今村明恒 いまむら あきつね
1870-1948(明治3.5.16-昭和23.1.1)
地震学者。理学博士。鹿児島県生まれ。明治38年、統計上の見地から関東地方に大地震が起こりうると説き、大森房吉との間に大論争が起こった。大正12年、東大教授に就任。翌年、地震学科の設立とともに主任となる。昭和4年、地震学会を創設、その会長となり、機関誌『地震』の編集主任を兼ね、18年間その任にあたる。



◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店)


もくじ 
大地震調査日記(続)今村明恒


ミルクティー*現代表記版
大地震調査日記(続)

オリジナル版
大地震調査日記(続)


地名年表人物一覧書籍
難字、求めよ
後記次週予告

※ 製作環境
 ・Macintosh iBook、Mac OS 9.2.2、T-Time 2.3.1
 ・ ポメラ DM100、ソーラーパネル NOMAD 7
※ 週刊ミルクティー*は、JIS X 0213 文字を使用しています。
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*凡例
  • ( ):小書き。〈 〉:割り注。
  • 〔 〕:編者もしくは、しだによる注。
  • 一、漢字、かなづかい、漢字の送りは現代表記に改めました。
  •    例、云う → いう / 言う
  •      処  → ところ / 所
  •      有つ → 持つ
  •      這入る → 入る
  •      円く → 丸く
  • 一、同音異義の一部のひらがなを、便宜、漢字に改めました。
  •    例、いって → 行って / 言って
  •      きいた → 聞いた / 効いた
  • 一、若干の句読点を改めました。適宜、ルビや中黒や感嘆・疑問符をおぎないました。一部、改行と行頭の字下げを改めました。
  • 一、漢数字の表記を一部、改めました。
  •    例、七百二戸 → 七〇二戸
  •    例、二萬六千十一 → 二万六〇一一
  • 一、ひらがなに傍点は、一部カタカナに改めました。
  • 一、カタカナ漢字混用文は、ひらがな漢字混用文に改めました。
  • 一、和暦にはカッコ書きで西暦をおぎないました。年次のみのばあいは単純な置き換えにとどめ、月日のわかるばあいには陰暦・陽暦の補正をおこないました。
  • 一、「今から○○年前」のような経過年数の表記は改めず、底本のままにしました。和歌・俳句・短歌は五七五(七七)の音節ごとに半角スペースで句切りました。
  • 一、表や図版キャプションなどの組版は、便宜、改めました。
  • 一、書名・雑誌名は『 』、論文名・記事名および会話文は「 」で示しました。
  • 一、差別的表現・好ましくない表現はそのままとしました。

*尺貫法
  • 寸 すん 長さの単位。尺の10分の1。1寸は約3.03センチメートル。
  • 尺 しゃく 長さの単位。1メートルの33分の10と定義された。寸の10倍、丈の10分の1。
  • 丈 じょう 長さの単位。(1) 尺の10倍。約3メートル。(2) 周尺で、約1.7メートル。成人男子の身長。
  • 歩 ぶ (1) 左右の足を一度ずつ前に出した長さ。6尺。(2) 土地面積の単位。1歩は普通、曲尺6尺平方で、1坪に同じ。
  • 町 ちょう (1) 土地の面積の単位。1町は10段。令制では3600歩、太閤検地以後は3000歩とされ、約99.17アール。(2) (「丁」とも書く) 距離の単位。1町は60間。約109メートル強。
  • 里 り 地上の距離を計る単位。36町(3.9273キロメートル)に相当する。昔は300歩、すなわち今の6町の定めであった。
  • 合 ごう 容積の単位。升の10分の1。1合は180.39立方センチメートル。
  • 升 しょう 容量の単位。古来用いられてきたが、現代の1升は1.80391リットル。斗の10分の1で、合の10倍。
  • 斗 と 容量の単位。1斗は1升の10倍で、18.039リットルに当たる。

*底本

底本:『手記で読む関東大震災』シリーズ日本の歴史災害 第5巻、古今書院
   2005(平成17)年11月11日 初版第1刷発行
初出:「大地震調査日記(続)」『科学知識』科学知識普及会
   1923(大正12)年11月号
http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person1578.html

NDC 分類:453(地球科学.地学 / 地震学)
http://yozora.kazumi386.org/4/5/ndc453.html





大地震調査日記(続)

今村明恒


 大地震後、もはや二月も経過した。当初の見込みでは調査もたいていかたづき、いくぶん余暇よかも出来てしんみりと日記をつけられるつもりであった。ところが愚者の知恵は後からで、あれもやっておけばよかった、これも調べなければならなかったという問題が続々と出てきた。大森博士〔大森房吉ふさきちが健在ならばなどと思ったことは、一再いっさいでなかった。おまけに雑誌の原稿取りにめられ、このごろでは講演の要求に苦しめられ、したがって仕事はますます繁忙はんぼうになる。ついに前回のとおりのなぐり書きをしてめをふさぐことにした。(十月三十日、記)

十月一日

 このころは東京市内における焼失区域において、焼失前の家屋被害状況を調査している。罹災者りさいしゃについて問い合わせることは学生諸君にお願いしておいて、自分は警察署の調査を聞いてまわった。ところによっては、火災前において機敏に受け持ち巡査をまわらして調べ上げた向きもあり、またところによっては、火災の早かったために調査のできなかったところもあるが、そのようなところはたいてい記憶に訴えて聞くことにした。今日は午後、相生あいおい・西平野・太平たいへい・亀戸の諸警察署を、寺田博士〔寺田寅彦〕同行歴訪した。その結果、深川の西部は、他にくらべて被害が比較的に軽かったことも気づかれた。
 今日の調査においてことに興味を感じたのは、被服廠ひふくしょうにて避難して、さいわいに助かった相生あいおい署在勤の警部補、佐々木俊雄氏ならびに小浜氏の談であった。なおそれらの談話は、西平野署在勤の橋本政之助氏の話によって証拠立てられた。これらの話を総合すると、あの有名な被服廠をおそった旋風は、一番最初に気づかれた位置は東京高等工業学校前の大川の中であって、時刻はちょうど午後四時ごろ、旋風の大きさは国技館くらい、高さ一〇〇メートルないし二〇〇メートル(その上端はななめにかたむいて上層の雲に続いているらしいけれども)時針の反対の向きにまわり、川に浮かんでいる小舟を一間あるいは二間〔一間は六尺、約一・八メートル〕の高さにすいあげてははね飛ばし、当時さかんに燃えつつあった高等工業学校の炎と煙とを巻き込み、まもなくそれが横網よこあみ河岸がしに上陸して、北の安田邸と南の安田邸との間をかすめ、被服廠の中心から北の方を通り、たちまちの間にそこに避難しておった群集の荷物に延焼し、同時に避難者の着物にも点火して、一面に煙と炎の浪になり、またたくひまにこの一郭いっかくにて、三万八〇一五人の生命をうばったものであるらしい。
 前にも述べたとおりに、旋風のまわる向きにつきては一尺あるいは一尺五寸〔約三〇〜四五センチメートル〕の径の樹木が根こきにぎ倒された向きによっても、しか判断されたのであるが、警察官の観察もたいていそれに一致している。しかして旋風の風速は毎秒七、八十メートルにも達したろうか。おそらくは颶風ぐふう〔強烈な風。熱帯低気圧の旧称。の最大限にも達したものであろう。前回に述べたとおり、相当に重いものが、高い樹の枝に引きかかっていることによっても首肯しゅこうされるが、相生署長は両安田邸の間にある署長官舎ならびに巡査合宿所方面にけて行く際、この旋風の一端にあてられ、六、七間もはね飛ばされただけは目撃された。遺骸はついに不明であった。ただ帯剣が安田邸をこえて、反対な側において見い出されたとのことである。さいわいに被服廠において助かった人たちは、合計二〇〇〇人もあろうとのことであるが、それは多くは被服廠の中央から以南に避難しておった人たちであった。しかし、いずれもわずかな水を土にひたしてそれを皮膚ひふに塗りて火気をよけたとか、あるいは地面にはって地に向かって呼吸をしてようやく助かったという人たちであった。これらの人が目撃した話によれば、この火災をうずまいた旋風に出会った人は、見る間に黒こげとなり、あるいは立ち上がったかと思うとそのままたおれて、たちまち絶息ぜっそくをするというように見受けた。このあとの場合は、窒息によったものか、あるいはかかる際に発生する有毒なガス(一酸化炭素のごとき)にでもよるのか、研究すべき問題であるように考えた。
 いまひとつ書きつけておきたいのは、新大橋の交通を無難にした警察官、橋本政之助・古瀬猪三郎両氏の殊勲しゅくんである。橋本氏は深川方面よりの避難者の携帯せる荷物を危険とてとり、しいてこれを遺棄いきせしめようとしたが、当時、同氏は平服であったがために市民がなかなかいうことをきかない。それで橋向かいの制服警察官を応援にたのんで右のことを励行し、ついで古瀬巡査の応援を得、ついには制しきれずして抜剣ばっけんまでもなし、荷物を河中へ投げ込んだとのことである。当時、避難者のある者はあまりに乱暴だと憤慨ふんがいしたそうだけれども、このために身軽になりさいわいに身命をまっとうしたので、震災後これら警察官の行動に感謝の念をささげているとのことを聞いた。自分はこのことを伝え聞いておったがために、特に西平野署において質問をし、これらの警察官にも面会することができた。
 今日、見巡みめぐった区域内において、森下町もりしたちょう神明しんめいの宮が焼け残っている。これは御宮の壁をトタン板でつつんであることが主な原因であったろう。こんな場所は処々ところどころに見い出されるけれども、自分が特にこの神明宮をひろったのは、この場所が深川の草分け深川八郎衛門宅地の旧跡であることによるのである。

十月二日

 寺田博士とともに、午前は原庭はらにわ署・南元町みなみもとまち署へ、午後は南千住せんじゅ署に行った。いずれにおいても相当な獲物えものがあったが、ことに南元町署においては、管内焼失前に各町にわたる倒壊家屋の調査を機敏におこないおられたには感服した。右のほか原庭署において聴き得たところは、警察署の所在地付近土地が一尺ほども陥没したろうかという状況であった。その後、寺田博士の隅田川川筋における験潮儀記録の調査により、その事実なるべきことが確かめられた。また、深川の東部における一工場において地下にきわめて深く埋設せられた鉄管が五寸もけ上がり、しかもそれが無難であるのに反して、それ以外の築造物はかえっていためられていることの不思議な現象を提示した人もあった。しかしこれは、表面の埋め立て層のり下がりにもとづき、無難な鉄管は基礎の固き地盤に植えられた結果と見れば不思議でもなく、つまりこの辺りにおいても、土地が五寸ほどもえられたことを意味するのである。本所・深川は、今回の地震において予想したよりも震度が軽かったようにおもわれるのは、はじめこれらの地方が安政度においては、むしろ震源に近かりしため、市街地の他の部分に比較して、比較的にひどくれたのであろうと解釈していたが、なるほどこれも一つの理由には相違なからんも、他の理由は今回は安政度に比較して、これらの土地が比較的によく固まっておったからであるとも考えられる。つまり埋め立て層は、このごろのように動力を使用して水と泥とを吸いあげ、水を放出して泥のみを沈殿せしめるあの方法を取ったならばおおむね天然の三角洲と同程度の、固まった地盤が得られるであろうけれども、深川あたりの埋め立てのごとく(越中島のごときは榊原さかきばら越中守のやしきであって、東京の塵埃ごみ捨て場であったとのこと)、植物性のものまで含むような、固まっていない人工の埋立地うめたてちは、地震に際してことにひどいれ方をなすであろうが、しかしながら時がたつにしたがい、一方においては、天然の地震のためにしだいにえられ、他方においては人工的にみ固められ押し固められて、しだいしだいに丈夫なれがたい地盤となるものであろう。そうして本所・深川の土地は、安政二年度(一八五五)においては埋め立て後あまり多くの大地震を経験せずして、したがって地震に対する処女埋立地うめたてちであったがために、ことにひどくれたろうが、ただしこの際においても相当にえられたものであろう。自分は明治二十七年(一八九四)の大地震に際し、本所・深川が予想したとおりにひどくれなかったように思われてならなかったが、今になって考えてみると、これも右の理由にもとづいて、以前とはちがった成績を示したものであろう。そうして今回はさらに五寸ないし一尺もえられたようであるから、今後は本所・深川の土地は、以前よりもいくぶんさらに固まったことであろう。本所・深川については、土地がり下がったがために浸水しやすくなり、そのために前途を悲観する向きもあるようであるが、浸水に対しては、このたびの火災のために生じた焼瓦などをもって、地上げをすることによって無難となるべく、したがって決して悲観するにおよばないと自分は思っている。なお、後日の調査によってあきらかになったのであるが、今回の地震によっても、新しき埋立地はことに成績が悪いようである。田端たばたの北方にある尾久おく「おぐ」か。の埋め立て町などのごとき、深川以上にいためられているところがあり、また東海道において新旧の駅の区別のあるところにては、地質・地形などいずれも同様な場合においても、新駅ならびにその付近の町家は旧駅よりもひどい損害をこうむり、ことに下曽我しもそがの駅ならびにこれに接せる町家のごときは、おそらく東海道の駅中においての最大震動を受けたところであるらしく、土地全体がほとんどもとの水準にり下げられている。

くにつかみ千代のいわおもゆりすえて
  動かぬ御代のためしにぞひく

 この歌は昔、大地震あるたびごとに呪文のようにしてこれをとなえ、あるいは地震けとして柱にはりつけるなどしたもののようであり、われわれの先祖が地震のことを世直しととなえたるなど、いずれもわざわいを転じて福となすように努力した気分がうかがわれるものであるが、自分はことに右の歌のうち、りすえて動かぬ」という句が本文どおりにもその意味をなすものであって、この点につき、さらに趣味を感ずるものである。
 よく土地のれかたは、地質によって相違があるということがいわれるが、しかしながら地質が同じでも、れかたに相違があるということを唱える人はあまり多くないようである。とにかく、甲の土地と乙の土地とのれ方の大小強弱の比較は地質によることももちろんであるが、地質だけによってわかるべきものでもない。地質が同じといっても、表面的に同じところが地下においては相違していることもあり、あるいは周囲の地形などにも制せられることであろうし、極端なことをいえば、同じ土地でも固まり方の相違によって、れかたの相違がおこるわけであろうから、つまり甲の場所と乙の場所のれかたの強弱大小を比較するには、直接に地震観測によるよりほかには適当な手段がないようである。自分は今日の調査によって、この点にことに注意を深くしてきた。
 夕刻、地震学教室に帰ってみると、大森先生病気のむねの電報が来ておった。それは天洋丸船長から大学総長へむけてよこしたもので、先生が病気であるから、横浜までむかいに来るようにとの意味である。まことに心痛のしだいであるが、病状が明記してないので、それをふたたび問い合わせることにした。

十月三日

 寺田博士・池田学士らと同行、王子署に行き王子町を調べたあと、尾久おくの方へまわった。王子は東京の郊外においてことにひどく損害をうけた町であるが、そのつぶれ家あるいは半壊家屋を生じた区域を地図に記入してみると、一つの細長き地域をかたどっている。それは明らかに往古の石神井しゃくじい川の河床の跡を示すものであって、しかもこれが印刷抄紙しょうし部分工場の頭なしの小川につづくらしくおもわれるのは、おもしろく感ぜられた。王子においては、大地震の当日ほとんど無風というくらいに静かであったが、ただ午後一時ごろになって、北東の微風が現われてきたくらいであったとのことである。つまり東京大震火災の際においては、強風は東京のみにおいて著しかったようである。

十月四日

 理学部長の命により、理学部職員を代表して大森先生出迎でむかえのため横浜まで行った。午前九時になっても天洋丸の影が見えないので、この期間を利用して黒坂助手とともに横浜の山の手、ことに根岸方面の調査に行った。競馬場に行く途中、震度は重力加速度の二割ないし二割五分もあったらしく思われたが、競馬場付近ではやや軽かったように思われる。畢竟ひっきょう、横浜の山の手は東京における深川あたりの程度であったろうか。ことに共同墓地における墓碑のいたみ方は、むしろそれ以上ではあるまいかと思われるくらいであった。山元町あたりも震力は二割ぐらいであったろうか。ただし下町においては、その二倍ぐらいの震力であったろうということは、前回の観察と変わりがない。
 昼になって、塩谷しおのや医学士・福士医学博士もむかいにこられた。船はちょうど三時に岸壁についたので上船面会したが、先生の病気はあまり軽からざる模様で、衰弱もはなはだしく、ただし意識は明瞭であるように感じた。塩谷医学士の診断に従い、午後四時上陸して自動車に安座のうえ、徐行して午後八時に大学病院三浦内科に入院された。自分に対して、病院でもすぐ地震の話をされるので、医者に面会を見あわせるようにと注意された。

十月五日

 この日は、震災予防調査会の第三回目の委員会であった。出席者も二十名をこえたほどの盛況で、研究調査は真剣味を増すばかり、かくてこの日も協議案を議了にするに至らずして散会した。
 夜は島津科学普及館に行き、今回の地震に関する講話を試みた。自分はこの普及館に深い関係があるのであるが、開館当時はあいにく海外にいたがため、以前から約束であった講演もその後実行する機会なくして打ちすぎておった。そして何か事があったときに、その問題をとらえて講演するよう約束しておいたが、いっこう適当なる機会を見い出し得なかった。しかるに今回はこの大地震襲来し、しかも普及館は暫時ざんじ閉鎖されるとのことで、機会としてはあまりに大きすぎた。満場立錐りっすいの余地なしとはこのことであろう。遅れて入場した自分は、演壇になかなか到着することを得ず。ようやく人波ひとなみを泳いで行きついたが、声がうしろまでとおらぬとあって、ついに机の上に乗らざるを得なくなってしまった。

十月六日

 寺田博士と上野署から日本堤署まで行った。震災後、自分は洲崎すざきや吉原に通うことは幾回なるを知らずというくらいであるが、焼け跡を見ただけでは大地震直後、焼失前のこれらの場所の実相につきどうしても想像がつかず困っている。こんなことなら、生のうちの洲崎・吉原を一度は見ておけばよかったとかこてば、謹厳きんげんなる寺田博士も笑いながら同感を表せられた。
 日本堤署において聞いたことは、今戸いまど橋たもとにおける当番巡査が一日午後四時ごろ、橋の上にたどりついた老婦人を介抱していると、旋風がにわかに襲来してきた。しかしてその風の勢いによって、橋手前に停車しておった電車を動かしはじめた勢いにおどろいて、老婦人を助けながら付近の二階建ての家の路地に逃げ込むと同時に、この家が旋風のためにつぶされて二人はその下敷きになった。しかし、さいわいに路地ろじがせまかったために、破壊物が反対側の家屋にささえられて脱出することを得て、さらに逃げ出した。あとで気づいたことであるが、下敷きになった時こわした腕時計が、ちょうど四時のところで止まっていた。なお翌日そのあたりを見まわすと、前日動き出した電車の焼失した残骸は、四十間〔約七二メートル〕も先の方に見い出されたとのことである。旋風はこの時にかぎらず、地方じかた橋場はしばなどにおいてもおこったようであるが、この今戸いまどを襲ったものは、おそらくは被服廠をおそったものに次ぐほどのえらいものであったらしい。(これら旋風の連絡はあとにある)
 両三日前から心づいておったことであるが、いよいよ東京市街の各地点におけるれ方の比較研究をなさんがために、余震の同時観測をおこなうことを決心して器械の準備に取りかかった。この考えは、今すこしく早くおこすべきものであったのであるが、これも愚者の知恵である。大森先生ならばもっと早く気づかれておったであろうになどと考えた。

十月七日

 中村〔中村清二〕・寺田諸博士と坂本署に行き、つぎに象潟きさかた署に行った。この日、ことに有益に感じたことは、坂本警察署長の火災防止に対する努力であった。実際、今度の火災に対して消防に努力して成功した場合はほかにもあることであろうが、自分がことに感心したのは、水利まったく欠乏し、消防も兵隊もさじを投げた火勢に対し、署長はごうもこれに屈せず、署員を指揮し縄やはしごをもって引きたおし消防を試み、ついには通りすがりの男子を強制して、引きたおし作業の縄に取りつかしめ、多くの失望的怨嗟えんさにも屈せず、ついにあの猛火を阻止して根岸・日暮里・金杉かなすぎ一郭いっかくを安全に保護し得たことであった。

十月八日

 午後、警視庁の建築課をい、市内焼残部の家屋被害状況に関する精細なる取り調べ書を見せてもらい、なお、消失区域とつぶれ・半壊家屋の区域図写しをもらって帰る。市政調査会に渡辺法学博士を訪い、大阪行きの打ち合わせをなし、後藤子爵にも面会し、震災予防調査会調査の概況を述べておいた。またビアード博士にも面会した。

十月九日

 大阪へ向かって出発。渡辺博士ならびにその令兄れいけいたる鈴木氏と同行した。車中、横浜に在留したという一仏人(フランス人)と話し相手になったが、この人は横浜に十七歳を頭に、娘三人をなくしたとのことを聞き、まことに気の毒にたえなかった。車中、平塚前までは前にも視察したところであったが、それから先は震災後、今度がはじめてである。平塚・二ノ宮二宮町にのみやまちか〕・大磯・国府津こうづなどの模様は新聞紙上にもよく伝えられているので、べつだん違った観察もないが、二ノ宮と国府津こうづとの間にある梅沢うめざわは、湘南の鉄道沿線においてもっとも震度の軽い位置でなければならぬ。これは元禄十六年(一七〇三)の大地震の時にもそのとおりであったのであるが(甘露叢かんろそう』といえる元禄地震記に、東海道筋は川崎の駅より、箱根の駅までつぶれ家あり、わけて戸塚より小田原までは残らず破損したり、間々あいだあいだ小宿こじゅくも同じくつぶれる、ただし小田原と大磯とのあいだ梅沢の宿は一軒もたおれず、人みなあやしめり、とある)、将来、地震嫌いの人が別荘でも建てるには、さしあたりもってこいの場所であろう。それはこの区域だけが、東海道線中において第三紀層の比較的固い地山じやまの上に立っている唯一の場所であることにもとづくのであろう。
 下曽我しもそがの駅がひどくいためられ、ことに停車場ならびにこれに接続せる町家の地盤が、もともと田畑の上に盛り立てられたものであったろうが、それが一時に以前の田畑の位置にまでえ、り下げられたらしい観がある。
 鉄道沿線においてことに悲哀を感ずるのは、相模紡績工場・富士紡績工場などの無惨むざんなる倒壊状況である。御殿場よりは被害の状況しだいに薄らぎ、沼津にいたってはじめて地震区域の外に出たような気持ちがした。

十月十日

 朝八時大阪着、大阪ホテルにて日程の打ち合わせをなし、昼までの小閑しょうかんを得たから、震災調査用の写真材料を仕入れに行き、ついでに心斎しんさい橋わきにおける親しき家を見舞った。聴けばこのごろ大阪は、今にも大地震がおこりそうな騒ぎで、寝るにも貴重品をまとめて枕もとに置き、イザとなったらどの道を通ってどこに避難しようとの計画までできているそうな。また、警察や消防署では、大地震の場合の予行演習までやったくらいであるとのことであった。
 午後の日程は、第一に府の当局、ことに警察・消防の諸官を主として講演をし、第二には市の当局参事会員らに向かって、第三には実業同志会の会合の席において、第四には市公会堂における公開の席上において講演を試みた。いずれに対しても共通なる事項は、大地震に対する大阪の宿命を論じ、これに処するの方法を述べたのであったが、ただし、一つ一つについては多少のちがいもあったのである。すなわち第一に対しては、地震にともなう発火に対する防備ということを説き、第二、第三に対しては、大地震予知問題に関する特別研究所設置のことを話し、第四に対しては地震にともなう火災に対する市民の訓練をうながしたのであった。今、にこれを略説してみよう。
〔省略、講演「大地震に関する大阪の宿命について」の内容など〕
 講演終わってただちに停車場へおもむき、東上の途についたが、京都まで行くと昨日来の暴風雨のために、東海道線は不通となったとのこと。しかし、とにかく名古屋まで行ってみることにした。

十月十一日

 名古屋へ着いてみると、東京行きの者は中央線へ乗り換えよとのこと、命のまま乗り移って夜明けを待ち、発車して塩尻へ着くと、中央線も不通となったからさらに篠ノ井しののいへまわってみると、今晩じゅうに東京着の汽車はないことがわかった。そこで長野市へまわり、測候所にて調査上の用をたし、本間知事〔本間利雄か〕をたずねて久闊きゅうかつじょし、彼の震源地に関する素人しろうと判断と東京救助に関する機敏なる処置とを聞かされた。夜をかして雑踏せる夜行汽車に乗り、翌払暁ふつぎょうようやく着京した。

十月十二日

 東京市街地の各地点における地動を比較せんとの目的にて、余震の同時観測をおこなわんとの意味を前に述べておいたが、大阪へむけ出発の日、すなわち九日においては、第一の地震計を越中島航空研究所にすえつけ、第二の機械を浅草の象潟きさかた警察署にすえつけた。以上はいずれも出発前に準備しておいたことであったが、留守中によく整頓せいとんせられてあった。なおつぎの候補地を物色するため、警視庁などをまわってきた。

十月十三日

 めしにより東宮職に出頭、珍田ちんだ大夫〔珍田捨巳すてみか〕に面会し、ご進講に関する種々の注意を受けた。

十月十四日

 昨日、田丸田丸たまる卓郎たくろうか〕・寺田博士らと鎌倉から小田原へ行く約束をしてあった。それは地震動の加速度を推測計算する新しき工夫を試みんとの目的にて、田丸・寺田両博士が主としてこれらの震災地をゆっくりと視察して見んとのことであったから、自分も後学こうがくのため陪従ばいじゅうを約束したのであった。ところが驚くことなかれ、今日は帝国学士院の講演日であったことを、帝国学士院の講演を引きうけておきながら、うっかりとこれを忘れていたのであった。その間際まぎわに家人に注意せられて、かろうじて大失策をまぬがれたのである。
 この日は学士院も、出席者平常よりもすこぶる多いとのことを聞かされたが、一世の碩学せきがく大儒たいじゅの前において、自分のごとき未熟の者が講演するのは光栄のしだいであった。午前に二時間、午後一時間半は、大調査でなくて大講演であった。

十月十五日

 赤坂離宮において午前十時より十一時半にいたる正味一時間半のご進講を申し上げた。はじめに地震の原因・地震帯・地震波の性質・震源の定め方などに関する一般のことを申し上げ、今回の大地震の例を引き、東京市街地における震力・激震区域・各地における震力・津波つなみの現象などを述べ、最後に今回の火災に言及し、大地震に対する一般市民の訓練としては、地震をよく理解し、進んで発火の原因を防止することを努力することにあるべきことなどを付け加えて申し上げた。殿下は最後に、今日は有益な講話を聞かせてくれて満足に思うとの優渥ゆうあくなるご沙汰さたたまわった。まことに感激にえないしだいであり、ことに室外においてご奉送ほうそう申し上げている際、ふたたび振り向いて挙手を賜わったことは、したわしくもまたなみだぐましいほどにもありがたく、もったいなく思ったしだいである。

十月十六日

 本職たる陸軍士官学校の用向きのために、まとまった調査はできなかった。

十月十七日

 越中島航空試験所におもむき、これまで室内にて観測しておった地震計を室外へ移した。これは家屋が相当によくできているので、屋内の震動は天然地盤の震動よりも、いくらか軽からんとの懸念からである。そこで、庭内において人工を加えない天然の地盤に、二尺五寸〔約七五センチメートル〕ほどのくいを打ち込み、この上に地震計をすえつけ、さらにその上を雨露をしのぐだけのおおいをかぶせたまでである。もちろん空気の動揺などがあまり障害にならぬよう、二重の被覆おおいにしてある。

十月十八日

 帝大工学部教職員のために、地震の講話をした。種々有益な質問あり、このさい深川大島町において、地中にきわめて深く埋没せる鉄管が、五寸〔約一五センチメートル〕け上がりながら安全であって、かえってその他のものが損害のあった不思議な現象をも聞かされたのであった。

十月十九日

 交詢こうじゅん〔福沢諭吉が提唱し結成した社交クラブ。『日本紳士録』の発刊で有名〕にて講演した。九月下旬ごろは、雑誌の原稿取りにいじめられたが、この頃からだんだんと講演ぜめにあい、調査をさまたげられることおびただしい。

十月二十日

 象潟きさかた観測所を閉じ、器械を新吉原しんよしわら焼け跡に移し、航空研究所における器械を深川小松町(永代橋えいたいばし付近)に移した。前二か所の地震観測により、本郷にくらべてそれらの土地が、いかなるしだいによって強く、大きくゆれるかの意味が、やや了解されたように思われる。たとえば一秒に二、三回ほどの震動は大きさにおいて著しき差違を認めないが、振動の周期が一秒以上にもなると、これらの弱き地盤はよけいゆれだすこととなる。つまり震幅の増加する率は、振動の周期によって左右せられるように見えることである。
 昼は地下鉄道会社に行って地震の講演をなし、なお、同会社において調査せられた市内の各地点における土地掘削試験の結果をいた。調査、綿密材料豊富であり、非常に有益な参考資料であると思ったから、他日われわれの方にも、その標本を寄贈してもらうようにたのんでおいた。
〔省略、地下鉄道会社における講演内容〕

十月二十一日

 朝、第五高等女学校において講演をした。
 ハワイ火山観測所長ジャッガー博士ら教室を訪ねられた。自分は一行に対して今度の地震の観測結果、ならびにこれに関する意見をできうるかぎり十分に説明し、教室内の観測器械・標本などを観覧に供した。
 ジャッガー婦人は、ことに火山噴出物の標本に興味をひかれたようであった。
 午後六時から秩父宮御殿において、正味二時間ほどの講演を秩父宮・高松宮・閑院宮・梨本宮・山階宮(御三方)賀陽かよう宮・北白川宮・東久邇ひがしくに宮妃、十殿下の御前において申し上げた。あとで各殿下から自由なるご質問(四十分ほどの)があり、なおその後において、秩父宮・高松宮両殿下に対して、一時間ほどのお相手を申し上げた。秩父宮の「地下埋設物に対して、地震の影響はどうなるのであるか」とのご発問にはまったく驚かされた。こういう問題を考える技術者が、今日幾人あるかなどと考え、いつもながらの殿下のご聡明そうめいに感服のほかなかった。そうして自分は、前日、地下鉄道会社において述べたようなことの大要を申し上げたら、ご満足を得たようであった。

十月二十二日

 九時五十分、黒坂助手同伴東京駅発、まず国府津こうづに下車し、地震のために移動したる家屋を探して、その一つを得た。これは石碑をおおえる簡単なる二間四方の構造であるが、北三十度、東の方向に九十一センチメートル移動せるを発見した。
 震動ことに強大で、かつ上下動をともなう場合において、構造のしっかりした簡単なる家は、移動の現象を呈することが往々ある。あるいは一回にそれだけの距離を飛んだように思われることもあるし、あるいは数回にそれだけの移動をおこなったらしく考えられる場合もある。いずれにしても、地震力が最大限に達し、もしくはこれに近い時において、はじめて起こる現象である。たとえば今回の地震のように、ほぼ同一の方向における強き地震動が、強き上下動をともないながらおこるものと仮定するとき、上方動をともなう場合の震動は、地面と家屋間の摩擦まさつを通常の場合よりも大ならしめるから、あえて移動の現象をおこそうとしないけれども、これと反対に強い水平動が強い下方動をともなう場合においては、両者間の摩擦が平常の場合よりも減却するから、したがって家屋がすべりだす。(あるいは飛び出すこともある)そうしてこの種の震動が連続しておこるとき、上方動をともなう場合には移動をおこさないけれども、下方動をともなう場合においてのみ移動をおこし、したがって同じ方向に引き続いて移動がおこることになるのである。かくして移動したる距離が三尺にも四尺にも達することが、大地震のばあい、ことに地震力の最大限に近い時において、経験せられる現象である。
 国府津こうづを切りあげて小田原に行き、まず警察署に行って管内(箱根から真鶴まなづる・吉浜にまでおよぶ)の被害状況を聴取し、のち、閑院かんいん宮ご別邸を拝観した。同ご別邸は小田原城に接したる細長き小丘の上にあり、しかもその小丘がほぼ東西に走っているので、地動の方向に対してれやすき地形であった。御殿の主なる建物は木骨もっこつコンクリートの三階建てで、コンクリートには鉄筋の補強はないらしかった。そのうえ三階の上に八角形の塔が建てられてあった。これがかの地震のためにまったく倒壊して、多くの宮様方が下敷きになられ、姫宮殿下御一方おひとかたがその犠牲になられたとは、まことにおいたましいことであった。この小丘において著しき地割じわれも見い出されたが、ことにこの地震を経験した宮邸の人々の記憶によれば、一番最初の動き方は急に下から突き上げられるような気持ちのものであったそうである。鎌倉・小田原など、通常の意味の初期微動なるものは存在することなくして、かつ第一に強き上方動がおこったことは大地震にともない地盤の広区域にわたれる隆起とあわせ考うべきことであるように感ぜられた。
 この夜、湯本に泊まった。

十月二十三日

 午前七時湯本発、昔の箱根越えの山路をへて(新道ならびに電車道ははなはだしき山くずれのために、ほとんどその影を失う場所があるくらいの崩れ方をした)宮ノ下に出た。温泉はいずれもたいした影響はないようであるが、温泉旅館の損害はたいていがけ崩れまたは山崩れにもとづいているので、地震動はこのあたりにおいては小田原などに比較してはるかに軽かったようである。箱根温泉旅館中、最大の損害を受けたのは底倉そこくら蔦屋つたやであろうとのことであるが、なるほど旅館の両端がすこしばかり残っているだけで、ほとんど全部は地形のがけがくずれたために、全部谷底へくずれ落ちてしまった。自分もたびたび蔦屋には泊まったことがあるが、感慨無量であった。
 宮の下からは自動車をとばし、あしの湯芦之湯あしのゆか〕をへて箱根へついたのは昼前であった。箱根宿は本陣はじめ無惨むざんなつぶれ方であるが、ここに地盤の関係にもよることであろう。落成したばかりの箱根ホテルもひどくくずれていた。
 正午、箱根を出発し、鞍掛くらかけを越えて日金ひがねに出て熱海についたのが四時すぎ、ただちに警察分署に行き管内の被害状況を聴取し、分署長の案内にて津波つなみの調べをなし、また、間欠泉の復活状況を視察し、熱海における大地震の初期微動継続時間なるものを推測してみた。熱海においては、地震そのものの直接の損害はきわめて軽微である。そうして小田原・鎌倉などにおけるごとく、最初の震動は突き上げたる上方動というがごときものでなく、まず東京にてわれわれが感じたような種類の地動であって、大ゆれになるまでの時間、すなわち初期微動の継続時間なるものが、いかに小さく見積もっても五秒間はあったらしく、おそらくは七、八秒であったのであろう。されば熱海から震源までの距離は、十里以上おそらくは十四、五里〔約五六〜六〇キロメートル〕の距離にあったことであろう。
 津波は町の中央部にもっとも著しく、その高さ三丈五尺〔一丈は約三メートル〕もあったろうとのことであるが、かくのごとき場所における波の高さは、被害状況とは直接関係のあることなれども、学術的にはむしろ沖合いにおける浪の高さ(港の奥の場所においては、波が二重の関係によって変形して、高さがしだいに高くなってくる。第一はしだいに浅きところに侵入するため、第二はしだいに狭きところに侵入するためである)が参考資料となる。この高さは直接に測りがたきことであるけれども、港の両翼に突出せる岬角こうかく〔岬のかど〕における浪の高さは、むしろこのあたいに近いであろう。この価は熱海の場合において十尺もあったろうかと考えたが、なお精測を要することであるから、このことの調査を池田理学士にたのんでおいたところ、同理学士はきわめて有益な結果を得られた。すなわち熱海港の両翼をなす岬角こうかくでは、浪の高さ四尺または五尺にすぎなかったとのことである。して見ると、沖合いにおいてはわずかに二尺とか三尺とかいう程度であったのであろう。
 分署長の目撃によれば、第二回の浪がもっとも高かったとのこと。当時、熱海と熱海を三里ほどへだてる初島はつしまとの間を石油発動機船が平気で航海を続けておったことを見て、津波が熱海と初島との間でおこったものとの意見をいだいておられたが、これは津波の波長(波の山と山との間隔)が、幾里というほどの長いものであることを無視されたからの誤解であろうということを自分は説明しておいた。実際、津波なるものは字のとおりに港の浪であって、港だけで著しくなるものであり、三陸の大津波の場合においても一里の沖合いにおいては漁船がこれを知らなかったという話もある。つまり津波なるものは、非常に長い波長の浪があたかも海があふれるごとく押し寄せて、そうして徐々に引き潮になる。シナではこれを海嘯かいしょうとなえる。海嘯かいしょうと書くのはまったくの間違いである。海嘯とはシナ、浙江せっこう省の銭塘江せんとうこうの河口におこるタイダル・ボアー(河水と満潮とがせりあっておこる高潮)にもちゆる言葉である。かく考えてみるとき、日本語の津波つなみはじつによくその実際をうがっている。外国の地震学者もすでにこの名前は承認している。
 ほとんど死滅したと悲願せられておった間欠泉大湯が、今度の震災において復活し、そのうえ青木湯まで新たに間欠性をおびてきたとのことである。大湯は地震後三十分くらいで非常な勢いをもってき出し、周囲の松の木もらしてしまったくらいであるが、その後勢力はいくらかおとろえ、はじめ昼夜二回の噴出をなしたものが、昨今、四回になっているとのことである。昨年、世界第一の間欠泉地帯たる北米イエローストーン国立公園(Yellow stone national park)を見学した自分にとっては、周囲の人工的築山が異様に感ぜられた。イエローストーン公園には、一五〇尺〔約四五メートル〕以上にも噴出する間欠泉の数は六、七個、二、三十尺〔約六〜九メートル〕以上のものは三〇ほどもあり、二マイル〔一マイルは約一・六キロメートル〕ぐらいの川縁かわべりにおいておよそ四、五百もあろうか。これがいちいち自然の形そのままに保護してあり、湧口わきぐちの形あるいは他の条件により、城塞じょうさい間欠泉(Castle Geyser)・蜂巣間欠泉(Beehive Geyser)川縁かわべり間欠泉(Riverside Geyser)などの名があたえられてある。つらつら考うるに、熱海間欠泉は熱海町の物でもなく、むしろわが日本の共有物でなければなるまい。合衆国政府がイエローストーン公園の間欠泉を保護するがごとく、日本政府がこの熱海間欠泉を保護し、俗悪なる築山を廃して天然の風致ふうちをなすようにしたいものと思った。今度の復活は、地震のために通路が開かれたというような関係もあろうが、地盤の隆起あるいは沈降にともなって、地下圧力の増長ということもともなったのではあるまいか。せつに噴出の勢いがおとろえないことを祈っている。

十月二十四日

 早朝よりの雨に、これでは県道筋まったく墜落した真鶴以北の通行はことに困難ならんと察し、これらの山くずれ、ことに根府川ねぶかわ山津波やまつなみは船上より視察することとし、九時に熱海を出帆した。途中、吉浜と真鶴とに寄港したが、このあたり陸地の隆起が水面上にチョークでくまどったようありありと印ぜられてある。根府川の山津波は、なるほど山津波というのが適当である。一里あまりみ手の渓谷から崩壊したる土砂が、まるで夕立ちのため、谷水がにわかに渓谷を電奔でんぽん雷馳らいち〔稲妻がひかり、雷が落ちるさま〕するように、これらの土砂がたにをくだるにしたがい、その量を増しながら急転直下して、地震後わずかに十幾分かのあいだに両岸の人家をめ、余勢海に入って赤黒き土の洲を作っている。これをめば足を没するので、板をしいて渡るようにしてあるとのこと。土砂の走った跡はたにの両岸に印ぜられて、それが走りくだる際の分量をも想像することができる。これでは一村埋没して何物も残さないというのも無理はない。ただ、真鶴線の鉄道橋梁と橋桁はしげたとが取り残されてある。なかば埋没された汽車は、すこしばかり水面上に露出していたそうであるが、先般の暴風雨のためにこれも水面下に没して見えなくなったのだそうである。山津波とはまことにふさわしい名前であることを感じた。
 十時ごろからしだいに天気がなおったから、十一時、小田原に上陸し、緑町あたりの家屋被害を調査した。このあたり二、三尺、大なるは四尺ほど、いずれも北微東の方向に大移動を軒並のきなみやっているのは、これまでの大地震調査においてはじめて経験したことである。午後二時半、小田原出発、帰京の途についた。

十月二十五日

 震災予防調査会、特別委員会がもよおされた。中村左衛門太郎博士に震災後はじめて会った。種々、調査上の打ち合わせをした。井上地質調査所長〔井上禧之助きのすけも見えた。談話の結果、啓発せられるところ少なくなかった。
〔省略、震源と地震の原因に関する考察〕

十月二十六日

 この日は三浦半島調査に出かけるつもりであったが、帝大理学部教授会開催準備のため、足止めを食った。

十月二十七日

 この日は、地震学教室にとって大切な教授会の日であった。そのため外出することもできなかった。
 十月九日以来、市街の各地点における地震観測は、深川・本所方面では、航空研究所・永代橋外・被服廠ひふくしょう側の安田邸などにての観測ができあがり、浅草では象潟きさかた・吉原・橋場はしばなどにての観測ができた。これひとえに余震が予想どおりに発生し、有益なる材料を提供してくれたからである。元禄十六年(一七〇三)の地震において四、五か月の後にいたるまで、ちょっとおどかされるような程度の地震は月に七、八回もおこったのであるが、今度もだいたいそういうような傾向を示しているようである。今年末までには、市内において三十か所くらいの観測をまとめたいものである。

十月二十八日

 深川・浅草などにて得たる地震記象と、本郷において得たるものとを比較して見る。がいして小さき周期(〇・五秒ないし〇・七秒)波動においては、震動の大きさにたいした相違はなく、周期のやや大(たとえば一・三秒ないし二秒あるいは三秒)の波動については地盤の弱き場所の震動が二倍、三倍、もしくはそれ以上にもなるように見える。もし周期がよほど大きくなれば、いずれにおいても同様に動くであろうということは明らかであるから、したがってある基準の場所に対し、他の場所における地の震動の増大率は、地動の周期のある関数であるらしく思われる。しかしておのおのの場所において、増大率が最大となる地動の周期もあるであろう。不確かながら、まず今日までの得たる結果から、そんなようなことを推測してみた。
 昼は茗渓めいけい〔東京高等師範学校、後の東京教育大学の同窓会〕にて講演をさせられ、夜は久邇くに宮邸に伺候しこうした。宮邸では男子の宮様が、大宮殿下・若宮殿下ならびに邦英くにひで王殿下、女儀にょぎの宮様方では妃殿下・良子女王殿下・信子女王殿下・東伏見ひがしふしみ宮・山階やましな宮の各大妃殿下・李王りおう世子せいし賀陽かよう宮各妃殿下・閑院かんいん宮華子女王殿下などご参列で、その御前で地震に関する講演を二時間ほど申し上げた。中にも王世子おうせいし妃殿下の時々のお書き取りと、大宮殿下が『科学知識』震災号をご携帯になっておったこととには恐縮した。

十月二十九日

 この日、震災予防調査会が開かれた。午後二時から九時までかかった。委員調査の状況を報告し、いちいち質問注意などあって、きわめて有益なる会合であった。地変に関しては加藤委員加藤かとう武夫たけおか〕・井上委員の話があり、火災については中村委員〔中村清二か〕の火流の話、寺田委員の旋風の話などすこぶる興味が深かった。地方じかた橋場はしばに現われた旋風と、今戸いまど橋のものと、被服廠をおそうたものとは共に同一のもので、それが川筋を通ってしだいに南下したらしいとのことなどことに興味が深かった。大島委員・片山委員の学校および研究所における危険薬品取扱上の注意報告は、謄写版に付して参照に供せられた。この物はかくのごとき薬品をとりあつかう学校ならびに研究所においてきわめて大切なことであるから、その筋を経由してこれを通達することになった。
 右のほか、鉄道に関して那波委員、建築に関して内藤〔内藤多仲たちゅう・堀越諸委員、電気事業に対して渋沢しぶさわ委員〔渋沢元治もとじか〕、機関工場について竹中委員ら、いずれも有益にして趣味ある報告があり、出席委員の数二十五名、いずれも夜のふけるのも覚えないくらいであったと言い合った。この日自分は、会務と市街各地における地震動比較研究の状況とを報告したのであった。
 あとで都市復興計画に対する参考事項が議了せられ、後日、その筋へ提出せられた。このうち特に自分が加えてもらったのは、「耐震もしくは耐震火たるを要する建築土木工事などは、その場所において将来おこり得べしと推測せらるる地震破壊力の最大限に耐うるよう築造すべきこと」「耐震たるを要する地下埋設工事については、柔軟なる土地の揺りさがり異質の土地の震動不同等に帰因する影響などをもっぱら顧慮すること」などであった。

十月三十日

 日活の好意により、牛込館において震災に関する活動写真を見学した。会する者はわれわれの仲間では、昨日出席された震災予防調査会委員のほとんど全部に、調査に従事せられた嘱託しょくたく学生諸君であった。市中では容易に見ることのできない映画をみて、震災に関する新しき観念が得られたようである。日活の好意を感謝するしだいである。
 午後、海軍省において講話した。

十月三十一日

 大森先生の勲功調査を命ぜられた。博士の調査報告文ならびに論文が和文で一〇三編、欧文で一一一編の多数にのぼっている。これらいずれも金玉の文字であるが、ことに地動計、地震帯、初期微動継続時間と震源距離との関係、余震、同一震源より発する地震記象の相似性、津波、噴火とくに桜島噴火、各種の建築物の震動、舟車しゅうしゃの振動、長短柱状物体の転倒移動あるいは破壊、内外各地方における大地震調査など、ほとんどかぞうるいとまがない。じつに近世の地震学は博士の独力によってできたと言っても過言ではない。博士の海外出張は前後十回、うち六回は地震の国際会議であって、いずれの場合においても会議の幹部となり、外人間に重きをなした。また四回は海外の大地震調査に出張せられたのであって、インドにおいては悪風土と戦い、サンフランシスコにおいては排日漢に頭部をきずつけられ、イタリア、メッシーナにおいては出発の門出かどでに最愛の令夫人を失われ、出発の前夜には盗児に現金名ママをさらわれ、しかも震災地はことに盗賊殺人犯のところである。博士はこれらの困苦をよくしのいで、いずれの場合においても権威ある調査論文を作られた。今日、かくのごとき学界の偉人を要するに最もせつなる時期において、先生の勲功を調査しなければならぬとは、なんたる悲しいことであろう。
 今回の大震火災は大損失をもって終始したことであるから、今ここに、この悲しき調査をもって暫時ざんじ筆をおくこととする。



底本:『手記で読む関東大震災』シリーズ日本の歴史災害 第5巻、古今書院
   2005(平成17)年11月11日 初版第1刷発行
初出:「大地震調査日記(続)『科学知識』科学知識普及会
   1923(大正12)年11月号
入力:しだひろし
校正:
xxxx年xx月xx日作成
青空文庫作成ファイル:
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大地震調査日記(続)

今村明恒

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)此《こ》の

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)北海道|並《ならび》に

[#]:入力者注 主に外字の注記や傍点の位置の指定
(例)大童《おおわらべ》[#「おおわらべ」は底本のまま]
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 大地震後|最早《もはや》二月も経過した。当初の見込みでは調査も大抵かたづき、幾分余暇も出来てしんみりと日記をつけられる積《つもり》であつた。処《ところ》が愚者の知恵は後からで、あれもやっておけばよかった、これも調べなければならなかつたと云《い》う問題が続々と出て来た。大森博士が健在ならばなどゝ思ったことは、一再《いっさい》でなかった。おまけに雑誌の原稿取りに責められ、此《この》頃では講演の要求に苦しめられ、従って仕事は益々繁忙になる。終《つい》に前回の通りのなぐり書きをして責めをふさぐ事にした。(十月三十日記)

十月一日
 此《この》頃は東京市内に於《お》ける焼失区域に於《おい》て、焼失前の家屋被害状況を調査して居る。罹災者に就《つい》て問い合せる事は学生諸君にお願いしておいて、自分は警察署の調査を聞いてまわった。処《ところ》によっては、火災前に於《おい》て機敏に受け持ち巡査をまわらして調べ上げた向もあり、また処《ところ》によっては、火災の早かった為《た》めに調査の出来なかった処《ところ》もあるが、其《その》様な処《ところ》は大抵記憶に訴えてきく事にした。今日は午後|相生《あいおい》、西平野、太平、亀戸の諸警察署を、寺田博士同行歴訪した。その結果、深川の西部は、他に較べて被害が比較的に軽かった事も気付かれた。
 今日の調査に於《おい》て殊《こと》に興味を感じたのは、被服廠《ひふくしょう》にて避難して、幸に助かつた相生《あいおい》署在勤の警部補佐々木俊雄氏|並《ならび》に小濱氏の談であった。尚《な》お夫《それ》等の談話は、西平野署在勤の橋本政之助氏の話によって証拠立てられた。此《これ》等の話を総合すると、あの有名な被服廠《ひふくしょう》をおそった旋風は、一番最初に気付かれた位置は東京高等工業学校前の大川の中であって、時刻は丁度午後四時頃、旋風の大きさは国技館位、高さ百|米《メートル》乃至《ないし》二百|米《メートル》(その上端は斜めに傾いて上層の雲に続いて居るらしいけれども)時針の反対の向にまわり川に浮かんでいる小舟を一間|或《あるい》は二間(一間は六尺、約一・八メートル)の高さにすいあげてははね飛ばし、当時盛んに燃えつゝあった高等工業学校の炎と煙とを巻き込み、間もなくそれが横網河岸《よこあみがし》に上陸して、北の安田邸と南の安田邸との間をかすめ、被服廠《ひふくしょう》の中心から北の方を通り、忽《たちま》ちの間に其処《そこ》に避難して居った群集の荷物に延焼し、同時に避難者の着物にも点火して、一面に煙と炎の浪になり、瞬《またた》くひまにこの一|郭《かく》にて、三万八千十五人の生命を奪ったものであるらしい。
 前にも述べた通りに、旋風のまわる向につきては一尺|或《あるい》は一尺五寸の径の樹木が根こきに薙《な》ぎ倒された向によっても、しか判断されたのであるが、警察官の観察も大抵それに一致している。而《しか》して旋風の風速は、毎秒七八十|米《メートル》にも達したろうか。恐らくは颶《ぐ》風(つむじかぜ、暴風)の最大限にも達したものであらう。前回に述べた通り、相当に重いものが、高い樹の枝に引きかゝっている事によっても爾《し》か首肯《しゅこう》(そうとうなずけること)されるが、相生《あいおい》署長は両安田邸の間に在る署長官舎|並《ならび》に巡査合宿所方面に駆けて行く際、この旋風の一端に当てられ、六七間もはね飛ばされた丈《だけ》は目撃された。遺骸は終《つい》に不明であった。たゞ帯剣が安田邸を超えて、反対な側に於《おい》て見出されたとの事である。幸に被服廠《ひふくしょう》に於《おい》て助った人達は、合計二千人もあろうとの事であるが、それは多くは被服廠《ひふくしょう》の中央から以南に避難して居った人達であった。然《しか》し何れも僅かな水を土にひたしてそれを皮膚に塗りて火気をよけたとか或《あるい》は地面に匍《は》って地に向って呼吸をして、漸《ようや》く助ったと云《い》う人達であった。此《これ》等の人が目撃した話によれば、この火災を渦巻いた旋風に出会った人は、見る間に黒こげとなり、或《あるい》は立上がったかと思うとそのまゝ倒れて、忽《たちま》ち絶息《ぜっそく》をすると云《い》うように見受けた。此後《このあと》の場合は、窒息によったものか、或《あるい》はかゝる際に発生する有毒な瓦斯《がす》(一酸化炭素の如《ごと》き)にでもよるのか、研究すべき問題であるように考えた。
 今一つ書付けておきたいのは、新大橋の交通を無難にした警察官、橋本政之助、古瀬猪三郎両氏の殊勲である。橋本氏は深川方面よりの避難者の携帯せる荷物を危険と看て取り、強いてこれを遺棄《いき》せしめようとしたが、当時同氏は平服であったがために、市民が中々|云《い》う事をきかない。それで橋向の制服警察官を応援に頼んで右の事を励行し、ついで古瀬巡査の応援を得、終《つい》には制し切れずして抜剣《ばっけん》までもなし、荷物を河中へ投げ込んだとの事である。当時避難者の或《あ》る者は、余りに乱暴だと憤慨したそうだけれども、この為《た》めに身軽になり幸に身命を全《まっと》うしたので、震災後|此《これ》等警察官の行動に感謝の念を捧げて居るとの事をきいた。自分はこの事を伝え聞いて居ったがために、特に西平野署に於《おい》て質問をし、此《これ》等の警察官にも面会する事が出来た。
 今日見巡った区域内に於《おい》て、森下町に神明《しんめい》の宮が焼け残って居る。これは御宮の壁を亜鉛《トタン》板で包んである事が主な原因であったろう。こんな場所は処々《ところどころ》に見出されるけれども、自分が特にこの神明《しんめい》宮を拾ったのは、この場所が深川の草分け深川八郎衛門宅地の旧跡である事によるのである。

十月二日
 寺田博士と共に、午前は原庭《はらにわ》署南元町署へ午後は南|千住《せんじゅ》署に往《い》った。何れに於《おい》ても相当な獲物があったが、殊《こと》に南元町署に於《おい》ては、管内焼失前に、各町に亘《わた》る倒壊家屋の調査を機敏に行い居られたには感服した。右の外|原庭《はらにわ》署に於《おい》て聴《き》き得たところは、警察署の所在地付近土地が一尺程も陥没したろうかと云《い》う状況であった。其《その》後寺田博士の隅田川川筋に於《お》ける験潮儀記録の調査に依《よ》り、その事実なるべき事が確かめられた。又深川の東部に於《お》ける一工場に於《おい》て、地下に極めて深く埋設せられた鉄管が、五寸も抜け上り而《しか》もそれが無難であるのに反して、それ以外の築造物は却《かえ》って傷められて居ることの不思議な現象を提示した人もあった。然《しか》しこれは表面の埋立層の震《ゆ》り下りに基き、無難な鉄管は基礎の固き地盤に植えられた結果と見れば不思議でもなく、つまり此《こ》の辺に於《おい》ても、土地が五寸ほども震《ゆ》り据《す》えられたことを意味するのである。本所深川は、今回の地震に於《おい》て予想したよりも震度が軽かったようにおもわれるのは、初め此《これ》等の地方が安政度(安政江戸地震の時)に於《おい》ては、寧《むし》ろ震源に近かりしため、市街地の他の部分に比較して、比較的にひどく震《ゆ》れたのであろうと解釈していたが、成程《なるほど》これも一つの理由には相違なからんも、他の理由は今回は安政度に比較して、此《これ》等の土地が比較的によく固まって居ったからであるとも考えられる。つまり埋立層は、此頃《このごろ》のように動力を使用して水と泥とを吸いあげ、水を放出して泥のみを沈殿せしめるあの方法を取ったならば概《おおむ》ね天然の三角洲と同程度の、固まった地盤が得られるであろうけれども、深川あたりの埋立の如《ごと》く(越中島の如《ごと》きは榊原《さかきばら》越中守の邸《やしき》であって、東京の塵埃《ごみ》捨場であったとのこと)、植物性のものまで含むような、固まっていない人工の埋立地は、地震に際して殊《こと》にひどい震《ゆ》れ方をなすであらうが、然《しかし》ながら時が経つに従い、一方に於《おい》ては、天然の地震のために次第に震《ゆ》り据《す》えられ、他方に於《おい》ては人工的に踏みかためられ押しかためられて、次第々々に丈夫な震《ゆ》れ難い地盤となるものであらう。そうして本所深川の土地は、安政二年度に於《おい》ては埋立後余り多くの大地震を経験せずして、従って地震に対する処女埋立地であったがために、殊《こと》にひどく震《ゆ》れたろうが、但《ただ》し此《この》際に於《おい》ても相当に震《ゆ》り据《す》えられたものであらう。自分は明治二十七年の大地震に際し、本所深川が予想した通りにひどく震《ゆ》れなかったように思われてならなかったが、今になって考えて見ると、これも右の理由に基いて、以前とは違った成績を示したものであろう。そうして今回は更《さら》に五寸|乃至《ないし》一尺も震《ゆ》り据《す》えられたやうであるから、今後は本所深川の土地は、以前よりも幾分|更《さら》に固まったことであろう。本所深川に就《つい》ては、土地が震《ゆ》り下がったがために浸水し易くなり、そのために前途を悲観する向もあるようであるが、浸水に対しては、此《この》度の火災のために生じた焼瓦などを以《もっ》て、地上げをすることによって無難となるべく、従って決して悲観するに及ばないと自分は思っている。尚《なお》後日の調査によって明らかになったのであるが、今回の地震によっても、新らしき埋立地は殊《こと》に成績が悪いようである。田端の北方に在る尾久《おく》の埋立町などの如《ごと》き、深川以上に傷められているところがあり、又東海道に於《おい》て新旧の駅の区別のあるところにては、地質地形など何れも同様な場合に於《おい》ても、新駅|並《ならび》にその付近の町家は旧駅よりもひどい損害を蒙《こうむ》り、殊《こと》に下曽我の駅|並《ならび》にこれに接せる町家の如《ごと》きは、恐らく東海道の駅中に於《おい》ての最大震動を受けたところであるらしく、土地全体が殆《ほと》んどもとの水準に震《ゆ》り下げられている。
[#ここから4字下げ]
くにつかみ千代の巌《いわお》もゆりすえて
動かぬ御代のためしにぞひく
[#ここで字下げ終わり]
 この歌は昔大地震ある度毎に呪文のようにしてこれを唱へ、或《あるい》は地震|除《よけ》として柱にはりつけるなどしたものゝようであり、吾々の先祖が地震の事を世直しと唱えたるなど、何れも禍《わざわい》を転じて福と為《な》すように努力した気分が窺《うかが》われるものであるが、自分は殊《こと》に右の歌の内、震《ゆ》りすえて動かぬと云《い》う句が本文通りにもその意味をなすものであって、此《こ》の点につき更《さら》に趣味を感ずるものである。
 よく土地の震《ゆ》れ方は、地質に依《よ》って相違があると云《い》うことが言われるが、然《しか》し乍《なが》ら地質が同じでも、震《ゆ》れ方に相違があると云《い》う事を唱える人は、あまり多くないようである。兎《と》に角《かく》甲の土地と乙の土地との震《ゆ》れ方の大小強弱の比較は地質に依《よ》る事も勿論《もちろん》であるが、地質だけによってわかるべきものでもない。地質が同じと言っても、表面的に同じ処《ところ》が地下に於《おい》ては相違して居る事もあり、或《あるい》は周囲の地形等にも制せられる事であろうし、極端な事を言えば、同じ土地でも固まり方の相違によって、震《ゆ》れ方の相違が起るわけであろうから、つまり甲の場所と乙の場所の震《ゆ》れ方の強弱大小を比較するには、直接に地震観測によるより外には適当な手段が無い様である。自分は今日の調査によって、此《この》点に殊《こと》に注意を深くして来た。
 夕刻地震学教室に帰って見ると、大森先生病気の旨《むね》の電報が来て居った。それは天洋丸船長から大学総長へむけてよこしたもので、先生が病気であるから、横浜まで迎いに来るようにとの意味である。誠に心痛の次第であるが、病状が明記してないので、それを再び問い合せることにした。

十月三日
 寺田博士、池田学士等と同行、王子署に行き王子町を調べた後|尾久《おく》の方へ廻った。王子は東京の郊外に於《おい》て殊《こと》にひどく損害をうけた町であるが、その潰《つぶ》れ家|或《あるい》は半壊家屋を生じた区域を地図に記入して見ると、一つの細長き地域を象《かたど》って居る。それは明かに往古の石神井《しゃくじい》川の河床の跡を示すものであって、しかもこれが印刷抄紙部分工場の頭なしの小川につづくらしくおもわれるのは、面白く感ぜられた。王子に於《おい》ては、大地震の当日|殆《ほと》んど無風と云《い》う位に静かであったが、ただ午後一時頃になって、北東の微風が現われて来た位であったとの事である。つまり東京大震火災の際に於《おい》ては、強風は東京のみに於《おい》て著しかったようである。

十月四日
 理学部長の命により、理学部職員を代表して大森先生出迎えのため横浜まで行った。午前九時になっても天洋丸の影が見えないので、この期間を利用して、黒坂助手と共に横浜の山の手、殊《こと》に根岸方面の調査に行った。競馬場に行く途中震度は重力加速度の二割|乃至《ないし》二割五分もあったらしく思われたが、競馬場付近では稍《やや》軽かったように思われる。畢竟《ひっきょう》横浜の山の手は東京に於《お》ける深川あたりの程度であったろうか。殊《こと》に共同墓地に於《お》ける墓碑の傷み方は、むしろそれ以上ではあるまいかと思われる位であった。山元町辺も震力は二割位であったろうか。但《ただ》し下町に於《おい》ては、その二倍位の震力であったろうということは、前回の観察と変わりが無い。
 昼になつて、塩谷《しおのや》医学士福士医学博士も迎いに来られた。船は丁度三時に岸壁についたので上船面会したが、先生の病気は余り軽からざる模様で、衰弱も甚《はなは》だしく、但《ただ》し意識は明瞭であるように感じた。塩谷《しおのや》医学士の診断に従い、午後四時上陸して自動車に安座の上、徐行して午後八時に大学病院三浦内科に入院された。自分に対して、病院でも直《す》ぐ地震の話をされるので、医者に面会を見合せるようにと注意された。

十月五日
 この日は震災予防調査会の第三回目の委員会であった。出席者も二十名を越えた程の盛況で、研究調査は真剣味を増すばかり、かくてこの日も協議案を議了にするに至らずして散会した。
 夜は島津科学普及館に行き、今回の地震に関する講話を試みた。自分はこの普及館に深い関係があるのであるが、開館当時は生憎《あいにく》海外に居たがため、以前から約束であった講演も、その後実行する機会なくして打ちすぎて居った。そして何か事があったときに、その問題を捉《とら》えて講演するよう約束して置いたが、一向適当なる機会を見出し得なかった。然《しか》るに今回はこの大地震襲来し、而《しか》も普及館は暫時閉鎖されるとの事で、機会としては余りに大き過ぎた。満場|立錐《りっすい》の余地なしとはこの事であろう、遅れて入場した自分は演壇に中々到着することを得ず。漸《ようや》く人波を泳いで行きついたが、声が後ろまで徹《とお》らぬとあって、終《つい》に机の上に乗らざるを得なくなってしまった。

十月六日
 寺田博士と上野署から日本堤署まで行った。震災後、自分は洲崎《すざき》や吉原に通うことは幾回なるを知らずと云《い》う位であるが、焼け跡を見ただけでは、大地震直後、焼失前の此《これ》等の場所の実相につきどうしても想像が付かず困って居る。こんなことなら、生のうちの洲崎《すざき》吉原を一度は見ておけばよかったと喞《かこ》てば(ぶつぶつ言う)、謹厳なる寺田博士も笑いながら同感を表せられた。
 日本堤署に於《おい》てきいた事は、今戸《いまど》橋|袂《たもと》に於《お》ける当番巡査が、一日午後四時頃橋の上に辿《たど》り着いた老婦人を介抱して居ると、旋風が俄《にわか》に襲来してきた。而《しか》してその風の勢によって、橋手前に停車して居つた電車を動かし始めた勢に愕《おどろ》いて、老婦人を助けながら付近の二階建ての家の路地に逃げ込むと同時に、この家が旋風のためにつぶされて、二人はその下敷になった。然《しか》し幸いに路次《ろじ》がせまかったゝめに、破壊物が反対側の家屋にさゝえられて脱出する事を得て、更《さら》に逃げ出した。あとで気づいたことであるが、下敷になった時こわした腕時計が、丁度四時のところで止まって居た。尚《なお》翌日その辺を見回すと、前日動き出した電車の焼失した残骸は四十間も先の方に見出されたとのことである。旋風はこの時に限らず、地方|橋場《はしば》等に於《おい》ても起ったようであるが、この今戸《いまど》を襲ったものは、恐らくは被服廠《ひふくしょう》をおそったものに次ぐ程のえらいものであったらしい。(此《これ》等旋風の連絡はあとにある)
 両三日前から心付いて居ったことであるが、愈々《いよいよ》東京市街の各地点に於《お》ける震《ゆ》れ方の比較研究を為《な》さんがために、余震の同時観測を行うことを決心して、器械の準備に取り掛った。この考えは今少しく早く起すべきものであったのであるが、これも愚者の知恵である。大森先生ならばもっと早く気付かれて居ったであろうになどゝ考えた。

十月七日
 中村、寺田諸博士と坂本署に行き、次に象潟《きさかた》署に行つた。この日|殊《こと》に有益に感じた事は、坂本警察署長の火災防止に対する努力であった。実際今度の火災に対して、消防に努力して成効《せいこう》した場合は、外にもあることであろうが、自分が殊《こと》に感心したのは、水利|全《まった》く欠乏し、消防も兵隊も匙《さじ》を投げた火勢に対し、署長は毫《ごう》も(少しも)これに屈せず、署員を指揮し縄や梯子《はしご》をもって引き倒し消防を試み、遂《つい》には通り縋《すが》りの男子を強制して、引き倒し作業の縄に取り付かしめ、多くの失望的|怨嗟《えんさ》(恨み嘆くこと)にも屈せず、遂《つい》にあの猛火を阻止して根岸日暮里金杉の一|郭《かく》を安全に保護し得たことであった。

十月八日
 午後警視庁の建築課を訪い、市内焼残部の家屋被害状況に関する精細なる取調書を見せて貰《もら》い、尚《な》お消失区域と潰《つぶ》れ・半壊家屋の区域図写しを貰《もら》って帰る。市政調査会に渡邊法学博士を訪い、大阪行の打合せをなし、後藤子爵にも面会し、震災予防調査会調査の概況を述べておいた。またビアード博士にも面会した。

十月九日
 大阪へ向かって出発。渡邊博士|並《ならび》にその令兄たる鈴木氏と同行した。車中横浜に在留したと云《い》う一仏人(フランス人)と話相手になったが、この人は横浜に十七歳を頭に、娘三人をなくしたとのことを聞き、誠に気の毒に堪《た》えなかった。車中平塚前までは前にも視察したところであったが、それから先は震災後今度が初めてである。平塚、二ノ宮、大磯、国府津《こうづ》などの模様は、新聞紙上にもよく伝えられて居るので、別段違った観察も無いが、二ノ宮と国府津《こうづ》との間に在る梅沢は、湘南の鉄道沿線に於《おい》て、最も震度の軽い位置でなければならぬ。これは元禄十六年の大地震の時にもその通りであったのであるが(甘露叢《かんろそう》と云《い》える元禄地震記に、東海道筋は川崎の駅より、箱根の駅まで潰《つぶ》れ家あり、わけて戸塚より小田原までは、残らず破損したり、間々《あいだあいだ》の小宿《こじゅく》も同じく潰《つぶれ》る、たゞし小田原と大磯との間梅沢の宿は一軒も倒れず、人皆怪しめり。とある)、将来地震嫌の人が別荘でも建てるには、差し当り持って来いの場所であろう。それはこの区域|丈《だけ》が、東海道線中に於《おい》て第三紀層の比較的固い地山の上に立って居る唯一の場所であることに基くのであろう。
 下曽我の駅がひどく損《いた》められ、殊《こと》に停車場|並《ならび》にこれに接続せる町家の地盤が、もともと田畑の上に盛立てられたものであったろうが、それが一時に以前の田畑の位置にまで、震《ゆ》り据《す》え震《ゆ》り下げられたらしい観がある。
 鉄道沿線に於《おい》て殊《こと》に悲哀を感ずるのは、相模紡績工場、富士紡績工場等の無惨なる倒壊状況である。御殿場よりは被害の状況次第に薄らぎ、沼津に至って初めて地震区域の外に出たような気持ちがした。

十月十日
 朝八時大阪着、大阪ホテルにて日程の打合せをなし、昼|迄《まで》の小閑(すこしのひま)を得たから、震災調査用の写真材料を仕入れに行き、序《ついで》に心斎《しんさい》橋脇に於《お》ける親しき家を見舞った。聴《き》けばこの頃大阪は、今にも大地震が起りそうな騒ぎで、寝るにも貴重品をまとめて枕元に置き、イザとなったらどの道を通って何処《どこ》に避難しようとの計画まで出来て居るそうな。また、警察や消防署では、大地震の場合の予行演習|迄《まで》やった位であるとのことであった。
 午後の日程は第一に府の当局|殊《こと》に警察、消防の諸官を主として講演をし、第二には市の当局参事会員等に向って、第三には実業同志会の会合の席に於《おい》て、第四には市公会堂に於《お》ける公開の席上に於《おい》て講演を試みた。何れに対しても、共通なる事項は、大地震に対する大阪の宿命を論じ、これに処するの方法を述べたのであったが、但《ただ》し一つ一つについては、多少の違いもあったのである。即《すなわ》ち第一に対しては、地震に伴う発火に対する防備ということを説き、第二、第三に対しては、大地震予知問題に関する特別研究所設置のことを話し、第四に対しては地震に伴う火災に対する市民の訓練を促《うな》がしたのであった。今|左《さ》にこれを略説して見よう。
 (省略、講演「大地震に関する大阪の宿命に就《つ》いて」の内容等)
 講演終って直《ただ》ちに停車場へ趨《おもむ》き、東上の途に就《つ》いたが、京都まで行くと昨日来の暴風雨のために、東海道線は不通となったとの事、然《しか》し兎《と》に角《かく》名古屋まで行って見る事にした。

十月十一日
 名古屋へ着いて見ると、東京行きの者は中央線へ乗り換えよとのこと、命のまゝ乗り移って夜明けを待ち、発車して塩尻へ着くと、中央線も不通となったから更《さら》に篠ノ井へまわって見ると、今晩中に東京着の汽車は無い事がわかった。そこで長野市へまわり、測候所にて調査上の用を足し、本間知事を尋ねて久濶《きゅうかつ》(御無沙汰していること)を叙《じょ》し、彼の震源地に関する素人判断と東京救助に関する機敏なる処置とを聞かされた。夜を更《ふ》かして雑沓せる夜行汽車に乗り、翌|払暁《ふつぎょう》漸《ようや》く着京した。

十月十二日
 東京市街地の各地点に於《お》ける地動を比較せんとの目的にて、余震の同時観測を行わんとの意味を前に述べて置いたが、大阪へむけ出発の日|即《すなわ》ち九日に於《おい》ては、第一の地震計を越中島航空研究所に据《すえ》つけ、第二の機械を浅草の象潟《きさかた》警察署に据《す》えつけた。以上は何れも出発前に準備しておいた事であったが、留守中によく整頓せられてあった。尚《な》お次の候補地を物色するため、警視庁などを廻って来た。

十月十三日
 召《めし》(呼び出し)により東宮職に出頭、珍田《ちんだ》大夫に面会し御進講に関する種々の注意を受けた。

十月十四日
 昨日田丸、寺田博士等と鎌倉から小田原へ行く約束をしてあった。それは地震動の加速度を推測計算する新しき工夫を試みんとの目的にて、田丸、寺田両博士が、主として此《これ》等の震災地をゆっくりと視察して見んとの事であったから、自分も後学《こうがく》の為《た》め陪従《ばいじゅう》(ともをすること)を約束したのであった。処《ところ》が驚く事|勿《なか》れ、今日は帝国学士院の講演日であった事を、帝国学士院の講演を引きうけておき乍《なが》ら、うっかりとこれを忘れて居たのであった。その間際に家人に注意せられて、辛うじて大失策を免れたのである。
 此《この》日は学士院も、出席者平常よりも頗《すこぶ》る多いとの事を聞かされたが、一世の碩学《せきがく》大儒《たいじゅ》(大学者)の前に於《おい》て、自分の如《ごと》き未熟の者が講演するのは光栄の次第であった。午前に二時間、午後一時間半は、大調査でなくて大講演であった。

十月十五日
 赤坂離宮に於《おい》て午前十時より十一時半に至る正味一時間半の御進講を申上げた。初めに地震の原因、地震帯、地震波の性質、震源の定め方等に関する一般の事を申上げ、今回の大地震の例を引き、東京市街地に於《お》ける震力、激震区域、各地に於《お》ける震力、津浪《つなみ》の現象などを述べ、最後に今回の火災に言及し、大地震に対する一般市民の訓練としては、地震をよく理解し、進んで発火の原因を防止することを努力する事に在るべき事などを付加えて申上げた。殿下は最後に、今日は有益な講話を聞かせて呉《く》れて満足に思うとの優渥《ゆうあく》(丁寧で手厚いこと)なる御|沙汰《さた》を賜った。誠に感激に堪《た》えない次第であり、殊《こと》に室外に於《おい》て御奉送申上げて居る際、再び振り向いて挙手を賜わった事は、慕わしくもまた涙ぐましい程にも有難く勿体《もったい》なく思った次第である。

十月十六日
 本職たる陸軍士官学校の用向きのために、まとまった調査はできなかった。

十月十七日
 越中島航空試験所に趨《おもむ》き、これまで室内にて観測して居った地震計を室外へ移した。これは家屋が相当によく出来て居るので、屋内の震動は天然地盤の震動よりも、いくらか軽からんとの懸念からである。そこで、庭内に於《おい》て人工を加えない天然の地盤に、二尺五寸程の杭を打ち込み、この上に地震計を据《す》えつけ、更《さら》にその上を雨露を凌《しの》ぐだけの覆《おおい》を被《かぶ》せたまでゞある。勿論《もちろん》空気の動揺などが余り障害にならぬよう、二重の被覆《おおい》にしてある。

十月十八日
 帝大工学部教職員のために、地震の講話をした。種々有益な質問あり、この際深川大島町に於《おい》て、地中に極めて深く埋没せる鉄管が、五寸も抜け上がりながら安全であって、却《かえ》ってその他のものが損害のあった不思議な現象をもきかされたのであった。

十月十九日
 交詢《こうじゅん》社(福澤諭吉が提唱し結成した社交クラブ、日本紳士録の発刊で有名)にて講演した。九月下旬頃は、雑誌の原稿取りにいじめられたが、此《この》頃から段々と講演|責《ぜめ》に遭い、調査をさまたげられること夥《おびただ》しい。

十月二十日
 象潟《きさかた》観測所を閉じ、器械を新吉原焼跡に移し航空研究所に於《お》ける器械を深川小松町(永代橋付近)に移した。前二ヶ所の地震観測により、本郷に比べて其《それ》等の土地が、如何《いか》なる次第によって、強く、大きく揺れるかの意味が、稍《やや》了解されたように思われる。例えば一秒に二三回程の震動は大さに於《おい》て著しき差違を認めないが、振動の周期が一秒以上にもなると、此《これ》等の弱き地盤は余計ゆれ出すこととなる。つまり震幅の増加する率は、振動の周期に依《よ》って左右せられるように見える事である。
 昼は地下鉄道会社に行って地震の講演をなし、尚《なお》同会社に於《おい》て調査せられた市内の各地点に於《お》ける土地掘削試験の結果を聴《き》いた。調査綿密材料豊富であり、非常に有益な参考資料であると思ったから、他日吾々の方にも、その標本を寄贈して貰《もら》うように頼んで置いた。
(省略、地下鉄道会社における講演内容)

十月二十一日
 朝、第五高等女学校に於《おい》て講演をした。
 布哇《ハワイ》火山観測所長ジャッガー博士等教室を訪ねられた。自分は一行に対して今度の地震の観測結果、並《ならび》にこれに関する意見を出来得る限り十分に説明し、教室内の観測器械標本等を観覧に供した。
 ジャッガー婦人は、殊《こと》に火山噴出物の標本に興味を惹《ひ》かれたようであった。
 午後六時から秩父宮御殿に於《おい》て、正味二時間程の講演を秩父宮、高松宮、閑院宮、梨本宮、山階宮(御三方)、賀陽《かよう》宮、北白川宮、東久邇《ひがしくに》宮妃、十殿下の御前に於《おい》て申上げた。後で各殿下から自由なる御質問(四十分程の)があり、尚《な》お其《その》後に於《おい》て、秩父宮、高松宮両殿下に対して、一時間程の御相手を申上げた。秩父宮の『地下埋設物に対して、地震の影響はどうなるのであるか』との御発問には全《まった》く驚かされた。こういう問題を考える技術者が、今日幾人あるかなどゝ考え、いつも乍《なが》らの殿下の御聡明に感服の外なかった。そうして自分は、前日地下鉄道会社に於《おい》て述べたような事の大要を申上げたら、御満足を得たようであつた。

十月二十二日
 九時五十分黒坂助手同伴東京駅発、先ず国府津《こうづ》に下車し、地震のために移動したる家屋を探して、その一つを得た。これは石碑を被《おお》える簡単なる二間四方の構造であるが、北三十度東の方向に九十一|糎《センチ》移動せるを発見した。
 震動|殊《こと》に強大で、且《か》つ上下動を伴う場合に於《おい》て、構造の確《しっ》かりした簡単なる家は、移動の現象を呈する事が往々ある。或《あるい》は一回にそれ丈《だけ》の距離を飛んだように思われる事もあるし、或《あるい》は数回にそれ丈《だけ》の移動を行ったらしく考えられる場合もある。何れにしても、地震力が最大限に達し、若《も》しくはこれに近い時に於《おい》て、始めて起る現象である。例えば、今回の地震のように、略《ほ》ぼ同一の方向に於《お》ける強き地震動が、強き上下動を伴いながら起るものと仮定するとき、上方動を伴う場合の震動は、地面と家屋間の摩擦を、通常の場合よりも大ならしめるから、敢《あえ》て、移動の現象を起そうとしないけれども、これと反対に、強い水平動が強い下方動を伴う場合に於《おい》ては、両者間の摩擦が平常の場合よりも減却するから、従って家屋が辷《すべ》り出す。(或《あるい》は飛び出す事もある)そうしてこの種の震動が連続して起る時、上方動を伴う場合には移動を起さないけれども、下方動を伴う場合に於《おい》てのみ移動を起し従って同じ方向に引き続いて移動が起る事になるのである。かくして移動したる距離が三尺にも四尺にも達する事が、大地震の場合|殊《こと》に地震力の最大限に近い時に於《おい》て、経験せられる現象である。
 国府津《こうづ》を切りあげて小田原に行き、先ず警察署に行って管内(箱根から真鶴、吉浜にまで及ぶ)の被害状況を聴取し、後、閑院《かんいん》宮御別邸を拝観した。同御別邸は小田原城に接したる細長き小丘の上に在り、しかもその小丘がほゞ東西に走って居るので、地動の方向に対して、揺れ易き地形であった。御殿の主なる建物は木骨|混凝土《コンクリート》の三階建てで、混凝土《コンクリート》には鉄筋の補強は無いらしかった。その上三階の上に八角形の塔が建てられてあった。これがかの地震のために全《まった》く倒壊して、多くの宮様方が下敷になられ、姫宮殿下御一方がその犠牲になられたとは、誠に御傷ましい事であった。この小丘に於《おい》て、著しき地割れも見出されたが、殊《こと》にこの地震を経験した宮邸の人々の記憶によれば、一番最初の動き方は急に下から突き上げられるような気持のものであったそうである。鎌倉小田原など、通常の意味の初期微動なるものは存在すること無くして、且《か》つ第一に強き上方動が起った事は大地震に伴い地盤の広区域に亘《わた》れる隆起と併《あわ》せ考うべき事であるように感ぜられた。
 この夜湯本に泊った。

十月二十三日
 午前七時湯本発、昔の箱根越えの山路を経て(新道|並《なら》びに電車道は甚《はなは》だしき山崩れのために、殆《ほと》んどその影を失う場所が有る位の崩れ方をした)宮ノ下に出た。温泉は何れも大した影響はないようであるが、温泉旅館の損害は、大抵崖崩れ又は山崩れに基いて居るので、地震動は此《こ》の辺に於《おい》ては小田原などに比較して、遥《はる》かに軽かったようである。箱根温泉旅館中最大の損害を受けたのは、底倉《そこくら》の蔦屋《つたや》であろうとの事であるが、成る程旅館の両端が少し許《ばか》り、残って居る丈《だけ》で、殆《ほと》んど全部は地形の崖が崩れたために、全部谷底へ崩れ落ちてしまった。自分も度々|蔦屋《つたや》には泊った事があるが、感慨無量であった。
 宮の下からは自動車を飛ばし、葦《あし》の湯を経て箱根へ着いたのは昼前であった。箱根宿は本陣初め無惨な潰《つぶ》れ方であるが、此処《ここ》に地盤の関係にも依《よ》る事であろう。落成した許《ばか》りの箱根ホテルもひどく崩れていた。
 正午箱根を出発し、鞍掛《くらかけ》を越えて日金《ひがね》に出て熱海に着いたのが四時過ぎ、直《ただ》ちに警察分署に行き管内の被害状況を聴取し、分署長の案内にて津浪《つなみ》の調をなし、また、間欠泉の復活状況を視察し、熱海に於《お》ける大地震の初期微動継続時間なるものを推測して見た。熱海に於《おい》ては、地震そのものゝ直接の損害は極めて軽微である。そうして小田原、鎌倉等に於《お》ける如《ごと》く、最初の震動は突き上げたる上方動と言うが如《ごと》きものでなく、先ず東京にて吾々が感じたような種類の地動であって、大揺れになるまでの時間、即《すなわ》ち初期微動の継続時間なるものが、いかに小さく見積っても、五秒間はあったらしく、恐らくは七八秒であったのであろう。されば熱海から震源までの距離は、十里以上恐らくは十四五里の距離に在った事であろう。
 津浪《つなみ》は町の中央部に最も著しく、その高さ三丈五尺(一丈は約三メートル)もあったろうとのことであるが、斯《かく》の如《ごと》き場所に於《おけ》る波の高さは、被害状況とは直接関係のあることなれども、学術的には寧《むし》ろ沖合いに於《おけ》る浪の高さ(港の奥の場所に於《おい》ては、波が二重の関係に依《よ》って変形して、高さが次第に高くなって来る。第一は次第に浅き所に侵入するため、第二は次第に狭き所に侵入するためである)が、参考資料となる。この高さは直接に測り難き事であるけれども、港の両翼に突出せる岬角《こうかく》(岬のかど)に於《お》ける浪の高さは、寧《むし》ろこの価に近いであろう。この価は熱海の場合に於《おい》て十尺もあったろうかと考えたが、尚《な》お精測を要する事であるからこの事の調査を池田理学士に頼んで置いた処《ところ》、同理学士は極めて有益な結果を得られた。即《すなわ》ち熱海港の両翼をなす岬角《こうかく》では浪の高さ四尺又は五尺に過ぎなかったとのことである、して見ると沖合に於《おい》ては僅かに二尺とか三尺とかいう程度であったのであろう。
 分署長の目撃に拠《よ》れば、第二回の浪が最も高かったとのこと。当時熱海と熱海を三里程隔てる初島との間を石油発動機船が平気で航海を続けて居った事を見て、津浪《つなみ》が熱海と初島との間で起ったものとの意見を懐《いだ》いて居られたが、これは津浪《つなみ》の波長(波の山と山との間隔)が、幾里と云《い》ふ程の長いものであることを無視されたからの誤解であろうという事を、自分は説明して置いた。実際|津浪《つなみ》なるものは字の通りに港の浪であって、港|丈《だけ》で著しくなるものであり三陸の大|津浪《つなみ》の場合に於《おい》ても一里の沖合に於《おい》ては漁船がこれを知らなかったという話もある。つまり津浪《つなみ》なるものは、非常に長い波長の浪が恰《あた》かも海が溢《あふ》れる如《ごと》く押し寄せて、そうして徐々に引き潮になる。支那ではこれを海嘯《かいしょう》と唱える。海嘯《かいしょう》とかくのは全《まった》くの間違である。海嘯《かいしょう》とは支那|浙〓江《せっこう》省の銭塘《せんとう》江の河口に起るタイダルボアー(河水と満潮とがせり合って起る高潮)に用ゆる言葉である。かく考えて見るとき、日本語の津浪《つなみ》は実によくその実際をうがって居る。外国の地震学者も己《すで》[#「己」は底本のまま]にこの名前は承認して居る。
 殆《ほと》んど死滅したと悲願せられて居った間欠泉大湯が、今度の震災に於《おい》て復活し、其《その》上青木湯まで新たに間欠性を帯びて来たとの事である。大湯は地震後、三十分位で非常な勢いを以《もっ》て噴き出し、周囲の松の木も枯らしてしまった位であるが、その後勢力はいくらか衰え、初め昼夜二回の噴出をなしたものが、昨今四回になって居るとの事である。昨年世界第一の間欠泉地帯たる北米|黄石《イエローストーン》国立公園(Yellow stone national park)を見学した自分に取っては、周囲の人工的築山が異様に感ぜられた。黄石《イエローストーン》公園には、百五十尺以上にも噴出する間欠泉の数は六七個、二三十尺以上のものは三十程もあり、二|哩《マイル》(一マイルは約一・六キロメートル)位の川縁に於《おい》て凡《およ》そ四五百もあらうか、これが一々自然の形そのまゝに保護してあり、湧口の形|或《あるい》は他の条件により、城塞《じょうさい》間欠泉(Castle Geyser)蜂巣間欠泉(Beehive Geyser)川縁間欠泉(Riverside Geyser)などの名が与えられてある。熟々《つらつら》考うるに、熱海間欠泉は熱海町の物でもなく、寧《むし》ろ我日本の共有物でなければなるまい。合衆国政府が黄石《イエローストーン》公園の間欠泉を保護するが如《ごと》く、日本政府がこの熱海間欠泉を保護し、俗悪なる築山を廃して天然の風致を作《な》すようにしたいものと思った。今度の復活は、地震のために通路が開かれたというような関係もあろうが、地盤の隆起|或《あるい》は沈降に伴って、地下圧力の増長ということも伴ったのではあるまいか。切に噴出の勢いが衰えない事を祈って居る。

十月二十四日
 早朝よりの雨に、これでは県道筋|全《まった》く墜落した真鶴以北の通行は殊《こと》に困難ならんと察し、此《これ》等の山崩れ、殊《こと》に根府《ねぶ》川の山|津浪《つなみ》は船上より視察することゝし、九時に熱海を出帆した。途中吉浜と真鶴とに寄港したが、此《この》辺陸地の隆起が水面上に白墨で隈《くま》取ったよう明々《ありあり》と印ぜられてある。根府《ねぶ》川の山|津浪《つなみ》は、なる程山|津浪《つなみ》というのが適当である。一里余り上《か》み手の渓谷から崩壊したる土砂が、まるで夕立のため、谷水が俄《にわ》かに渓谷を電奔《でんぽん》雷馳《らいち》(稲妻がひかり、雷が落ちる様)するように、此《これ》等の土砂が渓《たに》を下るに従い、その量を増しながら急転直下して、地震後僅かに十幾分かの間に、両岸の人家を埋め、余勢海に入って赤黒き土の洲を作って居る。これを踏めば足を没するので、板を敷いて渡るようにしてあるとの事。土砂の走った跡は渓《たに》の両岸に印ぜられて、それが走り下る際の分量をも想像することが出来る。これでは一村埋没して何物も残さないといふのも無理はない。たゞ真鶴線の鉄道橋梁と、橋桁《はしげた》とが取り残されてある。半ば埋没された汽車は、少し許《ばか》り水面上に露出していたそうであるが、先般の暴風雨のために、これも水面下に没して見えなくなったのだそうである。山|津浪《つなみ》とは誠にふさわしい名前である事を感じた。
 十時頃から次第に天気が直ったから、十一時小田原に上陸し、緑町辺の家屋被害を調査した。此《この》辺二三尺、大なるは四尺程、何れも北微東の方向に大移動を軒並みやって居るのは、これ迄《まで》の大地震調査に於《おい》て、始めて経験したことである。午後二時半小田原出発、帰京の途に就《つ》いた。

十月二十五日
 震災予防調査会特別委員会が催された。中村左衛門太郎博士に震災後始めて会った。種々調査上の打合せをした。井上地質調査所長も見えた。談話の結果啓発せられる所少くなかった。
 (省略、震源と地震の原因に関する考察)

十月二十六日
 この日は三浦半島調査に出掛けるつもりであったが、帝大理学部教授会開催準備のため、足止めを食った。

十月二十七日
 この日は地震学教室に取って大切な教授会の日であった。そのため外出する事も出来なかった。
 十月九日以来、市街の各地点に於《お》ける地震観測は、深川本所方面では、航空研究所、永代橋外、被服廠《ひふくしょう》側の安田邸などにての観測が出来上り、浅草では象潟《きさかた》・吉原・橋場《はしば》などにての観測が出来た。これ偏《ひとえ》に余震が予想通りに発生し、有益なる材料を提供してくれたからである。元禄十六年の地震に於《おい》て、四五ヶ月の後に至るまで、一寸《ちょっと》おどかされるような程度の地震は、月に七八回も起ったのであるが、今度も大体そういうような傾向を示して居るようである。今年末までには市内に於《おい》て三十ヶ所位の観測をまとめたいものである。

十月二十八日
 深川浅草等にて得たる地震記象と、本郷に於《おい》て得たるものとを比較して見る。概して小さき周期(〇・五秒|乃至《ないし》〇・七秒)波動に於《おい》ては、震動の大さに大した相違は無く、周期の稍《やや》大(例えば一・三秒|乃至《ないし》二秒|或《あるい》は三秒)の波動に就《つい》ては地盤の弱き場所の震動が、二倍三倍|若《も》しくはそれ以上にもなるように見える。もし周期が余程大きくなれば、何れに於《おい》ても同様に動くであろうという事は明かであるから、従ってある基準の場所に対し、他の場所に於《お》ける地の震動の増大率は、地動の周期の或《ある》関数であるらしく思われる。而《しか》して各々の場所に於《おい》て、増大率が最大となる地動の周期もあるであろう。不確かながら、先ず今日|迄《まで》の得たる結果から、そんなような事を推測して見た。
 昼は茗渓《めいけい》会(東京高等師範学校、後の東京教育大学の同窓会)にて講演をさせられ、夜は久邇《くに》宮邸に伺候した。宮邸では男子の宮様が、大宮殿下若宮殿下|並《ならび》に邦英《くにひで》王殿下、女儀《にょぎ》の宮様方では妃殿下、良子女王殿下、信子女王殿下、東伏見《ひがしふしみ》宮、山階《やましな》宮の各大妃殿下、李王《りおう》世子《せいし》、賀陽《かよう》宮各妃殿下、閑院《かんいん》宮華子女王殿下など御参列で、その御前で地震に関する講演を二時間程申上げた。中にも王世子《おうせいし》妃殿下の時々の御書取と、大宮殿下が「科学知識」震災号を御携帯になって居った事とには恐縮した。

十月二十九日
 この日震災予防調査会が開かれた。午後二時から九時|迄《まで》かゝった。委員調査の状況を報告し、一々質問注意などあって、極めて有益なる会合であった。地変に関しては加藤委員井上委員の話があり、火災に就《つい》ては中村委員の火流の話、寺田委員の旋風の話など頗《すこぶ》る興味が深かった。地方|橋場《はしば》に現われた旋風と、今戸《いまど》橋のものと、被服廠《ひふくしょう》を襲うたものとは共に同一のもので、それが川筋を通って次第に南下したらしいとの事|抔《など》殊《こと》に興味が深かった。大島委員片山委員の学校及び研究所に於《お》ける危険薬品取扱上の注意報告は、謄写版に付して参照に供せられた。此《この》物は斯《かく》の如《ごと》き薬品を取扱う学校|並《なら》びに研究所に於《おい》て、極めて大切な事であるから、其《その》筋を経由してこれを通達する事になった。
 右の外、鉄道に関して那波委員、建築に関して内藤、堀越諸委員、電気事業に対して澁澤《しぶさわ》委員、機関工場に就《つい》て竹中委員等、何れも有益にして趣味ある報告があり、出席委員の数二十五名、何れも夜の更《ふ》けるのも覚えない位であったと言い合った。此《この》日自分は、会務と市街各地に於《お》ける地震動比較研究の状況とを報告したのであった。
 後で都市復興計画に対する参考事項が議了せられ、後日|其《その》筋へ提出せられた。此中《このうち》特に自分が加えて貰《もら》ったのは「耐震|若《も》しくは耐震火たるを要する建築土木工事等は、其場処《そのばしょ》に於《おい》て将来起り得べしと推測せらるゝ地震破壊力の最大限に耐うる様築造すべきこと」「耐震たるを要する地下埋設工事に就《つ》いては、柔軟なる土地の揺り下り異質の土地の震動不同等に帰因する影響等を専《もっぱ》ら顧慮すること」などであった。

十月三十日
 日活の好意により、牛込館に於《おい》て震災に関する活動写真を見学した。会する者は吾々の仲間では、昨日出席された震災予防調査会委員の殆《ほと》んど全部に、調査に従事せられた嘱託学生諸君であった。市中では容易に見る事の出来ない映画を観て、震災に関する新らしき観念が得られたようである。日活の好意を感謝する次第である。
 午後海軍省に於《おい》て講話した。

十月三十一日
 大森先生の勲功調査を命ぜられた。博士の調査報告文|並《ならび》に論文が和文で百三編、欧文で百十一編の多数に上って居る。此《これ》等何れも金玉の文字であるが、殊《こと》に地動計、地震帯、初期微動継続時間と震源距離との関係、余震、同一震源より発する地震記象の相似性、津浪《つなみ》、噴火特に桜島噴火、各種の建築物の震動、舟車《しゅうしゃ》の振動、長短柱状物体の転倒移動|或《あるい》は破壊、内外各地方に於《お》ける大地震調査など、殆《ほと》んど数うる遑《いとま》がない。実に近世の地震学は博士の独力によって出来たと言っても過言ではない。博士の海外出張は前後十回、内六回は地震の国際会議であって、何れの場合に於《おい》ても会議の幹部となり、外人間に重きをなした。また四回は海外の大地震調査に出張せられたのであって、印度《インド》に於《おい》ては悪風土と戦い、桑港《サンフランシスコ》に於《おい》ては排日漢に頭部を傷つけられ、伊太利《イタリー》メッシーナに於《おい》ては出発の門出に最愛の令夫人を失われ、出発の前夜には盗児に現金名《ママ》をさらわれ、而《しか》も震災地は殊《こと》に盗賊殺人犯の所である。博士は此《これ》等の困苦を克《よ》くしのいで、何れの場合に於《おい》ても権威ある調査論文を作られた。今日、斯《かく》の如《ごと》き学界の偉人を要するに最も切なる時期に於《おい》て、先生の勲功を調査しなければならぬとは、何たる悲しい事であろう。
 今回の大震火災は大損失を以《もっ》て終始したことであるから、今|茲《ここ》に此の悲しき調査を以《もっ》て暫時筆を置く事とする。



底本:『手記で読む関東大震災』シリーズ日本の歴史災害 第5巻、古今書院
   2005(平成17)年11月11日 初版第1刷発行
初出:「大地震調査日記(続)」『科学知識』科学知識普及会
   1923(大正12)年11月号
入力:しだひろし
校正:
xxxx年xx月xx日作成
青空文庫作成ファイル:
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*地名

(※ 市町村名は、平成の大合併以前の表記のまま。
  • [墨田区]
  • 相生 あいおい 本所相生町か。町名。一〜五丁目。現、墨田区両国二丁目・緑一丁目。
  • 太平 たいへい 本所太平町か。町名。現、墨田区太平一〜二丁目ほか。
  • 被服廠跡 ひふくしょう あと 東京都墨田区横網二丁目にある旧日本陸軍被服廠本廠の跡地。大正12年(1923)の関東大震災のさいに、ここに避難した約4万人の罹災民が焼死した。現在、東京都慰霊堂および復興記念館が建てられている。
  • 国技館 こくぎかん 日本相撲協会が設立・経営する常設の屋内相撲興行場。1909年(明治42)東京両国に開設。ドーム形で評判となる。50年台東区蔵前に移転、85年墨田区横網に新築、再移転。
  • 横網河岸 よこあみがし 本所横網町か。よこあみちょう。現、墨田区横網。
  • 安田邸 → 安田庭園
  • 安田庭園 やすだ ていえん 現、墨田区横網一〜二丁目。丹波宮津藩松平氏屋敷にあった潮入回遊式庭園。江戸名園の一。安田善次郎邸となって、善次郎の死後、東京市に寄贈。
  • 原庭 はらにわ → 中之郷原庭町か
  • 中之郷原庭町 なかのごう はらにわちょう 現、墨田区東駒形二〜三丁目・吾妻橋一〜二丁目。
  • 本所 ほんじょ 東京都墨田区の一地区。もと東京市35区の一つ。隅田川東岸の低地。商工業地域。
  • [江東区]
  • 西平野 にしひらの 町名。現、江東区平野一〜二丁目。
  • 亀戸 かめいど 東京都江東区北東部の地区。
  • 深川 ふかがわ 東京都江東区の一地区。もと東京市35区の一つ。
  • 被服廠 ひふくしょう → 被服廠跡
  • 森下町 もりしたちょう 町名。現、江東区森下一〜三丁目。
  • 神明の宮 しんめいのみや → 深川神明宮か
  • 深川神明宮 ふかがわ しんめいぐう 現、江東区森下一丁目。隅田川東岸に鎮座。祭神は天照大神。旧郷社。深川村の開発者、深川八郎右衛門が以前からあった小祠に神明を勧請したことに始まる。
  • 越中島 えっちゅうじま 東京都江東区南西部の地区。江戸初期、榊原越中守の別邸所在地。隅田川河口東岸に位置し、1875年(明治8)日本最初の商船学校(現、東京海洋大学)が設置された。
  • 越中島航空研究所
  • 越中島航空試験所
  • 榊原越中守の邸
  • 洲崎 すざき/すさき 東京都江東区木場の東隣一帯の通称。江戸時代にできた埋立地。洲崎弁財天社(洲崎神社)がある。1888年(明治21)根津の妓楼を移し、洲崎遊郭といった。
  • 深川大島町 ふかがわ おおしまちょう 現、江東区永代二丁目。
  • 深川小松町 ふかがわ こまつちょう 現、江東区佐賀一丁目。
  • [目黒区]
  • 東京高等工業学校 → 東京工業大学
  • 東京工業大学 とうきょう こうぎょう だいがく 国立大学法人の一つ。前身は1881年(明治14)創立の東京職工学校。その後東京工業学校、東京高等工業学校を経て、1929年東京工業大学となり、49年新制大学。2004年法人化。本部は目黒区。
  • 大川 おおかわ (1) 野川・仙川か。かつては大川ともよばれる。国分寺市の湧水を主源とし、小金井・三鷹・調布・狛江・世田谷を通って世田谷区玉川で多摩川と合流する。全長20.23km。(2) 隅田川の別称。あすだ川・須田川・宮戸川・染田川・大川・浅草川・両国川などの別称がある。
  • [台東区]
  • 南元町 みなみもとまち 浅草南元町か。現、台東区蔵前二〜四丁目。
  • 上野 うえの 東京都台東区西部地区の名。江戸時代以来の繁華街・行楽地。
  • 日本堤 にほんづつみ 江戸吉原大門口へ行く途中、山の宿より三輪に至る山谷堀の土手。現在は、東京都台東区の地区名。
  • 吉原 よしわら 江戸の遊郭。1617年(元和3)市内各地に散在していた遊女屋を日本橋葺屋町に集めたのに始まる。明暦の大火に全焼し、千束日本堤下三谷(現在の台東区千束)に移し、新吉原と称した。北里・北州・北国・北郭などとも呼ばれた。売春防止法により遊郭は廃止。
  • 今戸 いまど 東京都台東区北東部の一地区。隅田川に臨み、今戸焼などで有名。
  • 今戸橋 いまどばし 現、台東区今戸・浅草・東浅草。浅草金龍山下瓦町から山谷堀に架かる橋。北に旧、浅草今戸町がある。
  • 橋場 はしば 台東区の北東部に位置する。地域の東部は隅田川になり、これを境に墨田区堤通に接する。地域南部は今吉柳通りに接し、これを境に台東区今戸に接する。地域西部は台東区清川に接する。地域北部は、明治通りに接しこれを境に荒川区南千住に接する。
  • 坂本 さかもと 村名。現、台東区北上野・下谷・入谷・松が谷・竜泉。東叡山寛永寺の北東に位置する。
  • 象潟 きさかた 浅草象潟町(きさがたちょう)。現、台東区浅草四丁目。
  • 根岸 ねぎし 東京都台東区北部の地区。上野公園の北東。江戸時代には閑静な地で鶯が多かったところから、初音の里といった。
  • 金杉 かなすぎ 東京都台東区金杉(現・下谷)。
  • 新吉原 しんよしわら 現在の台東区千束。「吉原」参照。
  • 浅草 あさくさ 東京都台東区の一地区。もと東京市35区の一つ。浅草寺の周辺は大衆的娯楽街。
  • 橋場 はしば 町名。現、台東区橋場。
  • 地方橋場町 じかた はしばまち 町名。現、台東区橋場。旧、浅草玉姫町・浅草橋場町。
  • 帝国学士院 ていこく がくしいん 1879年(明治12)設立の東京学士会院に代わって1906年設置された、日本の学術に関して最高権威をもつ機関。文部省所轄で、会員定数は100名、終身で勅任官の待遇を受けた。日本学士院の前身。
  • [荒川区]
  • 南千住 みなみせんじゅ 東京都荒川区東部。東西に長いひし形をした荒川区の頂角に当たる最東端に位置し、荒川区東縁を流れる隅田川に北および東を接する。
  • 尾久 おく 「おぐ」か。郷名・村名。現、荒川区東尾久・西尾久。隅田川南岸。
  • 日暮里 にっぽり 現、荒川区。範囲は谷中感応寺(現、台東区天王寺)裏門あたりから道灌山方面をさし、現在のJR山手線・京浜東北線・常磐線をまたいだ東西一帯にあたる。西部の台地には寺院が多く、東部の低地には農村が広がっていた。
  • 隅田川 すみだがわ (古く墨田川・角田河とも書いた)東京都市街地東部を流れて東京湾に注ぐ川。もと荒川の下流。広義には岩淵水門から、通常は墨田区鐘ヶ淵から河口までをいい、流域には著名な橋が多く架かる。隅田公園がある東岸の堤を隅田堤(墨堤)といい、古来桜の名所。大川。
  • [北区]
  • 田端 たばた (1) 現、杉並区成田西・梅里・荻窪。(2) 現、北区田端・東田端・中里・田端新町。
  • 王子町 おうじまち かつて東京府北豊島郡に存在した町の一つ。1908年(明治41)の町制施行によって誕生。現在の東京都北区中部に当たる地域。
  • [練馬区]
  • 石神井川 しゃくじいがわ 小平の窪地を水源として東流し、練馬区の富士見池・三宝寺池・石神井池の水を合わせ、板橋区で田柄川と合流、北区王子で飛鳥山を削って渓谷を造り、山の手台地から下町低地に下り、同区堀船三丁目地先で隅田川に合流する。幹川流路延長約25kmの一級河川。
  • 石神井 しゃくじい 東京都練馬区の南西部に位置する地区。
  • [文京区]
  • 本郷 ほんごう 東京都文京区の一地区。もと東京市35区の一つ。山の手住宅地。東京大学がある。
  • 大学病院三浦内科
  • 震災予防調査会 しんさい よぼう ちょうさかい 明治・大正時代の文部省所轄の地震研究機関。明治24年(1891)濃尾大地震のあと建議され発足。活動は明治25年より大正14年(1925)の34年間。大森房吉が精力的に活動。大正12年、関東大地震が発生し、この被害にかんがみ委員制ではなく独自の研究員と予算をもつ常設研究所設置の必要がさけばれ、大正14年、研究所発足とともに調査会は発展解消された。(国史)
  • [千代田区]
  • 警視庁 けいしちょう 東京都の警察行政をつかさどる官庁。長として警視総監をおき、管内には警察署をおく。
  • [港区]
  • 赤坂離宮 あかさか りきゅう 赤坂にある離宮。紀州徳川家の旧邸跡。1872年(明治5)離宮、73年仮皇居、88年より東宮御所。1909年洋式建築の宮殿完成。23年(大正12)再び東宮御所。第二次大戦後は赤坂御苑と称し国立国会図書館がおかれ、74年以降は迎賓館。
  • [新宿区]
  • 陸軍士官学校 りくぐん しかんがっこう 陸軍の士官候補生および准士官・下士官を教育した学校。1874年(明治7)東京市ヶ谷に設置、敗戦時は神奈川県座間にあった。略称、陸士。
  • 牛込 うしごめ 東京都新宿区東部の一地区。もと東京市35区の一つ。江戸時代からの名称で、もと牧牛が多くいたからという。
  • 日活牛込館
  • [中央区]
  • 新大橋 しんおおはし 現、中央区。日本橋浜町二丁目と江東区新大橋一丁目との間の隅田川に架かる橋。
  • 永代橋 えいたいばし 東京都の隅田川下流、中央区新川と江東区永代との間にかかる鉄橋。1926年竣工。長さ185メートル。1698年(元禄11)日本橋箱崎町と深川佐賀町との間に架設したのに始まる。
  • 島津科学普及館
  • 市政調査会
  • 交詢社 こうじゅんしゃ 日本で最初の社交クラブ。1880年(明治13)福沢諭吉の創立。本社を東京におく全国組織で、会員の中心は実業家。
  • 地下鉄道会社
  • 第五高等女学校
  • 秩父宮御殿
  • 茗渓会 めいけいかい 東京高等師範学校、後の東京教育大学の同窓会。
  • 東京高等師範学校 → 東京教育大学
  • 東京教育大学 とうきょう きょういく だいがく もと国立大学の一つ。1872年(明治5)創立の文部省直轄の師範学校(73年東京師範学校、86年高等師範学校、1902年東京高等師範学校と改称)および29年創設の東京文理科大学その他を統合して49年新制の大学。73年の筑波大学創設に伴い、78年廃校。
  • 東海道 とうかいどう (1) 五畿七道の一つ。畿内の東、東山道の南で、主として海に沿う地。伊賀・伊勢・志摩・尾張・三河・遠江・駿河・甲斐・伊豆・相模・武蔵・安房・上総・下総・常陸の15カ国の称。(2) 五街道の一つ。江戸日本橋から西方沿海の諸国を経て京都に上る街道。幕府はこの沿道を全部譜代大名の領地とし五十三次の駅を設けた。
  • [神奈川県]
  • 下曽我 しもそが 神奈川県小田原市曽我原。
  • 横浜 よこはま 神奈川県東部の重工業都市。県庁所在地。政令指定都市の一つ。東京湾に面し、1859年(安政6)の開港以来生糸の輸出港として急激に発展。現在、全国一の国際貿易港。人口358万。
  • 山の手 → 山手町か
  • 山手町 やまてちょう 横浜市中区山手町。
  • 根岸 ねぎし 横浜市中区・磯子区にまたがる地区。横浜中南部の中心地区。
  • 競馬場 → 根岸競馬場か
  • 根岸競馬場 ねぎし けいばじょう 現、横浜市中区根岸台・簑沢。山手丘陵の西南、旧根岸村の中央の丘陵上にあった。
  • 山元町 やまもとちょう? 現、横浜市中区山元町。旧根岸村。
  • 平塚 ひらつか 神奈川県南部、相模川河口右岸にある市。東海道の宿駅として発達。住宅・商工業都市。人口25万9千。
  • 二ノ宮 → 二宮町か
  • 二宮町 にのみやまち 町名。県の南部、中郡の西部に位置する。
  • 大磯 おおいそ 神奈川県南部、中郡にある町。東海道五十三次の一つ。1885年(明治18)日本で最初の海水浴場が開かれた地。
  • 国府津 こうづ 神奈川県小田原市東端の地名。相模湾に面し、平安時代、相模国府の外港。
  • 梅沢 うめざわ 現、二宮町山西。東海道の宿名。
  • 川崎 かわさき 神奈川県北東部の市。政令指定都市の一つ。北は六郷川(多摩川)を隔てて東京都に、南西は横浜市に隣接。海岸に近い地区は京浜工業地帯の一部、内陸地区は住宅地。昔は東海道の宿駅。人口132万7千。
  • 箱根 はこね 神奈川県足柄下郡の町。箱根山一帯を含む。温泉・観光地。芦ノ湖南東岸の旧宿場町は東海道五十三次の一つで、江戸時代には関所があった。
  • 戸塚 とつか 横浜市西部の区。東海道の宿駅から発達し、現在は住宅地域であるが、工場の進出も著しい。
  • 小田原 おだわら 神奈川県南西部の市。古来箱根越え東麓の要駅。戦国時代は北条氏の本拠地として栄えた。もと大久保氏11万石の城下町。かまぼこなどの水産加工、木工業が盛ん。人口19万9千。
  • 箱根 はこね 神奈川県足柄下郡の町。箱根山一帯を含む。温泉・観光地。芦ノ湖南東岸の旧宿場町は東海道五十三次の一つで、江戸時代には関所があった。
  • 真鶴 まなづる 町名。足柄下郡箱根火山東南山麓部に位置し、南部は箱根外輪山の支脈が相模湾に突出し真鶴半島を形成する。
  • 吉浜 よしはま? 村名。現、足柄下郡湯河原町。神奈川県の南西端に位置し、東は相模湾、三方に箱根外輪山・熱海火山が連なる。南は静岡県熱海市。
  • 閑院宮別邸 かんいんのみや
  • 小田原城 おだわらじょう 小田原市にあった城。大森氏が拠ったが、北条早雲がこれを奪い、以後5代にわたり北条氏の本城となった。北条氏滅亡後、大久保・稲葉氏らが入った。
  • 湯本 ゆもと 旧村名。現、足柄下郡箱根町湯本。箱根山の東麓、東は現小田原市、西は湯本茶屋・塔之沢と接し、須雲川沿いに東海道、早川沿いに箱根七湯道が通る。
  • 宮ノ下 みやのした 神奈川県足柄下郡箱根町宮ノ下。
  • 箱根温泉 はこね おんせん 神奈川県南西部、箱根山中にある温泉の総称。いわゆる箱根七湯のほか、小涌谷・強羅・仙石・湯ノ花沢・大平台など。酸性泉・硫黄泉・塩類泉・単純泉。泉量豊富。
  • 底倉 そこくら 神奈川県箱根町にある温泉地。箱根七湯の一つ。泉質は塩化物泉。
  • 蔦屋 つたや
  • 葦の湯 あしのゆ 芦之湯か。現、箱根町芦之湯。
  • 箱根宿 はこねじゅく 東海道五十三次の宿場の一つ。現在の神奈川県足柄下郡箱根町にあった。1618年に箱根山にかかる箱根峠と箱根関所の間の狭い地域に設置された。
  • 箱根ホテル
  • 鞍掛 くらかけ
  • 日金 ひがね 箱根の日金山か。十国峠。現、足柄下郡湯河原町と静岡県熱海市泉・稲村との境か。
  • 初島 はつしま 静岡県熱海市に属する島。市の東方海上10キロメートル。戸数を42戸に定めて増加を許さず、耕地を各戸に均分し共同作業を行なっていたことで有名。現在は観光地化。旧名、端島。
  • 大湯 間欠泉。
  • 青木湯
  • 根府川 ねぶかわ 村名。現、小田原市根府川。東は相模湾、三方を根府川山が囲み海に迫る。
  • 緑町 みどりちょう 現、小田原市栄町。
  • 三浦半島 みうら はんとう 神奈川県南東部にある半島。南方に突出して東京湾と相模湾とを分ける。東岸には金沢八景・横須賀・浦賀など、西岸には鎌倉・逗子・葉山・三浦などがある。
  • [静岡県]
  • 相模紡績工場
  • 富士紡績工場
  • 御殿場 ごてんば 静岡県北東部、富士山南東麓にある市。富士登山東口、高原別荘地。東富士演習場がある。人口8万6千。
  • 沼津 ぬまづ 静岡県東部、駿河湾頭の商工業都市。もと水野氏5万石の城下町。東海道の宿駅。狩野川の河口に位置し、海浜は千本松原の景勝地。人口20万8千。
  • [長野県]
  • 塩尻 しおじり 長野県中部の市。松本盆地の南端部、塩尻峠の北西麓に当たり、中山道の宿駅。精密機械・電機などの工業が発達。人口6万8千。
  • 篠ノ井 しののい 長野県の旧更級郡域北東部地区にあった市。
  • 長野 ながの 長野県北部、長野盆地にある市。県庁所在地。善光寺を中心に発達した門前町。リンゴ栽培が盛ん。食品・電子機器工業が立地。人口37万9千。
  • 測候所
  • [大阪]
  • 大阪ホテル
  • 心斎橋 しんさいばし 現、大阪府南区。心斎橋筋の長堀川に架かっていた橋で、同川埋立まで現在の南船場三丁目と心斎橋筋一丁目を結んでいた。
  • [鹿児島]
  • 桜島 さくらじま 鹿児島湾内の活火山島。北岳・中岳・南岳の3火山体から成り、面積77平方キロメートル。しばしば噴火し、1475〜76年(文明7〜8)、1779年(安永8)および1914年(大正3)の噴火は有名。1914年の噴火で大隅半島と陸続きとなる。
  • 天洋丸
  • [中国]
  • 浙江省 せっこうしょう (Zhejiang) 中国南東部、東シナ海に面する省。長江下流の南を占め、銭塘江によって東西に分かれる。古くから商工業が盛ん。別称、浙・越。省都は杭州。面積約10万平方キロメートル。
  • 銭塘江 せんとうこう (Qiantang Jiang)中国、浙江省の北西部を流れる大河。浙江・江西両省の境の仙霞嶺山脈に発源し、杭州湾に注ぐ。河口の三角江には、定時に海嘯があり壮観。浙江。
  • [アメリカ]
  • ハワイ火山観測所
  • イエローストーン国立公園 Yellow stone national park 
  • イエローストーン Yellowstone アメリカ合衆国北西部にある川・湖・国立公園の名称。ワイオミング州北西部の湖を中心とする世界最初の国立公園。イエローストーン川は同湖から北流してモンタナ州南東部を貫流。
  • サンフランシスコ San Francisco アメリカ合衆国西部、カリフォルニア州の都市。金門海峡南岸に位置し、太平洋航路・航空路の要地。同国屈指の良港をもつ。人口77万7千(2000)。桑港。
  • [イタリア]
  • メッシーナ Messina イタリア南部、シチリア島北東端の港湾都市。同名の海峡を隔てて本土に対する。古代ギリシアの植民地。人口24万8千(2004)。
  • [インド]


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)『日本歴史地名大系』(平凡社)『新版 地学事典』(平凡社、2005.5)




*年表

  • 元禄一六(一七〇三)一一月二三日 元禄地震。震源は房総半島野島崎沖。M7.9〜8.2。小田原・江戸を中心に倒壊家屋2万戸、死者約5000人。ケンペル「日本誌」にも記述。
  • 安政二(一八五五)一〇月二日 江戸地震。震源地江戸川河口。M6.9。死者(藤田東湖ら)数千人。
  • 明治二七(一八九四)六月二〇日 明治東京地震。東京湾を震源として発生した直下型地震。東京の下町と神奈川県横浜市、川崎市を中心に被害をもたらした。地震の規模はM7.0。死者31人、負傷者157人(Wikipedia)。
  • 大正一一(一九二二) 北米イエローストーン国立公園を見学。
  • 大正一二(一九二三)
  • 一〇月一日 このころ東京市内における焼失区域において、焼失前の家屋被害状況を調査。午後、相生・西平野・太平・亀戸の諸警察署を寺田同行歴訪。
  • 一〇月二日 寺田博士とともに、午前は原庭署・南元町署へ、午後は南千住署に行く。夕刻、大森先生病気の旨の電報。
  • 一〇月三日 寺田博士・池田学士らと同行、王子署に行き王子町を調べたあと、尾久の方へまわる。
  • 一〇月四日 大森先生出迎えのため横浜まで行く。三時、船着。午後四時上陸して自動車に安座、午後八時に大学病院三浦内科に入院。
  • 一〇月五日 震災予防調査会の第三回目の委員会。夜、島津科学普及館にて講和。
  • 一〇月六日 寺田博士と上野署・日本堤署へ行く。
  • 一〇月七日 中村〔中村清二〕・寺田諸博士と坂本署・象潟署に行く。
  • 一〇月八日 午後、警視庁の建築課を訪う。市政調査会に渡辺法学博士を訪い、大阪行きの打ち合わせをなし、後藤子爵・ビアード博士に面会。
  • 一〇月九日 大阪へ向かって出発。渡辺博士・鈴木氏と同行。
  • 一〇月一〇日 朝八時大阪着。心斎橋わきにおける親しき家を見舞う。午後、府の当局、警察・消防の諸官を主として講演、市の当局参事会員ら向け講演、実業同志会の会合の席において講演、市公会堂における公開の席上において講演。終わってただちに停車場へおもむく。京都まで行くと昨日来の暴風雨。東海道線は不通。
  • 一〇月一一日 名古屋着。塩尻へ着くと、中央線も不通。長野市へまわり、測候所、本間知事をたずねる。夜行汽車に乗り、翌払暁ようやく着京。
  • 一〇月一二日 警視庁などをまわる。
  • 一〇月一三日 召により東宮職に出頭、珍田大夫に面会。
  • 一〇月一四日 帝国学士院の講演。
  • 一〇月一五日 赤坂離宮において午前十時より十一時半にいたる正味一時間半の進講。
  • 一〇月一六日 本職たる陸軍士官学校の用向き。
  • 一〇月一七日 越中島航空試験所におもむき、これまで室内にて観測しておった地震計を室外へ移す。
  • 一〇月一八日 帝大工学部教職員のために講話。
  • 一〇月一九日 交詢社にて講演。
  • 一〇月二〇日 象潟観測所を閉じ、器械を新吉原焼け跡に移し、航空研究所における器械を深川小松町(永代橋付近)に移す。昼は地下鉄道会社に行って講演。
  • 一〇月二一日 朝、第五高等女学校において講演。ジャッガー博士ら、教室訪問。午後六時から秩父宮御殿において正味二時間ほど講演。
  • 一〇月二二日 九時五十分、黒坂助手同伴東京駅発、国府津・小田原にて調査。夜、湯本に泊まる。
  • 一〇月二三日 午前七時湯本発、昔の箱根越えの山路をへて宮ノ下に出る。昼前、箱根着。四時すぎ熱海着。
  • 一〇月二四日 九時、熱海を出帆。途中、吉浜と真鶴に寄港。十一時、小田原に上陸。午後二時半、小田原出発、帰京の途につく。
  • 一〇月二五日 震災予防調査会、特別委員会。
  • 一〇月二六日 帝大理学部教授会開催準備。
  • 一〇月二七日 地震学教室教授会。
  • 一〇月二八日 深川・浅草などにて得たる地震記象と、本郷において得たるものとを比較して見る。昼、茗渓会にて講演。
  • 一〇月二九日 震災予防調査会。午後二時から九時まで。
  • 一〇月三〇日 日活牛込館において活動写真を見学。午後、海軍省において講話。「大地震調査日記(続)」記す。
  • 一〇月三一日 大森先生の勲功調査を命ぜられる。


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)。



*人物一覧

(人名、および組織・団体名・神名)
  • 大森博士 → 大森房吉
  • 大森房吉 おおもり ふさきち 1868-1923 地震学者。福井県人。東大卒、同教授。大森公式の算出、地震計の発明、地震帯の研究など。
  • 寺田博士 → 寺田寅彦
  • 寺田寅彦 てらだ とらひこ 1878-1935 物理学者・随筆家。東京生れ。高知県人。東大教授。地球物理学を専攻。夏目漱石の門下、筆名は吉村冬彦。随筆・俳句に巧みで、藪柑子と号した。著「冬彦集」「藪柑子集」など。
  • 佐々木俊雄 相生署在勤の警部補。
  • 小浜氏
  • 橋本政之助 西平野署在勤。
  • 古瀬猪三郎
  • 深川八郎衛門
  • 池田学士  水沢臨時緯度観測所から応援か。
  • 理学部長
  • 黒坂助手
  • 塩谷医学士 しおのや
  • 福士医学博士
  • 中村 → 中村清二
  • 中村清二 なかむら せいじ 1869-1960 震災予防調査会特別委員。/物理学者。光学、地球物理学の研究で知られ、光弾性実験、色消しプリズムの最小偏角研究などを行なった。地球物理学の分野では三原山の大正噴火を機に火山学にも興味を持ち、三原山や浅間山の研究体制の整備に与力している。また、精力的に執筆した物理の教科書や、長きに亘り東京大学で講義した実験物理学は日本における物理学発展の基礎となった。定年後は八代海の不知火や魔鏡の研究を行なった。(武村、Wikipedia)
  • 渡辺法学博士 市政調査会。
  • 後藤子爵
  • ビアード Charles Austin Beard 1874-1948 アメリカの歴史家。歴史における経済的要因を重視。また、都市行政問題の権威。関東大震災後の東京復興計画に参与。著「合衆国憲法の経済的解釈」など。
  • 鈴木氏 渡辺博士の兄。
  • 本間 長野県知事 → 本間利雄か
  • 本間利雄 ほんま としお? 1922〜1924年、長野県知事。(Wikipedia)
  • 珍田大夫 ちんだ たゆう? → 珍田捨巳か
  • 珍田捨巳 ちんだ すてみ 捨己。1856-1929 外交官。東宮大夫。裕仁皇太子の即位の例を挙行。(人レ)
  • 田丸博士 → 田丸卓郎か
  • 田丸卓郎 たまる たくろう 1872-1932 物理学者。東京帝国大学教授。航空学調査委員会。日本のローマ字社設立。(人レ)
  • 福沢諭吉 ふくざわ ゆきち 1834-1901 思想家・教育家。豊前中津藩士の子。緒方洪庵に蘭学を学び、江戸に洋学塾を開く。幕府に用いられ、その使節に随行して3回欧米に渡る。維新後は、政府に仕えず民間で活動、1868年(慶応4)塾を慶応義塾と改名。明六社にも参加。82年(明治15)「時事新報」を創刊。独立自尊と実学を鼓吹。のち脱亜入欧・官民調和を唱える。著「西洋事情」「世界国尽」「学問のすゝめ」「文明論之概略」「脱亜論」「福翁自伝」など。
  • 榊原越中守 さかきばら えっちゅうのかみ 久能山惣御門番。明暦・万治(1655〜1661)頃、越中島を与えられ別邸とする。
  • ジャッガー博士 ハワイ火山観測所長。
  • ジャッガー婦人
  • 秩父宮 ちちぶのみや もと宮家の一つ。1922年(大正11)大正天皇の第2皇子雍仁親王(淳宮)(1902〜1953)が創始。継嗣がなく、95年断絶。
  • 高松宮 たかまつのみや 宮家の一つ。有栖川宮の継嗣が絶えたので、1913年(大正2)、大正天皇の第3皇子宣仁親王(光宮)(1905〜1987)に高松宮(有栖川宮の旧称)の称号を賜い、有栖川宮家の祭祀を継承。2004年宮号廃止。
  • 閑院宮 かんいんのみや 四親王家の一つ。東山天皇の皇子直仁親王に始まる。新井白石の建議に基づき、将軍家宣の上奏により、1710年(宝永7)創立。1947年まで7代にわたり存続した。
  • 梨本宮 なしもとのみや 旧宮家の一つ。1868年(明治1)伏見宮貞敬親王の子守脩親王(1819〜1881)が創始した梶井宮を70年改称。久邇宮朝彦親王4男の守正王(1874〜1951)が85年継承。1947年宮号廃止。
  • 山階宮 やましなのみや 旧宮家の一つ。1864年(元治1)伏見宮邦家親王の第1王子晃親王が、山科の勧修寺より還俗して創始。1947年宮号廃止。
  • 賀陽宮 かよう/かやのみや 旧宮家の一つ。1864年(元治1)伏見宮邦家親王の第4王子朝彦親王が創始。のち久邇宮を創始し、賀陽宮は中絶していたが、92年(明治25)その王子邦憲王が宮号を復興した。1947年宮号廃止。
  • 北白川宮 きたしらかわのみや 旧宮家の一つ。伏見宮邦家親王の第13王子智成親王(1856〜1872)が1870年(明治3)創始。1947年、宮号廃止。
  • 東久邇宮妃 ひがしくにのみやひ
  • 東久邇宮 ひがしくにのみや 旧宮家の一つ。1906年(明治39)久邇宮朝彦親王の子稔彦が創始。47年宮号廃止。
  • 中村左衛門太郎 なかむら さえもんたろう 1891-1974 地震学者、理学博士。東京生まれ。1914(大正3)東京帝国大学理科大学実験物理学科を卒業、直ちに中央気象台に入って、地震、気象、地磁気等の研究に従事した。大正13年、東北帝国大学理学部に教授として迎えられ、物理学科において地球物理学講座を担当。昭和26(1951)熊本大学理学部に転任。31年退官し、九州物理探査株式会社社長となり、かたわら、36年には熊本商科大学教授となる。(日本人名)/中央気象台の地震掛。(武村 p.60)
  • 井上 → 井上禧之助
  • 井上禧之助 いのうえ きのすけ 1873-1947 山口県生まれ。1896年、東京大学理学部地質学科卒業、直ちに農商務省地質調査所に入所。1907〜24年第4代所長。この間に地質図幅の調査、鉱物調査、工業原料鉱物調査。また、1923年の関東大地震の調査を率先して指導。1910年以降、中国の地質調査事業を数次にわたり主宰。(地学、武村 p.60)
  • 久邇宮 くにのみや 旧宮家の一つ。1875年(明治8)伏見宮邦家親王の第4王子朝彦親王が創始。1947年宮号廃止。
  • 邦英王 くにひでおう
  • 妃殿下
  • 良子女王 ながこ じょおう → 香淳皇后
  • 香淳皇后 こうじゅん こうごう 1903-2000 昭和天皇の皇后。名は良子。久邇宮邦彦の1女。皇太子裕仁と1924年(大正13)結婚。天皇即位により皇后。
  • 信子女王
  • 東伏見宮 ひがしふしみのみや
  • 山階宮 やましなのみや 旧宮家の一つ。1864年(元治1)伏見宮邦家親王の第1王子晃親王が、山科の勧修寺より還俗して創始。1947年宮号廃止。
  • 李王世子 りおう せいし → 李垠か
  • 李垠 イ・ウン/りぎん 1897-1970 懿愍太子。初代大韓帝国皇帝高宗の第7男子。母は純献貴妃厳氏で純宗の異母弟。同国最後の皇太子。日本の王公族、李王。大韓帝国時代は英親王垠と呼称された。
  • 賀陽宮妃 かよう/かやのみやひ
  • 閑院宮 かんいんのみや
  • 華子女王
  • 加藤委員 → 加藤武夫か
  • 加藤武夫 かとう たけお 1883-1949 地質学者、理学博士。山形県に生まれる。加藤謹吾の長男。東京帝大理科大学地質学科卒業。同講師をへて欧米諸国に留学。大正9(1920)東京帝大教授に任ぜられて鉱床地質学講座を担任。その足跡は世界各地に及び、その豊富な見聞のもとに著した『鉱床地質学』は長く新進学徒の好指針となった。このほか『岡山県棚原鉱山の研究』『本邦に於ける火成活動と鉱床生成時代の総括』『本邦硫黄鉱床の総括』などがある。(日本人名)/帝大地震学教授、震災予防調査会委員。
  • 大島委員 化学教授。
  • 片山委員 化学教授。
  • 那波委員 鉄道。
  • 内藤 → 内藤多仲
  • 内藤多仲 ないとう たちゅう 1886-1970 建築家・建築構造学者。「耐震構造の父」と評される。山梨県中巨摩郡榊村(現在の南アルプス市)出身。(武村、Wikipedia)
  • 堀越委員 建築。
  • 渋沢委員 電気工場監督 → 渋沢元治か
  • 渋沢元治 しぶさわ もとじ 1876-1975 電気工学者、工学博士。埼玉県生まれ。古河の足尾鉱山に勤務後、伯父渋沢栄一の渡米に同行し、GE社の工場で修行、ドイツのジーメンス社、スイスの大学で学んで帰国し、逓信省技師となる。当時勃興期であった電気事業の行政にたずさわり、民間事業者の指導、電気事業法の確立に貢献した。特に関東大震災には、電気課長として電気事業の復興に尽くした。大正8(1919)東京帝大教授になり、昭和4(1929)工学部長。この間、電気学会会長、電気規格調査会長などに就任。名古屋帝国大学初代総長。(日本人名)
  • 竹中委員 機関工場。
  • 科学知識普及会
  • 日本科学協会


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)『日本人名大事典』(平凡社)『人物レファレンス事典』(日外アソシエーツ、2000.7)『国史大辞典』(吉川弘文館)、武村雅之『手記で読む関東大震災』シリーズ日本の歴史災害 第5巻(古今書院、2005.11)。



*書籍

(書名、雑誌名、論文名、能・狂言・謡曲などの作品名)
  • 『甘露叢』 かんろそう 日記体で、徳川将軍家を中心として政治上の出来事を略記した書。著者不詳。『玉露叢』『文露叢』と並んで三露叢といわれているが、『徳川実紀』編集にあたり前二書は引用されているが、本書は引用されていない。将軍の動静、幕府の行事、幕臣・諸大名の異動、幕政に関すること、天災の被害状況など多方面にわたって記されているが、『御日記』からの抜書と思われる記載も多い。(国史)
  • 『日本紳士録』
  • 『科学知識』震災号
  • 『科学知識』 科学知識普及会、現在の(財)日本科学協会の会誌。(武村、まえがき)


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)『国史大辞典』(吉川弘文館)、武村雅之『手記で読む関東大震災』シリーズ日本の歴史災害 第5巻(古今書院、2005.11)。



*難字、求めよ

  • 一再 いっさい 1、2度。1、2回。一両度。
  • 颶風 ぐふう (1) 強烈な風。(2) 熱帯低気圧の旧称。
  • 爾か しか 然・爾 (シはサと同義の副詞、カは接尾語) (1) そのように。さように。さ。(2) (相手の言葉を肯定して、感動詞的に)そう。その通り。
  • 首肯 しゅこう うなずくこと。もっともだと納得すること。
  • 帯剣 たいけん 剣を身に帯びること。また、身に帯びた剣。帯刀。佩刀。
  • 一酸化炭素 いっさんか たんそ 分子式CO 無色・無味・無臭の猛毒な気体。炭素または炭素化合物の不完全燃焼などによって生じ、中毒を起こさせることがある。点火すれば青い炎をあげて燃え二酸化炭素になる。工業的には、水性ガス・メタンの水蒸気による接触改質などの方法で作り、アルコール・ホルムアルデヒドなどの製造原料。
  • 一酸化炭素中毒 いっさんかたんそ ちゅうどく 一酸化炭素を一定量以上吸入した時に起こる中毒現象。空気中に0.05パーセント以上含まれていると急性中毒を起こし、頭痛・めまい・顔面紅潮・悪心・吐き気などに次いで突然人事不省となる。放置すれば呼吸が止まり死ぬ。死に至らない場合でも、記憶喪失・意識障害・痙攣・運動失調など、中枢神経系に後遺症を残すことがある。家庭の燃料の不完全燃焼、自動車の排気ガス、炭塵爆発事故などが原因。
  • 見巡る みめぐる 見廻。見てまわる。見まわる。
  • 抄紙 しょうし 紙を抄くこと。かみすき。
  • 重力加速度 じゅうりょく かそくど 物体に働く重力をその物体の質量で割ったもの。地球上の位置によって幾分異なるが、ほぼ毎秒毎秒9.81メートルの割合の速度変化に等しい。通常、gで表す。
  • 立錐の余地もない りっすいのよちもない 極めて混雑密集している意。
  • 喞つ かこつ 託つ。(1) 他のせいにする。口実とする。(2) 自分の境遇などを嘆く。恨んで言う。ぐちをこぼす。
  • 怨嗟 えんさ うらみなげくこと。
  • 第三紀層 だいさんきそう 第三紀に生じた地層。日本はこの地層の分布がきわめて広い。第三系。/第三紀に堆積した地層。日本ではこの地層の分布が広い。石炭石油に富み、砂岩・頁岩・礫岩などの砕屑岩が多く、石灰岩は少ない。第三世紀層。
  • 第三紀 だいさんき (Tertiary Period) 地質年代のうち、新生代の大部分、約6500万年前から180万年前までの時代。哺乳動物・双子葉植物が栄え、火山活動や造山運動が活発でアルプス・ヒマラヤなどの大山脈ができた。現在の日本列島の形はこの時代に成立。
  • 地山 じやま (1) 陸地の山。船乗りなどが、島山ではないという意味で用いる。(2) (盛土などに対して)自然の丘陵。その土地本来の山。(3) 特定の岩石・鉱物または石炭層の周囲にあるそれ以外の岩石。
  • 少閑・小閑 しょうかん 少しのひま。
  • 久闊 きゅうかつ 久しく便りをしないこと。
  • 久闊を叙する きゅうかつをじょする 久しぶりに会って話をする。
  • 東宮職 とうぐうしょく 宮内庁の一部局。皇太子家の生活に関する事務をつかさどる。1889年(明治22)設置。
  • 加速度 ガル(gal)。(ガリレイの名に因む)加速度のCGS単位。1ガルは毎秒毎秒1センチメートルの割合の速度変化。記号Gal。
  • 陪従 ばいじゅう/べいじゅう 貴人に付きしたがうこと。供奉。
  • 碩学大儒 せきがく たいじゅ 深い学識をもった大学者。
  • 進講 しんこう 天皇・貴人に対しその前で講義をすること。
  • 地震帯 じしんたい 細長い帯状をなす、震源の分布地域。
  • 地震波 じしんは 地震の際、震源から発して四方に伝わる弾性波。疎密波(P波)と横波(S波)とに分けられ、さらに地表に沿って伝わる表面波があり、それぞれ伝播速度が異なる。
  • 優渥 ゆうあく (「優」は豊か、「渥」は厚いの意)ねんごろに手厚いこと。恩沢をあまねく受けること。
  • 奉送 ほうそう 貴人をお見送り申し上げること。
  • 地震計 じしんけい 地震による地表上の一点の振動状態を記録する装置。その原理は振子の地震動に対する相対運動を記録するもので、大別すると上下動地震計と水平動地震計とに分かれる。
  • 木骨 もっこつ 建築で、外観は煉瓦造・石造で骨組を木造にすること。また、その骨組。
  • 岬角 こうかく みさき。
  • 海嘯 かいしょう [楊慎、古今諺]満潮が河川を遡る際に、前面が垂直の壁となって、激しく波立ちながら進行する現象。中国の銭塘江、イギリスのセヴァン川、南アメリカのアマゾン川の河口付近で顕著。タイダル‐ボーア。潮津波。
  • タイダル tidal 潮の(影響を受ける)、潮によって生じる。干満のある。周期的な。(英和)
  • ボアー bore 潮津波。河口から押し寄せる突然の高潮。(英和)
  • 湧口 わきぐち 湯や水のわき出るみなもと。また、物事の生ずるもと。源泉。
  • Geyser 間欠(温)泉。(英和)
  • 風致 ふうち 景色のおもむき。あじわい。風趣。
  • 山津波・山津浪 やまつなみ 山崩れの大規模なもので、多量の土砂や岩屑が山地から急激に押し出すこと。豪雨の後や大地震などで起こりやすい。
  • 土石流 どせきりゅう 泥・岩屑が地表水や地下水を多量に含み泥水状に流動するもの。山崩れによって直接生じた土石流を山津波といい、大きな災害をもたらすことがある。
  • 電奔 でんぽん
  • 雷馳 らいち
  • 地震記象 じしん きしょう (seismogram) 地震動を地震計で記録したもの。
  • 伺候 しこう (1) おそばに奉仕すること。(2) 参上して御機嫌をうかがうこと。
  • 大宮 おおみや (「大御家」の意) (1) 皇居または神宮の尊敬語。(2) 太皇太后または皇太后の敬称。(3) 皇族または皇族出身の女性で、母・祖母など長上の立場になる人への敬称。ときには同様の立場の男性にも使う。
  • 若宮 わかみや (1) 幼少の皇子。(2) 皇族の子。
  • 大妃 だいひ 先代の王の妃で、現王の母后。しかし、王大妃と大王大妃と同じ意味で使われることもあり、王室内では中国帝国でいう皇太后の様な位置にある。(Wikipedia)
  • 王世子 おうせいし 王の世嗣である子。王の子どものうち王位の後継ぎをする子。次の王となる子。
  • 日活 にっかつ 1912年(大正1)創立の日本最初の映画会社。日本活動写真株式会社の略称。のち、正式名称となる。一時代を築いたが、映画産業の斜陽化とともに衰退し、93年に倒産、97年再建。
  • 勲功 くんこう 国家または君主に尽くした功労。いさお。てがら。
  • 地動計
  • 余震 よしん 大地震の後に引き続いて起こる小地震。ゆりかえし。
  • 舟車 しゅうしゃ ふねとくるま。ふねやくるま。
  • 令夫人 れいふじん 貴人の妻の尊敬語。また、他人の妻の尊敬語。おくさま。令室。令閨。


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)『日本国語大辞典 第二版』(小学館、2001.5)『学研新漢和大字典』、『小学館英和中辞典』(1981.1)。



*後記(工作員スリーパーズ日記)


くにつかみ千代のいわおもゆりすえて
  動かぬ御代のためしにぞひく

 底本、武村雅之『手記で読む関東大震災』シリーズ日本の歴史災害、第5巻(古今書院、2005.11)。p.20、「大地震調査日記」本文中「市政調査会・後藤子爵」は後藤新平のこと。「ジャッガー博士」はトーマス・A ・ジャッガー、ハワイ火山観測所長の創始者。

 以下は、当時の震災予防調査会メンバー。

 加藤武夫。帝大地震学教授。
 中村清二。東京帝国大学理学部教授。
 (以上、「大地震調査日記」本文より)

 志田順(とし)。京都帝国大学理学部、地球物理学講座教授。
 中村左衛門太郎。気象庁の前身である中央気象台の地震掛。
 井上禧之助(きのすけ)。農商務省地質調査所所長。
 岡田武松。中央気象台長。
 寺田寅彦。東京帝国大学物理学教授。
 佐野利器(としかた)。東京帝国大学建築学教授。
 物部長穂。内務省土木局技師、東京帝国大学土木工学助教授。
 末廣恭二。東京帝国大学地震研究所の初代所長。
 (以上、底本 p.60 より)

 以上一〇名はまず確定とみる。以下五名は、姓と生没年と担当分野を手がかりに『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)と Wikipedia からの推定。

 内田祥三(よしかず)。建築学。
 笠原敏郎。建築学、都市計画。
 渋沢元治(もとじ)。電気工学。
 古市公威(ふるいち こうい)。土木工学、都市交通。
 内藤多仲(たちゅう)。建築学。




*次週予告


第四巻 第四二号 
科学の不思議(六)アンリ・ファーブル

第四巻 第四二号は、
二〇一二年五月一二日(土)発行予定です。
定価:200円


T-Time マガジン 週刊ミルクティー 第四巻 第四一号
大地震調査日記(続)今村明恒
発行:二〇一二年五月五日(土)
編集:しだひろし/PoorBook G3'99
 http://www33.atwiki.jp/asterisk99/
出版:*99 出版
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