堀 辰雄 ほり たつお
1904-1953(明治37.12.28-昭和28.5.28)
小説家。東京生れ。東大卒。芥川竜之介・室生犀星に師事、日本的風土に近代フランスの知性を定着させ、独自の作風を造型した。作「聖家族」「風立ちぬ」「幼年時代」「菜穂子」など。


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)。


もくじ 
風立ちぬ(一)堀 辰雄


ミルクティー*現代表記版
風立ちぬ(一)

オリジナル版
風立ちぬ(一)

地名年表人物一覧書籍
難字、求めよ
後記次週予告

※ 製作環境
 ・Macintosh iBook、Mac OS 9.2.2、T-Time 2.3.1
 ・ ポメラ DM100、ソーラーパネル GOAL ZERO NOMAD 7(ガイド10プラス)
※ 週刊ミルクティー*は、JIS X 0213 文字を使用しています。
※ この作品は青空文庫にて公開中です。著作権保護期間を経過したパブリック・ドメイン作品につき、引用・印刷および転載・翻訳・翻案・朗読などの二次利用は自由です。
(c) Copyright this work is public domain.

*凡例〔現代表記版〕
  • ( ):小書き。〈 〉:割り注。
  • 〔 〕:編者もしくは、しだによる注。
  • 一、漢字、かなづかい、漢字の送りは現代表記に改めました。
  •    例、云う → いう / 言う
  •      処  → ところ / 所
  •      有つ → 持つ
  •      這入る → 入る
  •      円く → 丸く
  •      室  → 部屋
  • 一、同音異義の一部のひらがなを、便宜、漢字に改めました。
  •    例、いって → 行って / 言って
  •      きいた → 聞いた / 効いた
  • 一、若干の句読点を改めました。適宜、ルビや中黒や感嘆・疑問符をおぎないました。一部、改行と行頭の字下げを改めました。
  • 一、漢数字の表記を一部、改めました。
  •    例、七百二戸 → 七〇二戸
  •    例、二萬六千十一 → 二万六〇一一
  • 一、ひらがなに傍点は、一部カタカナに改めました。
  • 一、カタカナ漢字混用文は、ひらがな漢字混用文に改めました。
  • 一、和暦にはカッコ書きで西暦をおぎないました。年次のみのばあいは単純な置き換えにとどめ、月日のわかるばあいには陰暦・陽暦の補正をおこないました。
  • 一、和歌・俳句・短歌は五七五(七七)の音節ごとに半角スペースで句切りました。
  • 一、表や図版キャプションなどの組版は、便宜、改めました。
  • 一、書名・雑誌名は『 』、論文名・記事名および会話文は「 」で示しました。
  • 一、「今から○○年前」のような経過年数の表記や、郡域・国域など地域の帰属、団体法人名・企業名などは、底本当時のままにしました。
  • 一、差別的表現・好ましくない表現はそのままとしました。

*尺貫・度量衡の一覧
  • 寸 すん  一寸=約3cm。
  • 尺 しゃく 一尺=約30cm。
  • 丈 じょう (1) 一丈=約3m。尺の10倍。(2) 周尺で、約1.7m。成人男子の身長。
  • 歩 ぶ (1) 左右の足を一度ずつ前に出した長さ。6尺。(2) 土地面積の単位。一歩は普通、曲尺6尺平方で、一坪に同じ。
  • 間 けん  一間=約1.8m。6尺。
  • 町 ちょう (1) 一町=10段(約100アール=1ヘクタール)。令制では3600歩、太閤検地以後は3000歩。(2) (「丁」とも書く) 一町=約109m強。60間。
  • 里 り   一里=約4km(36町)。昔は300歩、今の6町。
  • 合 ごう  一合=約180立方cm。
  • 升 しょう 一升=約1.8リットル。
  • 斗 と   一斗=約18リットル。
  • 海里・浬 かいり 一海里=1852m。
  • 尋 ひろ (1) (「広(ひろ)」の意)両手を左右にひろげた時の両手先の間の距離。(2) 縄・水深などをはかる長さの単位。一尋は5尺(1.5m)または6尺(1.8m)で、漁業・釣りでは1.5mとしている。
  • 坪 つぼ 一坪=約3.3平方m。歩(ぶ)。6尺四方。
  • 丈六 じょうろく 一丈六尺=4.85m。



*底本

底本:「昭和文学全集 第6巻」小学館
   1988(昭和63)年6月1日初版第1刷発行
底本の親本:「堀辰雄全集 第1巻」筑摩書房
   1977(昭和52)年5月28日初版第1刷発行
http://www.aozora.gr.jp/cards/001030/card4803.html

NDC 分類:913(日本文学 / 小説.物語)
http://yozora.kazumi386.org/9/1/ndc913.html





風立ちぬ(一)

堀 辰雄


Le vent se lve, il faut tenter de vivre.
PAULポール VALRYヴァレリー 

   序曲


 それらの夏の日々、一面にすすきいしげった草原の中で、おまえが立ったまま熱心に絵を描いていると、わたしはいつもそのかたわらの一本の白樺しらかば木陰こかげに身をよこたえていたものだった。そうして夕方になって、おまえが仕事をすませてわたしのそばにくると、それからしばらくわたしたちは肩に手をかけあったまま、はるか彼方の、ふちだけ茜色あかねいろをおびた入道雲のむくむくしたかたまりにおおわれている地平線のほうをながめやっていたものだった。ようやく暮れようとしかけているその地平線から、反対になにものかが生まれて来つつあるかのように……

 そんな日のある午後、(それはもう秋近い日だった)わたしたちは、おまえの描きかけの絵を画架がかに立てかけたまま、その白樺しらかば木陰こかげに寝そべって果物をかじっていた。砂のような雲が空をサラサラと流れていた。そのとき不意に、どこからともなく風が立った。わたしたちの頭の上では、木の葉の間からチラッとのぞいている藍色あいいろが伸びたり縮んだりした。それとほとんど同時に、草むらの中に何かがバッタリと倒れる物音をわたしたちは耳にした。それはわたしたちがそこに置きっぱなしにしてあった絵が、画架とともに、倒れた音らしかった。すぐ立ち上がって行こうとするおまえを、わたしは、いまの一瞬のなにものをもうしなうまいとするかのように無理にひきとめて、わたしのそばから離さないでいた。おまえはわたしのするがままにさせていた。

風立ちぬ、いざ生きめやも。

 ふと口をついて出てきたそんな詩句を、わたしはわたしにもたれているおまえの肩に手をかけながら、口のうちでくり返していた。それからやっとおまえはわたしを振りほどいて立ち上がって行った。まだよくかわいてはいなかったカンヴァスは、その間に、一めんに草の葉をこびつかせてしまっていた。それをふたたび画架に立てなおし、パレット・ナイフでそんな草の葉をりにくそうにしながら、
「まあ! こんなところを、もしお父さまにでも見つかったら……」
 おまえはわたしのほうをふり向いて、なんだか曖昧あいまいな微笑をした。


「もう二、三日したらお父さまがいらっしゃるわ」
 ある朝のこと、わたしたちが森の中をさまよっているとき、突然おまえがそう言い出した。わたしはなんだか不満そうにだまっていた。するとおまえは、そういうわたしのほうを見ながら、すこししゃがれたような声でふたたび口をきいた。
「そうしたらもう、こんな散歩もできなくなるわね」
「どんな散歩だって、しようと思えばできるさ」
 わたしはまだ不満らしく、おまえのいくぶん気づかわしそうな視線を自分の上に感じながら、しかしそれよりももっと、わたしたちの頭上のこずえがなんとはなしにざわめいているのに気をられているような様子をしていた。
「お父さまが、なかなかわたしを離してくださらないわ」
 わたしはとうとうじれったいとでもいうような目つきで、おまえのほうを見返した。
「じゃあ、ぼくたちはもう、これでお別れだというのかい?」
「だって仕方がないじゃないの」
 そう言っておまえはいかにもあきらめきったように、わたしにつとめて微笑ほほえんで見せようとした。ああ、そのときのおまえの顔色の、そしてそのくちびるの色までも、なんとあおざめていたことったら!
「どうしてこんなに変わっちゃったんだろうなあ。あんなにわたしに何もかもまかせきっていたように見えたのに……」とわたしは考えあぐねたような恰好かっこうで、だんだん裸根のゴロゴロしだしてきたせま山径やまみちを、おまえをすこし先にやりながら、いかにも歩きにくそうに歩いて行った。そこいらはもうだいぶ木立こだちが深いと見え、空気はえ冷えとしていた。ところどころに小さな沢が食いこんだりしていた。突然、わたしの頭の中にこんな考えがひらめいた。おまえはこの夏、偶然出逢であったわたしのような者にもあんなに従順だったように、いや、もっともっと、おまえの父や、それからまたそういう父をも数に入れたおまえのすべてをたえず支配しているものに、すなおに身をまかせきっているのではないだろうか? ……「節子! そういうおまえであるのなら、わたしはおまえがもっともっと好きになるだろう。わたしがもっとしっかりと生活の見とおしがつくようになったら、どうしたっておまえをもらいに行くから、それまではお父さんのもとに今のままのおまえでいるがいい……」そんなことをわたしは自分自身にだけ言い聞かせながら、しかしおまえの同意を求めでもするかのように、いきなりおまえの手をとった。おまえはその手をわたしにとられるがままにさせていた。それからわたしたちはそうして手を組んだまま、一つの沢の前に立ち止まりながら、押しだまって、わたしたちの足もとに深く食いこんでいる小さな沢のずっと底の、下生したばえ羊歯しだなどの上まで、日の光が数知れず枝をさしかわしている低い灌木かんぼくのすきをようやくのことでくぐりぬけながら、まだらに落ちていて、そんな木洩こもがそこまで届くうちにほとんどあるかないかぐらいになっている微風にちらちらとれ動いているのを、何かせつないような気持ちで見つめていた。


 それから二、三日したある夕方、わたしは食堂で、おまえがおまえをむかえにきた父と食事を共にしているのを見い出した。おまえはわたしの方にぎごちなさそうに背中を向けていた。父の側にいることがおまえにほとんど無意識的に取らせているにちがいない様子や動作は、わたしにはおまえをついぞ見かけたこともないような若い娘のように感じさせた。
「たといわたしがその名を呼んだにしたって……」とわたしは一人でつぶやいた。「あいつは平気でこっちを見向きもしないだろう。まるでもう、わたしの呼んだものではないかのように……」
 その晩、わたしは一人でつまらなそうに出かけて行った散歩からかえってきてからも、しばらくホテルの人気ひとけのない庭の中をぶらぶらしていた。山百合やまゆりにおっていた。わたしはホテルの窓がまだ二つ三つ明かりをもらしているのをぼんやりと見つめていた。そのうちすこし霧がかかってきたようだった。それを恐れでもするかのように、窓の明かりは一つ一つ消えて行った。そしてとうとうホテルじゅうがすっかり真っ暗になったかと思うと、軽いきしりがして、ゆるやかに一つの窓が開いた。そして薔薇色ばらいろ寝衣ねまきらしいものを着た、一人の若い娘が、窓のふちにじっとよりかかり出した。それはおまえだった。……


 おまえたちがって行ったのち、日ごと日ごとずっとわたしの胸をしめつけていた、あの悲しみに似たような幸福の雰囲気を、わたしはいまだにはっきりとよみがえらせることができる。
 わたしは終日、ホテルにじこもっていた。そうして長い間おまえのためにうっちゃっておいた自分の仕事に取りかかりだした。わたしは自分にも思いがけないくらい、しずかにその仕事に没頭することができた。そのうちにすべてがほかの季節に移っていった。そしていよいよわたしも出発しようとする前日、わたしはひさしぶりでホテルから散歩に出かけて行った。
 秋は林の中を見ちがえるばかりに乱雑にしていた。葉のだいぶ少なくなった木々は、その間から、人気ひとけの絶えた別荘のテラスをずっと前方にのり出させていた。菌類の湿っぽいにおいが落ち葉のにおいに入りまじっていた。そういう思いがけないくらいの季節の推移が、―おまえと別れてからわたしの知らぬ間にこんなにもたってしまった時間というものが、わたしには異様に感じられた。わたしの心のうちのどこかしらに、おまえから引き離されているのはただ一時的だといった確信のようなものがあって、そのためこうした時間の推移までが、わたしには今までとはぜんぜん異なった意味を持つようになりだしたのであろうか? ……そんなようなことを、わたしはすぐあとではっきりと確かめるまで、なにやらぼんやりと感じ出していた。
 わたしはそれから十数分後、一つの林のつきたところ、そこから急に打ちひらけて、遠い地平線までも一帯にながめられる、一面にすすきいしげった草原の中に、足をふみ入れていた。そしてわたしはそのかたわらの、すでに葉の黄色きいろくなりかけた一本の白樺しらかば木陰こかげに身をよこたえた。そこは、その夏の日々、おまえが絵を描いているのをながめながら、わたしがいつも今のように身をよこたえていたところだった。あのときにはほとんどいつも入道雲にさえぎられていた地平線のあたりには、今は、どこか知らない、遠くの山脈までが、真っ白な穂先をなびかせたすすきの上をわけながら、その輪郭りんかくを一つ一つくっきりと見せていた。
 わたしはそれらの遠い山脈の姿をみんな暗記してしまうぐらい、じっと目に力を入れて見入っているうちに、いままで自分のうちにひそんでいた、自然が自分のためにきめておいてくれたものを今こそやっと見い出したという確信を、だんだんはっきりと自分の意識にのぼらせはじめていた。……


   春


 三月になった。ある午後、わたしがいつものようにぶらっと散歩のついでにちょっと立ち寄ったとでもいったふうに節子の家をおとずれると、門を入ったすぐ横の植え込みの中に、労働者のかぶるような大きなむぎわらぼうをかぶった父が、片手にハサミをもちながら、そこいらの木の手入れをしていた。わたしはそういう姿を認めると、まるで子どものように木の枝をかきわけながら、そのそばに近づいていって、二言三言あいさつの言葉をかわしたのち、そのまま父のすることを物めずらしそうに見ていた。――そうやって植え込みの中にすっぽりと身を入れていると、あちらこちらの小さな枝の上にときどき何かしら白いものがひかったりした。それはみんなツボミらしかった。……
「あれもこのごろはだいぶ元気になってきたようだが……」父は突然そんなわたしのほうへ顔をもちあげて、そのころ、わたしと婚約したばかりの節子のことを言い出した。
「もうすこしいい陽気になったら、転地でもさせてみたらどうだろうね?」
「それはいいでしょうけれど……」とわたしは口ごもりながら、さっきから目の前にキラキラひかっている一つのツボミがなんだか気になってならないといったふうをしていた。
「どこぞいいところはないかと、このあいだうちから物色しとるのだがね――」と父はそんなわたしにはかまわずに言いつづけた。「節子はFのサナトリウム〔療養所〕なんぞどうかしらんというのじゃが、あなたはあそこの院長さんを知っておいでだそうだね?」
「ええ」とわたしはすこし、うわのそらでのように返事をしながら、やっとさっき見つけた白いツボミを手もとにたぐりよせた。
「だが、あそこなんぞは、あれ一人で行っていられるだろうか?」
「みんな一人で行っているようですよ」
「だが、あれにはなかなか行っていられまいね?」
 父はなんだか困ったような顔つきをしたまま、しかしわたしのほうを見ずに、自分の目の前にある木の枝の一つへいきなりハサミを入れた。それを見ると、わたしはとうとう我慢がまんがしきれなくなって、それをわたしが言い出すのを父が待っているとしか思われない言葉を、ついと口に出した。
「なんでしたらぼくもいっしょに行ってもいいんです。いま、しかけている仕事のほうも、ちょうどそれまでには片がつきそうですから……」
 わたしはそう言いながら、やっと手の中に入れたばかりのツボミのついた枝をふたたびそっと手離した。それと同時に父の顔が急に明るくなったのをわたしは認めた。
「そうしていただけたら、一番いいのだが、―しかしあなたには、えろうすまんな……」
「いいえ、ぼくなんぞにはかえってそういった山の中のほうが仕事ができるかもしれません……」
 それからわたしたちはそのサナトリウムのある山岳地方のことなど話し合っていた。が、いつのまにかわたしたちの会話は、父のいま手入れをしている植木の上に落ちていった。二人のいまお互いに感じ合っている一種の同情のようなものが、そんなとりとめのない話をまで活気づけるように見えた。……
「節子さんはお起きになっているのかしら?」しばらくしてからわたしは、なにげなさそうにいてみた。
「さあ、起きとるでしょう。……どうぞ、かまわんから、そこからあちらへ……」と父はハサミをもった手で、庭木戸のほうを示した。わたしはやっと植え込みの中をくぐりぬけると、つたがからみついて少し開きにくいぐらいになったその木戸をこじあけて、そのまま庭から、このあいだまではアトリエに使われていた、はなれのようになった病室のほうへ近づいていった。
 節子は、わたしの来ていることはもうとうに知っていたらしいが、わたしがそんな庭から入って来ようとは思わなかったらしく、寝間着ねまきの上に明るい色の羽織はおりをひっかけたまま、長椅子ながいすの上に横になりながら、細いリボンのついた、見かけたことのない婦人帽を手でおもちゃにしていた。
 わたしがフレンチドアごしにそういう彼女を目に入れながら近づいて行くと、彼女のほうでもわたしを認めたらしかった。彼女は無意識に立ち上がろうとするような身動きをした。が、彼女はそのまま横になり、顔をわたしのほうへ向けたまま、すこし気まり悪そうな微笑でわたしを見つめた。
「起きていたの?」わたしは扉のところで、いくぶん乱暴にくつをぬぎながら、声をかけた。
「ちょっと起きてみたんだけれど、すぐ疲れちゃったわ」
 そう言いながら、彼女はいかにも疲れをおびたような、力なげな手つきで、ただなんということもなしに手でもてあそんでいたらしいその帽子を、すぐ脇にある鏡台の上へ無造作にほうり投げた。が、それはそこまで届かないで床の上に落ちた。わたしはそれに近寄って、ほとんどわたしの顔が彼女の足のさきにくっつきそうになるようにかがみこんで、その帽子をひろいあげると、今度は自分の手で、さっき彼女がそうしていたように、それをおもちゃにし出していた。
 それからわたしはやっといた。「こんな帽子なんぞ取り出して、何をしていたんだい?」
「そんなもの、いつになったらかぶれるようになるんだか知れやしないのに、お父さまったら、きのう買っておいでになったのよ。……おかしなお父さまでしょう?」
「これ、お父さまのお見立てなの? ほんとうにいいお父さまじゃないか。……どおれ、この帽子、ちょっとかぶってごらん」とわたしが彼女の頭にそれを冗談半分かぶせるような真似まねをしかけると、
「いや、そんなこと……」
 彼女はそう言って、うるさそうに、それを避けでもするように、なかば身をおこした。そうしていわけのように弱々よわよわしい微笑をして見せながら、ふいと思い出したように、いくぶんせの目立めだつ手で、すこしもつれた髪をなおしはじめた。その何気なにげなしにしている、それでいていかにも自然に若い女らしい手つきは、それがまるでわたしを愛撫あいぶでもしだしたかのような、呼吸づまるほどセンシュアル〔官能的〕な魅力をわたしに感じさせた。そうしてそれは、思わずそれからわたしが目をそらさずにはいられないほどだった……
 やがてわたしはそれまで手でもてあそんでいた彼女の帽子を、そっと脇の鏡台の上に載せると、ふいと何か考え出したようにだまりこんで、なおもそういう彼女からは目をそらせつづけていた。
「おおこりになったの?」と、彼女は突然わたしを見上げながら、気づかわしそうに問うた。
「そうじゃないんだ」とわたしは、やっと彼女のほうへ目をやりながら、それから話の続きでもなんでもなしに、出しぬけにこう言い出した。「さっきお父さまがそう言っていらしったが、おまえ、ほんとうにサナトリウムに行く気かい?」
「ええ、こうしていても、いつよくなるのだかわからないのですもの。早くよくなれるんなら、どこへでも行っているわ。でも……」
「どうしたのさ? なんて言うつもりだったんだい?」
「なんでもないの」
「なんでもなくってもいいから言ってごらん。……どうしても言わないね、じゃ、ぼくが言ってやろうか? おまえ、ぼくにもいっしょに行けというのだろう?」
「そんなことじゃないわ」と彼女は急にわたしをさえぎろうとした。
 しかしわたしはそれにはかまわずに、最初の調子とは異なって、だんだんまじめになりだした、いくぶん不安そうな調子で言いつづけた。
「……いや、おまえが来なくともいいと言ったって、そりゃあ、ぼくはいっしょに行くとも。だがね、ちょっとこんな気がして、それが気がかりなのだ。……ぼくはこうしておまえといっしょにならない前から、どこかのさびしい山の中へ、おまえみたいなかわいらしい娘と二人きりの生活をしに行くことを夢みていたことがあったのだ。おまえにもずっと前にそんなわたしの夢をうちあけやしなかったかしら? ほら、あの山小屋の話さ、そんな山の中にわたしたちは住めるのかしらといって、あのときはおまえは無邪気そうに笑っていたろう? ……じつはね、こんどおまえがサナトリウムへ行くと言い出しているのも、そんなことが知らずしらずのうちにおまえの心を動かしているのじゃないかと思ったのだ。……そうじゃないのかい?」
 彼女はつとめて微笑ほほえみながら、だまってそれを聞いていたが、
「そんなこと、もう覚えてなんかいないわ」と彼女はキッパリと言った。それからむしろ、わたしのほうをいたわるような目つきでしげしげと見ながら、「あなたはときどき、とんでもないことを考え出すのね……」
 それから数分後、わたしたちは、まるでわたしたちの間には何ごともなかったような顔つきをして、フレンチドアの向こうに、芝生しばふがもうだいぶ青くなって、あちらにもこちらにも陽炎かげろうらしいものの立っているのを、いっしょになってめずらしそうにながめ出していた。

    �


 四月になってから、節子の病気はいくらかずつ回復期に近づき出しているように見えた。そしてそれがいかにも遅々としていればいるほど、その回復へのもどかしいような一歩一歩は、かえって何か確実なもののように思われ、わたしたちには言い知れずたのもしくさえあった。
 そんなある日の午後のこと、わたしが行くと、ちょうど父は外出していて、節子は一人で病室にいた。その日はたいへん気分もよさそうで、いつもほとんど着たきりの寝間着ねまきを、めずらしく青いブラウスに着がえていた。わたしはそういう姿を見ると、どうしても彼女を庭へひっぱり出そうとした。すこしばかり風が吹いていたが、それすら気持ちのいいくらいやわらかだった。彼女はちょっと自信なさそうに笑いながら、それでもわたしにやっと同意した。そうしてわたしの肩に手をかけて、フレンチドアから、なんだかあぶなっかしそうな足つきをしながら、おずおずと芝生しばふの上へ出て行った。生墻いけがき沿うて、いろんな外国種のも混じって、どれがどれだか見分けられないくらいに枝と枝を交わしながら、ごちゃごちゃにしげっている植え込みのほうへ近づいてゆくと、それらのしげみの上には、あちらにもこちらにも白や黄や淡紫あわむらさきの小さなツボミが、もう今にも咲き出しそうになっていた。わたしはそんなしげみの一つの前に立ち止まると、去年の秋だったか、それがそうだと彼女に教えられたのをひょっくり思い出して、
「これはライラックだったね?」と彼女のほうをふり向きながら、なかば聞くように言った。
「それがどうもライラックじゃないかもしれないわ」とわたしの肩に軽く手をかけたまま、彼女はすこし気の毒そうに答えた。
「ふん……じゃ、いままでうそを教えていたんだね?」
うそなんかつきやしないけれど、そういって人からちょうだいしたの。……だけど、あんまりいい花じゃないんですもの」
「なあんだ、もういまにも花が咲きそうになってから、そんなことを白状するなんて! じゃあ、どうせあいつも……」
 わたしはその隣りにあるしげみのほうを指さしながら、「あいつはなんていったっけなあ?」
金雀児えにしだ?」と彼女はそれを引き取った。わたしたちは今度はそっちのしげみの前に移っていった。「この金雀児えにしだはほんものよ。ほら、黄色いのと白いのと、ツボミが二種類あるでしょう? こっちの白いの、それあ珍しいのですって……お父さまのご自慢よ……」
 そんな他愛たあいのないことを言い合いながら、そのあいだじゅう節子はわたしの肩から手をはずさずに、しかし疲れたというよりも、うっとりとしたようになって、わたしにもたれかかっていた。それからわたしたちはしばらくそのままだまりあっていた。そうすることが、こういう花におうような人生をそのまま少しでもひきとめておくことが出来でもするかのように。ときおり、やわらかな風が向こうの生墻いけがきの間からおさえつけられていた呼吸かなんぞのように押し出されて、わたしたちの前にしているしげみにまで達し、その葉をわずかに持ち上げながら、それからそこに、そういうわたしたちだけをそっくり完全に残したまんま通りすぎていった。
 突然、彼女がわたしの肩にかけていた自分の手の中にその顔をうめた。わたしは彼女の心臓がいつもよりか高く打っているのに気がついた。「疲れたの?」わたしはやさしく彼女に聞いた。
「いいえ」と彼女は小声に答えたが、わたしはますますわたしの肩に彼女のゆるやかな重みのかかってくるのを感じた。
「わたしがこんなに弱くって、あなたになんだかお気の毒で……」彼女はそうささやいたのを、わたしは聞いたというよりも、むしろそんな気がしたぐらいのものだった。
「おまえのそういう脆弱ひよわなのが、そうでないよりわたしにはもっとおまえをいとしいものにさせているのだということが、どうしてわからないのだろうなあ……」と、わたしはもどかしそうに心のうちで彼女に呼びかけながら、しかし表面はわざとなんにも聞きとれなかったような様子をしながら、そのままじっと身動きもしないでいると、彼女は急にわたしからそれをそらせるようにして顔をもたげ、だんだんわたしの肩から手さえも離していきながら、
「どうして、わたし、このごろこんなに気が弱くなったのかしら? こないだうちは、どんなに病気のひどいときだってなんとも思わなかったくせに……」と、ごく低い声で、ひとりごとでも言うようにくちごもった。沈黙がそんな言葉を気づかわしげに引きのばしていた。そのうち彼女が急に顔をあげて、わたしをじっと見つめたかと思うと、それをふたたびふせながら、いくらかうわずったような中音で言った。「わたし、なんだか急に生きたくなったのね……」
 それから彼女は聞こえるか聞こえないくらいの小声で言いした。「あなたのおかげで……」

    �


 それは、わたしたちがはじめて出会ったもう二年前にもなる夏のころ、不意にわたしの口をついて出た、そしてそれからわたしがなんということもなしに口ずさむことを好んでいた、

風立ちぬ、いざ生きめやも。

という詩句が、それきりずっと忘れていたのに、またひょっくりとわたしたちによみがえってきたほどの、―いわば人生に先立った、人生そのものよりかもっと生き生きと、もっとせつないまでにたのしい日々であった。
 わたしたちはその月末に八ヶ岳山麓さんろくのサナトリウムに行くための準備をしだしていた。わたしは、ちょっとしたり合いになっている、そのサナトリウムの院長がときどき上京する機会をつかまえて、そこへ出かけるまでに一度、節子の病状をてもらうことにした。
 ある日、やっとのことで郊外にある節子の家までその院長に来てもらって、最初の診察をうけたあと、「なあに、たいしたことはないでしょう。まあ、一、二年山へきて辛抱しんぼうなさるんですなあ」と病人たちに言い残していそがしそうに帰ってゆく院長を、わたしは駅まで見送って行った。わたしは彼から自分にだけでも、もっと正確な彼女の病態を聞かしておいてもらいたかったのだった。
「しかし、こんなことは病人には言わぬようにしたまえ。父親ファタアにはそのうちぼくからもよく話そうと思うがね」院長はそんな前置きをしながら、すこし気むずかしい顔つきをして節子の容態をかなり細かにわたしに説明してくれた。それからそれをだまって聞いていたわたしのほうをじっと見て、「君もひどく顔色が悪いじゃないか。ついでに君の身体も診ておいてやるんだったな」とわたしを気の毒がるように言った。
 駅からわたしが帰って、ふたたび病室に入ってゆくと、父はそのまま寝ている病人のそばに居残って、サナトリウムへ出かける日取りなどの打ち合わせを彼女としだしていた。なんだか浮かない顔をしたまま、わたしもその相談に加わり出した。「だが……」父はやがて何か用事でも思いついたように、立ち上がりながら、「もうこのくらいによくなっているのだから、夏中なつなかだけでも行っていたら、よかりそう〔よさそう〕なものだがね」といかにも不審そうに言って、病室を出ていった。
 二人きりになると、わたしたちはどちらからともなくふっとだまりあった。それはいかにも春らしい夕暮れであった。わたしはさっきからなんだか頭痛がしだしているような気がしていたが、それがだんだん苦しくなってきたので、そっと目立たぬように立ち上がると、ガラス扉のほうに近づいて、その一方の扉をなかば開け放ちながら、それにもたれかかった。そうしてしばらくそのままわたしは、自分が何を考えているのかもわからないくらいにぼんやりして、一面にうっすらともやの立ちこめている向こうの植え込みのあたりへ「いいにおいがするなあ、何の花のにおいだろう――」と思いながら、空虚な目をやっていた。
「何をしていらっしゃるの?」
 わたしの背後で、病人のすこししゃがれた声がした。それが不意にわたしをそんな一種の麻痺まひしたような状態から覚醒かくせいさせた。わたしは彼女のほうには背中を向けたまま、いかにも何か他のことでも考えていたような、取ってつけたような調子で、
「おまえのことだの、山のことだの、それからそこでぼくたちの暮らそうとしている生活のことだのを、考えているのさ……」と、途切とぎれ途切れに言い出した。が、そんなことを言い続けているうちに、わたしはなんだか本当にそんなことを今しがたまで考えていたような気がしてきた。そうだ、それからわたしはこんなことも考えていたようだ。――「向こうへいったら、本当にいろいろなことがおこるだろうなあ。……しかし人生というものは、おまえがいつもそうしているように、なにもかもそれにまかせきっておいたほうがいいのだ。……そうすればきっと、わたしたちがそれをねがおうなどとは思いもおよばなかったようなものまで、わたしたちに与えられるかもしれないのだ。……」そんなことまで心のうちで考えながら、それにはすこしも自分では気がつかずに、わたしはかえってなんでもないように見える些細ささいな印象のほうにすっかり気をとられていたのだ。……
 そんな庭面にわもはまだほの明かるかったが、気がついて見ると、部屋のなかはもうすっかり薄暗くなっていた。
「明かりをつけようか?」わたしは急に気をとりなおしながら言った。
「まだ、つけないでおいてちょうだい……」そう答えた彼女の声は、前よりもしわがれていた。
 しばらくわたしたちは言葉もなくていた。
「わたし、すこし息ぐるしいの、草のにおいが強くて……」
「じゃ、ここもしめておこうね」
 わたしは、ほとんど悲しげな調子でそう応じながら、扉のにぎりに手をかけて、それを引きかけた。
「あなた……」彼女の声は、今度はほとんど中性的なくらいに聞こえた。「いま、泣いていらしったんでしょう?」
 わたしはびっくりした様子で、急に彼女のほうをふり向いた。
「泣いてなんかいるものか。……ぼくを見てごらん」
 彼女は寝台の中からわたしのほうへその顔を向けようともしなかった。もう薄暗くってそれとはさだかに認めがたいくらいだが、彼女は何かをじっと見つめているらしい。しかしわたしがそれを気づかわしそうに自分の目で追って見ると、ただくうを見つめているきりだった。
「わかっているの、わたしにも……さっき院長さんに何か言われていらしったのが……」
 わたしはすぐ何か答えたかったが、なんの言葉もわたしの口からは出て来なかった。わたしはただ音を立てないようにそっと扉をしめながらふたたび、夕暮れかけた庭面を見入り出した。
 やがてわたしは、わたしの背後に深い溜息ためいきのようなものを聞いた。
「ごめんなさい」彼女はとうとう口をきいた。その声はまだすこしふるえをおびていたが、前よりもずっとおちついていた。「こんなこと気になさらないでね……。わたしたち、これから本当に生きられるだけ生きましょうね……」
 わたしはふりむきながら、彼女がそっと目がしらに指先をあてて、そこにそれをじっと置いているのを認めた。

    �


 四月下旬のある薄曇うすぐもった朝、停車場まで父に見送られて、わたしたちはあたかも蜜月みつげつの旅へでも出かけるように、父の前はさもたのしそうに、山岳地方へ向かう汽車の二等室に乗り込んだ。汽車はしずかにプラットフォームを離れ出した。そのあとに、つとめて何気なにげなさそうにしながら、ただ背中だけすこし前かがみにして、急に年とったような様子をして立っている父だけを一人残して。―
 すっかりプラットフォームを離れると、わたしたちは窓をしめて、急にさみしくなったような顔つきをして、あいている二等室の一隅ひとすみに腰をおろした。そうやってお互いの心と心をあたため合おうとでもするように、ひざと膝とをぴったりとくっつけながら……


   風立ちぬ


 わたしたちの乗った汽車が、何度となく山をよじのぼったり、深い渓谷に沿って走ったり、またそれから急にちひらけたブドウ畑の多い台地を長いことかかって横切ったりしたのち、やっと山岳地帯へとはてしのないような、執拗しつよう登攀とうはんをつづけ出したころには、空はいっそう低くなり、いままではただ一面にざしているように見えた真っ黒な雲が、いつのまにか離ればなれになって動き出し、それらがわたしたちの目の上にまでしかぶさるようであった。空気もなんだか底冷えがしだした。上衣うわぎえりを立てたわたしは、肩かけにすっかり体をうずめるようにして目をつぶっている節子の、疲れたというよりも、すこし興奮しているらしい顔を不安そうに見守っていた。彼女はときどきぼんやりと目をひらいてわたしのほうを見た。はじめのうちは二人はそのたびごとに目と目で微笑ほほえみあったが、しまいにはただ不安そうに互いを見合ったきり、すぐ二人とも目をそらせた。そうして彼女はまた目を閉じた。
「なんだか冷えてきたね。雪でも降るのかな」
「こんな四月になっても雪なんか降るの?」
「うん、このあたりは降らないともかぎらないのだ」
 まだ三時ごろだというのに、もうすっかり薄暗くなった窓の外へ目を注いだ。ところどころに真っ黒なもみをまじえながら、葉のない落葉松からまつが無数に並び出しているのに、すでにわたしたちは八ヶ岳のすそを通っていることに気がついたが、まのあたり見えるはずの山らしいものは影も形も見えなかった。……
 汽車は、いかにも山麓さんろくらしい、物置き小屋とたいしてかわらない小さな駅に停車した。駅には、高原療養所の印のついた法被はっぴを着た、年とった、小使こづかいが一人、わたしたちを迎えに来ていた。
 駅の前に待たせてあった、古い、小さな自動車のところまで、わたしは節子を腕で支えるようにして行った。わたしの腕の中で、彼女がすこしよろめくようになったのを感じたが、わたしはそれには気づかないようなふりをした。
「疲れたろうね?」
「そんなでもないわ」
 わたしたちといっしょに下りた数人の土地の者らしい人々が、そういうわたしたちのまわりでなにやらささやきっていたようだったが、わたしたちが自動車に乗り込んでいるうちに、いつのまにかその人々は他の村人たちにまじって見分けにくくなりながら、村のなかに消えていた。
 わたしたちの自動車が、みすぼらしい小家おやの一列に続いている村を通りぬけたあと、それが見えない八ヶ岳の尾根までそのままはてしなくひろがっているかと思える凸凹でこぼこの多い傾斜地へさしかかったと思うと、背後に雑木林をせおいながら、赤い屋根をした、いくつもの側翼のある、大きな建物が、行く手に見え出した。「あれだな」と、わたしは車台の傾きを身体に感じ出しながら、つぶやいた。
 節子はちょっと顔をあげ、いくぶん心配そうな目つきで、それをぼんやりと見ただけだった。


 サナトリウムに着くと、わたしたちは、そのいちばん奥のほうの、裏がすぐ雑木林になっている、病棟の二階の第一号室に入れられた。簡単な診察後、節子はすぐベッドに寝ているように命じられた。リノリウムでゆかを張った病室には、すべて真っ白に塗られたベッドとたく椅子いすと、―それからその他には、いましがた小使こづかいが届けてくれたばかりの数個のトランクがあるきりだった。二人きりになると、わたしはしばらくおちつかずに、つきそい人のためにあてられた狭苦せまくるしい側室そくしつに入ろうともしないで、そんなむき出しな感じのする室内をぼんやりと見まわしたり、また、何度も窓に近づいては、空模様そらもようばかり気にしていた。風が真っ黒な雲を重たそうに引きずっていた。そしてときおり裏の雑木林からするどい音をもいだりした。わたしは一度寒そうな恰好かっこうをしてバルコニーに出て行った。バルコニーは何の仕切りもなしにずっと向こうの病室まで続いていた。その上にはまったく人気ひとけえていたので、わたしはかまわずに歩き出しながら、病室を一つ一つのぞいて行って見ると、ちょうど四番目の病室のなかに、一人の患者の寝ているのが半開きになった窓から見えたので、わたしはいそいでそのまま引っ返してきた。
 やっとランプがついた。それからわたしたちは看護婦の運んできてくれた食事に向かい合った。それはわたしたちが二人きりで最初にともにする食事にしては、すこしわびしかった。食事中、外がもう真っ暗なのでなにも気がつかずに、ただなんだかあたりが急にしずかになったと思っていたら、いつのまにか雪になりだしたらしかった。
 わたしは立ち上がって、半開きにしてあった窓をもうすこし細目にしながら、そのガラスに顔をくっつけて、それがわたしの息で曇りだしたほど、じっと雪のふるのを見つめていた。それからやっとそこを離れながら、節子のほうを振り向いて、「ねえ、おまえ、なんだってこんな……」と言い出しかけた。
 彼女はベッドに寝たまま、わたしの顔を訴えるように見上げて、それをわたしに言わせまいとするように、口へ指をあてた。

    �


 八ヶ岳の大きなのびのびとした代赭色たいしゃいろ裾野すそのがようやくその勾配こうばいをゆるめようとするところに、サナトリウムは、いくつかの側翼を並行にひろげながら、南を向いて立っていた。その裾野の傾斜はさらにのびて行って、二、三の小さな山村を村全体傾かせながら、最後に無数の黒い松にすっかりつつまれながら、見えない谷間のなかにつきていた。
 サナトリウムの南に開いたバルコニーからは、それらの傾いた村とそのあかちゃけた耕作地が一帯に見渡され、さらにそれらを取り囲みながらはてしなくみ立っている松林の上に、よく晴れている日だったならば、南から西にかけて、南アルプスとその二、三の支脈とが、いつも自分自身でき上がらせた雲のなかに見え隠れしていた。


 サナトリウムについた翌朝、自分の側室でわたしが目をさますと、小さな窓枠の中に、藍青色らんせいしょくに晴れきった空と、それからいくつもの真っ白い鶏冠とさかのような山顛さんてんが、そこにまるで大気からひょっくり生まれでもしたような思いがけなさで、ほとんどながいに見られた。そして寝たままでは見られないバルコニーや屋根の上に積もった雪からは、急に春めいた日の光をあびながら、たえず水蒸気がたっているらしかった。
 すこし寝すごしたくらいのわたしは、いそいで飛び起きて、となりの病室へ入って行った。節子は、すでに目をさましていて、毛布にくるまりながら、ほてったような顔をしていた。
「おはよう」わたしも同じように、顔がほてりだすのを感じながら、気軽そうに言った。「よく寝られた?」
「ええ」彼女はわたしにうなずいて見せた。「ゆうべ睡眠剤くすりを飲んだの。なんだか頭がすこし痛いわ」
 わたしはそんなことになんかかまっていられないといったふうに、元気よく窓も、それからバルコニーに通じるガラス扉も、すっかり開け放した。まぶしくって、一時はなにも見られないくらいだったが、そのうちそれに目がだんだんなれてくると、雪に埋もれたバルコニーからも、屋根からも、野原からも、木からさえも、軽い水蒸気の立っているのが見え出した。
「それにとてもおかしな夢を見たの。あのね……」彼女がわたしの背後で言い出しかけた。
 わたしはすぐ、彼女がなにか打ち明けにくいようなことを無理に言い出そうとしているらしいのをさとった。そんな場合のいつものように、彼女のいまの声もすこししゃがれていた。
 今度はわたしが、彼女のほうを振り向きながら、それを言わせないように、口へ指をあてる番だった。……
 やがて看護婦長がせかせかした親切そうな様子をして入ってきた。こうして看護婦長は、毎朝、病室から病室へと患者たちを一人一人見舞みまうのである。
「ゆうべはよくおやすみになれましたか?」看護婦長は快活そうな声でたずねた。
 病人はなにも言わないで、素直すなおにうなずいた。

    �


 こういう山のサナトリウムの生活などは、普通の人々がもう行き止まりだと信じているところから始まっているような、特殊な人間性をおのずからおびてくるものだ。――わたしが自分のうちにそういう見知らないような人間性をぼんやりと意識しはじめたのは、入院後まもなくわたしが院長に診察室に呼ばれて行って、節子のレントゲンで撮られた疾患部の写真を見せられたときからだった。
 院長はわたしを窓ぎわに連れて行って、わたしにも見よいように、その写真の原板を日にかせながら、いちいちそれに説明を加えていった。右の胸には数本の白々とした肋骨ろっこつがくっきりと認められたが、左の胸にはそれらがほとんど何も見えないくらい、大きな、まるで暗い不思議な花のような、病竈びょうそうができていた。
「思ったよりも病竈びょうそうがひろがっているなあ。……こんなにひどくなってしまっているとは思わなかったね。……これじゃ、いま、病院中でも二番目ぐらいに重症かもしれんよ……」
 そんな院長の言葉が自分の耳の中でガアガアするような気がしながら、わたしはなんだか思考力を失ってしまった者みたいに、いましがた見てきたあの暗い不思議な花のような影像イマージュをそれらの言葉とはすこしも関係がないもののように、それだけをあざやかに意識のしきみにのぼらせながら、診察室から帰ってきた。自分とすれちがう白衣の看護婦だの、もうあちこちのバルコニーで日光浴をしだしている裸体の患者たちだの、病棟のざわめきだの、それから小鳥のさえずりだのが、そういうわたしの前を何の連絡もなしに過ぎた。わたしはとうとう一番はずれの病棟に入り、わたしたちの病室のある二階へ通じる階段をのぼろうとして機械的に足をゆるめた瞬間、その階段の一つ手前にある病室の中から、異様な、ついぞそんなのはまだ聞いたこともないような気味のわるい空咳からせきが続けさまにもれてくるのを耳にした。「おや、こんなところにも患者がいたのかなあ」と思いながら、わたしはそのドアについている No.17 という数字を、ただぼんやりと見つめた。

    �


 こうしてわたしたちのすこし風変わりな愛の生活がはじまった。
 節子は入院以来、安静を命じられて、ずっと寝ついたきりだった。そのために、気分のよいときはつとめて起きるようにしていた入院前の彼女にくらべると、かえって病人らしく見えたが、べつに病気そのものは悪化したとも思えなかった。医者たちもまたすぐ快癒かいゆする患者として彼女をいつも取り扱っているように見えた。「こうして病気を生けりにしてしまうのだ」と院長などは冗談でも言うように言ったりした。
 季節はその間に、いままですこし遅れ気味だったのを取り戻すように、急速に進み出していた。春と夏とがほとんど同時に押し寄せてきたかのようだった。毎朝のように、ウグイスや閑古鳥かんこどり〔かっこう〕のさえずりがわたしたちを眼ざませた。そしてほとんど一日じゅう、周囲の林の新緑がサナトリウムを四方から襲いかかって、病室の中まですっかりさわやかに色づかせていた。それらの日々、朝のうちに山々からいて出て行った白い雲までも、夕方にはふたたび元の山々へ立ち戻ってくるかと見えた。
 わたしは、わたしたちが共にした最初の日々、わたしが節子の枕もとにほとんどつききりですごしたそれらの日々のことを思い浮かべようとすると、それらの日々が互いに似ているために、その魅力はなくはない単一さのために、ほとんどどれが後だか先だか見分けがつかなくなるような気がする。
 というよりも、わたしたちはそれらの似たような日々をくり返しているうちに、いつかまったく時間というものからも抜け出してしまっていたような気さえするくらいだ。そして、そういう時間から抜け出したような日々にあっては、わたしたちの日常生活のどんな些細ささいなものまで、その一つ一つがいままでとはぜんぜん異なった魅力を持ち出すのだ。わたしの身近みぢかにあるこの微温なまぬるい、いいにおいのする存在、そのすこし早い呼吸、わたしの手をとっているそのしなやかな手、その微笑、それからまたときどき取りわす平凡な会話、―そういったものをもし取り除いてしまうとしたら、あとには何も残らないような単一な日々だけれども、―われわれの人生なんぞというものは要素的にはじつはこれだけなのだ、そして、こんなささやかなものだけでわたしたちがこれほどまで満足していられるのは、ただわたしが、それをこの女と共にしているからなのだ、ということをわたしは確信していられた。
 それらの日々における唯一の出来事といえば、彼女がときおり熱を出すことくらいだった。それは彼女の体をじりじり衰えさせていくものにちがいなかった。が、わたしたちはそういう日は、いつもとすこしも変らない日課の魅力を、もっと細心に、もっと緩慢に、あたかも禁断の果実の味をこっそりぬすみでもするように味わおうと試みたので、わたしたちのいくぶん死の味のする生の幸福はそのときはいっそう完全に保たれたほどだった。


 そんなある夕暮れ、わたしはバルコニーから、そして節子はベッドの上から、同じように、向こうの山の背に入ってもない夕日を受けて、そのあたりの山だの丘だの松林だの山畑だのが、なかばあざやかな茜色あかねいろをおびながら、なかばまだ不確かなような鼠色ねずみいろに徐々におかされだしているのを、うっとりとしてながめていた。ときどき思い出したようにその森の上へ小鳥たちが放物線を描いて飛び上がった。――わたしは、このような初夏の夕暮れがほんの一瞬時生じさせている一帯の景色けしきは、すべてはいつも見なれた道具立てながら、おそらく今をおいてはこれほどのあふれるような幸福の感じをもってわたしたち自身にすらながめ得られないだろうことを考えていた。そしてずっと後になって、いつかこの美しい夕暮れがわたしの心によみがえってくるようなことがあったら、わたしはこれにわたしたちの幸福そのものの完全な絵を見い出すだろうと夢みていた。
「何をそんなに考えているの?」わたしの背後から節子がとうとう口を切った。
「わたしたちがずっと後になってね、今のわたしたちの生活を思い出すようなことがあったら、それがどんなに美しいだろうと思っていたんだ」
「本当にそうかもしれないわね」彼女はそうわたしに同意するのがさもたのしいかのように応じた。
 それからまたわたしたちはしばらく無言のまま、ふたたび同じ風景に見入っていた。が、そのうちにわたしは不意になんだか、こうやってうっとりと見入っているのが自分であるような自分でないような、変に茫漠ぼうばくとした、取りとめのない、そしてそれがなんとなく苦しいような感じさえしてきた。そのときわたしは、自分の背後で深い息のようなものを聞いたような気がした。が、それがまた自分のだったような気もされた。わたしはそれを確かめでもするように、彼女のほうを振り向いた。
「そんなにいまの……」そういうわたしをじっと見返しながら、彼女はすこししゃがれた声で言いかけた。が、それを言いかけたなり、すこしためらっていたようだったが、それから急にいままでとは異なったうっちゃるような調子で、「そんなにいつまでも生きていられたらいいわね」と言いした。
「また、そんなことを!」
 わたしはいかにもじれったいように小さくさけんだ。
「ごめんなさい」彼女はそう短く答えながら、わたしから顔をそむけた。
 いましがたまでの何か自分にもわけのわからないような気分が、わたしにはだんだん一種のたしさに変わりだしたように見えた。わたしはそれからもう一度山のほうへ目をやったが、そのときはすでにもうその風景の上に一瞬間生じていた異様な美しさは消え失せていた。

 その晩、わたしが隣りの側室へ寝に行こうとしたとき、彼女はわたしを呼び止めた。
「さっきはごめんなさいね」
「もういいんだよ」
「わたしね、あのとき他のことを言おうとしていたんだけれど……つい、あんなことを言ってしまったの」
「じゃ、あのとき何を言おうとしたんだい?」
「……あなたはいつか、自然なんぞがほんとうに美しいと思えるのは死んで行こうとする者の眼にだけだとおっしゃったことがあるでしょう。……わたし、あのときね、それを思い出したの。なんだかあのときの美しさがそんなふうに思われて」そう言いながら、彼女はわたしの顔をなにか訴えたいように見つめた。
 その言葉に胸をかれでもしたように、わたしは思わず目をふせた。そのとき、突然、わたしの頭の中を一つの思想がよぎった。そしてさっきからわたしをイライラさせていた、なにか不確かなような気分が、ようやくわたしのうちではっきりとしたものになりだした。……「そうだ、オレはどうしてそいつに気がつかなかったのだろう? あのとき自然なんぞをあんなに美しいと思ったのはオレじゃないのだ。それはオレたちだったのだ。まあ言ってみれば、節子の魂がオレの眼をとおして、そしてただオレの流儀で、夢みていただけなのだ。……それだのに、節子が自分の最後の瞬間のことを夢みているとも知らないで、オレはオレで、勝手にオレたちの長生きしたときのことなんぞ考えていたなんて……」
 いつしかそんな考えをとつおいつ〔あれこれと〕しだしていたわたしが、やっと目を上げるまで、彼女はさっきと同じようにわたしをじっと見つめていた。わたしはその目をけるような恰好かっこうをしながら、彼女の上にかがみかけて、その額にそっと接吻した。わたしは心からはずかしかった。……
(つづく)



底本:「昭和文学全集 第6巻」小学館
   1988(昭和63)年6月1日初版第1刷発行
底本の親本:「堀辰雄全集 第1巻」筑摩書房
   1977(昭和52)年5月28日初版第1刷発行
初出:「風立ちぬ」は「序曲」「春」「風立ちぬ」「冬」「死のかげの谷」の五篇から成っている。
   「序曲」:「改造」1936(昭和11)年12月号に発表された「風立ちぬ」の発端部分を野田書房版(1938(昭和13)年4月10日刊)「風立ちぬ」において「序曲」と改題。
   「春」:「新女苑」1937(昭和12)年4月号に「婚約」と題し発表。
   「風立ちぬ」:「改造」1936(昭和11)年12月号に発表。構成は「発端」「T」「U」「V」の4章から成る。
   「冬」:「文藝春秋」1937(昭和12)年1月号に発表。
   「死のかげの谷」:「新潮」1938(昭和13)年3月号に発表。
初収単行本:「風立ちぬ」野田書房、1938(昭和13)年4月10日
※底本の親本の筑摩全集版は、野田書房版による。初出情報は、「堀辰雄全集 第1巻」筑摩書房、1977(昭和52)年5月28日、解題による。
入力:kompass
校正:浅原庸子
2003年12月29日作成
2004年3月27日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。



風立ちぬ(一)

堀辰雄

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)薄《すすき》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)八ヶ岳|山麓《さんろく》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#アステリズム、1-12-94]

〔〕:アクセント分解された欧文をかこむ
(例)〔Le vent se le've, il faut tenter de vivre.〕
アクセント分解についての詳細は下記URLを参照してください
http://aozora.gr.jp/accent_separation.html
-------------------------------------------------------

〔Le vent se le've, il faut tenter de vivre.〕
[#地付き]〔PAUL VALE'RY〕

   序曲

 それらの夏の日々、一面に薄《すすき》の生い茂った草原の中で、お前が立ったまま熱心に絵を描いていると、私はいつもその傍らの一本の白樺の木蔭に身を横たえていたものだった。そうして夕方になって、お前が仕事をすませて私のそばに来ると、それからしばらく私達は肩に手をかけ合ったまま、遥か彼方の、縁だけ茜色《あかねいろ》を帯びた入道雲のむくむくした塊りに覆われている地平線の方を眺めやっていたものだった。ようやく暮れようとしかけているその地平線から、反対に何物かが生れて来つつあるかのように……

 そんな日の或る午後、(それはもう秋近い日だった)私達はお前の描きかけの絵を画架に立てかけたまま、その白樺の木蔭に寝そべって果物を齧《か》じっていた。砂のような雲が空をさらさらと流れていた。そのとき不意に、何処からともなく風が立った。私達の頭の上では、木の葉の間からちらっと覗いている藍色《あいいろ》が伸びたり縮んだりした。それと殆んど同時に、草むらの中に何かがばったりと倒れる物音を私達は耳にした。それは私達がそこに置きっぱなしにしてあった絵が、画架と共に、倒れた音らしかった。すぐ立ち上って行こうとするお前を、私は、いまの一瞬の何物をも失うまいとするかのように無理に引き留めて、私のそばから離さないでいた。お前は私のするがままにさせていた。

[#ここから2字下げ]
風立ちぬ、いざ生きめやも。
[#ここで字下げ終わり]

 ふと口を衝《つ》いて出て来たそんな詩句を、私は私に靠《もた》れているお前の肩に手をかけながら、口の裡《うち》で繰り返していた。それからやっとお前は私を振りほどいて立ち上って行った。まだよく乾いてはいなかったカンヴァスは、その間に、一めんに草の葉をこびつかせてしまっていた。それを再び画架に立て直し、パレット・ナイフでそんな草の葉を除《と》りにくそうにしながら、
「まあ! こんなところを、もしお父様にでも見つかったら……」
 お前は私の方をふり向いて、なんだか曖昧《あいまい》な微笑をした。


「もう二三日したらお父様がいらっしゃるわ」
 或る朝のこと、私達が森の中をさまよっているとき、突然お前がそう言い出した。私はなんだか不満そうに黙っていた。するとお前は、そういう私の方を見ながら、すこし嗄《しゃが》れたような声で再び口をきいた。
「そうしたらもう、こんな散歩も出来なくなるわね」
「どんな散歩だって、しようと思えば出来るさ」
 私はまだ不満らしく、お前のいくぶん気づかわしそうな視線を自分の上に感じながら、しかしそれよりももっと、私達の頭上の梢が何んとはなしにざわめいているのに気を奪《と》られているような様子をしていた。
「お父様がなかなか私を離して下さらないわ」
 私はとうとう焦《じ》れったいとでも云うような目つきで、お前の方を見返した。
「じゃあ、僕達はもうこれでお別れだと云うのかい?」
「だって仕方がないじゃないの」
 そう言ってお前はいかにも諦め切ったように、私につとめて微笑《ほほえ》んで見せようとした。ああ、そのときのお前の顔色の、そしてその唇《くちびる》の色までも、何んと蒼ざめていたことったら!
「どうしてこんなに変っちゃったんだろうなあ。あんなに私に何もかも任せ切っていたように見えたのに……」と私は考えあぐねたような恰好《かっこう》で、だんだん裸根のごろごろし出して来た狭い山径《やまみち》を、お前をすこし先きにやりながら、いかにも歩きにくそうに歩いて行った。そこいらはもうだいぶ木立が深いと見え、空気はひえびえとしていた。ところどころに小さな沢が食いこんだりしていた。突然、私の頭の中にこんな考えが閃《ひらめ》いた。お前はこの夏、偶然出逢った私のような者にもあんなに従順だったように、いや、もっともっと、お前の父や、それからまたそういう父をも数に入れたお前のすべてを絶えず支配しているものに、素直に身を任せ切っているのではないだろうか? ……「節子! そういうお前であるのなら、私はお前がもっともっと好きになるだろう。私がもっとしっかりと生活の見透しがつくようになったら、どうしたってお前を貰いに行くから、それまではお父さんの許《もと》に今のままのお前でいるがいい……」そんなことを私は自分自身にだけ言い聞かせながら、しかしお前の同意を求めでもするかのように、いきなりお前の手をとった。お前はその手を私にとられるがままにさせていた。それから私達はそうして手を組んだまま、一つの沢の前に立ち止まりながら、押し黙って、私達の足許に深く食いこんでいる小さな沢のずっと底の、下生《したばえ》の羊歯《しだ》などの上まで、日の光が数知れず枝をさしかわしている低い灌木《かんぼく》の隙間をようやくのことで潜り抜けながら、斑《まだ》らに落ちていて、そんな木洩れ日がそこまで届くうちに殆んどあるかないか位になっている微風にちらちらと揺れ動いているのを、何か切ないような気持で見つめていた。


 それから二三日した或る夕方、私は食堂で、お前がお前を迎えに来た父と食事を共にしているのを見出した。お前は私の方にぎごちなさそうに背中を向けていた。父の側にいることがお前に殆んど無意識的に取らせているにちがいない様子や動作は、私にはお前をついぞ見かけたこともないような若い娘のように感じさせた。
「たとい私がその名を呼んだにしたって……」と私は一人でつぶやいた。「あいつは平気でこっちを見向きもしないだろう。まるでもう私の呼んだものではないかのように……」
 その晩、私は一人でつまらなそうに出かけて行った散歩からかえって来てからも、しばらくホテルの人けのない庭の中をぶらぶらしていた。山百合が匂っていた。私はホテルの窓がまだ二つ三つあかりを洩らしているのをぼんやりと見つめていた。そのうちすこし霧がかかって来たようだった。それを恐れでもするかのように、窓のあかりは一つびとつ消えて行った。そしてとうとうホテル中がすっかり真っ暗になったかと思うと、軽いきしりがして、ゆるやかに一つの窓が開いた。そして薔薇色《ばらいろ》の寝衣《ねまき》らしいものを着た、一人の若い娘が、窓の縁にじっと凭《よ》りかかり出した。それはお前だった。……


 お前達が発って行ったのち、日ごと日ごとずっと私の胸をしめつけていた、あの悲しみに似たような幸福の雰囲気を、私はいまだにはっきりと蘇《よみがえ》らせることが出来る。
 私は終日、ホテルに閉《と》じ籠《こも》っていた。そうして長い間お前のために打棄《うっちゃ》って置いた自分の仕事に取りかかり出した。私は自分にも思いがけない位、静かにその仕事に没頭することが出来た。そのうちにすべてが他の季節に移って行った。そしていよいよ私も出発しようとする前日、私はひさしぶりでホテルから散歩に出かけて行った。
 秋は林の中を見ちがえるばかりに乱雑にしていた。葉のだいぶ少くなった木々は、その間から、人けの絶えた別荘のテラスをずっと前方にのり出させていた。菌類の湿っぽい匂いが落葉の匂いに入りまじっていた。そういう思いがけない位の季節の推移が、――お前と別れてから私の知らぬ間にこんなにも立ってしまった時間というものが、私には異様に感じられた。私の心の裡《うち》の何処かしらに、お前から引き離されているのはただ一時的だと云った確信のようなものがあって、そのためこうした時間の推移までが、私には今までとは全然異った意味を持つようになり出したのであろうか? ……そんなようなことを、私はすぐあとではっきりと確かめるまで、何やらぼんやりと感じ出していた。
 私はそれから十数分後、一つの林の尽きたところ、そこから急に打ちひらけて、遠い地平線までも一帯に眺められる、一面に薄《すすき》の生い茂った草原の中に、足を踏み入れていた。そして私はその傍らの、既に葉の黄いろくなりかけた一本の白樺の木蔭に身を横たえた。其処は、その夏の日々、お前が絵を描いているのを眺めながら、私がいつも今のように身を横たえていたところだった。あの時には殆んどいつも入道雲に遮られていた地平線のあたりには、今は、何処か知らない、遠くの山脈までが、真っ白な穂先をなびかせた薄の上を分けながら、その輪廓《りんかく》を一つ一つくっきりと見せていた。
 私はそれらの遠い山脈の姿をみんな暗記してしまう位、じっと目に力を入れて見入っているうちに、いままで自分の裡に潜んでいた、自然が自分のために極めて置いてくれたものを今こそ漸《や》っと見出したと云う確信を、だんだんはっきりと自分の意識に上らせはじめていた。……



   春

 三月になった。或る午後、私がいつものようにぶらっと散歩のついでにちょっと立寄ったとでも云った風に節子の家を訪れると、門をはいったすぐ横の植込みの中に、労働者のかぶるような大きな麦稈帽《むぎわらぼう》をかぶった父が、片手に鋏《はさみ》をもちながら、そこいらの木の手入れをしていた。私はそういう姿を認めると、まるで子供のように木の枝を掻き分けながら、その傍に近づいていって、二言三言挨拶の言葉を交わしたのち、そのまま父のすることを物珍らしそうに見ていた。――そうやって植込みの中にすっぽりと身を入れていると、あちらこちらの小さな枝の上にときどき何かしら白いものが光ったりした。それはみんな莟《つぼみ》らしかった。……
「あれもこの頃はだいぶ元気になって来たようだが」父は突然そんな私の方へ顔をもち上げてその頃私と婚約したばかりの節子のことを言い出した。
「もう少し好い陽気になったら、転地でもさせて見たらどうだろうね?」
「それはいいでしょうけれど……」と私は口ごもりながら、さっきから目の前にきらきら光っている一つの莟がなんだか気になってならないと云った風をしていた。
「何処ぞいいところはないかとこの間うちから物色しとるのだがね――」と父はそんな私には構わずに言いつづけた。「節子はFのサナトリウムなんぞどうか知らんと言うのじゃが、あなたはあそこの院長さんを知っておいでだそうだね?」
「ええ」と私はすこし上の空でのように返事をしながら、やっとさっき見つけた白い莟を手もとにたぐりよせた。
「だが、あそこなんぞは、あれ一人で行って居られるだろうか?」
「みんな一人で行っているようですよ」
「だが、あれにはなかなか行って居られまいね?」
 父はなんだか困ったような顔つきをしたまま、しかし私の方を見ずに、自分の目の前にある木の枝の一つへいきなり鋏を入れた。それを見ると、私はとうとう我慢がしきれなくなって、それを私が言い出すのを父が待っているとしか思われない言葉を、ついと口に出した。
「なんでしたら僕も一緒に行ってもいいんです。いま、しかけている仕事の方も、丁度それまでには片がつきそうですから……」
 私はそう言いながら、やっと手の中に入れたばかりの莟のついた枝を再びそっと手離した。それと同時に父の顔が急に明るくなったのを私は認めた。
「そうしていただけたら、一番いいのだが、――しかしあなたにはえろう済まんな……」
「いいえ、僕なんぞにはかえってそう云った山の中の方が仕事ができるかも知れません……」
 それから私達はそのサナトリウムのある山岳地方のことなど話し合っていた。が、いつのまにか私達の会話は、父のいま手入れをしている植木の上に落ちていった。二人のいまお互に感じ合っている一種の同情のようなものが、そんなとりとめのない話をまで活気づけるように見えた。……
「節子さんはお起きになっているのかしら?」しばらくしてから私は何気なさそうに訊《き》いてみた。
「さあ、起きとるでしょう。……どうぞ、構わんから、其処からあちらへ……」と父は鋏をもった手で、庭木戸の方を示した。私はやっと植込みの中を潜り抜けると、蔦《つた》がからみついて少し開きにくい位になったその木戸をこじあけて、そのまま庭から、この間まではアトリエに使われていた、離れのようになった病室の方へ近づいていった。
 節子は、私の来ていることはもうとうに知っていたらしいが、私がそんな庭からはいって来ようとは思わなかったらしく、寝間着の上に明るい色の羽織をひっかけたまま、長椅子の上に横になりながら、細いリボンのついた、見かけたことのない婦人帽を手でおもちゃにしていた。
 私がフレンチ扉《ドア》ごしにそういう彼女を目に入れながら近づいて行くと、彼女の方でも私を認めたらしかった。彼女は無意識に立ち上ろうとするような身動きをした。が、彼女はそのまま横になり、顔を私の方へ向けたまま、すこし気まり悪そうな微笑で私を見つめた。
「起きていたの?」私は扉のところで、いくぶん乱暴に靴を脱ぎながら、声をかけた。
「ちょっと起きて見たんだけれど、すぐ疲れちゃったわ」
 そう言いながら、彼女はいかにも疲れを帯びたような、力なげな手つきで、ただ何んということもなしに手で弄《もてあそ》んでいたらしいその帽子を、すぐ脇にある鏡台の上へ無造作にほうり投げた。が、それはそこまで届かないで床の上に落ちた。私はそれに近寄って、殆ど私の顔が彼女の足のさきにくっつきそうになるように屈《かが》み込《こ》んで、その帽子を拾い上げると、今度は自分の手で、さっき彼女がそうしていたように、それをおもちゃにし出していた。
 それから私はやっと訊《き》いた。「こんな帽子なんぞ取り出して、何をしていたんだい?」
「そんなもの、いつになったら被《かぶ》れるようになるんだか知れやしないのに、お父様ったら、きのう買っておいでになったのよ。……おかしなお父様でしょう?」
「これ、お父様のお見立てなの? 本当に好いお父様じゃないか。……どおれ、この帽子、ちょっとかぶって御覧」と私が彼女の頭にそれを冗談半分かぶせるような真似をしかけると、
「厭《いや》、そんなこと……」
 彼女はそう言って、うるさそうに、それを避けでもするように、半ば身を起した。そうして言《い》い訣《わけ》のように弱々しい微笑をして見せながら、ふいと思い出したように、いくぶん痩《や》せの目立つ手で、すこし縺《もつ》れた髪を直しはじめた。その何気なしにしている、それでいていかにも自然に若い女らしい手つきは、それがまるで私を愛撫でもし出したかのような、呼吸《いき》づまるほどセンシュアルな魅力を私に感じさせた。そうしてそれは、思わずそれから私が目をそらさずにはいられないほどだった……
 やがて私はそれまで手で弄《もてあそ》んでいた彼女の帽子を、そっと脇の鏡台の上に載せると、ふいと何か考え出したように黙りこんで、なおもそういう彼女からは目をそらせつづけていた。
「おおこりになったの?」と彼女は突然私を見上げながら、気づかわしそうに問うた。
「そうじゃないんだ」と私はやっと彼女の方へ目をやりながら、それから話の続きでもなんでもなしに、出し抜けにこう言い出した。「さっきお父様がそう言っていらしったが、お前、ほんとうにサナトリウムに行く気かい?」
「ええ、こうしていても、いつ良くなるのだか分らないのですもの。早く良くなれるんなら、何処へでも行っているわ。でも……」
「どうしたのさ? なんて言うつもりだったんだい?」
「なんでもないの」
「なんでもなくってもいいから言って御覧。……どうしても言わないね、じゃ僕が言ってやろうか? お前、僕にも一緒に行けというのだろう?」
「そんなことじゃないわ」と彼女は急に私を遮ろうとした。
 しかし私はそれには構わずに、最初の調子とは異って、だんだん真面目になりだした、いくぶん不安そうな調子で言いつづけた。
「……いや、お前が来なくともいいと言ったって、そりあ僕は一緒に行くとも。だがね、ちょっとこんな気がして、それが気がかりなのだ。……僕はこうしてお前と一緒にならない前から、何処かの淋しい山の中へ、お前みたいな可哀らしい娘と二人きりの生活をしに行くことを夢みていたことがあったのだ。お前にもずっと前にそんな私の夢を打ち明けやしなかったかしら? ほら、あの山小屋の話さ、そんな山の中に私達は住めるのかしらと云って、あのときはお前は無邪気そうに笑っていたろう? ……実はね、こんどお前がサナトリウムへ行くと言い出しているのも、そんなことが知《し》らず識《し》らずの裡《うち》にお前の心を動かしているのじゃないかと思ったのだ。……そうじゃないのかい?」
 彼女はつとめて微笑《ほほえ》みながら、黙ってそれを聞いていたが、
「そんなこともう覚えてなんかいないわ」と彼女はきっぱりと言った。それから寧《むし》ろ私の方をいたわるような目つきでしげしげと見ながら、「あなたはときどき飛んでもないことを考え出すのね……」
 それから数分後、私達は、まるで私達の間には何事もなかったような顔つきをして、フレンチ扉《ドア》の向うに、芝生がもう大ぶ青くなって、あちらにもこちらにも陽炎《かげろう》らしいものの立っているのを、一緒になって珍らしそうに眺め出していた。

    ※[#アステリズム、1-12-94]

 四月になってから、節子の病気はいくらかずつ恢復期《かいふくき》に近づき出しているように見えた。そしてそれがいかにも遅々としていればいるほど、その恢復へのもどかしいような一歩一歩は、かえって何か確実なもののように思われ、私達には云い知れず頼もしくさえあった。
 そんな或る日の午後のこと、私が行くと、丁度父は外出していて、節子は一人で病室にいた。その日は大へん気分もよさそうで、いつも殆ど着たきりの寝間着を、めずらしく青いブラウスに着換えていた。私はそういう姿を見ると、どうしても彼女を庭へ引っぱり出そうとした。すこしばかり風が吹いていたが、それすら気持のいいくらい軟らかだった。彼女はちょっと自信なさそうに笑いながら、それでも私にやっと同意した。そうして私の肩に手をかけて、フレンチ扉《ドア》から、何んだか危かしそうな足つきをしながら、おずおずと芝生の上へ出て行った。生墻《いけがき》に沿うて、いろんな外国種のも混じって、どれがどれだか見分けられないくらいに枝と枝を交わしながら、ごちゃごちゃに茂っている植込みの方へ近づいてゆくと、それらの茂みの上には、あちらにもこちらにも白や黄や淡紫の小さな莟《つぼみ》がもう今にも咲き出しそうになっていた。私はそんな茂みの一つの前に立ち止まると、去年の秋だったか、それがそうだと彼女に教えられたのをひょっくり思い出して、
「これはライラックだったね?」と彼女の方をふり向きながら、半ば訊くように言った。
「それがどうもライラックじゃないかも知れないわ」と私の肩に軽く手をかけたまま、彼女はすこし気の毒そうに答えた。
「ふん……じゃ、いままで嘘を教えていたんだね?」
「嘘なんか衝《つ》きやしないけれど、そういって人から頂戴したの。……だけど、あんまり好い花じゃないんですもの」
「なあんだ、もういまにも花が咲きそうになってから、そんなことを白状するなんて! じゃあ、どうせあいつも……」
 私はその隣りにある茂みの方を指さしながら、「あいつは何んていったっけなあ?」
「金雀児《えにしだ》?」と彼女はそれを引き取った。私達は今度はそっちの茂みの前に移っていった。「この金雀児は本物よ。ほら、黄いろいのと白いのと、莟が二種類あるでしょう? こっちの白いの、それあ珍らしいのですって……お父様の御自慢よ……」
 そんな他愛のないことを言い合いながら、その間じゅう節子は私の肩から手をはずさずに、しかし疲れたというよりも、うっとりとしたようになって、私に靠《もた》れかかっていた。それから私達はしばらくそのまま黙り合っていた。そうすることがこういう花咲き匂うような人生をそのまま少しでも引き留めて置くことが出来でもするかのように。ときおり軟らかな風が向うの生墻の間から抑えつけられていた呼吸かなんぞのように押し出されて、私達の前にしている茂みにまで達し、その葉を僅かに持ち上げながら、それから其処にそういう私達だけをそっくり完全に残したまんま通り過ぎていった。
 突然、彼女が私の肩にかけていた自分の手の中にその顔を埋めた。私は彼女の心臓がいつもよりか高く打っているのに気がついた。「疲れたの?」私はやさしく彼女に訊いた。
「いいえ」と彼女は小声に答えたが、私はますます私の肩に彼女のゆるやかな重みのかかって来るのを感じた。
「私がこんなに弱くって、あなたに何んだかお気の毒で……」彼女はそう囁《ささや》いたのを、私は聞いたというよりも、むしろそんな気がした位のものだった。
「お前のそういう脆弱《ひよわ》なのが、そうでないより私にはもっとお前をいとしいものにさせているのだと云うことが、どうして分らないのだろうなあ……」と私はもどかしそうに心のうちで彼女に呼びかけながら、しかし表面はわざと何んにも聞きとれなかったような様子をしながら、そのままじっと身動きもしないでいると、彼女は急に私からそれを反らせるようにして顔をもたげ、だんだん私の肩から手さえも離して行きながら、
「どうして、私、この頃こんなに気が弱くなったのかしら? こないだうちは、どんなに病気のひどいときだって何んとも思わなかった癖に……」と、ごく低い声で、独り言でも言うように口ごもった。沈黙がそんな言葉を気づかわしげに引きのばしていた。そのうち彼女が急に顔を上げて、私をじっと見つめたかと思うと、それを再び伏せながら、いくらか上ずったような中音で言った。「私、なんだか急に生きたくなったのね……」
 それから彼女は聞えるか聞えない位の小声で言い足した。「あなたのお蔭で……」

    ※[#アステリズム、1-12-94]

 それは、私達がはじめて出会ったもう二年前にもなる夏の頃、不意に私の口を衝《つ》いて出た、そしてそれから私が何んということもなしに口ずさむことを好んでいた、

[#ここから2字下げ]
風立ちぬ、いざ生きめやも。
[#ここで字下げ終わり]

という詩句が、それきりずっと忘れていたのに、又ひょっくりと私達に蘇《よみがえ》ってきたほどの、――云わば人生に先立った、人生そのものよりかもっと生き生きと、もっと切ないまでに愉《たの》しい日々であった。
 私達はその月末に八ヶ岳|山麓《さんろく》のサナトリウムに行くための準備をし出していた。私は、一寸した識合《しりあ》いになっている、そのサナトリウムの院長がときどき上京する機会を捉えて、其処へ出かけるまでに一度節子の病状を診て貰うことにした。
 或る日、やっとのことで郊外にある節子の家までその院長に来て貰って、最初の診察を受けた後、「なあに大したことはないでしょう。まあ、一二年山へ来て辛抱なさるんですなあ」と病人達に言い残して忙しそうに帰ってゆく院長を、私は駅まで見送って行った。私は彼から自分にだけでも、もっと正確な彼女の病態を聞かしておいて貰いたかったのだった。
「しかし、こんなことは病人には言わぬようにしたまえ。父親《ファタア》にはそのうち僕からもよく話そうと思うがね」院長はそんな前置きをしながら、少し気むずかしい顔つきをして節子の容態をかなり細かに私に説明して呉れた。それからそれを黙って聞いていた私の方をじっと見て、「君もひどく顔色が悪いじゃないか。ついでに君の身体も診ておいてやるんだったな」と私を気の毒がるように言った。
 駅から私が帰って、再び病室にはいってゆくと、父はそのまま寝ている病人の傍に居残って、サナトリウムへ出かける日取などの打ち合わせを彼女とし出していた。なんだか浮かない顔をしたまま、私もその相談に加わり出した。「だが……」父はやがて何か用事でも思いついたように、立ち上がりながら、「もうこの位に良くなっているのだから、夏中だけでも行っていたら、よかりそうなものだがね」といかにも不審そうに言って、病室を出ていった。
 二人きりになると、私達はどちらからともなくふっと黙り合った。それはいかにも春らしい夕暮であった。私はさっきからなんだか頭痛がしだしているような気がしていたが、それがだんだん苦しくなってきたので、そっと目立たぬように立ち上がると、硝子《ガラス》扉の方に近づいて、その一方の扉を半ば開け放ちながら、それに靠《もたれ》れかかった。そうしてしばらくそのまま私は、自分が何を考えているのかも分からない位にぼんやりして、一面にうっすらと靄《もや》の立ちこめている向うの植込みのあたりへ「いい匂がするなあ、何んの花のにおいだろう――」と思いながら、空虚な目をやっていた。
「何をしていらっしゃるの?」
 私の背後で、病人のすこし嗄《しゃが》れた声がした。それが不意に私をそんな一種の麻痺《まひ》したような状態から覚醒《かくせい》させた。私は彼女の方には背中を向けたまま、いかにも何か他のことでも考えていたような、取ってつけたような調子で、
「お前のことだの、山のことだの、それからそこで僕達の暮らそうとしている生活のことだのを、考えているのさ……」と途切れ途切れに言い出した。が、そんなことを言い続けているうちに、私はなんだか本当にそんな事を今しがたまで考えていたような気がしてきた。そうだ、それから私はこんなことも考えていたようだ。――「向うへいったら、本当にいろいろな事が起るだろうなあ。……しかし人生というものは、お前がいつもそうしているように、何もかもそれに任せ切って置いた方がいいのだ。……そうすればきっと、私達がそれを希《ねが》おうなどとは思いも及ばなかったようなものまで、私達に与えられるかも知れないのだ。……」そんなことまで心の裡《うち》で考えながら、それには少しも自分では気がつかずに、私はかえって何んでもないように見える些細《ささい》な印象の方にすっかり気をとられていたのだ。……
 そんな庭面《にわも》はまだほの明るかったが、気がついて見ると、部屋のなかはもうすっかり薄暗くなっていた。
「明りをつけようか?」私は急に気をとりなおしながら言った。
「まだつけないでおいて頂戴……」そう答えた彼女の声は前よりも嗄れていた。
 しばらく私達は言葉もなくていた。
「私、すこし息ぐるしいの、草のにおいが強くて……」
「じゃ、ここも締めて置こうね」
 私は、殆ど悲しげな調子でそう応じながら、扉の握りに手をかけて、それを引きかけた。
「あなた……」彼女の声は今度は殆ど中性的なくらいに聞えた。「いま、泣いていらしったんでしょう?」
 私はびっくりした様子で、急に彼女の方をふり向いた。
「泣いてなんかいるものか。……僕を見て御覧」
 彼女は寝台の中から私の方へその顔を向けようともしなかった。もう薄暗くってそれとは定かに認めがたい位だが、彼女は何かをじっと見つめているらしい。しかし私がそれを気づかわしそうに自分の目で追って見ると、ただ空《くう》を見つめているきりだった。
「わかっているの、私にも……さっき院長さんに何か言われていらしったのが……」
 私はすぐ何か答えたかったが、何んの言葉も私の口からは出て来なかった。私はただ音を立てないようにそっと扉を締めながら再び、夕暮れかけた庭面を見入り出した。
 やがて私は、私の背後に深い溜息《ためいき》のようなものを聞いた。
「御免なさい」彼女はとうとう口をきいた。その声はまだ少し顫《ふる》えを帯びていたが、前よりもずっと落着いていた。「こんなこと気になさらないでね……。私達、これから本当に生きられるだけ生きましょうね……」
 私はふりむきながら、彼女がそっと目がしらに指先をあてて、そこにそれをじっと置いているのを認めた。

    ※[#アステリズム、1-12-94]

 四月下旬の或る薄曇った朝、停車場まで父に見送られて、私達はあたかも蜜月の旅へでも出かけるように、父の前はさも愉しそうに、山岳地方へ向う汽車の二等室に乗り込んだ。汽車は徐《しず》かにプラットフォームを離れ出した。その跡に、つとめて何気なさそうにしながら、ただ背中だけ少し前屈《まえかが》みにして、急に年とったような様子をして立っている父だけを一人残して。――
 すっかりプラットフォームを離れると、私達は窓を締めて、急に淋しくなったような顔つきをして、空いている二等室の一隅に腰を下ろした。そうやってお互の心と心を温め合おうとでもするように、膝と膝とをぴったりとくっつけながら……



   風立ちぬ

 私達の乗った汽車が、何度となく山を攀《よ》じのぼったり、深い渓谷に沿って走ったり、又それから急に打《う》ち展《ひら》けた葡萄畑《ぶどうばたけ》の多い台地を長いことかかって横切ったりしたのち、漸《や》っと山岳地帯へと果てしのないような、執拗《しつよう》な登攀《とうはん》をつづけ出した頃には、空は一層低くなり、いままではただ一面に鎖《と》ざしているように見えた真っ黒な雲が、いつの間にか離れ離れになって動き出し、それらが私達の目の上にまで圧《お》しかぶさるようであった。空気もなんだか底冷えがしだした。上衣の襟を立てた私は、肩掛にすっかり体を埋めるようにして目をつぶっている節子の、疲れたと云うよりも、すこし興奮しているらしい顔を不安そうに見守っていた。彼女はときどきぼんやりと目をひらいて私の方を見た。はじめのうちは二人はその度毎に目と目で微笑《ほほえ》みあったが、しまいにはただ不安そうに互を見合ったきり、すぐ二人とも目をそらせた。そうして彼女はまた目を閉じた。
「なんだか冷えてきたね。雪でも降るのかな」
「こんな四月になっても雪なんか降るの?」
「うん、この辺は降らないともかぎらないのだ」
 まだ三時頃だというのにもうすっかり薄暗くなった窓の外へ目を注いだ。ところどころに真っ黒な樅《もみ》をまじえながら、葉のない落葉松《からまつ》が無数に並び出しているのに、すでに私達は八ヶ岳の裾を通っていることに気がついたが、まのあたり見える筈の山らしいものは影も形も見えなかった。……
 汽車は、いかにも山麓《さんろく》らしい、物置小屋と大してかわらない小さな駅に停車した。駅には、高原療養所の印のついた法被《はっぴ》を着た、年とった、小使が一人、私達を迎えに来ていた。
 駅の前に待たせてあった、古い、小さな自動車のところまで、私は節子を腕で支えるようにして行った。私の腕の中で、彼女がすこしよろめくようになったのを感じたが、私はそれには気づかないようなふりをした。
「疲れたろうね?」
「そんなでもないわ」
 私達と一緒に下りた数人の土地の者らしい人々が、そういう私達のまわりで何やら囁《ささや》き合《あ》っていたようだったが、私達が自動車に乗り込んでいるうちに、いつのまにかその人々は他の村人たちに混って見分けにくくなりながら、村のなかに消えていた。
 私達の自動車が、みすぼらしい小家の一列に続いている村を通り抜けた後、それが見えない八ヶ岳の尾根までそのまま果てしなく拡がっているかと思える凸凹の多い傾斜地へさしかかったと思うと、背後に雑木林を背負いながら、赤い屋根をした、いくつもの側翼のある、大きな建物が、行く手に見え出した。「あれだな」と、私は車台の傾きを身体に感じ出しながら、つぶやいた。
 節子はちょっと顔を上げ、いくぶん心配そうな目つきで、それをぼんやりと見ただけだった。


 サナトリウムに着くと、私達は、その一番奥の方の、裏がすぐ雑木林になっている、病棟の二階の第一号室に入れられた。簡単な診察後、節子はすぐベッドに寝ているように命じられた。リノリウムで床を張った病室には、すべて真っ白に塗られたベッドと卓と椅子と、――それからその他には、いましがた小使が届けてくれたばかりの数箇のトランクがあるきりだった。二人きりになると、私はしばらく落着かずに、附添人のために宛てられた狭苦しい側室にはいろうともしないで、そんなむき出しな感じのする室内をぼんやりと見廻したり、又、何度も窓に近づいては、空模様ばかり気にしていた。風が真っ黒な雲を重たそうに引きずっていた。そしてときおり裏の雑木林から鋭い音を※[#「てへん+宛」、第3水準1-84-80]《も》いだりした。私は一度寒そうな恰好《かっこう》をしてバルコンに出て行った。バルコンは何んの仕切もなしにずっと向うの病室まで続いていた。その上には全く人けが絶えていたので、私は構わずに歩き出しながら、病室を一つ一つ覗いて行って見ると、丁度四番目の病室のなかに、一人の患者の寝ているのが半開きになった窓から見えたので、私はいそいでそのまま引っ返して来た。
 やっとランプが点《つ》いた。それから私達は看護婦の運んで来てくれた食事に向い合った。それは私達が二人きりで最初に共にする食事にしては、すこし佗《わ》びしかった。食事中、外がもう真っ暗なので何も気がつかずに、唯何んだかあたりが急に静かになったと思っていたら、いつのまにか雪になり出したらしかった。
 私は立ち上って、半開きにしてあった窓をもう少し細目にしながら、その硝子《ガラス》に顔をくっつけて、それが私の息で曇りだしたほど、じっと雪のふるのを見つめていた。それからやっと其処を離れながら、節子の方を振り向いて、「ねえ、お前、何んだってこんな……」と言い出しかけた。
 彼女はベッドに寝たまま、私の顔を訴えるように見上げて、それを私に言わせまいとするように、口へ指をあてた。

    ※[#アステリズム、1-12-94]

 八ヶ岳の大きなのびのびとした代赭色《たいしゃいろ》の裾野が漸くその勾配を弛《ゆる》めようとするところに、サナトリウムは、いくつかの側翼を並行に拡げながら、南を向いて立っていた。その裾野の傾斜は更に延びて行って、二三の小さな山村を村全体傾かせながら、最後に無数の黒い松にすっかり包まれながら、見えない谿間《たにま》のなかに尽きていた。
 サナトリウムの南に開いたバルコンからは、それらの傾いた村とその赭《あか》ちゃけた耕作地が一帯に見渡され、更にそれらを取り囲みながら果てしなく並み立っている松林の上に、よく晴れている日だったならば、南から西にかけて、南アルプスとその二三の支脈とが、いつも自分自身で湧き上らせた雲のなかに見え隠れしていた。


 サナトリウムに着いた翌朝、自分の側室で私が目を醒《さ》ますと、小さな窓枠の中に、藍青色《らんせいしょく》に晴れ切った空と、それからいくつもの真っ白い鶏冠のような山巓《さんてん》が、そこにまるで大気からひょっくり生れでもしたような思いがけなさで、殆んど目《ま》ながいに見られた。そして寝たままでは見られないバルコンや屋根の上に積った雪からは、急に春めいた日の光を浴びながら、絶えず水蒸気がたっているらしかった。
 すこし寝過したくらいの私は、いそいで飛び起きて、隣りの病室へはいって行った。節子は、すでに目を醒ましていて、毛布にくるまりながら、ほてったような顔をしていた。
「お早う」私も同じように、顔がほてり出すのを感じながら、気軽そうに言った。「よく寝られた?」
「ええ」彼女は私にうなずいて見せた。「ゆうべ睡眠剤《くすり》を飲んだの。なんだか頭がすこし痛いわ」
 私はそんなことになんか構っていられないと云った風に、元気よく窓も、それからバルコンに通じる硝子《ガラス》扉も、すっかり開け放した。まぶしくって、一時は何も見られない位だったが、そのうちそれに目がだんだん馴れてくると、雪に埋れたバルコンからも、屋根からも、野原からも、木からさえも、軽い水蒸気の立っているのが見え出した。
「それにとても可笑《おか》しな夢を見たの。あのね……」彼女が私の背後で言い出しかけた。
 私はすぐ、彼女が何か打ち明けにくいようなことを無理に言い出そうとしているらしいのを覚《さと》った。そんな場合のいつものように、彼女のいまの声もすこし嗄《しゃが》れていた。
 今度は私が、彼女の方を振り向きながら、それを言わせないように、口へ指をあてる番だった。……
 やがて看護婦長がせかせかした親切そうな様子をしてはいって来た。こうして看護婦長は、毎朝、病室から病室へと患者達を一人一人見舞うのである。
「ゆうべはよくお休みになれましたか?」看護婦長は快活そうな声で尋ねた。
 病人は何も言わないで、素直にうなずいた。

    ※[#アステリズム、1-12-94]

 こういう山のサナトリウムの生活などは、普通の人々がもう行き止まりだと信じているところから始まっているような、特殊な人間性をおのずから帯びてくるものだ。――私が自分の裡《うち》にそういう見知らないような人間性をぼんやりと意識しはじめたのは、入院後間もなく私が院長に診察室に呼ばれて行って、節子のレントゲンで撮られた疾患部の写真を見せられた時からだった。
 院長は私を窓ぎわに連れて行って、私にも見よいように、その写真の原板を日に透かせながら、一々それに説明を加えて行った。右の胸には数本の白々とした肋骨《ろっこつ》がくっきりと認められたが、左の胸にはそれらが殆んど何も見えない位、大きな、まるで暗い不思議な花のような、病竈《びょうそう》ができていた。
「思ったよりも病竈が拡がっているなあ。……こんなにひどくなってしまって居るとは思わなかったね。……これじゃ、いま、病院中でも二番目ぐらいに重症かも知れんよ……」
 そんな院長の言葉が自分の耳の中でがあがあするような気がしながら、私はなんだか思考力を失ってしまった者みたいに、いましがた見て来たあの暗い不思議な花のような影像《イマアジュ》をそれらの言葉とは少しも関係がないもののように、それだけを鮮かに意識の閾《しきみ》に上らせながら、診察室から帰って来た。自分とすれちがう白衣の看護婦だの、もうあちこちのバルコンで日光浴をしだしている裸体の患者達だの、病棟のざわめきだの、それから小鳥の囀《さえず》りだのが、そういう私の前を何んの連絡もなしに過ぎた。私はとうとう一番はずれの病棟にはいり、私達の病室のある二階へ通じる階段を昇ろうとして機械的に足を弛《ゆる》めた瞬間、その階段の一つ手前にある病室の中から、異様な、ついぞそんなのはまだ聞いたこともないような気味のわるい空咳が続けさまに洩れて来るのを耳にした。「おや、こんなところにも患者がいたのかなあ」と思いながら、私はそのドアについている No.17 という数字を、ただぼんやりと見つめた。

    ※[#アステリズム、1-12-94]

 こうして私達のすこし風変りな愛の生活が始まった。
 節子は入院以来、安静を命じられて、ずっと寝ついたきりだった。そのために、気分の好いときはつとめて起きるようにしていた入院前の彼女に比べると、かえって病人らしく見えたが、別に病気そのものは悪化したとも思えなかった。医者達もまた直ぐ快癒する患者として彼女をいつも取り扱っているように見えた。「こうして病気を生捕りにしてしまうのだ」と院長などは冗談でも言うように言ったりした。
 季節はその間に、いままで少し遅れ気味だったのを取り戻すように、急速に進み出していた。春と夏とが殆んど同時に押し寄せて来たかのようだった。毎朝のように、鶯や閑古鳥の囀りが私達を眼ざませた。そして殆んど一日中、周囲の林の新緑がサナトリウムを四方から襲いかかって、病室の中まですっかり爽《さわ》やかに色づかせていた。それらの日々、朝のうちに山々から湧いて出て行った白い雲までも、夕方には再び元の山々へ立ち戻って来るかと見えた。
 私は、私達が共にした最初の日々、私が節子の枕もとに殆んど附ききりで過したそれらの日々のことを思い浮べようとすると、それらの日々が互に似ているために、その魅力はなくはない単一さのために、殆んどどれが後だか先きだか見分けがつかなくなるような気がする。
 と言うよりも、私達はそれらの似たような日々を繰り返しているうちに、いつか全く時間というものからも抜け出してしまっていたような気さえする位だ。そして、そういう時間から抜け出したような日々にあっては、私達の日常生活のどんな些細《ささい》なものまで、その一つ一つがいままでとは全然異った魅力を持ち出すのだ。私の身近にあるこの微温《なまぬる》い、好い匂いのする存在、その少し早い呼吸、私の手をとっているそのしなやかな手、その微笑、それからまたときどき取り交わす平凡な会話、――そう云ったものを若《も》し取り除いてしまうとしたら、あとには何も残らないような単一な日々だけれども、――我々の人生なんぞというものは要素的には実はこれだけなのだ、そして、こんなささやかなものだけで私達がこれほどまで満足していられるのは、ただ私がそれをこの女と共にしているからなのだ、と云うことを私は確信して居られた。
 それらの日々に於ける唯一の出来事と云えば、彼女がときおり熱を出すこと位だった。それは彼女の体をじりじり衰えさせて行くものにちがいなかった。が、私達はそういう日は、いつもと少しも変らない日課の魅力を、もっと細心に、もっと緩慢に、あたかも禁断の果実の味をこっそり偸《ぬす》みでもするように味わおうと試みたので、私達のいくぶん死の味のする生の幸福はその時は一そう完全に保たれた程だった。


 そんな或る夕暮、私はバルコンから、そして節子はベッドの上から、同じように、向うの山の背に入って間もない夕日を受けて、そのあたりの山だの丘だの松林だの山畑だのが、半ば鮮かな茜色《あかねいろ》を帯びながら、半ばまだ不確かなような鼠色《ねずみいろ》に徐々に侵され出しているのを、うっとりとして眺めていた。ときどき思い出したようにその森の上へ小鳥たちが抛物線《ほうぶつせん》を描いて飛び上った。――私は、このような初夏の夕暮がほんの一瞬時生じさせている一帯の景色は、すべてはいつも見馴れた道具立てながら、恐らく今を措《お》いてはこれほどの溢《あふ》れるような幸福の感じをもって私達自身にすら眺め得られないだろうことを考えていた。そしてずっと後になって、いつかこの美しい夕暮が私の心に蘇《よみがえ》って来るようなことがあったら、私はこれに私達の幸福そのものの完全な絵を見出すだろうと夢みていた。
「何をそんなに考えているの?」私の背後から節子がとうとう口を切った。
「私達がずっと後になってね、今の私達の生活を思い出すようなことがあったら、それがどんなに美しいだろうと思っていたんだ」
「本当にそうかも知れないわね」彼女はそう私に同意するのがさも愉《たの》しいかのように応じた。
 それからまた私達はしばらく無言のまま、再び同じ風景に見入っていた。が、そのうちに私は不意になんだか、こうやってうっとりと見入っているのが自分であるような自分でないような、変に茫漠《ぼうばく》とした、取りとめのない、そしてそれが何んとなく苦しいような感じさえして来た。そのとき私は自分の背後で深い息のようなものを聞いたような気がした。が、それがまた自分のだったような気もされた。私はそれを確かめでもするように、彼女の方を振り向いた。
「そんなにいまの……」そういう私をじっと見返しながら、彼女はすこし嗄《しゃが》れた声で言いかけた。が、それを言いかけたなり、すこし躊躇《ためら》っていたようだったが、それから急にいままでとは異った打棄《うっちゃ》るような調子で、「そんなにいつまでも生きて居られたらいいわね」と言い足した。
「又、そんなことを!」
 私はいかにも焦《じ》れったいように小さく叫んだ。
「御免なさい」彼女はそう短く答えながら私から顔をそむけた。
 いましがたまでの何か自分にも訣《わけ》の分らないような気分が私にはだんだん一種の苛《い》ら立《だ》たしさに変り出したように見えた。私はそれからもう一度山の方へ目をやったが、その時は既にもうその風景の上に一瞬間生じていた異様な美しさは消え失せていた。

 その晩、私が隣りの側室へ寝に行こうとした時、彼女は私を呼び止めた。
「さっきは御免なさいね」
「もういいんだよ」
「私ね、あのとき他のことを言おうとしていたんだけれど……つい、あんなことを言ってしまったの」
「じゃ、あのとき何を言おうとしたんだい?」
「……あなたはいつか自然なんぞが本当に美しいと思えるのは死んで行こうとする者の眼にだけだと仰《おっ》しゃったことがあるでしょう。……私、あのときね、それを思い出したの。何んだかあのときの美しさがそんな風に思われて」そう言いながら、彼女は私の顔を何か訴えたいように見つめた。
 その言葉に胸を衝《つ》かれでもしたように、私は思わず目を伏せた。そのとき、突然、私の頭の中を一つの思想がよぎった。そしてさっきから私を苛ら苛らさせていた、何か不確かなような気分が、漸《ようや》く私の裡《うち》ではっきりとしたものになり出した。……「そうだ、おれはどうしてそいつに気がつかなかったのだろう? あのとき自然なんぞをあんなに美しいと思ったのはおれじゃないのだ。それはおれ達[#「おれ達」に傍点]だったのだ。まあ言って見れば、節子の魂がおれの眼を通して、そしてただおれの流儀で、夢みていただけなのだ。……それだのに、節子が自分の最後の瞬間のことを夢みているとも知らないで、おれはおれで、勝手におれ達の長生きした時のことなんぞ考えていたなんて……」
 いつしかそんな考えをとつおいつし出していた私が、漸《や》っと目を上げるまで、彼女はさっきと同じように私をじっと見つめていた。私はその目を避けるような恰好《かっこう》をしながら、彼女の上に跼《かが》みかけて、その額にそっと接吻した。私は心から羞《はず》かしかった。……
(つづく)


底本:「昭和文学全集 第6巻」小学館
   1988(昭和63)年6月1日初版第1刷発行
底本の親本:「堀辰雄全集 第1巻」筑摩書房
   1977(昭和52)年5月28日初版第1刷発行
初出:「風立ちぬ」は「序曲」「春」「風立ちぬ」「冬」「死のかげの谷」の五篇から成っている。
   「序曲」:「改造」1936(昭和11)年12月号に発表された「風立ちぬ」の発端部分を野田書房版(1938(昭和13)年4月10日刊)「風立ちぬ」において「序曲」と改題。
   「春」:「新女苑」1937(昭和12)年4月号に「婚約」と題し発表。
   「風立ちぬ」:「改造」1936(昭和11)年12月号に発表。構成は「発端」「※[#ローマ数字1、1-13-21]」「※[#ローマ数字2、1-13-22]」「※[#ローマ数字3、1-13-23]」の4章から成る。
   「冬」:「文藝春秋」1937(昭和12)年1月号に発表。
   「死のかげの谷」:「新潮」1938(昭和13)年3月号に発表。
初収単行本:「風立ちぬ」野田書房、1938(昭和13)年4月10日
※底本の親本の筑摩全集版は、野田書房版による。初出情報は、「堀辰雄全集 第1巻」筑摩書房、1977(昭和52)年5月28日、解題による。
入力:kompass
校正:浅原庸子
2003年12月29日作成
2004年3月27日修正
青空文庫作成ファイル:
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*地名

(※ 市町村名は、平成の大合併以前の表記のまま。一般的な国名・地名などは解説省略。
  • 八ヶ岳 やつがたけ 富士火山帯中の成層火山。長野県茅野市・南佐久郡・諏訪郡と山梨県北杜市にまたがる。赤岳(2899m)を最高峰として、硫黄岳・横岳・権現岳など8峰が連なり、山麓斜面が広く、高冷地野菜栽培が盛ん。尖石など先史遺跡が分布。
  • 南アルプス みなみ アルプス (1) 日本アルプスを構成する赤石山脈の別称。(2) 山梨県中西部、南アルプス山系の北東部とその扇状地から成る市。果樹栽培が盛ん。人口7万2千。


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)。




*人物一覧

(人名、および組織・団体名・神名)
  • ヴァレリー Paul Valry 1871-1945 フランスの詩人・思想家。マラルメの高弟で、象徴詩から純粋詩へと進み、文学・芸術・文化全般にわたり精妙な評論を書く。詩「若きパルク」「海辺の墓地」、評論「精神の危機」、対話篇「ユーパリノス」など。遺稿に「カイエ」


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)。



*難字、求めよ

  • vent (ヴァン)風。(英、wind)
  • leve (1) 上がった。挙げた。(2) 起床した。起立した。
  • il (イル)(英、he, it)
  • faut …しなければならない。
  • tenter (タンテ)(1) 試みる。ためしてみる。
  • de (ドゥ)(英、of, from)
  • vivre (ヴィーヴル)(1) 生きる。生きている。
  • 画架 がか 絵を描く時にカンバスや画板を支える台。イーゼル。
  • きづかわしい 気遣わしい 気がかりである。心配だ。心もとない。
  • 裸根 はだかね 樹木などの根が、地表に露出したもの。
  • 下生え したばえ 木の下に生えた草や低木など。
  • 灌木 かんぼく (1) 枝がむらがり生える樹木。(2) (→)低木に同じ。←→喬木。
  • このあいだうち 此間内。せんだって。先ごろ。こないだうち。
  • サナトリウム sanatorium 療養所。郊外・林間・海浜・高原に設け、清浄な空気と日光とを利用し、主として結核症など慢性疾患を治療した施設。
  • フレンチドア 観音開きの扉。
  • センシュアル sensual 官能的。肉感的。肉欲的。
  • 淡紫 あわむらさき
  • 金雀枝・金雀児 エニシダ (ラテン語ゲニスタ(genista)が転訛したスペイン語イニエスタ(hiniesta)から) マメ科の落葉低木。南欧原産の観賞植物。高さ約1.5m。茎は深緑色で縦稜がある。5月頃、葉腋に黄金色の蝶形花をつけ、両縁に毛のある莢(さや)を生ずる。紅斑のある花や白花などの園芸品種が多い。
  • 夏中 なつなか 夏のなかば。夏の盛り。
  • よかりそう 良-。〔連語〕(形容詞「よし」の補助活用連用形に様態の助動詞「そうだ」のついた形)そうする、またはそうあるのがよいだろうと思われるさま。よさそう。
  • 小屋・小家 おや 小さい家。こや。
  • 側翼 そくよく 建物の中心部から外側に長く伸びた部分。
  • リノリウム linoleum 亜麻仁油の酸化物リノキシンに樹脂・コルク粉・顔料などを混合し、麻布などに塗って薄板状に成形したもの。床敷・壁張材料に用いる。高い抗菌力がある。
  • 側室 そくしつ (3) おもだった部屋に添えられた部屋。次の間。副室。
  • �ぐ もぐ
  • 代赭色 たいしゃいろ 代赭に似た色。帯褐黄色。
  • 代赭 たいしゃ (1) (中国山西省代県から良質のものを産するのでいう) 赤褐色ないし黄褐色の顔料。酸化鉄(III)を主成分とするもので黄土に近く、天然物である。(2) 代赭色の略。
  • 藍青色 らんせいしょく あい色がかった空色。
  • 山巓・山顛 さんてん 山のいただき。山頂。
  • 目ながい まながい。まなかい。眼間・目交。(目(ま)の交(か)いの意)目と目の間。転じて、目の前。まのあたり。
  • 病巣・病竈 びょうそう 病に侵されている箇所。病原のある箇所。
  • かんこどり (カッコウドリの訛か。「閑古鳥」と当て字) カッコウ。
  • とつおいつ (取リツ置キツの転) あれこれと。特に、あれやこれやと思い迷うこと。とっつおいつ。


◇参照:『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)『日本国語大辞典 第二版』(小学館、2001.5)『クラウン仏和辞典 第5版』(三省堂、2002.2)。



*後記(工作員スリーパーズ日記)


 大晦日。山形のヤマダ電機にてソニー Reader、最新モデルの PRS-T2(ルージュ)と microSDカード16GB を購入。しめて1萬2000圓弱。
 展示コーナーにはモックアップが2台と、実機は2010年モデルの PRS-350 のみ。楽天 kobo もアマゾン Kindle もない。
 まずなにより軽い。昨年モデルとくらべて、リフレッシュ白黒反転もかなり気にならなくなってる。ページめくりは軽快。ユーザーインターフェイスはどうしようもなくしょぼい。

 問題は、自炊 pdf 表示の利用にたえうるかどうか。インプレションが悪くなかったので店員さんと談判。持参した SDカードを差し込んで確認。読み込みにしばし……2、3分。カード内のすべてのテキスト、画像、pdf を自動的に読み込んで、新規にサムネイルを作成してるらしい。本棚につぎつぎと表示される。
 さて pdf。テキストや epub ファイルにくらべると、表示、ページめくり、拡大、移動に多少時間がかかる。ファイルの作り方やサイズにもよるのだろうが、バタバタもっさり感がある。このあたり、ドコモの7インチのタブレット MEDIAS TAB UL(1.5GHz デュアルコア、Android 4.0)や、同じく GALAXY note II(1.6GHz クアッドコア、Android 4.1)のほうが上。現状これが、e インク電子ペーパーの限界だろう。
 6インチモニタだから、文庫本にしても新書にしても原寸サイズの表示はまともに期待できない。横置きにしたときの分割表示がスムーズかどうか、文字確認できるレベルかどうか……、このあたりが青空工作員としての要求。200 ないし 300dpi、グレースケールでスキャンした画像 pdf をマックスまで拡大。どうやら Adobe のAcrobat Reader や Mac のプレビューの1600%拡大表示にはまったくおよばない。実寸と同程度か、せいぜい110〜120%ってところだろうか。モノクロ二階調ないしベクターファイルは未確認。
 
 お持ち帰り♪〜。Mac OS X 10.5.8 以上が要求される環境になってるが、パソコンとの接続初期設定なしでも使用できた。同期や本棚の細かい設定はできないが、USB ケーブルで OS 9 や OS X 4(Tiger)とすんなり接続できてしまった。
 いろいろファイルをつっこんでみると、どうやら OS 9 で作った日本語名のファイルに限って Reader 側で文字化けしている。たぶん表示システムの違いか。.book が利用できるってことは、もしや ttz も見れる? との期待むなしくはじかれる。アプリケーションにブラウザがあるんだから html ファイルも表示できそうなもんだけれど、これもダメ。文字サイズの拡大縮小はできるのに、行間やマージンの変更はできない。なによりも、ファイルのフォルダ管理できないっていうのだからミニマム設計にもほどがある。5階層に割り切ってフォルダ管理できるようになったポメラ DM100 を見習うべし。

 自炊していて、pdf ファイルがあって、epub を自作して確認する環境が手っ取り早くほしいというユーザーにはおすすめ。毎年のようにバージョンを上げてくる可能性はあるが、ガシガシ使ってくださいという価格設定だから、そのつもりで使ってみたい。往年のインフォキャリーや PDA のように消えて続かないってことはないんじゃないかなあ……と。
 既成の電子本を楽しみたい人や、パソコンを持ってない人、「pdfってなに?」という人には、まだ、つらいだろうなあというのが正直なところ。読者がふえないと電子本の点数も劇的にはふえないような気がする。絶望だけが人生さ。絶望よ、こんにちは。いざ、生きめやも。




*次週予告


第五巻 第二五号 
風立ちぬ(二)堀 辰雄


第五巻 第二五号は、
二〇一三年一月一二日(土)発行予定です。
定価:200円


T-Time マガジン 週刊ミルクティー 第五巻 第二四号
風立ちぬ(一)堀 辰雄
発行:二〇一三年一月五日(土)
編集:しだひろし / PoorBook G3'99
 http://www33.atwiki.jp/asterisk99/
出版:*99 出版
 〒994-0024 山形県天童市鎌田2丁目
 アパートメント山口A−202
販売:DL-MARKET
※ T-Timeは(株)ボイジャーの商標・製品です。