校註『古事記』(一〇)
稗田の阿礼、太の安万侶武田祐吉(注釈・校訂)
古事記 下つ巻
〔六、清寧 天皇・顕宗 天皇・仁賢天皇〕
〔清寧 天皇〕
御子、
この
- (一)
清寧 天皇。 - (二)奈良県
磯城郡 。 - (三)奈良県南葛城郡。
〔志自牟 の新室楽 〕
ここに
とのりたまいつ。ここにすなわち
- (一)播磨の国の長官。この物語は、一六八ページ〔
「安康天皇」の「市の辺の押歯の王」 の市の辺の忍歯の王の殺された物語のつづきになる。〕 - (二)朝廷に仕える部族。古くは武士にはかぎらない。
- (三)
大刀 の柄に赤い画を描き。 - (四)赤い織物を切って。
- (五)竹の末をおしふせるように。勢いのよい形容。
- (六)弦の多い
琴 をひくように。さかんに、の形容。 - (七)履中天皇。
- (八)われらはその子孫である。
〔歌垣 〕
かれ天の下
大宮の おとつ端手 (二) 隅 傾 けり。〔歌謡番号一〇六〕
かく歌いて、その歌の末を
ここに志毘の臣、また歌いていいしく、
大君の 心をゆらみ(四)、
臣の子の 八重の柴垣
入り立たずあり。〔歌謡番号一〇八〕
臣の子の 八重の柴垣
入り立たずあり。
ここに王子、また歌いたまいしく、
遊びくる
妻立てり見ゆ。
ここに志毘の臣、いよよ
大君の 王 の柴垣、
八節結 り 結 りもとおし(六)
截 れん柴垣。焼けん柴垣。〔歌謡番号一一〇〕
ここに王子、また歌いたまいしく、
かく歌いて、
ここに二柱の御子たち、おのもおのも天の下をゆずりたまいき。
- (一)男女あつまってたがいに歌をかけあう行事に出て。
- (二)あちらの出ている所。
- (三)大工が
下手 だから。 - (四)心がゆるいので。
- (五)海水の瀬にうちかかる波を見れば。ナヲリは、波がよせてくずれるもの。
- (六)多くの
小間 で結んで、結びめぐらしてあるが。 - (七)
枕詞 。大きい魚よ。 - (八)シビは、マグロの大きいもの。ここは志毘の臣をいう。モリでつくから、シビツクという。
- (九)志毘があるので、姫が心中恋しく思われるだろう。
- (一〇)そのマグロをつく、マグロを。この歌、
宣長 は、別のときの王子の歌といい、橘 守部 は、志毘の臣の歌だという。 - (一一)歌をかけあって夜を明かして。
- (一二)オケの命に同じ。仁賢天皇。元来、この兄弟は、オホ(大)
・ヲ(小)を冠する御名になっているので、オケのオも「大」の意である。 - (一三)あなたが名をあらわさなかったとしたら。
〔顕宗 天皇〕
この天皇、その
置目
ここに置目の
置目もや(九) 淡海の置目、
明日よりは み山隠 りて
見えずかもあらん。〔歌謡番号一一三〕
明日よりは み山
見えずかもあらん。
はじめ天皇、
天皇、その
天皇、御年
- (一)顕宗天皇。
- (二)大阪府南河内郡。
- (三)先が三つにわかれた大きい歯であった。
- (四)一六八ページ〔
「安康天皇」の「市の辺の押歯の王」 に出た佐佐紀の山の君の祖。〕 - (五)見ておいたおばあさん。
- (六)大形の鈴。
- (七)
浅茅 の原や谷をすぎて。さまざまの地形を通って。 - (八)方々伝わって。
- (九)置目とよびかける語法。モヤは感動の助詞。この句、
『日本書紀』に「置目もよ」 。 - (一〇)所在不明。
- (一一)雄略天皇。
- (一二)すでに崩ぜられたのでかくいう。
- (一三)また考えれば。
- (一四)雄略天皇と押歯の王とは仁徳天皇の孫で
従兄弟 であり、仁賢・顕宗 の両天皇からは、雄略天皇は父のいとこにあたる。- (一五)奈良県北葛城郡。
〔仁賢 天皇〕
- (一)仁賢天皇。この天皇の記事には御陵のことがない。これから以下は、物語の部分がなく、
『 帝紀 』の原形に近いようである。- (二)奈良県山辺郡。
〔七、武烈 天皇、以後九代〕
〔武烈天皇〕
- (一)武烈天皇。
- (二)奈良県磯城郡。
- (三)奈良県北葛城郡。
- (四)応神天皇。
- (五)オホホドの王の系統であるが、
『古事記』 『日本書紀』にはその系譜は記されない。ただ、 『釈日本紀』に引いた『 上宮記 』という今日亡 んだ書にだけその系譜が見える。応神天皇―若野毛二俣の王―意富富杼 の王―宇非 の王―彦大人の王―袁本杼 の王。
〔継体天皇〕
天皇、御年
- (一)継体天皇。
- (二)奈良県磯城郡。
- (三)つぎに茨田の
郎女 以下、底本に「次田郎女 次田郎女 次白坂沽日子郎女 次野郎女 亦名長目比売、二柱」とあり、『古事記伝』に「次茨田 郎女 次馬来田郎女 三柱、又娶茨田連小望之女関比売生御子茨田大郎女 次白坂活日子郎女 次小野郎女 亦名長目比売三柱」とする。- (四)福岡県久留米市の付近にいた豪族。
- (五)大阪府三島郡。
〔安閑 天皇〕
御子
- (一)安閑天皇。
- (二)奈良県高市郡。
- (三)大阪府南河内郡。
〔宣化 天皇〕
- (一)宣化天皇。この天皇の記事にも、御陵のことがない。
- (二)奈良県高市郡。
- (三)欽明天皇。この天皇の記事にも、御陵のことがない。
〔欽明 天皇〕
弟
- (一)奈良県磯城郡。この皇居の地名から、しき島の大和というようになった。
- (二)
宣化 天皇。
〔敏達 天皇〕
御子
- (一)敏達天皇。
- (二)奈良県磯城郡。
- (三)舒明天皇。この即位のことは、
『古事記』の記事中もっとも新しい事実である。 - (四)大阪府南河内郡。
〔用明 天皇〕
弟
この天皇〈
- (一)用明天皇。
- (二)奈良県磯城郡。
- (三)聖徳太子。
- (四)奈良県磯城郡。
〔崇峻 天皇〕
弟
- (一)崇峻天皇。
- (二)奈良県磯城郡。
- (三)同前。
〔推古 天皇〕
- (一)推古天皇。
- (二)奈良県高市郡。
- (三)奈良県宇陀郡。
- (四)大阪府南河内郡。
古事記 下つ巻
底本:
1956(昭和31)年5月20日初版発行
1965(昭和40)年9月20日20版発行
底本の親本:
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※(一)〜(五五)は注釈番号です。底本では、直前の文字の右横に、ルビのように漢数字のみ付いています。このファイルでは本文の漢数字との混同を避けるため(漢数字)で表しました。
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入力:川山隆
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校註『古事記』(一〇)
稗田の阿礼、太の安万侶武田祐吉注釈校訂
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[#1字下げ]古事記 下つ卷[#「古事記 下つ卷」は大見出し]
[#3字下げ]〔六、清寧天皇・顯宗天皇・仁賢天皇〕[#「〔六、清寧天皇・顯宗天皇・仁賢天皇〕」は中見出し]
[#5字下げ]〔清寧天皇〕[#「〔清寧天皇〕」は小見出し]
御子、白髮《しらが》の大倭根子《おほやまとねこ》の命(一)、伊波禮《いはれ》の甕栗《みかくり》の宮(二)にましまして、天の下治らしめしき。
この天皇、皇后ましまさず、御子もましまさざりき。かれ御名代として、白髮部《しらがべ》を定めたまひき。かれ天皇|崩《かむあが》りまして後、天の下治らすべき御子ましまさず。ここに日繼知らしめさむ御子を問ひて、市の邊の忍齒別《おしはわけ》の王の妹、忍海《おしぬみ》の郎女、またの名は飯豐《いひとよ》の王、葛城の忍海の高木の角刺《つのさし》の宮(三)にましましき。
(一) 清寧天皇。
(二) 奈良縣磯城郡。
(三) 奈良縣南葛城郡。
[#5字下げ]〔志自牟の新室樂〕[#「〔志自牟の新室樂〕」は小見出し]
ここに山部《やまべ》の連《むらじ》小楯《をたて》、針間《はりま》の國の宰《みこともち》(一)に任《よ》さされし時に、その國の人民《おほみたから》名は志自牟《しじむ》が新室に到りて樂《うたげ》しき。ここに盛《さかり》に樂《うた》げて酒|酣《なかば》なるに、次第《つぎて》をもちてみな※[#「にんべん+舞」、第4水準2-3-4]ひき。かれ火|燒《たき》の小子《わらは》二人、竈《かまど》の傍《へ》に居たる、その小子どもに※[#「にんべん+舞」、第4水準2-3-4]はしむ。ここにその一人の小子、「汝兄《なせ》まづ※[#「にんべん+舞」、第4水準2-3-4]ひたまへ」といへば、その兄も、「汝弟《なおと》まづ※[#「にんべん+舞」、第4水準2-3-4]ひたまへ」といひき。かく相讓る時に、その會《つど》へる人ども、その讓れる状《さま》を咲《わら》ひき。ここに遂に兄※[#「にんべん+舞」、第4水準2-3-4]ひ訖りて、次に弟※[#「にんべん+舞」、第4水準2-3-4]はむとする時に、詠《ながめごと》したまひつらく、
[#ここから2字下げ]
物《もの》の部《ふ》(二)の、わが夫子《せこ》が、取り佩《は》ける、大刀の手上《たがみ》に、丹書《にか》き著け(三)、その緒には、赤幡《あかはた》を裁ち(四)、赤幡たちて見れば、い隱る、山の御尾の、竹を掻き苅り、末押し靡かすなす(五)、八絃《やつを》の琴を調《しら》べたるごと(六)、天の下|治《し》らし給《た》びし、伊耶本和氣《いざほわけ》の天皇(七)の御子、市の邊の押齒の王《みこ》の、奴《やつこ》、御末《みすゑ》(八)。
[#ここで字下げ終わり]
とのりたまひつ。ここにすなはち小楯の連聞き驚きて、床《とこ》より墮ち轉《まろ》びて、その室の人どもを追ひ出して、その二柱の御子を、左右《ひだりみぎり》の膝の上《へ》に坐《ま》せまつりて、泣き悲みて、人民どもを集へて、假宮を作りて、その假宮に坐《ま》せまつり置きて、驛使《はゆまづかひ》上りき。ここにその御|姨《をば》飯豐《いひとよ》の王、聞き歡ばして、宮に上《のぼ》らしめたまひき。
(一) 播磨の國の長官。この物語は、一六八頁[#「一六八頁」は「安康天皇」の「市の邊の押齒の王」]の市の邊の忍齒の王の殺された物語の續きになる。
(二) 朝廷に仕える部族。古くは武士には限らない。
(三) 大刀の柄に赤い畫をかき。
(四) 赤い織物を切つて。
(五) 竹の末をおし伏せるように。勢いのよい形容。
(六) 絃の多い琴をひくように。さかんにの形容。
(七) 履中天皇。
(八) われらはその子孫である。
[#5字下げ]〔歌垣〕[#「〔歌垣〕」は小見出し]
かれ天の下治らしめさむとせしほどに、平群《へぐり》の臣が祖《おや》、名は志毘《しび》の臣、歌垣《うたがき》に立ちて(一)、その袁祁《をけ》の命の婚《よば》はむとする美人《をとめ》の手を取りつ。その孃子は、菟田《うだ》の首《おびと》等が女、名は大魚《おほを》といへり、ここに袁祁の命も歌垣に立たしき。ここに志毘の臣歌ひて曰ひしく、
[#ここから2字下げ]
大宮の をとつ端手《はたで》(二) 隅《すみ》傾《かたぶ》けり。 (歌謠番號一〇六)
[#ここで字下げ終わり]
かく歌ひて、その歌の末を乞ふ時に、袁祁の命歌ひたまひしく、
[#ここから2字下げ]
大匠《おほたくみ》 拙劣《をぢな》みこそ(三) 隅傾けれ。 (歌謠番號一〇七)
[#ここで字下げ終わり]
ここに志毘の臣、また歌ひて曰ひしく、
[#ここから2字下げ]
大君の 心をゆらみ(四)、
臣の子の 八重の柴垣
入り立たずあり。 (歌謠番號一〇八)
[#ここで字下げ終わり]
ここに王子また歌ひたまひしく、
[#ここから2字下げ]
潮瀬《しほぜ》の 波折《なをり》を見れば(五)、
遊び來る 鮪《しび》が端手《はたで》に
妻立てり見ゆ。 (歌謠番號一〇九)
[#ここで字下げ終わり]
ここに志毘の臣、いよよ忿りて歌ひて曰ひしく、
[#ここから2字下げ]
大君の 王《みこ》の柴垣、
八節結《やふじま》り 結《しま》りもとほし(六)
截《き》れむ柴垣。燒けむ柴垣。 (歌謠番號一一〇)
[#ここで字下げ終わり]
ここに王子また歌ひたまひしく、
[#ここから2字下げ]
大魚《おふを》よし(七) 鮪《しび》衝《つ》く(八)海人《あま》よ、
其《し》があれば うら戀《こほ》しけむ(九)。
鮪衝く鮪(一〇)。 (歌謠番號一一一)
[#ここで字下げ終わり]
かく歌ひて、鬪《かが》ひ明して(一一)、おのもおのも散《あら》けましつ。明くる旦時《あした》、意祁《おけ》の命、袁祁《をけ》の命二柱|議《はか》りたまはく、「およそ朝廷《みかど》の人どもは、旦《あした》には朝廷に參り、晝は志毘が門《かど》に集《つど》ふ。また今は志毘かならず寢ねたらむ。その門に人も無けむ。かれ今ならずは、謀り難けむ」とはかりて、すなはち軍を興して、志毘の臣が家を圍《かく》みて、殺《と》りたまひき。
ここに二柱の御子たち、おのもおのも天の下を讓りたまひき。意富祁《おほけ》の命(一二)、その弟袁祁の命に讓りてのりたまはく、「針間《はりま》の志自牟《しじむ》が家に住みし時に、汝《な》が命名を顯はさざらませば(一三)、更に天の下知らさむ君とはならざらまし。これ既に汝《な》が命の功《いさを》なり。かれ吾、兄にはあれども、なほ汝が命まづ天の下を治らしめせ」とのりたまひて、堅く讓りたまひき。かれえ辭《いな》みたまはずて、袁祁の命、まづ天の下治らしめしき。
(一) 男女あつまつて互に歌をかけあう行事に出て。
(二) あちらの出ている所。
(三) 大工が下手だから。
(四) 心がゆるいので。
(五) 海水の瀬にうちかかる波を見れば。ナヲリは、波がよせてくずれるもの。
(六) 多くの小間で結んで、結び※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]らしてあるが。
(七) 枕詞。大きい魚よ。
(八) シビは、マグロの大きいもの。ここは志毘の臣をいう。モリで突くから、シビツクという。
(九) 志毘があるので、姫が心中戀しく思われるだろう。
(一〇) その鮪を突く、鮪を。この歌、宣長は、別の時の王子の歌といい、橘守部は、志毘の臣の歌だという。
(一一) 歌をかけ合つて夜を明かして。
(一二) オケの命に同じ。仁賢天皇。元來、この兄弟は、オホ(大)、ヲ(小)を冠する御名になつているので、オケのオも大の意である。
(一三) あなたが名を顯さなかつたとしたら。
[#5字下げ]〔顯宗天皇〕[#「〔顯宗天皇〕」は小見出し]
伊弉本別《いざほわけ》の王の御子、市の邊の忍齒の王の御子、袁祁《をけ》の石巣別《いはすわけ》の命(一)、近つ飛鳥の宮(二)にましまして、八歳《やとせ》天の下治らしめしき。この天皇、石木《いはき》の王の女難波の王に娶ひしかども、御子ましまさざりき。
この天皇、その父王市の邊の王の御骨《みかばね》を求《ま》ぎたまふ時に、淡海《あふみ》の國なる賤しき老媼《おみな》まゐ出て白さく、「王子の御骨を埋みし所は、もはら吾よく知れり。またその御齒もちて知るべし」とまをしき。[#割り注]御齒は三枝なす(三)押齒に坐しき。[#割り注終わり]ここに民を起《た》てて、土を掘りて、その御骨を求ぎて、すなはちその御骨を獲て、その蚊屋野の東《ひむかし》の山に、御陵作りて葬《をさ》めまつりて、韓※[#「代/巾」、第4水準2-8-82]《からふくろ》(四)が子どもに、その御陵を守らしめたまひき。然ありて後に、その御骨を持ち上《のぼ》りたまひき。かれ還り上りまして、その老媼を召して、その見失はず、さだかにその地を知れりしことを譽めて、置目《おきめ》の老媼《おみな》(五)といふ名を賜ひき。よりて宮の内に召し入れて、敦《あつ》く廣く惠みたまふ。かれその老媼の住む屋をば、宮の邊《へ》近く作りて、日ごとにかならず召す。かれ大殿の戸に鐸《ぬりて》(六)を掛けて、その老媼を召したまふ時は、かならずその鐸《ぬりて》を引き鳴らしたまひき。ここに御歌よみしたまへる、その歌、
[#ここから2字下げ]
淺茅原 小谷《をだに》を過ぎて(七)、
百傳ふ(八) 鐸《ぬて》搖《ゆら》くも。
置目|來《く》らしも。 (歌謠番號一一二)
[#ここで字下げ終わり]
ここに置目の老媼、「僕いたく老いにたれば、本つ國に退《まか》らむとおもふ」とまをしき。かれ白せるまにまに、退《まか》りし時に天皇見送りて歌よみしたまひしく、
[#ここから2字下げ]
置目もや(九) 淡海の置目、
明日よりは み山|隱《がく》りて
見えずかもあらむ。 (歌謠番號一一三)
[#ここで字下げ終わり]
初め天皇、難《わざはひ》に逢ひて、逃げましし時に、その御|粮《かれひ》を奪《と》りし猪甘《ゐかひ》の老人《おきな》を求《ま》ぎたまひき。ここに求ぎ得て、喚び上げて、飛鳥河の河原に斬りて、みなその族《やから》どもの膝の筋を斷ちたまひき。ここを以ちて今に至るまで、その子孫《こども》倭に上る日、かならずおのづから跛《あしなへ》くなり。かれその老の所在《ありか》を能く見しめき。かれ其處《そこ》を志米須《しめす》(一〇)といふ。
天皇、その父王を殺したまひし大長谷《おほはつせ》の天皇(一一)を深く怨みまつりて、その御靈(一二)に報いむと思ほしき。かれその大長谷の天皇の御陵を毀《やぶ》らむと思ほして、人を遣す時に、その同母兄《いろせ》意祁《おけ》の命奏して言《まを》さく、「この御陵を壞らむには、他《あだ》し人を遣すべからず。もはら僕みづから行きて、大君の御心のごと壞《やぶ》りてまゐ出む」とまをしたまひき。ここに天皇、「然らば命のまにまにいでませ」と詔りたまひき。ここを以ちて意祁《おけ》の命、みづから下りいでまして、その御陵の傍《かたへ》を少し掘りて還り上らして、復奏《かへりごと》して言《まを》さく、「既に掘り壞りぬ」とまをしたまひき。ここに天皇、その早く還り上りませることを怪みまして、「如何《いかさま》に壞りたまひつる」と詔りたまへば、答へて白さく、「その御陵の傍の土を少し掘りつ」とまをしたまひき。天皇詔りたまはく、「父王《ちちみこ》の仇を報いまつらむと思へば、かならずその御陵を悉《ことごと》に壞りなむを。何とかも少しく掘りたまひつる」と詔りたまひしかば、答へて曰さく、「然しつる故は、父王の仇を、その御靈に報いむと思ほすは、誠に理《ことわり》なり。然れどもその大長谷の天皇は、父の仇にはあれども、還りては(一三)我が從父《をぢ》(一四)にまし、また天の下治らしめしし天皇にますを、今|單《ひとへ》に父の仇といふ志を取りて、天の下治らしめしし天皇の御陵を悉に壞りなば、後の人かならず誹《そし》りまつらむ。ただ、父王の仇は、報いずはあるべからず。かれその御陵の邊を少しく掘りつ。既にかく恥かしめまつれば、後の世に示すにも足りなむ」と、かくまをしたまひしかば、天皇、答へ詔りたまはく、「こもいと理なり。命《みこと》の如くて可《よ》し」と詔りたまひき。かれ天皇崩りまして、すなはち意富祁《おほけ》の命、天つ日繼知らしめき。
天皇、御年|三十八歳《みそぢまりやつ》、八歳《やとせ》天の下治らしめしき。御陵は片岡の石坏《いはつき》の岡(一五)の上にあり。
(一) 顯宗天皇。
(二) 大阪府南河内郡。
(三) 先が三つに別れた大きい齒であつた。
(四) 一六八頁[#「一六八頁」は「安康天皇」の「市の邊の押齒の王」]に出た佐佐紀の山の君の祖。
(五) 見ておいたお婆さん。
(六) 大形の鈴。
(七) 淺茅の原や谷を過ぎて。さまざまの地形を通つて。
(八) 方々傳つて。
(九) 置目と呼びかける語法。モヤは感動の助詞。この句、日本書紀に「置目もよ」。
(一〇) 所在不明。
(一一) 雄略天皇。
(一二) 既に崩ぜられたのでかくいう。
(一三) また考えれば。
(一四) 雄略天皇と押齒の王とは仁徳天皇の孫で從兄弟であり、仁賢顯宗の兩天皇からは、雄略天皇は、父のいとこに當る。
(一五) 奈良縣北葛城郡。
[#5字下げ]〔仁賢天皇〕[#「〔仁賢天皇〕」は小見出し]
袁祁の王の兄、意富祁《おほけ》の王(一)、石《いそ》の上《かみ》の廣高の宮(二)にましまして、天の下治らしめしき。天皇、大長谷の若建《わかたけ》の天皇の御子、春日の大郎女に娶ひて、生みませる御子、高木の郎女、次に財《たから》の郎女、次に久須毘《くすび》の郎女、次に手白髮《たしらが》の郎女、次に小長谷《をはつせ》の若雀《わかさざき》の命、次に眞若《まわか》の王。また丸邇《わに》の日爪《ひのつま》の臣が女、糠《ぬか》の若子《わくご》の郎女に娶ひて、生みませる御子、春日の小田《をだ》の郎女。この天皇の御子たち、并せて、七柱。この中、小長谷の若雀の命は天の下治らしめしき。
(一) 仁賢天皇。この天皇の記事には御陵の事がない。これから以下は、物語の部分が無く、帝紀の原形に近いようである。
(二) 奈良縣山邊郡。
[#3字下げ]〔七、武烈天皇以後九代〕[#「〔七、武烈天皇以後九代〕」は中見出し]
[#5字下げ]〔武烈天皇〕[#「〔武烈天皇〕」は小見出し]
小長谷の若雀の命(一)、長谷の列木《なみき》の宮(二)にましまして、八歳天の下治らしめしき。この天皇、太子《ひつぎのみこ》ましまさず。かれ御子代として、小長谷部《をはつせべ》を定めたまひき。御陵は片岡の石坏《いはつき》の岡(三)にあり。天皇既に崩りまして、日續知らしめすべき王ましまさず。かれ品太《ほむだ》の天皇(四)五世《いつつぎ》の孫《みこ》(五)、袁本杼《をほど》の命を近つ淡海の國より上りまさしめて、手白髮《たしらが》の命に合はせて、天の下を授けまつりき。
(一) 武烈天皇。
(二) 奈良縣磯城郡。
(三) 奈良縣北葛城郡。
(四) 應神天皇。
(五) オホホドの王の系統であるが、古事記日本書紀にはその系譜は記されない。ただ釋日本紀に引いた上宮記という今日亡んだ書にだけその系譜が見える。應神天皇―若野毛二俣の王―意富富杼の王―宇非の王―彦大人の王―袁本杼の王。
[#5字下げ]〔繼體天皇〕[#「〔繼體天皇〕」は小見出し]
品太《ほむだ》の王の五世の孫|袁本杼《をほど》の命(一)、伊波禮《いはれ》の玉穗《たまほ》の宮(二)にましまして、天の下治らしめしき。天皇|三尾《みを》の君等が祖、名は若比賣に娶ひて、生みませる御子、大郎子《おほいらつこ》、次に出雲の郎女二柱[#「二柱」は1段階小さな文字]。また尾張の連等が祖、凡《おほし》の連が妹、目子の郎女に娶ひて、生みませる御子、廣國押建金日《ひろくにおしたけかなひ》の命、次に建小《たけを》廣國押楯の命二柱[#「二柱」は1段階小さな文字]。また意富祁《おほけ》の天皇の御子、手白髮の命[#割り注]こは大后にます。[#割り注終わり]に娶ひて、生みませる御子、天國押波流岐廣庭《あめくにおしはるきひろには》の命一柱[#「一柱」は1段階小さな文字]。また息長《おきなが》の眞手《まて》の王が女、麻組《をくみ》の郎女に娶ひて、生みませる御子、佐佐宜《ささげ》の郎女一柱[#「一柱」は1段階小さな文字]。また坂田の大俣《おほまた》の王が女、黒比賣に娶ひて、生みませる御子、神前《かむさき》の郎女、次に茨田《うまらた》の郎女、次に白坂《しらさか》の活目《いくめ》子の郎女、次に小野《をの》の郎女、またの名は長目《ながめ》比賣四柱[#「四柱」は1段階小さな文字](三)。また三尾《みを》の君|加多夫《かたぶ》が妹、倭《やまと》比賣に娶ひて、生みませる御子、大郎女、次に丸高《まろたか》の王、次に耳《みみ》の王、次に赤比賣の郎女四柱[#「四柱」は1段階小さな文字]。また阿部の波延《はえ》比賣に娶ひて、生みませる御子、若屋《わかや》の郎女、次に都夫良《つぶら》の郎女、次に阿豆《あづ》の王三柱[#「三柱」は1段階小さな文字]。この天皇の御子たち、并せて十九王《とをまりここのはしら》。[#割り注]男王七柱、女王十二柱。[#割り注終わり]この中、天國押波流岐廣庭の命は、天の下治らしめしき。次に廣國押建金日の命も天の下治らしめしき。次に建小廣國押楯の命も天の下治らしめしき。次に佐佐宜の王は、伊勢の神宮をいつきまつりたまひき。この御世に、竺紫《つくし》の君|石井《いはゐ》(四)、天皇の命に從はずして禮《ゐや》無きこと多かりき。かれ物部《もののべ》の荒甲《あらかひ》の大連《おほむらじ》、大伴《おほとも》の金村《かなむら》の連二人を遣はして、石井を殺らしめたまひき。
天皇、御年|四十三歳《よそぢまりみつ》。[#割り注]丁未の年四月九日崩りたまひき。[#割り注終わり]御陵は三島の藍の陵(五)なり。
(一) 繼體天皇。
(二) 奈良縣磯城郡。
(三) 次に茨田の郎女以下、底本に「次田郎女次田郎女次白坂沽日子郎女次野郎女亦名長目比賣、二柱」とあり、古事記傳に「次茨田郎女次馬來田郎女三柱、又娶茨田連小望之女關比賣生御子茨田大郎女次白坂活日子郎女次小野郎女亦名長目比賣三柱」とする。
(四) 福岡縣久留米市の附近に居た豪族。
(五) 大阪府三島郡。
[#5字下げ]〔安閑天皇〕[#「〔安閑天皇〕」は小見出し]
御子|廣國押建金日《ひろくにおしたけかなひ》の王(一)、勾《まがり》の金箸《かなはし》の宮(二)にましまして、天の下治らしめしき。この天皇、御子ましまさざりき。[#割り注]乙卯の年三月十三日崩りたまひき。[#割り注終わり]御陵は河内の古市《ふるち》の高屋の村(三)にあり。
(一) 安閑天皇。
(二) 奈良縣高市郡。
(三) 大阪府南河内郡。
[#5字下げ]〔宣化天皇〕[#「〔宣化天皇〕」は小見出し]
弟《いろと》建小廣國押楯《たけをひろくにおしたて》の命(一)、檜※[#「土へん+炯のつくり」、第3水準1-15-39]《ひのくま》の廬入野《いほりの》の宮(二)にましまして、天の下治らしめしき。天皇、意祁《おけ》の天皇の御子、橘の中比賣の命に娶ひて、生みませる御子、石比賣《いしひめ》の命、次に小石比賣の命、次に倉の若江の王、また河内《かふち》の若子《わくご》比賣に娶ひて、生みませる御子、火《ほ》の穗《ほ》の王、次に惠波《ゑは》の王。この天皇の御子たち并せて五王《いつはしら》。[#割り注]男王三柱、女王二柱。[#割り注終わり]かれ火の穗の王は、志比陀の君が祖なり(三)。惠波の王は、韋那の君、多治比の君が祖なり。
(一) 宣化天皇。この天皇の記事にも御陵の事がない。
(二) 奈良縣高市郡。
(三) 欽明天皇。この天皇の記事にも御陵の事がない。
[#5字下げ]〔欽明天皇〕[#「〔欽明天皇〕」は小見出し]
弟|天國押波流岐廣庭《あめくにおしはるきひろには》の天皇、師木島《しきしま》の大宮(一)にましまして、天の下治らしめしき。この天皇、檜※[#「土へん+炯のつくり」、第3水準1-15-39]《ひのくま》の天皇(二)の御子、石比賣の命に娶ひて、生みませる御子、八田《やた》の王、次に沼名倉太玉敷《ぬなくらふとたましき》の命、次に笠縫《かさぬひ》の王三柱[#「三柱」は1段階小さな文字]。またその弟小石比賣の命に娶ひて、生みませる御子、上《かみ》の王一柱[#「一柱」は1段階小さな文字]。また春日の日爪《ひつま》の臣が女、糠子《ぬかこ》の郎女に娶ひて、生みませる御子、春日の山田の郎女、次に麻呂古《まろこ》の王、次に宗賀《そが》の倉の王三柱[#「三柱」は1段階小さな文字]。また宗賀の稻目《いなめ》の宿禰の大臣が女、岐多斯《きたし》比賣に娶ひて、生みませる御子、橘の豐日の命、次に妹|石※[#「土へん+炯のつくり」、第3水準1-15-39]《いはくま》の王、次に足取《あとり》の王、次に豐御氣炊屋《とよみけかしぎや》比賣の命、次にまた麻呂古の王、次に大宅《おほやけ》の王、次に伊美賀古《いみがこ》の王、次に山代の王、次に妹|大伴《おほとも》の王、次に櫻井の玄《ゆみはり》の王、次に麻怒《まの》の王、次に橘の本の若子《わくご》の王、次に泥杼《ねど》の王[#割り注]十三柱。[#割り注終わり]また岐多志比賣の命が姨《をば》、小兄《をえ》比賣に娶ひて、生みませる御子、馬木《うまき》の王、次に葛城の王、次に間人《はしひと》の穴太部《あなほべ》の王、次に三枝部《さきくさべ》の穴太部の王、またの名は須賣伊呂杼《すめいろど》、次に長谷部《はつせべ》の若雀《わかさざき》の命五柱[#「五柱」は1段階小さな文字]。およそこの天皇の御子たち并はせて二十五王《はたちまりいつはしら》、この中、沼名倉太玉敷の命は、天の下治らしめしき。次に橘の豐日の命も、天の下治らしめしき。次に豐御氣炊屋比賣の命も、天の下治らしめしき。次に長谷部の若雀の命も、天の下治らしめしき。并せて四王《よはしら》天の下治らしめしき。
(一) 奈良縣磯城郡。この皇居の地名から、しき島の大和というようになつた。
(二) 宣化天皇。
[#5字下げ]〔敏達天皇〕[#「〔敏達天皇〕」は小見出し]
御子|沼名倉太玉敷《ぬなくらふとたましき》の命(一)、他《をさ》田の宮(二)にましまして、一十四歳《とをまりよとせ》、天の下治らしめしき。この天皇、庶妹《ままいも》豐御食炊屋《とよみけかしぎや》比賣の命に娶ひて、生みませる御子、靜貝《しづかひ》の王、またの名は貝鮹《かひだこ》の王、次に竹田の王、またの名は小貝《をがひ》の王、次に小治田《をはりだ》の王、次に葛城の王、次に宇毛理《うもり》の王、次に小張《をはり》の王、次に多米《ため》の王、次に櫻井の玄《ゆみはり》の王八柱[#「八柱」は1段階小さな文字]。また伊勢の大鹿《おほか》の首《おびと》が女、小熊《をくま》子の郎女に娶ひて、生みませる御子、布斗《ふと》比賣の命、次に寶の王、またの名は糠代《ぬかで》比賣の王二柱[#「二柱」は1段階小さな文字]。また息長眞手《おきながまて》の王が女、比呂《ひろ》比賣の命に娶ひて、生みませる御子、忍坂《おさか》の日子人《ひこひと》の太子《みこのみこと》、またの名は麻呂古の王、次に坂|騰《のぼり》の王、次に宇遲《うぢ》の王三柱[#「三柱」は1段階小さな文字]。また春日の中《なか》つ若子《わくご》が女、老女子《おみなこ》の郎女に娶ひて、生みませる御子、難波の王、次に桑田の王、次に春日の王、次に大俣《おほまた》の王四柱[#「四柱」は1段階小さな文字]。この天皇の御子たち并せて十七王《とをまりななはしら》の中に、日子人の太子、庶妹《ままいも》田村の王、またの名は糠代《ぬかで》比賣の命に娶ひて、生みませる御子、岡本の宮にましまして、天の下治らしめしし天皇(三)、次に中つ王、次に多良《たら》の王三柱[#「三柱」は1段階小さな文字]。また漢《あや》の王が妹、大俣の王に娶ひて、生みませる御子、智奴《ちぬ》の王、次に妹桑田の王二柱[#「二柱」は1段階小さな文字]。また庶妹|玄《ゆみはり》の王に娶ひて、生みませる御子、山代《やましろ》の王、次に笠縫の王二柱[#「二柱」は1段階小さな文字]。并はせて七王《ななはしら》。[#割り注]甲辰の年四月六日崩りたまひき。[#割り注終わり]御陵は川内の科長《しなが》(四)にあり。
(一) 敏達天皇。
(二) 奈良縣磯城郡。
(三) 舒明天皇。この即位の事は、古事記の記事中もつとも新しい事實である。
(四) 大阪府南河内郡。
[#5字下げ]〔用明天皇〕[#「〔用明天皇〕」は小見出し]
弟橘の豐日《とよひ》の命(一)、池の邊の宮(二)にましまして、三歳天の下治らしめしき。この天皇、稻目《いなめ》の大臣が女、意富藝多志《おほぎたし》比賣に娶ひて、生みませる御子、多米《ため》の王一柱[#「一柱」は1段階小さな文字]。また庶妹間人の穴太部《あなほべ》の王に娶ひて、生みませる御子、上《うへ》の宮の厩戸《うまやど》の豐聰耳《とよとみみ》の命(三)、次に久米《くめ》の王、次に植栗《ゑくり》の王、次に茨田《うまらた》の王四柱[#「四柱」は1段階小さな文字]。また當麻《たぎま》の倉首比呂《くらびとひろ》が女、飯《いひ》の子に娶ひて、生みませる御子、當麻の王、次に妹《いも》須賀志呂古《すがしろこ》の郎女二柱[#「二柱」は1段階小さな文字]。
この天皇[#割り注]丁未の年四月十五日崩りたまひき。[#割り注終わり]御陵は石寸《いはれ》の池の上(四)にありしを、後に科長の中の陵に遷しまつりき。
(一) 用明天皇。
(二) 奈良縣磯城郡。
(三) 聖徳太子。
(四) 奈良縣磯城郡。
[#5字下げ]〔崇峻天皇〕[#「〔崇峻天皇〕」は小見出し]
弟|長谷部《はつせべ》の若雀《わかさざき》の天皇(一)、倉椅《くらはし》の柴垣《しばかき》の宮(二)にましまして、四歳《よとせ》天の下治らしめしき。[#割り注]壬子の年十一月十三日崩りたまひき。[#割り注終わり]御陵は倉椅《くらはし》の岡の上(三)にあり。
(一) 崇峻天皇。
(二) 奈良縣磯城郡。
(三) 同前。
[#5字下げ]〔推古天皇〕[#「〔推古天皇〕」は小見出し]
妹《いも》豐御食炊屋《とよみけかしぎや》比賣(一)の命、小治田《をはりだ》の宮(二)にましまして、三十七歳《みそとせまりななとせ》天の下治らしめしき。[#割り注]戊子の年三月十五日癸丑の日崩りたまひき。[#割り注終わり]御陵は大野の岡の上(三)にありしを、後に科長《しなが》の大陵(四)に遷しまつりき。
(一) 推古天皇。
(二) 奈良縣高市郡。
(三) 奈良縣宇陀郡。
(四) 大阪府南河内郡。
古事記 下つ卷
底本:
1956(昭和31)年5月20日初版発行
1965(昭和40)年9月20日20版発行
底本の親本:
※底本は校注が脚註の形で配置されています。このファイルでは校註者が追加した標題ごとに、書き下し文、校注の順序で編成しました。
※(一)〜(五五)は注釈番号です。底本では、直前の文字の右横に、ルビのように漢数字のみ付いています。このファイルでは本文の漢数字との混同を避けるため(漢数字)で表しました。
※〔〕は底本の親本にはないもので、校註者が補った箇所を表します。
※頁数を引用している箇所には校註者が追加した標題を注記しました。
※底本は書き下し文のみ歴史的かなづかいで、その他は新かなづかいです。なお拗音・促音は小書きではありません。
入力:川山隆
校正:しだひろし
YYYY年MM月DD日作成
青空文庫作成ファイル:
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*地名
(※ 市町村名は、平成の大合併以前の表記のまま。一般的な国名・地名などは解説省略。- [淡海] おうみ 近江・淡海。(アハウミの転。淡水湖の意で琵琶湖を指す)旧国名。今の滋賀県。江州。
- 近つ淡海 ちかつおうみ 近江。浜名湖を「遠つ淡海」というのに対して、琵琶湖の称。また、近江の古称。
- 蚊屋野 かやの 現在の滋賀県蒲生郡日野町鎌掛付近か。
- [奈良県]
- [倭] やまと 大和。(
「山処(やまと) 」の意か) (1) 旧国名。今の奈良県の管轄。もと、天理市付近の地名から起こる。初め「倭」と書いたが、元明天皇のとき国名に2字を用いることが定められ、 「倭」に通じる「和」に「大」の字を冠して大和とし、また「大倭」とも書いた。和州。(2) 日本国の異称。おおやまと。(3) 唐(から)に対して、日本特有の事物に冠する語。 - [磯城郡] しきぐん 奈良盆地中央部の低平地。ほぼ東境から北境を初瀬川(大和川上流)が流れ、中央の寺川、西の飛鳥川、西境の曾我川が曲折しつつ北流し、北端で大和川に注ぐ。東は天理市・桜井市、西は北葛城郡、南は橿原市、北は大和郡山市・生駒郡。
- 伊波礼の甕栗の宮 いわれのみかくりのみや 磐余甕栗宮。奈良県橿原市東池尻町の御厨子神社が伝承地。
(Wikipedia) - 磐余 いわれ 奈良県桜井市南西部、香具山東麓一帯の古地名。神武天皇伝説では、八十梟帥征討軍の集結地。
- 長谷の列木の宮 はつせの なみきのみや 現、桜井市。泊瀬朝倉宮に近接してあったと考えられるが、所在地は不明。大字出雲の説あり。
- 伊波礼の玉穂の宮 いわれの たまほのみや 磐余玉穂宮。継体天皇の皇居。山城の弟国宮から都をここに遷したという。伝承地は奈良県桜井市池之内の辺。
- 師木島の大宮 しきしまのおおみや? → 磯城島金刺宮
- 磯城島金刺宮 しきしまのかなさしのみや 記紀にみえる欽明天皇の宮。記では師木島大宮。天寿国繍帳銘は斯帰斯麻宮、
「上宮聖徳法王帝説」は斯貴島宮と記す。周辺にシキシマやカナサシの地名が残ることから現在の奈良県桜井市金屋付近に比定される。 (日本史) - 他田の宮 おさだのみや → 訳語田幸玉宮
- 訳語田幸玉宮 おさだのさきたまのみや 敏達 天皇の皇居の一つ。伝承地は奈良県桜井市戒重 。他田宮。乎沙多宮。
- 池の辺の宮 → 池辺双槻宮か
- 池辺双槻宮 いけのべの なみつきのみや 用明天皇の皇居。遺称地は奈良県桜井市阿部。磐余池辺双槻宮。
- 石寸の池 いわれのいけ → 磐余の池、か
- 磐余の池 いわれのいけ 奈良県桜井市池之内付近にあった池。磐余の市磯 の池。
(歌枕) - 倉椅の柴垣の宮 くらはしのしばがきのみや 奈良県磯城郡。倉梯宮(紀)。現、桜井市大字倉橋。
- 倉椅の岡 くらはしのおか 奈良県磯城郡。倉梯岡陵(紀)か。現、桜井市大字倉橋。(1) 天王山古墳、(2) 金福寺の所在地の二説がある。
- [北葛城郡] きたかつらぎぐん 奈良盆地中央西部に位置する。古代の広瀬郡・葛下郡(大和高田市を除く)
、忍海郡の一部。 - 片岡の石坏の岡 かたおかの いわつきのおか 傍丘磐杯丘(紀)。現、奈良県北葛城郡香芝町大字今泉。もしくは大字北今市小字的場。
- [南葛城郡] みなみかつらぎぐん 明治30(1897)葛上郡と忍海郡が合併してできた郡。現、御所市全域・現、北葛城郡新庄町南半にほぼ相当。
- 忍海 おしぬみ/おしみ 奈良県葛城市忍海。忍海郡は大和国にあった郡。
- 高木の角刺の宮 たかぎの つのさしのみや 奈良県南葛城郡。
- 角刺宮 つのさしのみや 現、北葛城郡新庄町大字忍海か。
- 葛城村 かつらぎむら 現、御所市。葛城・葛木と書き、現在、カツラギ・カツラキと発音する。記紀ではカヅラキと読む。明治に金剛山東面山麓一帯の地域に葛城の村名を復活、隣村の巨勢郡では「城」を省略して葛村とした。
- 平群 へぐり 古代の豪族平群氏の拠点。大和国平群郡。現在の奈良県生駒郡・生駒市南部を中心とした地域。
- [山辺郡] やまべぐん 県東北端に位置する南北に細長い郡。
- 石上 いそのかみ 奈良県天理市北部の地名。もと付近一帯の郷名。
- 石の上の広高の宮 いそのかみのひろたかのみや 記紀にみえる仁賢天皇の宮。所在地について「帝王編年記」は「山辺郡石上左大臣家北辺田原」とし、現在の奈良県天理市田部町の南方にある石上市神社付近に比定する。これに対して「大和志」は都田の字名から天理市嘉幡 とするが、やや西にかたよる。
(日本史) - [高市郡] たかいちぐん 奈良盆地の南部に位置し、南半は竜門山塊(多武峯・高取山)から派生する低丘陵と幅狭の谷からなり、北半はやや開けて、西端を曾我川、中央部を高取川、東部を飛鳥川が北流。東は桜井市、西は御所市、南は吉野郡、北は橿原市。
- 勾の金箸の宮 まがりの かなはしのみや 現、橿原市曲川町小字大垣内の金橋神社に近い小字大宮の坪に推定する。
- 檜�fの廬入野の宮 ひのくまの いおりののみや 檜隈の廬入野の宮。現、高市郡明日香村大字檜隈、於美阿志神社境内か。社地は檜隈寺跡。
- 小治田 おはりだ 紀は小墾田。現、高市郡明日香村大字豊浦付近にあったとされる古地名。
- 小治田の宮 おはりだのみや 小墾田宮。推古天皇の皇居の一つ。伝承地は奈良県高市郡明日香村。皇極天皇も一時皇居とし、奈良後期にも行在所となる。小治田宮。
- [宇陀郡] うだぐん 奈良盆地の東南、宇陀山地の一帯を占め、東・東南は三重県、西は桜井市、南は吉野郡、北・北西は山辺郡。
- 大野の岡 おおののおか 大野丘(紀)か。現、高市郡明日香村豊浦か。
- 岡本の宮 → 飛鳥岡本宮か
- 飛鳥岡本宮 あすかの おかもとのみや 舒明・斉明天皇の皇居の一つ。→飛鳥板蓋宮。
- 飛鳥板蓋宮 あすかの いたぶきのみや 皇極・斉明天皇の皇居。奈良県高市郡明日香村岡の飛鳥浄御原宮 と想定される宮跡(史跡「伝飛鳥板蓋宮跡」)の下層の遺構がそれに当たると考えられる。なお、舒明天皇の飛鳥岡本宮、斉明天皇の後 飛鳥岡本宮も同じ場所に営まれたらしい。
- [大阪府]
- [南河内郡] みなみかわちぐん 府の南東部、旧河内国の南部にあたる。明治29(1896)成立。当時の南河内郡は、東は金剛山・葛城山の金剛山地で奈良県、南は和泉山脈で和歌山県、西は泉北郡、北は中河内郡に接し、中河内郡との間に大和川が流れていた。
- 近つ飛鳥の宮 飛鳥の宮 あすかのみや → 近飛鳥八釣宮(紀)か
- 近飛鳥八釣宮 ちかつあすかの やつりのみや 現在の奈良県高市郡明日香村八釣、あるいは大阪府羽曳野市飛鳥の地か。
『古事記』は単に「近飛鳥宮」とする。 - 飛鳥川 あすかがわ 奈良県高市郡高取山に発源、明日香村に入り北流、大和川に注ぐ川。淵瀬の定めなきことで聞こえ、古来、和歌に詠ぜられ、
「明日」を懸け、また「明日」を言い出す枕詞のようにも用いられた。 - 古市の高屋の村 ふるちの〓のむら 大阪府南河内郡。現、羽曳野市古市か。
- 川内の科長 かわちの しなが 大阪府南河内郡。
- 科長 しなが 磯長。
- 科長の中の陵 しながの〓 現、大阪府南河内郡太子町太子の太子西山古墳か。敏達天皇陵に治定される。
- [三島郡] みしまぐん 明治29(1896)島上郡と島下郡が合併して成立。郡名は、古代当地方をさした地名の復活で、早くから文献に出る。この三島の地は、現高槻市の南西部あたりに中心地が比定される三島県に含まれ、大化改新後、三島評となり、その後、分割され島上・島下の古称とされる「三島上郡」
「三島下郡」となったといわれる。以後、古代・中世・近世を通じて島上・島下両郡として存続。 - 三島の藍の陵 あいの みささぎ 大阪府三島郡。現、茨田市太田三丁目。大阪市天王寺区茶臼山町か。茶臼山古墳に治定。継体天皇陵。
- [針間の国] はりまのくに 播磨国。旧国名。今の兵庫県の南西部。播州。
- 志米須 しめす 所在不明。
- [伊勢]
- 伊勢の神宮 → 伊勢神宮
- 伊勢神宮 いせ じんぐう 三重県伊勢市にある皇室の宗廟。正称、神宮。皇大神宮(内宮)と豊受大神宮(外宮)との総称。皇大神宮の祭神は天照大神、御霊代は八咫鏡。豊受大神宮の祭神は豊受大神。20年ごとに社殿を造りかえる式年遷宮の制を遺し、正殿の様式は唯一神明造と称。三社の一つ。二十二社の一つ。伊勢大廟。大神宮。
- [福岡県]
- [筑紫] つくし 九州の古称。また、筑前・筑後を指す。
- 久留米 くるめ 福岡県南西部、筑後川下流にある市。もと有馬氏21万石の城下町。紡織・ゴム工業で発展。久留米絣 の産地。人口30万6千。
◇参照:
*人物一覧
(人名、および組織・団体名・神名)- 白髪の大倭根子の命 しらがのおおやまとねこのみこと → 清寧天皇
- 清寧天皇 せいねい てんのう 記紀に記された5世紀末の天皇。雄略天皇の第3皇子。名は白髪、諡は武広国押稚日本根子。
- 白髪部 しらがべ/しらかべ 白髪命(清寧天皇)の名代か。白髪部姓は多数実在したが、785年白壁王(光仁天皇)の諱をさけて真髪部と改姓された。
(日本史) - 市の辺の忍歯別の王 いちのべのおしはわけのみこ 伊耶本和気の天皇の皇子。市辺押磐皇子。市辺は地名。山城国綴喜郡に市野辺村がある。履中天皇の皇子。皇位継承者として有力視されていたが、雄略天皇に近江の久多綿蚊屋野で殺された。風土記には市辺天皇命とある。
(神名) - 忍海の郎女 おしぬみのいらつめ 別名、飯豊の王。市の辺の忍歯別の王の妹。
- 飯豊の王 いいとよのみこ → 忍海の郎女
- 飯豊青皇女 いいとよあおの ひめみこ 履中天皇の皇女。市辺押磐皇子の妹(王女とも)。清寧天皇の没後継嗣なく、一時政を執ったと伝えられ、飯豊天皇とも称される。
- 山部の連小楯 やまべのむらじ おたて
- 志自牟 しじむ 播磨国の豪族。父の市の辺の忍歯の王を殺された意祁の王・袁祁の王が、志自牟の家に馬甘・牛甘として隠れ住んだ。二皇子は志自牟の家の新室楽のとき、訪れた山部連小楯に見出される。紀で該当するのは縮見屯倉首忍海部造細目。播磨風土記では志深村首伊等尾。
(神名) - 伊耶本和気の天皇 いざほわけのすめらみこと → 履中天皇
- 履中天皇 りちゅう てんのう 記紀に記された5世紀中頃の天皇。仁徳天皇の第1皇子。名は大兄去来穂別。
- 平群の臣 へぐりのおみ → 平群氏
- 平群氏 へぐりし 武内宿禰の後裔と伝えられ、大和国平群郡平群郷(奈良県生駒郡平群町)を本拠地とした古代在地豪族の一つ。姓は臣、後に朝臣。
- 志毘の臣 しびのおみ 平群の臣が祖。
- 志毘 しび 欽明天皇の時、出雲国意宇郡舎人郷にいた倉舎人君の祖、日置臣志毘のこと(? 出雲風土記)
(神名) - 袁祁の命 おけのみこと → 顕宗天皇
- 意祁の命 おけのみこと → 仁賢天皇
- 兎田の首 うだのおびと
- 大魚 おおお/おうお 兎田の首らが女。/清寧記によると、袁祁命と平群臣の祖、志毘臣とが歌垣で妻争いした女性の名。紀の物部麁鹿火大連女影媛にあたる。
(神名) - 意富祁の命 おおけのみこと → 仁賢天皇
- 顕宗天皇 けんぞう てんのう 記紀に記された5世紀末の天皇。履中天皇の皇孫。磐坂市辺押磐皇子の第2王子。名は弘計。父が雄略天皇に殺された時、兄(仁賢天皇)と共に播磨に逃れたが、後に発見されて即位したという。
- 仁賢天皇 にんけん てんのう 記紀に記された5世紀末の天皇。磐坂市辺押磐皇子の第1王子。名は億計。父が雄略天皇に殺された時、弟(顕宗天皇)とともに播磨に逃れた。のちに清寧天皇の皇太子となり、弟に次いで即位したという。
- 本居宣長 もとおり のりなが 1730-1801 江戸中期の国学者。国学四大人の一人。号は鈴屋など。小津定利の子。伊勢松坂の人。京に上って医学修業のかたわら源氏物語などを研究。賀茂真淵に入門して古道研究を志し、三十余年を費やして大著「古事記伝」を完成。儒仏を排して古道に帰るべきを説き、また、
「もののあはれ」の文学評論を展開、 「てにをは」・活用などの研究において一時期を画した。著「源氏物語玉の小櫛」 「古今集遠鏡」 「てにをは紐鏡」 「詞の玉緒」 「石上私淑言」 「直毘霊」 「玉勝間」 「うひ山ぶみ」 「馭戎慨言」 「玉くしげ」など。 - 橘守部 たちばな もりべ 1781-1849 江戸後期の国学者・歌人。伊勢の人。本姓は飯田。池庵・椎本などと号す。古語・古典の解釈において本居宣長に対して一家を成す。著に「稜威道別」
「稜威言別」 「湖月抄別記」 「助辞本義一覧」など。 - 伊弉本別の王 いざほわけのみこ → 履中天皇
- 袁祁の石巣別の命 おけのいわすわけのみこと → 顕宗天皇
- 石木の王 いわきのみこ 岩城別王か。石衝別命の子。雄略天皇のとき、命によって羽咋国造となる。羽咋は能登国羽咋郡。
(神名) - 難波の王 なにわのみこ 石木の王の娘。顕宗天皇の妃となるが子はない。紀には皇后難波小野王とするが誤りとみられる。仁賢紀には、皇太子だった時の仁賢天皇に無礼を働いたことを悔やんで自殺したとも記している。
(神名) - 韓 からふくろ 近江の佐々紀山君の祖先。韓が「淡海の久多綿の蚊屋野に猪鹿がたくさんいる」といったことにより、大長谷の王と市の辺の忍歯の王は蚊屋野に行き、市の辺の忍歯の王が殺される。
(神名) - 置目の老媼 おきめのおみな 近江国に住むいやしい老婆。顕宗天皇が父の市辺押歯王の遺骨を探していたとき、この老婆が埋葬場所を憶えていたので、その記憶を賞して天皇から置目老媼の名を賜った。また、天皇は宮の近くに家を作って毎日宮中に老媼を召し、老媼が故郷に帰るのを惜しんだ。紀では押磐皇子の殺害に関与した狭狭城山君の祖の倭宿祢の妹とする。
(神名) - 猪甘の老人 いかいのおきな → 山代之猪甘
- 山代の豕甘 やましろの いかい 山代之猪甘。猪甘老人ともいう。父の市辺之押歯王が殺されたのを聞いた意富祁王(仁賢天皇)
、袁祁王(顕宗天皇)が山代の苅羽井まで逃げてきた時、顔に入墨をした老が粮(みかれい=乾かして固くした携行用の飯)を盗んだ。そこで二人の王はお前は誰だと聞くと、山代の猪甘と答えた。後にその罪により飛鳥河の河原で斬られ、一族はひざの筋を断たれた。 (神名) - 大長谷の天皇 おおはつせのすめらみこと → 雄略天皇
- 雄略天皇 ゆうりゃく てんのう 記紀に記された5世紀後半の天皇。允恭天皇の第5皇子。名は大泊瀬幼武。対立する皇位継承候補を一掃して即位。478年中国へ遣使した倭王「武」、また辛亥(471年か)の銘のある埼玉県稲荷山古墳出土の鉄剣に見える「獲加多支鹵大王」に比定される。
- 佐佐紀の山の君 おうみの ささきのやまのきみ → 佐々貴山公
- 佐々貴山公 ささきのやまのきみ 狭狭城山君。紀の雄略天皇即位前紀には「近江狭狭城山君韓」などとみえ、篠笥郷を本拠とした豪族佐々貴氏は6〜7世紀には蒲生・神崎両郡にわたる国造クラスの大首長であったとみる説もある(八日市市史)。天平期(729-749)の神崎郡大領をはじめ、采女をも出す名族で、当郡の郡司として頻出する。近江源氏佐々木氏をその後裔とみる説も強い。
(地名) - 大長谷の若建の天皇 おおはつせの わかたけのすめらみこと → 雄略天皇
- 春日の大郎女 かすがのおおいらつめ 春日大娘皇女(紀)。大長谷の若建の天皇(雄略天皇)の娘。仁賢天皇との間に高木郎女、財郎女、久須毘郎女、手白髪郎女、小長谷若雀命(武烈天皇)
、真若王を生んだ。紀では母は春日和珥臣深目の娘・童女といい、別名として高橋皇女を載せる。 (神名) - 高木の郎女 たかぎの/たかきの いらつめ 仁賢天皇の皇女。事跡不詳。紀は高橋大娘皇女と記しているが、これは母である春日大郎女の別名と同一となるため誤りか。
(神名) - 財の郎女 たからのいらつめ 仁賢天皇の皇女。紀にはこの名はみられず、朝嬬皇女とあるのが相当する。
(神名) - 久須毘の郎女 くすびのいらつめ 樟氷皇女(紀)。仁賢天皇の子。母は雄略天皇の女春日大郎女。
(神名) - 手白髪の郎女 たしらが/たしらかの いらつめ 手白香皇女(紀)。仁賢天皇の皇女。継体天皇の皇后となって欽明天皇を生んだ。
(神名) - 小長谷の若雀の命 おはつせのわかさざきのみこと → 武烈天皇
- 真若の王 まわかのみこ (1) 景行天皇の皇子。(2) 仁賢天皇の皇女。母は雄略天皇の皇女の春日大郎女。
(神名) - 丸邇の日爪の臣 わにのひのつまのおみ/ひつまのおみ 丸迩(和邇)は姓、日爪は名。子に仁賢天皇妃、糠若子郎女がいる。
(神名) - 糠の若子の郎女 ぬかのわくごのいらつめ 丸邇日爪臣の女。仁賢天皇との間に春日山田郎女を生む。
(神名) - 春日の小田の郎女 かすがのおだのいらつめ → 春日山田皇女か
- 春日山田皇女 かすがの やまだの ひめみこ 仁賢天皇の皇女。別名を山田赤見皇女・山田大娘皇女・赤見皇女。記の春日山田郎女あるいは春日小田郎女と同一人物と思われる。母は二説あるが、いずれも和珥氏出身。安閑天皇の太子時代に妃となる。伊甚国造稚子の罪に連座して伊甚倉を献じて罪をあがなった。宣化天皇が崩じたとき、欽明天皇は群臣に皇后に政務を執るよう乞わさせたが、皇后は聞かず、間もなく崩じた。
(神名) - -----------------------------------
- 武烈天皇 ぶれつ てんのう 記紀に記された5世紀末の天皇。仁賢天皇の第1皇子。名は小泊瀬稚鷦鷯。
- 小長谷部 おはつせべ 小泊瀬部とも。武烈天皇(小長谷若雀)の子代か。記の伝承では武烈天皇に皇太子がなく、子代として小長谷部を定めたとあり、紀武烈6年条には小泊瀬舎人をおいたとある。小長谷部姓の人々は8世紀に実在し、甲斐・信濃・下総・上野・越中国など東日本に分布。中央には管掌者としての小長谷造・小長谷連もみえる。
(日本史) - 品太の天皇 ほんだのすめらみこと → 応神天皇
- 応神天皇 おうじん てんのう 記紀に記された天皇。5世紀前後に比定。名は誉田別。仲哀天皇の第4皇子。母は神功皇后とされるが、天皇の誕生については伝説的な色彩が濃い。倭の五王のうち「讃」にあてる説がある。異称、胎中天皇。
- 袁本杼の命 おおどのみこと → 継体天皇
- 手白髪の命 たしらが/たしらかのみこと オオケの天皇(仁賢天皇)の御子。/継体天皇の皇后となったため郎女から命へと表記が変わったか。手白髪の郎女参照。
(神名) - 若野毛二俣の王 わかぬけふたまたのみこ 稚渟〔野〕毛二岐〔派〕皇子(紀)。応神天皇の皇子。母は息長真若中比売。百師木伊呂弁を妻として7人の子を生んだ。
『姓氏録』には息長氏の祖とされ、後の継体天皇擁立に深くかかわる氏族との系譜上の関連が考えられる。 (神名) - 意富富杼の王 おおおどのみこ 父は稚渟毛二派皇子(応神天皇の皇子)
、母は河派仲彦王の女・弟日売真若比売(百師木伊呂弁とも)で、同母妹の忍坂大中姫・衣通姫は允恭天皇に入内している。意富富杼王自身の詳しい事績は伝わらないが、 『古事記』には息長坂君(息長君・坂田君か) ・酒人君・三国君・筑紫米多君などの祖。 - 宇非の王 おいのみこ
- 彦大人の王 → 彦主人王か
- 彦主人王 ひこうしおう 生没年不詳。5世紀半ばから後半の人。継体天皇の父。妻は越前国三国坂中井出身で、垂仁天皇七世の孫振媛。記紀は継体天皇を応神天皇五世の孫として、父の名の主人王のみをあげるだけだが、
『釈日本紀』に引用される『上宮記』は、凡牟都和希(ほむつわけ)王(応神天皇)から継体に至る五代すべてをのせる。そこで王は�斯(うし)王と記され、またその父は乎非(おひ)王とよばれたことが知られる。 (日本史) - 継体天皇 けいたい てんのう 記紀に記された6世紀前半の天皇。彦主人王の第1王子。応神天皇の5代の孫という。名は男大迹。
- 三尾の君 みおのきみ
- 若比売 わかひめ 稚媛(紀)。即位前の継体天皇ゆかりの地の豪族三尾の君らの祖。継体天皇の妃となり二皇子を生む。紀では三尾角折君の妹。
(神名) - 大郎子 おおいらつこ 継体天皇の皇子で、紀では大郎皇子と表記。母は若姫。
(神名) - 出雲の郎女 いずものいらつめ 継体天皇の皇女。母は若姫。
(神名) - 尾張の連 おわりのむらじ → 尾張氏
- 尾張氏 おわりうじ 尾治氏とも。古代の氏族。火明命を始祖とし、皇妃や皇子妃を数名だしたとする伝承があり、古くから大和政権との関係をもっていたらっしい。部曲と考えられる尾張(尾治)部が各地に存在する。氏の名称は尾張国内を根拠地としたことに由来し、一族から尾張国造が任じられていた。もと連姓であったが、684(天武13)に宿祢の姓を賜った。律令制下には、尾張国内の諸郡司など在地有力者としての存在が知られるだけでなく、尾張連氏・尾張宿祢氏ともに畿内とその周辺にも分布して、中央の官人としても活躍した。
(日本史) - 凡の連 おおしのむらじ 尾張の連らの祖先。
- 目子の郎女 めこのいらつめ 継体天皇妃・尾張連らの祖、凡連の妹。天皇との間に安閑天皇、宣化天皇を生む。
(神名) - 広国押建金日の命 ひろくにおしたけかなひのみこと → 安閑天皇
- 建小広国押楯の命 たけおひろくにおしたてのみこと → 宣化天皇
- 宣化天皇 せんか てんのう 記紀に記された6世紀前半の天皇。継体天皇の第3皇子。名は武小広国押盾。
- 手白髪の命 たしらがのみこと 継体天皇の皇后となったため、郎女から命へと表記が変わったか。手白髪郎女参照。
(神名) - 手白髪郎女 たしらかのいらつめ 手白香皇女(紀)。仁賢天皇の皇女。母は春日大郎女。継体天皇の皇后となって、欽明天皇を生んだ。
(神名) - 安閑天皇 466-535 あんかん てんのう 記紀に記された6世紀前半の天皇。名は勾大兄、また広国押武金日。継体天皇の第1皇子。
- 天国押波流岐広庭の命 あめくにおしはるきひろにわのみこと→ 欽明天皇
- 欽明天皇 きんめい てんのう ?-571 記紀に記された6世紀中頃の天皇。継体天皇の第4皇子。名は天国排開広庭。即位は539年(一説に531年)という。日本書紀によれば天皇の13年(552年、上宮聖徳法王帝説によれば538年)
、百済の聖明王が使を遣わして仏典・仏像を献じ、日本の朝廷に初めて仏教が渡来(仏教の公伝)。 (在位 〜571) - 息長の真手の王 おきながのまての/までのみこ 継体天皇妃の麻組郎女、敏達天皇のヒロヒメ命の父。
- 市の辺の忍歯別の王 いちのべのおしはわけのみこ 伊耶本和気の天皇の皇子。市辺押磐皇子。市辺は地名。山城国綴喜郡に市野辺村がある。履中天皇の皇子。皇位継承者として有力視されていたが、雄略天皇に近江の久多綿蚊屋野で殺された。風土記には市辺天皇命とある。