喜田貞吉 きた さだきち
1871-1939(明治4.5.24-昭和14.7.3)
歴史学者。徳島県出身。東大卒。文部省に入る。日本歴史地理学会をおこし、雑誌「歴史地理」を刊行。法隆寺再建論を主張。南北両朝並立論を議会で問題にされ休職。のち京大教授。


恩地孝四郎 おんち こうしろう
1891-1955(明治24.7.2-昭和30.6.3)
版画家。東京生れ。日本の抽象木版画の先駆けで、創作版画運動に尽力。装丁美術家としても著名。

小村雪岱 こむら せったい
1887-1940(明治20.3.22-昭和15.10.17)
日本画家、挿絵画家。本名、安並泰輔。埼玉県川越生まれ。時代風俗の考証に通じ、のち舞台装置家、新聞雑誌の挿絵画家として活躍、その繊細で鮮烈な描線のかもし出すエロチシズムで、広くファンを熱狂させた。挿絵は泉鏡花作『日本橋』、邦枝完二作『お伝地獄』など。(人名)

◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)『日本人名大事典』(平凡社)。
◇表紙絵・恩地孝四郎。挿絵・小村雪岱。



もくじ 
日本歴史物語〈上〉(四)喜田貞吉


ミルクティー*現代表記版
日本歴史物語〈上〉(四)
  三十一、奈良の都(上)
  三十二、奈良の都(下)
  三十三、奈良朝仏教の隆盛(上)
  三十四、奈良朝仏教の隆盛(下)
  三十五、奈良時代の行きづまり
  三十六、平安遷都
  三十七、藤原氏の全盛(一)
  三十八、藤原氏の全盛(二)
  三十九、藤原氏の全盛(三)
  四十、藤原氏の全盛(四)

オリジナル版
日本歴史物語〈上〉(四)

地名年表人物一覧書籍
難字、求めよ
後記次週予告

※ 製作環境
 ・Macintosh iBook、Mac OS 9.2.2、T-Time 2.3.1
 ・ ポメラ DM100、ソーラーパネル GOAL ZERO NOMAD 7(ガイド10プラス)
※ 週刊ミルクティー*は、JIS X 0213 文字を使用しています。
※ この作品は青空文庫にて入力中です。著作権保護期間を経過したパブリック・ドメイン作品につき、引用・印刷および転載・翻訳・翻案・朗読などの二次利用は自由です。
(c) Copyright this work is public domain.

*凡例〔現代表記版〕
  • ( ):小書き。〈 〉:割り注。
  • 〔 〕:編者もしくは、しだによる注。
  • 一、漢字、かなづかい、漢字の送りは現代表記に改めました。
  •    例、云う → いう / 言う
  •      処  → ところ / 所
  •      有つ → 持つ
  •      這入る → 入る
  •      円く → 丸く
  •      室  → 部屋
  • 一、同音異義の一部のひらがなを、便宜、漢字に改めました。
  •    例、いって → 行って / 言って
  •      きいた → 聞いた / 効いた
  • 一、若干の句読点を改めました。適宜、ルビや中黒や感嘆・疑問符をおぎないました。一部、改行と行頭の字下げを改めました。
  • 一、漢数字の表記を一部、改めました。
  •    例、七百二戸 → 七〇二戸
  •    例、二萬六千十一 → 二万六〇一一
  • 一、ひらがなに傍点は、一部カタカナに改めました。
  • 一、カタカナ漢字混用文は、ひらがな漢字混用文に改めました。
  • 一、和暦にはカッコ書きで西暦をおぎないました。年次のみのばあいは単純な置き換えにとどめ、月日のわかるばあいには陰暦・陽暦の補正をおこないました。
  • 一、和歌・俳句・短歌は五七五(七七)の音節ごとに半角スペースで句切りました。
  • 一、表や図版キャプションなどの組版は、便宜、改めました。
  • 一、書名・雑誌名は『 』、論文名・記事名および会話文は「 」で示しました。
  • 一、「今から○○年前」のような経過年数の表記や、郡域・国域など地域の帰属、団体法人名・企業名などは、底本当時のままにしました。
  • 一、差別的表現・好ましくない表現はそのままとしました。

*尺貫・度量衡の一覧
  • 寸 すん  一寸=約3cm。
  • 尺 しゃく 一尺=約30cm。
  • 丈 じょう (1) 一丈=約3m。尺の10倍。(2) 周尺で、約1.7m。成人男子の身長。
  • 歩 ぶ (1) 左右の足を一度ずつ前に出した長さ。6尺。(2) 土地面積の単位。一歩は普通、曲尺6尺平方で、一坪に同じ。
  • 間 けん  一間=約1.8m。6尺。
  • 町 ちょう (1) 一町=10段(約100アール=1ヘクタール)。令制では3600歩、太閤検地以後は3000歩。(2) (「丁」とも書く) 一町=約109m強。60間。
  • 里 り   一里=約4km(36町)。昔は300歩、今の6町。
  • 合 ごう  一合=約180立方cm。
  • 升 しょう 一升=約1.8リットル。
  • 斗 と   一斗=約18リットル。
  • 海里・浬 かいり 一海里=1852m。
  • 尋 ひろ (1) (「広(ひろ)」の意)両手を左右にひろげた時の両手先の間の距離。(2) 縄・水深などをはかる長さの単位。一尋は5尺(1.5m)または6尺(1.8m)で、漁業・釣りでは1.5mとしている。
  • 坪 つぼ 一坪=約3.3平方m。歩(ぶ)。6尺四方。
  • 丈六 じょうろく 一丈六尺=4.85m。



*底本

底本:『日本歴史物語(上)No.1』復刻版 日本兒童文庫、名著普及会
   1981(昭和56)年6月20日発行
親本:『日本歴史物語(上)』日本兒童文庫、アルス
   1928(昭和3)年4月5日発行
http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person1344.html

NDC 分類:210(日本史)
http://yozora.kazumi386.org/2/1/ndc210.html





日本歴史物語〈上〉(四)

喜田貞吉さだきち

   三十一、奈良のみやこ(上)


 孝徳こうとく天皇は難波なにわ新都しんとにおいて、大化の新政をおこなわせられましたが、やはり旧都きゅうとのほうの力が強く、まもなくみやこ飛鳥あすかへもどり、中大兄なかのおおえの皇子おうじ〔のちの天智天皇〕が、斎明さいめい天皇をほうじて、ここで政治をおりになりましたことはすでに述べましたが、斎明天皇が九州でおかくれになりまして後も、皇太子はまだ御位みくらいにはつかれませず、六年間も皇太子のままで、この都におられました。これにはよくよく深いわけのあったこととさっせられます。
 この間にいよいよ百済くだらほろび、太子はわが軍を朝鮮からお引きあげになりましたが、とう新羅しらぎとは和睦わぼくができまして、これから後もひきつづき交通はえませんでした。しかしなにぶんにも、これらの強い国が西にひかえておりまして、いつどんな事件がおこらぬともわかりませんので、所々ところどころ要害ようがいの地に城をきずき、それにおそなえになりました。かくて皇太子は、斉明天皇おかくれののち六年目に近江おうみ大津宮おおつのみやにおうつりになりまして、翌年ここではじめて天皇の御位みくらいにおつきになりました。これを第三十八代天智てんち天皇と申し上げます。大津宮は今の大津市よりは北のほうにありました。
 天皇が飛鳥から近江におうつりになりましたのは、大化に難波へおうつりになりましたのと同じ意味で、飛鳥では、やはりむかしからのいろいろの関係があって、ご理想どおりの新しい政治をなさるには邪魔じゃまが多かったためでありましょう。ここで天皇はいろいろ新しい法令をおさだめになりました。この法令は、のちに第四十二代文武もんむ天皇の大宝たいほう元年にいたって修正されました。世にこれを「大宝だいほう律令りつりょう」と申し、これから後、長く日本の政治のもととなりました。大化の新政は、ここにいたって、いよいよできあがったと申してよいのであります。
 しかしこの大津の都は、都遷みやこうつしのときからあまり評判がおよろしくなく、やはり飛鳥の旧都を望むもののほうが勢力が多かったとみえまして、天智天皇のおかくれになりましたのち、まもなく都はたび飛鳥へもどりました。そして天皇の御弟おんおとうと大海人おおあまの皇子おうじが、そこで御位みくらいにつかれました。これを第四十代天武てんむ天皇と申し上げます。
 天武天皇のご即位そくいにつきましては、飛鳥の漢人あやびとらが、たいそうご尽力じんりょく申したのでありました。それでその地がまた都となりましたのは、当然のことであります。しかし天皇も、いよいよ飛鳥へおちつきになってみれば、やはりいろいろの邪魔じゃまがあって、御心みこころのままのご政治をなさることがお出来できにならなかったとみえまして、ご一代いちだいの間、たびたび方々ほうぼう都遷みやこうつしのご計画をなさいました。そのご計画がいつもいつもご中止になり、ご実行ができなかったのは、やはり飛鳥の勢力があいかわらず強かったためでありましょう。最後には飛鳥の近所で、新しいみやをおつくりになろうとなさいましたが、それもご実行にならぬうちに天皇はおかくれになりました。実際、飛鳥の漢人あやびとらは日本文化の上にはたいそうこうが多かったのではありますが、あまり勢力がさかんになりましたので、ずいぶん悪いことをも遠慮えんりょなくするようになりまして、あの蘇我氏そがしのわがままを助けたごときも、やはりその一つでありますが、皇室におかせられても実際、この漢人あやびとの勢力にはかなりおこまりになったのでした。
 天武天皇おかくれになって、皇后こうごう御位みくらいにつかれました。第四十一代持統じとう天皇であらせられます。先帝せんてい御志こころざしをついで、飛鳥の近所の藤原宮ふじわらのみや〔藤原京〕におうつりになりました。大化の難波の都は、シナのとうの都の長安ちょうあんのつくり方にならって、東西と南北と縦横たてよこ十文字に道が通って、碁盤目ごばんめのようになって、立派な都市計画によってできたのでした。しかしそれはまもなくやめになり、もとの飛鳥がふたたび都となったのでありましたが、このたびの藤原の都は、同じ飛鳥の近所とはもうせ、町割まちわりなどまでシナの都のふうに立派にできあがったのです。そしてつぎの文武もんむ天皇もまたこの宮においでになりまして、あの「大宝だいほう律令りつりょう」は、ここでできたのでありました。それで都の様子も、その「大宝令だいほうりょう」の中に書いてありますが、それによると、だいたい次に述べる奈良の都のようなものでした。
 かく藤原宮は、いったん立派にできあがりましたけれども、飛鳥の近所では、やはり都合がおわるかったとみえまして、ご遷都せんと以来二十年ばかりで、文武天皇はまた都遷みやこうつしのご計画をなさいました。そのうちに天皇はおかくれになり、つぎの第四十三代元明げんみょう天皇の御代みよのはじめに、いよいよご実行になりました。これが有名な奈良の都です。

   三十二、奈良のみやこ(下)


 奈良の都〔平城京〕は今の奈良市の西にありました。今の奈良市は、都の東にいくつもの大きな寺ができて、町が自然そのほうへ広がり、のちに都がやめになっても、その寺の勢力がさかんであったために、ここばかりはおとろえずに残ったものなのです。
 奈良の都は、だいたい藤原の都〔藤原京〕の作り方によって、さらにそれを大きくしたものでした。もとは東西約四十ちょう〔約4.4km〕、南北約四十五町〔約4.9km〕の長方形のもので、その北のはしの中央に約十町〔約1.1km〕四方の宮城きゅうじょう、すなわち大内裏だいだいりがあり、宮城の南大門なんだいもん朱雀門すざかもんで、その門からまっすぐに南に通ずる朱雀すざか大路おおじによって、都は左京さきょう右京うきょうとにわかれ、その左右両京ともに、おのおの東西に通ずる八筋やすじの大路で九条くじょうにわかれ、その各条は南北に通ずる三筋みすじの大路で四坊しぼうずつにわかれ、その各坊は、さらに東西南北に通ずる三筋ずつの小路こうじで十六のちょう碁盤目ごばんめのようにわかれています。のちにその東に元興寺げんこうじ〔がんごうじ〕東大寺とうだいじ興福寺こうふくじのような大きな寺ができ、西北のすみにも西大寺さいだいじができまして、都は東と西北とに広がりましたが、その東のほうに広がったのが今に残って奈良市となっているのです。



 その大路ははば八丈はちじょう〔約24m〕で、小路の幅は四丈ずつ、各町かくちょうの広さは四十丈四方で、都のすたれたのち、一一〇〇余年よねんをへた今日こんにちでも、そのあとは田地でんち畦道あぜみちなどに残っております。今の奈良市はその都の延長ですから、その一町いっちょうは、ふつうの一町よりもだいぶ長くのびているのです。
 奈良の都のころは、唐との交通もしげくなりまして、都のり方も、右のように唐の長安の都を真似まねしたほどでありましたから、衣服・その他の風俗にも、だんだん唐のふうがおこなわれるようになりました。宮城の内には、天皇ごふだんの御居所おんいどころたる内裏が朱雀門すざかもんの正面にあり、その東に国家の正庁せいちょうたる大極殿だいごくでんをはじめとして多くの建て物のならんでいる朝堂院ちょうどういんがありました。その朝堂院のいろいろの建て物のあとは、今もだいたいもとのままに残っておって、近ごろ史跡として保存されております。
 むかしの天皇の宮殿は、伊勢の皇太神宮こうたいじんぐう〔皇大神宮〕や、出雲の大社おおやしろで見るような神社風じんじゃふうの建築でしたが、奈良の都の宮殿は唐のふう瓦葺かわらぶきで、だいたい今の京都市の平安神宮じんぐうを見るようなものでありました。その宮殿の一つは、今も奈良の都あとにある唐招提寺とうしょうだいじ講堂こうどうとなって、ほぼむかしの形のままに残っております。都の内外には立派な寺がたくさんできます。貴族や官吏かんりの服装なども唐のふうになります。市街にある住宅までもだんだん瓦葺かわらぶきになり、白壁しらかべをぬり、柱を赤くめるようにとご奨励しょうれいになったほどですから、万事ばんじがはなばなしく、はでやかになりました。そのころの人の歌に、

青丹あおによし、奈良のみやこく花の
  におうがごとく 今さかりなり

と、ありますのは、そのはなやかな都のありさまを歌ったのです。

   三十三、奈良朝ならちょう仏教の隆盛りゅうせい(上)


 元明げんみょう天皇が奈良に都をおうつしになりましてから、元正げんしょう聖武しょうむ孝謙こうけん淳仁じゅんにん称徳しょうとく光仁こうにんのご六代をて、第五十代の桓武かんむ天皇の御代みよのはじめに山城やましろにおうつりなさいますまで七十六年の間に、一時いちじほかへおうつりになったこともありますけれども、まもなくもとへおもどりになり、ここに特別のはなやかな時代がおこりました。これを「奈良朝ならちょう時代」と申します。
 奈良朝時代の文化の遺物いぶつとして、いちばん目立めだってのちの世に残っておりますのは、たくさんの名高なだかい寺や、仏教に関係した美術品です。
 仏教は、欽明きんめい天皇の御代にわが国に伝わりましてからこのかた、はじめのうちは強い反対者もありましたけれども、物部氏もののべしほろびてからは、もはや邪魔じゃまをするものもなく、だんだんとさかんになりまして、つぎからつぎへと広まりました。
 はじめのころはどうしても、都の土地であり、また漢人あやびとの根拠地として、わがくに文化の発源地はつげんちであるところの飛鳥地方が仏教の中心となり、法興寺ほうこうじ〔飛鳥寺〕元興寺がんこうじ橘寺たちばなでらなどをはじめとして、いくつもの大きな寺ができました。けれども、聖徳太子はさすがにお考えが大きくいらっしゃいまして、ひとりこの地方ばかりでなく、摂津せっつの難波には四天王寺してんのうじを、また同じ大和のうちでも飛鳥とは遠く離れて、のちの奈良の都に近い斑鳩いかるがというところには法隆寺ほうりゅうじをそれぞれおてになりますし、またのちに平安京へいあんきょうとなった山城の北部には、その地方の大地主のはたの川勝かわかつ〔秦河勝〕に命じて、広隆寺こうりゅうじをお建てになりました。のちに孝徳こうとく天皇は、四天王寺の近所に難波の都をおつくりになる、元明げんみょう天皇の御代には、法隆寺の近所に奈良の都ができる、桓武天皇は広隆寺のある所に平安京をおつくりになるというふうに、それぞれその近所に都ができたのは偶然のこととは申しながら、太子が将来さかんになるべき土地をお選びになったわけで、太子がお生まれつきご聡明そうめいにおわし、よく未来のことを知っておられたといわれておりますのも、もっともだと申さねばなりません。遠く離れた信濃しなの善光寺ぜんこうじのごときも、やはり太子のころに難波から仏像を移して、ここにできた寺だといわれております。
 中にも法隆寺は、もと太子のおみやのあったところにできた寺で、天智てんち天皇の御代にいったん焼けましたけれども、まもなく再建さいこんせられますし、その近所には、太子のおかくれののちにご遺族のかたがたがお建てになった法起寺ほうきじ法輪寺ほうりんじがありまして、これらの寺々には、古い時代の建て物が今に残っているのであります。これはひとりわが国でのいちばん古い建て物というばかりではなく、世界じゅうでのいちばん古い木造建築物として、ほこるべきものであります。
 太子がおかくれになりましても、太子のお植えつけになったなえはだんだんと成長しまして、仏教はますますさかんになりました。はじめ仏教の伝わってきたときに、もっとも熱心であった蘇我氏そがしのほうからは、かえって聖徳太子のご遺族を、ことごとくほろぼしてしまうという入鹿いるかのような者も出ましたが、その反対に、仏教排斥はいせき祭神さいじんの家たる中臣氏なかとみしのほうから出た鎌足かまたりまでが、おおいに仏教を信仰しまして、大化の新政には、たいそうこれをご奨励しょうれいになるといういきおいとなりました。


 
 鎌足かまたり蘇我そがの入鹿いるかほろぼさんがために、一丈いちじょう六尺ろくしゃく〔4.85m〕釈迦しゃか如来にょらいの像を作ってこれをいのり、のちに自分の家を寺としたほどであります。これがのちの興福寺こうふくじです。その後天武天皇は、舒明じょめい天皇がおはじめになって容易にできあがらなかった大安寺だいあんじを、飛鳥の近所に立派にお建てになりました。天皇はまた、皇后こうごうのご病気ご平癒へいのために、これも飛鳥の近所で薬師寺やくしじをおはじめになりました。そのほかにもたくさん大きな寺ができましたが、都が奈良にうつりましたのちに、元興寺がんこうじ・興福寺・大安寺・薬師寺などの大寺おおてらをはじめとして多くの寺々は、だんだんとこの新都しんとにうつりました。この元興寺・興福寺・大安寺・薬師寺は、のちに奈良で聖武天皇のお建てになった東大寺と、孝謙こうけん天皇のお建てになった西大寺さいだいじと、前から近所にあった法隆寺とをあわせて、「奈良の七大寺しちだいじ」と申します。

   三十四、奈良朝ならちょう仏教の隆盛りゅうせい(下)


 このころの仏教の信仰は、おもにほとけいのってこの世の幸福を求め、わざわいをけたいということでありました。法隆寺の仏像のうしろにりつけてある願文がんもんを見ましても、聖徳太子のご病気がおなおりになって長生ながいきをなさいますように、万一それがかないませぬなら、おかくれののち浄土じょうどにお生まれあそばすようにといのってあるのであります。ご代々だいだいの天皇がこれをご信仰なさるにも、仏の功徳くどくによって、天下は太平に、国家は安全に、人民は幸福にとお祈りなさるのでありました。そこで天武天皇は、ただに寺を建て仏像を作るというばかりでなく、国々にご命令なされて、今でいえば府庁ふちょう・県庁ともいうべき、そのころの国府こくふで、国家をまもる功徳のある経文きょうもんを読ましめられ、また家々に仏をまつらしめられました。これで仏教は、わが国の国教こっきょうともいうべきものとなったわけです。つぎに持統じとう天皇は、蝦夷えぞ隼人はやとの国にまで仏教をおひろめになりまして、前に推古天皇の御代みよにはわずかに四十六であったお寺の数が、この御代には五四五というたくさんなものになりました。
 第四十五代聖武しょうむ天皇は、ことに仏教ご信仰でありまして、国府ごとにおきょうそなえるばかりでなく、仏像を作り、とうを建てさせられました。
 大昔には祭政さいせい一致いっちと申して、神をまつることと政治すなわち「まつりごと」とが一つでありましたが、今は仏をまつることが国家の政治の一部となったのです。
 かくて天皇は、ついに国家の費用で国ごとに国分寺こくぶんじという二つの寺をお建てになりました。一つは僧寺そうじで、つねに二十人の僧がおり、一つは尼寺にじでつねに十人のあまがおり、国家の安全、人民の幸福をいのっております。
 今も国々に、よく国分寺という寺が残っておりますが、今は寺がなくても国分こくぶなどという地名のあるのは、もとこの寺のあったところです。また特に大和の国分寺として、非常におおがかりな東大寺をお建てになりました。本堂の高さ十六じょう〔約48m〕というのですから、世界一の大きな木造建築物で、その中には五丈ごじょう三尺さんじゃく〔約15.9m〕の大仏の銅像があります。この寺は、その後二度も焼けまして、今の建て物はだいぶ小さくなっておりますけれども、奈良へ行けばまず第一番に東の山のふもとに大きな屋根があるのが目につきます。その中の大仏は、火事にいたんでいくらかおぎなってはありますが、だいたいに昔のままで残っております。この東大寺の国分こくぶん僧寺そうじたるに対して、聖武天皇の皇后におわす光明こうみょう皇后は、法華寺ほっけじ尼寺あまでらとしてお建てになりました。光明皇后のことはのちに申しましょう。
 聖武天皇の皇女こうじょ御位みくらいにつかれまして、第四十六代孝謙こうけん天皇と申し上げます。天皇はいったん御位を第四十七代淳仁じゅんにん天皇におゆずりになりましたが、のちふたたび第四十八代称徳しょうとく天皇となられました。この天皇は、またたいそう仏教ご信仰で、御父おんちち天皇の東大寺に対して、西大寺さいだいじをお建てになりました。このほかにも、聖武天皇からこの称徳天皇までの間にできました寺や仏像はじつにおびただしいもので、建築・彫刻・絵画の美術もこれがためにおおいに進歩し、奈良の都のはなやかなのは、おもに仏教のためであったと申してよいくらいでした。このころ東大寺の大仏にご寄付きふになりましたたくさんの品物は、今もそのままに皇室の御物ぎょぶつとして、東大寺の正倉院しょうそういんというおくらに残っております。毎年お風通かぜとおしのときには、しかるべき人たちに拝観はいかんをおゆるしになることとなっておりますが、そのご立派なことには、拝観しただれもがおどろかぬものはありません。こんなに古い、こんなに立派なものが、こんなにたくさんに、一所ひとところにそのまま残っているということは、まったく世界じゅうほかに例のないところで、じつにわが国のほこりとすべきものであります。


 
 仏教のさかんになるとともに、立派な僧侶もたくさん出てまいりました。なかにも行基ぎょうきのごときはもっとも名高なだかいもので、その行くところ、多くの信者が雲のように集まるというほどでありました。行基はそれらの信者を使って道を開き、橋をかけ、ふなつきの場所をさだめたりして交通の便利をはかり、また池を作って耕作こうさくをすすめるなど、多くの社会奉仕ほうしの事業をおこないました。また光明皇后は、病人に薬をあたえる施薬院せやくいんや、孤児みなしごを世話する悲田院ひでんいんなどをおはじめになりましたが、このように多くの慈善じぜん事業も、仏教のさかんになるとともにおこってまいりました。
 しかし僧侶の中には、道鏡どうきょうのようなふらちなものも出てくれば、寄付をんがために寺をつくるというような、横着おうちゃくなものも出てきます。ことに東大寺をはじめとして、多くの寺を建てたり仏像を作ったり、そのほか仏事ぶつじのためについやした費用がはなはだ多くかかったので、国はだんだん貧乏びんぼうしてまいりましたのも、またやむをぬことでした。

   三十五、奈良時代の行きづまり


 称徳しょうとく天皇は、かねて仏教をご信仰のあまり、もと世間で評判ひょうばんのよかった道鏡どうきょうをひどくご信用になりました。この僧はもと河内かわち弓削氏ゆげうじの人で、よくインド語ができるというほどの学者でもあり、ことに葛城山かつらきやまにこもって、熱心に仏道ぶつどうを修行したという評判の人でしたから、仏教にご熱心の天皇がご信用なさったにご無理もありません。ところで弓削氏ゆげうじは、物部もののべ守屋もりやのちをうけた家でありますから、道鏡は僧侶の身でありながらも、どうかして先祖のような身分になりたいと、ひそかに大きな野心やしんをいだいていたのです。そこで上手に天皇にお取り入り申し上げて、ついに目的どおりの大臣だいじんくらいにのぼり、おしまいには法王の位をまでさずけられて、天皇にじゅんずるほどのご待遇たいぐうを受けるほどの身分になりました。これはじつに非常なことでありますが、これも天皇が仏法ぶっぽうご信仰のあまり、一時いちじついおがくらまれたのでありました。かくて道鏡は、調子に乗ってしきりにわがままな政治をおこないます。奈良時代はだんだん行きつまってまいりました。しかしそのいきおいがたいそう強いものですから、だれもそれをどうすることもできませんでした。たまたま宇佐うさ八幡はちまん大神だいじんのおつげだということで、「道鏡を天皇のくらいにおつけになりますれば、天下は太平になりましょう」と申し上げたものがありました。それを聞いた道鏡はますます調子づいて、とうとう自身じしん天皇になろうという、とんでもない大野心だいやしんをおこすようになりました。
 いかに天皇のご信用があつくとも、いかに神のおつげだというものがあったとも、臣下しんかの身として天皇になろうなどという大野心をおこすとは、わが万世ばんせい一系いっけい国体こくたいの国においてあるべからざることであります。いうまでもなくこれは和気わけの清麻呂きよまろらの精忠せいちゅうによって失敗に終わりましたけれども、こんな問題がおこったともうすにも、やはりわが国体の上からいくぶんのわけがないでもありません。
 もともと道鏡は、その身分をたずねましたならば天智てんち天皇の御孫おんまごにあたる人で、はやく弓削氏の家をついでいたのでありました。さればもとは皇族に深い縁故えんこがあったはずであります。しかし、仮にもと皇族であったとしましても、すでに弓削氏の人となっておれば、もちろん臣下の身でありまして、天皇の御位みくらいにつくなどという資格はありません。
 それを望んだ道鏡が、ふらち千万せんばんであることは申すまでもありませんが、しかしもと道鏡が皇族であったというがために、天皇も仏法ご信仰のあまり、ついそのご信用のあついままに、法王という皇族類似るいじくらいをおさずけになったり、道鏡を天皇の御位につけたらばなど言い出すものも出てきたり、道鏡自身もだいそれた野心をおこすようになったのでありましょう。


 
 むかし平群へぐりの真鳥まとりというものが、天皇になろうという大野心をおこしたことがありました。またのちにはたいらの将門まさかど東国とうごくによって独立をはかり、天子気取きどりになったこともありました。もちろん、いずれも目的を達するはずはなく、みな殺されてしまいましたが、しかし真鳥は、孝元こうげん天皇の曾孫ひまご武内たけうちの宿祢すくねの孫であり、将門まさかどは桓武天皇の御孫おまご高見王たかみおうの曾孫でありました。ともに皇族であるので、いきおいにまかせては、ついそんな不埒ふらち千万せんばんな大野心をもおこしてみたのでありました。道鏡もまたそのとおりで、もと皇族であったということから、ついそんなまちがった考えをもおこしてみましたのです。わが万世ばんせい一系いっけいの大日本帝国において、いかにいきおいがつよくとも、はじめから皇室に少しも因縁いんねんのないものが天皇になろうなどということを考えてみたもののかつてないことは、じつにわが国体のとうといところであります。
 称徳天皇おかくれののち、第四十九代光仁こうにん天皇が御位みくらいをつがれました。天皇は天智天皇の御孫おまごであらせられます。天皇のご即位とともに、道鏡は下野しもつけいやられて、まもなくそこで死にました。この道鏡の排斥はいせきについては、もちろん和気わけの清麻呂きよまろが道鏡の勢いにおそれず、一身いっしんのことをもかえりみずして正しい道理をおしとおしたためでありますが、そのかげで藤原ふじわらの百川ももかわがこれを助けておったことを忘れてはなりません。百川は藤原鎌足かまたりの子の、不比等ふびとの孫で、宇合うまかいの子であります。藤原氏は中臣なかとみ鎌足がはじめた家です。

   三十六、平安へいあん遷都せんと


 道鏡が排斥はいせきせられては、しぜん世の中の様子が変わってこねばなりません。この光仁こうにん天皇の御代みよのころは、く花のにおうがごとく」といわれた奈良の都の時代も、じつはほとんど行きづまりのありさまとなっておりました。万事ばんじがあまりにはなやかであったのと、ことに仏法ぶっぽうをあまりにご奨励しょうれいになったのとのために、国のとみはだんだんってくる。そのうえに道鏡のわがままのために、よほど政治もみだれてまいりまして、いつかは大きな立てなおしをせねばならぬようになっていたのであります。そこで光仁天皇のご一代は、もっぱらその整理におつとめになりましたが、第五十代桓武かんむ天皇の御代みよのはじめ、延暦えんりゃく三年(七八四)という年に、藤原百川ももかわおい種継たねつぐのおすすめによって、急に山城やましろ長岡ながおかへ都をおうつしになることになりました。長岡は今の京都市の西南、向日町むこうまち停車場のあるあたりです。
 桓武天皇は光仁天皇の御子みこであらせられます。光仁天皇のご即位についても、また桓武天皇のご即位についても、百川ももかわがもっぱらご尽力じんりょく申し上げたのでありましたから、天皇はたいそう百川をおもんじておられましたが、百川は不幸にして早く死にまして、おい種継たねつぐがかわって、たいそう天皇のご信任を受けることになりました。この種継の母は、当時の富豪はたの朝元あさもとの娘であります。そんな関係で、種継は秦氏はたうじの助けを得まして、この財政の行きつまりのさいにも急に遷都せんとができたのです。種継はこの新しい都で、おおいに自分のうでをふるおうとしたのでありましょう。しかるにまもなく種継は、反対者のために暗殺せられました。そこでせっかくおうつしになったこの長岡の新都しんとも、十年かかってもついにできあがりにならぬうちにやめになり、延暦十三年(七九四)に、さらに和気わけの清麻呂きよまろのおすすめにより、急に今の京都市のところにご遷都になりました。これを平安京へいあんきょうと申します。ここは聖徳太子の御頃おんころに、このあたりの大地主はたの川勝かわかつが広隆寺を建てましたところで、その子孫がひきつづきこの地方の大富豪だいふごうでありました。その大富豪のはたの島麻呂しままろの娘が、藤原不比等ふびとの子房前ふささきの孫の、小黒麻呂おぐろまろつまであった関係から、和気清麻呂は、長岡の都が十年たってもできあがらないので、この小黒麻呂をおしたてて、大富豪秦氏はたうじの助けによって、さらにここに遷都の大事業をなすことができたものとみえます。
 平安京はだいたい奈良の都のとおりで、すこしく北へひろげたのと、道幅みちはばがいくらか広くなったものがあるくらいのちがいです。ただ宮城きゅうじょうすなわち大内裏だいだいりには、朱雀門すざかもんの正面に大極殿だいごくでんなどの朝堂院ちょうどういんがあり、その東に天皇のごふだんの御居所ごきょしょたる内裏がありますことは、奈良の都とちがっているところです。これは奈良の時とはちがって、国家の正庁せいちょうたる大極殿をしゅとしたためでありましょう。内裏には紫宸殿ししんでん清涼殿せいりょうでんなどがありますが、その紫宸殿はもと川勝かわかつの屋敷あとで、紫宸殿の前のたちばなの木は、川勝の屋敷にあったものがそのままに残されたのだと申します。しかしこの宮城も、たびたびの火事や戦争であとかたもなくなり、今の京都御所ごしょは、のちにむかしの内裏にならって、別のところへおつくりになったものなのです。
 明治二十八年(一八九五)に、平安遷都せんと一一〇〇年記念祭を京都でおこないまして、平安神宮を建てて桓武天皇をおまつりしました。この神宮の建築は、だいたい大極殿にならったものでありますから、これを見れば、ほぼむかしの朝堂院の様子もわかりましょう。
 平安京はこれからのち、明治の御代みよのはじめに、明治天皇、東京におうつりになりますまで約一〇七〇年間の帝都となりました。そのうちでも、みなもとの頼朝よりともが鎌倉で幕府を開きますまで約四〇〇年間、日本の政治はここでおこなわれましたので、これを「平安朝へいあんちょう時代」と申します。今の京都の市街は、この平安京が西のかたでいくらかり、おおいに東のほうにびたものでありまして、今の京都の町筋まちすじがたいてい正しく東西に、また南北に通っておりますのは、むかしの平安京の町割まちわりが、だいたいにそのまま残っているためであります。


 

   三十七、藤原氏の全盛ぜんせい(一)


 大化の新政に中臣なかとみの鎌足かまたりがたいそう手柄てがらがありましたので、もと祭神さいじんの家から出たのではありましたが、別に政治にあずかる家をおこして藤原ふじわらといううじをたまわり、大織冠だいしょくかんといういちばん高いくらいをさずけられました。これからのち、むかしからの旧家きゅうかはだんだんおとろえて、藤原氏のみがいちばんさかんになりました。
 鎌足の子藤原不比等ふびと右大臣うだいじんに任ぜられ、その娘の宮子娘みやこいらつめというかたは、文武もんむ天皇の夫人となられました。これが聖武天皇の御母君おんははぎみです。このころまでは、皇后こうごうとなられますおかたは皇族にかぎっておられましたので、いかに藤原氏勢力がありましても、臣下しんかの娘であっては夫人以上にのぼることはできないのでありましたからいたかたがなかったのでありますが、天皇は宮子娘のほかに、別に皇后をお立てになりませんでした。これは藤原氏にご遠慮えんりょなされたためであったかもしれません。
 不比等ふびとのつぎの娘のかたは、これも聖武天皇の夫人となられましたが、のちに前例をやぶって皇后となられました。これが有名なる光明皇后であらせられます。臣下から皇后がお立ちになりましたのは、これがはじめでありまして、これからのち皇后はたいてい藤原氏から出られることとなりました。
 また不比等の四人の男の子は、武智麻呂むちまろ房前ふささき宇合うまかい麻呂まろと申し、それぞれ高い官位にすすみまして、朝廷の大官たいかんはほとんど藤原氏一族で固めるというほどのいきおいになりかけましたが、まことに偶然のことで、聖武天皇の御代みよ天然痘てんねんとうの大流行がありましたとき、この四人がみな同じ年のうちに死にました。そしてその子どもらは、みな年が若かったものですから、藤原氏の勢いは、やむを得ず一時いちじおおいにおとろえました。
 しかしなにぶんにも、鎌足の大勲功だいくんこうの後をうけた家であります。その後だんだん勢力を回復しまして、奈良朝のすえには藤原百川ももかわ大功たいこうを立て、そのおい種継たねつぐは、桓武天皇におすすめして都を長岡に移すほどの勢いとなりました。もちろんほかの旧家の人たちの中には、藤原氏のひとりさかんになるのに反対するものもありまして、種継暗殺のような事件もおこりましたが、これがために反対者はつみせられてかえって勢力をうしない、藤原氏ばかりが盛んになるという結果になりました。ご代々だいだいの皇后はたいてい藤原氏からお立ちになる。ご代々の天皇は、たいていその藤原ふじわら皇后のおはらにお生まれになったお方々かたがたであらせられる。大臣をはじめとして朝廷の大官たいかんも、たいてい藤原氏の人々で固めるというありさまで、だんだんわがままなおこないが多くなってまいります。
 第五十五代文徳もんとく天皇の皇后は、やはり藤原良房よしふさの娘のかたでありました。良房は藤原房前ふささきの孫の、冬嗣ふゆつぎ〔ふゆつぐ〕の子です。冬嗣が第五十二代嵯峨さが天皇のご信任をあつうしてから、藤原氏の家がいくつにもかれたなかでも、この家筋がことにさかんになったのです。かくて天皇おかくれのときに、その皇后のおなかの皇子は、まだ御九歳おんくさいというようなご幼少ようしょうのおかたでありましたが、先帝せんていおんあとをついで、天皇の御位みくらいにつかれました。これを第五十六代清和せいわ天皇と申し上げます。これは日本でご幼少の天皇のはじめであります。そして良房よしふさ摂政せっしょうとなりました。
 むかしは、ご自身ご政治をなさるにおさしつかえのないほどにおとしを取られたおかたでなければ、天皇の御位くらいにはおつきになりません。それゆえに、もし天皇おかくれののちに、あとつぎのおかたがまだお若くいらせられるときには、皇后が御位につかれることもありました。皇極こうぎょく天皇・持統天皇など、みなそうであります。しかしそれは、皇后がみな皇族のおかたであらせられた時代のことです。光明皇后以来、皇后が藤原氏からおになるようになりましては、いくら藤原氏に勢力がありましても、その皇后が天皇の御位みくらいにつかれるわけにはまいりません。そこでやむを得ぬことであったではありましょうが、こんなご幼少のおかたが天皇となられる例がはじまりましたのです。しかしご幼少の天皇では、ご自身ご政治をなさるわけにはまいりません。そこで、天皇には御母方おんははかたの祖父にあたる藤原良房よしふさが摂政となって、天皇におかわり申して、すべての政治をおこなうことになりました。今日こんにちの皇室のご規則でも、天皇がご幼少にましますとか、あるいはご病気などでご自身ご政治をなさることがお出来できにならないばあいには、臨時に摂政をお置きになることになっておりますが、それは皇太子とか皇后とか、そのほかおちかしい皇族のおかたにかぎります。大正天皇陛下へいかご病気であらせられましたがために、今上きんじょう天皇〔昭和天皇〕陛下が皇太子として摂政であらせられたようなしだいであります。ところで藤原良房は、ご幼少の天皇をお立て申し、臣下として摂政となるの例をはじめたのです。

   三十八、藤原氏の全盛ぜんせい(二)


 つぎに良房よしふさの兄の子で、良房の養子となった基経もとつねは、その勢力さらに父よりもさかんでありまして、第五十八代宇多うだ天皇の御代みよにはじめて関白かんぱくということになりました。関白とは、下から天皇に申し上げますにも、また、天皇から下へお命じになりますにも、まずもってその人をなければならぬことなのです。つまり関白が承知しなければ、天皇も大臣も、何もできないということになるのです。


 
 そんないきおいですから宇多天皇は、こう藤原氏ばかりにすべての政治をおまかせになりましては、ますますそのわがままがひどくなることをご心配になりまして、菅原すがわらの道真みちざねをお引き上げになり、藤原氏の勢力をおさえようとなさいました。かくてつぎのみかど第五十九代醍醐だいご天皇の御代みよには、基経もとつねの子時平ときひら左大臣さだいじん、道真は右大臣だいじんというぐあいに、あいならんで政治にあずかることになりました。
 しかしながら菅原氏はもと学者の家で、むかしから大臣になったことなどは一度もなかったのであります。されば、いかに天皇のご信任がおあつかったとはもうせ、この藤原氏のさかんな時代に、そんな家から出た道真が大臣となって藤原氏とならぶということは、時平にとっては不平ふへいでたまりません。その他のものも、道真がその家柄の低いのにかかわらず出世があまりにひどかったので、自然それをねたむようになります。そんなしだいで道真は、のちに太宰府だざいふにうつされまして、せっかくの宇多天皇の御心みこころも、かえって藤原氏の勢力をいっそうさかんならしめる結果となりました。
 道真が退しりぞけられましてのちは、もはや藤原氏とりあってその勢力をかとうというほどのものもありません。これからのち藤原氏の人々は、ご幼少の天皇をお立て申しては自身じしん摂政に任ぜられ、天皇がご成長あそばしますと関白に任ぜられるというふうに、おそれ多いことではありますが、天皇はただとうとく上にましますばかりで、政治はすべて藤原氏まかせというような、ひどいおんありさまになってしまいました。

   三十九、藤原氏の全盛ぜんせい(三)


 こうなってきますと、今度は同じ藤原氏一族のあいだで、しぜん競争がおこってくるのはやむをません。
 はじめ藤原鎌足の子不比等ふびとに四人の男の子があって、それぞれかたをならべて立身りっしん出世しゅっせし、朝廷の大官たいかんはたいてい藤原氏一族で固めるというほどのいきおいでありました。たまたま天然痘てんねんとうの大流行で四人ともに同じ年のうちに死んでしまったので、藤原氏のおとろえたということを先にお話しておきましたが、もしあのときに天然痘がはやらなんだなら、今の平安朝の藤原氏の全盛は、はやく奈良朝時代に来ておったのかもしれません。しかし、その子どもらが成長しまして、それぞれ別々の家をおこし、だんだんと勢力を回復してまいりまして、ついに今のような藤原氏全盛ぜんせい時代となったのです。はじめのうちは宇合うまかいの子孫がさかんでしたが、のちには冬嗣ふゆつぎ良房よしふさのような人が出たので、房前ふささきの子孫たる良房の家がいちばんさかんなものになりました。そしてほかに競争者がなくなりますと、今度は良房の子孫同士のあいだにひどい競争がおこってくるのです。
 良房が臣下の身分ではじめて摂政となり、その養子基経もとつねがはじめて関白となってから、基経の子忠平ただひら、忠平の子実頼さねより、実頼の子頼忠よりただ、実頼の弟師輔もろすけの子伊尹これただ兼通かねみち兼家かねいえの兄弟、兼家の子道隆みちたか道兼みちかね道長みちながの兄弟ら、みな摂政とか関白とかになりました。こうなると藤原氏一族のあいだのあらそいというよりも、もっとも親しいはずの兄弟同士の間にまでひどい競争がおこってまいります。
 ところが、これはまことに偶然のことでありますが、むかし聖武天皇の御代みよに天然痘がはやって不比等ふびとの四人の子が死んだと同じように、それから二五七年たった第六十六代一条いちじょう天皇の御代に、またひどい天然痘の流行がありました。
 そして道隆・道兼をはじめとして、藤原氏の大官たちがたくさん死にましたので、生き残った道長みちながのみが、ひとりたいそうしあわせをしました。ことに道長にとってしあわせであったのは、いくたりものよい娘の子があったことです。
 なんと申しても日本は、万世ばんせい一系いっけいの天皇陛下を中心とあおぎたてまつる国であります。藤原氏いかに勢力がありましても、またいかに一族のあいだに競争がはげしくなりましても、天皇を高く上にいただきたてまつって、自分は摂政・関白になるというより以上のことはできません。そしてそうするには、自分の娘を皇后にさしあげまして、そのおなかに皇子がお生まれになりますと、それを天皇の御位みくらいにつけたてまつって、自分はその御代みよの摂政ともなり、関白ともなるというのであります。
 道長には大勢のよい娘の子がありましたが、一人は第六十六代一条天皇の中宮ちゅうぐうとなって、その御腹おんはらに第六十八代の後一条ごいちじょう天皇と、第六十九代の後朱雀ごすじゃく〔ごすざく〕天皇とがお生まれになりました。また一人は第六十七代三条さんじょう天皇の中宮となり、一人はおいにあたらせられる後一条天皇の中宮となりましたが、いま一人はこれも御甥おんおいの後朱雀天皇の女御にょごとなりまして、そのおはらに第七十代後冷泉ごれいぜい天皇がお生まれになりました。
 中宮とはもと、皇后とか皇太后こうたいごうとかの御事おんことを申すので、もちろん皇后と同じお身分のおかたであります。しかし一条天皇には、前に道長の兄道隆みちたかの娘がすでに皇后になっておられましたので、お二人の皇后をお立てになるわけにはまいりません。そこで道長は、別に中宮ちゅうぐうというお名前にいたしまして自分の娘を皇后としておすすめ申しましたので、じつは一条天皇には、お二人の皇后が同時にあらせられることになりましたのです。これからのち、天皇にはしばしば同時に皇后と中宮との同じお身分のおかたがお二方ふたかたあらせられるという例がはじまりました。これも道長が、自分の娘を皇后にさしあげたいとのわがままのためでした。また女御と申しますのは、皇后・中宮よりも一段お身分の低いおかたで、むかし光明皇后が、はじめは聖武天皇の夫人であらせられたともうすのと同じようなものです。


 
 かくて道長は、その娘が三人まで皇后に、いま一人が女御に、また外孫がいそんにあたらせられるおかたがお三方さんかたまで引きつづき天皇となられましたというように、むかしから、かつてためしのない身分となりました。

このをば、わがとぞ思う 望月もちづき
  かけたることも なしと思えば

というのは、かれがその満足の心を無遠慮ぶえんりょに述べたものですが、なんというわがままな歌でしょう。十五夜の月のまんまるいように、思うことことごとくかなうて、少しも不足はない、この世界はまるで自分のための世界のように思われるというのです。そしてその世界の中には、思うことなにひとつとしてかなわず、その日その日をきてゆくにさえこまっている下層かそうの民衆が、どれだけあるかれないことなどは、いっこう考えてもみないのです。

   四十、藤原氏の全盛ぜんせい(四)


 そんなありさまですから、道長はどんなことでも、好き勝手なわがままをおこなってはばかりません。かれが法成寺ほうしょうじ〔ほうじょうじ〕を建てたときのごときは、宮中のものでも役所のものでも、自分のほしいと思う庭石にわいしなどは勝手に取ってくる。まるで朝廷でも役所でも、自分のもののように思うているのです。そのうちに、たまたま道長が病気になりまして、いつ死ぬかもしれないというので、その子頼通よりみちはたいそうその工事をいそぎまして、たとい朝廷の御事おんことはあとまわしにいたしても、このほうの御用ごようはおこたるなと催促さいそくしたとまでいわれております。なんという不敬ふけいなことでありましょう。
 むかし蘇我氏そがしは、物部氏をほろぼしてのちに、ほかに競争者もなくなったためにひとりわがままなことをして、ついにはその子を王子といい、家を宮門みかどといい、墓をみささぎというなど、ほとんど天子気取きどりにまでなりました。この藤原氏もほかに競争者がなくなり、ことに道長は同じ藤原氏のなかでも自分ばかりがいちばん勢力をたものですから、とうとう、こんなことにまでなってしまったのです。
 道長の子頼通よりみち教通のりみち、頼通の子師実もろざね、師実の子師通もろみち、師通の子忠実ただざね、忠実の子忠通ただみちと、代々だいだいあいついで摂政・関白になりました。なかにも頼通は、第六十八代後一条いちじょう天皇の御代みよから第七十代後冷泉ごれいぜい天皇の御代まで五十余年よねんのあいだ、二十六歳からはじめて七十七歳になるまでもその職におりましたので、摂政・関白はしぜんこの家のものときまってしまい、同じ藤原氏の人々でも、ほかの家筋のものは指ひとつさすことができなくなってしまいました。のちに第七十一代後三条ごさんじょう天皇御位みくらいにつかれまして、藤原氏のあまりにわがままなのをおおさえになろうとなさいましたので、頼通よりみちもいくぶんご遠慮えんりょ申し、関白を弟教通のりみちにゆずって、宇治うじ退隠たいいんしました。宇治の平等院びょうどういんは頼通の隠居いんきょしたところで、その鳳凰堂ほうおうどうは今も残り、藤原氏の栄華えいがのあとをしめしております。
 藤原氏の全盛は、道長・頼通よりみちのときを頂上として、後三条天皇以後、その勢力もややおとろえました。
 つぎの第七十二代白河しらかわ天皇は、御位みくらい御年おんとしわずかに八歳の第七十三代堀河ほりかわ天皇におゆずりになりましたのち、上皇じょうこう御身おんみながらにご自身ご政治をおこなわせられ、のちにご出家しゅっけあそばして法皇ほうおうとならせられましても、あいかわらずご政治をなさるという例をおはじめになりました。これを院政いんせいと申します。院政の世には天皇はこれまでどおり、ただたっとく上にましますばかりで、ご政治は万事ばんじ上皇なり法皇なりにおまかせきりであります。しかしこれがために、藤原氏の摂政・関白もまたその名前ばかりで、前々ほどのわがままはできなくなりました。
 かく藤原氏のいきおいも、院政以来だんだんおとろえましたが、なんと申しても多年たねん植えつけられた大きな森林です。そしてその中でも、道長の子孫はいちばん高い大木たいぼくです。忠通ただみちの子の基実もとざね基房もとふさ兼実かねざねはそれぞれ摂政・関白となり、のちに基房の子孫はおとろえましたが、基実は近衛家このえけの先祖となって、その家から鷹司家たかつかさけがわかれ、兼実は九条家くじょうけの先祖となって、その家から二条にじょう一条いちじょう二家にけがわかれ、のちの世の摂政・関白はかならずこの五家ごけから出るということにきまりました。これを五摂家ごせっけと申し、その子孫は今もそれぞれ華族かぞくとなり、華族のなかでもいちばん高い公爵こうしゃくとなっております。そのほかにも藤原氏からかれ出た家は非常に多く、代々だいだい朝廷の大官に任ぜられ、華族として今にその家を伝えているものがはなはだ多いのであります。今の華族には、昔からひきつづき朝廷におつかえ申していた家柄の公家くげ華族、あるいは大名であった家柄の武家ぶけ華族、そのほか勲功くんこうによってあらたにたまわった新華族などいろいろの種類はありますが、そのなかでも公家華族のかたがたは、大部分、藤原氏の流れを受けたものであります。
(つづく)



底本:『日本歴史物語(上)No.1』復刻版 日本兒童文庫、名著普及会
   1981(昭和56)年6月20日発行
親本:『日本歴史物語(上)』日本兒童文庫、アルス
   1928(昭和3)年4月5日発行
入力:しだひろし
校正:
xxxx年xx月xx日作成
青空文庫作成ファイル:
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日本歴史物語〈上〉(四)

喜田貞吉

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)兒童《じどう》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)一体|何《ど》うして

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)貞吉《ていきち》[#「ていきち」は底本のまま]

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)遠《とほ》い/\
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
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   三十一、奈良《なら》の都《みやこ》(上)

 孝徳《こうとく》天皇《てんのう》は難波《なには》の新都《しんと》に於《お》いて、大化《たいか》の新政《しんせい》を行《おこな》はせられましたが、やはり舊都《きゆうと》の方《ほう》の力《ちから》が強《つよ》く、まもなく都《みやこ》は飛鳥《あすか》へ戻《もど》り、中大兄《なかのおほえの》皇子《おうじ》が、齋明《さいめい》天皇《てんのう》を奉《ほう》じて、こゝで政治《せいじ》をお執《と》りになりましたことは、すでに述《の》べましたが、齋明《さいめい》天皇《てんのう》が九州《きゆうしゆう》でお崩《かく》れになりまして後《のち》も、皇太子《こうたいし》はまだ御位《みくらゐ》には即《つ》かれませず、六年間《ろくねんかん》も皇太子《こうたいし》のまゝで、この都《みやこ》にをられました。これにはよく/\深《ふか》いわけのあつたことと察《さつ》せられます。
 この間《あひだ》にいよ/\百濟《くだら》は滅《ほろ》び、太子《たいし》は我《わ》が軍《ぐん》を朝鮮《ちようせん》からお引《ひ》きあげになりましたが、唐《とう》や新羅《しらぎ》とは和睦《わぼく》が出來《でき》まして、これから後《のち》も引《ひ》き續《つゞ》き、交通《こうつう》は絶《た》えませんでした。しかし何分《なにぶん》にも、これ等《ら》の強《つよ》い國《くに》が西《にし》に控《ひか》へてをりまして、いつどんな事件《じけん》が起《おこ》らぬともわかりませんので、所々《ところ/″\》の要害《ようがい》の地《ち》に、城《しろ》を築《きづ》き、それにおそなへになりました。かくて皇太子《こうたいし》は、齊明《さいめい》天皇《てんのう》お崩《かく》れの後《のち》六年目《ろくねんめ》に、近江《あふみ》の大津宮《おほつのみや》にお遷《うつ》りになりまして、翌年《よくねん》こゝで初《はじ》めて天皇《てんのう》の御位《みくらゐ》にお即《つ》きになりました。これを第三十八代《だいさんじゆうはちだい》天智《てんち》天皇《てんのう》と申《まを》し上《あ》げます。大津宮《おほつのみや》は今《いま》の大津市《おほつし》よりは北《きた》の方《ほう》にありました。
 天皇《てんのう》が飛鳥《あすか》から近江《あふみ》にお遷《うつ》りになりましたのは、大化《たいか》に難波《なには》へお遷《うつ》りになりましたのと同《おな》じ意味《いみ》で、飛鳥《あすか》では、やはり昔《むかし》からのいろ/\の關係《かんけい》があつて、御理想《ごりそう》通《どほ》りの新《あたら》しい政治《せいじ》をなさるには、邪魔《じやま》が多《おほ》かつた爲《ため》でありませう。こゝで天皇《てんのう》は、いろ/\新《あたら》しい法令《ほうれい》をお定《さだ》めになりました。この法令《ほうれい》は、後《のち》に第四十二代《だいしじゆうにだい》文武《もんむ》天皇《てんのう》の、大寶《たいほう》元年《がんねん》に至《いた》つて修正《しゆうせい》されました。世《よ》にこれを『大寶《だいほう》律令《りつりよう》』と申《まを》し、これから後《のち》、ながく日本《につぽん》の政治《せいじ》のもととなりました。大化《たいか》の新政《しんせい》は、こゝに至《いた》つて、いよ/\出來上《できあが》つたと申《まを》してよいのであります。
 しかし、この大津《おほつ》の都《みやこ》は、都遷《みやこうつ》しの時《とき》から、あまり評判《ひようばん》がおよろしくなく、やはり飛鳥《あすか》の舊都《きゆうと》を望《のぞ》むものの方《ほう》が、勢力《せいりよく》が多《おほ》かつたと見《み》えまして、天智《てんち》天皇《てんのう》のお崩《かく》れになりました後《のち》、まもなく都《みやこ》は、三《み》たび飛鳥《あすか》へ戻《もど》りました。そして天皇《てんのう》の御弟《おんおとうと》大海人《おほあまの》皇子《おうじ》が、そこで御位《みくらゐ》に即《つ》かれました。これを第四十代《だいしじゆうだい》天武《てんむ》天皇《てんのう》と申《まを》し上《あ》げます。
 天武《てんむ》天皇《てんのう》の御即位《ごそくゐ》につきましては、飛鳥《あすか》の漢人《あやびと》等《ら》が、大《たい》そう御盡力《ごじんりよく》申《まを》したのでありました。それでその地《ち》がまた都《みやこ》となりましたのは、當然《とうぜん》のことであります。しかし天皇《てんのう》も、いよいよ飛鳥《あすか》へお落《お》ちつきになつて見《み》れば、やはりいろ/\の邪魔《じやま》があつて、御心《みこゝろ》のまゝの御政治《ごせいじ》をなさることが、お出來《でき》にならなかつたと見《み》えまして、御一代《ごいちだい》の間《あひだ》、たび/\方々《ほう/″\》へ都遷《みやこうつ》しの御計畫《ごけいかく》をなさいました。その御計畫《ごけいかく》が、いつも/\御中止《ごちゆうし》になり、御實行《ごじつこう》が出來《でき》なかつたのは、やはり飛鳥《あすか》の勢力《せいりよく》が、相變《あひかは》らず強《つよ》かつた爲《ため》でありませう。最後《さいご》には飛鳥《あすか》の近所《きんじよ》で、新《あたら》しい宮《みや》をお造《つく》りにならうとなさいましたが、それも御實行《ごじつこう》にならぬうちに、天皇《てんのう》はお崩《かく》れになりました。實際《じつさい》飛鳥《あすか》の漢人《あやびと》等《ら》は、日本《につぽん》文化《ぶんか》の上《うへ》には大《たい》そう功《こう》が多《おほ》かつたのではありますが、あまり勢力《せいりよく》が盛《さか》んになりましたので、ずいぶん惡《わる》いことをも遠慮《えんりよ》なくするようになりまして、あの蘇我氏《そがし》のわがまゝを助《たす》けたごときも、やはりその一《ひと》つでありますが、皇室《こうしつ》におかせられても、實際《じつさい》この漢人《あやびと》の勢力《せいりよく》には、かなりお困《こま》りになつたのでした。
 天武《てんむ》天皇《てんのう》お崩《かく》れになつて、皇后《こうごう》が御位《みくらゐ》に即《つ》かれました。第四十一代《だいしじゆういちだい》持統《じとう》天皇《てんのう》であらせられます。先帝《せんてい》の御志《おこゝろざし》をついで、飛鳥《あすか》の近所《きんじよ》の藤原宮《ふぢはらのみや》にお遷《うつ》りになりました。大化《たいか》の難波《なには》の都《みやこ》は、支那《しな》の唐《とう》の都《みやこ》の長安《ちようあん》の造《つく》り方《かた》にならつて、東西《とうざい》と、南北《なんぼく》と、縱横《たてよこ》十文字《じゆうもんじ》に、道《みち》が通《とほ》つて、碁盤目《ごばんめ》のようになつて、立派《りつぱ》な都市《とし》計畫《けいかく》によつて出來《でき》たのでした。しかしそれはまもなくやめになり、もとの飛鳥《あすか》が再《ふたゝ》び都《みやこ》となつたのでありましたが、このたびの藤原《ふぢはら》の都《みやこ》は、同《おな》じ飛鳥《あすか》の近所《きんじよ》とは申《まを》せ、町割《まちわ》りなどまで支那《しな》の都《みやこ》の風《ふう》に、立派《りつぱ》に出來上《できあが》つたのです。そして次《つ》ぎの文武《もんむ》天皇《てんのう》も、またこの宮《みや》においでになりまして、あの大寶《だいほう》律令《りつりよう》は、こゝで出來《でき》たのでありました。それで都《みやこ》の樣子《ようす》も、その大寶令《だいほうりよう》の中《なか》に書《か》いてありますが、それによると、大體《だいたい》次《つ》ぎに述《の》べる奈良《なら》の都《みやこ》のようなものでした。
 かく藤原宮《ふぢはらのみや》は、一旦《いつたん》立派《りつぱ》に出來上《できあが》りましたけれども、飛鳥《あすか》の近所《きんじよ》では、やはり都合《つごう》がお惡《わる》かつたと見《み》えまして、御遷都《ごせんと》以來《いらい》二十年《にじゆうねん》ばかりで、文武《もんむ》天皇《てんのう》は、又《また》都遷《みやこうつ》しの御計畫《ごけいかく》をなさいました。そのうちに天皇《てんのう》はお崩《かく》れになり、次《つ》ぎの第四十三代《だいしじゆうさんだい》元明《げんみよう》天皇《てんのう》の御代《みよ》の初《はじ》めに、いよ/\御實行《ごじつこう》になりました。これが有名《ゆうめい》な奈良《なら》の都《みやこ》です。

   三十二、奈良《なら》の都《みやこ》(下)

 奈良《なら》の都《みやこ》は今《いま》の奈良市《ならし》の西《にし》にありました。今《いま》の奈良市《ならし》は、都《みやこ》の東《ひがし》にいくつもの大《おほ》きな寺《てら》が出來《でき》て、町《まち》が自然《しぜん》その方《ほう》へ廣《ひろ》がり、後《のち》に都《みやこ》がやめになつても、その寺《てら》の勢力《せいりよく》が盛《さか》んであつた爲《ため》に、こゝばかりは衰《おとろ》へずに遺《のこ》つたものなのです。
 奈良《なら》の都《みやこ》は、大體《だいたい》藤原《ふぢはら》の都《みやこ》の作《つく》り方《かた》によつて、更《さら》にそれを大《おほ》きくしたものでした。もとは東西《とうざい》約《やく》四十町《しじつちよう》、南北《なんぼく》約《やく》四十五町《しじゆうごちよう》の長方形《ちようほうけい》のもので、その北《きた》の端《はし》の中央《ちゆうおう》に、約《やく》十町《じつちよう》四方《しほう》の宮城《きゆうじよう》、即《すなはち》、大内裏《だいだいり》があり、宮城《きゆうじよう》の南大門《なんだいもん》が、朱雀門《すざかもん》で、その門《もん》からまっすぐに、南《みなみ》に通《つう》ずる朱雀《すざか》大路《おほぢ》によつて、都《みやこ》は左京《さきよう》と右京《うきよう》とに分《わか》れ、その左右《さゆう》兩京《りようきよう》ともに、おの/\東西《とうざい》に通《つう》ずる八筋《やすぢ》の大路《おほぢ》で、九條《くじよう》に分《わか》れ、その各條《かくじよう》は、南北《なんぼく》に通《つう》ずる三筋《みすぢ》の大路《おほぢ》で、四坊《しぼう》づゝに分《わか》れ、その各坊《かくぼう》は、更《さら》に東西《とうざい》南北《なんぼく》に通《つう》ずる三筋《みすぢ》づゝの小路《こうぢ》で、十六《じゆうろく》の町《ちよう》に、碁盤目《ごばんめ》のように分《わか》れてゐます。後《のち》にその東《ひがし》に、元興寺《げんこうじ》や、東大寺《とうだいじ》や、興福寺《こうふくじ》のような大《おほ》きな寺《てら》が出來《でき》、西北《せいほく》の隅《すみ》にも、西大寺《さいだいじ》が出來《でき》まして、都《みやこ》は東《ひがし》と、西北《にしきた》とに廣《ひろ》がりましたが、その東《ひがし》の方《ほう》に廣《ひろ》がつたのが、今《いま》に殘《のこ》つて奈良市《ならし》となつてゐるのです。
[#図版(16.png)、奈良の都]
 その大路《おほぢ》は幅《はゞ》は八丈《はちじよう》で、小路《こうぢ》の幅《はゞ》は四丈《しじよう》づゝ、各町《かくちよう》の廣《ひろ》さは四十丈《しじゆうじよう》四方《しほう》で、都《みやこ》のすたれた後《のち》、千百《せんひやく》餘年《よねん》を經《へ》た今日《こんにち》でも、そのあとは田地《でんち》の畦道《あぜみち》などに殘《のこ》つてをります。今《いま》の奈良市《ならし》は、その都《みやこ》の延長《えんちよう》ですから、その一町《いつちよう》は、普通《ふつう》の一町《いつちよう》よりも、大分《だいぶ》長《なが》くのびてゐるのです。
 奈良《なら》の都《みやこ》の頃《ころ》は、唐《とう》との交通《こうつう》も繁《しげ》くなりまして、都《みやこ》の割《わ》り方《かた》も、右《みぎ》のように、唐《とう》の長安《ちようあん》の都《みやこ》を眞似《まね》したほどでありましたから、衣服《いふく》その他《ほか》の風俗《ふうぞく》にも、だん/\唐《とう》の風《ふう》が行《おこな》はれるようになりました。宮城《きゆうじよう》の内《うち》には、天皇《てんのう》御《ご》ふだんの御居所《おんゐどころ》たる内裏《だいり》が、朱雀門《すざかもん》の正面《しようめん》にあり、その東《ひがし》に、國家《こつか》の正廳《せいちよう》たる大極殿《だいごくでん》を始《はじ》めとして、多《おほ》くの建《た》て物《もの》の並《なら》んでゐる朝堂院《ちようどういん》がありました。その朝堂院《ちようどういん》のいろ/\の建《た》て物《もの》のあとは、今《いま》も大體《だいたい》もとのまゝに殘《のこ》つてをつて、近《ちか》ごろ史蹟《しせき》として、保存《ほぞん》されてをります。
 昔《むかし》の天皇《てんのう》の宮殿《きゆうでん》は、伊勢《いせ》の皇太神宮《こうたいじんぐう》や、出雲《いづも》の大社《おほやしろ》で見《み》るような、神社風《じんじやふう》の建築《けんちく》でしたが、奈良《なら》の都《みやこ》の宮殿《きゆうでん》は、唐《とう》の風《ふう》の瓦葺《かはらぶ》きで、大體《だいたい》今《いま》の京都市《きようとし》の、平安《へいあん》神宮《じんぐう》を見《み》るようなものでありました。その宮殿《きゆうでん》の一《ひと》つは、今《いま》も奈良《なら》の都《みやこ》あとにある唐招提寺《とうしようだいじ》の講堂《こうどう》となつて、ほゞ昔《むかし》の形《かたち》のまゝに、殘《のこ》つてをります。都《みやこ》の内外《うちそと》には、立派《りつぱ》な寺《てら》がたくさん出來《でき》ます。貴族《きぞく》や官吏《かんり》の服裝《ふくそう》なども、唐《とう》の風《ふう》になります。市街《しがい》にある住宅《じゆうたく》までも、だん/\瓦葺《かはらぶ》きになり、白壁《しらかべ》を塗《ぬ》り、柱《はしら》を赤《あか》く染《そ》めるようにと、御奬勵《ごしようれい》になつた程《ほど》ですから、萬事《ばんじ》がはな/″\しく、はでやかになりました。その頃《ころ》の人《ひと》の歌《うた》に、
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青丹《あをに》よし、奈良《なら》の都《みやこ》は咲《さ》く花《はな》の
        匂《にほ》ふがごとく今《いま》盛《さか》りなり
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と、ありますのは、そのはなやかな都《みやこ》のあり樣《さま》をうたつたのです。

   三十三、奈良朝《ならちよう》佛教《ぶつきよう》の隆盛《りゆうせい》(上)

 元明《げんみよう》天皇《てんのう》が奈良《なら》に都《みやこ》をお遷《うつ》しになりましてから、元正《げんしよう》、聖武《しようむ》、孝謙《こうけん》、淳仁《じゆんにん》、稱徳《しようとく》、光仁《こうにん》の御六代《ごろくだい》を經《へ》て、第五十代《だいごじゆうだい》の桓武《かんむ》天皇《てんのう》の御代《みよ》の初《はじ》めに、山城《やましろ》にお移《うつ》りなさいますまで、七十六年《しちじゆうろくねん》の間《あひだ》に、一時《いちじ》外《ほか》へお移《うつ》りになつたこともありますけれども、まもなくもとへお戻《もど》りになり、こゝに特別《とくべつ》のはなやかな時代《じだい》が起《おこ》りました。これを『奈良朝《ならちよう》時代《じだい》』と申《まを》します。
 奈良朝《ならちよう》時代《じだい》の文化《ぶんか》の遺物《いぶつ》として、一番《いちばん》目立《めだ》つて後《のち》の世《よ》に殘《のこ》つてをりますのは、たくさんの名高《なだか》い寺《てら》や、佛教《ぶつきよう》に關係《かんけい》した美術品《びじゆつひん》です。
 佛教《ぶつきよう》は、欽明《きんめい》天皇《てんのう》の御代《みよ》に我《わ》が國《くに》に傳《つた》はりましてからこのかた、初《はじ》めのうちは強《つよ》い反對者《はんたいしや》もありましたけれども、物部氏《ものゝべし》が滅《ほろ》びてからは、もはや邪魔《じやま》をするものもなく、だんだんと盛《さか》んになりまして、次《つ》ぎから次《つ》ぎへと廣《ひろ》まりました。
 初《はじ》めの頃《ころ》はどうしても、都《みやこ》の土地《とち》であり、また漢人《あやびと》の根據地《こんきよち》として、我《わ》が國《くに》文化《ぶんか》の發源地《はつげんち》であるところの、飛鳥《あすか》地方《ちほう》が佛教《ぶつきよう》の中心《ちゆうしん》となり、法興寺《ほうこうじ》、元興寺《がんこうじ》、橘寺《たちばなでら》などを始《はじ》めとして、いくつもの大《おほ》きな寺《てら》が出來《でき》ました。けれども、聖徳《しようとく》太子《たいし》はさすがにお考《かんが》へが大《おほ》きくいらつしやいまして、ひとりこの地方《ちほう》ばかりでなく、攝津《せつつ》の難波《なには》には四天王寺《してんのうじ》を、また同《おな》じ大和《やまと》のうちでも、飛鳥《あすか》とは遠《とほ》く離《はな》れて、後《のち》の奈良《なら》の都《みやこ》に近《ちか》い斑鳩《いかるが》といふところには、法隆寺《ほうりゆうじ》を、それ/″\お建《た》てになりますし、また後《のち》に平安京《へいあんきよう》となつた山城《やましろ》の北部《ほくぶ》には、その地方《ちほう》の大地主《おほじぬし》の秦《はたの》川勝《かはかつ》に命《めい》じて、廣隆寺《こうりゆうじ》をお建《た》てになりました。後《のち》に孝徳《こうとく》天皇《てんのう》は、四天王寺《してんのうじ》の近所《きんじよ》に、難波《なには》の都《みやこ》をお造《つく》りになる、元明《げんみよう》天皇《てんのう》の御代《みよ》には、法隆寺《ほうりゆうじ》の近所《きんじよ》に奈良《なら》の都《みやこ》が出來《でき》る、桓武《かんむ》天皇《てんのう》は、廣隆寺《こうりゆうじ》のある所《ところ》に、平安京《へいあんきよう》をお造《つく》りになるといふ風《ふう》に、それ/″\その近所《きんじよ》に都《みやこ》が出來《でき》たのは、偶然《ぐうぜん》のこととは申《まを》しながら、太子《たいし》が將來《しようらい》盛《さか》んになるべき土地《とち》を、お撰《えら》びになつたわけで、太子《たいし》が御生《おうま》れつき御聰明《ごそうめい》におはし、よく未來《みらい》のことを知《し》つてをられたと言《い》はれてをりますのも、もっともだと申《まを》さねばなりません。遠《とほ》く離《はな》れた信濃《しなの》の善光寺《ぜんこうじ》の如《ごと》きも、やはり太子《たいし》の頃《ころ》に、難波《なには》から佛像《ぶつぞう》を移《うつ》して、こゝに出來《でき》た寺《てら》だといはれてをります。
 中《なか》にも法隆寺《ほうりゆうじ》は、もと太子《たいし》のお宮《みや》のあつたところに出來《でき》た寺《てら》で、天智《てんち》天皇《てんのう》の御代《みよ》に一旦《いつたん》燒《や》けましたけれども、まもなく再建《さいこん》せられますし、その近所《きんじよ》には、太子《たいし》のおかくれの後《のち》に、御遺族《ごいぞく》の方々《かた/″\》がお建《た》てになつた法起寺《ほうきじ》や、法輪寺《ほうりんじ》がありまして、これらの寺々《てら/″\》には、古《ふる》い時代《じだい》の建《た》て物《もの》が、今《いま》に殘《のこ》つてゐるのであります。これはひとり我《わ》が國《くに》での、一番《いちばん》古《ふる》い建《た》て物《もの》といふばかりではなく、世界中《せかいじゆう》での、一番《いちばん》古《ふる》い木造《もくぞう》建築物《けんちくぶつ》として、誇《ほこ》るべきものであります。
 太子《たいし》がおかくれになりましても、太子《たいし》のお植《う》ゑつけになつた苗《なへ》は、だん/\と成長《せいちよう》しまして、佛教《ぶつきよう》はます/\盛《さか》んになりました。初《はじ》め佛教《ぶつきよう》の傳《つた》はつて來《き》た時《とき》に、最《もつと》も熱心《ねつしん》であつた蘇我氏《そがし》の方《ほう》からは、かへつて聖徳《しようとく》太子《たいし》の御遺族《ごいぞく》を、こと/″\く滅《ほろ》ぼしてしまふといふ、入鹿《いるか》のような者《もの》も出《で》ましたが、その反對《はんたい》に、佛教《ぶつきよう》排斥《はいせき》の祭神《さいじん》の家《いへ》たる、中臣氏《なかとみし》の方《ほう》から出《で》た鎌足《かまたり》までが、大《おほ》いに佛教《ぶつきよう》を信仰《しんこう》しまして、大化《たいか》の新政《しんせい》には、大《たい》そうこれを御奬勵《ごしようれい》になるといふ勢《いきほひ》となりました。
[#図版(17.png)、法隆寺]
 鎌足《かまたり》は蘇我《そがの》入鹿《いるか》を滅《ほろ》ぼさんが爲《ため》に、一丈《いちじよう》六尺《ろくしやく》の釋迦《しやか》如來《によらい》の像《ぞう》を作《つく》つてこれを祈《いの》り、後《のち》に自分《じぶん》の家《いへ》を寺《てら》としたほどであります。これが後《のち》の興福寺《こうふくじ》です。その後《ご》天武《てんむ》天皇《てんのう》は、舒明《じよめい》天皇《てんのう》がお始《はじ》めになつて、容易《ようい》に出來上《できあが》らなかつた大安寺《だいあんじ》を、飛鳥《あすか》の近所《きんじよ》に立派《りつぱ》にお建《た》てになりました。天皇《てんのう》は又《また》、皇后《こうごう》の御病氣《ごびようき》御平癒《ごへいゆ》の爲《ため》に、これも飛鳥《あすか》の近所《きんじよ》で、藥師寺《やくしじ》をお始《はじ》めになりました。その外《ほか》にも、たくさん大《おほ》きな寺《てら》が出來《でき》ましたが、都《みやこ》が奈良《なら》にうつりました後《のち》に、元興寺《がんこうじ》、興福寺《こうふくじ》、大安寺《だいあんじ》、藥師寺《やくしじ》などの大寺《おほてら》を始《はじ》めとして、多《おほ》くの寺々《てら/″\》は、だんだんとこの新都《しんと》にうつりました。この元興寺《がんこうじ》、興福寺《こうふくじ》、大安寺《だいあんじ》、藥師寺《やくしじ》は、後《のち》に奈良《なら》で聖武《しようむ》天皇《てんのう》のお建《た》てになつた東大寺《とうだいじ》と、孝謙《こうけん》天皇《てんのう》のお建《た》てになつた西大寺《さいだいじ》と、前《まへ》から近所《きんじよ》にあつた法隆寺《ほうりゆうじ》とを合《あは》せて、『奈良《なら》の七大寺《しちだいじ》』と申《まを》します。

   三十四、奈良朝《ならちよう》佛教《ぶつきよう》の隆盛《りゆうせい》(下)

 この頃《ころ》の佛教《ぶつきよう》の信仰《しんこう》は、おもに佛《ほとけ》に祈《いの》つて、この世《よ》の幸福《こうふく》を求《もと》め、禍《わざはひ》を避《さ》けたいといふことでありました。法隆寺《ほうりゆうじ》の佛像《ぶつぞう》の後《うしろ》に彫《ほ》りつけてある願文《がんもん》を見《み》ましても、聖徳《しようとく》太子《たいし》の御病氣《ごびようき》がおなほりになつて、長生《ながい》きをなさいますように、萬一《まんいち》それがかなひませぬなら、おかくれの後《のち》に、淨土《じようど》にお生《うま》れ遊《あそ》ばすようにと、祈《いの》つてあるのであります。御代々《ごだい/\》の天皇《てんのう》がこれを御信仰《ごしんこう》なさるにも、佛《ほとけ》の功徳《くどく》によつて、天下《てんか》は太平《たいへい》に、國家《こつか》は安全《あんぜん》に、人民《じんみん》は幸福《こうふく》にと、お祈《いの》りなさるのでありました。そこで天武《てんむ》天皇《てんのう》は、たゞに寺《てら》を建《た》て、佛像《ぶつぞう》を作《つく》るといふばかりでなく、國々《くに/″\》に御命令《ごめいれい》なされて、今《いま》でいへば府廳《ふちよう》、縣廳《けんちよう》ともいふべき、その頃《ころ》の國府《こくふ》で、國家《こつか》を護《まも》る功徳《くどく》のある、經文《きようもん》を讀《よ》ましめられ、また家々《いへ/\》に、佛《ほとけ》を祭《まつ》らしめられました。これで佛教《ぶつきよう》は、我《わ》が國《くに》の國教《こつきよう》ともいふべきものとなつたわけです。次《つ》ぎに持統《じとう》天皇《てんのう》は、蝦夷《えぞ》や隼人《はやと》の國《くに》にまで、佛教《ぶつきよう》をお廣《ひろ》めになりまして、前《まへ》に推古《すいこ》天皇《てんのう》の御代《みよ》には、わづかに四十六《しじゆうろく》であつたお寺《てら》の數《かず》が、この御代《みよ》には、五百《ごひやく》四十五《しじゆうご》といふたくさんなものになりました。
 第四十五代《だいしじゆうごだい》聖武《しようむ》天皇《てんのう》は、ことに佛教《ぶつきよう》御信仰《ごしんこう》でありまして、國府《こくふ》毎《ごと》にお經《きよう》を備《そな》へるばかりでなく、佛像《ぶつぞう》を作《つく》り、塔《とう》を建《た》てさせられました。
 大昔《おほむかし》には祭政《さいせい》一致《いつち》と申《まを》して、神《かみ》を祭《まつ》ることと、政治《せいじ》即《すなはち》、『まつりごと』とが、一《ひと》つでありましたが、今《いま》は佛《ほとけ》を祭《まつ》ることが、國家《こつか》の政治《せいじ》の一部《いちぶ》となつたのです。
 かくて天皇《てんのう》は、つひに國家《こつか》の費用《ひよう》で、國毎《くにごと》に國分寺《こくぶんじ》といふ二《ふた》つの寺《てら》をお建《た》てになりました。一《ひと》つは僧寺《そうじ》で、常《つね》に二十人《にじゆうにん》の僧《そう》がをり、一《ひと》つは尼寺《にじ》で常《つね》に十人《じゆうにん》の尼《あま》がをり、國家《こつか》の安全《あんぜん》、人民《じんみん》の幸福《こうふく》を祈《いの》つてをります。
 今《いま》も國々《くに/″\》に、よく國分寺《こくぶんじ》といふ寺《てら》が殘《のこ》つてをりますが、今《いま》は寺《てら》がなくても、國分《こくぶ》などといふ地名《ちめい》のあるのは、もとこの寺《てら》のあつた所《ところ》です。また特《とく》に大和《やまと》の國分寺《こくぶんじ》として、非常《ひじよう》に大《おほ》がかりな東大寺《とうだいじ》をお建《た》てになりました。本堂《ほんどう》の高《たか》さ十六丈《じゆうろくじよう》といふのですから、世界一《せかいいち》の大《おほ》きな木造《もくぞう》建築物《けんちくぶつ》で、その中《なか》には、五丈《ごじよう》三尺《さんじやく》の大佛《だいぶつ》の銅像《どうぞう》があります。この寺《てら》は、その後《ご》二度《にど》も燒《や》けまして、今《いま》の建《た》て物《もの》は大分《だいぶ》小《ちひ》さくなつてをりますけれども、奈良《なら》へ行《ゆ》けば先《ま》づ第一番《だいいちばん》に、東《ひがし》の山《やま》の麓《ふもと》に、大《おほ》きな屋根《やね》があるのが目《め》につきます。その中《なか》の大佛《だいぶつ》は、火事《かじ》にいたんでいくらか補《おぎな》つてはありますが、大體《だいたい》に昔《むかし》のまゝで殘《のこ》つてをります。この東大寺《とうだいじ》の國分《こくぶん》僧寺《そうじ》たるに對《たい》して、聖武《しようむ》天皇《てんのう》の皇后《こうごう》におはす光明《こうみよう》皇后《こうごう》は、法華寺《ほつけじ》を尼寺《あまでら》として、お建《た》てになりました。光明《こうみよう》皇后《こうごう》のことは後《のち》に申《まを》しませう。
[#図版(18.png)、大佛殿]
 聖武《しようむ》天皇《てんのう》の皇女《こうじよ》、御位《みくらゐ》に即《つ》かれまして、第四十六代《だいしじゆうろくだい》孝謙《こうけん》天皇《てんのう》と申《まを》し上《あ》げます。天皇《てんのう》は一旦《いつたん》御位《みくらゐ》を、第四十七代《だいしじゆうしちだい》淳仁《じゆんにん》天皇《てんのう》におゆづりになりましたが、後《のち》再《ふたゝ》び第四十八代《だいしじゆうはちだい》稱徳《しようとく》天皇《てんのう》となられました。この天皇《てんのう》は、また大《たい》そう佛教《ぶつきよう》御信仰《ごしんこう》で、御父《おんちゝ》天皇《てんのう》の東大寺《とうだいじ》に對《たい》して、西大寺《さいだいじ》をお建《た》てになりました。この外《ほか》にも、聖武《しようむ》天皇《てんのう》からこの稱徳《しようとく》天皇《てんのう》までの間《あひだ》に、出來《でき》ました寺《てら》や佛像《ぶつぞう》は、實《じつ》におびたゞしいもので、建築《けんちく》、彫刻《ちようこく》、繪畫《かいが》の美術《びじゆつ》も、これが爲《ため》に大《おほ》いに進歩《しんぽ》し、奈良《なら》の都《みやこ》のはなやかなのは、おもに佛教《ぶつきよう》のためであつたと申《まを》してよいくらゐでした。この頃《ころ》東大寺《とうだいじ》の大佛《だいぶつ》に御寄附《ごきふ》になりましたたくさんの品物《しなもの》は、今《いま》もそのまゝに、皇室《こうしつ》の御物《ぎよぶつ》として、東大寺《とうだいじ》の正倉院《しようそういん》といふお庫《くら》に殘《のこ》つてをります。毎年《まいねん》御風通《おかぜとほ》しの時《とき》には、しかるべき人《ひと》たちに、拜觀《はいかん》をお差《さ》し許《ゆる》しになることとなつてをりますが、その御立派《ごりつぱ》なことには、拜觀《はいかん》した誰《たれ》もが驚《おどろ》かぬものはありません。こんなに古《ふる》い、こんなに立派《りつぱ》なものが、こんなにたくさんに、一所《ひとところ》に、そのまゝ殘《のこ》つてゐるといふことは、まったく世界中《せかいじゆう》他《ほか》に例《れい》のないところで、實《じつ》に我《わ》が國《くに》の誇《ほこ》りとすべきものであります。
 佛教《ぶつきよう》の盛《さか》んになると共《とも》に、立派《りつぱ》な僧侶《そうりよ》もたくさん出《で》て參《まゐ》りました。中《なか》にも行基《ぎようき》のごときは、最《もつと》も名高《なだか》いもので、その行《ゆ》くところ、多《おほ》くの信者《しんじや》が、雲《くも》のように集《あつま》るといふ程《ほど》でありました。行基《ぎようき》はそれらの信者《しんじや》を使《つか》つて、道《みち》を開《ひら》き、橋《はし》をかけ、船《ふな》つきの場所《ばしよ》を定《さだ》めたりして、交通《こうつう》の便利《べんり》をはかり、また池《いけ》を作《つく》つて耕作《こうさく》をすゝめるなど、多《おほ》くの社會《しやかい》奉仕《ほうし》の事業《じぎよう》を行《おこな》ひました。また光明《こうみよう》皇后《こうごう》は、病人《びようにん》に藥《くすり》を與《あた》へる施藥院《せやくいん》や、孤兒《みなしご》を世話《せわ》する悲田院《ひでんいん》などをお創《はじ》めになりましたが、このように、多《おほ》くの慈善《じぜん》事業《じぎよう》も、佛教《ぶつきよう》の盛《さか》んになると共《とも》に、起《おこ》つて參《まゐ》りました。
 しかし僧侶《そうりよ》の中《なか》には、道鏡《どうきよう》のようなふらち[#「ふらち」に傍点]なものも出《で》て來《く》れば、寄附《きふ》を得《え》んが爲《ため》に寺《てら》を造《つく》るといふような、横着《おうちやく》なものも出《で》て來《き》ます。殊《こと》に東大寺《とうだいじ》を始《はじ》めとして、多《おほ》くの寺《てら》を建《た》てたり、佛像《ぶつぞう》を作《つく》つたり、その他《ほか》佛事《ぶつじ》の爲《ため》に費《つひや》した費用《ひよう》が甚《はなは》だ多《おほ》くかゝつたので、國《くに》はだんだん貧乏《びんぼう》して參《まゐ》りましたのも、またやむを得《え》ぬことでした。

   三十五、奈良《なら》時代《じだい》の行《ゆ》き詰《づま》り

 稱徳《しようとく》天皇《てんのう》は、かねて佛教《ぶつきよう》を御信仰《ごしんこう》のあまり、もと世間《せけん》で評判《ひようばん》のよかつた道鏡《どうきよう》を、ひどく御信用《ごしんよう》になりました。この僧《そう》はもと、河内《かはち》の弓削氏《ゆげうぢ》の人《ひと》で、よく印度語《いんどご》が出來《でき》るといふ程《ほど》の學者《がくしや》でもあり、殊《こと》に葛城山《かつらきやま》に籠《こも》つて、熱心《ねつしん》に佛道《ぶつどう》を修行《しゆぎよう》したといふ、評判《ひようばん》の人《ひと》でしたから、佛教《ぶつきよう》に御熱心《ごねつしん》の天皇《てんのう》が、御信用《ごしんよう》なさつたに御無理《ごむり》もありません。ところで弓削氏《ゆげうぢ》は、物部《ものゝべ》守屋《もりや》の後《のち》をうけた家《いへ》でありますから、道鏡《どうきよう》は僧侶《そうりよ》の身《み》でありながらも、どうかして先祖《せんぞ》のような身分《みぶん》になりたいと、ひそかに大《おほ》きな野心《やしん》を抱《いだ》いてゐたのです。そこで上手《じようず》に天皇《てんのう》にお取《と》り入《い》り申《まを》し上《あ》げて、つひに目的《もくてき》通《どほ》りの大臣《だいじん》の位《くらゐ》にのぼり、おしまひには、法王《ほうおう》の位《くらゐ》をまで授《さづ》けられて、天皇《てんのう》に准《じゆん》ずる程《ほど》の御待遇《ごたいぐう》を受《う》ける程《ほど》の身分《みぶん》になりました。これは實《じつ》に非常《ひじよう》なことでありますが、これも天皇《てんのう》が佛法《ぶつぽう》御信仰《ごしんこう》のあまり、一時《いちじ》ついお目《め》がくらまれたのでありました。かくて道鏡《どうきよう》は、調子《ちようし》に乘《の》つて頻《しき》りにわがまゝな政治《せいじ》を行《おこな》ひます。奈良《なら》時代《じだい》はだん/\行《ゆ》き詰《つま》つて參《まゐ》りました。しかしその勢《いきほひ》が大《たい》そう強《つよ》いものですから、誰《たれ》もそれをどうすることも出來《でき》ませんでした。たま/\宇佐《うさ》八幡《はちまん》大神《だいじん》のお告《つ》げだといふことで、「道鏡《どうきよう》を天皇《てんのう》の位《くらゐ》にお即《つ》けになりますれば、天下《てんか》は太平《たいへい》になりませう」と、申《まを》し上《あ》げたものがありました。それを聞《き》いた道鏡《どうきよう》は、ます/\調子《ちようし》づいて、とう/\自身《じしん》天皇《てんのう》にならうといふ、とんでもない、大野心《だいやしん》を起《おこ》すようになりました。
 いかに天皇《てんのう》の御信用《ごしんよう》が厚《あつ》くとも、いかに神《かみ》のお告《つ》げだといふものがあつたとも、臣下《しんか》の身《み》として天皇《てんのう》にならうなどといふ大野心《だいやしん》を起《おこ》すとは、我《わ》が萬世《ばんせい》一系《いつけい》の國體《こくたい》の國《くに》に於《お》いて、あるべからざることであります。いふまでもなくこれは和氣《わけの》清麻呂《きよまろ》等《ら》の精忠《せいちゆう》によつて、失敗《しつぱい》に終《をは》りましたけれども、こんな問題《もんだい》が起《おこ》つたと申《まを》すにも、やはり我《わ》が國體《こくたい》の上《うへ》から、幾分《いくぶん》のわけがないでもありません。
 もと/\道鏡《どうきよう》は、その身分《みぶん》を尋《たづ》ねましたならば、天智《てんち》天皇《てんのう》の御孫《おんまご》に當《あた》る人《ひと》で、はやく弓削氏《ゆげうぢ》の家《いへ》をついでゐたのでありました。さればもとは皇族《こうぞく》に深《ふか》い縁故《えんこ》があつた筈《はず》であります。しかし、かりにもと皇族《こうぞく》であつたとしましても、すでに弓削氏《ゆげうぢ》の人《ひと》となつてをれば、もちろん、臣下《しんか》の身《み》でありまして、天皇《てんのう》の御位《みくらゐ》に即《つ》くなどといふ資格《しかく》はありません。
 それを望《のぞ》んだ道鏡《どうきよう》が、ふらち[#「ふらち」に傍点]千萬《せんばん》であることは申《まを》すまでもありませんが、しかしもと道鏡《どうきよう》が皇族《こうぞく》であつたといふが爲《ため》に、天皇《てんのう》も佛法《ぶつぽう》御信仰《ごしんこう》のあまり、ついその御信用《ごしんよう》の厚《あつ》いまゝに、法王《ほうおう》といふ皇族《こうぞく》類似《るいじ》の位《くらゐ》をお授《さづ》けになつたり、道鏡《どうきよう》を天皇《てんのう》の御位《みくらゐ》に即《つ》けたらばなどいひ出《だ》すものも出《で》て來《き》たり、道鏡《どうきよう》自身《じしん》も大《だい》それた野心《やしん》を起《おこ》すようになつたのでありませう。
[#図版(19.png)]
 むかし平群《へぐりの》眞鳥《まとり》といふものが、天皇《てんのう》にならうといふ大野心《だいやしん》を起《おこ》したことがありました。また後《のち》には平《たひらの》將門《まさかど》が、東國《とうごく》によつて獨立《どくりつ》をはかり、天子《てんし》氣取《きど》りになつたこともありました。もちろん、いづれも目的《もくてき》を達《たつ》する筈《はず》はなく、皆《みな》殺《ころ》されてしまひましたが、しかし眞鳥《まとり》は、孝元《こうげん》天皇《てんのう》の曾孫《ひまご》の、武内《たけうちの》宿禰《すくね》の孫《まご》であり、將門《まさかど》は桓武《かんむ》天皇《てんのう》の御孫《おまご》、高見王《たかみおう》の曾孫《ひまご》でありました。共《とも》に皇族出《こうぞくで》であるので、勢《いきほひ》にまかせては、ついそんな不埓《ふらち》千萬《せんばん》な大野心《だいやしん》をも、起《おこ》して見《み》たのでありました。道鏡《どうきよう》もまたその通《とほ》りで、もと皇族《こうぞく》であつたといふことから、ついそんな間違《まちが》つた考《かんが》へをも、起《おこ》して見《み》ましたのです。我《わ》が萬世《ばんせい》一系《いつけい》の大日本《だいにつぽん》帝國《ていこく》に於《お》いて、いかに勢《いきほひ》がつよくとも、はじめから皇室《こうしつ》に少《すこ》しも因縁《いんねん》のないものが、天皇《てんのう》にならうなどといふことを、考《かんが》へて見《み》たものの甞《かつ》てないことは、實《じつ》に我《わ》が國體《こくたい》の尊《たふと》いところであります。
 稱徳《しようとく》天皇《てんのう》お崩《かく》れの後《のち》、第四十九代《だいしじゆうくだい》光仁《こうにん》天皇《てんのう》が御位《みくらゐ》をつがれました。天皇《てんのう》は天智《てんち》天皇《てんのう》の御孫《おまご》であらせられます。天皇《てんのう》の御即位《ごそくい》と共《とも》に、道鏡《どうきよう》は下野《しもつけ》に逐《お》ひやられて、まもなくそこで死《し》にました。この道鏡《どうきよう》の排斥《はいせき》については、もちろん和氣《わけの》清麻呂《きよまろ》が、道鏡《どうきよう》の勢《いきほひ》に恐《おそ》れず、一身《いつしん》のことをもかへり見《み》ずして、正《たゞ》しい道理《どうり》をおし通《とほ》した爲《ため》でありますが、その蔭《かげ》で藤原《ふぢはらの》百川《もゝかは》が、これを助《たす》けてをつたことを忘《わす》れてはなりません。百川《もゝかは》は藤原《ふぢはらの》鎌足《かまたり》の子《こ》の、不比等《ふびと》の孫《まご》で、宇合《うまかひ》の子《こ》であります。藤原氏《ふぢはらうぢ》は中臣《なかとみ》鎌足《かまたり》が始《はじ》めた家《いへ》です。

   三十六、平安《へいあん》遷都《せんと》

 道鏡《どうきよう》が排斥《はいせき》せられては、自然《しぜん》世《よ》の中《なか》の樣子《ようす》が變《かは》つて來《こ》ねばなりません。この光仁《こうにん》天皇《てんのう》の御代《みよ》の頃《ころ》は、「咲《さ》く花《はな》の匂《にほ》ふが如《ごと》く」といはれた奈良《なら》の都《みやこ》の時代《じだい》も、實《じつ》はほとんど行《ゆ》き詰《づま》りのあり樣《さま》となつてをりました。萬事《ばんじ》があまりにはなやかであつたのと、ことに佛法《ぶつぽう》をあまりに御奬勵《ごしようれい》になつたのとの爲《ため》に、國《くに》の富《とみ》はだん/\減《へ》つて來《く》る。その上《うへ》に道鏡《どうきよう》のわがまゝの爲《ため》に、よほど政治《せいじ》もみだれて參《まゐ》りまして、いつかは大《おほ》きな立《た》て直《なほ》しをせねばならぬようになつてゐたのであります。そこで光仁《こうにん》天皇《てんのう》の御一代《ごいちだい》は、專《もつぱ》らその整理《せいり》におつとめになりましたが、第五十代《だいごじゆうだい》桓武《かんむ》天皇《てんのう》の御代《みよ》の初《はじ》め、延暦《えんりやく》三年《さんねん》といふ年《とし》に、藤川《ふぢはらの》[#「藤川」は底本のまま]百川《もゝかは》の甥《をひ》の種繼《たねつぐ》のおすすめによつて、急《きゆう》に山城《やましろ》の長岡《ながをか》へ、都《みやこ》をお遷《うつ》しになることになりました。長岡《ながをか》は今《いま》の京都市《きようとし》の西南《にしみなみ》、向日町《むかふまち》停車場《ていしやば》のあるあたりです。
 桓武《かんむ》天皇《てんのう》は光仁《こうにん》天皇《てんのう》の御子《みこ》であらせられます。光仁《こうにん》天皇《てんのう》の御即位《ごそくい》についても、また桓武《かんむ》天皇《てんのう》の御即位《ごそくい》についても、百川《もゝかは》が專《もつぱ》ら御盡力《ごじんりよく》申《まを》し上《あ》げたのでありましたから、天皇《てんのう》は大《たい》そう百川《もゝかは》を重《おも》んじてをられましたが、百川《もゝかは》は不幸《ふこう》にして早《はや》く死《し》にまして、甥《をひ》の種繼《たねつぐ》が代《かは》つて、大《たい》そう天皇《てんのう》の御信任《ごしんにん》を受《う》けることになりました。この種繼《たねつぐ》の母《はゝ》は、當時《とうじ》の富豪《ふごう》秦《はたの》朝元《あさもと》の娘《むすめ》であります。そんな關係《かんけい》で、種繼《たねつぐ》は秦氏《はたうぢ》の助《たす》けを得《え》まして、この財政《ざいせい》の行《ゆ》きつまりの際《さい》にも、急《きゆう》に遷都《せんと》が出來《でき》たのです。種繼《たねつぐ》はこの新《あたら》しい都《みやこ》で、大《おほ》いに自分《じぶん》の腕《うで》を振《ふる》はうとしたのでありませう。しかるにまもなく種繼《たねつぐ》は、反對者《はんたいしや》の爲《ため》に暗殺《あんさつ》せられました。そこでせっかくお遷《うつ》しになつたこの長岡《ながをか》の新都《しんと》も、十年《じゆうねん》かゝつても、つひに出來上《できあが》りにならぬうちに止《や》めになり、延暦《えんりやく》十三年《じゆうさんねん》に、更《さら》に和氣《わけの》清麻呂《きよまろ》のおすゝめにより、急《きゆう》に今《いま》の京都市《きようとし》のところに、御遷都《ごせんと》になりました。これを平安京《へいあんきよう》と申《まを》します。こゝは聖徳《しようとく》太子《たいし》の御頃《おんころ》に、このあたりの大地主《おほじぬし》秦《はたの》川勝《かはかつ》が、廣隆寺《こうりゆうじ》を建《た》てましたところで、その子孫《しそん》が引《ひ》き續《つゞ》き、この地方《ちほう》の大富豪《だいふごう》でありました。その大富豪《だいふごう》の秦《はたの》島麻呂《しままろ》の娘《むすめ》が、藤原《ふぢはらの》不比等《ふびと》の子《こ》房前《ふささき》の孫《まご》の、小黒麻呂《をぐろまろ》の妻《つま》であつた關係《かんけい》から、和氣《わけの》清麻呂《きよまろ》は、長岡《ながをか》の都《みやこ》が十年《じゆうねん》たつても出來上《できあが》らないので、この小黒麻呂《をぐろまろ》を押《お》し立《た》てゝ、大富豪《だいふごう》秦氏《はたうぢ》の助《たす》けによつて、更《さら》にこゝに、遷都《せんと》の大事業《だいじぎよう》をなすことが出來《でき》たものと見《み》えます。
 平安京《へいあんきよう》は大體《だいたい》奈良《なら》の都《みやこ》の通《とほ》りで、少《すこ》しく北《きた》へ擴《ひろ》げたのと、道幅《みちはゞ》が幾《いく》らか廣《ひろ》くなつたものがあるくらゐの違《ちが》ひです。たゞ宮城《きゆうじよう》即《すなはち》、大内裏《だいだいり》には、朱雀門《すざかもん》の正面《しようめん》に、大極殿《だいごくでん》などの朝堂院《ちようどういん》があり、その東《ひがし》に天皇《てんのう》の御《ご》ふだんの御居所《ごきよしよ》たる内裏《だいり》がありますことは、奈良《なら》の都《みやこ》と違《ちが》つてゐるところです。これは奈良《なら》の時《とき》とは違《ちが》つて、國家《こつか》の正廳《せいちよう》たる大極殿《だいごくでん》を主《しゆ》とした爲《ため》でありませう。内裏《だいり》には紫宸殿《ししんでん》や、清涼殿《せいりようでん》などがありますが、その紫宸殿《ししんでん》は、もと川勝《かはかつ》の屋敷《やしき》あとで、紫宸殿《ししんでん》の前《まへ》の橘《たちばな》の木《き》は、川勝《かはかつ》の屋敷《やしき》にあつたものが、そのまゝに殘《のこ》されたのだと申《まを》します。しかしこの宮城《きゆうじよう》も、度々《たび/\》の火事《かじ》や、戰爭《せんそう》で、あと方《かた》もなくなり、今《いま》の京都《きようと》御所《ごしよ》は、後《のち》に昔《むかし》の内裏《だいり》にならつて、別《べつ》のところへお造《つく》りになつたものなのです。
 明治《めいじ》二十八年《にじゆうはちねん》に、平安《へいあん》遷都《せんと》千百年《せんひやくねん》記念祭《きねんさい》を京都《きようと》で行《おこな》ひまして、平安《へいあん》神宮《じんぐう》を建《た》てゝ、桓武《かんむ》天皇《てんのう》をお祭《まつ》りしました。この神宮《じんぐう》の建築《けんちく》は、大體《だいたい》大極殿《だいごくでん》にならつたものでありますから、これを見《み》れば、ほゞ昔《むかし》の朝堂院《ちようどういん》の樣子《ようす》もわかりませう。
 平安京《へいあんきよう》はこれから後《のち》、明治《めいじ》の御代《みよ》の初《はじ》めに、明治《めいじ》天皇《てんのう》東京《とうきよう》にお移《うつ》りになりますまで、約《やく》千《せん》七十年間《しちじゆうねんかん》の帝都《ていと》となりました。そのうちでも、源《みなもとの》頼朝《よりとも》が鎌倉《かまくら》で幕府《ばくふ》を開《ひら》きますまで、約《やく》四百《しひやく》年間《ねんかん》、日本《につぽん》の政治《せいじ》はこゝで行《おこな》はれましたので、これを『平安朝《へいあんちよう》時代《じだい》』と申《まを》します。今《いま》の京都《きようと》の市街《しがい》は、この平安京《へいあんきよう》が西《にし》の方《かた》で幾《いく》らか減《へ》り、大《おほ》いに東《ひがし》の方《ほう》に延《の》びたものでありまして、今《いま》の京都《きようと》の町筋《まちすぢ》が、大抵《たいてい》正《たゞ》しく東西《とうざい》に、また南北《なんぼく》に通《とほ》つてをりますのは、昔《むかし》の平安京《へいあんきよう》の町割《まちわ》りが、大體《だいたい》にそのまゝ殘《のこ》つてゐる爲《ため》であります。
[#図版(20.png)、平安京地圖]

   三十七、藤原氏《ふぢはらし》の全盛《ぜんせい》(一)

 大化《たいか》の新政《しんせい》に中臣《なかとみの》鎌足《かまたり》が大《たい》そう手柄《てがら》がありましたので、もと祭神《さいじん》の家《いへ》から出《で》たのではありましたが、別《べつ》に政治《せいじ》に預《あづか》る家《いへ》を起《おこ》して、藤原《ふぢはら》といふ氏《うぢ》を賜《たま》はり、大織冠《だいしよくかん》といふ一番《いちばん》高《たか》い位《くらゐ》を授《さづ》けられました。これから後《のち》、昔《むかし》からの舊家《きゆうか》はだん/\衰《おとろ》へて、藤原氏《ふぢはらうぢ》のみが一番《いちばん》盛《さか》んになりました。
 鎌足《かまたり》の子《こ》藤原《ふぢはらの》不比等《ふびと》は、右大臣《うだいじん》に任《にん》ぜられ、その娘《むすめ》の宮子娘《みやこいらつめ》といふ方《かた》は、文武《もんむ》天皇《てんのう》の夫人《ふじん》となられました。これが聖武《しようむ》天皇《てんのう》の御母君《おんはゝぎみ》です。この頃《ころ》までは、皇后《こうごう》となられますお方《かた》は、皇族《こうぞく》に限《かぎ》つてをられましたので、いかに藤原氏《ふぢはらし》勢力《せいりよく》がありましても、臣下《しんか》の娘《むすめ》であつては、夫人《ふじん》以上《いじよう》にのぼることは出來《でき》ないのでありましたから、致《いた》し方《かた》がなかつたのでありますが、天皇《てんのう》は宮子娘《みやこいらつめ》の外《ほか》に、別《べつ》に皇后《こうごう》をお立《た》てになりませんでした。これは藤原氏《ふぢはらし》に御遠慮《ごえんりよ》なされた爲《ため》であつたかも知《し》れません。
 不比等《ふびと》の次《つ》ぎの娘《むすめ》の方《かた》は、これも聖武《しようむ》天皇《てんのう》の夫人《ふじん》となられましたが、後《のち》に前例《ぜんれい》を破《やぶ》つて、皇后《こうごう》となられました。これが有名《ゆうめい》なる光明《こうみよう》皇后《こうごう》であらせられます。臣下《しんか》から皇后《こうごう》がお立《た》ちになりましたのは、これが初《はじ》めでありまして、これから後《のち》皇后《こうごう》は、大抵《たいてい》藤原氏《ふぢはらし》から出《で》られることとなりました。
 また不比等《ふびと》の四人《よにん》の男《をとこ》の子《こ》は、武智麻呂《むちまろ》、房前《ふささき》、宇合《うまかひ》、麻呂《まろ》と申《まを》し、それ/″\高《たか》い官位《かんい》にすゝみまして、朝廷《ちようてい》の大官《たいかん》は、殆《ほとん》ど藤原氏《ふぢはらし》一族《いちぞく》で固《かた》めるといふ程《ほど》の勢《いきほひ》になりかけましたが、まことに偶然《ぐうぜん》のことで、聖武《しようむ》天皇《てんのう》の御代《みよ》に、天然痘《てんねんとう》の大流行《だいりゆうこう》がありました時《とき》、この四人《よにん》が皆《みな》同《おな》じ年《とし》のうちに死《し》にました。そしてその子供等《こどもら》は、皆《みな》年《とし》が若《わか》かつたものですから、藤原氏《ふぢはらし》の勢《いきほひ》は、やむを得《え》ず一時《いちじ》大《おほ》いに衰《おとろ》へました。
 しかし何分《なにぶん》にも、鎌足《かまたり》の大勳功《だいくんこう》の後《あと》をうけた家《いへ》であります。その後《ご》だん/\勢力《せいりよく》を恢復《かいふく》しまして、奈良朝《ならちよう》の末《すゑ》には、藤原《ふぢはらの》百川《もゝかは》が大功《たいこう》を立《た》て、その甥《をひ》の種繼《たねつぐ》は、桓武《かんむ》天皇《てんのう》におすゝめして、都《みやこ》を長岡《ながをか》に移《うつ》す程《ほど》の勢《いきほひ》となりました。もちろん、外《ほか》の舊家《きゆうか》の人《ひと》たちの中《なか》には、藤原氏《ふぢはらし》のひとり盛《さか》んになるのに、反對《はんたい》するものもありまして、種繼《たねつぐ》暗殺《あんさつ》のような事件《じけん》も起《おこ》りましたが、これが爲《ため》に反對者《はんたいしや》は罪《つみ》せられて、かへつて勢力《せいりよく》を失《うしな》ひ、藤原氏《ふぢはらし》ばかりが盛《さか》んになるといふ結果《けつか》になりました。御代々《ごだい/\》の皇后《こう/″\》は、大抵《たいてい》藤原氏《ふぢはらし》からお立《た》ちになる。御代々《ごだい/″\》の天皇《てんのう》は、大抵《たいてい》その藤原《ふぢはら》皇后《こう/″\》のお腹《はら》に、お生《うま》れになつたお方々《かた/″\》であらせられる。大臣《だいじん》を始《はじ》めとして、朝廷《ちようてい》の大官《たいかん》も、大抵《たいてい》藤原氏《ふぢはらし》の人々《ひと/″\》で固《かた》めるといふあり樣《さま》で、だん/\我《わ》がまゝな行《おこな》ひが多《おほ》くなつて參《まゐ》ります。
 第五十五代《だいごじゆうごだい》文徳《もんとく》天皇《てんのう》の皇后《こうごう》は、やはり藤原《ふぢはらの》良房《よしふさ》の娘《むすめ》の方《かた》でありました。良房《よしふさ》は藤原《ふぢはらの》房前《ふささき》の孫《まご》の、冬嗣《ふゆつぎ》の子《こ》です。冬嗣《ふゆつぎ》が第五十二代《だいごじゆうにだい》嵯峨《さが》天皇《てんのう》の御信任《ごしんにん》を厚《あつ》うしてから、藤原氏《ふぢはらし》の家《いへ》がいくつにも分《わか》れた中《なか》でも、この家筋《いへすぢ》が殊《こと》に盛《さか》んになつたのです。かくて天皇《てんのう》お崩《かく》れの時《とき》に、その皇后《こうごう》のお腹《なか》の皇子《おうじ》は、まだ御九歳《おんくさい》といふような、御幼少《ごようしよう》のお方《かた》でありましたが、先帝《せんてい》の御《おん》あとをついで、天皇《てんのう》の御位《みくらゐ》に即《つ》かれました。これを第五十六代《だいごじゆうろくだい》清和《せいわ》天皇《てんのう》と申《まを》し上《あ》げます。これは日本《につぽん》で御幼少《ごようしよう》の天皇《てんのう》の初《はじ》めであります。そして良房《よしふさ》は攝政《せつしよう》となりました。
 昔《むかし》は御自身《ごじしん》御政治《ごせいじ》をなさるにお差《さ》し支《つか》へのない程《ほど》に、お歳《とし》を取《と》られたお方《かた》でなければ、天皇《てんのう》の御位《みくらゐ》にはお即《つ》きになりません。それ故《ゆゑ》に、もし天皇《てんのう》お崩《かく》れの後《のち》に、後《あと》つぎのお方《かた》がまだお若《わか》くいらせられる時《とき》には、皇后《こうごう》が御位《みくらゐ》に即《つ》かれることもありました。皇極《こうぎよく》天皇《てんのう》、持統《じとう》天皇《てんのう》など、皆《みな》さうであります。しかしそれは、皇后《こうごう》が皆《みな》皇族《こうぞく》のお方《かた》であらせられた時代《じだい》のことです。光明《こうみよう》皇后《こうごう》以來《いらい》、皇后《こうごう》が藤原氏《ふぢはらし》からお出《で》になるようになりましては、いくら藤原氏《ふぢはらし》に勢力《せいりよく》がありましても、その皇后《こうごう》が天皇《てんのう》の御位《みくらゐ》に即《つ》かれるわけには參《まゐ》りません。そこで止《や》むを得《え》ぬことであつたではありませうが、こんな御幼少《ごようしよう》のお方《かた》が、天皇《てんのう》となられる例《れい》が始《はじ》まりましたのです。しかし御幼少《ごようしよう》の天皇《てんのう》では、御自身《ごじしん》御政治《ごせいじ》をなさるわけには參《まゐ》りません。そこで、天皇《てんのう》には御母方《おんはゝかた》の祖父《そふ》に當《あた》る、藤原《ふぢはらの》良房《よしふさ》が攝政《せつしよう》となつて、天皇《てんのう》にお代《かは》り申《まを》して、すべての政治《せいじ》を行《おこな》ふことになりました。今日《こんにち》の皇室《こうしつ》の御規則《ごきそく》でも、天皇《てんのう》が御幼少《ごようしよう》にましますとか、或《あるひ》は御病氣《ごびようき》などで、御自身《ごじしん》御政治《ごせいじ》をなさることがお出來《でき》にならない場合《ばあひ》には、臨時《りんじ》に攝政《せつしよう》をお置《お》きになることになつてをりますが、それは皇太子《こうたいし》とか、皇后《こうごう》とか、その外《ほか》お近《ちか》しい皇族《こうぞく》のお方《かた》に限《かぎ》ります。大正《たいしよう》天皇《てんのう》陛下《へいか》御病氣《ごびようき》であらせられましたが爲《ため》に、今上《きんじよう》天皇《てんのう》陛下《へいか》が、皇太子《こうたいし》として攝政《せつしよう》であらせられたような次第《しだい》であります。ところで藤原《ふぢはらの》良房《よしふさ》は、御幼少《ごようしよう》の天皇《てんのう》をお立《た》て申《まを》し、臣下《しんか》として攝政《せつしよう》となるの例《れい》を始《はじ》めたのです。

   三十八、藤原氏《ふぢはらし》の全盛《ぜんせい》(二)

 次《つ》ぎに良房《よしふさ》の兄《あに》の子《こ》で、良房《よしふさ》の養子《ようし》となつた基經《もとつね》は、その勢力《せいりよく》更《さら》に父《ちゝ》よりも盛《さか》んでありまして、第五十八代《だいごじゆうはちだい》宇多《うだ》天皇《てんのう》の御代《みよ》に、初《はじ》めて關白《かんぱく》といふことになりました。關白《かんぱく》とは、下《した》から天皇《てんのう》に申《まを》し上《あ》げますにも、また、天皇《てんのう》から下《した》へお命《めい》じになりますにも、まづもつてその人《ひと》を經《へ》なければならぬことなのです。つまり關白《かんぱく》が承知《しようち》しなければ、天皇《てんのう》も、大臣《だいじん》も、何《なに》も出來《でき》ないといふことになるのです。
[#図版(21.png)、菅原道真]
 そんな勢《いきほひ》ですから、宇多《うだ》天皇《てんのう》は、かう藤原氏《ふぢはらし》ばかりに、すべての政治《せいじ》をおまかせになりましては、ます/\そのわがまゝがひどくなることを、御心配《ごしんぱい》になりまして、菅原《すがはらの》道眞《みちざね》をお引《ひ》き上《あ》げになり、藤原氏《ふぢはらし》の勢力《せいりよく》をおさへようとなさいました。かくて次《つ》ぎの帝《みかど》第五十九代《だいごじゆうくだい》醍醐《だいご》天皇《てんのう》の御代《みよ》には、基經《もとつね》の子《こ》時平《ときひら》は左大臣《さだいじん》、道眞《みちざね》は右大臣《うだいじん》といふ工合《ぐあひ》に、相並《あひなら》んで政治《せいじ》にあづかることになりました。
 しかしながら菅原氏《すがはらし》は、もと學者《がくしや》の家《いへ》で、昔《むかし》から大臣《だいじん》になつたことなどは一度《いちど》もなかつたのであります。さればいかに天皇《てんのう》の御信任《ごしんにん》がお厚《あつ》かつたとは申《まを》せ、この藤原氏《ふぢはらし》の盛《さか》んな時代《じだい》に、そんな家《いへ》から出《で》た道眞《みちざね》が、大臣《だいじん》となつて藤原氏《ふぢはらし》と並《なら》ぶといふことは、時平《ときひら》に取《と》つては不平《ふへい》でたまりません。その他《ほか》のものも、道眞《みちざね》がその家柄《いへがら》の低《ひく》いのにかゝはらず、出世《しゆつせ》があまりにひどかつたので、自然《しぜん》それをねたむようになります。そんな次第《しだい》で道眞《みちざね》は、後《のち》に太宰府《だざいふ》にうつされまして、せっかくの宇多《うだ》天皇《てんのう》の御心《みこゝろ》も、かへつて藤原氏《ふぢはらし》の勢力《せいりよく》を、一層《いつそう》盛《さか》んならしめる結果《けつか》となりました。
 道眞《みちざね》が退《しりぞ》けられまして後《のち》は、もはや藤原氏《ふぢはらし》と張《は》り合《あ》つて、その勢力《せいりよく》を分《わか》たうといふ程《ほど》のものもありません。これから後《のち》藤原氏《ふぢはらし》の人々《ひと/″\》は、御幼少《ごようしよう》の天皇《てんのう》をお立《た》て申《まを》しては、自身《じしん》攝政《せつしよう》に任《にん》ぜられ、天皇《てんのう》が御成長《ごせいちよう》遊《あそ》ばしますと、關白《かんぱく》に任《にん》ぜられるといふ風《ふう》に、恐《おそ》れ多《おほ》いことではありますが、天皇《てんのう》はたゞ尊《たふと》く上《うへ》にましますばかりで、政治《せいじ》はすべて藤原氏《ふぢはらし》まかせといふような、ひどい御《おん》あり樣《さま》になつてしまひました。

   三十九、藤原氏《ふぢはらし》の全盛《ぜんせい》(三)

 かうなつて來《き》ますと、今度《こんど》は同《おな》じ藤原氏《ふぢはらし》一族《いちぞく》の間《あひだ》で、自然《しぜん》競爭《きようそう》が起《おこ》つて來《く》るのはやむを得《え》ません。
 初《はじ》め藤原《ふぢはらの》鎌足《かまたり》の子《こ》不比等《ふびと》に、四人《よにん》の男《をとこ》の子《こ》があつて、それ/″\肩《かた》を並《なら》べて立身《りつしん》出世《しゆつせ》し、朝廷《ちようてい》の大官《たいかん》は、大抵《たいてい》藤原氏《ふぢはらし》一族《いちぞく》で固《かた》めるといふ程《ほど》の勢《いきほひ》でありました。たま/\天然痘《てんねんとう》の大流行《だいりゆうこう》で、四人《よにん》ともに同《おな》じ年《とし》の内《うち》に死《し》んでしまつたので、藤原氏《ふぢはらし》の衰《おとろ》へたといふことを、さきにお話《はなし》して置《お》きましたが、もしあの時《とき》に天然痘《てんねんとう》がはやらなんだなら、今《いま》の平安朝《へいあんちよう》の藤原氏《ふぢはらし》の全盛《ぜんせい》は、はやく奈良朝《ならちよう》時代《じだい》に來《き》てをつたのかも知《し》れません。しかし、その子供等《こどもら》が成長《せいちよう》しまして、それ/″\別々《べつ/\》の家《いへ》を起《おこ》し、だん/\と勢力《せいりよく》を恢復《かいふく》して參《まゐ》りまして、つひに今《いま》のような、藤原氏《ふぢはらし》全盛《ぜんせい》時代《じだい》となつたのです。はじめのうちは宇合《うまかひ》の子孫《しそん》が盛《さか》んでしたが、後《のち》には冬嗣《ふゆつぎ》、良房《よしふさ》のような人《ひと》が出《で》たので、房前《ふささき》の子孫《しそん》たる良房《よしふさ》の家《いへ》が、一番《いちばん》盛《さか》んなものになりました。そして外《ほか》に競爭者《きようそうしや》がなくなりますと、今度《こんど》は良房《よしふさ》の子孫《しそん》同士《どうし》の間《あひだ》に、ひどい競爭《きようそう》が起《おこ》つて來《く》るのです。
 良房《よしふさ》が、臣下《しんか》の身分《みぶん》ではじめて攝政《せつしよう》となり、その養子《ようし》基經《もとつね》が、はじめて關白《かんぱく》となつてから、基經《もとつね》の子《こ》忠平《たゞひら》、忠平《たゞひら》の子《こ》實頼《さねより》、實頼《さねより》の子《こ》頼忠《よりたゞ》、實頼《さねより》の弟《おとうと》師輔《もろすけ》の子《こ》伊尹《これたゞ》、兼通《かねみち》、兼家《かねいへ》の兄弟《きようだい》、兼家《かねいへ》の子《こ》道隆《みちたか》、道兼《みちかね》、道長《みちなが》の兄弟等《きようだいら》、みな攝政《せつしよう》とか關白《かんぱく》とかになりました。かうなると、藤原氏《ふぢはらし》一族《いちぞく》の間《あひだ》の爭《あらそ》ひといふよりも、最《もつと》も親《した》しい筈《はず》の兄弟《きようだい》同士《どうし》の間《あひだ》にまで、ひどい競爭《きようそう》が起《おこ》つて參《まゐ》ります。
 ところが、これはまことに偶然《ぐうぜん》のことでありますが、昔《むかし》聖武《しようむ》天皇《てんのう》の御代《みよ》に天然痘《てんねんとう》がはやつて、不比等《ふびと》の四人《よにん》の子《こ》が死《し》んだと同《おな》じように、それから二百《にひやく》五十七年《ごじゆうしちねん》たつた第六十六代《だいろくじゆうろくだい》一條《いちじよう》天皇《てんのう》の御代《みよ》に、またひどい天然痘《てんねんとう》の流行《りゆうこう》がありました。
 そして道隆《みちたか》、道兼《みちかね》を始《はじ》めとして、藤原氏《ふぢはらし》の大官《たいかん》たちが、たくさん死《し》にましたので、生《い》き殘《のこ》つた道長《みちなが》のみが、ひとり大《たい》そう仕合《しあは》せをしました。殊《こと》に道長《みちなが》に取《と》つて仕合《しあは》せであつたのは、いくたりものよい娘《むすめ》の子《こ》があつたことです。
 なんと申《まを》しても日本《につぽん》は、萬世《ばんせい》一系《いつけい》の天皇《てんのう》陛下《へいか》を中心《ちゆうしん》と仰《あふ》ぎ奉《たてまつ》る國《くに》であります。藤原氏《ふぢはらし》いかに勢力《せいりよく》がありましても、又《また》いかに一族《いちぞく》の間《あひだ》に競爭《きようそう》が烈《はげ》しくなりましても、天皇《てんのう》を高《たか》く上《うへ》に戴《いたゞ》き奉《たてまつ》つて、自分《じぶん》は攝政《せつしよう》、關白《かんぱく》になるといふより以上《いじよう》のことは出來《でき》ません。そしてさうするには、自分《じぶん》の娘《むすめ》を皇后《こうごう》にさし上《あ》げまして、そのお腹《なか》に皇子《おうじ》がお生《うま》れになりますと、それを天皇《てんのう》の御位《みくらゐ》に即《つ》け奉《たてまつ》つて、自分《じぶん》はその御代《みよ》の攝政《せつしよう》ともなり、關白《かんぱく》ともなるといふのであります。
 道長《みちなが》には大勢《おほぜい》のよい娘《むすめ》の子《こ》がありましたが、一人《ひとり》は第六十六代《だいろくじゆうろくだい》一條《いちじよう》天皇《てんのう》の中宮《ちゆうぐう》となつて、その御腹《おんはら》に第六十八代《だいろくじゆうはちだい》の後一條《ごいちじよう》天皇《てんのう》と、第六十九代《だいろくじゆうくだい》の後朱雀《ごすじやく》天皇《てんのう》とがお生《うま》れになりました。また一人《ひとり》は第六十七代《だいろくじゆうしちだい》三條《さんじよう》天皇《てんのう》の中宮《ちゆうぐう》となり、一人《ひとり》は甥《をひ》に當《あた》らせられる後一條《ごいちじよう》天皇《てんのう》の中宮《ちゆうぐう》となりましたが、今一人《いまひとり》はこれも御甥《おんをひ》の後朱雀《ごすじやく》天皇《てんのう》の女御《によご》となりまして、そのお腹《はら》に第七十代《だいしちじゆうだい》後冷泉《ごれいぜい》天皇《てんのう》がお生《うま》れになりました。
 中宮《ちゆうぐう》とはもと、皇后《こうごう》とか、皇太后《こうたいごう》とかの御事《おんこと》を申《まを》すので、もちろん皇后《こうごう》と同《おな》じお身分《みぶん》のお方《かた》であります。しかし一條《いちじよう》天皇《てんのう》には、前《まへ》に道長《みちなが》の兄《あに》道隆《みちたか》の娘《むすめ》が、すでに皇后《こうごう》になつてをられましたので、お二人《ふたり》の皇后《こうごう》をお立《た》てになるわけには參《まゐ》りません。そこで道長《みちなが》は、別《べつ》に中宮《ちゆうぐう》といふお名前《なまへ》に致《いた》しまして、自分《じぶん》の娘《むすめ》を皇后《こうごう》としておすゝめ申《まを》しましたので、實《じつ》は一條《いちじよう》天皇《てんのう》には、お二人《ふたり》の皇后《こうごう》が同時《どうじ》にあらせられることになりましたのです。これから後《のち》、天皇《てんのう》には、しば/\同時《どうじ》に、皇后《こうごう》と中宮《ちゆうぐう》との、同《おな》じお身分《みぶん》のお方《かた》が、お二方《ふたかた》あらせられるといふ例《れい》が始《はじ》まりました。これも道長《みちなが》が、自分《じぶん》の娘《むすめ》を皇后《こうごう》にさし上《あ》げたいとの、わがまゝの爲《ため》でした。また女御《によご》と申《まを》しますのは、皇后《こうごう》、中宮《ちゆうぐう》よりも一段《いちだん》お身分《みぶん》の低《ひく》いお方《かた》で、昔《むかし》、光明《こうみよう》皇后《こうごう》が、はじめは聖武《しようむ》天皇《てんのう》の夫人《ふじん》であらせられたと申《まを》すのと、同《おな》じようなものです。
[#図版(22.png)、藤原道長]
 かくて道長《みちなが》は、その娘《むすめ》が三人《さんにん》まで皇后《こうごう》に、今一人《いまひとり》が女御《によご》に、また外孫《がいそん》に當《あた》らせられるお方《かた》が、御三方《おさんかた》まで引《ひ》きつゞき、天皇《てんのう》となられましたといふように、昔《むかし》から曾《かつ》てためしのない身分《みぶん》となりました。
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この世《よ》をば、我《わ》が世《よ》とぞ思《おも》ふ望月《もちづき》の
         かけたることもなしと思《おも》へば
[#ここで字下げ終わり]
といふのは、かれがその滿足《まんぞく》の心《こゝろ》を、無遠慮《ぶえんりよ》に述《の》べたものですが、なんといふわがまゝな歌《うた》でせう。十五夜《じゆうごや》の月《つき》のまん圓《まる》いように、思《おも》ふことこと/″\くかなうて、少《すこ》しも不足《ふそく》はない、この世界《せかい》は、まるで自分《じぶん》の爲《ため》の世界《せかい》のように思《おも》はれるといふのです。そしてその世界《せかい》の中《なか》には、思《おも》ふこと何一《なにひと》つとしてかなはず、その日《ひ》、その日《ひ》を活《い》きて行《ゆ》くにさへ、困《こま》つてゐる下層《かそう》の民衆《みんしゆう》が、どれだけあるか知《し》れないことなどは、一向《いつこう》考《かんが》へても見《み》ないのです。

   四十、藤原氏《ふぢはらし》の全盛《ぜんせい》(四)

 そんなあり樣《さま》ですから、道長《みちなが》は、どんなことでも、好《す》き勝手《かつて》なわがまゝを行《おこな》つてはゞかりません。かれが法成寺《ほうしようじ》を建《た》てた時《とき》のごときは、宮中《きゆうちゆう》のものでも、役所《やくしよ》のものでも、自分《じぶん》のほしいと思《おも》ふ庭石《にはいし》などは、勝手《かつて》に取《と》つて來《く》る。まるで朝廷《ちようてい》でも、役所《やくしよ》でも、自分《じぶん》のもののように思《おも》うてゐるのです。そのうちに、たま/\道長《みちなが》が病氣《びようき》になりまして、いつ死《し》ぬかも知《し》れないといふので、その子《こ》頼通《よりみち》は、大《たい》そうその工事《こうじ》を急《いそ》ぎまして、たとひ朝廷《ちようてい》の御事《おんこと》は後《あと》まはしに致《いた》しても、この方《ほう》の御用《ごよう》は怠《おこた》るなと、催促《さいそく》したとまでいはれてをります。なんといふ不敬《ふけい》なことでありませう。
 昔《むかし》蘇我氏《そがし》は、物部氏《ものゝべし》を滅《ほろ》ぼして後《のち》に、外《ほか》に競爭者《きようそうしや》もなくなつた爲《ため》に、ひとりわがまゝなことをして、つひにはその子《こ》を王子《おうじ》といひ、家《いへ》を宮門《みかど》といひ、墓《はか》を陵《みさゝぎ》といふなど、ほとんど天子《てんし》氣取《きど》りにまでなりました。この藤原氏《ふぢはらし》も外《ほか》に競爭者《きようそうしや》がなくなり、殊《こと》に道長《みちなが》は、同《おな》じ藤原氏《ふぢはらし》の中《なか》でも、自分《じぶん》ばかりが一番《いちばん》勢力《せいりよく》を得《え》たものですから、とう/\こんなことにまでなつてしまつたのです。
 道長《みちなが》の子《こ》頼通《よりみち》、教通《のりみち》、頼通《よりみち》の子《こ》師實《もろざね》、師實《もろざね》の子《こ》師通《もろみち》、師通《もろみち》の子《こ》忠實《たゞざね》、忠實《たゞざね》の子《こ》忠通《たゞみち》と、代々《だい/″\》相《あひ》ついで、攝政《せつしよう》、關白《かんぱく》になりました。中《なか》にも頼通《よりみち》は、第六十八代《だいろくじゆうはちだい》後一條《ごいちじよう》天皇《てんのう》の御代《みよ》から、第七十代《だいしちじゆうだい》後冷泉《ごれいぜい》天皇《てんのう》の御代《みよ》まで、五十《ごじゆう》餘年《よねん》の間《あひだ》、廿六歳《にじゆうろくさい》からはじめて、七十七歳《しちじゆうしちさい》になるまでも、その職《しよく》にをりましたので、攝政《せつしよう》、關白《かんぱく》は、自然《しぜん》この家《いへ》のものときまつてしまひ、同《おな》じ藤原氏《ふぢはらし》の人々《ひと/″\》でも、外《ほか》の家筋《いへすぢ》のものは、指一《ゆびひと》つさすことが出來《でき》なくなつてしまひました。後《のち》に第七十一代《だいしちじゆういちだい》後三條《ごさんじよう》天皇《てんのう》御位《みくらゐ》に即《つ》かれまして、藤原氏《ふぢはらし》のあまりにわがまゝなのをお抑《おさ》へにならうとなさいましたので、頼通《よりみち》も幾分《いくぶん》御遠慮《ごえんりよ》申《まを》し、關白《かんぱく》を弟《おとうと》教通《のりみち》に讓《ゆづ》つて、宇治《うじ》に退隱《たいいん》しました。宇治《うじ》の平等院《びようどういん》は頼通《よりみち》の隱居《いんきよ》したところで、その鳳凰堂《ほうおうどう》は今《いま》も殘《のこ》り、藤原氏《ふぢはらし》の榮華《えいが》のあとを示《しめ》してをります。
 藤原氏《ふぢはらし》の全盛《ぜんせい》は、道長《みちなが》、頼通《よりみち》の時《とき》を頂上《ちようじよう》として、後三條《ごさんじよう》天皇《てんのう》以後《いご》、その勢力《せいりよく》もやゝ衰《おとろ》へました。
 次《つ》ぎの第七十二代《だいしちじゆうにだい》白河《しらかは》天皇《てんのう》は、御位《みくらゐ》を御年《おんとし》僅《わづか》に八歳《はつさい》の第七十三代《だいしちじゆうさんだい》堀河《ほりかは》天皇《てんのう》にお讓《ゆづ》りになりました後《のち》、上皇《じようこう》の御身《おんみ》ながらに、御自身《ごじしん》御政治《ごせいじ》を行《おこな》はせられ、後《のち》に御出家《ごしゆつけ》遊《あそ》ばして、法皇《ほうおう》とならせられましても、相變《あひかは》らず御政治《ごせいじ》をなさるといふ例《れい》をお始《はじ》めになりました。これを院政《いんせい》と申《まを》します。院政《いんせい》の世《よ》には、天皇《てんのう》はこれまで通《どほ》り、たゞ尊《たつと》く上《うへ》にましますばかりで、御政治《ごせいじ》は萬事《ばんじ》上皇《じようこう》なり、法皇《ほうおう》なりにお任《まか》せきりであります。しかしこれが爲《ため》に、藤原氏《ふぢはらし》の、攝政《せつしよう》、關白《かんぱく》も、またその名前《なまへ》ばかりで、前々程《まへ/\ほど》のわがまゝは出來《でき》なくなりました。
 かく藤原氏《ふぢはらし》の勢《いきほひ》も、院政《いんせい》以來《いらい》だん/\衰《おとろ》へましたが、なんと申《まを》しても多年《たねん》植《う》ゑつけられた大《おほ》きな森林《しんりん》です。そしてその中《なか》でも、道長《みちなが》の子孫《しそん》は一番《いちばん》高《たか》い大木《たいぼく》です。忠通《たゞみち》の子《こ》の基實《もとざね》、基房《もとふさ》、兼實《かねざね》は、それ/″\攝政《せつしよう》、關白《かんぱく》となり、後《のち》に基房《もとふさ》の子孫《しそん》は衰《おとろ》へましたが、基實《もとざね》は近衞家《このえけ》の先祖《せんぞ》となつて、その家《いへ》から鷹司家《たかつかさけ》が分《わか》れ、兼實《かねざね》は九條家《くじようけ》の先祖《せんぞ》となつて、その家《いへ》から二條《にじよう》、一條《いちじよう》の二家《にけ》が分《わか》れ、後《のち》の世《よ》の攝政《せつしよう》關白《かんぱく》は、必《かなら》ずこの五家《ごけ》から出《で》るといふことにきまりました。之《これ》を五攝家《ごせつけ》と申《まを》し、その子孫《しそん》は今《いま》もそれ/″\華族《かぞく》となり、華族《かぞく》の中《なか》でも一番《いちばん》高《たか》い公爵《こうしやく》となつてをります。その外《ほか》にも藤原氏《ふぢはらし》から分《わか》れ出《で》た家《いへ》は非常《ひじよう》に多《おほ》く、代々《だい/\》朝廷《ちようてい》の大官《たいかん》に任《にん》ぜられ、華族《かぞく》として今《いま》にその家《いへ》を傳《つた》へてゐるものが、甚《はなは》だ多《おほ》いのであります。今《いま》の華族《かぞく》には、昔《むかし》から引《ひ》き續《つゞ》き朝廷《ちようてい》にお仕《つか》へ申《まを》してゐた家柄《いへがら》の公家《くげ》華族《かぞく》、或《あるひ》は大名《だいみよう》であつた家柄《いへがら》の武家《ぶけ》華族《かぞく》、その外《ほか》勳功《くんこう》によつて新《あらた》に賜《たま》はつた新華族《しんかぞく》など、いろ/\の種類《しゆるい》はありますが、その中《なか》でも公家《くげ》華族《かぞく》の方々《かた/″\》は、大部分《だいぶぶん》藤原氏《ふぢはらし》の流《なが》れを受《う》けたものであります。
(つづく)



底本:『日本歴史物語(上)No.1』復刻版 日本兒童文庫、名著普及会
   1981(昭和56)年6月20日発行
親本:『日本歴史物語(上)』日本兒童文庫、アルス
   1928(昭和3)年4月5日発行
入力:しだひろし
校正:
xxxx年xx月xx日作成
青空文庫作成ファイル:
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*地名

(※ 市町村名は、平成の大合併以前の表記のまま。一般的な国名・地名などは解説省略。
  • [下野] しもつけ (シモツケノ(下毛野)の略) 旧国名。今の栃木県。野州(やしゅう)。
  • 鎌倉 神奈川県南東部の市。横浜市の南に隣接。鎌倉幕府跡・源頼朝屋敷址・鎌倉宮・鶴岡八幡宮・建長寺・円覚寺・長谷の大仏・長谷観音などの史跡・社寺に富む。風致にすぐれ、京浜の住宅地。人口17万1千。
  • [信濃] しなの 旧国名。いまの長野県。科野。信州。
  • 善光寺 ぜんこうじ 長野市にある単立宗教法人。天台宗の大勧進と浄土宗の大本願とによって管理される。推古天皇朝に草堂を営んで三国伝来の阿弥陀如来像を本尊とし、642年今の地に堂宇を造営したと伝える。中世以後盛んに尊信された。現在の本堂は1707年(宝永4)の再建。
  • [摂津] せっつ 旧国名。五畿の一つ。一部は今の大阪府、一部は兵庫県に属する。摂州。津国(つのくに)。
  • 難波 なにわ 難波・浪速・浪花。(一説に「魚(な)庭(にわ)」の意という) 大阪市およびその付近の古称。
  • 四天王寺 してんのうじ 大阪市天王寺区にある和宗の総本山。山号は荒陵山。聖徳太子の建立と伝え、623年頃までに成立。奈良時代には五大寺に次ぐ地位にあり、平安時代には極楽の東門とされて信仰を集めた。伽藍配置は塔・金堂・講堂を中心線上に並べた、四天王寺式と称する古制を示す。堂宇は幾度も焼失したが、第二次大戦後、飛鳥様式に復原建造。扇面法華経冊子などを所蔵。荒陵寺。難波寺。御津寺。堀江寺。天王寺。
  • [飛鳥]
  • 飛鳥 あすか 明日香。奈良盆地南部の一地方。畝傍山および香具山付近以南の飛鳥川流域の小盆地。推古天皇以後百余年間にわたって断続的に宮殿が造営された。
  • 藤原宮 ふじわらのみや/ふじわらきゅう 持統・文武・元明3代の天皇の宮城。宮域は藤原京の北部中央で、東西は四坊分、南北は四条分の広さを占め、その中央に大極殿や朝堂院諸堂の遺構を残している。
  • 藤原 ふじわら 奈良盆地南部の古地名。飛鳥の西北方に隣接し、大原ともいった。藤原鎌足一族の本拠。
  • 藤原京 ふじわらきょう 持統天皇の694年から文武天皇を経て元明天皇の710年(和銅3)に平城京へ移るまで、3代16年の都。奈良県橿原市高殿を中心とする、大和三山に囲まれた地域を占め、東西は八坊(約2.1km)、南北は十二条(約3.2km)の条坊制によって碁盤目のように分けられていた。
  • 法興寺 ほうこうじ 飛鳥寺の別称。
  • 飛鳥寺 あすかでら 奈良県高市郡明日香村にあった寺。現在は旧地に飛鳥大仏を本尊とする真言宗の安居院がある。596年、蘇我馬子が創建した日本最初の本格的寺院。法興寺ともいい、718年(養老2)平城京に移して元興寺と称して後は、本元興寺とも呼ばれた。
  • 元興寺 がんこうじ (ガンゴジ・ガゴジとも) 奈良市にある寺。718年(養老2)飛鳥寺(法興寺)を平城京に移してからの称。南都七大寺の一つ。奈良時代は三論・法相の教学の一方の中心として栄えたが、平安後期以降は智光の住房であった極楽坊(房)が信仰の中心となる。現在は観音堂系譜の寺(芝新屋町、華厳宗)と極楽坊系譜の寺(中院町、真言律宗)とがある。新元興寺。
  • 橘寺 たちばなでら 奈良県高市郡明日香村にある天台宗の寺。正称は上宮皇院菩提寺。606年聖徳太子の創建と伝えるが実際は天智天皇頃の成立。室町時代以降荒廃し幕末〜明治初年に再興。
  • [奈良]
  • 奈良の都・奈良京 ならのみやこ 元明・元正・聖武・孝謙・淳仁・称徳・光仁の7代70年余(710〜784)の都。ならきょう。→平城京
  • 平城京 へいじょうきょう 元明天皇の710年(和銅3)に藤原京から移って、桓武天皇の784年(延暦3)に長岡京に移るまでの都。奈良の都。京域は今の奈良市から大和郡山市に及び、主要部(左京・右京)は、東西は約4.3km、南北は約4.8km。北端中央を平城宮とし、その南面中央から南下する朱雀大路の東側を左京、西側を右京、左京の東側への張り出し部分を外京と呼ぶ。各京は縦横に走る大路によって碁盤目のように区切られ、左京・右京とも東西は各4坊(外京は左京五坊から七坊まで)、南北は各9条(外京は一条から五条まで)としたが、右京は北端に半条の幅の北辺坊を張り出していた。都が長岡京、ついで平安京に移ると、京域の大半は田園となり、外京の跡のみが中世に門前町として残った。
  • 奈良市 ならし 奈良県北部、奈良盆地の北東部の市。県庁所在地。古く「那羅」「平城」「寧楽」とも書き、奈良時代の平城京の地で、現在の中心市街は古都の北東郊外にあたる。社寺・史跡に富む。人口37万。
  • 東大寺 とうだいじ 奈良市にある華厳宗総本山。別称、金光明四天王護国之寺・大華厳寺・城大寺・総国分寺。南都七大寺の一つ。745年(天平17)聖武天皇により創建、本尊は「奈良の大仏」として知られる盧舎那仏。751年(天平勝宝3)大仏殿(金堂)完成、翌年開眼供養を行い、754年に唐僧鑑真により日本で最初の戒壇院を設立、日本三戒壇の一つ。9世紀には広大な荘園と僧兵とを有して寺勢を誇った。草創以来の堂舎として法華堂・転害門・経庫および正倉院を残し、天平時代作の仏像を蔵し、また、鎌倉時代再興の南大門の仁王は運慶・快慶の合作。現存の大仏殿は江戸中期の再興で、世界最大の木造建築。
  • 興福寺 こうふくじ 奈良市にある法相宗の大本山。南都七大寺の一つ。藤原鎌足の遺志により夫人の鏡王女が山城国山科に創建した山階寺が起源で、藤原京に移って厩坂寺と称し、さらに平城京に移されたとされているが、実際には藤原不比等が8世紀初頭に現在の地に開創。以来藤原氏の氏寺、大和国領主として僧兵を擁し、久しく盛大をきわめた。東金堂・南円堂・北円堂・三重塔・五重塔などがあり、貴重な文化財多数を存する。こうぶくじ。
  • 西大寺 さいだいじ 奈良市にある真言律宗の総本山。南都七大寺の一つ。高野寺・四王院ともいう。764年(天平宝字8)称徳天皇の勅願により創建。1235年(嘉禎1)叡尊(興正菩薩)が入寺し再興、戒律の道場となった。寺宝に十二天画像など。
  • 朝堂院 ちょうどういん 平城京・平安京の大内裏の正庁。八省百官が政務を執行した所。天皇が臨御して視告朔の儀を行い、また、即位・大嘗会・朝賀などの大儀を行なった。平安京では大内裏の南中央に位置し、朱雀大路の正面に臨む。その正殿を大極殿といい、その後ろに小安殿があり、また十三堂・二十五門があった。八省院。中台。
  • 唐招提寺 とうしょうだいじ 奈良市にある律宗の総本山。759年(天平宝字3)唐僧鑑真が戒律道場として創建。鎌倉時代に覚盛が中興。金堂は天平建築の完備した遺構で、天平後期の仏像を安置。講堂は和銅(708〜715)年間の朝集堂を移建したもので、奈良時代宮殿建築の唯一の遺構。招提寺。
  • 大安寺 だいあんじ 奈良市にある真言宗の寺。南都七大寺の一つ。聖徳太子の創立した熊凝寺が起源と伝える。のち移転ごとに百済大寺・高市大寺・大官大寺と改称、平城遷都後大安寺と称する。今は寺跡と小堂を残すのみ。大安寺様式といわれる一木造りの仏像群を存する。南大寺。百済寺。
  • 薬師寺 やくしじ 奈良市にある法相宗の大本山。南都七大寺の一つ。680年天武天皇の発願以後、持統・文武朝を通じて藤原京に造営されたが、平城遷都後、現在地に移る。730年(天平2)造立の三重塔(東塔)を始め、金銅薬師三尊像・金銅聖観音像・吉祥天画像など白鳳・天平時代のすぐれた仏教美術品を蔵す。
  • 法華寺 ほっけじ 奈良市にある真言律宗の尼門跡。741年(天平13)頃、光明皇后が大和国分尼寺として父藤原不比等の家を喜捨創建したと伝える。総国分尼寺でもあった。現在の本堂は1601年(慶長6)豊臣秀頼の再建。本尊十一面観世音立像は平安初期の優作。法華滅罪之寺。氷室御所。
  • [斑鳩]
  • 斑鳩 いかるが 聖徳太子の斑鳩宮のあった所。今、奈良県生駒郡斑鳩町。法隆寺がある。
  • 法隆寺 ほうりゅうじ 奈良県生駒郡斑鳩町にある聖徳宗の総本山。南都七大寺の一つ。もと法相宗。607年聖徳太子の開基創建と伝える。670年に焼失し、8世紀初めまでに漸次再建。現存する世界最古の木造建築物で飛鳥様式の金堂・五重塔を中心とする西院と、天平様式の夢殿を中心とする東院とに分かれる。金堂の釈迦三尊・薬師如来・四天王、夢殿の救世観音、百済観音などの諸仏像、玉虫厨子・橘夫人厨子などをはじめ各時代にわたり遺宝が多い。1949年金堂の内部・壁画は失火により損壊したが復元。法隆寺学問寺。斑鳩寺。鵤寺。
  • 法起寺 ほうきじ/ほっきじ (ホウキジとも) 奈良県生駒郡斑鳩町岡本にある聖徳宗(もと法相宗)の寺。聖徳太子の岡本宮を寺に改めたもので、太子創建とも山背大兄王の創建とも伝える。飛鳥様式最大の三重塔や銅造菩薩立像がある。岡本寺。池後寺。
  • 法輪寺 ほうりんじ (1) 奈良県生駒郡斑鳩町三井にある聖徳宗の寺。聖徳太子の病気平癒を祈ってその子山背大兄王らが建立したと伝える。三重塔は飛鳥様式の遺構で、1944年炎上、75年再建。薬師如来坐像・虚空蔵菩薩立像は飛鳥時代の木彫として重要。三井寺。御井寺。法琳寺。(2) 京都市西京区嵐山にある真言宗の寺。713年(和銅6)行基の創建と伝える葛井寺を平安初期に道昌が再興。日本三虚空蔵の一つ。嵯峨虚空蔵。
  • 葛城山 かつらきやま/かつらぎさん (1) 大阪府と奈良県との境にある山。修験道の霊場。標高959m。かつらぎやま。(2) 大阪府と和歌山県との境にある山。標高858m。和泉葛城山。
  • [山城] やましろ 山城・山背。旧国名。五畿の一つ。今の京都府の南部。山州。城州。雍州。
  • 長岡 ながおか → 長岡京
  • 長岡京 ながおかきょう (1) 桓武天皇の初めての都。784年(延暦3)平城京から移ったが、遷都を首唱した藤原種継が暗殺されたりしたため、794年平安京に移った。宮域の中心は京都府向日市にあり、長岡京市・京都市・乙訓郡大山崎町まで広がっていた。ながおかのみやこ。(2) 京都府南部の市。市名は (1) に由来。京都と大阪の中間に位置し、双方の衛星都市。人口7万8千。
  • 向日町 むこうまち → 向日
  • 向日 むこう 京都市の南西部に隣接する市。市域南半はかつて長岡京域だった。京都市の衛星都市。人口5万5千。
  • [京都]
  • 平安京 へいあんきょう 桓武天皇の794年(延暦13)に長岡京から移って、1868年(明治1)に東京へ移るまでの都。今の京都市の中心部。東西約4.5km、南北約5.1km。中央を南北に通ずる朱雀大路(現、千本通)によって左京(東京)・右京(西京)に分け、両京とも縦横に大路を開き、南北を九条、東西を四坊とし、さらにこれを小路によって碁盤目のように整然と区画していたが、右京は間もなく衰頽し、左京は賀茂川を越えて東山に連なるようになった。
  • 広隆寺 こうりゅうじ 京都市右京区太秦にある真言宗の寺。603年秦河勝が聖徳太子から授かった仏像をまつるために建立したと伝える。飛鳥時代の仏像以下貴重な文化財が多く、また、その牛祭は有名。太秦寺。蜂岡寺。秦公寺。葛野寺。
  • 平安神宮 へいあん じんぐう 京都市左京区岡崎にある元官幣大社。祭神は桓武天皇。1895年(明治28)遷都1100年を記念して創建。大極殿と応天門とを模造し、平安京大内裏の規模を示した。1940年孝明天皇を合祀。
  • 平安京 へいあんきょう 桓武天皇の794年(延暦13)に長岡京から移って、1868年(明治1)に東京へ移るまでの都。今の京都市の中心部。東西約4.5km、南北約5.1km。中央を南北に通ずる朱雀大路(現、千本通)によって左京(東京)・右京(西京)に分け、両京とも縦横に大路を開き、南北を九条、東西を四坊とし、さらにこれを小路によって碁盤目のように整然と区画していたが、右京は間もなく衰頽し、左京は賀茂川を越えて東山に連なるようになった。
  • 京都御所 きょうと ごしょ 京都市上京区にある旧皇居。後小松天皇以来明治天皇東京遷都までの内裏。現在の建物は、1790年(寛政2)に松平定信が古式によって造営、炎上後、1855年(安政2)再建。東に建春、西に宜秋、南に建礼、北に朔平の4門があり、紫宸殿・清涼殿など古式のまま現存。京都皇宮。
  • 法成寺 ほうしょうじ/ほうじょうじ 京都鴨川の西辺、荒神口の北にあった寺。1020年(寛仁4)藤原道長の創建。藤原時代を代表する大寺で、その伽藍は壮観をきわめたが、鎌倉末期には廃絶。御堂。
  • 宇治 うじ 京都府南部の市。宇治川の谷口に位置し、茶の名産地。平安時代、貴人の別荘地・遊楽地。平等院・黄檗宗本山万福寺がある。人口19万。(歌枕)
  • 平等院 びょうどういん 京都府宇治市にある天台・浄土系の単立寺院。1052年(永承7)藤原頼通が宇治川畔にある別荘を寺として創建。翌年造立供養された鳳凰堂は平安時代に建造の阿弥陀堂の代表的遺構で、定朝作の阿弥陀如来坐像を安置。四壁および扉の絵は平安時代絵画の基準作。
  • 鳳凰堂 ほうおうどう 平等院の阿弥陀堂の別称。
  • [近江] おうみ 近江・淡海。(アハウミの転。淡水湖の意で琵琶湖を指す) 旧国名。今の滋賀県。江州。
  • 大津宮 おおつのみや 天智天皇・弘文天皇の皇居。667〜672年、今の大津市内にあった。近江(淡海)大津宮。滋賀大津宮。滋賀宮。滋賀(志賀)の都。
  • 大津市 おおつし 滋賀県の市。県庁所在地。琵琶湖の南西岸に位置し、古くから湖上交通と東海道・東山道・北陸道の要地。延暦寺・三井寺・石山寺がある。人口32万4千。
  • [伊勢] いせ 旧国名。今の三重県の大半。勢州。
  • 皇太神宮 こうたいじんぐう 皇大神宮。三重県伊勢市五十鈴川上にある神宮。祭神は天照大神。古来、国家の大事には勅使を差遣、奉告のことが行われた。天照皇大神宮。内宮。
  • [出雲] いずも 旧国名。今の島根県の東部。雲州。
  • 大社 おおやしろ → 出雲大社
  • 出雲大社 いずも たいしゃ 島根県出雲市大社町杵築東にある元官幣大社。祭神は大国主命。天之御中主神・高皇産霊神・神皇産霊神・宇麻志阿志軻備比古遅命・天之常立神を配祀。社殿は大社造と称し、日本最古の神社建築の様式。出雲国一の宮。いずものおおやしろ。杵築大社。
  • 国分 こくぶ
  • [筑前] ちくぜん 旧国名。今の福岡県の北西部。
  • 太宰府 だざいふ 福岡県中部の市。古く大宰府が置かれた地。人口6万7千。
  • 大宰府 だざいふ 律令制で、筑前国筑紫郡に置かれた役所の名。九州および壱岐・対馬の2島を管轄し、兼ねて外寇を防ぎ、外交のことをつかさどった。長官を帥といい、その下に権帥・大弐・少弐・大監・少監・大典・少典などが置かれ、別に祭祀をつかさどる主神などがある。福岡県太宰府市にその遺跡があり、正庁であった都府楼の礎石などが残っている。鎮西府。おおみこともちのつかさ。
  • [豊前] ぶぜん 旧国名。今の福岡県東部と大分県北部。
  • 宇佐八幡 うさ はちまん 宇佐神宮の別称。
  • 宇佐神宮 うさ じんぐう 大分県宇佐市南宇佐にある元官幣大社。祭神は、応神天皇・比売神・神功皇后。全国八幡宮の総本社で、古来尊崇された。社殿は八幡造の代表。豊前国一の宮。宇佐八幡。
  • -----------------------------------
  • [朝鮮]
  • 百済 くだら (クダラは日本での称) (1) 古代朝鮮の国名。三国の一つ。4〜7世紀、朝鮮半島の南西部に拠った国。4世紀半ば馬韓の1国から勢力を拡大、371年漢山城に都した。後、泗�(しひ)城(現、忠清南道扶余)に遷都。その王室は中国東北部から移った扶余族といわれる。高句麗・新羅に対抗するため倭・大和王朝と提携する一方、儒教・仏教を大和王朝に伝えた。唐・新羅の連合軍に破れ、660年31代で滅亡。ひゃくさい。はくさい。( 〜660)(2) (1) などからの渡来人の居住した土地の名。(ア) 奈良県北葛城郡広陵町の一地区。(イ) 大阪市生野区鶴橋付近の地。百済王氏の氏寺があったという。
  • 新羅 しらぎ (古くはシラキ)古代朝鮮の国名。三国の一つ。前57年頃、慶州の地に赫居世が建てた斯盧国に始まり、4世紀、辰韓諸部を統一して新羅と号した。6世紀以降伽�(加羅)諸国を滅ぼし、また唐と結んで百済・高句麗を征服、668年朝鮮全土を統一。さらに唐の勢力を半島より駆逐。935年、56代で高麗の王建に滅ぼされた。中国から取り入れた儒教・仏教・律令制などを独自に発展させ、日本への文化的・社会的影響大。しんら。(356〜935)
  • -----------------------------------
  • [中国]
  • 唐 とう 中国の王朝。李唐。唐国公の李淵(高祖)が隋の3世恭帝の禅譲を受けて建てた統一王朝。都は長安。均田制・租庸調・府兵制に基礎を置く律令制度が整備され、政治・文化が一大発展を遂げ、世界的な文明国となった。20世哀帝の時、朱全忠に滅ぼされた。(618〜907)→遣唐使。
  • 長安 ちょうあん 中国陝西省西安市の古称。洛陽と並んで中国史上最も著名な旧都。漢代から唐代にかけて最も繁栄。西京。


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)。




*年表

  • 大化 たいか 孝徳天皇朝の年号。公的に採用された年号としては日本最初。皇極天皇4年6月19日(645年7月17日)建元、大化6年2月15日(650年3月22日)白雉に改元。
  • 大化の新政 たいかの しんせい → 大化改新
  • 大化改新 たいかの かいしん 大化元年(645)夏、中大兄皇子(のちの天智天皇)を中心に、中臣(藤原)鎌足ら革新的な豪族が蘇我大臣家を滅ぼして開始した古代政治史上の大改革。孝徳天皇を立て都を難波に移し、翌春、私有地・私有民の廃止、国・郡・里制による地方行政権の中央集中、戸籍の作成や耕地の調査による班田収授法の実施、調・庸など税制の統一、の4綱目から成る改新の詔を公布、古代東アジア的な中央集権国家成立の出発点となった。しかし、律令国家の形成には、壬申の乱(672年)後の天武・持統朝の改革が必要であった。大化新政。大化革新。
  • 奈良朝 ならちょう (1) 奈良の朝廷。(2) 奈良時代。
  • 奈良時代 なら じだい 平城京すなわち奈良に都した時代。元明・元正・聖武・孝謙・淳仁・称徳・光仁の7代七十余年間(710〜784)。美術史では白鳳時代を奈良時代前期、この時代を後期として、天平時代ともいう。奈良朝。
  • 平安朝 へいあんちょう (1) 平安時代約400年間における朝廷。(2) (→)平安時代に同じ。
  • 平安時代 へいあん じだい 桓武天皇の平安遷都から鎌倉幕府の成立まで約400年の間、政権の中心が平安京(京都)にあった時代。ふつう初・中・後の3期、すなわち律令制再興期・摂関期・院政期(末期は平氏政権期)に分ける。平安朝時代。


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)。



*人物一覧

(人名、および組織・団体名・神名)
  • 孝徳天皇 こうとく てんのう 596?-654 7世紀中頃の天皇。茅渟王の第1王子。名は天万豊日、また軽皇子。大化改新を行う。皇居は飛鳥より難波長柄豊碕宮に移す。(在位645〜654)
  • 中大兄皇子 なかのおおえの おうじ 天智天皇の名。
  • 天智天皇 てんじ てんのう 626-671 7世紀中頃の天皇。舒明天皇の第2皇子。名は天命開別、また葛城・中大兄。中臣鎌足と図って蘇我氏を滅ぼし、ついで皇太子として大化改新を断行。661年、母斉明天皇の没後、称制。667年、近江国滋賀の大津宮に遷り、翌年即位。庚午年籍を作り、近江令を制定して内政を整えた。(在位668〜671)
  • 斎明天皇 さいめい てんのう → 皇極天皇
  • 皇極天皇 こうぎょく てんのう 594-661 7世紀前半の女帝。茅渟王の第1王女。舒明天皇の皇后。天智・天武天皇の母。名は天豊財重日足姫、また宝皇女。皇居は飛鳥の板蓋宮。孝徳天皇に譲位。のち重祚して斉明天皇。(在位642〜645)
  • 文武天皇 もんむ てんのう 683-707 律令国家確立期の天皇。草壁皇子の第1王子。母は元明天皇。名は珂瑠。大宝律令を制定。(在位697〜707)
  • 大海人皇子 おおあまの おうじ 天武天皇の名。
  • 天武天皇 てんむ てんのう ?-686 7世紀後半の天皇。名は天渟中原瀛真人、また大海人。舒明天皇の第3皇子。671年出家して吉野に隠棲、天智天皇の没後、壬申の乱(672年)に勝利し、翌年、飛鳥の浄御原宮に即位する。新たに八色姓を制定、位階を改定、律令を制定、また国史の編修に着手。(在位673〜686)
  • 蘇我氏 そがし 古代の有力豪族。祖は武内宿祢といわれ、大和国高市郡曾我を本拠とする。7世紀末から嫡流は石川朝臣と称した。
  • 持統天皇 じとう てんのう 645-702 7世紀末の女帝。天智天皇の第2皇女。天武天皇の皇后。名は高天原広野姫、また�野讃良。天武天皇の没後、称制。草壁皇子没後、即位。皇居は大和国の藤原宮。文武天皇に譲位後、太上天皇と称す。(在位690〜697)
  • 元明天皇 げんみょう/げんめい てんのう 661-721 奈良前期の女帝。天智天皇の第4皇女。草壁皇子の妃。文武・元正天皇の母。名は阿閉。都を大和国の平城(奈良)に遷し、太安万侶らに古事記を撰ばせ、諸国に風土記を奉らせた。(在位707〜715)
  • 元正天皇 げんしょう てんのう 680-748 奈良時代前期の女帝。草壁皇子の第1王女。母は元明天皇。名は氷高。(在位715〜724)
  • 聖武天皇 しょうむ てんのう 701-756 奈良中期の天皇。文武天皇の第1皇子。名は首。光明皇后とともに仏教を信じ、全国に国分寺・国分尼寺、奈良に東大寺を建て、大仏を安置した。(在位724〜749)
  • 孝謙天皇 こうけん てんのう 718-770 奈良後期の女帝。高野天皇とも。聖武天皇の第2皇女。母は光明皇后。名は阿倍。藤原仲麻呂・道鏡を重用。淳仁天皇に譲位。のち重祚して称徳天皇。(在位749〜758)
  • 淳仁天皇 じゅんにん てんのう 733-765 奈良後期の天皇。舎人親王の第7王子。名は大炊。藤原仲麻呂に擁立されて即位。のち仲麻呂失脚により廃位、淡路国に流されたため、淡路廃帝と称される。(在位758〜764)
  • 称徳天皇 しょうとく てんのう 718-770 奈良後期の女帝。孝謙天皇の重祚。淳仁天皇廃位の後を受けて即位。僧道鏡を信任して法王の位を授けた。(在位764〜770)
  • 光仁天皇 こうにん てんのう 709-781 奈良後期の天皇。天智天皇の皇孫。施基親王の第6王子。名は白壁。藤原百川らにより擁立され、和気清麻呂を召還して改革を行う。(在位770〜781)
  • 桓武天皇 かんむ てんのう 737-806 奈良後期〜平安初期の天皇。柏原天皇とも。光仁天皇の第1皇子。母は高野新笠。名は山部。坂上田村麻呂を征夷大将軍として東北に派遣、794年(延暦13)都を山城国宇太に遷した(平安京)。(在位781〜806)
  • 欽明天皇 きんめい てんのう ?-571 記紀に記された6世紀中頃の天皇。継体天皇の第4皇子。名は天国排開広庭。即位は539年(一説に531年)という。日本書紀によれば天皇の13年(552年、上宮聖徳法王帝説によれば538年)、百済の聖明王が使を遣わして仏典・仏像を献じ、日本の朝廷に初めて仏教が渡来(仏教の公伝)。(在位 〜571)
  • 物部氏 もののべし 古代の大豪族。姓は連。饒速日命の子孫と称し、天皇の親衛軍を率い、連姓諸氏の中では大伴氏と共に最有力となって、族長は代々大連に就任したが、6世紀半ば仏教受容に反対、大連の守屋は大臣の蘇我馬子および皇族らの連合軍と戦って敗死。律令時代には、一族の石上・榎井氏らが朝廷に復帰。
  • 聖徳太子 しょうとく たいし 574-622 用明天皇の皇子。母は穴穂部間人皇后。名は厩戸。厩戸王・豊聡耳皇子・法大王・上宮太子とも称される。内外の学問に通じ、深く仏教に帰依。推古天皇の即位とともに皇太子となり、摂政として政治を行い、冠位十二階・憲法十七条を制定、遣隋使を派遣、また仏教興隆に力を尽くし、多くの寺院を建立、「三経義疏」を著すと伝える。なお、その事績とされるものには、伝説が多く含まれる。
  • 秦川勝 はたの かわかつ → 秦河勝
  • 秦河勝 はたの かわかつ 「川勝」とも。(日本史)/飛鳥時代の山背国の富豪。聖徳太子に仕え、603年葛野郡(現、京都市太秦)に蜂岡寺(今の広隆寺)を建てた。生没年未詳。
  • 蘇我入鹿 そがの いるか ?-645 飛鳥時代の豪族。蝦夷の子。通称は鞍作。皇極天皇の時代、国政を掌握し、山背大兄王を殺したが、中大兄皇子・中臣鎌足に滅ぼされた。
  • 中臣氏 なかとみし 古代の氏族。天児屋根命の子孫と称し、朝廷の祭祀を担当。はじめ中臣連、後に中臣朝臣、さらに大中臣朝臣となる。なお、中臣鎌足は藤原と賜姓され、その子孫は中臣氏と分かれて藤原氏となった。
  • 藤原鎌足 ふじわらの かまたり 614-669 藤原氏の祖。はじめ中臣氏。鎌子という。中大兄皇子をたすけて蘇我大臣家を滅ぼし、大化改新に大功をたて、内臣に任じられた。天智天皇の時、大織冠。談山神社に祀る。中臣鎌足。
  • 釈迦牟尼 しゃか むに (梵語Sakyamuni 「牟尼」は聖者の意) 仏教の開祖。インドのヒマラヤ南麓のカピラ城のシュッドーダナ(浄飯王)の子。母はマーヤー(摩耶)。姓はゴータマ(瞿曇)、名はシッダールタ(悉達多)。生老病死の四苦を脱するために、29歳の時、宮殿を逃れて苦行、35歳の時、ブッダガヤーの菩提樹下に悟りを得た。その後、マガダ・コーサラなどで法を説き、80歳でクシナガラに入滅。その生没年代は、前566〜486年、前463〜383年など諸説がある。シャーキヤ=ムニ。釈尊。釈迦牟尼仏。
  • 舒明天皇 じょめい てんのう 593-641 飛鳥時代の天皇。押坂彦人大兄皇子(敏達天皇の皇子)の第1王子。名は息長足日広額、また田村皇子。皇居は大和国飛鳥の岡本宮。(在位629〜641)
  • 推古天皇 すいこ てんのう 554-628 記紀に記された6世紀末・7世紀初の天皇。最初の女帝。欽明天皇の第3皇女。母は堅塩媛(蘇我稲目の娘)。名は豊御食炊屋姫。また、額田部皇女。敏達天皇の皇后。崇峻天皇暗殺の後を受けて大和国の豊浦宮で即位。後に同国の小墾田宮に遷る。聖徳太子を摂政とし、冠位十二階の制定、十七条憲法の発布などを行う。(在位592〜628)
  • 光明皇后 こうみょう こうごう 701-760 聖武天皇の皇后。藤原安宿媛。光明子とも。不比等の女。孝謙天皇の母。長屋王事件後、729年(天平1)臣下からの最初の皇后となる。仏教をあつく信じ、悲田院・施薬院を設けて窮民を救った。
  • 行基 ぎょうき 668-749 奈良時代の僧。河内の人。道昭に師事。畿内を中心に諸国を巡り、民衆教化や造寺、池堤設置・橋梁架設等の社会事業を行い、行基菩薩と称された。初め僧尼令違反で禁圧されたが、大仏造営の勧進に起用され、大僧正位を授けられる。
  • 道鏡 どうきょう ?-772 奈良時代の僧。河内の人。弓削氏。宮中に入り看病に功があったとして称徳天皇に信頼され、太政大臣禅師、ついで法王。宇佐八幡の神託と称して皇位の継承を企てたが、藤原一族の意をうけた和気清麻呂に阻止され、天皇死後、下野国薬師寺別当に左遷、同所で没。
  • 弓削氏 ゆげうじ 大化前代の弓削部の伴造の系譜を引く氏族。本拠は河内国若江郡弓削郷(現、大阪府八尾市)。684(天武13)12月、連から宿祢に改姓。『新撰姓氏録』は左京・河内神別に高魂命の孫天日鷲翔矢命の後裔とするもの、左京神別に饒速日命の後裔とるすもの、水中化生神爾伎都麻の後裔とするものの三系統の弓削宿祢を載せる。(日本史)
  • 物部守屋 もののべの もりや ?-587 敏達・用明天皇朝の大連。尾輿の子。仏教を排斥して蘇我氏と争い、塔を壊し仏像を焼く。用明天皇の没後、穴穂部皇子を奉じて兵を挙げたが、蘇我氏のために滅ぼされた。
  • 和気清麻呂 わけの きよまろ 733-799 奈良時代の官人。本姓、磐梨別公。備前出身。道鏡が宇佐八幡の神官と結託して皇位を望んだ時、勅使として宇佐八幡の神託を受け、阻止。ために道鏡の怒りを買い、名を別部穢麻呂と改めて大隅に流されたが、道鏡失脚後召還されて、光仁・桓武天皇に仕え、平安遷都に尽力。民部卿・造宮大夫・従三位。護王神社に祀る。
  • 平群真鳥 へぐりの まとり 紀にだけみえる伝説上の人物。雄略〜仁賢朝に大臣に任じられたという。武烈即位前紀には、大臣として専横をきわめ、子の鮪(しび)が物部麁鹿火の女影媛を武烈と争って殺されたのち、真鳥も大伴金村に殺されたという説話を収めている。(日本史)
  • 平将門 たいらの まさかど ?-940 平安中期の武将。高望の孫。父は良持とも良将ともいう。相馬小二郎と称した。摂政藤原忠平に仕えて検非違使を望むが成らず、憤慨して関東に赴いた。伯父国香を殺して近国を侵し、939年(天慶2)居館を下総猿島に建て、文武百官を置き、自ら新皇と称し関東に威を振るったが、平貞盛・藤原秀郷に討たれた。後世その霊魂が信仰された。
  • 孝元天皇 こうげん てんのう 記紀伝承上の天皇。孝霊天皇の第1皇子。名は大日本根子彦国牽。
  • 武内宿祢 たけうちの すくね 大和政権の初期に活躍したという記紀伝承上の人物。孝元天皇の曾孫(一説に孫)で、景行・成務・仲哀・応神・仁徳の5朝に仕え、偉功があったという。その子孫と称するものに葛城・巨勢・平群・紀・蘇我の諸氏がある。
  • 高見王 たかみおう 824-848 平安前期の皇族。葛原親王(桓武天皇の皇子)の子。自身は無位無官といわれるが、子の高望が平朝臣を賜姓され、桓武平氏のなかでも武門の流れの祖となった。(日本史)
  • 藤原百川 ふじわらの ももかわ 732-779 奈良時代の貴族。宇合の第8子。参議。初名、雄田麻呂。右衛門督・式部卿・中衛大将。称徳天皇の没後、道鏡を追放し光仁天皇を擁立、藤原一族の勢力回復に尽くす。
  • 藤原不比等 ふじわらの ふびと/ふひと 659-720 奈良時代の貴族。鎌足の次子。右大臣。光明皇后の父。大宝律令の制定に加わり、養老律令の制定を指導して律令制度の確立に努めるとともに、藤原氏隆盛の基礎をつくった。藤原氏四家の祖。
  • 藤原宇合 ふじわらの うまかい 694-737 奈良時代の貴族。不比等の第3子。式家の祖。遣唐副使・常陸守・西海道節度使より参議・式部卿兼大宰帥に至る。万葉集・懐風藻等に作品がある。常陸風土記完成に関係したか。
  • 藤原種継 ふじわらの たねつぐ 737-785 奈良時代の貴族。中納言。桓武天皇に信任され、権勢を振るって皇太子早良親王と対立。造長岡京使として遷都を強行したが、暗殺された。
  • 秦朝元 はたの あさもと/ちょうげん 生没年不詳。8世紀前半の官人。僧弁正の子。702(大宝2)父と兄の朝慶とともに遣唐使に同行して入唐。父・兄が唐で病没後に帰国。721(養老5)医術にすぐれた者として賞を賜った。730(天平2)弟子に漢語を教授。733年入唐判官として渡唐し、玄宗に厚遇された。735年帰国し、外従五位上。図書頭・主計頭を歴任。(日本史)
  • 秦氏 はたうじ (古くはハダ) 姓氏の一つ。古代の渡来系の氏族。応神天皇のとき渡来した弓月君の子孫と称するが、確かではない。5世紀後半頃より、伴造として多数の秦部を管理し、織物の生産などにたずさわった。
  • 秦島麻呂 はたの しままろ ?-747 別名、秦下嶋麻呂(はたのしものしままろ)。奈良時代の官人。恭仁宮の造営に携わる。(人レ)
  • 藤原房前 ふじわらの ふささき 681-737 奈良時代の貴族。不比等の次子。北家の祖。聖武天皇に仕え内臣、また参議として信頼が厚かった。
  • 藤原小黒麻呂 ふじわらの おぐろまろ 733-794 8世紀後半の公卿。房前の孫。鳥飼の次男。女の上子は桓武天皇皇女滋野内親王の母。764(天平宝字8)従五位下。779(宝亀10)参議。翌年持節征東大使として蝦夷を征討。781(天応元)正三位。790(延暦9)大納言。794年、従二位追贈。(日本史)
  • 源頼朝 みなもとの よりとも 1147-1199 鎌倉幕府初代将軍(在職1192〜1199)。武家政治の創始者。義朝の第3子。平治の乱に伊豆に流されたが、1180年(治承4)以仁王の令旨を奉じて平氏追討の兵を挙げ、石橋山に敗れた後、富士川の戦に大勝。鎌倉にあって東国を固め、幕府を開いた。弟範頼・義経をして源義仲、続いて平氏を滅亡させた。その後守護・地頭の制を定め、右近衛大将、92年(建久3)征夷大将軍となった。
  • 中臣鎌足 なかとみの かまたり → 藤原鎌足
  • 藤原氏 ふじわらうじ 姓氏の一つ。天児屋根命の裔と伝え、大化改新の功臣中臣鎌足が、居地の大和国高市郡藤原に因んで藤原姓を賜ったのに始まる。姓は朝臣。鎌足の子不比等は文武天皇の頃から政界に重きをなし、その子武智麻呂・房前・宇合・麻呂の4兄弟はそれぞれ南家・北家・式家・京家の四家の祖となる。北家は最も繁栄し、その一族は平安時代から江戸時代まで貴族社会の中枢を占めた。なお、奥州藤原氏はもと亘理氏で、別系。
  • 宮子娘 みやこいらつめ → 藤原宮子
  • 藤原宮子 ふじわらの みやこ ?-754 文武天皇の夫人。不比等の女。母は賀茂比売。697(文武元)入内し、701(大宝元)首皇子(聖武天皇)を生む。723(養老7)従二位、のち従一位に昇る。聖武の即位にともない大夫人の称を奉られたが、長屋王らの異議により皇太夫人と改められた。孝謙朝には太皇太后と称した。737(天平9)玄�Lにより長年の病気が回復し、はじめて聖武と対面した。(日本史)
  • 藤原武智麻呂 ふじわらの むちまろ 680-737 奈良時代の貴族。左大臣。正一位。不比等の長子。南家の祖。仲麻呂(恵美押勝)はその子。
  • 藤原麻呂 ふじわらの まろ 695-737 奈良時代の貴族。不比等の第4子。参議。京家の祖。持節大使として陸奥の蝦夷征討に尽力したが、疫病で没。
  • 文徳天皇 もんとく てんのう 827-858 平安前期の天皇。仁明天皇の第1皇子。名は道康。田邑帝とも。(在位850〜858)
  • 藤原良房 ふじわらの よしふさ 804-872 平安初期の貴族。冬嗣の次男。文徳天皇即位後、外戚として勢力を得、人臣として初めて太政大臣、また、女の明子が生んだ清和天皇(9歳)即位後、人臣として初めて摂政。「続日本後紀」を撰上。世に白河殿・染殿大臣という。諡号、忠仁公。
  • 藤原冬嗣 ふじわらの ふゆつぐ 775-826 平安初期の貴族。内麻呂の子。嵯峨天皇の信任を受け、蔵人所の新設と共に蔵人頭となり、のち左大臣。閑院大臣ともいう。施薬院を復興し勧学院を置いた。
  • 嵯峨天皇 さが てんのう 786-842 平安初期の天皇。桓武天皇の皇子。名は神野。「弘仁格式」「新撰姓氏録」を編纂させ、漢詩文に長じ、「文華秀麗集」「凌雲集」を撰進させた。書道に堪能で、三筆の一人。(在位809〜823)
  • 清和天皇 せいわ てんのう 850-880 平安前期の天皇。文徳天皇の第4皇子。母は藤原明子。名は惟仁。水尾帝とも。幼少のため外祖父藤原良房が摂政となる。仏道に帰依し、879年(元慶3)落飾。法諱は素真。(在位858〜876)
  • 大正天皇 たいしょう てんのう 1879-1926 明治天皇の第3皇子。名は嘉仁。明宮。生母は柳原愛子。九条節子を妃とする(貞明皇后)。1912年践祚、15年京都で即位。21年疾患のため、皇太子裕仁親王(昭和天皇)が摂政に就任。陵墓は多摩陵。漢詩をよくした。(在位1912〜1926)
  • 藤原基経 ふじわらの もとつね 836-891 平安前期の貴族。長良の子。叔父良房の養子として後を継ぐ。陽成天皇の摂政となったが天皇を廃し、光孝天皇を立てて政務を代行、宇多天皇が即位すると阿衡の紛議を起こし、初めて関白となる。「文徳実録」を撰。世に堀河太政大臣と称。昭宣公と諡す。
  • 宇多天皇 うだ てんのう 867-931 平安前期の天皇。光孝天皇の第7皇子。名は定省。菅原道真を挙用、藤原氏をおさえて政治を刷新。897年(寛平9)譲位後、寛平法皇という。亭子院のみかど。「寛平御遺誡」は皇子(醍醐天皇)のために記されたもの。(在位887〜897)
  • 菅原道真 すがわらの みちざね 845-903 平安前期の貴族・学者。是善の子。宇多天皇に仕えて信任を受け、文章博士・蔵人頭・参議などを歴任、894年(寛平6)遣唐使に任ぜられたが、その廃止を建議。醍醐天皇の時、右大臣となったが、901年(延喜1)藤原時平の讒言により大宰権帥に左遷され、同地で没。書をよくし、三聖の一人。「類聚国史」を編し、「三代実録」の撰に参与。詩文は「菅家文草」「菅家後集」に所収。死後、種々の怪異が現れたため御霊として北野天満宮に祭られ、のち学問の神として尊崇される。菅公。菅丞相。菅家。
  • 醍醐天皇 だいご てんのう 885-930 平安前期の天皇。宇多天皇の第1皇子。名は敦仁。後山科帝・小野帝とも。藤原時平・菅原道真らの補佐の下に国を治め、後世延喜の治と称される。古今和歌集を勅撰。(在位897〜930)
  • 藤原時平 ふじわらの ときひら 871-909 平安前期の貴族。基経の長子。宇多・醍醐両天皇に仕え、累進して左大臣。天皇の信任厚い菅原道真を大宰権帥に左遷し、政界における藤原氏の地位を確立。「延喜格式」「三代実録」を撰上。その死は道真の祟りによるという説が流布した。
  • 菅原氏 すがわらし 姓氏の一つ。野見宿祢の子孫といわれ、もと土師氏。土師古人のとき本拠大和国添下郡菅原の地名によって菅原宿祢となり、後に朝臣となる。代々文章道をもって朝廷に仕えた。
  • 藤原忠平 ふじわらの ただひら 880-949 平安中期の貴族。基経の子。醍醐天皇の時代の左大臣。兄時平の後を継いで延喜格式を撰上。朱雀天皇の時、摂政関白・太政大臣。時平・仲平とともに三平と称した。貞信公と諡し、日記「貞信公記」がある。
  • 藤原実頼 ふじわらの さねより 900-970 平安中期の歌人。藤原忠平の長子。醍醐・朱雀・村上・冷泉の4朝に仕え、関白太政大臣・摂政。天徳4年内裏歌合の判者。小野宮大臣とも呼び、清慎公と諡す。家集「清慎公集」
  • 藤原頼忠 ふじわらの よりただ 924-989 三条太政大臣とも。平安中期の公卿。左大臣小野宮実頼の次男。母は左大臣藤原時平の女。子に公任(きんとう)・遵子(じゅんし、円融天皇皇后)・ナ子(ていし、花山天皇女御)がある。諡号は廉義公。参議・中納言・権大納言をへて971(天禄2)正三位右大臣。976(貞元元)一上の宣旨をこうむる。翌年4月正二位左大臣、10月には藤原兼通が没し、円融天皇の関白となる。978(天元元)に花山天皇が即位してからも関白にとどまるが、実権を藤原義懐に握られ公事には従わなかった。(日本史)
  • 藤原師輔 ふじわらの もろすけ 908-960 平安中期の貴族。忠平の子。通称、九条殿。子の兼通・兼家、孫の道長が関白を継承し、摂関家の祖となる。著「九条年中行事」、日記「九暦」など。
  • 藤原伊尹 ふじわらの これまさ 924-972 (名はコレタダとも) 平安中期の貴族・歌人。師輔の子。右大臣・摂政・太政大臣となる。後撰和歌集の撰に参加。
  • 藤原兼通 ふじわらの かねみち 925-977 平安中期の貴族。師輔の子。弟兼家と関白を争い、太政大臣となる。
  • 藤原兼家 ふじわらの かねいえ 929-990 平安中期の貴族。師輔の子。兄兼通と関白を争い、花山天皇を欺いて退位させ、外孫一条天皇を即位させた。摂政太政大臣。大入道前関白、また東三条殿と称す。
  • 藤原道隆 ふじわらの みちたか 953-995 平安中期の貴族。兼家の長子。女定子は一条天皇の皇后。一条天皇の時、摂政関白となった。職を子の伊周に譲ろうと図るが、死後、弟道長に奪われた。中関白という。
  • 藤原道兼 ふじわらの みちかね 961-995 平安中期の貴族。兼家の第4子。右大臣・関白。父を助け花山天皇を欺いて退位を誘った。世に七日関白・粟田関白という。
  • 藤原道長 ふじわらの みちなが 966-1027 平安中期の貴族。兼家の第5子。御堂関白・法成寺入道前関白太政大臣と称されるが、正式には関白でなく内覧の宣旨を得たのみ。法成寺摂政とも。藤原氏極盛時代の氏長者。長女彰子は一条天皇の皇后となって後一条・後朱雀両天皇を生み、次女妍子は三条天皇の皇后、3女威子は後一条天皇の皇后、4女嬉子は後朱雀東宮の妃。法成寺を造営。自筆本の日記「御堂関白記」が伝わる。
  • 一条天皇 いちじょう てんのう 980-1011 平安中期の天皇。円融天皇の第1皇子。名は懐仁。(在位986〜1011)
  • 後一条天皇 ごいちじょう てんのう 1008-1036 平安中期の天皇。一条天皇の第2皇子。名は敦成。母は藤原彰子。(在位1016〜1036)
  • 後朱雀天皇 ごすざく てんのう 1009-1045 平安中期の天皇。一条天皇の第3皇子。名は敦良。母は藤原彰子。(在位1036〜1045)
  • 三条天皇 さんじょう てんのう 976-1017 平安中期の天皇。冷泉天皇の第2皇子。名は居貞。藤原道長が権勢をふるう。(在位1011〜1016)
  • 後冷泉天皇 ごれいぜい てんのう 1025-1068 平安中期の天皇。後朱雀天皇の第1皇子。母は藤原道長の娘嬉子。名は親仁。在位中に前九年合戦が起こる。(在位1045〜1068)
  • 藤原頼通 ふじわらの よりみち 992-1074 平安中期の貴族。道長の長子。宇治関白。後一条・後朱雀・後冷泉の3天皇52年間の摂政・関白。のち太政大臣、准三宮。宇治に平等院を建てて閑居。
  • 藤原教通 ふじわらの のりみち 996-1075 大二条殿とも。11世紀の公卿。父は道長。母は源雅信の女倫子。同母兄の頼通に続いて権中納言・権大納言・内大臣・右大臣を歴任、1058(康平元)従一位、60年左大臣。頼通から64年氏長者を譲られ、68(治暦4)関白となる。道長の遺志であったという。70年(延久2)太政大臣。頼通の嫡子師実ではなく自分の子信長に関白を譲ろうとするが、結局はたせず80歳で没。死後師実が関白になった。贈正一位。(日本史)
  • 藤原師実 ふじわらの もろざね 1042-1101 京極殿・後宇治殿とも。平安後期の公卿。関白頼通の三男。母は藤原祇子。1056(天喜4)非参議から権中納言となり、内大臣・右大臣・左大臣を歴任。1075(承保2)白河天皇の関白、86(応徳3)堀河天皇の摂政となる。88年(寛治2)太政大臣、翌年辞任。90年関白。養女賢子(源顕房の女)は白河天皇中宮として堀河天皇を生んだ。日記『京極関白記』は逸文のみ。(日本史)
  • 藤原師通 ふじわらの もろみち 1062-1099 後二条殿とも。平安後期の公卿。関白師実の長男。母は源麗子。参議・権中納言・権大納言をへて、1083(永保3)内大臣となる。94年(嘉保元)父師実から執政を譲られて関白となる。以後、白河上皇や父師実から自立した政治を志向。96年(永長元)従一位。学問を好み、大江匡房らから経史を学ぶ。日記『後二条師通記』。(日本史)
  • 藤原忠実 ふじわらの ただざね 1078-1162 平安末期の貴族。師通の長男。氏長者・関白・摂政。長子忠通と不和で、次子の頼長を偏愛した。日記は「殿暦」。知足院殿。
  • 藤原忠通 ふじわらの ただみち 1097-1164 平安末期の貴族。忠実の子。摂政関白・太政大臣。父や弟の頼長と対立したが、保元の乱後また氏長者となる。出家して法性寺入道前関白太政大臣ともいう。詩歌にすぐれ、書法にも一家をなして、法性寺様といわれた。家集「田多民治集」、詩集「法性寺関白集」
  • 後三条天皇 ごさんじょう てんのう 1034-1073 平安中期の天皇。後朱雀天皇の第2皇子。名は尊仁。藤原氏の専権をおさえ、記録所を置いて荘園を整理し、政治の積弊を改めた。(在位1068〜1072)
  • 白河天皇 しらかわ てんのう 1053-1129 平安中期の天皇。後三条天皇の第1皇子。名は貞仁。六条帝とも。1086年(応徳3)譲位、上皇となり、初めて院政を開き、堀河・鳥羽・崇徳の3代43年にわたって実権をにぎった。96年(永長1)出家して法皇となる。(在位1072〜1086)
  • 堀河天皇 ほりかわ てんのう 1079-1107 平安後期の天皇。白河天皇の第2皇子。名は善仁。父上皇が院政を開く。(在位1086〜1107)
  • 藤原基実 ふじわらの もとざね 1143-1166 六条殿・梅津殿・中殿とも。平安末期の公卿。忠通の嫡子。母は中納言源国信の女信子。1150(久安6)8歳で元服。権中納言・権大納言をへて、57年(保元2)右大臣。翌年の二条天皇の践祚の日に父にかわって関白・氏長者になる。のち左大臣。64年(長寛2)平清盛の女盛子と結婚。65年(永万元)六条天皇の摂政となるが、翌年痢病により24歳で没。贈太政大臣正一位。遺領は大部分盛子が相続した。近衛家の祖とされる。(日本史)
  • 藤原基房 ふじわらの もとふさ 1144/45-1230 松殿・菩提院・中山とも。平安後期の公卿。忠通の次男。母は中納言源国信の女国子。1166(仁安元)兄の摂政基実の病没により摂政。のち太政大臣、関白。殿下乗合事件もあってしだいに平氏と対立し、79年(治承3)平清盛によって解官され大宰権帥に流されるところ、出家し備前に配流された。翌年恩免。83年(寿永2)入京した源義仲を婿に迎え、子師家を摂政とするが、義仲敗死とともに政界から退く。故実にも詳しかった。(日本史)
  • 藤原兼実 ふじわらの かねざね (→)九条兼実に同じ。
  • 九条兼実 くじょう かねざね 1149-1207 平安末〜鎌倉初期の公家。九条家の祖。源頼朝の後援により議奏公卿の上首、摂政となり、記録所を設置。のち関白。明経に通じ、和歌・書道もよくした。日記を「玉葉」という。月の輪関白・後法性寺殿と称。
  • 近衛家 このえけ 姓氏の一つ。藤原氏の北家。五摂家の一つ。藤原氏嫡宗。藤原忠通の嫡男基実を始祖とするが若死し、その嫡男基通(1160〜1233)が内大臣・関白・摂政となり、京都近衛の北、室町の東に近衛殿を構え、氏の名とした。近衛大路に面する陽明門にちなみ陽明家とも称する。
  • 鷹司家 たかつかさけ 五摂家の一つ。藤原氏の北家の嫡流である近衛家実の第4男兼平(1228〜1294)を祖とする。邸が鷹司室町にあった。
  • 九条家 くじょうけ 姓氏の一つ。藤原氏の北家。忠通の子兼実に始まり、代々京都九条の邸を伝領した。五摂家の一つ。
  • 二条 にじょう 姓氏の一つ。五摂家の一つ。九条道家の子良実(1216〜1270)が二条京極に住んだのに始まる。
  • 一条 いちじょう 姓氏の一つ。本姓は藤原。九条道家の子実経(1223〜1284)が京都一条に住んで称した。五摂家の一つ。桃華。
  • 五摂家 ごせっけ 鎌倉中期以後、藤原氏北家の中で、摂政・関白に任ぜられる家柄、すなわち近衛・九条・二条・一条・鷹司の五家の総称。五門。


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)『日本史広辞典』(山川出版社、1997.10)。



*書籍

(書名、雑誌名、論文名、映画・能・狂言・謡曲などの作品名)
  • 『大宝律令』 だいほう/たいほう りつりょう 律6巻・令11巻の古代の法典。大宝元年(701)刑部親王・藤原不比等ら編。ただちに施行。天智朝以来の法典編纂事業の大成で、養老律令施行まで、律令国家盛期の基本法典となった。古代末期に律令共に散逸したが、養老律令から全貌を推定できる。
  • 『大宝令』 だいほうりょう/たいほうりょう 大宝律令の令の部分。


◇参照:『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)。



*難字、求めよ

  • 都遷し みやこ うつし 都を他の土地にうつすこと。みやこがえ。遷都。
  • 漢人 あやびと/あやひと (1) 古代の渡来系氏族。東漢直の祖阿知使主に率いられて渡来したと称する。東漢氏の配下にあって、錦・綾の生産、武具・革具などの手工業を職とした。(2) 古代の中国系と称する渡来人の通称。
  • 大内裏 だいだいり (タイダイリとも) 皇居である内裏を中心として、その周囲に政務や儀式を行う朝堂院、諸官庁などを配置した一郭。大化改新以後、官制の整備に伴って拡充。平城京・平安京では京の北端中央に位置した。宮城。宮。
  • 南大門 なんだいもん 都城・仏寺などで、南方にある正門。
  • 朱雀門 すざかもん/すざくもん 平城京・平安京大内裏の外郭十二門の一つ。宮城南面中央にある正門。朱雀大路から宮城に入る入口。唐の都、長安の皇城門の名を踏襲。もと大伴門とも称した。南門。
  • 朱雀大路 すざか/すざく おおじ 平城京・平安京の朱雀門から羅城門までの南北に通ずる大路。この大路の東を左京、西を右京とした。平安京では幅28丈、長さ1293丈。
  • 左京 さきょう 平城京・平安京などの都の東半部。中央の朱雀大路より東方の区域。←→右京。
  • 右京 うきょう (大内裏から南へ向いて右に当たるので) 平城京・平安京などの都の西半部。朱雀大路を境として東西に分けた西方の称。西の京。←→左京。
  • 大極殿 だいごくでん (ダイギョクデンとも) 古代、大内裏の朝堂院(八省院)の北部中央にあった正殿。殿内中央に高御座を置く。ここで天皇が政務を執り、または賀正・即位などの大礼を行なった。平安京のは東西11間、南北4間。碧瓦で棟の両端に金銅の鵄尾があり、前方の東西に蒼竜・白虎の二楼を置く。丹楹粉壁。1177年(治承1)焼失、再び造営されなかった。旧称、大安殿。
  • 青丹よし あおによし (枕) (ヨもシもともに間投助詞) 「奈良」「国内(くぬち)」にかかる。奈良に顔料の青丹を産出したことが秘府本万葉集抄にみえるが、事実か伝説の記録か不明。一説に、「なら」に続けたのは顔料にするために青丹を馴熟(なら)すによるという。
  • 再建 さいこん (コンは呉音) 神社・仏閣などの建物を再び建てること。
  • 一丈六尺 いちじょうろくしゃく → 丈六
  • 丈六 じょうろく 一丈六尺(4.85m)の略で、仏の身長とされる。一般人の身長を八尺とし、尊い仏はその倍あるという信仰にもとづく。座像は半分の八尺(2.42m)となる。大和飛鳥寺(法興寺)の本尊である飛鳥大仏が606(推古14)に丈六で造られて以来、仏像を計る基準(法量)として主要寺院の本尊制作に採用された。(日本史)
  • 釈迦如来 しゃか にょらい 釈迦牟尼の尊称。
  • 七大寺 しちだいじ 奈良の東大寺・興福寺・元興寺・大安寺・薬師寺・西大寺・法隆寺の総称。この七寺を巡拝するのを七大寺詣でといった。南都七大寺。
  • 願文 がんもん (1) 仏・菩薩の本願を書き表したもの。(2) 法会の時、施主の願意を記した文。表白文。(3) 神仏に立願の時、その起請の趣旨を記した文。祈願文。
  • 浄土 じょうど 五濁・悪道のない仏・菩薩の住する国。十方に諸仏の浄土があるとされるが、特に、西方浄土往生の思想が盛んになると、阿弥陀の西方浄土を指すようになった。浄刹。←→穢土。
  • 国府 こくふ (1) (コクブ・コフとも) (ア) 令制で、一国ごとに置かれた国司の役所。国衙。←→別府。(イ) 国衙の所在地。府中。
  • 国教 こっきょう 国家が認めて、国民の信奉すべき宗教と定め、国務の一部としてその教務を取り扱い、これを保護する宗教。日本では、憲法で信教の自由を認めているから、この制度はない。
  • 蝦夷 えぞ (1) 古代の奥羽から北海道にかけて住み、言語や風俗を異にして中央政権に服従しなかった人びと。えみし。(2) 北海道の古称。蝦夷地。
  • 隼人 はやと ハヤヒトの約。古代の九州南部に住み、風俗習慣を異にして、しばしば大和の政権に反抗した人々。のち服属し、一部は宮門の守護や歌舞の演奏にあたった。はいと。はやと。
  • 祭政一致 さいせい いっち 神祇の祭祀と国家の政治とが一致するという思想ならびに政治形態。古代社会に多く見られる。政教一致。
  • 国分寺 こくぶんじ 741年(天平13)聖武天皇の勅願によって、五穀豊穣・国家鎮護のため、国分尼寺と共に国ごとに建立された寺。正式には金光明四天王護国之寺という。奈良の東大寺を総国分寺とした。
  • 国分僧寺 こくぶん そうじ
  • 正倉院 しょうそういん 奈良東大寺大仏殿の北西にある木造大倉庫。宝庫や経巻を収納した聖語蔵などがある。宝庫は、校倉を二つ南北に並べ、中間を板倉でつなぎ、寄棟造瓦葺きの大屋根をかける。南北32.7m、東西9m、高さ14m、床下2.5mで、内部は北・中・南の3倉に分かれる。聖武天皇の遺愛品、東大寺の寺宝・文書など7〜8世紀の東洋文化の粋9000点余を納める。古くは庁院西双倉・三倉とも称した。
  • 施薬院 せやくいん (ヤクインともよむ) 貧しい病人に施薬・施療した施設。孤独な老人や幼児も収容。730年(天平2)光明皇后創設、中世に衰亡、豊臣秀吉再興、江戸幕府が受け継ぎ明治まで存続。
  • 悲田院 ひでんいん 貧窮者・病者・孤児などを救うための施設。聖徳太子が難波に建てたというが確かでなく、723年(養老7)興福寺に、また、730年(天平2)光明皇后が施薬院と共に平城京に設置したと伝える。その後平安京や諸国にも置かれたらしく、10世紀ごろまで存続した。悲田寺。悲田所。
  • 法王 ほうおう 766年(天平神護2)、称徳天皇から道鏡に授けられた称号。法皇。
  • 万世一系 ばんせい いっけい 永遠に同一の系統がつづくこと。多く皇統についていわれた。
  • 精忠 せいちゅう 私心を交えない純粋の忠義。純忠。
  • 内裏 だいり 天皇の住居としての御殿。御所。皇居。禁裏。禁中。禁闕。大内。紫庭。
  • 紫宸殿 ししんでん (シシイデンとも。古くは「紫震殿」とも書いた) 平安京内裏の正殿。もと朝賀・公事を行う所であったが、大極殿の荒廃・焼失後は即位などの大礼を行なった。南面して設けられ、9間の母屋の四方に廂があり、殿の中央やや北寄りに玉座を設け、その東には御帳台、北には賢聖障子がある。北廂から廊で清涼殿に通じ、南廂には階があって前庭に通ずる。階の左右に左近の桜、右近の橘がある。今の京都御所のは1855年(安政2)の造営。南殿。前殿。正殿。正寝。
  • 清涼殿 せいりょうでん (セイロウデンとも) 平安京内裏の殿舎の一つ。天皇の常の居所で、四方拝・小朝拝・叙位・除目・官奏などの公事も行なった。近世は常御殿を常の座所とし、清涼殿は儀式にだけ用いられた。紫宸殿の北西、校書殿の北にある。東面した9間四面の入母屋造で、身舎の南5間を昼の御座と称し、帳台がある。南東隅は石灰壇で、毎朝、神宮・内侍所以下御拝の所。その他、夜の御殿・萩の戸・弘徽殿の上御局などがある。
  • 遷都 せんと 都を他の地にうつすこと。都をかえること。みやこうつり。
  • 帝都 ていと 皇居のある都。皇都。
  • 幕府 ばくふ (1) (もと将軍が戦場にあって幕中で事を治めたからいう) 将軍の居所または陣営。柳営。(2) 近衛府の唐名。転じて、近衛大将の居館の称。(3) 武家政治の政庁。また、武家政権そのものをいう。
  • 町割 まちわり 町の地割。町を設けるために土地を仕切ること。
  • 大織冠 だいしょくかん/たいしょっかん (1) 647年(大化3)制定された十三階冠位より664年の二十六階冠位までの最高の位階(後の正一位に相当)。(2) (唯一人、授けられたので) 特に藤原鎌足の称。
  • 右大臣 うだいじん 律令制の太政官で、左大臣の次に位し、政務を統轄した官。左大臣とともに実際上の長官。右丞相。右相府。右府。みぎのおとど。みぎのおおいもうちぎみ。←→左大臣。
  • 大官 たいかん 身分の高い官吏。顕官。高官。
  • 天然痘 てんねんとう (→)痘瘡に同じ。
  • 痘瘡 とうそう (small-pox) 痘瘡ウイルスによる感染症。気道粘膜から感染。高熱を発し、悪寒・頭痛・腰痛を伴い、解熱後、主として顔面に発疹を生じ、あとに痘痕を残す。感染性が強く、死亡率も高いが、種痘によって予防できる。1980年WHOが絶滅宣言を出した。疱瘡。天然痘。
  • 摂政 せっしょう [礼記文王世子]君主に代わって政務を行うこと。また、その官。日本では、聖徳太子以来、皇族が任ぜられたが、清和天皇幼少のため外戚の藤原良房が任ぜられてのちは、藤原氏が専ら就任した。明治以降は、皇室典範により、天皇が成年に達しないとき、並びに精神・身体の重患または重大な事故の際、成年の皇族が任ぜられる。→せっせい。
  • 今上天皇 きんじょう てんのう 当代の天皇。
  • 関白 かんぱく (カンバクとも。関(あずか)り白(もう)す意)[漢書霍光伝「諸事皆先ず光に関白し、然る後天子に奏御す」](1) 政務に関し、天子に奏上する前に、特定の権臣があずかり、意見を申し上げること。(2) 平安時代以降、天皇を補佐して政務を執り行なった重職。令外の官。884年(元慶8)光孝天皇の時、一切の奏文に対して、天皇の御覧に供する前に藤原基経に関白させたことに始まる。摂政からなるのを例とし、この職を兼ねるものは太政大臣の上に坐した。一の人。一の所。執柄。博陸。
  • 左大臣 さだいじん (1) 律令制の太政官の長官。太政大臣の次、右大臣の上に位し、諸般の政務を統轄した官。左丞相。左相府。左府。左のおとど。いちのかみ。ひだりのおおいもうちぎみ。←→右大臣。(2) 明治初期の太政官制の官職の一つ。
  • 右大臣 うだいじん (1) 律令制の太政官で、左大臣の次に位し、政務を統轄した官。左大臣とともに実際上の長官。右丞相。右相府。右府。みぎのおとど。みぎのおおいもうちぎみ。←→左大臣。(2) 明治初期の太政官制の官職の一つ。三条実美・岩倉具視が任じられた。1885年(明治18)廃止。
  • 中宮 ちゅうぐう (1) 「上宮」参照。(2) 内裏。禁中。(3) 皇后・皇太后・太皇太后の称。三后。(4) 平安初期、皇太夫人の別称。(5) 皇后の御所。また、皇后の別称。(6) 皇后と同資格の后。新しく立后したものを皇后と区別していう称。
  • 女御 にょうご (ニョゴとも) (1) 中宮の次に位し、天皇の寝所に侍した高位の女官。主に摂関の娘がなり、平安中期以後は女御から皇后を立てるのが例となった。(2) 上皇・皇太子の妃。
  • 皇太后 こうたいごう (古くは清音) 三后の一つ。先帝の皇后。今上の生母。おおきさき。
  • 上皇 じょうこう (古くはショウコウ) 天皇譲位後の尊称。おりいのみかど。太上天皇。太上皇。
  • 法皇 ほうおう (1) 仏門に入った太上天皇。太上法皇。のりのすべらぎ。法の御門。
  • 院政 いんせい (1) 上皇または法皇が院庁で朝廷政治をつかさどる政治形態。11世紀末の白河上皇から、形式上は19世紀中頃の光格天皇まで続くが、実質的には鎌倉初期の後鳥羽上皇の時期まで。(2) 転じて、いったん引退したはずの人が、なお実権を握って取り仕切ること。
  • 華族 かぞく (1) 清華家の別称。(2) 1869年(明治2)、皇族の下、士族の上に置かれた族称。はじめ旧公卿・大名の家系の身分呼称に過ぎなかったが(旧華族)、84年華族令により維新の功臣のちには実業家にも適用され、公・侯・伯・子・男の爵位を授けられて、特権を伴う社会的身分となった。1947年現憲法施行により廃止。
  • 公爵 こうしゃく 五等爵(公・侯・伯・子・男)の第1。
  • 公家華族 くげ かぞく 旧公卿の、明治維新後に華族に列せられた者。
  • 武家華族 ぶけ かぞく もと武家で、明治初年華族に列せられた者。
  • 新華族 しんかぞく 明治時代、旧大名・旧公卿の家柄でなく、特別の勲功によって新たに華族に列せられた者。


◇参照:『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)『日本国語大辞典 第二版』(小学館、2001.5)。



*後記(工作員スリーパーズ日記)


11.3(土)晴れのちくもり。天童、わくわくランド道の駅にて震災パネル展、ビデオ鑑賞。パンフ『忘れない。』国土交通省、東北地方整備局。路上に堆積した地震や津波のがれきをかたずけてルート確保することを「啓開」というらしい。切り開くこと。たぶん、軍事用語っぽい。
 東北自動車道と国道4号を縦に、そこから沿岸地域へ横にのびる15本の国道を確保。さらに、沿岸沿いの国道45号・6号を縦に確保。「くしの歯作戦」
 パネルとパンフの最後に、「巨大地震の今後の可能性」として、過去の巨大地震の連動関係が明瞭にまとめてある。過去2000年間、M8以上の東日本太平洋側の巨大地震は869年、1611年、1896年、1933年の4つあって、その4つとも10年以内で首都圏直下型地震と連動。さらに4つのうち3つが18年以内で東海・南海・東南海地震と連動。

 山形産の柿、1箱Sサイズ36個入りで1000円を購入。




*次週予告


第五巻 第一六号 
校註『古事記』(八)武田祐吉


第五巻 第一六号は、
二〇一二年一一月一〇日(土)発行予定です。
定価:200円


T-Time マガジン 週刊ミルクティー 第五巻 第一五号
日本歴史物語〈上〉(四)喜田貞吉
発行:二〇一二年一一月三日(土)
編集:しだひろし / PoorBook G3'99
 http://www33.atwiki.jp/asterisk99/
出版:*99 出版
 〒994-0024 山形県天童市鎌田2丁目
 アパートメント山口A−202
販売:DL-MARKET
※ T-Timeは(株)ボイジャーの商標・製品です。