校註『古事記』(九)
稗田の阿礼、太の安万侶武田祐吉(注釈・校訂)
古事記 下つ巻
〔三、允恭 天皇〕
〔后妃 と皇子女〕
弟
- (一)允恭天皇。
〔八十伴 の緒 の氏姓 〕
天皇はじめ天つ
ここに天皇、天の下の氏々名々の人どもの、氏
天皇御年
- (一)忍坂の大中津比売。
- (二)金が姓、武が名。波鎮漢紀は、位置階級の称。
- (三)ウジは家の称号、カバネは家の階級であって朝廷から
賜 わるものである。家系を尊重した当時にあっては、これを社会組織の根本とした。しかるに長い間には、自然に誤るものもあり、故意にいつわるものも出た。 - (四)飛鳥の地で、マガツヒの神をまつってある所。この神の威力により、いつわれる者にわざわいを与えようとする。マガツヒの神は二七ページ〔
「伊耶那岐の命と伊耶那美の命」の「身禊」 参照。〕 - (五)湯をわかして、その中の物を探らせる鍋。
- (六)多くの人々。
- (七)大阪府南河内郡。
〔木梨の軽の太子〕
天皇
あしひきの(三) 山田をつくり
山高 み 下樋 をわしせ(四)、
下娉 いに わが娉 う妹を(五)、
下泣 きに わが泣く妻を(六)、
昨夜 (七)こそは 安 く肌ふれ。〔歌謡番号七九〕
山
下
こは
たしだしに(一〇)
人は
うるわしと(一二) さ
さ寝しさ寝てば。
こは
ここをもちて
大前小前宿祢が
かな門陰 かく寄 り来 ね。
雨立ち止 めん。〔歌謡番号八二〕
かな
雨立ち
ここにその大前小前の宿祢、手をあげ、ひざを打ち、
宮人の 足結 の小鈴 (二〇)。
落ちにきと 宮人とよむ(二一)。
里人もゆめ(二二)。〔歌謡番号八三〕
落ちにきと 宮人とよむ(二一)。
里人もゆめ(二二)。
この歌は
いた泣かば 人知りぬべし。
また歌よみしたまいしく、
したたにも(二八)
軽嬢子ども。
かれその軽の太子をば、
わが名問わさね。
この三歌は、
大君を 島に放 らば、
船 あまり(三二) い帰 りこむぞ。
わが畳ゆめ(三三)。
言をこそ 畳と言わめ。
わが妻はゆめ(三四)。〔歌謡番号八七〕
わが畳ゆめ(三三)。
言をこそ 畳と言わめ。
わが妻はゆめ(三四)。
この歌は、
夏草の(三七) あいねの浜(三八)の
蛎貝 に 足踏ますな。
明 してとおれ(三九)。〔歌謡番号八八〕
かれ、後にまた
君が行き け長くなりぬ(四〇)。
山たづの(四一)迎 えを行かん(四二)。
待つには待たじ。〈ここに山たづといえるは、今の造木なり〉〔歌謡番号八九〕
山たづの(四一)
待つには待たじ。
かれ追いいたりまししときに、待ち
さ
思い妻あわれ。
後も取り見る(五二) 思い妻あわれ。
また歌いたまいしく、
ま
ま玉なす
鏡なす
ありと いわばこそよ、
家にも行かめ。国をも
かく歌いて、すなわちともにみずから死せたまいき。かれこの二歌は
- (一)帝位につくべきに決まって。
- (二)異母の兄弟の婚姻はさしつかえないが、同母の場合は不倫とされる。
- (三)
枕詞 。語義不明。 - (四)地下に、木で水の流れる道を作って。以上、比喩による序。
- (五)人に知らせないで、ひそかに問いよる妻。
- (六)心の中でわが泣いている妻。
- (七)この夜。今すぎて行く夜。
- (八)歌曲の名。しりあげ歌の意という。
- (九)以上、比喩による序。ヤは感動の助詞。
- (一〇)たしかに、しかと。
- (一一)あの子は別れてもしかたがない。
- (一二)愛する人と。
- (一三)枕詞。
- (一四)歌曲の名。夷振は五六ページ〔
「天照らす大御神と大国主の神」の「天若日子」 に出た。〕 - (一五)安康天皇。
- (一六)物部氏。大前と小前との二人である。
- (一七)胴に同じ。矢の柄。ただし異説がある。
- (一八)堅固な門。
- (一九)舞いおどって。
- (二〇)
袴 を結ぶ紐 につけた鈴。 - (二一)宮廷の人が立ちさわぐ。
- (二二)里の人もさわぐな。宮人がさわいでいるが、そんなにさわぎを大きくするな。
- (二三)歌曲の名。
- (二四)天皇である皇子さま。
- (二五)枕詞。天飛ぶ雁の意に、カルの音に冠する。
- (二六)所在不明。
- (二七)ハトのように。
- (二八)したたかに。しっかりと。
- (二九)
倚 り寝て行き去れ。 - (三〇)愛媛県の松山市の温泉地。道後温泉。
- (三一)歌曲の名。歌詞によって名づける。
- (三二)その船の余地で。
- (三三)わたしの座所をそのままにしておけ。タタミは敷物。人の去った跡を動かすと、その人が帰ってこないとする思想がある。
- (三四)わたしの妻に手をつけるな。
- (三五)歌曲の名。
- (三六)軽の
大郎女 。 - (三七)叙述による枕詞。
- (三八)所在不明。
- (三九)夜があけてからいらっしゃい。
- (四〇)時ひさしくなった。
- (四一)枕詞。つぎに説明があるが、それでもあきらかでない。ヤマタヅは、樹名今のニワトコで、葉が対生しているから、ムカヘに冠するという。
「君が行き け長くなりぬ 山たづね 迎 へか行かむ 待ちにか待たむ」( 『万葉集』 )。 - (四二)ヲは間投の助詞。
- (四三)枕詞。山につつまれているところの意。
- (四四)奈良県磯城郡。
- (四五)ヲは高い土地。
- (四六)サは接頭語。大尾とともに、あちこちの高みのところに。以上、つぎの句の序。
- (四七)語義不明。上の大尾にと同語をくりかえしてオヨソの意を現わすか、または別の副詞か。
- (四八)あなたの妻ときめた。動詞「定む」が四段活になっている。
- (四九)枕詞。
槻 の木の弓。- (五〇)伏しても。ころがる意の動詞コユが再活して、伏しまろぶ意にコヤルと言っている。
- (五一)枕詞。
- (五二)後も近く見る。
- (五三)清浄のクイ。まつりをおこなうために
杙 をうつ。- (五四)以上序で、つぎの玉と鏡の二つの枕詞を引き出す。川中に柱を立てて玉や鏡をかけるのは、これによって神をまねいて
穢 れをはらうのである。「こもりくの 泊瀬の川の、上つ瀬に 斎杙 をうち、下つ瀬に ま杙 をうち、斎杙 には 鏡をかけ、ま杙 には ま玉をかけ、ま玉なす わが念ふ妹も、鏡なす わが念ふ妹も、ありと言はばこそ、国にも家にも行かめ、誰 がゆえか行かむ」( 『万葉集』 )。 - (五五)歌曲の名。
〔四、安康 天皇〕
〔目弱 の王 の変〕
御子
天皇、
これより後に、天皇
ここに大長谷の王、その
また
ここにきわまり、矢もつきしかば、その王子に
- (一)安康天皇。
- (二)奈良県山辺郡。
- (三)雄略天皇。
- (四)仁徳天皇の皇子。
- (五)礼儀をあらわす贈り物。
- (六)大きい木で作った
縵 。玉は美称。カズラは、植物を輪にして頭上にのせる。二五ページ〔「伊耶那岐の命と伊耶那美の命」の「黄泉の国」 参照。この〕 縵 、『日本書紀』に別名として立縵、 磐木縵 の名をあげ、また後に根の臣がこれをつけて若日下部の王に見あらわされて罪せられる話がある。- (七)わしの妹が、同じ仲間の使い女になろうか。ならない、の意。
- (八)刀の柄をしかとにぎって。
- (九)允恭天皇の皇女で安康天皇の同母妹にあたるから、何か誤伝があるのだろうという。
『日本書紀』には 中蒂姫 とある。- (一〇)九二ページ〔
「崇神天皇」の「美和の大物主」 脚注参照。〕 - (一一)先の夫、大日下の王の子。
- (一二)わるい心。自分を憎む心。
- (一三)
『日本書紀』に葛城の円の大臣。オホミは大臣で尊称。 - (一四)奈良県生駒郡。
- (一五)奈良県高市郡。
- (一六)ツブラオホミに同じ。オミはオホミの約言。
- (一七)ツブラオミの女、カラヒメ。
- (一八)前におたずねになった女はさしあげます。
- (一九)注にあるように葛城の五村の倉庫。
- (二〇)臣や連が。ともに朝廷の臣下。
〔市 の辺 の忍歯 の王 〕
これより後、淡海の
ここに
ここに市の辺の王の王子たち、
- (一)佐佐紀の山の君の祖先。山の君はカバネ。
- (二)滋賀県
愛知郡 。 - (三)履中天皇の皇子。
- (四)変わったものをいう皇子だから注意しなさい。
- (五)馬上で進んでならんで。
- (六)馬の食物を入れる箱。
- (七)土と共にうめた。
- (八)後の
仁賢 天皇と顕宗 天皇。 - (九)京都府相楽郡。
- (一〇)豚を飼う者。
- (一一)淀川。
- (一二)兵庫県の南部。
- (一三)兵庫県
美嚢 郡志染 村。 - (一四)馬や牛を飼う者として使われた。なお、この物語は一八二ページ〔
「 に続く。清寧 天皇・顕宗天皇・仁賢天皇」の「志自牟の新室楽」〕
〔五、雄略天皇〕
〔后妃 と皇子女〕
- (一)雄略天皇。
- (二)奈良県磯城郡。
- (三)中国南方の人。
- (四)奈良県高市郡。
〔若日下部の王〕
はじめ
日下部の 此方 の山(六)と
畳薦 (七) 平群 の山(八)の、
此方此方 の(九) 山の峡 に
立ち栄 ゆる 葉広 熊白梼 、
本 には いくみ竹 (一〇)生 い、
末 へは たしみ竹(一一)生い、
いくみ竹 いくみは寝ず(一二)、
たしみ竹 たしには率宿 ず(一三)、
後もくみ寝ん その思妻 、あわれ。〔歌謡番号九二〕
立ち
いくみ竹 いくみは寝ず(一二)
たしみ竹 たしには
後もくみ寝ん その
すなわちこの歌を持たしめして、返し使わしき。
- (一)大阪府北河内郡生駒山の西麓。
- (二)生駒山のくらがり峠を越える道。大和から直線的に越えるので
直越 という。 - (三)屋根の上にカツオのような形の木を載せて作った家。大きな屋根の家。カツオは
堅魚木 の意。屋根の頂上に何本も横に載せて、葺草 を押さえる材。 - (四)敬意を表するための贈り物。
- (五)妻を求むる贈り物。
- (六)今、立っている山、生駒山。
- (七)
枕詞 。既出。 - (八)奈良県生駒郡の山。既出。
- (九)あちこちの。
- (一〇)しげった竹。
- (一一)しっかりした竹。
- (一二)密接しては寝ず。
- (一三)しかとは共に寝ず。
〔引田部 の赤猪子 〕
またあるとき天皇いでまして、
また歌よみしたまいしく、
若くえに(九)
老いにけるかも。
ここに
神の
また歌いていいしく、
ともしきろかも。
ここにその
- (一)泊瀬川の、三輪山に接して流れるところ。
- (二)心が晴れないのにたえない。
- (三)多くの進物。
- (四)神社の厳然たる
白梼 の木の下。 - (五)はばかるべきである。
- (六)白梼原に住む
嬢子 。引田部の赤猪子を、その住所によっていう。 - (七)三輪山近くの地名。
- (八)若い栗の木の原。
- (九)若い時代に。
- (一〇)赤い染料ですりつけて染めた衣服の
袖 。 - (一一)ヤは感動の助詞。神社で作る垣。
- (一二)作り残して。作ることができないで。
- (一三)誰にたよりましょうか。この歌、
『 琴歌譜 』に載せ、垂仁天皇がお妃とともに三輪山にお登りになったときの歌とする別伝を載せている。- (一四)
大和川 が作っている江。- (一五)以上、比喩。
- (一六)歌曲の名。
- (一四)
〔吉野 の宮〕
天皇、
すなわち
み吉野 の 袁牟漏 が岳 (四)に
猪鹿 伏すと、
誰 ぞ 大前 (五)に申す。
やすみしし わが大君の
猪鹿 待つと 呉床 にいまし、
白栲 の 袖 着具 う(六)
手腓 (七)に 虻 掻 きつき、
その虻 を 蜻蛉 早咋 い、
かくのごと 名に負わんと、
そらみつ倭 の国を
蜻蛉島 とう。〔歌謡番号九八〕
やすみしし わが大君の
その
かくのごと 名に負わんと、
そらみつ
かれそのときより、その野に名づけて
- (一)天皇の御手で。作者自身のことに敬語を使うのは例が多く、これも後の歌曲として歌われたものだからである。
- (二)永久にありたい。常世は永久の世界。
- (三)吉野山中にある。藤原の宮時代の吉野の宮の所在地。
- (四)吉野山中の一峰だろうが、所在不明。
- (五)天皇の御前。
- (六)白い織物の衣服の
袖 を着用している。 - (七)腕の肉の高いところ。
〔葛城山 〕
またあるとき、天皇、
やすみしし わが大君の
あそばしし(二) 猪の、
病猪 の うたきかしこみ、
わが 逃げ登りし、
あり岡 の(三) 榛 の木の枝。〔歌謡番号九九〕
あそばしし(二) 猪の、
わが 逃げ登りし、
あり
またあるとき、天皇、葛城山に登りいでますときに、
- (一)口を開けて近づいてくる。
- (二)射止めた、の敬語法。
- (三)そこにある岡の。
- (四)ヲは山の稜線。
- (五)天皇の行列と同様に。
- (六)わしは
凶事 も一言 、吉事 も一言で決めてしまう神の、葛城の一言主の神だ。この神の一言で吉凶が定まるとする思想。これは託宣 に現われる神であるが、このときに現実に出たとするのである。 - (七)現実のお姿があろうとは思いませんでした。ウツシは、現実にある意の形容詞。オミは相手の敬称。この語、原文「宇都志意美」
。従来、現し御身の義とされたが、美はミの甲類の音で、身の音と違う。 - (八)山のはしに集まって。
- (九)天皇の皇居である。
〔春日の袁杼比売 と三重の采女 〕
また天皇、
かれその岡に名づけて、
また天皇、長谷の
朝日の 日
夕日の 日
竹の根の
ま
中つ枝は
中つ枝に 落ち
中つ枝の 枝の末葉は
あり
浮きし
こしも あやにかしこし。
ことの 語りごとも こをば(一七)。
かれこの歌をたてまつりしかば、その罪をゆるしたまいき。ここに
そが葉の
その花の
ことの 語りごとも こをば。
すなわち天皇、歌よみしたまいしく、
ももしきの 大宮人 は、
鶉鳥 (二二) 領布 (二三)取り掛 けて
鶺鴒 (二四) 尾行きあえ
庭雀 (二五)、うずすまりいて
今日もかも酒 みずくらし(二六)。
高光 る 日の宮人。
ことの 語りごとも こをば。〔歌謡番号一〇三〕
今日もかも
ことの 語りごとも こをば。
この三歌は、
この豊の楽の日、また春日の
秀モ取り かたく取らせ。
秀モ取らす子。
こは
やすみしし わが大君の
朝戸 (三一)には い倚 り立 たし、
夕戸 には い倚り立 たす
脇几 (三二)が 下の
板にもが。吾兄 (三三)を。〔歌謡番号一〇五〕
板にもが。
こは
天皇、御年、
- (一)
和邇氏 の居住地で、奈良市の東部。 - (二)金属の
鋤 もたくさんほしい。 - (三)枝のしげった
槻 の木。 - (四)伊勢の国の三重の地から出た
采女 。ウネメは、地方の豪族の女子を召し出して宮廷に奉仕させる。後に法制化される。 - (五)景行天皇の皇居。
長谷 の朝倉の宮とは、離れている。この歌は歌曲の歌で、その物語を雄略天皇の事としてとりあげたものだろう。 - (六)根のはっている宮。
- (七)枕詞。たくさんの土。
- (八)
杵 でつきかためた宮。 - (九)新穀でまつりをする家屋。
- (一〇)枝がしげって充実している。
- (一一)東方をせおっている。
- (一二)つづいて触れている。
- (一三)枕詞。そこにある衣の三重と修飾する。
- (一四)ミヅは生気のある。美しい盃。
- (一五)浮いた
脂 のように落ちただよって。ナヅサヒは、水を分ける。 - (一六)水がゴロゴロして。この数句、天地の初発の神話に見える句で、その神話の伝え手との関係を思わせるものがある。
- (一七)四五ページ〔
「大国主の神」の「八千矛の神の歌物語」 参照。〕 - (一八)皇后。
- (一九)高いところ。
- (二〇)市の高み。
- (二一)たてまつるの敬語の命令形。
- (二二)比喩による枕詞。ウズラは頭から胸にかけて白い
斑 があるので、領布 をかけるに冠する。 - (二三)四二ページ〔
「大国主の神」の「根の堅州国」 参照。〕 - (二四)比喩。セキレイ。
- (二五)比喩による枕詞。
- (二六)
酒宴 をするらしい。 - (二七)歌曲の名。
- (二八)枕詞。オミ(大きい水、海)に冠する。
- (二九)たけの高い酒瓶をお取りになる。
- (三〇)歌曲の名。
酒盃 の歌の意。 - (三一)朝の御座。
- (三二)よりかかる机、
脇息 。 - (三三)はやし詞。
- (三四)歌曲の名。
- (三五)大阪府南河内郡。
(つづく)
底本:
1956(昭和31)年5月20日初版発行
1965(昭和40)年9月20日20版発行
底本の親本:
※底本は校注が脚註の形で配置されています。このファイルでは校註者が追加した標題ごとに、書き下し文、校注の順序で編成しました。
※(一)〜(五五)は注釈番号です。底本では、直前の文字の右横に、ルビのように漢数字のみ付いています。このファイルでは本文の漢数字との混同を避けるため(漢数字)で表しました。
※〔 〕は底本の親本にはないもので、校註者が補った箇所を表します。
※頁数を引用している箇所には校註者が追加した標題を注記しました。
入力:川山隆
校正:しだひろし
YYYY年MM月DD日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
校註『古事記』(九)
稗田の阿礼、太の安万侶武田祐吉注釈校訂
-------------------------------------------------------
【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)上《かみ》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)神|蕃息《はんそく》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「二点しんにょう+貌」、第3水準1-92-58]
-------------------------------------------------------
[#1字下げ]古事記 下つ卷[#「古事記 下つ卷」は大見出し]
[#3字下げ]〔三、允恭天皇〕[#「〔三、允恭天皇〕」は中見出し]
[#5字下げ]〔后妃と皇子女〕[#「〔后妃と皇子女〕」は小見出し]
弟|男淺津間《をあさづま》の若子《わくご》の宿禰(一)の王、遠つ飛鳥《あすか》の宮にましまして、天の下治らしめしき。この天皇、意富本杼《おほほど》の王が妹、忍坂《おさか》の大中津《おほなかつ》比賣の命に娶ひて、生みませる御子、木梨《きなし》の輕《かる》の王、次に長田の大郎女《おほいらつめ》、次に境《さかひ》の黒日子の王、次に穴穗《あなほ》の命、次に輕の大郎女、またの御名は衣通《そとほし》の郎女、[#割り注]御名は衣通の王と負はせる所以は、その御身の光衣より出づればなり。[#割り注終わり]次に八瓜《やつり》の白日子の王、次に大|長谷《はつせ》の命、次に橘《たちばな》の大郎女、次に酒見《さかみ》の郎女九柱[#「九柱」は1段階小さな文字]。およそ天皇の御子たち、九柱。[#割り注]男王五柱、女王四柱。[#割り注終わり]この九柱の中に、穴穗の命は、天の下治らしめしき。次に大長谷の命も、天の下治らしめしき。
(一) 允恭天皇。
[#5字下げ]〔八十伴《やそとも》の緒《を》の氏姓《うぢかばね》〕[#「〔八十伴の緒の氏姓〕」は小見出し]
天皇初め天つ日繼知らしめさむとせし時に、辭《いな》びまして、詔りたまひしく「我は長き病しあれば、日繼をえ知らさじ」と詔りたまひき。然れども大后(一)より始めて、諸卿《まへつぎみ》たち堅く奏すに因りて、天の下治らしめしき。この時、新羅《しらぎ》の國主《こにきし》、御調物《みつぎもの》八十一艘《やそまりひとふね》獻りき。ここに御調の大使、名は金波鎭漢紀武《こみはちにかにきむ》(二)といふ。この人藥の方《みち》を深く知れり。かれ天皇が御病を治めまつりき。
ここに天皇、天の下の氏氏名名の人どもの、氏|姓《かばね》が忤《たが》ひ過《あやま》て(三)ることを愁へまして、味白檮《うまかし》の言八十禍津日《ことやそまがつひ》の前《さき》(四)に、玖訶瓮《くかべ》(五)を据ゑて、天の下の八十伴《やそとも》の緒《を》(六)の氏姓を定めたまひき。また木梨《きなし》の輕《かる》の太子《ひつぎのみこ》の御名代として、輕部《かるべ》を定め、大后の御名代として、刑部《おさかべ》を定め、大后の弟|田井《たゐ》の中《なかつ》比賣の御名代として、河部《かはべ》を定めたまひき。
天皇御年|七十八歳《ななそぢまりやつ》。[#割り注]甲午の年正月十五日崩りたまひき。[#割り注終わり]御陵は河内《かふち》の惠賀《ゑが》の長枝《ながえ》(七)にあり。
(一) 忍坂の大中津比賣。
(二) 金が姓、武が名。波鎭漢紀は、位置階級の稱。
(三) ウヂは家の稱號、カバネは家の階級であつて朝廷から賜わるものである。家系を尊重した當時にあつては、これを社會組織の根本とした。しかるに長い間には、自然に誤るものもあり、故意に僞るものも出た。
(四) 飛鳥の地で、マガツヒの神を祭つてある所。この神の威力により僞れる者に禍を與えようとする。マガツヒの神は二七頁[#「二七頁」は「伊耶那岐の命と伊耶那美の命」の「身禊」]參照。
(五) 湯を涌かしてその中の物を探らせる鍋。
(六) 多くの人々。
(七) 大阪府南河内郡。
[#5字下げ]〔木梨の輕の太子〕[#「〔木梨の輕の太子〕」は小見出し]
天皇崩りまして後、木梨の輕の太子、日繼知らしめすに定まりて(一)、いまだ位に即《つ》きたまはざりしほどに、その同母妹《いろも》輕の大郎女に※[#「(女/女)+干」、第4水準2-5-51]《たは》け(二)て、歌よみしたまひしく、
[#ここから2字下げ]
あしひきの(三) 山田をつくり
山|高《だか》み 下|樋《び》をわしせ(四)、
下|※[#「娉」の「由」に代えて「叟−又」、161-本文-1]《ど》ひに 吾《わ》が※[#「娉」の「由」に代えて「叟−又」、161-本文-1]《と》ふ妹を(五)、
下泣きに 吾が泣く妻を(六)、
昨夜《こぞ》(七)こそは 安《やす》く肌觸れ。 (歌謠番號七九)
[#ここで字下げ終わり]
こは志良宜《しらげ》歌(八)なり。また歌よみしたまひしく、
[#ここから2字下げ]
笹葉《ささは》に うつや霰の(九)、
たしだしに(一〇) 率寢《ゐね》てむ後《のち》は
人は離《か》ゆとも(一一)。 (歌謠番號八〇)
うるはしと(一二) さ寢《ね》しさ寢てば
刈|薦《ごも》の(一三) 亂れば亂れ。
さ寢しさ寢てば。 (歌謠番號八一)
[#ここで字下げ終わり]
こは夷振《ひなぶり》の上歌《あげうた》(一四)なり。
ここを以ちて百《もも》の官《つかさ》また、天の下の人ども、みな輕の太子に背きて、穴|穗《ほ》の御子《みこ》(一五)に歸《よ》りぬ。ここに輕の太子畏みて、大前《おほまえ》小前《をまへ》の宿禰(一六)の大臣《おほおみ》の家に逃れ入りて、兵《つはもの》を備へ作りたまひき。[#割り注]その時に作れる矢は、その箭の同(一七)を銅にしたり。かれその矢を輕箭といふ。[#割り注終わり]穴穗《あなほ》の御子も兵《つはもの》を作りたまひき。[#割り注]その王子の作れる矢は、今時の矢なり。そを穴穗箭といふ。[#割り注終わり]穴穗の御子《みこ》軍を興して、大前小前の宿禰の家を圍《かく》みたまひき。ここにその門《かなと》(一八)に到りましし時に大氷雨《ひさめ》降りき。かれ歌よみしたまひしく、
[#ここから2字下げ]
大前小前宿禰が
かな門陰《とかげ》 かく寄《よ》り來《こ》ね。
雨立ち止《や》めむ。 (歌謠番號八二)
[#ここで字下げ終わり]
ここにその大前小前の宿禰、手を擧げ、膝を打ち、舞ひかなで(一九)、歌ひまゐ來《く》。その歌、
[#ここから2字下げ]
宮人の 足結《あゆひ》の小鈴《こすず》(二〇)。
落ちにきと 宮人とよむ(二一)。
里人もゆめ(二二)。 (歌謠番號八三)
[#ここで字下げ終わり]
この歌は宮人曲《みやひとぶり》(二三)なり。かく歌ひまゐ來て、白さく、「我《あ》が天皇《おほきみ》の御子(二四)、同母兄《いろせ》の御子をな殺《し》せたまひそ。もし殺せたまはば、かならず人|咲《わら》はむ。僕《あれ》捕へて獻らむ」とまをしき。ここに軍を罷《や》めて退《そ》きましき。かれ大前小前の宿禰、その輕の太子を捕へて、率《ゐ》てまゐ出て獻りき。その太子、捕はれて歌よみしたまひしく、
[#ここから2字下げ]
天|飛《だ》む(二五) 輕の孃子、
いた泣かば 人知りぬべし。
波佐《はさ》の山(二六)の 鳩の(二七)、
下泣きに泣く。 (歌謠番號八四)
[#ここで字下げ終わり]
また歌よみしたまひしく、
[#ここから2字下げ]
天飛《あまだ》む 輕孃子《かるをとめ》、
したたにも(二八) 倚り寢《ね》てとほれ(二九)。
輕孃子ども。 (歌謠番號八五)
[#ここで字下げ終わり]
かれその輕の太子をば、伊余《いよ》の湯《ゆ》(三〇)に放ちまつりき。また放たえたまはむとせし時に、歌よみしたまひしく、
[#ここから2字下げ]
天飛《あまと》ぶ 鳥も使ぞ。
鶴《たづ》が音《ね》の 聞えむ時は、
吾《わ》が名問はさね。 (歌謠番號八六)
[#ここで字下げ終わり]
この三歌は、天田振《あまだぶり》(三一)なり。また歌よみしたまひしく、
[#ここから2字下げ]
大君を 島に放《はぶ》らば、
船《ふな》餘り(三二) い歸《がへ》りこむぞ。
吾《わ》が疊ゆめ(三三)。
言をこそ 疊と言はめ。
吾が妻はゆめ(三四)。 (歌謠番號八七)
[#ここで字下げ終わり]
この歌は、夷振《ひなぶり》の片下《かたおろし》(三五)なり。その衣通《そとほし》の王(三六)、歌獻りき。その歌、
[#ここから2字下げ]
夏草の(三七) あひねの濱(三八)の
蠣貝《かきかひ》に 足踏ますな。
明《あか》してとほれ(三九)。 (歌謠番號八八)
[#ここで字下げ終わり]
かれ後にまた戀慕《しのひ》に堪へかねて、追ひいでましし時、歌ひたまひしく、
[#ここから2字下げ]
君が行き け長くなりぬ(四〇)。
山たづの(四一) 迎《むか》へを行かむ(四二)。
待つには待たじ。[#割り注]ここに山たづといへるは、今の造木なり[#割り注終わり] (歌謠番號八九)
[#ここで字下げ終わり]
かれ追ひ到りましし時に、待ち懷《おも》ひて、歌ひたまひしく、
[#ここから2字下げ]
隱國《こもりく》の(四三) 泊瀬《はつせ》の山(四四)の
大尾《おほを》(四五)には 幡《はた》張《は》り立て、
さ小尾《をを》(四六)には 幡張り立て、
大尾《おほを》(四七)よし ながさだめる(四八)
思ひ妻あはれ。
槻《つく》弓の(四九) 伏《こや》る伏りも(五〇)、
梓弓(五一) 立てり立てりも、
後も取り見る(五二) 思ひ妻あはれ。 (歌謠番號九〇)
[#ここで字下げ終わり]
また歌ひたまひしく、
[#ここから2字下げ]
隱國《こもりく》の 泊瀬《はつせ》の川の
上《かみ》つ瀬《せ》に 齋杙《いくひ》(五三)を打ち、
下《しも》つ瀬に ま杙《くひ》を打ち、
齋杙《いくひ》には 鏡を掛け、
ま杙には ま玉を掛け(五四)、
ま玉なす 吾《あ》が思《も》ふ妹、
鏡なす 吾《あ》が思《も》ふ妻、
ありと いはばこそよ、
家にも行かめ。國をも偲《しの》はめ。 (歌謠番號九一)
[#ここで字下げ終わり]
かく歌ひて、すなはち共にみづから死せたまひき。かれこの二歌は讀歌(五五)なり。
(一) 帝位につくべきにきまつて。
(二) 異母の兄弟の婚姻はさしつかえないが、同母の場合は不倫とされる。
(三) 枕詞。語義不明。
(四) 地下に木で水の流れる道を作つて。以上譬喩による序。
(五) 人に知らせないでひそかに問いよる妻。
(六) 心の中でわが泣いている妻。
(七) この夜。今過ぎて行く夜。
(八) 歌曲の名。しり上げ歌の意という。
(九) 以上、譬喩による序。ヤは感動の助詞。
(一〇) たしかに、しかと。
(一一) あの子は別れてもしかたがない。
(一二) 愛する人と。
(一三) 枕詞。
(一四) 歌曲の名。夷振は五六頁[#「五六頁」は「天照らす大御神と大國主の神」の「天若日子」]に出た。
(一五) 安康天皇。
(一六) 物部氏。大前と小前との二人である。
(一七) 胴に同じ。矢の柄。但し異説がある。
(一八) 堅固な門。
(一九) 舞い躍つて。
(二〇) 袴を結ぶ紐につけた鈴。
(二一) 宮廷の人が立ちさわぐ。
(二二) 里の人もさわぐな。宮人がさわいでいるが、そんなに騷ぎを大きくするな。
(二三) 歌曲の名。
(二四) 天皇である皇子樣。
(二五) 枕詞。天飛ぶ雁の意に、カルの音に冠する。
(二六) 所在不明。
(二七) 鳩のように。
(二八) したたかに。しつかりと。
(二九) 倚り寢て行き去れ。
(三〇) 愛媛縣の松山市の※[#「火+慍のつくり」、第3水準1-87-59]泉地。道後※[#「火+慍のつくり」、第3水準1-87-59]泉。
(三一) 歌曲の名。歌詞によつて名づける。
(三二) その船の餘地で。
(三三) わたしの座所をそのままにしておけ。タタミは敷物。人の去つた跡を動かすと、その人が歸つて來ないとする思想がある。
(三四) わたしの妻に手をつけるな。
(三五) 歌曲の名。
(三六) 輕の大郎女。
(三七) 敍述による枕詞。
(三八) 所在不明。
(三九) 夜があけてからいらつしやい。
(四〇) 時久しくなつた。
(四一) 枕詞。次に説明があるが、それでもあきらかでない。ヤマタヅは、樹名今のニワトコで、葉が對生しているから、ムカヘに冠するという。「君が行きけ長くなりぬ山たづね迎へか行かむ待ちにか待たむ」(萬葉集)。
(四二) ヲは間投の助詞。
(四三) 枕詞。山につつまれている處の意。
(四四) 奈良縣磯城郡。
(四五) ヲは高い土地。
(四六) サは接頭語。大尾と共にあちこちの高みのところに。以上、次の句の序。
(四七) 語義不明。上の大尾にと同語を繰り返してオヨソの意を現すか、または別の副詞か。
(四八) あなたの妻ときめた。動詞定むが四段活になつている。
(四九) 枕詞。槻の木の弓。
(五〇) 伏しても。ころがる意の動詞コユが再活して、伏しまろぶ意にコヤルと言つている。
(五一) 枕詞。
(五二) 後も近く見る。
(五三) 清淨の杙。祭を行うために杙をうつ。
(五四) 以上序で、次の玉と鏡の二つの枕詞を引き出す。川中に柱を立てて玉や鏡を懸けるのは、これによつて神を招いて穢を拂うのである。「こもりくの泊瀬の川の、上つ瀬に齋杙をうち、下つ瀬にま杙をうち、齋杙には鏡をかけ、ま杙にはま玉をかけ、ま玉なすわが念ふ妹も、鏡なすわが念ふ妹も、ありと言はばこそ、國にも家にも行かめ、誰が故か行かむ」(萬葉集)。
(五五) 歌曲の名。
[#3字下げ]〔四、安康天皇〕[#「〔四、安康天皇〕」は中見出し]
[#5字下げ]〔目弱《まよわ》の王の變〕[#「〔目弱の王の變〕」は小見出し]
御子|穴穗《あなほ》の御子(一)、石《いそ》の上《かみ》の穴穗の宮(二)にましまして天の下治らしめしき。
天皇、同母弟《いろせ》大|長谷《はつせ》の王子(三)のために、坂本《さかもと》の臣《おみ》等が祖《おや》根《ね》の臣を、大日下《おほくさか》の王(四)のもとに遣して、詔らしめたまひしくは、「汝が命の妹|若日下《わかくさか》の王を、大長谷の王子に合はせむとす。かれ獻るべし」とのりたまひき。ここに大日下の王四たび拜みて白さく、「けだしかかる大命《おほみこと》もあらむと思ひて、かれ、外《と》にも出さずて置きつ。こは恐し。大命のまにまに獻らむ」とまをしたまひき。然れども言《こと》もちて白す事は、それ禮《ゐや》なしと思ひて、すなはちその妹の禮物《ゐやじろ》(五)として、押木の玉縵《たまかづら》(六)を持たしめて、獻りき。根の臣すなはちその禮物《ゐやじろ》の玉縵《たまかづら》を盜み取りて、大日下の王を讒《よこ》しまつりて曰さく、「大日下の王は大命を受けたまはずて、おのが妹や、等《ひと》し族《うから》の下席《したむしろ》にならむ(七)といひて、大刀の手上《たがみ》取《とりしば》り(八)て、怒りましつ」とまをしき。かれ天皇いたく怒りまして、大日下の王を殺して、その王の嫡妻《むかひめ》長田《ながた》の大郎女(九)を取り持ち來て、皇后《おほぎさき》としたまひき。
これより後に、天皇|神牀《かむとこ》(一〇)にましまして、晝|寢《みね》したまひき。ここにその后に語らひて、「汝《いまし》思ほすことありや」とのりたまひければ、答へて曰さく「天皇《おほきみ》の敦き澤《めぐみ》を被《かがふ》りて、何か思ふことあらむ」とまをしたまひき。ここにその大后の先《さき》の子|目弱《まよわ》の王(一一)、これ年七歳になりしが、この王、その時に當りて、その殿の下に遊べり。ここに天皇、その少《わか》き王《みこ》の殿の下に遊べることを知らしめさずて、大后に詔りたまはく、「吾は恆に思ほすことあり。何《な》ぞといへば、汝《いまし》の子目弱の王、人となりたらむ時、吾がその父王を殺せしことを知らば、還りて邪《きたな》き心(一二)あらむか」とのりたまひき。ここにその殿の下に遊べる目弱の王、この言《みこと》を聞き取りて、すなはち竊に天皇の御寢《みね》ませるを伺ひて、その傍《かたへ》なる大刀を取りて、その天皇の頸をうち斬りまつりて、都夫良意富美《つぶらおほみ》(一三)が家に逃れ入りましき。天皇、御年|五十六歳《いそぢまりむつ》。御陵は菅原《すがはら》の伏見《ふしみ》の岡《をか》(一四)にあり。
ここに大長谷の王、その時《かみ》童男《おぐな》にましけるが、すなはちこの事を聞かして、慨《うれた》み怒りまして、その兄《いろせ》黒日子のもとに到りて、「人ありて天皇を取りまつれり。いかにかもせむ」とまをしたまひき。然れどもその黒日子の王、驚かずて、怠緩《おほろか》におもほせり。ここに大長谷の王、その兄を詈《の》りて、「一つには天皇にまし、一つには兄弟《はらから》にますを、何ぞは恃もしき心もなく、その兄を殺《と》りまつれることを聞きつつ、驚きもせずて、怠《おほろか》に坐せる」といひて、その衣|矜《くび》を取りて控《ひ》き出でて、刀《たち》を拔きてうち殺したまひき。またその兄|白日子《しろひこ》の王に到りまして、状《ありさま》を告げまをしたまひしに、前のごと緩《おほろか》に思ほししかば、黒日子の王のごと、すなはちその衣衿を取りて、引き率《ゐ》て、小治田《をはりだ》(一五)に來到《きた》りて、穴を掘りて、立ちながらに埋みしかば、腰を埋む時に到りて、二つの目、走り拔けて死《う》せたまひき。
また軍を興して、都夫良意美《つぶらおみ》(一六)が家を圍《かく》みたまひき。ここに軍を興して待ち戰ひて、射出づる矢|葦《あし》の如く來散りき。ここに大長谷の王、矛を杖として、その内を臨みて詔りたまはく、「我が語らへる孃子(一七)は、もしこの家にありや」とのりたまひき。ここに都夫良意美、この詔命《おほみこと》を聞きて、みづからまゐ出《で》て、佩ける兵《つはもの》を解きて、八度|拜《をろが》みて、白しつらくは、「先に問ひたまへる女子《むすめ》訶良《から》比賣は、侍《さもら》は(一八)む。また五處の屯倉《みやけ》(一九)を副へて獻らむ[#割り注]いはゆる五處の屯倉は、今の葛城の五村の苑人なり。[#割り注終わり]然れどもその正身《ただみ》まゐ向かざる故は、古《むかし》より今に至るまで、臣連(二〇)の、王の宮に隱《こも》ることは聞けど、王子《みこ》の臣《やつこ》の家に隱りませることはいまだ聞かず。ここを以ちて思ふに、賤奴《やつこ》意富美は、力をつくして戰ふとも、更にえ勝つましじ。然れどもおのれを恃みて、陋《いや》しき家に入りませる王子は、命《いのち》死ぬとも棄てまつらじ」とかく白して、またその兵を取りて、還り入りて戰ひき。
ここに窮まり、矢も盡きしかば、その王子に白さく、「僕は痛手負ひぬ。矢も盡きぬ。今はえ戰はじ。如何にせむ」とまをししかば、その王子答へて詔りたまはく、「然らば更にせむ術《すべ》なし。今は吾を殺《し》せよ」とのりたまひき。かれ刀もちてその王子を刺し殺せまつりて、すなはちおのが頸を切りて死にき。
(一) 安康天皇。
(二) 奈良縣山邊郡。
(三) 雄略天皇。
(四) 仁徳天皇の皇子。
(五) 禮儀を現す贈物。
(六) 大きい木で作つた縵。玉は美稱。カヅラは、植物を輪にして頭上にのせる。二五頁[#「二五頁」は「伊耶那岐の命と伊耶那美の命」の「黄泉の國」]參照。この縵、日本書紀に別名として、立縵、磐木縵《いはきかづら》の名をあげ、また後に根の臣がこれを附けて若日下部の王に見顯されて罪せられる話がある。
(七) わしの妹が、同じ仲間の使い女になろうか。ならないの意。
(八) 刀の柄をしかとにぎつて。
(九) 允恭天皇の皇女で安康天皇の同母妹に當るから、何か誤傳があるのだろうという。日本書紀には中蒂姫《なかしひめ》とある。
(一〇) 九二頁[#「九二頁」は「崇神天皇」の「美和の大物主」]脚註參照。
(一一) 先の夫大日下の王の子。
(一二) わるい心。自分を憎む心。
(一三) 日本書紀に葛城の圓の大臣。オホミは大臣で尊稱。
(一四) 奈良縣生駒郡。
(一五) 奈良縣高市郡。
(一六) ツブラオホミに同じ。オミはオホミの約言。
(一七) ツブラオミの女カラヒメ。
(一八) 前にお尋ねになつた女はさしあげます。
(一九) 註にあるように葛城の五村の倉庫。
(二〇) 臣や連が。共に朝廷の臣下。
[#5字下げ]〔市の邊の押齒の王〕[#「〔市の邊の押齒の王〕」は小見出し]
これより後、淡海の佐佐紀《ささき》の山《やま》の君が祖《おや》(一)、名は韓※[#「代/巾」、第4水準2-8-82]《からふくろ》白さく、「淡海の久多綿《くたわた》の蚊屋野《かやの》(二)に、猪鹿《しし》多《さは》にあり。その立てる足は、荻《すすき》原の如く、指擧《ささ》げたる角《つの》は、枯松《からまつ》の如し」とまをしき。この時市の邊《べ》の忍齒《おしは》の王(三)を相率《あとも》ひて、淡海にいでまして、その野に到りまししかば、おのもおのも異《こと》に假宮を作りて、宿りましき。
ここに明くる旦、いまだ日も出でぬ時に、忍齒の王、平《つね》の御心もちて、御馬《みま》に乘りながら、大長谷の王の假宮の傍に到りまして、その大長谷の王子の御伴人《みともびと》に詔りたまはく、「いまだも寤めまさぬか。早く白すべし。夜は既に曙《あ》けぬ。獵庭《かりには》にいでますべし」とのりたまひて馬を進めて出で行きぬ。ここに大長谷の王の御許《みもと》に侍ふ人ども、「うたて物いふ御子なれば、御心したまへ(四)。また御身をも堅めたまふべし」とまをしき。すなはち衣《みそ》の中に甲《よろひ》を服《け》し、弓矢を佩《お》ばして、馬に乘りて出で行きて、忽の間に馬より往き雙《なら》びて(五)、矢を拔きて、その忍齒の王を射落して、またその身《みみ》を切りて、馬|※[#「木+宿」、169-本文-8]《ぶね》(六)に入れて、土と等しく埋みき(七)。
ここに市の邊の王の王子たち、意祁《おけ》の王、袁祁《をけ》の王(八)二柱[#「二柱」は1段階小さな文字]。この亂を聞かして、逃げ去りましき。かれ山代《やましろ》の苅羽井《かりはゐ》(九)に到りまして、御|粮《かれひ》きこしめす時に、面《め》黥《さ》ける老人來てその御|粮《かれひ》を奪《と》りき。ここにその二柱の王、「粮は惜まず。然れども汝《いまし》は誰そ」とのりたまへば、答へて曰さく、「我《あ》は山代の豕甘《ゐかひ》(一〇)なり」とまをしき。かれ玖須婆《くすば》の河(一一)を逃れ渡りて、針間《はりま》の國(一二)に至りまし、その國人名は志自牟《しじむ》が家(一三)に入りまして、身を隱して、馬甘《うまかひ》牛甘《うしかひ》に役《つか》はえたまひき(一四)。
(一) 佐佐紀の山の君の祖先。山の君はカバネ。
(二) 滋賀縣愛知郡。
(三) 履中天皇の皇子。
(四) 變つたものをいう皇子だから注意しなさい。
(五) 馬上で進んで並んで。
(六) 馬の食物を入れる箱。
(七) 土と共に埋めた。
(八) 後の仁賢天皇と顯宗天皇。
(九) 京都府相樂郡。
(一〇) 豚を飼う者。
(一一) 淀川。
(一二) 兵庫縣の南部。
(一三) 兵庫縣|美嚢《みなぎ》郡|志染《しじみ》村。
(一四) 馬や牛を飼う者として使われた。なおこの物語は一八二頁[#「一八二頁」は「清寧天皇・顯宗天皇・仁賢天皇」の「志自牟の新室樂」]に續く。
[#3字下げ]〔五、雄略天皇〕[#「〔五、雄略天皇〕」は中見出し]
[#5字下げ]〔后妃と皇子女〕[#「〔后妃と皇子女〕」は小見出し]
大長谷の若建《わかたけ》の命(一)、長谷《はつせ》の朝倉《あさくら》の宮(二)にましまして、天の下治らしめしき。天皇、大日下の王が妹、若日下部の王に娶《あ》ひましき。[#割り注]子ましまさず。[#割り注終わり]また都夫良意富美が女、韓比賣《からひめ》に娶《あ》ひて、生みませる御子、白髮《しらが》の命、次に妹《いも》若帶《わかたらし》比賣の命二柱[#「二柱」は1段階小さな文字]。かれ白髮の太子《みこのみこと》の御名代《みなしろ》として、白髮部《しらがべ》を定め、また長谷部《はつせべ》の舍人《とねり》を定め、また河瀬の舍人を定めたまひき。この時に呉人《くれびと》(三)まゐ渡り來つ。その呉人を呉原《くれはら》(四)に置きたまひき。かれ其地《そこ》に名づけて呉原といふ。
(一) 雄略天皇。
(二) 奈良縣磯城郡。
(三) 中國南方の人。
(四) 奈良縣高市郡。
[#5字下げ]〔若日下部の王〕[#「〔若日下部の王〕」は小見出し]
初め大后、日下(一)にいましける時、日下の直越《ただこえ》の道(二)より、河内に出《い》でましき。ここに山の上に登りまして、國内を見|放《さ》けたまひしかば、堅魚《かつを》を上げて舍屋《や》を作れる家(三)あり。天皇その家を問はしめたまひしく、「その堅魚《かつを》を上げて作れる舍は、誰が家ぞ」と問ひたまひしかば、答へて曰さく、「志幾《しき》の大縣主《おほあがたぬし》が家なり」と白しき。ここに天皇詔りたまはく、「奴や、おのが家を、天皇《おほきみ》の御舍《みあらか》に似せて造れり」とのりたまひて、すなはち人を遣して、その家を燒かしめたまふ時に、その大縣主、懼《お》ぢ畏《かしこ》みて、稽首《のみ》白さく、「奴にあれば、奴ながら覺《さと》らずて、過ち作れるが、いと畏きこと」とまをしき。かれ稽首《のみ》の御幣物《ゐやじり》(四)を獻る。白き犬に布を※[#「執/糸」、171-本文-4]《か》けて、鈴を著けて、おのが族《やから》、名は腰佩《こしはき》といふ人に、犬の繩《つな》を取らしめて獻上りき。かれその火著くることを止めたまひき。すなはちその若日下部の王の御許《みもと》にいでまして、その犬を賜ひ入れて、詔らしめたまはく、「この物は、今日道に得つる奇《めづら》しき物なり。かれ妻問《つまどひ》の物(五)」といひて、賜ひ入れき。ここに若日下部の王、天皇に奏《まを》さしめたまはく、「日に背《そむ》きていでますこと、いと恐し。かれおのれ直《ただ》にまゐ上りて仕へまつらむ」とまをさしめたまひき。ここを以ちて宮に還り上ります時に、その山の坂の上に行き立たして、歌よみしたまひしく、
[#ここから2字下げ]
日下部の 此方《こち》の山(六)と
疊薦《たたみこも》(七) 平群《へぐり》の山(八)の、
此方此方《こちごち》の(九) 山の峽《かひ》に
立ち榮《ざか》ゆる 葉廣《はびろ》熊白檮《くまかし》、
本には いくみ竹《だけ》(一〇)生ひ、
末《すゑ》へは たしみ竹(一一)生ひ、
いくみ竹 いくみは寢ず(一二)、
たしみ竹 たしには率宿《ゐね》ず(一三)、
後もくみ寢む その思妻、あはれ。 (歌謠番號九二)
[#ここで字下げ終わり]
すなはちこの歌を持たしめして、返し使はしき。
(一) 大阪府北河内郡生駒山の西麓。
(二) 生駒山のくらがり峠を越える道。大和から直線的に越えるので直越という。
(三) 屋根の上に堅魚のような形の木を載せて作つた家。大きな屋根の家。カツヲは、堅魚木の意。屋根の頂上に何本も横に載せて、葺草を押える材。
(四) 敬意を表するための贈物。
(五) 妻を求むる贈物。
(六) 今立つている山、生駒山。
(七) 枕詞。既出。
(八) 奈良縣生駒郡の山。既出。
(九) あちこちの。
(一〇) 茂つた竹。
(一一) しつかりした竹。
(一二) 密接しては寢ず。
(一三) しかとは共に寢ず。
[#5字下げ]〔引田《ひけた》部の赤猪子《あかゐこ》〕[#「〔引田部の赤猪子〕」は小見出し]
またある時天皇いでまして、美和河《みわがは》(一)に到ります時に、河の邊に衣《きぬ》洗ふ童女《をとめ》あり。それ顏いと好かりき。天皇その童女に、「汝《いまし》は誰が子ぞ」と問はしければ、答へて白さく「おのが名は引田部《ひけたべ》の赤猪子《あかゐこ》とまをす」と白しき。ここに詔らしめたまひしくは「汝《いまし》、嫁《とつ》がずてあれ。今召さむぞ」とのりたまひて、宮に還りましつ。かれその赤猪子、天皇の命を仰ぎ待ちて、既に八十歳《やそとせ》を經たり。ここに赤猪子「命《みこと》を仰ぎ待ちつる間に、已に多《あまた》の年を經て、姿體《かほかたち》痩《やさか》み萎《かじ》けてあれば、更に恃むところなし。然れども待ちつる心を顯はしまをさずては、悒《いぶせ》きに忍《あ》へじ(二)」と思ひて、百取《ももとり》の机代《つくゑしろ》(三)の物を持たしめて、まゐ出で獻りき。然れども天皇、先に詔りたまひし事をば、既に忘らして、その赤猪子に問ひてのりたまはく、「汝《いまし》は誰しの老女《おみな》ぞ。何とかもまゐ來つる」と問はしければ、ここに赤猪子答へて白さく、「それの年のそれの月に、天皇が命を被《かがふ》りて、大命を仰ぎ待ちて、今日に至るまで八十歳《やそとせ》を經たり。今は容姿既に老いて、更に恃むところなし。然れども、おのが志を顯はし白さむとして、まゐ出でつらくのみ」とまをしき。ここに天皇、いたく驚かして、「吾は既に先の事を忘れたり。然れども汝《いまし》志を守り命を待ちて、徒に盛の年を過ぐししこと、これいと愛悲《かな》し」とのりたまひて、御心のうちに召さむと欲《おも》ほせども、そのいたく老いぬるを悼みたまひて、え召さずて、御歌を賜ひき。その御歌、
[#ここから2字下げ]
御諸《みもろ》の 嚴白檮《いつかし》がもと(四)、
白檮《かし》がもと ゆゆしきかも(五)。
白檮原《かしはら》孃子《をとめ》(六) (歌謠番號九三)
[#ここで字下げ終わり]
また歌よみしたまひしく、
[#ここから2字下げ]
引田《ひけた》(七)の 若|栗栖原《くるすばら》(八)、
若くへに(九) 率寢《ゐね》てましもの。
老いにけるかも。 (歌謠番號九四)
[#ここで字下げ終わり]
ここに赤猪子が泣く涙、その服《け》せる丹摺《にすり》の袖(一〇)を悉《ことごと》に濕らしつ。その大御歌に答へて曰ひしく、
[#ここから2字下げ]
御諸に 築《つ》くや玉垣《たまかき》(一一)、
築《つ》きあまし(一二) 誰《た》にかも依らむ(一三)。
神の宮人。 (歌謠番號九五)
[#ここで字下げ終わり]
また歌ひて曰ひしく、
[#ここから2字下げ]
日下江《くさかえ》(一四)の 入江の蓮《はちす》、
花蓮《はなばちす》(一五) 身の盛人、
ともしきろかも。 (歌謠番號九六)
[#ここで字下げ終わり]
ここにその老女《おみな》に物|多《さは》に給ひて、返し遣りたまひき。かれこの四歌は志都歌(一六)なり。
(一) 泊瀬川の、三輪山に接して流れる所。
(二) 心がはれないのに堪えない。
(三) 多くの進物。
(四) 神社の嚴然たる白檮の木の下。
(五) 憚るべきである。
(六) 白檮原に住む孃子。引田部の赤猪子を、その住所によつていう。
(七) 三輪山近くの地名。
(八) 若い栗の木の原。
(九) 若い時代に。
(一〇) 赤い染料ですりつけて染めた衣服の袖。
(一一) ヤは感動の助詞。神社で作る垣。
(一二) 作り殘して。作ることが出來ないで。
(一三) 誰にたよりましようか。この歌、琴歌譜に載せ、垂仁天皇がお妃と共に三輪山にお登りになつた時の歌とする別傳を載せている。
(一四) 大和川が作つている江。
(一五) 以上譬喩。
(一六) 歌曲の名。
[#5字下げ]〔吉野の宮〕[#「〔吉野の宮〕」は小見出し]
天皇|吉野《えしの》の宮にいでましし時、吉野川の邊に、童女《をとめ》あり、それ形姿美麗《かほよ》かりき。かれこの童女を召して、宮に還りましき。後に更に吉野《えしの》にいでましし時に、その童女の遇ひし所に留まりまして、其處《そこ》に大御|呉床《あぐら》を立てて、その御呉床にましまして、御琴を彈かして、その童女に※[#「にんべん+舞」、第4水準2-3-4]はしめたまひき。ここにその童女の好く※[#「にんべん+舞」、第4水準2-3-4]へるに因りて、御歌よみしたまひき。その御歌、
[#ここから2字下げ]
呉床座《あぐらゐ》の 神の御手もち(一)
彈く琴に ※[#「にんべん+舞」、第4水準2-3-4]する女《をみな》、
常世《とこよ》にもがも(二)。 (歌謠番號九七)
[#ここで字下げ終わり]
すなはち阿岐豆野《あきづの》(三)にいでまして、御獵したまふ時に、天皇、御呉床にましましき。ここに、虻《あむ》、御腕《ただむき》を咋《く》ひけるを、すなはち蜻蛉《あきづ》來て、その虻《あむ》を咋《く》ひて、飛《と》びき。ここに御歌よみしたまへる、その御歌、
[#ここから2字下げ]
み吉野《えしの》の 袁牟漏《をむろ》が嶽《たけ》(四)に
猪鹿《しし》伏すと、
誰《たれ》ぞ 大前(五)に申す。
やすみしし 吾《わ》が大君の
猪鹿《しし》待つと 呉床《あぐら》にいまし、
白栲《しろたへ》の 袖《そで》著具《きそな》ふ(六)
手腓《たこむら》(七)に 虻《あむ》掻き著き、
その虻を 蜻蛉《あきづ》早|咋《く》ひ、
かくのごと 名に負はむと、
そらみつ 倭《やまと》の國を
蜻蛉島《あきづしま》とふ。 (歌謠番號九八)
[#ここで字下げ終わり]
かれその時より、その野に名づけて阿岐豆野《あきづの》といふ。
(一) 天皇の御手で。作者自身の事に敬語を使うのは、例が多く、これも後の歌曲として歌われたものだからである。
(二) 永久にありたい。常世は永久の世界。
(三) 吉野山中にある。藤原の宮時代の吉野の宮の所在地。
(四) 吉野山中の一峰だろうが、所在不明。
(五) 天皇の御前。
(六) 白い織物の衣服の袖を著用している。
(七) 腕の肉の高いところ。
[#5字下げ]〔葛城山〕[#「〔葛城山〕」は小見出し]
またある時、天皇|葛城《かづらき》の山の上に登り幸でましき。ここに大きなる猪出でたり。すなはち天皇|鳴鏑《なりかぶら》をもちてその猪を射たまふ時に、その猪怒りて、うたき依り來(一)。かれ天皇、そのうたきを畏みて、榛《はり》の木の上に登りましき。ここに御歌よみしたまひしく、
[#ここから2字下げ]
やすみしし 吾《わ》が大君の
遊ばしし(二) 猪の、
病猪《やみしし》の うたき畏み、
わが 逃げ登りし、
あり岡《を》の(三) 榛《はり》の木の枝。 (歌謠番號九九)
[#ここで字下げ終わり]
またある時、天皇葛城山に登りいでます時に、百官《つかさつかさ》の人ども、悉《ことごと》に紅《あか》き紐《ひも》著けたる青摺の衣《きぬ》を給はりて著《き》たり。その時にその向ひの山の尾(四)より、山の上に登る人あり。既に天皇の鹵簿《みゆきのつら》に等しく(五)、またその束裝《よそひ》のさま、また人どもも、相似て別れず。ここに天皇見|放《さ》けたまひて、問はしめたまはく、「この倭《やまと》の國に、吾《あれ》を除《お》きてまた君は無きを。今誰人かかくて行く」と問はしめたまひしかば、すなはち答へまをせるさまも、天皇の命《みこと》の如くなりき。ここに天皇いたく忿《いか》りて、矢刺したまひ、百官の人どもも、悉に矢刺しければ、ここにその人どももみな矢刺せり。かれ天皇また問ひたまはく、「その名を告《の》らさね。ここに名を告りて、矢放たむ」とのりたまふ。ここに答へてのりたまはく、「吾《あれ》まづ問はえたれば、吾まづ名告りせむ。吾《あ》は惡《まが》事も一言、善事《よごと》も一言、言離《ことさか》の神、葛城《かづらき》の一言主《ひとことぬし》の大神(六)なり」とのりたまひき。天皇ここに畏みて白したまはく、「恐し、我が大神、現《うつ》しおみまさむとは、覺《し》らざりき(七)」と白して、大御刀また弓矢を始めて、百官の人どもの服《け》せる衣服《きもの》を脱がしめて、拜み獻りき。ここにその一言主の大神、手打ちてその捧物《ささげもの》を受けたまひき。かれ天皇の還りいでます時、その大神、山の末《は》にいはみて(八)、長谷の山口(九)に送りまつりき。かれこの一言主の大神は、その時に顯れたまへるなり。
(一) 口をあけて近づいてくる。
(二) 射とめたの敬語法。
(三) そこにある岡の。
(四) ヲは山の稜線。
(五) 天皇の行列と同樣に。
(六) わしは凶事も一言、吉事も一言で、きめてしまう神の、葛城の一言主の神だ。この神の一言で、吉凶が定まるとする思想。これは託宣に現れる神であるが、この時に現實に出たとするのである。
(七) 現實のお姿があろうとは思いませんでした。ウツシは現實にある意の形容詞。オミは相手の敬稱。この語、原文「宇都志意美」。從來、現し御身の義とされたが、美はミの甲類の音で、身の音と違う。
(八) 山のはしに集まつて。
(九) 天皇の皇居である。
[#5字下げ]〔春日の袁杼比賣と三重の采女〕[#「〔春日の袁杼比賣と三重の采女〕」は小見出し]
また天皇、丸邇《わに》の佐都紀《さつき》の臣が女、袁杼《をど》比賣を婚《よば》ひに、春日(一)にいでましし時、媛女《をとめ》、道に逢ひて、すなはち幸行《いでまし》を見て、岡邊《をかび》に逃げ隱りき。かれ御歌よみしたまへる、その御歌、
[#ここから2字下げ]
孃子《をとめ》の い隱《かく》る岡を
金※[#「金+且」、第3水準1-93-12]《かなすき》も 五百箇《いほち》もがも(二)。
※[#「金+且」、第3水準1-93-12]《す》き撥《は》ぬるもの。 (歌謠番號一〇〇)
[#ここで字下げ終わり]
かれその岡に名づけて、金※[#「金+且」、第3水準1-93-12]《かなすき》の岡といふ。
また天皇、長谷の百枝槻《ももえつき》(三)の下にましまして、豐の樂《あかり》きこしめしし時に、伊勢の國の三重の※[#「女+綵のつくり」、177-本文-14]《うねめ》(四)、大御盞《おほみさかづき》を捧げて獻りき。ここにその百枝槻の葉落ちて、大御盞に浮びき。その※[#「女+綵のつくり」、177-本文-15]、落葉の御盞《みさかづき》に浮べるを知らずて、なほ大御酒獻りけるに、天皇、その御盞に浮べる葉を看そなはして、その※[#「女+綵のつくり」、177-本文-16]を打ち伏せ、御|佩刀《はかし》をその頸に刺し當てて、斬らむとしたまふ時に、その※[#「女+綵のつくり」、177-本文-17]、天皇に白して曰さく、「吾が身をな殺したまひそ。白すべき事あり」とまをして、すなはち歌ひて曰ひしく、
[#ここから2字下げ]
纏向《まきむく》の 日代《ひしろ》の宮(五)は、
朝日の 日|照《で》る宮。
夕日の 日|陰《がけ》る宮。
竹の根の 根足《ねだ》る宮(六)。
木《こ》の根《ね》の 根蔓《ねば》ふ宮。
八百土《やほに》よし(七) い杵築《きづき》の宮(八)。
ま木《き》さく 日の御門、
新嘗屋《にひなへや》(九)に 生ひ立《だ》てる
百|足《だ》る(一〇) 槻《つき》が枝《え》は、
上《ほ》つ枝《え》は 天を負《お》へり。
中つ枝は 東《あづま》を負へり(一一)。
下枝《しづえ》は 鄙《ひな》を負へり。
上《ほ》つ枝《え》の 枝《え》の末葉《うらば》は
中つ枝に 落ち觸らばへ(一二)、
中つ枝の 枝の末葉は
下《しも》つ枝に 落ち觸らばへ、
下《しづ》枝の 枝の末葉は
あり衣《ぎぬ》の(一三) 三重の子が
捧《ささ》がせる 瑞玉盃《みづたまうき》(一四)に
浮きし脂《あぶら》 落ちなづさひ(一五)、
水《みな》こをろこをろに(一六)、
こしも あやにかしこし。
高光る 日の御子。
事の 語りごとも こをば(一七)。 (歌謠番號一〇一)
[#ここで字下げ終わり]
かれこの歌を獻りしかば、その罪を赦したまひき。ここに大后(一八)の歌よみしたまへる、その御歌、
[#ここから2字下げ]
倭《やまと》の この高市《たけち》(一九)に
小高《こだか》る 市《いち》の高處《つかさ》(二〇)、
新嘗屋《にひなへや》に 生ひ立《だ》てる
葉廣《はびろ》 ゆつま椿《つばき》、
そが葉の 廣りいまし、
その花の 照りいます
高光る 日の御子に、
豐御酒《とよみき》 獻らせ(二一)。
事の 語りごとも こをば。 (歌謠番號一〇二)
[#ここで字下げ終わり]
すなはち天皇歌よみしたまひしく、
[#ここから2字下げ]
ももしきの 大宮人《おほみやひと》は、
鶉鳥《うづらとり》(二二) 領布《ひれ》(二三)取り掛けて
鶺鴒《まなばしら》(二四) 尾行き合へ
庭雀《にはすずめ》(二五)、うずすまり居て
今日もかも 酒《さか》みづくらし(二六)。
高光る 日の宮人。
事の 語りごとも こをば。 (歌謠番號一〇三)
[#ここで字下げ終わり]
この三歌は、天語《あまがたり》歌(二七)なり。かれ豐《とよ》の樂《あかり》に、その三重の※[#「女+綵のつくり」、180-本文-10]を譽めて、物|多《さは》に給ひき。
この豐の樂の日、また春日の袁杼比賣《をどひめ》が大御酒獻りし時に、天皇の歌ひたまひしく、
[#ここから2字下げ]
水灌《みなそそ》く(二八) 臣《おみ》の孃子《をとめ》、
秀※[#「缶+墫のつくり」、第3水準1-90-25]《ほだり》取らすも(二九)。
秀※[#「缶+墫のつくり」、第3水準1-90-25]取り 堅く取らせ。
下堅《したがた》く 彌堅《やがた》く取らせ。
秀※[#「缶+墫のつくり」、第3水準1-90-25]取らす子。 (歌謠番號一〇四)
[#ここで字下げ終わり]
こは宇岐《うき》歌(三〇)なり。ここに袁杼比賣、歌獻りき。その歌、
[#ここから2字下げ]
やすみしし 吾が大君の
朝戸《あさと》(三一)には い倚り立《だ》たし、
夕戸には い倚り立《だ》たす
脇几《わきづき》(三二)が 下の
板にもが。吾兄《あせ》(三三)を。 (歌謠番號一〇五)
[#ここで字下げ終わり]
こは志都《しづ》歌(三四)なり。
天皇、御年、一百二十四歳《ももちまりはたちよつ》。[#割り注]己巳の年八月九日崩りたまひき。[#割り注終わり]御陵は河内《かふち》の多治比《たぢひ》の高※[#「顫のへん+鳥」、第3水準1-94-72]《たかわし》(三五)にあり。
(一) 和邇氏の居住地で、奈良市の東部。
(二) 金屬の鋤もたくさんほしい。
(三) 枝のしげつた槻の木。
(四) 伊勢の國の三重の地から出た采女。ウネメは、地方の豪族の女子を召し出して宮廷に奉仕させる。後に法制化される。
(五) 景行天皇の皇居。長谷の朝倉の宮とは、離れている。この歌は歌曲の歌で、その物語を雄略天皇の事として取り上げたものだろう。
(六) 根の張つている宮。
(七) 枕詞。たくさんの土。
(八) 杵でつき堅めた宮。
(九) 新穀で祭をする家屋。
(一〇) 枝が茂つて充實している。
(一一) 東方をせおつている。
(一二) 續いて觸れている。
(一三) 枕詞。そこにある衣の三重と修飾する。
(一四) ミヅは生氣のある。美しい盃。
(一五) 浮いた脂のように落ち漂つて。ナヅサヒは、水を分ける。
(一六) 水がごろごろして。この數句、天地の初發の神話に見える句で、その神話の傳え手との關係を思わせるものがある。
(一七) 四五頁[#「四五頁」は「大國主の神」の「八千矛の神の歌物語」]參照。
(一八) 皇后。
(一九) 高いところ。
(二〇) 市の高み。
(二一) 奉るの敬語の命令形。
(二二) 譬喩による枕詞。鶉は頭から胸にかけて白い斑があるので、領布をかけるに冠する。
(二三) 四二頁[#「四二頁」は「大國主の神」の「根の堅州國」]參照。
(二四) 譬喩。セキレイ。
(二五) 譬喩による枕詞。
(二六) 酒宴をするらしい。
(二七) 歌曲の名。
(二八) 枕詞。オミ(大きい水、海)に冠する。
(二九) たけの高い酒瓶をお取りになる。
(三〇) 歌曲の名。酒盃の歌の意。
(三一) 朝の御座。
(三二) よりかかる机、脇息。
(三三) はやし詞。
(三四) 歌曲の名。
(三五) 大阪府南河内郡。
(つづく)
底本:
1956(昭和31)年5月20日初版発行
1965(昭和40)年9月20日20版発行
底本の親本:
※底本は校注が脚註の形で配置されています。このファイルでは校註者が追加した標題ごとに、書き下し文、校注の順序で編成しました。
※(一)〜(五五)は注釈番号です。底本では、直前の文字の右横に、ルビのように漢数字のみ付いています。このファイルでは本文の漢数字との混同を避けるため(漢数字)で表しました。
※〔〕は底本の親本にはないもので、校註者が補った箇所を表します。
※頁数を引用している箇所には校註者が追加した標題を注記しました。
※底本は書き下し文のみ歴史的かなづかいで、その他は新かなづかいです。なお拗音・促音は小書きではありません。
入力:川山隆
校正:しだひろし
YYYY年MM月DD日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
*地名
(※ 市町村名は、平成の大合併以前の表記のまま。一般的な国名・地名などは解説省略。- [京都府]
- [山代] やましろ 山城・山背。旧国名。五畿の一つ。今の京都府の南部。山州。城州。雍州。
- 山代河 やましろがわ 山城川。紀は山背川。淀川の古称か。
- [綴喜郡] つづきぐん 京都府・山城国の郡。現、井手町・宇治田原町。
- 筒木 つつき 紀の筒城宮か。現在の京都府京田辺市普賢寺付近に比定される。
(日本史) - 筒木の宮 つつきのみや 紀は筒城宮。現、綴喜郡田辺町大字多々羅。普賢寺川の北の丘陵の宇都谷辺りに仁徳天皇の皇后磐之媛が住み、また継体天皇の皇居があったという。比定地は諸説あり。
- [難波] なにわ (一説に「魚庭」の意という) 大阪市およびその付近の古称。
- 高津宮 たかつのみや 仁徳天皇の皇居。宮址は大阪城の辺という。難波高津宮。/現在の大阪府大阪市中央区か。仁徳天皇が難波に造営したと伝える宮。比定地は諸説あり。(1) 現、大坂城の地。(2) 現、東区法円坂旧陸軍第八連隊兵営内の平坦地。(3) 大阪城外濠南方の高台の地。
- 東区 ひがしく 大阪市の中心部にある。明治12(1879)成立。紀によると、大化改新に伴って孝徳朝難波長柄豊碕宮が造営されたと考えられるが、同宮は当区上町台地上に置かれたといわれる。天武天皇・聖武天皇の時代にも同台地上に難波宮が造営され、条坊制を有する難波京の存在が想定される。難波の堀江(現大川)沿岸には外交施設があり、また摂津職も置かれたが、延暦3(784)の長岡京造営などに伴って難波宮が廃されてからも、摂津国府が中世まで存続した。
- 大阪城 おおさかじょう 大阪城・大坂城。大阪市中央区にある城。1583年(天正11)より豊臣秀吉が石山本願寺の旧地に築いた。大坂夏の陣で焼失後、元和〜寛永年間に大修築。1868年(明治1)戦火を蒙り建造物の大部分が焼失。1931年(昭和6)本丸内外の一部を公園とし、旧規によって天守閣を設けた。
- 難波の埼 → 難波津か
- 難波津 なにわづ 難波江の要津。古代には、今の大阪城付近まで海が入りこんでいたので、各所に船瀬を造り、瀬戸内海へ出る港としていた。
- 難波の大渡 おおわたり 浪波渡。淀川本流(現、大川)を渡る地点か。渡は川を横切る渡船場と解される。
- 御津の前 みつのさき 御津の埼。所在地は諸説あるが、現、南区三津寺町付近とする説が有力。
- 難波の宮 なにわのみや 古代、大阪市中央区法円坂の一帯にあった皇居の総称。(1) 孝徳天皇の645年(大化1)より造営。天武天皇の陪都としても使用。686年(朱鳥1)焼失。→難波長柄豊碕宮。(2) 聖武天皇の皇居の一つ。
- 難波長柄豊碕宮 なにわの ながらのとよさきのみや 孝徳天皇の造営した難波宮の正称。第二次大戦後の発掘で、大極殿跡その他を発見。
- 大阪平野 おおさか へいや 大阪湾の沿岸、大阪府と兵庫県南東部にまたがる、近畿地方最大の平野。淀川・大和川などが流れる。
- 大阪湾 おおさかわん 瀬戸内海の東端にあたる湾。西は明石海峡と淡路島、南は友ヶ島水道(紀淡海峡)で限られる。古称、茅渟海。和泉灘。摂津灘。
- [三島郡] みしまぐん 明治29(1896)島上郡と島下郡が合併して成立。郡名は、古代当地方をさした地名の復活で、早くから文献に出る。この三島の地は、現高槻市の南西部あたりに中心地が比定される三島県に含まれ、大化改新後、三島評となり、その後、分割され島上・島下の古称とされる「三島上郡」
「三島下郡」となったといわれる。以後、古代・中世・近世を通じて島上・島下両郡として存続。 - 日女島 ひめしま 姫島。大阪府三島郡。現、大阪市大川(難波の堀江)の河口近くにあったと思われる。のち歌枕とされた。具体的位置は不明。/現、西淀川区姫島か。
- [北河内郡]
- 茨田の堤 うまらた/まんたのつつみ 大阪府北河内郡。/古代、淀川の下流の左岸、茨田郡の側にあった堤防。伝承では仁徳天皇時代の築堤という。
- 茨田の三宅 うまらた/まむた/まんだのみやけ 茨田の御倉、茨田屯倉。屯倉の所在地は不明だが、茨田郡および交野郡三宅郷の地に散在し、管理の建物や倉庫は三宅郷にあったと推測。
- [南河内郡]
- 丸邇の池 わにのいけ 大阪府南河内郡。現、富田林市粟ヶ池か。
- 依網の池 よさみのいけ 大阪市東成区。
(本文注) - 依網 よさみ 摂津国住吉郡と河内国丹比郡の境界付近の古代地名。依網池は現、大阪市住吉区苅田・我孫子町から堺市常磐町にかけて復元。
(日本史) - 難波の堀江 なにわのほりえ 天満川。/仁徳天皇が水害を防ぐために、高津宮の北に掘ったという運河。比定地は諸説あり、(1) 天満川(現、大川)のこと。(2) 長堀川。(3) 道頓堀川の前身の堀川。(4) 現天王寺区の空堀通の四説。
- 小椅の江 おばしのえ 大阪市東成区東小橋か。小橋村・東小橋村一帯と推定。
- 墨江の津 大阪市住吉区。住吉津。古代日本に存在した港。住吉大神を祀る住吉大社(大阪市住吉区)の南の住吉の細江と呼ばれた入り江にあった(住吉の細江は、現在は細江川[通称・細井川])。住吉津から東へ向かうと、奈良盆地の飛鳥に至る。
- 淀川 よどがわ 琵琶湖に発源し、京都盆地に出て、盆地西端で木津川・桂川を合わせ、大阪平野を北東から南西に流れて大阪湾に注ぐ川。長さ75km。上流を瀬田川、宇治市から淀までを宇治川という。
- 天満川 てんまんがわ 大阪市、大川。淀川の一分流の名称で、都島区の毛馬閘門から北区中之島の東端で土佐堀川と堂島川に分岐するまでの約4.4kmをいう。天満川は大坂三郷の天満郷(現北区)が淀川右岸にあたるところから生じた名称であろうが、大川ほど一般化はしていなかったのではなかろうか。
- 兎寸河 うきかわ/うきがわ 所在不明。物語によれば大阪平野のうち。
- 高安山 たかやすやま 大阪府と奈良県との境に位置する標高 488m の山。 7世紀後半に大和朝廷により大和国防衛の拠点として高安城が築かれたことで知られている。
- [泉南郡] せんなんぐん 府の南西部にあり、明治29(1896)南郡と日根郡を合わせて成立した郡で、郡名は旧和泉国の南部に位置することによる。その後、郡域に岸和田市・貝塚市・泉佐野市・泉南市が成立。
- 毛受の耳原 もずのみみはら 大阪府泉南郡。この御陵は、天皇生前に工事をした。その時に鹿の耳の中からモズが飛び出したから地名とするという。
(本文中) - [中河内郡] なかかわちぐん 明治29(1896)若江郡・渋川郡・河内郡・高安郡・大県郡・丹北郡および志紀郡三木本村が合併して成立。名称は旧河内国の中部に位置することにより、北は北河内郡、東は生駒山地で奈良県生駒郡、南は南河内郡、西は東成郡・泉北郡に接する。宝永元(1704)の大和川のつけかえにより、景観・立地環境は大きく変貌した。
- [南河内郡] みなみかわちぐん 府の南東部、旧河内国の南部にあたる。明治29(1896)成立。当時の南河内郡は、東は金剛山・葛城山の金剛山地で奈良県、南は和泉山脈で和歌山県、西は泉北郡、北は中河内郡に接し、中河内郡との間に大和川が流れていた。
- 多治比の柴垣の宮 たじひの しばかきのみや 多比柴垣宮。大阪府南河内郡。反正天皇の宮跡。現在地は不明。松原市内か。
- 毛受野 もずの → 毛受
- 毛受 もず 紀は百舌鳥。百舌鳥野。現、堺市北部中央三国ヶ丘台地と称される辺り。
- [奈良県]
- [那良]
- [倭] やまと 大和。(
「山処(やまと) 」の意か) (1) 旧国名。今の奈良県の管轄。もと、天理市付近の地名から起こる。初め「倭」と書いたが、元明天皇のとき国名に2字を用いることが定められ、 「倭」に通じる「和」に「大」の字を冠して大和とし、また「大倭」とも書いた。和州。(2) 日本国の異称。おおやまと。(3) 唐(から)に対して、日本特有の事物に冠する語。 - 木津川 きづがわ (1) 淀川の支流。鈴鹿山脈南の布引山地に発源し、伊賀盆地を流れて名張川と合流したのち京都盆地の南部に入り、八幡市で淀川に入る。長さ89km。(2) 淀川下流の分流の一つ。大阪市西区で淀川分流の土佐堀川から分かれ、南西流して大阪湾に注ぐ。(3) 京都府南部、(1) の中流域を占める市。南部は奈良県に接する。恭仁京・海住山寺などの所在地。人口6万4千。
- 奈良山 ならやま → 平城山
- 奈良の山口 ならのやまぐち → 平城山
- 平城山 ならやま 奈良山。現、奈良市。奈良盆地北辺と京都府相楽郡木津町との境界を東西に走る標高100m前後の低丘陵。山裾南を佐保川が西流し、東部を佐保、西武を佐紀と称する。
- 小楯 おだて (1) 楯。小さな楯。(2) 〔枕〕
「やまと」にかかる。 - 葛城 かずらき/かつらぎ (古くはカヅラキ) (1) 奈良県御所市・葛城市ほか奈良盆地南西部一帯の古地名。(2) 奈良県北西部の市。農村地帯で、二輪菊・チューリップなど花卉栽培が盛ん。人口3万5千。
- 高宮 たかみや 紀にみえる武内宿祢の子、葛城襲津彦が新羅の民を配置した桑原・佐糜(さび)
・高宮はいずれも御所市域と考えられる。仁徳紀の磐之媛の歌に「我が見が欲し国は葛城高宮、我家のあたり」とあり、蘇我蝦夷が葛城高宮に祖廟を立て(皇極紀) 、蘇我馬子は「葛城県は元臣が本拠の地なり」と称した(推古紀)。 - 葛城高丘宮 かずらきの たかおかのみや 綏靖天皇の皇居。奈良県御所市森脇の辺という。
- 葛城の三諸
- 丸迩 わに 和邇・和珥・丸とも。奈良県天理市和迩町付近の古代以来の地名。
(日本史) - [磯城郡] しきぐん 奈良盆地中央部の低平地。ほぼ東境から北境を初瀬川(大和川上流)が流れ、中央の寺川、西の飛鳥川、西境の曾我川が曲折しつつ北流し、北端で大和川に注ぐ。東は天理市・桜井市、西は北葛城郡、南は橿原市、北は大和郡山市・生駒郡。
- [宇陀郡] うだぐん 奈良盆地の東南、宇陀山地の一帯を占め、東・東南は三重県、西は桜井市、南は吉野郡、北・北西は山辺郡。
- 北葛城郡 きたかつらぎぐん 奈良盆地中央西部に位置する。古代の広瀬郡・葛下郡(大和高田市を除く)
、忍海郡の一部。 - 宇陀 うだ 奈良県北東部の市。大和政権時代、菟田県・猛田県があった。人口3万7千。
- 宇陀の蘇邇 うだのそに 奈良県宇陀郡。東部曽爾村か。三重県に突出した部分で奥宇陀山地の中央部にあたる。
- [北葛城郡]
- 当麻 たいま 奈良県北葛城郡當麻町当麻付近の古代以来の地名。垂仁天皇の時代に当麻邑に当麻蹴速という勇士がいたと伝える。当麻曼荼羅のある当麻寺、式内社の当麻山口神社・当麻都比古神社がある。二上山東麓にあたり、奈良盆地を東西に走る横大路が二上山の南にある竹内峠をこえる道は、当麻道とよばれたらしい。また大和国葛下郡に当麻郷があった。
(日本史) - 二上山 ふたかみやま 奈良県葛城市と大阪府南河内郡太子町にまたがる山。雄岳(517m)と雌岳(474m)の2峰から成る。万葉集にも歌われ、大津皇子墓と伝えるものや葛城二上神社がある。にじょうさん。
- [山辺郡] やまべぐん 県東北端に位置する南北に細長い郡。
- 石の上の宮 いそのかみのみや → 石上の神宮か
- 石上の神宮 いそのかみの じんぐう 奈良県天理市布留町にある元官幣大社。祭神は布都御魂大神。二十二社の一つ。布留社。所蔵の七支刀が著名。
- [高市郡] たかいちぐん 奈良盆地の南部に位置し、南半は竜門山塊(多武峯・高取山)から派生する低丘陵と幅狭の谷からなり、北半はやや開けて、西端を曾我川、中央部を高取川、東部を飛鳥川が北流。東は桜井市、西は御所市、南は吉野郡、北は橿原市。
- 飛鳥 あすか 飛鳥・明日香。遠つ飛鳥。奈良盆地南部の一地方。畝傍山および香具山付近以南の飛鳥川流域の小盆地。推古天皇以後百余年間にわたって断続的に宮殿が造営された。
- 信貴山 しぎさん 奈良県北西部、生駒山地南部にある山。標高437m。山腹に信貴山寺、頂上に松永久秀の城址がある。
- [磯城郡]
- 倉椅山 くらはしやま 倉梯山。奈良県磯城郡の東方の山。現、桜井市。寺川流域の大字倉橋より上流にあたると考えられる。
- 伊波礼の若桜の宮 いわれの わかざくらのみや 磐余稚桜宮か。奈良県磯城郡。
- 磐余稚桜宮 いわれの わかざくらのみや 履中天皇の皇居。伝承地は奈良県桜井市池之内の辺。
- 磐余 いわれ 奈良県桜井市南西部、香具山東麓一帯の古地名。神武天皇伝説では、八十梟帥征討軍の集結地。
- [丹比郡]
- 多遅比野 たじひの 丹比野。丹比郡の地の南東から南にかけての郡境に丘陵がある、おおむね平坦な平野。
- 波邇賦坂 はにふさか/ハニウざか 大阪府南河内郡から大和に越える坂。
- 大坂の山口 おおさかのやまぐち → 大坂山
- 大坂山 おおさかやま 記の履中天皇段の墨江中王の反乱の記事に、天皇が難波から「大坂の山口」に至り、そこで道を変更して当麻を経て石上神宮に逃げたとあり、また、紀の天武天皇元年7月23日条には、壬申の乱に際して佐味君少麻呂が数百人を率いて「大坂」に駐屯し、同8年11月条に「初めて関を竜田山・大坂山に置く」などとみえている大坂山は、現、北葛城郡香芝町西部、穴虫峠付近一帯の丘陵をさすものと考えられる。穴虫峠は大和・河内を結ぶ重要な古代交通路の一つであり、また付近は石材の産地。当岐麻道 たぎまじ 当麻路。奈良県北葛城郡の当麻(古名タギマ)へ越える道で、二上山の南を通る。大坂は二上山の北を越える。
- 近つ飛鳥 ちかつ あすか 安宿郡の飛鳥のことか。
- 近飛鳥八釣宮 ちかつあすか やつりのみや 記紀にみえる顕宗天皇の宮。記では近飛鳥宮。宮号は允恭天皇の遠飛鳥宮と対になる。記履中段によれば、難波宮からの遠近により、河内の飛鳥を近飛鳥、大和の飛鳥を遠飛鳥と称したとするが、八釣の地名は大和の飛鳥にある。現在の奈良県明日香村八釣および橿原市下八釣町付近。
(日本史) - 遠つ飛鳥 とおつ あすか 大和の飛鳥のことか。
- 粟島 あわしま 淡島。(1) 日本神話で伊弉諾尊・伊弉冉尊が生んだという島。(2) 日本神話で少彦名神がそこから常世に渡ったという島。(3) 和歌山市にある淡島神社。祭神は少彦名神。各地に分祀。婦人病に霊験があるとされる。また神の名を針才天女とも伝え針供養が行われる。加太神社。淡島(粟島)明神。あわしまがみ。
- 淤能碁呂島 おのごろしま f馭慮島。日本神話で、伊弉諾・伊弉冉二尊が天の浮橋に立って、天瓊矛で滄海を探って引き上げた時、矛先からしたたり落ちる潮の凝って成った島。転じて、日本の国を指す。
- 檳榔の島 あじまさのしま 所在不明。アジマサは、檳榔樹。
- 佐気都島 さけつしま 所在不明。
- [淡路] あわじ 旧国名。今の兵庫県淡路島。淡州。
- 淡道島 あわじしま 淡路島。瀬戸内海東部にある同海最大の島。本州とは明石海峡・友ヶ島水道(紀淡海峡)で、四国とは鳴門海峡で隔てられる。1985年鳴門海峡に橋が完成。兵庫県に属する。面積592平方km。
- 由良の門 ゆらのと
〔歌枕〕(1) 紀淡海峡のこと。→由良。(2) 京都府舞鶴市の北西、由良川の河口。由良川の下流は勾配が緩く川底が深いため、福知山まで舟運の便があった。 - 由良 ゆら 兵庫県淡路島津名郡(今の洲本市)にある港町。淡路島の南東端にあって紀淡海峡(由良の門)に面する。
- 由良海峡
- 紀淡海峡 きたん かいきょう 紀伊と淡路、すなわち和歌山県の加太と兵庫県淡路島の由良との間にある海峡。北は大阪湾、南は紀伊水道に連なる。
- [紀伊] きい (キ(木)の長音的な発音に「紀伊」と当てたもの) 旧国名。大部分は今の和歌山県、一部は三重県に属する。紀州。紀国(きのくに)。
- 木の国 → 紀伊
- [吉備] きび 山陽地方の古代国名。大化改新後、備前・備中・備後・美作に分かつ。
- 児島郡 こじまのこおり 岡山県および備前国にかつて存在した郡。灘崎町が2005年3月22日に岡山市に編入合併され児島郡は消滅した。
- [肥前国]
- 杵島が岳 きしまがたけ → 杵島山
- 杵島山 きしまやま 杵島郡北方町・白石町・有明町・武雄市橘町にまたがり、南西の一部は藤津郡塩田町に接する南北に細長い丘陵。鳴瀬山・勇猛山・犬山岳などの数峰からなり、標高345mを最高とする。
- [日向] ひむか/ひゅうが (古くはヒムカ)旧国名。今の宮崎県。
- 諸県 むらがた/もろかた 諸県郡。古代律令期から明治初期まで日向国南西部一帯に存在した郡。諸県君の本拠地であったと考えられる。
- -----------------------------------
- 秦 しん (1) 中国古代、春秋戦国時代の大国。始祖非子の時、周の孝王に秦(甘粛)を与えられ、前771年、襄公の時、初めて諸侯に列せられ、秦王政(始皇帝)に至って六国を滅ぼして天下を統一(前221年)。中国史上最初の中央集権国家。3世16年で漢の高祖に滅ぼされた。
( 〜前206)(2) 中国、五胡十六国の西秦・前秦・後秦。(3) 中国陝西省の別称。
◇参照:
*人物一覧
(人名、および組織・団体名・神名)- 男浅津間の若子の宿祢の王 おあさづまの わくごのすくねのみこ → 允恭天皇
- 允恭天皇 いんぎょう てんのう 記紀に記された5世紀中頃の天皇。仁徳天皇の第4皇子。名は雄朝津間稚子宿祢。盟神探湯で姓氏の混乱を正したという。倭の五王のうち「済」に比定される。
- 意富本杼の王 おおおどのみこ 意富富杼の王。父は稚渟毛二派皇子(応神天皇の皇子)
、母は河派仲彦王の女・弟日売真若比売(百師木伊呂弁とも)で、同母妹の忍坂大中姫・衣通姫は允恭天皇に入内している。意富富杼王自身の詳しい事績は伝わらないが、 『古事記』には息長坂君(息長君・坂田君か) ・酒人君・三国君・筑紫米多君などの祖。 - 忍坂の大中津比売の命 おさかのおおなかつひめのみこと 意富本杼の王が妹。/若沼毛二俣の王の子。母は百師木伊呂弁。允恭天皇が皇子であったときに召されて妃となる。木梨軽皇子・大泊瀬稚武皇子(雄略天皇)ら九王を生んだ。
(神名) - 木梨の軽の王 きなしのかるのみこ 木梨軽皇子。第19代天皇であった允恭天皇の第一皇子、皇太子。母は皇后の忍坂大中津比売命。
『古事記』によれば、立太子するも、同母妹である軽大娘皇女と情を通じ(近親相姦) 、それが原因となって允恭天皇の崩御後に失脚、伊予の国へ流される。その後、あとを追ってきた軽大娘皇女と共に自害したと言われる(衣通姫伝説)。 『日本書紀』では、情を通じた後の允恭24年に軽大娘皇女が伊予へ流刑となり、允恭天皇が崩御した允恭42年に穴穂皇子によって討たれたとある。 - 長田の大郎女 ながたのおおいらつめ 名形大娘皇女(紀)。允恭天皇の皇女。母は忍坂之大中津比売命。また別人で、仁徳天皇の子の大日下王の妃で目弱王の母。後に安康天皇の皇后となる。紀では履中天皇の長田大娘皇女(中蒂姫命)にあたるが前者との関係は不明。履中天皇の皇女で、大日下王の妃中蒂姫のことであろうとある(記伝)。中蒂姫命参照(神名)
- 境の黒日子の王 さかいのくろひこのみこ 允恭天皇の皇子。母はオサカノオオナカツ姫の命。同母弟の大長谷の命に殺された。
(神名) - 穴穂の命 あなほのみこと → 安康天皇
- 安康天皇 あんこう てんのう 記紀に記された5世紀中頃の天皇。名は穴穂。允恭天皇の皇子。大草香皇子の王子眉輪王に暗殺された。倭の五王のうち「興」に比定される。
- 軽の大郎女 かるのおおいらつめ 別名、衣通の郎女。
- 衣通の郎女 そとおしのいらつめ → 衣通姫
- 衣通姫 そとおりひめ (美しい肌の色が衣を通して照り輝いたという) 日本書紀で允恭天皇の妃、弟姫のこと。姉の皇后忍坂大中姫の嫉みを受け、河内国茅渟に身を隠した。後世、和歌の浦の玉津島神社に祀る。和歌三神の一神。そとおしひめ。古事記では天皇の女の名とする。
- 八瓜の白日子の王 やつりのしろひこのみこ 八釣白彦皇子(紀)。允恭天皇の皇子。母はオサカノオオナカツ姫の命。同母弟の雄略天皇に殺された。
(神名) - 大長谷の命 おおはつせのみこと → 雄略天皇
- 雄略天皇 ゆうりゃく てんのう 記紀に記された5世紀後半の天皇。允恭天皇の第5皇子。名は大泊瀬幼武。対立する皇位継承候補を一掃して即位。478年中国へ遣使した倭王「武」、また辛亥(471年か)の銘のある埼玉県稲荷山古墳出土の鉄剣に見える「獲加多支鹵大王」に比定される。
- 橘の大郎女 たちばなのおおいらつめ 允恭天皇の皇女。母は忍坂之大中津日売命。事跡不詳。
(神名) - 酒見の郎女 さかみのいらつめ 允恭天皇の子。母は忍坂之大中津比売命。
(神名) - 新羅の国主 しらぎのこにきし
- 金波鎮漢紀武 こみはちに/こみぱちに/こむはちにかにきむ 允恭天皇が即位したとき、新良国主が御調八十一艘を献上し、その使者として来朝した人。薬の処方に詳しく天皇の病を治した。
(神名) - 軽部 かるべ 古代の部民。記、允恭段の伝承から、天皇の皇子木梨皇子の名代とする説が有力だが異論もある。律令時代には軽部・軽部造・軽部首を姓とする人々が実在し、軽部郷も和泉・下総・下野・但馬・備前・備中国に分布する。
(日本史) - 刑部 おさかべ 大化前代の部民。允恭天皇の皇后忍坂大中姫の名代とするのが通説。天武朝には刑部造もみえるが、律令時代には諸国の刑部姓の人々や刑部郷は膨大な数にのぼる。
(日本史) - 田井の中比売 たいのなかつひめ 応神天皇の子のワカノケフタマタの王とモモシキイロベとの間の子。允恭記にはその名代として河部が定められている。紀には不載。
(神名) - 河部 かわべ 古代の部民。允恭段の伝承には大后の妹、田井中比売の名代として定めたとある。しかし名代としては「田井」に通じるところがなく、原本からの誤写を疑う説もある。8世紀には少数ながら川人・川人部・川部を姓とする人々が実在する。
(日本史) - 大前の宿祢の大臣 おおまえのすくねのおおおみ
- 小前の宿祢の大臣 おまえのすくねのおおおみ
- 大前小前の宿祢 おおまえ おまえのすくね 物部麦入宿禰の子といわれる。允恭天皇に仕え大臣となる。軽皇子が大前小前宿祢大臣を頼って穴穂御子に対抗しようとしたが、大臣は皇子を捕らえて引き渡した。
(神名) - 物部氏 もののべうじ 古代の大豪族。姓は連。饒速日命の子孫と称し、天皇の親衛軍を率い、連姓諸氏の中では大伴氏と共に最有力となって、族長は代々大連に就任したが、6世紀半ば仏教受容に反対、大連の守屋は大臣の蘇我馬子および皇族らの連合軍と戦って敗死。律令時代には、一族の石上・榎井氏らが朝廷に復帰。
- -----------------------------------
- 坂本の臣 さかもとのおみ
- 根の臣 ねのおみ 坂本の臣たちの祖先。安康天皇が弟の大長谷の王(雄略天皇)のために根の臣を大日下の王のもとに遣わし、あなたの妹の若日下王を大長谷の王に婚わせたいと告げさせた。そこで大日下の王は妹の礼物として押木之玉縵をもたせたが、根の臣はそれを盗み、大日下の王を讒言し、大日下の王は怒った天皇に殺されてしまう。
(神名) - 大日下の王 おおくさかのみこ → 波多毘能大郎子
- 波多毘能大郎子 はたびのおおいらつこ 別名、大日下の王。大草香皇子(紀)。仁徳天皇の皇子。母は髪長比売。別名、波多毘能大郎子。名代として大日下部が設けられた。長田大郎女との間に目弱王を生む。安康天皇は皇弟大長谷若建命に、王の妹若日下王を嫁がせようとして、根臣を支社として派遣した。王は承諾し礼物として、蔵する珠玉・襟飾を献じたが、根臣はこれを押領し、王を天皇に讒言したため、天皇の怒りを買った王は殺され、妻の長田大郎女は天皇の皇后となった。
(神名) - 若日下の王 わかくさかのみこ 若日下部の命 → 波多毘の若郎女
- 波多毘の若郎女 はたびの わきいらつめ 別名、長目比売の命、若日下部の命。仁徳天皇の子。母は髪長比売。雄略天皇の妃となる。仁徳紀では幡梭皇女、雄略紀では草香幡梭皇女、あるいは橘姫皇女と表記する。子はなく、名代として仁徳朝に定められた若日下部がある。安康記には若日下王とある。
(神名) - 目弱の王 まよわのみこ 眉輪王(紀)。父は仁徳天皇の皇子大日下の王。母は履中天皇の皇女長田の大郎女。根の臣の讒謗により安康天皇は大日下の王を殺し、妻の長田の大郎女を奪い自分の皇后とする。真実を知った目弱の王は、天皇が眠っている間をうかがい殺して都夫良意富美の家へ逃げ込む。大長谷の王(雄略天皇)は都夫良意富美の家を包囲。都夫良は目弱の王を護り奮戦するが力つきて目弱の王を刺し自刃する。
(神名) - 都夫良意富美 つぶらおおみ 葛城の円の大臣(紀)。都夫良意美。円大臣。葛城円。意富美は大臣のこと。安康天皇を殺害した目弱の王をかくまって、大長谷の王(雄略天皇)に滅ぼされた。
(神名) - 葛城の円の大臣 → 都夫良意富美
- 白日子の王 しろひこのみこ → 八瓜の白日子の王
- 訶良比売 からひめ 都夫良意富美の娘。韓媛(紀)。雄略天皇との間に白髪命・若帯比売命を生む。
(神名) - 仁徳天皇 にんとく てんのう 記紀に記された5世紀前半の天皇。応神天皇の第4皇子。名は大鷦鷯。難波に都した最初の天皇。租税を3年間免除したなどの聖帝伝承がある。倭の五王のうちの「讃」または「珍」とする説がある。
- 若日下部の王 → ハタビの若郎女
- 中蒂姫 なかしひめ 中蒂姫命。履中天皇の皇女。またの名は長田大娘皇女。中磯皇女とも。はじめ仁徳天皇の子の大日下王に嫁ぎ目弱王を生んだ。その後安康天皇は根使王の讒言により大日下王を殺し、中蒂姫命を目弱王ともども宮中に入れ、更に皇后に立てて寵愛した。
(神名) - 市の辺の忍歯の王 いちのべのおしはのみこ 市辺押磐皇子。市辺は地名。山城国綴喜郡に市野辺村がある。履中天皇の皇子。皇位継承者として有力視されていたが、雄略天皇に近江の久多綿蚊屋野で殺された。風土記には市辺天皇命とある。
(神名) - 淡海の佐佐紀の山の君 おうみの ささきのやまのきみ → 佐々貴山公
- 佐々貴山公 ささきのやまのきみ 狭狭城山君。紀の雄略天皇即位前紀には「近江狭狭城山君韓」などとみえ、篠笥(ささき)郷を本拠とした豪族佐々貴氏は6〜7世紀には蒲生・神崎両郡にわたる国造クラスの大首長であったとみる説もある(八日市市史)。天平期(729-749)の神崎郡大領をはじめ、采女をも出す名族で、当郡の郡司として頻出する。近江源氏佐々木氏をその後裔とみる説も強い。
(地名) - 韓 からふくろ 近江の佐々紀山君の祖先。韓が「淡海の久多綿の蚊屋野に猪鹿がたくさんいる」といったことにより、大長谷の王と市の辺の忍歯の王は蚊屋野に行き、市の辺の忍歯の王が殺される。
(神名) - 意祁の王 おけのみこ → 仁賢天皇
- 袁祁の王 おけのみこ → 顕宗天皇
- 仁賢天皇 にんけん てんのう 記紀に記された5世紀末の天皇。磐坂市辺押磐皇子の第1王子。名は億計。父が雄略天皇に殺された時、弟(顕宗天皇)とともに播磨に逃れた。のちに清寧天皇の皇太子となり、弟に次いで即位したという。
- 顕宗天皇 けんぞう てんのう 記紀に記された5世紀末の天皇。履中天皇の皇孫。磐坂市辺押磐皇子の第2王子。名は弘計。父が雄略天皇に殺された時、兄(仁賢天皇)と共に播磨に逃れたが、後に発見されて即位したという。
- 山代の豕甘 やましろの いかい 山代之猪甘。猪甘老人ともいう。父の市辺之押歯王が殺されたのを聞いた意富祁王(仁賢天皇)
、袁祁王(顕宗天皇)が山代の苅羽井まで逃げてきた時、顔に入墨をした老が粮(みかれい=乾かして固くした携行用の飯)を盗んだ。そこで二人の王はお前は誰だと聞くと、山代の猪甘と答えた。後にその罪により飛鳥河の河原で斬られ、一族はひざの筋を断たれた。 (神名) - 志自牟 しじむ 播磨国の豪族。父の市の辺の忍歯の王を殺された意祁の王・袁祁の王が、志自牟の家に馬甘・牛甘として隠れ住んだ。二皇子は志自牟の家の新室楽のとき、訪れた山部連小楯に見出される。紀で該当するのは縮見屯倉首忍海部造細目。播磨風土記では志深村首伊等尾。
(神名) - 履中天皇 りちゅう てんのう 記紀に記された5世紀中頃の天皇。仁徳天皇の第1皇子。名は大兄去来穂別。
- -----------------------------------
- 大長谷の若建の命 おおはつせの わかたけのみこと → 雄略天皇
- 白髪の命 しらがのみこと → 清寧天皇
- 清寧天皇 せいねい てんのう 記紀に記された5世紀末の天皇。雄略天皇の第3皇子。名は白髪、諡は武広国押稚日本根子。
- 若帯比売の命 わかたらしのみこと 稚足姫皇女。別名、栲幡姫皇女(紀)。雄略天皇の子。母は韓比売。紀に伊勢大神に侍したとある。讒言にあい、神鏡を持ち出し五十鈴川のほとりで自殺した。
(神名) - 白髪部 しらがべ/しらかべ 白髪命(清寧天皇)の名代か。記の伝承では天皇が御名代として定めたとする。紀には白髪部舎人・白髪部膳夫・白髪部靫負をおいたと記し、継体紀元年2月条ではこれらを三種の白髪部とよぶ。白髪部姓は多数実在したが、785年(延暦4)白壁王(光仁天皇)の諱をさけて真髪部と改姓された。
(日本史) - 長谷部の舎人 はつせべの とねり → 泊瀬部
- 泊瀬部 はつせべ 長谷部とも。古代の部民。大長谷若建(雄略天皇、紀では大泊瀬幼武)の名代とするのが通説。記雄略段の伝承に長谷部舎人を定めたとある。8世紀には長谷部を姓とする人々が伊勢・尾張・三河・信濃・下総国など東日本に実在し、中央には長谷部公の氏姓を有し、従五位下に達した女官もある。
- 忍坂の大中津比売の命 おさかのおおなかつひめのみこと 意富本杼の王が妹。/若沼毛二俣の王の子。母は百師木伊呂弁。允恭天皇が皇子であったときに召されて妃となる。木梨軽皇子・大泊瀬稚武皇子(雄略天皇)ら九王を生んだ。