芥川龍之介 あくたがわ りゅうのすけ
1892-1927(明治25.3.1-昭和2.7.24)
小説家。別号、我鬼・澄江堂主人。東京生れ。東大卒。夏目漱石門下。菊池寛・久米正雄らと第3次・第4次「新思潮」を刊行。「鼻」「芋粥」で注目された。大正文学の中心作家の一人。作「羅生門」「地獄変」「偸盗」「河童」「歯車」「或阿呆の一生」など。自殺。


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)

もくじ 
大正十二年九月一日の大震に際して(他)
 芥川龍之介


ミルクティー*現代表記版
オウム――大震覚え書きの一つ―
大正十二年九月一日の大震に際して
  一 大震雑記
  二 大震日録
  三 大震に際せる感想
  四 東京人
  五 廃都東京
  六 震災の文芸に与うる影響
  七 古書の焼失を惜しむ

オリジナル版
鸚鵡――大震覚え書の一つ―
大正十二年九月一日の大震に際して

地名年表人物一覧書籍
難字、求めよ
後記次週予告

※ 製作環境
 ・Macintosh iBook、Mac OS 9.2.2、T-Time 2.3.1
 ・ ポメラ DM100、ソーラーパネル GOAL ZERO NOMAD 7(ガイド10プラス)
※ 週刊ミルクティー*は、JIS X 0213 文字を使用しています。
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*凡例
  • ( ):小書き。〈 〉:割り注。
  • 〔 〕:編者もしくは、しだによる注。
  • 一、漢字、かなづかい、漢字の送りは現代表記に改めました。
  •    例、云う → いう / 言う
  •      処  → ところ / 所
  •      有つ → 持つ
  •      這入る → 入る
  •      円く → 丸く
  •      室  → 部屋
  • 一、同音異義の一部のひらがなを、便宜、漢字に改めました。
  •    例、いって → 行って / 言って
  •      きいた → 聞いた / 効いた
  • 一、若干の句読点を改めました。適宜、ルビや中黒や感嘆・疑問符をおぎないました。一部、改行と行頭の字下げを改めました。
  • 一、漢数字の表記を一部、改めました。
  •    例、七百二戸 → 七〇二戸
  •    例、二萬六千十一 → 二万六〇一一
  • 一、ひらがなに傍点は、一部カタカナに改めました。
  • 一、カタカナ漢字混用文は、ひらがな漢字混用文に改めました。
  • 一、和暦にはカッコ書きで西暦をおぎないました。年次のみのばあいは単純な置き換えにとどめ、月日のわかるばあいには陰暦・陽暦の補正をおこないました。
  • 一、「今から○○年前」のような経過年数の表記は改めず、底本のままにしました。和歌・俳句・短歌は五七五(七七)の音節ごとに半角スペースで句切りました。
  • 一、表や図版キャプションなどの組版は、便宜、改めました。
  • 一、書名・雑誌名は『 』、論文名・記事名および会話文は「 」で示しました。
  • 一、差別的表現・好ましくない表現はそのままとしました。

*尺貫法
  • 寸 すん 長さの単位。尺の10分の1。1寸は約3.03cm。
  • 尺 しゃく 長さの単位。1mの33分の10と定義された。寸の10倍、丈の10分の1。
  • 丈 じょう 長さの単位。(1) 尺の10倍。約3m。(2) 周尺で、約1.7m。成人男子の身長。
  • 歩 ぶ (1) 左右の足を一度ずつ前に出した長さ。6尺。(2) 土地面積の単位。1歩は普通、曲尺6尺平方で、1坪に同じ。
  • 町 ちょう (1) 土地の面積の単位。1町は10段。令制では3600歩、太閤検地以後は3000歩とされ、約99.17アール。(2) (「丁」とも書く) 距離の単位。1町は60間。約109m強。
  • 里 り 地上の距離を計る単位。36町(3.9273km)に相当する。昔は300歩、すなわち今の6町の定めであった。
  • 合 ごう 容積の単位。升の10分の1。1合は180.39立方cm。
  • 升 しょう 容量の単位。古来用いられてきたが、現代の1升は1.80391リットル。斗の10分の1で、合の10倍。
  • 斗 と 容量の単位。1斗は1升の10倍で、18.039リットルに当たる。
  • 海里・浬 かいり (sea mile; nautical mile) 緯度1分の子午線弧長に基づいて定めた距離の単位で、1海里は1852m。航海に用いる。
  • 尋 ひろ (1) (「広(ひろ)」の意)両手を左右にひろげた時の両手先の間の距離。(2) 縄・水深などをはかる長さの単位。1尋は5尺(1.515m)または6尺(1.818m)で、漁業・釣りでは1.5mとしている。
  • 坪 つぼ 土地面積の単位。6尺四方、すなわち約3.306平方m。歩(ぶ)。



*底本

オウム ――大震覚え書きの一つ――
底本:「筑摩全集類聚 芥川龍之介全集第四巻」筑摩書房
   1971(昭和46)年6月5日初版第1刷発行
   1979(昭和54)年4月10日初版第11刷発行
http://www.aozora.gr.jp/cards/000879/card3763.html

大正十二年九月一日の大震に際して
底本:「筑摩全集類聚 芥川龍之介全集第四巻」筑摩書房
   1971(昭和46)年6月5日初版第1刷発行
   1979(昭和54)年4月10日初版第11刷発行
http://www.aozora.gr.jp/cards/000879/card3762.html

NDC 分類:914.6(日本文学 / 評論.エッセイ.随筆)
http://yozora.kazumi386.org/9/1/ndc914.html





オウム
―大震覚え書きの一つ―

芥川龍之介


 これはご覧のとおり覚え書きにすぎない。覚え書きを覚え書きのまま発表するのは時間の余裕よゆうとぼしいためである。あるいはまたそのほかにも、気持ちの余裕に乏しいためである。しかし、覚え書きのまま発表することに多少は意味のないわけでもない。大正十二年(一九二三)九月十四日記。

 本所ほんじょ横網町よこあみちょうに住める一中節いっちゅうぶし師匠ししょう。名は鐘大夫かねだいふ。年は六十三歳。十七歳の孫娘と二人暮らしなり。
 家は地震にもつぶれざりしかど、たちまち近隣に出火あり。孫娘とともに両国りょうごくに走る。たずさえしものはオウムのかごのみ。オウムの名は五郎ごろう。背はネズミ色、腹は桃色。芸は錺屋かざりやつちの音と「ナァル」(なるほどの略)という言葉とを真似まねるだけなり。
 両国りょうごくより人形町にんぎょうちょうづるあいだに、いつか孫娘と離ればなれになる。心配なれども探しているひまなし。往来おうらい人波ひとなみ。荷物の山。カナリヤのかごを持ちし女を見る。待合まちあい女将おかみかと思わるる服装。「こちとらに似たものもあると思いました」という。そのくらいの余裕はあるものと見ゆ。
 鎧橋よろいばしに出づ。町の片側は火事なり。そのかわに面せるに顔、焼くるかと思うほど熱かりしよし。また何か落つると思えば、電線をおおえる鉛管えんかん火熱かねつのためにけ落つるなり。このへんよりいっそう人に押され、たびたびオウムのかごつぶれずやと思う。オウムは始終くるいまわりてまず。
 まるうちに出づれば日比谷ひびやの空に火事の煙のあがるを見る。警視庁、帝劇などの焼けりしならん。やっとくすのきの銅像のほとりに至る。芝の上にすわりしかど、孫娘のことが気にかかりてならず。大声に孫娘の名を呼びつつ、避難民のあいだを探しまわる。日暮にちぼ。ついに松のかげによこたわる。となりは店員数人をつれたる株屋。空は火事の煙のため、どちらを見てもまっなり。オウム、突然「ナァル」という。
 翌日も丸の内一帯より日比谷まで、孫娘を探しまわる。「人形町なり両国なりへ引っ返そうという気は出ませんでした」という。ひるごろより饑渇きかつを覚ゆることせつなり。やむをえず日比谷の池の水を飲む。孫娘はついに見つからず。夜はまた丸の内の芝の上によこたわる。オウムのかごを枕べに置きつつ、人にぬすまれはせぬかと思う。日比谷の池のアヒルをらえる避難民を見たればなり。空にはなお火事のかりを見る。
 三日みっかは孫娘を断念し、新宿しんじゅくおいをたずねんとす。桜田さくらより半蔵門はんぞうもんに出づるに、新宿もまた焼けたりと聞き、谷中やなか檀那寺だんなでら手頼たよらばやと思う。饑渇きかついよいよはなはだし。「五郎を殺すのはいやですが、おちたらおうと思いました」という。九段上くだんうえへ出づる途中、役所の小使こづかいらしきものにやっと玄米げんまい一合あまりをもらい、なまのままくだきて食す。またつらつら考えれば、オウムのかごをさげたるまま、檀那寺だんなでらの世話にはなられぬようなり。すなわちオウムに玄米の残りをわせ、九段上の濠端ほりばたよりこれをはなつ。薄暮はくぼ、谷中の檀那寺だんなでらに至る。和尚おしょう、親切に幾日でもいろという。
 五日いつかの朝、僕の家にたる。いまだ孫娘の行くを知らずという。意気な平生のお師匠ししょうさんとは思われぬほど憔悴しょうすいたり。
 付記。新宿のおいの家は焼けざりしよし。孫娘はそこに避難しおりし由。



底本:「筑摩全集類聚 芥川龍之介全集第四巻」筑摩書房
   1971(昭和46)年6月5日初版第1刷発行
   1979(昭和54)年4月10日初版第11刷発行
入力:土屋隆
校正:松永正敏
2007年6月26日作成
青空文庫作成ファイル:
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大正十二年九月一日の大震に際して

芥川龍之介

   一 大震雑記

    一


 大正十二年(一九二三)八月、僕は一游亭いちゆうていと鎌倉へ行き、平野屋ひらのや別荘の客となった。ぼくらの座敷の軒先のきさきはずっと藤棚ふじだなになっている。そのまた藤棚の葉のあいだにはちらほら紫の花が見えた。八月の藤の花は年代記ものである。そればかりではない。後架こうかの窓から裏庭を見ると、八重やえ山吹やまぶきも花をつけている。

  山吹を すや日向ひなた撞木杖しゅもくづえ  一游亭
 (注にいわく、一游亭は撞木杖をついている。

 そのうえまた珍しいことは、小町園こまちえんの庭の池に菖蒲しょうぶはすと咲ききそっている。

  葉をれて はちすと咲ける 花あやめ  一游亭

 藤、山吹、菖蒲しょうぶとかぞえてくると、どうもこれは唯事ただごとではない。「自然」に発狂の気味のあるのは疑いがたい事実である。僕は爾来じらい、人の顔さえ見れば、「天変地異がおこりそうだ」といった。しかし、だれもに受けない。久米くめ正雄まさおのごときはニヤニヤしながら、菊池きくちかんが弱気になってね」などとおおいに僕を嘲弄ちょうろうしたものである。
 ぼくらの東京に帰ったのは八月二十五日である。だい地震はそれから八日目におこった。
「あのときは義理にも反対したかったけれど、実際、君の予言はあたったね。
 久米も今は僕の予言におおいに敬意を表している。そういうことならば白状してもよい。――じつは僕も、僕の予言をあまり信用しなかったのだよ。

    二


浜町河岸はまちょうがしの舟の中におります。桜川さくらがわ三孝さんこう
 これは吉原よしわらの焼け跡にあった無数のり紙の一つである。「舟の中におります」というのはまじめに書いた文句もんくかもしれない。しかし、あわれにも風流である。僕はこの一行いちぎょうの中に秋風しゅうふうの舟を家とたのんだ幇間ほうかんの姿を髣髴ほうふつした。江戸作者の写した吉原は永久にかえってはこないであろう。が、とにかく今日こんにちといえども、こういう貼り紙に洒脱しゃだつの気を示した幇間のいたことは確かである。

    三


 だい地震のやっと静まったのち、屋外おくがいに避難した人びとは急に人なつかしさを感じ出したらしい。向こう三軒両どなりを問わず、親しそうに話しあったり、タバコやなしをすすめあったり、たがいに子どものりをしたりする景色けしきは、渡辺町わたなべちょう田端たばた神明町しんめいちょう―ほとんどいたるところに見受けられたものである。ことに田端のポプラ倶楽部クラブ芝生しばふに難を避けていた人びとなどは、背景にポプラのそよいでいるせいか、ピクニックに集まったのかと思うくらい、いかにも楽しそうに打ちけていた。
 これはつとにクライストが「地震」の中にえがいた現象である。いや、クライストはそのうえに地震後の興奮が静まるが早いか、もう一度、平生の恩怨おんえんがおもむろに目ざめてくる恐しささええがいた。するとポプラ倶楽部芝生しばふに難を避けていた人びとも、いつ何時なんどきとなりの肺病患者を駆逐くちくしようと試みたり、あるいはまた向こうの奥さんの私行を吹聴ふいちょうして歩こうとするかもしれない。それは僕でも心得ている。しかし大勢おおぜいの人びとの中にいつにない親しさのいているのはとにかく美しい景色けしきだった。僕は永久にあの記憶だけは大事にしておきたいと思っている。

    四


 僕も今度はご多分たぶんにもれず、焼死した死骸しがいをたくさん見た。そのたくさんの死骸のうち最も記憶に残っているのは、浅草あさくさ仲店なかみせの収容所にあった病人らしい死骸である。この死骸もほのおに焼かれた顔は目鼻もわからぬほどまっくろだった。が、湯帷子を着た体や、やせ細った手足などには少しも焼けただれたあとはなかった。しかし僕の忘れられぬのは、なにもそういうためばかりではない。焼死した死骸は誰もいうようにたいてい手足をちぢめている。けれどもこの死骸はどういうわけか、焼け残ったメリンスの布団ふとんの上にちゃんと足をばしていた。手もまた覚悟をめたように湯帷子の胸の上に組み合わせてあった。これは苦しみもだえた死骸ではない。静かに宿命を迎えた死骸である。もし顔さえげずにいたら、きっとあおざめたくちびるには微笑に似たものが浮かんでいたであろう。
 僕はこの死骸をものあわれに感じた。しかし妻にその話をしたら、「それはきっと地震の前に死んでいた人の焼けたのでしょう」といった。なるほどそういわれて見れば、案外あんがいそんなものだったかもしれない。ただ僕は、妻のために小説じみた僕の気もちの破壊されたことをにくむばかりである。

    五


 僕は善良なる市民である。しかし僕の所見によれば、菊池きくちかんはこの資格にとぼしい。
 戒厳令かいげんれいかれたのち、僕は巻き煙草たばこをくわえたまま、菊池と雑談を交換していた。もっとも雑談とはいうものの、地震以外の話の出たわけではない。そのうちに僕は、大火の原因は○○○○○○○○そうだといった。すると菊池はまゆをあげながら、うそだよ、君」と一喝いっかつした。僕はもちろんそういわれてみれば、「じゃ、うそだろう」というほかはなかった。しかし、ついでにもう一度、なんでも○○○○はボルシェヴィッキの手先だそうだといった。菊池は今度はまゆをあげると、うそさ、君、そんなことは」としかりつけた。僕はまた「へええ、それもうそか」とたちまち自説(?)撤回てっかいした。
 ふたたび僕の所見によれば、善良なる市民というものはボルシェヴィッキと○○○○との陰謀の存在を信ずるものである。もし万一信じられぬ場合は、少なくとも信じているらしい顔つきをよそおわねばならぬものである。けれども野蛮やばんなる菊池寛は信じもしなければ信じる真似まねもしない。これは完全に善良なる市民の資格を放棄ほうきしたと見るべきである。善良なる市民たると同時に勇敢ゆうかんなる自警団じけいだんの一員たる僕は、菊池のためにしまざるを得ない。
 もっとも善良なる市民になることは、―とにかく苦心を要するものである。

    六


 僕は丸の内の焼け跡を通った。ここを通るのは二度目である。この前来たときには馬場先ばばさきほりに何人も泳いでいる人があった。きょうは――僕は見覚えのあるほりの向こうをながめた。堀の向こうには薬研やげんなりに石垣のくずれたところがある。くずれた土はのように赤い。くずれぬ土手どては青芝の上にあいかわらず松をうねらせている。そこにきょうも三、四人、裸の人びとが動いていた。なにもそういう人びとは酔興すいきように泳いでいるわけではあるまい。しかし行人こうじんたる僕の目には、この前もちょうど西洋人のえがいた水浴の油画か何かのように見えた、今日きょうもそれは同じである。いや、この前はこちらの岸に小便をしている土工があった。きょうはそんなものを見かけぬだけ、いっそう平和に見えたくらいである。
 僕はこういう景色けしきを見ながら、やはり歩みをつづけていた。すると突然濠の上から、思いもよらぬ歌の声がおこった。歌は「なつかしのケンタッキー」である。歌っているのは、水の上に頭ばかり出した少年である。僕は妙な興奮を感じた。僕の中にもその少年に声を合わせたい心持ちを感じた。少年は無心に歌っているのであろう。けれども歌は一瞬のあいだに、いつか僕をとらえていた否定の精神を打ち破ったのである。
 芸術は生活の過剰かじょうだそうである。なるほどそうも思われぬことはない。しかし、人間を人間たらしめるものは、常に生活の過剰かじょうである。僕らは人間たる尊厳のために生活の過剰を作らなければならぬ。さらにまた、たくみにその過剰を大いなる花束はなたばに仕上げねばならぬ。生活に過剰をあらしめるとは、生活を豊富にすることである。
 僕はまるうちの焼け跡を通った。けれども僕の目にれたのは、猛火もまた焼きがたい何ものかだった。

   二 大震日録


 八月二十五日。
 一游亭いちゆうていと鎌倉より帰る。久米くめ田中たなかすが成瀬なるせ武川かわなど停車場へ見送りにたる。一時ごろ新橋しんばし着。ただちに一游亭とタクシーをり、聖路加せいろか病院に入院中の遠藤えんどう古原草こげんそうを見舞う。古原草はやまいほとんどえ、油画具などもてあそびたり。風間かざま直得なおえとおちあう。聖路加せい病院は病室の設備、看護婦の服装とう清楚せいそはなはだ愛すべきものあり。一時間ののち、ふたたびタクシーを駆りて一游亭を送り、三時ごろやっと田端たばたへ帰る。
 八月二十九日
 暑気はなはだし。ふたたび鎌倉に遊ばんかなどとも思う。薄暮はくぼより悪寒おかん。検温器を用うれば八度六分の熱あり。下島しもじま先生の来診らいしんう。流行性感冒かんぼうのよし。母、伯母おば、妻、ら、みな多少風邪ふうじゃの気味あり。
 八月三十一日。
 やまいいささかこころよきを覚ゆ。床上『渋江しぶえ抽斎ちゅうさい』を読む。かつて小説「芋粥いもがゆ」をそうせしとき、「ほとんどまったく」なる語をもちい、久米に笑われたる記憶あり。今『抽斎』を読めば、鴎外おうがい先生もまた「ほとんどまったく」の語を用う。一笑を禁ずるあたわず。
 九月一日。
 ひるごろ茶のにパンと牛乳をきつしおわり、まさに茶を飲まんとすれば、たちまち大震のたるあり。母とともに屋外おくがいづ。妻は二階に眠れる多加志を救いに去り、伯母おばはまた梯子段はしごだんのもとに立ちつつ、妻と多加志とを呼んでやまず、すでにして妻と伯母と多加志をいだいて屋外に出づれば、さらにまた父と比呂志とのあらざるを知る。しづを、ふたたび屋内おくないに入り、倉皇そうこう比呂志をいだいて出づ。父また庭をめぐって出づ。このかん家おおいに動き、歩行はなはだ自由ならず。屋瓦おくがい乱墜らんついするもの十余。大震ようやく静まれば、風あり、おもてを吹いて過ぐ。土臭つちくさほとんどむせばんとほっす。父とおくの内外を見れば、被害は屋瓦のちたると石灯籠いしどうろうの倒れたるのみ。
 円月堂えんげつどう、見舞いにたる。泰然自若じじゃくたるごとき顔をしていれども、多少はおどろいたのに違いなし。病をつとめて円月堂と近隣きんりんに住する諸君を見舞う。途上、神明町しんめいちょう狭斜きょうしゃぐれば、人家の倒壊せるもの数軒をかぞう。また月見橋つきみばしのほとりに立ち、はるかに東京の天を望めば、天、泥土でいどの色をおび、焔煙えんえんの四方に飛騰ひとうする見る。帰宅後、電灯の点じ難く、食糧のとぼしきをげんことをおそれ、ロウソク・米穀べいこく蔬菜そさい缶詰かんづめの類を買い集めしむ。
 夜また、円月堂の月見橋のほとりに至れば、東京の火災いよいよたけりに、一望おおいなる溶鉱炉ようこうろを見るがごとし。田端たばた日暮里にっぽり渡辺町わたなべちょうとうの人びと、路上に椅子をすえ、畳を敷き、屋外おくがいねむらんとするもの少なからず。帰宅後、大震のふたたび至らざるべきを説き、家人をみな屋内にねむらしむ。電灯、ガスともに用をなさず、ときに二階の戸を開けば、天色てんしょくつねに燃ゆるがごとくくれないなり。
 この日、下島しもじま先生の夫人、単身たんしん大震中の薬局に入り、薬剤の棚のたおれんとするをささう。ために出火のうれいなきを得たり。胆勇たんゆう、僕などのおよぶところにあらず。夫人は渋江しぶえ抽斎ちゅうさいの夫人いお女の生まれ変わりか何かなるべし。
 九月二日。
 東京の天、いまだ煙におおわれ、灰燼かいじんの時に庭前につるを見る。円月堂えんげつどうい、牛込うしごめしばとうの親戚を見舞わしむ。東京全滅の報あり。また横浜ならびに湘南しょうなん地方全滅の報あり。鎌倉にとどまれる知友を思い、心しきりに安からず。薄暮はくぼ、円月堂の帰り報ずるを聞けば、牛込は無事、芝、焦土しょうどと化せりという。あねの家、弟の家、ともに全焼し去れるならん。彼らの生死だに明らかならざるをうれう。
 この日、避難民の田端たばた飛鳥山あすかやまかうもの、陸続りくぞくとして絶えず。田端もまた延焼せんことをおそれ、妻はらのをバスケットに収め、僕は漱石そうせき先生の書一軸を風呂敷ふろしきに包む。家具・家財の荷づくりをなすも、運び難からんことを察すればなり。人欲もとよりきわまりなしとはいえ、存外ぞんがいまたあきらめることも容易なるがごとし。に入りて発熱三十九度。時に○○○○○○○○あり。僕は頭おもうして立つあたわず。円月堂、僕のかわりに徹宵てっしょう警戒の任にあたる。脇差わきざしを横たえ、木刀ぼくとうをひっさげたるさま、彼自身宛然えんぜんたる○○○○なり。

   三 大震に際せる感想


 地震のことを書けという雑誌一つならず。何をどう書き飛ばすにせよ、そうは注文に応じ難ければ、思いつきたること二、三をしるしてやむべし。さいわいに孟浪まんらんをとがむることなかれ。
 この大震を天譴てんけんと思えとは渋沢しぶさわ子爵〔渋沢栄一か〕のいうところなり。誰かみずからかえりみれば脚にきずなきものあらんや。脚にきずあるは天譴てんけんをこうむる所以ゆえん、あるいは天譴をこうむれりと思い得る所以ゆえんなるべし、されどわれは妻子さいしを殺し、彼は家すら焼かれざるを見れば、誰かまたいわゆる天譴の不公平なるに驚かざらんや。不公平なる天譴を信ずるは天譴を信ぜざるにかざるべし。いな、天の蒼生そうせいに、―当世におこなわるる言葉を使えば、自然のわれわれ人間に冷淡なることを知らざるべからず。
 自然は人間に冷淡なり。大震はブルジョアとプロレタリアとをわかたず。猛火は仁人じんじん溌皮はっぴとをかたず。自然の眼には人間ものみも選ぶところなしといえるツルゲーネフの散文詩は真実なり。のみならず人間のうちなる自然も、人間の中なる人間に愛憐あいれんを有するものにあらず。大震と猛火とは東京市民に日比谷ひびや公園の池に遊べるつるとアヒルとをらわしめたり。もし救護にして至らざりとせば、東京市民は野獣のごとく人肉をらいしやも知るべからず。
 日比谷ひびや公園の池に遊べる鶴とアヒルとを食らわしめし境遇のさんはおそるべし。されど鶴とアヒルとを――否、人肉をらいしにもせよ、らいしことはおそるるにたらず。自然は人間に冷淡なればなり。人間のうちなる自然もまた、人間の中なる人間に愛憐をるることなければなり。鶴とアヒルとをらえるがゆえに、東京市民を獣心なりというは、―ひいてはいっさい人間を禽獣きんじゅうと選ぶことなしというは、畢竟ひっきょう意気地なきセンティメンタリズムのみ。
 自然は人間に冷淡なり。されど人間なるがゆえに、人間たる事実を軽蔑けいべつすべからず。人間たる尊厳を放棄ほうきすべからず。人肉をらわずんば生きがたしとせよ。なんじとともに人肉を食らわん。人肉をらうて腹鼓然こぜんたらば、なんじの父母・妻子をはじめ、隣人を愛するに躊躇ちゅうちょすることなかれ。そののちになお余力あらば、風景を愛し、芸術を愛し、万般ばんぱんの学問を愛すべし。
 誰かみずからかえりみれば脚にきずなきものあらんや。僕のごときは両脚りょうきゃくの傷、ほとんど両脚を中断せんとす。されどさいわいにこの大震を天譴てんけんなりと思うあたわず。いわんや天譴の不公平なるにも呪詛じゅその声をあぐるあたわず。ただ姉弟していの家を焼かれ、数人の知友を死せしめしがゆえに、やみがたき遺憾いかんを感ずるのみ。われらはみななげくべし、嘆きたりといえども絶望すべからず。絶望は死と暗黒とへの門なり。
 同胞よ。面皮めんぴを厚くせよ。「カンニング」を見つけられし中学生のごとく、天譴てんけんなりなどと信ずることなかれ。僕のこのげんをなす所以ゆえんは、渋沢しぶさわ子爵の一言いちげんより、滔々とうとうと何でもしゃべり得る僕の才力を示さんがためなり。されど、かならずしもそのためのみにはあらず。同胞よ。冷淡なる自然の前に、アダム以来の人間を樹立せよ。否定的精神の奴隷どれいとなることなかれ。

   四 東京人


 東京に生まれ、東京に育ち、東京に住んでいる僕は、いまだかつて愛郷心なるものに同情を感じた覚えはない。また、同情を感じないことを得意としていたのもたしかである。
 元来、愛郷心なるものは、県人会の世話にもならず、旧藩主の厄介やっかいにもならないかぎり、いわば無用の長物である。東京を愛するのもこの例にれない。とかく東京、東京とありがたそうに騒ぎまわるのは、まだ東京の珍しい田舎者いなかものに限ったことである。――そう僕は確信していた。
 するとだい地震のあった翌日、大彦だいひこ野口のぐち君にあったときである。僕は一本のサイダーを中に、野口君といろいろ話をした。一本のサイダーを中になどというと、あるいは気楽そうに聞こえるかもしれない。しかし、東京の大火の煙は田端たばたの空さえにごらせている。野口君もきょうは元禄袖げんろくそでしゃ羽織はおりなどは着用していない。なんだか火事頭巾ずきんのごときものに雲龍うんりゅうさしという出立いでたちである。僕はそのとき、話のついでにもう続々ぞくぞく罹災民りさいみんは東京を去っているという話をした。
「そりゃあなた、お国者くにものはみんな帰ってしまうでしょう。――」
 野口君は言下ごんかにこう言った。
「そのかわりに江戸えどだけは残りますよ。
 僕はこの言葉を聞いたときに、ちょいとある心強さを感じた。それは君の服装のためか、空を濁らせた煙のためか、あるいはまた僕自身も大地震におびえていたためか、そのへんの消息しょうそくははっきりしない。しかしとにかくその瞬間、僕もなにか愛郷心に似た、勇ましい気のしたのは事実である。やはり僕の心の底には、いくぶんか僕の軽蔑けいべつしていた江戸っの感情が残っているらしい。

   五 廃都東京


 加藤かとう武雄たけお様。東京をとむらうの文を作れというおおせは、まさに拝承はいしょうしました。また、おひきうけしたことも事実であります。しかしいざ書こうとなると、�忙そうぼうのさいでもあり、どうも気乗きのりがしませんから、この手紙でごめんをこうむりたいと思います。
 応仁おうにんの乱か何かにった人の歌に、も知るや 都は野べの 夕雲雀ゆうひばり あがるを見ても 落つる涙は」というのがあります。まるうちの焼け跡を歩いたときには、ざっとああいう気がしました。水木みずき京太きょうた氏などは銀座ぎんざを通ると、ぽろぽろ涙が出たそうであります。(もっとも、全然センティメンタルな気持ちなしにということわり書きがあるのですが)けれども僕は「落つる涙は」という気がしたきり、実際は涙を落とさずにすみました。そのほか不謹慎の言葉かもしれませんが、ちょいともの珍しかったことも事実であります。
「落つる涙は」という気のしたのは、もちろんこんなにならぬ前の東京を思い出したためであります。しかし、おおいに東京をしんだというわけじゃありません。僕はこんなにならぬ前の東京に、あまり愛惜あいじゃくを持たずにいました。といっても、僕を江戸趣味の速断そくだんしてはいけません、僕は知りもせぬ江戸の昔に依々いい恋々れんれんとするためにはあまりに散文的にできているのですから。僕の愛する東京は僕自身の見た東京、僕自身の歩いた東京なのです。銀座に柳のわっていた、汁粉屋しるのかわりにカフェのえない、もっと一体におちついていた、―あなたもきっと知っているでしょう、いわば麦藁帽むぎわらぼうはかぶっていても、薄羽織うすはおりを着ていた東京なのです。その東京はもう消えせたのですから、同じ東京とはいうものの、どこか折り合えない感じをあたえられていました。それが今、焦土しょうどに変わったのです。僕はこの急劇な変化の前に俗悪な東京を思い出しました。が、俗悪な東京をしむ気もちは、―いや、丸の内の焼け跡を歩いたときにはしむ気もちにならなかったにしろ、今はしんでいるのかもしれません。どうもそのへんはぼんやりしています。僕はもう俗悪な東京にいつか追憶の美しさをつけ加えているような気がしますから。つまりいちばん確かなのは「落つる涙は」という気のしたことです。僕の東京をとむらう気もちもこの一語を出ないことになるのでしょう。「落つる涙は」、―これだけではいけないでしょうか?
 なんだか、とりとめもないことばかり書きましたが、どうかしからずおゆるしください。僕はこの手紙を書いてしまうと、僕の家に充満した焼け出されの親戚しんせき故旧きゅうと、玄米の夕飯ゆうめしを食うのです。それから堤灯ちょうちんにロウソクをともして、夜警やけい詰所つめしょへ出かけるのです。以上。

   六 震災の文芸にあたうる影響


 だい地震の災害は戦争やなにかのように、必然に人間のうみ出したものではない。ただ大地だいちの動いた結果、火事がおこったり、人が死んだりしたのにすぎない。それだけに震災のわれわれ作家に与える影響はさほど根深くはないであろう。すくなくとも、作家の人生観を一変することなどはないであろう。もし、なにか影響があるとすれば、こういうことはいわれるかもしれぬ。
 災害の大きかっただけにこんどの大地震は、われわれ作家の心にも大きな動揺をあたえた。われわれははげしい愛や、憎しみや、あわれみや、不安を経験した。在来、われわれのとりあつかった人間の心理は、どちらかといえばデリケートなものである。それへ今度はもっと線の太い感情の曲線をえがいたものがあらたに加わるようになるかもしれない。もちろんその感情の波を起伏きふくさせる段取だんどりには大地震や火事を使うのである。事実はどうなるかわからぬが、そういう可能性はありそうである。
 また大地震後の東京は、よし復興するにせよ、さしあたり殺風景さっぷうけいをきわめるだろう。そのためにわれわれは在来のように、外界に興味を求めがたい。するとわれわれ自身の内部に、なにか楽しみを求めるだろう。すくなくとも、そういう傾向の人はさらにそれを強めるであろう。つまり、乱世に出合ったシナの詩人などの隠棲いんせいの風流を楽しんだと似たことがおこりそうに思うのである。これも事実として予言はできぬが、可能性はずいぶんありそうに思う。
 前の傾向は多数へうったえる小説を生むことになりそうだし、のちの傾向は少数に訴える小説を生むことになるはずである。すなわち両者の傾向は相反しているけれども、どちらもおこらぬと断言しがたい。

   七 古書の焼失をしむ


 今度の地震で古美術品と古書とのほろびたのは非常に残念に思う。表慶館ひょうけいかんに陳列されていた陶器類はほとんど破損したということであるが、その他にも損害は多いにちがいない。しかし古美術品のことはしばらくおき、古書のことを考えると黒川家くろかわけの蔵書も焼け、安田家やすの蔵書も焼け、大学の図書館の蔵書も焼けたのは取り返しのつかない損害だろう。商売人でも村幸むらこうとか浅倉屋あさくらやとか吉吉よしきちだとかいうのが焼けたから、そのほうの罹害りがいも多いにちがいない。個人の蔵書はともかくも、大学図書館の蔵書の焼かれたことはなんといっても大学の手落ちである。図書館の位置が火災の原因になりやすい医科大学の薬品のあるところと接近しているのもよろしくない。休日などには図書館に小使こづかいくらいしかいないのもよろしくない、(そのために今度のような火災にもどういう本が貴重かがわからず、したがって貴重な本を出すこともできなかったらしい。)書庫そのものの構造のゾンザイなのもよろしくない。それよりももっとつきつめたことをいえば、大学が古書を高閣こうかくつかねるばかりで古書の覆刻ふっこくをさかんにしなかったのもよろしくない。いたずら材料を他に示すことをしんで、ついにその材料を烏有うゆうに帰せしめた学者の罪は、つづみをならして攻むべきである。大野おおの洒竹しゃちくの一生の苦心になった洒竹しゃちく文庫の焼けせただけでも残念でたまらぬ。八九間雨柳はっくけんやなぎ」という士朗しろう〔井上士朗か〕んだ俳書などは、勝峰かつみね晋風しんぷう氏の文庫と天下に二冊しかなかったように記憶しているが、それも今は一冊になってしまったわけだ。
(大正十二年(一九二三)九月)



底本:「筑摩全集類聚 芥川龍之介全集第四巻」筑摩書房
   1971(昭和46)年6月5日初版第1刷発行
   1979(昭和54)年4月10日初版第11刷発行
入力:土屋隆
校正:松永正敏
2007年6月26日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。



鸚鵡――大震覚え書の一つ――

芥川龍之介

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)余裕《よゆう》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)日比谷|迄《まで》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)おち[#「おち」に傍点]たら
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 これは御覧の通り覚え書に過ぎない。覚え書を覚え書のまま発表するのは時間の余裕《よゆう》に乏しい為である。或は又その外にも気持の余裕に乏しい為である。しかし覚え書のまま発表することに多少は意味のない訣《わけ》でもない。大正十二年九月十四日記。

 本所《ほんじよ》横網町《よこあみちやう》に住める一中節《いつちうぶし》の師匠《ししやう》。名は鐘大夫《かねだいふ》。年は六十三歳。十七歳の孫娘と二人暮らしなり。
 家は地震にも潰《つぶ》れざりしかど、忽ち近隣に出火あり。孫娘と共に両国《りやうごく》に走る。携《たづさ》へしものは鸚鵡《あうむ》の籠《かご》のみ。鸚鵡の名は五郎《ごらう》。背は鼠色、腹は桃色。芸は錺屋《かざりや》の槌《つち》の音と「ナアル」(成程《なるほど》の略)といふ言葉とを真似《まね》るだけなり。
 両国《りやうごく》より人形町《にんぎやうちやう》へ出《い》づる間《あひだ》にいつか孫娘と離れ離れになる。心配なれども探してゐる暇《ひま》なし。往来《わうらい》の人波。荷物の山。カナリヤの籠を持ちし女を見る。待合《まちあひ》の女将《おかみ》かと思はるる服装。「こちとらに似たものもあると思ひました」といふ。その位の余裕はあるものと見ゆ。
 鎧橋《よろひばし》に出づ。町の片側は火事なり。その側《かは》に面せるに顔、焼くるかと思ふほど熱かりし由。又何か落つると思へば、電線を被《おほ》へる鉛管《えんかん》の火熱《くわねつ》の為に熔《と》け落つるなり。この辺《へん》より一層人に押され、度《たび》たび鸚鵡《あうむ》の籠も潰《つぶ》れずやと思ふ。鸚鵡は始終狂ひまはりて已《や》まず。
 丸《まる》の内《うち》に出づれば日比谷《ひびや》の空に火事の煙の揚《あ》がるを見る。警視庁、帝劇などの焼け居りしならん。やつと楠《くすのき》の銅像のほとりに至る。芝の上に坐りしかど、孫娘のことが気にかかりてならず。大声に孫娘の名を呼びつつ、避難民の間《あひだ》を探しまはる。日暮《にちぼ》。遂に松のかげに横はる。隣りは店員数人をつれたる株屋。空は火事の煙の為、どちらを見てもまつ赤《か》なり。鸚鵡、突然「ナアル」といふ。
 翌日も丸の内一帯より日比谷|迄《まで》、孫娘を探しまはる。「人形町なり両国なりへ引つ返さうといふ気は出ませんでした」といふ。午《ひる》ごろより饑渇《きかつ》を覚ゆること切なり。やむを得ず日比谷の池の水を飲む。孫娘は遂に見つからず。夜は又丸の内の芝の上に横はる。鸚鵡の籠を枕べに置きつつ、人に盗《ぬす》まれはせぬかと思ふ。日比谷の池の家鴨《あひる》を食《く》らへる避難民を見たればなり。空にはなほ火事の明《あか》りを見る。
 三日《みつか》は孫娘を断念し、新宿《しんじゆく》の甥《をひ》を尋《たづ》ねんとす。桜田《さくらだ》より半蔵門《はんざうもん》に出づるに、新宿も亦《また》焼けたりと聞き、谷中《やなか》の檀那寺《だんなでら》を手頼《たよ》らばやと思ふ。饑渇《きかつ》愈《いよいよ》甚だし。「五郎を殺すのは厭《いや》ですが、おち[#「おち」に傍点]たら食はうと思ひました」といふ。九段上《くだんうへ》へ出づる途中、役所の小使らしきものにやつと玄米《げんまい》一合余りを貰ひ、生《なま》のまま噛《か》み砕《くだ》きて食す。又つらつら考へれば、鸚鵡の籠を提《さ》げたるまま、檀那寺《だんなでら》の世話にはなられぬやうなり。即ち鸚鵡に玄米の残りを食はせ、九段上の濠端《ほりばた》よりこれを放つ。薄暮《はくぼ》、谷中の檀那寺に至る。和尚《をしやう》、親切に幾日でもゐろといふ。
 五日《いつか》の朝、僕の家に来《きた》る。未《いま》だ孫娘の行《ゆ》く方《へ》を知らずといふ。意気な平生のお師匠《ししやう》さんとは思はれぬほど憔悴《せうすゐ》し居たり。
 附記。新宿の甥の家は焼けざりし由。孫娘は其処《そこ》に避難し居りし由。



底本:「筑摩全集類聚 芥川龍之介全集第四巻」筑摩書房
   1971(昭和46)年6月5日初版第1刷発行
   1979(昭和54)年4月10日初版第11刷発行
入力:土屋隆
校正:松永正敏
2007年6月26日作成
青空文庫作成ファイル:
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大正十二年九月一日の大震に際して

芥川龍之介

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)一游亭《いちいうてい》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)又|巧《たく》みに

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「言+墟のつくり」、第4水準2-88-74]《うそ》
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     一 大震雑記

      一

 大正十二年八月、僕は一游亭《いちいうてい》と鎌倉へ行《ゆ》き、平野屋《ひらのや》別荘の客となつた。僕等の座敷の軒先《のきさき》はずつと藤棚《ふぢだな》になつてゐる。その又藤棚の葉の間《あひだ》にはちらほら紫の花が見えた。八月の藤の花は年代記ものである。そればかりではない。後架《こうか》の窓から裏庭を見ると、八重《やへ》の山吹《やまぶき》も花をつけてゐる。
  山吹を指《さ》すや日向《ひなた》の撞木杖《しゆもくづゑ》    一游亭
   (註に曰《いはく》、一游亭は撞木杖をついてゐる。)
 その上又珍らしいことは小町園《こまちゑん》の庭の池に菖蒲《しやうぶ》も蓮《はす》と咲き競《きそ》つてゐる。
  葉を枯れて蓮《はちす》と咲ける花あやめ  一游亭
 藤、山吹、菖蒲《しやうぶ》と数へてくると、どうもこれは唯事《ただごと》ではない。「自然」に発狂の気味のあるのは疑ひ難い事実である。僕は爾来《じらい》人の顔さへ見れば、「天変地異が起りさうだ」と云つた。しかし誰も真《ま》に受けない。久米正雄《くめまさを》の如きはにやにやしながら、「菊池寛《きくちくわん》が弱気になつてね」などと大いに僕を嘲弄《てうろう》したものである。
 僕等の東京に帰つたのは八月二十五日である。大《だい》地震はそれから八日《やうか》目に起つた。
「あの時は義理にも反対したかつたけれど、実際君の予言は中《あた》つたね。」
 久米も今は僕の予言に大いに敬意を表してゐる。さう云ふことならば白状しても好《よ》い。――実は僕も僕の予言を余り信用しなかつたのだよ。

      二

「浜町河岸《はまちやうがし》の舟の中に居《を》ります。桜川三孝《さくらがはさんかう》。」
 これは吉原《よしはら》の焼け跡にあつた無数の貼《は》り紙の一つである。「舟の中に居《を》ります」と云ふのは真面目《まじめ》に書いた文句《もんく》かも知れない。しかし哀れにも風流である。僕はこの一行《いちぎやう》の中に秋風《しうふう》の舟を家と頼んだ幇間《ほうかん》の姿を髣髴《はうふつ》した。江戸作者の写した吉原《よしはら》は永久に還《かへ》つては来ないであらう。が、兎《と》に角《かく》今日《こんにち》と雖《いへど》も、かう云ふ貼り紙に洒脱《しやだつ》の気を示した幇間《ほうかん》のゐたことは確かである。

      三

 大《だい》地震のやつと静まつた後《のち》、屋外《をくぐわい》に避難した人人は急に人懐しさを感じ出したらしい。向う三軒両隣を問はず、親しさうに話し合つたり、煙草や梨《なし》をすすめ合つたり、互に子供の守《も》りをしたりする景色は、渡辺町《わたなべちやう》、田端《たばた》、神明町《しんめいちやう》、――殆《ほとん》ど至る処に見受けられたものである。殊に田端《たばた》のポプラア倶楽部《クラブ》の芝生《しばふ》に難を避けてゐた人人などは、背景にポプラアの戦《そよ》いでゐるせゐか、ピクニツクに集まつたのかと思ふ位、如何《いか》にも楽しさうに打ち解《と》けてゐた。
 これは夙《つと》にクライストが「地震」の中に描《ゑが》いた現象である。いや、クライスト[#「クライスト」は底本では「クイラスト」]はその上に地震後の興奮が静まるが早いか、もう一度平生の恩怨《おんゑん》が徐《おもむ》ろに目ざめて来る恐しささへ描《ゑが》いた。するとポプラア倶楽部《クラブ》の芝生《しばふ》に難を避けてゐた人人もいつ何時《なんどき》隣の肺病患者を駆逐《くちく》しようと試みたり、或は又向うの奥さんの私行を吹聴《ふいちやう》して歩かうとするかも知れない。それは僕でも心得てゐる。しかし大勢《おほぜい》の人人の中にいつにない親しさの湧《わ》いてゐるのは兎《と》に角《かく》美しい景色だつた。僕は永久にあの記憶だけは大事にして置きたいと思つてゐる。

      四

 僕も今度は御多分《ごたぶん》に洩《も》れず、焼死した死骸《しがい》を沢山《たくさん》見た。その沢山の死骸のうち最も記憶に残つてゐるのは、浅草《あさくさ》仲店《なかみせ》の収容所にあつた病人らしい死骸である。この死骸も炎《ほのほ》に焼かれた顔は目鼻もわからぬほどまつ黒だつた。が、湯帷子《ゆかた》を着た体や痩《や》せ細つた手足などには少しも焼け爛《ただ》れた痕《あと》はなかつた。しかし僕の忘れられぬのは何もさう云ふ為ばかりではない。焼死した死骸は誰も云ふやうに大抵《たいてい》手足を縮《ちぢ》めてゐる。けれどもこの死骸はどう云ふ訣《わけ》か、焼け残つたメリンスの布団《ふとん》の上にちやんと足を伸《の》ばしてゐた。手も亦《また》覚悟を極《き》めたやうに湯帷子《ゆかた》の胸の上に組み合はせてあつた。これは苦しみ悶《もだ》えた死骸ではない。静かに宿命を迎へた死骸である。もし顔さへ焦《こ》げずにゐたら、きつと蒼《あを》ざめた脣《くちびる》には微笑に似たものが浮んでゐたであらう。
 僕はこの死骸をもの哀《あは》れに感じた。しかし妻にその話をしたら、「それはきつと地震の前に死んでゐた人の焼けたのでせう」と云つた。成程《なるほど》さう云はれて見れば、案外《あんぐわい》そんなものだつたかも知れない。唯僕は妻の為に小説じみた僕の気もちの破壊されたことを憎むばかりである。

      五

 僕は善良なる市民である。しかし僕の所見によれば、菊池寛《きくちくわん》はこの資格に乏しい。
 戒厳令《かいげんれい》の布《し》かれた後《のち》、僕は巻煙草を啣《くは》へたまま、菊池と雑談を交換してゐた。尤《もつと》も雑談とは云ふものの、地震以外の話の出た訣《わけ》ではない。その内に僕は大火の原因は○○○○○○○○さうだと云つた。すると菊池は眉《まゆ》を挙げながら、「※[#「言+墟のつくり」、第4水準2-88-74]《うそ》だよ、君」と一喝《いつかつ》した。僕は勿論さう云はれて見れば、「ぢや※[#「言+墟のつくり」、第4水準2-88-74]だらう」と云ふ外《ほか》はなかつた。しかし次手《ついで》にもう一度、何《なん》でも○○○○はボルシエヴイツキの手先ださうだと云つた。菊池は今度は眉を挙げると、「※[#「言+墟のつくり」、第4水準2-88-74]さ、君、そんなことは」と叱りつけた。僕は又「へええ、それも※[#「言+墟のつくり」、第4水準2-88-74]か」と忽ち自説(?)を撤回《てつくわい》[#ルビの「てつくわい」は底本では「てつくわ」]した。
 再び僕の所見によれば、善良なる市民と云ふものはボルシエヴイツキと○○○○との陰謀の存在を信ずるものである。もし万一信じられぬ場合は、少くとも信じてゐるらしい顔つきを装《よそほ》はねばならぬものである。けれども野蛮《やばん》なる菊池寛は信じもしなければ信じる真似《まね》もしない。これは完全に善良なる市民の資格を放棄《はうき》したと見るべきである。善良なる市民たると同時に勇敢なる自警団《じけいだん》の一員たる僕は菊池の為に惜《をし》まざるを得ない。
 尤《もつと》も善良なる市民になることは、――兎《と》に角《かく》苦心を要するものである。

      六

 僕は丸の内の焼け跡を通つた。此処《ここ》を通るのは二度目である。この前来た時には馬場先《ばばさき》の濠《ほり》に何人も泳いでゐる人があつた。けふは――僕は見覚えのある濠《ほり》の向うを眺めた。堀の向うには薬研《やげん》なりに石垣の崩《くづ》れた処がある。崩れた土は丹《に》のやうに赤い。崩れぬ土手《どて》は青芝の上に不相変《あひかはらず》松をうねらせてゐる。其処《そこ》にけふも三四人、裸の人人が動いてゐた。何もさう云ふ人人は酔興《すゐきやう》に泳いでゐる訣《わけ》ではあるまい。しかし行人《かうじん》たる僕の目にはこの前も丁度《ちやうど》西洋人の描《ゑが》いた水浴の油画か何かのやうに見えた、今日《けふ》もそれは同じである。いや、この前はこちらの岸に小便をしてゐる土工があつた。けふはそんなものを見かけぬだけ、一層《いつそう》平和に見えた位である。
 僕はかう云ふ景色を見ながら、やはり歩みをつづけてゐた。すると突然濠の上から、思ひもよらぬ歌の声が起つた。歌は「懐《なつか》しのケンタツキイ」である。歌つてゐるのは水の上に頭ばかり出した少年である。僕は妙な興奮を感じた。僕の中にもその少年に声を合せたい心もちを感じた。少年は無心に歌つてゐるのであらう。けれども歌は一瞬の間《あひだ》にいつか僕を捉《とら》へてゐた否定の精神を打ち破つたのである。
 芸術は生活の過剰《くわじよう》ださうである。成程《なるほど》さうも思はれぬことはない。しかし人間を人間たらしめるものは常に生活の過剰である。僕等は人間たる尊厳の為に生活の過剰を作らなければならぬ。更に又|巧《たく》みにその過剰を大いなる花束《はなたば》に仕上げねばならぬ。生活に過剰をあらしめるとは生活を豊富にすることである。
 僕は丸《まる》の内《うち》の焼け跡を通つた。けれども僕の目に触れたのは猛火も亦《また》焼き難い何ものかだつた。

     二 大震日録

 八月二十五日。
 一游亭《いちいうてい》と鎌倉より帰る。久米《くめ》、田中《たなか》、菅《すが》、成瀬《なるせ》、武川《むかは》など停車場へ見送りに来《きた》る。一時ごろ新橋《しんばし》着。直ちに一游亭とタクシイを駆《か》り、聖路加《せいろか》病院に入院中の遠藤古原草《ゑんどうこげんさう》を見舞ふ。古原草は病|殆《ほとん》ど癒《い》え、油画具など弄《もてあそ》び居たり。風間直得《かざまなほえ》と落ち合ふ。聖路加病院は病室の設備、看護婦の服装|等《とう》、清楚《せいそ》甚だ愛すべきものあり。一時間の後《のち》、再びタクシイを駆りて一游亭を送り、三時ごろやつと田端《たばた》へ帰る。
 八月二十九日
 暑気|甚《はなはだ》し。再び鎌倉に遊ばんかなどとも思ふ。薄暮《はくぼ》より悪寒《をかん》。検温器を用ふれば八度六分の熱あり。下島《しもじま》先生の来診《らいしん》を乞ふ。流行性感冒のよし。母、伯母《をば》、妻、児等《こら》、皆多少|風邪《ふうじや》の気味あり。
 八月三十一日。
 病|聊《いささ》か快《こころよ》きを覚ゆ。床上「澀江抽斎《しぶえちうさい》」を読む。嘗て小説「芋粥《いもがゆ》」を艸《さう》せし時、「殆《ほとん》ど全く」なる語を用ひ、久米に笑はれたる記憶あり。今「抽斎」を読めば、鴎外《おうぐわい》先生も亦《また》「殆ど全く」の語を用ふ。一笑を禁ずる能《あた》はず。
 九月一日。
 午《ひる》ごろ茶の間《ま》にパンと牛乳を喫《きつ》し了《をは》り、将《まさ》に茶を飲まんとすれば、忽ち大震の来《きた》るあり。母と共に屋外《をくぐわい》に出《い》づ。妻は二階に眠れる多加志《たかし》を救ひに去り、伯母《をば》は又|梯子段《はしごだん》のもとに立ちつつ、妻と多加志とを呼んでやまず、既《すで》にして妻と伯母と多加志を抱《いだ》いて屋外に出づれば、更《さら》に又父と比呂志《ひろし》とのあらざるを知る。婢《ひ》しづを、再び屋内《をくない》に入り、倉皇《さうくわう》比呂志を抱《いだ》いて出づ。父|亦《また》庭を回《めぐ》つて出づ。この間《かん》家大いに動き、歩行甚だ自由ならず。屋瓦《をくぐわ》の乱墜《らんつゐ》するもの十余。大震漸く静まれば、風あり、面《おもて》を吹いて過ぐ。土臭|殆《ほとん》ど噎《むせ》ばんと欲す。父と屋《をく》の内外を見れば、被害は屋瓦の墜《お》ちたると石燈籠《いしどうろう》の倒れたるのみ。
 円月堂《ゑんげつだう》、見舞ひに来《きた》る。泰然|自若《じじやく》たる如き顔をしてゐれども、多少は驚いたのに違ひなし。病を力《つと》めて円月堂と近鄰《きんりん》に住する諸君を見舞ふ。途上、神明町《しんめいちやう》の狭斜《けふしや》を過ぐれば、人家の倒壊せるもの数軒を数ふ。また月見橋《つきみばし》のほとりに立ち、遙《はる》かに東京の天を望めば、天、泥土《でいど》の色を帯び、焔煙《えんえん》の四方に飛騰《ひとう》する見る。帰宅後、電燈の点じ難く、食糧の乏しきを告げんことを惧れ、蝋燭《らふそく》米穀《べいこく》蔬菜《そさい》罐詰《くわんづめ》の類を買ひ集めしむ。
 夜《よる》また円月堂の月見橋のほとりに至れば、東京の火災|愈《いよいよ》猛に、一望大いなる熔鉱炉《ようくわうろ》を見るが如し。田端《たばた》、日暮里《につぽり》、渡辺町等《わたなべちやうとう》の人人、路上に椅子《いす》を据ゑ畳を敷き、屋外《をくぐわい》に眠らとするもの少からず。帰宅後、大震の再び至らざるべきを説き、家人を皆屋内に眠らしむ。電燈、瓦斯《ガス》共に用をなさず、時に二階の戸を開けば、天色《てんしよく》常に燃ゆるが如く紅《くれなゐ》なり。
 この日、下島《しもじま》先生の夫人、単身《たんしん》大震中の薬局に入り、薬剤の棚の倒れんとするを支《ささ》ふ。為めに出火の患《うれひ》なきを得たり。胆勇《たんゆう》、僕などの及ぶところにあらず。夫人は澀江抽斎《しぶえちうさい》の夫人いほ女の生れ変りか何かなるべし。
 九月二日。
 東京の天、未《いま》だ煙に蔽《おほ》はれ、灰燼《くわいじん》の時に庭前に墜《お》つるを見る。円月堂《ゑんげつだう》に請ひ、牛込《うしごめ》、芝等《しばとう》の親戚を見舞はしむ。東京全滅の報あり。又横浜並びに湘南《しやうなん》地方全滅の報あり。鎌倉に止《とど》まれる知友を思ひ、心|頻《しき》りに安からず。薄暮《はくぼ》円月堂の帰り報ずるを聞けば、牛込は無事、芝、焦土《せうど》と化せりと云ふ。姉《あね》の家、弟の家、共に全焼し去れるならん。彼等の生死だに明らかならざるを憂ふ。
 この日、避難民の田端《たばた》を経《へ》て飛鳥山《あすかやま》に向《むか》ふもの、陸続《りくぞく》として絶えず。田端も亦《また》延焼せんことを惧《おそ》れ、妻は児等《こら》の衣《い》をバスケツトに収め、僕は漱石《そうせき》先生の書一軸を風呂敷《ふろしき》に包む。家具家財の荷づくりをなすも、運び難からんことを察すればなり。人慾|素《もと》より窮《きは》まりなしとは云へ、存外《ぞんぐわい》又あきらめることも容易なるが如し。夜《よ》に入りて発熱三十九度。時に○○○○○○○○あり。僕は頭重うして立つ能《あた》はず。円月堂、僕の代りに徹宵《てつせう》警戒の任に当る。脇差《わきざし》を横たへ、木刀《ぼくたう》を提《ひつさ》げたる状、彼自身|宛然《ゑんぜん》たる○○○○なり。

     三 大震に際せる感想

 地震のことを書けと云ふ雑誌一つならず。何をどう書き飛ばすにせよ、さうは註文に応じ難ければ、思ひつきたること二三を記《しる》してやむべし。幸ひに孟浪《まんらん》を咎《とが》むること勿《なか》れ。
 この大震を天譴《てんけん》と思へとは渋沢《しぶさは》子爵の云ふところなり。誰か自《みづか》ら省れば脚に疵《きず》なきものあらんや。脚に疵あるは天譴《てんけん》を蒙《かうむ》る所以《ゆゑん》、或は天譴を蒙れりと思ひ得る所以《ゆゑん》なるべし、されど我は妻子《さいし》を殺し、彼は家すら焼かれざるを見れば、誰か又|所謂《いはゆる》天譴の不公平なるに驚かざらんや。不公平なる天譴を信ずるは天譴を信ぜざるに若《し》かざるべし。否《いな》、天の蒼生《さうせい》に、――当世に行はるる言葉を使へば、自然の我我人間に冷淡なることを知らざるべからず。
 自然は人間に冷淡なり。大震はブウルジヨアとプロレタリアとを分《わか》たず。猛火は仁人《じんじん》と溌皮《はつぴ》とを分たず。自然の眼には人間も蚤《のみ》も選ぶところなしと云へるトウルゲネフの散文詩は真実なり。のみならず人間の中《うち》なる自然も、人間の中なる人間に愛憐《あいれん》を有するものにあらず。大震と猛火とは東京市民に日比谷《ひびや》公園の池に遊べる鶴と家鴨《あひる》とを食《くら》はしめたり。もし救護にして至らざりとせば、東京市民は野獣の如く人肉を食《くら》ひしやも知るべからず。
 日比谷《ひびや》公園の池に遊べる鶴と家鴨《あひる》とを食《くら》はしめし境遇の惨《さん》は恐るべし。されど鶴と家鴨とを――否、人肉を食《くら》ひしにもせよ、食ひしことは恐るるに足らず。自然は人間に冷淡なればなり。人間の中《うち》なる自然も又人間の中なる人間に愛憐を垂《た》るることなければなり。鶴と家鴨とを食《くら》へるが故に、東京市民を獣心なりと云ふは、――惹《ひ》いては一切人間を禽獣《きんじう》と選ぶことなしと云ふは、畢竟《ひつきやう》意気地《いくぢ》なきセンテイメンタリズムのみ。
 自然は人間に冷淡なり。されど人間なるが故に、人間たる事実を軽蔑《けいべつ》すべからず。人間たる尊厳を抛棄《はうき》すべからず。人肉を食《くら》はずんば生き難しとせよ。汝《なんぢ》とともに人肉を食《くら》はん。人肉を食《くら》うて腹|鼓然《こぜん》たらば、汝の父母妻子を始め、隣人を愛するに躊躇《ちうちよ》することなかれ。その後《のち》に尚余力あらば、風景を愛し、芸術を愛し、万般の学問を愛すべし。
 誰か自《みづか》ら省れば脚に疵《きず》なきものあらんや。僕の如きは両脚《りやうきやく》の疵、殆《ほとん》ど両脚を中断せんとす。されど幸ひにこの大震を天譴《てんけん》なりと思ふ能《あた》はず。況《いは》んや天譴《てんけん》の不公平なるにも呪詛《じゆそ》の声を挙ぐる能はず。唯|姉弟《してい》の家を焼かれ、数人の知友を死せしめしが故に、已《や》み難き遺憾《ゐかん》を感ずるのみ。我等は皆|歎《なげ》くべし、歎きたりと雖《いへど》も絶望すべからず。絶望は死と暗黒とへの門なり。
 同胞よ。面皮《めんぴ》を厚くせよ。「カンニング」を見つけられし中学生の如く、天譴なりなどと信ずること勿《なか》れ。僕のこの言《げん》を倣《な》す所以《ゆゑん》は、渋沢《しぶさは》子爵の一言《いちげん》より、滔滔《たうたう》と何《なん》でもしやべり得る僕の才力を示さんが為なり。されどかならずしもその為のみにはあらず。同胞よ。冷淡なる自然の前に、アダム以来の人間を樹立せよ。否定的精神の奴隷《どれい》となること勿《なか》れ。

     四 東京人

 東京に生まれ、東京に育ち、東京に住んでゐる僕は未《いま》だ嘗《かつ》て愛郷心なるものに同情を感じた覚えはない。又同情を感じないことを得意としてゐたのも確かである。
 元来愛郷心なるものは、県人会の世話にもならず、旧藩主の厄介《やくかい》にもならない限り、云はば無用の長物である。東京を愛するのもこの例に洩《も》れない。兎角《とかく》東京東京と難有《ありがた》さうに騒ぎまはるのはまだ東京の珍らしい田舎者《ゐなかもの》に限つたことである。――さう僕は確信してゐた。
 すると大《だい》地震のあつた翌日、大彦《だいひこ》の野口《のぐち》君に遇《あ》つた時である。僕は一本のサイダアを中に、野口君といろいろ話をした。一本のサイダアを中になどと云ふと、或は気楽さうに聞えるかも知れない。しかし東京の大火の煙は田端《たばた》の空さへ濁《にご》らせてゐる。野口君もけふは元禄袖《げんろくそで》の紗《しや》の羽織などは着用してゐない。何《なん》だか火事|頭巾《づきん》の如きものに雲龍《うんりゆう》の刺《さし》つ子《こ》と云ふ出立《いでた》ちである。僕はその時話の次手《ついで》にもう続続《ぞくぞく》罹災民《りさいみん》は東京を去つてゐると云ふ話をした。
「そりやあなた、お国者《くにもの》はみんな帰つてしまふでせう。――」
 野口君は言下《ごんか》にかう云つた。
「その代りに江戸《えど》つ児《こ》だけは残りますよ。」
 僕はこの言葉を聞いた時に、ちよいと或心強さを感じた。それは君の服装の為か、空を濁らせた煙の為か、或は又僕自身も大地震に悸《おび》えてゐた為か、その辺の消息《せうそく》ははつきりしない。しかし兎《と》に角《かく》その瞬間、僕も何か愛郷心に似た、勇ましい気のしたのは事実である。やはり僕の心の底には幾分か僕の軽蔑してゐた江戸つ児の感情が残つてゐるらしい。

     五 廃都東京

 加藤武雄《かとうたけを》様。東京を弔《とむら》ふの文を作れと云ふ仰《あふ》せは正に拝承しました。又おひきうけしたことも事実であります。しかしいざ書かうとなると、※[#「勹<夕」、第3水準1-14-76]忙《そうばう》の際でもあり、どうも気乗りがしませんから、この手紙で御免《ごめん》を蒙《かうむ》りたいと思ひます。
 応仁《おうにん》の乱か何かに遇《あ》つた人の歌に、「汝《な》も知るや都は野べの夕雲雀《ゆふひばり》揚《あが》るを見ても落つる涙は」と云ふのがあります。丸《まる》の内《うち》の焼け跡を歩いた時にはざつとああ云ふ気がしました。水木京太《みづききやうた》氏などは銀座《ぎんざ》を通ると、ぽろぽろ涙が出たさうであります。(尤も全然センテイメンタルな気もちなしにと云ふ断《ことわ》り書があるのですが)けれども僕は「落つる涙は」と云ふ気がしたきり、実際は涙を落さずにすみました。その外《ほか》不謹慎の言葉かも知れませんが、ちよいともの珍しかつたことも事実であります。
「落つる涙は」と云ふ気のしたのは、勿論こんなにならぬ前の東京を思ひ出した為であります。しかし大いに東京を惜しんだと云ふ訣《わけ》ぢやありません。僕はこんなにならぬ前の東京に余り愛惜《あいじやく》を持たずにゐました。と云つても僕を江戸趣味の徒《と》と速断《そくだん》してはいけません、僕は知りもせぬ江戸の昔に依依恋恋《いいれんれん》とする為には余りに散文的に出来てゐるのですから。僕の愛する東京は僕自身の見た東京、僕自身の歩いた東京なのです。銀座に柳の植《うわ》つてゐた、汁粉屋《しるこや》の代りにカフエの殖《ふ》えない、もつと一体に落ち着いてゐた、――あなたもきつと知つてゐるでせう、云はば麦稈帽《むぎわらばう》はかぶつてゐても、薄羽織を着てゐた東京なのです。その東京はもう消え失《う》せたのですから、同じ東京とは云ふものの、何処《どこ》か折り合へない感じを与へられてゐました。それが今|焦土《せうど》に変つたのです。僕はこの急劇な変化の前に俗悪な東京を思ひ出しました。が、俗悪な東京を惜しむ気もちは、――いや、丸の内の焼け跡を歩いた時には惜しむ気もちにならなかつたにしろ、今は惜しんでゐるのかも知れません。どうもその辺《へん》はぼんやりしてゐます。僕はもう俗悪な東京にいつか追憶の美しさをつけ加へてゐるやうな気がしますから。つまり一番確かなのは「落つる涙は」と云ふ気のしたことです。僕の東京を弔《とむら》ふ気もちもこの一語を出ないことになるのでせう。「落つる涙は」、――これだけではいけないでせうか?
 何《なん》だかとりとめもない事ばかり書きましたが、どうか悪《あ》しからず御赦《おゆる》し下さい。僕はこの手紙を書いて了《しま》ふと、僕の家に充満した焼け出されの親戚《しんせき》故旧《こきう》と玄米の夕飯《ゆふめし》を食ふのです。それから堤燈《ちやうちん》に蝋燭《らふそく》をともして、夜警《やけい》の詰所《つめしよ》へ出かけるのです。以上。

     六 震災の文芸に与ふる影響

 大《だい》地震の災害は戦争や何かのやうに、必然に人間のうみ出したものではない。ただ大地《だいち》の動いた結果、火事が起つたり、人が死んだりしたのにすぎない。それだけに震災の我我作家に与へる影響はさほど根深くはないであらう。すくなくとも、作家の人生観を一変することなどはないであらう。もし、何か影響があるとすれば、かういふことはいはれるかも知れぬ。
 災害の大きかつただけにこんどの大地震は、我我作家の心にも大きな動揺を与へた。我我ははげしい愛や、憎しみや、憐《あはれ》みや、不安を経験した。在来、我我のとりあつかつた人間の心理は、どちらかといへばデリケエトなものである。それへ今度はもつと線の太い感情の曲線をゑがいたものが新《あらた》に加はるやうになるかも知れない。勿論《もちろん》その感情の波を起伏《きふく》させる段取りには大地震や火事を使ふのである。事実はどうなるかわからぬが、さういふ可能性はありさうである。
 また大地震後の東京は、よし復興するにせよ、さしあたり殺風景《さつぷうけい》をきはめるだらう。そのために我我は在来のやうに、外界に興味を求めがたい。すると我我自身の内部に、何か楽みを求めるだらう。すくなくとも、さういふ傾向の人は更《さら》にそれを強めるであらう。つまり、乱世に出合つた支那の詩人などの隠棲《いんせい》の風流を楽しんだと似たことが起りさうに思ふのである。これも事実として予言は出来ぬが、可能性はずゐぶんありさうに思ふ。
 前の傾向は多数へ訴《うつた》へる小説をうむことになりさうだし、後《のち》の傾向は少数に訴へる小説をうむことになる筈である。即ち両者の傾向は相反してゐるけれども、どちらも起らぬと断言しがたい。

     七 古書の焼失を惜しむ

 今度の地震で古美術品と古書との滅びたのは非常に残念に思ふ。表慶館《へいけいくわん》に陳列されてゐた陶器類は殆《ほとん》ど破損したといふことであるが、その他にも損害は多いにちがひない。然し古美術品のことは暫らく措《お》き古書のことを考へると黒川家《くろかはけ》の蔵書も焼け、安田家《やすだけ》の蔵書も焼け大学の図書館《としよかん》の蔵書も焼けたのは取り返しのつかない損害だらう。商売人でも村幸《むらかう》とか浅倉屋《あさくらや》とか吉吉《よしきち》だとかいふのが焼けたからその方の罹害《りがい》も多いにちがひない。個人の蔵書は兎《と》も角《かく》も大学図書館の蔵書の焼かれたことは何んといつても大学の手落ちである。図書館の位置が火災の原因になりやすい医科大学の薬品のあるところと接近してゐるのも宜敷《よろし》くない。休日などには図書館に小使位しか居ないのも宜《よろ》しくない、(その為めに今度のやうな火災にもどういふ本が貴重かがわからず、従って貴重な本を出すことも出来なかつたらしい。)書庫そのものの構造のゾンザイなのも宜敷《よろし》くない。それよりももつと突き詰めたことをいへば、大学が古書を高閣《かうかく》に束《つか》ねるばかりで古書の覆刻《ふくこく》を盛んにしなかつたのも宜敷《よろし》くない。徒《いたづ》らに材料を他に示すことを惜んで竟《つひ》にその材料を烏有《ういう》に帰せしめた学者の罪は鼓《つづみ》を鳴らして攻むべきである。大野洒竹《おほのしやちく》の一生の苦心に成つた洒竹《しやちく》文庫の焼け失《う》せた丈《だ》けでも残念で堪らぬ。「八九間雨柳《はつくけんやなぎ》」といふ士朗《しらう》の編んだ俳書などは勝峯晉風《かつみねしんぷう》氏の文庫と天下に二冊しかなかつたやうに記憶してゐるが、それも今は一冊になつてしまつた訣《わけ》だ。
[#地から1字上げ](大正十二年九月)



底本:「筑摩全集類聚 芥川龍之介全集第四巻」筑摩書房
   1971(昭和46)年6月5日初版第1刷発行
   1979(昭和54)年4月10日初版第11刷発行
入力:土屋隆
校正:松永正敏
2007年6月26日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。



*地名

(※ 市町村名は、平成の大合併以前の表記のまま。一般的な国名・地名などは解説省略。
  • [中央区]
  • 浜町河岸 はまちょうがし 現、中央区日本橋浜町一〜二丁目か。久松町の東にあり、東は大川(隅田川)に面する。浜町堀の組合橋あたりから川下の河岸通りは浜町河岸とよばれた。
  • 人形町 にんぎょうちょう 現、中央区日本橋堀留町一丁目か。南北に通る横通りを人形町と俗称。からくり人形師の松屋庄兵衛、横丁に鎧師作左衛門が住んでいた。明治2(1869)新乗物町に合併。
  • 鎧橋 よろいばし 旧、小網町二丁目。現、中央区日本橋小網町・日本橋人形町一丁目。鎧渡のあるあたりは伝承によれば往古は入江で大きな渡りであった。鎧渡の名は源頼義に由来するとも平将門に由来する故事ともいわれる。明治5(1872)には小網町と兜町との間の鎧渡があった場所に鎧橋が架けられた。
  • 聖路加病院 せいろか びょういん 中央区明石町にある聖路加国際病院の略称。明治35(1902)アメリカ聖公会が福祉事業を目的として創立。
  • 銀座 ぎんざ 東京都中央区の繁華街。京橋から新橋まで北東から南西に延びる街路を中心として高級店が並ぶ。駿府の銀座を1612年(慶長17)にここに移したためこの名が残った。地方都市でも繁華な街区を「…銀座」と土地の名を冠していう。
  • [台東区]
  • 吉原 よしわら 江戸の遊郭。1617年(元和3)市内各地に散在していた遊女屋を日本橋葺屋町に集めたのに始まる。明暦の大火に全焼し、千束日本堤下三谷(現在の台東区千束)に移し、新吉原と称した。北里・北州・北国・北郭などとも呼ばれた。売春防止法により遊郭は廃止。
  • 浅草 あさくさ 東京都台東区の一地区。もと東京市35区の一つ。浅草寺の周辺は大衆的娯楽街。
  • 表慶館 ひょうけいかん 東京都上野公園内、東京国立博物館の一部。1900年(明治33)大正天皇が皇太子の時、成婚記念として東京市民から献納した建築物。09年落成開館。
  • 谷中 やなか 東京都台東区北西端の地名。下町風の町並みが残り、寺や史跡も多い。
  • [墨田区]
  • 本所 ほんじょ 東京都墨田区の一地区。もと東京市35区の一つ。隅田川東岸の低地。商工業地域。
  • 横網町 よこあみちょう 本所横網町か。現、墨田区横網。明治初年に陸軍省用地となり、砲兵属廠兵器庫などを経て陸軍被服廠がつくられ、大正11(1922)同跡約2万坪が東京市と逓信省に譲渡された。公園造成中の同12年9月1日の関東大震災では、本所地区などから被服廠跡へ避難してきた約3万8000人が同所で焼死した。跡地には震災の犠牲者の遺骨を安置・供養する震災記念堂が建てられた。昭和26(1951)東京都慰霊堂と改称。現在、旧御米蔵跡には両国国技館・江戸東京博物館などがある。
  • 両国 りょうごく 東京都墨田区、両国橋の東西両畔の地名。隅田川が古くは武蔵・下総両国の国界であったための称。
  • [千代田区]
  • 丸の内 まるのうち 東京都千代田区、皇居の東方一帯の地。もと、内堀と外堀に挟まれ、大名屋敷のち陸軍練兵場があったが、東京駅建築後は丸ビル・新丸ビルなどが建設され、ビジネス街となった。
  • 日比谷 ひびや 東京都千代田区南部、日比谷公園のある地区。
  • 警視庁 けいしちょう 東京都の警察行政をつかさどる官庁。長として警視総監をおき、管内には警察署をおく。
  • 帝劇 ていげき 帝国劇場の略称。
  • 帝国劇場 ていこく げきじょう 東京都千代田区丸の内にある劇場。1911年(明治44)日本最初の本格的洋式劇場として開場。初期には専属の役者・女優・歌手を擁し、オペラも上演。略称、帝劇。
  • 桜田 さくらだ → 桜田門か
  • 桜田門 さくらだもん 江戸城内郭門の一つ。城の南西内濠内に位置し、霞ヶ関の北東に当たる。旧称、小田原門。外桜田門。
  • 半蔵門 はんぞうもん 江戸城(現在の皇居)の門の1つ。城の西端に位置し、まっすぐ甲州街道(現国道20号)に通じている。大手門とは正反対の位置にある。東京都千代田区麹町一丁目。また半蔵門・半蔵門駅周辺の呼称。
  • 九段 くだん 東京都千代田区の一地区。九段坂近辺一帯の称。
  • 九段上 くだんうえ
  • 日比谷公園 ひびや こうえん 日比谷にある公園。1903年(明治36)6月開園。日本最初の洋式公園。
  • [新宿区]
  • 新宿 しんじゅく 東京都23区の一つ。旧牛込区・四谷区・淀橋区を統合。古くは甲州街道の宿駅、内藤新宿。新宿駅付近は関東大震災後急速に発展し、山の手有数の繁華街。東京都庁が1991年に移転。
  • 牛込 うしごめ 東京都新宿区東部の一地区。もと東京市35区の一つ。江戸時代からの名称で、もと牧牛が多くいたからという。
  • [港区]
  • 新橋 しんばし 東京都港区汐留川に架かっていた橋。また、新橋駅を中心とする港区北東部の地区。旧新橋駅(汐留駅)は日本最初の鉄道始発駅。
  • 芝 しば 東京都港区の一地区。もと東京市35区の一つ。古くは品川沖を望む東海道の景勝の地。
  • 神明町 しんめいちょう 現、港区浜松町一丁目。芝明神(飯倉神明宮)の東、東海道沿いに位置する両側町の町屋。
  • [北区]
  • 田端 たばた 東京都北区の地名。田端1丁目〜6丁目、田端新町1丁目〜3丁目、東田端1丁目〜2丁目がある。東田端1丁目にJR山手線・京浜東北線の田端駅がある。
  • ポプラ倶楽部(クラブ)
  • 月見橋 つきみばし
  • 飛鳥山 あすかやま 東京都北区王子にある小丘陵。現在、公園。江戸時代から桜の名所。
  • [荒川区]
  • 日暮里 にっぽり 現、荒川区。範囲は谷中感応寺(現、台東区天王寺)裏門あたりから道灌山方面をさし、現在のJR山手線・京浜東北線・常磐線をまたいだ東西一帯にあたる。西部の台地には寺院が多く、東部の低地には農村が広がっていた。
  • 渡辺町 わたなべちょう
  • [神奈川県]
  • 鎌倉 かまくら 神奈川県南東部の市。横浜市の南に隣接。鎌倉幕府跡・源頼朝屋敷址・鎌倉宮・鶴岡八幡宮・建長寺・円覚寺・長谷の大仏・長谷観音などの史跡・社寺に富む。風致にすぐれ、京浜の住宅地。人口17万1千。
  • 平野屋(ひらのや)別荘
  • 小町園 こまちえん
  • 横浜 よこはま 神奈川県東部の重工業都市。県庁所在地。政令指定都市の一つ。東京湾に面し、1859年(安政6)の開港以来生糸の輸出港として急激に発展。現在、全国一の国際貿易港。人口358万。
  • 湘南 しょうなん (1) 中国湖南省の洞庭湖に注ぐ湘江の南方一帯の景勝地の称。(2) (相模国南部の「相南」を (1) に因んで書く)相模湾沿岸地帯の称。葉山・逗子・鎌倉・茅ヶ崎・大磯などを含む。夏季は海水浴場多く、冬季は比較的温暖で京浜の避寒地。住宅地化がすすむ。
  • [アメリカ合衆国]
  • ケンタッキー Kentucky アメリカ合衆国中央東部の州。農牧業のほか自動車関連などの製造業が発展。州都フランクフォート。


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)。




*年表

  • 一四六七〜一四七七(応仁元〜文明九) 応仁の乱。足利将軍家および管領畠山・斯波両家の相続問題をきっかけとして、東軍細川勝元と西軍山名宗全とがそれぞれ諸大名をひきいれて京都を中心に対抗した大乱。京都は戦乱の巷となり、幕府の権威は全く地におち、社会・文化を含めて大きな時代の画期となった。応仁文明の乱。
  • 一八九二(明治二五)三月 芥川龍之介、生まれる。
  • 一九一九(大正八)三月 塚本文と結婚。
  • 一九二一(大正一〇)二月 大阪毎日海外視察員として中国を訪れ、7月帰国。
  • 一九二三(大正一二)八月 一游亭と鎌倉へ行き、平野屋別荘の客となる。
  • 一九二三(大正一二)八月二五日 一游亭と東京に帰る。
  • 一九二三(大正一二)八月二九日 悪寒。
  • 一九二三(大正一二)八月三一日 床上『渋江抽斎』を読む。
  • 一九二三(大正一二)九月一日 関東大震災。芥川、田端の自宅にて被災。「被害は屋瓦の墜ちたると石灯籠の倒れたるのみ」「電灯、ガスともに用をなさず」
  • 一九二三(大正一二)九月一四日 「オウム――大震覚え書きの一つ――」記す。
  • 一九二三(大正一二)九月 「大正十二年九月一日の大震に際して」記す。
  • 一九二七(昭和二)七月 芥川、死去。三五歳。
  • 一九四五(昭和二〇)四月 学徒兵として出征していた次男・多加志がビルマで戦死。
  • 一九六八(昭和四三)九月 文、調布市入間町の也寸志邸にて死去。


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)。



*人物一覧

(人名、および組織・団体名・神名)
  • 鐘大夫 かねだいふ
  • 一游亭 いちゆうてい
  • 桜川三孝 さくらがわ さんこう
  • クライスト → ハインリヒ・フォン・クライストか
  • ハインリヒ・フォン・クライスト Heinrich von Kleist 1777-1811 ドイツの作家・劇作家。破滅的な性格や恋愛心理を写実的な手法で描写。戯曲「ペンテジレーア」「こわれ甕」「公子ホンブルク」、小説「ミヒャエル=コールハースの運命」など。
  • 久米正雄 くめ まさお 1891-1952 作家。長野県生れ。東大卒。菊池寛・芥川竜之介らと第3次・第4次「新思潮」を興し、のち通俗物に転じ、また、三汀と号して句作。戯曲「牛乳屋の兄弟」、小説「破船」など。
  • 菊池寛 きくち かん 1888-1948 (本名ヒロシとよむ) 作家。香川県生れ。京大英文科卒。芥川竜之介・久米正雄らと第3次・第4次「新思潮」を発刊。「無名作家の日記」「忠直卿行状記」「恩讐の彼方に」、戯曲「父帰る」「藤十郎の恋」などを発表、のち長編通俗小説に成功。また、雑誌「文芸春秋」を創刊、作家の育成、文芸の普及に貢献。
  • 田中 たなか
  • 菅 すが
  • 成瀬 なるせ → 成瀬正一か
  • 成瀬正一 なるせ せいいち/しょういち 1892-1936 大正・昭和期のフランス文学者、小説家。九州帝国大学法学部教授。「新思潮」を発刊。(人レ)
  • 武川 むかわ → 武川重太郎か
  • 武川重太郎 むかわ じゅうたろう 1901-? 大正期の小説家。「富士の国」主宰。小説に「甲州の侠客」「月今宵−山県大弐」など。(人レ)
  • 遠藤古原草 えんどう こげんそう 1893-1929 明治〜昭和期の俳人、蒔絵師。句集に「空を見ぬ日」。(人レ)
  • 風間直得 かざま なおえ 1897-? 明治・大正期の俳人、洋画家。七七調の俳詩を主張し、ルビの多用を提唱。「紀元」を主宰。(人レ)
  • 下島 しもじま → 下島空谷
  • 下島空谷 しもじま くうこう 1870-1947 明治・大正期の医者、俳人、随筆家。芥川龍之介の主治医。著書に「芥川龍之介の回想」、句集に「薇」など。(人レ)
  • 渋江抽斎 しぶえ ちゅうさい 1805-1858 江戸後期の儒学者・漢方医。津軽藩の侍医允成の子。名は全善、字は道純。江戸に生まれ、医を伊沢蘭軒、儒を市野迷庵・狩谷�斎に学ぶ。考証家として当代無比。著「経籍訪古志」(森枳園ら共撰)、「黄帝内経霊枢講義」など。
  • 森鴎外 もり おうがい 1862-1922 作家。名は林太郎。別号、観潮楼主人など。石見(島根県)津和野生れ。東大医科出身。軍医となり、ヨーロッパ留学。陸軍軍医総監・帝室博物館長。文芸に造詣深く、「しからみ草紙」を創刊。傍ら西欧文学の紹介・翻訳、創作・批評を行い、明治文壇の重鎮。主な作品は「舞姫」「雁」「阿部一族」「渋江抽斎」「高瀬舟」、翻訳は「於母影」「即興詩人」「ファウスト」など。
  • 妻 → 芥川文
  • 芥川文 あくたがわ ふみ 1899?-1968 明治〜昭和期の女性。芥川龍之介の妻。(人レ)
  • 多加志 たかし
  • 伯母 おば
  • 芥川比呂志 あくたがわ ひろし 1920-1981 昭和期の俳優、演出家。現代演劇協会を創設。中心的演出家、俳優となり、「黄金の国」などを演出。(人レ)
  • 円月堂 えんげつどう
  • 下島先生の夫人
  • いお 渋江抽斎の夫人。
  • 漱石先生 → 夏目漱石
  • 夏目漱石 なつめ そうせき 1867-1916 英文学者・小説家。名は金之助。江戸牛込生れ。東大卒。五高教授。1900年(明治33)イギリスに留学、帰国後東大講師、のち朝日新聞社に入社。05年「吾輩は猫である」、次いで「倫敦塔」を出して文壇の地歩を確保。他に「坊つちやん」「草枕」「虞美人草」「三四郎」「それから」「門」「彼岸過迄」「行人」「こゝろ」「道草」「明暗」など。
  • 渋沢子爵 → 渋沢栄一か
  • 渋沢栄一 しぶさわ えいいち 1840-1931 実業家。青淵と号。武州血洗島村(埼玉県深谷市)の豪農の子。初め幕府に仕え、明治維新後、大蔵省に出仕。辞職後、第一国立銀行を経営、製紙・紡績・保険・運輸・鉄道など多くの企業設立に関与、財界の大御所として活躍。引退後は社会事業・教育に尽力。
  • ツルゲーネフ Ivan S. Turgenev 1818-1883 ロシアの小説家。短編集「猟人日記」は農奴制に対する文学的抗議と受け止められた。「貴族の巣」「その前夜」「父と子」などの長編で時代の変動と知識人の精神史を描く。その他「初恋」「アーシャ」(二葉亭四迷訳「片恋」)、「散文詩」など。トゥルゲーネフ。
  • 大彦の野口君 だいひこの のぐちくん
  • 加藤武雄 かとう たけお 1888-1956 小説家。神奈川県に生まれる。人道主義的傾向の農民小説を書き、のち通俗小説に転じる。代表作、「土を離れて」「郷愁」「久遠の像」など。
  • 水木京太 みずき きょうた 1894-1948 劇作家、演劇評論家。本名七尾嘉太郎。秋田県横手町生まれ。大正9年から14年まで雑誌『三田文学』の編集にあたり、この間、慶大講師として劇文学講座を担当。昭和5(1930)から21年まで丸善洋書部の嘱託となり、雑誌『学鐙』を主宰、また、第二次大戦後は雑誌『劇場』の主宰をつとめた。大学卒業後まもなく劇作家として注目され、その後劇作の筆をとった。戯曲には代表作『殉死』『フォオド躍進』ほか。著書『新劇通』『福沢諭吉人生読本』など。また雑誌『人間』『劇場』などに劇評、演劇評論を執筆。とくに小山内薫に私淑し、同全集の編纂・校訂にあたった。(日本人名)
  • 黒川家 くろかわけ → 黒川真道宅か
  • 黒川真道 くろかわ まみち 1866-1925 明治・大正期の国学者。東京帝室博物館監査官。国語・国文を研究。(人レ)
  • 安田家 やすだけ → 安田善次郎宅か
  • 安田善次郎 やすだ ぜんじろう 1838-1921 実業家。越中富山生れ。江戸で両替屋を営んで成功。維新後政商となり、安田銀行・安田共済生命保険会社などを経営、保善社を設立、安田財閥の基礎を築く。日比谷公会堂・東大安田講堂を寄付。刺殺。
  • 村幸 むらこう 1888-1925 大正・昭和期の小唄演奏者。(人レ)
  • 浅倉屋 あさくらや → 浅倉屋久兵衛か
  • 浅倉屋久兵衛 あさくらや きゅうべえ 1823-1905 江戸時代末期・明治期の書舗経営者。「横文字百人一首」を出版。(人レ)
  • 吉吉 よしきち
  • 大野洒竹 おおの しゃちく 1872-1913 俳人。名は豊太。熊本県生れ。東大卒。佐々醒雪らと筑波会を起こして俳句の革新に努め、また、秋声会に参加。古俳書の蒐集家で、「俳諧文庫」を刊行。
  • 士朗 しろう → 井上士朗か
  • 井上士朗 いのうえ しろう 1742-1812 江戸後期の俳人。別号、枇杷園。名古屋の人。医を業とし、俳諧を加藤暁台に、国学を本居宣長に学んだ。著「枇杷園随筆」「枇杷園七部集」など。
  • 勝峰晋風 かつみね しんぷう 1887-1954 勝峯。大正・昭和期の俳人、国文学者。「黄橙」主宰。編著に「年代鑑別芭蕉俳句定本」「明治俳諧史話」など。(人レ)


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)『日本人名大事典』(平凡社)『人物レファレンス事典』(日外アソシエーツ、2000.7)。



*書籍

(書名、雑誌名、論文名、映画・能・狂言・謡曲などの作品名)
  • 「地震」 クライストの作。
  • 「懐しのケンタッキー」 なつかしの-
  • 『渋江抽斎』 しぶえ ちゅうさい 史伝。森鴎外作。抽斎の伝記。性格・履歴・趣味・交友・子孫など多方面にわたり、その人と時代とを精細に描出。1916年(大正5)大阪毎日新聞、東京日日新聞に連載。
  • 「芋粥」 いもがゆ 芥川龍之介、作。
  • 「八九間雨柳」 はっくけんやなぎ


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)。



*難字、求めよ

  • 一中節 いっちゅうぶし 浄瑠璃の一流派。京都で初世都一中が延宝(1673〜1681)頃創始。早くから江戸にも伝わり、天明(1781〜1789)の頃以降は吉原を中心に伝承。曲風は渋く温雅で、伝統的に上品な浄瑠璃と見なされている。
  • 飾屋・錺屋 かざりや 飾職に同じ。金属のかんざしやブローチ・金具などの細かい細工をする職人。かざりし。かざりや。
  • こちとら 此方人等 (一人称) われわれ。自分ら。自分。わたくし。
  • 株屋 かぶや 株式の売買を仕事とする人。また、その職業。
  • 撞木杖 しゅもくづえ 頭部が撞木形の杖。かせづえ。
  • 撞木 しゅもく 仏具の一種。鐘・鉦(たたきがね)・磬(けい)などを打ち鳴らす棒。多くは丁字形をなす。しもく。かねたたき。
  • 幇間 ほうかん (「幇」は、たすける意) 客の宴席に侍し、座を取り持つなどして遊興を助ける男。たいこもち。男芸者。
  • ボルシェヴィッキ Bol'sheviki → ボリシェヴィキ
  • ボリシェヴィキ Bol'sheviki (多数派の意) (1) 1903年ロシア社会民主労働党内に生まれたレーニンの一派。マルトフ派との組織路線上の対立から生まれたが、12年別党となり、十月革命後、ロシア共産党(ボリシェヴィキ)と改称。←→メンシェヴィキ (2) 転じて革命的左翼・共産主義者の意。「過激派」などとも訳された。ボルシェヴィキ。
  • 憔悴 しょうすい やせおとろえること。やつれること。
  • 婢 ひ 召し使われる女。はしため。下女。女中。
  • 倉皇・蒼惶 そうこう あわただしいさま。あわてふためくさま。いそぐさま。
  • 乱墜 らんつい 乱れ落ちること。
  • 土臭
  • 狭斜 きょうしゃ (もと、唐の都長安の道幅の狭い街の名で、遊里があった所) 色町。遊里。
  • 芋粥 いもがゆ (1) ヤマノイモを薄く切ったものを甘葛(あまずら)の汁に混ぜて煮たかゆ。中古、宮中の大饗、貴族の宴などの際に用いた。(2) さいの目に切ったサツマイモをかゆに混ぜて煮たもの。
  • 孟浪 まんらん (唐音。モウロウとも) (1) とりとめのないこと。みだりなこと。漫瀾。(2) さまようこと。放浪。
  • 天譴 てんけん 天のとがめ。天罰。
  • 蒼生 そうせい [書経益稷](民を青く茂る草にたとえていう) あおひとくさ。人民。
  • 仁人 じんじん 仁愛の深い人。仁者。
  • 溌皮 はっぴ ごろつき。相手をののしっていう語。
  • 鼓然 こぜん 鼓煽・鼓扇か。ある行動をおこすようにあおりたてること。
  • 滔々 とうとう (1) 水の盛んに流れるさま。(2) 弁舌のよどみないさま。(3) (世間の風潮が)勢い激しく一方に流れ向かうさま。(4) 広大なさま。
  • 元禄袖 げんろくそで 元禄小袖に模し、袖丈を短くし袂(たもと)の丸みを大きくした袖。女物のふだん着、少女の着物の袖などに用いる。元禄。
  • さしっこ 刺子。サシコの促音化。
  • 拝承 はいしょう 聞くこと、承知することの謙譲語。つつしんでうけたまわること。
  • 怱忙 そうぼう いそがしいこと。せわしいこと。
  • 愛惜 あいじゃく/あいせき 手放したり傷つけたりするのを惜しんで大切にすること。
  • 依々恋々 いい れんれん 恋い慕うあまり離れるにしのびないさま。
  • 高閣に束ぬ こうかくにつかぬ [晋書�翼伝](�翼が、名士として著名な杜乂と殷浩の書を、高い棚の上に放置した故事から) 書物などを棚にのせたまま利用しない状態をいう。


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)『日本国語大辞典 第二版』(小学館、2001.5)。



*後記(工作員スリーパーズ日記)


 他者の姿の中に、荒ぶる魂を見ること(指摘すること)はさほど難しいことではない。古今の伝承の中にも怨霊や鬼、もののけなどの形で表現されている。それにくらべて、自分自身の中の荒ぶる魂に気がつくことは難しいし、それを何らかの形で表現することはさらに難しい。
 音楽ならブルースや津軽三味線、和太鼓。演劇ならクラウン、狂言、歌舞伎の荒事、マリオネット。マンガなら仮面ライダー、ナウシカ、エヴァンゲリオン、デビルマン。
 チャップリン、ティム・バートン、石ノ森章太郎、宮崎駿、庵野秀明、永井豪。彼らは「理性」「セルフコントロール」などという安直な回答は提供していない。秋葉原やアーケード街で暴走したりナイフをふりまわせばいい、などとも言っていない。首をくくったり、飛び降りたり、リストカットすれば救われるとも言っていない。集団でスーパーマーケットや大使館を襲ったり、自爆テロをすれば問題を解決できるとも言っていない。
 
 親しい人を失ったり、住みなれた場所を追われたり、疑念の目で相互に監視されたり、故意に不快ないやがらせを受けたり、いいがかりをつけて職場をやめさせられたり……いつ、どこで、荒ぶる魂が暴走してもまったくおかしくない。社会が、世界が、理性的・合理的な判断のできる人間ばかりでできている、ということは残念ながらありえない。睡眠不足、情緒の不安、暴食、体力のもてあまし、異形の嫌悪・排除……。むしろ、おたがいがおたがいに理性的・合理的な判断をさまたげ、あざむこうとする傾向の強い社会がおとずれているとするならば、荒ぶる魂がどこにでも発生する条件はますます整いつつある、ともいえる。

 吉野裕子『蛇――日本の蛇信仰』(講談社学術文庫、1999.5)読了。




*次週予告


第五巻 第一二号 
日本歴史物語〈上〉(一)喜田貞吉


第五巻 第一二号は、
二〇一二年一〇月一三日(土)発行予定です。
定価:200円


T-Time マガジン 週刊ミルクティー 第五巻 第一一号
大正十二年九月一日の大震に際して(他)
 芥川龍之介

発行:二〇一二年一〇月六日(土)
編集:しだひろし / PoorBook G3'99
 http://www33.atwiki.jp/asterisk99/
出版:*99 出版
 〒994-0024 山形県天童市鎌田2丁目
 アパートメント山口A−202
販売:DL-MARKET
※ T-Timeは(株)ボイジャーの商標・製品です。