校註『古事記』(六)
稗田の阿礼、太の安万侶武田祐吉(注釈・校訂)
古事記 中 つ巻
〔五、景行天皇・成務天皇〕
〔后妃 と皇子女〕
ここに天皇、
- (一)景行天皇。
- (二)奈良県磯城郡。
- (三)ヤマトタケルの命。
『日本書紀』に、父の天皇が皇子の誕生にあたって、 石臼 の上で踊ってよろこんだから大碓の命、小碓の命というとある。- (四)成務天皇。
- (五)皇子の
曾孫 の子だから、天皇の孫の孫の子にあたり、それを妃としたというのは時間的に不可能である。ある氏の伝えをそのまま取り入れたものだろう。- (六)後世のように皇太子を立てることはなかったが、有力な
后妃 の生んだ皇子がつぎに帝位に昇るべき方として予想されたのである。ヒツギのミコは、継嗣 の皇子の義。- (七)いずれも古代の地方官で、世襲である。
- (八)開化天皇の孫。
- (九)長く見て居させる。待ちぼうけさせる。
- (一〇)神奈川県から千葉県安房郡にわたる水路。
- (一一)大和の国の租税収納所。
- (一二)奈良県磯城郡。
〔倭建 の命 の西征〕
天皇、
ここに
- (一)なだめ
乞 う。 - (二)どんなふうに、なだめ
乞 うたのか。 - (三)朝早く。
- (四)手足。
- (五)クマソは地名で、クマの地(熊本県)とソの地(鹿児島県)とをあわせ称する。タケルは勇者の義。物語では兄弟二人となっている。
- (六)男子少年の風俗。
- (七)父の妹にあたる。
- (八)新築を祝う
酒宴 。 - (九)衣服の
襟 。 - (一〇)庭上におりる階段。
- (一一)今から後。ヨは助詞。ユ、ヨリに同じ。
- (一二)
『日本書紀』には、 「日本武の尊」と書く。 - (一三)熟した
瓜 のように。- (一四)海峡の神。
- (一五)平定し、おだやかにして。
- (一三)熟した
〔出雲建 〕
すなわち出雲の国に入りまして(一)
やつめさす(三) 出雲建 が 佩 ける刀 、
黒葛 多 纏 き(四) さ身 なしにあわれ(五)。
〔歌謡番号二四〕
〔歌謡番号二四〕
かれ、かく
- (一)この物語は『日本書紀』には
出雲 振根 がその弟、飯入根 を殺した話になっている。 - (二)にせの刀。木刀。
- (三)枕詞。
「八雲立つ」の転訛。 『日本書紀』にはヤクモタツになっている。 - (四)
柄 や鞘 に植物のツルをたくさん巻 いてある。- (五)刀身がないことだ。アハレは感動を表示している。
- (四)
〔倭建 の命 の東征〕
ここに
かれ尾張の国にいたりまして、尾張の国の造が祖、
そこより入り
さねさし(一二) 相模 の小野 に
燃ゆる火の火 中に立ちて、
問いし君はも。〔歌謡番号二五〕
燃ゆる火の
問いし君はも。
かれ
そこより入り
すなわちその国より越えて、甲斐に出でて、
〔歌謡番号二六〕
ここにその
かがなべて(一七) 夜には九夜 日には十日を。
〔歌謡番号二七〕
〔歌謡番号二七〕
と歌いき。ここをもちてその老人をほめて、すなわち
その国より
ひさかたの(二二) 天 の香山
利鎌 (二三)に さ渡 る鵠 (二四)、
弱細 (二五) 手弱 腕 を
枕 かんとは 吾 はすれど、
さ寝 んとは 吾 は思 えど、
汝 が着 せる 襲 の襴 に
月立ちにけり。〔歌謡番号二八〕
さ
月立ちにけり。
ここに
高光る 日の御子
やすみしし わが大君(二六)、
あら玉の(二七) 年が来経 れば、
あら玉の 月は来経往 く。
うべなうべな(二八) 君待ちがたに(二九)、
わが着 せる 襲 の裾 に
月立たなんよ(三十)。〔歌謡番号二九〕
やすみしし わが大君(二六)
あら玉の(二七) 年が
あら玉の 月は
うべなうべな(二八) 君待ちがたに(二九)
わが
月立たなんよ(三十)。
かれここに
- (一)九四ページ〔
「崇神天皇」の「将軍の派遣」 脚注参照。〕 - (二)ヒイラギの木の
柄 の長い桙 。ヒイラギは葉の縁にトゲがあり、魔物に対して威力があるとされる。 - (三)神が諸事をとりおこなわれるところの意。
- (四)相模の国に同じ。神奈川県の一部。
- (五)暴威をふるう神。
- (六)こちらから火をつけて向こうへ焼く。野火にあったときには、手元からも火をつけて先に野を焼いてしまって難をまぬがれる方法である。
- (七)
焼津 とする伝えもある。静岡県の焼津町がその伝説地であるが、相武の国のこととしているので問題が残る。 - (八)浦賀水道から千葉県に渡ろうとした。
- (九)
『日本書紀』に 穂積氏 の女とする。- (一〇)波の上に多くの
敷物 をしいて。- (一一)海上で風波の難にあうのは、その海の神が船中の人または物のたぐいを欲するからで、その神の欲するものを海に入れれば風波がしずまるとする思想がある。そこで姫が皇子にかわって海に入って風波をしずめたのである。
- (一二)枕詞。
峰 が立っている義だろうとする。峰は静岡県とすれば富士山、神奈川県とすれば大山である。- (一三)所在不明。浦賀市走水に走水神社があって、倭建の命と弟橘姫とをまつる。
- (一四)アイヌ族をいう。
- (一五)山梨県西山梨郡。
- (一六)ともに茨城県の地名。
- (一七)日をならべて。
- (一八)東方の国の長官。実際上はそのような広大な土地の国の造を置かない。
- (一九)信濃の国。今の長野県。
- (二〇)長野県の
伊那 から岐阜県の恵那 に通ずる山路。木曽路は奈良時代になって開通された。- (二一)四四ページ〔
「大国主の神」の「八千矛の神の歌物語」 脚注参照。〕 - (二二)枕詞。語義不明。日のさす方か。
- (二三)鵠のわたる線の形容か。
- (二四)クビは、クグヒに同じ。コヒ、コフともいう。白鳥。ただし
杙 の義とする説もある。以上、たわや腕の比喩。- (二五)よわよわとして細い。修飾句。
- (二六)以上、天皇または皇子をたたえる。光かがやく太陽のような御子、天下を知ろしめすわが大君。ヤスミシシ、語義不明。
- (二七)枕詞。
磨 かない玉の意。ト(磨 ぐ)に冠する。月に冠するのは転用。- (二八)ほんとにと、うなずく意の語。底本にウベナウベナウベナとする。
- (二九)カタニは、不能の意の助動詞。
『万葉集』に多くカテニの形をとり、ここはその原形。 - (三十)当然そうなるだろうの語意とみられる。この語形は普通、願望の意を表示するに使用されるのに、ここに願望になっていないのは特例とされる。ヨは間投の助詞。
- (三一)滋賀県と岐阜県との堺にある高山。
- (一〇)波の上に多くの
〔思国歌 〕
ここに
そこより
尾張に 直 に向かえる(九)
尾津の埼なる 一つ松、吾兄 を(一〇)。
一つ松 人にありせば、
大刀佩 けましを 衣 着せましを。
一つ松、吾兄 を。〔歌謡番号三〇〕
尾津の埼なる 一つ松、
一つ松 人にありせば、
大刀
一つ松、
そこより
たたなずく 青垣(一五)
山
また、歌よみしたまいしく、
命の 全 けん人は、
畳薦 (一六) 平群 の山(一七)の
熊 白梼 が葉を
髻華 に挿 せ(一八)。その子。〔歌謡番号三二〕
この歌は
はしけやし(二〇) 吾家 の方よ(二一) 雲居起ち来も。
〔歌謡番号三三〕
〔歌謡番号三三〕
こは
わが置きし つるぎの大刀(二三)
その大刀はや。
と歌い
- (一)退治しよう。
- (二)言い立てをして。
- (三)滋賀県坂田郡の
醒 が井 はその伝説地。 - (四)岐阜県養老郡。
- (五)空中を飛んで行こうと思ったが。
- (六)びっこを引く形容。高かったり低かったりするさま。
- (七)三重県三重郡。
- (八)三重県桑名郡。サキは、海上・陸上にかぎらず、突き出した地形をいう。ここは陸上。
- (九)じかに対している。
- (一〇)
「あなたよ」という意の語で、歌詞を歌うときのはやしである。 『日本書紀』には、アハレになっている。 - (一一)三重県三重郡。
- (一二)餅米をこねて、ねじまげて作った餅。
- (一三)三重県鈴鹿郡。
- (一四)もっともすぐれたところ。マは接頭語。ロバは接尾語。
『日本書紀』にマホラマ。 - (一五)かさなりあっている青い垣。山のこと。
- (一六)枕詞。
敷物 にしたコモ(草の名)。ヘ(隔)に冠する。- (一七)奈良県生駒郡。
- (一八)美しい
白梼 の木の葉を頭髪にさせ。ウズは髪にさす飾り。もと魔よけの信仰のためにさすもの。- (一九)歌曲としての名。
- (二〇)愛すべき。愛しきに、助詞ヤシの接続したもの。ハシキヨシ、ハシキヤシともいう。
- (二一)わが家の方から。
- (二二)五音七音七音の三句の歌の称。以上三首、
『日本書紀』に景行天皇の 御歌 とする。- (二三)普通、ツルギは両刃、タチは片刃の武器をいうが、厳密な区別ではない。
〔白鳥の陵 〕
ここに
なずきの 田の稲幹 に、
稲幹 に 蔓 いもとおろう z葛 (三)。
〔歌謡番号三五〕
〔歌謡番号三五〕
ここに八尋
またその
海が行けば 腰なずむ。
大河原の植草 、
海がは いさよう(八)。〔歌謡番号三七〕
大河原の
海がは いさよう(八)。
また、飛びてその磯にいたまうとき、歌よみしたまいしく、
浜つ千鳥 浜よ行かず(九) 磯つたう。
〔歌謡番号三八〕
〔歌謡番号三八〕
この四歌は、みなその
- (一)
能褒野 の御陵。 - (二)御陵の周囲の田。
- (三)ヤマノイモ科のツルクサの
蔓 。比喩で、這 いまつわるさまを描く。 - (四)大きな白鳥。倭建の命の神霊が化したものとする。
- (五)小竹の刈ったあと。
- (六)腰が難渋する。
- (七)徒歩で行くよ。ナは感動の助詞。
- (八)ためらう。
- (九)浜からは行かないで。
- (一〇)大阪府南河内郡。
〔倭建 の命 の系譜〕
この倭建の命、
この
- (一)垂仁天皇。
- (二)仲哀天皇。
- (三)このこと、一一一ページ〔
「景行天皇・成務天皇」の「倭建の命の東征」 に出ている。〕 - (四)奈良県磯城郡。
〔成務天皇〕
天皇、御年
- (一)成務天皇。
- (二)滋賀県滋賀郡。
- (三)宮廷の臣中の最高の位置。この後、建内の宿祢の子孫がこれに任ぜられた。
- (四)諸国の意。
- (五)クニよりはアガタの方が小さい。
- (六)奈良県生駒郡。
〔六、仲哀天皇〕
〔后妃 と皇子女〕
- (一)仲哀天皇。
- (二)山口県豊浦郡。
- (三)福岡県糟屋郡香椎町。
- (四)神功皇后。開化天皇の系統。九〇ページ〔
「綏靖天皇以後八代」の「開化天皇」 参照。母系の系譜は一三九ページ〔〕 「応神天皇」の「天の日矛」 にある。〕 - (五)獣皮で球形に作り、左の手につける。
〔神功皇后〕
その
ここに驚きかしこみて、
ここに
かれつぶさに教え
- (一)神霊をよせて教えを受けること。
- (二)祭の場。
- (三)ひたすらに一つの方向に進め。
- (四)葬らない前に祭をおこなう宮殿。
- (五)
穢 れができたので、それを浄 めるために、その料として筑紫の一国から品物を取り立てる。その産物などである。 - (六)
穢 れを生じたのは、種々の罪が犯されたからであるから、まずその罪の類を求め出す。屎戸までは、岩戸の物語(三二ページ〔「天照らす大神と須佐の男の命」の「天の岩戸」 )に出た。生剥・逆剥は、馬の皮をむく罪。屎戸は、きたないものを清浄なるべきところに散らす罪。〕 上通下通婚 以下は、不倫の婚姻行為。 - (七)一国をあげての
罪穢 れをはらう行事をして。 - (八)住吉神社の祭神。二七ページ〔
「伊耶那岐の命と伊耶那美の命」の「身禊」 参照。〕 - (九)木を焼いて作った灰を、ヒサゴ(ツルクサの実、ユウガオ、ヒョウタンの類)に入れて。これは魔よけのためと解せられる。
- (一〇)木の葉の皿。これは食物を与える意。
- (一一)当時、朝鮮半島の東部を占めていた国。
- (一二)朝鮮語で王、または貴人をいう。コニキシともコキシともいう。
- (一三)当時、朝鮮半島の南部を占めていた国。
- (一四)渡海の役所。
- (一五)神霊の荒い方面。
〔鎮懐石と釣り魚〕
かれその
また筑紫の
- (一)福岡県糟屋郡。
- (二)同、
糸島郡 。『万葉集』巻の五に、この石を 詠 んだ歌がある。- (三)佐賀県東松浦郡の玉島川。
〔香坂 の王と忍熊 の王〕
ここに
そのとき
いざ吾君 (九)、
振熊 が 痛手負 わずは、
鳰鳥 (一〇)の 淡海の海(一一)に
潜 きせなわ(一二)。〔歌謡番号三九〕
と歌いて、すなわち海に入りて共に
- (一)兵庫県
武庫郡 。 - (二)神に
誓 って狩りをして、これによって神意をうかがう。ここでは凶兆であった。 - (三)山城に同じ。
- (四)頭上にて
束 ねた髪。 - (五)用意の弓弦。
- (六)京都府と滋賀県との境の山。
- (七)琵琶湖の南方の地。
- (八)琵琶湖。
- (九)さあ、あなた。
- (一〇)カイツブリ。水鳥。叙述による枕詞。
- (一一)琵琶湖。
- (一二)水にもぐりましょう。ナは自分の希望をあらわす助詞。ワは感動の助詞。
〔気比 の大神〕
かれ
- (一)水によって
穢 れをはらう行事。既出。 - (二)越前の国の
敦賀市 。 - (三)同市、
気比 神宮 の祭神。 - (四)名をとりかえたしるしの贈り物。
〔酒楽 の歌曲〕
ここに
この御酒 は わが御酒ならず。
酒 の長 (二) 常世 (三)にいます
石 立 たす(四) 少名 御神(五)の、
神寿 き 寿 き狂 おし
豊寿 き 寿 きもとおし(六)
献 り来 し 御酒 ぞ
乾 さずおせ(七)。ささ(八)。〔歌謡番号四〇〕
かく歌いたまいて、
この御酒 を 醸 みけん人は、
その鼓 (九) 臼 に立てて(一〇)
歌いつつ醸 みけれかも(一一)、
舞いつつ醸 みけれかも、
この御酒の 御酒の
あやに うた楽 し(一二)。ささ。〔歌謡番号四一〕
その
歌いつつ
舞いつつ
この御酒の 御酒の
あやに うた
こは
およそこの
- (一)人を待って飲む酒。
- (二)酒をつかさどる長官。原文「久志能加美」美はミの甲類の字であり、神のミは乙類であるから、酒の神とする説は誤り。
- (三)永久の世界。また海外。スクナビコナは海外へ渡ったという。
- (四)石のように立っておいでになる。
- (五)スクナビコナに同じ。
- (六)祝い言をさまざまにして。
- (七)盃が乾かないように続けてめしあがれ。
- (八)はやし詞。
- (九)後世のツヅミの大きいもの。太鼓。
- (一〇)酒をかもす入れ物として。
- (一一)酒を作ったからか。疑問の已然条件法。
- (一二)たいへんに楽しい。
- (一三)歌曲の名。この二首、
『 琴歌譜 』にもある。- (一四)大阪府南河内郡。
- (一五)奈良県生駒郡。
(つづく)
底本:
1956(昭和31)年5月20日初版発行
1965(昭和40)年9月20日20版発行
底本の親本:
※底本は校注が脚註の形で配置されています。このファイルでは校註者が追加した標題ごとに、書き下し文、校注の順序で編成しました。
※(一)〜(五五)は注釈番号です。底本では、直前の文字の右横に、ルビのように漢数字のみ付いています。このファイルでは本文の漢数字との混同を避けるため(漢数字)で表しました。
※〔 〕は底本の親本にはないもので、校註者が補った箇所を表します。
※頁数を引用している箇所には校註者が追加した標題を注記しました。
入力:川山隆
校正:しだひろし
YYYY年MM月DD日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
校註『古事記』(六)
稗田の阿礼、太の安万侶武田祐吉注釈校訂
-------------------------------------------------------
【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)上《かみ》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)神|蕃息《はんそく》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「二点しんにょう+貌」、第3水準1-92-58]
-------------------------------------------------------
[#1字下げ]古事記 中つ卷[#「古事記 中つ卷」は大見出し]
[#3字下げ]〔三、崇神天皇〕[#「〔三、崇神天皇〕」は中見出し]
[#5字下げ]〔后妃と皇子女〕[#「〔后妃と皇子女〕」は小見出し]
御眞木入日子印惠《みまきいりひこいにゑ》の命(一)、師木《しき》の水垣《みづかき》の宮(二)にましまして、天の下治らしめしき。この天皇、木の國の造、名は荒河戸辨《あらかはとべ》が女、遠津年魚目目微比賣《とほつあゆめまくはしひめ》に娶ひて、生みませる御子、豐木入日子《とよきいりひこ》の命、次に豐※[#「金+且」、第3水準1-93-12]入日賣《とよすきいりひめ》の命二柱[#「二柱」は1段階小さな文字]。また尾張《をはり》の連が祖|意富阿麻《おほあま》比賣に娶ひて、生みませる御子、大入杵《おほいりき》の命、次に八坂《やさか》の入日子《いりひこ》の命、次に沼名木《ぬなき》の入日賣の命、次に十市《とをち》の入日賣の命四柱[#「四柱」は1段階小さな文字]。また大毘古《おほびこ》の命が女、御眞津《みまつ》比賣の命に娶ひて、生みませる御子、伊玖米入日子伊沙知《いくめいりひこいさち》の命、次に伊耶《いざ》の眞若《まわか》の命、次に國片《くにかた》比賣の命、次に千千都久和《ちぢつくやまと》比賣の命、次に伊賀《いが》比賣の命、次に倭日子《やまとひこ》の命六柱[#「六柱」は1段階小さな文字]。この天皇の御子たち、并せて十二柱[#割り注]男王七、女王五なり。[#割り注終わり]かれ伊久米伊理毘古伊佐知《いくめいりびこいさち》の命は、天の下治らしめしき。次に豐木入日子《とよきいりひこ》の命は、上つ毛野、下つ毛野の君等が祖なり。妹|豐※[#「金+且」、第3水準1-93-12]《とよすき》比賣の命は伊勢の大神の宮を拜《いつ》き祭りたまひき。次に大入杵《おほいりき》の命は、能登の臣が祖なり。次に倭日子《やまとひこ》の命は、この王の時に始めて陵に人垣を立てたり(三)。
(一) 崇神天皇。
(二) 奈良縣磯城郡。
(三) 人を埋めて垣とするもの。
[#5字下げ]〔美和の大物主〕[#「〔美和の大物主〕」は小見出し]
この天皇の御世に「役病《えやみ》多《さは》に起り、人民《おほみたから》盡きなむとしき。ここに天皇|愁歎《うれ》へたまひて、神牀《かむとこ》(一)にましましける夜に、大物主《おほものぬし》の大神《おほかみ》、御夢に顯はれてのりたまひしく、「こは我《あ》が御心なり。かれ意富多多泥古《おほたたねこ》をもちて、我が御前に祭らしめたまはば、神の氣《け》起らず(二)、國も安平《やすらか》ならむ」とのりたまひき。ここを以ちて、驛使《はゆまづかひ》(三)を四方《よも》に班《あか》ちて、意富多多泥古《おほたたねこ》といふ人を求むる時に、河内の美努《みの》の村(四)にその人を見得て、貢《たてまつ》りき。ここに天皇問ひたまはく、「汝《いまし》は誰が子ぞ」と問ひたまひき。答へて白さく「僕《あ》は大物主の大神、陶津耳《すゑつみみ》の命が女、活玉依《いくたまより》毘賣に娶ひて生みませる子、名は櫛御方《くしみかた》の命の子、飯肩巣見《いひがたすみ》の命の子、建甕槌《たけみかづち》の命の子、僕《やつこ》意富多多泥古」とまをしき。
ここに天皇いたく歡びたまひて、詔りたまはく、「天の下平ぎ、人民《おほみたから》榮えなむ」とのりたまひて、すなはち意富多多泥古の命を、神主《かむぬし》(五)として、御諸山(六)に、意富美和《おほみわ》の大神の御前を拜《いつ》き祭りたまひき。また伊迦賀色許男《いかがしこを》の命に仰せて、天の八十平瓮《やそひらか》(七)を作り、天つ神|地《くに》つ祇《かみ》の社を定めまつりたまひき。また宇陀《うだ》の墨坂《すみさか》(八)の神に、赤色の楯矛《たてほこ》を祭り(九)、また大坂《おほさか》の神(一〇)に、墨色の楯矛を祭り、また坂《さか》の御尾《みを》の神、河《かは》の瀬《せ》の神までに、悉に遺忘《おつ》ることなく幣帛《ぬさ》まつりたまひき。これに因りて役《え》の氣《け》悉に息《や》みて、國家《みかど》安平《やすら》ぎき。
この意富多多泥古といふ人を、神の子と知れる所以《ゆゑ》は、上にいへる活玉依《いくたまより》毘賣、それ顏好かりき。ここに壯夫《をとこ》ありて、その形姿《かたち》威儀《よそほひ》時に比《たぐひ》無きが、夜半《さよなか》の時にたちまち來たり。かれ相感《め》でて共婚《まぐはひ》して、住めるほどに、いまだ幾何《いくだ》もあらねば、その美人《をとめ》姙《はら》みぬ。
ここに父母、その姙《はら》める事を怪みて、その女に問ひて曰はく、「汝《いまし》はおのづから姙《はら》めり。夫《ひこぢ》無きにいかにかも姙《はら》める」と問ひしかば、答へて曰はく、「麗《うるは》しき壯夫《をとこ》の、その名も知らぬが、夕《よ》ごとに來りて住めるほどに、おのづからに姙《はら》みぬ」といひき。ここを以ちてその父母、その人を知らむと欲《おも》ひて、その女に誨《をし》へつらくは、「赤土《はに》を床の邊に散らし、卷子紡麻《へそを》を針に貫《ぬ》きて、その衣の襴《すそ》に刺せ」と誨《をし》へき(一一)。かれ教へしが如して、旦時《あした》に見れば、針をつけたる麻《を》は、戸の鉤穴《かぎあな》より控《ひ》き通りて出で、ただ遺《のこ》れる麻《を》(一二)は、三勾《みわ》のみなりき。
ここにすなはち鉤穴より出でし状を知りて、絲のまにまに尋ね行きしかば、美和山に至りて、神の社に留まりき。かれその神の御子なりとは知りぬ。かれその麻《を》の三勾《みわ》遺《のこ》れるによりて、其地《そこ》に名づけて美和《みわ》といふなり。この意富多多泥古の命は、神《みわ》の君、鴨の君が祖なり。
(一) 神に祈つて寢る床。夢に神意を得ようとする。
(二) 神のたたり。
(三) 馬に乘つて行く使。
(四) 大阪府中河内郡。日本書紀には茅渟の縣の陶の村としている。これは和泉の國である。
(五) 神のよりつく人。
(六) 奈良縣磯城郡の三輪山。
(七) 多くの平たい皿。既出の語。
(八) 奈良縣宇陀郡。大和の中央部から見て東方の通路の坂。
(九) 奉ることによつて祭をする。神に武器を奉つて魔物の入り來るを防ごうとする思想。
(一〇) 奈良縣北葛城郡二上山の北方を越える坂。大和の中央部から西方の坂。
(一一) 人間ならざる者の正體を見現すために行う。ヘソヲは絲卷にまいた麻。
(一二) 絲卷に殘つた麻。
[#5字下げ]〔將軍の派遣〕[#「〔將軍の派遣〕」は小見出し]
またこの御世に、大毘古《おほびこ》の命(一)を高志《こし》の道《みち》に遣し、その子|建沼河別《たけぬなかはわけ》の命を東《ひむがし》の方|十二《とをまりふた》道(二)に遣して、その服《まつろ》はぬ人どもを言向け和《やは》さしめ、また日子坐《ひこいます》の王《みこ》をば、旦波《たには》の國(三)に遣して、玖賀耳《くがみみ》の御笠《みかさ》[#割り注]こは人の名なり。[#割り注終わり]を殺《と》らしめたまひき。
かれ大毘古《おほびこ》の命、高志《こし》の國に罷り往《い》でます時に、腰裳《こしも》服《け》せる少女《をとめ》(四)、山代の幣羅坂《へらさか》(五)に立ちて、歌よみして曰ひしく、
[#ここから2字下げ]
御眞木入日子《みまきいりびこ》(六)はや、
御眞木入日子はや、
おのが命《を》を 竊《ぬす》み殺《し》せむと、
後《しり》つ戸《と》よ い行き違《たが》ひ(七)
前《まへ》つ戸よ い行き違ひ
窺はく 知らにと(八)、
御眞木入日子はや。 (歌謠番號二三)
[#ここで字下げ終わり]
と歌ひき。ここに大毘古《おほびこ》の命、怪しと思ひて、馬を返して、その少女に問ひて曰はく、「汝《いまし》がいへる言は、いかに言ふぞ」と問ひしかば、少女答へて曰はく、「吾《あ》は言ふこともなし。ただ歌よみしつらくのみ」といひて、その行く方《へ》も見えずして忽に失せぬ(九)。かれ大毘古の命、更に還りまゐ上りて、天皇にまをす時に、天皇答へて詔りたまはく、「こは山代の國なる我が庶兄《まませ》、建波邇安《たけはにやす》の王の、邪《きたな》き心を起せる表《しるし》ならむ。伯父、軍を興して、行かさね」とのりたまひて、丸邇《わに》の臣《おみ》の祖、日子國夫玖《ひこくにぶく》の命を副へて、遣す時に、すなはち丸邇坂《わにさか》に忌瓮《いはひべ》を居《す》ゑて、罷り往《い》でましき。
ここに山代の和訶羅《わから》河(一〇)に到れる時に、その建波邇安の王、軍を興して、待ち遮り、おのもおのも河を中にはさみて、對《む》き立ちて相|挑《いど》みき。かれ其地《そこ》に名づけて、伊杼美《いどみ》といふ。[#割り注]今は伊豆美といふ。[#割り注終わり]ここに日子國夫玖《ひこくにぶく》の命、「其方《そなた》の人まづ忌矢《いはひや》を放て」と乞ひいひき。ここにその建波邇安の王射つれどもえ中てず。ここに國夫玖《くにぶく》の命の放つ矢は、建波邇安の王を射て死《ころ》しき。かれその軍、悉に破れて逃げ散《あら》けぬ。ここにその逃ぐる軍を追ひ迫《せ》めて、久須婆《くすば》の渡《わたり》(一一)に到りし時に、みな迫めらえ窘《たしな》みて、屎《くそ》出でて、褌《はかま》に懸かりき。かれ其地《そこ》に名づけて屎褌《くそはかま》といふ。[#割り注]今は久須婆といふ。[#割り注終わり]またその逃ぐる軍を遮りて斬りしかば、鵜のごと河に浮きき。かれその河に名づけて、鵜河といふ。またその軍士《いくさびと》を斬り屠《はふ》りき。かれ、其地に名づけて波布理曾能《はふりその》(一二)といふ。かく平《ことむ》け訖へて、まゐ上りて覆《かへりごと》奏《まを》しき。
かれ大毘古《おほびこ》の命は、先の命のまにまに、高志《こし》の國に罷り行《い》でましき。ここに東の方より遣しし建沼河別《たけぬなかはわけ》、その父|大毘古《おほびこ》と共に、相津《あひづ》(一三)に往き遇ひき。かれ其地《そこ》を相津《あひづ》といふ。ここを以ちておのもおのも遣さえし國の政を和《やは》し言向けて、覆《かへりごと》奏《まを》しき。
ここに天の下平ぎ、人民《おほみたから》富み榮えき。ここに初めて男《をとこ》の弓端《ゆはず》の調《みつき》(一四)、女《をみな》の手末《たなすゑ》の調(一五)を貢《たてまつ》らしめたまひき。かれその御世を稱《たた》へて、初《はつ》國知らしし(一六)、御眞木《みまき》の天皇とまをす。またこの御世に、依網《よさみ》の池(一七)を作り、また輕《かる》の酒折《さかをり》の池(一八)を作りき。
天皇、御歳|一百六十八歳《ももぢあまりむそぢやつ》、[#割り注]戊寅の年の十二月に崩りたまひき。[#割り注終わり]御陵は、山《やま》の邊《べ》の道《みち》の勾《まがり》の岡《をか》の上《へ》(一九)にあり。
(一) 孝元天皇の御子。
(二) 十二國に同じ。伊勢(志摩を含む)、尾張、參河、遠江、駿河、甲斐、伊豆、相模、武藏、總(上總、下總、安房)、常陸、陸奧の十二國であるという。
(三) 京都府の北部。
(四) 腰に裳をつけた少女。裳は女子の腰部にまとう衣服。
(五) 大和の國から山城の國に越えた所の坂。
(六) 崇神天皇。
(七) 後方の戸から人目をはずして。
(八) 窺うことを知らずにと、ニは打消の助動詞ヌの連用形。
(九) 神が少女に化して教えた意になる。
(一〇) 木津川の別名。
(一一) 大阪府北河内郡淀川の渡り場。
(一二) 京都府相樂郡。
(一三) 福島縣の會津。
(一四) 男子が弓によつて得た物の貢物。獸皮の類をいう。
(一五) 女子の手藝によつて得た物の貢物。織物、絲の類。
(一六) 新しい土地を領有した。
(一七) 大阪市東成區。
(一八) 奈良縣高市郡。
(一九) 奈良縣磯城郡。
[#3字下げ]〔四、垂仁天皇〕[#「〔四、垂仁天皇〕」は中見出し]
[#5字下げ]〔后妃と皇子女〕[#「〔后妃と皇子女〕」は小見出し]
伊久米伊理毘古伊佐知《いくめいりびこいさち》の命(一)、師木《しき》の玉垣《たまがき》の宮(二)にましまして、天の下治らしめしき。この天皇、沙本毘古《さほびこ》の命が妹、佐波遲《さはぢ》比賣の命(三)に娶ひて、生みませる御子、品牟都和氣《ほむつわけ》の命一柱[#「一柱」は1段階小さな文字]。また旦波《たには》の比古多多須美知能宇斯《ひこたたすみちのうし》の王が女、氷羽州《ひばす》比賣の命(四)に娶ひて、生みませる御子、印色《いにしき》の入日子《いりひこ》の命、次に大帶日子淤斯呂和氣《おほたらしひこおしろわけ》の命、次に大中津日子《おほなかつひこ》の命、次に倭《やまと》比賣の命、次に若木《わかき》の入日子《いりひこ》の命五柱[#「五柱」は1段階小さな文字]。またその氷羽州《ひばす》比賣の命が弟、沼羽田《ぬばた》の入《いり》毘賣の命に娶ひて、生みませる御子、沼帶別《ぬたらしわけ》の命、次に伊賀帶日子《いがたらしひこ》の命二柱[#「二柱」は1段階小さな文字]。またその沼羽田《ぬばた》の入《いり》日賣の命が弟、阿耶美《あざみ》の伊理《いり》毘賣の命に娶ひて、生みませる御子、伊許婆夜和氣《いこばやわけ》の命、次に、阿耶美都《あざみつ》比賣の命二柱[#「二柱」は1段階小さな文字]。また大筒木垂根《おほつつきたりね》の王が女、迦具夜《かぐや》比賣の命に娶ひて、生みませる御子、袁那辨《をなべ》の王一柱[#「一柱」は1段階小さな文字]。また山代の大國《おほくに》の淵《ふち》が女、苅羽田刀辨《かりばたとべ》に娶ひて、生みませる御子、落別《おちわけ》の王、次に五十日帶日子《いかたらしひこ》の王、次に伊登志別《いとしわけ》の王三柱[#「三柱」は1段階小さな文字]。またその大國《おほくに》の淵《ふち》が女、弟苅羽田刀辨《おとかりばたとべ》に娶ひて、生みませる御子、石衝別《いはつくわけ》の王、次に石衝《いはつく》毘賣の命、またの名は布多遲《ふたぢ》の伊理《いり》毘賣の命二柱[#「二柱」は1段階小さな文字]。およそこの天皇の御子等、十六王《とをまりむはしら》ませり。[#割り注]男王十三柱、女王三柱。[#割り注終わり]
かれ大帶日子淤斯呂和氣《おほたらしひこおしろわけ》の命は、天の下治らしめしき。[#割り注]御身のたけ一丈二寸、御脛の長さ四尺一寸ましき。[#割り注終わり]次に印色《いにしき》の入日子《いりひこ》の命は、血沼《ちぬ》の池(五)を作り、また狹山《さやま》の池を作り、また日下《くさか》の高津《たかつ》の池(六)を作りたまひき。また鳥取《ととり》の河上の宮(七)にましまして、横刀《たち》壹|仟口《ちぢ》を作らしめたまひき。こを石《いそ》の上《かみ》の神宮(八)に納めまつる。すなはちその宮にましまして、河上部を定めたまひき(九)。次に大中津日子《おほなかつひこ》の命は、山邊の別、三枝の別、稻木の別、阿太の別、尾張の國の三野の別、吉備の石|旡《なし》の別、許呂母の別、高巣鹿の別、飛鳥の君、牟禮の別等が祖なり。次に倭《やまと》比賣の命は、伊勢の大神の宮を拜《いつ》き祭りたまひき。次に伊許婆夜和氣《いこばやわけ》の王は、沙本の穴本《あなほ》部の別が祖なり。次に阿耶美都《あざみつ》比賣の命は、稻瀬毘古の王に嫁《あ》ひましき。次に落別《おちわけ》の王は、小目の山の君、三川の衣の君が祖なり。次に五《い》十|日帶日子《かたらしひこ》の王は、春日の山の君、高志の池の君、春日部の君が祖なり。次に伊登志和氣《いとしわけ》の王は、子なきに因りて、子代として、伊登志部を定めき。次に石衝別《いはつくわけ》の王は、羽咋《はくひ》の君、三尾の君が祖なり。次に布多遲《ふたぢ》の伊理《いり》毘賣の命は、倭建の命の后となりたまひき。
(一) 垂仁天皇。
(二) 奈良縣磯城郡。
(三) 沙本毘賣に同じ。開化天皇の皇女。
(四) 以下の三后妃は、開化天皇の卷に見え、また下に見える。その條參照。
(五) 大阪府泉南郡。
(六) 大阪府南河内郡。
(七) 大阪府泉南郡。
(八) 奈良縣山邊郡の石上の神宮。
(九) 人民の集團に縁故のある名をつけて記念とし、またこれを支配する。以下、何部を定めたという記事が多い。
[#5字下げ]〔沙本毘古の叛亂〕[#「〔沙本毘古の叛亂〕」は小見出し]
この天皇、沙本《さほ》毘賣を后としたまひし時に、沙本《さほ》毘賣の命の兄《いろせ》、沙本毘古《さほびこ》の王、その同母妹《いろも》に問ひて曰はく、「夫《せ》と兄《いろせ》とはいづれか愛《は》しき」と問ひしかば、答へて曰はく「兄を愛しとおもふ」と答へたまひき。ここに沙本毘古《さほびこ》の王、謀りて曰はく、「汝《みまし》まことに我《あれ》を愛しと思ほさば、吾と汝と天の下治らさむとす」といひて、すなはち八鹽折《やしほり》の紐小刀《ひもがたな》(一)を作りて、その妹《いろも》に授けて曰はく、「この小刀もちて、天皇の寢《みね》したまふを刺し殺《し》せまつれ」といふ。かれ天皇、その謀を知《し》らしめさずて、その后の御膝を枕《ま》きて、御寢したまひき。ここにその后、紐小刀もちて、その天皇の御頸《おほみくび》を刺しまつらむとして、三度|擧《ふ》りたまひしかども、哀《かな》しとおもふ情にえ忍《あ》へずして、御頸をえ刺しまつらずて、泣く涙、御面《おほみおも》に落ち溢《あふ》れき。天皇驚き起ちたまひて、その后に問ひてのりたまはく、「吾《あ》は異《け》しき夢《いめ》を見つ。沙本《さほ》(二)の方《かた》より、暴雨《はやさめ》の零《ふ》り來て、急《にはか》に吾が面を沾《ぬら》しつ。また錦色の小蛇《へみ》、我が頸に纏《まつ》はりつ。かかる夢は、こは何の表《しるし》にあらむ」とのりたまひき。ここにその后、爭ふべくもあらじとおもほして、すなはち天皇に白して言さく、「妾が兄|沙本毘古《さほびこ》の王、妾に、夫と兄とはいづれか愛《は》しきと問ひき。ここにえ面勝たずて、かれ妾、兄を愛しとおもふと答へ曰へば、ここに妾に誂《あとら》へて曰はく、吾と汝と天の下を治らさむ。かれ天皇を殺《し》せまつれといひて、八鹽折《やしほり》の紐小刀を作りて妾に授けつ。ここを以ちて御頸を刺しまつらむとして、三度|擧《ふ》りしかども、哀しとおもふ情忽に起りて、頸をえ刺しまつらずて、泣く涙の落ちて、御面を沾らしつ。かならずこの表《しるし》にあらむ」とまをしたまひき。
ここに天皇詔りたまはく、「吾はほとほとに欺かえつるかも(三)」とのりたまひて、軍を興して、沙本毘古《さほびこ》の王を撃《う》ちたまふ時に、その王|稻城《いなぎ》(四)を作りて、待ち戰ひき。この時|沙本毘賣《さほびめ》の命、その兄にえ忍《あ》へずして、後《しり》つ門より逃れ出でて、その稻城《いなぎ》に納《い》りましき。
この時にその后|姙《はら》みましき。ここに天皇、その后の、懷姙みませるに忍へず、また愛重《めぐ》みたまへることも、三年になりにければ、その軍を※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]《かへ》して急《すむや》けくも攻めたまはざりき。かく逗留《とどこほ》る間に、その姙《はら》める御子既に産《あ》れましぬ。かれその御子を出して、稻城《いなぎ》の外に置きまつりて、天皇に白さしめたまはく、「もしこの御子を、天皇の御子と思ほしめさば、治めたまふべし」とまをしたまひき。ここに天皇|詔《の》りたまはく、「その兄を怨《きら》ひたまへども、なほその后を愛しとおもふにえ忍へず」とのりたまひて、后を得むとおもふ心ましき。ここを以ちて軍士《いくさびと》の中に力士《ちからびと》の輕捷《はや》きを選り聚《つど》へて、宣りたまはくは、「その御子を取らむ時に、その母王《ははみこ》をも掠《かそ》ひ取れ(五)。御髮にもあれ、御手にもあれ、取り獲むまにまに、掬《つか》みて控《ひ》き出でよ」とのりたまひき。ここにその后、あらかじめその御心を知りたまひて、悉にその髮を剃りて、その髮もちてその頭を覆ひ、また玉の緒を腐《くた》して、御手に三重|纏《ま》かし、また酒もちて御衣《みけし》を腐して、全き衣《みそ》のごと服《け》せり。かく設け備へて、その御子を抱《うだ》きて、城の外にさし出でたまひき。ここにその力士《ちからびと》ども、その御子を取りまつりて、すなはちその御祖《みおや》を握《と》りまつらむとす。ここにその御髮を握《と》れば、御髮おのづから落ち、その御手を握《と》れば、玉の緒また絶え、その御衣《みけし》を握《と》れば、御衣すなはち破れつ。ここを以ちてその御子を取り獲て、その御|祖《おや》をばえとりまつらざりき。かれその軍士ども、還り來て、奏《まを》して言さく、「御髮おのづから落ち、御衣破れ易く、御手に纏《ま》かせる玉の緒もすなはち絶えぬ。かれ御祖を獲まつらず、御子を取り得まつりき」とまをす。ここに天皇悔い恨みたまひて、玉作りし人どもを惡《にく》まして、その地《ところ》をみな奪《と》りたまひき。かれ諺《ことわざ》に、地《ところ》得ぬ玉作り(六)といふなり。
また天皇、その后に命詔《みことのり》したまはく、「およそ子の名は、かならず母の名づくるを、この子の御名を、何とかいはむ」と詔りたまひき。ここに答へて白さく、「今火の稻城《いなぎ》を燒く時に、火《ほ》中に生《あ》れましつ。かれその御名は、本牟智和氣《ほむちわけ》(七)の御子《みこ》とまをすべし」とまをしたまひき。また命詔したまはく「いかにして日足《ひた》しまつらむ(八)」とのりたまへば、答へて白さく、「御母《みおも》を取り、大湯坐《おほゆゑ》、若湯坐《わかゆゑ》(九)を定めて、日足しまつるべし」とまをしたまひき。かれその后のまをしたまひしまにまに、日足《ひた》しまつりき。またその后に問ひたまはく、「汝《みまし》の堅めし瑞《みづ》の小佩《をひも》(一〇)は、誰かも解かむ」とのりたまひしかば、答へて白さく、「旦波《たには》の比古多多須美智能宇斯《ひこたたすみちのうし》の王《みこ》が女、名は兄比賣《えひめ》弟比賣《おとひめ》、この二柱の女王《ひめみこ》、淨き公民《おほみたから》にませば、使ひたまふべし」とまをしたまひき。然ありて遂にその沙本比古《さほひこ》の王を殺《と》りたまへるに、その同母妹《いろも》も從ひたまひき。
(一) 色濃く染めた紐のついている小刀。この紐、下の錦色の小蛇というのに關係がある。
(二) 奈良市佐保。佐本毘古の王の居所。
(三) あぶなくだまされる所だつた。ホトホトニは、ほとんど。
(四) 稻を積んだ城。俵を積んだのだろう。
(五) かすめ取れ。
(六) 玉作りは、土地を持たないという諺のもとだという。
(七) ホが火を意味し、ムチは尊稱、ワケは若い御方の義の名。
(八) 日を足して成育させる。
(九) 赤子の湯を使う人。そのおもな役と若い方の役。
(一〇) 妻が男の衣の紐を結ぶ風習による。ミヅは美稱。生氣のある意。
[#5字下げ]〔本牟智和氣《ほむちわけ》の御子〕[#「〔本牟智和氣の御子〕」は小見出し]
かれその御子を率《ゐ》て遊ぶ状《さま》は、尾張の相津(一)なる二俣榲《ふたまたすぎ》を二俣小舟《ふたまたをぶね》に作りて、持ち上り來て、倭《やまと》の市師《いちし》の池(二)輕《かる》の池(三)に浮けて、その御子を率《ゐ》て遊びき。然るにこの御子、八|拳鬚心前《つかひげむなさき》に至るまでにま言《こと》とはず。かれ今、高往く鵠《たづ》が音を聞かして、始めてあぎとひ(四)たまひき。ここに山邊《やまべ》の大※[#「帝+鳥」、第4水準2-94-28]《おほたか》[#割り注]こは人の名なり。[#割り注終わり]を遣して、その鳥を取らしめき。かれこの人、その鵠を追ひ尋ねて、木《き》の國より針間《はりま》の國に到り、また追ひて稻羽《いなば》の國に越え、すなはち旦波《たには》の國|多遲麻《たぢま》の國に到り、東の方に追ひ※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]りて、近《ちか》つ淡海《あふみ》の國に到り、三野《みの》の國に越え、尾張《をはり》の國より傳ひて科野《しなの》の國に追ひ、遂に高志《こし》の國に追ひ到りて、和那美《わなみ》の水門《みなと》(五)に網を張り、その鳥を取りて、持ち上りて獻りき。かれその水門に名づけて和那美《わなみ》の水門《みなと》といふなり。またその鳥を見たまへば、物言はむと思ほして、思ほすがごと言ひたまふ事なかりき。
ここに天皇患へたまひて、御寢《みね》ませる時に、御夢に覺《さと》してのりたまはく、「我が宮を、天皇《おほきみ》の御舍《みあらか》のごと修理《をさ》めたまはば、御子かならずま言《ごと》とはむ」とかく覺したまふ時に、太卜《ふとまに》に占《うら》へて(六)、「いづれの神の御心ぞ」と求むるに、ここに祟《たた》りたまふは、出雲《いづも》の大神(七)の御心なり。かれその御子を、その大神の宮を拜《をろが》ましめに遣したまはむとする時に、誰を副《たぐ》へしめば吉《え》けむとうらなふに、ここに曙立《あけたつ》(八)の王|卜《うら》に食《あ》へり(九)。かれ曙立《あけたつ》の王に科《おほ》せて、うけひ白さしむらく(一〇)、「この大神を拜むによりて、誠《まこと》に驗《しるし》あらば、この鷺《さぎ》の巣《す》の池(一一)の樹に住める鷺を、うけひ落ちよ」と、かく詔りたまふ時に、うけひてその鷺|地《つち》に墮ちて死にき。また「うけひ活け」と詔りたまひき。ここにうけひしかば、更に活きぬ。また甜白檮《あまがし》の前《さき》(一二)なる葉廣熊白檮《はびろくまがし》(一三)をうけひ枯らし、またうけひ生かしめき。ここにその曙立《あけたつ》の王に、倭《やまと》は師木《しき》の登美《とみ》の豐朝倉《とよあさくら》の曙立《あけたつ》の王といふ名を賜ひき。すなはち曙立《あけたつ》の王|菟上《うながみ》の王|二王《ふたばしら》を、その御子に副へて遣しし時に、那良戸《ならど》(一四)よりは跛《あしなへ》、盲《めしひ》遇はむ。大阪戸(一五)よりも跛《あしなへ》、盲《めしひ》遇はむ。ただ木戸(一六)ぞ掖戸《わきど》の吉き戸(一七)と卜へて、いでましし時に、到ります地《ところ》ごとに品遲部《ほむぢべ》を定めたまひき。
かれ出雲《いづも》に到りまして、大神《おほかみ》を拜み訖《を》へて、還り上ります時に、肥《ひ》の河(一八)の中に黒樔《くろす》の橋(一九)を作り、假宮を仕へ奉《まつ》りて、坐《ま》さしめき。ここに出雲《いづも》の國《くに》の造《みやつこ》の祖、名は岐比佐都美《きひさつみ》、青葉の山を餝《かざ》りて、その河下に立てて、大御食《おほみあへ》獻らむとする時に、その御子詔りたまはく、「この河下に青葉の山なせるは、山と見えて山にあらず。もし出雲《いづも》の石※[#「石+炯のつくり」、103-本文-11]《いはくま》の曾《そ》の宮(二〇)にます、葦原色許男《あしはらしこを》の大神(二一)をもち齋《いつ》く祝《はふり》が大|庭《には》(二二)か」と問ひたまひき。ここに御供に遣さえたる王《みこ》たち、聞き歡び見喜びて、御子は檳榔《あぢまさ》の長穗《ながほ》の宮(二三)にませまつりて、驛使《はゆまづかひ》をたてまつりき。
ここにその御子、肥長《ひなが》比賣に一宿《ひとよ》婚ひたまひき。かれその美人《をとめ》を竊伺《かきま》みたまへば、蛇《をろち》なり。すなはち見畏みて遁げたまひき。ここにその肥長《ひなが》比賣|患《うれ》へて、海原を光《て》らして船より追ひ來《く》。かれ、ますます見畏みて山のたわより御船を引き越して、逃げ上りいでましつ。ここに覆奏《かへりごと》まをさく、「大神を拜みたまへるに因りて、大御子《おほみこ》物《もの》詔《の》りたまひつ。かれまゐ上り來つ」とまをしき。かれ天皇歡ばして、すなはち菟上《うながみ》の王を返して、神宮を造らしめたまひき。ここに天皇、その御子に因りて鳥取部《ととりべ》、鳥甘《とりかひ》、品遲部《ほむぢべ》、大湯坐《おほゆゑ》、若湯坐《わかゆゑ》を定めたまひき。
(一) 所在不明。
(二) 奈良縣磯城郡。
(三) 同高市郡。
(四) アギと言つた。あぶあぶ言つた。
(五) 新潟縣西蒲原郡、また北魚澤郡[#「澤」は底本のまま]に傳説地がある。ワナミは羂網の義。
(六) 二〇頁[#「二〇頁」は「伊耶那岐の命と伊耶那美の命」の「島々の生成」]參照。
(七) 出雲大社の祭神。大國主の神。
(八) 開化天皇の子孫。
(九) 占いにかなつた。
(一〇) 神に誓つて神意を窺わしめることは。
(一一) 奈良縣高市郡。
(一二) 同郡飛鳥村にある。
(一三) 葉の廣いりつぱなカシの木。クマはウマに同じ。美稱。
(一四) 奈良縣の北部の奈良山を越える道。不具者に逢うことを嫌つた。
(一五) 二上山を越えて行く道。
(一六) 紀伊の國へ出る道。吉野川の右岸について行く。
(一七) 迂※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]してゆく道でよい道。
(一八) 斐伊の川。
(一九) 皮つきの木を組んで作つた橋。
(二〇) 出雲大社の別名。
(二一) 大國主の神の別名。
(二二) お祭する神職の齋場か。
(二三) ビロウの木の葉を長く垂れて葺いた宮。
[#5字下げ]〔丹波の四女王〕[#「〔丹波の四女王〕」は小見出し]
またその后の白したまひしまにまに、美知能宇斯《みちのうし》の王の女たち(一)、比婆須《ひばす》比賣の命、次に弟《おと》比賣の命、次に歌凝《うたこり》比賣の命、次に圓野《まとの》比賣の命、并はせて四柱を喚上《めさ》げたまひき。然れども比婆須《ひばす》比賣の命、弟比賣《おとひめ》の命、二柱を留めて、その弟王《おとみこ》二柱は、いと醜きに因りて本《もと》つ土《くに》に返し送りたまひき。ここに圓野《まとの》比賣|慚《やさし》みて「同兄弟《はらから》の中に、姿|醜《みにく》きによりて、還さゆる事、隣里《ちかきさと》に聞えむは、いと慚《やさ》しきこと」といひて、山代の國の相樂《さがらか》(二)に到りし時に、樹の枝に取り懸《さが》りて、死なむとしき。かれ其地《そこ》に名づけて、懸木《さがりき》といひしを、今は相樂《さがらか》といふ。また弟國《おとくに》(三)に到りし時に、遂に峻《ふか》き淵に墮ちて、死にき。かれ其地《そこ》に名づけて、墮國《おちくに》といひしを、今は弟國といふなり。
(一) 九〇頁[#「九〇頁」は「綏靖天皇以後八代」の「開化天皇」]の后妃皇子女に關する條參照。王女の數などが違うのは別の資料によるものであろう。
(二) 京都府相樂郡。
(三) 同乙訓郡。
[#5字下げ]〔時じくの香《かく》の木の實〕[#「〔時じくの香の木の實〕」は小見出し]
また天皇、三宅《みやけ》の連《むらじ》等が祖、名は多遲摩毛理《たぢまもり》(一)を、常世《とこよ》の國(二)に遣して、時じくの香《かく》の木《こ》の實《み》(三)を求めしめたまひき。かれ多遲摩毛理《たぢまもり》、遂にその國に到りて、その木の實を採りて、縵八縵矛八矛《かげやかげほこやほこ》(四)を、將《も》ち來つる間に、天皇既に崩《かむあが》りましき。ここに多遲摩毛理《たぢまもり》、縵四縵矛四矛《かげよかげほこよほこ》を分けて、大后に獻り、縵四縵矛四矛《かげよかげほこよほこ》を、天皇の御陵の戸に獻り置きて、その木の實を※[#「敬/手」、第3水準1-84-92]《ささ》げて、叫び哭《おら》びて白さく、「常世の國の時じくの香《かく》の木《こ》の實《み》を持ちまゐ上りて侍《さもら》ふ」とまをして遂に哭《おら》び死にき。その時じくの香《かく》の木の實は今の橘なり。
この天皇、御年|一百五十三歳《ももちまりいそぢみつ》、御陵は菅原《すがはら》の御立野《みたちの》(五)の中にあり。
またその大后《おほきさき》比婆須《ひばす》比賣の命の時、石祝作《いしきつくり》(六)を定め、また土師部《はにしべ》を定めたまひき。この后は狹木《さき》の寺間《てらま》の陵(七)に葬《をさ》めまつりき。
(一) 天の日矛の子孫。系譜は一三九頁[#「一三九頁」は「應神天皇」の「天の日矛」]にある。
(二) 海外の國。大陸における橘の原産地まで行つたのだろう。
(三) その時節でなく熟する香のよい木の實。
(四) カゲは蔓のように輪にしたもの。矛は、直線的なもの。どちらも苗木。
(五) 奈良縣生駒郡。
(六) 石棺を作る部族。
(七) 奈良縣生駒郡。
[#3字下げ]〔五、景行天皇・成務天皇〕[#「〔五、景行天皇・成務天皇〕」は中見出し]
[#5字下げ]〔后妃と皇子女〕[#「〔后妃と皇子女〕」は小見出し]
大帶日子淤斯呂和氣《おほたらしひこおしろわけ》の天皇(一)、纏向《まきむく》の日代《ひしろ》の宮(二)にましまして、天の下治らしめしき。この天皇、吉備《きび》の臣等の祖、若建吉備津日子《わかたけきびつひこ》が女、名は針間《はりま》の伊那毘《いなび》の大郎女《おほいらつめ》に娶ひて、生みませる御子、櫛角別《くしつのわけ》の王、次に大碓《おほうす》の命、次に小碓《をうす》の命(三)、またの名は倭男具那《やまとをぐな》の命、次に倭根子《やまとねこ》の命、次に神櫛《かむくし》の王五柱[#「五柱」は1段階小さな文字]。また八尺《やさか》の入日子《いりひこ》の命が女、八坂《やさか》の入日賣《いりひめ》の命に娶ひて、生みませる御子、若帶日子《わかたらしひこ》の命(四)、次に五百木《いほき》の入日子《いりひこ》の命、次に押別《おしわけ》の命、次に五百木《いほき》の入《いり》日賣の命、またの妾《みめ》の御子、豐戸別《とよとわけ》の王、次に沼代《ぬなしろ》の郎女《いらつめ》、またの妾《みめ》の御子、沼名木《ぬなき》の郎女《いらつめ》、次に香余理《かぐより》比賣の命、次に若木《わかき》の入日子《いりひこ》の王、次に吉備の兄日子《えひこ》の王、次に高木比賣の命、次に弟比賣《おとひめ》の命。また日向《ひむか》の美波迦斯毘賣《みはかしびめ》に娶ひて、生みませる御子、豐國別《とよくにわけ》の王。また伊那毘《いなび》の大郎女《おほいらつめ》の弟、伊那毘の若郎女《わかいらつめ》に娶ひて、生みませる御子、眞若《まわか》の王、次に日子人《ひこひと》の大兄《おほえ》の王。また倭建《やまとたける》の命の曾孫《みひひこ》(五)名は須賣伊呂大中《すめいろおほなか》つ日子《ひこ》の王が女、訶具漏《かぐろ》比賣に娶ひて生みませる御子、大枝《おほえ》の王。およそこの大帶日子《おほたらしひこ》の天皇の御子たち、録《しる》せるは廿一王《はたちまりひとはしら》、記さざる五十九王《いそぢまりここのはしら》、并はせて八十|王《はしら》います中に、若帶日子の命と倭建《やまとたける》の命、また五百木《いほき》の入日子《いりひこ》の命と、この三王《みはしら》は太子《ひつぎのみこ》(六)の名を負はし、それより餘《ほか》七十七王《ななまりななはしらのみこ》は、悉に國國の國の造、また別《わけ》、稻置《いなぎ》、縣主《あがたぬし》(七)に別け賜ひき。かれ若帶日子《わかたらしひこ》の命は、天の下治らしめしき。小碓《をうす》の命は、東西の荒ぶる神、また伏《まつろ》はぬ人どもを平《ことむ》けたまひき。次に櫛角別《くしつのわけ》の王は、茨田の下の連等が祖なり。次に大碓《おほうす》の命は守の君、太田の君、島田の君が祖なり。次に神櫛《かむくし》の王は、木の國の酒部の阿比古、宇陀の酒部が祖なり。次に豐國別《とよくにわけ》の王は、日向の國の造が祖なり。
ここに天皇、三野《みの》の國の造の祖、大根《おほね》の王(八)が女、名は兄比賣《えひめ》弟比賣《おとひめ》二孃子《ふたをとめ》、それ容姿麗美《かほよ》しときこしめし定めて、その御子|大碓《おほうす》の命を遣して、喚《め》し上げたまひき。かれその遣さえたる大碓の命、召し上げずて、すなはちおのれみづからその二孃子に婚ひて、更に他《あだ》し女《をみな》を求《ま》ぎて、その孃子と詐り名づけて貢上《たてまつ》りき。ここに天皇それ他《あだ》し女《をみな》なることを知らしめして、恆に長眼を經しめ(九)、また婚《あ》ひもせずて、惚《たしな》めたまひき。かれその大碓《おほうす》の命、兄比賣《えひめ》に娶ひて生みませる子、押黒《おしくろ》の兄日子の王。こは三野の宇泥須和氣が祖なり。また弟比賣に娶ひて生みませる子、押黒の弟日子の王。こは牟宜都の君等が祖なり。この御世に田部《たべ》を定め、また東《あづま》の淡《あは》の水門《みなと》(一〇)を定め、また膳《かしはで》の大伴部《おほともべ》を定め、また倭《やまと》の屯家《みやけ》(一一)を定めたまひ、また坂手《さかて》の池(一二)を作りて、すなはちその堤に竹を植ゑしめたまひき。
(一) 景行天皇。
(二) 奈良縣磯城郡。
(三) ヤマトタケルの命。日本書紀に、父の天皇が皇子の誕生に當つて、石臼の上で躍つて喜んだから大碓の命、小碓の命というとある。
(四) 成務天皇。
(五) 皇子の曾孫の子だから、天皇の孫の孫の子に當りそれを妃としたというのは時間的に不可能である。ある氏の傳えをそのまま取り入れたものだろう。
(六) 後世のように皇太子を立てることは無かつたが、有力な后妃の生んだ皇子が次に帝位に昇るべき方として豫想されたのである。ヒツギのミコは、繼嗣の皇子の義。
(七) いずれも古代の地方官で世襲である。
(八) 開化天皇の孫。
(九) 長く見て居させる。待ちぼうけさせる。
(一〇) 神奈川縣から千葉縣安房郡に渡る水路。
(一一) 大和の國の租税收納所。
(一二) 奈良縣磯城郡。
[#5字下げ]〔倭建の命の西征〕[#「〔倭建の命の西征〕」は小見出し]
天皇、小碓《をうす》の命に詔りたまはく、「何とかも汝《みまし》の兄《いろせ》、朝《あした》夕《ゆふべ》の大御食《おほみけ》にまゐ出來《でこ》ざる。もはら汝《みまし》ねぎ(一)教へ覺せ」と詔りたまひき。かく詔りたまひて後、五日に至るまでに、なほまゐ出でず。ここに天皇、小碓の命に問ひたまはく、「何ぞ汝の兄久しくまゐ出來ざる。もしいまだ誨《をし》へずありや」と問ひたまひしかば、答へて白さく、「既にねぎつ」とまをしたまひき。また「いかにかねぎつる(二)」と詔りたまひしかば、答へて白さく、「朝署《あさけ》(三)に厠に入りし時、待ち捕へ※[#「てへん+縊のつくり」、108-本文-1]《つか》み批《ひし》ぎて、その枝(四)を引き闕《か》きて、薦《こも》につつみて投げ棄《う》てつ」とまをしたまひき。
ここに天皇、その御子の建く荒き情を惶《かしこ》みて、詔りたまひしく、「西の方に熊曾建《くまそたける》二人(五)あり。これ伏《まつろ》はず、禮旡《ゐやな》き人どもなり。かれその人どもを取れ」とのりたまひて、遣したまひき。この時に當りて、その御髮《みかみ》を額《ぬか》に結はせり(六)。ここに小碓《をうす》の命、その姨《みをば》倭比賣《やまとひめ》の命(七)の御衣《みそ》御裳《みも》を給はり、劒《たち》を御懷《ふところ》に納《い》れていでましき。かれ熊曾建《くまそたける》が家に到りて見たまへば、その家の邊に、軍《いくさ》三重に圍み、室を作りて居たり。ここに御室樂《みむろうたげ》(八)せむと言ひ動《とよ》みて、食《をし》物を設《ま》け備へたり。かれその傍《あたり》を遊行《ある》きて、その樂《うたげ》する日を待ちたまひき。ここにその樂の日になりて、童女《をとめ》の髮のごとその結はせる髮を梳《けづ》り垂れ、その姨《みをば》の御衣《みそ》御裳《みも》を服《け》して、既に童女の姿になりて、女人《をみな》の中に交り立ちて、その室内《むろぬち》に入ります。ここに熊曾建《くまそたける》兄弟二人、その孃子を見|感《め》でて、おのが中に坐《ま》せて、盛に樂《うた》げつ。かれその酣《たけなは》なる時になりて、御懷より劒を出だし、熊曾《くまそ》が衣の矜《くび》[#「矜」は底本のまま](九)を取りて、劒もちてその胸より刺し通したまふ時に、その弟《おと》建《たける》見畏みて逃げ出でき。すなはちその室の椅《はし》(一〇)の本に追ひ至りて、背の皮を取り劒を尻より刺し通したまひき。ここにその熊曾建白して曰さく、「その刀をな動かしたまひそ。僕《やつこ》白すべきことあり」とまをす。ここに暫《しまし》許して押し伏せつ。ここに白して言さく、「汝《な》が命は誰そ」と白ししかば、「吾《あ》は纏向《まきむく》の日代《ひしろ》の宮にましまして、大八島國《おほやしまぐに》知《し》らしめす、大帶日子淤斯呂和氣《おほたらしひこおしろわけ》の天皇の御子、名は倭男具那《やまとをぐな》の王なり。おれ熊曾建二人、伏《まつろ》はず、禮《ゐや》なしと聞こしめして、おれを取り殺《と》れと詔りたまひて、遣せり」とのりたまひき。ここにその熊曾建白さく、「信に然《しか》らむ。西の方に吾二人を除《お》きては、建《たけ》く強《こは》き人無し。然れども大倭《おほやまと》の國に、吾二人にまして建《たけ》き男は坐《いま》しけり。ここを以ちて吾、御名を獻らむ。今よ後(一一)、倭建《やまとたける》の御子(一二)と稱へまをさむ」とまをしき。この事|白《まを》し訖へつれば、すなはち熟※[#「くさかんむり/瓜」、第3水準1-90-73]《ほぞち》のごと(一三)、振り拆《さ》きて殺したまひき。かれその時より御名を稱へて、倭建《やまとたける》の命とまをす。然ありて還り上ります時に、山の神河の神また穴戸《あなど》の神(一四)をみな言向け和《やは》(一五)してまゐ上りたまひき。
(一) なだめ乞う。
(二) どんなふうになだめ乞うたのか。
(三) 朝早く。
(四) 手足。
(五) クマソは地名で、クマの地(熊本縣)とソの地(鹿兒島縣)とを合わせ稱する。タケルは勇者の義。物語では兄弟二人となつている。
(六) 男子少年の風俗。
(七) 父の妹に當る。
(八) 新築を祝う酒宴。
(九) 衣服の襟。
(一〇) 庭上におりる階段。
(一一) 今から後。ヨは助詞。ユ、ヨリに同じ。
(一二) 日本書紀には、日本武の尊と書く。
(一三) 熟した瓜のように。
(一四) 海峽の神。
(一五) 平定しおだやかにして。
[#5字下げ]〔出雲建《いづもたける》〕[#「〔出雲建〕」は小見出し]
すなはち出雲の國に入りまして(一)、その出雲《いづも》の國の建《たける》を殺《と》らむとおもほして、到りまして、すなはち結交《うるはしみ》したまひき。かれ竊に赤檮《いちひのき》もちて、詐刀《こだち》(二)を作りて、御|佩《はか》しとして、共に肥の河に沐《かはあみ》しき。ここに倭建《やまとたける》の命、河よりまづ上《あが》りまして、出雲建《いづもたける》が解き置ける横刀《たち》を取り佩かして、「易刀《たちかへ》せむ」と詔りたまひき。かれ後に出雲建河より上りて、倭建の命の詐刀《こだち》を佩きき。ここに倭建の命「いざ刀合《たちあ》はせむ」と誂《あとら》へたまふ。かれおのもおのもその刀を拔く時に、出雲建、詐刀《こだち》をえ拔かず、すなはち倭建の命、その刀を拔きて、出雲建を打ち殺したまひき。ここに御歌よみしたまひしく、
[#ここから2字下げ]
やつめさす(三) 出雲建《いづもたける》が 佩ける刀《たち》、
黒葛《つづら》多《さは》纏《ま》き(四) さ身《み》無しにあはれ(五)。 (歌謠番號二四)
[#ここで字下げ終わり]
かれかく撥《はら》ひ治めて、まゐ上りて、覆奏《かへりごと》まをしたまひき。
(一) この物語は日本書紀には出雲振根がその弟飯入根を殺した話になつている。
(二) にせの刀。木刀。
(三) 枕詞。八雲立つの轉訛。日本書紀にはヤクモタツになつている。
(四) 柄や鞘に植物の蔓を澤山卷いてある。
(五) 刀身が無いことだ。アハレは感動を表示している。
[#5字下げ]〔倭建の命の東征〕[#「〔倭建の命の東征〕」は小見出し]
ここに天皇、また頻《し》きて倭建《やまとたける》の命に、「東の方|十二道《とをまりふたみち》(一)の荒ぶる神、また伏《まつろ》はぬ人どもを、言向け和《やは》せ」と詔りたまひて、吉備《きび》の臣《おみ》等が祖、名は御※[#「金+且」、第3水準1-93-12]友耳建日子《みすきともみみたけひこ》を副へて遣す時に、比比羅木《ひひらぎ》の八尋矛《やひろぼこ》(二)を給ひき。かれ命を受けたまはりて、罷り行《い》でます時に、伊勢の大御神の宮に參りて、神の朝廷《みかど》(三)を拜みたまひき。すなはちその姨《みをば》倭《やまと》比賣の命に白したまひしくは、「天皇既に吾を死ねと思ほせか、何ぞ、西の方の惡《あら》ぶる人《ひと》どもを撃《と》りに遣して、返りまゐ上り來し間《ほど》、幾時《いくだ》もあらねば、軍衆《いくさびとども》をも賜はずて、今更に東の方の十二道の惡ぶる人どもを平《ことむ》けに遣す。これに因りて思へばなほ吾を既に死ねと思ほしめすなり」とまをして、患へ泣きて罷りたまふ時に、倭比賣の命、草薙《くさなぎ》の劒《たち》を賜ひ、また御嚢《みふくろ》を賜ひて、「もし急《とみ》の事あらば、この嚢《ふくろ》の口を解きたまへ」と詔りたまひき。
かれ尾張の國に到りまして、尾張の國の造が祖、美夜受《みやず》比賣の家に入りたまひき。すなはち婚《あ》はむと思ほししかども、また還り上りなむ時に婚はむと思ほして、期《ちぎ》り定めて、東の國に幸でまして、山河の荒ぶる神又は伏はぬ人どもを、悉に平《ことむ》け和《やは》したまひき。かれここに相武《さがむ》の國(四)に到ります時に、その國の造、詐《いつは》りて白さく、「この野の中に大きなる沼あり。この沼の中に住める神、いとちはやぶる神(五)なり」とまをしき。ここにその神を看そなはしに、その野に入りましき。ここにその國の造、その野に火著けたり。かれ欺かえぬと知らしめして、その姨《みをば》倭比賣の命の給へる嚢《ふくろ》の口を解き開けて見たまへば、その裏《うち》に火打あり。ここにまづその御刀《みはかし》もちて、草を苅り撥《はら》ひ、その火打もちて火を打ち出で、向火《むかへび》を著けて(六)燒き退《そ》けて、還り出でまして、その國の造どもを皆切り滅し、すなはち火著けて、燒きたまひき。かれ今に燒遣《やきづ》(七)といふ。
そこより入り幸《い》でまして、走水《はしりみづ》の海(八)を渡ります時に、その渡の神、浪を興《た》てて、御船を※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]《もとほ》して、え進み渡りまさざりき。ここにその后名は弟橘《おとたちばな》比賣の命(九)の白したまはく、「妾、御子に易《かは》りて海に入らむ。御子は遣さえし政遂げて、覆奏《かへりごと》まをしたまはね」とまをして、海に入らむとする時に、菅疊《すがだたみ》八重《やへ》、皮疊《かはだたみ》八重《やへ》、※[#「糸+施のつくり」、第3水準1-90-1]疊《きぬだたみ》八重《やへ》を波の上に敷きて(一〇)、その上に下りましき(一一)。ここにその暴《あら》き浪おのづから伏《な》ぎて、御船え進みき。ここにその后の歌よみしたまひしく、
[#ここから2字下げ]
さねさし(一二) 相摸《さがむ》の小野《をの》に
燃ゆる火の 火《ほ》中に立ちて、
問ひし君はも。 (歌謠番號二五)
[#ここで字下げ終わり]
かれ七日《なぬか》の後に、その后の御櫛《みぐし》海邊《うみべた》に依りき。すなはちその櫛を取りて、御陵《みはか》を作りて治め置きき(一三)。
そこより入り幸《い》でまして、悉に荒ぶる蝦夷《えみし》ども(一四)を言向け、また山河の荒ぶる神どもを平け和して、還り上りいでます時に、足柄《あしがら》の坂|下《もと》に到りまして、御|粮《かれひ》聞《きこ》し食《め》す處に、その坂の神、白き鹿《か》になりて來立ちき。ここにすなはちその咋《を》し遺《のこ》りの蒜《ひる》の片端もちて、待ち打ちたまへば、その目に中《あた》りて、打ち殺しつ。かれその坂に登り立ちて、三たび歎かして詔りたまひしく、「吾嬬《あづま》はや」と詔りたまひき。かれその國に名づけて阿豆麻《あづま》といふなり。
すなはちその國より越えて、甲斐に出でて、酒折《さかをり》(一五)の宮にまします時に歌よみしたまひしく、
[#ここから2字下げ]
新治《にひばり》 筑波《つくは》(一六)を過ぎて、幾夜か宿《ね》つる。 (歌謠番號二六)
[#ここで字下げ終わり]
ここにその御火燒《みひたき》の老人《おきな》、御歌に續ぎて歌よみして曰ひしく、
[#ここから2字下げ]
かがなべて(一七) 夜には九夜《ここのよ》 日には十日を。 (歌謠番號二七)
[#ここで字下げ終わり]
と歌ひき。ここを以ちてその老人を譽めて、すなはち東《あづま》の國《くに》の造《みやつこ》(一八)を給ひき。
その國より科野《しなの》の國(一九)に越えまして、科野の坂(二〇)の神を言向けて、尾張の國に還り來まして、先の日に期《ちぎ》りおかしし美夜受《みやず》比賣のもとに入りましき。ここに大御食《おほみけ》獻る時に、その美夜受《みやず》比賣、大御|酒盞《さかづき》を捧げて獻りき。ここに美夜受《みやず》比賣、その襲《おすひ》(二一)の襴《すそ》に月經《さはりのもの》著きたり。かれその月經を見そなはして、御歌よみしたまひしく、
[#ここから2字下げ]
ひさかたの(二二) 天《あめ》の香山《かぐやま》
利鎌《とかま》(二三)に さ渡る鵠《くび》(二四)、
弱細《ひはぼそ》(二五) 手弱《たわや》腕《かひな》を
枕《ま》かむとは 吾《あれ》はすれど、
さ寢《ね》むとは 吾《あれ》は思《おも》へど、
汝《な》が著《け》せる 襲《おすひ》の襴《すそ》に
月立ちにけり。 (歌謠番號二八)
[#ここで字下げ終わり]
ここに美夜受《みやず》比賣、御歌に答へて歌よみして曰ひしく、
[#ここから2字下げ]
高光る 日の御子
やすみしし 吾《わ》が大君(二六)、
あら玉の(二七) 年が來經《きふ》れば、
あら玉の 月は來經往《きへゆ》く。
うべなうべな(二八) 君待ちがたに(二九)、
吾《わ》が著《け》せる 襲《おすひ》の裾《すそ》に
月立たなむよ(三十)。 (歌謠番號二九)
[#ここで字下げ終わり]
かれここに御合ひしたまひて、その御刀《みはかし》の草薙の劒《たち》を、その美夜受《みやず》比賣のもとに置きて、伊服岐《いぶき》の山(三一)の神を取りに幸でましき。
(一) 九四頁[#「九四頁」は「崇神天皇」の「將軍の派遣」]脚註參照。
(二) ヒイラギの木の柄の長い桙。ヒイラギは葉の縁にトゲがあり魔物に對して威力があるとされる。
(三) 神が諸事を執り行われる所の意。
(四) 相模の國に同じ。神奈川縣の一部。
(五) 暴威を振う神。
(六) こちらから火をつけて向うへ燒く。野火に逢つた時には手元からも火をつけて先に野を燒いてしまつて難を免れる方法である。
(七) 燒津とする傳えもある。靜岡縣の燒津町がその傳説地であるが、相武の國の事としているので問題が殘る。
(八) 浦賀水道から千葉縣に渡ろうとした。
(九) 日本書紀に穗積氏の女とする。
(一〇) 波の上に多くの敷物を敷いて。
(一一) 海上で風波の難にあうのは、その海の神が船中の人または物の類を欲するからで、その神の欲するものを海に入れれば風波がしずまるとする思想がある。そこで姫が皇子に代つて海に入つて風波をしずめたのである。
(一二) 枕詞。嶺が立つている義だろうとする。嶺は靜岡縣とすれば富士山、神奈川縣とすれば大山である。
(一三) 所在不明。浦賀市走水に走水神社があつて、倭建の命と弟橘姫とを祭る。
(一四) アイヌ族をいう。
(一五) 山梨縣西山梨郡。
(一六) 共に茨城縣の地名。
(一七) 日を並べて。
(一八) 東方の國の長官。實際上はそのような廣大な土地の國の造を置かない。
(一九) 信濃の國。今の長野縣。
(二〇) 長野縣の伊那から岐阜縣の惠那に通ずる山路。木曾路は奈良時代になつて開通された。
(二一) 四四頁[#「四四頁」は「大國主の神」の「八千矛の神の歌物語」]脚註參照。
(二二) 枕詞。語義不明。日のさす方か。
(二三) 鵠の渡る線の形容か。
(二四) クビは、クグヒに同じ。コヒ、コフともいう。白鳥。但し杙の義とする説もある。以上、たわや腕の譬喩。
(二五) よわよわとして細い。修飾句。
(二六) 以上、天皇または皇子をたたえる。光りかがやく太陽のような御子、天下を知ろしめすわが大君。ヤスミシシ、語義不明。
(二七) 枕詞。みがかない玉の意。ト(磨ぐ)に冠する。月に冠するのは轉用。
(二八) ほんとにとうなずく意の語。底本にウベナウベナウベナとする。
(二九) カタニは、不能の意の助動詞。萬葉集に多くカテニの形を取り、ここはその原形。
(三十) 當然そうなるだろうの語意と見られる。この語形は、普通願望の意を表示するに使用されるのに、ここに願望になつていないのは特例とされる。ヨは間投の助詞。
(三一) 滋賀縣と岐阜縣との堺にある高山。
[#5字下げ]〔思國歌《くにしのひうた》〕[#「〔思國歌〕」は小見出し]
ここに詔りたまひしく、「この山の神は徒手《むなで》に直《ただ》に取りてむ(一)」とのりたまひて、その山に騰《のぼ》りたまふ時に、山の邊に白猪逢へり。その大きさ牛の如くなり。ここに言擧して(二)詔りたまひしく、「この白猪になれるは、その神の使者《つかひ》にあらむ。今|殺《と》らずとも、還らむ時に殺《と》りて還りなむ」とのりたまひて騰りたまひき。ここに大氷雨《おほひさめ》を零《ふ》らして、倭建の命を打ち惑はしまつりき。[#割り注]この白猪に化れるは、その神の使者にはあらずて、その神の正身なりしを、言擧したまへるによりて、惑はさえつるなり。[#割り注終わり]かれ還り下りまして、玉倉部《たまくらべ》の清泉《しみづ》(三)に到りて、息ひます時に、御心やや寤《さ》めたまひき。かれその清泉《しみづ》に名づけて居寤《ゐさめ》の清泉《しみづ》といふ。
其處《そこ》より發《た》たして、當藝《たぎ》の野《の》(四)の上に到ります時に、詔りたまはくは、「吾が心、恆は虚《そら》よ翔《かけ》り行かむと念ひつるを(五)、今吾が足え歩かず、たぎたぎしく(六)なりぬ」とのりたまひき。かれ其地《そこ》に名づけて當藝《たぎ》といふ。其地《そこ》よりややすこし幸でますに、いたく疲れませるに因りて、御杖を衝《つ》かして、ややに歩みたまひき。かれ其地《そこ》に名づけて杖衝坂《つゑつきざか》(七)といふ。尾津の前《さき》(八)の一つ松のもとに到りまししに、先に、御食《みをし》せし時、其地《そこ》に忘らしたりし御刀《みはかし》、失《う》せずてなほありけり。ここに御歌よみしたまひしく、
[#ここから2字下げ]
尾張に 直《ただ》に向へる(九)
尾津の埼なる 一つ松、吾兄《あせ》を(一〇)。
一つ松 人にありせば、
大刀|佩《は》けましを 衣《きぬ》着せましを。
一つ松、吾兄を。 (歌謠番號三〇)
[#ここで字下げ終わり]
其地より幸でまして、三重の村(一一)に到ります時に、また詔りたまはく、「吾が足三重の勾《まがり》(一二)なして、いたく疲れたり」とのりたまひき。かれ其地に名づけて三重といふ。
そこより幸でまして、能煩野《のぼの》(一三)に到ります時に、國|思《しの》はして歌よみしたまひしく、
[#ここから2字下げ]
倭《やまと》は 國のまほろば(一四)、
たたなづく 青垣(一五)、
山|隱《ごも》れる 倭し 美《うるは》し。 (歌謠番號三一)
[#ここで字下げ終わり]
また、歌よみしたまひしく、
[#ここから2字下げ]
命の 全《また》けむ人は、
疊薦《たたみこも》(一六) 平群《へぐり》の山(一七)の
熊白檮《くまかし》が葉を
髻華《うず》に插せ(一八)。その子。 (歌謠番號三二)
[#ここで字下げ終わり]
この歌は思國歌《くにしのひうた》(一九)なり。また歌よみしたまひしく、
[#ここから2字下げ]
はしけやし(二〇) 吾家《わぎへ》の方よ(二一) 雲居起ち來も。 (歌謠番號三三)
[#ここで字下げ終わり]
こは片歌(二二)なり。この時御病いと急《にはか》になりぬ。ここに御歌よみしたまひしく、
[#ここから2字下げ]
孃子《をとめ》の 床の邊《べ》に
吾《わ》が置きし つるぎの大刀(二三)、
その大刀はや。 (歌謠番號三四)
[#ここで字下げ終わり]
と歌ひ竟《を》へて、すなはち崩《かむあが》りたまひき。ここに驛使《はゆまづかひ》を上《たてまつ》りき。
(一) 退治しよう。
(二) 言い立てをして。
(三) 滋賀縣坂田郡の醒が井はその傳説地。
(四) 岐阜縣養老郡。
(五) 空中を飛んで行こうと思つたが。
(六) びつこを引く形容。高かつたり低かつたりするさま。
(七) 三重縣三重郡。
(八) 三重縣桑名郡。サキは、海上陸上に限らず突出した地形をいう。ここは陸上。
(九) じかに對している。
(一〇) 「あなたよ」という意の語で、歌詞を歌う時のはやしである。日本書紀には、アハレになつている。
(一一) 三重縣三重郡。
(一二) 餅米をこねて、ねじまげて作つた餅。
(一三) 三重縣鈴鹿郡。
(一四) もつともすぐれたところ。マは接頭語。ロバは接尾語。日本書紀にマホラマ。
(一五) 重なり合つている青い垣。山のこと。
(一六) 枕詞。敷物にしたコモ(草の名)。ヘ(隔)に冠する。
(一七) 奈良縣生駒郡。
(一八) 美しい白檮の木の葉を頭髮にさせ。ウズは髮にさす飾。もと魔よけの信仰のためにさすもの。
(一九) 歌曲としての名。
(二〇) 愛すべき。愛しきに、助詞ヤシの接續したもの。ハシキヨシ、ハシキヤシともいう。
(二一) わが家の方から。
(二二) 五音七音七音の三句の歌の稱。以上三首、日本書紀に景行天皇の御歌とする。
(二三) 普通ツルギは兩刃、タチは片刃の武器をいうが、嚴密な區別ではない。
[#5字下げ]〔白鳥の陵〕[#「〔白鳥の陵〕」は小見出し]
ここに倭《やまと》にます后たち、また御子たちもろもろ下りきまして、御陵(一)を作りき。すなはち其地《そこ》のなづき田(二)に匍匐《はらば》ひ※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]《もとほ》りて、哭《みねなか》しつつ歌よみしたまひしく、
[#ここから2字下げ]
なづきの 田の稻幹《いながら》に、
稻幹《いながら》に 蔓《は》ひもとほろふ ※[#「くさかんむり/解」、第3水準1-91-31]葛《ところづら》(三)。 (歌謠番號三五)
[#ここで字下げ終わり]
ここに八尋|白智鳥《しろちどり》(四)になりて、天翔《あまがけ》りて、濱に向きて飛びいでます。ここにその后たち御子たち、その小竹《しの》の苅杙《かりばね》(五)に、足切り破るれども、その痛みをも忘れて、哭きつつ追ひいでましき。この時、歌よみしたまひしく、
[#ここから2字下げ]
淺小竹原《あさじのはら》 腰《こし》なづむ(六)。
虚空《そら》は行かず、足よ行くな(七)。 (歌謠番號三六)
[#ここで字下げ終わり]
またその海水《うしほ》に入りて、なづみ行《い》でます時、歌よみしたまひしく、
[#ここから2字下げ]
海が行けば 腰なづむ。
大河原の 植草《うゑぐさ》、
海がは いさよふ(八)。 (歌謠番號三七)
[#ここで字下げ終わり]
また飛びてその磯に居たまふ時、歌よみしたまひしく、
[#ここから2字下げ]
濱つ千鳥 濱よ行かず(九) 磯傳ふ。 (歌謠番號三八)
[#ここで字下げ終わり]
この四歌は、みなその御葬《みはふり》に歌ひき。かれ今に至るまで、その歌は天皇の大御葬《おほみはふり》に歌ふなり。かれその國より飛び翔り行でまして、河内の國の志幾《しき》(一〇)に留まりたまひき。かれ其地《そこ》に御陵を作りて、鎭まりまさしめき。すなはちその御陵に名づけて白鳥の御陵といふ。然れどもまた其地より更に天翔りて飛び行でましき。およそこの倭建の命、國|平《む》けに※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]り行《い》でましし時、久米《くめ》の直《あたへ》が祖、名は七|拳脛《つかはぎ》、恆《つね》に膳夫《かしはで》として御伴仕へまつりき。
(一) 能褒野の御陵。
(二) 御陵の周圍の田。
(三) 山の芋科の蔓草の蔓。譬喩で這いまつわる状を描く。
(四) 大きな白鳥。倭建の命の神靈が化したものとする。
(五) 小竹の刈つたあと。
(六) 腰が難澁する。
(七) 徒歩で行くよ。ナは感動の助詞。
(八) ためらう。
(九) 濱からは行かないで。
(一〇) 大阪府南河内郡。
[#5字下げ]〔倭建の命の系譜〕[#「〔倭建の命の系譜〕」は小見出し]
この倭建の命、伊玖米《いくめ》の天皇(一)が女、布多遲《ふたぢ》の伊理毘賣《いりびめ》の命に娶ひて生みませる御子《みこ》帶中津日子《たらしなかつひこ》の命(二)一柱[#「一柱」は1段階小さな文字]。またその海に入りましし弟橘《おとたちばな》比賣の命(三)に娶ひて生みませる御子、若建《わかたける》の王一柱[#「一柱」は1段階小さな文字]。また近《ちか》つ淡海《あふみ》の安《やす》の國の造の祖、意富多牟和氣《おほたむわけ》が女、布多遲《ふたぢ》比賣に娶ひて、生みませる御子、稻依別《いなよりわけ》の王一柱[#「一柱」は1段階小さな文字]。また吉備《きび》の臣|建日子《たけひこ》が妹、大吉備《おほきび》の建《たけ》比賣に娶ひて、生みませる御子、建貝兒《たけかひこ》の王一柱[#「一柱」は1段階小さな文字]。また山代の玖玖麻毛理《くくまもり》比賣に娶ひて生みませる御子、足鏡別《あしかがみわけ》の王一柱[#「一柱」は1段階小さな文字]。またある妾《みめ》の子《みこ》、息長田別《おきながたわけ》の王。およそこの倭建の命の御子たち、并はせて六柱。かれ帶中津日子《たらしなかつひこ》の命は、天の下治らしめしき。次に稻依別の王は、犬上の君、建部の君等が祖なり。次に建貝兒の王は、讚岐の綾の君、伊勢の別、登袁の別、麻佐の首、宮の首の別等が祖なり。足鏡別の王は鎌倉の別、小津の石代の別、漁田《すなきだ》の別が祖なり。次に息長田別《おきながたわけ》の王の子《みこ》、杙俣長日子《くひまたながひこ》の王。この王の子、飯野《いひの》の眞黒《まぐろ》比賣の命、次に息長眞若中《おきながまわかなか》つ比賣、次に弟比賣《おとひめ》三柱[#「三柱」は1段階小さな文字]。かれ上にいへる若建の王、飯野の眞黒比賣に娶ひて生みませる子、須賣伊呂大中《すめいろおほなか》つ日子《ひこ》の王。この王、淡海《あふみ》の柴野入杵《しばのいりき》が女、柴野比賣に娶ひて生みませる子、迦具漏《かぐろ》比賣の命。かれ大帶日子《おほたらしひこ》の天皇、この迦具漏比賣の命に娶ひて生みませる子、大江《おほえ》の王一柱[#「一柱」は1段階小さな文字]。この王、庶妹《ままいも》銀《しろがね》の王に娶ひて生みませる子、大名方《おほながた》の王、次に大中《おほなか》つ比賣の命二柱[#「二柱」は1段階小さな文字]。かれこの大中《おほなか》つ比賣の命は、香坂《かごさか》の王、忍熊《おしくま》の王の御祖なり。
この大帶日子《おほたらしひこ》の天皇の御年、一百三十七歳《ももちまりみそななつ》、御陵は山の邊の道の上(四)にあり。
(一) 垂仁天皇。
(二) 仲哀天皇。
(三) この事、一一一頁[#「一一一頁」は「景行天皇・成務天皇」の「倭建の命の東征」]に出ている。
(四) 奈良縣磯城郡。
[#5字下げ]〔成務天皇〕[#「〔成務天皇〕」は小見出し]
若帶日子《わかたらしひこ》の天皇(一)、近つ淡海《あふみ》の志賀《しが》の高穴|穗《ほ》の宮(二)にましまして、天の下治らしめしき。この天皇、穗積《ほづみ》の臣等の祖、建忍山垂根《たけおしやまたりね》が女、名は弟財《おとたから》の郎女《いらつめ》に娶ひて、生みませる御子|和訶奴氣《わかぬけ》の王。かれ建内の宿禰を大臣《おほおみ》(三)として、大國小國(四)の國の造を定めたまひ、また國國の堺、また大縣小縣(五)の縣主を定めたまひき。
天皇、御年|九十五歳《ここのそぢまりいつつ》[#割り注]乙卯の年三月十五日崩りたまひき。[#割り注終わり]御陵は、沙紀《さき》の多他那美《たたなみ》(六)にあり。
(一) 成務天皇。
(二) 滋賀縣滋賀郡。
(三) 宮廷の臣中の最高の位置。この後、建内の宿禰の子孫がこれに任ぜられた。
(四) 諸國の意。
(五) クニよりはアガタの方が小さい。
(六) 奈良縣生駒郡。
[#3字下げ]〔六、仲哀天皇〕[#「〔六、仲哀天皇〕」は中見出し]
[#5字下げ]〔后妃と皇子女〕[#「〔后妃と皇子女〕」は小見出し]
帶中《たらしなか》つ日子《ひこ》の天皇(一)、穴門《あなと》の豐浦《とよら》の宮(二)また筑紫《つくし》の訶志比《かしひ》の宮(三)にましまして、天の下治らしめしき。この天皇、大江《おほえ》の王が女、大中津《おほなかつ》比賣の命に娶ひて、生みませる御子、香坂《かごさか》の王、忍熊《おしくま》の王二柱[#「二柱」は1段階小さな文字]。また息長帶《おきながたらし》比賣の命(四)に娶ひたまひき。この太后の生みませる御子、品夜和氣《ほむやわけ》の命、次に大鞆和氣《おほともわけ》の命、またの名は品陀和氣《ほむだわけ》の命二柱[#「二柱」は1段階小さな文字]。この太子《ひつぎのみこ》の御名、大鞆和氣《おほともわけ》の命と負はせる所以《ゆゑ》は、初め生れましし時に、鞆(五)なす宍《しし》、御腕《みただむき》に生ひき。かれその御名に著けまつりき。ここを以ちて腹|中《ぬち》にましまして國知らしめしき。この御世に、淡道《あはぢ》の屯家《みやけ》を定めたまひき。
(一) 仲哀天皇。
(二) 山口縣豐浦郡。
(三) 福岡縣糟屋郡香椎町。
(四) 神功皇后。開化天皇の系統。九〇頁[#「九〇頁」は「綏靖天皇以後八代」の「開化天皇」]參照。母系の系譜は一三九頁[#「一三九頁」は「應神天皇」の「天の日矛」]にある。
(五) 獸皮で球形に作り左の手につける。
[#5字下げ]〔神功皇后〕[#「〔神功皇后〕」は小見出し]
その太后息長帶日賣の命は、當時《そのかみ》神|歸《よ》せ(一)したまひき。かれ天皇筑紫の訶志比《かしひ》の宮にましまして熊曾の國を撃たむとしたまふ時に、天皇御琴を控《ひ》かして、建内の宿禰の大臣|沙庭《さには》(二)に居て、神の命を請ひまつりき。ここに太后、神|歸《よ》せして、言教へ覺《さと》し詔りたまひつらくは、「西の方に國あり。金《くがね》銀《しろがね》をはじめて、目耀《まかがや》く種種《くさぐさ》の珍寶《うづたから》その國に多《さは》なるを、吾《あれ》今その國を歸《よ》せたまはむ」と詔りたまひつ。ここに天皇、答へ白したまはく、「高き地《ところ》に登りて西の方を見れば、國は見えず、ただ大海のみあり」と白して、詐《いつは》りせす神と思ほして、御琴を押し退《そ》けて、控きたまはず、默《もだ》いましき。ここにその神いたく忿りて、詔りたまはく、「およそこの天の下は、汝の知らすべき國にあらず、汝は一道に向ひたまへ(三)」と詔りたまひき。ここに建内の宿禰の大臣白さく、「恐《かしこ》し、我が天皇《おほきみ》。なほその大御琴あそばせ」とまをす。ここにややにその御琴を取り依せて、なまなまに控きいます。かれ、幾時《いくだ》もあらずて、御琴の音聞えずなりぬ。すなはち火を擧げて見まつれば、既に崩《かむあが》りたまひつ。
ここに驚き懼《かしこ》みて、殯《あらき》の宮(四)にませまつりて、更に國の大幣《おほぬさ》を取りて(五)、生剥《いきはぎ》、逆剥《さかはぎ》、阿離《あはなち》、溝埋《みぞうみ》、屎戸《くそへ》、上通下通婚《おやこたはけ》、馬婚《うまたはけ》、牛婚《うしたはけ》、鷄婚《とりたはけ》、犬婚《いぬたはけ》の罪の類を種種《くさぐさ》求(六)ぎて、國の大|祓《はらへ》(七)して、また建内の宿禰|沙庭《さには》に居て、神の命《みこと》を請ひまつりき。ここに教へ覺したまふ状、つぶさに先《さき》の日の如くありて、「およそこの國は、汝命《いましみこと》の御腹にます御子の知らさむ國なり」とのりたまひき。
ここに建内の宿禰白さく、「恐し、我が大神、その神の御腹にます御子は何の御子ぞも」とまをせば、答へて詔りたまはく、「男子《をのこ》なり」と詔りたまひき。ここにつぶさに請ひまつらく、「今かく言教へたまふ大神は、その御名を知らまくほし」とまをししかば、答へ詔りたまはく、「こは天照らす大神の御心なり。また底筒《そこつつ》の男《を》、中筒《なかつつ》の男《を》、上筒《うはつつ》の男《を》三柱の大神(八)なり。[#割り注]この時にその三柱の大神の御名は顯したまへり。[#割り注終わり]今まことにその國を求めむと思ほさば、天《あま》つ神《かみ》地《くに》つ祇《かみ》、また山の神海河の神たちまでに悉に幣帛《ぬさ》奉り、我が御魂を御船の上にませて、眞木《まき》の灰を瓠《ひさご》に納(九)れ、また箸と葉盤《ひらで》(一〇)とを多《さは》に作りて、皆皆大海に散らし浮けて、度《わた》りますべし」とのりたまひき。
かれつぶさに教へ覺したまへる如くに、軍《いくさ》を整へ、船|雙《な》めて、度りいでます時に、海原の魚ども、大きも小きも、悉に御船を負ひて渡りき。ここに順風《おひかぜ》いたく起り、御船浪のまにまにゆきつ。かれその御船の波、新羅《しらぎ》の國(一一)に押し騰《あが》りて、既に國|半《なから》まで到りき。ここにその國主《こにきし》(一二)、畏《お》ぢ惶《かしこ》みて奏《まを》して言《まを》さく、「今よ後、天皇《おほきみ》の命のまにまに、御馬甘《みまかひ》として、年の毎《は》に船|雙《な》めて船腹|乾《ほ》さず、※[#「木+施のつくり」、122-本文-8]※[#「楫+戈」、第3水準1-86-21]《さをかぢ》乾さず、天地のむた、退《しぞ》きなく仕へまつらむ」とまをしき。かれここを以ちて、新羅《しらぎ》の國をば、御馬甘《みまかひ》と定めたまひ、百濟《くだら》の國(一三)をば、渡《わた》の屯家《みやけ》(一四)と定めたまひき。ここにその御杖を新羅《しらぎ》の國主《こにきし》の門《かなと》に衝き立てたまひ、すなはち墨江《すみのえ》の大神の荒御魂《あらみたま》(一五)を、國守ります神と祭り鎭めて還り渡りたまひき。
(一) 神靈をよせて教を受けること。
(二) 祭の場。
(三) ひたすらに一つの方向に進め。
(四) 葬らない前に祭をおこなう宮殿。
(五) 穢が出來たので、それを淨めるために、その料として筑紫の一國から品物を取り立てる。その産物などである。
(六) 穢を生じたのは、種々の罪が犯されたからであるからまずその罪の類を求め出す。屎戸までは、岩戸の物語(三二頁[#「三二頁」は「天照らす大神と須佐の男の命」の「天の岩戸」])に出た。生剥逆剥は、馬の皮をむく罪。屎戸は、きたないものを清淨なるべき所に散らす罪。上通下通婚以下は、不倫の婚姻行爲。
(七) 一國をあげての罪穢を拂う行事をして。
(八) 住吉神社の祭神。二七頁[#「二七頁」は「伊耶那岐の命と伊耶那美の命」の「身禊」]參照。
(九) 木を燒いて作つた灰をヒサゴ(蔓草の實、ユウガオ、ヒョウタンの類)に入れて。これは魔よけのためと解せられる。
(一〇) 木の葉の皿。これは食物を與える意。
(一一) 當時朝鮮半島の東部を占めていた國。
(一二) 朝鮮語で王または貴人をいう。コニキシともコキシともいう。
(一三) 當時朝鮮半島の南部を占めていた國。
(一四) 渡海の役所。
(一五) 神靈の荒い方面。
[#5字下げ]〔鎭懷石と釣魚〕[#「〔鎭懷石と釣魚〕」は小見出し]
かれその政いまだ竟へざる間《ほど》に、妊《はら》ませるが、産《あ》れまさむとしつ。すなはち御腹を鎭《いは》ひたまはむとして、石を取らして、御裳《みも》の腰に纏かして、筑紫《つくし》の國に渡りましてぞ、その御子は生《あ》れましつる。かれその御子の生れましし地に名づけて、宇美(一)といふ。またその御裳に纏《ま》かしし石は、筑紫の國の伊斗《いと》の村(二)にあり。
また筑紫の末羅縣《まつらがた》の玉島の里(三)に到りまして、その河の邊に御|食《をし》したまふ時に、四月《うづき》の上旬《はじめのころ》なりしを、ここにその河中の磯にいまして、御裳の絲を拔き取り、飯粒《いひぼ》を餌にして、その河の年魚《あゆ》を釣りたまひき。[#割り注]その河の名を小河といふ。またその磯の名を勝門比賣といふ。[#割り注終わり]かれ四月の上旬の時、女ども裳の絲を拔き、飯粒を餌にして、年魚《あゆ》釣ること今に至るまで絶えず。
(一) 福岡縣糟屋郡。
(二) 同糸島郡。萬葉集卷の五にこの石を詠んだ歌がある。
(三) 佐賀縣東松浦郡の玉島川。
[#5字下げ]〔香坂《かごさか》の王と忍熊《おしくま》の王〕[#「〔香坂の王と忍熊の王〕」は小見出し]
ここに息長帶日賣の命、倭《やまと》に還り上ります時に人の心|疑《うたが》はしきに因りて、喪船を一つ具へて、御子をその喪船に載せまつりて、まづ「御子は既に崩りましぬ」と言ひ漏らさしめたまひき。かくして上りいでましし時に、香坂《かごさか》の王|忍熊《おしくま》の王聞きて、待ち取らむと思ほして、斗賀野《とがの》(一)に進み出でて、祈狩《うけひがり》(二)したまひき。ここに香坂《かごさか》の王、歴木《くぬぎ》に騰りいまして見たまふに、大きなる怒り猪出でて、その歴木《くぬぎ》を掘りて、すなはちその香坂《かごさか》の王を咋《く》ひ食《は》みつ。その弟忍熊の王、その態《しわざ》を畏《かしこ》まずして、軍を興し、待ち向ふる時に、喪船に赴《むか》ひて空《むな》し船《ふね》を攻めたまはむとす。ここにその喪船より軍を下して戰ひき。
その時|忍熊《おしくま》の王は、難波《なには》の吉師部《きしべ》が祖、伊佐比《いさひ》の宿禰を將軍《いくさのきみ》とし、太子《ひつぎのみこ》の御方には、丸邇《わに》の臣が祖、難波根子建振熊《なにはねこたけふるくま》の命を、將軍としたまひき。かれ追ひ退《そ》けて山代(三)に到りし時に、還り立ちておのもおのも退かずて相戰ひき。ここに建振熊の命|權《たばか》りて、「息長帶日賣の命は、既に崩りましぬ。かれ、更に戰ふべくもあらず」といはしめて、すなはち弓絃《ゆづら》を絶ちて、欺《いつは》りて歸服《まつろ》ひぬ。ここにその將軍既に詐りを信《う》けて、弓を弭《はづ》し、兵《つはもの》を藏めつ。ここに頂髮《たぎふさ》(四)の中より設《ま》けの弦《ゆづる》(五)を採《と》り出で更に張りて追ひ撃つ。かれ逢坂《あふさか》(六)に逃げ退きて、對《む》き立ちてまた戰ふ。ここに追ひ迫《せ》め敗りて、沙沙那美《ささなみ》(七)に出でて、悉にその軍を斬りつ。ここにその忍熊の王、伊佐比《いさひ》の宿禰と共に追ひ迫めらえて、船に乘り、海(八)に浮きて、歌よみして曰ひしく、
[#ここから2字下げ]
いざ吾君《あぎ》(九)、
振熊《ふるくま》が 痛手負はずは、
鳰鳥《にほどり》(一〇)の 淡海の海(一一)に
潛《かづ》きせなわ(一二)。 (歌謠番號三九)
[#ここで字下げ終わり]
と歌ひて、すなはち海に入りて共に死《し》にき。
(一) 兵庫縣武庫郡。
(二) 神に誓つて狩をして、これによつて神意を窺う。ここでは凶兆であつた。
(三) 山城に同じ。
(四) 頭上にてつかねた髮。
(五) 用意の弓弦。
(六) 京都府と滋賀縣との堺の山。
(七) 琵琶湖の南方の地。
(八) 琵琶湖。
(九) さああなた。
(一〇) カイツブリ。水鳥。敍述による枕詞。
(一一) 琵琶湖。
(一二) 水にもぐりましよう。ナは自分の希望を現す助詞。ワは感動の助詞。
[#5字下げ]〔氣比《けひ》の大神〕[#「〔氣比の大神〕」は小見出し]
かれ建内の宿禰の命、その太子《ひつぎのみこ》を率《ゐ》まつりて、御禊《みそぎ》(一)せむとして、淡海また若狹の國を經歴《めぐ》りたまふ時に、高志《こし》の前《みちのくち》の角鹿《つぬが》(二)に、假宮を造りてませまつりき。ここに其地《そこ》にます伊奢沙和氣《いざさわけ》の大神の命(三)、夜の夢《いめ》に見えて、「吾が名を御子の御名に易へまくほし」とのりたまひき。ここに言祷《ことほ》ぎて白さく、「恐し、命のまにまに、易へまつらむ」とまをす。またその神詔りたまはく、「明日《あす》の旦《あした》濱にいでますべし。易名《なかへ》の幣《みやじり》(四)獻らむ」とのりたまふ。かれその旦濱にいでます時に、鼻|毀《やぶ》れたる入鹿魚《いるか》、既に一浦に依れり。ここに御子、神に白さしめたまはく、「我に御食《みけ》の魚《な》給へり」とまをしたまひき。かれまたその御名をたたへて御食津《みけつ》大神とまをす。かれ今に氣比《けひ》の大神とまをす。またその入鹿魚《いるか》の鼻の血|臭《くさ》かりき。かれその浦に名づけて血浦といふ。今は都奴賀《つぬが》といふなり。
(一) 水によつて穢を拂う行事。既出。
(二) 越前の國の敦賀市。
(三) 同市氣比神宮の祭神。
(四) 名をとりかえたしるしの贈り物。
[#5字下げ]〔酒樂《さかくら》の歌曲〕[#「〔酒樂の歌曲〕」は小見出し]
ここに還り上ります時に、その御祖《みおや》息長帶日賣の命、待酒(一)を釀みて獻りき。ここにその御祖、御歌よみしたまひしく、
[#ここから2字下げ]
この御酒《みき》は わが御酒ならず。
酒《くし》の長《かみ》(二) 常世《とこよ》(三)にいます
石《いは》立《た》たす(四) 少名《すくな》御神(五)の、
神壽《かむほ》き 壽き狂《くる》ほし
豐壽《とよほ》き 壽きもとほし(六)
獻《まつ》り來《こ》し 御酒《みき》ぞ
乾《あ》さずをせ(七)。ささ(八)。 (歌謠番號四〇)
[#ここで字下げ終わり]
かく歌ひたまひて、大御酒獻りき。ここに建内の宿禰の命、御子のために答へて歌ひして曰ひしく、
[#ここから2字下げ]
この御酒を 釀《か》みけむ人は、
その鼓《つづみ》(九) 臼に立てて(一〇)
歌ひつつ 釀《か》みけれかも(一一)、
舞ひつつ 釀《か》みけれかも、
この御酒の 御酒の
あやに うた樂《だの》し(一二)。ささ。 (歌謠番號四一)
[#ここで字下げ終わり]
こは酒樂《さかくら》(一三)の歌なり。
およそこの帶中津日子《たらしなかつひこ》の天皇の御年|五十二歳《いそぢまりふたつ》。[#割り注]壬戌の年六月十一日崩りたまひき。[#割り注終わり]御陵は河内の惠賀《ゑが》の長江《ながえ》(一四)にあり。皇后は御年一百歳にして崩りましき。狹城《さき》の楯列《たたなみ》の陵(一五)に葬めまつりき。
(一) 人を待つて飮む酒。
(二) 酒をつかさどる長官。原文「久志能加美」美はミの甲類の字であり、神のミは乙類であるから、酒の神とする説は誤。
(三) 永久の世界。また海外。スクナビコナは海外へ渡つたという。
(四) 石のように立つておいでになる。
(五) スクナビコナに同じ。
(六) 祝い言をさまざまにして。
(七) 盃がかわかないようにつづけてめしあがれ。
(八) はやし詞。
(九) 後世のツヅミの大きいもの。太鼓。
(一〇) 酒をかもす入れものとして。
(一一) 酒を作つたからか。疑問の已然條件法。
(一二) 大變にたのしい。
(一三) 歌曲の名。この二首、琴歌譜にもある。
(一四) 大阪府南河内郡。
(一五) 奈良縣生駒郡。
(つづく)
底本:
1956(昭和31)年5月20日初版発行
1965(昭和40)年9月20日20版発行
底本の親本:
※底本は校注が脚註の形で配置されています。このファイルでは校註者が追加した標題ごとに、書き下し文、校注の順序で編成しました。
※(一)〜(五五)は注釈番号です。底本では、直前の文字の右横に、ルビのように漢数字のみ付いています。このファイルでは本文の漢数字との混同を避けるため(漢数字)で表しました。
※〔〕は底本の親本にはないもので、校註者が補った箇所を表します。
※頁数を引用している箇所には校註者が追加した標題を注記しました。
※底本は書き下し文のみ歴史的かなづかいで、その他は新かなづかいです。なお拗音・促音は小書きではありません。
入力:川山隆
校正:しだひろし
YYYY年MM月DD日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
*地名
(※ 市町村名は、平成の大合併以前の表記のまま。一般的な国名・地名などは解説省略。- 大八島国 おおやしまぐに おおやしま。大八洲国。(多くの島から成る意)日本国の古称。
- 阿豆麻 あずま → 東
- 東・吾妻・吾嬬 あずま (1) (景行紀に、日本武尊が東征の帰途、碓日嶺から東南を眺めて、妃弟橘媛の投身を悲しみ、
「あづまはや」と嘆いたという地名起源説話がある)日本の東部地方。古くは逢坂の関以東、また伊賀・美濃以東をいったが、奈良時代にはほぼ遠江・信濃以東、後には箱根以東を指すようになった。(2) 特に京都からみて関東一帯、あるいは鎌倉・鎌倉幕府・江戸をいう称。 - [茨城県]
- 新治 にいはり/にいばり 郡名・村名。現、新治郡千代田村新治。
- 筑波 つくは/つくば (古くは清音) 茨城県筑波郡の旧地名。
- [千葉県]
- 安房郡 あわぐん 房総半島の南端にある郡。北東に鴨川市、南西に館山市があり、明治30(1897)には両市を含む地域、すなわち旧安房国四郡の全域が合併により新たに安房郡として成立した。古代の安房郡は、原始・古代より大地震などに伴うとみられる地盤の隆起が激しく、今から6000年くらい前の縄文時代前期の頃とくらべると約25mほど隆起していると考えられている。古墳時代から奈良・平安時代にかけての館山湾(鏡ヶ浦)から白浜町にかけての海岸一帯は少なくとも現在の標高5mくらいの所まで海であったものと考えられ、海岸部は古代と現在では景観がまったく異なっていたことが想定される。
- 東の淡の水門 あずまのあわのみなと → 安房の水門
- 安房の水門 あわのみなと 淡水門。比定地は浦賀水道・館山湾・平久里川(湊川)下流左岸館山市湊の三説がある。
- [神奈川県]
- [相武の国] さがむ 相模の国に同じ。神奈川県の一部。
- 走水の海 はしりみずのうみ 浦賀水道のこと。
- 浦賀 うらが 神奈川県横須賀市の地名。1853年(嘉永6)アメリカの提督ペリーが来航して通商を求めた地。
- 走水 はしりみず 村名。現、神奈川県横須賀市走水。
- 走水神社 はしりみず じんじゃ、か。現、横須賀市走水。旧、走水村は三浦半島東端に位置し、浦賀水道を扼する交通・軍事上の要地。走水湊を見下ろす鎮守走水神社(走水権現社)は日本武尊・牛頭天王を祀り、旗山崎にあった弟橘媛を祀る橘神社を明治42年合祀した。
- 浦賀水道 うらが すいどう 東京湾の入口、三浦半島と房総半島との間の海峡。幅約7km。
- 大山 おおやま 神奈川県中部の山。一名、雨降山。頂上の大山阿夫利神社は雨乞いの神。標高1252m。
- 足柄 あしがら 神奈川県南西部の地方名。
- 坂本 さかもと 現、南足柄市足柄山。
- 小野 おの、か。 現、横浜市鶴見区小野町か。
- [静岡県]
- 焼遣 やきづ → 焼津
- 焼津 やいづ 静岡県中部の市。駿河湾西岸に位置する遠洋漁業の根拠地で、缶詰など水産加工業が盛ん。日本武尊東征の際に、草を薙いで火難を鎮めた所という。人口12万。
- 焼津町 やいづちょう、か。現、焼津市焼津。旧、焼津村。小石川河口の南に位置し、益津郡に属する。古代の焼遣・焼津の遺称地とされ、中世には焼津郷とよばれた。
- 富士山 ふじさん (不二山・不尽山とも書く)静岡・山梨両県の境にそびえる日本第一の高山。富士火山帯にある典型的な円錐状成層火山で、美しい裾野を引き、頂上には深さ220mほどの火口があり、火口壁上では剣ヶ峰が最も高く3776m。史上たびたび噴火し、1707年(宝永4)爆裂して宝永山を南東中腹につくってから静止。箱根・伊豆を含んで国立公園に指定。立山・白山と共に日本三霊山の一つ。芙蓉峰。富士。
- [山梨県]
- [甲斐] かい 旧国名。いまの山梨県。甲州。
- 酒折の宮 さかおりのみや 日本武尊が東征の途中立ち寄ったという伝説の地。甲府市の酒折宮がその址とされる。
- 筑波の道 つくばのみち 連歌の別称。日本武尊が筑波を過ぎて甲斐国酒折宮に着いた時、
「新治筑波を過ぎて幾夜か寝つる」と歌ったのに対して、火ともしの翁が「かがなべて夜には九夜日には十日を」と答えたのを、連歌の初めとしたことから。 - 西山梨郡 にしやまなしぐん 明治11(1878)山梨郡が東西に分割されて成立。成立時には東は東山梨郡、南東は笛吹川を境に東八代郡、北と西は荒川を境に中巨摩郡に接していた。旧甲府城下の町々を含み、ほぼ現在の甲府市東半部にあたる。
- [長野県]
- [科野の国] しなののくに 信濃国。旧国名。いまの長野県。科野。信州。
- [信濃の国] しなののくに 旧国名。いまの長野県。科野。信州。
- 伊那 いな 長野県伊那盆地北部の市。天竜川の段丘上に位置し、かつて養蚕業が盛んであったが、今は電子・精密機械工業が立地。人口7万2千。
- [尾張の国] おわりのくに 旧国名。今の愛知県の西部。尾州。張州。
- [岐阜県]
- 恵那 えな 岐阜県南東部の市。中山道の宿駅。製紙・精密機械工業が立地。付近に恵那峡がある。人口5万6千。
- 木曽路 きそじ 中山道の一部。木曾谷を通る街道。贄川から馬籠あたりまでをいう。木曾街道。
- 養老郡 ようろうぐん 岐阜県南西部の郡。1897(明治30)多芸郡・上石津郡が合併して成立。
(日本史) - 当芸の野 たぎのの → 当芸野
- 当芸野 たぎの 多芸野。現、岐阜県養老郡養老町か。養老の滝。
- 当芸 たぎ 多芸庄は現、養老郡養老町の中央部から北部一帯および大垣市南西部の多芸島(たぎしま)あたりにわたる地に比定される。多岐・多記とも書かれる。
- 多芸郡 たぎぐん 郡名の用字は多彩で、当芸・当耆・当嗜・当伎・多紀・多伎などがある。本来の読みはタギであろう。西美濃と伊勢・尾張を結ぶ交通路として重要な位置にある。
- 牟宜都 むげつ 現、岐阜県武儀郡。県中央部。大化前代に牟義都国があり、国造は牟義都氏(牟宜都、身毛などとも記す)。中心は現、美濃市・関市の平野部であったとみられる。
- [三重県]
- 伊勢市
- 伊勢の大御神の宮 → 伊勢大神宮
- 伊勢大神宮 いせ だいじんぐう 伊勢神宮の別称。
- 伊勢神宮 いせ じんぐう 三重県伊勢市にある皇室の宗廟。正称、神宮。皇大神宮(内宮)と豊受大神宮(外宮)との総称。皇大神宮の祭神は天照大神、御霊代は八咫鏡。豊受大神宮の祭神は豊受大神。20年ごとに社殿を造りかえる式年遷宮の制を遺し、正殿の様式は唯一神明造と称。三社の一つ。二十二社の一つ。伊勢大廟。大神宮。
- 三重郡 みえぐん 伊勢国北部の郡。現在の三重県三重郡・四日市市にあたる。
(日本史) - 杖衝坂 つえつきざか 三重県四日市市采女にある東海道の坂の名称。国道1号横の旧東海道にあり、三重県名の由来にもなったヤマトタケルの故事がある急坂。東海道五十三次の四日市宿と石薬師宿の中間に位置する。
- 三重の村 みえのむら 現、三重郡か。県北部。
- 三重 みえ 近畿地方東部の県。伊賀・伊勢・志摩3国の全域と紀伊国の東部を管轄。県庁所在地は津市。面積5760平方km。人口186万7千。全14市。
- 鈴鹿郡 すずかぐん 伊勢国北西部の郡。現在の三重県鈴鹿郡・亀山市・鈴鹿市にあたる。国府や三関の一つ鈴鹿関がおかれた。
(日本史) - 能煩野 のぼの 能褒野。三重県亀山市の町。日本武尊を埋葬した地と称し、能褒野神社がある。
- 桑名郡 くわなぐん 三重県の北部に位置する郡。
- 尾津の前 おつのさき 尾津の埼。現、桑名郡多度町小山の付近に比定。紀は乙津浜。
- [滋賀県]
- 伊服岐の山 いぶきのやま 伊吹山。胆吹山とも。滋賀県坂田郡と岐阜県揖斐郡・不破郡との境にある山。標高1377m。記紀は日本武尊が東国征討の帰途、この山に住む荒ぶる神の平伏にむかったが、かえって神のおこした悪天候のために道に迷って体力を失い、これがもとで死亡したとする。日本海からの強風で常に気象状況が悪いことからうまれた説話であろう。
(日本史) - 伊吹 いぶき 滋賀県北東部、伊吹山西麓の地。
- 坂田郡 さかたぐん 湖東から湖北にかけて位置し、かつての郡は、北は浅井郡、南は犬上郡、東は美濃国、西は琵琶湖に面していた。北東には伊吹山、南東には霊仙山(1084m)の山地があり、中央部には低い横山山地が南北に連なり、北端部を姉川、郡の南寄りを天野川が流れる。
- 醒が井 さめがい 宿名。現、滋賀県米原町。中山道の宿駅。
(日本史) - 玉倉部の清水 たまくらべの しみず 玉倉部邑。現比定地には、(1) 現、米原町醒井説と、(2) 同じく伊吹山の山麓にあって不破と息長の中間に位置する現、岐阜県不破郡関ヶ原大字玉の説とがある。
- 居寤の清泉 いさめのしみず 現、坂田郡米原町醒井に比定。
- 滋賀郡 しがぐん 琵琶湖南西部にある。旧郡域の大部分は大津市に編入され、現在は一町のみが郡域として残る。
- 近つ淡海 ちかつおうみ 近江。浜名湖を「遠つ淡海」というのに対して、琵琶湖の称。また、近江の古称。
- 志賀の高穴穂の宮 しがの たかあなほのみや 記では成務天皇の、紀では景行天皇以来、仲哀天皇まで用いられた宮とする。
『帝王編年記』などは、現在の大津市坂本穴太町に比定する。周辺には舘所・大門の地名がある。 (日本史) - 逢坂 おおさか/おうさか 大津市南部にある、東海道の坂。北西に逢坂山がある。
(歌枕) - 沙沙那美 ささなみ 篠波。
- 淡海の海 おうみのうみ 琵琶湖。
- [大阪府]
- [河内国] かわちのくに (古くカフチとも)旧国名。五畿の一つ。今の大阪府の東部。河州。
- 志幾 しき 志紀郡。志貴。近世の郡域は、八尾市の南部と藤井寺市の東部・柏原市の一部に属する。
- 白鳥の御陵 しらとりのみささぎ? 白鳥陵。現、御所市大字富田小字天皇。国見山西側中腹に所在する円墳で、日本武尊陵と伝える。記紀によれば、日本武尊は伊勢の能褒野に葬られたが、白鳥と化して大和に飛び、琴弾原にとどまったので、同地に陵を造ったという。さらに白鳥は河内国の旧市邑にとどまったので同地も陵を造った。俗に白鳥の三陵という。
『大和志』 『大和遷都図考』その他は、琴弾原を冨田村・原谷村間とするので、鑵子塚古墳(大字柏原)を白鳥陵とする説もある。 - 南河内郡 みなみかわちぐん 府の南東部、旧河内国の南部にあたる。明治29(1896)成立。当時の南河内郡は、東は金剛山・葛城山の金剛山地で奈良県、南は和泉山脈で和歌山県、西は泉北郡、北は中河内郡に接し、中河内郡との間に大和川が流れていた。
- 恵賀の長江 えがのながえ
- 恵賀 えが 現、羽曳野市恵我之荘か。
- 恵賀の裳伏の岡 えがの もふしの おか 現、羽曳野市誉田。誉田御廟山古墳。応神天皇陵に比定されている。
- [大阪市]
- 住吉神社 すみよし じんじゃ 大阪市住吉区住吉にある元官幣大社。住吉神の三神と神功皇后とを祀る。二十二社の一つ。摂津国一の宮。今は住吉大社と称す。同名の神社は、下関市一の宮住吉(長門国一の宮)や福岡市博多区住吉(筑前国一の宮)など各地にある。
- [奈良県]
- [大倭の国] おおやまとのくに (2) 大和国の称。
- [大和国] やまとのくに 大和・倭。(
「山処(やまと) 」の意か) 旧国名。今の奈良県の管轄。もと、天理市付近の地名から起こる。初め「倭」と書いたが、元明天皇のとき国名に2字を用いることが定められ、 「倭」に通じる「和」に「大」の字を冠して大和とし、また「大倭」とも書いた。和州。 - 桜井市
- 纏向日代宮 まきむくの ひしろのみや 現、桜井市。景行天皇の宮。
- 天の香山 あめのかぐやま 天香山・天香具山。奈良県橿原市の南東部にある山。標高152m。耳成山・畝傍山と共に大和三山と称する。樹木が繁茂して美しい。麓に埴安池の跡がある。天の香具山。
(歌枕) - 磯城郡 しきぐん 奈良盆地中央部の低平地。ほぼ東境から北境を初瀬川(大和川上流)が流れ、中央の寺川、西の飛鳥川、西境の曾我川が曲折しつつ北流し、北端で大和川に注ぐ。東は天理市・桜井市、西は北葛城郡、南は橿原市、北は大和郡山市・生駒郡。
- 坂手の池 さかてのいけ 現、磯城郡田原本町大字阪手に比定。
- 山の辺の道の上 やまのべの みちのえ → 山辺道上陵
- 山辺道上陵 やまのべの みちのえの みささぎ 現、奈良県天理市渋谷町の渋谷向山古墳に比定。
- 生駒郡 いこまぐん 県北西部に位置し、生駒山地や矢田丘陵の傾斜地(平群谷)と大和川北岸の平坦地からなる。北は生駒市、東は大和郡山市、南は大和川をはさんで北葛城郡・磯城郡、西は生駒山地を境として大阪府。古代の平群郡の一部。
- 平群の山 へぐりのやま 現、生駒郡斑鳩町の矢田丘陵に比定。
- 平群 へぐり 古代の豪族平群氏の拠点。大和国平群郡。現在の奈良県生駒郡・生駒市南部を中心とした地域。
- 沙紀の多他那美 さきの たたなみ 佐紀の盾列か。佐紀は現、奈良市北部、佐紀町・歌姫町・山陵町付近一帯の総称。奈良市曾布の佐紀丘陵に佐紀盾列古墳群が所在。
- 狭城の楯列 さきのたたなみ 現、奈良市山陵町。狭城楯列池後陵。成務天皇陵に治定。
- [兵庫県]
- 武庫郡 むこぐん かつて兵庫県・摂津国に存在した郡。当初の郡域は現在の芦屋市・宝塚市南西部・西宮市南部・尼崎市西部にあたるが後に拡大した。
- 斗賀野 とがの 菟餓野。古代の地名。現、大阪市北区兎我野町周辺を遺称地とする説が有力であるが、現、灘区都賀川流域に比定する説や、夢野の古称と解して兵庫区夢野町付近に求める説もある。
- 淡路の屯倉 あわじのみやけ 現、三原郡三原町の榎列大榎列(えなみおおえなみ)には屯倉神社があり、屯倉の所在地の中心部を示唆する。皇室直轄の地として三原平野に産する穀物等を納める倉庫や、田地・山野が定められたのであろう。
- [淡海] おうみ 近江・淡海。(アハウミの転。淡水湖の意で琵琶湖を指す)旧国名。今の滋賀県。江州。
- [若狭の国] わかさ 旧国名。今の福井県の西部。若州。
- [越の国] こしのくに 北陸道の古称。高志国。こしのみち。越。越路。
- [高志] こし 越・高志。
(→) 「こしのくに(越の国) 」に同じ。 - 高志の前 こしのみちのくち → 道の口
- 道の口 みちのくち (1) ある国に入る道の入口。(2) 古代、一国を二つまたは三つに分けたときの、都に最も近い地方。例えば越地方では越前を「こしのみちのくち」という。
- [越前の国]
- 角鹿 つぬが → 敦賀
- 敦賀 つるが 福井県の南部、敦賀湾に面する港湾都市。古代から日本海側における大陸交通の要地。奈良時代には角鹿と称。原子力発電所が立地。人口6万8千。/郡域は現、敦賀市・南条郡・武生市南西部・丹生郡西南部にわたっていた。
『和名抄』東急本郡部は「都留我」と訓ずる。古くは角鹿と記し、 「つぬが」と訓じた。紀の垂仁天皇2年の条の注に、崇神天皇のとき「意富加羅国」の王子「都怒我阿羅斯等」が笥飯(けひ)浦に来着したが、額に角があったのでこの地を角鹿と称したと記す。 - 気比神宮 けひ じんぐう 福井県敦賀市曙町にある元官幣大社。祭神は伊奢沙別命・日本武尊・帯中津彦命・息長帯姫命・誉田別命・豊姫命・武内宿祢。越前国一の宮。
- 血浦 ちうら → 敦賀
- 都奴賀 つぬが → 敦賀
- [出雲国]
- 肥の河 ひのかわ → 簸川、斐伊川
- 簸川 ひのかわ 日本神話に出る出雲の川の名。川上で素戔嗚命が八岐大蛇を退治したという。島根県の東部を流れる斐伊川をそれに擬する。
- [山口県]
- 豊浦郡 とようらぐん 県の西端を占め、北東は大津郡・長門市、東は美祢市、南は下関市に接し、西は響灘に臨む。下関市が分離する以前の旧豊浦郡域は関門海峡をはさんで九州に対する本州最西端の地でもあった。
- 穴門 あなと 関門海峡の古称。また、長門国の古称。
- 豊浦の宮 とよらのみや 現、山口県下関市忌宮神社の境内地あたりと伝えられる。
- [筑紫の国] つくしのくに
- [福岡県]
- 糟屋郡 かすやぐん 県北部に位置し、北は玄界灘に臨む。東は北部から古賀市、三郡山地で鞍手郡・飯塚市・嘉穂郡と接し、南は筑紫野市・太宰府市・大野城市、西側の北部は福岡市東区と南部は大城山から北へと延びる丘陵で同市博多区と接する。東部の山地に流れを発する多々良川が西流し、東区へ博多湾へと入る。郡南部からは須恵川を合わせた宇美川が北流して河口部で多々良川に合流する。同川下流の粕屋町から東区にかけては、かつて多々良潟とよばれた低平地が広がる。
- 香椎町 かしいちょう、か。 現、福岡市東区香椎。立花山(367m)の南麓一帯、香椎宮周辺の地名。近世まで西は海に面していた。
『和名抄』所載の糟屋郡香椎郷の遺称地。昭和18年、香椎村が町制施行、同30年、香椎町と多々良町が福岡市に合併。 - 筑紫の訶志比の宮 つくしの かしひのみや → 香椎宮か
- 香椎宮 かしいぐう 福岡市香椎にある元官幣大社。仲哀天皇・神功皇后を祀る。記紀伝承の橿日宮の旧址に当たるという。香椎廟。
- 宇美 うみ 福岡県糟屋郡宇美町宇美。三郡山の西に位置し、宇美川の上流域を占める。
- 糸島郡 いとしまぐん 福岡県。怡土郡+志摩郡。県西部。
- 伊斗 いと 現、糸島郡二丈町児饗野か。神功皇后の産気を抑えた霊石の伝説にちなむ地名。遺称地とされる深江の子負ヶ原には現在、鎮懐石八幡宮が鎮座。
- 伊都国 いとこく 弥生時代の北九州、今の福岡市西方の半島にあった小国。後世怡土郡となり、また志摩郡と合併して糸島郡となる。
- [佐賀県]
- 末羅県 まつらがた 松浦県。 → 松浦
- 松浦 まつら 肥前松浦地方(現在の佐賀県・長崎県の北部)の古称。
「魏志」に見える末盧(末羅)国にあたる。古代に、松浦県、次いで松浦郡が設置された。梅豆羅国。 - 東松浦郡 ひがしまつうらぐん 県の北西部に位置し、玄界灘に面する上場(うわば)と称せられる東松浦半島と周辺の向島・馬渡島・松島・加唐島・加部島・小川島などを含み、中心部は松浦川流域。東は福岡県・佐賀郡と接し、西は伊万里湾に面する。
- 玉島川 たましまがわ 七山村の北端、浮岳の峰続きの荒川峠に源を発する。昔は五反田付近から鏡山の北山麓へ大きく迂回してかつての栗川と合流して唐津湾に出ていたという。
- 玉島 たましま 現、東松浦郡浜玉町大字南山字玉島。
- 小河
- 勝門比売 磯の名。
- [肥後国]
- [熊本県]
- クマの地 肥後国球磨郡。熊本県人吉盆地。
(日本史) - [鹿児島県]
- ソの地 ソオ。大隅国曽於郡。鹿児島県国分平野を中心とする一帯。
(日本史) - 熊曽国 くまそのくに 豊国は豊日別といい、肥国は建日向日豊久土比泥別といい、熊曽国は建日別といったとされる(記)。熊曽国は、のちの国名でいえば日向・大隅・薩摩の三国の地域になる。
- 新羅 しらぎ (古くはシラキ)古代朝鮮の国名。三国の一つ。前57年頃、慶州の地に赫居世が建てた斯盧国に始まり、4世紀、辰韓諸部を統一して新羅と号した。6世紀以降伽�(加羅)諸国を滅ぼし、また唐と結んで百済・高句麗を征服、668年朝鮮全土を統一。さらに唐の勢力を半島より駆逐。935年、56代で高麗の王建に滅ぼされた。中国から取り入れた儒教・仏教・律令制などを独自に発展させ、日本への文化的・社会的影響大。しんら。
(356〜935) - 百済 くだら (クダラは日本での称) 古代朝鮮の国名。三国の一つ。4〜7世紀、朝鮮半島の南西部に拠った国。4世紀半ば馬韓の1国から勢力を拡大、371年漢山城に都した。後、泗�城(現、忠清南道扶余)に遷都。その王室は中国東北部から移った扶余族といわれる。高句麗・新羅に対抗するため倭・大和王朝と提携する一方、儒教・仏教を大和王朝に伝えた。唐・新羅の連合軍に破れ、660年31代で滅亡。ひゃくさい。はくさい。
( 〜660)
◇参照:Wikipedia、
*人物一覧
(人名、および組織・団体名・神名)- 大帯日子淤斯呂和気の天皇 おおたらしひこおしろわけのすめらみこと → 景行天皇
- 景行天皇 けいこう てんのう 記紀伝承上の天皇。垂仁天皇の第3皇子。名は大足彦忍代別。熊襲を親征、後に皇子日本武尊を派遣して、東国の蝦夷を平定させたと伝える。
- 吉備の臣 きびのおみ → 吉備氏
- 吉備氏 きびうじ 古代の吉備地方に栄えた諸豪族の総称。大化前代の国造で、姓は臣。紀は孝霊天皇の皇子稚武彦命を始祖とし、応神22年条は命の孫の御友別の兄弟と子が吉備の五県に分封され、下道臣・上道臣・香屋臣・三野臣・笠臣・苑臣の祖となったと記す。特産の鉄や塩、さらには瀬戸内の要衝を押さえて、独特の文化と半独立的な勢力を誇り、巨大な造山・作山古墳も築造した。大王家や葛城氏などとも婚姻関係を結び、朝鮮外交でも活躍したが、数々の反乱伝承ももつ。6世紀以後、大和王権への従属を強め、白猪・児島の屯倉が設置された。684(天武13)の八色の姓では、下道臣と笠臣が朝臣姓を得、律令時代にも吉備真備のように高官に昇る者もあった。
(日本史) - 若建吉備津日子 わかたけきびつひこ → 若日子建吉備津日子命
- 若日子建吉備津日子命 わかひこたけきびつひこのみこと 稚武彦命(紀)。孝霊天皇の子。母は阿礼比売命の弟女蝿伊呂泥。紀に吉備臣始祖とある。記では吉備下道臣、笠臣の祖。孝霊記に大吉備津日子命とともに針間の道の口として吉備国を言向け和したとある。
(神名) - 針間の伊那毘の大郎女 播磨稲日大郎姫(紀)。景行天皇の皇后。父は若建吉備津日子。櫛角別王、大碓命、小碓命(倭男具那命)
、倭根子命、神櫛王の母。紀では小碓命の別名として日本童男、倭建御子をあげている。 『播磨国風土記』には同一人物と思われる印南別媛と大帯日子命(景行天皇)との婚姻の話や、その屍が川中に入った伝承がある。 (神名) - 櫛角別の王 くしつのわけのみこ 「くしつぬ…」
。景行天皇の子。母は吉備臣らの祖若建吉備津日子の女針間の伊那毘の大郎女。茨田連らの祖。 『姓氏録』には、景行天皇の子で、茨田勝の祖として息長彦人大兄磯城命の記載があるが、同神か。 (神名) - 大碓の命 おおうすのみこと 大碓皇子(紀)。景行天皇の皇子。母は若建吉備津日子の女の針間の伊那毘の大郎女。倭建御子の双子の兄。記によると、天皇に召された三野国造の女の兄比売・弟比売と勝手に結婚し、押黒の兄日子王と押黒の弟日子王を設け、出仕しなかったため、弟の小碓命(倭建御子)に殺された。紀では殺されることはなく、後に東征の将を命じられたのをこばんで美野国に封ぜられ、身毛津君、守君の祖となっている。
(神名) - 小碓の命 おうすのみこと → 日本武尊
- 日本武尊・倭建命 やまとたけるのみこと 古代伝説上の英雄。景行天皇の皇子で、本名は小碓命。別名、日本童男。天皇の命を奉じて熊襲を討ち、のち東国を鎮定。往途、駿河で草薙剣によって野火の難を払い、走水の海では妃弟橘媛の犠牲によって海上の難を免れた。帰途、近江伊吹山の神を討とうとして病を得、伊勢の能褒野で没したという。
- 倭男具那の命 やまとおぐなのみこと → 日本武尊
- 倭根子の命 やまとねこのみこと
- 神櫛の王 かむくしのみこ 景行天皇の皇子。母は記では伊那毘の大郎女。紀では五十河媛とする。讃岐公・酒部公(姓)
、木国之酒部比古・宇陀酒部(記)はその末胤(記・紀・讃岐国両王墳墓考)。 (神名) - 八尺の入日子の命 やさかのいりひこのみこと 崇神天皇の子。母は尾張連の祖、意富阿麻比売。
(神名) - 八坂の入日売の命 やさかのいりひめのみこと 八尺の入日子の命が女。/景行天皇との間に、若帯日子命、五百木の入日子命、押別命、五百木の入日売命を生む。
(神名) - 若帯日子の命 わかたらしひこのみこと → 成務天皇
- 成務天皇 せいむ てんのう 記紀伝承上の天皇。景行天皇の第4皇子。名は稚足彦。
- 五百木の入日子の命 いおきのいりひこのみこと 五百城入彦皇子(紀)。景行天皇の皇子。母は八尺入日子命の女八坂の入日売命。若帯日子命(成務天皇)
、倭建御子とともに太子であった。 (神名) - 押別の命 おしわけのみこと 景行天皇の子。母は八坂の入日売命。成務天皇の同母弟。
(神名) - 五百木の入日売の命 いおきのいりひめのみこと 五百城入姫皇子(紀)。景行天皇の皇女。母は八尺入日子命の女八坂の入日売命。
『尾張国風土記』には命の産屋のあったところが宇夫須那社であるという記事がある。 (神名) - 豊戸別の王 とよとわけのみこ 景行天皇の皇子。母は妾とのみで名は不詳。
(神名) - 沼代の郎女 ぬなしろのいらつめ 「ぬのしろの…」
。渟熨斗皇女(紀)。景行天皇の皇女。母は八城之入日売命。事跡不詳。紀では、八城入媛を母。 (神名) - 沼名木の郎女 ぬなきのいらつめ 渟名城皇女(紀)。景行天皇の皇女。景行記では、母は妾と記されるのみで名は不詳だが、五人の同母の兄弟姉妹がある。景行紀は母を八城入媛としている。
(神名) - 香余理比売の命 かぐよりひめのみこと 「かごより…」
。�依姫女(紀)。景行天皇の子。母は又妾としている。紀では母は八坂入媛としている。 (神名) - 若木の入日子の王 わかきのいりひこのみこ 景行天皇の子。母の名は未詳。
(神名) - 吉備の兄日子の王 きびのえひこのみこ 吉備兄彦皇子(紀)。景行天皇の子。母は又妾となっている。紀では八坂入媛が母。
(神名) - 高木比売の命 たかぎひめのみこと 景行天皇の妾の子。紀では高城入姫皇女とあり八坂入媛を母とする。
(神名) - 弟比売の命 おとひめのみこと (2) 景行天皇の皇女。母は不詳。
(神名) - 日向の美波迦斯毘売 ひむかのみはかしびめ 日向御刀媛(紀)か。/景行天皇との間に豊国別王を生む。
(神名) - 豊国別の王 とよくにわけのみこ 景行天皇の皇子。母は日向の美波迦斯毘売(紀では御刀媛)。日向国造の祖。
(神名) - 伊那毘の若郎女 いなびのわかいらつめ 稲日稚郎女(紀)。景行天皇の妃。真若王、日子人之大兄王の母。記では針間の伊那毘の大郎女の妹。紀では播磨稲日大郎女姫の別称とする。
『播磨国風土記』には丸部臣らの祖の比古汝茅と吉備比売の女の印南別嬢がおり、死後、印南川に入れられている。 (神名) - 真若の王 まわかのみこ (1) 景行天皇の皇子。母は伊那毘の若郎女。紀には記載なし。
(神名) - 日子人の大兄の王 ひこひとのおおえのみこ 彦人大兄命(紀)。景行天皇の皇子。母は伊那毘の若郎女。紀では仲哀天皇の叔父で、女の大中姫が天皇の妃となる。また敏達紀に敏達天皇の皇女小墾田皇子が彦人大兄皇子に嫁すとある。
『姓氏録』では彦人大兄王は敏達天皇の子とある。 (神名) - 須売伊呂大中つ日子の王 すめいろおおなかつひこのみこ 倭建御子の曾孫。父は若建王。母は飯野真黒比売。柴野比売との間に景行天皇の妃となった迦具漏日売を生む。
(神名) - 訶具漏比売 かぐろひめ 倭建御子の子孫。須売伊呂大中つ日子の王の女。母は柴野比売。景行天皇に召されて大江王(大枝王)を生んだ。
(神名)