風立ちぬ(一)
堀 辰雄Le vent se l�ve, il faut tenter de vivre.
序曲
それらの夏の日々、一面に
そんな日のある午後、
風立ちぬ、いざ生きめやも。
ふと口をついて出てきたそんな詩句を、わたしはわたしにもたれているおまえの肩に手をかけながら、口の
「まあ! こんなところを、もしお父さまにでも見つかったら……」
おまえはわたしのほうをふり向いて、なんだか
「もう二、三日したらお父さまがいらっしゃるわ」
ある朝のこと、わたしたちが森の中をさまよっているとき、突然おまえがそう言い出した。わたしはなんだか不満そうにだまっていた。するとおまえは、そういうわたしのほうを見ながら、すこししゃがれたような声でふたたび口をきいた。
「そうしたらもう、こんな散歩もできなくなるわね」
「どんな散歩だって、しようと思えばできるさ」
わたしはまだ不満らしく、おまえのいくぶん気づかわしそうな視線を自分の上に感じながら、しかしそれよりももっと、わたしたちの頭上の
「お父さまが、なかなかわたしを離してくださらないわ」
わたしはとうとうじれったいとでもいうような目つきで、おまえのほうを見返した。
「じゃあ、ぼくたちはもう、これでお別れだというのかい?」
「だって仕方がないじゃないの」
そう言っておまえはいかにもあきらめきったように、わたしにつとめて
「どうしてこんなに変わっちゃったんだろうなあ。あんなにわたしに何もかも
それから二、三日したある夕方、わたしは食堂で、おまえがおまえを
「たといわたしがその名を呼んだにしたって……」とわたしは一人でつぶやいた。
その晩、わたしは一人でつまらなそうに出かけて行った散歩からかえってきてからも、しばらくホテルの
おまえたちが
わたしは終日、ホテルに
秋は林の中を見ちがえるばかりに乱雑にしていた。葉のだいぶ少なくなった木々は、その間から、
わたしはそれから十数分後、一つの林のつきたところ、そこから急に打ちひらけて、遠い地平線までも一帯にながめられる、一面に
わたしはそれらの遠い山脈の姿をみんな暗記してしまうぐらい、じっと目に力を入れて見入っているうちに、いままで自分の
春
三月になった。ある午後、わたしがいつものようにぶらっと散歩のついでにちょっと立ち寄ったとでもいったふうに節子の家をおとずれると、門を入ったすぐ横の植え込みの中に、労働者のかぶるような大きな
「あれもこのごろはだいぶ元気になってきたようだが……」父は突然そんなわたしのほうへ顔をもちあげて、そのころ、わたしと婚約したばかりの節子のことを言い出した。
「もうすこしいい陽気になったら、転地でもさせてみたらどうだろうね?」
「それはいいでしょうけれど……」とわたしは口ごもりながら、さっきから目の前にキラキラひかっている一つのツボミがなんだか気になってならないといったふうをしていた。
「どこぞいいところはないかと、このあいだうちから物色しとるのだがね―
「ええ」とわたしはすこし、うわのそらでのように返事をしながら、やっとさっき見つけた白いツボミを手もとにたぐりよせた。
「だが、あそこなんぞは、あれ一人で行っていられるだろうか?」
「みんな一人で行っているようですよ」
「だが、あれにはなかなか行っていられまいね?」
父はなんだか困ったような顔つきをしたまま、しかしわたしのほうを見ずに、自分の目の前にある木の枝の一つへいきなりハサミを入れた。それを見ると、わたしはとうとう
「なんでしたらぼくもいっしょに行ってもいいんです。いま、しかけている仕事のほうも、ちょうどそれまでには片がつきそうですから……」
わたしはそう言いながら、やっと手の中に入れたばかりのツボミのついた枝をふたたびそっと手離した。それと同時に父の顔が急に明るくなったのをわたしは認めた。
「そうしていただけたら、一番いいのだが、
「いいえ、ぼくなんぞにはかえってそういった山の中のほうが仕事ができるかもしれません……」
それからわたしたちはそのサナトリウムのある山岳地方のことなど話し合っていた。が、いつのまにかわたしたちの会話は、父のいま手入れをしている植木の上に落ちていった。二人のいまお互いに感じ合っている一種の同情のようなものが、そんなとりとめのない話をまで活気づけるように見えた。
「節子さんはお起きになっているのかしら?」しばらくしてからわたしは、なにげなさそうに
「さあ、起きとるでしょう。
節子は、わたしの来ていることはもうとうに知っていたらしいが、わたしがそんな庭から入って来ようとは思わなかったらしく、
わたしがフレンチドアごしにそういう彼女を目に入れながら近づいて行くと、彼女のほうでもわたしを認めたらしかった。彼女は無意識に立ち上がろうとするような身動きをした。が、彼女はそのまま横になり、顔をわたしのほうへ向けたまま、すこし気まり悪そうな微笑でわたしを見つめた。
「起きていたの?」わたしは扉のところで、いくぶん乱暴に
「ちょっと起きてみたんだけれど、すぐ疲れちゃったわ」
そう言いながら、彼女はいかにも疲れをおびたような、力なげな手つきで、ただなんということもなしに手でもてあそんでいたらしいその帽子を、すぐ脇にある鏡台の上へ無造作にほうり投げた。が、それはそこまで届かないで床の上に落ちた。わたしはそれに近寄って、ほとんどわたしの顔が彼女の足のさきにくっつきそうになるように
それからわたしはやっと
「そんなもの、いつになったらかぶれるようになるんだか知れやしないのに、お父さまったら、きのう買っておいでになったのよ。
「これ、お父さまのお見立てなの? ほんとうにいいお父さまじゃないか。
「いや、そんなこと……」
彼女はそう言って、うるさそうに、それを避けでもするように、なかば身をおこした。そうして
やがてわたしはそれまで手でもてあそんでいた彼女の帽子を、そっと脇の鏡台の上に載せると、ふいと何か考え出したようにだまりこんで、なおもそういう彼女からは目をそらせつづけていた。
「お
「そうじゃないんだ」とわたしは、やっと彼女のほうへ目をやりながら、それから話の続きでもなんでもなしに、出しぬけにこう言い出した。
「ええ、こうしていても、いつよくなるのだかわからないのですもの。早くよくなれるんなら、どこへでも行っているわ。でも……」
「どうしたのさ? なんて言うつもりだったんだい?」
「なんでもないの」
「なんでもなくってもいいから言ってごらん。
「そんなことじゃないわ」と彼女は急にわたしをさえぎろうとした。
しかしわたしはそれにはかまわずに、最初の調子とは異なって、だんだんまじめになりだした、いくぶん不安そうな調子で言いつづけた。
「……いや、おまえが来なくともいいと言ったって、そりゃあ、ぼくはいっしょに行くとも。だがね、ちょっとこんな気がして、それが気がかりなのだ。
彼女はつとめて
「そんなこと、もう覚えてなんかいないわ」と彼女はキッパリと言った。それからむしろ、わたしのほうをいたわるような目つきでしげしげと見ながら、
それから数分後、わたしたちは、まるでわたしたちの間には何ごともなかったような顔つきをして、フレンチドアの向こうに、
�
四月になってから、節子の病気はいくらかずつ回復期に近づき出しているように見えた。そしてそれがいかにも遅々としていればいるほど、その回復へのもどかしいような一歩一歩は、かえって何か確実なもののように思われ、わたしたちには言い知れず
そんなある日の午後のこと、わたしが行くと、ちょうど父は外出していて、節子は一人で病室にいた。その日はたいへん気分もよさそうで、いつもほとんど着たきりの
「これはライラックだったね?」と彼女のほうをふり向きながら、なかば聞くように言った。
「それがどうもライラックじゃないかもしれないわ」とわたしの肩に軽く手をかけたまま、彼女はすこし気の毒そうに答えた。
「ふん……じゃ、いままで
「
「なあんだ、もういまにも花が咲きそうになってから、そんなことを白状するなんて! じゃあ、どうせあいつも……」
わたしはその隣りにあるしげみのほうを指さしながら、
「
そんな
突然、彼女がわたしの肩にかけていた自分の手の中にその顔をうめた。わたしは彼女の心臓がいつもよりか高く打っているのに気がついた。
「いいえ」と彼女は小声に答えたが、わたしはますますわたしの肩に彼女のゆるやかな重みのかかってくるのを感じた。
「わたしがこんなに弱くって、あなたになんだかお気の毒で……」彼女はそうささやいたのを、わたしは聞いたというよりも、むしろそんな気がしたぐらいのものだった。
「おまえのそういう
「どうして、わたし、このごろこんなに気が弱くなったのかしら? こないだうちは、どんなに病気のひどいときだってなんとも思わなかったくせに……」と、ごく低い声で、ひとりごとでも言うように
それから彼女は聞こえるか聞こえないくらいの小声で言い
�
それは、わたしたちがはじめて出会ったもう二年前にもなる夏のころ、不意にわたしの口をついて出た、そしてそれからわたしがなんということもなしに口ずさむことを好んでいた、
風立ちぬ、いざ生きめやも。
という詩句が、それきりずっと忘れていたのに、またひょっくりとわたしたちによみがえってきたほどの、
わたしたちはその月末に八ヶ岳
ある日、やっとのことで郊外にある節子の家までその院長に来てもらって、最初の診察をうけたあと、
「しかし、こんなことは病人には言わぬようにしたまえ。
駅からわたしが帰って、ふたたび病室に入ってゆくと、父はそのまま寝ている病人のそばに居残って、サナトリウムへ出かける日取りなどの打ち合わせを彼女としだしていた。なんだか浮かない顔をしたまま、わたしもその相談に加わり出した。
二人きりになると、わたしたちはどちらからともなくふっと
「何をしていらっしゃるの?」
わたしの背後で、病人のすこししゃがれた声がした。それが不意にわたしをそんな一種の
「おまえのことだの、山のことだの、それからそこでぼくたちの暮らそうとしている生活のことだのを、考えているのさ……」と、
そんな
「明かりをつけようか?」わたしは急に気をとりなおしながら言った。
「まだ、つけないでおいてちょうだい……」そう答えた彼女の声は、前よりもしわがれていた。
しばらくわたしたちは言葉もなくていた。
「わたし、すこし息ぐるしいの、草のにおいが強くて……」
「じゃ、ここもしめておこうね」
わたしは、ほとんど悲しげな調子でそう応じながら、扉のにぎりに手をかけて、それを引きかけた。
「あなた……」彼女の声は、今度はほとんど中性的なくらいに聞こえた。
わたしはびっくりした様子で、急に彼女のほうをふり向いた。
「泣いてなんかいるものか。
彼女は寝台の中からわたしのほうへその顔を向けようともしなかった。もう薄暗くってそれとはさだかに認めがたいくらいだが、彼女は何かをじっと見つめているらしい。しかしわたしがそれを気づかわしそうに自分の目で追って見ると、ただ
「わかっているの、わたしにも……さっき院長さんに何か言われていらしったのが……」
わたしはすぐ何か答えたかったが、なんの言葉もわたしの口からは出て来なかった。わたしはただ音を立てないようにそっと扉をしめながらふたたび、夕暮れかけた庭面を見入り出した。
やがてわたしは、わたしの背後に深い
「ごめんなさい」彼女はとうとう口をきいた。その声はまだすこしふるえをおびていたが、前よりもずっとおちついていた。
わたしはふりむきながら、彼女がそっと目がしらに指先をあてて、そこにそれをじっと置いているのを認めた。
�
四月下旬のある
すっかりプラットフォームを離れると、わたしたちは窓をしめて、急にさみしくなったような顔つきをして、あいている二等室の
風立ちぬ
わたしたちの乗った汽車が、何度となく山をよじのぼったり、深い渓谷に
「なんだか冷えてきたね。雪でも降るのかな」
「こんな四月になっても雪なんか降るの?」
「うん、このあたりは降らないともかぎらないのだ」
まだ三時ごろだというのに、もうすっかり薄暗くなった窓の外へ目を注いだ。ところどころに真っ黒な
汽車は、いかにも
駅の前に待たせてあった、古い、小さな自動車のところまで、わたしは節子を腕で支えるようにして行った。わたしの腕の中で、彼女がすこしよろめくようになったのを感じたが、わたしはそれには気づかないようなふりをした。
「疲れたろうね?」
「そんなでもないわ」
わたしたちといっしょに下りた数人の土地の者らしい人々が、そういうわたしたちのまわりでなにやらささやき
わたしたちの自動車が、みすぼらしい
節子はちょっと顔をあげ、いくぶん心配そうな目つきで、それをぼんやりと見ただけだった。
サナトリウムに着くと、わたしたちは、そのいちばん奥のほうの、裏がすぐ雑木林になっている、病棟の二階の第一号室に入れられた。簡単な診察後、節子はすぐベッドに寝ているように命じられた。リノリウムで
やっとランプがついた。それからわたしたちは看護婦の運んできてくれた食事に向かい合った。それはわたしたちが二人きりで最初にともにする食事にしては、すこしわびしかった。食事中、外がもう真っ暗なのでなにも気がつかずに、ただなんだかあたりが急にしずかになったと思っていたら、いつのまにか雪になりだしたらしかった。
わたしは立ち上がって、半開きにしてあった窓をもうすこし細目にしながら、そのガラスに顔をくっつけて、それがわたしの息で曇りだしたほど、じっと雪のふるのを見つめていた。それからやっとそこを離れながら、節子のほうを振り向いて、
彼女はベッドに寝たまま、わたしの顔を訴えるように見上げて、それをわたしに言わせまいとするように、口へ指をあてた。
�
八ヶ岳の大きなのびのびとした
サナトリウムの南に開いたバルコニーからは、それらの傾いた村とその
サナトリウムについた翌朝、自分の側室でわたしが目をさますと、小さな窓枠の中に、
すこし寝すごしたくらいのわたしは、いそいで飛び起きて、となりの病室へ入って行った。節子は、すでに目をさましていて、毛布にくるまりながら、ほてったような顔をしていた。
「おはよう」わたしも同じように、顔がほてりだすのを感じながら、気軽そうに言った。
「ええ」彼女はわたしにうなずいて見せた。
わたしはそんなことになんか
「それにとてもおかしな夢を見たの。あのね……」彼女がわたしの背後で言い出しかけた。
わたしはすぐ、彼女がなにか打ち明けにくいようなことを無理に言い出そうとしているらしいのを
今度はわたしが、彼女のほうを振り向きながら、それを言わせないように、口へ指をあてる番だった。
やがて看護婦長がせかせかした親切そうな様子をして入ってきた。こうして看護婦長は、毎朝、病室から病室へと患者たちを一人一人
「ゆうべはよくおやすみになれましたか?」看護婦長は快活そうな声でたずねた。
病人はなにも言わないで、
�
こういう山のサナトリウムの生活などは、普通の人々がもう行き止まりだと信じているところから始まっているような、特殊な人間性をおのずからおびてくるものだ。―
院長はわたしを窓ぎわに連れて行って、わたしにも見よいように、その写真の原板を日に
「思ったよりも
そんな院長の言葉が自分の耳の中でガアガアするような気がしながら、わたしはなんだか思考力を失ってしまった者みたいに、いましがた見てきたあの暗い不思議な花のような
�
こうしてわたしたちのすこし風変わりな愛の生活がはじまった。
節子は入院以来、安静を命じられて、ずっと寝ついたきりだった。そのために、気分のよいときはつとめて起きるようにしていた入院前の彼女にくらべると、かえって病人らしく見えたが、べつに病気そのものは悪化したとも思えなかった。医者たちもまたすぐ
季節はその間に、いままですこし遅れ気味だったのを取り戻すように、急速に進み出していた。春と夏とがほとんど同時に押し寄せてきたかのようだった。毎朝のように、ウグイスや
わたしは、わたしたちが共にした最初の日々、わたしが節子の枕もとにほとんどつききりですごしたそれらの日々のことを思い浮かべようとすると、それらの日々が互いに似ているために、その魅力はなくはない単一さのために、ほとんどどれが後だか先だか見分けがつかなくなるような気がする。
というよりも、わたしたちはそれらの似たような日々をくり返しているうちに、いつかまったく時間というものからも抜け出してしまっていたような気さえするくらいだ。そして、そういう時間から抜け出したような日々にあっては、わたしたちの日常生活のどんな
それらの日々における唯一の出来事といえば、彼女がときおり熱を出すことくらいだった。それは彼女の体をじりじり衰えさせていくものにちがいなかった。が、わたしたちはそういう日は、いつもとすこしも変らない日課の魅力を、もっと細心に、もっと緩慢に、あたかも禁断の果実の味をこっそりぬすみでもするように味わおうと試みたので、わたしたちのいくぶん死の味のする生の幸福はそのときはいっそう完全に保たれたほどだった。
そんなある夕暮れ、わたしはバルコニーから、そして節子はベッドの上から、同じように、向こうの山の背に入って
「何をそんなに考えているの?」わたしの背後から節子がとうとう口を切った。
「わたしたちがずっと後になってね、今のわたしたちの生活を思い出すようなことがあったら、それがどんなに美しいだろうと思っていたんだ」
「本当にそうかもしれないわね」彼女はそうわたしに同意するのがさも
それからまたわたしたちはしばらく無言のまま、ふたたび同じ風景に見入っていた。が、そのうちにわたしは不意になんだか、こうやってうっとりと見入っているのが自分であるような自分でないような、変に
「そんなにいまの……」そういうわたしをじっと見返しながら、彼女はすこししゃがれた声で言いかけた。が、それを言いかけたなり、すこしためらっていたようだったが、それから急にいままでとは異なったうっちゃるような調子で、
「また、そんなことを!」
わたしはいかにもじれったいように小さく
「ごめんなさい」彼女はそう短く答えながら、わたしから顔をそむけた。
いましがたまでの何か自分にもわけのわからないような気分が、わたしにはだんだん一種の
その晩、わたしが隣りの側室へ寝に行こうとしたとき、彼女はわたしを呼び止めた。
「さっきはごめんなさいね」
「もういいんだよ」
「わたしね、あのとき他のことを言おうとしていたんだけれど……つい、あんなことを言ってしまったの」
「じゃ、あのとき何を言おうとしたんだい?」
「……あなたはいつか、自然なんぞがほんとうに美しいと思えるのは死んで行こうとする者の眼にだけだとおっしゃったことがあるでしょう。
その言葉に胸を
いつしかそんな考えをとつおいつ〔あれこれと〕しだしていたわたしが、やっと目を上げるまで、彼女はさっきと同じようにわたしをじっと見つめていた。わたしはその目を
(つづく)
底本:
1988(昭和63)年6月1日初版第1刷発行
底本の親本:
1977(昭和52)年5月28日初版第1刷発行
初出:
「序曲」:
「春」:
「風立ちぬ」:
「冬」:
「死のかげの谷」:
初収単行本:
※底本の親本の筑摩全集版は、野田書房版による。初出情報は、
入力:kompass
校正:浅原庸子
2003年12月29日作成
2004年3月27日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
風立ちぬ(一)
堀辰雄-------------------------------------------------------
【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)薄《すすき》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)八ヶ岳|山麓《さんろく》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#アステリズム、1-12-94]
〔〕:アクセント分解された欧文をかこむ
(例)〔Le vent se le've, il faut tenter de vivre.〕
アクセント分解についての詳細は下記URLを参照してください
http://aozora.gr.jp/accent_separation.html
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〔Le vent se le've, il faut tenter de vivre.〕
[#地付き]〔PAUL VALE'RY〕
序曲
それらの夏の日々、一面に薄《すすき》の生い茂った草原の中で、お前が立ったまま熱心に絵を描いていると、私はいつもその傍らの一本の白樺の木蔭に身を横たえていたものだった。そうして夕方になって、お前が仕事をすませて私のそばに来ると、それからしばらく私達は肩に手をかけ合ったまま、遥か彼方の、縁だけ茜色《あかねいろ》を帯びた入道雲のむくむくした塊りに覆われている地平線の方を眺めやっていたものだった。ようやく暮れようとしかけているその地平線から、反対に何物かが生れて来つつあるかのように……
そんな日の或る午後、(それはもう秋近い日だった)私達はお前の描きかけの絵を画架に立てかけたまま、その白樺の木蔭に寝そべって果物を齧《か》じっていた。砂のような雲が空をさらさらと流れていた。そのとき不意に、何処からともなく風が立った。私達の頭の上では、木の葉の間からちらっと覗いている藍色《あいいろ》が伸びたり縮んだりした。それと殆んど同時に、草むらの中に何かがばったりと倒れる物音を私達は耳にした。それは私達がそこに置きっぱなしにしてあった絵が、画架と共に、倒れた音らしかった。すぐ立ち上って行こうとするお前を、私は、いまの一瞬の何物をも失うまいとするかのように無理に引き留めて、私のそばから離さないでいた。お前は私のするがままにさせていた。
[#ここから2字下げ]
風立ちぬ、いざ生きめやも。
[#ここで字下げ終わり]
ふと口を衝《つ》いて出て来たそんな詩句を、私は私に靠《もた》れているお前の肩に手をかけながら、口の裡《うち》で繰り返していた。それからやっとお前は私を振りほどいて立ち上って行った。まだよく乾いてはいなかったカンヴァスは、その間に、一めんに草の葉をこびつかせてしまっていた。それを再び画架に立て直し、パレット・ナイフでそんな草の葉を除《と》りにくそうにしながら、
「まあ! こんなところを、もしお父様にでも見つかったら……」
お前は私の方をふり向いて、なんだか曖昧《あいまい》な微笑をした。
「もう二三日したらお父様がいらっしゃるわ」
或る朝のこと、私達が森の中をさまよっているとき、突然お前がそう言い出した。私はなんだか不満そうに黙っていた。するとお前は、そういう私の方を見ながら、すこし嗄《しゃが》れたような声で再び口をきいた。
「そうしたらもう、こんな散歩も出来なくなるわね」
「どんな散歩だって、しようと思えば出来るさ」
私はまだ不満らしく、お前のいくぶん気づかわしそうな視線を自分の上に感じながら、しかしそれよりももっと、私達の頭上の梢が何んとはなしにざわめいているのに気を奪《と》られているような様子をしていた。
「お父様がなかなか私を離して下さらないわ」
私はとうとう焦《じ》れったいとでも云うような目つきで、お前の方を見返した。
「じゃあ、僕達はもうこれでお別れだと云うのかい?」
「だって仕方がないじゃないの」
そう言ってお前はいかにも諦め切ったように、私につとめて微笑《ほほえ》んで見せようとした。ああ、そのときのお前の顔色の、そしてその唇《くちびる》の色までも、何んと蒼ざめていたことったら!
「どうしてこんなに変っちゃったんだろうなあ。あんなに私に何もかも任せ切っていたように見えたのに……」と私は考えあぐねたような恰好《かっこう》で、だんだん裸根のごろごろし出して来た狭い山径《やまみち》を、お前をすこし先きにやりながら、いかにも歩きにくそうに歩いて行った。そこいらはもうだいぶ木立が深いと見え、空気はひえびえとしていた。ところどころに小さな沢が食いこんだりしていた。突然、私の頭の中にこんな考えが閃《ひらめ》いた。お前はこの夏、偶然出逢った私のような者にもあんなに従順だったように、いや、もっともっと、お前の父や、それからまたそういう父をも数に入れたお前のすべてを絶えず支配しているものに、素直に身を任せ切っているのではないだろうか? ……「節子! そういうお前であるのなら、私はお前がもっともっと好きになるだろう。私がもっとしっかりと生活の見透しがつくようになったら、どうしたってお前を貰いに行くから、それまではお父さんの許《もと》に今のままのお前でいるがいい……」そんなことを私は自分自身にだけ言い聞かせながら、しかしお前の同意を求めでもするかのように、いきなりお前の手をとった。お前はその手を私にとられるがままにさせていた。それから私達はそうして手を組んだまま、一つの沢の前に立ち止まりながら、押し黙って、私達の足許に深く食いこんでいる小さな沢のずっと底の、下生《したばえ》の羊歯《しだ》などの上まで、日の光が数知れず枝をさしかわしている低い灌木《かんぼく》の隙間をようやくのことで潜り抜けながら、斑《まだ》らに落ちていて、そんな木洩れ日がそこまで届くうちに殆んどあるかないか位になっている微風にちらちらと揺れ動いているのを、何か切ないような気持で見つめていた。
それから二三日した或る夕方、私は食堂で、お前がお前を迎えに来た父と食事を共にしているのを見出した。お前は私の方にぎごちなさそうに背中を向けていた。父の側にいることがお前に殆んど無意識的に取らせているにちがいない様子や動作は、私にはお前をついぞ見かけたこともないような若い娘のように感じさせた。
「たとい私がその名を呼んだにしたって……」と私は一人でつぶやいた。「あいつは平気でこっちを見向きもしないだろう。まるでもう私の呼んだものではないかのように……」
その晩、私は一人でつまらなそうに出かけて行った散歩からかえって来てからも、しばらくホテルの人けのない庭の中をぶらぶらしていた。山百合が匂っていた。私はホテルの窓がまだ二つ三つあかりを洩らしているのをぼんやりと見つめていた。そのうちすこし霧がかかって来たようだった。それを恐れでもするかのように、窓のあかりは一つびとつ消えて行った。そしてとうとうホテル中がすっかり真っ暗になったかと思うと、軽いきしりがして、ゆるやかに一つの窓が開いた。そして薔薇色《ばらいろ》の寝衣《ねまき》らしいものを着た、一人の若い娘が、窓の縁にじっと凭《よ》りかかり出した。それはお前だった。……
お前達が発って行ったのち、日ごと日ごとずっと私の胸をしめつけていた、あの悲しみに似たような幸福の雰囲気を、私はいまだにはっきりと蘇《よみがえ》らせることが出来る。
私は終日、ホテルに閉《と》じ籠《こも》っていた。そうして長い間お前のために打棄《うっちゃ》って置いた自分の仕事に取りかかり出した。私は自分にも思いがけない位、静かにその仕事に没頭することが出来た。そのうちにすべてが他の季節に移って行った。そしていよいよ私も出発しようとする前日、私はひさしぶりでホテルから散歩に出かけて行った。
秋は林の中を見ちがえるばかりに乱雑にしていた。葉のだいぶ少くなった木々は、その間から、人けの絶えた別荘のテラスをずっと前方にのり出させていた。菌類の湿っぽい匂いが落葉の匂いに入りまじっていた。そういう思いがけない位の季節の推移が、――お前と別れてから私の知らぬ間にこんなにも立ってしまった時間というものが、私には異様に感じられた。私の心の裡《うち》の何処かしらに、お前から引き離されているのはただ一時的だと云った確信のようなものがあって、そのためこうした時間の推移までが、私には今までとは全然異った意味を持つようになり出したのであろうか? ……そんなようなことを、私はすぐあとではっきりと確かめるまで、何やらぼんやりと感じ出していた。
私はそれから十数分後、一つの林の尽きたところ、そこから急に打ちひらけて、遠い地平線までも一帯に眺められる、一面に薄《すすき》の生い茂った草原の中に、足を踏み入れていた。そして私はその傍らの、既に葉の黄いろくなりかけた一本の白樺の木蔭に身を横たえた。其処は、その夏の日々、お前が絵を描いているのを眺めながら、私がいつも今のように身を横たえていたところだった。あの時には殆んどいつも入道雲に遮られていた地平線のあたりには、今は、何処か知らない、遠くの山脈までが、真っ白な穂先をなびかせた薄の上を分けながら、その輪廓《りんかく》を一つ一つくっきりと見せていた。
私はそれらの遠い山脈の姿をみんな暗記してしまう位、じっと目に力を入れて見入っているうちに、いままで自分の裡に潜んでいた、自然が自分のために極めて置いてくれたものを今こそ漸《や》っと見出したと云う確信を、だんだんはっきりと自分の意識に上らせはじめていた。……
春
三月になった。或る午後、私がいつものようにぶらっと散歩のついでにちょっと立寄ったとでも云った風に節子の家を訪れると、門をはいったすぐ横の植込みの中に、労働者のかぶるような大きな麦稈帽《むぎわらぼう》をかぶった父が、片手に鋏《はさみ》をもちながら、そこいらの木の手入れをしていた。私はそういう姿を認めると、まるで子供のように木の枝を掻き分けながら、その傍に近づいていって、二言三言挨拶の言葉を交わしたのち、そのまま父のすることを物珍らしそうに見ていた。――そうやって植込みの中にすっぽりと身を入れていると、あちらこちらの小さな枝の上にときどき何かしら白いものが光ったりした。それはみんな莟《つぼみ》らしかった。……
「あれもこの頃はだいぶ元気になって来たようだが」父は突然そんな私の方へ顔をもち上げてその頃私と婚約したばかりの節子のことを言い出した。
「もう少し好い陽気になったら、転地でもさせて見たらどうだろうね?」
「それはいいでしょうけれど……」と私は口ごもりながら、さっきから目の前にきらきら光っている一つの莟がなんだか気になってならないと云った風をしていた。
「何処ぞいいところはないかとこの間うちから物色しとるのだがね――」と父はそんな私には構わずに言いつづけた。「節子はFのサナトリウムなんぞどうか知らんと言うのじゃが、あなたはあそこの院長さんを知っておいでだそうだね?」
「ええ」と私はすこし上の空でのように返事をしながら、やっとさっき見つけた白い莟を手もとにたぐりよせた。
「だが、あそこなんぞは、あれ一人で行って居られるだろうか?」
「みんな一人で行っているようですよ」
「だが、あれにはなかなか行って居られまいね?」
父はなんだか困ったような顔つきをしたまま、しかし私の方を見ずに、自分の目の前にある木の枝の一つへいきなり鋏を入れた。それを見ると、私はとうとう我慢がしきれなくなって、それを私が言い出すのを父が待っているとしか思われない言葉を、ついと口に出した。
「なんでしたら僕も一緒に行ってもいいんです。いま、しかけている仕事の方も、丁度それまでには片がつきそうですから……」
私はそう言いながら、やっと手の中に入れたばかりの莟のついた枝を再びそっと手離した。それと同時に父の顔が急に明るくなったのを私は認めた。
「そうしていただけたら、一番いいのだが、――しかしあなたにはえろう済まんな……」
「いいえ、僕なんぞにはかえってそう云った山の中の方が仕事ができるかも知れません……」
それから私達はそのサナトリウムのある山岳地方のことなど話し合っていた。が、いつのまにか私達の会話は、父のいま手入れをしている植木の上に落ちていった。二人のいまお互に感じ合っている一種の同情のようなものが、そんなとりとめのない話をまで活気づけるように見えた。……
「節子さんはお起きになっているのかしら?」しばらくしてから私は何気なさそうに訊《き》いてみた。
「さあ、起きとるでしょう。……どうぞ、構わんから、其処からあちらへ……」と父は鋏をもった手で、庭木戸の方を示した。私はやっと植込みの中を潜り抜けると、蔦《つた》がからみついて少し開きにくい位になったその木戸をこじあけて、そのまま庭から、この間まではアトリエに使われていた、離れのようになった病室の方へ近づいていった。
節子は、私の来ていることはもうとうに知っていたらしいが、私がそんな庭からはいって来ようとは思わなかったらしく、寝間着の上に明るい色の羽織をひっかけたまま、長椅子の上に横になりながら、細いリボンのついた、見かけたことのない婦人帽を手でおもちゃにしていた。
私がフレンチ扉《ドア》ごしにそういう彼女を目に入れながら近づいて行くと、彼女の方でも私を認めたらしかった。彼女は無意識に立ち上ろうとするような身動きをした。が、彼女はそのまま横になり、顔を私の方へ向けたまま、すこし気まり悪そうな微笑で私を見つめた。
「起きていたの?」私は扉のところで、いくぶん乱暴に靴を脱ぎながら、声をかけた。
「ちょっと起きて見たんだけれど、すぐ疲れちゃったわ」
そう言いながら、彼女はいかにも疲れを帯びたような、力なげな手つきで、ただ何んということもなしに手で弄《もてあそ》んでいたらしいその帽子を、すぐ脇にある鏡台の上へ無造作にほうり投げた。が、それはそこまで届かないで床の上に落ちた。私はそれに近寄って、殆ど私の顔が彼女の足のさきにくっつきそうになるように屈《かが》み込《こ》んで、その帽子を拾い上げると、今度は自分の手で、さっき彼女がそうしていたように、それをおもちゃにし出していた。
それから私はやっと訊《き》いた。「こんな帽子なんぞ取り出して、何をしていたんだい?」
「そんなもの、いつになったら被《かぶ》れるようになるんだか知れやしないのに、お父様ったら、きのう買っておいでになったのよ。……おかしなお父様でしょう?」
「これ、お父様のお見立てなの? 本当に好いお父様じゃないか。……どおれ、この帽子、ちょっとかぶって御覧」と私が彼女の頭にそれを冗談半分かぶせるような真似をしかけると、
「厭《いや》、そんなこと……」
彼女はそう言って、うるさそうに、それを避けでもするように、半ば身を起した。そうして言《い》い訣《わけ》のように弱々しい微笑をして見せながら、ふいと思い出したように、いくぶん痩《や》せの目立つ手で、すこし縺《もつ》れた髪を直しはじめた。その何気なしにしている、それでいていかにも自然に若い女らしい手つきは、それがまるで私を愛撫でもし出したかのような、呼吸《いき》づまるほどセンシュアルな魅力を私に感じさせた。そうしてそれは、思わずそれから私が目をそらさずにはいられないほどだった……
やがて私はそれまで手で弄《もてあそ》んでいた彼女の帽子を、そっと脇の鏡台の上に載せると、ふいと何か考え出したように黙りこんで、なおもそういう彼女からは目をそらせつづけていた。
「おおこりになったの?」と彼女は突然私を見上げながら、気づかわしそうに問うた。
「そうじゃないんだ」と私はやっと彼女の方へ目をやりながら、それから話の続きでもなんでもなしに、出し抜けにこう言い出した。「さっきお父様がそう言っていらしったが、お前、ほんとうにサナトリウムに行く気かい?」
「ええ、こうしていても、いつ良くなるのだか分らないのですもの。早く良くなれるんなら、何処へでも行っているわ。でも……」
「どうしたのさ? なんて言うつもりだったんだい?」
「なんでもないの」
「なんでもなくってもいいから言って御覧。……どうしても言わないね、じゃ僕が言ってやろうか? お前、僕にも一緒に行けというのだろう?」
「そんなことじゃないわ」と彼女は急に私を遮ろうとした。
しかし私はそれには構わずに、最初の調子とは異って、だんだん真面目になりだした、いくぶん不安そうな調子で言いつづけた。
「……いや、お前が来なくともいいと言ったって、そりあ僕は一緒に行くとも。だがね、ちょっとこんな気がして、それが気がかりなのだ。……僕はこうしてお前と一緒にならない前から、何処かの淋しい山の中へ、お前みたいな可哀らしい娘と二人きりの生活をしに行くことを夢みていたことがあったのだ。お前にもずっと前にそんな私の夢を打ち明けやしなかったかしら? ほら、あの山小屋の話さ、そんな山の中に私達は住めるのかしらと云って、あのときはお前は無邪気そうに笑っていたろう? ……実はね、こんどお前がサナトリウムへ行くと言い出しているのも、そんなことが知《し》らず識《し》らずの裡《うち》にお前の心を動かしているのじゃないかと思ったのだ。……そうじゃないのかい?」
彼女はつとめて微笑《ほほえ》みながら、黙ってそれを聞いていたが、
「そんなこともう覚えてなんかいないわ」と彼女はきっぱりと言った。それから寧《むし》ろ私の方をいたわるような目つきでしげしげと見ながら、「あなたはときどき飛んでもないことを考え出すのね……」
それから数分後、私達は、まるで私達の間には何事もなかったような顔つきをして、フレンチ扉《ドア》の向うに、芝生がもう大ぶ青くなって、あちらにもこちらにも陽炎《かげろう》らしいものの立っているのを、一緒になって珍らしそうに眺め出していた。
※[#アステリズム、1-12-94]
四月になってから、節子の病気はいくらかずつ恢復期《かいふくき》に近づき出しているように見えた。そしてそれがいかにも遅々としていればいるほど、その恢復へのもどかしいような一歩一歩は、かえって何か確実なもののように思われ、私達には云い知れず頼もしくさえあった。
そんな或る日の午後のこと、私が行くと、丁度父は外出していて、節子は一人で病室にいた。その日は大へん気分もよさそうで、いつも殆ど着たきりの寝間着を、めずらしく青いブラウスに着換えていた。私はそういう姿を見ると、どうしても彼女を庭へ引っぱり出そうとした。すこしばかり風が吹いていたが、それすら気持のいいくらい軟らかだった。彼女はちょっと自信なさそうに笑いながら、それでも私にやっと同意した。そうして私の肩に手をかけて、フレンチ扉《ドア》から、何んだか危かしそうな足つきをしながら、おずおずと芝生の上へ出て行った。生墻《いけがき》に沿うて、いろんな外国種のも混じって、どれがどれだか見分けられないくらいに枝と枝を交わしながら、ごちゃごちゃに茂っている植込みの方へ近づいてゆくと、それらの茂みの上には、あちらにもこちらにも白や黄や淡紫の小さな莟《つぼみ》がもう今にも咲き出しそうになっていた。私はそんな茂みの一つの前に立ち止まると、去年の秋だったか、それがそうだと彼女に教えられたのをひょっくり思い出して、
「これはライラックだったね?」と彼女の方をふり向きながら、半ば訊くように言った。
「それがどうもライラックじゃないかも知れないわ」と私の肩に軽く手をかけたまま、彼女はすこし気の毒そうに答えた。
「ふん……じゃ、いままで嘘を教えていたんだね?」
「嘘なんか衝《つ》きやしないけれど、そういって人から頂戴したの。……だけど、あんまり好い花じゃないんですもの」
「なあんだ、もういまにも花が咲きそうになってから、そんなことを白状するなんて! じゃあ、どうせあいつも……」
私はその隣りにある茂みの方を指さしながら、「あいつは何んていったっけなあ?」
「金雀児《えにしだ》?」と彼女はそれを引き取った。私達は今度はそっちの茂みの前に移っていった。「この金雀児は本物よ。ほら、黄いろいのと白いのと、莟が二種類あるでしょう? こっちの白いの、それあ珍らしいのですって……お父様の御自慢よ……」
そんな他愛のないことを言い合いながら、その間じゅう節子は私の肩から手をはずさずに、しかし疲れたというよりも、うっとりとしたようになって、私に靠《もた》れかかっていた。それから私達はしばらくそのまま黙り合っていた。そうすることがこういう花咲き匂うような人生をそのまま少しでも引き留めて置くことが出来でもするかのように。ときおり軟らかな風が向うの生墻の間から抑えつけられていた呼吸かなんぞのように押し出されて、私達の前にしている茂みにまで達し、その葉を僅かに持ち上げながら、それから其処にそういう私達だけをそっくり完全に残したまんま通り過ぎていった。
突然、彼女が私の肩にかけていた自分の手の中にその顔を埋めた。私は彼女の心臓がいつもよりか高く打っているのに気がついた。「疲れたの?」私はやさしく彼女に訊いた。
「いいえ」と彼女は小声に答えたが、私はますます私の肩に彼女のゆるやかな重みのかかって来るのを感じた。
「私がこんなに弱くって、あなたに何んだかお気の毒で……」彼女はそう囁《ささや》いたのを、私は聞いたというよりも、むしろそんな気がした位のものだった。
「お前のそういう脆弱《ひよわ》なのが、そうでないより私にはもっとお前をいとしいものにさせているのだと云うことが、どうして分らないのだろうなあ……」と私はもどかしそうに心のうちで彼女に呼びかけながら、しかし表面はわざと何んにも聞きとれなかったような様子をしながら、そのままじっと身動きもしないでいると、彼女は急に私からそれを反らせるようにして顔をもたげ、だんだん私の肩から手さえも離して行きながら、
「どうして、私、この頃こんなに気が弱くなったのかしら? こないだうちは、どんなに病気のひどいときだって何んとも思わなかった癖に……」と、ごく低い声で、独り言でも言うように口ごもった。沈黙がそんな言葉を気づかわしげに引きのばしていた。そのうち彼女が急に顔を上げて、私をじっと見つめたかと思うと、それを再び伏せながら、いくらか上ずったような中音で言った。「私、なんだか急に生きたくなったのね……」
それから彼女は聞えるか聞えない位の小声で言い足した。「あなたのお蔭で……」
※[#アステリズム、1-12-94]
それは、私達がはじめて出会ったもう二年前にもなる夏の頃、不意に私の口を衝《つ》いて出た、そしてそれから私が何んということもなしに口ずさむことを好んでいた、
[#ここから2字下げ]
風立ちぬ、いざ生きめやも。
[#ここで字下げ終わり]
という詩句が、それきりずっと忘れていたのに、又ひょっくりと私達に蘇《よみがえ》ってきたほどの、――云わば人生に先立った、人生そのものよりかもっと生き生きと、もっと切ないまでに愉《たの》しい日々であった。
私達はその月末に八ヶ岳|山麓《さんろく》のサナトリウムに行くための準備をし出していた。私は、一寸した識合《しりあ》いになっている、そのサナトリウムの院長がときどき上京する機会を捉えて、其処へ出かけるまでに一度節子の病状を診て貰うことにした。
或る日、やっとのことで郊外にある節子の家までその院長に来て貰って、最初の診察を受けた後、「なあに大したことはないでしょう。まあ、一二年山へ来て辛抱なさるんですなあ」と病人達に言い残して忙しそうに帰ってゆく院長を、私は駅まで見送って行った。私は彼から自分にだけでも、もっと正確な彼女の病態を聞かしておいて貰いたかったのだった。
「しかし、こんなことは病人には言わぬようにしたまえ。父親《ファタア》にはそのうち僕からもよく話そうと思うがね」院長はそんな前置きをしながら、少し気むずかしい顔つきをして節子の容態をかなり細かに私に説明して呉れた。それからそれを黙って聞いていた私の方をじっと見て、「君もひどく顔色が悪いじゃないか。ついでに君の身体も診ておいてやるんだったな」と私を気の毒がるように言った。
駅から私が帰って、再び病室にはいってゆくと、父はそのまま寝ている病人の傍に居残って、サナトリウムへ出かける日取などの打ち合わせを彼女とし出していた。なんだか浮かない顔をしたまま、私もその相談に加わり出した。「だが……」父はやがて何か用事でも思いついたように、立ち上がりながら、「もうこの位に良くなっているのだから、夏中だけでも行っていたら、よかりそうなものだがね」といかにも不審そうに言って、病室を出ていった。
二人きりになると、私達はどちらからともなくふっと黙り合った。それはいかにも春らしい夕暮であった。私はさっきからなんだか頭痛がしだしているような気がしていたが、それがだんだん苦しくなってきたので、そっと目立たぬように立ち上がると、硝子《ガラス》扉の方に近づいて、その一方の扉を半ば開け放ちながら、それに靠《もたれ》れかかった。そうしてしばらくそのまま私は、自分が何を考えているのかも分からない位にぼんやりして、一面にうっすらと靄《もや》の立ちこめている向うの植込みのあたりへ「いい匂がするなあ、何んの花のにおいだろう――」と思いながら、空虚な目をやっていた。
「何をしていらっしゃるの?」
私の背後で、病人のすこし嗄《しゃが》れた声がした。それが不意に私をそんな一種の麻痺《まひ》したような状態から覚醒《かくせい》させた。私は彼女の方には背中を向けたまま、いかにも何か他のことでも考えていたような、取ってつけたような調子で、
「お前のことだの、山のことだの、それからそこで僕達の暮らそうとしている生活のことだのを、考えているのさ……」と途切れ途切れに言い出した。が、そんなことを言い続けているうちに、私はなんだか本当にそんな事を今しがたまで考えていたような気がしてきた。そうだ、それから私はこんなことも考えていたようだ。――「向うへいったら、本当にいろいろな事が起るだろうなあ。……しかし人生というものは、お前がいつもそうしているように、何もかもそれに任せ切って置いた方がいいのだ。……そうすればきっと、私達がそれを希《ねが》おうなどとは思いも及ばなかったようなものまで、私達に与えられるかも知れないのだ。……」そんなことまで心の裡《うち》で考えながら、それには少しも自分では気がつかずに、私はかえって何んでもないように見える些細《ささい》な印象の方にすっかり気をとられていたのだ。……
そんな庭面《にわも》はまだほの明るかったが、気がついて見ると、部屋のなかはもうすっかり薄暗くなっていた。
「明りをつけようか?」私は急に気をとりなおしながら言った。
「まだつけないでおいて頂戴……」そう答えた彼女の声は前よりも嗄れていた。
しばらく私達は言葉もなくていた。
「私、すこし息ぐるしいの、草のにおいが強くて……」
「じゃ、ここも締めて置こうね」
私は、殆ど悲しげな調子でそう応じながら、扉の握りに手をかけて、それを引きかけた。
「あなた……」彼女の声は今度は殆ど中性的なくらいに聞えた。「いま、泣いていらしったんでしょう?」
私はびっくりした様子で、急に彼女の方をふり向いた。
「泣いてなんかいるものか。……僕を見て御覧」
彼女は寝台の中から私の方へその顔を向けようともしなかった。もう薄暗くってそれとは定かに認めがたい位だが、彼女は何かをじっと見つめているらしい。しかし私がそれを気づかわしそうに自分の目で追って見ると、ただ空《くう》を見つめているきりだった。
「わかっているの、私にも……さっき院長さんに何か言われていらしったのが……」
私はすぐ何か答えたかったが、何んの言葉も私の口からは出て来なかった。私はただ音を立てないようにそっと扉を締めながら再び、夕暮れかけた庭面を見入り出した。
やがて私は、私の背後に深い溜息《ためいき》のようなものを聞いた。
「御免なさい」彼女はとうとう口をきいた。その声はまだ少し顫《ふる》えを帯びていたが、前よりもずっと落着いていた。「こんなこと気になさらないでね……。私達、これから本当に生きられるだけ生きましょうね……」
私はふりむきながら、彼女がそっと目がしらに指先をあてて、そこにそれをじっと置いているのを認めた。
※[#アステリズム、1-12-94]
四月下旬の或る薄曇った朝、停車場まで父に見送られて、私達はあたかも蜜月の旅へでも出かけるように、父の前はさも愉しそうに、山岳地方へ向う汽車の二等室に乗り込んだ。汽車は徐《しず》かにプラットフォームを離れ出した。その跡に、つとめて何気なさそうにしながら、ただ背中だけ少し前屈《まえかが》みにして、急に年とったような様子をして立っている父だけを一人残して。――
すっかりプラットフォームを離れると、私達は窓を締めて、急に淋しくなったような顔つきをして、空いている二等室の一隅に腰を下ろした。そうやってお互の心と心を温め合おうとでもするように、膝と膝とをぴったりとくっつけながら……
風立ちぬ
私達の乗った汽車が、何度となく山を攀《よ》じのぼったり、深い渓谷に沿って走ったり、又それから急に打《う》ち展《ひら》けた葡萄畑《ぶどうばたけ》の多い台地を長いことかかって横切ったりしたのち、漸《や》っと山岳地帯へと果てしのないような、執拗《しつよう》な登攀《とうはん》をつづけ出した頃には、空は一層低くなり、いままではただ一面に鎖《と》ざしているように見えた真っ黒な雲が、いつの間にか離れ離れになって動き出し、それらが私達の目の上にまで圧《お》しかぶさるようであった。空気もなんだか底冷えがしだした。上衣の襟を立てた私は、肩掛にすっかり体を埋めるようにして目をつぶっている節子の、疲れたと云うよりも、すこし興奮しているらしい顔を不安そうに見守っていた。彼女はときどきぼんやりと目をひらいて私の方を見た。はじめのうちは二人はその度毎に目と目で微笑《ほほえ》みあったが、しまいにはただ不安そうに互を見合ったきり、すぐ二人とも目をそらせた。そうして彼女はまた目を閉じた。
「なんだか冷えてきたね。雪でも降るのかな」
「こんな四月になっても雪なんか降るの?」
「うん、この辺は降らないともかぎらないのだ」
まだ三時頃だというのにもうすっかり薄暗くなった窓の外へ目を注いだ。ところどころに真っ黒な樅《もみ》をまじえながら、葉のない落葉松《からまつ》が無数に並び出しているのに、すでに私達は八ヶ岳の裾を通っていることに気がついたが、まのあたり見える筈の山らしいものは影も形も見えなかった。……
汽車は、いかにも山麓《さんろく》らしい、物置小屋と大してかわらない小さな駅に停車した。駅には、高原療養所の印のついた法被《はっぴ》を着た、年とった、小使が一人、私達を迎えに来ていた。
駅の前に待たせてあった、古い、小さな自動車のところまで、私は節子を腕で支えるようにして行った。私の腕の中で、彼女がすこしよろめくようになったのを感じたが、私はそれには気づかないようなふりをした。
「疲れたろうね?」
「そんなでもないわ」
私達と一緒に下りた数人の土地の者らしい人々が、そういう私達のまわりで何やら囁《ささや》き合《あ》っていたようだったが、私達が自動車に乗り込んでいるうちに、いつのまにかその人々は他の村人たちに混って見分けにくくなりながら、村のなかに消えていた。
私達の自動車が、みすぼらしい小家の一列に続いている村を通り抜けた後、それが見えない八ヶ岳の尾根までそのまま果てしなく拡がっているかと思える凸凹の多い傾斜地へさしかかったと思うと、背後に雑木林を背負いながら、赤い屋根をした、いくつもの側翼のある、大きな建物が、行く手に見え出した。「あれだな」と、私は車台の傾きを身体に感じ出しながら、つぶやいた。
節子はちょっと顔を上げ、いくぶん心配そうな目つきで、それをぼんやりと見ただけだった。
サナトリウムに着くと、私達は、その一番奥の方の、裏がすぐ雑木林になっている、病棟の二階の第一号室に入れられた。簡単な診察後、節子はすぐベッドに寝ているように命じられた。リノリウムで床を張った病室には、すべて真っ白に塗られたベッドと卓と椅子と、――それからその他には、いましがた小使が届けてくれたばかりの数箇のトランクがあるきりだった。二人きりになると、私はしばらく落着かずに、附添人のために宛てられた狭苦しい側室にはいろうともしないで、そんなむき出しな感じのする室内をぼんやりと見廻したり、又、何度も窓に近づいては、空模様ばかり気にしていた。風が真っ黒な雲を重たそうに引きずっていた。そしてときおり裏の雑木林から鋭い音を※[#「てへん+宛」、第3水準1-84-80]《も》いだりした。私は一度寒そうな恰好《かっこう》をしてバルコンに出て行った。バルコンは何んの仕切もなしにずっと向うの病室まで続いていた。その上には全く人けが絶えていたので、私は構わずに歩き出しながら、病室を一つ一つ覗いて行って見ると、丁度四番目の病室のなかに、一人の患者の寝ているのが半開きになった窓から見えたので、私はいそいでそのまま引っ返して来た。
やっとランプが点《つ》いた。それから私達は看護婦の運んで来てくれた食事に向い合った。それは私達が二人きりで最初に共にする食事にしては、すこし佗《わ》びしかった。食事中、外がもう真っ暗なので何も気がつかずに、唯何んだかあたりが急に静かになったと思っていたら、いつのまにか雪になり出したらしかった。
私は立ち上って、半開きにしてあった窓をもう少し細目にしながら、その硝子《ガラス》に顔をくっつけて、それが私の息で曇りだしたほど、じっと雪のふるのを見つめていた。それからやっと其処を離れながら、節子の方を振り向いて、「ねえ、お前、何んだってこんな……」と言い出しかけた。
彼女はベッドに寝たまま、私の顔を訴えるように見上げて、それを私に言わせまいとするように、口へ指をあてた。
※[#アステリズム、1-12-94]
八ヶ岳の大きなのびのびとした代赭色《たいしゃいろ》の裾野が漸くその勾配を弛《ゆる》めようとするところに、サナトリウムは、いくつかの側翼を並行に拡げながら、南を向いて立っていた。その裾野の傾斜は更に延びて行って、二三の小さな山村を村全体傾かせながら、最後に無数の黒い松にすっかり包まれながら、見えない谿間《たにま》のなかに尽きていた。
サナトリウムの南に開いたバルコンからは、それらの傾いた村とその赭《あか》ちゃけた耕作地が一帯に見渡され、更にそれらを取り囲みながら果てしなく並み立っている松林の上に、よく晴れている日だったならば、南から西にかけて、南アルプスとその二三の支脈とが、いつも自分自身で湧き上らせた雲のなかに見え隠れしていた。
サナトリウムに着いた翌朝、自分の側室で私が目を醒《さ》ますと、小さな窓枠の中に、藍青色《らんせいしょく》に晴れ切った空と、それからいくつもの真っ白い鶏冠のような山巓《さんてん》が、そこにまるで大気からひょっくり生れでもしたような思いがけなさで、殆んど目《ま》ながいに見られた。そして寝たままでは見られないバルコンや屋根の上に積った雪からは、急に春めいた日の光を浴びながら、絶えず水蒸気がたっているらしかった。
すこし寝過したくらいの私は、いそいで飛び起きて、隣りの病室へはいって行った。節子は、すでに目を醒ましていて、毛布にくるまりながら、ほてったような顔をしていた。
「お早う」私も同じように、顔がほてり出すのを感じながら、気軽そうに言った。「よく寝られた?」
「ええ」彼女は私にうなずいて見せた。「ゆうべ睡眠剤《くすり》を飲んだの。なんだか頭がすこし痛いわ」
私はそんなことになんか構っていられないと云った風に、元気よく窓も、それからバルコンに通じる硝子《ガラス》扉も、すっかり開け放した。まぶしくって、一時は何も見られない位だったが、そのうちそれに目がだんだん馴れてくると、雪に埋れたバルコンからも、屋根からも、野原からも、木からさえも、軽い水蒸気の立っているのが見え出した。
「それにとても可笑《おか》しな夢を見たの。あのね……」彼女が私の背後で言い出しかけた。
私はすぐ、彼女が何か打ち明けにくいようなことを無理に言い出そうとしているらしいのを覚《さと》った。そんな場合のいつものように、彼女のいまの声もすこし嗄《しゃが》れていた。
今度は私が、彼女の方を振り向きながら、それを言わせないように、口へ指をあてる番だった。……
やがて看護婦長がせかせかした親切そうな様子をしてはいって来た。こうして看護婦長は、毎朝、病室から病室へと患者達を一人一人見舞うのである。
「ゆうべはよくお休みになれましたか?」看護婦長は快活そうな声で尋ねた。
病人は何も言わないで、素直にうなずいた。
※[#アステリズム、1-12-94]
こういう山のサナトリウムの生活などは、普通の人々がもう行き止まりだと信じているところから始まっているような、特殊な人間性をおのずから帯びてくるものだ。――私が自分の裡《うち》にそういう見知らないような人間性をぼんやりと意識しはじめたのは、入院後間もなく私が院長に診察室に呼ばれて行って、節子のレントゲンで撮られた疾患部の写真を見せられた時からだった。
院長は私を窓ぎわに連れて行って、私にも見よいように、その写真の原板を日に透かせながら、一々それに説明を加えて行った。右の胸には数本の白々とした肋骨《ろっこつ》がくっきりと認められたが、左の胸にはそれらが殆んど何も見えない位、大きな、まるで暗い不思議な花のような、病竈《びょうそう》ができていた。
「思ったよりも病竈が拡がっているなあ。……こんなにひどくなってしまって居るとは思わなかったね。……これじゃ、いま、病院中でも二番目ぐらいに重症かも知れんよ……」
そんな院長の言葉が自分の耳の中でがあがあするような気がしながら、私はなんだか思考力を失ってしまった者みたいに、いましがた見て来たあの暗い不思議な花のような影像《イマアジュ》をそれらの言葉とは少しも関係がないもののように、それだけを鮮かに意識の閾《しきみ》に上らせながら、診察室から帰って来た。自分とすれちがう白衣の看護婦だの、もうあちこちのバルコンで日光浴をしだしている裸体の患者達だの、病棟のざわめきだの、それから小鳥の囀《さえず》りだのが、そういう私の前を何んの連絡もなしに過ぎた。私はとうとう一番はずれの病棟にはいり、私達の病室のある二階へ通じる階段を昇ろうとして機械的に足を弛《ゆる》めた瞬間、その階段の一つ手前にある病室の中から、異様な、ついぞそんなのはまだ聞いたこともないような気味のわるい空咳が続けさまに洩れて来るのを耳にした。「おや、こんなところにも患者がいたのかなあ」と思いながら、私はそのドアについている No.17 という数字を、ただぼんやりと見つめた。
※[#アステリズム、1-12-94]
こうして私達のすこし風変りな愛の生活が始まった。
節子は入院以来、安静を命じられて、ずっと寝ついたきりだった。そのために、気分の好いときはつとめて起きるようにしていた入院前の彼女に比べると、かえって病人らしく見えたが、別に病気そのものは悪化したとも思えなかった。医者達もまた直ぐ快癒する患者として彼女をいつも取り扱っているように見えた。「こうして病気を生捕りにしてしまうのだ」と院長などは冗談でも言うように言ったりした。
季節はその間に、いままで少し遅れ気味だったのを取り戻すように、急速に進み出していた。春と夏とが殆んど同時に押し寄せて来たかのようだった。毎朝のように、鶯や閑古鳥の囀りが私達を眼ざませた。そして殆んど一日中、周囲の林の新緑がサナトリウムを四方から襲いかかって、病室の中まですっかり爽《さわ》やかに色づかせていた。それらの日々、朝のうちに山々から湧いて出て行った白い雲までも、夕方には再び元の山々へ立ち戻って来るかと見えた。
私は、私達が共にした最初の日々、私が節子の枕もとに殆んど附ききりで過したそれらの日々のことを思い浮べようとすると、それらの日々が互に似ているために、その魅力はなくはない単一さのために、殆んどどれが後だか先きだか見分けがつかなくなるような気がする。
と言うよりも、私達はそれらの似たような日々を繰り返しているうちに、いつか全く時間というものからも抜け出してしまっていたような気さえする位だ。そして、そういう時間から抜け出したような日々にあっては、私達の日常生活のどんな些細《ささい》なものまで、その一つ一つがいままでとは全然異った魅力を持ち出すのだ。私の身近にあるこの微温《なまぬる》い、好い匂いのする存在、その少し早い呼吸、私の手をとっているそのしなやかな手、その微笑、それからまたときどき取り交わす平凡な会話、――そう云ったものを若《も》し取り除いてしまうとしたら、あとには何も残らないような単一な日々だけれども、――我々の人生なんぞというものは要素的には実はこれだけなのだ、そして、こんなささやかなものだけで私達がこれほどまで満足していられるのは、ただ私がそれをこの女と共にしているからなのだ、と云うことを私は確信して居られた。
それらの日々に於ける唯一の出来事と云えば、彼女がときおり熱を出すこと位だった。それは彼女の体をじりじり衰えさせて行くものにちがいなかった。が、私達はそういう日は、いつもと少しも変らない日課の魅力を、もっと細心に、もっと緩慢に、あたかも禁断の果実の味をこっそり偸《ぬす》みでもするように味わおうと試みたので、私達のいくぶん死の味のする生の幸福はその時は一そう完全に保たれた程だった。
そんな或る夕暮、私はバルコンから、そして節子はベッドの上から、同じように、向うの山の背に入って間もない夕日を受けて、そのあたりの山だの丘だの松林だの山畑だのが、半ば鮮かな茜色《あかねいろ》を帯びながら、半ばまだ不確かなような鼠色《ねずみいろ》に徐々に侵され出しているのを、うっとりとして眺めていた。ときどき思い出したようにその森の上へ小鳥たちが抛物線《ほうぶつせん》を描いて飛び上った。――私は、このような初夏の夕暮がほんの一瞬時生じさせている一帯の景色は、すべてはいつも見馴れた道具立てながら、恐らく今を措《お》いてはこれほどの溢《あふ》れるような幸福の感じをもって私達自身にすら眺め得られないだろうことを考えていた。そしてずっと後になって、いつかこの美しい夕暮が私の心に蘇《よみがえ》って来るようなことがあったら、私はこれに私達の幸福そのものの完全な絵を見出すだろうと夢みていた。
「何をそんなに考えているの?」私の背後から節子がとうとう口を切った。
「私達がずっと後になってね、今の私達の生活を思い出すようなことがあったら、それがどんなに美しいだろうと思っていたんだ」
「本当にそうかも知れないわね」彼女はそう私に同意するのがさも愉《たの》しいかのように応じた。
それからまた私達はしばらく無言のまま、再び同じ風景に見入っていた。が、そのうちに私は不意になんだか、こうやってうっとりと見入っているのが自分であるような自分でないような、変に茫漠《ぼうばく》とした、取りとめのない、そしてそれが何んとなく苦しいような感じさえして来た。そのとき私は自分の背後で深い息のようなものを聞いたような気がした。が、それがまた自分のだったような気もされた。私はそれを確かめでもするように、彼女の方を振り向いた。
「そんなにいまの……」そういう私をじっと見返しながら、彼女はすこし嗄《しゃが》れた声で言いかけた。が、それを言いかけたなり、すこし躊躇《ためら》っていたようだったが、それから急にいままでとは異った打棄《うっちゃ》るような調子で、「そんなにいつまでも生きて居られたらいいわね」と言い足した。
「又、そんなことを!」
私はいかにも焦《じ》れったいように小さく叫んだ。
「御免なさい」彼女はそう短く答えながら私から顔をそむけた。
いましがたまでの何か自分にも訣《わけ》の分らないような気分が私にはだんだん一種の苛《い》ら立《だ》たしさに変り出したように見えた。私はそれからもう一度山の方へ目をやったが、その時は既にもうその風景の上に一瞬間生じていた異様な美しさは消え失せていた。
その晩、私が隣りの側室へ寝に行こうとした時、彼女は私を呼び止めた。
「さっきは御免なさいね」
「もういいんだよ」
「私ね、あのとき他のことを言おうとしていたんだけれど……つい、あんなことを言ってしまったの」
「じゃ、あのとき何を言おうとしたんだい?」
「……あなたはいつか自然なんぞが本当に美しいと思えるのは死んで行こうとする者の眼にだけだと仰《おっ》しゃったことがあるでしょう。……私、あのときね、それを思い出したの。何んだかあのときの美しさがそんな風に思われて」そう言いながら、彼女は私の顔を何か訴えたいように見つめた。
その言葉に胸を衝《つ》かれでもしたように、私は思わず目を伏せた。そのとき、突然、私の頭の中を一つの思想がよぎった。そしてさっきから私を苛ら苛らさせていた、何か不確かなような気分が、漸《ようや》く私の裡《うち》ではっきりとしたものになり出した。……「そうだ、おれはどうしてそいつに気がつかなかったのだろう? あのとき自然なんぞをあんなに美しいと思ったのはおれじゃないのだ。それはおれ達[#「おれ達」に傍点]だったのだ。まあ言って見れば、節子の魂がおれの眼を通して、そしてただおれの流儀で、夢みていただけなのだ。……それだのに、節子が自分の最後の瞬間のことを夢みているとも知らないで、おれはおれで、勝手におれ達の長生きした時のことなんぞ考えていたなんて……」
いつしかそんな考えをとつおいつし出していた私が、漸《や》っと目を上げるまで、彼女はさっきと同じように私をじっと見つめていた。私はその目を避けるような恰好《かっこう》をしながら、彼女の上に跼《かが》みかけて、その額にそっと接吻した。私は心から羞《はず》かしかった。……
(つづく)
底本:「昭和文学全集 第6巻」小学館
1988(昭和63)年6月1日初版第1刷発行
底本の親本:「堀辰雄全集 第1巻」筑摩書房
1977(昭和52)年5月28日初版第1刷発行
初出:「風立ちぬ」は「序曲」「春」「風立ちぬ」「冬」「死のかげの谷」の五篇から成っている。
「序曲」:「改造」1936(昭和11)年12月号に発表された「風立ちぬ」の発端部分を野田書房版(1938(昭和13)年4月10日刊)「風立ちぬ」において「序曲」と改題。
「春」:「新女苑」1937(昭和12)年4月号に「婚約」と題し発表。
「風立ちぬ」:「改造」1936(昭和11)年12月号に発表。構成は「発端」「※[#ローマ数字1、1-13-21]」「※[#ローマ数字2、1-13-22]」「※[#ローマ数字3、1-13-23]」の4章から成る。
「冬」:「文藝春秋」1937(昭和12)年1月号に発表。
「死のかげの谷」:「新潮」1938(昭和13)年3月号に発表。
初収単行本:「風立ちぬ」野田書房、1938(昭和13)年4月10日
※底本の親本の筑摩全集版は、野田書房版による。初出情報は、「堀辰雄全集 第1巻」筑摩書房、1977(昭和52)年5月28日、解題による。
入力:kompass
校正:浅原庸子
2003年12月29日作成
2004年3月27日修正
青空文庫作成ファイル:
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*地名
(※ 市町村名は、平成の大合併以前の表記のまま。一般的な国名・地名などは解説省略。- 八ヶ岳 やつがたけ 富士火山帯中の成層火山。長野県茅野市・南佐久郡・諏訪郡と山梨県北杜市にまたがる。赤岳(2899m)を最高峰として、硫黄岳・横岳・権現岳など8峰が連なり、山麓斜面が広く、高冷地野菜栽培が盛ん。尖石など先史遺跡が分布。
- 南アルプス みなみ アルプス (1) 日本アルプスを構成する赤石山脈の別称。(2) 山梨県中西部、南アルプス山系の北東部とその扇状地から成る市。果樹栽培が盛ん。人口7万2千。
◇参照:Wikipedia、
*人物一覧
(人名、および組織・団体名・神名)- ヴァレリー Paul Val�ry 1871-1945 フランスの詩人・思想家。マラルメの高弟で、象徴詩から純粋詩へと進み、文学・芸術・文化全般にわたり精妙な評論を書く。詩「若きパルク」
「海辺の墓地」、評論「精神の危機」、対話篇「ユーパリノス」など。遺稿に「カイエ」 。
◇参照:Wikipedia、
*難字、求めよ
- vent (ヴァン)風。
(英、wind) - leve (1) 上がった。挙げた。(2) 起床した。起立した。
- il (イル)
(英、he, it) - faut …しなければならない。
- tenter (タンテ)(1) 試みる。ためしてみる。
- de (ドゥ)
(英、of, from) - vivre (ヴィーヴル)(1) 生きる。生きている。
- 画架 がか 絵を描く時にカンバスや画板を支える台。イーゼル。
- きづかわしい 気遣わしい 気がかりである。心配だ。心もとない。
- 裸根 はだかね 樹木などの根が、地表に露出したもの。
- 下生え したばえ 木の下に生えた草や低木など。
- 灌木 かんぼく (1) 枝がむらがり生える樹木。(2) (→)低木に同じ。←
→喬木。 - このあいだうち 此間内。せんだって。先ごろ。こないだうち。
- サナトリウム sanatorium 療養所。郊外・林間・海浜・高原に設け、清浄な空気と日光とを利用し、主として結核症など慢性疾患を治療した施設。
- フレンチドア 観音開きの扉。
- センシュアル sensual 官能的。肉感的。肉欲的。
- 淡紫 あわむらさき
- 金雀枝・金雀児 エニシダ (ラテン語ゲニスタ(genista)が転訛したスペイン語イニエスタ(hiniesta)から) マメ科の落葉低木。南欧原産の観賞植物。高さ約1.5m。茎は深緑色で縦稜がある。5月頃、葉腋に黄金色の蝶形花をつけ、両縁に毛のある莢(さや)を生ずる。紅斑のある花や白花などの園芸品種が多い。
- 夏中 なつなか 夏のなかば。夏の盛り。
- よかりそう 良-。〔連語〕(形容詞「よし」の補助活用連用形に様態の助動詞「そうだ」のついた形)そうする、またはそうあるのがよいだろうと思われるさま。よさそう。
- 小屋・小家 おや 小さい家。こや。
- 側翼 そくよく 建物の中心部から外側に長く伸びた部分。
- リノリウム linoleum 亜麻仁油の酸化物リノキシンに樹脂・コルク粉・顔料などを混合し、麻布などに塗って薄板状に成形したもの。床敷・壁張材料に用いる。高い抗菌力がある。
- 側室 そくしつ (3) おもだった部屋に添えられた部屋。次の間。副室。
- �ぐ もぐ
- 代赭色 たいしゃいろ 代赭に似た色。帯褐黄色。
- 代赭 たいしゃ (1) (中国山西省代県から良質のものを産するのでいう) 赤褐色ないし黄褐色の顔料。酸化鉄(III)を主成分とするもので黄土に近く、天然物である。(2) 代赭色の略。
- 藍青色 らんせいしょく あい色がかった空色。
- 山巓・山顛 さんてん 山のいただき。山頂。
- 目ながい まながい。まなかい。眼間・目交。
(目(ま)の交(か)いの意)目と目の間。転じて、目の前。まのあたり。 - 病巣・病竈 びょうそう 病に侵されている箇所。病原のある箇所。
- かんこどり (カッコウドリの訛か。
「閑古鳥」と当て字) カッコウ。 - とつおいつ (取リツ置キツの転) あれこれと。特に、あれやこれやと思い迷うこと。とっつおいつ。
◇参照:
*後記(工作員 日記)
大晦日。山形のヤマダ電機にてソニー Reader、最新モデルの PRS-T2(ルージュ)と microSDカード16GB を購入。しめて1萬2000圓弱。
展示コーナーにはモックアップが2台と、実機は2010年モデルの PRS-350 のみ。楽天 kobo もアマゾン Kindle もない。
まずなにより軽い。昨年モデルとくらべて、リフレッシュ白黒反転もかなり気にならなくなってる。ページめくりは軽快。ユーザーインターフェイスはどうしようもなくしょぼい。
問題は、自炊 pdf 表示の利用にたえうるかどうか。インプレションが悪くなかったので店員さんと談判。持参した SDカードを差し込んで確認。読み込みにしばし……2、3分。カード内のすべてのテキスト、画像、pdf を自動的に読み込んで、新規にサムネイルを作成してるらしい。本棚につぎつぎと表示される。
さて pdf。テキストや epub ファイルにくらべると、表示、ページめくり、拡大、移動に多少時間がかかる。ファイルの作り方やサイズにもよるのだろうが、バタバタもっさり感がある。このあたり、ドコモの7インチのタブレット MEDIAS TAB UL(1.5GHz デュアルコア、Android 4.0)や、同じく GALAXY note II(1.6GHz クアッドコア、Android 4.1)のほうが上。現状これが、e インク電子ペーパーの限界だろう。
6インチモニタだから、文庫本にしても新書にしても原寸サイズの表示はまともに期待できない。横置きにしたときの分割表示がスムーズかどうか、文字確認できるレベルかどうか……、このあたりが青空工作員としての要求。200 ないし 300dpi、グレースケールでスキャンした画像 pdf をマックスまで拡大。どうやら Adobe のAcrobat Reader や Mac のプレビューの1600%拡大表示にはまったくおよばない。実寸と同程度か、せいぜい110〜120%ってところだろうか。モノクロ二階調ないしベクターファイルは未確認。
お持ち帰り♪〜。Mac OS X 10.5.8 以上が要求される環境になってるが、パソコンとの接続初期設定なしでも使用できた。同期や本棚の細かい設定はできないが、USB ケーブルで OS 9 や OS X 4(Tiger)とすんなり接続できてしまった。
いろいろファイルをつっこんでみると、どうやら OS 9 で作った日本語名のファイルに限って Reader 側で文字化けしている。たぶん表示システムの違いか。.book が利用できるってことは、もしや ttz も見れる? との期待むなしくはじかれる。アプリケーションにブラウザがあるんだから html ファイルも表示できそうなもんだけれど、これもダメ。文字サイズの拡大縮小はできるのに、行間やマージンの変更はできない。なによりも、ファイルのフォルダ管理できないっていうのだからミニマム設計にもほどがある。5階層に割り切ってフォルダ管理できるようになったポメラ DM100 を見習うべし。
自炊していて、pdf ファイルがあって、epub を自作して確認する環境が手っ取り早くほしいというユーザーにはおすすめ。毎年のようにバージョンを上げてくる可能性はあるが、ガシガシ使ってくださいという価格設定だから、そのつもりで使ってみたい。往年のインフォキャリーや PDA のように消えて続かないってことはないんじゃないかなあ……と。
既成の電子本を楽しみたい人や、パソコンを持ってない人、
*次週予告
第五巻 第二五号
風立ちぬ(二)堀 辰雄
第五巻 第二五号は、
二〇一三年一月一二日(土)発行予定です。
定価:200円
T-Time マガジン 週刊ミルクティー* 第五巻 第二四号
風立ちぬ(一)堀 辰雄
発行:二〇一三年一月五日(土)
編集:しだひろし / PoorBook G3'99
http://www33.atwiki.jp/asterisk99/
出版:*99 出版
〒994-0024 山形県天童市鎌田2丁目
アパートメント山口A−202
販売:DL-MARKET
※ T-Timeは(株)ボイジャーの商標・製品です。
- T-Time マガジン 週刊ミルクティー* *99 出版
- バックナンバー
※ おわびと訂正
長らく、創刊号と第一巻第六号の url 記述が誤っていたことに気がつきませんでした。アクセスを試みてくださったみなさま、申しわけありませんでした。(しょぼーん)/2012.3.2 しだ
- 第一巻
- 創刊号 竹取物語 和田万吉
- 第二号 竹取物語小論 島津久基(210円)
- 第三号 竹取物語の再検討(一)橘 純一(210円)
- 第四号 竹取物語の再検討(二)橘 純一(210円)
「絵合」 『源氏物語』より 紫式部・与謝野晶子(訳) - 第五号
『国文学の新考察』より 島津久基(210円)- 昔物語と歌物語 / 古代・中世の「作り物語」/
- 平安朝文学の弾力 / 散逸物語三つ
- 第六号 特集 コロボックル考 石器時代総論要領 / コロボックル北海道に住みしなるべし 坪井正五郎 マナイタのばけた話 小熊秀雄 親しく見聞したアイヌの生活 / 風に乗って来るコロポックル 宮本百合子
- 第七号 コロボックル風俗考(一〜三)坪井正五郎(210円)
- シペ物語 / カナメの跡 工藤梅次郎
- 第八号 コロボックル風俗考(四〜六)坪井正五郎(210円)
- 第九号 コロボックル風俗考(七〜十)坪井正五郎(210円)
- 第十号 特集 コロボックル考 喜田貞吉
- 日本太古の民族について / 日本民族概論 / 土蜘蛛種族論につきて
- 第十一号 特集 コロボックル考 喜田貞吉
- 東北民族研究序論 / 猪名部と佐伯部 / 吉野の国巣と国樔部
- 第十二号 日高見国の研究 喜田貞吉
- 第十三号 夷俘・俘囚の考 喜田貞吉
- 第十四号 東人考 喜田貞吉
- 第十五号 奥州における御館藤原氏 喜田貞吉
- 第十六号 考古学と古代史 喜田貞吉
- 第十七号 特集 考古学 喜田貞吉
- 遺物・遺蹟と歴史研究 / 日本における史前時代の歴史研究について / 奥羽北部の石器時代文化における古代シナ文化の影響について
- 第十八号 特集 考古学 喜田貞吉
- 日本石器時代の終末期について /「あばた」も「えくぼ」、
「えくぼ」も「あばた」― ―日本石器時代終末期― ― - 第十九号 特集 考古学 喜田貞吉
- 本邦における一種の古代文明 ―
―銅鐸に関する管見― ― / - 銅鐸民族研究の一断片
- 第二〇号 特集 考古学 喜田貞吉
「鐵」の字の古体と古代の文化 / 石上神宮の神宝七枝刀 / - 八坂瓊之曲玉考
- 第二一号 博物館(一)浜田青陵
- 第二二号 博物館(二)浜田青陵
- 第二三号 博物館(三)浜田青陵
- 第二四号 博物館(四)浜田青陵
- 第二五号 博物館(五)浜田青陵
- 第二六号 墨子(一)幸田露伴
- 第二七号 墨子(二)幸田露伴
- 第二八号 墨子(三)幸田露伴
- 第二九号 道教について(一)幸田露伴
- 第三〇号 道教について(二)幸田露伴
- 第三一号 道教について(三)幸田露伴
- 第三二号 光をかかぐる人々(一)徳永 直
- 第三三号 光をかかぐる人々(二)徳永 直
- 第三四号 東洋人の発明 桑原隲蔵
- 第三五号 堤中納言物語(一)池田亀鑑(訳)
- 第三六号 堤中納言物語(二)池田亀鑑(訳)
- 第三七号 堤中納言物語(三)池田亀鑑(訳)
- 第三八号 歌の話(一)折口信夫
- 第三九号 歌の話(二)折口信夫
- 第四〇号 歌の話(三)
・花の話 折口信夫- 第四一号 枕詞と序詞(一)福井久蔵
- 第四二号 枕詞と序詞(二)福井久蔵
- 第四三号 本朝変態葬礼史 / 死体と民俗 中山太郎
- 第四四号 特集 おっぱい接吻
- 乳房の室 / 女の情欲を笑う 小熊秀雄
- 女体 芥川龍之介
- 接吻 / 接吻の後 北原白秋
- 接吻 斎藤茂吉
- 第四五号 幕末志士の歌 森 繁夫
- 第四六号 特集 フィクション・サムライ 愛国歌小観 / 愛国百人一首に関連して / 愛国百人一首評釈 斎藤茂吉
- 第四七号
「侍」字訓義考 / 多賀祢考 安藤正次- 第四八号 幣束から旗さし物へ / ゴロツキの話 折口信夫
- 第四九号 平将門 幸田露伴
- 第五〇号 光をかかぐる人々(三)徳永 直
- 第五一号 光をかかぐる人々(四)徳永 直
- 第五二号
「印刷文化」について 徳永 直- 書籍の風俗 恩地孝四郎
- 第二巻
- 第一号 奇巌城(一)モーリス・ルブラン
- 第二号 奇巌城(二)モーリス・ルブラン
- 第三号 美し姫と怪獣 / 長ぐつをはいた猫 楠山正雄(訳)
- 第四号 毒と迷信 / 若水の話 / 麻薬・自殺・宗教 小酒井不木 / 折口信夫 / 坂口安吾
- 第五号 空襲警報 / 水の女 / 支流 海野十三 / 折口信夫 / 斎藤茂吉
- 第六号 新羅人の武士的精神について 池内 宏
- 第七号 新羅の花郎について 池内 宏
- 第八号 震災日誌 / 震災後記 喜田貞吉
- 第九号 セロ弾きのゴーシュ / なめとこ山の熊 宮沢賢治
- 第一〇号 風の又三郎 宮沢賢治
- 第一一号 能久親王事跡(一)森 林太郎
- 第一二号 能久親王事跡(二)森 林太郎
- 第一三号 能久親王事跡(三)森 林太郎
- 第一四号 能久親王事跡(四)森 林太郎
- 第一五号 能久親王事跡(五)森 林太郎
- 第一六号 能久親王事跡(六)森 林太郎
- 第一七号 赤毛連盟 コナン・ドイル
- 第一八号 ボヘミアの醜聞 コナン・ドイル
- 第一九号 グロリア・スコット号 コナン・ドイル
- 第二〇号 暗号舞踏人の謎 コナン・ドイル
- 第二一号 蝦夷とコロボックルとの異同を論ず 喜田貞吉
- 第二二号 コロポックル説の誤謬を論ず 上・下 河野常吉
- 第二三号 慶長年間の朝日連峰通路について 佐藤栄太
- 第二四号 まれびとの歴史 /「とこよ」と「まれびと」と 折口信夫
- 第二五号 払田柵跡について二、三の考察 / 山形県本楯発見の柵跡について 喜田貞吉
- 第二六号 日本天変地異記 田中貢太郎
- 第二七号 種山ヶ原 / イギリス海岸 宮沢賢治
- 第二八号 翁の発生 / 鬼の話 折口信夫
- 第二九号 生物の歴史(一)石川千代松
- 第三〇号 生物の歴史(二)石川千代松
- 第三一号 生物の歴史(三)石川千代松
- 第三二号 生物の歴史(四)石川千代松
- 第三三号 特集 ひなまつり
- 雛 芥川龍之介 / 雛がたり 泉鏡花 / ひなまつりの話 折口信夫
- 第三四号 特集 ひなまつり
- 人形の話 / 偶人信仰の民俗化並びに伝説化せる道 折口信夫
- 第三五号 右大臣実朝(一)太宰 治
- 第三六号 右大臣実朝(二)太宰 治
- 第三七号 右大臣実朝(三)太宰 治
- 第三八号 清河八郎(一)大川周明
- 第三九号 清河八郎(二)大川周明
- 第四〇号 清河八郎(三)大川周明
- 第四一号 清河八郎(四)大川周明
- 第四二号 清河八郎(五)大川周明
- 第四三号 清河八郎(六)大川周明
- 第四四号 道鏡皇胤論について 喜田貞吉
- 第四五号 火葬と大蔵 / 人身御供と人柱 喜田貞吉
- 第四六号 手長と足長 / くぐつ名義考 喜田貞吉
- 第四七号
「日本民族」とは何ぞや / 本州における蝦夷の末路 喜田貞吉- 第四八号 若草物語(一)L.M. オルコット
- 第四九号 若草物語(二)L.M. オルコット
- 第五〇号 若草物語(三)L.M. オルコット
- 第五一号 若草物語(四)L.M. オルコット
- 第五二号 若草物語(五)L.M. オルコット
- 第五三号 二人の女歌人 / 東北の家 片山広子
- 第三巻
- 第一号 星と空の話(一)山本一清
- 第二号 星と空の話(二)山本一清
- 第三号 星と空の話(三)山本一清
- 第四号 獅子舞雑考 / 穀神としての牛に関する民俗 中山太郎
- 第五号 鹿踊りのはじまり 宮沢賢治 / 奥羽地方のシシ踊りと鹿供養 喜田貞吉
- 第六号 魏志倭人伝 / 後漢書倭伝 / 宋書倭国伝 / 隋書倭国伝
- 第七号 卑弥呼考(一)内藤湖南
- 第八号 卑弥呼考(二)内藤湖南
- 第九号 卑弥呼考(三)内藤湖南
- 第一〇号 最古日本の女性生活の根底 / 稲むらの陰にて 折口信夫
- 第一一号 瀬戸内海の潮と潮流(他三編)寺田寅彦
- 瀬戸内海の潮と潮流 / コーヒー哲学序説 /
- 神話と地球物理学 / ウジの効用
- 第一二号 日本人の自然観 / 天文と俳句 寺田寅彦
- 第一三号 倭女王卑弥呼考(一)白鳥庫吉
- 第一四号 倭女王卑弥呼考(二)白鳥庫吉
- 第一五号 倭奴国および邪馬台国に関する誤解 他 喜田貞吉
- 倭奴国と倭面土国および倭国とについて稲葉君の反問に答う /
- 倭奴国および邪馬台国に関する誤解
- 第一六号 初雪 モーパッサン 秋田 滋(訳)
- 第一七号 高山の雪 小島烏水
- 第一八号 光をかかぐる人々 続『世界文化』連載分(一)徳永 直
- 第一九号 光をかかぐる人々 続『世界文化』連載分(二)徳永 直
- 第二〇号 光をかかぐる人々 続『世界文化』連載分(三)徳永 直
- 第二一号 光をかかぐる人々 続『世界文化』連載分(四)徳永 直
- 第二二号 光をかかぐる人々 続『世界文化』連載分(五)徳永 直
- 第二三号 銀河鉄道の夜(一)宮沢賢治
- 第二四号 銀河鉄道の夜(二)宮沢賢治
- 第二五号 ドングリと山猫 / 雪渡り 宮沢賢治
- 第二六号 光をかかぐる人々 続『世界文化』連載分(六)徳永 直
- 第二七号 特集 黒川能・春日若宮御祭 折口信夫
- 黒川能・観点の置き所 / 村で見た黒川能
- 能舞台の解説 / 春日若宮御祭の研究
- 第二八号 面とペルソナ / 人物埴輪の眼 他 和辻哲郎
- 面とペルソナ / 文楽座の人形芝居
- 能面の様式 / 人物埴輪の眼
- 第二九号 火山の話 今村明恒
- 第三〇号 現代語訳『古事記』
(一)上巻(前編) 武田祐吉(訳)- 第三一号 現代語訳『古事記』
(二)上巻(後編) 武田祐吉(訳)- 第三二号 現代語訳『古事記』
(三)中巻(前編) 武田祐吉(訳)- 第三三号 現代語訳『古事記』
(四)中巻(後編) 武田祐吉(訳)- 第三四号 山椒大夫 森 鴎外
- 第三五号 地震の話(一)今村明恒
- 第三六号 地震の話(二)今村明恒
- 第三七号 津波と人間 / 天災と国防 / 災難雑考 寺田寅彦
- 第三八号 春雪の出羽路の三日 喜田貞吉
- 第三九号 キュリー夫人 / はるかな道(他)宮本百合子
- 第四〇号 大正十二年九月一日よりの東京・横浜間 大震火災についての記録 / 私の覚え書 宮本百合子
- 第四一号 グスコーブドリの伝記 宮沢賢治
- 第四二号 ラジウムの雁 / シグナルとシグナレス(他)宮沢賢治
- 第四三号 智恵子抄(一)高村光太郎
- 第四四号 智恵子抄(二)高村光太郎
- 第四五号 ヴェスヴィオ山 / 日本大地震(他)斎藤茂吉
- 第四六号 上代肉食考 / 青屋考 喜田貞吉
- 第四七号 地震雑感 / 静岡地震被害見学記(他)寺田寅彦
- 第四八号 自然現象の予報 / 火山の名について 寺田寅彦
- 第四九号 地震の国(一)今村明恒
- 第五〇号 地震の国(二)今村明恒
- 第五一号 現代語訳『古事記』
(五)下巻(前編) 武田祐吉(訳)- 第五二号 現代語訳『古事記』
(六)下巻(後編) 武田祐吉(訳)
- 第四巻
- 第一号 日本昔話集 沖縄編(一)伊波普猷・前川千帆(絵)
- 第二号 日本昔話集 沖縄編(二)伊波普猷
- 第三号 アインシュタイン(一)寺田寅彦
- 物質とエネルギー / 科学上における権威の価値と弊害 /
- アインシュタインの教育観
- 第四号 アインシュタイン(二)寺田寅彦
- アインシュタイン / 相対性原理側面観
- 第五号 作家のみた科学者の文学的活動 / 科学の常識のため 宮本百合子
- 第六号 地震の国(三)今村明恒
- 第七号 地震の国(四)今村明恒
- 第八号 地震の国(五)今村明恒
- 第九号 地震の国(六)今村明恒
- 第一〇号 土神と狐 / フランドン農学校の豚 宮沢賢治
- 第一一号 地震学の角度から見た城輪柵趾 今村明恒
- 第一二号 庄内と日高見(一)喜田貞吉
- 第一三号 庄内と日高見(二)喜田貞吉
- 第一四号 庄内と日高見(三)喜田貞吉
- 第一五号 私は海をだきしめてゐたい / 安吾巷談・ストリップ罵倒 坂口安吾
- 第一六号 三筋町界隈 / 孫 斎藤茂吉
- 第一七号 原子力の管理(他)仁科芳雄
- 原子力の管理 / 日本再建と科学 / 国民の人格向上と科学技術 /
- ユネスコと科学
- 第一八号 J・J・トムソン伝(他)長岡半太郎
- J・J・トムソン伝 / アインシュタイン博士のこと
- 第一九号 原子核探求の思い出(他)長岡半太郎
- 総合研究の必要 / 基礎研究とその応用 / 原子核探求の思い出
- 第二〇号 蒲生氏郷(一)幸田露伴
- 第二一号 蒲生氏郷(二)幸田露伴
- 第二二号 蒲生氏郷(三)幸田露伴
- 第二三号 科学の不思議(一)アンリ・ファーブル
- 第二四号 科学の不思議(二)アンリ・ファーブル
- 第二五号 ラザフォード卿を憶う(他)長岡半太郎
- ラザフォード卿を憶う / ノーベル小伝とノーベル賞 / 湯川博士の受賞を祝す
- 第二六号 追遠記 / わたしの子ども時分 伊波普猷
- 第二七号 ユタの歴史的研究 伊波普猷
- 第二八号 科学の不思議(三)アンリ・ファーブル
- 第二九号 南島の黥 / 琉球女人の被服 伊波普猷
- 第三〇号
『古事記』解説 / 上代人の民族信仰 武田祐吉・宇野円空 - 第三一号 科学の不思議(四)アンリ・ファーブル
- 第三二号 科学の不思議(五)アンリ・ファーブル
- 第三三号 厄年と etc. / 断水の日 / 塵埃と光 寺田寅彦
- 第三四号 石油ランプ / 流言蜚語 / 時事雑感 寺田寅彦
- 第三五号 火事教育 / 函館の大火について 寺田寅彦
- 第三六号 台風雑俎 / 震災日記より 寺田寅彦
- 第三七号 火事とポチ / 水害雑録 有島武郎・伊藤左千夫
- 第三八号 特集・安達が原の黒塚 楠山正雄・喜田貞吉・中山太郎
- 第三九号 大地震調査日記(一)今村明恒
- 第四〇号 大地震調査日記(二)今村明恒
- 第四一号 大地震調査日記(続)今村明恒
- 第四二号 科学の不思議(六)アンリ・ファーブル
- 第四三号 科学の不思議(七)アンリ・ファーブル
- 第四四号 震災の記 / 指輪一つ 岡本綺堂
- 第四五号 仙台五色筆 / ランス紀行 岡本綺堂
- 第四六号 東洋歴史物語(一)藤田豊八
- 第四七号 東洋歴史物語(二)藤田豊八
- 第四八号 東洋歴史物語(三)藤田豊八
- 第四九号 東洋歴史物語(四)藤田豊八
- 第五〇号 東洋歴史物語(五)藤田豊八
- 第五一号 科学の不思議(八)アンリ・ファーブル
- 第五二号 科学の不思議(九)アンリ・ファーブル
- 第五巻
- 第一号 校註『古事記』
(一) 武田祐吉- 第二号 校註『古事記』
(二) 武田祐吉- 第三号 校註『古事記』
(三) 武田祐吉- 第四号 兜 / 島原の夢 / 昔の小学生より / 三崎町の原 岡本綺堂
- 第五号 新旧東京雑題 / 人形の趣味(他)岡本綺堂
- 第六号 大震火災記 鈴木三重吉
- 第七号 校註『古事記』
(四) 武田祐吉- 第八号 校註『古事記』
(五) 武田祐吉- 第九号 校註『古事記』
(六) 武田祐吉- 第一〇号 校註『古事記』
(七) 武田祐吉- 第一一号 大正十二年九月一日の大震に際して(他)芥川龍之介
- オウム―
―大震覚え書きの一つ― ― - 第一二号 日本歴史物語〈上〉
(一) 喜田貞吉- 第一三号 日本歴史物語〈上〉
(二) 喜田貞吉- 第一四号 日本歴史物語〈上〉
(三) 喜田貞吉- 第一五号 日本歴史物語〈上〉
(四) 喜田貞吉- 第一六号 校註『古事記』
(八) 武田祐吉- 第一七号 校註『古事記』
(九) 武田祐吉- 第一八号 校註『古事記』
(一〇) 武田祐吉- 第一九号 校註『古事記』
(一一) 武田祐吉- 語句索引 / 歌謡各句索引
- 第五巻 第二〇号 日本歴史物語〈上〉
(五) 喜田貞吉- 四十一、地方政治の乱(みだ)れ(一)
- 四十二、地方政治の乱れ(二)
- 四十三、地方政治の乱れ(三)
- 四十四、地方政治の乱れ(四)
- 四十五、武士・僧兵・海賊のおこり(一)
- 四十六、武士・僧兵・海賊のおこり(二)
- 四十七、武士・僧兵・海賊のおこり(三)
- 四十八、武士・僧兵・海賊のおこり(四)
- 四十九、平安朝の仏教
- じっさい平安朝時代には、貴族と平民とのあいだにはたいそうな隔(へだ)たりがありました。貴族たちが京都で好き勝手な栄華にふけっているあいだに、平民は地方で国司らにいじめられていました。そこで平民らは、自分で国民たるの権利を捨てて諸国に浮浪するというようなありさまでしたから、世の中の人気もしだいに荒くなります。活きるに困っているものは、活きるためにはやむを得ず悪いこともします。どうでこの世の中に活き長らえていたからとて、その末がよくなるという見込みがあるではなし、またすでに悪いことをしている身であれば、死んだのちには地獄へ落ちると仏教は教えています。こうなってはどんなものでも、自然やけになってくる。
(略) - このような気の毒な人たちを救うて、たといその日その日の暮らしは苦しくても、せめては心だけにでもゆっくりした安心をあたえて、無暗にやけにならぬようにと親切に教えをひろめたのは、念仏の宗旨でした。口に南無阿弥陀仏ととなえて、阿弥陀如来にすがりさえすれば、どんな罪の深いものでも、死んだのちにはみな必ず極楽へ行くことができるという教えです。
- はじめてこの教えを民間に説きすすめたのは、空也上人でありました。東には平将門、西には藤原純友の謀反があったのち、世の中がますます騒がしくなり、食うに困るような浮浪民がそこにも、ここにも、うようよしているというころに、空也は盛んにその仲間に説いてまわったものですから、いたるところに信者がたくさんにできました。平民らはこれがために、ひどくやけにもならず、救われて安心を得たものがはなはだ多かったのです。
- そののち平安朝も末になり、源平二氏の戦争が長いあいだ続いて、武士は多くの人を殺し、その罪のむくいがおそろしくなる。また一般の民衆は、多年の戦争に苦しんで、ますます貧乏のどん底に落ちこむというように、多数の人がひどく悩んでいるころに、法然上人が出て、盛んにこの教えをひろめました。
(略) ( 「四十九、平安朝の仏教」より)
- 第五巻 第二一号 日本歴史物語〈上〉
(六) 喜田貞吉- 五十、蝦夷地の経営
- 五十一、前九年の役(一)
- 五十二、前九年の役(二)
- 五十三、後三年の役
- 五十四、平泉の隆盛
- 五十五、古代史の回顧
- 先生や父兄の方々に
- 平安朝のはじめのころは、朝廷のご威光が盛んで、坂上田村麻呂や文室(ぶんやの)綿麻呂の蝦夷征伐があり、これがために蝦夷の地がおおいに開けてまいり、蝦夷人もだんだん日本民族の仲間になってきましたことは、前に申したようなしだいでありましたが、なにぶんにも国の政治が乱れて、地方が騒々しくなり、武士や海賊が盛んにおこるという時代になりましては、蝦夷のいた奥羽地方だとて、その影響を受けないではいられません。第五十七代陽成(ようぜい)天皇の御代(在位八七六〜八八四)には、今の秋田県あたりにいる蝦夷がそむきまして大騒ぎがおこりました。しかしこれというのも、もともと国司の政治が悪いからであります。はじめは蝦夷のいきおいがつよく、官軍も容易にこれをしずめることができなかったのですが、藤原保則(やすのり)という人が新たに国司になって、よくこれを諭し、よい政治をおこないますと、かれらはことごとく降参して、おとなしくなりましたのを見ても、その罪がおもに国司にあったことがわかりましょう。
(略) ( 「五十一、前九年の役(一) 」より) - そのうちに、いよいよ頼義(よりよし)二度目の国司の任期がすみまして、新しい国司がやってまいりました。しかしこんな騒ぎの最中でやって来たもののなんともしてみようがありませぬ。さっそく都へ逃げて帰りました。そこで頼義は、今はどうでも自分の手で安倍氏を滅ぼして、自分の命ぜられたつとめを完(まっと)うして、新しい国司に引きわたさなければならぬと、しきりに清原氏の助けを催促します。武則(たけのり)も頼義の誠意に感じて、一万余人という大勢の仲間をつれてやってまいりました。こうなってはさすがの貞任も、とてもかないっこはありません。
(略)最後に今の盛岡市の近所の、厨川(くりやがわ)の館までも攻め落とされ、貞任は殺されて、弟の宗任(むねとう)らは降参しました。頼義が国司となってから十二年かかって、やっと安倍氏征伐の目的を達することができたのです。世間でこれを奥州十二年の合戦と申しました。奥州とは今の福島・宮城・岩手・青森の四県の地方のことで、むかしはこれを陸奥といい、出羽とあわせて奥羽地方というのです。 ( 「五十二、前九年の役(二) 」より)
- 第五巻 第二二号 日本歴史物語〈上〉索引 喜田貞吉
- 語句索引 / 人名索引 / 地名一覧
- 第五巻 第二三号 クリスマスの贈り物/街の子/少年・春 竹久夢二
- 「い」とあなたがいうと
- 「それから」と母(かあ)さまはおっしゃった。
- 「ろ」
- 「それから」
- 「は」
- あなたは母(かあ)さまのひざに抱(だ)っこされていた。外(そと)では凩(こがらし)がおそろしくほえ狂(くる)うので、地上(ちじょう)のありとあらゆる草も木も悲(かな)しげに泣(な)きさけんでいる。
- そのときあなたは慄(ふる)えながら、母(かあ)さまの首(くび)へしっかりとしがみつくのでした。
- 凩(こがらし)がすさまじくほえ狂(くる)うと、ランプの光(ひかり)が明(あか)るくなって、テーブルの上のリンゴはいよいよ紅(あか)く、暖炉(だんろ)の火はだんだん暖(あたた)かくなった。
- あなたのひざの上には絵本(えほん)が置(お)かれ、悲(かな)しい話(はなし)のところが開(ひら)かれてあった。それを母(かあ)さまは読(よ)んでくださる。―
―それは、もうまえに百(ひゃっ)ぺんも読んでくださった物語(ものがたり)であった。― ―そのときの母(かあ)さまの顔色(かおいろ)の眼(め)はしずんで、声は低(ひく)く悲(かな)しかった。あなたは呼吸(いき)をころして一心(いっしん)に聞(き)き入(い)るのでした。 - 誰(た)ぞ、コマドリを殺(ころ)せしは?
- スズメはいいぬ、われこそ! と
- わがこの弓(ゆみ)と矢(や)をもちて
- わがコマドリを殺(ころ)しけり。
- (
「少年・春」より)
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