福は、はたしてそれが完全に得られたにしても彼ら自身を満足させうるものかどうかを、しだいに疑うようになる。――が、娘はその死苦しくのうちに最後まで自分を誠実に介抱かいほうしてくれたことを男に感謝しながら、さも満足そうに死んでゆく。そして男はそういう気高い死者に助けられながら、やっと自分たちのささやかな幸福を信ずることができるようになる……」
 そんな物語の結末がまるでそこにわたしを待ちぶせてでもいたかのように見えた。そして突然、そんな死にひんした娘の影像が思いがけないはげしさでわたしを打った。わたしはあたかも夢から覚めたかのようになんともかとも言いようのない恐怖と羞恥しゅうちとに襲われた。そしてそういう夢想を自分から振りはらおうとでもするように、わたしは腰かけていたブナの裸根はだかねから荒々しく立ち上がった。
 太陽はすでに高く昇っていた。山や森や村や畑、―そうしたすべてのものは秋のおだやかな日の中に、いかにも安定したように浮かんでいた。かなたに小さく見えるサナトリウムの建物の中でも、すべてのものは毎日の習慣をふたたび取り出しているのに違いなかった。そのうち不意に、それらの見知らぬ人々の間で、いつもの習慣から取り残されたまま、一人でしょんぼりとわたしを待っている節子のさびしそうな姿を頭に浮かべると、わたしは急にそれが気になってたまらないように、急いで山径やまみちをくだりはじめた。
 わたしは裏の林をぬけてサナトリウムに帰った。そしてバルコニーを迂回うかいしながら、一番はずれの病室に近づいて行った。わたしにはすこしも気がつかずに、節子は、ベッドの上で、いつもしているように髪の先を手でいじりながら、いくぶん悲しげな目つきでくうを見つめていた。わたしは窓ガラスを指でたたこうとしたのをふと思い止まりながら、そういう彼女の姿をじっと見入った。彼女は何かにおびやかされているのをやっとこらえているとでもいった様子で、それでいてそんな様子をしていることなどはおそらく彼女自身も気がついていないのだろうと思えるくらい、ぼんやりしているらしかった。……わたしは心臓をしめつけられるような気がしながら、そんな見知らない彼女の姿を見つめていた。……と突然、彼女の顔が明るくなったようだった。彼女は顔をもたげて、微笑さえしだした。彼女はわたしを認めたのだった。
 わたしはバルコニーから入りながら、彼女のそばに近づいて行った。
「何を考えていたの?」
「なんにも……」彼女はなんだか自分のでないような声で返事をした。
 わたしがそのまま何も言い出さずに、すこし気がふさいだように黙っていると、彼女はやっといつもの自分にかえったような、親密な声で、「どこへ行っていらしったの? ずいぶん長かったのね」
 とわたしにいた。
「向こうのほうだ」わたしは無雑作むぞうさにバルコニーの真正面に見える遠い森のほうをさした。
「まあ、あんなところまで行ったの? ……お仕事はできそう?」
「うん、まあ……」わたしはひどく無愛想に答えたきり、しばらくまた元のような無言に返っていたが、それからけにわたしは、
「おまえ、いまのような生活に満足しているかい?」
 と、いくらかうわずったような声でいた。
 彼女はそんな突拍子とっぴょうしもない質問にちょっとたじろいだ様子をしていたが、それからわたしをじっと見つめ返して、いかにもそれを確信しているようにうなずきながら、
「どうしてそんなことをおきになるの?」
 と、不審いぶかしそうに問い返した。
「オレはなんだかいまのような生活が、オレの気まぐれなのじゃないかと思ったんだ。そんなものをいかにも大事なもののようにこうやっておまえにも……」
「そんなこと言っちゃいや」彼女は急にわたしをさえぎった。「そんなことをおっしゃるのがあなたの気まぐれなの」
 けれどもわたしは、そんな言葉にはまだ満足しないような様子を見せていた。彼女はそういうわたしのしずんだ様子を、しばらくはただモジモジしながら見守っていたが、とうとうこらえきれなくなったとでも言うように言い出した。
「わたしがここでもって、こんなに満足しているのが、あなたにはおわかりにならないの? どんなに体の悪いときでも、わたしは一度だって家へ帰りたいなんぞと思ったことはないわ。もし、あなたがわたしのそばにいてくださらなかったら、わたしは本当にどうなっていたでしょう? ……さっきだって、あなたがお留守のあいだ、最初のうちはそれでもあなたのお帰りが遅ければ遅いほど、お帰りになったときのよろこびが余計になるばかりだと思って、我慢がまんしていたんだけれど、―あなたがもうお帰りになるとわたしの思い込んでいた時間をずうっと過ぎてもお帰りにならないので、しまいにはとても不安になってきたの。そうしたら、いつもあなたといっしょにいるこの部屋までがなんだか見知らない部屋のような気がしてきて、こわくなって部屋の中から飛び出したくなったくらいだったわ。……でも、それからやっとあなたのいつかおっしゃったお言葉を考え出したら、すこうし気がおちついてきたの。あなたは、いつかわたしにこうおっしゃったでしょう、―わたしたちのいまの生活、ずっとあとになって思い出したらどんなに美しいだろうって……」
 彼女は、だんだんしゃがれたような声になりながらそれをいおえると、一種の微笑ともつかないようなもので口元をゆがめながら、わたしをじっと見つめた。
 彼女のそんな言葉を聞いているうちに、たまらぬほど胸がいっぱいになりだしたわたしは、しかし、そういう自分の感動した様子を彼女に見られることを恐れでもするように、そっとバルコニーに出て行った。そしてその上から、かつてわたしたちの幸福をそこに完全に描き出したかとも思えたあの初夏の夕方のそれに似た――しかし、それとはぜんぜん異なった秋の午前の光、もっと冷たい、もっと深味のある光をおびた、あたり一帯の風景をわたしはしみじみと見入りだしていた。あのときの幸福に似た、しかし、もっともっと胸のしめつけられるような見知らない感動で自分がいっぱいになっているのを感じながら……

   冬


一九三五年十月二十日 
 午後、いつものように病人を残して、わたしはサナトリウムを離れると、収穫にいそがしい農夫らの立ち働いている田畑の間をぬけながら、雑木林をこえて、その山のくぼみにある人気ひとけの絶えた狭い村におりたあと、小さな渓流けいりゅうにかかったつり橋を渡って、その村の対岸にある栗の木の多い低い山へよじのぼり、その上方の斜面に腰をおろした。そこでわたしは何時間も、明るい、静かな気分で、これから手をつけようとしている物語の構想にふけっていた。ときおりわたしの足もとのほうで、思い出したように、子どもらが栗の木をゆすぶっていちどきに栗の実を落とす、そのたにじゅうに響きわたるような大きな音におどろかされながら……
 そういう自分のまわりに見聞きされるすべてのものが、わたしたちの生の果実もすでに熟していることを告げ、そしてそれを早く取り入れるようにと自分をうながしでもしているかのように感ずるのが、わたしは好きであった。
 ようやく日が傾いて、早くもその谷の村が向こうの雑木山の影の中にすっかり入ってしまうのを認めると、わたしはしずかに立ち上がって、山をおり、ふたたびつり橋をわたって、あちらこちらに水車がゴトゴトと音を立てながらえずまわっている狭い村の中をなんということはなしにひとまわりしたあと、八ヶ岳の山麓一帯にひろがっている落葉松林からまつばやしへりを、もうそろそろ病人がモジモジしながら自分の帰りを待っているだろうと考えながら、心もち足を早めてサナトリウムにもどるのだった。


十月二十三日 
 がた近く、わたしは自分のすぐ身近みぢかでしたような気のする異様な物音におどろいて目を覚ました。そうしてしばらく耳をそば立てていたが、サナトリウム全体は死んだようにひっそりとしていた。それからなんだか目がさえて、わたしはもう寝つかれなくなった。
 小さなのこびりついている窓ガラスをとおして、わたしはぼんやりとあかつきの星がまだ二つ三つかすかに光っているのを見つめていた。が、そのうちにわたしはそういう朝明あさあけがなんともいえずにさびしいような気がしてきて、そっと起き上がると、何をしようとしているのか自分でもわからないように、まだ暗い隣の病室へ素足のままで入って行った。そうしてベッドに近づきながら、節子の寝顔をかがみこむようにして見た。すると彼女は思いがけず、パッチリと目を見ひらいて、そんなわたしのほうを見上げながら、
「どうなすったの?」といぶかしそうにいた。
 わたしはなんでもないといった目くばせをしながら、そのまましずかに彼女の上に身をかがめて、いかにもこらえきれなくなったようにその顔へぴったりと自分の顔をおしつけた。
「まあ、冷たいこと」彼女は目をつぶりながら、頭をすこし動かした。髪の毛がかすかににおった。そのままわたしたちは、お互いのつく息を感じ合いながら、いつまでもそうしてじっとほおずりをしていた。
「あら、また、栗が落ちた……」彼女は目を細目にあけてわたしを見ながら、そうささやいた。
「ああ、あれは栗だったのかい。……あいつのおかげでオレはさっき目を覚ましてしまったのだ」
 わたしはすこし、うわずったような声でそう言いながら、そっと彼女を手放すと、いつのまにかだんだん明るくなりだした窓のほうへ歩み寄って行った。そしてその窓によりかかって、いましがたどちらの目からにじみ出たのかもわからない熱いものがわたしのほおを伝うがままにさせながら、向こうの山の背にいくつか雲の動かずにいるあたりが赤くにごったような色あいをび出しているのを見入っていた。畑のほうからはやっと物音が聞こえ出した。……
「そんなことをしていらっしゃると、おかぜをひくわ」ベッドから彼女が小さな声で言った。
 わたしは何か気軽い調子で返事をしてやりたいと思いながら、彼女のほうをふり向いた。が、大きくみはって気づかわしそうにわたしを見つめている彼女の目と見あわせると、そんな言葉は出されなかった。そうして無言のまま窓を離れて、自分の部屋にもどって行った。
 それから数分たつと、病人は明け方にいつもする、おさえかねたようなはげしいせきを出した。ふたたび寝床ねどこにもぐりこみながら、わたしは何ともかともいわれないような不安な気持ちでそれを聞いていた。


十月二十七日 
 わたしは、きょうもまた山や森で午後をすごした。
 一つの主題が、終日、わたしの考えを離れない。真の婚約の主題――二人の人間がそのあまりにも短い一生の間をどれだけお互いに幸福にさせあえるか? あらがいがたい運命の前にしずかに頭をうなだれたまま、互いに心と心と、身と身とをあたためあいながら、並んで立っている若い男女の姿、―そんな一組としての、さびしそうな、それでいてどこかたのしくないこともないわたしたちの姿が、はっきりとわたしの目の前に見えてくる。それをいて、いまのわたしに何が描けるだろうか? ……
 はてしのないような山麓をすっかり黄ばませながら傾いている落葉松林からまつばやしへりを、夕方、わたしがいつものように足早に帰ってくると、ちょうどサナトリウムの裏になった雑木林のはずれに、ななめになった日をびて、髪をまぶしいほどひからせながら立っている一人の背の高い若い女が遠く認められた。わたしはちょっと立ち止まった。どうもそれは節子らしかった。しかしそんな場所に一人きりのようなのを見て、はたして彼女かどうかわからなかったので、わたしは、ただ前よりもすこし足を早めただけだった。が、だんだん近づいて見ると、それはやはり節子であった。
「どうしたんだい?」わたしは彼女のそばにけつけて、息をはずませながらいた。
「ここであなたをお待ちしていたの」彼女は顔をすこしあかくして笑いながら答えた。
「そんな乱暴なことをしてもいいのかなあ」わたしは彼女の顔を横から見た。
「いっぺんくらいならかまわないわ。……それにきょうはとても気分がいいのですもの」つとめて快活な声を出してそう言いながら、彼女はなおもじっとわたしの帰ってきた山麓さんろくのほうを見ていた。「あなたのいらっしゃるのが、ずっと遠くから見えていたわ」
 わたしは何も言わずに、彼女のそばに並んで、同じ方角を見つめた。
 彼女がふたたび快活そうに言った。「ここまで出ると、八ヶ岳がすっかり見えるのね」
「うん」とわたしは気のなさそうな返事をしたきりだったが、そのままそうやって彼女と肩を並べてその山を見つめているうちに、ふいとなんだか不思議にこんがらかったような気がしてきた。
「こうやっておまえとあの山を見ているのは、きょうがはじめてだったね。だが、オレにはどうもこれまでになんべんもこうやってあれを見ていたことがあるような気がするんだよ」
「そんなはずはないじゃあないの?」
「いや、そうだ……オレはいまやっと気がついた……オレたちはね、ずっと前にこの山をちょうど向こう側から、こうやっていっしょに見ていたことがあるのだ。いや、おまえとそれを見ていた夏の時分はいつも雲にさまたげられてほとんど何も見えやしなかったのさ。……しかし秋になってから、一人でオレがそこへ行ってみたら、ずっと向こうの地平線の果てに、この山が今とは反対の側から見えたのだ。あの遠くに見えた、どこの山だかちっとも知らずにいたのが、たしかにこれらしい。ちょうどそんな方角になりそうだ。……おまえ、あのすすきがたんといしげっていた原を覚えているだろう?」
「ええ」
「だが、じつに妙だなあ。いま、あの山のふもとにこうしてこれまで、なにも気がつかずにおまえと暮らしていたなんて……」ちょうど二年前の、秋の最後の日、一面にいしげった薄のあいだからはじめて地平線の上にくっきりと見い出したこの山々を遠くからながめながら、ほとんど悲しいくらいの幸福な感じをもって、二人はいつかはきっといっしょになれるだろうと夢見ていた自分自身の姿が、いかにもなつかしく、わたしの目にあざやかに浮かんできた。
 わたしたちは沈黙に落ちた。その上空を渡り鳥のむれらしいのが音もなくスウッとよこぎって行く、その並み重った山々をながめながら、わたしたちはそんな最初の日々のようなしたわしい気持ちで、肩を押しつけあったまま、たたずんでいた。そうしてわたしたちの影がだんだん長くなりながら、草の上をうがままにさせていた。
 やがて風がすこし出たと見えて、わたしたちの背後の雑木林が急にざわめきだった。わたしは「もうそろそろ帰ろう」と、不意と思い出したように彼女に言った。
 わたしたちは絶えず落ち葉のしている雑木林の中へ入って行った。わたしはときどき立ち止まって、彼女をすこし先に歩かせた。二年前の夏、ただ彼女をよく見たいばかりに、わざとわたしの二、三歩先に彼女を歩かせながら森の中などを散歩したころのさまざまな小さな思い出が、心臓をしめつけられるぐらいに、わたしのうちにいっぱいにあふれてきた。


十一月二日 
 夜、一つの明かりがわたしたちを近づけ合っている。その明かりの下で、ものを言い合わないことにもなれて、わたしがせっせとわたしたちの生の幸福を主題にした物語を書き続けていると、そのかさの陰になった、薄暗うすぐらいベッドの中に、節子はそこにいるのだかいないのだかわからないほど、物静かに寝ている。ときどきわたしがそっちへ顔を上げると、さっきからじっとわたしを見つめつづけていたかのようにわたしを見つめていることがある。「こうやってあなたのおそばにいさえすれば、わたしはそれでいいの」と、わたしにさも言いたくってたまらないでいるような、愛情をこめた目つきである。ああ、それがどんなに今のわたしに自分たちの所有している幸福を信じさせ、そして、こうやってそれにはっきりした形を与えることに努力しているわたしを助けていてくれることか!


十一月十日 
 冬になる。空はひろがり、山々はいよいよ近くなる。その山々の上方だけ、雪雲ゆきぐもらしいのがいつまでも動かずにじっとしているようなことがある。そんな朝には山から雪に追われてくるのか、バルコニーの上までがいつもはあんまり見かけたことのない小鳥でいっぱいになる。そんな雪雲ゆきぐもの消え去ったあとは、一日ぐらいその山々の上方だけが薄白くなっていることがある。そしてこのごろは、そんないくつかの山のいただきにはそういう雪がそのまま目立つほど残っているようになった。
 わたしは数年前、しばしば、こういう冬のさびしい山岳地方で、かわいらしい娘と二人きりで、世間からまったくへだたって、お互いがせつなく思うほどに愛しあいながら暮らすことを好んで夢みていたころのことを思い出す。わたしは自分の小さいときから失わずにいる甘美な人生へのかぎりない夢を、そういう人のこわがるような苛酷かこくなくらいの自然の中に、それをそっくりそのまますこしもそこなわずに生かしてみたかったのだ。そしてそのためにはどうしてもこういう本当の冬、さびしい山岳地方のそれでなければいけなかったのだ……
 ――夜のけかかるころ、わたしはまだそのすこし病身な娘の眠っている間にそっと起きて、山小屋から雪の中へ元気よく飛び出して行く。あたりの山々は、あけぼのの光をあびながら、薔薇色ばらいろかがやいている。わたしは隣の農家からしぼりたてのヤギの乳をもらって、すっかりこごえそうになりながら戻ってくる。それから自分で暖炉だんろ焚木たきぎをくべる。やがてそれがパチパチと活発な音を立てて燃え出し、その音でやっとその娘が目をさます時分には、もうわたしはかじかんだ手をして、しかし、さもたのしそうに、いま自分たちがそうやって暮らしている山の生活をそっくりそのまま書き取っている……
 今朝けさ、わたしはそういう自分の数年前の夢を思い出し、そんな、どこにだってありそうもない版画じみた冬景色ふゆげしきのあたりに浮かべながら、その丸木造りの小屋の中のさまざまな家具の位置をかえたり、それについてわたし自身と相談しあったりしていた。それからついにそんな背景はバラバラになり、ぼやけて消えてゆきながら、ただわたしの目の前には、その夢からそれだけが現実にはみ出しでもしたように、ほんのすこしばかり雪の積もった山々と、裸になった木立ちと、冷たい空気とだけが残っていた。……
 一人で先に食事をすませてしまってから、窓ぎわに椅子いすをずらしてそんな思い出にふけっていたわたしは、そのとき急に、いまやっと食事をえ、そのままベッドの上に起きながら、なんとなく疲れをおびたようなぼんやりした目つきで山のほうを見つめている節子のほうをふり向いて、その髪の毛のすこしほつれているやつれたような顔をいつになく痛々いたいたしげに見つめだした。
「このオレの夢が、こんなところまでおまえを連れてきたようなものなのだろうかしら?」と、わたしはなにかいに近いような気持ちでいっぱいになりながら、口には出さずに、病人に向かって話しかけた。
「それだというのに、このごろのオレは自分の仕事にばかり心をうばわれている。そうしてこんなふうにおまえのそばにいるときだって、オレは現在のおまえのことなんぞちっとも考えてやりはしないのだ。それでいて、オレは仕事をしながらおまえのことをもっともっと考えているのだと、おまえにも、それから自分自身にも言って聞かせてある。そうしてオレはいつのまにかいい気になって、おまえのことよりも、オレのつまらない夢なんぞにこんなに時間をつぶし出しているのだ……」
 そんなわたしのもの言いたげな目つきに気がついたのか、病人はベッドの上から、にっこりともしないで、真面目まじめにわたしのほうを見かえしていた。このごろいつのまにか、そんなぐあいに、前よりかずっと長い間、もっともっとお互いをしめつけあうように目と目を見合わせているのが、わたしたちの習慣になっていた。
(つづく)



底本:「昭和文学全集 第6巻」小学館
   1988(昭和63)年6月1日初版第1刷発行
底本の親本:「堀辰雄全集 第1巻」筑摩書房
   1977(昭和52)年5月28日初版第1刷発行
初出:「風立ちぬ」は「序曲」「春」「風立ちぬ」「冬」「死のかげの谷」の五篇から成っている。
   「序曲」:「改造」1936(昭和11)年12月号に発表された「風立ちぬ」の発端部分を野田書房版(1938(昭和13)年4月10日刊)「風立ちぬ」において「序曲」と改題。
   「春」:「新女苑」1937(昭和12)年4月号に「婚約」と題し発表。
   「風立ちぬ」:「改造」1936(昭和11)年12月号に発表。構成は「発端」「T」「U」「V」の4章から成る。
   「冬」:「文藝春秋」1937(昭和12)年1月号に発表。
   「死のかげの谷」:「新潮」1938(昭和13)年3月号に発表。
初収単行本:「風立ちぬ」野田書房、1938(昭和13)年4月10日
※底本の親本の筑摩全集版は、野田書房版による。初出情報は、「堀辰雄全集 第1巻」筑摩書房、1977(昭和52)年5月28日、解題による。
入力:kompass
校正:浅原庸子
2003年12月29日作成
2004年3月27日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。



風立ちぬ(二)

堀辰雄

-------------------------------------------------------
【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)薄《すすき》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)八ヶ岳|山麓《さんろく》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#アステリズム、1-12-94]

〔〕:アクセント分解された欧文をかこむ
(例)〔Le vent se le've, il faut tenter de vivre.〕
アクセント分解についての詳細は下記URLを参照してください
http://aozora.gr.jp/accent_separation.html
-------------------------------------------------------

    ※[#アステリズム、1-12-94]

 とうとう真夏になった。それは平地でよりも、もっと猛烈な位であった。裏の雑木林では、何かが燃え出しでもしたかのように、蝉がひねもす啼《な》き止《や》まなかった。樹脂のにおいさえ、開け放した窓から漂って来た。夕方になると、戸外で少しでも楽な呼吸をするために、バルコンまでベッドを引き出させる患者達が多かった。それらの患者達を見て、私達ははじめて、この頃|俄《にわ》かにサナトリウムの患者達の増え出したことを知った。しかし、私達は相かわらず誰にも構わずに二人だけの生活を続けていた。
 この頃、節子は暑さのためにすっかり食慾を失い、夜などもよく寝られないことが多いらしかった。私は、彼女の昼寝を守るために、前よりも一層、廊下の足音や、窓から飛びこんでくる蜂や虻《あぶ》などに気を配り出した。そして暑さのために思わず大きくなる私自身の呼吸にも気をもんだりした。
 そのように病人の枕元で、息をつめながら、彼女の眠っているのを見守っているのは、私にとっても一つの眠りに近いものだった。私は彼女が眠りながら呼吸を速くしたり弛《ゆる》くしたりする変化を苦しいほどはっきりと感じるのだった。私は彼女と心臓の鼓動をさえ共にした。ときどき軽い呼吸困難が彼女を襲うらしかった。そんな時、手をすこし痙攣《けいれん》させながら咽《のど》のところまで持って行ってそれを抑えるような手つきをする、――夢に魘《おそ》われてでもいるのではないかと思って、私が起してやったものかどうかと躊躇っているうち、そんな苦しげな状態はやがて過ぎ、あとに弛緩状態《しかんじょうたい》がやって来る。そうすると、私も思わずほっとしながら、いま彼女の息づいている静かな呼吸に自分までが一種の快感さえ覚える。――そうして彼女が目を醒《さ》ますと、私はそっと彼女の髪に接吻をしてやる。彼女はまだ倦《だ》るそうな目つきで、私を見るのだった。
「あなた、そこにいたの?」
「ああ、僕もここで少しうつらうつらしていたんだ」
 そんな晩など、自分もいつまでも寝つかれずにいるようなことがあると、私はそれが癖にでもなったように、自分でも知らずに、手を咽に近づけながらそれを抑えるような手つきを真似たりしている。そしてそれに気がついたあとで、それからやっと私は本当の呼吸困難を感じたりする。が、それは私にはむしろ快いものでさえあった。

「この頃なんだかお顔色が悪いようよ」或る日、彼女はいつもよりしげしげと見ながら言うのだった。「どうかなすったのじゃない?」「なんでもないよ」そう言われるのは私の気に入った。「僕はいつだってこうじゃないか?」
「あんまり病人の側にばかり居ないで、少しは散歩くらいなすっていらっしゃらない?」「この暑いのに、散歩なんか出来るもんか。……夜は夜で、真っ暗だしさ。……それに毎日、病院の中をずいぶん往ったり来たりしているんだからなあ」
 私はそんな会話をそれ以上にすすめないために、毎日廊下などで出逢ったりする、他の患者達の話を持ち出すのだった。よくバルコンの縁に一塊りになりながら、空を競馬場に、動いている雲をいろいろそれに似た動物に見立て合ったりしている年少の患者達のことや、いつも附添看護婦の腕にすがって、あてもなしに廊下を往復している、ひどい神経衰弱の、無気味なくらい背の高い患者のことなどを話して聞かせたりした。しかし、私はまだ一度もその顔は見たことがないが、いつもその部屋の前を通る度ごとに、気味のわるい、なんだかぞっとするような咳を耳にする例の第十七号室の患者のことだけは、つとめて避けるようにしていた。恐らくそれがこのサナトリウム中で、一番重症の患者なのだろうと思いながら。……


 八月も漸く末近くなったのに、まだずっと寝苦しいような晩が続いていた。そんな或る晩、私達がなかなか寝つかれずにいると、(もうとっくに就寝時間の九時は過ぎていた。……)ずっと向うの下の病棟が何んとなく騒々しくなり出した。それにときどき廊下を小走りにして行くような足音や、抑えつけたような看護婦の小さな叫びや、器具の鋭くぶつかる音がまじった。私はしばらく不安そうに耳を傾けていた。それがやっと鎮まったかと思うと、それとそっくりな沈黙のざわめきが、殆ど同時に、あっちの病棟にもこっちの病棟にも起り出した、そしてしまいには私達のすぐ下の方からも聞えて来た。
 私は、今、サナトリウムの中を嵐のように暴れ廻っているものの何んであるかぐらいは知っていた。私はその間に何度も耳をそば立てては、さっきからあかりは消してあるものの、まだ同じように寝つかれずにいるらしい隣室の病人の様子を窺《うかが》った。病人は寝返りさえ打たずに、じっとしているらしかった。私も息苦しいほどじっとしながら、そんな嵐がひとりでに衰えて来るのを待ち続けていた。
 真夜中になってからやっとそれが衰え出すように見えたので、私は思わずほっとしながら少し微睡《まどろ》みかけたが、突然、隣室で病人がそれまで無理に抑えつけていたような神経的な咳を二つ三つ強くしたので、ふいと目を覚ました。そのまますぐその咳は止まったようだったが、私はどうも気になってならなかったので、そっと隣室にはいって行った。真っ暗な中に、病人は一人で怯《おび》えてでもいたように、大きく目を見ひらきながら、私の方を見ていた。私は何も言わずに、その側に近づいた。
「まだ大丈夫よ」
 彼女はつとめて微笑をしながら、私に聞えるか聞えない位の低声《こごえ》で言った。私は黙ったまま、ベッドの縁に腰をかけた。
「そこにいて頂戴」
 病人はいつもに似ず、気弱そうに、私にそう言った。私達はそうしたまままんじりともしないでその夜を明かした。
 そんなことがあってから、二三日すると、急に夏が衰え出した。

    ※[#アステリズム、1-12-94]

 九月になると、すこし荒れ模様の雨が何度となく降ったり止んだりしていたが、そのうちにそれは殆んど小止みなしに降り続き出した。それは木の葉を黄ばませるより先きに、それを腐らせるかと見えた。さしものサナトリウムの部屋部屋も、毎日窓を閉め切って薄暗いほどだった。風がときどき戸をばたつかせた。そして裏の雑木林から、単調な、重くるしい音を引きもぎった。風のない日は、私達は終日、雨が屋根づたいにバルコンの上に落ちるのを聞いていた。そんな雨が漸《や》っと霧に似だした或る早朝、私は窓から、バルコンの面している細長い中庭がいくぶん薄明くなって来たようなのをぼんやりと見おろしていた。その時、中庭の向うの方から、一人の看護婦が、そんな霧のような雨の中をそこここに咲き乱れている野菊やコスモスを手あたり次第に採りながら、こっちへ向って近づいて来るのが見えた。私はそれがあの第十七号室の附添看護婦であることを認めた。「ああ、あのいつも不快な咳ばかり聞いていた患者が死んだのかも知れないなあ」ふとそんなことを思いながら、雨に濡れたまま何んだか興奮したようになってまだ花を採っているその看護婦の姿を見つめているうちに、私は急に心臓がしめつけられるような気がしだした。
「やっぱり此処で一番重かったのはあいつだったのかな? が、あいつがとうとう死んでしまったとすると、こんどは? ……ああ、あんなことを院長が言ってくれなければよかったんだに……」
 私はその看護婦が大きな花束を抱えたままバルコンの蔭に隠れてしまってからも、うつけたように窓硝子《まどガラス》に顔をくっつけていた。
「何をそんなに見ていらっしゃるの?」ベッドから病人が私に問うた。
「こんな雨の中で、さっきから花を採っている看護婦が居るんだけれど、あれは誰だろうかしら?」
 私はそう独り言のようにつぶやきながら、やっとその窓から離れた。

 しかし、その日はとうとう一日中、私はなんだか病人の顔をまともに見られずに居た。何もかも見抜いていながら、わざと知らぬような様子をして、ときどき私の方をじっと病人が見ているような気さえされて、それが私を一層苦しめた。こんな風にお互に分たれない不安や恐怖を抱きはじめ、二人が二人で少しずつ別々にものを考え出すなんと云うことは、いけないことだと思い返しては、私は早くこんな出来事は忘れてしまおうと努めながら、又いつのまにやらその事ばかりを頭に浮べていた。そしてしまいには、私達がこのサナトリウムに初めて着いた雪のふる晩に病人が見たという夢、はじめはそれを聞くまいとしながら遂に打ち負けて病人からそれを聞き出してしまったあの不吉な夢のことまで、いままでずっと忘れていたのに、ひょっくり思い浮べたりしていた。――その不思議な夢の中で、病人は死骸になって棺の中に臥ていた。人々はその棺を担いながら、何処だか知らない野原を横切ったり、森の中へはいったりした。もう死んでいる彼女はしかし、棺の中から、すっかり冬枯れた野面や、黒い樅《もみ》の木などをありありと見たり、その上をさびしく吹いて過ぎる風の音を耳に聞いたりしていた、……その夢から醒《さ》めてからも、彼女は自分の耳がとても冷たくて、樅のざわめきがまだそれを充たしているのをまざまざと感じていた。……


 そんな霧のような雨がなお数日降り続いているうちに、すでにもう他の季節になっていた。サナトリウムの中も、気がついて見ると、あれだけ多数になっていた患者達も一人去り二人去りして、そのあとにはこの冬をこちらで越さなければならないような重い患者達ばかりが取り残され、又、夏の前のような寂しさに変り出していた。第十七号室の患者の死がそれを急に目立たせた。
 九月の末の或る朝、私が廊下の北側の窓から何気なしに裏の雑木林の方へ目をやって見ると、その霧ぶかい林の中にいつになく人が出たり入ったりしているのが異様に感じられた。看護婦達に訊《き》いて見ても何も知らないような様子をしていた。それっきり私もつい忘れていたが、翌日もまた、早朝から二三人の人夫が来て、その丘の縁にある栗の木らしいものを伐《き》り倒しはじめているのが霧の中に見えたり隠れたりしていた。
 その日、私は患者達がまだ誰も知らずにいるらしいその前日の出来事を、ふとしたことから聞き知った。それはなんでも、例の気味のわるい神経衰弱の患者がその林の中で縊死《いし》していたと云う話だった。そう云えば、どうかすると日に何度も見かけた、あの附添看護婦の腕にすがって廊下を往ったり来たりしていた大きな男が、昨日から急に姿を消してしまっていることに気がついた。
「あの男の番だったのか……」第十七号室の患者が死んでからというものすっかり神経質になっていた私は、それからまだ一週間と立たないうちに引き続いて起ったそんな思いがけない死のために、思わずほっとしたような気持になった。そしてそれは、そんな陰惨な死から当然私が受けたにちがいない気味悪さすら、私にはそのために殆んど感ぜられずにしまったと云っていいほどであった。
「こないだ死んだ奴の次ぎ位に悪いと言われていたって、何も死ぬと決まっているわけのものじゃないんだからなあ」私はそう気軽そうに自分に向って言って聞かせたりした。
 裏の林の中の栗の木が二三本ばかり伐り取られて、何んだか間の抜けたようになってしまった跡は、今度はその丘の縁を、引きつづき人夫達が切り崩し出し、そこからすこし急な傾斜で下がっている病棟の北側に沿った少しばかりの空地にその土を運んでは、そこいら一帯を緩やかななぞえ[#「なぞえ」に傍点]にしはじめていた。人はそこを花壇に変える仕事に取りかかっているのだ。

    ※[#アステリズム、1-12-94]

「お父さんからお手紙だよ」
 私は看護婦から渡された一束の手紙の中から、その一つを節子に渡した。彼女はベッドに寝たままそれを受取ると、急に少女らしく目を赫《かがや》かせながら、それを読み出した。
「あら、お父様がいらっしゃるんですって」
 旅行中の父は、その帰途を利用して近いうちにサナトリウムへ立ち寄るということを書いて寄こしたのだった。
 それは或る十月のよく晴れた、しかし風のすこし強い日だった。近頃、寝たきりだったので食慾が衰え、やや痩《や》せの目立つようになった節子は、その日からつとめて食事をし、ときどきベッドの上に起きて居たり、腰かけたりしだした。彼女はまたときどき思い出し笑いのようなものを顔の上に漂わせた。私はそれに彼女がいつも父の前でのみ浮べる少女らしい微笑の下描きのようなものを認めた。私はそういう彼女のするがままにさせていた。


 それから数日立った或る午後、彼女の父はやって来た。
 彼はいくぶん前よりか顔にも老《おい》を見せていたが、それよりももっと目立つほど背中を屈《かが》めるようにしていた。それが何んとはなしに病院の空気を彼が恐れでもしているような様子に見せた。そうして病室へはいるなり、彼はいつも私の坐りつけている病人の枕元に腰を下ろした。ここ数日、すこし身体を動かし過ぎたせいか、昨日の夕方いくらか熱を出し、医者の云いつけで、彼女はその期待も空しく、朝からずっと安静を命じられていた。
 殆んどもう病人は癒《なお》りかけているものと思い込んでいたらしいのに、まだそうして寝たきりで居るのを見て、父はすこし不安そうな様子だった。そしてその原因を調べでもするかのように、病室の中を仔細《しさい》に見廻したり、看護婦達の一々の動作を見守ったり、それからバルコンにまで出て行って見たりしていたが、それらはいずれも彼を満足させたらしかった。そのうちに病人がだんだん興奮よりも熱のせいで頬を薔薇色《ばらいろ》にさせ出したのを見ると、「しかし顔色はとてもいい」と、娘が何処か良くなっていることを自分自身に納得させたいかのように、そればかり繰り返していた。
 私はそれから用事を口実にして病室を出て行き、彼等を二人きりにさせて置いた。やがてしばらくしてから、再びはいって行って見ると、病人はベッドの上に起き直っていた。そして掛布の上に、父のもってきた菓子函《かしばこ》や他の紙包を一ぱいに拡げていた。それは少女時代彼女の好きだった、そして今でも好きだと父の思っているようなものばかりらしかった。私を見ると、彼女はまるで悪戯《いたずら》を見つけられた少女のように、顔を赧《あか》くしながら、それを片づけ、すぐ横になった。
 私はいくぶん気づまりになりながら、二人からすこし離れて、窓ぎわの椅子に腰かけた。二人は、私のために中断されたらしい話の続きを、さっきよりも低声《こごえ》で、続け出した。それは私の知らない馴染みの人々や事柄に関するものが多かった。そのうちの或る物は、彼女に、私の知り得ないような小さな感動をさえ与えているらしかった。
 私は二人のさも愉《たの》しげな対話を何かそういう絵でも見ているかのように、見較べていた。そしてそんな会話の間に父に示す彼女の表情や抑揚のうちに、何か非常に少女らしい輝きが蘇《よみがえ》るのを私は認めた。そしてそんな彼女の子供らしい幸福の様子が、私に、私の知らない彼女の少女時代のことを夢みさせていた。……
 ちょっとの間、私達が二人きりになった時、私は彼女に近づいて、揶揄《からか》うように耳打ちした。
「お前は今日はなんだか見知らない薔薇色の少女みたいだよ」
「知らないわ」彼女はまるで小娘のように顔を両手で隠した。

    ※[#アステリズム、1-12-94]

 父は二日滞在して行った。
 出発する前、父は私を案内役にして、サナトリウムのまわりを歩いた。が、それは私と二人きりで話すのが目的だった。空には雲ひとつない位に晴れ切った日だった。いつになくくっきりと赭《あか》ちゃけた山肌を見せている八ヶ岳などを私が指して示しても、父はそれにはちょっと目を上げるきりで、熱心に話をつづけていた。
「ここはどうもあれの身体には向かないのではないだろうか? もう半年以上にもなるのだから、もうすこし良くなって居そうなものだが……」
「さあ、今年の夏は何処も気候が悪かったのではないでしょうか? それにこういう山の療養所なんぞは冬がいいのだと云いますが……」
「それは冬まで辛抱して居られればいいのかも知れんが……しかしあれには冬まで我慢できまい……」
「しかし自分では冬も居る気でいるようですよ」私はこういう山の孤独がどんなに私達の幸福を育《はぐく》んでいて呉れるかと云うことを、どうしたら父に理解させられるだろうかともどかしがりながら、しかしそういう私達のために父の払っている犠牲のことを思えば何んともそれを言い出しかねて、私達のちぐはぐな対話を続けていた。「まあ、折角山へ来たのですから、居られるだけ居て見るようになさいませんか?」
「……だが、あなたも冬迄一緒に居て下されるのか?」
「ええ、勿論居ますとも」
「それはあなたには本当にすまんな。……だが、あなたは、いま仕事はして居られるのか?」
「いいえ……」
「しかし、あなたも病人にばかり構って居らずに、仕事も少しはなさらなければいけないね」
「ええ、これから少し……」と私は口籠《くちごも》るように言った。
 ――「そうだ、おれは随分長いことおれの仕事を打棄《うっちゃ》らかしていたなあ。なんとかして今のうちに仕事もし出さなけれあいけない」……そんなことまで考え出しながら、何かしら私は気持が一ぱいになって来た。それから私達はしばらく無言のまま、丘の上に佇《たたず》みながら、いつのまにか西の方から中空にずんずん拡がり出した無数の鱗《うろこ》のような雲をじっと見上げていた。
 やがて私達はもうすっかり木の葉の黄ばんだ雑木林の中を通り抜けて、裏手から病院へ帰って行った。その日も、人夫が二三人で、例の丘を切り崩していた。その傍を通り過ぎながら、私は「何んでもここへ花壇をこしらえるんだそうですよ」といかにも何気なさそうに言ったきりだった。


 夕方停車場まで父を見送りに行って、私が帰って来て見ると、病人はベッドの中で身体を横向きにしながら、激しい咳にむせっていた。こんなに激しい咳はこれまで一度もしたことはないくらいだつた。その発作がすこし鎮まるのを待ちながら、私が、
「どうしたんだい?」と訊ねると、
「なんでもないの。……じき止まるわ」病人はそれだけやっと答えた。「その水を頂戴」
 私はフラスコからコップに水をすこし注いで、それを彼女の口に持って行ってやった。彼女はそれを一口飲むと、しばらく平静にしていたが、そんな状態は短い間に過ぎ、又も、さっきよりも激しい位の発作が彼女を襲った。私は殆んどベッドの端までのり出して身もだえしている彼女をどうしようもなく、ただこう訊《き》いたばかりだった。
「看護婦を呼ぼうか?」
「…………」
 彼女はその発作が鎮まっても、いつまでも苦しそうに身体をねじらせたまま、両手で顔を蔽《おお》いながら、ただ頷《うなず》いて見せた。
 私は看護婦を呼びに行った。そして私に構わず先きに走っていった看護婦のすこし後から病室へはいって行くと、病人はその看護婦に両手で支えられるようにしながら、いくぶん楽そうな姿勢に返っていた。が、彼女はうつけたようにぼんやりと目を見ひらいているきりだった。咳の発作は一時止まったらしかった。
 看護婦は彼女を支えていた手を少しずつ放しながら、
「もう止まったわね。……すこうし、そのままじっとしていらっしゃいね」と言って、乱れた毛布などを直したりしはじめた。「いま注射を頼んで来て上げるわ」
 看護婦は部屋を出て行きながら、何処に居ていいか分らなくなってドアのところに棒立ちに立っていた私に、ちょっと耳打ちした。「すこし血痰を出してよ」
 私はやっと彼女の枕元に近づいて行った。
 彼女はぼんやりと目は見ひらいていたが、なんだか眠っているとしか思えなかった。私はその蒼ざめた額にほつれた小さな渦を巻いている髪を掻き上げてやりながら、その冷たく汗ばんだ額を私の手でそっと撫でた。彼女はやっと私の温かい存在をそれに感じでもしたかのように、ちらっと謎のような微笑を脣《くちびる》に漂わせた。

    ※[#アステリズム、1-12-94]

 絶対安静の日々が続いた。
 病室の窓はすっかり黄色い日覆を卸《おろ》され、中は薄暗くされていた。看護婦達も足を爪立てて歩いた。私は殆んど病人の枕元に附きっきりでいた。夜伽《よとぎ》も一人で引き受けていた。ときどき病人は私の方を見て何か言い出しそうにした。私はそれを言わせないように、すぐ指を私の口にあてた。
 そのような沈黙が、私達をそれぞれ各自の考えの裡に引っ込ませていた。が、私達はただ相手が何を考えているのかを、痛いほどはっきりと感じ合っていた。そして私が、今度の出来事を恰《あたか》も自分のために病人が犠牲にしていて呉れたものが、ただ目に見えるものに変っただけかのように思いつめている間、病人はまた病人で、これまで二人してあんなにも細心に細心にと育て上げてきたものを自分の軽はずみから一瞬に打ち壊してしまいでもしたように悔いているらしいのが、はっきりと私に感じられた。
 そしてそういう自分の犠牲を犠牲ともしないで、自分の軽はずみなことばかりを責めているように見える病人のいじらしい気持が、私の心をしめつけていた。そういう犠牲をまで病人に当然の代償のように払わせながら、それがいつ死の床になるかも知れぬようなベッドで、こうして病人と共に愉《たの》しむようにして味わっている生の快楽――それこそ私達を、この上なく幸福にさせてくれるものだと私達が信じているもの、――それは果して私達を本当に満足させ了《おお》せるものだろうか? 私達がいま私達の幸福だと思っているものは、私達がそれを信じているよりは、もっと束の間のもの、もっと気まぐれに近いようなものではないだろうか? ……
 夜伽に疲れた私は、病人の微睡《まどろ》んでいる傍で、そんな考えをとつおいつしながら、この頃ともすれば私達の幸福が何物かに脅かされがちなのを、不安そうに感じていた。


 その危機は、しかし、一週間ばかりで立ち退いた。
 或る朝、看護婦がやっと病室から日覆を取り除けて、窓の一部を開け放して行った。窓から射し込んで来る秋らしい日光をまぶしそうにしながら、
「気持がいいわ」と病人はベッドの中から蘇《よみがえ》ったように言った。
 彼女の枕元で新聞を拡げていた私は、人間に大きな衝動を与える出来事なんぞと云うものは却《かえ》ってそれが過ぎ去った跡は何んだかまるで他所《よそ》の事のように見えるものだなあと思いながら、そういう彼女の方をちらりと見やって、思わず揶揄《やゆ》するような調子で言った。
「もうお父さんが来たって、あんなに興奮しない方がいいよ」
 彼女は顔を心持ち赧《あか》らめながら、そんな私の揶揄を素直に受け入れた。
「こんどはお父様がいらっしたって知らん顔をして居てやるわ」
「それがお前に出来るんならねえ……」
 そんな風に冗談でも言い合うように、私達はお互に相手の気持をいたわり合うようにしながら、一緒になって子供らしく、すべての責任を彼女の父に押しつけ合ったりした。
 そうして私達は少しもわざとらしくなく、この一週間の出来事がほんの何かの間違いに過ぎなかったような、気軽な気分になりながら、いましがたまで私達を肉体的ばかりでなく、精神的にも襲いかかっているように見えた危機を、事もなげに切り抜け出していた。少くとも私達にはそう見えた。……


 或る晩、私は彼女の側で本を読んでいるうち、突然、それを閉じて、窓のところに行き、しばらく考え深そうに佇《たたず》んでいた。それから又、彼女の傍に帰った。私は再び本を取り上げて、それを読み出した。
「どうしたの?」彼女は顔を上げながら私に問うた。
「何んでもない」私は無造作にそう答えて、数秒時本の方に気をとられているような様子をしていたが、とうとう私は口を切った。
「こっちへ来てあんまり何もせずにしまったから、僕はこれから仕事でもしようかと考え出しているのさ」
「そうよ、お仕事をなさらなければいけないわ。お父様もそれを心配なさっていたわ」彼女は真面目な顔つきをして返事をした。「私なんかのことばかり考えていないで……」
「いや、お前のことをもっともっと考えたいんだ……」私はそのとき咄嗟《とっさ》に頭に浮んで来た或る小説の漠としたイデエをすぐその場で追い廻し出しながら、独り言のように言い続けた。「おれはお前のことを小説に書こうと思うのだよ。それより他のことは今のおれには考えられそうもないのだ。おれ達がこうしてお互に与え合っているこの幸福、――皆がもう行き止まりだと思っているところから始っているようなこの生の愉しさ、――そう云った誰も知らないような、おれ達だけのものを、おれはもっと確実なものに、もうすこし形をなしたものに置き換えたいのだ。分るだろう?」
「分るわ」彼女は自分自身の考えでも逐《お》うかのように私の考えを逐っていたらしく、それにすぐ応じた。が、それから口をすこし歪めるように笑いながら、
「私のことならどうでもお好きなようにお書きなさいな」と私を軽く遇《あしら》うように言い足した。
 私はしかし、その言葉を率直に受取った。
「ああ、それはおれの好きなように書くともさ。……が、今度の奴はお前にもたんと助力して貰わなければならないのだよ」
「私にも出来ることなの?」
「ああ、お前にはね、おれの仕事の間、頭から足のさきまで幸福になっていて貰いたいんだ。そうでないと……」
 一人でぼんやりと考え事をしているのよりも、こうやって二人で一緒に考え合っているみたいな方が、余計自分の頭が活溌に働くのを異様に感じながら、私はあとからあとからと湧いてくる思想に押されでもするかのように、病室の中をいつか往ったり来たりし出していた。
「あんまり病人の側にばかりいるから、元気がなくなるのよ。……すこしは散歩でもしていらっしゃらない?」
「うん、おれも仕事をするとなりあ」と私は目を赫《かがや》かせながら、元気よく答えた。「うんと散歩もするよ」

    ※[#アステリズム、1-12-94]

 私はその森を出た。大きな沢を隔てながら、向うの森を越して、八ヶ岳の山麓《さんろく》一帯が私の目の前に果てしなく展開していたが、そのずっと前方、殆んどその森とすれすれぐらいのところに、一つの狭い村とその傾いた耕作地とが横たわり、そして、その一部にいくつもの赤い屋根を翼《つば》さのように拡げたサナトリウムの建物が、ごく小さな姿になりながらしかし明瞭《めいりょう》に認められた。
 私は早朝から、何処をどう歩いて居るのかも知らずに、足の向くまま、自分の考えにすっかり身を任せ切ったようになって、森から森へとさ迷いつづけていたのだったが、いま、そんな風に私の目のあたりに、秋の澄んだ空気が思いがけずに近よせているサナトリウムの小さな姿を、不意に視野に入れた刹那《せつな》、私は急に何か自分に憑《つ》いていたものから醒《さ》めたような気持で、その建物の中で多数の病人達に取り囲まれながら、毎日毎日を何気なさそうに過している私達の生活の異様さを、はじめてそれから引き離して考え出した。そうしてさっきから自分の裡《うち》に湧き立っている制作慾にそれからそれへと促されながら、私はそんな私達の奇妙な日ごと日ごとを一つの異常にパセティックな、しかも物静かな物語に置き換え出した。……「節子よ、これまで二人のものがこんな風に愛し合ったことがあろうとは思えない。いままでお前というものは居なかったのだもの。それから私というものも……」
 私の夢想は、私達の上に起ったさまざまな事物の上を、或る時は迅速に過ぎ、或る時はじっと一ところに停滞し、いつまでもいつまでも躊躇《ためら》っているように見えた。私は節子から遠くに離れてはいたが、その間絶えず彼女に話しかけ、そして彼女の答えるのを聞いた。そういう私達についての物語は、生そのもののように、果てしがないように思われた。そうしてその物語はいつのまにかそれ自身の力でもって生きはじめ、私に構わず勝手に展開し出しながら、ともすれば一ところに停滞しがちな私を其処に取り残したまま、その物語自身があたかもそういう結果を欲しでもするかのように、病める女主人公の物悲しい死を作為しだしていた。――身の終りを予覚しながら、その衰えかかっている力を尽して、つとめて快活に、つとめて気高く生きようとしていた娘、――恋人の腕に抱かれながら、ただその残される者の悲しみを悲しみながら、自分はさも幸福そうに死んで行った娘、――そんな娘の影像が空《くう》に描いたようにはっきりと浮んでくる。……「男は自分達の愛を一層純粋なものにしようと試みて、病身の娘を誘うようにして山のサナトリウムにはいって行くが、死が彼等を脅かすようになると、男はこうして彼等が得ようとしている幸福は、果してそれが完全に得られたにしても彼等自身を満足させ得るものかどうかを、次第に疑うようになる。――が、娘はその死苦のうちに最後まで自分を誠実に介抱して呉れたことを男に感謝しながら、さも満足そうに死んで行く。そして男はそういう気高い死者に助けられながら、やっと自分達のささやかな幸福を信ずることが出来るようになる……」
 そんな物語の結末がまるで其処に私を待ち伏せてでも居たかのように見えた。そして突然、そんな死に瀕《ひん》した娘の影像が思いがけない烈しさで私を打った。私はあたかも夢から覚めたかのように何んともかとも言いようのない恐怖と羞恥とに襲われた。そしてそういう夢想を自分から振り払おうとでもするように、私は腰かけていた※[#「木+無」、第3水準1-86-12]《ぶな》の裸根から荒々しく立ち上った。
 太陽はすでに高く昇っていた。山や森や村や畑、――そうしたすべてのものは秋の穏かな日の中にいかにも安定したように浮んでいた。かなたに小さく見えるサナトリウムの建物の中でも、すべてのものは毎日の習慣を再び取り出しているのに違いなかった。そのうち不意に、それらの見知らぬ人々の間で、いつもの習慣から取残されたまま、一人でしょんぼりと私を待っている節子の寂しそうな姿を頭に浮べると、私は急にそれが気になってたまらないように、急いで山径《やまみち》を下りはじめた。
 私は裏の林を抜けてサナトリウムに帰った。そしてバルコンを迂回《うかい》しながら、一番はずれの病室に近づいて行った。私には少しも気がつかずに、節子は、ベッドの上で、いつもしているように髪の先きを手でいじりながら、いくぶん悲しげな目つきで空《くう》を見つめていた。私は窓硝子《まどガラス》を指で叩こうとしたのをふと思い止まりながら、そういう彼女の姿をじっと見入った。彼女は何かに脅かされているのを漸《や》っと怺《こら》ているとでも云った様子で、それでいてそんな様子をしていることなどは恐らく彼女自身も気がついていないのだろうと思える位、ぼんやりしているらしかった。……私は心臓をしめつけられるような気がしながら、そんな見知らない彼女の姿を見つめていた。……と突然、彼女の顔が明るくなったようだった。彼女は顔をもたげて、微笑さえしだした。彼女は私を認めたのだった。
 私はバルコンからはいりながら、彼女の側に近づいて行った。
「何を考えていたの?」
「なんにも……」彼女はなんだか自分のでないような声で返事をした。
 私がそのまま何も言い出さずに、すこし気が鬱《ふさ》いだように黙っていると、彼女は漸っといつもの自分に返ったような、親密な声で、「何処へ行っていらしったの? 随分長かったのね」
 と私に訊《き》いた。
「向うの方だ」私は無雑作にバルコンの真正面に見える遠い森の方を指した。
「まあ、あんなところまで行ったの? ……お仕事は出来そう?」
「うん、まあ……」私はひどく無愛想に答えたきり、しばらくまた元のような無言に返っていたが、それから出し抜けに私は、
「お前、いまのような生活に満足しているかい?」
 といくらか上ずったような声で訊いた。
 彼女はそんな突拍子もない質問にちょっとたじろいだ様子をしていたが、それから私をじっと見つめ返して、いかにもそれを確信しているように頷《うなず》きながら、
「どうしてそんなことをお訊きになるの?」
 と不審《いぶか》しそうに問い返した。
「おれは何んだかいまのような生活がおれの気まぐれなのじゃないかと思ったんだ。そんなものをいかにも大事なもののようにこうやってお前にも……」
「そんなこと言っちゃ厭《いや》」彼女は急に私を遮った。「そんなことを仰《おっ》しゃるのがあなたの気まぐれなの」
 けれども私はそんな言葉にはまだ満足しないような様子を見せていた。彼女はそういう私の沈んだ様子をしばらくは唯もじもじしながら見守っていたが、とうとう怺え切れなくなったとでも言うように言い出した。
「私が此処でもって、こんなに満足しているのが、あなたにはおわかりにならないの? どんなに体の悪いときでも、私は一度だって家へ帰りたいなんぞと思ったことはないわ。若《も》しあなたが私の側に居て下さらなかったら、私は本当にどうなっていたでしょう? ……さっきだって、あなたがお留守の間、最初のうちはそれでもあなたのお帰りが遅ければ遅いほど、お帰りになったときの悦《よろこ》びが余計になるばかりだと思って、痩我慢《やせがまん》していたんだけれど、――あなたがもうお帰りになると私の思い込んでいた時間をずうっと過ぎてもお帰りにならないので、しまいにはとても不安になって来たの。そうしたら、いつもあなたと一緒にいるこの部屋までがなんだか見知らない部屋のような気がしてきて、こわくなって部屋の中から飛び出したくなった位だったわ。……でも、それから漸《や》っとあなたのいつか仰《おっ》しゃったお言葉を考え出したら、すこうし気が落着いて来たの。あなたはいつか私にこう仰しゃったでしょう、――私達のいまの生活、ずっとあとになって思い出したらどんなに美しいだろうって……」
 彼女はだんだん嗄《しゃが》れたような声になりながらそれを言《い》い畢《お》えると、一種の微笑ともつかないようなもので口元を歪めながら、私をじっと見つめた。
 彼女のそんな言葉を聞いているうちに、たまらぬほど胸が一ぱいになり出した私は、しかし、そういう自分の感動した様子を彼女に見られることを恐れでもするように、そっとバルコンに出て行った。そしてその上から、嘗《かつ》て私達の幸福をそこに完全に描き出したかとも思えたあの初夏の夕方のそれに似た――しかしそれとは全然異った秋の午前の光、もっと冷たい、もっと深味のある光を帯びた、あたり一帯の風景を私はしみじみと見入りだしていた。あのときの幸福に似た、しかしもっともっと胸のしめつけられるような見知らない感動で自分が一ぱいになっているのを感じながら……



   冬

[#地から1字上げ]一九三五年十月二十日
 午後、いつものように病人を残して、私はサナトリウムを離れると、収穫に忙しい農夫等の立ち働いている田畑の間を抜けながら、雑木林を越えて、その山の窪みにある人けの絶えた狭い村に下りた後、小さな谿流《けいりゅう》にかかった吊橋を渡って、その村の対岸にある栗の木の多い低い山へ攀《よ》じのぼり、その上方の斜面に腰を下ろした。そこで私は何時間も、明るい、静かな気分で、これから手を着けようとしている物語の構想に耽《ふけ》っていた。ときおり私の足もとの方で、思い出したように、子供等が栗の木をゆすぶって一どきに栗の実を落す、その谿《たに》じゅうに響きわたるような大きな音に愕《おどろ》かされながら……
 そういう自分のまわりに見聞きされるすべてのものが、私達の生の果実もすでに熟していることを告げ、そしてそれを早く取り入れるようにと自分を促しでもしているかのように感ずるのが、私は好きであった。
 ようやく日が傾いて、早くもその谿の村が向うの雑木山の影の中にすっかりはいってしまうのを認めると、私は徐《しず》かに立ち上って、山を下り、再び吊橋をわたって、あちらこちらに水車がごとごとと音を立てながら絶えず廻っている狭い村の中を何んということはなしに一まわりした後、八ヶ岳の山麓《さんろく》一帯に拡がっている落葉松林《からまつばやし》の縁《へり》を、もうそろそろ病人がもじもじしながら自分の帰りを待っているだろうと考えながら、心もち足を早めてサナトリウムに戻るのだった。


[#地から1字上げ]十月二十三日
 明け方近く、私は自分のすぐ身近でしたような気のする異様な物音に驚いて目を覚ました。そうしてしばらく耳をそば立てていたが、サナトリウム全体は死んだようにひっそりとしていた。それからなんだか目が冴えて、私はもう寝つかれなくなった。
 小さな蛾のこびりついている窓硝子《まどガラス》をとおして、私はぼんやりと暁の星がまだ二つ三つ幽《かす》かに光っているのを見つめていた。が、そのうちに私はそういう朝明けが何んとも云えずに寂しいような気がして来て、そっと起き上ると、何をしようとしているのか自分でも分らないように、まだ暗い隣りの病室へ素足のままではいって行った。そうしてベッドに近づきながら、節子の寝顔を屈《かが》み込《こ》むようにして見た。すると彼女は思いがけず、ぱっちりと目を見ひらいて、そんな私の方を見上げながら、
「どうなすったの?」と訝《いぶか》しそうに訊《き》いた。
 私は何んでもないと云った目くばせをしながら、そのまま徐かに彼女の上に身を屈めて、いかにも怺《こら》え切《き》れなくなったようにその顔へぴったりと自分の顔を押しつけた。
「まあ、冷たいこと」彼女は目をつぶりながら、頭をすこし動かした。髪の毛がかすかに匂った。そのまま私達はお互のつく息を感じ合いながら、いつまでもそうしてじっと頬ずりをしていた。
「あら、又、栗が落ちた……」彼女は目を細目に明けて私を見ながら、そう囁《ささや》いた。
「ああ、あれは栗だったのかい。……あいつのお蔭でおれはさっき目を覚ましてしまったのだ」
 私は少し上ずったような声でそう言いながら、そっと彼女を手放すと、いつの間にかだんだん明るくなり出した窓の方へ歩み寄って行った。そしてその窓に倚《よ》りかかって、いましがたどちらの目から滲《にじ》み出《で》たのかも分らない熱いものが私の頬を伝うがままにさせながら、向うの山の背にいくつか雲の動かずにいるあたりが赤く濁ったような色あいを帯び出しているのを見入っていた。畑の方からはやっと物音が聞え出した。……
「そんな事をしていらっしゃるとお風を引くわ」ベッドから彼女が小さな声で言った。
 私は何か気軽い調子で返事をしてやりたいと思いながら、彼女の方をふり向いた。が、大きく※[#「目+爭」、第3水準1-88-85]《みは》って気づかわしそうに私を見つめている彼女の目と見合わせると、そんな言葉は出されなかった。そうして無言のまま窓を離れて、自分の部屋に戻って行った。
 それから数分立つと、病人は明け方にいつもする、抑えかねたような劇《はげ》しい咳を出した。再び寝床に潜りこみながら、私は何んともかとも云われないような不安な気持でそれを聞いていた。


[#地から1字上げ]十月二十七日
 私はきょうもまた山や森で午後を過した。
 一つの主題が、終日、私の考えを離れない。真の婚約の主題――二人の人間がその余りにも短い一生の間をどれだけお互に幸福にさせ合えるか? 抗《あらが》いがたい運命の前にしずかに頭を項低《うなだ》れたまま、互に心と心と、身と身とを温め合いながら、並んで立っている若い男女の姿、――そんな一組としての、寂しそうな、それでいて何処か愉《たの》しくないこともない私達の姿が、はっきりと私の目の前に見えて来る。それを措《お》いて、いまの私に何が描けるだろうか? ……
 果てしのないような山麓をすっかり黄ばませながら傾いている落葉松林の縁を、夕方、私がいつものように足早に帰って来ると、丁度サナトリウムの裏になった雑木林のはずれに、斜めになった日を浴びて、髪をまぶしいほど光らせながら立っている一人の背の高い若い女が遠く認められた。私はちょっと立ち止まった。どうもそれは節子らしかった。しかしそんな場所に一人きりのようなのを見て、果して彼女かどうか分らなかったので、私はただ前よりも少し足を早めただけだった。が、だんだん近づいて見ると、それはやはり節子であった。
「どうしたんだい?」私は彼女の側に駈けつけて、息をはずませながら訊いた。
「此処であなたをお待ちしていたの」彼女は顔を少し赧《あか》くして笑いながら答えた。
「そんな乱暴な事をしても好いのかなあ」私は彼女の顔を横から見た。
「一遍くらいなら構わないわ。……それにきょうはとても気分が好いのですもの」つとめて快活な声を出してそう言いながら、彼女はなおもじっと私の帰って来た山麓《さんろく》の方を見ていた。「あなたのいらっしゃるのが、ずっと遠くから見えていたわ」
 私は何も言わずに、彼女の側に並んで、同じ方角を見つめた。
 彼女が再び快活そうに言った。「此処まで出ると、八ヶ岳がすっかり見えるのね」
「うん」と私は気のなさそうな返事をしたきりだったが、そのままそうやって彼女と肩を並べてその山を見つめているうちに、ふいと何んだか不思議に混んがらかったような気がして来た。
「こうやってお前とあの山を見ているのはきょうが始めてだったね。だが、おれにはどうもこれまでに何遍もこうやってあれを見ていた事があるような気がするんだよ」
「そんな筈はないじゃあないの?」
「いや、そうだ……おれはいま漸《や》っと気がついた……おれ達はね、ずっと前にこの山を丁度向う側から、こうやって一しょに見ていたことがあるのだ。いや、お前とそれを見ていた夏の時分はいつも雲に妨げられて殆ど何も見えやしなかったのさ。……しかし秋になってから、一人でおれが其処へ行って見たら、ずっと向うの地平線の果てに、この山が今とは反対の側から見えたのだ。あの遠くに見えた、どこの山だかちっとも知らずにいたのが、確かにこれらしい。丁度そんな方角になりそうだ。……お前、あの薄《すすき》がたんと生い茂っていた原を覚えているだろう?」
「ええ」
「だが実に妙だなあ。いま、あの山の麓《ふもと》にこうしてこれまで何も気がつかずにお前と暮らしていたなんて……」丁度二年前の、秋の最後の日、一面に生い茂った薄の間からはじめて地平線の上にくっきりと見出したこの山々を遠くから眺めながら、殆ど悲しいくらいの幸福な感じをもって、二人はいつかはきっと一緒になれるだろうと夢見ていた自分自身の姿が、いかにも懐かしく、私の目に鮮かに浮んで来た。
 私達は沈黙に落ちた。その上空を渡り鳥の群れらしいのが音もなくすうっと横切って行く、その並み重った山々を眺めながら、私達はそんな最初の日々のような慕わしい気持で、肩を押しつけ合ったまま、佇《たたず》んでいた。そうして私達の影がだんだん長くなりながら草の上を這うがままにさせていた。
 やがて風が少し出たと見えて、私達の背後の雑木林が急にざわめき立った。私は「もうそろそろ帰ろう」と不意と思い出したように彼女に言った。
 私達は絶えず落葉のしている雑木林の中へはいって行った。私はときどき立ち止まって、彼女を少し先きに歩かせた。二年前の夏、ただ彼女をよく見たいばかりに、わざと私の二三歩先きに彼女を歩かせながら森の中などを散歩した頃のさまざまな小さな思い出が、心臓をしめつけられる位に、私の裡《うち》に一ぱいに溢《あふ》れて来た。


[#地から1字上げ]十一月二日
 夜、一つの明りが私達を近づけ合っている。その明りの下で、ものを言い合わないことにも馴れて、私がせっせと私達の生の幸福を主題にした物語を書き続けていると、その笠の陰になった、薄暗いベッドの中に、節子は其処にいるのだかいないのだか分らないほど、物静かに寝ている。ときどき私がそっちへ顔を上げると、さっきからじっと私を見つめつづけていたかのように私を見つめていることがある。「こうやってあなたのお側に居さえすれば、私はそれで好いの」と私にさも言いたくってたまらないでいるような、愛情を籠《こ》めた目つきである。ああ、それがどんなに今の私に自分達の所有している幸福を信じさせ、そしてこうやってそれにはっきりした形を与えることに努力している私を助けていて呉れることか!


[#地から1字上げ]十一月十日
 冬になる。空は拡がり、山々はいよいよ近くなる。その山々の上方だけ、雪雲らしいのがいつまでも動かずにじっとしているようなことがある。そんな朝には山から雪に追われて来るのか、バルコンの上までがいつもはあんまり見かけたことのない小鳥で一ぱいになる。そんな雪雲の消え去ったあとは、一日ぐらいその山々の上方だけが薄白くなっていることがある。そしてこの頃はそんないくつかの山の頂きにはそういう雪がそのまま目立つほど残っているようになった。
 私は数年前、屡々《しばしば》、こういう冬の淋しい山岳地方で、可愛らしい娘と二人きりで、世間から全く隔って、お互がせつなく思うほどに愛し合いながら暮らすことを好んで夢みていた頃のことを思い出す。私は自分の小さい時から失わずにいる甘美な人生へのかぎりない夢を、そういう人のこわがるような苛酷《かこく》なくらいの自然の中に、それをそっくりそのまま少しも害《そこな》わずに生かして見たかったのだ。そしてそのためにはどうしてもこういう本当の冬、淋しい山岳地方のそれでなければいけなかったのだ……
 ――夜の明けかかる頃、私はまだその少し病身な娘の眠っている間にそっと起きて、山小屋から雪の中へ元気よく飛び出して行く。あたりの山々は、曙《あけぼの》の光を浴びながら、薔薇色《ばらいろ》に赫《かがや》いている。私は隣りの農家からしぼり立ての山羊の乳を貰って、すっかり凍えそうになりながら戻ってくる。それから自分で煖炉《だんろ》に焚木《たきぎ》をくべる。やがてそれがぱちぱちと活溌な音を立てて燃え出し、その音で漸っとその娘が目を覚ます時分には、もう私はかじかんだ手をして、しかし、さも愉《たの》しそうに、いま自分達がそうやって暮している山の生活をそっくりそのまま書き取っている……
 今朝、私はそういう自分の数年前の夢を思い出し、そんな何処にだってありそうもない版画じみた冬景色を目のあたりに浮べながら、その丸木造りの小屋の中のさまざまな家具の位置を換えたり、それに就いて私自身と相談し合ったりしていた。それから遂にそんな背景はばらばらになり、ぼやけて消えて行きながら、ただ私の目の前には、その夢からそれだけが現実にはみ出しでもしたように、ほんの少しばかり雪の積った山々と、裸になった木立と、冷たい空気とだけが残っていた。……
 一人で先きに食事をすませてしまってから、窓ぎわに椅子をずらしてそんな思い出に耽《ふけ》っていた私は、そのとき急に、いまやっと食事を了《お》え、そのままベッドの上に起きながら、なんとなく疲れを帯びたようなぼんやりした目つきで山の方を見つめている節子の方をふり向いて、その髪の毛の少しほつれている窶《やつ》れたような顔をいつになく痛々しげに見つめ出した。
「このおれの夢がこんなところまでお前を連れて来たようなものなのだろうかしら?」と私は何か悔いに近いような気持で一ぱいになりながら、口には出さずに、病人に向って話しかけた。
「それだというのに、この頃のおれは自分の仕事にばかり心を奪われている。そうしてこんな風にお前の側にいる時だって、おれは現在のお前の事なんぞちっとも考えてやりはしないのだ。それでいて、おれは仕事をしながらお前のことをもっともっと考えているのだと、お前にも、それから自分自身にも言って聞かせてある。そうしておれはいつのまにか好い気になって、お前の事よりも、おれの詰まらない夢なんぞにこんなに時間を潰《つぶ》し出しているのだ……」
 そんな私のもの言いたげな目つきに気がついたのか、病人はベッドの上から、にっこりともしないで、真面目に私の方を見かえしていた。この頃いつのまにか、そんな具合に、前よりかずっと長い間、もっともっとお互を締めつけ合うように目と目を見合わせているのが、私達の習慣になっていた。
(つづく)



底本:「昭和文学全集 第6巻」小学館
   1988(昭和63)年6月1日初版第1刷発行
底本の親本:「堀辰雄全集 第1巻」筑摩書房
   1977(昭和52)年5月28日初版第1刷発行
初出:「風立ちぬ」は「序曲」「春」「風立ちぬ」「冬」「死のかげの谷」の五篇から成っている。
   「序曲」:「改造」1936(昭和11)年12月号に発表された「風立ちぬ」の発端部分を野田書房版(1938(昭和13)年4月10日刊)「風立ちぬ」において「序曲」と改題。
   「春」:「新女苑」1937(昭和12)年4月号に「婚約」と題し発表。
   「風立ちぬ」:「改造」1936(昭和11)年12月号に発表。構成は「発端」「※[#ローマ数字1、1-13-21]」「※[#ローマ数字2、1-13-22]」「※[#ローマ数字3、1-13-23]」の4章から成る。
   「冬」:「文藝春秋」1937(昭和12)年1月号に発表。
   「死のかげの谷」:「新潮」1938(昭和13)年3月号に発表。
初収単行本:「風立ちぬ」野田書房、1938(昭和13)年4月10日
※底本の親本の筑摩全集版は、野田書房版による。初出情報は、「堀辰雄全集 第1巻」筑摩書房、1977(昭和52)年5月28日、解題による。
入力:kompass
校正:浅原庸子
2003年12月29日作成
2004年3月27日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。



*地名

(※ 市町村名は、平成の大合併以前の表記のまま。一般的な国名・地名などは解説省略。
  • 八ヶ岳 やつがたけ 富士火山帯中の成層火山。長野県茅野市・南佐久郡・諏訪郡と山梨県北杜市にまたがる。赤岳(2899m)を最高峰として、硫黄岳・横岳・権現岳など8峰が連なり、山麓斜面が広く、高冷地野菜栽培が盛ん。尖石など先史遺跡が分布。


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)。




*難字、求めよ

  • サナトリウム sanatorium 療養所。郊外・林間・海浜・高原に設け、清浄な空気と日光とを利用し、主として結核症など慢性疾患を治療した施設。
  • まんじり (1) (多く、打消の語を伴う) ちょっと眠るさま。まどろむさま。(2) じっと。まじまじと。
  • ひきもぎる ひきもぐ。引き�ぐ。
  • うつける 空ける・虚ける。(1) 中がうつろになる。(2) 気がぬけてぼんやりする。ぼける。
  • 縊死 いし 自分でくびをくくって死ぬこと。首くくり。首つり。
  • なぞえ すじかい。斜め。また、斜面。
  • 血痰 けったん 血のまじっている痰。
  • 日覆 ひおおい (1) 日光をさえぎるためにおおうもの。ひよけ。ひがくし。(2) 劇場で、舞台の奥の上につるした渡り廊下。また、舞台の前方の上につるした、黒い紙をはった簀の子ともいう。(3) 夏、制帽などの上部をおおう白い布。
  • とつおいつ (取リツ置キツの転) あれこれと。特に、あれやこれやと思い迷うこと。とっつおいつ。
  • イデエ イデー。思惟。理念。観念。
  • イデア idea もと、見られたもの・姿・形の意。プラトン哲学の中心概念で、理性によってのみ認識されうる実在。感覚的世界の個物の本質・原型。また、価値判断の基準となる、永遠不変の価値。近世以降、観念、また理念の意となる。
  • パセティック pathetic 悲壮なさま。悲哀を起こさせるさま。
  • 作為 さくい (1) ことさらに手を加えること。こしらえること。(2) 〔法〕積極的な行為・動作または挙動。金銭を渡す、人を殺すなどがその例。←→不作為。
  • 死苦 しく (1) 〔仏〕四苦または八苦の一種。死の苦しみ。(2) 死ぬほどの苦痛。
  • 羞恥 しゅうち 恥かしく思う気持。はじらいの感情。
  • 朝明け あさあけ 朝、空が明るくなること。また、その時。夜あけ。明けがた。
  • 並み重なる なみかさなる 並み重ぬ(なみかさぬ)。幾重にもかさねる。


◇参照:『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)『日本国語大辞典 第二版』(小学館、2001.5)。



*後記(工作員スリーパーズ日記)


 昨年の暮れ、30日(日)、月に一度の i-cafe 詣で。小雨、のち大雨。ソフトクリームのサービス時間が拡大延長になってる。暖房ガンガンのオープンスペースでゆっくりと食味。
 今回はポメラ DM100 持参で、一昨年11月に購入後はじめてのファームウェア、アップデート(ver 1.2.10.0)。それから二週間。。。
 時刻設定、専用の登録辞書も、以前のがそのまま生きている。カレンダー表示や内容もそのまま引き継いでる。本体メモリのテキストも問題なく残ってる様子。付箋文とキー設定(キーバインド、キー割付)が初期設定になってる。
 
【よくなったところ】
・F8で縦書き/横書きの切り替えが可能に!!
・置換ウインドウが小さくなって、地の文を確認できるようになった。
・「前候補変換」や「カタカナひらがな」キーに「Alt」を割り付けできるようになった! 右手だけでページのアップ・ダウンができるようになった。

【わるくなったところ】
・乾電池アイコンの減少タイミングが改悪された。以前は、メモリが1つ減少したのを見計らって交換予備のエネループを持ち歩けばよかったのに、それがはずされた。

【かわらないところ】
・ファイル中の現在位置をしめすゲージがない。
・例によってボタン電池アイコンの点滅、かわらず。
・文字パレットの文字サイズ、小さいまま(たぶん24ドット)。全体を見渡すにはいいけれども、画数の多い漢字を確認するのはつらい。奥の方の文字へのアクセス(移動)がめんどう。
・タイムスタンプ設定に「2013.1.14 11:26」のようなピリオド表記がほしい。




*次週予告


第五巻 第二六号 
風立ちぬ(三)堀 辰雄


第五巻 第二六号は、
二〇一三年一月一九日(土)発行予定です。
定価:200円


T-Time マガジン 週刊ミルクティー 第五巻 第二五号
風立ちぬ(二)堀 辰雄
発行:二〇一三年一月一二日(土)
編集:しだひろし / PoorBook G3'99
 http://www33.atwiki.jp/asterisk99/
出版:*99 出版
 〒994-0024 山形県天童市鎌田2丁目
 アパートメント山口A−202
販売:DL-MARKET
※ T-Timeは(株)ボイジャーの商標・製品です。