藤田豊八 ふじた とよはち
1869-1929(明治2.9.15-昭和4.7.15)
東洋史学者。徳島生れ。号は剣峰。東大教授をへて台北帝大教授。著「東西交渉史の研究」「剣峰遺草」

恩地孝四郎 おんち こうしろう
1891-1955(明治24.7.2-昭和30.6.3)
版画家。東京生れ。日本の抽象木版画の先駆けで、創作版画運動に尽力。装丁美術家としても著名。

水島爾保布 みずしま におう
1884-1958(明治17.12.8-昭和33.12.30)
画家、小説家、漫画家、随筆家。本名は爾保有。東京都下谷根岸生まれ。父は水島慎次郎(鳶魚斎)。1913年、長谷川如是閑に招かれて大阪朝日新聞において、挿絵を描き始める。長男の行衛は、日本SF界の長老、今日泊亜蘭。


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)。
◇表紙絵・恩地孝四郎。挿絵・水島爾保布。






口絵:関羽


もくじ 
東洋歴史物語(四)藤田豊八


ミルクティー*現代表記版
東洋歴史物語(四)
  一八、仏教とその東漸(とうぜん)
  一九、後漢の衰亡(すいぼう)と三国
  二〇、晋(しん)と北方民族の侵入
  二一、南北朝
  二二、隋(ずい)の煬帝(ようだい)
  二三、唐(とう)の隆盛
  二四、唐の衰運(すいうん)

オリジナル版
東洋歴史物語(四)

地名年表人物一覧書籍
難字、求めよ
後記次週予告

※ 製作環境
 ・Macintosh iBook、Mac OS 9.2.2、T-Time 2.3.1
 ・ ポメラ DM100、ソーラーパネル NOMAD 7
※ 週刊ミルクティー*は、JIS X 0213 文字を使用しています。
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*凡例
  • ( ):小書き。〈 〉:割り注。
  • 〔 〕:編者もしくは、しだによる注。
  • 一、漢字、かなづかい、漢字の送りは現代表記に改めました。
  •    例、云う → いう / 言う
  •      処  → ところ / 所
  •      有つ → 持つ
  •      這入る → 入る
  •      円く → 丸く
  • 一、同音異義の一部のひらがなを、便宜、漢字に改めました。
  •    例、いって → 行って / 言って
  •      きいた → 聞いた / 効いた
  • 一、若干の句読点を改めました。適宜、ルビや中黒や感嘆・疑問符をおぎないました。一部、改行と行頭の字下げを改めました。
  • 一、漢数字の表記を一部、改めました。
  •    例、七百二戸 → 七〇二戸
  •    例、二萬六千十一 → 二万六〇一一
  • 一、ひらがなに傍点は、一部カタカナに改めました。
  • 一、カタカナ漢字混用文は、ひらがな漢字混用文に改めました。
  • 一、和暦にはカッコ書きで西暦をおぎないました。年次のみのばあいは単純な置き換えにとどめ、月日のわかるばあいには陰暦・陽暦の補正をおこないました。
  • 一、「今から○○年前」のような経過年数の表記は改めず、底本のままにしました。和歌・俳句・短歌は五七五(七七)の音節ごとに半角スペースで句切りました。
  • 一、表や図版キャプションなどの組版は、便宜、改めました。
  • 一、書名・雑誌名は『 』、論文名・記事名および会話文は「 」で示しました。
  • 一、差別的表現・好ましくない表現はそのままとしました。

*尺貫法
  • 寸 すん 長さの単位。尺の10分の1。1寸は約3.03センチメートル。
  • 尺 しゃく 長さの単位。1メートルの33分の10と定義された。寸の10倍、丈の10分の1。
  • 丈 じょう 長さの単位。(1) 尺の10倍。約3メートル。(2) 周尺で、約1.7メートル。成人男子の身長。
  • 歩 ぶ (1) 左右の足を一度ずつ前に出した長さ。6尺。(2) 土地面積の単位。1歩は普通、曲尺6尺平方で、1坪に同じ。
  • 町 ちょう (1) 土地の面積の単位。1町は10段。令制では3600歩、太閤検地以後は3000歩とされ、約99.17アール。(2) (「丁」とも書く) 距離の単位。1町は60間。約109メートル強。
  • 里 り 地上の距離を計る単位。36町(3.9273キロメートル)に相当する。昔は300歩、すなわち今の6町の定めであった。
  • 合 ごう 容積の単位。升の10分の1。1合は180.39立方センチメートル。
  • 升 しょう 容量の単位。古来用いられてきたが、現代の1升は1.80391リットル。斗の10分の1で、合の10倍。
  • 斗 と 容量の単位。1斗は1升の10倍で、18.039リットルに当たる。

*底本

底本:『東洋歴史物語』復刻版 日本児童文庫 No.7、名著普及会
   1981(昭和56)年6月20日発行
親本:『東洋歴史物語』日本兒童文庫、アルス
   1929(昭和4)年11月5日発行
http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person1679.htm

NDC 分類:220(アジア史.東洋史)
http://yozora.kazumi386.org/2/2/ndc220.html





東洋歴史物語(四)

藤田ふじた豊八とよはち

   一八、仏教とその東漸とうぜん


 しばらくシナ〔中国〕のお話ばかりしておりました。このシナとならんで東洋文明の一源流いちげんりゅうをなしたものはインドであります。ここですこしインドのお話をいたしましょう。
 インドの文明を建設した人種は、アーリア民族であります。この民族はもとからインドにいたわけではなく、中央アジア方面から紀元前一五〇〇年ごろ、インドへ侵入してきて、インダス川の上流地方に定住し、その地方にすでに住んでいた原住民のドラヴィダ族を服属ふくぞくせしめて奴隷どれいとし、そこに最初の社会をいとなみました。その時分じぶんのインド人の生活は、『ヴェーダ』という詩編によってうかがうことができます。
 インド人ははじめ牧畜ぼくちくたみでしたが、このインダス川の上流に定着している間に、インダス川のめぐみによって農耕生活をいとなむようになりました。ここからしてインドの文明というものが発祥はっしょうしたのであります。
 アーリア人の勢力は、このインダス川の上流からしだいにガンジス川の流域へとひろがって行きました。それにつれてインド人のあいだに階級というものが生じてきました。それは四種の社会階級で、これを四種姓しゅせいと申します。そのいちばん上に立っていたものが、ブラーマン〔バラモン〕僧族そうぞくで、宗教のことはいっさい彼らによって処理され、もっとも上位をめた階級でありました。つぎがクシャトリヤ(王族)で、王とか武士とかの階級であります。第三がヴァイシャ平民へいみんで、農耕をいとなむふつうの人民であります。
 以上三種の階級は、いずれもアーリア族であるが、第四のスードラ奴隷どれいの階級は、アーリア族ではないドラヴィダ族とうの征服された階級で、種々の賤業せんぎように従事しておりました。この四種姓のべつは、じつに厳重に守られ、その職業はいずれも世襲せしゅうでありました。そして当時のインド人の信仰していたバラモン教は、これら階級のあいだに尊卑そんぴの別を認め、僧族がいちばんとうとく、他はこれに服従する義務ありとするようにして、僧族はしだいに横暴に流れ、他種姓たしゅせいのうらみを買うようなことさえありました。
 こうした僧族のくバラモン教に反抗の声があがるのは当然でした。そしてこうした反抗は、僧族でない王族の階級からさけばれました。そのもっとも有力なものは仏教であります。
 仏教の開祖は釈迦しゃか牟尼むに、すなわちゴータマ・シッダルタと申します。ちゅうインドのカビラじょう〔カピラ城〕の王子です。カビラ城は釈迦族の城で、その釈迦族の賢人牟尼むにというわけで、釈迦しゃか牟尼むにと申すのです。なに不自由ない王子に生まれながら、人生問題の解決に心をなやまし、ついに王位と肉親の愛とを捨てて二十九歳のとき出家し、苦行六年のすえ、ついにさとりをひらき覚者がくしゃ仏陀ブッダになりました。
 仏教とはブッダ、すなわち覚者の教えであります。浄行じょうぎょうにより執着しゅうじゃくをすて、至楽しらくさかいすなわち涅槃ねはんの境に達して覚者となることを教えるのであります。ここに注意しなければならないのは、仏教において覚者となるためには四種姓ししゅせいの差別がない、奴隷のスードラだろうが平民のヴァイシャだろうが、一様いちように平等に無差別に成仏じょうぶつの機会があるということです。この点はバラモン教の僧族偏重へんちょうとはわけが違う点であります。釈迦はこうして教えをくことじつに四十余年、漸次ぜんじ社会の信仰を得るにいたりましたが、ついにクシナガラにおいて最後をとげました。しかし、この仏教という教えがひろくにおこなわれるにいたったのは、阿育王あそかおう〔アショーカ王〕の保護奨励しょうれいにまつところがすこぶるだいでありました。
 インドは、ちゅうインドのマカダ国〔マガダ国〕にチャンドラグプタという王があらわれて、はじめて強大な統一的国家になったのです。このチャンドラグプタの孫がここにもうす阿育王でした。王の代となってインドの最南部をのぞき、その他のインド全土は、その支配のもとに立つという未曽有みぞうの大帝国となりました。

釈迦説法の図


 はじめ王は、仏教を信じてはいませんでしたが、のちに深くこれに帰依きえし、これを国教のごとくあがめました。王は自分の国内に仏教をひろめるため、多くの頌仏しょうぶつの記念柱や教旨きょうしげる碑銘ひめいを国内いたるところに立て、そのあるものは今でも残っています。しかし王は、この教えを自分の国内に伝えるのみをもって満足せず、南部のタミール地方、海のかなたのセイロン島〔スリランカ〕、また北はヒマラヤ地方から中央アジア、遠くはシリア、エジプトにまで布教使ふきょうしをつかわして布教につとめたと伝えられております。
 また仏典ぶってん結集けつじゅうということがあります。釈迦の説法せっぽうをそのままあやまりなく伝えているかどうかと、僧侶どもが集まって開く会議のことです。これはそのときまで二度あったので、阿育王主催しゅさいのもとに第三回の結集がおこなわれたと伝えられております。かくて阿育王の事業は、仏教の保護奨励しょうれいで、その未曽有みぞうに広い領内への仏教の流布、また海外への布教という点がもっとも大切なのであります。
 阿育王あそかおうより以後インドは、また長いあいだ分裂しておりました。前に大月氏だいげっしのお話をいたしました。その大月氏の王にカニシカ王という人があらわれますと、その領土は北西インドからガンジスの中流地方をあわせ、またその勢力は東のほうパミールの東方にもおよびました。かかる大帝国の王がまた仏教を信ずることあつく、おおいにその伝播でんぱに意をもちいましたので、仏教はますます発展の勢いを得ました。仏教がパミール以東、シナのほうへ伝わったのも、おそらくこのカニシカ王の奨励と関係のあることと思われます。王はまた第四回の結集をおこなったと伝えられています。
 この仏教がいつごろからシナへ伝わったかは、はっきりわかりません。ある伝説によれば、後漢の明帝めいていが、白馬はくば金人きんじんを乗せた夢に感じて使いを大月氏につかわし、仏教や僧侶を輸入したというのですが、あまり信用もできない話です。とにかく前後の関係からみて、シナに仏教の入ったのは、前漢末から後漢のはじめにかけての時代だと思われます。もっともそのずっと前、しんの始皇帝のとき、仏教がいったんシナに入った形跡がないわけでもありません。
 それが後漢の桓帝かんてい霊帝れいていのころにいたりますと、大月氏だいげっしをはじめ、西域せいいき諸国の仏僧がぞくぞくとしてシナへまいりまして、おのおの熱心にその教えを伝えました。
 ことに仏教の経典けいてんは、インドのサンスクリットや、その西のほうの国々の言葉で書かれてあるので、それをシナに伝えるためには、それをシナあらためる必要があります。したがってこれらの僧たちは、まず仏典の翻訳に従事しました。こうして仏教というものがしだいにシナにひろまり、そしてシナを通じて日本・朝鮮とうの東方諸国へひろまってまいるのです。インドが東方諸国にあたえたもっとも大きいおくり物は、宗教、ことに仏教です。仏教といっても、釈迦しゃかの教訓がそのまま伝わっているわけではなく、時代的にいろいろ発展したものでありますが、その教えはきわめて崇高すうこうな、そして人道的なものであります。ある学者は、この仏教とキリスト教とをもって二大にだい人道的宗教と申したくらいです。それは人類に、より高き生活へ進むことを教え、人類に相互の愛を教えました。東方アジアの無数の人間は、このあいの教えによってみちびかれました。またあるものは今もみちびかれています。
 なるほどシナの文明というものが、アジア諸国に、また遠くはヨーロッパにおよぼした影響は、はかるべからざるものがあります。しかしインドの文明が、仏教なるものの形をかりてアジアにあたえた影響の深さと広さも、けっしてこれにおとらないものがあります。

   一九、後漢の衰亡すいぼうと三国


 後漢ごかん一時いちじさかんでしたが、しばらくするとまた衰運すいうんみちをたどりました。その原因は、宦官かんがん跋扈ばっこ外戚がいせきの横暴とでした。前にも申しました後漢一代のふうであった気節きせつは、この宦官の跋扈ばっこに対しておおいに反対しましたが、成功せずにおさえられてしまいました。かくて朝政ちょうせいはますます紊乱びんらんし、諸方に反乱を見るようになりました。
 こうしておこった群雄のうちでもっとも知略にんだのは、曹操そうそうでありまして、漢の天子献帝けんていようして長江ちょうこう以北の地を平定へいていしていました。そのとき漢の宗室そうしつえいという劉備りゅうびという人がありまして、はじめは曹操にっていましたが、のち劉表りゅうひょうという群雄のところにりました。ところが劉表の子のそうが曹操に降参するにおよんで、って夏口かこう〔のちの漢口かんこうというところにのがれ、謀臣ぼうしん諸葛しょかつりょうけいにしたがってたすけを孫権そんけんい、ともに曹操にあたることになりました。ときに孫権は江東こうとう江南こうなんの地に雄飛していましたが、やはり曹操に対しておそれをいだいていましたので、たちまち劉備との共同戦線をはったのです。
 曹操は八十万と称する大軍をひきいて長江ちょうこうを東へくだってせまってまいります。そこで孫権は周瑜しゅうゆという人に三万人をひきいさせ、劉備と力をあわせて曹操に対抗しようとしました。両軍は赤壁せきへきいました。
 曹操のほうの軍の船がくっついていたので、孫権軍のほうでは曹操の艦隊を焼き打ちにかけようとしました。十そうの船にれたしばだのおぎだの積み込み、これに油をそそぎ、それをまくでかくして上にはたを立てました。そして、前もって曹操のほうへ手紙をやっておいて降参をするように見せかけました。その十そうの船は、曹操の大艦隊のごく間近まじかに進んで火を発しました。ときに東南の風がはげしく、この十そうは燃えながら矢のように曹操の艦隊の中にとびこみました。さぁ、たいへんです。船はけ、人や馬はおぼれ死ぬというさわぎ。そこで周瑜しゅうゆらは、これをすすみったので北軍は完全にやぶれ、曹操は身をもってのがれました。
 この赤壁の戦いの結果、曹操の南下の勢いははばまれました。そこで諸葛亮は劉備にすすめて巴蜀はしょく〔いまの四川省〕漢中かんちゅう〔いまの陝西省せんせいしょうの地をめてここにらせましたので、ここに天下は曹操・孫権・劉備の三雄さんゆうのわかつところとなりまして、いわゆる天下てんか三分さんぶんの形勢を現出げんしゅついたしました。
 ここに劉備を助けていた諸葛亮という人は、ふつうに諸葛しょかつ孔明こうめいといっている人です。知謀のすぐれている点、忠誠な点で後世の亀鑑きかん〔かがみ。手本てほんともあおがれた人です。はじめはだれにもつかえずに田舎いなかにひきこもっていました。劉備はその人となりを聞いて、ぜひ会ってみたいと思い、孔明の草廬そうろに行きますけれどもなかなか会ってくれません。三度めにやっと会ってくれて、胸中きょうちゅうをひらいて劉備に時策じさくを語りました。そしてこの草廬へ三度も来てくれた意気に感じ、これから劉備の左右にあって劉備の知謀のしんとなりました。草廬そうろ三顧さんこなどいうのはこのことから申すのです。前に申しましたように、天下は三人の群雄によって三分さんぶんされておりましたが、そのうち北方にっている曹操の死後、その子曹丕そうひはついに擁立ようりつしていた献帝けんていにせまってそのくらいをうばい、国をと称して洛陽らくようみやこしました。これを魏の文帝ぶんていと申します。後漢は建国以来一九〇年ばかりでここにほろびました。
 魏が国を建てたので、劉備のほうでも自分の国を蜀漢国しょくかんこくと名づけ帝位に登り、自分のほうが漢の正統な後嗣者こうししゃ〔あとつぎ、子孫〕たることを主張したわけなのです。その後、孫権そんけんもまた帝位に登って国をと称しました。
 ここでしょくの三つの国が鼎立ていりつしたわけになります。これを三国さんごくといい、その時代のことを三国時代と申します。このうち蜀漢しょくかんがもっとも国が小さく、土地がかたよっていたので、帝業ていぎょうをなすのには適しません。しかし知謀忠誠の士、諸葛亮が帝をたすけ、君臣相和あいわしてよく国勢をささえておりました。一時は荊州けいしゅう〔いまの湖北省〕の地をあらそいましたが、帝の死後、りょうはその子後主こうしゅ劉禅りゅうぜんをたすけて天下をはかろうといたしました。まずし、それから後顧こうこうれいをなからしめるためにしょくの南に住んでいた南夷なんいというえびす征伐せいばついたしました。
 諸葛亮という人は、じつに兵法の達人でありました。この南夷征伐中に、彼がいかにすぐれた用兵家ようへいかであったかをしめす話が伝わっております。南夷には孟獲もうかくというのが大将でした。りょうはこれをりにして漢の陣営を案内させ、漢の陣取じんどりをよく見せておいてまた孟獲をはなしてやり、またこれをつかまえ七度ななたびはなし七度とらえました。けっきょく孟獲は、もうはなされてもろうともしないで、りょうに、「あなたは神さまみたいな人だ」といって、それ以来南夷なんいはんをはからなくなったと申します。
 りょうは南夷をち、後顧こうこうれいなしと見定めるや、北のかたをはかろうといたしました。魏を討つために出兵のさい、自分の心事しんじを述べ、またていたるの訓戒くんかいを教えた「出師すいしひょう」というものを劉禅りゅうぜんにたてまつりました。これは言々げんげん至誠しせいのあらわれで、ふつう、「出師の表」を見てかないものは人ではないなどというくらいです。りょうは用兵の達人で、魏はしばしばりょうによって震駭しんがい〔おそれてふるえおどろくこと。させられましたが、魏にも名将司馬しばがあって、よく防ぎましたので、りょうはついにこころざしを得ず、五丈原頭ごじょうげんとう〔いまの陝西省〕において出陣中、死没いたしました。
 この国のはしらのような諸葛亮がたおれてしまったので、しょくの勢いはしだいにおとろえ、魏の軍はついに劉禅をくだし、蜀をほろぼしてしまいました。

   二〇、しんと北方民族の侵入しんにゅう


 魏がしょくほろぼした話は前に申しました。諸葛亮と戦ってこうのあった司馬しばはついに国相こくしょうとなり、それより司馬氏の勢いのみさかんとなり、魏の天子をさえその自由にいたしましたが、ついに司馬しばえんにいたって帝位をうばい、都を洛陽らくように定め、国をしんと号しました。この人を晋の武帝ぶていと申します。このときちょうど呉の国は孫皓そんこうという人の代でしたが、この人が暴虐ぼうぎゃくで、人心をうしなっているのに乗じ、ついに呉をほろぼしました。かくして三国は、みな晋に統一されてしまいました。
 晋の武帝は前代の魏の時代において、魏の宗室そうしつが孤立の勢いに立ち滅亡をはやからしめたにかんがみ、一族を要地に分封ぶんぽうし、封建の制度にふくしました。ところが世の中のことはなかなか思うようにはいかないもので、今度はまたこれら一族の諸王らの形勢が強大となって、武帝の死後、八王はちおうの乱というものがおこりました。これは八人の諸王が順次に立って政権をにぎり、あるものはみずからていと称して擾乱じょうらん十六年のひさしきにおよびました。これに加えて当時、清談せいだんというものが流行いたしました。これは老荘ろうそうの思想と仏教の影響を受けて生まれたものですが、この時分じぶんことに後漢末ごかんまつ以来の社会が、まじめに世務につとめる清節せいせつであっても、それを認められないどころか、かえってそのために苦しめられるという社会であったため、この社会に生きるにそう四角四面しめんである必要はないという気分を生ぜしめました。そこで人々の中には俗務を離れ、法度はっと・礼節をって自然のままに生きようとするものも出てまいりました。彼らが清談のです。彼らはことだんじ、あるいは酒にふけり、世務との交渉をいっさいつのを信条といたしました。この清談の徒のうちでいちばん有名なのは、竹林ちくりん七賢しちけんとよばれる連中れんじゅうです。彼ら七人はつねに世俗の責務をすて、竹林のうちにあつまってばなれた話ばかりしていたのです。この七人のうち玩籍げんせき〔阮籍〕玩咸げんかん〔阮咸〕稽康けいこう〔�康〕などいう人が有名です。こうした清談のふうは、この時代上下にわたって風靡ふうびしたので、これが国勢の衰亡すいぼうをまねいたのはいうまでもありません。

図、竹林の七賢人


 晋国は、かくて八王の乱と清談の流行とによって外民族にほろぼさるるにいたったのです。晋国の衰勢すいせいに乗じて、その北方に活躍した外民族を総称して五胡ごこと申します。五胡とは五種類の匈奴きょうど鮮卑せんぴけつていきょうを申すのです。
 匈奴のお話は前に申しました。鮮卑せんぴのこともちょっと前に申しました。けつというのは匈奴の別種でして、これら三種は本来、北方の種族です。ところがあとの二つていきょうとは、西のほうチベット種族なのです。これらの種族は早くからシナ内地に移住するものが少なくありませんでしたが、晋のはじめごろになってはこの移住塞外さいがい民族の数はますます増す一方でした。ところが晋がみだれるに乗じて匈奴はおおいに勢威をはり、その酋長しゅうちょう劉裕りゅうゆうにいたってついに晋室をほろぼしてしまいました。
 かくて晋室はいったん亡びましたが、司馬しば曾孫そうそんにあたるろうやおうえいは、建康けんこう南京ナンキンの古称〕を都として帝位につき、江南こうなんたもって晋を再興さいこうしました。これを元帝げんていと申します。そしていったんほろんだ晋のことを西晋せいしんもうすに対し、この元帝の再興した晋のことを東晋とうしんと申します。西晋はとにかく勢力が微弱であったにせよ、シナ全体をりょうしたのに、この東晋はその領するところ長江ちょうこう以南の地にすぎません。しかしこの晋室の江南こうなん遷移せんいということは、シナ文化の上にきわめて重大な意味を持ったのです。
 もともとシナの文化というものは黄河の流域におこり、それが長江のほうにまで広まったのです。けれどもとにかく文化の中心は北部シナでありました。それがこの五胡ごこの侵入にともなって北部シナがその活動舞台となり、晋室が南遷なんせんするにつれて江南の地がシナ文化の保存せらるる地になり、江北こうほくの地は胡族こぞく跋扈ばっこにまかせられてしまいました。ここから江南の地の文化というものは、急に進展しはじめまして、これからしだいにシナの文化の中心が南シナにあるような形勢を現出げんしゅつするにいたるのです。現在においてもシナは、北部よりも南部のほうがだいたい進んでおります。
 こういうふうに晋室の南遷なんせんということは、シナの文化の上にかなり重大な関係を持ったのです。晋が南にうつったのち、江北こうほくの地には五胡ごこおよび漢族がこもごも国をて、また互いに勢力をあらそいました。そのあいだ一三〇年におこったりほろんだりした国が、前後十六におよびました。ですからこれを五胡ごこ十六国じゅうろっこくなど申します。しかしこの間に一度、江北の地が統一を見たことがあったのです。前秦ぜんしんという国の苻堅ふけんという王のとき、とにかく江北はいったん統一されました。苻堅は江北を統一したのみならず、西域せいいき諸国を経略せしめ、また東方、朝鮮半島の高句麗こうくり新羅しらぎと通じ、この苻堅のちょう入貢にゅうこうしたものは六十余国におよんだと申します。
 苻堅の勢いはかく強大となるにつれ、江南こうなんに対立している東晋をなんとかしたいのは当然のことでした。ところがその東晋のありさまはどうでしたでしょうか。東晋は国初こくしよ以来しばしば内乱があって、北方をかえりみるのいとまがありませんでした。しかし東晋の君臣は中原ちゅうげんの回復ということをけっして忘れてしまったのではありませんでした。を見ては北伐ほくばつのことをはかりましたが、なかなか思うようには成功しませんでした。そのうちに北に苻堅ふけんが出て東晋をひとつぶしにつぶそうということになってまいりました。そのとき、多くの人が苻堅をいさめたのでしたが、苻堅はかないで、
「わが大軍が持ってるむち長江ちょうこうに投げこむだけで、長江の水は止まってしまう」
といって、長江のけんをもとしないで出兵したのでした。歩兵六十余万、騎兵きへい二十七万という大軍で南下の勢いをしめしました。
 ときに晋の宰相は謝安しゃあんという人物でしたが、自分の弟の謝石しゃせきおい謝玄しゃげんをして八万の兵をひきいて苻堅の大軍をふせがせました。前秦の軍は�水ひすいいたりました。両軍は川をはさんで相対あいたいしました。そのとき謝玄は前秦軍に使いをやって、じんを移してすこしく退しりぞき、自分のほうの兵が渡れるようにしてもらい、渡ってから勝負を決したいからと申し入れました。苻堅ふけんはその申し入れをき入れました。苻堅のつもりでは、晋兵のなかば川を渡ったところを急につつもりだったのです。ところがなにしろ苻堅の軍は百万の大軍ですから、そのじんをちょっとひっこめるにしても、たいへんな混乱で後退こうたいを止めようとしても止まらず、ついに総崩そうくずれになってしまいました。晋兵はこれに乗じて追撃したのは申すまでもありません。前秦ぜんしんの兵は風の声やつるの鳴き声を聞いて、晋の兵が来たのではないかというあわてぶり、苻堅はわずかに身をもって都の長安ちょうあんに帰りました。
 この�水ひすいの戦いの勝ったという知らせが宰相の謝安しゃあんのところに達したとき、謝安はちょうど客が来ていてをかこんでおりました。捷報しょうほう〔勝利のしらせ〕を聞いても謝安は何も感じないような顔をしていました。しかし、その客が帰るやいなや謝安はおどりあがってよろこんだそうです。
 とにかく晋としても国運をしての大戦争でしたが、これに勝つを得て東晋の命脈めいみゃくはいくぶんはびたのです。しかし、この戦争はひとり東晋の運命にのみ関係を持ったのではなく、広くいってシナの文化に大きいかかわりのあったことです。というのは、東晋はとにかくシナの文化を保存していた国でしたが、もしこの�水ひすいの戦いにこの国がやぶれて前秦の領土になってしまえば、ここに保存せられたシナの文化というものも、ここに大きな変化をあたえられてしまったにちがいありませんから。
 前秦のほうは�水の戦後、国勢とみにおとろえ、まもなくほろびました。前秦の滅後は、いったん統一できた江北こうほくがまたまた分裂し、諸国の興亡があいつぎました。鮮卑せんぴの一部に拓跋たくばつけい道武帝どうぶていというのがありましたが、これが北方に国をて魏北魏ほくぎと号しました。都を山西省さんせいしょう平城へいじょう〔いまの大同市〕に定めましたが、この魏の勢いはしだいに隆盛となり、太武帝たいぶていのとき、ついに江北こうほく一帯の統一を完成しました。魏はかくて江北の統一をおこないましたが、江南こうなんにおいて重大な変化がおこりました。晋は北方諸国の分立ぶんりつによっていくぶん安穏あんおんを見ましたが、内乱がしばしばあって朝威ふるわず、将軍の劉裕りゅうゆうが出るにおよんで軍功がありその勢威がさかんとなり、ついに晋室をうばってしまいました。これがそうの武帝で、都を建康けんこうに定めました。
 かくて江北は魏、江南はそうという対立になりました。これからのちを南北朝の時代と申します。

   二一、南北朝


 南北朝なんぽくちょうと申すわけは、この当時、シナは南北の二つに分裂し、北には北でいくつかの王朝が交代し、南ではまた南でいくつかの王朝が興亡いたしました。そこで北の諸王朝のことを北朝ほくちょうといい、南の諸王朝を南朝なんちょうと申しますから、それを合わせて南北朝の時代ともうすのです。
 南朝の諸王朝の最初は、前に申しましたそうでしたが、それからせいりょうちんと王朝がうつりました。じつにこの時代の天子のくらいほどあぶないものはないので、実際、薄氷はくひょうの上を歩くようなものでして、簒奪さんだつということがあいつづいておこりました。一五〇年ほどのあいだの南朝の天子は、全部で二十四人、そのうち終わりをよくしたのはわずかに十人、あとの十四人はみな非業ひごうの最後をとげたのでした。また、北朝の天子にしたところで、その運命はあまりめぐまれたものではありませんでした。二十六人の天子、終わりのよかった人は十人のわりです。北朝の最初の王朝は、前にも申しました後魏こうぎ〔北魏の別称〕でした。これがのちに分裂して東魏とうぎ西魏せいぎとなり、そのおのおの北斉ほくせい北周ほくしゅうとによってほろぼされました。のち北周は北斉をあわせましたものの、その北周も楊堅ようけんというものにうばわれました。この楊堅がずい文帝ぶんていで、この隋はついに南朝の最後の王朝ちんほろぼして、南北両朝を一統してしまいました。
 この陰惨いんさんな空気のみなぎった南北朝の諸天子のうちで、文事ぶんじをもって聞こえた二人の天子があります。その一人が後魏の孝文帝こうぶんていです。後魏という国は、前にも申しましたように塞外さいがいからたった民族であって、ただ武弁ぶべん一方いっぽうというふうでした。ところが、その天子に孝文帝という人が出ますと、この人はおおいに文治ぶんじにつとめましたが、とくにシナの文化に心酔しんすいしてしまったのです。とにかくシナの文化というものは立派なものですし、ことに塞外の野蛮人やばんじんひとしい人間にとっては立派ににうつったでしょうから心酔するのも無理はないことです。そこでまず拓跋族たくばつぞく固有の国俗こくぞく卑雑ざつなのをシナふうにならってあらためようとしました。まず、都を北のほうの平城へいじょうからシナの都としてひさしい歴史を持っている洛陽らくようにうつしました。それから固有の言語・風俗まで全部シナふうにあらためさせようとしました。そのうえ、シナ人との雑婚ざっこんを奨励いたしまして、人間までシナ人に近いものにあらためようといたしました。
 この改革はいかにも極端でありますが、ある文化に心酔し、それをまねようとする時にはよくこんなふうに極端に進むものです。げんに日本においてさえ、そう遠くない時代にこれにたこともいくらもあったくらいですから。しかしこの孝文帝の改革は、拓跋族たくばつぞくをして文弱ぶんじゃくに流れしめまして、国勢の衰運をまねきました。こうした武力がいちばんの取りの国が、武力が弱まってしまっては仕方しかたがないものです。もう一人は、南朝のりよう武帝ぶていです。この人の治世じせい四十八年、じつに太平を楽しみましたが、武帝は完全に武事ぶじをすて、あつく仏法に帰依いたし、その保護に任じました。
 禅宗ぜんしゅうをはじめてシナに伝えた達磨だるまがインドから来て、このりょうの武帝と法談ほうだんをまじえた話は有名です。しかし、武帝はひとり仏教を保護したのみならず、学芸をもきわめて保護奨励し、またその王子らも才学さいがくをもって聞こえたので、文学の士が多く輩出はいしゅついたしました。しかしこの武帝も、その最後はあまり幸福ではありませんでした。叛臣はんしん侯景こうけいに苦しめられて憤死ふんしするというありさまでした。
 この南北朝の時代は、政治的に見れば事件の多い血なまぐさい時代ですけれども、文化発展の方面から見ればいちじるしい飛躍をした時代と見ることもできます。もっとも南朝と北朝とは、諸種の文化にいくぶんずつおもむきをことにするところもありました。なにしろ南部の地は、晋室南遷なんせん以来の文化の系統をうているのに対し、北方には外民族の国をてるのが多かったためにこうなったのです。また、人の気風きふうも南と北とではおおいに変わっていまして、南がいくぶん浮薄ふはくなのに対して北は質実しつじつでありました。こうした点から北朝では経学けいがくおもんぜられましたが、南朝では老荘の学のほうがこのまれ、また詩賦しふなどもさかんだったのです。とにかく文学・美術の方面においては、だいたい南朝が卓出たくしゅつしていました。有名な「帰去来ききょらい」のを書いたとう淵明えんめいしゃ霊運れいうんなどは詩文の大家たいかでしたし、書法の大家としてはおう羲之ぎしがことに知られています。彼の書いた「蘭亭らんていじょ」は、よくお手本てほんにも使われているほどの名手めいしゅでした。には�之がいしという人がおります。この人のいた絵が、今、イギリスにつたっております。
 この時分じぶんになって仏教はことにさかんになり、外国からもえらい僧侶も、またシナのほうから仏法を求めに外国、ことにインドに出かけるものも出るくらいでした。こうしてこの時代、仏法が流行したので、それが東方朝鮮・日本のほうへと伝わるようになったのです。
 仏教というものは、もともとシナのものでなく外国から来たものでしたが、これに対し、ここにシナにまた一つの宗教が発生するようになりました。それは今でもシナに大きい勢力をもっている道教です。その起原はもっと古いのですが、とにかく道家どうけの説にもとづき、それに民間の卑俗ひぞくの信仰を取り入れてできたものですが、しだいに仏教のほうからいろいろり物をして、体裁ていさいをととのえたものです。後魏の時代には、かなり広くおこなわれ、その太武帝たいぶていなどはこれを信ずるのあまり、仏教をおおいに迫害いたしました。
 とにかく、これから道教と仏教とはかたきのようにしばしばいがみったのです。

   二二、ずい煬帝ようだい


 南北両朝の対立したのがずい文帝ぶんていだということは、前にお話しいたしました。この天子はまた内治ないじにもちいて刑律けいりつの改正をおこなうとか、賦税ふぜいの軽減をはかるとかいたしました。ところがこの父をしいしてくらいについた煬帝ようだいは、きわめておおがかりなことの好きな人でした。この人はさかんに外国経略をやり、人をつかわして西域せいいきの二十七国を服属せしめるとか、また当時、北のほうに勢威をふるった突厥とっけつ操縦そうじゅうするとか、南のほう林邑りんゆう〔いまのインドシナ半島南東部〕、西のほう吐谷渾とよくこん〔いまの青海せいかい地方〕を征服したりいたしました。ことにこの時代に琉球りゅうきゅうを征服いたしました。琉球と申しますのは、今の台湾たいわんのことであります。こうして煬帝ようだいはおおいに隋の国威をかがやかしたのであります。
 ちょうど日本の推古すいこ天皇の時代にあたります。ときの摂政の聖徳しょうとく太子たいし小野おのの妹子いもこをつかわして、おおやけの交際をおひらかせになったのがこの煬帝ようだいのときです。
づるところの天子、書をるところの天子にいたす、つつがなしや」という調子ちょうしの国書で、勢威隆々りゅうりゅうとしておごれる煬帝に向かってさえ、なお対等の位置に立って交際を結ばれようとされるところ、聖徳太子の見識のほどをしのぶにるものがありましょう。
 この煬帝ようだいという人は、天性がきわめて派手はで好きでして、土木事業をさかんにやりました。所々しょしょ壮麗そうれいな離宮をつくる。それから運河を掘って黄河と揚子江ようすこう〔長江の通称〕との水を連絡いたしました。ふつうに大運河と称するのがこれであります。とにかく、これはすこぶるたいした土木事業でして、万里の長城とならべてシナの二つの大土木事業、二つの不思議とでもいうべきでしょう。煬帝はこの運河の両岸にずっとやなぎを植えさせ、そのところどころに四十余の離宮を置き、そのあいだを龍船りゅうせんに乗って遊幸ゆうこうをいたしました。しかしこの運河が単に煬帝の贅沢心ぜいたくしんを満足せしめんがためにのみ作られたのではありません。それには南北の交通を便べんにしようとする経済的な、また軍事的な目的があったようです。この運河はもちろんいくたびかの改修はたでしょうが、げんにいま残っております。そして現にいまもちいられております。なるほど今は鉄道ができたので、昔ほどのうちはありませんが、鉄道のできる前は、これが運輸交通上の重要な幹線かんせんをなしておりました。とかく煬帝は派手はでなことの好きな人でした。月夜に宮女きゅうじょ数千をしたがえてえんに遊び、清夜遊せいやゆうきょくという音楽を作って馬上にこれをそうするという遊びは、もっともこのんだところでした。

煬帝、清夜遊行の図


 こうした乱費は、多数国民の犠牲ぎせいのうえになりたつものです。それが民力の疲弊ひへいをまねき、民心を離れさせたのはいわずともあきらかでした。しかるに煬帝は、高句麗征伐せいばつを計画しました。これがいんとなって隋は滅亡いたしました。
 そのお話をする前に、まず朝鮮半島の形勢をべる必要があります。朝鮮北部には漢の四郡〔前号(第四巻第四八号)「一五、武帝の功業」参照〕があり、これがシナの勢力範囲であり、その南には馬韓ばかん弁韓べんかん辰韓しんかんの三韓の韓人種の国があったことは前にも申しました。この形勢は前漢の末すでに変化しはじめ、鴨緑江おうりょっこうの上流地方に、高句麗こうくりという国がおこりました。その勢力はしだいに強大となって漸次ぜんじ南下し、漢人の勢力のもとにあった古朝鮮こちょうせんの地を占領してしまいました。
 そのころ、三韓の地にも変化がおこり、百済くだらという国が馬韓ばかんの地におこり、新羅しらぎという国が辰韓しんかんの地におこりました。これら高句麗・百済・新羅の三つの国が鼎立ていりつしましたので、これを三国さんごくといい、この時代を三国時代と申します。
 三韓のうちの弁韓べんかんの地に任那みまなという国がおこりましたが、国が小さくて独立がむずかしく、ために海をこえて日本に助けを求めました。そこで日本はそこに勢力をのばし、そこから新羅・百済と半島の中部以南は、日本の勢力にいったんは属しました。
 この三国のうち、北部の高句麗を隋の煬帝は征伐せいばつしようといたしました。高句麗は隋に入貢にゅうこういたしませんので、天下の兵をし、ていみずからこれをひきいました。その軍は一〇〇万と号しました。帝は遼東城りょうとうじょうめましたが、城はよく守ってついに勝たず、また翌年、再征さいせいしましたが、またもや遼東にやぶれました。この大失敗にかかわらず、煬帝は第三回の征伐の軍をおこそうとしましたので、人民の動揺はそのきょくに達し、群雄がところどころに蜂起ほうきしました。そのうち大原たいげんの守将、李淵りえんという人は、その子の世民せいみん〔唐の太宗〕にすすめられて兵をあげ、長安をおとしいれました。ところが煬帝という人は、今の楊州ようしゅう〔揚州〕、その時分じぶん江都こうが大好きで、よく江都に遊びに行きましたが、とうとう江都の離宮にいすわって北へ帰ろうともせず、淫虐いんぎゃくにはなはだしく、酒盃しゅはいを口から離しませんでした。そのためついに臣下にくびり殺されてしまいました。
 しかし隋という時代は、三国以来の分裂をまとめ、また北方民族の侵入跋扈ばっこをひとまず一掃いっそうしました。シナ民族の勢威を四周ししゅうの外民族にしめした点などにおいて、次代じだいの唐の隆盛のさきがけをなしているものであって、煬帝の治世なども、こうした方面から見てやる必要もあります。

   二三、とう隆盛りゅうせい


 隋にかわったのはとうでした。李淵りえんが帝位について高祖こうそと申しましたけれども、群雄はまだ所在に割拠かっきよしておりました。そこで世民せいみんは四方の討伐にしたがい、およそ六年で天下は平定へいていされました。
 世民は、ついに父高祖こうそのゆずりを受けて天子になりました。これを太宗たいそうと申します。太宗はじつに不世出ふせいしゅつ英主えいしゅでした。ひとりシナといわず世界においてもまれに見る理想的な君主でございます。それにこれを助けるのに杜如晦とぎょかい房玄齢ぼうげんれい魏徴ぎちょう王珪おうけいらの名臣、また李靖りせい李勣りせきのごとき名将をもってしましたので、海内かいだいおおいにおさまり、また四隣しりんことごとく帰服いたしました。
 太宗は天下ををもって得ましたが、これをおさめるのには、ぶんをもってする方針でございました。かくして実現せられた太平の政治を、貞観じょうがんと申すものであります。太宗は律令を定めるなど、いろいろ政治につくしましたが、その模範的の言行げんこう、または臣下との治政上の問答などは、貞観じょうがん政要せいよう』という書にっています。この書物は、後世の為政者いせいしゃに、ことに日本においてもよく模範として読まれたものでした。
 太宗についでくらいについた高宗こうそうは、その器量きりょうはすこしおとっていましたが、前代の遺業を完成しました。この太宗・高宗二代のあいだが、唐代の最盛期であり、また広くいって漢民族の最隆期さいりゅうきであったといい得るかもしれません。それは地域的にシナの勢力がびたという点からいっても、また文化的にいっても最盛の時期であったといえるでしょう。
 まず、この二代における対外関係から見てまいりましょう。南北朝の末に突厥とっけつという部族が北におこりまして、従来、北でいばっていました柔然じゅうぜんをたおしてシナの北方に大勢力をりました。しかし、それは東西の二部にかれておりました。この「突厥とっけつ」という語は、「トルコ」という語の音訳で、それはトルコ種でした。その王は可汗かかん〔カン、もしくはハーン〕とよばれていました。この突厥は、隋の代にもシナと交渉を持ちましたが、唐がおこる際にも、高祖はひがし突厥とっけつの力をりて隋をほろぼしたのです。ですから突厥のほうでは唐を非常にかろんじ、しばしば入寇にゅうこうして侵略をくわだてました。太宗たいそうの初年、東突厥に内乱があり、また飢饉ききんがあって国勢がおとろえたのに乗じ、帝は将軍をつかわしてこれをたしめ、そのおさ頡利きつり可汗かかんとらえて、東突厥を亡ぼしてしまいました。
 西にし突厥とっけつのほうも南北朝の末、東ローマと同盟してペルシャをやぶったり、西域諸国を服属せしめたり、おおいにるいましたが、高宗は定方ていほうをつかわして、これをち亡ぼしました。
 唐のはじめのころ、アラビアにマホメットが出て、イスラム教、すなわちマホメット教をはじめると同時に、アラビアを統一してサラセン帝国〔イスラム帝国〕てました。シナの歴史では、この帝国のことを大食タージこくと申します。このマホメット教は、マホメット教以外の異教徒を征服し、それをマホメット教徒に改宗せしめることを、宗教上の義務といたしました。そこでマホメットおよびその後嗣者こうししゃたちは諸方の経略に従事し、ヨーロッパ、アジアにわたる大帝国をつくりました。ですからこの時代には、唐という大帝国とサラセン帝国とが相接あいせっしてできたのです。
 この二国のあいだにどうした交渉があったか。サラセン帝国がペルシャをほろぼしたとき、ちょうどペルシャはササン朝でしたが、ペルシャの王族のペロスというものがのがれてシナにたり、シナの後援を得て本国を回復しようとしました。しかし、そのことはらずにやみました。大食タージはまた高宗こうそうのとき、使いをつかわしてよしみを通じました。この大食タージじんが、のちに多く南海なんかいからシナへ貿易にた話は、のちにいたします。
 太宗たいそうのとき、西域諸国、ことに天山てんざん南路なんろの諸国を服属させ、また吐谷渾とよくこんって青海せいかいの地方を占領しましたので、唐の領土は、今のチベット吐蕃とばん相接あいせっするようになりました。チベットは当時、勢いがすこぶるさかんでしばしば侵寇しんこうしましたが、ついに唐としてこんを通じました。このチベットによめに行った公主こうしゅが、非常に熱心な仏教信者でした。これまでチベットには仏教は入っていなかったのですが、この公主の感化で仏教がおこなわれるようになり、今でもさかんにおこなわれています。またインドもこの唐の威名を聞いて、はるばる使いをつかわして入貢にゅうこうするというありさまでした。
 当時、東のかた朝鮮半島の形勢は、百済くだら高句麗こうくり新羅しらぎの三国鼎立ていりつの勢いでありましたが、高句麗と百済とは相結あいむすんで新羅をおかしました。百済の背後には日本がひかえていたわけです。ところが新羅は、たすけを唐に求めました。そこで唐では、太宗がみずから高句麗をせいしました。このときいさめたものもありましたが、太宗はこれをかずに兵を出したのでした。遼東りょうとう安市城あんしじょうをかこんでめること六かげつにして、なおも落城らくじょういたしません。そのうちにだんだん寒くなってくるのでやむなく退却し、この太宗の高句麗征伐せいばつは大失敗に終わったのでありました。
 つぎの代の高宗こうそうになって方策ほうさくを変えまして、百済からかたづけることにいたしました。定方ていほうをつかわして、まず百済をほろぼしました。日本はもちろん百済を援助しておりましたので、ときの天子、斉明さいめい天皇の摂政中大兄なかのおおえの皇子おうじはおおいに援兵えんぺいを送りましたが、その軍は白村江はくそんこう江口こうこうにおいて、唐の水軍にやぶられてしまいました。かくしてついに百済は滅亡の悲運にあい、ついで高句麗も同じ運命をくりかえしたのです。しかるに唐の援助を得て他の二国をほろぼした新羅は、なにも心から唐にふくしていたわけではない。ただ、他の二国への対抗上、唐を利用しようとしているだけであったので、新羅もまもなく唐にそむいて高句麗・新羅〔百済か〕の両国の故地こちおかし、大同江だいどうこう以南の地はことごとく新羅の領土となってしまいました。これからのちの朝鮮を、新羅統一時代と申します。
 日本はかくてついに朝鮮半島から勢力をうしないました。この中大兄なかのおおえの皇子おうじ、のちの天智てんち天皇が筑紫つくし水城みずききずき、また諸地方に城塞じょうさいをつくったことは、唐の来寇らいこうそなえるためであったことは、みなさんの知っていられるところであります。
 これら諸国の他、いまのシャム〔いまのタイ王国〕、インドシナの地方や、また南海なんかい諸国、今のジャヴァ、スマトラなども唐に来帰らいきしましたので、唐の勢力のおよぶ属地ぞくちはすこぶる広く、唐では各要地に六つの都護府を置いて、この管轄かんかつにあたらしめました。

   二四、唐の衰運すいうん


 唐の極盛期きょくせいき太宗たいそう高宗こうそうの二代でしたが、それからのちになりますと、国勢がすこしおとろえた気味きみでした。ことにふつう武韋ぶいわざわいと申しますが、皇后こうごう武氏ぶし韋氏いしまつりごとをもっぱらにしたことがあるので、これがおおいにたたったのです。ことに武后ぶこうなどは、何度も天子をはいし、あげくにみずから帝位に登って国をしゅうと号したりしました。則天そくてん武后ぶこうというのはこの人です。
 この女禍じょかあとをうけついだのが玄宗げんそうという皇帝でした。多くの名臣をもちいて極力を政治にもちいましたので、国力またふるい、天下じつに泰平たいへいを楽しむこと三十年、多くの詩人なども出て文運ぶんうんもふるいました。これを開元かいげんといい、太宗の貞観じょうがんとならべ称せられます。一時、唐の勢力の弱ったのに乗じ、辺境には外民族の侵寇しんこうが激しくなったので、玄宗はこれを防ぐため、辺境の地に節度使せつどしというものを置きました。それは全部でとおありまして、兵馬・財政の実権をあたえられ、その地の防備をたくされたものだったのです。
 この節度使なるものは、はじめは辺境にだけ置かれたのでしたが、のちになると内地にも置かれるようになりました。そして、節度使のことを藩鎮はんちんと申しますが、この藩鎮の跋扈ばっこということが、唐室の滅亡する一因となったのです。そしてこの節度使の横暴は、すぐに玄宗のときにさえ安史あんしの乱の形となってあらわれてまいりました。
 玄宗は、はじめのうちはおおいにまつりごとにつとめましたが、後年まつりごとにあきて、驕奢きょうしゃ遊宴ゆうえんに心をかたむけました。このとき帝は楊貴妃ようきひという美人を寵愛ちょうあいして日夜宴楽えんらくをこととし、まつりごとをかえりみませんでした。シナは温泉の少ない国ですが、驪山りざんというところにめずらしく温泉があります。玄宗はこの驪山りざんの離宮にしばしば楊貴妃ようきひをともなって遊びました。これはシナの詩人などのこのんだ題目だいもくになりました。
 ときにあん禄山ろくざんという男がありました。もともとシナ人でない胡人こじんでしたが、たくみに楊貴妃ようきひに取りって帝の信任を、ついに一人で三つの節度使をねるという大勢力となりました。もともと野心やしんがあったので、ここにいたって自分の兵およびけい契丹きったんの外民族の兵をあわせ、十五万の大軍をもって南下してまいりました。当時、泰平たいへいひさしくつづいたので、百姓は戦争というものを知らず、無人のを行く勢いで洛陽らくようをおとしいれました。がん真卿しんけいという書の大家たいかであった人や、かく子儀などが勤王の兵をあげてこれを防ぎました。ぞくの勢い猛烈もうれつでふせぎきれません。ついに長安にまでせまってまいりましたので、玄宗はやむなくしょくのほうへのがれました。馬嵬ばかいというところまでまいりますと、将士しょうしえ疲れておおいに不平がたかまり、帝にせまって楊貴妃ようくびり殺させてしまいました。絶世の美人も、はかなく馬嵬ばかいにあわれな最期さいごをとげたのです。




図、楊貴妃

 玄宗はくらいを子の粛宗しゅくそうにゆずりました。まもなく賊軍ぞくぐんのほうに内紛がおこり、あん禄山ろくざんは殺され、思明しめいがこれにかわりました。唐のほうでは力がたりないので、漠北ばくほくに住んでいる回オウイグルの援助を求めてこれをち、粛宗の子の代宗だいそうのとき、ようやくこの乱をたいらぐるを得たのです。この安禄山また史思明の乱は、前後九年におよんで中原ちゅうげんをさわがしたので、うちは国力を消尽しょうじんし、外に対しては外敵の侵寇しんこうをあたえ、これから唐の国運はおとろえはじめたのでした。

くにやぶれて山河さんがあり、しろはるにして草木そうもくふかし。
ときに感じて花になみだそそぎ、
わかれをうらんでとりこころをおどろかす。
烽火ほうか三月さんげつにわたり、家書かしょ万金ばんきんあたる。
白頭はくとうけどもさらにみじかく、
すべさんえざらんとほっす。

 この乱にあった唐の詩人はこう歌っています。その国土乱流らんるのさまを見ることができましょう。
 安史あんしの乱をたいらげるのに、唐はウイグルの力をりたことは前に申しました。このウイグルはもともと突厥とっけつの部下だったのですが、それをたおして漠北ばくほくを一統したのでした。安史の乱に恩を唐に売ったので、唐に対して横暴をきわめ歳幣さいへいをむさぼり、またしばしば入寇にゅうこうかさねておおいに唐を苦しめました。チベットもまたしばしば入寇し、代宗だいそうのときなどにはいったん長安をおとしいれたことさえありました。
 こうした外患がいかんに加えて、うちでは藩鎮はんちんの勢いが強大となり、朝命にしたがわないため国用もらないという始末でした。それに朝廷の内部にあっては宦官かんがん跋扈ばっこもはなはだしく、あるいは天子をしいしたり、あるいは天子を自由に擁立ようりつしたりいたしました。あるいは近衛兵このへいの指揮権をにぎったり、あるいは国子監こくしかんという大学の監督権をおさめ、あるいは税務の実権をめたりして、天子も宰相さいしょう虚位きょいようするにすぎませんでした。
 朝政ちょうせいのかかる紊乱びんらんが、天下の大乱をひきおこすのは当然でして、盗賊が各地に蜂起ほうきいたしました。そのうちでも黄巣こうそうというものが、もっとも暴威をふるったのでした。
 こうして内憂ないゆう外患がいかんに苦しめられた唐室が、衰弱しきったのはいうまでもありません。そしてついにしゅ全忠ぜんちゅうというものが、昭宗しょうそうしいして唐をほろぼしてしまいました。シナ史において漢民族の極盛期であり、漢人文化の最高点ともいうべき唐は、かくて二九〇年で亡んでしまったのであります。(つづく)



底本:『東洋歴史物語』復刻版 日本児童文庫 No.7、名著普及会
   1981(昭和56)年6月20日発行
親本:『東洋歴史物語』日本兒童文庫、アルス
   1929(昭和4)年11月5日発行
入力:しだひろし
校正:
xxxx年xx月xx日作成
青空文庫作成ファイル:
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東洋歴史物語(四)

藤田豐八

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)東洋《とうよう》

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/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)いろ/\
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
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   一八、佛教《ぶつきよう》とその東漸《とうぜん》

 しばらく支那《しな》のお話《はなし》ばかりしてをりました。この支那《しな》と竝《なら》んで東洋《とうよう》文明《ぶんめい》の一源流《いちげんりゆう》をなしたものはインドであります。こゝですこしインドのお話《はなし》をいたしませう。
 インドの文明《ぶんめい》を建設《けんせつ》した人種《じんしゆ》は、アーリヤ民族《みんぞく》であります。この民族《みんぞく》はもとからインドにゐたわけではなく、中央《ちゆうおう》アジア方面《ほうめん》から紀元前《きげんぜん》千五百《せんごひやく》年頃《ねんごろ》、インドへ侵入《しんにゆう》して來《き》て、インダス川《がは》の上流《じようりゆう》地方《ちほう》に定住《ていじゆう》し、その地方《ちほう》にすでに住《す》んでゐた原住民《げんじゆうみん》のドラヴイダ族《ぞく》を服屬《ふくぞく》せしめて奴隷《どれい》とし、そこに最初《さいしよ》の社會《しやかい》を營《いとな》みました。その時分《じぶん》のインド人《じん》の生活《せいかつ》は、吠陀《ぶえだ》といふ詩篇《しへん》によつて窺《うかゞ》ふことが出來《でき》ます。
 インド人《じん》は初《はじ》め牧畜《ぼくちく》の民《たみ》でしたが、このインダス川《がは》の上流《じようりゆう》に定着《ていちやく》してゐる間《あひだ》に、インダス川《がは》の惠《めぐ》みによつて農耕《のうこう》生活《せいかつ》を營《いとな》むようになりました。こゝからしてインドの文明《ぶんめい》といふものが發祥《はつしよう》したのであります。
 アーリヤ人《じん》の勢力《せいりよく》は、このインダス川《がは》の上流《じようりゆう》から次第《しだい》にガンヂス川《がは》の流域《りゆういき》へと廣《ひろ》がつて行《ゆ》きました。それにつれてインド人《じん》の間《あひだ》に階級《かいきゆう》といふものが生《しよう》じて來《き》ました。それは四種《ししゆ》の社會《しやかい》階級《かいきゆう》で、これを四種姓《ししゆせい》と申《まを》します。その一番《いちばん》上《うへ》に立《た》つてゐたものが、ブラーマン(僧族《そうぞく》)で、宗教《しゆうきよう》のことは一切《いつさい》かれらによつて處理《しより》され、もっとも上位《じようい》を占《し》めた階級《かいきゆう》でありました。次《つ》ぎがクシヤトリヤ(王族《おうぞく》)で、王《おう》とか武士《ぶし》とかの階級《かいきゆう》であります。第三《だいさん》がヴアイシヤ(平民《へいみん》)で、農耕《のうこう》を營《いとな》む普通《ふつう》の人民《じんみん》であります。
 以上《いじよう》三種《さんしゆ》の階級《かいきゆう》は、いづれもアーリヤ族《ぞく》であるが、第四《だいし》のスードラ(奴隷《どれい》)の階級《かいきゆう》は、アーリヤ族《ぞく》ではないドラヴイダ族《ぞく》等《とう》の征服《せいふく》された階級《かいきゆう》で、種々《しゆ/″\》の賤業《せんぎよう》に從事《じゆうじ》してをりました。この四種姓《ししゆせい》の別《べつ》は、實《じつ》に嚴重《げんじゆう》に守《まも》られ、その職業《しよくぎよう》はいづれも世襲《せいしゆう》でありました。そして當時《とうじ》のインド人《じん》の信仰《しんこう》してゐたバラモン教《きよう》は、これら階級《かいきゆう》の間《あひだ》に尊卑《そんぴ》の別《べつ》を認《みと》め、僧族《そうぞく》が一番《いちばん》尊《たふと》く、他《ほか》はこれに服從《ふくじゆう》する義務《ぎむ》ありとするようにして、僧族《そうぞく》は次第《しだい》に横暴《おうぼう》に流《なが》れ、他種姓《たしゆせい》の怨《うら》みを買《か》うようなことさへありました。
 かうした僧族《そうぞく》の説《と》くバラモン教《きよう》に反抗《はんこう》の聲《こゑ》が揚《あが》るのは當然《とうぜん》でした。そしてかうした反抗《はんこう》は、僧族《そうぞく》でない王族《おうぞく》の階級《かいきゆう》から叫《さけ》ばれました。その最《もつと》も有力《ゆうりよく》なものは佛教《ぶつきよう》であります。
 佛教《ぶつきよう》の開祖《かいそ》は釋迦《しやか》牟尼《むに》、すなはち喬多摩《ごーたま》悉達《しつたるた》と申《まを》します。中《ちゆう》インドのカビラ城《じよう》の王子《おうじ》です。カビラ城《じよう》は釋迦族《しやかぞく》の城《しろ》で、その釋迦族《しやかぞく》の賢人《けんじん》(尼牟《むに》[#「尼牟」は底本のまま])といふわけで、釋迦《しやか》尼牟《むに》[#「尼牟」は底本のまま]と申《まを》すのです。何《なに》不自由《ふじゆう》ない王子《おうじ》に生《うま》れながら、人生《じんせい》問題《もんだい》の解決《かいけつ》に心《こゝろ》を惱《なや》まし、つひに王位《おうい》と肉親《にくしん》の愛《あい》とを捨《す》てゝ廿九歳《にじゆうくさい》の時《とき》出家《しゆつけ》し、苦行《くぎよう》六年《ろくねん》のすゑ、つひに悟《さと》りを開《ひら》き覺者《がくしや》(佛陀《ぶつだ》)になりました。
 佛教《ぶつきよう》とは佛陀《ぶつだ》、すなはち覺者《がくしや》の教《をし》へであります。淨行《じようぎよう》により執着《しゆうぢやく》をすて、至樂《しらく》の境《さかひ》すなはち涅槃《ねはん》の境《さかひ》に達《たつ》して覺者《がくしや》となることを教《をし》へるのであります。こゝに注意《ちゆうい》しなければならないのは、佛教《ぶつきよう》において覺者《がくしや》となるためには四種姓《ししゆせい》の差別《さべつ》がない、奴隷《どれい》のスードラだらうが平民《へいみん》のヴアイシヤだらうが、一樣《いちよう》に平等《びようどう》に無差別《むさべつ》に成佛《じようぶつ》の機會《きかい》があるといふことです。この點《てん》はバラモン教《きよう》の僧族《そうぞく》偏重《へんちよう》とはわけが違《ちが》ふ點《てん》であります。釋迦《しやか》はかうして教《をし》へを説《と》くこと實《じつ》に四十《しじゆう》餘年《よねん》、漸次《ぜんじ》社會《しやかい》の信仰《しんこう》を得《う》るに至《いた》りましたが、つひにクシナガラにおいて最後《さいご》をとげました。しかしこの佛教《ぶつきよう》といふ教《をし》へが廣《ひろ》く世《よ》に行《おこな》はれるに至《いた》つたのは、阿育王《あそかおう》の保護《ほご》奬勵《しようれい》にまつところがすこぶる大《だい》でありました。
 インドは、中《ちゆう》インドのマカダ國《こく》にチャンドラグプタといふ王《おう》が現《あらは》れて始《はじ》めて強大《きようだい》な統一的《とういつてき》國家《こつか》になつたのです。このチャンドラグプタの孫《まご》がこゝに申《まを》す阿育王《あそかおう》でした。王《おう》の代《だい》となつてインドの最南部《さいなんぶ》を除《のぞ》き、その他《た》のインド全土《ぜんど》は、その支配《しはい》の下《もと》に立《た》つといふ未曾有《みぞう》の大帝國《だいていこく》となりました。
[#図版(05.png)、釋迦説法の圖]
 始《はじ》め王《おう》は佛教《ぶつきよう》を信《しん》じてはゐませんでしたが、後《のち》に深《ふか》くこれに歸依《きえ》し、これを國教《こつきよう》のごとく崇《あが》めました。王《おう》は自分《じぶん》の國内《こくない》に佛教《ぶつきよう》を廣《ひろ》めるため、多《おほ》くの頌佛《しようぶつ》の記念柱《きねんちゆう》や教旨《きようし》を告《つ》げる碑銘《ひめい》を國内《こくない》到《いた》る所《ところ》に立《た》て、そのあるものは今《いま》でも殘《のこ》つてゐます。しかし王《おう》はこの教《をし》へを自分《じぶん》の國内《こくない》に傳《つた》へるのみをもつて滿足《まんぞく》せず、南部《なんぶ》のタミール地方《ちほう》、海《うみ》のかなたのセイロン島《とう》また北《きた》はヒマラヤ地方《ちほう》から中央《ちゆうおう》アジア、遠《とほ》くはシリア、エジプトにまで布教使《ふきようし》を遣《つか》はして布教《ふきよう》につとめたと傳《つた》へられてをります。
 また佛典《ぶつてん》の結集《けつじゆう》といふことがあります。釋迦《しやか》の説法《せつぽう》をそのまゝ誤《あやま》りなく傳《つた》へてゐるかどうかと、僧侶《そうりよ》どもが集《あつま》つて開《ひら》く會議《かいぎ》のことです。これはその時迄《ときまで》二度《にど》あつたので、阿育王《あそかおう》主催《しゆさい》のもとに第三回《だいさんかい》の結集《けつじゆう》が行《おこな》はれたと傳《つた》へられてをります。かくて阿育王《あそかおう》の事業《じぎよう》は、佛教《ぶつきよう》の保護《ほご》奬勵《しようれい》で、その未曾有《みぞう》に廣《ひろ》い領内《りようない》への佛教《ぶつきよう》の流布《るふ》、また海外《かいがい》への布教《ふきよう》といふ點《てん》が最《もつと》も大切《たいせつ》なのであります。
 阿育王《あそかおう》より以後《いご》インドは、また長《なが》い間《あひだ》分裂《ぶんれつ》してをりました。前《まへ》に大月氏《だいげつし》のお話《はなし》をいたしました。その大月氏《だいげつし》の王《おう》に迦膩色迦王《かにしかおう》といふ人《ひと》が現《あらは》れますと、その領土《りようど》は北西《ほくせい》インドからガンヂスの中流《ちゆうりゆう》地方《ちほう》を併《あは》せ、またその勢力《せいりよく》は東《ひがし》の方《ほう》パミールの東方《とうほう》にも及《およ》びました。かかる大帝國《だいていこく》の王《おう》がまた佛教《ぶつきよう》を信《しん》ずること篤《あつ》く、大《おほ》いにその傳播《でんぱ》に意《い》を用《もち》ひましたので、佛教《ぶつきよう》はます/\發展《はつてん》の勢《いきほ》ひを得《え》ました。佛教《ぶつきよう》がパミール以東《いとう》支那《しな》の方《ほう》へ傳《つた》はつたのも、恐《おそ》らくこの迦膩色迦王《かにしかおう》の奬励《しようれい》と關係《かんけい》のあることゝ思《おも》はれます。王《おう》はまた第四回《だいしかい》の結集《けつじゆう》を行《おこな》つたと傳《つた》へられてゐます。
 この佛教《ぶつきよう》がいつごろから支那《しな》へ傳《つた》はつたかは、はっきりわかりません。ある傳説《でんせつ》によれば、後漢《ごかん》の明帝《めいてい》が、白馬《はくば》が金人《きんじん》を乘《の》せた夢《ゆめ》に感《かん》じて使《つか》ひを大月氏《だいげつし》に遣《つか》はし、佛教《ぶつきよう》や僧侶《そうりよ》を輸入《ゆにゆう》したといふのですが、あまり信用《しんよう》も出來《でき》ないはなしです。とにかく前後《ぜんご》の關係《かんけい》から見《み》て、支那《しな》に佛教《ぶつきよう》のはひつたのは、前漢末《ぜんかんまつ》から後漢《ごかん》の初《はじ》めにかけての時代《じだい》だと思《おも》はれます。もっともそのずっと前《まへ》、秦《しん》の始皇帝《しこうてい》のとき佛教《ぶつきよう》がいったん支那《しな》にはひつた形跡《けいせき》がないわけでもありません。
 それが後漢《ごかん》の桓帝《かんてい》靈帝《れいてい》の頃《ころ》に至《いた》りますと、大月氏《だいげつし》を始《はじ》め、西域《せいゝき》諸國《しよこく》の佛僧《ぶつそう》がぞく/\として支那《しな》へまゐりまして、おの/\熱心《ねつしん》にその教《をし》へを傳《つた》へました。
 ことに佛教《ぶつきよう》の經典《けいてん》は、インドのサンスクリットや、その他《た》西《にし》の方《ほう》の國々《くに/″\》の言葉《ことば》で書《か》かれてあるので、それを支那《しな》に傳《つた》へるためには、それを支那語《しなご》に改《あらた》める必要《ひつよう》があります。從《したが》つてこれらの僧達《そうたち》は、まづ佛典《ぶつてん》の飜譯《ほんやく》に從事《じゆうじ》しました。かうして佛教《ぶつきよう》といふものが次第《しだい》に支那《しな》にひろまり、そして支那《しな》を通《つう》じて日本《につぽん》、朝鮮《ちようせん》等《とう》の東方《とうほう》諸國《しよこく》へ廣《ひろ》まつてまゐるのです。インドが東方《とうほう》諸國《しよこく》に與《あた》へた最《もつと》も大《おほ》きい贈《おく》り物《もの》は、宗教《しゆうきよう》ことに佛教《ぶつきよう》です。佛教《ぶつきよう》といつても、釋迦《しやか》の教訓《きようくん》がそのまゝ傳《つた》はつてゐるわけではなく、時代的《じだいてき》にいろ/\發展《はつてん》したものでありますが、その教《をし》へはきはめて崇高《すうこう》な、そして人道的《じんどうてき》なものであります。ある學者《がくしや》は、この佛教《ぶつきよう》とキリスト教《きよう》とをもつて二大《にだい》人道的《じんどうてき》宗教《しゆうきよう》と申《まを》したくらゐです。それは人類《じんるい》に、より高《たか》き生活《せいかつ》へ進《すゝ》むことを教《をし》へ、人類《じんるい》に相互《そうご》の愛《あい》を教《をし》へました。東方《とうほう》アジアの無數《むすう》の人間《にんげん》は、この愛《あい》の教《をし》へによつて導《みちび》かれました。またあるものは今《いま》も導《みちび》かれてゐます。
 なるほど支那《しな》の文明《ぶんめい》といふものが、アジア諸國《しよこく》に、また遠《とほ》くはヨーロッパに及《およ》ぼした影響《えいきよう》は、はかるべからざるものがあります。しかしインドの文明《ぶんめい》が、佛教《ぶつきよう》なるものゝ形《かたち》をかりてアジアに與《あた》へた影響《えいきよう》の深《ふか》さと廣《ひろ》さも、けっしてこれに劣《おと》らないものがあります。

   一九、後漢《ごかん》の衰亡《すいぼう》と三國《さんごく》

 後漢《ごかん》は一時《いちじ》盛《さか》んでしたが、しばらくするとまた衰運《すいうん》の途《みち》をたどりました。その原因《げんいん》は、宦官《かん/″\》の跋扈《ばつこ》と外戚《がいせき》の横暴《おうぼう》とでした。前《まへ》にも申《まを》しました後漢《ごかん》一代《いちだい》の風《ふう》であつた氣節《きせつ》の士《し》は、この宦官《かん/″\》の跋扈《ばつこ》に對《たい》して大《おほ》いに反對《はんたい》しましたが、成功《せいこう》せずに抑《おさ》へられてしまひました。かくて朝政《ちようせい》はます/\紊亂《びんらん》し、諸方《しよほう》に叛亂《はんらん》を見《み》るようになりました。
 かうして興《おこ》つた群雄《ぐんゆう》のうちで最《もつと》も智略《ちりやく》に富《と》んだのは、曹操《そう/\》でありまして、漢《かん》の天子《てんし》献帝《けんてい》を擁《よう》して長江《ちようこう》以北《いほく》の地《ち》を平定《へいてい》してゐました。その時《とき》漢《かん》の宗室《そうしつ》の裔《えい》といふ劉備《りゆうび》といふ人《ひと》がありまして、始《はじ》めは曹操《そう/\》に依《よ》つてゐましたが、後《のち》劉表《りゆうひよう》といふ群雄《ぐんゆう》のところに寄《よ》りました。ところが劉表《りゆうひよう》の子《こ》の※[#「王+宗」、第3水準1-88-11]《そう》が曹操《そう/\》に降參《こうさん》するに及《およ》んで、去《さ》つて夏口《かこう》といふ所《ところ》に遁《のが》れ、謀臣《ぼうしん》諸葛《しよかつ》亮《りよう》の計《けい》に從《したが》つて援《たす》けを孫權《そんけん》に請《こ》ひ共《とも》に曹操《そう/\》に當《あた》ることになりました。時《とき》に孫權《そんけん》は江東《こうとう》、江南《こうなん》の地《ち》に雄飛《ゆうひ》してゐましたが、やはり曹操《そう/\》に對《たい》して恐《おそ》れをいだいてゐましたので、たちまち劉備《りゆうび》との共同《きようどう》戰線《せん/\》をはつたのです。
 曹操《そう/\》は八十萬《はちじゆうまん》と稱《しよう》する大軍《たいぐん》を率《ひき》ゐて長江《ちようこう》を東《ひがし》へ下《くだ》つて迫《せま》つてまゐります。そこで孫權《そんけん》は周瑜《しゆうゆ》といふ人《ひと》に三萬人《さんまんにん》を率《ひき》ゐさせ、劉備《りゆうび》と力《ちから》をあはせて曹操《そう/\》に對抗《たいこう》しようとしました。兩軍《りようぐん》は赤壁《せきへき》で遇《あ》ひました。
 曹操《そう/\》の方《ほう》の軍《ぐん》の船《ふね》がくっついてゐたので、孫權軍《そんけんぐん》の方《ほう》では曹操《そう/\》の艦隊《かんたい》を燒《や》き打《う》ちにかけようとしました。十艘《じつそう》の船《ふね》に枯《か》れた柴《しば》だの荻《をぎ》だの積《つ》み込《こ》み、これに油《あぶら》をそゝぎ、それを幕《まく》でかくして上《うへ》に旗《はた》を立《た》てました。そして前《まへ》もつて曹操《そう/\》の方《ほう》へ手紙《てがみ》をやつて置《お》いて降參《こうさん》をするように見《み》せかけました。その十艘《じつそう》の船《ふね》は、曹操《そう/\》の大艦隊《だいかんたい》のごくまぢかに進《すゝ》んで火《ひ》を發《はつ》しました。時《とき》に東南《とうなん》の風《かぜ》がはげしく、この十艘《じつそう》は燃《も》えながら矢《や》のように曹操《そう/\》の艦隊《かんたい》の中《なか》にとびこみました。さぁたいへんです。船《ふね》はやけ人《ひと》や馬《うま》は溺《おぼ》れ死《し》ぬといふ騷《さわ》ぎ。そこで周瑜《しゆうゆ》等《ら》は、これをすゝみ討《う》つたので、北軍《ほくぐん》は完全《かんぜん》に破《やぶ》れ曹操《そう/\》は身《み》をもつて逃《のが》れました。
 この赤壁《せきへき》の戰《たゝか》ひの結果《けつか》、曹操《そう/\》の南下《なんか》の勢《いきほ》ひははゞまれました。そこで諸葛《しよかつ》亮《りよう》は劉備《りゆうび》にすすめて巴蜀《はしよく》漢中《かんちゆう》の地《ち》を占《し》めてこゝに據《よ》らせましたので、こゝに天下《てんか》は曹操《そう/\》、孫權《そんけん》、劉備《りゆうび》の三雄《さんゆう》のわかつところとなりまして、いはゆる天下《てんか》三分《さんぶん》の形勢《けいせい》を現出《げんしゆつ》いたしました。
 こゝに劉備《りゆうび》を助《たす》けてゐた諸葛《しよかつ》亮《りよう》といふ人《ひと》は、普通《ふつう》に諸葛《しよかつ》孔明《こうめい》といつてゐる人《ひと》です。智謀《ちぼう》のすぐれてゐる點《てん》、忠誠《ちゆうせい》な點《てん》で後世《こうせい》の龜鑑《きかん》とも仰《あふ》がれた人《ひと》です。始《はじ》めは誰《たれ》にも仕《つか》へずに田舍《ゐなか》に引《ひ》き籠《こも》つてゐました。劉備《りゆうび》はその人《ひと》となりを聞《き》いて、ぜひ會《あ》つて見《み》たいと思《おも》ひ、孔明《こうめい》の草蘆《そうろ》に行《ゆ》きますけれどもなか/\會《あ》つてくれません。三度《さんど》めにやっと會《あ》つてくれて胸中《きようちゆう》をひらいて劉備《りゆうび》に時策《じさく》を語《かた》りました。そしてこの草蘆《そうろ》へ三度《さんど》も來《き》てくれた意氣《いき》に感《かん》じ、これから劉備《りゆうび》の左右《さゆう》にあつて劉備《りゆうび》の智謀《ちぼう》の臣《しん》となりました。草蘆《そうろ》三顧《さんこ》などいふのはこのことから申《まを》すのです。前《まへ》に申《まを》しましたように、天下《てんか》は三人《さんにん》の群雄《ぐんゆう》によつて三分《さんぶん》されてをりましたが、そのうち北方《ほつぽう》に據《よ》つてゐる曹操《そう/\》の死後《しご》、その子《こ》曹丕《そうひ》は遂《つひ》に擁立《ようりつ》してゐた献帝《けんてい》にせまつてその位《くらゐ》を簒《うば》ひ、國《くに》を魏《ぎ》と稱《しよう》して洛陽《らくよう》に都《みやこ》しました。これを魏《ぎ》の文帝《ぶんてい》と申《まを》します。後漢《ごかん》は建國《けんこく》以來《いらい》百九十年《ひやくくじゆうねん》ばかりでこゝに亡《ほろ》びました。
 魏《ぎ》が國《くに》を建《た》てたので、劉備《りゆうび》の方《ほう》でも自分《じぶん》の國《くに》を蜀漢國《しよくかんこく》と名《な》づけ帝位《ていゝ》に登《のぼ》り、自分《じぶん》の方《ほう》が漢《かん》の正統《せいとう》な後嗣者《こうししや》たることを主張《しゆちよう》したわけなのです。その後《ご》孫權《そんけん》もまた帝位《ていゝ》に登《のぼ》つて國《くに》を呉《ご》と稱《しよう》しました。
 こゝで魏《ぎ》、蜀《しよく》、呉《ご》の三《みつ》つの國《くに》が鼎立《ていりつ》したわけになります。これを三國《さんごく》といひ、その時代《じだい》のことを三國《さんごく》時代《じだい》と申《まを》します。このうち蜀漢《しよくかん》がもっとも國《くに》が少《ちひ》さく、土地《とち》が偏《かたよ》つてゐたので、帝業《ていぎよう》をなすのには適《てき》しません。しかし智謀《ちぼう》忠誠《ちゆうせい》の士《し》、諸葛《しよかつ》亮《りよう》が帝《てい》を輔《たす》け、君臣《くんしん》相和《あひわ》してよく國勢《こくせい》を支《さゝ》へてをりました。一時《いちじ》は呉《ご》と荊州《けいしゆう》の地《ち》を爭《あらそ》ひましたが、帝《てい》の死後《しご》、亮《りよう》はその子《こ》後主《こうしゆ》劉禪《りゆうぜん》を輔《たす》けて天下《てんか》を圖《はか》らうといたしました。まづ呉《ご》と和《わ》し、それから後顧《こうこ》の憂《うれ》ひをなからしめるために蜀《しよく》の南《みなみ》に住《す》んでゐた南夷《なんい》といふ夷《えびす》を征伐《せいばつ》いたしました。
 諸葛《しよかつ》亮《りよう》といふ人《ひと》は、實《じつ》に兵法《へいほう》の達人《たつじん》でありました。この南夷《なんい》征伐中《せいばつちゆう》に、かれがいかにすぐれた用兵家《ようへいか》であつたかを示《しめ》すはなしが傳《つた》はつてをります。南夷《なんい》には孟獲《もうかく》といふのが大將《たいしよう》でした。亮《りよう》はこれを生《い》け捕《ど》りにして漢《かん》の陣營《じんえい》を案内《あんない》させ、漢《かん》の陣取《じんど》りをよく見《み》せておいてまた孟獲《もうかく》を放《はな》してやり、またこれをつかまへ七度《なゝたび》はなし七度《なゝたび》捕《とら》へました。けっきょく孟獲《もうかく》は、もうはなされても去《さ》らうともしないで、亮《りよう》に、「あなたは神樣《かみさま》みたいな人《ひと》だ」といつて、それ以來《いらい》南夷《なんい》は叛《はん》をはからなくなつたと申《まを》します。
 亮《りよう》は南夷《なんい》を討《う》ち、後顧《こうこ》の憂《うれ》ひなしと見定《みさだ》めるや、北《きた》の方《かた》魏《ぎ》を圖《はか》らうといたしました。魏《ぎ》を討《う》つために出兵《しゆつぺい》の際《さい》、自分《じぶん》の心事《しんじ》を述《の》べ、また帝《てい》たるの訓戒《くんかい》を教《をし》へた出師《すいし》の表《ひよう》といふものを劉禪《りゆうぜん》に上《たてまつ》りました。これは言々《げん/″\》至誠《しせい》のあらはれで、普通《ふつう》出師《すいし》の表《ひよう》を見《み》て泣《な》かないものは人《ひと》ではないなどといふくらゐです。亮《りよう》は用兵《ようへい》の達人《たつじん》で、魏《ぎ》はしば/\亮《りよう》によつて震駭《しんがい》させられましたが、魏《ぎ》にも名將《めいしよう》司馬《しば》懿《い》があつて、よく防《ふせ》ぎましたので、亮《りよう》はつひに志《こゝろざし》を得《え》ず、五丈原頭《ごじようげんとう》において出陣中《しゆつじんちゆう》死歿《しぼつ》いたしました。
 この國《くに》の柱《はしら》のような諸葛《しよかつ》亮《りよう》が倒《たふ》れてしまつたので、蜀《しよく》の勢《いきほ》ひは次第《しだい》に衰《おとろ》へ、魏《ぎ》の軍《ぐん》はつひに劉禪《りゆうぜん》を降《くだ》し、蜀《しよく》を亡《ほろぼ》してしまひました。

   二〇、晉《しん》と北方《ほつぽう》民族《みんぞく》の侵入《しんにゆう》

 魏《ぎ》が蜀《しよく》を亡《ほろぼ》した話《はなし》は前《まへ》に申《まを》しました。諸葛《しよかつ》亮《りよう》と戰《たゝか》つて功《こう》のあつた司馬《しば》懿《い》は遂《つひ》に國相《こくしよう》となり、それより司馬氏《しばし》の勢《いきほ》ひのみ盛《さか》んとなり、魏《ぎ》の天子《てんし》をさへその自由《じゆう》にいたしましたが、つひに司馬《しば》炎《えん》に至《いた》つて帝位《ていゝ》を簒《うば》ひ、都《みやこ》を洛陽《らくよう》に定《さだ》め國《くに》を晉《しん》と號《ごう》しました。この人《ひと》を晉《しん》の武帝《ぶてい》と申《まを》します。この時《とき》ちょうど呉《ご》の國《くに》は孫皓《そんこう》といふ人《ひと》の代《だい》でしたが、この人《ひと》が暴虐《ぼうぎやく》で、人心《じんしん》を失《うしな》つてゐるのに乘《じよう》じ、つひに呉《ご》を討《う》ち亡《ほろぼ》しました。かくして三國《さんごく》は、みな晉《しん》に統一《とういつ》されてしまひました。
 晉《しん》の武帝《ぶてい》は前代《ぜんだい》の魏《ぎ》の時代《じだい》において、魏《ぎ》の宗室《そうしつ》が孤立《こりつ》の勢《いきほ》ひに立《た》ち滅亡《めつぼう》を速《はや》からしめたに鑑《かんが》み、一族《いちぞく》を要地《ようち》に分封《ぶんぽう》し、封建《ほうけん》の制度《せいど》に復《ふく》しました。ところが世《よ》の中《なか》のことはなかなか思《おも》ふようにはゆかないもので、今度《こんど》はまたこれら一族《いちぞく》の諸王《しよおう》等《ら》の形勢《けいせい》が強大《きようだい》となつて、武帝《ぶてい》の死後《しご》、八王《はちおう》の亂《らん》といふものが起《おこ》りました。これは八人《はちにん》の諸王《しよおう》が順次《じゆんじ》に立《た》つて政權《せいけん》を握《にぎ》り、あるものは自《みづか》ら帝《てい》と稱《しよう》して擾亂《じようらん》十六年《じゆうろくねん》の久《ひさ》しきに及《およ》びました。これに加《くは》へて當時《とうじ》、清談《せいだん》といふものが流行《りゆうこう》いたしました。これは老莊《ろうそう》の思想《しそう》と佛教《ぶつきよう》の影響《えいきよう》を受《う》けて生《うま》れたものですが、この時分《じぶん》ことに後漢末《ごかんまつ》以來《いらい》の社會《しやかい》が、眞面自《まじめ》[#「眞面自」は底本のまま]に世務《せいむ》につとめる清節《せいせつ》の士《し》であつても、それを認《みと》められないところか、かへってそのために苦《くる》しめられるといふ社會《しやかい》であつたため、この社會《しやかい》に生《い》きるにさう四角《しかく》四面《しめん》である必要《ひつよう》はないといふ氣分《きぶん》を生《しよう》ぜしめました。そこで人々《ひと/″\》の中《うち》には俗務《ぞくむ》を離《はな》れ、法度《はつと》禮節《れいせつ》を去《さ》つて自然《しぜん》のまゝに生《い》きようとするものも出《で》てまゐりました。かれらが清談《せいだん》の徒《と》です。かれらは琴《こと》を彈《だん》じ、あるひは酒《さけ》にふけり、世務《せいむ》との交渉《こうしよう》を一切《いつさい》斷《た》つのを信條《しんじよう》といたしました。この清談《せいだん》の徒《と》のうちで一番《いちばん》有名《ゆうめい》なのは、竹林《ちくりん》七賢《しちけん》とよばれる連中《れんじゆう》です。かれら七人《しちにん》は常《つね》に世俗《せぞく》の責務《せきむ》をすて、竹林《ちくりん》のうちにあつまつて世《よ》ばなれた話《はなし》ばかりしてゐたのです。この七人《しちにん》のうち玩籍《げんせき》、玩咸《げんかん》、稽康《けいこう》などいふ人《ひと》が有名《ゆうめい》です。かうした清談《せいだん》の風《ふう》は、この時代《じだい》上下《じようげ》に亙《わた》つて風靡《ふうび》したので、これが國勢《こくせい》の衰亡《すいぼう》を招《まね》いたのはいふまでもありません。
[#図版(06.png)、竹林の七賢人]
 晉國《しんこく》は、かくて八王《はちおう》の亂《らん》と清談《せいだん》の流行《りゆうこう》とによつて外民族《がいみんぞく》に亡《ほろぼ》さるゝに至《いた》つたのです。晉國《しんこく》の衰勢《すいせい》に乘《じよう》じてその北方《ほつぽう》に活躍《かつやく》した外民族《がいみんぞく》を總稱《そうしよう》して五胡《ごゝ》と申《まを》します。五胡《ごゝ》とは五種類《ごしゆるい》の胡《こ》、匈奴《きようど》、鮮卑《せんぴ》、羯《けつ》、※[#「低のつくり」、第3水準1-86-47]《てい》、羌《きよう》を申《まを》すのです。
 匈奴《きようど》のお話《はなし》は前《まへ》に申《まを》しました。鮮卑《せんぴ》のこともちつょと[#「ちつょと」は底本のまま]前《まへ》に申《まを》しました。羯《けつ》といふのは、匈奴《きようど》の別種《べつしゆ》でして、これら三種《さんしゆ》は本來《ほんらい》北方《ほつぽう》の種族《しゆぞく》です。ところがあとの二《ふた》つ※[#「低のつくり」、第3水準1-86-47]《てい》と羌《きよう》とは、西《にし》の方《ほう》チベット種族《しゆぞく》なのです。これらの種族《しゆぞく》は早《はや》くから支那《しな》内地《ないち》に移住《いじゆう》するものが少《すくな》くありませんでしたが、晉《しん》の初《はじ》め頃《ごろ》になつてはこの移住《いじゆう》塞外《さいがい》民族《みんぞく》の數《すう》はます/\増《ま》す一方《いつぽう》でした。ところが晉《しん》が亂《みだ》れるに乘《じよう》じて匈奴《きようど》は大《おほ》いに勢威《せいい》を張《は》り、その酋長《しゆうちよう》劉裕《りゆうゆう》に至《いた》つてつひに晉室《しんしつ》を亡《ほろぼ》してしまひました。
 かくて晉室《しんしつ》はいったん亡《ほろ》びましたが、司馬《しば》懿《い》の曾孫《そうそん》に當《あた》る瑯※[#「王+耶」]王《ろうやおう》睿《えい》は、建康《けんこう》を都《みやこ》として帝位《ていゝ》に即《つ》き、江南《こうなん》を保《たも》つて晉《しん》を再興《さいこう》しました。これを元帝《げんてい》と申《まを》します。そしていったん亡《ほろ》んだ晉《しん》のことを西晉《せいしん》と申《まを》すに對《たい》し、この元帝《げんてい》の再興《さいこう》した晉《しん》のことを東晉《とうしん》と申《まを》します。西晉《せいしん》はとにかく勢力《せいりよく》が微弱《びじやく》であつたにせよ、支那《しな》全體《ぜんたい》を領《りよう》したのに、この東晉《とうしん》はその領《りよう》するところ長江《ちようこう》以南《いなん》の地《ち》に過《す》ぎません。しかしこの晉室《しんしつ》の江南《こうなん》遷移《せんい》といふことは、支那《しな》文化《ぶんか》の上《うへ》にきはめて重大《じゆうだい》な意味《いみ》をもつたのです。
 もと/\支那《しな》の文化《ぶんか》といふものは黄河《こうが》の流域《りゆういき》に起《おこ》り、それが長江《ちようこう》の方《ほう》にまで廣《ひろ》まつたのです。けれどもとにかく文化《ぶんか》の中心《ちゆうしん》は北部《ほくぶ》支那《しな》でありました。それがこの五胡《ごゝ》の侵入《しんにゆう》に伴《ともな》つて北部《ほくぶ》支那《しな》がその活動《かつどう》舞臺《ぶたい》となり、晉室《しんしつ》が南遷《なんせん》するにつれて江南《こうなん》の地《ち》が支那《しな》文化《ぶんか》の保存《ほぞん》せらるゝ地《ち》になり、江北《こうほく》の地《ち》は胡族《こぞく》の跋扈《ばつこ》にまかせられてしまひました。こゝから江南《こうなん》の地《ち》の文化《ぶんか》といふものは、急《きゆう》に進展《しんてん》し始《はじ》めまして、これから次第《しだい》に支那《しな》の文化《ぶんか》の中心《ちゆうしん》が南支那《みなみしな》にあるような形勢《けいせい》を現出《げんしゆつ》するに至《いた》るのです。現在《げんざい》においても支那《しな》は、北部《ほくぶ》よりも南部《なんぶ》の方《ほう》がだいたい進《すゝ》んでをります。
 かういふふうに晉室《しんしつ》の南遷《なんせん》といふことは、支那《しな》の文化《ぶんか》の上《うへ》にかなり重大《じゆうだい》な關係《かんけい》をもつたのです。晉《しん》が南《みなみ》に遷《うつ》つた後《のち》、江北《こうほく》の地《ち》には五胡《ごゝ》および漢族《かんぞく》が交々《こも/″\》國《くに》を建《た》て、また互《たがひ》に勢力《せいりよく》を爭《あらそ》ひました。その間《あひだ》百《ひやく》三十年《さんじゆうねん》に興《おこ》つたり亡《ほろ》んだりした國《くに》が、前後《ぜんご》十六《じゆうろく》に及《およ》びました。ですからこれを五胡《ごゝ》十六國《じゆうろつこく》など申《まを》します。しかしこの間《あひだ》に、一度《いちど》江北《こうほく》の地《ち》が統一《とういつ》を見《み》たことがあつたのです。前秦《ぜんしん》といふ國《くに》の苻堅《ふけん》といふ王《おう》の時《とき》、とにかく江北《こうほく》はいったん統一《とういつ》されました。苻堅《ふけん》は江北《こうほく》を統一《とういつ》したのみならず、西域《せいゝき》諸國《しよこく》を經略《けいりやく》せしめ、また東方《とうほう》朝鮮《ちようせん》半島《はんとう》の高勾麗《こうくり》、新羅《しらぎ》と通《つう》じ、この苻堅《ふけん》の朝《ちよう》に入貢《にゆうこう》したものは六十《ろくじゆう》餘國《よこく》に及《およ》んだと申《まを》します。
 苻堅《ふけん》の勢《いきほ》ひはかく強大《きようだい》となるにつれ、江南《こうなん》に對立《たいりつ》してゐる東晉《とうしん》をなんとかしたいのは當然《とうぜん》のことでした。ところがその東晉《とうしん》のあり樣《さま》はどうでしたでせうか。東晉《とうしん》は國初《こくしよ》以來《いらい》しばしば内亂《ないらん》があつて、北方《ほつぽう》を顧《かへりみ》るの暇《いとま》がありませんでした。しかし東晉《とうしん》の君臣《くんしん》は中原《ちゆうげん》の回復《かいふく》といふことをけっして忘《わす》れてしまつたのではありませんでした。機《き》を見《み》ては北伐《ほくばつ》のことを計《はか》りましたが、なか/\思《おも》ふようには成功《せいこう》しませんでした。その内《うち》に北《きた》に苻堅《ふけん》が出《で》て東晉《とうしん》を一《ひと》つぶしにつぶさうといふことになつてまゐりました。その時《とき》多《おほ》くの人《ひと》が苻堅《ふけん》を諫《いさ》めたのでしたが、苻堅《ふけん》は聽《き》かないで、
「わが大軍《たいぐん》が持《も》つてる鞭《むち》を長江《ちようこう》に投《な》げこむだけで、長江《ちようこう》の水《みづ》は止《とま》つてしまふ」
といつて、長江《ちようこう》の險《けん》をも意《い》としないで出兵《しゆつぺい》したのでした。歩兵《ほへい》六十《ろくじゆう》餘萬《よまん》、騎兵《きへい》二十七萬《にじゆうしちまん》といふ大軍《たいぐん》で南下《なんか》の勢《いきほ》ひを示《しめ》しました。
 時《とき》に晉《しん》の宰相《さいしよう》は謝安《しやあん》といふ人物《じんぶつ》でしたが、自分《じぶん》の弟《おとうと》の謝石《しやせき》、甥《をひ》の謝玄《しやげん》をして八萬《はちまん》の兵《へい》を率《ひき》ゐて苻堅《ふけん》の大軍《たいぐん》を防《ふせ》がせました。前秦《ぜんしん》の軍《ぐん》は※[#「さんずい+肥」、第3水準1-86-85]水《ひすい》に至《いた》りました。兩軍《りようぐん》は川《かは》をはさんで相對《あひたい》しました。その時《とき》謝玄《しやげん》は前秦軍《ぜんしんぐん》に使《つか》ひをやつて、陣《じん》を移《うつ》して少《すこ》しく退《しりぞ》き、自分《じぶん》の方《ほう》の兵《へい》が渡《わた》れるようにしてもらひ、渡《わた》つてから勝負《しようぶ》を決《けつ》したいからと申《まを》し入《い》れました。苻堅《ふけん》はその申《まを》し入《い》れを聽《き》き入《い》れました。苻堅《ふけん》のつもりでは、晉兵《しんぺい》の半《なか》ば川《かは》を渡《わた》つたところを急《きゆう》に撃《う》つつもりだつたのです。ところが何《なに》しろ苻堅《ふけん》の軍《ぐん》は百萬《ひやくまん》の大軍《たいぐん》ですから、その陣《じん》をちょっとひっこめるにしても、たいへんな混亂《こんらん》で後退《こうたい》を止《と》めようとしても止《と》まらず、つひに總崩《そうくづ》れになつてしまひました。晉兵《しんぺい》はこれに乘《じよう》じて追撃《ついげき》したのは申《まを》すまでもありません。前秦《ぜんしん》の兵《へい》は風《かぜ》の聲《こゑ》や鶴《つる》の鳴《な》き聲《ごゑ》を聞《き》いて、晉《しん》の兵《へい》が來《き》たのではないかといふあわて振《ぶ》り、苻堅《ふけん》はわづかに身《み》をもつて都《みやこ》の長安《ちようあん》に歸《かへ》りました。
 この※[#「さんずい+肥」、第3水準1-86-85]水《ひすい》の戰《たゝか》ひの勝《か》つたといふ知《し》らせが宰相《さいしよう》の謝安《しやあん》の所《ところ》に達《たつ》した時《とき》、謝安《しやあん》はちょうど客《きやく》が來《き》てゐて碁《ご》を圍《かこ》んでをりました。捷報《しようほう》を聞《き》いても謝安《しやあん》は何《なに》にも感《かん》じないような顏《かほ》をしてゐました。しかしその客《きやく》が歸《かへ》るや否《いな》や謝安《しやあん》は踊《をど》り上《あが》つて喜《よろこ》んだそうです。
 とにかく晉《しん》としても國運《こくうん》を賭《と》しての大戰爭《だいせんそう》でしたが、これに勝《か》つを得《え》て東晉《とうしん》の命脈《めいみやく》は幾分《いくぶん》は延《の》びたのです。しかしこの戰爭《せんそう》はひとり東晉《とうしん》の運命《うんめい》にのみ關係《かんけい》をもつたのではなく、廣《ひろ》くいつて支那《しな》の文化《ぶんか》に大《おほ》きいかゝはりのあつたことです。といふのは、東晉《とうしん》はとにかく支那《しな》の文化《ぶんか》を保存《ほぞん》してゐた國《くに》でしたが、もしこの※[#「さんずい+肥」、第3水準1-86-85]水《ひすい》の戰《たゝか》ひにこの國《くに》が破《やぶ》れて前秦《ぜんしん》の領土《りようど》になつてしまへば、こゝに保存《ほぞん》せられた支那《しな》の文化《ぶんか》といふものも、こゝに大《おほ》きな變化《へんか》を與《あた》へられてしまつたに違《ちが》ひありませんから。
 前秦《ぜんしん》の方《ほう》は※[#「さんずい+肥」、第3水準1-86-85]水《ひすい》の戰後《せんご》、國勢《こくせい》頓《とみ》に衰《おとろ》へ、まもなく亡《ほろ》びました。前秦《ぜんしん》の滅後《めつご》は、いったん統一《とういつ》出來《でき》た江北《こうほく》がまた/\分裂《ぶんれつ》し、諸國《しよこく》の興亡《こうぼう》が相《あひ》つぎました。鮮卑《せんぴ》の一部《いちぶ》に拓跋《たくばつ》珪《けい》といふのがありましたが、これが北方《ほつぽう》に國《くに》を建《た》て魏《ぎ》と號《ごう》しました。都《みやこ》を山西省《さんせいしよう》の平城《へいじよう》に定《さだ》めましたが、この魏《ぎ》の勢《いきほ》ひは次第《しだい》に隆盛《りゆうせい》となり、太武帝《たいぶてい》の時《とき》、つひに江北《こうほく》一帶《いつたい》の統一《とういつ》を完成《かんせい》しました。魏《ぎ》はかくて江北《こうほく》の統一《とういつ》を行《おこな》ひましたが、江南《こうなん》において重大《じゆうだい》な變化《へんか》が起《おこ》りました。晉《しん》は北方《ほつぽう》諸國《しよこく》の分立《ぶんりつ》によつて幾分《いくぶん》安穩《あんおん》を見《み》ましたが、内亂《ないらん》がしば/\あつて朝威《ちようい》ふるはず、將軍《しようぐん》の劉裕《りゆうゆう》が出《で》るに及《およ》んで軍功《ぐんこう》がありその勢威《せいゝ》が盛《さか》んとなり、つひに晉室《しんしつ》を簒《うば》つてしまひました。これが宋《そう》の武帝《ぶてい》で、都《みやこ》を建康《けんこう》に定《さだ》めました。
 かくて江北《こうほく》は魏《ぎ》、江南《こうなん》は宋《そう》といふ對立《たいりつ》になりました。これから後《のち》を南北朝《なんぼくちよう》の時代《じだい》と申《まを》します。

   二一、南北朝《なんぼくちよう》

 南北朝《なんぼくちよう》と申《まを》すわけは、この當時《とうじ》支那《しな》は南北《なんぼく》の二《ふた》つに分裂《ぶんれつ》し、北《きた》には北《きた》でいくつかの王朝《おうちよう》が交代《こうたい》し、南《みなみ》ではまた南《みなみ》でいくつかの王朝《おうちよう》が興亡《こうぼう》いたしました。そこで北《きた》の諸王朝《しよおうちよう》のことを北朝《ほくちよう》といひ、南《みなみ》の諸王朝《しよおうちよう》を南朝《なんちよう》と申《まを》しますから、それを合《あは》せて南北朝《なんぼくちよう》の時代《じだい》と申《まを》すのです。
 南朝《なんちよう》の諸王朝《しよおうちよう》の最初《さいしよ》は、前《まへ》に申《まを》しました宋《そう》でしたが、それから齊《せい》、梁《りよう》、陳《ちん》と王朝《おうちよう》がうつりました。實《じつ》にこの時代《じだい》の天子《てんし》の位《くらゐ》ほどあぶないものはないので、實際《じつさい》薄氷《はくひよう》の上《うへ》を歩《ある》くようなものでして、簒奪《さんだつ》といふことが相《あひ》つゞいて起《おこ》りました。百五十年《ひやくごじゆうねん》ほどの間《あひだ》の南朝《なんちよう》の天子《てんし》は、全部《ぜんぶ》で二十四人《にじゆうよにん》、そのうち終《をは》りをよくしたのはわづかに十人《じゆうにん》、あとの十四人《じゆうよにん》はみな非業《ひごう》の最後《さいご》をとげたのでした。また北朝《ほくちよう》の天子《てんし》にしたところで、その運命《うんめい》はあまり惠《めぐ》まれたものではありませんでした。二十六人《にじゆうろくんにん》の天子《てんし》、終《をは》りのよかつた人《ひと》は十人《じゆうにん》のわりです。北朝《ほくちよう》の最初《さいしよ》の王朝《おうちよう》は、前《まへ》にも申《まを》しました後魏《こうぎ》でした。これが後《のち》に分裂《ぶんれつ》して東魏《とうぎ》、西魏《せいぎ》となり、その各《おの/\》は北齊《ほくせい》と北周《ほくしゆう》とによつて亡《ほろぼ》されました。のち北周《ほくしゆう》は北齊《ほくせい》を併《あは》せましたものゝその北周《ほくしゆう》も楊堅《ようけん》といふものに簒《うば》はれました。この楊堅《ようけん》が隋《ずい》の文帝《ぶんてい》で、この隋《ずい》はつひに南朝《なんちよう》の最後《さいご》の王朝《おうちよう》陳《ちん》を亡《ほろぼ》して、南北《なんぼく》兩朝《りようちよう》を一統《いつとう》してしまひました。
 この陰慘《いんさん》な空氣《くうき》のみなぎつた南北朝《なんぼくちよう》の諸天子《しよてんし》の中《うち》で、文事《ぶんじ》をもつて聞《きこ》えた二人《ふたり》の天子《てんし》があります。その一人《ひとり》が後魏《こうぎ》の孝文帝《こうぶんてい》です。後魏《こうぎ》といふ國《くに》は、前《まへ》にも申《まを》しましたように塞外《さいがい》から入《い》り來《きた》つた民族《みんぞく》であつて、たゞ武辨《ぶべん》一方《いつぽう》といふふうでした。ところが、その天子《てんし》に孝文帝《こうぶんてい》といふ人《ひと》が出《で》ますと、この人《ひと》は大《おほ》いに文治《ぶんじ》につとめましたが、特《とく》に支那《しな》の文化《ぶんか》に心醉《しんすい》してしまつたのです。とにかく支那《しな》の文化《ぶんか》といふものは立派《りつぱ》なものですし、ことに塞外《さいがい》の野蠻人《やばんじん》に等《ひと》しい人間《にんげん》にとつては立派《りつぱ》に眼《め》にうつったでせうから心醉《しんすい》するのもむりはないことです。そこでまづ拓跋族《たくばつぞく》固有《こゆう》の國俗《こくぞく》の卑雜《ひざつ》なのを支那風《しなふう》にならつて改《あらた》めようとしました。まづ都《みやこ》を北《きた》の方《ほう》の平城《へいじよう》から支那《しな》の都《みやこ》として久《ひさ》しい歴史《れきし》をもつてゐる洛陽《らくよう》に遷《うつ》しました。それから固有《こゆう》の言語《げんご》風俗《ふうぞく》まで全部《ぜんぶ》支那風《しなふう》に改《あらた》めさせようとしました。その上《うへ》支那人《しなじん》との雜婚《ざつこん》を奬勵《しようれい》いたしまして、人間《にんげん》まで支那人《しなじん》に近《ちか》いものに改《あらた》めようといたしました。
 この改革《かいかく》はいかにも極端《きよくたん》でありますが、ある文化《ぶんか》に心醉《しんすい》し、それをまねようとする時《とき》にはよくこんなふうに極端《きよくたん》にすゝむものです。現《げん》に日本《につぽん》においてさへ、さう遠《とほ》くない時代《じだい》にこれに似《に》たこともいくらもあつたくらゐですから。しかしこの孝文帝《こうぶんてい》の改革《かいかく》は、拓跋族《たくばつぞく》をして文弱《ぶんじやく》に流《なが》れしめまして、國勢《こくせい》の衰運《すいうん》を招《まね》きました。かうした武力《ぶりよく》が一番《いちばん》の取《と》り柄《え》の國《くに》が、武力《ぶりよく》が弱《よわ》まつてしまつては仕方《しかた》がないものです。も一人《ひとり》は南朝《なんちよう》の梁《りよう》の武帝《ぶてい》です。この人《ひと》の治世《じせい》四十八年《しじゆうはちねん》、實《じつ》に太平《たいへい》を樂《たの》しみましたが、武帝《ぶてい》は完全《かんぜん》に武事《ぶじ》をすて、厚《あつ》く佛法《ぶつぽう》に歸依《きえ》いた、し[#「いた、し」は底本のまま]その保護《ほご》に任《にん》じました。
 禪宗《ぜんしゆう》を始《はじ》めて支那《しな》に傳《つた》へた達磨《だるま》がインドから來《き》て、この梁《りよう》の武帝《ぶてい》と法談《ほうだん》を交《まじ》へた話《はなし》は有名《ゆうめい》です。しかし武帝《ぶてい》はひとり佛教《ぶつきよう》を保護《ほご》したのみならず、學藝《がくげい》をもきはめて保護《ほご》奬勵《しようれい》し、またその王子等《おうじら》も才學《さいがく》をもつて聞《きこ》えたので、文學《ぶんがく》の士《し》が多《おほ》く輩出《はいしゆつ》いたしました。しかしこの武帝《ぶてい》も、その最後《さいご》はあまり幸福《こうふく》ではありませんでした。叛臣《はんしん》の侯景《こうけい》に苦《くる》しめられて憤死《ふんし》するといふあり樣《さま》でした。
 この南北朝《なんぼくちよう》の時代《じだい》は、政治的《せいじてき》に見《み》れば事件《じけん》の多《おほ》い血《ち》なまぐさい時代《じだい》ですけれども、文化《ぶんか》發展《はつてん》の方面《ほうめん》から見《み》れば著《いちじる》しい飛躍《ひやく》をした時代《じだい》と見《み》ることも出來《でき》ます。もっとも南朝《なんちよう》と北朝《ほくちよう》とは、諸種《しよしゆ》の文化《ぶんか》に幾分《いくぶん》づゝ趣《おもむ》きを異《こと》にするところもありました。何《なに》しろ南部《なんぶ》の地《ち》は、晉室《しんしつ》南遷《なんせん》以來《いらい》の文化《ぶんか》の系統《けいとう》を追《お》うてゐるのに對《たい》し、北方《ほつぽう》には外民族《がいみんぞく》の國《くに》を建《た》てるのが多《おほ》かつたためにかうなつたのです。また人《ひと》の氣風《きふう》も南《みなみ》と北《きた》とでは大《おほ》いに變《かは》つてゐまして、南《みなみ》が幾分《いくぶん》浮薄《ふはく》なのに對《たい》して北《きた》は質實《しつじつ》でありました。かうした點《てん》から北朝《ほくちよう》では經學《けいがく》が重《おも》んぜられましたが、南朝《なんちよう》では老莊《ろうそう》の學《がく》の方《ほう》が好《この》まれ、また詩賦《しふ》なども盛《さか》んだつたのです。とにかく文學《ぶんがく》美術《びじゆつ》の方面《ほうめん》においては、だいたい南朝《なんちよう》が卓出《たくしゆつ》してゐました。有名《いうめい》な歸去來《ききよらい》の賦《ふ》を書《か》いた陶《とう》淵明《えんめい》や謝《しや》靈運《れいうん》などは詩文《しぶん》の大家《たいか》でしたし、書法《しよほう》の大家《たいか》としては王《おう》羲之《ぎし》がことに知《し》られてゐます。かれの書《か》いた蘭亭《らんてい》の序《じよ》は、よくお手本《てほん》にもつかはれてゐるほどの名手《めいしゆ》でした。畫《え》には顧《こ》※[#「りっしんべん+豈」、第3水準1-84-59]之《がいし》といふ人《ひと》がをります。この人《ひと》の描《か》いた繪《え》が、今《いま》イギリスに傳《つた》つてをります。
 この時分《じぶん》になつて佛教《ぶつきよう》はことに盛《さか》んになり、外國《がいこく》からも偉《えら》い僧侶《そうりよ》も來《き》、また支那《しな》の方《ほう》から佛法《ぶつぽう》をもとめに外國《がいこく》、ことにインドに出《で》かけるものも出《で》るくらゐでした。かうしてこの時代《じだい》佛法《ぶつぽう》が流行《りゆうこう》したので、それが東方《とうほう》朝鮮《ちようせん》、日本《につぽん》の方《ほう》へと傳《つた》はるようになつたのです。
 佛教《ぶつきよう》といふものは、もと/\支那《しな》のものでなく外國《がいこく》から來《き》たものでしたが、これに對《たい》しこゝに支那《しな》にまた一《ひと》つの宗教《しゆうきよう》が發生《はつせい》するようになりました。それは今《いま》でも支那《しな》に大《おほ》きい勢力《せいりよく》をもつてゐる道教《どうきよう》です。その起原《きげん》はもっと古《ふる》いのですが、とにかく道家《どうけ》の説《せつ》に基《もとづ》き、それに民間《みんかん》の卑俗《ひぞく》の信仰《しんこう》をとりいれて出來《でき》たものですが、次第《しだい》に佛教《ぶつきよう》の方《ほう》からいろ/\借《か》り物《もの》をして、ていさいをとゝのへたものです。後魏《こうぎ》の時代《じだい》には、かなり廣《ひろ》く行《おこな》はれ、その太武帝《たいぶてい》などはこれを信《しん》ずるのあまり佛教《ぶつきよう》を大《おほ》いに迫害《はくがい》いたしました。
 とにかく、これから道教《どうきよう》と佛教《ぶつきよう》とは目《め》の敵《かたき》のようにしば/\いがみ合《あ》つたのです。

   二二、隋《ずい》の煬帝《ようてい》

 南北《なんぼく》兩朝《りようちよう》の對立《たいりつ》したのが隋《ずい》の文帝《ぶんてい》だといふことは、前《まへ》にお話《はなし》しいたしました。この天子《てんし》はまた意《い》を内治《ないじ》に用《もち》ひて刑律《けいりつ》の改正《かいせい》を行《おこな》ふとか、賦税《ふぜい》の輕減《けいげん》を計《はか》るとかいたしました。ところがこの父《ちゝ》を弑《しひ》して位《くらゐ》に即《つ》いた煬帝《ようてい》は、きはめて大《おほ》がかりなことの好《す》きな人《ひと》でした、[#読点は底本のまま]この人《ひと》は盛《さか》んに外國《がいこく》經略《けいりやく》をやり、人《ひと》を遣《つか》はして西域《せいゝき》の二十七國《にじゆうしちこく》を服屬《ふくぞく》せしめるとか、また當時《とうじ》北《きた》の方《ほう》に勢威《せいゝ》を振《ふる》つた突厥《とつけつ》を操縱《そうじゆう》するとか、南《みなみ》の方《ほう》林邑《りんゆう》、西《にし》の方《ほう》吐谷渾《とよくこん》を征服《せいふく》したりいたしました。ことにこの時代《じだい》に琉球《りゆうきゆう》を征服《せいふく》いたしました。琉球《りゆうきゆう》と申《まを》しますのは、今《いま》の臺灣《たいわん》のことであります。かうして煬帝《ようてい》は大《おほ》いに隋《ずい》の國威《こくい》をかゞやかしたのであります。
 ちょうど日本《につぽん》の推古《すいこ》天皇《てんのう》の時代《じだい》に當《あた》ります。時《とき》の攝政《せつしよう》の聖徳《しようとく》太子《たいし》が小野《をのゝ》妹子《いもこ》を遣《つか》はして、公《おほやけ》の交際《こうさい》をお開《ひら》かせになつたのがこの煬帝《ようてい》の時《とき》です。
「日《ひ》出《い》づるところの天子《てんし》、書《しよ》を日《ひ》沒《い》るところの天子《てんし》に致《いた》す、恙《つゝが》なしや」といふ調子《ちようし》の國書《こくしよ》で、勢威《せいゝ》隆々《りゆう/\》として氣《き》傲《おご》れる煬帝《ようてい》に向《むか》つてさへ、なほ對等《たいとう》の位置《いち》に立《た》つて交際《こうさい》を結《むす》ばれようとされるところ、聖徳《しようとく》太子《たいし》の見識《けんしき》のほどをしのぶに足《た》るものがありませう。
 この煬帝《ようてい》といふ人《ひと》は、天性《てんせい》がきはめて派手《はで》ずきでして、土木《どぼく》事業《じぎよう》をさかんにやりました。所々《しよ/\》に壯麗《そうれい》な離宮《りきゆう》をつくる。それから運河《うんが》をほつて黄河《こうが》と揚子江《ようすこう》との水《みづ》を聯絡《れんらく》いたしました。普通《ふつう》に大運河《だいうんが》と稱《しよう》するのがこれであります。とにかく、これはすこぶる大《たい》した土木《どぼく》事業《じぎよう》でして、萬里《ばんり》の長城《ちようじよう》と竝《なら》べて支那《しな》の二《ふた》つの大土木《だいどぼく》事業《じぎよう》、二《ふた》つの不思議《ふしぎ》とでもいふべきでせう。煬帝《ようてい》はこの運河《うんが》の兩岸《りようがん》にずっと柳《やなぎ》を植《う》ゑさせ、そのところ/″\に四十餘《しじゆうよ》の離宮《りきゆう》を置《お》き、その間《あひだ》を龍船《りゆうせん》に乘《の》つて遊幸《ゆうこう》をいたしました。しかしこの運河《うんが》が單《たん》に煬帝《ようてい》の贅澤心《ぜいたくしん》を滿足《まんぞく》せしめんがためにのみ作《つく》られたのではありません。それには南北《なんぼく》の交通《こうつう》を便《べん》にしようとする經濟的《けいざいてき》なまた軍事的《ぐんじてき》な目的《もくてき》があつたようです。この運河《うんが》はもちろんいく度《たび》かの改修《かいしゆう》は經《へ》たでせうが、現《げん》にいま殘《のこ》つてをります。そして現《げん》にいま用《もち》ひられてをります。なるほど今《いま》は鐵道《てつどう》が出來《でき》たので、昔程《むかしほど》の直《ね》うちはありませんが、鐵道《てつどう》の出來《でき》る前《まへ》は、これが運輸《うんゆ》交通上《こうつうじよう》の重要《じゆうよう》な幹線《かんせん》をなしてをりました。とかく煬帝《ようてい》ははでなことの好《す》きな人《ひと》でした。月夜《つきよ》に宮女《きゆうじよ》數千《すうせん》を從《したが》へて苑《えん》に遊《あそ》び、清夜遊《せいやゆう》の曲《きよく》といふ音樂《おんがく》を作《つく》つて馬上《ばじよう》にこれを奏《そう》するといふ遊《あそ》びは、もっとも好《この》んだところでした。
[#図版(07.png)、煬帝清夜遊行の圖]
 かうした濫費《らんぴ》は、多數《たすう》國民《こくみん》の犧牲《ぎせい》の上《うへ》に成《な》り立《た》つものです。それが民力《みんりよく》の疲弊《ひへい》を招《まね》き、民心《みんしん》を離《はな》れさせたのはいはずとも明《あきら》かでした。しかるに煬帝《ようてい》は、高勾麗《こうくり》征伐《せいばつ》を計畫《けいかく》しました。これが因《いん》となつて隋《ずい》は滅亡《めつぼう》いたしました。
 そのお話《はなし》をする前《まへ》に、まづ朝鮮《ちようせん》半島《はんとう》の形勢《けいせい》を述《の》べる必要《ひつよう》があります。朝鮮《ちようせん》北部《ほくぶ》には漢《かん》の四郡《しぐん》があり、これが支那《しな》の勢力《せいりよく》範圍《はんい》であり、その南《みなみ》には馬韓《ばかん》、弁韓《べんかん》、辰韓《しんかん》の三韓《さんかん》の韓人種《かんじんしゆ》の國《くに》があつたことは前《まへ》にも申《まを》しました。この形勢《けいせい》は前漢《ぜんかん》の末《すゑ》すでに變化《へんか》し始《はじ》め、鴨緑江《おうりよつこう》の上流《じようりゆう》地方《ちほう》に、高勾麗《こうくり》といふ國《くに》が興《おこ》りました。その勢力《せいりよく》は次第《しだい》に強大《きようだい》となつて漸次《ぜんじ》南下《なんか》し、漢人《かんじん》の勢力《せいりよく》の下《もと》にあつた古朝鮮《こちようせん》の地《ち》を占領《せんりよう》してしまひました。
 その頃《ころ》、三韓《さんかん》の地《ち》にも變化《へんか》が起《おこ》り、百濟《くだら》といふ國《くに》が馬韓《ばかん》の地《ち》に興《おこ》り、新羅《しらぎ》といふ國《くに》が辰韓《しんかん》の地《ち》に興《おこ》りました。これら高勾麗《こうくり》、百濟《くだら》、新羅《しらぎ》の三《みつ》つの國《くに》が鼎立《ていりつ》しましたので、これを三國《さんごく》といひ、この時代《じだい》を三國《さんごく》時代《じだい》と申《まを》します。
 三韓《さんかん》の中《うち》の弁韓《べんかん》の地《ち》に任那《みまな》といふ國《くに》が起《おこ》りましたが、國《くに》が小《ちひ》さくて獨立《どくりつ》がむづかしく、ために海《うみ》をこえて日本《につぽん》に助《たす》けを求《もと》めました。そこで日本《につぽん》はそこに勢力《せいりよく》をのばし、そこから新羅《しらぎ》、百濟《くだら》と半島《はんとう》の中部《ちゆうぶ》以南《いなん》は、日本《につぽん》の勢力《せいりよく》にいったんは屬《ぞく》しました。
 この三國《さんごく》の中《うち》、北部《ほくぶ》の高勾麗《こうくり》を隋《ずい》の煬帝《ようてい》は征伐《せいばつ》しようといたしました。高勾麗《こうくり》は隋《ずい》に入貢《にゆうこう》いたしませんので、天下《てんか》の兵《へい》を召《め》し、帝《てい》自《みづか》らこれを率《ひき》ゐました。その軍《ぐん》は百萬《ひやくまん》と號《ごう》しました。帝《てい》は遼東城《りようとうじよう》を攻《せ》めましたが、城《しろ》はよく守《まも》つてつひに勝《か》たず、また翌年《よくねん》、再征《さいせい》しましたが、またもや遼東《りようとう》に敗《やぶ》れました。この大失敗《だいしつぱい》にかゝはらず、煬帝《ようてい》は第三回《だいさんかい》の征伐《せいばつ》の軍《ぐん》を起《おこ》さうとしましたので、人民《じんみん》の動搖《どうよう》はその極《きよく》に達《たつ》し、群雄《ぐんゆう》がところ/″\に蜂起《ほうき》しました。そのうち大原《たいげん》の守將《しゆしよう》、李淵《りえん》といふ人《ひと》は、その子《こ》の世民《せいみん》にすゝめられて兵《へい》を擧《あ》げ、長安《ちようあん》を陷《おとしい》れました。ところが煬帝《ようてい》といふ人《ひと》は、今《いま》の楊州《ようしゆう》、その時分《じぶん》の江都《こうと》が大《だい》すきで、よく江都《こうと》に遊《あそ》びに行《ゆ》きましたが、とう/\江都《こうと》の離宮《りきゆう》にゐすわつて北《きた》へ歸《かへ》らうともせず、淫虐《いんぎやく》日《ひ》にはなはだしく、酒盃《しゆはい》を口《くち》から離《はな》しませんでした。そのためつひに臣下《しんか》に縊《くび》り殺《ころ》されてしまひました。
 しかし隋《ずい》といふ時代《じだい》は、三國《さんごく》以來《いらい》の分裂《ぶんれつ》をまとめ、また北方《ほつぽう》民族《みんぞく》の侵入《しんにゆう》跋扈《ばつこ》を一《ひと》まづ一掃《いつそう》しました。支那《しな》民族《みんぞく》の勢威《せいゝ》を四周《ししゆう》の外民族《がいみんぞく》に示《しめ》した點《てん》などにおいて、次代《じだい》の唐《とう》の隆盛《りゆうせい》の先駈《さきが》けをなしてゐるものであつて、煬帝《ようてい》の治世《じせい》なども、かうした方面《ほうめん》から見《み》てやる必要《ひつよう》もあります。

   二三、唐《とう》の隆盛《りゆうせい》

 隋《ずい》に代《かは》つたのは唐《とう》でした。李淵《りえん》が帝位《ていゝ》に即《つ》いて高祖《こうそ》と申《まを》しましたけれども、群雄《ぐんゆう》はまだ所在《しよざい》に割據《かつきよ》してをりました。そこで世民《せいみん》は四方《しほう》の討伐《とうばつ》に從《したが》ひ、凡《およ》そ六年《ろくねん》で天下《てんか》は平定《へいてい》されました。
 世民《せいみん》は、つひに父《ちゝ》高祖《こうそ》の禪《ゆづり》を受《う》けて天子《てんし》になりました。これを太宗《たいそう》と申《まを》します。太宗《たいそう》は實《じつ》に不世出《ふせいしゆつ》の英主《えいしゆ》でした。ひとり支那《しな》といはず世界《せかい》においても稀《まれ》に見《み》る理想的《りそうてき》な君主《くんしゆ》でございます。それにこれを助《たす》けるのに杜《と》如晦《ぎよかい》、房《ぼう》玄齡《げんれい》、魏徴《ぎちよう》、王珪《おうけい》等《ら》の名臣《めいしん》、また李靖《りせい》、李勣《りせき》の如《ごと》き名將《めいしよう》をもつてしましたので、海内《かいだい》大《おほ》いに治《をさ》まり、また四隣《しりん》こと/″\く歸服《きふく》いたしました。
 太宗《たいそう》は天下《てんか》を武《ぶ》をもつて得《え》ましたが、これを治《をさ》めるのには、文《ぶん》をもつてする方針《ほうしん》でございました。かくして實現《じつげん》せられた太平《たいへい》の政治《せいじ》を、貞觀《じようかん》の治《じ》と申《まを》すものであります。太宗《たいそう》は律令《りつりよう》を定《さだ》めるなど、いろ/\政治《せいじ》につくしましたが、その模範的《もはんてき》の言行《げんこう》、または臣下《しんか》との治政上《じせいじよう》の問答《もんとう》などは、貞觀《じようかん》政要《せいよう》といふ書《しよ》に載《の》つてゐます。この書物《しよもつ》は、後世《こうせい》の爲政者《いせいしや》に、ことに日本《につぽん》においてもよく模範《もはん》として讀《よ》まれたものでした。
 太宗《たいそう》についで位《くらゐ》についた高宗《こうそう》は、その器量《きりよう》は少《すこ》し劣《おと》つてゐましたが、前代《ぜんだい》の遺業《いぎよう》を完成《かんせい》しました。この太宗《たいそう》、高宗《こうそう》二代《にだい》の間《あひだ》が、唐代《とうだい》の最盛期《さいせいき》であり、また廣《ひろ》くいつて漢民族《かんみんぞく》の最降期《さいりゆうき》[#「最降期」は底本のまま]であつたといひ得《う》るかも知《し》れません。それは地域的《ちいきてき》に支那《しな》の勢力《せいりよく》が伸《の》びたといふ點《てん》からいつても、また文化的《ぶんかてき》にいつても最盛《さいせい》の時期《じき》であつたといへるでせう。
 まづこの二代《にだい》における對外《たいがい》關係《かんけい》から見《み》てまゐりませう。南北朝《なんぼくちよう》の末《すゑ》に突厥《とつけつ》といふ部族《ぶぞく》が北《きた》に起《おこ》りまして、從來《じゆうらい》北《きた》でいばつてゐました柔然《じゆうぜん》を倒《たふ》して支那《しな》の北方《ほつぽう》に大勢力《だいせいりよく》を張《は》りました。しかし、それは東西《とうざい》の二部《にぶ》に分《わか》れてをりました。この突厥《とつけつ》といふ語《ご》は、トルコといふ語《ご》の音譯《おんやく》で、それはトルコ種《しゆ》でした。その王《おう》は可汗《かゝん》とよばれてゐました。この突厥《とつけつ》は、隋《ずい》の代《だい》にも支那《しな》と交渉《こうしよう》を持《も》ちましたが、唐《とう》が興《おこ》る際《さい》にも、高祖《こうそ》は東《ひがし》突厥《とつけつ》の力《ちから》を借《か》りて隋《ずい》を亡《ほろぼ》したのです。ですから突厥《とつけつ》の方《ほう》では唐《とう》を非常《ひじよう》に輕《かろ》んじ、しば/\入寇《にゆうこう》して侵掠《しんりやく》を企《くはだ》てました。太宗《たいそう》の初年《しよねん》、東《ひがし》突厥《とつけつ》に内亂《ないらん》があり、また飢饉《ききん》があつて國勢《こくせい》が衰《おとろ》へたのに乘《じよう》じ、帝《てい》は將軍《しようぐん》を遣《つか》はしてこれを討《う》たしめ、その長《をさ》頡利《きつり》可汗《かゝん》を捕《とら》へて、東《ひがし》突厥《とつけつ》を亡《ほろぼ》してしまひました。
 西《にし》突厥《とつけつ》の方《ほう》も南北朝《なんぼくちよう》の末《すゑ》、東《ひがし》ローマと同盟《どうめい》してペルシャを破《やぶ》つたり、西域《せいゝき》諸國《しよこく》を服屬《ふくぞく》せしめたり、大《おほ》いに威《い》を振《ふる》ひましたが、高宗《こうそう》は蘇《そ》定方《ていほう》を遣《つか》はして、これを討《う》ち亡《ほろぼ》しました。
 唐《とう》の初《はじ》めのころ、アラビアにマホメットが出《で》て、イスラム教《きよう》、すなはちマホメット教《きよう》を創《はじ》めると同時《どうじ》に、アラビアを統一《とういつ》してサラセン帝國《ていこく》を建《た》てました。支那《しな》の歴史《れきし》では、この帝國《ていこく》のことを大食國《たーじこく》と申《まを》します。このマホメット教《きよう》は、マホメット教《きよう》以外《いがい》の異教徒《いきようと》を征服《せいふく》し、それをマホメット教徒《きようと》に改宗《かいしゆう》せしめることを、宗教上《しゆうきようじよう》の義務《ぎむ》といたしました。そこでマホメット及《およ》びその後嗣者《こうししや》たちは諸方《しよほう》の經略《けいりやく》に從事《じゆうじ》し、ヨーロッパ、アジアにわたる大帝國《だいていこく》をつくりました。ですからこの時代《じだい》には、唐《とう》といふ大帝國《だいていこく》とサラセン帝國《ていこく》とが相接《あひせつ》して出來《でき》たのです。
 この二國《にこく》の間《あひだ》にどうした交渉《こうしよう》があつたか。サラセン帝國《ていこく》がペルシャを亡《ほろぼ》した時《とき》、ちょうどペルシャはササン朝《ちよう》でしたが、ペルシャの王族《おうぞく》のペロスといふものが逃《のが》れて支那《しな》に來《きた》り、支那《しな》の後援《こうえん》を得《え》て本國《ほんごく》を回復《かいふく》しようとしました。しかし、そのことは成《な》らずにやみました。大食《たーじ》はまた高宗《こうそう》の時《とき》、使《つか》ひを遣《つか》はして好《よし》みを通《つう》じました。この大食人《たーじじん》が、後《のち》に多《おほ》く南海《なんかい》から支那《しな》へ貿易《ぼうえき》に來《き》た話《はなし》は、後《のち》にいたします。
 太宗《たいそう》の時《とき》、西域《せいゝき》諸國《しよこく》ことに天山《てんざん》南路《なんろ》の諸國《しよこく》を服屬《ふくぞく》させ、また吐谷渾《とよくこん》を討《う》つて青海《せいかい》の地方《ちほう》を占領《せんりよう》しましたので、唐《とう》の領土《りようど》は、今《いま》のチベット(吐蕃《ちべつと》)と相接《あひせつ》するようになりました。チベットは當時《とうじ》勢《いきほ》ひがすこぶる盛《さか》んで、しば/\侵寇《しんこう》しましたが、つひに唐《とう》と和《わ》して婚《こん》を通《つう》じました。このチベットに嫁《よめ》に行《い》つた公主《こうしゆ》が、非常《ひじよう》に熱心《ねつしん》な佛教《ぶつきよう》信者《しんじや》でした。これまでチベットには佛教《ぶつきよう》ははひつてゐなかつたのですが、この公主《こうしゆ》の感化《かんか》で佛教《ぶつきよう》が行《おこな》はれるようになり、今《いま》でも盛《さか》んに行《おこな》はれてゐます。またインドもこの唐《とう》の威名《いめい》を聞《き》いて、はるばる使《つか》ひを遣《つかは》して入貢《にゆうこう》するといふあり樣《さま》でした。
 當時《とうじ》東《ひがし》の方《かた》朝鮮《ちようせん》半島《はんとう》の形勢《けいせい》は、百濟《くだら》、高勾麗《こうくり》、新羅《しらぎ》の三國《さんごく》鼎立《ていりつ》の勢《いきほ》ひでありましたが、高勾麗《こうくり》と百濟《くだら》とは相結《あひむす》んで新羅《しらぎ》を侵《をか》しました。百濟《くだら》の背後《はいご》には日本《につぽん》がひかへてゐたわけです。ところが新羅《しらぎ》は、援《たす》けを唐《とう》に求《もと》めました。そこで唐《とう》では、太宗《たいそう》が自《みづか》ら高勾麗《こうくり》を征《せい》しました。この時《とき》諫《いさ》めたものもありましたが、太宗《たいそう》はこれを聽《き》かずに兵《へい》を出《だ》したのでした。遼東《りようとう》の安市城《あんしじよう》を圍《かこ》んで攻《せ》めること六箇月《ろつかげつ》にして、なほも落城《らくじよう》いたしません。その中《うち》にだんだん寒《さむ》くなつてくるのでやむなく退却《たいきやく》し、この太宗《たいそう》の高勾麗《こうくり》征伐《せいばつ》は大失敗《だいしつぱい》に終《をは》つたのでありました。
 次《つ》ぎの代《だい》の高宗《こうそう》になつて方策《ほうさく》を變《か》へまして、百濟《くだら》から片《かた》づけることにいたしました。蘇《そ》定方《ていほう》を遣《つか》はして、まづ百濟《くだら》を亡《ほろぼ》しました。日本《につぽん》はもちろん百濟《くだら》を援助《えんじよ》してをりましたので、時《とき》の天子《てんし》、齊明《さいめい》天皇《てんのう》の攝政《せつしよう》中大兄《なかのおほえの》皇子《おうじ》は大《おほ》いに援兵《えんぺい》を送《おく》りましたが、その軍《ぐん》は白村江《はくそんこう》の江口《こう/\》において、唐《とう》の水軍《すいぐん》に破《やぶ》られてしまひました。かくしてつひに百濟《くだら》は滅亡《めつぼう》の悲運《ひうん》にあひ、ついで高勾麗《こうくり》も同《おな》じ運命《うんめい》を繰《く》り返《かへ》したのです。しかるに唐《とう》の援助《えんじよ》を得《え》て他《た》の二國《にこく》を亡《ほろぼ》した新羅《しらぎ》は、なにも心《こゝろ》から唐《とう》に服《ふく》してゐたわけではない。たゞ他《た》の二國《にこく》への對抗上《たいこうじよう》、唐《とう》を利用《りよう》しようとしてゐるだけであつたので、新羅《しらぎ》もまもなく唐《とう》に叛《そむ》いて高勾麗《こうくり》、新羅《しらぎ》の兩國《りようごく》の故地《こち》を侵《をか》し、大同江《だいどうこう》以南《いなん》の地《ち》はこと/″\く新羅《しらぎ》の領土《りようど》となつてしまひました。これから後《のち》の朝鮮《ちようせん》を、新羅《しらぎ》統一《とういつ》時代《じだい》と申《まを》します。
 日本《につぽん》はかくてつひに朝鮮《ちようせん》半島《はんとう》から勢力《せいりよく》を失《うしな》ひました。この中大兄《なかのおほえの》皇子《おうじ》、後《のち》の天智《てんち》天皇《てんのう》が筑紫《つくし》に水城《みづき》を築《きづ》き、また諸地方《しよちほう》に城塞《じようさい》を造《つく》つたことは、唐《とう》の來寇《らいこう》に備《そな》へるためであつたことは、皆《みな》さんの知《し》つてゐられるところであります。
 これら諸國《しよこく》の他《ほか》、いまのシャム、インド支那《しな》の地方《ちほう》や、また南海《なんかい》諸國《しよこく》、今《いま》のジャヴァ、スマトラなども唐《とう》に來歸《らいき》しましたので、唐《とう》の勢力《せいりよく》の及《およ》ぶ屬地《ぞくち》はすこぶる廣《ひろ》く、唐《とう》では各要地《かくようち》に六《むつ》つの都護府《とごふ》を置《お》いて、この管轄《かんかつ》にあたらしめました。

   二四、唐《とう》の衰運《すいうん》

 唐《とう》の極盛期《きよくせいき》は太宗《たいそう》高宗《こうそう》の二代《にだい》でしたが、それから後《のち》になりますと、國勢《こくせい》が少《すこ》し衰《おとろ》へた氣味《きみ》でした。ことに普通《ふつう》武韋《ぶい》の禍《わざは》ひと申《まを》しますが、皇后《こうごう》武氏《ぶし》と韋氏《いし》が政《まつりごと》を專《もつぱ》らにしたことがあるので、これが大《おほ》いに祟《たゝ》つたのです。ことに武后《ぶこう》などは、何度《なんど》も天子《てんし》を廢《はい》し、あげくに自《みづか》ら帝位《ていゝ》に登《のぼ》つて國《くに》を周《しゆう》と號《ごう》したりしました。則天《そくてん》武后《ぶこう》といふのはこの人《ひと》です。
 この女禍《じよか》の後《あと》をうけついだのが玄宗《げんそう》といふ皇帝《こうてい》でした。多《おほ》くの名臣《めいしん》を用《もち》ひて極力《きよくりよく》意《い》を政治《せいじ》に用《もち》ひましたので、國力《こくりよく》また振《ふる》ひ、天下《てんか》實《じつ》に泰平《たいへい》を樂《たの》しむこと三十年《さんじゆうねん》、多《おほ》くの詩人《しじん》なども出《で》て文運《ぶんうん》もふるひました。これを開元《かいげん》の治《じ》といひ、太宗《たいそう》の貞觀《じようかん》の治《じ》と竝《なら》べ稱《しよう》せられます。一時《いちじ》唐《とう》の勢力《せいりよく》の弱《よわ》つたのに乘《じよう》じ、邊境《へんきよう》には外民族《がいみんぞく》の侵寇《しんこう》が激《はげ》しくなつたので、玄宗《げんそう》はこれを防《ふせ》ぐため、邊境《へんきよう》の地《ち》に節度使《せつどし》といふものを置《お》きました。それは全部《ぜんぶ》で十《とを》ありまして、兵馬《へいば》財政《ざいせい》の實權《じつけん》を與《あた》へられ、その地《ち》の防備《ぼうび》を託《たく》されたものだつたのです。
 この節度使《せつどし》なるものは、初《はじ》めは邊境《へんきよう》にだけ置《お》かれたのでしたが、後《のち》になると内地《ないち》にも置《お》かれるようになりました。そして、節度使《せつどし》のことを藩鎭《はんちん》と申《まを》しますが、この藩鎭《はんちん》の跋扈《ばつこ》といふことが、唐室《とうしつ》の滅亡《めつぼう》する一因《いちいん》となつたのです。そしてこの節度使《せつどし》の横暴《おうぼう》は、すぐに玄宗《げんそう》の時《とき》にさへ安史《あんし》の亂《らん》の形《かたち》となつて現《あらは》れてまゐりました。
 玄宗《げんそう》は、初《はじ》めのうちは大《おほ》いに政《まつりごと》につとめましたが、後年《こうねん》政《まつりごと》にあきて、驕奢《きようしや》に遊宴《ゆうえん》に心《こゝろ》をかたむけました。このとき帝《てい》は楊貴妃《ようきひ》といふ美人《びじん》を寵愛《ちようあい》して日夜《にちや》宴樂《えんらく》をことゝし、政《まつりごと》を顧《かへり》みませんでした。支那《しな》は温泉《おんせん》の少《すくな》い國《くに》ですが、驪山《りざん》といふ所《ところ》に珍《めづら》しく温泉《おんせん》があります。玄宗《げんそう》はこの驪山《りさん》[#「りさん」は底本のまま]の離宮《りきゆう》にしば/\楊貴妃《ようきひ》を伴《ともな》つて遊《あそ》びました。これは支那《しな》の詩人《しじん》などの好《この》んだ題目《だいもく》になりました。
 時《とき》に安《あん》祿山《ろくざん》といふ男《をとこ》がありました。もと/\支那人《しなじん》でない胡人《こじん》でしたが、巧《たくみ》に楊貴妃《ようきひ》に取《と》り入《い》つて帝《てい》の信任《しんにん》を得《え》、つひに一人《ひとり》で三《みつ》つの節度使《せつどし》を兼《か》ねるといふ大勢力《だいせいりよく》となりました。もと/\野心《やしん》があつたので、こゝに至《いた》つて自分《じぶん》の兵《へい》および奚《けい》、契丹《きつたん》の外民族《がいみんぞく》の兵《へい》を併《あは》せ、十五萬《じゆうごまん》の大軍《たいぐん》をもつて南下《なんか》してまゐりました。當時《とうじ》泰平《たいへい》が久《ひさ》しくつゞいたので、百姓《ひやくしよう》は戰爭《せんそう》といふものを知《し》らず無人《むにん》の野《の》を行《ゆ》く勢《いきほ》ひで洛陽《らくよう》を陷《おとしい》れました。顏《がん》眞卿《しんけい》といふ書《しよ》の大家《たいか》であつた人《ひと》や、郭《かく》子儀《しぎ》などが勤王《きんのう》の兵《へい》をあげてこれを防《ふせ》ぎました。賊《ぞく》の勢《いきほ》ひ猛烈《もうれつ》でふせぎきれません。つひに長安《ちようあん》にまで迫《せま》つてまゐりましたので、玄宗《げんそう》はやむなく蜀《しよく》の方《ほう》へのがれました。馬嵬《ばかい》といふ所《ところ》までまゐりますと、將士《しようし》が飢《う》ゑ疲《つか》れて大《おほ》いに不平《ふへい》がたかまり、帝《てい》に迫《せま》つて楊貴妃《ようきひ》を縊《くび》り殺《ころ》させてしまひました。絶世《ぜつせい》の美人《びじん》も、はかなく馬嵬《ばかい》にあはれな最期《さいご》をとげたのです。
[#図版(08.png)、楊貴妃]
 玄宗《げんそう》は位《くらゐ》を子《こ》の肅宗《しゆくそう》に讓《ゆづ》りました。まもなく賊軍《ぞくぐん》の方《ほう》に内紛《ないふん》が起《おこ》り、安《あん》祿山《ろくざん》は殺《ころ》され、史《し》思明《しめい》がこれに代《かは》りました。唐《とう》の方《ほう》では力《ちから》が足《た》りないので、漠北《ばくほく》に住《す》んでゐる回※[#「糸+乞」、第3水準1-89-89]《ういぐる》の援助《えんじよ》を求《もと》めてこれを討《う》ち、肅宗《しゆくそう》の子《こ》の代宗《だいそう》の時《とき》、やうやくこの亂《らん》を平《たひら》ぐるを得《え》たのです。この安《あん》祿山《ろくざん》また史《し》思明《しめい》の亂《らん》は、前後《ぜんご》九年《くねん》に及《およ》んで中原《ちゆうげん》をさわがしたので、内《うち》は國力《こくりよく》を消盡《しようじん》し、外《そと》に對《たい》しては外敵《がいてき》の侵寇《しんこう》の機《き》を與《あた》へ、これから唐《とう》の國運《こくうん》は衰《おとろ》へ始《はじ》めたのでした。
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國《くに》破《やぶ》れて山河《さんが》あり、城《しろ》春《はる》にして草木《そうもく》深《ふか》し。
時《とき》に感《かん》じて花《はな》に涙《なみだ》を濺《そゝ》ぎ、別《わか》れを恨《うら》んで鳥《とり》に心《こゝろ》を驚《おどろ》かす。
烽火《ほうか》三月《さんげつ》に亙《わた》り、家書《かしよ》萬金《ばんきん》に抵《あた》る。
白頭《はくとう》掻《か》けども更《さら》に短《みじか》く、渾《すべ》て簪《さん》に勝《た》へざらんと欲《ほつ》す。
[#ここで字下げ終わり]
 この亂《らん》にあつた唐《とう》の詩人《しじん》はかう歌《うた》つてゐます。その國土《こくど》亂流《らんる》のさまを見《み》ることが出來《でき》ませう。
 安史《あんし》の亂《らん》を平《たひら》げるのに、唐《とう》は回※[#「糸+乞」、第3水準1-89-89]《ういぐる》の力《ちから》を借《か》りたことは前《まへ》に申《まを》しました。この回※[#「糸+乞」、第3水準1-89-89]《ういぐる》はもともと突厥《とつけつ》の部下《ぶか》だつたのですが、それを倒《たふ》して漠北《ばくほく》を一統《いつとう》したのでした。安史《あんし》の亂《らん》に恩《おん》を唐《とう》に賣《う》つたので、唐《とう》に對《たい》して横暴《おうぼう》を極《きは》め歳幣《さいへい》を貪《むさぼ》り、またしば/\入寇《にゆうこう》を重《かさ》ねて大《おほ》いに唐《とう》を苦《くる》しめました。チベットもまたしば/\入寇《にゆうこう》し、代宗《だいそう》の時《とき》などにはいったん長安《ちようあん》を陷《おとしい》れたことさへありました。
 かうした外患《がいかん》に加《くは》へて、内《うち》では藩鎭《はんちん》の勢《いきほ》ひが強大《きようだい》となり、朝命《ちようめい》に從《したが》はないため國用《こくよう》も足《た》らないといふ始末《しまつ》でした。それに朝廷《ちようてい》の内部《ないぶ》にあつては宦官《かん/″\》の跋扈《ばつこ》もはなはだしく、あるひは天子《てんし》を弑《しひ》したり、あるひは天子《てんし》を自由《じゆう》に擁立《ようりつ》したりいたしました。あるひは近衞兵《このえへい》の指揮權《しきけん》を握《にぎ》つたり、あるひは國子監《こくしかん》といふ大學《だいがく》の監督權《かんとくけん》を收《をさ》め、あるひは税務《ぜいむ》の實權《じつけん》を占《し》めたりして、天子《てんし》も宰相《さいしよう》も虚位《きよい》を擁《よう》するにすぎませんでした。
 朝政《ちようせい》のかゝる紊亂《びんらん》が、天下《てんか》の大亂《たいらん》をひき起《おこ》すのは當然《とうぜん》でして、盜賊《とうぞく》が各地《かくち》に蜂起《ほうき》いたしました。そのうちでも黄巣《こうそう》といふものが、もつとも暴威《ぼうい》を振《ふる》つたのでした。
 かうして内憂《ないゆう》外患《がいかん》に苦《くる》しめられた唐室《とうしつ》が、衰弱《すいじやく》し切《き》つたのはいふまでもありません。そしてつひに朱《しゆ》全忠《ぜんちゆう》といふものが、昭宗《しようそう》を弑《しひ》して唐《とう》を亡《ほろぼ》してしまひました。支那史《しなし》において漢民族《かんみんぞく》の極盛期《きよくせいき》であり、漢人《かんじん》文化《ぶんか》の最高點《さいこうてん》ともいふべき唐《とう》は、かくて二百《にひやく》九十年《くじゆうねん》で亡《ほろ》んでしまつたのであります。(つづく)



底本:『東洋歴史物語 No.7』復刻版 日本児童文庫、名著普及会
   1981(昭和56)年6月20日発行
親本:『東洋歴史物語』日本兒童文庫、アルス
   1929(昭和4)年11月5日発行
入力:しだひろし
校正:
xxxx年xx月xx日作成
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*地名

(※ 市町村名は、平成の大合併以前の表記のまま。一般的な国名・地名などは解説省略。
  • [中国]
  • シナ 支那 (「秦(しん)」の転訛)外国人の中国に対する呼称。初めインドの仏典に現れ、日本では江戸中期以来第二次大戦末まで用いられた。戦後は「支那」の表記を避けて多く「シナ」と書く。
  • 万里の長城 ばんりの ちょうじょう 中国の北辺、東は河北省山海関から西は甘粛省嘉峪関に至る大城壁。長さ約2400キロメートル、高さ約6〜9メートル、上部の幅4.5メートル。春秋戦国時代に斉・燕・趙・魏などの諸国が辺境を守るために築き、秦の始皇帝が大増築して、この名を称した。現在の長城は明代に築造、位置は遥かに南に下っている。
  • 黄河 こうが (Huang He)(水が黄土を含んで黄濁しているからいう)中国第2の大河。青海省の約古宗列盆地の南縁に発源し、四川・甘粛省を経て陝西・山西省境を南下、汾河・渭河など大支流を合わせて東に転じ、華北平原を流れて渤海湾に注ぐ。しばしば氾濫し、人民共和国建国後に大規模な水利工事が行われた。近年下流部で水量の減少が著しい。全長5464キロメートル余。流域は中国古代文明の発祥地の一つ。河。
  • 長江 ちょうこう (Chang Jiang)中国第一の大河。青海省南西部に発源、雲南・四川の省境を北東流し、重慶市を貫き、三峡を経て湖北省を横断、江西・安徽・江蘇3省を流れて東シナ海に注ぐ。全長約6300キロメートル。流域は古来交通・産業・文化の中心。揚子江。大江。江。
  • 江北 こうほく (1) 大河の北。(2) 長江の北。
  • 揚子江 ようすこう (Yanzi Jiang)長江の通称。本来は揚州付近の局部的名称。
  • [山西省] さんせいしょう (Shanxi)(太行山脈の西方の意)中国華北地区西部の省。東西を山地に挟まれた高原地帯。省都は太原。面積約16万平方キロメートル。別称、晋・山右。春秋の晋の地。石炭・鉄など地下資源が豊富。
  • 平城 へいじょう 北魏前期(398〜493)の都。現在の山西省大同市。
  • [河南省]
  • 洛陽 らくよう 洛陽・�陽。(Luoyang)(洛河の北に位置するからいう)中国河南省の都市。北に山を負い、南に洛河を控えた形勝の地。周代の洛邑で、後漢・晋・北魏・隋・後唐の都となり、今日も白馬寺・竜門石窟など旧跡が多い。機械工業が盛ん。人口149万2千(2000)。
  • [陝西省]
  • 漢中 かんちゅう 中国陝西省の南西隅、漢水上流の盆地。四川・湖北両省に至る要地。劉邦(漢の高祖)が封ぜられて漢王と称した所。南鄭。
  • 驪山 りざん 中国陝西省西安市臨潼区の南東郊にある山。古来、西北麓の温泉で名高く、秦の始皇帝は瘡を治療し、唐の玄宗は華清宮で楊貴妃に浴せしめた。
  • 驪山宮 りざんきゅう 驪山にあった華清宮の別称。
  • 華清宮 かせいきゅう 唐の太宗が驪山の下に設けた離宮。陝西省西安市の東郊。玄宗が楊貴妃と遊んだので名高い。温泉宮。驪山宮。
  • 長安 ちょうあん 中国陝西省西安市の古称。洛陽と並んで中国史上最も著名な旧都。漢代から唐代にかけて最も繁栄。西京。
  • 馬嵬 ばかい 陝西省興平県の西の地名。唐代、安禄山の乱の際、玄宗に従って蜀に落ちのびる途中の楊貴妃が殺された所。
  • 五丈原 ごじょうげん 中国陝西省岐山県の南、秦嶺山脈の北麓にある地。234年、蜀漢の諸葛孔明が魏将司馬懿と対陣中に病死した所。
  • [江蘇省]
  • 江東 こうとう 長江下流の南岸の地。今の江蘇省南部および浙江省北部に相当する。江左ともいう。春秋戦国時代の呉越地方の古称。
  • 江南 こうなん 長江下流南側の地。江蘇・安徽省南部と浙江省北部を含む。広く、長江以南の地方を指すこともある。
  • 呉 ご (2) 中国、三国時代の三国の一つ。孫権が江南に建てた国。222年独立、229年国号を定めた。都は建業。4世で西晋に滅ぼされた。(222〜280)
  • 建康 けんこう 南京の古称。東晋および南朝の都。
  • 南京 ナンキン (Nanjing; Nanking)中国江蘇省南西部にある省都。長江に臨み、古来、政治・軍事の要地。古く金陵・建業・建康などと称し、明代に北京に対して南京と称。中華民国国民政府時代の首都。化学工業などが盛ん。人口362万4千(2000)。別称、寧。
  • 楊州 ようしゅう → 揚州
  • 揚州 ようしゅう (Yangzhou)中国江蘇省中西部の都市。長江の北岸で大運河に臨む。明・清時代には、中国最大の産額を誇る両淮塩流通の根拠地として繁栄、学者文人が集まって文化の一中心をなした。人口71万2千(2000)。
  • 江都 こうと 中国隋代に、現在の江蘇省江都郡の地におかれた郡名。
  • [安徽省]
  • �水 ひすい 中国安徽省の北西部にある川。383年、東晋が前秦の軍を破った古戦場として著名。
  • [湖北省]
  • 夏口 かこう → 漢口
  • 漢口 かんこう (Hankou)中国湖北省東部の都市。長江と漢水の合流地点の北西に位置し、古代には夏口と呼ばれた。対岸の武昌、漢陽と合わせ武漢三鎮と称したが、中華人民共和国の成立後、合併して武漢市を形成。日中戦争初期、南京撤退後の国民政府所在地。水陸交通の要地。ハンカオ。
  • 赤壁 せきへき (Chibi) (1) 中国、湖北省嘉魚県の西、長江の南岸にある地。赤壁の戦があった。(2) 中国、湖北省黄岡県の東にある名勝地。長江の北岸で、漢口の下流。蘇軾が誤って「赤壁賦」を詠じた所。賦中の「黄泥之阪」は今の黄岡山。赤鼻磯。
  • 荊州 けいしゅう (Jingzhou) (1) 中国古代の九州の一つ。今の中国湖北省・湖南省の大部分。(2) 湖北省中部の都市。沙市区と荊州区からなる。長江水運・南北交通の要地。人口117万7千(2000)。
  • [四川省]
  • 巴蜀 はしょく 中国、巴州・蜀州の総称。巴は今の重慶地方、蜀は四川省成都地方。後世、四川省の別称。
  • 蜀漢 しょっかん 中国、三国の一つ。後漢の滅亡後、蜀地方を中心に劉備の建てた国。新たな王朝創建ではなく後漢をひきついだので国号を漢と称した。(221〜263)
  • 魏 ぎ (2) 中国、三国時代の国名。後漢の末、198年曹操が献帝を奉じて天下の実権を握って魏王となり、その子丕に至って帝位についた。都は洛陽。江北の地を領有。5世で晋に禅る。曹魏。(220〜265)
  • 晋 しん (2) 中国、三国の魏に代わって、その権臣司馬炎が建てた王朝。都は洛陽。280年呉を滅ぼして天下を統一。のち、五胡の乱のため、316年、4世で滅亡(西晋)。翌年皇族司馬睿(元帝)が建康(南京)に再興したが、混乱がつづき、ついに将軍劉裕によって滅ぼされた(東晋)。(265〜420)
  • [インド]
  • インダス川 Indus インド北西部からパキスタンを流れる川。チベットに発源、パンジャブ地方・タール砂漠西辺を経て、アラビア海に注ぐ。全長約2900キロメートル。流域では、前2300〜前1800年頃インダス文明が栄えた。
  • ガンジス Ganges インドの大河。西部ヒマラヤ山脈に発源、諸支流を合わせて南東に流れ、ベンガル湾に注ぐ。長さ約2500キロメートル。ヒンドスタン大平原を形成、下流はインドの主要米作地帯。三角洲はブラマプトラ川と合し、広大。ヒンドゥー教徒の崇拝の対象で、流域に聖地が多い。恒河。ガンガー。
  • 中インド ちゅうインド
  • カビラ城 カビラじょう → 迦毘羅衛
  • 迦毘羅衛 かびらえ (梵語Kapilavastu)北インドのヒマラヤ山麓、今のネパールのタライ地方で、かつて釈迦族の住んでいた国およびその都の名。釈尊はこの国の浄飯王の子として生まれた。釈尊の生存中、コーサラ国に攻められて滅ぶ。カピラヴァスツ。(広辞苑)/カピラバストゥ。迦毘羅婆蘇都。「かびら」とも。釈迦の生まれ育った都城。現在のネパール西南境のタライ地方チロラコートにある。迦毘羅外道の住んだとされる所で、釈迦族の首都。迦毘羅衛(かびらえ)。迦毘羅(かぴら)。
  • クシナガラ Kusinagara 中インドにあった末羅国の都市。釈尊はこの城外の跋提河西岸の沙羅林で入滅したという。今日の北インド、ウッタル‐プラデシュ州カシア。拘尸那掲羅。拘尸那城。クシナガリー。
  • マカダ国 → マガダ、か
  • マガダ Magadha・摩掲陀・摩伽陀。古代、インドのガンジス川中流域にあった国。およそ現在のビハール州南部に当たる。前6世紀頃から栄え、ビンビサーラ(頻婆娑羅)王およびその子アジャータシャトル(阿闍世)王が国の基礎を固めた。仏教・ジャイナ教が興った地でもある。後にマウリヤ王朝が創立され、アショーカ王はこの国を中心とするインド統一帝国を建設。
  • ガンジス Ganges インドの大河。西部ヒマラヤ山脈に発源、諸支流を合わせて南東に流れ、ベンガル湾に注ぐ。長さ約2500キロメートル。ヒンドスタン大平原を形成、下流はインドの主要米作地帯。三角洲はブラマプトラ川と合し、広大。ヒンドゥー教徒の崇拝の対象で、流域に聖地が多い。恒河。ガンガー。
  • タミール地方 → タミル
  • タミル Tamil 南インドのタミル‐ナドゥ州を故地とするドラヴィダ語系のタミル語を話す人々の総称。水稲耕作のほか古くから交易に従事。スリランカに古くから移住して少数民族を構成するほか、インド中央高地や東南アジア、東・南アフリカ、フィジーなどにも移住。
  • セイロン島 Ceylon・錫蘭。インド半島の南東にある島。紀元前3世紀に仏教伝来後、南方仏教の中心地。16世紀以降ポルトガル・オランダの進出を経て、1802年以来イギリス直轄植民地。1948年英国から独立。72年スリランカと改称して、共和国となる。中国古名、獅子(師子)国。
  • スリランカ Sri Lanka イギリス連邦に属する民主社会主義共和国。旧称、セイロン。主要言語はシンハラ語。面積6万6000平方キロメートル。人口1946万(2004)。主な住民はシンハラ人(73パーセント)・タミル人(18パーセント)。首都はかつてはコロンボ、1985年よりスリ‐ジャヤワルダナプラ‐コッテ。
  • ヒマラヤ Himalaya (「雪の家」の意)パミール高原に続いて南東に走り、インド・チベット間に東西に連なる世界最高の大山脈。長さ約2550キロメートル、幅約220キロメートル、平均高度4800メートル。最高峰はエヴェレスト(8850メートル)。
  • パミール Pamir 中央アジア南東部の地方。チベット高原の西に連なり、標高7000メートル級の高峰を含む諸山系と高原とから成り、世界の屋根といわれる。大部分はタジキスタンに含まれる。葱嶺。
  • 中央アジア ちゅうおう- ユーラシア大陸中央部の乾燥地帯。西はカスピ海、北はシベリア平原、東はアルタイ山脈、南はヒンズークシ・崑崙両山脈に囲まれた、パミールを中央とする地域をさす。古代から遊牧とオアシス農業、シルクロードによる隊商の中継貿易がおこなわれ、数多くの国家が交替。現在は中国の新疆ウイグル自治区、カザフスタン・ウズベキスタン・キルギス・トルクメニスタン・タジキスタンの五か国、アフガニスタンの北部とに分かれる。
  • [朝鮮]
  • 朝鮮半島 ちょうせん はんとう アジア大陸の東部にある半島。黄海と日本海とをわける。朝鮮海峡を隔てて日本と対する。
  • 高勾麗 こうくり 高句麗・高勾麗。古代朝鮮の国名。三国の一つ。紀元前後、ツングース系の朱蒙の建国という。中国東北地方の南東部から朝鮮北部にわたり、4〜5世紀広開土王・長寿王の時に全盛。都は209年頃より国内城(丸都城)、427年以来平壌。唐の高宗に滅ぼされた。内部に壁画を描いた多くの古墳を残す。高麗。( 〜668)
  • 新羅 しらぎ (古くはシラキ)古代朝鮮の国名。三国の一つ。前57年頃、慶州の地に赫居世が建てた斯盧国に始まり、4世紀、辰韓諸部を統一して新羅と号した。6世紀以降伽�(加羅)諸国を滅ぼし、また唐と結んで百済・高句麗を征服、668年朝鮮全土を統一。さらに唐の勢力を半島より駆逐。935年、56代で高麗の王建に滅ぼされた。中国から取り入れた儒教・仏教・律令制などを独自に発展させ、日本への文化的・社会的影響大。しんら。(356〜935)
  • 馬韓 ばかん 古代朝鮮の三韓の一つ。五十余の部族国家から成り、朝鮮半島南西部(今の全羅・忠清二道および京畿道の一部)を占めた。4世紀半ば、その一国伯済国を中核とした百済によって統一。
  • 弁韓 べんかん 三韓の一つ。古代、朝鮮南部にあった部族国家(十二国)の総称。今の慶尚南道の南西部にあたる。後に伽耶諸国となり、やがて新羅に併合。弁辰。
  • 辰韓 しんかん 古代朝鮮の三韓の一つ。漢江以南、今の慶尚北道東北部にあった部族国家(3世紀ごろ12国に分立)の総称。この中の斯盧によって統合され、356年、新羅となった。
  • 三韓 さんかん (1) 古代朝鮮南半部に拠った馬韓・辰韓・弁韓の総称。それぞれが数十の部族国家に分かれていた。(2) 新羅・百済・高句麗の総称。
  • 鴨緑江 おうりょっこう (Amnok-kang; Yalu Jiang)朝鮮と中国東北部との国境をなす川。白頭山(長白山)に発源し、南西流して黄海に注ぐ。全長795キロメートル。朝鮮第一の長流。
  • 古朝鮮 こちょうせん 前108年、漢の武帝による楽浪郡設置以前の箕子朝鮮と衛氏朝鮮。地域はほぼ大同江以北。神話である檀君の時代を含めていうこともある。
  • 百済 くだら (クダラは日本での称)古代朝鮮の国名。三国の一つ。4〜7世紀、朝鮮半島の南西部に拠った国。4世紀半ば馬韓の1国から勢力を拡大、371年漢山城に都した。後、泗�城(現、忠清南道扶余)に遷都。その王室は中国東北部から移った扶余族といわれる。高句麗・新羅に対抗するため倭・大和王朝と提携する一方、儒教・仏教を大和王朝に伝えた。唐・新羅の連合軍に破れ、660年31代で滅亡。ひゃくさい。はくさい。( 〜660)
  • 任那 みまな 4〜6世紀頃、朝鮮半島の南部にあった伽耶諸国の日本での呼称。実際には同諸国のうちの金官国(現、慶尚南道金海)の別称だったが、日本書紀では4世紀後半に大和政権の支配下に入り、日本府という軍政府を置いたとされる。この任那日本府については定説がないが、伽耶諸国と同盟を結んだ倭・大和政権の使節団を指すものと考えられる。にんな。
  • 遼東城 りょうとうじょう
  • 遼東 りょうとう (Liaodong)(遼河の東の意)中国遼寧省南東部一帯の地。
  • 遼東半島 りょうとう はんとう 中国遼寧省南部、渤海と黄海との間に突出している半島。南西端に大連・旅順の良港がある。
  • 安市城 あんしじょう 高句麗の城名で、唐の太宗の遠征軍を撃退した古戦場。その地については諸説があるが、遼寧省海城の東南英城子の付近というのが近いとされている。(東洋史)
  • 白村江 はくそんこう 朝鮮南西部を流れる錦江河口の古名。今の群山付近。はくすきのえ。白江。
  • 大同江 だいどうこう/テドン‐ガン (Taedong-gang)朝鮮半島北西部、平安南道の大河。慈江道・咸鏡南道境の小白山に発源、平壌市街を貫流して黄海に注ぐ。長さ約430キロメートル。
  • [西域諸国]
  • 西域 せいいき (サイイキとも)中国の西方諸国を中国人が呼んだ汎称。広義にはペルシア・小アジア・シリア・エジプト方面まで含む。狭義にはタリム盆地(東トルキスタン)をいい、漢代にはオアシスにイラン系諸族が分散・定住して小都市国家が分立、西域三十六国と総称され、唐代にかけて東西交通の要衝。
  • 天山南路 てんざん‐なんろ 中国新疆ウイグル自治区の天山山脈以南の地域。崑崙・天山二大山脈間の盆地。古く東西交通の要路。東トルキスタン。
  • 天山 てんざん (Tianshan)(→)天山山脈に同じ。
  • 天山山脈 てんざん さんみゃく 中央アジアにあって、西はキルギス、東は中国領にわたる多くの山脈の集まり。延長2450キロメートル。最高はポベーダ峰(7439メートル)。
  • 青海 せいかい (Qinghai) (1) 中国青海省東部にある大塩水湖。標高3200メートルの高原上に位置し、面積4635平方キロメートル。モンゴル名ココノール(「青い湖」の意)。青海湖。(2) 中国西部、青蔵高原の北東部に位置する省。長江・黄河はともにここに発源する。標高4000メートル前後の高原が大部分を占め、草原が広がり牧畜業が盛ん。面積約72万平方キロメートル。チベット族などの少数民族が人口の約43パーセントを占める。省都は西寧。略称、青。
  • 吐谷渾 とよくこん 4世紀初め頃、鮮卑の一部が西方へ移り青海地方に拠って土着の羌(チベット族)を支配した国。663年吐蕃に滅ぼされた。
  • チベット Tibet・西蔵 中国四川省の西、インドの北、パミール高原の東に位置する高原地帯。7世紀には吐蕃が建国、18世紀以来、中国の宗主権下にあったが、20世紀に入りイギリスの実力による支配を受け、その保護下のダライ=ラマ自治国の観を呈した。第二次大戦後中華人民共和国が掌握、1965年チベット自治区となる。住民の約90パーセントはチベット族で、チベット語を用い、チベット仏教を信仰する。平均標高約4000メートルで、東部・南部の谷間では麦などの栽培、羊・ヤクなどの牧畜が行われる。面積約123万平方キロメートル。人口263万(2005)。区都ラサ(拉薩)。
  • 吐蕃 とばん 古代のチベット人の王国。唐・宋時代の史書に見える呼び名。7世紀初め、ソンツェン=ガンポが建国。仏教が栄えたが、9世紀の頃より王家は衰退。
  •  ろうや 地名。
  • 奚 けい 鮮卑族の一つ。4世紀頃からモンゴル東部のラオハ-ムレン(老哈河)流域に遊牧。
  • 契丹 きったん 4世紀以来、内蒙古�L河(シラムレン)流域にいた、モンゴル系にツングース系の混血した遊牧民族。10世紀に耶律阿保機が諸部族を統一、その子太宗の時に国号を遼と称した。キタイ。
  • ゴビ Gobi・戈壁 (モンゴル語で、砂礫を含むステップの意)モンゴル地方から天山南路に至る一帯の砂礫のひろがる大草原。狭義(通常)には、モンゴル高原南東部の砂漠。標高約1000メートル。ゴビ砂漠。
  • [倭国]
  • 筑紫 つくし 九州の古称。また、筑前・筑後を指す。
  • [南海諸国]
  • 南海 なんかい (1) 南方の海。(2) 東洋史上、南方諸国を指していう称。
  • 南海 なんかい 中国史でいわゆる南洋をさす語。本来は中国の南方にある海を意味し、南シナ海をさす。転じてその沿海地方・インドシナ半島・マライ半島・フィリピン群島・インドネシアなどをさすようになり、さらにこれを通じて中国と交渉をもったインド洋・ペルシア湾・アラビア海・紅海などの沿海地方をも含めて呼ぶ言葉にもなった。(東洋史)
  • 南海諸島 なんかい しょとう 南シナ海に散在する諸島。約200の島・岩礁から成り、東沙・西沙(ホアンサ)・中沙・南沙(スプラトリー)の4群島と黄岩島などに分かれる。周辺諸国間に領有権をめぐる確執がある。
  • 林邑 りんゆう → 「チャンパ」参照。
  • チャンパ Champa・占城・占婆 インドシナ半島南東部のチャム人の王国。2世紀末に中国の統治に抵抗して建国したとされる。中国では古く林邑と称し、唐末から占城と称。海上交通路の要衝にあたり、中継貿易で繁栄。朱印船貿易で日本の商人も多数渡航。17世紀まで存続。チャボ。
  • 琉球 りゅうきゅう → 流求
  • 流求 りゅうきゅう 隋書などに見える、東海中の一国。今の台湾とする説と、琉球とする説とがある。
  • 台湾 たいわん (Taiwan)中国福建省と台湾海峡をへだてて東方200キロメートルにある島。台湾本島・澎湖列島および他の付属島から成る。総面積3万6000平方キロメートル。明末・清初、鄭成功がオランダ植民者を追い出して中国領となったが、日清戦争の結果1895年日本の植民地となり、1945年日本の敗戦によって中国に復帰し、49年国民党政権がここに移った。60年代以降、経済発展が著しい。人口2288万(2006)。フォルモサ。
  • シャム Siam・暹羅 タイ国の旧称。 → シャムロ。
  • シャムロ 暹羅 (暹はシャムの音訳。初め暹・羅が合して一国を成したが、後に暹が強大となり、暹羅の2字でシャムを表すに至った)(→)シャムに同じ。
  • インドシナ 印度支那 (Indo-China)アジア大陸の南東部、太平洋とインド洋の間に突出する大半島。インドと中国の中間に位置するからいう。普通ベトナム・ラオス・カンボジア3国(旧仏領)を指し、広義にはタイ・ミャンマーをも含む。
  • ジャヴァ/ジャワ Java・爪哇・闍婆 東南アジア大スンダ列島南東部の島。インドネシア共和国の中心をなし、首都ジャカルタがある。17世紀オランダによる植民地化が始まり、1945年まで同国領。面積は属島マドゥラを合わせて13万平方キロメートル
  • スマトラ Sumatra 東南アジア、大スンダ列島の北西端にある島。シュリーヴィジャヤなど多くの王国が興亡、のちオランダ領。1945年独立を宣言、インドネシア共和国の一部となった。面積43万平方キロメートル。主な都市はメダン・パレンバン。
  • ペルシャ/ペルシア Persia・波斯 (イラン南西部の古代地名パールサParsaに由来)イランの旧称。アケメネス朝・ササン朝・サファヴィー朝・カージャール朝などを経て、1935年パフレヴィー朝が国号をイランと改めた。
  • アラビア Arabia・亜剌比亜・亜拉毘亜 アジア大陸南西端、インド洋に突出する世界最大の半島。紅海を隔ててアフリカと対し、面積270万平方キロメートル。住民はアラブ人で、イスラム教徒。
  • サラセン帝国 → イスラム帝国
  • サラセン Saracen ヨーロッパで、古くはシリア付近のアラブの呼称。のちイスラム教徒の総称。ウマイヤ朝やアッバース朝はサラセン帝国と呼ばれた。唐名、大食(タージ)。
  • イスラム帝国 イスラム‐ていこく イスラム教徒が建設した諸帝国。ムハンマド没後の正統カリフ時代に始まり、ウマイヤ朝を経てアッバース朝に至って極盛に達した。最後のオスマン帝国は1922年に滅亡。サラセン帝国。
  • 大食国 タージ こく → イスラム帝国
  • 大食 タージ (Tazi ペルシアの音訳)唐代にアラビア人を呼ぶのに用いた名称。広義にはイスラム教徒に対する呼称。
  • シリア Syria (1) 地中海東岸一帯の地域の総称。現在のシリア・レバノン・ヨルダン・イスラエルを含む。古くはフェニキア人の活動やキリスト教成立の舞台。7世紀、ウマイヤ朝の中心。16世紀以降オスマン帝国の属領、第一次大戦後英仏両国の委任統治領であった。(2) 西アジアの地中海に面するアラブ共和国。シリア (1) の北半部を占める。フランス委任統治領から1946年独立。面積18万5000平方キロメートル。人口1798万(2004)。首都ダマスカス。
  • エジプト Egypt・埃及 アフリカ北東部にある共和国。約5000年前に統一国家を形成、古代文明の発祥地で、ピラミッドなどの遺跡が多い。13世紀以後、イスラム世界の文化的中心。1882年イギリスに占領されたが、独立運動が盛んで、1922年立憲王国。52年革命の結果、共和国。58〜61年、シリアとアラブ連合共和国を形成。71年エジプト‐アラブ共和国と改称。住民の大多数はイスラム教徒で、コプト教徒も居住。綿花・穀物・サトウキビなどの農産物に富む。面積100万1000平方キロメートル。人口7122万(2004)。首都カイロ。ミスル。
  • トルコ Turco・土耳古 小アジア半島と、バルカン半島の南東端とにまたがる共和国。オスマン帝国の中心として栄えたが、第一次大戦に敗北後、ケマル=パシャの指導する民族運動が興って帝政を廃し、イギリス・ギリシア・フランスなどの侵入軍を撃破、1923年共和制を宣言し、ローザンヌ条約で現国土を確保。国民はイスラムを信奉。面積77万5000平方キロメートル、人口7115万(2004)。首都アンカラ。
  • 東ローマ帝国 ひがし‐ローマ ていこく (Eastern Roman Empire)テオドシウス大帝の死(395年)後、その子がローマ帝国を東西に両分し、東方部すなわちエジプト・小アジア・シリア・ギリシアの地を支配した国。長子アルカディウスが継承してコンスタンチノープルに都した。建国以来千余年で1453年オスマン帝国に滅ぼされた。この間首都はギリシア正教の中心地として宗教上の指導的地位にあり、また、ビザンチン文明を生み出した。ビザンチン帝国。ギリシア帝国。


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)『新編東洋史辞典』東京創元社、1980)。




*年表

  • 前漢 ぜんかん 中国の王朝の一つ。秦の崩壊後、項羽を倒して、漢王劉邦(高祖)が建て、武帝の治世を経て、平帝の時、王莽の簒奪により滅亡。都長安が後漢(東漢)の都洛陽よりも西にあったから西漢ともいう。(前202〜後8)
  • 後漢 ごかん 中国の王朝の一つ。前漢の景帝の6世の孫劉秀が王莽の新朝を滅ぼして漢室を再興、洛陽に都して光武帝と称してから、献帝に至るまで14世。前漢を西漢というのに対して東漢ともいう。(25〜220)
  • 三国時代 さんごく じだい (1) 中国で、後漢滅亡後、魏・呉・蜀の三国が鼎立した時代。220年魏の建国に始まり、280年晋の統一まで。(2) 朝鮮で、4世紀から7世紀にかけて、新羅・高句麗・百済の三国が鼎立した時代。
  • 八王の乱 はちおうの らん 西晋末の291〜306年、八王による内乱。五胡侵入の契機となり、西晋の滅亡を招く。
  • 晋室 しんしつ 晉室。古代中国の晉の王室。
  • 西晋 せいしん → 「晋(2) 」参照。
  • 晋 しん (2) 中国、三国の魏に代わって、その権臣司馬炎が建てた王朝。都は洛陽。280年呉を滅ぼして天下を統一。のち、五胡の乱のため、316年、4世で滅亡(西晋)。翌年皇族司馬睿(元帝)が建康(南京)に再興したが、混乱がつづき、ついに将軍劉裕によって滅ぼされた(東晋)。(265〜420)
  • 東晋 とうしん → 「晋(2) 」参照。
  • 前秦 ぜんしん 五胡十六国の一つ。351年、�族の苻健が建てた国。3代苻堅の時、一時華北を統一、西域に及ぶ。6世で後秦に滅ぼされた。秦。(351〜394)
  • 魏 ぎ → 北魏
  • 北魏 ほくぎ 中国、南北朝時代の北朝の最初の国。鮮卑族の拓跋珪(道武帝)が386年魏王を称し、398年平城(今の山西省大同)に都し、建てた国。494年洛陽に遷都。534年東魏・西魏に分裂、東魏は550年、西魏は556年滅亡。魏。拓跋魏・後魏・元魏などとも称。
  • 後魏 こうぎ 北魏の別称。
  • 宋 そう (2) 中国、南朝の一国。東晋の将軍劉裕(武帝)が建てた。都は建康(南京)。8世で斉王蕭道成に帝位を譲った。劉宋。(420〜479)
  • 南北朝時代 なんぼくちょう じだい 中国で、439年北魏が華北を統一、江南の宋と対立してから、589年隋が陳を滅ぼすまでの時代。すなわち、漢人の南朝と鮮卑族の北朝が南北に対立した約150年間の称。
  • 北朝 ほくちょう 中国で、南北朝時代、華北に拠った諸王朝。北魏・東魏・西魏・北斉・北周・隋と伝え、隋が南朝の陳を滅ぼして南北を統一。
  • 南朝 なんちょう 中国で、南北朝時代、華南に拠った諸王朝。420〜589年にわたり、漢族の立てた宋・斉(南斉)・梁・陳の4朝をいう。呉および東晋の2朝と合して六朝ともいう。
  • 斉 せい (3) 南北朝の南斉・北斉。
  • 梁 りょう (2) 南朝の一国。502年、蕭衍が南斉の帝位を奪って創設した国。6代で陳に滅ぼされた。(502〜557)
  • 陳 ちん 南北朝時代の南朝最後の国。陳覇先(武帝)が梁の敬帝の禅譲を受けて創建。建康(南京)に都した。五代で隋の文帝に滅ぼされた。(557〜589)
  • 東魏 とうぎ 中国、北魏が分裂してできた王朝。高歓が孝静帝を擁立して建てる。都はB。北斉により廃される。(534〜550)
  • 西魏 せいぎ 中国、北魏が分裂してできた王朝。長安を首都とし、宇文泰を中心に東魏に対抗。北周に禅譲。(534〜556)
  • 北斉 ほくせい 中国、南北朝時代の北朝の一国。東魏の大丞相高洋が孝静帝に迫り帝位を奪って建国。都はB。6世で北周の武帝に滅ぼされた。南朝の斉に対し北斉と呼ぶ。(550〜577)
  • 北周 ほくしゅう 中国、南北朝時代の北朝の一つ。北魏の東西分裂後、西魏の実力者宇文覚が恭帝に迫って帝位を譲らせて建てた国。都は長安。第3代武帝は北斉を併せたが、5世で隋に滅ぼされた。(557〜581)
  • 唐 とう 中国の王朝。李唐。唐国公の李淵(高祖)が隋の3世恭帝の禅譲を受けて建てた統一王朝。都は長安。均田制・租庸調・府兵制に基礎を置く律令制度が整備され、政治・文化が一大発展を遂げ、世界的な文明国となった。20世哀帝の時、朱全忠に滅ぼされた。(618〜907)
  • 貞観の治 じょうがんのち 唐の太宗の治世。賢臣の房玄齢・杜如晦・魏徴、名将の李靖・李勣らを用いて、律令の撰定、軍制の整備、学芸の奨励、領土の拡大に力を尽くし、唐帝国が繁栄した。
  • ササン朝 ササン‐ちょう 薩珊朝。(Sasan)イランの王朝。パルティアを滅ぼして建国。始祖はアルダシール1世。ゾロアスター教を国教とし、東ローマ・エフタルとしばしば抗争、ホスロー1世の時に全盛、同2世の時、版図はシリアからインダス川に及んだが、その後国力は疲弊、アラブのイスラム軍に滅ぼされた。サーサーン朝。(224〜651)
  • 白村江の戦 はくそんこうの たたかい 663年、白村江で、日本・百済連合軍と唐・新羅連合軍との間に行われた海戦。日本は、660年に滅亡した百済の王子豊璋を救援するため軍を進めたが、唐の水軍に敗れ、百済は完全に滅んだ。
  • 周 しゅう (3) 則天武后が建てた王朝。武周。(690〜705)
  • 唐室 とうしつ
  • 安史の乱 あんしの らん 755〜763年、唐の玄宗の末年から起こった安禄山父子・史思明父子の反乱。鎮圧されたが、乱後、節度使の自立化が進み、唐は衰退に向かった。
  • 黄巣の乱 こうそうの らん 唐末に起こった農民反乱。875年、王仙芝の河北での挙兵に黄巣が山東で呼応、四川を除きほとんど全中国に転戦し、880年洛陽・長安を占領して帝位につき、国号を大斉と号したが、唐朝の反撃で884年に鎮圧された。唐朝滅亡の近因となる。


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)。



*人物一覧

(人名、および組織・団体名・神名)
  • 釈迦牟尼 しゃか むに (梵語Sakyamuni 「牟尼」は聖者の意)仏教の開祖。インドのヒマラヤ南麓のカピラ城のシュッドーダナ(浄飯王)の子。母はマーヤー(摩耶)。姓はゴータマ(瞿曇)、名はシッダールタ(悉達多)。生老病死の四苦を脱するために、29歳の時、宮殿を逃れて苦行、35歳の時、ブッダガヤーの菩提樹下に悟りを得た。その後、マガダ・コーサラなどで法を説き、80歳でクシナガラに入滅。その生没年代は、前566〜486年、前463〜383年など諸説がある。シャーキヤ=ムニ。釈尊。釈迦牟尼仏。
  • 阿育王 あそかおう → アショーカ王
  • アショーカ王 アショーカ おう (梵語Asoka 阿育王)インドのマガダ国に君臨したマウリヤ王朝第3代の王。インドを統一、仏教を保護宣布し、第三回仏典結集を行なったという。王の活動は磨崖・石柱に刻まれて遺存。古代インドで唯一、絶対年代が定まるのがこの王の治世で、古代インド史の基点とされる。アソカ王。阿輸迦王。(在位前268〜前232)
  • チャンドラグプタ Chandragupta (1) インドのマウリヤ朝の創始者。北インドを平定、アフガニスタン全土を獲得。(在位前317頃〜前293頃)(2) (1世)インドのグプタ朝の創始者。(在位320頃〜335頃)(3) (2世)グプタ朝第3代の王。版図を広げ最盛期を迎える。(在位376頃〜414頃)
  • カニシカ Kaniska 2世紀頃のクシャーナ朝の第3代国王。その領土は、南はインドのマトゥラー、東はパミールを越え于�uに及び、クシャーナ朝の黄金期を現出。仏教を保護奨励し、特にガンダーラ地方は仏教の最も盛んな地となる。一説に、第4回仏典結集を行なったという。迦膩色迦。
  • 明帝 めいてい 28-75 後漢第2代の皇帝。劉荘。儒教を奨励し、内治外征に尽力、班超を西域に派遣。67年夢に感じて西域に仏教を求めさせたという。(在位57〜75)
  • 始皇帝 しこうてい 前259-前210 秦の第1世皇帝。名は政。荘襄王の子。一説に実父は呂不韋。第31代秦王。列国を滅ぼして、前221年中国史上最初の統一国家を築き、自ら皇帝と称した。法治主義をとり諸制を一新、郡県制度を施行、匈奴を討って黄河以北に逐い、万里の長城を増築し、焚書坑儒を行い、阿房宮や驪山の陵を築造。(在位前247〜前221・前221〜前210)
  • 桓帝 かんてい 132-167 後漢第11代の皇帝。在位146-167。章帝の曾孫。梁太后(順帝の皇后)に迎えられて15歳で即位した。外戚梁冀が国政を私して専権をきわめたので、159年、宦官単超らと梁氏一族を滅ぼしたが、以後宦官が横暴となった。167年、党錮の獄がおこる。帝の一代は外戚・宦官・党人の政争に終始し、後漢衰亡の端緒となった。在位中166年、大秦(ローマ)国王安敦の使がきた。(東洋史)
  • 霊帝 れいてい 156-189 後漢第12代の皇帝。在位168-189。章帝の玄孫。竇太后(桓帝の皇后)に迎立され13歳で即位した。太后の父竇武が陳蕃・李膺らの名士を挙用し、宦官を除こうとしたが失敗して169年第二の党錮の獄となった。184年、黄巾の乱が起こり、平定ののちも群盗蜂起し討伐の諸将は割拠の風を生じた。外には羌胡・匈奴の背反があり、天下騒然として後漢衰亡の兆があった。死後弘農王弁が嗣いだが、董卓に廃された。(東洋史)
  • 曹操 そう そう 155-220 三国の魏の始祖。字は孟徳。江蘇沛県の人。権謀に富み、詩をよくした。後漢に仕えて黄巾の乱を平定、袁紹を滅ぼし、華北を統一、魏王となる。没後武王と諡。その子丕が帝を称し魏を建て、追尊して武帝という。廟号は太祖。
  • 献帝 けんてい 180または181-234 後漢最後の皇帝。在位189-220。姓名は劉協。董卓による少帝廃位後即位。のち曹操のために許に遷され、更に、曹操の長子丕にせまられて譲位し、漢は滅びた。
  • 劉備 りゅう び 161-223 三国の蜀漢の創始者。諡、昭烈帝。字は玄徳。漢の景帝の皇子中山靖王の劉勝の後裔。関羽・張飛と結び、諸葛亮を参謀とし、呉の孫権と協力して魏の曹操を赤壁に破り、蜀(四川)を平定して漢中王と称。魏の曹丕が漢帝を廃するに及び、221年成都で自ら帝位に即き、国を漢と号し、呉・魏と天下を三分して争った。(在位221〜223)
  • 劉表 りゅうひょう ?-208 後漢末群雄の一。字は景升。山陽高平(山東)の人。前漢景帝の子。魯恭王の子孫。幼いときより名を知られ、党錮の獄の際には、いわゆる清流の一に数えられていた。黄巾の乱がおこり、党禁が解除されると、何進に辟され、ついで荊州牧となった。彼の治下には荊州は平和に治まり、各地方から荊州に来るものも多かった。諸葛亮、劉備、王粲などいずれもそうである。208年、曹操南下のことを知りながら病死した。(東洋史)
  • � そう 劉表の子。
  • 諸葛亮 しょかつ りょう 181-234 三国時代、蜀漢の丞相。字は孔明。山東琅邪の人。劉備の三顧の知遇に感激、臣事して蜀漢を確立した。劉備没後、その子劉禅をよく補佐し、有名な出師表を奉った。五丈原で、魏軍と対陣中に病死。
  • 孫権 そん けん 182-252 三国の呉の初代皇帝。字は仲謀。孫堅の次子。劉備と共に曹操の軍を赤壁に破る。魏・蜀に対抗、222年独立し、229年国号を呉と定めて帝位につき、建業(南京)に都した。(在位229〜252)
  • 周瑜 しゅう ゆ 175-210 中国、三国時代の呉の将軍。字は公瑾。安徽舒城の人。呉の孫策・孫権をたすけて江南一帯を経略。呉人は周郎と呼んだ。赤壁の戦に曹操の大軍を破った。
  • 諸葛孔明 しょかつ こうめい → 諸葛亮
  • 曹丕 そう ひ 187-226 三国の魏の初代皇帝。文帝。世祖。曹操の長子。字は子桓。220年後漢の献帝に禅譲を受け、魏王朝を建てた。九品中正を始める。文名があり、著「典論」。(在位220〜226)
  • 魏の文帝 ぎの ぶんてい → 曹丕
  • 劉禅 りゅうぜん 207-271 三国時代、蜀の第二代皇帝。字は公嗣。劉備の子。諸葛亮の死後、国力を衰退させ、魏に下った。
  • 孟獲 もうかく
  • 司馬懿 しば い 179-251 三国の魏の権臣。字は仲達。魏の諸帝に仕え、蜀漢の諸葛亮と戦い、東北・朝鮮に領土を広げ、魏末丞相となって実権を握った。孫の司馬炎(武帝)が晋を建て、追尊して高祖宣帝と称される。
  • 司馬炎 しば えん 236-290 晋の初代皇帝。諡、武帝。司馬懿の孫。昭の子。魏の元帝に迫って譲位させ、洛陽に都した。280年呉を滅ぼし天下を統一。律令を整備し、占田法・課田法を施行。(在位265〜290)
  • 晋の武帝 ぶてい → 司馬炎
  • 孫皓 そんこう 242-284 三国呉の最後の皇帝。在位264-280。孫権の孫。字は元宗、一名を彭祖、またの字を皓宗という。叔父の孫休の死後、帝位についたが、粗暴な行いが多く、酒色を好み、無謀な北伐を行ったので、呉の名族たちをはじめ、上下の信頼を失い、国力もますます疲弊した。名臣陸抗が死ぬともはや振興の晋の圧力を支えるものもなく280年、晋の軍門に降り、ここに呉は滅んだ。(東洋史)
  • 竹林七賢 ちくりんの しちけん 中国の魏・晋の交替期に、世塵を避けて竹林に会し清談を事としたといわれる七人の文人、阮籍・�康・山濤・向秀・劉伶・阮咸・王戎の称。
  • 阮籍 げん せき 210-263 魏・晋の隠士。竹林の七賢の首班。字は嗣宗。阮咸の叔父。河南陳留の人。老荘の学と酒を好み、俗人を白眼視し、「詠懐詩」82首を残した。
  • �康 けい こう 223-262 三国の魏の人。竹林の七賢の一人。字は叔夜。中散大夫。老荘の学を好み、琴を弾じ詩を詠じて楽しんだ。政治事件に連座、殺された。
  • 山濤 さん とう 205-283 晋代の文人。竹林の七賢の一人。字は巨源。武帝の時、吏部尚書、累進して左僕射・侍中に至るも、老荘を好み、隠遁した。
  • 劉伶 りゅう れい ?-? 西晋の思想家。江蘇沛の人。字は伯倫。竹林の七賢の一人。志気曠達、酒を好み、「酒徳頌」を作る。建威参軍となり、献策して無為に化すべきことを説いたが、無用の策として斥けられた。
  • 阮咸 げん かん ?-? 晋の人。竹林の七賢の一人。字は仲容。阮籍の兄の子。文学・音楽に巧みで、よく琵琶を弾じたという。
  • 向秀 しょうしゅう ?-? 晋代の学者。懐(河南省武陟県西)の人。字は子期。竹林の七賢のひとり。「老子」「荘子」を研究し、「荘子」に注をつけた。
  • 王戎 おう じゅう 234-305 西晋の重臣。山東臨沂の人。竹林の七賢の一人。清談を広め、蓄財を楽しんだ。
  • 玩籍 げんせき → 阮籍
  • 玩咸 げんかん → 阮咸
  • 稽康 けいこう → �康
  • 劉裕 りゅう ゆう 363-422 南朝の宋の初代皇帝。武帝。東晋の軍人となり、軍閥の桓玄を討ち、南燕・後秦を滅ぼす。土断を実施、豪族をおさえ、恭帝を廃して即位。(在位420〜422)
  • 王睿 ろうやおう えい → 元帝
  • 元帝 げんてい 276-322 東晋、初代の皇帝。司馬睿。中宗。西晋の滅亡した翌年、建業にあって東晋を建てた。(在位317〜322)
  • 苻堅 ふ けん 338-385 五胡十六国の前秦の第3代皇帝。華北を平定。�水の戦で東晋に敗れる。(在位357〜385)
  • 謝安 しゃ あん 320-385 東晋の宰相。字は安石。行書をよくした。桓温の司馬となり、孝武帝の時、前秦の苻堅を�水で破り、廬陵郡公に追封された。文靖と諡す。
  • 謝石 しゃ せき 327-388 東晋の政治家。字は石奴。謝安の弟。383年、征討大都督として苻堅の大軍を甥の謝玄と共に撃破。中軍将軍・尚書令・南康郡公に封。
  • 謝玄 しゃ げん 343-388 東晋の将軍。字は幼度。謝安の甥。苻堅が�水に陣した時、謝安の命を受けて叔父の謝石とともにこれを撃破した。
  • 拓跋珪 たくばつ けい 中国、北魏の道武帝の名。
  • 道武帝 どうぶ てい 371-409 北魏(後魏)の太祖。名は拓跋珪。鮮卑拓跋部の人。386年に代王の位につき、ついで魏王と称し、398年平城(山西省大同)に都し帝位につく。制度・文物を興し国勢隆盛となったが、晩年、狂疾を発し、次子紹に殺された。(在位386〜409)
  • 太武帝 たいぶ てい 408-452 北魏第3代の皇帝。本名は拓跋�。華北に分立していた各王朝を亡ぼし、華北統一を達成。道士寇謙之を信任、廃仏を強行したことで有名。(在位423〜452)
  • 宋の武帝 そうの ぶてい 南朝の宋の始祖、劉裕。
  • 楊堅 よう けん 541-604 隋の初代皇帝。廟号、高祖。諡、文帝。北周に仕えて柱国・随国公、のち相国・随王。581年禅譲をうけて帝位につき、589年南朝の陳を平らげて中国を統一。諸制度を改革、開皇の治と称。次子広(のち煬帝)に殺されたという。(在位581〜604)
  • 隋の文帝 ずいの ぶんてい → 楊堅
  • 孝文帝 こうぶん てい 467-499 北魏第6代の皇帝。高祖。名は宏。拓跋氏。均田法・三長制を施行。中国化政策をとり、平城から洛陽に遷都。鮮卑人と漢人の通婚を奨励。(在位471〜499)
  • 達磨 だるま ?〜530? (梵語Bodhidharma 菩提達摩)禅宗の始祖。南インドのバラモンに生まれ、般若多羅に学ぶ。中国に渡って梁の武帝との問答を経て、嵩山の少林寺に入り、9年間面壁坐禅したという。その伝には伝説的要素が多い。その教えは弟子の慧可に伝えられた。諡号は円覚大師・達磨大師。達摩。
  • 武帝 ぶ てい 464-549 南朝の梁の始祖。蕭衍。南斉を奪って自立。仏教を熱心に信奉。北魏の降人侯景の乱で幽閉されて没。(在位502〜549)
  • 侯景 こうけい 503-552 六朝、梁の将軍。字は万景。はじめ北魏に仕えたが、梁の武帝のもとにはしる。のち反し、建康(南京)を陥落させて、自ら漢帝と称したが、まもなく王僧弁らに敗れた。
  • 陶淵明 とう えんめい 365-427 六朝時代の東晋の詩人。名は潜、字を淵明、または名は淵明、字を元亮ともいう。諡は靖節。一説に潯陽柴桑(江西九江)の人。下級貴族の家に生まれ、不遇な官途に見切りをつけ、41歳のとき彭沢県令を最後に「帰去来辞」を賦して故郷の田園に隠棲。平易な語で田園の生活や隠者の心境を歌って一派を開き、唐に至って王維・孟浩然など多くの追随者が輩出。散文作「五柳先生伝」「桃花源記」など。
  • 謝霊運 しゃ れいうん 385-433 六朝時代の宋の詩人。東晋の謝玄の孫。陽夏(河南太康)の人。康楽公を襲爵し謝康楽と呼ばれる。南北朝文学の第一人者で山水詩の開祖とされる。著「謝康楽集」
  • 王羲之 おう ぎし 307?-365? 東晋の書家。字は逸少。右軍将軍・会稽内史。行書・楷書・草書において古今に冠絶、その子王献之と共に二王と呼ばれる。「蘭亭序」「楽毅論」「十七帖」などの作がある。
  • 顧�之 こ がいし ?-? 東晋の画家。字は長康。江蘇無錫の人。4世紀後半から5世紀初めに活躍し、62歳で没。博学多才、特に人物画に長じ、また画論をも残す。大英図書館所蔵の「女史箴図」は名高い。
  • 煬帝 ようてい/ようだい 569-618 隋の第2代皇帝。楊堅の次子。名は広。煬帝は諡号。大運河などの土木を起こし、突厥を懐柔し、吐谷渾・林邑を討ち、諸国を朝貢させたが、高句麗遠征に失敗、遂に各地の反乱を招き、江都(揚州)でその臣宇文化及らに殺された。(在位604〜618)
  • 推古天皇 すいこ てんのう 554-628 記紀に記された6世紀末・7世紀初の天皇。最初の女帝。欽明天皇の第3皇女。母は堅塩媛(蘇我稲目の娘)。名は豊御食炊屋姫。また、額田部皇女。敏達天皇の皇后。崇峻天皇暗殺の後を受けて大和国の豊浦宮で即位。後に同国の小墾田宮に遷る。聖徳太子を摂政とし、冠位十二階の制定、十七条憲法の発布などを行う。(在位592〜628)
  • 聖徳太子 しょうとく たいし 574-622 用明天皇の皇子。母は穴穂部間人皇后。名は厩戸。厩戸王・豊聡耳皇子・法大王・上宮太子とも称される。内外の学問に通じ、深く仏教に帰依。推古天皇の即位とともに皇太子となり、摂政として政治を行い、冠位十二階・憲法十七条を制定、遣隋使を派遣、また仏教興隆に力を尽くし、多くの寺院を建立、「三経義疏」を著すと伝える。なお、その事績とされるものには、伝説が多く含まれる。
  • 小野妹子 おのの いもこ ?-? 飛鳥時代の官人。遣隋使となり607年隋に渡り、翌年隋使の裴世清とともに帰国。同年隋使・留学僧らとともに再び隋に赴く。隋では蘇因高と称した。609年帰国。墓誌の出土した毛人の父。
  • 李淵 り えん 565-635 唐の初代皇帝。廟号、高祖。字は叔徳。先祖は隴西(甘粛)の李氏という。祖父・父は共に唐国公に封ぜられ、母は鮮卑族独孤氏の出。初め隋に仕え太原留守、617年次子世民(太宗)の勧めによって挙兵。突厥のたすけを借り、群雄を破って長安を取り、煬帝の孫恭帝(楊侑)を擁立、唐王となる。翌年、煬帝がその臣に殺されるに及んで帝位につき、長安に都して国を唐と号した。(在位618〜626)
  • 李世民 り せいみん 598-649 唐の第2代皇帝。太宗。高祖李淵の次子。玄武門の変で兄弟を殺し、父高祖に迫り譲位させて即位。天下統一を完成し、律令を整備、いわゆる貞観の治をしいて、唐朝支配の基礎を固めた。(在位626〜649)
  • 高祖 こうそ → 李淵
  • 太宗 たいそう → 李世民
  • 杜如晦 とぎょかい/と じょかい 585-630 唐初の名臣。字は克明。陝西京兆の人。太宗の時、尚書右僕射となり、左僕射の房玄齢と共に貞観の治を現出。如晦は決断に長じ、玄齢は深謀にすぐれ併称して房杜という。
  • 房玄齢 ぼう げんれい 578-648 唐初の名相。太宗の貞観の治を助け、宰相たること15年。杜如晦・ョ遂良らと共に「晋書」を撰。
  • 魏徴 ぎ ちょう 580-643 唐初の功臣。字は玄成。曲城(山東莱州)の人。隋末の群雄の一人李密に従い、唐高祖の太子李建成に、次いで太宗に仕えてよく諫める。また、梁・陳・北斉・北周・隋の正史や「群書治要」などの編纂に従事。諡は文貞。
  • 王珪 おうけい
  • 李靖 りせい 571-649 唐初の名将。高祖・太宗に仕え、突厥・吐谷渾を討ち、唐の建国に功績があった。
  • 李勣 りせき ?-669 唐初の軍人。離狐(山東)の人。李靖と並ぶ創業の功臣。隋末混乱時に魏徴らと李密に仕え、619年唐に帰順して、太宗に「純臣」と称揚されて登用され、李氏を賜う。貞観初年には突厥・薛延陀部を破り、645(貞観19)高麗を討ち、666年これを滅ぼした。(東洋史)
  • 高宗 こうそう 唐の第3代、南宋の初代、清の第6代(乾隆帝)、朝鮮李朝の26代(李太王)などの皇帝の廟号。
  • 頡利可汗 きつり かかん
  • 蘇定方 そ ていほう 592-667 唐の将軍。名は烈。字は定方。唐の貞観初年に李靖に従って突厥を討った。660年、熊津道大総管として百済を討ち、首都を陥落させ、義慈王・太子隆らを捕らえて洛陽に送った。さらに遼東道行軍大総管に任命され、翌年、高句麗の平譲城を囲んだが失敗。帰国後、涼州安集大使に任命され吐蕃・吐谷渾を平定。荘と諡し、幽州都督を追贈される。(日本史)
  • マホメット Mahomet; Mohammed ムハンマドの訛。
  • ムハンマド Muhammad 570頃-632 (賞讃される者の意)イスラムの開祖。アラビアのメッカ生れ。40歳頃アッラーの啓示を受け、預言者として唯一神の信仰と偶像崇拝の排斥、人間の平等性を訴えて新宗教を提唱したが、支配者の迫害を蒙り、622年ヤスリブ(現在のメディナ)に聖遷(ヒジュラという)、教勢を拡張して630年メッカの征服を達成。勢力は全アラビアに及び、632年10万の信徒を従えてメッカ巡礼を行い、アラファートでの説教の後、まもなく病没。啓典としてコーラン(クルアーン)を残した。マホメット。
  • ペロス ペルシャの王族。
  • 斉明天皇 さいめい てんのう 594-661 7世紀中頃の天皇。皇極天皇の重祚。孝徳天皇の没後、飛鳥の板蓋宮で即位。翌年飛鳥の岡本宮に移る。百済救援のため筑紫の朝倉宮に移り、その地に没す。(在位655〜661)
  • 中大兄皇子 なかのおおえの おうじ → 天智天皇の名。
  • 天智天皇 てんじ てんのう 626-671 7世紀中頃の天皇。舒明天皇の第2皇子。名は天命開別、また葛城・中大兄。中臣鎌足と図って蘇我氏を滅ぼし、ついで皇太子として大化改新を断行。661年、母斉明天皇の没後、称制。667年、近江国滋賀の大津宮に遷り、翌年即位。庚午年籍を作り、近江令を制定して内政を整えた。(在位668〜671)
  • 武氏 ぶし
  • 韋氏 いし ?-710 唐の中宗の皇后。京兆万年(陝西)の人。中宗が武后のために房州(湖北)に流されたのに随行、たえず夫を激励した。中宗復位により皇后に復活したが、武后の余党武三思と私通し、武氏一族は后を頼んで失勢回復をはかり、韋氏の勢いは帝権をしのいだ。武周革命の前例にならい中宗を毒殺、温王李重茂を立てて実権をにぎったが、李隆基(玄宗)らに誅された。(東洋史)
  • 武后 ぶこう → 則天武后のこと。
  • 則天武后 そくてん ぶこう 624頃-705 唐の高宗の皇后。姓は武。中宗・睿宗を廃立、690年自ら即位、則天大聖皇帝と称し、国号を周と改めた(武周)。その老病に及び、宰相張柬之に迫られて退位、中宗が復位、唐の国号を復した。武則天。武后。(在位690〜705)
  • 韋后 い こう ?-710 唐の第4代皇帝中宗の皇后。則天武后の退位後、権力を左右し、中宗を毒殺するも李隆基(のちの玄宗)らの叛乱で殺された。武后の事件とともに「武韋の禍」と称される。
  • 玄宗 げんそう 685-762 唐の第6代の皇帝。睿宗の第3子。諱は隆基。初めは開元の治と呼ばれたが、晩年楊貴妃を寵愛するに及び、安史の乱が起こり、蜀に逃れた。乱後、長安に帰って没。明皇帝と諡。明皇。(在位712〜756)
  • 楊貴妃 よう きひ 719-756 唐の玄宗の妃。名は玉環。才色すぐれ歌舞音曲に通じて、玄宗の寵をもっぱらにし、楊氏一族も顕要の地位を占めた。安史の乱で、馬嵬駅の仏堂で殺された。
  • 安禄山 あん ろくざん 705-757 唐代の武将。胡人。玄宗に愛され平盧・范陽・河東の3節度使を兼任。また楊貴妃と結んでその養子となる。宰相楊国忠と権力を争い、755年、挙兵して洛陽を攻略、長安にせまり、大燕皇帝と自称したが、子の慶緒に殺された。
  • 顔真卿 がん しんけい 709-785 唐の忠臣・書家。顔之推5世の孫。楷・行・草に巧みであった。平原の太守として安史の乱に大功を立て、のち吏部尚書・太子少師。李希烈が反した時、これを招諭することを命じられたが捕らえられ、監禁の後に殺された。文忠と諡し、顔魯公と呼ばれる。
  • 郭子儀 かく しぎ 697-781 唐の武将。玄宗の時、朔方節度使となって安史の乱を平定、粛宗・代宗に仕えて吐蕃を破り、太尉中書令に昇進した。
  • 粛宗 しゅくそう 711-762 唐第7代の皇帝。在位756-762。玄宗の子。姓は李、名は亨。安禄山の乱のとき、玄宗に代わって帝位につき、西京(長安)を収復した。
  • 史思明 し しめい ?-761 唐代の武将。安史の乱の主謀者。営州(今の遼寧省)出身の胡人で、安禄山の親友。759年安禄山の子、慶緒を殺して大燕皇帝と称したが、やがて子の史朝義に殺された。
  • 代宗 だいそう 726-779 唐第8代の皇帝。在位762-779。粛宗の長子。安史の乱中、天下兵馬元帥として蕃漢の兵をひきいて安慶緒の占拠する長安・洛陽両京を奪回、762年即位した。翌年乱は平定されたが、割拠した藩鎮を抑えることができず、宦官の権勢、吐蕃の入寇など内憂外患になやみつつ生涯を終えた。(東洋史)
  • 黄巣 こう そう ?-884 唐末農民反乱の指導者。山東曹州の人。科挙に落第して、塩の闇商人となる。
  • 朱全忠 しゅ ぜんちゅう 852-912 五代、後梁の太祖。名は温。全忠は唐の僖宗より賜った名。安徽e山の人。初め黄巣の部下、唐に降り節度使。哀帝に迫って位を譲らせ、東都開封府に都して国号を梁と称。次子の朱友珪に殺された。(在位907〜912)
  • 昭宗 しょうそう 867-904 唐第19代の皇帝。在位888-904。懿宗の第7子。黄巣の乱後の朝権回復を夢みたが成功せず、軍閥朱全忠に殺された。全忠のロボットに立てられた哀帝を除けば、唐朝最後の皇帝。(東洋史)


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)『新編東洋史辞典』東京創元社、1980)。



*書籍

(書名、雑誌名、論文名、能・狂言・謡曲などの作品名)
  • 『ベーダ』 ヴェーダ。Veda、吠陀。(明・文・知などと訳す)インド最古の宗教文献。バラモン教の根本聖典。インドの宗教・哲学・文学の源流をなすもので、その起源は前1500年頃インドの北西方に移住したアーリア人が多数の自然神に捧げた賛美に発し、以来1000年の間に成立。最古のリグ(Rg)、それに次ぐサーマ(Sama)・ヤジュル(Yajur)および異系統のアタルヴァ(Atharva)を四ヴェーダという。韋陀。
  • 「帰去来辞」 ききょらいのじ 晋の陶淵明の文。彭沢の県令を最後に宮仕えをやめ、故郷の田園に帰った折の心境を述べたもの。六朝第一の名文と称せられる。
  • 「蘭亭序」 らんていのじょ 蘭亭叙。法帖。蘭亭の会の時に成った詩集に、王義之が書いた序文。28行324字。その真蹟は現存しないが、搨本が伝わり、行書の手本として古来珍重されている。
  • 『蘭亭帖』 らんていじょう 晋の王羲之が書いた蘭亭集序の法帖。行書で書かれ、原本は伝わっていないが種々の模本があり、行書を学ぶ者は必ず手本とする。
  •  清夜遊の曲 せいやゆうの きょく
  • 『貞観政要』 じょうがん せいよう 唐の太宗が群臣と政治上の得失を問答した言を集録した書。帝王学の教科書として愛読された。10巻。唐の呉兢編。


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)。



*難字、求めよ

  • 東漸 とうぜん (勢力が)次第に東方に進み移ること。
  • インダス文明 インダス ぶんめい インダス川の流域に栄えたアーリア人以前の古代文明。都市計画に傑出し、モヘンジョ‐ダロ・ハラッパーなどの遺跡が存在する。
  • アーリア民族 → アーリア人
  • アーリア人 アーリア じん (Aryan)(もと「高貴な」を意味する梵語aryaから)インド‐ヨーロッパ語族インド‐イラン語派の言語を話す人々の総称。特定の人種や民族を指すものではない。
  • ドラヴィダ族 → ドラヴィダ人
  • ドラヴィダ人 ドラヴィダ じん (Dravidian)現在、主に南インド・スリランカで話されているドラヴィダ語族の言語を話す人々。インド‐アーリア人とともにインドの二大主要民族。インダス文明の担い手で、その後インド南部に移動したといわれる。インド総人口の約4分の1を占める。19世紀末ごろからドラヴィダ民族運動を展開。
  • ドラヴィダ語族 ドラヴィダ ごぞく (Dravidian)南インド・スリランカに分布する語族。タミル語・カンナダ語・テルグ語・マラヤーラム語などを含む。
  • 四種姓 ししゅせい ヴァルナに同じ。
  • ヴァルナ varna (色の意)インドの種姓制。バラモン(祭官・僧侶)、クシャトリヤ(王族および武士階級)、ヴァイシャ(平民)、シュードラ(隷属民)をいう。不可触民は第五のヴァルナとされる。五つのヴァルナの大枠の内部に多数のカーストが存在。
  • ブラーマン Brahman → バラモン
  • バラモン brahmana 婆羅門。(浄行と訳す) (1) インドの四種姓(ヴァルナ)制中の最高位である僧侶・祭司階級。梵天の裔で、その口から出たものとされ、もっぱら祭祀・教法をつかさどり、他の三姓の尊敬を受けた。ブラーマン。(2) バラモン教。また、その僧侶。
  • クシャトリヤ ksatriya 刹帝利。インドの四種姓(ヴァルナ)制で、バラモンに次ぐ第二身分。王族および武士身分。刹利。
  • ヴァイシャ vaisya 吠舎。インドの四種姓(ヴァルナ)制で、第三身分。農業・商業にたずさわるもの。平民。
  • スードラ 首陀羅 → シュードラ
  • シュードラ sudra 首陀羅。インドの四種姓(ヴァルナ)制で、最下位に置かれた隷属民。ヒンドゥー法典によれば、その義務は上位の三ヴァルナに奉仕することにある。農民や牧畜民などが含まれる。
  • 賤業 せんぎょう いやしい職業。
  • バラモン教 バラモン きょう 婆羅門教。(Brahmanism)仏教以前からバラモン (1) を中心に行われたインドの民族宗教。ヒンドゥー教の前身。ヴェーダ聖典を権威とし、自然神をまつり祭式を重視した。宇宙の本体である梵天を中心とする。また、ヴァルナ制度を思想的に支えた。
  • 仏教 ぶっきょう (Buddhism)仏陀(釈迦牟尼)を開祖とする世界宗教。前5世紀頃インドに興った。もともとは、仏陀の説いた教えの意。四諦の真理に目覚め、八正道の実践を行うことによって、苦悩から解放された涅槃の境地を目指す。紀元前後には大乗仏教とよばれる新たな仏教が誕生、さらに7〜8世紀には密教へと展開した。13世紀にはインド亜大陸からすがたを消したのと対照的に、インドを超えてアジア全域に広まり、各地の文化や信仰と融合しながら、東南アジア、東アジア、チベットなどに、それぞれ独自の形態を発展させた。
  • 牟尼・文尼 むに 〔仏〕(梵語muni 寂黙・聖者・聖仙の意) (1) インドで、山林に在って心を修め道を修する者の称。仙人。聖人。(2) 釈尊の称。
  • 覚者 がくしゃ/かくしゃ (梵語buddha 仏陀の訳)自ら覚り他を覚らせ、覚も行も完全な者をいう。
  • ブッダ 仏陀 ぶつだ。〔仏〕(梵語buddhaの音写。覚者・智者と訳す)目覚めた人の意で、悟りに達した人をいう。特に釈迦牟尼を指すが、広義には過去・未来および十方世界に多くの仏陀が存在するという。仏。ほとけ。ブッダ。
  • 浄行 じょうぎょう 〔仏〕清浄な行い。淫事から離れること。
  • 至楽 しらく この上もなく楽しいこと。きわめて楽しいこと。また、そのさま。
  • 涅槃 ねはん 〔仏〕(梵語nirvana 吹き消すこと、消滅の意) (1) 煩悩を断じて絶対的な静寂に達した状態。仏教における理想の境地。般涅槃。滅度。寂滅。泥�。(2) (無余涅槃の意から)仏陀または聖者の死。入寂。入滅。
  • 漸次 ぜんじ だんだん。次第次第に。
  • 頌仏 しょうぶつ
  • 頌 しょう (1) 褒めたたえること。ほめうた。(2) 詩経の六義の一つ。宗廟の祭祀における楽歌。祖先の徳をたたえ、子孫に福をもたらすことを祈る歌。周頌・魯頌・商頌の3種がある。(3) 漢文の一体。皇帝や大臣をほめたたえるもの。押韻するものもある。
  • 教旨 きょうし (1) 教えの趣意。(2) 宗教上の趣旨。
  • 碑銘 ひめい 石碑に彫りつけた銘。
  • 仏典 ぶってん (1) 仏教の経典。内典。(2) 仏教に関する書物。
  • 結集 けつじゅう 〔仏〕仏滅後、教えの拡散と消失を防ぎ、教団を統一するため、代表者が集まって仏陀が遺した教えを集め、経典を編集したこと。けちじゅう。
  • 大月氏 だいげっし → 月氏
  • 月氏 げっし 月氏・月支。秦・漢時代、中央アジアに拠ったイラン系またはトルコ系の民族。前漢の初め、甘粛省敦煌地方から匈奴に追われてイリ地方に、前2世紀頃さらに烏孫に追われてアム河畔に移り、大夏を征服して一大国家を建てた。要地に五翕侯(諸侯)を置いたが、前1世紀の中葉、その一人クシャーナ翕侯によって滅ぼされた。匈奴に追われて西走したものを大月氏、故地に残留したものを小月氏という。
  • サンスクリット語 サンスクリット ご (Sanskritは、完成された言語、すなわち雅語の意)インド‐ヨーロッパ語族のインド‐アーリア語派に属する言語。複雑な語尾変化・活用を有する。梵語。
  • 宦官 かんがん 東洋諸国で後宮に仕えた去勢男子。特に中国で盛行、宮刑に処せられた者、異民族の捕虜などから採用したが、後には志望者をも任用した。常に君主に近接し、重用されて政権を左右することも多く、後漢・唐・明代にはその弊害が著しかった。宦者。寺人。閹官。閹人。刑余。�s寺。
  • 外戚 がいせき (ゲシャクとも)母方の親族。←→内戚
  • 気節 きせつ (1) 気概があって節操の堅いこと。気骨。(2) 気候または時節。
  • 朝政 ちょうせい 朝廷の政治。あさまつりごと。
  • 紊乱 びんらん (ブンランの慣用読み)みだれること。みだすこと。
  • 宗室 そうしつ (1) 一族の宗とする家。本家。宗家。(2) 先祖の霊廟。(3) 天子の一族。皇族。
  • 謀臣 ぼうしん (1) はかりごとを立てる臣。はかりごとに巧みな臣。(2) 主君に叛逆する臣下。
  • 雄飛 ゆうひ (雄鳥の飛揚するように)勢い盛んに勇ましく活動すること。
  • 荻 おぎ イネ科の多年草。多くは水辺に自生、しばしば大群落を作る。高さ約1.5メートル。ススキに似る。茎は細く、有節、中空。葉は硬質、細長い。基部は鞘状で茎を包む。夏・秋の頃、絹毛のある花穂をつける。屋根を葺くのに用いる。風聞草。風持草。寝覚草。目覚し草。文見草。
  • 天下三分の計 てんか さんぶんの けい 国土を三分割して3人で治めるという計略。後漢末、諸葛亮が劉備に進言した、曹操・孫権・劉備で中国を三分支配する策が有名。
  • 亀鑑 きかん (「亀」は吉凶を占うもの、「鑑」は照らして物を見るものの意)行動の基準となる物事。かがみ。てほん。模範。亀鏡。
  • 草廬 そうろ (1) 草葺きのいおり。草庵。(2) 自分の住居の謙譲語。
  • 時策 じさく 時局に処すべき政策。
  • 三顧 さんこ [出師表「臣を草廬の中に三顧し、臣に諮るに当世の事を以てせり」](蜀の劉備が三たび諸葛亮の廬を訪れて遂に軍師に迎えた故事による)目上の人が礼を厚くして、人に仕事を引き受けてくれるよう頼むこと。
  • 三顧の礼 さんこの れい 優秀な人材を迎えるときに取る、手厚い礼儀。
  • 後嗣 こうし あとつぎ。子孫。
  • 鼎立 ていりつ 3者が、鼎の脚のように、互いに向かい合って立つこと。三つの勢力が互いに対立すること。
  • 帝業 ていぎょう 帝王としての事業。帝謨。皇謨。
  • 後主 こうしゅ (1) あとつぎの主君。嗣君。(2) 王朝の最後の君主。蜀の劉備の子劉禅、南唐の李�vなど。
  • 後顧の憂え こうこの うれえ 立ち去ったあとの心配。残された者への気づかい。
  • 南夷 なんい 南方の蛮夷。
  • 用兵 ようへい 戦いで軍隊を動かすこと。
  • 心事 しんじ (1) 心に思う事。(2) 心に思う事と実際の事実。
  • 出師 すいし 軍隊をくり出すこと。出兵。
  • 出師表 すいしの ひょう 蜀漢の諸葛亮が、劉備没後、魏を討つため出陣するにあたり、後主劉禅に奉った前後2回の上奏文。うち後出師表は諸葛亮の作でないとされる。
  • 言々 げんげん 一つ一つの言葉。一言一言。
  • 至誠 しせい きわめて誠実なこと。まごころ。
  • 震駭 しんがい おそれてふるえおどろくこと。
  • 国相 こくしょう 一国の宰相。
  • 分封 ぶんぽう (1) 封地を分けること。また、分けられた封地。
  • 擾乱 じょうらん (1) 入り乱れること。乱れさわぐこと。また、乱し騒がすこと。騒擾。
  • 清談 せいだん (1) 魏晋時代に盛行した談論。後漢の党錮の禍に高節の士が多く横死して以来、知識人らが儒学の礼教に反し、老荘の空理を談じ、琴を弾じ酒に耽り、放逸を事とした風俗を指す。竹林の七賢はその代表。(2) 浮世を離れ、名利を超越した、高尚な談話。
  • 老荘 ろうそう 老子と荘子。
  • 世務 せいむ 世の中のつとめ。当世の事務。せむ。
  • 清節 せいせつ きよいみさお。汚れのない節操。清操。
  • 法度 はっと (1) おきて。法律。(2) 禁令。禁制。特に、近世、幕府が旗本・御家人・庶民の支配のために発したもの。武家諸法度・禁中並公家諸法度・寺院法度・諸士法度がある。
  • 礼節 れいせつ (1) 貴人に対して礼を行う作法。礼儀のきまり。(2) 礼儀と節度。
  • 五胡 ごこ 後漢・晋の頃、北西方から中国本土に侵入移住した五種の異民族。匈奴・羯・鮮卑・�・羌の総称。匈奴・羯・鮮卑はモンゴルもしくはトルコ・ツングース系、�・羌はチベット系。
  • 胡 こ (呉音はゴ。唐音はウ) (1) 中国で、異民族の称。秦代・漢代には匈奴、唐代には広く西域民族を指す。(2) 中国で、一般に異民族・外国を指し、外来のものに冠する語。
  • 匈奴 きょうど 前3世紀から後5世紀にわたって中国を脅かした北方の遊牧民族。首長を単于と称し、冒頓単于(前209〜前174)以後2代が全盛期。武帝の時代以後、漢の圧迫をうけて東西に分裂、後漢の時さらに南北に分裂。南匈奴は4世紀に漢(前趙)を建国。種族についてはモンゴル説とトルコ説とがあり、フンも同族といわれる。
  • 鮮卑 せんぴ 古代アジアのモンゴル系(トルコ系とも)に属する遊牧民族。中国戦国時代から興安嶺の東に拠った。2世紀中葉、遼東から内外モンゴルを含んで大統一したが、三国時代、慕容・宇文・拓跋などの集団に分裂。晋代に、前燕・後燕・西秦・南涼・南燕の国を建て、拓跋氏は南北朝時代に北魏を建てた。
  • 羯 けつ 匈奴の一族で、五胡の一つ。上党郡武郷県(中国山西省)羯室の地に居住した。4世紀初頭、その族長石勒が後趙を建てた。
  • � てい (2) 五胡の一つ。先秦時代から中国の西境に拠ったチベット系の民族。渭水・漢水の上流域から四川省の北部に散在し、晋末以後、成(成漢)・前秦・後涼を建国。
  • 羌 きょう (1) 殷代、異民族の総称。(2) チベット系の遊牧民族。中国の西北辺、今の甘粛・青海・西蔵方面に拠り、漢代には西羌と呼ばれ、匈奴と連合して西境を侵す。五胡時代に後秦を建国。唐代には党項(タングート)の名であらわれ、11世紀には西夏を建てた。
  • チベット族 -ぞく チベットに住む土着の民族。チベット語を話し、主に農耕・遊牧生活を送る。
  • 塞外 さいがい (1) とりでの外。(2) 中国の北方の国境すなわち万里の長城の外。←→塞内
  • 曾孫 そうそん 孫の子。ひまご。ひこ。
  • 遷移 せんい (1) うつりかわること。
  • 胡族 こぞく → 胡人か
  • 胡人 こじん (1) 中国の北方に住む、匈奴・モンゴル人・回オ(カイコツ、ウイグル)人などの総称。(2) 中国の西方に住む民族。西域の人。(3) 人を軽蔑していうことば。
  • 漢族 かんぞく 中国文化と中国国家を形成してきた主要民族。現在中国全人口の約9割を占める。その祖は人種的には新石器時代にさかのぼるが、共通の民族意識が成立するのは、春秋時代に自らを諸夏・華夏とよぶようになって以降。それらを漢人・漢族と称するのは、漢王朝成立以後。その後も漢化政策により多くの非漢族が漢族に同化した。
  • 五胡十六国 ごこ じゅうろっこく 晋末から南北朝の興るまでに、主として五胡の建てた16カ国。
  • 経略 けいりゃく (1) はかり治めること。国家を経営統治すること。(2) 天下を経営し、四方を攻めとること。
  • 入貢 にゅうこう 外国からの使者が貢物をもって入朝すること。
  • 中原 ちゅうげん (1) 広い野原の中央。(2) 中国文化の発源たる黄河中流の南北の地域、すなわち河南および山東・山西の大部と河北・陝西の一部の地域。(3) 天下の中央の地。転じて、競争の場。逐鹿場裡。
  • 宰相 さいしょう (1) 古く中国で、天子を輔佐して大政を総理する官。丞相。(2) 参議の唐名。(3) 総理大臣。首相。
  • 捷報 しょうほう 勝利のしらせ。勝報。
  • 安穏 あんおん/あんのん (アンオンの連声)安らかにおだやかなこと。無事。
  • 朝威 ちょうい 朝廷の威光。
  • 南北朝 なんぼくちょう 南朝と北朝。
  • 簒奪 さんだつ 帝位を奪いとること。簒位。
  • 非業 ひごう 〔仏〕前世の業因によらないこと。思いもかけない現在の災難によって死ぬことなどをいう。
  • 文事 ぶんじ 文学上の事柄。学問・芸術などに関する事柄。←→武事
  • 武弁 ぶべん (武官のかぶる冠の意から)武官。武人。
  • 文治 ぶんじ/ぶんち 教化または法令によって世を治めること。文政。←→武断。
  • 拓跋族 たくばつぞく → 拓跋氏
  • 拓跋氏 たくばつし 鮮卑三姓中西方の一氏族。二世紀後半から鮮卑の中心氏族として活躍。386年、拓跋珪が帝位につき魏と称し、平城(今の大同)を首都とした。
  • 卑雑 ひざつ
  • 文弱 ぶんじゃく 文事ばかりにふけって弱々しいこと。
  • 禅宗 ぜんしゅう 仏教の一派。その教旨は、仏教の真髄は坐禅によって直接に体得されるとし、教外別伝・不立文字・直指人心・見性成仏を主張する。6世紀前半、達磨が中国に伝え、のち5世弘忍に至り、その門下二派に分かれ、6世慧能は南宗を、神秀は北宗を開いたと伝える。慧能の門下南岳の門から臨済・�I仰の二宗を出し、青原の門から曹洞・雲門・法眼の三宗を出し、合して五家と称する。また、臨済の門から楊岐・黄竜の二派を出し、合して七宗という。日本では、1187年(文治3)栄西が入宋して臨済宗を伝え、1223年(貞応2)道元が入宋して曹洞宗を伝え、1654年(承応3)明の黄檗山の隠元が渡来して黄檗宗を開いた。禅門。仏心宗。
  • 法談 ほうだん 仏法の要義を説く談話。説法。
  • 才学 さいがく (中世ではサイカク)才能と学識。学問。
  • 憤死 ふんし 憤慨して死ぬこと。
  • 浮薄 ふはく あさはかでかるがるしいこと。軽薄。
  • 質実 しつじつ 飾りけなくまじめなこと。
  • 経学 けいがく 四書・五経などの経書を研究する学問。
  • 詩賦 しふ 詩と賦、すなわち中国の韻文。
  • 卓出 たくしゅつ 他よりすぐれてぬきん出ていること。傑出。
  • 帰去来 ききょらい (「帰去来辞」による)故郷に帰るために、ある地を去ること。「かえりなんいざ」と訓じている。「来」は助字。
  • 賦 ふ (2) (ア) 漢詩の六義の一つ。事物をそのまま述べあらわすこと。(イ) 漢文の韻文の一つ。事物を叙述描写し、多くは対句を用い、句末に韻をふむ美文。(ウ) 一般に韻をふんだ詩文。
  • 蘭亭 らんてい 中国東晋代、会稽郡(浙江省紹興市)にあった亭。
  • 蘭亭の会 らんていのかい 東晋の穆帝の永和9年(353)3月3日、謝安ら名士41人が蘭亭に会して禊し、曲水に觴を流して詩を賦したこと。このときの詩集に王羲之が序を作ったのが「蘭亭集序」として有名。
  • 道教 どうきょう 中国漢民族の伝統宗教。黄帝・老子を教祖と仰ぐ。古来の巫術や老荘道家の流れを汲み、これに陰陽五行説や神仙思想などを加味して、不老長生の術を求め、符呪・祈祷などを行う。後漢末の五斗米道(天師道)に始まり、北魏の寇謙之によって改革され、仏教の教理をとり入れて次第に成長。唐代には宮廷の特別の保護をうけて全盛。金代には王重陽が全真教を始めて旧教を改革、旧来の道教は正一教として江南で行われた。民間宗教として現在まで広く行われる。
  • 道家 どうけ/どうか (1) 先秦時代、老荘一派の虚無・恬淡・無為の説を奉じた学者の総称。諸子百家の一つで、儒家と共に二大学派をなす。(2) 道教を奉ずる人。道士。
  • 卑俗 ひぞく いやしく俗っぽいこと。下品なこと。低俗。また、そういう人。
  • 桓霊 かんれい 後漢の桓帝と霊帝。ともに徳のない暗君。
  • 内治 ないち (1) 国内の政治。←→外交。(2) 奥向きの統治。
  • 刑律 けいりつ (1) 刑と律。(2) 刑罰に関するきまり。
  • 賦税 ふぜい 税を賦課すること。
  • 服属 ふくぞく 従いつくこと。つきしたがうこと。
  • 突厥 とっけつ (Turkut)トルコ系の遊牧民。また、その遊牧民が支配した国。6世紀中葉、アルタイ山麓に起こり、柔然の支配を破って独立、伊利可汗と称し、モンゴル高原・中央アジアに大遊牧帝国を建設。6世紀後半、東西に分裂し、630年以後前後して唐に征服されたが、682年東突厥が復興し(突厥第二帝国)、744年ウイグルに滅ぼされた。東アジア遊牧民最初の文字を残した。
  • 摂政 せっしょう [礼記文王世子]君主に代わって政務を行うこと。また、その官。日本では、聖徳太子以来、皇族が任ぜられたが、清和天皇幼少のため外戚の藤原良房が任ぜられてのちは、藤原氏が専ら就任した。明治以降は、皇室典範により、天皇が成年に達しないとき、並びに精神・身体の重患または重大な事故の際、成年の皇族が任ぜられる。
  • 国書 こくしょ (1) 国の元首が、その国名を以て発する外交文書。
  • 離宮 りきゅう 皇居や王宮以外の地に定められた宮殿。外つ宮。
  • 竜船 りゅうせん (1) (dragons)船首に竜の装飾をしたバイキングの船。(2) 中国南部・タイなどで用いる祭事用の細長い船。
  • 遊幸 ゆうこう 游幸。国王や皇帝が行楽の目的で旅行や外出をすること。
  • 幹線 かんせん 道路・鉄道・電信などの主な道筋となる線。本線。←→支線
  • 宮女 きゅうじょ 宮中に仕える女。女官。宮人。
  • 園・苑 えん (2) 人工の庭。(3) 人々が目的に応じて設けた場所、施設。
  • 清夜 せいや 夜気清く静かな夜。涼しくさわやかな夜。
  • 韓人種 かんじんしゅ → 韓族
  • 韓族 かんぞく 古代、朝鮮半島の南半部に住んでいた民族。のちの朝鮮民族の母体となったもので、農耕文化をもち、数多くの部族集団に分かれていた。
  • 淫虐 いんぎゃく みだらで残虐なこと。女色にふけること。
  • 縊り殺す くびりころす 首をくくって殺す。しめ殺す。
  • 四周 ししゅう 四方。周囲。まわり。
  • 所在 しょざい (2) ここかしこ。到る所。
  • 不世出 ふせいしゅつ めったに世に現れないほどすぐれていること。
  • 英主 えいしゅ すぐれた君主。
  • 海内 かいだい 四海の内。国内。天下。
  • 律令 りつりょう 律と令。律は刑法、令は行政法などに相当する中央集権国家統治のための基本法典。律も令も古代中国で発達、隋・唐時代にともに完成し、日本をはじめ東アジア諸国に広まった。
  • 最隆期 さいりゅうき
  • 柔然 じゅうぜん モンゴルの地に拠ったモンゴル系の遊牧民族。東晋の初め、鮮卑の拓跋氏に隷属し、拓跋氏の南遷後、5世紀初頭その故地を領したが、6世紀中ごろ突厥に滅ぼされた。@@・茹茹・蠕蠕とも称する。
  • トルコ種 → トルコ族
  • トルコ族 -ぞく ヨーロッパの一部、シベリア、中央アジアに居住する民族。古く北蒙古にあったものは丁霊、高車と呼ばれた。6世紀にアルタイ山脈西南に突厥がおこり、その東部をウイグルが受け継いだ。西部では11世紀にセルジュク-トルコが帝国を建て、イラン・小アジア・シリアを支配。その滅亡後、オスマン・トルコがこれに代わり、さらにケマル=アタチュルクの革命後トルコ共和国となった。
  • 可汗 かかん khaghan → ハン(汗)
  • ハン 汗・khan 韃靼・モンゴル・トルコなど北方遊牧民の君主の称号。カン(汗)。可汗。
  • 入寇 にゅうこう (「寇」は、あだをする意)外国からある国に攻め入ってくること。来寇。
  • 西突厥 にし とっけつ 突厥が583年東西に分裂し、西面可汗が独立して建てた国。中央アジアを支配。トゥルギシュ(突騎施)が独立し、8世紀初頭滅亡。十姓。十箭。オンオク。
  • イスラム教 イスラム‐きょう 世界的大宗教の一つ。610〜632年頃、ムハンマドが創始、アラビア半島から東西に広がり、中東から西へは大西洋に至る北アフリカ、東へはイラン・インド・中央アジアから中国・東南アジア、南へはサハラ以南アフリカ諸国に、民族を超えて広がる。サウジ‐アラビア・イラン・エジプト・モロッコ・パキスタンなどでは国教となっている。ユダヤ教・キリスト教と同系の一神教で、唯一神アッラーと預言者ムハンマドを認めることを根本教義とする。聖典はコーラン。信仰行為は五行、信仰箇条は六信にまとめられる。その教えは、シャリーアとして体系化される。法学・神学上の違いから、スンニー派とシーア派とに大別される。中世には、オリエント文明やヘレニズム文化を吸収した独自の文明が成立、哲学・医学・天文学・数学・地理学などが発達し、近代ヨーロッパ文化の誕生にも寄与した。三大聖地はメッカ・メディナ・エルサレム。回教。マホメット教。
  • マホメット教 マホメット‐きょう イスラム教の異称。
  • 大食人 タージ じん → アラビア人
  • アラビア人 → 「アラブ人」に同じ。
  • アラブ人 アラブ‐じん 本来はアラビア半島に住むセム系の遊牧民族の総称。現在はアラビア語を母語とし、イスラム勃興以降のアラブの歴史・文化遺産に帰属意識を持つ人々を指す。西アジアから北アフリカにかけて居住。アラビア人。
  • 侵寇 しんこう 敵地に侵入して害を加えること。
  • 公主 こうしゅ (昔、中国で天子がその女を諸侯に嫁がせる時、三公にその事をつかさどらせたからいう)天子の息女。皇女。
  • 江口 こうこう 大河の海にそそぐ所。河口。
  • 水軍 すいぐん (1) 水上の軍隊。水師。(2) 中世、瀬戸内海・西九州沿海に本拠を持つ、水上戦法や操船にたけた地方豪族。戦国時代には大名の各陣営に加わる。海賊。
  • 水城 みずき 外敵から防備するために水辺に設けた土塁・水濠。特に664年大宰府に築かれたものをいい、その遺構が福岡県太宰府市水城にある。全長約1キロメートル、高さ約10メートル。
  • 来寇 らいこう 外国から攻めこんでくること。
  • 来帰 らいき (1) 帰ってくる。(2) 落ち着く所を求めてやってくる。(3) 女が離縁されて実家に帰る。
  • 都護府 とごふ 唐で、周辺諸民族の支配のために辺境に置かれた官庁。安東・安南・安西・安北・単于・北庭の六都護府が主要なもの。
  • 武韋の禍 ぶいのわざわい/ぶいのか 唐代、高宗の皇后の則天武后、中宗の皇后の韋后が一時政権を奪って政治を混乱させた事件。
  • 女禍 じょか 男が女に関して災難に遭うこと。女難。
  • 文運 ぶんうん 学問・文物の盛んな気運。また、文化・文明の進歩してゆくなりゆき。←→武運
  • 開元の治 かいげんのち 唐朝第6代の皇帝玄宗の初期の治世。則天武后以来の政治の乱れを正し、安定した社会を作り上げた。年号の開元(713〜741)にちなんで呼ぶ。
  • 節度 せつど (2) 天子が将帥に出征を命じた時、その符節として賜る大刀・旗・鈴などの類。転じて、指図。下知。指揮。
  • 節度使 せつどし (1) 唐・五代の軍職。8世紀初め、辺境の要地に置かれた軍団の司令官。安史の乱中、国内の要地にも置かれ、軍政のみでなく民政・財政権をも兼ねて強大な権限を有した。宋初に廃止。藩鎮。せっとし。(2) 唐にならって、奈良時代に東海・西海など道ごとに置いた臨時の官。新羅対策などのため諸国の軍団を整備・強化するのを任とした。
  • 藩鎮 はんちん (1) 地方のしずめとして駐屯した軍隊。(2) 王室の藩屏たる諸侯。(3) 唐・五代の節度使の異称。特に、観察使を兼ねて中央政府から半ば独立し、軍閥化したもの。方鎮。
  • 驕奢 きょうしゃ 権勢におごること。ぜいたくであるさま。
  • 遊宴 ゆうえん 酒宴をして遊ぶこと。宴会。
  • 宴楽・燕楽 えんらく (1) 酒宴を開いて楽しむこと。(2) 心がやわらぎ楽しむこと。
  • 勤皇・勤王 きんのう 天子に忠義を尽くすこと。特に、江戸末期、朝廷のために徳川幕府打倒をはかった政治運動。尊皇。
  • 漠北 ばくほく ゴビ砂漠の北方の地。
  • ウイグル Uighur 唐から宋・元にかけてモンゴル・甘粛・新疆方面に活動したトルコ系民族。鉄勒の一部族から起こり、唐中期の744年、突厥に代わってモンゴル高原を制覇、840年内乱とキルギス族の襲撃のため四散。新疆に移ったものは西ウイグル王国を形成して独自の文化を発達させ、西域のトルコ化を促進、のち元に帰属、次第にイスラム化した。現在の新疆ウイグル(維吾爾)自治区の主要住民。現在のウイグル族は約700万人。回オ。回鶻。
  • 乱流 らんる/らんりゅう (3) 道理にはずれておこないなどが乱れること。
  • 歳幣 さいへい (「幣」は木綿や絹などの織物)貢物として毎年贈る織物や金品などのこと。
  • 外患 がいかん 外部からこうむる心配事。外国との紛争・衝突など面倒な事件。外憂。
  • 近衛兵 このえへい 古くは、宮中の警固、天皇の輿の警備などにあたった天皇の親兵。
  • 国子監 こくしかん (1) 隋代、学校を総管するための教育行政の中央官庁。明代、両者を兼ねる。(2) 大学寮・大学允の唐名。
  • 虚位 きょい (1) 空席になっている地位。空位。(2) 名目だけで実権のない地位。
  • 内憂 ないゆう (1) 内部のうれえ。(2) 国内の心配事。
  • 内憂外患 ないゆう がいかん 国内の心配事と国際上の心配事。内外の憂患。


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)『日本国語大辞典 第二版』(小学館、2001.5)。



*後記(工作員スリーパーズ日記)


「少さく」は「小さく」に、
「高勾麗」は「高句麗」に、
「も一人」は「もう一人」に、
「煬帝《ようてい》」は「煬帝《ようだい》」に、それぞれ変更。

 図版は『学研新漢和大字典』(2005.5)と『世界史年表・地図』(吉川弘文館、1995.4)を参照。東アジア年表テーブルは渡邊義浩『宗教から見る中国古代史』(ナツメ社、2007.12)をベースに、『東洋歴史物語』本文からトピックを追加。

 六月二三日(土)晴。遊学館ホール、赤坂憲雄・吉村美栄子県知事対談「縄文からのメッセージ」。会場、二〇〇名ぐらいか。昭和61年、舟形町西ノ前遺跡から出土した復元高さ45cmの国内最大土偶、通称「縄文の女神」が今年、国宝指定されることを記念しての対談。
 ナマ知事を見るのは初。赤坂さんは五、六回目。皮切りは、昨年三月一一日のこと。議会日だったので県庁にいた知事は、二階廊下で被震。すぐ知事室へ向かう。県内市町村からの情報が入るシステムはあるものの、県外から情報の入るシステムはなし。TVで状況を知る。翌日、東北六県知事へ電話確認。
 赤坂さんは、国分駅ビル三階で被震。ほどなく外へ出されてしまったらしい。その後どうしたのか、タクシーに乗れたのか、歩いて帰路についたのか、どこへ向かったのか、語らず。四月はじめに仙台野蒜(のびる)へ行ったのが最初で、以来、毎週末のように東北のどこかへ行くスタイルが一年間つづいた。
 獅子踊り、民俗芸能、鎮魂、厄払い、祝祭、供養。
 土偶、女性像、豊饒の祈り、破損、貝塚、人骨の埋葬。

 対談をはさんで、真室川の釜淵番楽、米沢の梓山獅子踊、寒河江の日和田弥重郎花笠田植踊、遊佐の吹浦田楽舞。




*次週予告


第四巻 第五〇号 
東洋歴史物語(五)藤田豊八

第四巻 第五〇号は、
二〇一二年七月七日(土)発行予定です。
定価:200円


T-Time マガジン 週刊ミルクティー 第四巻 第四九号
東洋歴史物語(四)藤田豊八
発行:二〇一二年六月三〇日(土)
編集:しだひろし / PoorBook G3'99
 http://www33.atwiki.jp/asterisk99/
出版:*99 出版
 〒994-0024 山形県天童市鎌田2丁目1−21
 アパートメント山口A−202
販売:DL-MARKET
※ T-Timeは(株)ボイジャーの商標・製品です。