寺田寅彦 てらだ とらひこ
1878-1935(明治11.11.28-昭和10.12.31)
物理学者・随筆家。東京生れ。高知県人。東大教授。地球物理学を専攻。夏目漱石の門下、筆名は吉村冬彦。随筆・俳句に巧みで、藪柑子と号した。著「冬彦集」「藪柑子集」など。



◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店)。写真は、Wikipedia 「ファイル:Terada_Torahiko.jpg」より。


もくじ 
厄年と etc. / 断水の日 / 塵埃と光 寺田寅彦


ミルクティー*現代表記版
厄年と etc.
断水の日
塵埃と光

オリジナル版
厄年と etc.
断水の日
塵埃と光

地名年表人物一覧書籍
難字、求めよ
後記次週予告

※ 製作環境
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*凡例
  • ( ):小書き。〈 〉:割り注。
  • 〔 〕:編者もしくは、しだによる注。
  • 一、漢字、かなづかい、漢字の送りは現代表記に改めました。
  •    例、云う → いう / 言う
  •      処  → ところ / 所
  •      有つ → 持つ
  •      這入る → 入る
  •      円く → 丸く
  • 一、異句同音の一部のひらがなに限り、便宜、漢字に改めました。
  •    例、いって → 行って / 言って
  •      きいた → 聞いた / 効いた
  • 一、若干の句読点のみ改めました。適宜、ルビや中黒や感嘆・疑問符をおぎないました。一部、改行と行頭の字下げを改めました。
  • 一、漢数字の表記を一部、改めました。
  •    例、七百二戸 → 七〇二戸
  •    例、二萬六千十一 → 二万六〇一一
  • 一、ひらがなに傍点は、一部カタカナに改めました。
  • 一、カタカナ漢字混用文は、ひらがな漢字混用文に改めました。
  • 一、和暦にはカッコ書きで西暦をおぎないました。年次のみのばあいは単純な置き換えにとどめ、月日のわかるばあいには陰暦・陽暦の補正をおこないました。
  • 一、「今から○○年前」のような経過年数の表記は改めず、底本のままにしました。
  • 一、書名・雑誌名は『 』、論文名・記事名および会話文は「 」で示しました。
  • 一、差別的表現・好ましくない表現はそのままとしました。


厄年と etc.
底本:「寺田寅彦全集 第三巻」岩波書店
   1997(平成9)年2月5日発行
底本の親本:「寺田寅彦全集 文学篇」岩波書店
   1985(昭和60)年発行
初出:「中央公論」
   1921(大正10)年4月1日
http://www.aozora.gr.jp/cards/000042/card4435.html

断水の日
底本:「寺田寅彦随筆集 第一巻」小宮豊隆編、岩波文庫、岩波書店
   1947(昭和22)年2月5日第1刷発行
   1963(昭和38)年10月16日第28刷改版発行
   1997(平成9)年12月15日第81刷発行
http://www.aozora.gr.jp/cards/000042/card2445.html

塵埃と光
底本:「寺田寅彦全集 第六巻」岩波書店
   1997(平成9)年5月6日発行
底本の親本:「寺田寅彦全集 文学篇」岩波書店
   1985(昭和60)年
初出:「科学知識」
   1936(大正11)年5月1日
http://www.aozora.gr.jp/cards/000042/card43078.html

NDC 分類:401(自然科学 / 科学理論.科学哲学)
http://yozora.kazumi386.org/4/0/ndc401.html
NDC 分類:914(日本文学 / 評論.エッセイ.随筆)
http://yozora.kazumi386.org/9/1/ndc914.html





厄年やくどしと etc.

寺田寅彦


 気分にも頭脳の働きにも何の変わりもないと思われるにもかかわらず、運動ができず仕事をすることのできなかった近ごろのわたしには、朝起きてから夜寝るまでの一日の経過はかなりにながく感ぜられた。しいて空虚をみたそうとする自覚的努力の余勢がかえって空虚そのものを引きのばすようにも思われた。これに反して振り返って見た月日の経過はまた、自分ながらおどろくほどに早いものに思われた。空漠くうばくな広野のてを見るように何ひとつ著しい目標のないだけに、昨日歩いてきたみちと今日との境がつかない。たまたま記憶の眼にふれる小さな出来事の森や小山も、どれという見分けのつかないただ一抹いちまつの灰色の波線を描いているにすぎない。その地平線の彼方には活動していた日の目立った出来事の峰々が、透明な空気をとおして手に取るように見えた。
 それがために、最近の数か月は思いのほかに早くたってしまった。おとろえた身体を九十度の暑さにもてあましたのはつい数日前のことのように思われたのに、もう血液の不充分な手足の末端は、障子しょうじや火鉢くらいで防ぎきれない寒さにこごえるような冬がきた。そしてわたしの失意や希望や意志とはまったく無関係に、歳末と正月が近づきやがて過ぎ去った。そうしてわたしは、世俗でいう厄年やくどしの境界線から外へみ出したことになったのである。
 日本では昔から四十歳になると、すぐに老人の仲間には入れられないまでも、少なくも老人の候補者くらいには数えられたもののようである。しかし自分は、そう思わなかった。四十がきても四十一がきても、べつに心持ちの若々わかわかしさを失わないのみならず、肉体の方でもこれといって衰退の兆候らしいものは認めないつもりでいた。それでもある若い人たちの団体の中では、自分らの仲間は中老連などと名づけられていた。
 あまり鏡というものを見る機会のないわたしは、ある朝偶然、縁側えんがわ日向ひなたに誰かがほうりだしてあった手鏡をもてあそんでいるうちに、わたしの額のあたりに銀色に光る数本の白髪を発見した。十年ほど前にある人からわたしの頭の頂上に毛の薄くなったことを注意されて、いまに禿げるだろうと予言されたことがあるが、どうしたのかまだ禿頭とくとうと名のつくほどには進行しない。禿頭とくとうは父親から男の子に遺伝する性質だという説があるが、それがもし本当だとすると、わたしの父は七十七歳まで完全におおわれた顱頂ろちょうを持っていたから、わたしも当分は禿げる見込みが少ないかもしれない。しかしそのかわりに、いつのまにか白髪が生えていた。
 それから後に気をつけて見ると、同年輩の友人の中の誰彼だれかれの額やこめかみにも、三尺以上はなれていてもよく見えるほどの白髪を発見した。まだ自分らよりはずっと若い人で、自分より多くの白髪の所有者もあった。あるとき、たまたまあった同窓と対話していた時に、その人の背後の窓からくる強い光線が頭髪にうつっているのを注意して見ると、漆黒な色の上に浮かぶ紫色の表面色が、あるアニリン染料を思い出させたりした。
 またある日、わたしの先輩の一人が老眼鏡をかけた見なれぬ顔に出会でくわした。そして試みにそのメガネを借りてかけてみると、眼界が急に明るくなるようでなんとなくさわやかな心持ちがした。しばらくかけていてはずすと、眼の前にクモの糸でもあるような気がして、思わず眼の上を指先ゆびさきでこすってみた。それから気がついて考えてみると、近ごろすこし細かい字を見るときには、不知不識しらずしらず眼を細くするような習慣が生じているのであった。
 去年〔大正九年(一九二〇)か。の夏、子どもが縁日でマツムシを買ってきた。そして縁側の軒端のきばにつるしておいた。よいのうちには鈴を振るような音がよく聞こえたが、しかしどうかすると、その音がまるで反対の方向から聞こえるように思われた。不思議だと思って懐中時計の音で左右の耳の聴力を試験してみると、左の耳が振動数の多い音波に対して著しく鈍感になっていることがわかった。のみならず、雨戸をしめて後に寝床へ入るとチンチロリンの声が聞こえなかった。すぐ横に寝ている子どもにはよく聞こえているのに。
 わたしの方では年齢のことなどはかまわないでいても、年齢の方ではわたしをかまわないでおかないのだろう。ともかくも、白髪と視力・聴力の衰兆すいちょうとこれだけの実証はどうすることもできない。これだけの通行券をにぎってわたしは初老の関所を通過した。そしてすぐ眼の前にある厄年の坂をこえなければならなかった。
 厄年やくどしというものは、いつの世からとなえ出したことかわたしは知らない。どういう根拠によったものかもわからない。たぶんは多くの同種類の言い伝えと同様に、時と場所との限られた範囲内での、経験的資料とある形而上的の思想との結合から生まれたものにすぎないだろう。たとえば二百にひゃく十日とおかに台風を連想させたようなものかもしれない。もっとも二百十日や八朔はっさくの前後にわたる季節に、南洋方面からくる台風がいったん北西に向かって後に放物線ほうぶつせん形の線路をとって日本を通過する機会の比較的多いのは、科学的の事実である。そういう季節の目標として見れば、二百十日も意味のないことはない。しかし厄年のほうは、はたしてそれだけの意味さえあるものだろうか。
 科学的知識の進歩した結果として、科学的根拠のあきらかでない言い伝えは、たいがい他の宗教的迷信と同格に取り扱われて、少なくも本当の意味での知識的階級の人からはしりぞけられてしまった。もちろん今でも未開時代そのままの模範的な迷信がいたるところにおこなわれて、それが俗にいわゆる知識階級のある一部まで蔓延まんえんしていることは事実であるが、それとはすこしおもむきを異にした事柄で、科学的に験証されうる可能性をそなえた命題までが、ひとからげにしてき捨てられたというおそれはないものだろうか。そのようにして塵塚ちりづかもれた真珠はないだろうか。
 根拠のないことを肯定するのが迷信ならば、否定すべき反証の明らかでない命題を否定するのは、少なくも軽率とは言われよう。わからぬこととして竿さおの先につるしておくのは、慎重ではあろうが忠実とは言われまい。たとえば厄年のごときものがまったく無意味な命題であるか、あるいは意味のつけ方によっては多少の意味のつけられるものではあるまいか。
 このような疑問をいだいてわたしは、手近かな書物から人間の各年齢における死亡率の曲線をさがしだしてみた。すべての有限な統計的材料にまぬがれがたい偶然的の偏倚へんいのために曲線は、例のように不規則な脈動的な波を描いている。しかし不幸にして特に四十二歳の前後にまたがった著しい突起を見い出すことはできなかった。これだけから見ると、少なくもその曲線の示す範囲内では、四十二歳における死亡の確率が特別に多くはないという漠然とした結論が得られそうに見える。
 しかし統計ほどたしかなものはないが、また「統計ほどうそをつくものはない」ということは争われないパラドックスである。上の曲線はたしかに一つの事実を示すが、これはかならずしも厄年の無意味を断定する証拠にはならない。
 科学者が自然現象の周期を発見しようとして被与材料を統計的に調査するときに、ある短い期間については著しい周期を得るにかかわらず、あまり期間を長くとるとそれが消失するようなことが往々ある。そのような場合に、短期の材料から得た周期が単に偶然的のものである場合もあるが、またそうでない場合がある。ある期間だけ継続する周期的現象の群が、乱発的に錯綜さくそうしておこるときがそうである。
 これはただ一つの類例にすぎないが、厄年のばあいでも材料のえらみ方によってはあるいは意外な結果に到着することがないものだろうか。たとえば時代や、季節や、人間の階級や、死因や、そういう標識にしたがって類別すれば現われ得べき曲線上の隆起が、各類によって位置を異にしたりするために、すべてを重ね合わすことによって消失するのではあるまいか。
 このような空想にふけってみたが、結局は統計学者にでも相談するほかはなかった。しかし、そんな空想に耳をかたむけてくれる学者が手近かにあるかないか見当がつかなかった。
 それはとにかくとして、最近にわたしの少数な十にたりない同窓の中で三人まで、わずかの期間にあいついでくなった。いずれも四十二を中心とする厄年の範囲に含まれ得べき有為な年齢に、病のために倒れてしまった。
 生死ということが単に、銅貨を投げて裏が出るか表が出るかというような簡単なことであれば、三べん続けて裏が出るのも、三べんつづいて表が出るのも、すこしも不思議なことではない。もう少し複雑なばあいでも、まったく偶然な暗合で特殊な事件が続発して、プロバビリティ〔確率。方則ほうそくを知らない世人に奇異の念をおこさせたり、超自然的な因果を想わせる例はいくらでもある。それでわたしは、三人の同窓の死だけから他のものの死の機会を推算するような不合理をあえてしようとは思わない。
 そうかといってわたしはまた、まったくそういう推算の可能性を否定してしまうだけの証拠も持ちあわせない。
 たとえばある家庭で、同じ疫痢えきりのために二人の女の子を引き続いて失ったとする。そして、死んだ年齢が二人ともに四歳で月までもほぼ同じであり、そのうえに死んだ時季が同じように夏始めのある月であったとしたら、どうであろう。このばあいにはもはや、偶然あるいは超自然的因果の境界から自然科学的の範囲に一歩をふみこんでいるように思われてくる。
 そういう方面から考えていくと、同時代に生まれて同様な趣味や目的を持って、同じ学校生活をはたした後に、また同じような雰囲気の中に働いてきたものが多少生理的にも共通な点をそなえていて、そしてある同じ時期に死病におそわれるということは、まったく偶然の所産としてしまうほどに偶然とも思われない。
 このような種類の機微な吻合ふんごうがしばしばくりかえされて、そしてそのことが誇大視こだいしされた結果としていわゆる厄年の説が生まれたと見るべき理由がないでもない。
 ある柳の下にいつでもドジョウがいるとは限らないが、ある柳の下にドジョウのおりやすいような環境や条件の具備していることもまたしばしばある。そういう意味で、いわゆる厄年というものが提供する環境や条件を考えてみたらどうだろう。
「思考の節約」ということを旗じるしに押し立てて進んできたいわゆる精密科学は、自然界におけるあらゆる物、ならびにその変化と推移を連続的のものとみなそうとする傾向を生じた。そして事情のゆるすかぎりは、物質を空隙くうげきのないコンチニウムとみなすことによってその運動や変形を数学的に論じることができた。あらゆる現象は、できるだけ簡単な数式や平滑へいかつな曲線によって代表されようとした。その同じ傾向は、生物に関する科学の方面へも浸透していった。そして「自然は簡単を愛す」といったような昔の形而上的な考えが、まだ漠然とした形である種の科学者の頭の奥底のどこかに生き残ってきた。
 しかし、そういう方法によって進歩してきた結果はかえってその方法自身を裏切ることになった。物質の不連続的構造はもはや仮説の域を脱して、分子や原子、なおそのうえに電子の実在が動かすことのできないようになった。そのうえにエネルギーの推移にまでもある不連続性をいなむことができなくなった。生物の進化でも連続的な変異は否定されて、飛躍的な変異を認めなければならないようになった。
 水の流れや風の吹くのを見ても、それは決して簡単な一様な流動でなくて、かならずいくらかの律動的な弛張しちょうがある。これと同じように生物の発育でも、決して簡単な二次や三次の代数曲線などであらわされるようなものではない。
 たとえば昆虫の生涯を考えても、卵から低級な幼虫になってそれがサナギになり成虫になるあの著しい変化は、昆虫の生涯における目立った律動のようなものではあるまいか。
 人間の生涯には、少なくも母体を離れた後にこのように顕著な肉体的の変態があるとは思われない。しかし、ある程度の不連続な生理的変化がある時期におこることもよく知れわたった事実である。かいこやヘビが外皮を脱ぎすてるのに相当するほど目立った外見上の変化はないにしても、もっと内部の器官や系統におこなわれている変化がやはり一種の律動的弛張しちょうをしないという証拠はよもやあるまいと思われる。
 そのような律動のある相が人間肉体の生理的危機であって、不安定な平衡へいこう些細ささいな機縁のために破れるやいなや、加速的に壊滅の深淵しんえん失墜しっついするという機会に富んでいるのではあるまいか。
 このようなむつかしい問題は、わたしにはとうていわかりそうもない。あるいは専門の学者にもわからないほどむずかしいことかもしれない。
 それにしてもわたしは、今自分の身体におこりつつある些細な変態の兆候を見て、内部の生理的機能についてもある著しい変化を連想しないではいられない。それと同時にわたしの心の方面にも、ある特別な状態を認め得るような気がする。それが肉体の変化の直接の影響であるか、あるいは精神的変化が外界の刺激に誘発されてそれがある程度まで肉体に反応しているのだかわからない。
 厄年のやくとみなされているのは、当人の病気や死とはかぎらない。家庭の不祥事や、事業の失敗や、時としては当人には何の責任もない災厄さいやくまでも含まれているようである。
 街を歩いているときに、通り合わせた荷車の圧搾あっさくガス容器が破裂してそのために負傷するといったような災厄が、四十二歳前後に特別に多かろうと思われる理由は容易には考えられない。しかしそれほど偶然的でない、いろいろな災難の源を奥へ奥へさぐっていったときに、意外な事柄の継起けいきによってそれが、厄年前後における当人の精神的危機と一縷いちるの関係を持っていることを発見するような場合はないものだろうか。たとえば、その人が従来続けてきた平静な生活から転じて、危険性をおびたある工業に関係した当座に、前述のような災難に会ったとしたらどうであろう。少なくも親戚の老人などの中にはこの災難と厄年の転業とのあいだにある因果関係を思い浮かべるものも少なくないだろう。しかしこれは、空風からかぜが吹いておけ屋がよろこぶというのと類似の詭弁きべんにすぎない。当面の問題には何の役にも立たない。
 しかしともかくも、厄年が多くの人の精神的危機でありやすいということはかなりに多くの人の認めるところではあるまいか。昔の聖人は、四十歳にしてまどわずと言ったそうである。これが儒教道徳に養われてきたわれわれの祖先の標準となっていた。現代の人間が、四十歳くらいで得た人生観や信条をどこまでも十年一日のごとく固守して安心しているのがよいか悪いか、それとも死ぬまでもまどいもだえて衰退したからだを荒野にさらすのが偉大であるか愚であるか、それは別問題として、わたしは「四十にして不惑まどわず」という言葉の裏に、四十はまどいやすい年齢であるという隠れた意味を認めたい。
 二十歳代の青年期に蜃気楼しんきろうのような希望の幻影を追いながら、脇目わきめもふらずに芸能の修得につとめてきた人々の群が、三十前後に実世界の闘技場の埒内らちないへ追いこまれ、そこで銘々めいめいのとるべきコースや位置が割りあてられる。競技の進行するにしたがって、自然に優勝者と劣敗者の二つの群ができてくる。
 優者の進歩の速度は、はじめには目ざましいように早い。しかし、はじめには正であった加速度はだんだん減少してゼロになって、つぎには負になる。そうしてちょうど四十歳近くで漸近ぜんきん的に一つの極限に接近すると同時に、速度は減退してゼロに近づく。そこでそのままに自然にまかせておけばどうなるだろう。たどりついた漸近線の水準を保って行かれるだろうか。このような疑問の岐路きろに立ってある人は、何の躊躇ちゅうちょもなく一つの道をとる。そして爪先つまさき下りのなだらかな道を下へ下へとおりて行く。ある人はどこまでも同じ高さの峰伝いに安易な心をいだいて同じふもと景色けしきをながめながら、思いがけない懸崖けんがい深淵しんえんが路をさえぎることの可能性などに心を騒がすようなことなしに夜の宿駅しゅくえきへ急いで行く。しかし少数のある人々は、この生涯の峠に立って蒼空そうくうをあおぐ。そして無限の天頂に輝く太陽をつかもうとして懸崖けんがいからさかさまに死の谷に墜落ついらくする。これらの不幸な人々のうちのきわめて少数なあるものだけは、微塵みじんにくだけた残骸から再生することによって、はじめて得た翼を虚空にばたきする。
 劣者の道の谷底の漸近線までの部分は、優者の道の倒影とうえいに似ている。そして谷底までおりた人の多数はそのままにふもとの平野をわけて行くだろうし、少数の人はそこからまた新しい上り坂に取りつき、あるいはさらに失脚してふたたび攀上よじのぼる見込みのない深坑しんこうに落ちるのであろうが、そのようなわかみちがやはり、ほぼ四十余歳の厄年やくどし近辺にあるのではあるまいか。

 このような他愛たあいもないことを考えながら、ともかくも三年にわたる厄年をすごしてきた。厄年に入る前年にわたしは家族の一人を失ったが、その後にはそれほど著しい不幸にはあわなかった。もっとも四十二の暮れから自分で病気にかかって、今でもまだ全快しない。この病気のために生じたいろいろな困難や不愉快なことがないではなかったが、しかしそれは厄年ではなくても不断にわたしにつきまとっているものとあまり変わらない程度のものであった。それでともかくも生命に別条べつじょうがなくて今日までは過ぎてきた。
 それで結局これから、わたしはどうしたらいいのだろう。

 厄年の峠をこえようとしてわたしは、人並ひとなみに過去の半生涯をふりかえって見ている。もう昼すぎた午後の太陽の光にてらされた過去をながめている。そして人並ひとなみに、じたりくやんだりしんだりしている。「あったことはあったのだ」と幾百万人のくりかえした言葉をさらにくりかえしている。
 過去というものは本当にどうすることもできないものだろうか。
 わたしの過去を自分だけは知っていると思っていたが、それはうそらしい。現在を知らないわたしに、過去がわかるはずはない。原因があって結果があると思っていたが、それも誤りらしい。結果がおこらなくてどこに原因があるだろう。重力があって天体が運行してリンゴが落ちるとばかり思っていたが、これは逆さまであった。英国の田舎で、ある一つのリンゴが落ちてから後に万有引力が生まれたのであった。その引力がつい近ごろになってドイツのあるユダヤ人の鉛筆の先で新しく改造された。
 過去を定めるものは現在であって、現在を定めるものが未来ではあるまいか。
 それともまた、現在で未来を支配することができるものだろうか。
 これはわたしにはわからない。おそらく、だれにもわからないかもしれない。このわからない問題を解くく試みの方法として、わたしはいま一つの実験をおこなってみようとしている。それには、わたしの過去の道すじでひろい集めてきたあらゆる宝石や土くれや草花や昆虫や、たとえそれがミミズやウジ虫であろうとも、いっさいのものを「現在の鍋」にちこんでつめてみようと思っている。それには、古人が残してくれたいろいろな香料や試薬もそそいでみようと思っている。その鍋を火山の火にかけて一晩おいた後に一番鶏いちばんどりが鳴いたら、ふたをとってみようと思っている。
 ふたを取ったら何が出るだろう。おそらく何も変わった物は出ないだろう。はじめに入れておいただけの物が煮爛にただれ煮かたまっているにすぎないだろうとしか思われない。しかしわたしは、その鍋の底にたまった煎汁せんじゅうを、眼をつむって飲みそうと思う。そうして自分の内部の機能に、どのような変化がおこるかを試験してみようと思っている。もし、わたしの眼や手になんらかの変化がおこったら、その新しい眼と手でわたしの過去を見なおし造りなおしてみよう。そして、その上に未来の足場を建ててみよう。もしそれができたら、「厄年」というものの意義が新しい光明にらされてわたしの前に現われはしまいか。
 こう思ってわたしは、過去の旅行カバンの中から手さぐりにいろいろなものを取り出して並べて見ている。
 まず、いろいろの書物が出てくる。たいがいは汚れたり虫ばんだりしてもう読めなくなっている。さまざまな神や仏の偶像も出てくるが、一つとして欠けそんじていないのはない。茶褐色に変わったゲンゲやバラの花束や、半分食い欠いだリンゴもあった。修学証書や辞令書のようなものの束ねたのを投げ出すと、カビくさいちりが小さなうずをまいて立ち昇った。
 定規じょうぎのようなものが一ほどあるが、それがみんな曲がりくねっている。ますはかりの種類もあるが、使えそうなものは一つもない。鏡が幾枚かあるが、それらにうつる万象はみんな、ゆがみねじれた形を見せる。物差しのようなもので半分を赤く、半分を白く塗りわけたものがある。わたしはこの簡単な物差しですべてのものを無雑作むぞうさに可否のいずれかに決するように教えられてきたのであった。カルタのような札の片側には「自」、反対の側には「他」と書いてある。わたしは時と場合とに応じて、この札の裏表を使いわけることを教えられた。
 見ているうちにわたしは、この雑多な品物のほとんど大部分がみな、もらいものや借り物であることに気がついた。自分の手で作るか、自分の労力の正当な報酬として得たもののあまりに少ないのにおどろいた。これだけの負債を弁済することが生涯にできるかどうか疑わしい。しかし幸か不幸か、債権者の大部分はもうどこにいるかわからない。一巻の絵巻物が出てきたのをひもといて見ていく。はじめの方はもうボロボロに朽ちているが、それでもところどころに比較的鮮明な部分はある。生まれて間もないわたしが竜門りゅうもんの鯉を染め出した縮緬ちりめん初着うぶぎにつつまれ、まだ若々しい母の腕に抱かれて山王さんのうやしろの石段を登っているところがあるかと思うと、馬丁ばていに手を引かれて名古屋の大須おおす観音かんのん広庭ひろにわで玩具を買っている場面もある。さびしい田舎の古い家の台所の板の間で、そでなしを着て寒竹かんちくの子の皮をむいているかと思うと、そのつぎには遠い西国のある学校の前の菓子屋の二階で、同郷の学友と人生を論じている。下谷したやのある町の金貸しのばあさんの二階に間借りして、うら若い妻と七輪しちりんで飯をたいて暮らしている光景のすぐあとには、幼い児とならんで生々しい土饅頭どまんじゅうの前にぬかずくさびしい後ろ姿を見い出す。ティアガルテンの冬木立ちや、オペラの春の夜の人の群や、あるいは地球の北の果てのさびしい港の埠頭ふとうや、そうした背景の前に立つわびしげな旅客の絵姿に自分のある日の片影へんえいを見い出す。このような切れ切れの絵と絵をつなぐ詞書ことばがきがなかったら、これがただ一人の自分の事だとは自分自身にさえわからないかもしれない。
 巻物の中には、ところどころに真っ黒な墨でぬりつぶしたところがある。しかしそこにあるべきはずの絵は、実際、絵に描いてあるよりも幾倍も明瞭に墨の下にすいて見える。
 不思議なことには、巻物のはじめの方に朽ち残った絵の色彩は眼のさめるほど美しく保存されているのに、後の方になるほど絵の具の色は溷濁こんだくして、しだいににぶい灰色をおびている。
 絵巻物の最後にある絵はよほど奇妙なものである。そこには一つの大きなガラスのハエ取りビンがある。その中に閉じこめられた多数のハエを点検していくと、その中にまじって小さな人間がいる。それがこのわたしである。ビンから逃れ出る穴を上のほうにのみ求めて、いくどか眼玉ばかりの頭をガラスの壁に打ちあてているらしい。まださいわいに器底の酢の中におぼれてはいない。自由な空へ出るのには、一度ビンの底をくぐらなければならないということがハエにも小さなわたしにもわからないと見える。もっともビンを逃れたとしたところで、外界にはいろいろなハエ打ちやハエ取りグモがうかがっている。それを逃れたとしても、必然に襲うてくる春寒はるさむの脅威は避けがたいだろう。そうすると、ビンを出るのも考えものかもしれない。
 過去の旅嚢りょのうから取り出される品物にはほとんどかぎりがない。これだけの品数を一度にれ得る「鍋」を、自分は持っているだろうか。鍋はあるとしたうえでも、これだけのものを沸騰させ煮つめるだけの「燃料」を自分はたくわえてあるだろうか。
 この点に考えおよぶと、わたしはすこし心細くなる。

 厄年の関を過ぎたわたしは、立ち止まってこんなことを考えてみた。しかし結局、何にもならなかった。厄年というものの科学的解釈を得ようと思ったが失敗した。主観的な意味を求めてみたが、得たものはただ取りとめのつかぬ妄想にすぎなかった。
 しかし、だれか厄年の本当の意味をわたしに教えてくれる人はないものだろうか。だれか、この影の薄くなった言葉をいかして「四十の惑い」をいてくれる人はないだろうか。
(大正十年(一九二一)四月『中央公論』



底本:「寺田寅彦全集 第三巻」岩波書店
   1997(平成9)年2月5日発行
底本の親本:「寺田寅彦全集 文学篇」岩波書店
   1985(昭和60)年発行
初出:「中央公論」
   1921(大正10)年4月1日
※初出時の署名は「吉村冬彦」
※「冬彦集」に収録された。
入力:砂場清隆
校正:多羅尾伴内
2003年11月11日作成
青空文庫作成ファイル:
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断水の日

寺田寅彦


 〔大正十年(一九二一)か。十二月八日の晩にかなり強い地震があった。それはわたしが東京に住まうようになって以来、覚えないくらい強いものであった。振動周期の短い主要動のはじめの部分についでやってくる緩慢な波動があきらかにからだに感ぜられるのでも、この地震があまり小さなものではないと思われた。このくらいのなら後からくる余震が相当に頻繁ひんぱんに感じられるだろうと思っていると、はたしてかなり鮮明なのが相次あいついでやってきた。
 山の手の、地盤の固いこのへんの平家ひらやでこれくらいだから、神田かんだへんの地盤の弱い所では壁がこぼれるくらいの所はあったかもしれないというようなことを話しながら寝てしまった。
 翌朝の新聞で見ると実際、下町ではひさしのかわらが落ちた家もあったくらいで、まず明治二十八年(一八九五)〔明治二十七年(一八九四)か。来の地震だということであった。そしてその日の夕刊に、淀橋よどばし近くの水道の溝渠こうきょがくずれて付近が洪水こうずいのようになり、そのために東京全市が断水に会うおそれがあるので、今、大いそぎで応急工事をやっているという記事が出た。
 偶然その日の夕飯のぜんで、わたしたちはエレベーターの話をしていた。あれをつるしてある鋼条こうじょうが切れる心配はないかというような質問が子どものうちから出たので、わたしはそのようなことのあった実例を話し、それからそういう危険を防止するために鋼条の弱点の有無を、電磁作用で不断に検査する器械の発明されていることも話しなどした。それを話しながらも、また話したあとでも、わたしの頭の奥のほうで、現代文明の生んだあらゆる施設の保存期限が経過した後におこるべき、種々な困難がぼんやり意識されていた。これは昔、天が落ちて来はしないかと心配したの国の人の取りこし苦労とはちがって、あまりに明白すぎるほど明白な、有限な未来にきたるべき当然の事実である。たとえば、やや大きな地震があった場合に都市の水道やガスがダメになるというようなことは、はじめから明らかにわかっているが、また不思議にみながいつでも忘れている事実である。
 それで食後にこの夕刊の記事を読んだときに、なんとなしに変な気持ちがした。今のついさきに思ったこととあまりによく適応したからである。
 それにしても、その程度の地震で、そればかりで、あの種類の構造物が崩壊するのはすこしおかしいと思ったが、新聞の記事をよく読んでみると、かなり以前から多少亀裂きれつでも入って弱点のあったのが、地震のために一度にかたづいてしまったのであるらしい。そのような亀裂きれつの入ったのはどういうわけだか、たとえば地盤の狂いといったような不可抗の理由によるのか、それとも工事が元来あまり完全ではなかったためだか、そんなことは今のところだれにもわからない問題であるらしい。
 それはいずれにしても、こういう困難はいつかはおこるべきはずのもので、これに対する応急の処置や設備はあらかじめ充分に研究されてあり、またそのような応急工事の材料や手順はちゃんと定められていたことであろうと思って安心していた。
 十日は終日雨が降った。そのために工事がさまたげられもしたそうで、とうとう十一日は全市断水ということになった。ずいぶん困った人が多かったには相違ないが、それでもわたしのうちではさいわいに隣の井戸が借りられるのでたいした不便はなかった。昼ごろ用があって花屋へ行ってみたら、すべての花はみずみずしていた。昼すぎに、遠くない近所に火事があったがそれもまもなく消えた。夕刊を見ながらわたしは、断水の不平よりはむしろ修繕しゅうぜん工事を不眠不休で監督しているいわゆる責任のある当局の人たちの心持ちを想像して、これも気の毒でたまらないような気もした。
 このようなことのある一方で、わたしのうちの客間の電灯をつけたり消したりするために壁に取りつけてあるスイッチが破損して、明かりがつかなくなってしまった。電灯会社の出張所へかけあってみたが、会社専用のスイッチでなくて、式のちがったのだから、こちらで買ってからでないとつけかえてくれない。それでやむを得ずわたしは道具箱の中から銅線の切れはしをさがし出して、ともかくも応急の修理を自分でやって、その夜はどうにかにあわせた。そのときに調べてみると、ボタンを押したときに電路を閉じるべき銅板のバネの片方の翼が根元ねもとから折れてしまっていたのである。
 じつはよほど前に、便所に取りつけてある同じ型のスイッチが、やはり同じ局部の破損のために役に立たなくなって、これもその当座、自分でにあわせの修理をしたままで、ついそれなりにしておいたのである。取りつけてからまだ三年にもならないうちに二個までも同じ部分が破損するところをみると、このスイッチのこしらえ方はあまりよくないと言わなければならない。もうすこし作り方なり材料なりを親切に研究したのなら、これほどもろくできるはずはないだろうと思われた。銅板を曲げたかどのところには、どの道かなり無理がいっているから、あとで適当になますとか、あるいは使用のたびにそこに無理がくりかえされないように構造のほうを工夫するとか、なんとかしてほしいものだと思った。
 水道の断水とスイッチの故障との偶然な合致から、わたしはいろいろの日本でできる日用品について平生から不満に思っていたことを、一度に思い出させられるような心持ちになってきた。
 第一に思い出したのが呼び鈴のことであった。今の住居に移ったさいに近所の電気屋さんにたのんで、玄関や客間の呼び鈴を取りつけてもらった。ところが、それがどうも故障が多くてならぬ勝ちである。電池が悪いかと思って取りかえてもすぐいけなくなる。よく調べてみると、銅線の接合した所はハンダづけもしないでテープも巻かずにちょっとねじり合わせてあるのだが、それが台所の戸棚とだなの中などにあるからまっ黒くさびてしまっている。それをみがいてぎなおしたらいくらかよくなったが、またすぐにいけなくなる。だんだんに吟味ぎんみしてみると、電鈴自身のこしらえ方がどうしてもほんとうでないらしい。ほんとうなら白金か何か酸化しない金属をつけておくべき接触点がニッケルぐらいでできているので、すこし火花が出るとすぐに電気を通さなくなるらしい。ときどき、そこをゴリゴリすりあわせるとうまくるが、毎日忘れずにそれをやるのはやっかいである。これはいったいコイルの巻き数や銅線の大きさなどがまったくいいかげんにできていて、むやみに強い電流が流れるからと思われる。それだからちょっとやってみる試験には通過しても、長い使用にはえないようにはじめからできている。それを二年も三年も使おうというほうが無理だということがわかった。そしてずいぶん不愉快な気がした。こういうものが平気に市場に出ていて、だれでもがそれをあまんじて使っているかと思うのが不愉快であった。しかしまさか、こんなニセ物ばかりもあるまいと思って、試みに銀座ぎんざのある信用ある店でよく聞きただしたうえで買ってきたのをつけかえたら、今度こんどはまずいいようである。ついでに導線の接合をすっかりハンダでつけさせようと思ったが、前の電気屋はとうの昔どこかへ引っ越していなくなったし、別のにたのんでみるとめんどうくさがって、そしてハンダづけなど必要はないと言ってなかなかやってはくれない。
 少々価は高くとも長い使用にたえるほんとうのものがほしいと思っても、そんなものは今の市場ではなかなか容易には得られない。たとえばプラチナを使った呼び鈴などは、高くてだれも買い手はないそうである。これは実際それほど必要ではないかもしれないが、プラチナを使わないなら使わなくてもいいだけに、ほかの部分の設計ができていないのはどうも困る。
 わたしのたのんだ電気屋が偶然最悪のものであったかもしれないが、ほうぼうにらない玄関の呼び鈴がめずらしくないところから見ると、わたしと同じ場合はかなりに多いかもしれない。
 もしこんな電気屋が栄え、こんな呼び鈴がよく売れるとすると、その責任の半分ぐらいは、あまりにおとなしくあきらめのいい使用者の側にもありはしまいか。
 呼び鈴にかぎらず、多くの日本製の理化学的器械についてよく似たことにいくど出会ったかわからないくらいである。たとえばオモチャのモーターを店屋でちょっとやってみるときはよく回るが、買ってきて五分もやればブラシのところがやけてもういけなくなる。
 蓄音機の中の歯車でも、じきにいけなくなるのがある。これは歯車の面の曲率などがいいかげんなためだか、材料が悪いためだかわからない。おそらく両方かもしれない。
 このような似て非なるものを製する人の中には、西洋でできた品をだいたいの外形だけ見て、ただ、いいかげんにこしらえればそれでいいものだと思っているのがあるいはありはしまいか。ある人の話では、電気の絶縁のためにエボナイトを使ってある箇所を真鍮しんちゅうで作って、黒く色だけをつけておいた器械屋があるという。これはおそらく、ただの話かもしれない。しかしそれと五十歩百歩のいいかげんさはいたるところにあるかもしれない。
 五十年前に父が買った舶来のペンナイフは、今でも砥石といしをあてないでよく切れるのに、わたしがこのあいだ買った本邦製のはもう刃がつぶれてしまった。ふるぼけた前世紀の八角の安時計が時を保つのに、大正できの光る置き時計のなかには、年じゅうなおしにやらなければならないのがある。
 すべてのものがただ外見だけのにあわせもので、ほんとうに根本の研究をてきたものでないとすると、実際、われわれは心細くなる。質の研究のできていない鈍刀どんとうは、いくら光っていても格好がよくできていても、まさかの場合に正宗まさむねのかわりにならない。
 品物について、わたしの今言ったようなことが知識や思想についても言われうるというようなことにでもなるといよいよ心細くなるわけであるが、そういう心配がまったくないとも言われないような気がする。
 水道の止まった日のひるごろ、縁側の日向ひなたで子どもが絵はがきを並べて遊んでいた。その絵はがきの中に、天文や地文ちもんに関する図解や写真をコロタイプで印刷した一組のものが目についた。取りあげてよく見ると、それはずいぶん非科学的な、そして見る人にまちがった印象や知識をあたえるものであった。なかんずく月の表面の凹凸おうとつの模様を示すものや、太陽の黒点や紅炎こうえんやコロナを描いたものなどはまるでウソだらけなものであった。たとえば妙な紅炎が変にとがった太陽の縁に突出しているところなどは「離れ小島の椰子やしの木」とでも言いたかった。
 科学の通俗化ということの奨励されるのはまことに結構けっこうなことであるが、こういうふうに堕落してまで通俗化されなければならないだろうかと思ってみた。科学そのもののおもしろみは「真」というものに付随しているから、これを知らせる場合に、非科学的な第二義的興味のために肝心の真を犠牲にしてはならないはずである。しかし、実際の科学の通俗的解説には、ややもするとほんとうの科学的興味は閑却かんきゃくされて、不妥当な比喩ひゆやアナロジーの見当ちがいな興味が高調されやすいのはしいことである。そうなっては科学のほうは借りもので、結果は、ただ誤った知識と印象を伝えるばかりである。わたしはほんとうに科学を通俗化するということは、よほどすぐれた第一流の科学者にしてはじめてできうることとしか思われないのに、事実はこれと反対な傾向のあるのを残念に思う。
 このようにして普及されたにあわせの科学的知識をたよりにしている不安さは、不完全な水道をあてにしている市民の不安さにくらべてどちらとも言われないと思った。そして不愉快な日の不愉快さをもう一つ付けくわえられるような気がした。
 水道がこんなぐあいだと、うちでも一つ井戸を掘らなければなるまいという提議が夕飯のぜんで持ち出された。しかしおそらくこの際、同じようなことを考える人も多数にあるだろう。したがって当分は井戸掘りの威勢が強くて、とてもわれわれのところへは手が回らないかもしれないという説も出た。
 こんな話をしているうちにもわたしの連想は妙なほうへ飛んで、欧州大戦当時に従来ドイツから輸入をあおいでいた薬品や染料が来なくなり、学術上の雑誌や書籍が来なくなって困ったことを思い出した。そしてドイツ自身も第一に、チリ硝石しょうせきの供給がたえて困るのを、空気の中の窒素を採ってきてどしどし火薬を作り出したあざやかな手ぎわをも思い出した。
 そして、どうしてもやはり、家庭でも国民でも「自分のうちの井戸」がなくては安心ができないという結論に落ちていくのであった。
 翌日も水道はよく出なかった。そして新聞を見ると、このあいだできあがったばかりの銀座通りのもくレンガが雨で浮き上がって破損したという記事が出ていた。多くの新聞はこれと断水とをいっしょにして、市当局の責任を問うような口調をもらしていた。わたしはそれらの記事をもっともと思うと同時に、また当局者の心持ちも思ってみた。
 水道にせよ木レンガにせよ、つまりはそういう構造物の科学的研究がもう少し根本的に行きとどいていて、あらゆる可能な障害に対する予防や注意が明白にわかっていて、そして材料の質やその構造の弱点などに関する段階的・系統的の検定を経たうえでなければ、だれも容認しないことになっていたのならば、おそらくこれほどの事はあるまいと思われる。
 長い使用にたえないにあわせの器物が市場にはびこり、安全に対する科学的保証のついていない公共構造物がいたるところに存在するとすれば、その責めを負うべきものはかならずしも製造者や当局者ばかりではない。
 もしも需要者のほうで粗製品を相手にしなければ、そんなものは自然に影を隠してしまうだろう。そしてごまかしでないほんものが取ってかわるに相違ない。
 構造物の材料や構造物に対する検査の方法が完成していれば、たちの悪い請負師うけおいしでも手を抜くスキがありそうもない。そういう検定方法は切実な要求さえあらばいくらでもできるはずであるのに、それが実際にはできていないとすれば、その責任の半分は無検定のものに信頼する世間にもないとはいわれないような気がする。
 わたしが断水の日に経験したいろいろな不便や不愉快の原因をだんだんさぐっていくと、どうしても、今の日本における科学の応用の不徹底であり表面的であるということに帰着していくような気がする。このような障害の根をつためには、一般の世間が平素から科学知識の水準をずっと高めて、ニセ物と本物とを鑑別する目をこやし、そして本物を尊重しニセ物を排斥はいせきするような風習を養うのがいちばん近道で有効ではないかと思ってみた。そういうことが不可能ではないことは、日本以外の文明国の実例がこれを証明しているように見える。
 こんなことを考えていると、われわれの周囲の文明というものがだんだん心細くたよりないものに思われてきた。なんだかコタツを抱いて氷の上にすわっているような心持ちがする。そして不平を言い、人を責める前に、われわれ自身がもうすこししっかりしなくてはいけないという気がしてきた。

 断水はまだ、いつまで続くかわからないそうである。
 どうしても「うちの井戸」を掘ることにきめるほかはない。
(大正十一年(一九二二)一月、東京・大阪朝日新聞)



底本:「寺田寅彦随筆集 第一巻」小宮豊隆編、岩波文庫、岩波書店
   1947(昭和22)年2月5日第1刷発行
   1963(昭和38)年10月16日第28刷改版発行
   1997(平成9)年12月15日第81刷発行
入力:(株)モモ
校正:かとうかおり
2003年5月20日作成
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塵埃じんあいと光

寺田寅彦


 昔、ギリシャの哲学者ルクレチウスは窓からさしこむ日光の中におどる塵埃じんあいを見て、分子説の元祖になったと伝えられている。このような微塵みじんは通例、有機質の繊維や鉱物質の土砂の破片からなりたっている。比重は無論、空気にくらべて著しく大きいが、その体積に対して面積が割合に大きいために、空気の摩擦まさつの力が重力の大部分を消却し、そのうえ、いたるところに渦のような気流があるためにながく空中に浮遊しうるのである。そのほかに、煙突えんとつの煙からはすすに混じて金属の微粒も出る、火山の噴出物もまたいろいろのちりを供給する。そのうえに地球以外から飛来する隕石いんせきの粉のようなものが、いわゆる宇宙塵コスミックダストとして浮遊ふゆうしている。
 このようなちりに太陽からくる光波が当たれば、波のエネルギーの一部は直線的の進行をさえぎられて、横の方に散らされる。ちょうど、池の面におこった波の環がくいのようなものにあたったとき、そこから第二次の波がおこると同じわけである。それがために、ちりは光の進行をさまたげると同時に、それを他の方面に分配する役目をする。ちりを含んだ空気をへだてて遠方の景色けしきを見るときに、遠いものほどその物からくる光が減少して、そのかわりに途中のちりから散らされてくる空の光の割合が多くなるから、目的物がぼんやりするわけである。
 池の面の波紋でも実験されるように、波の長さが障害物しょうがいぶつの大きさに対して割合に小さいほど、横に散らされる波のエネルギーの割合が増す。したがって白色光を組成する各種の波のうちでも青や紫の波が、赤や黄の波よりも多く散らされる。それでちりの層を通過してきた白光には、青紫色が欠乏して赤味をおび、そのかわりに投射光の進む方向と直角に近い方向には、青味がかった色の光が勝つ道理である。遠山のあおい色や夕陽の色も、一部はこれで説明される。タバコの煙を暗い背景にあてて見たときに、青味をおびて見えるのも同様な理由によると考えられる。
 このように、光の色をさえぎり分ける作用は、ちりのつぶが光の波の長さに対して、あまり大きくなればもう感じられなくなる。それで、遠景の碧味あおみがかった色を生ずるようなちりはよほど小さなもので、普通の意味の顕微鏡的なちりよりもいっそう微細なものではないかと疑いがおこる。
 普通の顕微鏡では見えないほどの細かいちりの存在をたしかめ、その数を算定するために、アイケンという人が発明した器械がある。その容器の中の空気にじゅうぶん湿気を含ませておいてこれを急激に膨張させると、空気は膨張のために冷却し、含んでいた水蒸気を持ちきれなくなるために、霧のような細かい水滴ができる。この水滴ができるためには、かならず何かその凝縮するときに取りつく核のようなものが必要であって、これがなければ温度が下がっても凝縮はおこらない。したがってこの際できる水滴の数を顕微鏡でかぞえれば、そのような凝縮核の数がわかる勘定かんじょうである。この器械で研究してみると、通俗な意味でちりと称するものでなくても、凝縮の中核となるものはいろいろある。特に荷電されたガスのイオンのようなものでも、湿気がじゅうぶん多くていわゆる過飽和度が高ければ、やはり凝縮をおこすことがあきらかになった。しかし、実際の空気中ではそれほどの過飽和状態はないから、雲や霧の凝縮をおこすものはそれよりも大きいものであろうと考えられる。それはいろいろな湿気を吸いやすい化合物の分子の多数集まった集団のようなものであろうと考えられている。
 上昇気流のために生ずる積雲が、下降気流その他の原因で消滅したあとには、これらの凝縮核の集合した層が取り残される。地上からあおいで見てはよくわからないが、飛行機でその層を横にすかして見ると、それがあきらかな層をなしてたなびき、いわゆる「ちりの地平線」を形成している。夕陽の色の原因となっているものも、おそらく主としてこの種のものであろう。
 火山から噴出した微塵みじんが、高い気層に吹き上げられて高層に不断に吹いている風に乗っておどろくべき遠距離に散布されることは珍しくない。クラカトア火山の爆破のときに飛ばされたちりは、世界中の各所に異常な夕陽の色を現わし、あるいは深夜の空にうかぶ銀白色の雲を生じ、あるいはビショップかんと称する光環こうかんを太陽の周囲に生じたりした。近ごろの研究によると火山の微塵みじんは、あきらかに広区域にわたる太陽の光熱の供給を減じ、気温の降下をひきおこすということである。これに連関して飢饉ききんと噴火の関係を考えた学者さえある。
 蒼空あおぞらの光も、何物なにものか空中にあって太陽の光を散らすもののあるためと考えなければならない。もし何物もない真空であったら、太陽と星とが光るだけで、空は真っ黒に見えなければならない。それで昔の学者はこれを、空中の水滴やまた普通の塵埃じんあいのためと考えたそうだが、今日では別にそういうものを考えずとも、空気のガス分子そのものの作用としてじゅうぶんに説明されることになった。
 こういう光を散らす微粒は、その散らす光の振動方向にかたよりを生ずる、いわゆる偏光を生じる。それで、空の光を適当な偏光器で検査すれば、空の部分によって偏光の度や偏光面の方向が規則正しく分布されていることがわかる。この偏光の度や配置を種々の天候のときに観測してみると、それが空気の溷濁こんだくをおこすようないわゆる塵埃じんあいの多少によって系統的に変化することがわかる。
 この偏光の研究をさらにつきつめていって、この頃では、ちりのない純粋なガスによって散らされる光を精細に検査し、その結果からガス分子自身の形に関するある手がかりを得ようとしている学者もあるようである。

 付記。空中の塵埃じんあいに関して述ぶべき物理的の事項はなお多数にある。たとえば塵埃じんあいに光波があたったときに、光電効果のような作用電子が放散され、それが高層空気の電離をおこすこと、それが無線電信の伝播でんぱに重大な関係を持ちうること、あるいはちりが空中の渦動かどうによって運搬されるメカニズムや、その他いろいろの問題が残っている。限られた紙数では述べつくされないから、ここには略することにした。
(大正十一年(一九二二)五月『科学知識』



底本:「寺田寅彦全集 第六巻」岩波書店
   1997(平成9)年5月6日発行
底本の親本:「寺田寅彦全集 文学篇」岩波書店
   1985(昭和60)年
初出:「科学知識」
   1936(大正11)年5月1日
入力:Nana ohbe
校正:松永正敏
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厄年と etc.

寺田寅彦

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《》:ルビ
(例)強《し》いて

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)ある朝偶然|縁側《えんがわ》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)さなぎ[#「さなぎ」に傍点]
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 気分にも頭脳の働きにも何の変りもないと思われるにもかかわらず、運動が出来ず仕事をする事の出来なかった近頃の私には、朝起きてから夜寝るまでの一日の経過はかなりに永く感ぜられた。強《し》いて空虚を充たそうとする自覚的努力の余勢がかえって空虚その物を引展《ひきの》ばすようにも思われた。これに反して振り返って見た月日の経過はまた自分ながら驚くほどに早いものに思われた。空漠な広野の果を見るように何一つ著しい目標のないだけに、昨日歩いて来た途《みち》と今日との境が付かない。たまたま記憶の眼に触れる小さな出来事の森や小山も、どれという見分けの付かないただ一抹《いちまつ》の灰色の波線を描いているに過ぎない。その地平線の彼方には活動していた日の目立った出来事の峰々が透明な空気を通して手に取るように見えた。
 それがために、最近の数ヶ月は思いの外に早く経ってしまった。衰えた身体を九十度の暑さに持て余したのはつい数日前の事のように思われたのに、もう血液の不充分な手足の末端は、障子や火鉢くらいで防ぎ切れない寒さに凍えるような冬が来た。そして私の失意や希望や意志とは全く無関係に歳末と正月が近づきやがて過ぎ去った。そうして私は世俗で云う厄年《やくどし》の境界線から外へ踏み出した事になったのである。
 日本では昔から四十歳になると、すぐに老人の仲間には入れられないまでも、少なくも老人の候補者くらいには数えられたもののようである。しかし自分はそう思わなかった。四十が来ても四十一が来ても別に心持の若々しさを失わないのみならず肉体の方でもこれと云って衰頽《すいたい》の兆候らしいものは認めないつもりでいた。それでもある若い人達の団体の中では自分等の仲間は中老連などと名づけられていた。
 あまり鏡というものを見る機会のない私は、ある朝偶然|縁側《えんがわ》の日向《ひなた》に誰かがほうり出してあった手鏡を弄《もてあそ》んでいるうちに、私の額の辺に銀色に光る数本の白髪を発見した。十年ほど前にある人から私の頭の頂上に毛の薄くなった事を注意されて、いまに禿《は》げるだろうと、予言された事があるが、どうしたのかまだ禿頭《とくとう》と名の付くほどには進行しない。禿頭は父親から男の子に遺伝する性質だという説があるが、それがもし本当だとすると、私の父は七十七歳まで完全に蔽《おお》われた顱頂《ろちょう》を有《も》っていたから、私も当分は禿げる見込が少ないかもしれない。しかしその代りにいつの間にか白髪が生えていた。
 それから後に気を付けて見ると同年輩の友人の中の誰彼の額やこめかみにも、三尺以上|距《はな》れていてもよく見えるほどの白髪を発見した。まだ自分等よりはずっと若い人で自分より多くの白髪の所有者もあった。ある時たまたま逢った同窓と対話していた時に、その人の背後の窓から来る強い光線が頭髪に映っているのを注意して見ると、漆黒な色の上に浮ぶ紫色の表面色が或るアニリン染料を思い出させたりした。
 またある日私の先輩の一人が老眼鏡をかけた見馴れぬ顔に出会《でくわ》した。そして試みにその眼鏡を借りて掛けて見ると、眼界が急に明るくなるようで何となく爽やかな心持がした。しばらくかけていて外すと、眼の前に蜘蛛《くも》の糸でもあるような気がして、思わず眼の上を指先でこすってみた。それから気が付いて考えてみると、近頃少し細かい字を見る時には、不知不識《しらずしらず》眼を細くするような習慣が生じているのであった。
 去年の夏子供が縁日で松虫を買って来た。そして縁側の軒端《のきば》に吊しておいた。宵のうちには鈴を振るような音がよく聞こえたが、しかしどうかするとその音がまるで反対の方向から聞こえるように思われた。不思議だと思って懐中時計の音で左右の耳の聴力を試験してみると、左の耳が振動数の多い音波に対して著しく鈍感になっている事が分った。のみならず雨戸をしめて後に寝床へはいるとチンチロリンの声が聞こえなかった。すぐ横にねている子供にはよく聞こえているのに。
 私の方では年齢の事などは構わないでいても、年齢の方では私を構わないでおかないのだろう。ともかくも白髪と視力聴力の衰兆とこれだけの実証はどうする事も出来ない。これだけの通行券を握って私は初老の関所を通過した。そしてすぐ眼の前にある厄年の坂を越えなければならなかった。
 厄年というものはいつの世から称え出した事か私は知らない。どういう根拠に依ったものかも分らない。たぶんは多くの同種類の云い伝えと同様に、時と場所との限られた範囲内での経験的資料とある形而上的の思想との結合から生れたものに過ぎないだろう。例えば二百十日に颱風《たいふう》を聯想させたようなものかもしれない。もっとも二百十日や八朔《はっさく》の前後にわたる季節に、南洋方面から来る颱風がいったん北西に向って後に抛物線《ほうぶつせん》形の線路を取って日本を通過する機会の比較的多いのは科学的の事実である。そういう季節の目標として見れば二百十日も意味のない事はない、しかし厄年の方は果してそれだけの意味さえあるものだろうか。
 科学的知識の進歩した結果として、科学的根拠の明らかでない云い伝えは大概他の宗教的迷信と同格に取扱われて、少なくも本当の意味での知識的階級の人からは斥《しりぞ》けられてしまった。もちろん今でも未開時代そのままの模範的な迷信が到るところに行われて、それが俗にいわゆる知識階級のある一部まで蔓延《まんえん》している事は事実であるが、それとは少し趣を異にした事柄で、科学的に験証され得る可能性を具えた命題までが、一からげにして掃き捨てられたという恐れはないものだろうか。そのようにして塵塚に埋れた真珠はないだろうか。
 根拠の無い事を肯定するのが迷信ならば、否定すべき反証の明らかでない命題を否定するのは、少なくも軽率とは云われよう。分らぬ事として竿の先に吊しておくのは慎重ではあろうが忠実とは云われまい。例えば厄年のごときものが全く無意味な命題であるか、あるいは意味の付け方によっては多少の意味の付けられるものではあるまいか。
 このような疑問を抱いて私は手近な書物から人間の各年齢における死亡率の曲線を捜し出してみた。すべての有限な統計的材料に免れ難い偶然的の偏倚《へんい》のために曲線は例のように不規則な脈動的な波を描いている。しかし不幸にして特に四十二歳の前後に跨《また》がった著しい突起を見出すことは出来なかった。これだけから見ると少なくもその曲線の示す範囲内では、四十二歳における死亡の確率が特別に多くはないという漠然とした結論が得られそうに見える。
 しかし統計ほど確かなものはないが、また「統計ほど嘘をつくものはない」という事は争われないパラドックスである。上の曲線は確かに一つの事実を示すが、これは必ずしも厄年の無意味を断定する証拠にはならない。
 科学者が自然現象の週期を発見しようとして被与材料を統計的に調査する時に、ある短い期間については著しい週期を得るにかかわらず、あまり期間を長く採るとそれが消失するような事が往々ある。そのような場合に、短期の材料から得た週期が単に偶然的のものである場合もあるが、またそうでない場合がある。ある期間だけ継続する週期的現象の群が濫発的に錯綜《さくそう》して起る時がそうである。
 これはただ一つの類例に過ぎないが、厄年の場合でも材料の選み方によってはあるいは意外な結果に到着する事がないものだろうか。例えば時代や、季節や、人間の階級や、死因や、そういう標識に従って類別すれば現われ得べき曲線上の隆起が、各類によって位置を異にしたりするために、すべてを重ね合すことによって消失するのではあるまいか。
 このような空想に耽《ふけ》ってみたが、結局は統計学者にでも相談する外はなかった。しかしそんな空想に耳を傾けてくれる学者が手近にあるかないか見当が付かなかった。
 それはとにかくとして最近に私の少数な十に足りない同窓の中で三人まで、わずかの期間に相次いで亡くなった。いずれも四十二を中心とする厄年の範囲に含まれ得べき有為な年齢に病のために倒れてしまった。
 生死ということが単に銅貨を投げて裏が出るか表が出るかというような簡単なことであれば、三遍続けて裏が出るのも、三遍つづいて表が出るのも、少しも不思議な事ではない。もう少し複雑な場合でも、全く偶然な暗合で特殊な事件が続発して、プロバビリティの方則を知らない世人に奇異の念を起させたり、超自然的な因果を想わせる例はいくらでもある。それで私は三人の同窓の死だけから他のものの死の機会を推算するような不合理をあえてしようとは思わない。
 そうかと云って私はまた全くそういう推算の可能性を否定してしまうだけの証拠も持ち合せない。
 例えばある家庭で、同じ疫痢《えきり》のために二人の女の児を引続いて失ったとする。そして死んだ年齢が二人ともに四歳で月までもほぼ同じであり、その上に死んだ時季が同じように夏始めのある月であったとしたら、どうであろう。この場合にはもはや偶然あるいは超自然的因果の境界から自然科学的の範囲に一歩を踏み込んでいるように思われて来る。
 そういう方面から考えて行くと、同時代に生れて同様な趣味や目的をもって、同じ学校生活を果した後に、また同じような雰囲気の中に働いて来たものが多少生理的にも共通な点を具えていて、そしてある同じ時期に死病に襲われるという事は、全く偶然の所産としてしまうほどに偶然とも思われない。
 このような種類の機微な吻合《ふんごう》がしばしば繰り返されて、そしてその事が誇大視された結果としていわゆる厄年の説が生れたと見るべき理由が無いでもない。
 ある柳の下にいつでも泥鰌《どじょう》が居るとは限らないが、ある柳の下に泥鰌の居りやすいような環境や条件の具備している事もまたしばしばある。そういう意味でいわゆる厄年というものが提供する環境や条件を考えてみたらどうだろう。
「思考の節約」という事を旗じるしに押し立てて進んで来たいわゆる精密科学は、自然界におけるあらゆる物並びにその変化と推移を連続的のものと見做《みな》そうとする傾向を生じた。そして事情の許す限りは物質を空隙のないコンチニウムと見做す事によってその運動や変形を数学的に論じる事が出来た。あらゆる現象は出来るだけ簡単な数式や平滑な曲線によって代表されようとした。その同じ傾向は生物に関する科学の方面へも滲透して行った。そして「自然は簡単を愛す」と云ったような昔の形而上的な考えがまだ漠然とした形である種の科学者の頭の奥底のどこかに生き残って来た。
 しかしそういう方法によって進歩して来た結果はかえってその方法自身を裏切る事になった。物質の不連続的構造はもはや仮説の域を脱して、分子や原子、なおその上に電子の実在が動かす事の出来ないようになった。その上にエネルギーの推移にまでも或る不連続性を否《いな》む事が出来なくなった。生物の進化でも連続的な変異は否定されて飛躍的な変異を認めなければならないようになった。
 水の流れや風の吹くのを見てもそれは決して簡単な一様な流動でなくて、必ずいくらかの律動的な弛張がある、これと同じように生物の発育でも決して簡単な二次や三次の代数曲線などで表わされるようなものではない。
 例えば昆虫の生涯を考えても、卵から低級な幼虫になってそれがさなぎ[#「さなぎ」に傍点]になり成虫になるあの著しい変化は、昆虫の生涯における目立った律動のようなものではあるまいか。
 人間の生涯には、少なくも母体を離れた後にこのように顕著な肉体的の変態があるとは思われない。しかしある程度の不連続な生理的変化がある時期に起る事もよく知れ渡った事実である。蚕《かいこ》や蛇が外皮を脱ぎ捨てるのに相当するほど目立った外見上の変化はないにしても、もっと内部の器官や系統に行われている変化がやはり一種の律動的|弛張《しちょう》をしないという証拠はよもやあるまいと思われる。
 そのような律動のある相が人間肉体の生理的危機であって不安定な平衡が些細《ささい》な機縁のために破れるやいなや、加速的に壊滅の深淵に失墜するという機会に富んでいるのではあるまいか。
 このような六《むつ》ヶしい問題は私には到底分りそうもない。あるいは専門の学者にも分らないほど六ヶしい事かもしれない。
 それにしても私は今自分の身体に起りつつある些細な変態の兆候を見て、内部の生理的機能についてもある著しい変化を聯想しないではいられない。それと同時に私の心の方面にもある特別な状態を認め得るような気がする。それが肉体の変化の直接の影響であるか、あるいは精神的変化が外界の刺戟《しげき》に誘発されてそれがある程度まで肉体に反応しているのだか分らない。
 厄年の厄と見做されているのは当人の病気や死とは限らない。家庭の不祥事や、事業の失敗や、時としては当人には何の責任もない災厄までも含まれているようである。
 街を歩いている時に通り合せた荷車の圧搾ガス容器が破裂してそのために負傷するといったような災厄が四十二歳前後に特別に多かろうと思われる理由は容易には考えられない。しかしそれほど偶然的でない色々な災難の源を奥へ奥へ捜《さぐ》って行った時に、意外な事柄の継起によってそれが厄年前後における当人の精神的危機と一縷《いちる》の関係をもっている事を発見するような場合はないものだろうか。例えばその人が従来続けて来た平静な生活から転じて、危険性を帯びたある工業に関係した当座に前述のような災難に会ったとしたらどうであろう。少なくも親戚の老人などの中にはこの災難と厄年の転業との間にある因果関係を思い浮べるものも少なくないだろう。しかしこれは空風《からかぜ》が吹いて桶屋が喜ぶというのと類似の詭弁《きべん》に過ぎない。当面の問題には何の役にも立たない。
 しかしともかくも厄年が多くの人の精神的危機であり易《やす》いという事はかなりに多くの人の認めるところではあるまいか。昔の聖人は四十歳にして惑《まど》わずと云ったそうである。これが儒教道徳に養われて来たわれわれの祖先の標準となっていた。現代の人間が四十歳くらいで得た人生観や信条をどこまでも十年一日のごとく固守して安心しているのが宜《よ》いか悪いか、それとも死ぬまでも惑い悶《もだ》えて衰頽した躯《からだ》を荒野に曝《さら》すのが偉大であるか愚であるか、それは別問題として、私は「四十にして不惑《まどわず》」という言葉の裏に四十は惑い易い年齢であるという隠れた意味を認めたい。
 二十歳代の青年期に蜃気楼《しんきろう》のような希望の幻影を追いながら脇目もふらずに芸能の修得に勉めて来た人々の群が、三十前後に実世界の闘技場の埒内《らちない》へ追い込まれ、そこで銘々のとるべきコースや位置が割り当てられる。競技の進行するに従って自然に優勝者と劣敗者の二つの群が出来てくる。
 優者の進歩の速度は始めには目ざましいように早い。しかし始めには正であった加速度はだんだん減少して零になって次には負になる。そうしてちょうど四十歳近くで漸近的に一つの極限に接近すると同時に速度は減退して零に近づく。そこでそのままに自然に任せておけばどうなるだろう。たどり付いた漸近線の水準を保って行かれるだろうか。このような疑問の岐路に立ってある人は何の躊躇《ちゅうちょ》もなく一つの道をとる。そして爪先下りのなだらかな道を下へ下へとおりて行く、ある人はどこまでも同じ高さの峰伝いに安易な心を抱いて同じ麓の景色を眺めながら、思いがけない懸崖《けんがい》や深淵が路を遮る事の可能性などに心を騒がすようなことなしに夜の宿駅へ急いで行く。しかし少数のある人々はこの生涯の峠に立って蒼空を仰ぐ、そして無限の天頂に輝く太陽を握《つか》もうとして懸崖から逆さまに死の谷に墜落する。これらの不幸な人々のうちのきわめて少数なあるものだけは、微塵に砕けた残骸から再生する事によって、始めて得た翼を虚空に羽搏《はばた》きする。
 劣者の道の谷底の漸近線までの部分は優者の道の倒影に似ている。そして谷底まで下りた人の多数はそのままに麓の平野を分けて行くだろうし、少数の人はそこからまた新しい上り坂に取りつきあるいはさらに失脚して再び攀上《よじのぼ》る見込のない深坑に落ちるのであろうが、そのような岐《わか》れ路《みち》がやはりほぼ四十余歳の厄年近辺に在るのではあるまいか。

 このような他愛もない事を考えながらともかくも三年にわたる厄年を過して来た。厄年に入る前年に私は家族の一人を失ったが、その後にはそれほど著しい不幸には会わなかった。もっとも四十二の暮から自分で病気に罹《かか》って今でもまだ全快しない。この病気のために生じた色々な困難や不愉快な事がないではなかったが、しかしそれは厄年ではなくても不断に私につきまとっているものとあまり変らない程度のものであった。それでともかくも生命に別条がなくて今日までは過ぎて来た。
 それで結局これから私はどうしたらいいのだろう。

 厄年の峠を越えようとして私は人並に過去の半生涯を振り返って見ている。もう昼過ぎた午後の太陽の光に照らされた過去を眺めている、そして人並に愧《は》じたり悔やんだり惜しんだりしている。「有った事は有ったのだ」と幾百万人の繰返した言葉をさらに繰返している。
 過去というものは本当にどうする事も出来ないものだろうか。
 私の過去を自分だけは知っていると思っていたが、それは嘘らしい。現在を知らない私に過去が分るはずはない。原因があって結果があると思っていたが、それも誤りらしい。結果が起らなくてどこに原因があるだろう。重力があって天体が運行して林檎《りんご》が落ちるとばかり思っていたがこれは逆さまであった。英国の田舎である一つの林檎が落ちてから後に万有引力が生れたのであった。その引力がつい近頃になってドイツのあるユダヤ人の鉛筆の先で新しく改造された。
 過去を定めるものは現在であって、現在を定めるものが未来ではあるまいか。
 それともまた現在で未来を支配する事が出来るものだろうか。
 これは私には分らない、おそらく誰にも分らないかもしれない。この分らない問題を解く試みの方法として、私は今一つの実験を行ってみようとしている。それには私の過去の道筋で拾い集めて来たあらゆる宝石や土塊や草花や昆虫や、たとえそれが蚯蚓《みみず》や蛆虫《うじむし》であろうとも一切のものを「現在の鍋」に打《ぶ》ち込んで煮詰めてみようと思っている。それには古人が残してくれた色々な香料や試薬も注いでみようと思っている。その鍋を火山の火にかけて一晩おいた後に一番鶏《いちばんどり》が鳴いたら蓋をとってみようと思っている。
 蓋を取ったら何が出るだろう。おそらく何も変った物は出ないだろう。始めに入れておいただけの物が煮爛《にただ》れ煮固まっているに過ぎないだろうとしか思われない。しかし私はその鍋の底に溜った煎汁《せんじゅう》を眼を瞑《つむ》って呑み干そうと思う。そうして自分の内部の機能にどのような変化が起るかを試験してみようと思っている。もし私の眼や手になんらかの変化が起ったら、その新しい眼と手で私の過去を見直し造り直してみよう。そしてその上に未来の足場を建ててみよう。もしそれが出来たら「厄年」というものの意義が新しい光明に照らされて私の前に現われはしまいか。
 こう思って私は過去の旅行カバンの中から手捜《てさぐ》りに色々なものを取り出して並べて見ている。
 先ず色々の書物が出て来る、大概は汚れたり虫ばんだりしてもう読めなくなっている。様々な神や仏の偶像も出て来るが一つとして欠け損じていないのはない。茶褐色に変ったげんげ[#「げんげ」に傍点]やばら[#「ばら」に傍点]の花束や半分喰い欠いだ林檎もあった。修学証書や辞令書のようなものの束ねたのを投げ出すと黴臭《かびくさ》い塵が小さな渦を巻いて立ち昇った。
 定規《じょうぎ》のようなものが一|把《わ》ほどあるがそれがみんな曲りくねっている。升《ます》や秤《はかり》の種類もあるが使えそうなものは一つもない。鏡が幾枚かあるがそれらに映る万象はみんなゆがみ捻《ねじ》れた形を見せる。物差のようなもので半分を赤く半分を白く塗り分けたものがある。私はこの簡単な物差ですべてのものを無雑作に可否のいずれかに決するように教えられて来たのであった。骨牌《カルタ》のような札の片側には「自」反対の側には「他」と書いてある。私は時と場合とに応じてこの札の裏表を使い分ける事を教えられた。
 見ているうちに私はこの雑多な品物のほとんど大部分が皆貰いものや借り物である事に気が付いた。自分の手で作るか、自分の労力の正当な報酬として得たもののあまりに少ないのに驚いた。これだけの負債を弁済する事が生涯に出来るかどうか疑わしい。しかし幸か不幸か債権者の大部分はもうどこにいるか分らない。一巻の絵巻物が出て来たのを繙《ひもと》いて見て行く。始めの方はもうぼろぼろに朽ちているが、それでもところどころに比較的鮮明な部分はある。生れて間もない私が竜門《りゅうもん》の鯉を染め出した縮緬《ちりめん》の初着《うぶぎ》につつまれ、まだ若々しい母の腕に抱かれて山王《さんのう》の祠《やしろ》の石段を登っているところがあるかと思うと、馬丁に手を引かれて名古屋の大須観音《おおすかんのん》の広庭で玩具を買っている場面もある。淋しい田舎の古い家の台所の板間で、袖無を着て寒竹《かんちく》の子《こ》の皮をむいているかと思うと、その次には遠い西国のある学校の前の菓子屋の二階で、同郷の学友と人生を論じている。下谷《したや》のある町の金貸しの婆さんの二階に間借りして、うら若い妻と七輪《しちりん》で飯を焚《た》いて暮している光景のすぐあとには、幼い児と並んで生々しい土饅頭《どまんじゅう》の前にぬかずく淋しい後姿を見出す。ティアガルテンの冬木立や、オペラの春の夜の人の群や、あるいは地球の北の果の淋しい港の埠頭《ふとう》や、そうした背景の前に立つ佗《わび》しげな旅客の絵姿に自分のある日の片影を見出す。このような切れ切れの絵と絵をつなぐ詞書《ことばが》きがなかったら、これがただ一人の自分の事だとは自分自身にさえ分らないかもしれない。
 巻物の中にはところどころに真黒な墨で塗りつぶしたところがある。しかしそこにあるべきはずの絵は、実際絵に描いてあるよりも幾倍も明瞭に墨の下に透いて見える。
 不思議な事には巻物の初めの方に朽ち残った絵の色彩は眼のさめるほど美しく保存されているのに、後の方になるほど絵の具の色は溷濁《こんだく》して、次第に鈍い灰色を帯びている。
 絵巻物の最後にある絵はよほど奇妙なものである。そこには一つの大きな硝子《ガラス》の蠅取罎《はえとりびん》がある。その中に閉込められた多数の蠅を点検して行くとその中に交じって小さな人間が居る。それがこの私である。罎から逃れ出る穴を上の方にのみ求めて幾度か眼玉ばかりの頭を硝子の壁に打ち当てているらしい。まだ幸いに器底の酢の中に溺れてはいない。自由な空へ出るのには一度罎の底をくぐらなければならないという事が蠅にも小さな私にも分らないと見える。もっとも罎を逃れたとしたところで、外界には色々な蠅打ちや蠅取蜘蛛《はえとりぐも》が窺《うかが》っている。それを逃れたとしても必然に襲うて来る春寒《はるさむ》の脅威は避け難いだろう。そうすると罎を出るのも考えものかもしれない。
 過去の旅嚢《りょのう》から取り出される品物にはほとんど限りがない。これだけの品数を一度に容《い》れ得る「鍋」を自分は持っているだろうか。鍋はあるとした上でも、これだけのものを沸騰させ煮つめるだけの「燃料」を自分は貯えてあるだろうか。
 この点に考え及ぶと私は少し心細くなる。

 厄年の関を過ぎた私は立止ってこんな事を考えてみた。しかし結局何にもならなかった。厄年というものの科学的解釈を得ようと思ったが失敗した。主観的な意味を求めてみたが、得たものはただ取り止めの付かぬ妄想に過ぎなかった。
 しかし、誰か厄年の本当の意味を私に教えてくれる人はないものだろうか。誰かこの影の薄くなった言葉を活かして「四十の惑い」を解いてくれる人はないだろうか。
[#地から1字上げ](大正十年四月『中央公論』)



底本:「寺田寅彦全集 第三巻」岩波書店
   1997(平成9)年2月5日発行
底本の親本:「寺田寅彦全集 文学篇」岩波書店
   1985(昭和60)年発行
初出:「中央公論」
   1921(大正10)年4月1日
※初出時の署名は「吉村冬彦」。
※「冬彦集」に収録された。
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:砂場清隆
校正:多羅尾伴内
2003年11月11日作成
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断水の日

寺田寅彦

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)頻繁《ひんぱん》に

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)多少|亀裂《きれつ》でもはいって

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)適当になます[#「なます」に傍点]とか
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 十二月八日の晩にかなり強い地震があった。それは私が東京に住まうようになって以来覚えないくらい強いものであった。振動週期の短い主要動の始めの部分に次いでやって来る緩慢な波動が明らかにからだに感ぜられるのでも、この地震があまり小さなものではないと思われた。このくらいのならあとから来る余震が相当に頻繁《ひんぱん》に感じられるだろうと思っていると、はたしてかなり鮮明なのが相次いでやって来た。
 山の手の、地盤の固いこのへんの平家でこれくらいだから、神田《かんだ》へんの地盤の弱い所では壁がこぼれるくらいの所はあったかもしれないというような事を話しながら寝てしまった。
 翌朝の新聞で見ると実際下町ではひさしの瓦《かわら》が落ちた家もあったくらいでまず明治二十八年来の地震だという事であった。そしてその日の夕刊に淀橋《よどばし》近くの水道の溝渠《こうきょ》がくずれて付近が洪水《こうずい》のようになり、そのために東京全市が断水に会う恐れがあるので、今大急ぎで応急工事をやっているという記事が出た。
 偶然その日の夕飯の膳《ぜん》で私たちはエレベーターの話をしていた。あれをつるしてある鋼条が切れる心配はないかというような質問が子供のうちから出たので、私はそのような事のあった実例を話し、それからそういう危険を防止するために鋼条の弱点の有無を電磁作用で不断に検査する器械の発明されている事も話しなどした。それを話しながらも、また話したあとでも、私の頭の奥のほうで、現代文明の生んだあらゆる施設の保存期限が経過した後に起こるべき種々な困難がぼんやり意識されていた。これは昔天が落ちて来はしないかと心配した杞《き》の国の人の取り越し苦労とはちがって、あまりに明白すぎるほど明白な、有限な未来にきたるべき当然の事実である。たとえばやや大きな地震があった場合に都市の水道やガスがだめになるというような事は、初めから明らかにわかっているが、また不思議に皆がいつでも忘れている事実である。
 それで食後にこの夕刊の記事を読んだ時に、なんとなしに変な気持ちがした。今のついさきに思った事とあまりによく適応したからである。
 それにしても、その程度の地震で、そればかりで、あの種類の構造物が崩壊するのは少しおかしいと思ったが、新聞の記事をよく読んでみると、かなり以前から多少|亀裂《きれつ》でもはいって弱点のあったのが地震のために一度に片付いてしまったのであるらしい。そのような亀裂の入ったのはどういうわけだか、たとえば地盤の狂いといったような不可抗の理由によるのか、それとも工事が元来あまり完全ではなかったためだか、そんな事は今のところだれにもわからない問題であるらしい。
 それはいずれにしても、こういう困難はいつかは起こるべきはずのもので、これに対する応急の処置や設備はあらかじめ充分に研究されてあり、またそのような応急工事の材料や手順はちゃんと定められていた事であろうと思って安心していた。
 十日は終日雨が降った、そのために工事が妨げられもしたそうで、とうとう十一日は全市断水という事になった。ずいぶん困った人が多かったには相違ないが、それでも私のうちでは幸いに隣の井戸が借りられるのでたいした不便はなかった。昼ごろ用があって花屋へ行って見たらすべての花は水々していた。昼過ぎに、遠くない近所に火事があったがそれもまもなく消えた。夕刊を見ながら私は断水の不平よりはむしろ修繕工事を不眠不休で監督しているいわゆる責任のある当局の人たちの心持ちを想像して、これも気の毒でたまらないような気もした。
 このような事のある一方で、私の宅《うち》の客間の電燈をつけたり消したりするために壁に取りつけてあるスイッチが破損して、明かりがつかなくなってしまった。電燈会社の出張所へ掛け合ってみたが、会社専用のスイッチでなくて、式のちがったのだから、こちらで買ってからでないと付け換えてくれない。それでやむを得ず私は道具箱の中から銅線の切れはしを捜し出して、ともかくも応急の修理を自分でやって、その夜はどうにか間に合わせた。その時に調べてみるとボタンを押した時に電路を閉じるべき銅板のばねの片方の翼が根元から折れてしまっていたのである。
 実はよほど前に、便所に取り付けてある同じ型のスイッチが、やはり同じ局部の破損のために役に立たなくなって、これもその当座自分で間に合わせの修理をしたままで、ついそれなりにしておいたのである。取り付けてからまだ三年にもならないうちに二個までも同じ部分が破損するところを見ると、このスイッチのこしらえ方はあまりよくないと言わなければならない。もう少し作り方なり材料なりを親切に研究したのなら、これほどもろくできるはずはないだろうと思われた。銅板を曲げた角《かど》の所にはどの道かなり無理がいっているから、あとで適当になます[#「なます」に傍点]とか、あるいは使用のたびにそこに無理が繰り返されないように構造のほうをくふうするとか、なんとかしてほしいものだと思った。
 水道の断水とスイッチの故障との偶然な合致から、私はいろいろの日本でできる日用品について平生から不満に思っていた事を一度に思い出させられるような心持ちになって来た。
 第一に思い出したのが呼び鈴の事であった。今の住居に移った際に近所の電気屋さんに頼んで、玄関や客間の呼び鈴を取り付けてもらった。ところが、それがどうも故障が多くて鳴らぬ勝ちである。電池が悪いかと思って取り換えてもすぐいけなくなる。よく調べてみると銅線の接合した所はハンダ付けもしないでテープも巻かずにちょっとねじり合わせてあるのだが、それが台所の戸棚《とだな》の中などにあるからまっ黒くさびてしまっている。それをみがいて継ぎ直したらいくらかよくなったが、またすぐにいけなくなる。だんだんに吟味してみると電鈴自身のこしらえ方がどうしてもほんとうでないらしい。ほんとうなら白金か何か酸化しない金属を付けておくべき接触点がニッケルぐらいでできているので、少し火花が出るとすぐに電気を通さなくなるらしい。時々そこをゴリゴリすり合わせるとうまく鳴るが、毎日忘れずにそれをやるのはやっかいである。これはいったいコイルの巻き数や銅線の大きさなどが全くいいかげんにできていて、むやみに強い電流が流れるからと思われる。それだからちょっとやってみる試験には通過しても、長い使用には堪えないように初めからできている。それを二年も三年も使おうというほうが無理だということがわかった。そしてずいぶん不愉快な気がした。こういうものが平気に市場に出ていて、だれでもがそれを甘んじて使っているかと思うのが不愉快であった。しかしまさかこんなにせ物ばかりもあるまいと思って、試みに銀座《ぎんざ》のある信用ある店でよく聞きただした上で買って来たのを付け換えたら、今度はまずいいようである。ついでに導線の接合をすっかりハンダで付けさせようと思ったが前の電気屋はとうの昔どこかへ引っ越していなくなったし、別のに頼んでみるとめんどうくさがって、そしてハンダ付けなど必要はないと言ってなかなかやってはくれない。
 少々価は高くとも長い使用に堪えるほんとうのものがほしいと思っても、そんなものは今の市場ではなかなか容易には得られない。たとえばプラチナを使った呼び鈴などは、高くてだれも買い手はないそうである。これは実際それほど必要ではないかもしれないが、プラチナを使わないなら使わなくてもいいだけにほかの部分の設計ができていないのはどうも困る。
 私の頼んだ電気屋が偶然最悪のものであったかもしれないが、ほうぼうに鳴らない玄関の呼び鈴が珍しくないところから見ると私と同じ場合はかなりに多いかもしれない。
 もしこんな電気屋が栄え、こんな呼び鈴がよく売れるとすると、その責任の半分ぐらいは、あまりにおとなしくあきらめ[#「あきらめ」に傍点]のいい使用者の側にもありはしまいか。
 呼び鈴に限らず多くの日本製の理化学的器械についてよく似た事に幾度出会ったかわからないくらいである。たとえばおもちゃのモートルを店屋でちょっとやってみる時はよく回るが買って来て五分もやればブラシの所がやけて[#「やけて」に傍点]もういけなくなる。
 蓄音機の中の歯車でもじきにいけなくなるのがある。これは歯車の面の曲率などがいいかげんなためだか、材料が悪いためだかわからない。おそらく両方かもしれない。
 このような似て非なるものを製する人の中には、西洋でできた品をだいたいの外形だけ見て、ただいいかげんにこしらえればそれでいいものだと思っているのがあるいはありはしまいか。ある人の話では電気の絶縁のためにエボナイトを使ってある箇所を真鍮《しんちゅう》で作って、黒く色だけをつけておいた器械屋があるという。これはおそらくただの話かもしれない。しかしそれと五十歩百歩のいいかげんさは至るところにあるかもしれない。
 五十年前に父が買った舶来のペンナイフは、今でも砥石《といし》をあてないでよく切れるのに、私がこのあいだ買った本邦製のはもう刃がつぶれてしまった。古ぼけた前世紀の八角の安時計が時を保つのに、大正できの光る置き時計の中には、年じゅう直しにやらなければならないのがある。
 すべてのものがただ外見だけの間に合わせもので、ほんとうに根本の研究を経て来たものでないとすると、実際われわれは心細くなる。質の研究のできていない鈍刀はいくら光っていても格好がよくできていてもまさかの場合に正宗《まさむね》の代わりにならない。
 品物について私の今言ったような事が知識や思想についても言われうるというような事にでもなるといよいよ心細くなるわけであるが、そういう心配が全くないとも言われないような気がする。
 水道の止まった日の午《ひる》ごろ、縁側の日向《ひなた》で子供が絵はがきを並べて遊んでいた。その絵はがきの中に天文や地文に関する図解や写真をコロタイプで印刷した一組のものが目についた。取り上げてよく見ると、それはずいぶん非科学的な、そして見る人に間違った印象や知識を与えるものであった。なかんずく月の表面の凹凸《おうとつ》の模様を示すものや太陽の黒点や紅炎やコロナを描いたものなどはまるでうそだらけなものであった。たとえば妙な紅炎が変にとがった太陽の縁に突出しているところなどは「離れ小島の椰子《やし》の木」とでも言いたかった。
 科学の通俗化という事の奨励されるのは誠に結構な事であるが、こういうふうに堕落してまで通俗化されなければならないだろうかと思ってみた。科学その物のおもしろみは「真」というものに付随しているから、これを知らせる場合に、非科学的な第二義的興味のために肝心の真を犠牲にしてはならないはずである。しかし実際の科学の通俗的解説には、ややもするとほんとうの科学的興味は閑却されて、不妥当な譬喩《ひゆ》やアナロジーの見当違いな興味が高調されやすいのは惜しい事である。そうなっては科学のほうは借りもので、結果はただ誤った知識と印象を伝えるばかりである。私はほんとうに科学を通俗化するという事はよほどすぐれた第一流の科学者にして初めてできうる事としか思われないのに、事実はこれと反対な傾向のあるのを残念に思う。
 このようにして普及された間に合わせの科学的知識をたよりにしている不安さは、不完全な水道をあてにしている市民の不安さに比べてどちらとも言われないと思った。そして不愉快な日の不愉快さをもう一つ付け加えられるような気がした。
 水道がこんなぐあいだと、うちでも一つ井戸を掘らなければなるまいという提議が夕飯の膳《ぜん》で持ち出された。しかしおそらくこの際同じような事を考える人も多数にあるだろう、従って当分は井戸掘りの威勢が強くてとてもわれわれの所へは手が回らないかもしれないという説も出た。
 こんな話をしているうちにも私の連想は妙なほうへ飛んで、欧州大戦当時に従来ドイツから輸入を仰いでいた薬品や染料が来なくなり、学術上の雑誌や書籍が来なくなって困った事を思い出した。そしてドイツ自身も第一にチリ硝石の供給が断えて困るのを、空気の中の窒素を採って来てどしどし火薬を作り出したあざやかな手ぎわをも思い出した。
 そして、どうしてもやはり、家庭でも国民でも「自分のうちの井戸」がなくては安心ができないという結論に落ちて行くのであった。
 翌日も水道はよく出なかった。そして新聞を見ると、このあいだできあがったばかりの銀座通りの木煉瓦《もくれんが》が雨で浮き上がって破損したという記事が出ていた。多くの新聞はこれと断水とをいっしょにして市当局の責任を問うような口調を漏らしていた。私はそれらの記事をもっともと思うと同時にまた当局者の心持ちも思ってみた。
 水道にせよ木煉瓦にせよ、つまりはそういう構造物の科学的研究がもう少し根本的に行き届いていて、あらゆる可能な障害に対する予防や注意が明白にわかっていて、そして材料の質やその構造の弱点などに関する段階的系統的の検定を経た上でなければ、だれも容認しない事になっていたのならば、おそらくこれほどの事はあるまいと思われる。
 長い使用に堪えない間に合わせの器物が市場にはびこり、安全に対する科学的保証の付いていない公共構造物が至るところに存在するとすれば、その責めを負うべきものは必ずしも製造者や当局者ばかりではない。
 もしも需要者のほうで粗製品を相手にしなければ、そんなものは自然に影を隠してしまうだろう。そしてごまかしでないほんもの[#「ほんもの」に傍点]が取って代わるに相違ない。
 構造物の材料や構造物に対する検査の方法が完成していれば、たちの悪い請負師《うけおいし》でも手を抜くすきがありそうもない。そういう検定方法は切実な要求さえあらばいくらでもできるはずであるのにそれが実際にはできていないとすれば、その責任の半分は無検定のものに信頼する世間にもないとは言われないような気がする。
 私が断水の日に経験したいろいろな不便や不愉快の原因をだんだん探って行くと、どうしても今の日本における科学の応用の不徹底であり表面的であるという事に帰着して行くような気がする。このような障害の根を絶つためには、一般の世間が平素から科学知識の水準をずっと高めてにせ物と本物とを鑑別する目を肥やしそして本物を尊重しにせ物を排斥するような風習を養うのがいちばん近道で有効ではないかと思ってみた。そういう事が不可能ではない事は日本以外の文明国の実例がこれを証明しているように見える。
 こんな事を考えているとわれわれの周囲の文明というものがだんだん心細くたよりないものに思われて来た。なんだか炬燵《こたつ》を抱いて氷の上にすわっているような心持ちがする。そして不平を言い人を責める前にわれわれ自身がもう少ししっかり[#「しっかり」に傍点]しなくてはいけないという気がして来た。

 断水はまだいつまで続くかわからないそうである。
 どうしても「うちの井戸」を掘る事にきめるほかはない。
[#地から3字上げ](大正十一年一月、東京・大阪朝日新聞)



底本:「寺田寅彦随筆集 第一巻」小宮豊隆編、岩波文庫、岩波書店
   1947(昭和22)年2月5日第1刷発行
   1963(昭和38)年10月16日第28刷改版発行
   1997(平成9)年12月15日第81刷発行
入力:(株)モモ
校正:かとうかおり
2003年5月20日作成
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塵埃と光

寺田寅彦

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)塵埃《じんあい》を見て

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#ここから1字下げ]
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 昔ギリシアの哲学者ルクレチウスは窓からさしこむ日光の中に踊る塵埃《じんあい》を見て、分子説の元祖になったと伝えられている。このような微塵《みじん》は通例有機質の繊維や鉱物質の土砂の破片から成り立っている。比重は無論空気に比べて著しく大きいが、その体積に対して面積が割合に大きいために、空気の摩擦の力が重力の大部分を消却し、その上到るところに渦のような気流があるために永く空中に浮游しうるのである。その外に煙突の煙からは煤《すす》に混じて金属の微粒も出る、火山の噴出物もまた色々の塵《ちり》を供給する。その上に地球以外から飛来する隕石《いんせき》の粉のようなものが、いわゆる宇宙塵《コスミックダスト》として浮游《ふゆう》している。
 このような塵に太陽から来る光波が当れば、波のエネルギーの一部は直線的の進行を遮られて、横の方に散らされる。丁度池の面に起った波の環が杭《くい》のようなものにあたったとき、そこから第二次の波が起ると同じ訳である。それがために、塵は光の進行を妨げると同時にそれを他の方面に分配する役目をする。塵を含んだ空気を隔てて遠方の景色を見る時に、遠いものほどその物から来る光が減少して、その代りに途中の塵から散らされて来る空の光の割合が多くなるから、目的物がぼんやりする訳である。
 池の面の波紋でも実験されるように、波の長さが障碍物《しょうがいぶつ》の大きさに対して割合に小さいほど、横に散らされる波のエネルギーの割合が増す。従って白色光を組成する各種の波のうちでも青や紫の波が赤や黄の波よりも多く散らされる。それで塵の層を通過して来た白光には、青紫色が欠乏して赤味を帯び、その代りに投射光の進む方向と直角に近い方向には、青味がかった色の光が勝つ道理である。遠山の碧《あお》い色や夕陽の色も、一部はこれで説明される。煙草《たばこ》の煙を暗い背景にあてて見た時に、青味を帯びて見えるのも同様な理由によると考えられる。
 このように、光の色を遮り分ける作用は、塵の粒が光の波の長さに対して、あまり大きくなればもう感じられなくなる。それで、遠景の碧味がかった色を生ずるような塵はよほど小さなもので、普通の意味の顕微鏡的な塵よりも一層微細なものではないかと疑いが起る。
 普通の顕微鏡では見えないほどの細かい塵の存在を確かめ、その数を算定するために、アイケンという人が発明した器械がある。その容器の中の空気に、充分湿気を含ませておいてこれを急激に膨張させると、空気は膨張のために冷却し含んでいた水蒸気を持ち切れなくなるために、霧のような細かい水滴が出来る。この水滴が出来るためには、必ず何かその凝縮する時に取りつく核のようなものが必要であって、これがなければ温度が下がっても凝縮は起らない。従ってこの際出来る水滴の数を顕微鏡で数えれば、そのような凝縮核の数が分る勘定である。この器械で研究してみると、通俗な意味で塵と称するものでなくても、凝縮の中核となるものは色々ある。特に荷電されたガスのイオンのようなものでも湿気が充分多くていわゆる過飽和度が高ければ、やはり凝縮を起す事が明らかになった。しかし実際の空気中ではそれほどの過飽和状態はないから、雲や霧の凝縮を起すものはそれよりも大きいものであろうと考えられる。それは色々な湿気を吸いやすい化合物の分子の多数集まった集団のようなものであろうと考えられている。
 上昇気流のために生ずる積雲が、下降気流その他の原因で消滅した跡には、これらの凝縮核の集合した層が取り残される。地上から仰いで見てはよく分らないが、飛行機でその層を横にすかして見ると、それが明らかな層をなして棚引き、いわゆる「塵の地平線」を形成している。夕陽の色の原因となっているものも、おそらく主としてこの種のものであろう。
 火山から噴出した微塵が、高い気層に吹き上げられて高層に不断に吹いている風に乗って驚くべき遠距離に散布される事は珍しくない。クラカトア火山の爆破の時に飛ばされた塵は、世界中の各所に異常な夕陽の色を現わし、あるいは深夜の空に泛《うか》ぶ銀白色の雲を生じ、あるいはビショップ環《かん》と称する光環を太陽の周囲に生じたりした。近頃の研究によると火山の微塵は、明らかに広区域にわたる太陽の光熱の供給を減じ、気温の降下を惹き起すという事である。これに聯関して饑饉《ききん》と噴火の関係を考えた学者さえある。
 蒼空《あおぞら》の光も何物か空中にあって、太陽の光を散らすもののあるためと考えなければならない。もし何物もない真空であったら、太陽と星とが光るだけで、空は真黒に見えなければならない。それで昔の学者はこれを空中の水滴やまた普通の塵埃のためと考えたそうだが、今日では別にそういうものを考えずとも、空気のガス分子そのものの作用として充分に説明される事になった。
 こういう光を散らす微粒はその散らす光の振動方向に片寄りを生ずる、いわゆる偏光を生じる。それで空の光を適当な偏光器で検査すれば、空の部分によって偏光の度や偏光面の方向が規則正しく分布されている事が分る。この偏光の度や配置を種々の天候の時に観測して見ると、それが空気の溷濁《こんだく》を起すようないわゆる塵埃の多少によって系統的に変化する事が分る。
 この偏光の研究を更につきつめて行って、この頃では塵のない純粋なガスによって散らされる光を精細に検査し、その結果からガス分子自身の形に関するある手掛りを得ようとしている学者もあるようである。
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 附記。空中の塵埃に関して述ぶべき物理的の事項はなお多数にある。例えば塵埃に光波が当った時に、光電効果のような作用電子が放散され、それが高層空気の電離を起す事、それが無線電信の伝播《でんぱ》に重大な関係を持ち得る事、あるいは塵が空中の渦動《かどう》によって運搬されるメカニズムやその他色々の問題が残っている。限られた紙数では述べ尽されないからここには略することにした。
[#ここで字下げ終わり]
[#地から1字上げ](大正十一年五月『科学知識』)



底本:「寺田寅彦全集 第六巻」岩波書店
   1997(平成9)年5月6日発行
底本の親本:「寺田寅彦全集 文学篇」岩波書店
   1985(昭和60)年
初出:「科学知識」
   1936(大正11)年5月1日
入力:Nana ohbe
校正:松永正敏
2006年10月16日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。



*地名

(※ 市町村名は、平成の大合併以前の表記のまま。
  • -----------------------------------
  • 厄年と etc.
  • -----------------------------------
  • [名古屋]
  • 大須観音 おおす かんのん 真福寺の通称。
  • 真福寺 しんぷくじ 名古屋市中区にある真言宗の寺。別称、宝生院。通称、大須観音。建久(1190〜1199)年中、尾張国中島郡大須郷(岐阜県羽島市)に建立、中島観音堂と称したものを1612年(慶長17)現在地に移建。古事記・日本霊異記などの古写本を蔵し、大須本・真福寺本と称する。
  • [東京]
  • 下谷 したや 東京都台東区の一地区。もと東京市35区の一つ。
  • [ドイツ]
  • ティアガルテン → ティーアガルテンか
  • ティーアガルテン Tiergarten ドイツの首都ベルリン中部の地区。ブランデンブルク門の西側で、同名の広い公園がある。(コン地名)
  • -----------------------------------
  • 断水の日
  • -----------------------------------
  • 淀橋 よどばし (1) もと東京都新宿区の一地区。東は新宿の繁華街に接し、青梅街道が東西に貫通。浄水場の跡地に都庁が移転。この地区を中心に新宿新都心と俗に呼ばれる超高層ビル群を形成。(2) もと東京市35区の一つ。
  • -----------------------------------
  • 塵埃と光
  • -----------------------------------


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)。




*年表

  • 1878(明治11)11月28日 寺田寅彦、東京市麹町に生まれる。
  • 1881(明治14) 寺田寅彦、祖母、母、姉と共に郷里の高知に転居。
  • 1894(明治27)6月20日 明治東京地震。M 7.0、死者31人。
  • 1896(明治29)6月15日 明治三陸地震。M 8.5、死者・行方不明者2万1,959人。この年、寺田寅彦、熊本の第五高等学校に入学。
  • 1899(明治32) 寺田寅彦、東京帝国大学理科大学に入学、田中館愛橘、長岡半太郎の教えを受ける。
  • 1918(大正7) 寺田寅彦、40歳。
  • 1921(大正10)年4月1日 寺田寅彦「厄年と etc. 」『中央公論』。
  • 1921(大正10)12月8日か 東京、晩にかなり強い地震。11日、東京全市断水。
  • 1922(大正11)1月 寺田寅彦「断水の日」『東京・大阪朝日新聞』。
  • 1922(大正11)5月1日 寺田寅彦「塵埃と光」『科学知識』。
  • 1923(大正12)9月1日 関東大震災。M 7.9、死者・行方不明者10万5,385人。
  • 1933(昭和8)3月3日 昭和三陸地震。M 8.1、大津波発生、死者・行方不明者3,064人。


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)。



*人物一覧

(人名、および組織・団体名・神名)
  • -----------------------------------
  • 厄年と etc.
  • -----------------------------------
  • 断水の日
  • -----------------------------------
  • 塵埃と光
  • -----------------------------------
  • ルクレティウス Titus Lucretius Carus 前99頃-前55頃 ローマの詩人・唯物論哲学者。デモクリトス・エピクロスの原子論による哲学詩「宇宙論」6巻を残して自殺。
  • アイケン


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)。



*書籍

(書名、雑誌名、論文名、能・狂言・謡曲などの作品名)
  • -----------------------------------
  • 厄年と etc.
  • -----------------------------------
  • 『中央公論』 ちゅうおう こうろん 代表的な総合雑誌の一つ。1899年(明治32)「反省会雑誌」(87年創刊)を改題。滝田樗陰(ちょいん)を編集者(のち主幹)として部数を伸ばし、文壇の登竜門、大正デモクラシー言論の中心舞台となる。1944年(昭和19)横浜事件にまきこまれて廃刊を命じられる。第二次大戦後、46年復刊。
  • -----------------------------------
  • 断水の日
  • -----------------------------------
  • 塵埃と光
  • -----------------------------------
  • 『科学知識』


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)。



*難字、求めよ

  • -----------------------------------
  • 厄年と etc.
  • -----------------------------------
  • 厄年 やくどし 人の一生のうち、厄にあうおそれが多いから忌み慎まねばならないとする年。数え年で男は25・42・61歳、女は19・33・37歳などという。特に男の42歳と女の33歳を大厄といい、その前後の年も前厄・後厄といって恐れ慎む風があった。厄回り。年忌。
  • 顱頂 ろちょう 頭のてっぺん。
  • アニリン aniline 分子式C(6)H(5)NH(2) 代表的な芳香族アミン。ニトロベンゼンを鉄くずと塩酸とで還元、または銅触媒で水素還元して製する。特有の臭気をもつ無色の液体。水にわずかに溶けて、弱い塩基性を示す。塩酸・硫酸などと結晶性の塩をつくる。染料・香料・医薬・合成樹脂などの原料として重要。アミノベンゼン。
  • 衰兆 すいちょう 衰徴。おとろえるきざし。衰亡の前兆。
  • 二百十日 にひゃく とおか 立春から数えて210日目。9月1日ころ。ちょうど中稲の開花期で、台風襲来の時期にあたるから、農家では厄日として警戒する。
  • 八朔 はっさく 旧暦8月朔日のこと。この日、贈答をして祝う習俗がある。
  • 偏倚 へんい (「倚」もかたよる意) (1) かたよること。(2) 偏差に同じ。
  • 被与材料
  • プロバビリティー probability 蓋然性。見込み。公算。確率。
  • 疫痢 えきり 子供、特に幼児の粘液下痢を主症状とする急性感染症。赤痢菌の感染によることが多く、高熱・痙攣・嘔吐・昏睡などを起こす。死亡率が高い。日本国内では近年ほとんど見られない。
  • 吻合 ふんごう (上下の唇が合う意)ぴったりと合うこと。一致すること。
  • 精密科学 せいみつ かがく (exact sciences)数学・物理学・化学などのように、量的関係を厳密に測定し、法則化することによって得られる認識から成り立つ科学の総称。精密工学などを含む考えもある。
  • コンチニウム continuous? コンティニウス? 連続的な。絶え間のない。
  • 律動 りつどう 周期的にくり返される運動。リズム。
  • 継起 けいき (succession)引き続いて起こること。時間的に前後の順を追って現れること。
  • 漸近線 ぜんきんせん 曲線k上を点Pが限りなく遠くへ移動する場合に、Pからの距離が無限小となるような定直線gが存在する時、gをkの漸近線という。
  • ゲンゲ 紫雲英・翹揺 レンゲソウの別称。
  • 寒竹 かんちく 小さい葉を持つ暖地性のササの一種。高さ2〜3メートル。表皮は紫色を帯び、枝条は節に密生。主に西日本で庭樹、生垣などにする。紫竹。漢竹。
  • 混濁・溷濁 こんだく にごること。
  • 春寒 はるさむ 立春の後の寒さ。
  • 旅嚢 りょのう 旅行に携帯するふくろ。
  • -----------------------------------
  • 断水の日
  • -----------------------------------
  • 杞憂 きゆう [列子天瑞](中国の杞の国の人が、天地が崩れて落ちるのを憂えたという故事に基づく)将来のことについてあれこれと無用の心配をすること。杞人の憂え。取り越し苦労。
  • モートル motor  モーターに同じ。
  • エボナイト ebonite 生ゴムに多量の硫黄を加え、長時間加硫して得られる黒色光沢を持つ硬質材料。電気の絶縁材などに使用。硬質ゴム。硬化ゴム。
  • 正宗 まさむね (1) 鎌倉後期の刀工、岡崎正宗のこと。名は五郎。初代行光の子という。鎌倉に住み、古刀の秘伝を調べて、ついに相州伝の一派を開き、無比の名匠と称せられた。義弘・兼光らはその弟子という。三作の一人。(2) (1) の鍛えた刀。転じて、名刀。
  • 地文 ちもん (チブンとも)大地の模様。大地の状態。山川・丘陵・池沢など。
  • 地文学 ちもんがく 地球と他の天体との関係、地球を包む気圏・水圏および地球上に起こる諸現象などについて研究する学問。現在ではあまり使われない。
  • コロタイプ collotype 平版印刷の一種。ゼラチン水溶液に二クロム酸塩を加えた感光液をガラス板に塗布・乾燥し、これにネガを焼き付けたものを版とする。水とグリセリンで膨潤させると光の当たった部分に細かいしわができ、インクが付着する。写真・絵画などの精密な複製に適するが、大量印刷には不適。1870年頃ドイツのヨーゼフ=アルバート(J. Albert1825〜1886)が実用化。アルバート‐タイプ。アートタイプ。玻璃版。
  • アナロジー analogy 類推。類比。
  • -----------------------------------
  • 塵埃と光
  • -----------------------------------
  • ビショップ環 - かん (最初の観測者S. E. Bishop1827〜1909に因む)太陽や月を中心とする赤褐色の大きな光環。火山の爆発などで高層大気に噴きあげられた微細な粒子によって光が回折するために生じる。
  • 偏光 へんこう 一定の方向にだけ振動する光波、すなわち直線偏光(平面偏光)。また、その振動が楕円振動・円振動などである光波をそれぞれ楕円偏光・円偏光という。電磁波一般についてもいう。


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)『日本国語大辞典 第二版』(小学館、2001.5)。



*後記(工作員スリーパーズ日記)*フクシマ・ノートその1


 3月3日、NHK山形のローカルニュースで、「福島県から山形県に自主的に避難している人の60%以上が、避難しないでいる人たちに後ろめたい思いがあるなどとして“地元に戻りにくい”と感じている」という報道を聞く。
 以下、Google のキャッシュに残っているテキストから引用。

・避難区域以外から山形県に自主的に避難しているおよそ1万人のうち、100人を対象に、先月アンケート。
・「地元に戻りにくいと感じることがある」
・「放射線への不安をめぐり温度差を感じる」
・「避難したことで後ろめたさを感じる」
・「つながりが薄れてしまった」
・放射線への不安を理由におよそ70%の人が「福島にはもどれない」と答え、避難の必要性を感じる一方で、地元との距離を感じ始めている。

 報道を聞くかぎり、状況はあまりかんばしくない。
 さて、現在およそ1万3000人が福島県から山形県内に避難しているという。多くが米沢市・山形市を中心とする県南部に集中するが、それでは天童市内にはどのくらい避難者がいるのだろうか? 天童市報および市社会福祉協議会報に目をとおすが、実数の記載はない。




*次週予告


第四巻 第三四号 
石油ランプ / 流言蜚語 / 時事雑感 寺田寅彦


第四巻 第三四号は、
二〇一二年三月一七日(土)発行予定です。
定価:200円


T-Time マガジン 週刊ミルクティー 第四巻 第三三号
厄年と etc. / 断水の日 / 塵埃と光 寺田寅彦
発行:二〇一二年三月一〇日(土)
編集:しだひろし/PoorBook G3'99
 http://www33.atwiki.jp/asterisk99/
出版:*99 出版
 〒994-0024 山形県天童市鎌田2丁目1−21
 アパートメント山口A−202
販売:DL-MARKET
※ T-Timeは(株)ボイジャーの商標・製品です。



  • T-Time マガジン 週刊ミルクティー *99 出版
  • バックナンバー

    ※ おわびと訂正
     長らく、創刊号と第一巻第六号の url 記述が誤っていたことに気がつきませんでした。アクセスを試みてくださったみなさま、申しわけありませんでした。(しょぼーん)/2012.3.2 しだ

  • 第一巻
  • 創刊号 竹取物語 和田万吉
  • 第二号 竹取物語小論 島津久基(210円)
  • 第三号 竹取物語の再検討(一)橘 純一(210円)
  • 第四号 竹取物語の再検討(二)橘 純一(210円)
  •  「絵合」『源氏物語』より 紫式部・与謝野晶子(訳)
  • 第五号 『国文学の新考察』より 島津久基(210円)
  •  昔物語と歌物語 / 古代・中世の「作り物語」/
  •  平安朝文学の弾力 / 散逸物語三つ
  • 第六号 特集 コロボックル考 石器時代総論要領 / コロボックル北海道に住みしなるべし 坪井正五郎 マナイタのばけた話 小熊秀雄 親しく見聞したアイヌの生活 / 風に乗って来るコロポックル 宮本百合子
  • 第七号 コロボックル風俗考(一〜三)坪井正五郎(210円)
  •  シペ物語 / カナメの跡 工藤梅次郎
  • 第八号 コロボックル風俗考(四〜六)坪井正五郎(210円)
  • 第九号 コロボックル風俗考(七〜十)坪井正五郎(210円)
  • 第十号 特集 コロボックル考 喜田貞吉
  •  日本太古の民族について / 日本民族概論 / 土蜘蛛種族論につきて
  • 第十一号 特集 コロボックル考 喜田貞吉
  •  東北民族研究序論 / 猪名部と佐伯部 / 吉野の国巣と国樔部
  • 第十二号 日高見国の研究 喜田貞吉
  • 第十三号 夷俘・俘囚の考 喜田貞吉
  • 第十四号 東人考     喜田貞吉
  • 第十五号 奥州における御館藤原氏 喜田貞吉
  • 第十六号 考古学と古代史 喜田貞吉
  • 第十七号 特集 考古学 喜田貞吉
  •  遺物・遺蹟と歴史研究 / 日本における史前時代の歴史研究について / 奥羽北部の石器時代文化における古代シナ文化の影響について
  • 第十八号 特集 考古学 喜田貞吉
  •  日本石器時代の終末期について /「あばた」も「えくぼ」、「えくぼ」も「あばた」――日本石器時代終末期―
  • 第十九号 特集 考古学 喜田貞吉
  •  本邦における一種の古代文明 ――銅鐸に関する管見―― /
  •  銅鐸民族研究の一断片
  • 第二〇号 特集 考古学 喜田貞吉
  •  「鐵」の字の古体と古代の文化 / 石上神宮の神宝七枝刀 /
  •  八坂瓊之曲玉考
  • 第二一号 博物館(一)浜田青陵
  • 第二二号 博物館(二)浜田青陵
  • 第二三号 博物館(三)浜田青陵
  • 第二四号 博物館(四)浜田青陵
  • 第二五号 博物館(五)浜田青陵
  • 第二六号 墨子(一)幸田露伴
  • 第二七号 墨子(二)幸田露伴
  • 第二八号 墨子(三)幸田露伴
  • 第二九号 道教について(一)幸田露伴
  • 第三〇号 道教について(二)幸田露伴
  • 第三一号 道教について(三)幸田露伴
  • 第三二号 光をかかぐる人々(一)徳永 直
  • 第三三号 光をかかぐる人々(二)徳永 直
  • 第三四号 東洋人の発明 桑原隲蔵
  • 第三五号 堤中納言物語(一)池田亀鑑(訳)
  • 第三六号 堤中納言物語(二)池田亀鑑(訳)
  • 第三七号 堤中納言物語(三)池田亀鑑(訳)
  • 第三八号 歌の話(一)折口信夫
  • 第三九号 歌の話(二)折口信夫
  • 第四〇号 歌の話(三)・花の話 折口信夫
  • 第四一号 枕詞と序詞(一)福井久蔵
  • 第四二号 枕詞と序詞(二)福井久蔵
  • 第四三号 本朝変態葬礼史 / 死体と民俗 中山太郎
  • 第四四号 特集 おっぱい接吻  
  •  乳房の室 / 女の情欲を笑う 小熊秀雄
  •  女体 芥川龍之介
  •  接吻 / 接吻の後 北原白秋
  •  接吻 斎藤茂吉
  • 第四五号 幕末志士の歌 森 繁夫
  • 第四六号 特集 フィクション・サムライ 愛国歌小観 / 愛国百人一首に関連して / 愛国百人一首評釈 斎藤茂吉
  • 第四七号 「侍」字訓義考 / 多賀祢考 安藤正次
  • 第四八号 幣束から旗さし物へ / ゴロツキの話 折口信夫
  • 第四九号 平将門 幸田露伴
  • 第五〇号 光をかかぐる人々(三)徳永 直
  • 第五一号 光をかかぐる人々(四)徳永 直
  • 第五二号 「印刷文化」について 徳永 直
  •  書籍の風俗 恩地孝四郎
  • 第二巻
  • 第一号 奇巌城(一)モーリス・ルブラン
  • 第二号 奇巌城(二)モーリス・ルブラン
  • 第三号 美し姫と怪獣 / 長ぐつをはいた猫 楠山正雄(訳)
  • 第四号 毒と迷信 / 若水の話 / 麻薬・自殺・宗教 小酒井不木 / 折口信夫 / 坂口安吾
  • 第五号 空襲警報 / 水の女 / 支流 海野十三 / 折口信夫 / 斎藤茂吉
  • 第六号 新羅人の武士的精神について 池内 宏
  • 第七号 新羅の花郎について 池内 宏
  • 第八号 震災日誌 / 震災後記 喜田貞吉
  • 第九号 セロ弾きのゴーシュ / なめとこ山の熊 宮沢賢治
  • 第一〇号 風の又三郎 宮沢賢治
  • 第一一号 能久親王事跡(一)森 林太郎
  • 第一二号 能久親王事跡(二)森 林太郎
  • 第一三号 能久親王事跡(三)森 林太郎
  • 第一四号 能久親王事跡(四)森 林太郎
  • 第一五号 【欠】
  • 第一六号 【欠】
  • 第一七号 赤毛連盟       コナン・ドイル
  • 第一八号 ボヘミアの醜聞    コナン・ドイル
  • 第一九号 グロリア・スコット号 コナン・ドイル
  • 第二〇号 暗号舞踏人の謎    コナン・ドイル
  • 第二一号 蝦夷とコロボックルとの異同を論ず 喜田貞吉
  • 第二二号 コロポックル説の誤謬を論ず 上・下 河野常吉
  • 第二三号 慶長年間の朝日連峰通路について 佐藤栄太
  • 第二四号 まれびとの歴史 /「とこよ」と「まれびと」と 折口信夫
  • 第二五号 払田柵跡について二、三の考察 / 山形県本楯発見の柵跡について 喜田貞吉
  • 第二六号 日本天変地異記 田中貢太郎
  • 第二七号 種山ヶ原 / イギリス海岸 宮沢賢治
  • 第二八号 翁の発生 / 鬼の話 折口信夫
  • 第二九号 生物の歴史(一)石川千代松
  • 第三〇号 生物の歴史(二)石川千代松
  • 第三一号 生物の歴史(三)石川千代松
  • 第三二号 生物の歴史(四)石川千代松
  • 第三三号 特集 ひなまつり
  •  雛 芥川龍之介 / 雛がたり 泉鏡花 / ひなまつりの話 折口信夫
  • 第三四号 特集 ひなまつり
  •  人形の話 / 偶人信仰の民俗化並びに伝説化せる道 折口信夫
  • 第三五号 右大臣実朝(一)太宰 治
  • 第三六号 右大臣実朝(二)太宰 治
  • 第三七号 右大臣実朝(三)太宰 治
  • 第三八号 清河八郎(一)大川周明
  • 第三九号 清河八郎(二)大川周明
  • 第四〇号 清河八郎(三)大川周明
  • 第四一号 清河八郎(四)大川周明
  • 第四二号 清河八郎(五)大川周明
  • 第四三号 清河八郎(六)大川周明
  • 第四四号 道鏡皇胤論について 喜田貞吉
  • 第四五号 火葬と大蔵 / 人身御供と人柱 喜田貞吉
  • 第四六号 手長と足長 / くぐつ名義考 喜田貞吉
  • 第四七号 「日本民族」とは何ぞや / 本州における蝦夷の末路 喜田貞吉
  • 第四八号 若草物語(一)L.M. オルコット
  • 第四九号 若草物語(二)L.M. オルコット
  • 第五〇号 若草物語(三)L.M. オルコット
  • 第五一号 若草物語(四)L.M. オルコット
  • 第五二号 若草物語(五)L.M. オルコット
  • 第五三号 二人の女歌人 / 東北の家 片山広子
  • 第三巻
  • 第一号 星と空の話(一)山本一清
  • 第二号 星と空の話(二)山本一清
  • 第三号 星と空の話(三)山本一清
  • 第四号 獅子舞雑考 / 穀神としての牛に関する民俗 中山太郎
  • 第五号 鹿踊りのはじまり 宮沢賢治 / 奥羽地方のシシ踊りと鹿供養 喜田貞吉
  • 第六号 魏志倭人伝 / 後漢書倭伝 / 宋書倭国伝 / 隋書倭国伝
  • 第七号 卑弥呼考(一)内藤湖南
  • 第八号 卑弥呼考(二)内藤湖南
  • 第九号 卑弥呼考(三)内藤湖南
  • 第一〇号 最古日本の女性生活の根底 / 稲むらの陰にて 折口信夫
  • 第一一号 瀬戸内海の潮と潮流(他三編)寺田寅彦
  •  瀬戸内海の潮と潮流 / コーヒー哲学序説 /
  •  神話と地球物理学 / ウジの効用
  • 第一二号 日本人の自然観 / 天文と俳句 寺田寅彦
  • 第一三号 倭女王卑弥呼考(一)白鳥庫吉
  • 第一四号 倭女王卑弥呼考(二)白鳥庫吉
  • 第一五号 倭奴国および邪馬台国に関する誤解 他 喜田貞吉
  •  倭奴国と倭面土国および倭国とについて稲葉君の反問に答う /
  •  倭奴国および邪馬台国に関する誤解
  • 第一六号 初雪 モーパッサン 秋田 滋(訳)
  • 第一七号 高山の雪 小島烏水
  • 第一八号 光をかかぐる人々 続『世界文化』連載分(一)徳永 直
  • 第一九号 光をかかぐる人々 続『世界文化』連載分(二)徳永 直
  • 第二〇号 光をかかぐる人々 続『世界文化』連載分(三)徳永 直
  • 第二一号 光をかかぐる人々 続『世界文化』連載分(四)徳永 直
  • 第二二号 光をかかぐる人々 続『世界文化』連載分(五)徳永 直
  • 第二三号 銀河鉄道の夜(一)宮沢賢治
  • 第二四号 銀河鉄道の夜(二)宮沢賢治
  • 第二五号 ドングリと山猫 / 雪渡り 宮沢賢治
  • 第二六号 光をかかぐる人々 続『世界文化』連載分(六)徳永 直
  • 第二七号 特集 黒川能・春日若宮御祭 折口信夫
  •  黒川能・観点の置き所 / 村で見た黒川能
  •  能舞台の解説 / 春日若宮御祭の研究
  • 第二八号 面とペルソナ/人物埴輪の眼 他 和辻哲郎
  •  面とペルソナ / 文楽座の人形芝居
  •  能面の様式 / 人物埴輪の眼
  • 第二九号 火山の話 今村明恒
  • 第三〇号 現代語訳『古事記』(一)前巻(前編)武田祐吉(訳)
  • 第三一号 現代語訳『古事記』(二)前巻(後編)武田祐吉(訳)
  • 第三二号 現代語訳『古事記』(三)中巻(前編)武田祐吉(訳)
  • 第三三号 現代語訳『古事記』(四)中巻(後編)武田祐吉(訳)
  • 第三四号 山椒大夫 森 鴎外
  • 第三五号 地震の話(一)今村明恒
  • 第三六号 地震の話(二)今村明恒
  • 第三七号 津波と人間 / 天災と国防 / 災難雑考 寺田寅彦
  • 第三八号 春雪の出羽路の三日 喜田貞吉
  • 第三九号 キュリー夫人 / はるかな道(他)宮本百合子
  • 第四〇号 大正十二年九月一日…… / 私の覚え書 宮本百合子
  • 第四一号 グスコーブドリの伝記 宮沢賢治
  • 第四二号 ラジウムの雁 / シグナルとシグナレス(他)宮沢賢治
  • 第四三号 智恵子抄(一)高村光太郎
  • 第四四号 智恵子抄(二)高村光太郎
  • 第四五号 ヴェスヴィオ山 / 日本大地震(他)斎藤茂吉
  • 第四六号 上代肉食考 / 青屋考 喜田貞吉
  • 第四七号 地震雑感 / 静岡地震被害見学記(他)寺田寅彦
  • 第四八号 自然現象の予報 / 火山の名について 寺田寅彦
  • 第四九号 地震の国(一)今村明恒
  • 第五〇号 地震の国(二)今村明恒
  • 第五一号 現代語訳『古事記』(五)下巻(前編)武田祐吉(訳)
  • 第五二号 現代語訳『古事記』(六)下巻(後編)武田祐吉(訳)
  • 第四巻
  • 第一号 日本昔話集 沖縄編(一)伊波普猷・前川千帆(絵)
  • 第二号 日本昔話集 沖縄編(二)伊波普猷
  • 第三号 アインシュタイン(一)寺田寅彦
  •  物質とエネルギー / 科学上における権威の価値と弊害 /
  •  アインシュタインの教育観
  • 第四号 アインシュタイン(二)寺田寅彦
  •  アインシュタイン / 相対性原理側面観
  • 第五号 作家のみた科学者の文学的活動 / 科学の常識のため 宮本百合子
  • 第六号 地震の国(三)今村明恒
  • 第七号 地震の国(四)今村明恒
  • 第八号 地震の国(五)今村明恒
  • 第九号 地震の国(六)今村明恒
  • 第一〇号 土神と狐 / フランドン農学校の豚 宮沢賢治
  • 第一一号 地震学の角度から見た城輪柵趾 今村明恒
  • 第一二号 庄内と日高見(一)喜田貞吉
  • 第一三号 庄内と日高見(二)喜田貞吉
  • 第一四号 庄内と日高見(三)喜田貞吉
  • 第一五号 私は海をだきしめてゐたい / 安吾巷談・ストリップ罵倒 坂口安吾
  • 第一六号 三筋町界隈 / 孫 斎藤茂吉
  • 第一七号 原子力の管理(他)仁科芳雄
  •  原子力の管理 / 日本再建と科学 / 国民の人格向上と科学技術 /
  •  ユネスコと科学
  • 第一八号 J・J・トムソン伝(他)長岡半太郎
  •  J・J・トムソン伝 / アインシュタイン博士のこと 
  • 第一九号 原子核探求の思い出(他)長岡半太郎
  •  総合研究の必要 / 基礎研究とその応用 / 原子核探求の思い出
  • 第二〇号 蒲生氏郷(一)幸田露伴
  • 第二一号 蒲生氏郷(二)幸田露伴
  • 第二二号 蒲生氏郷(三)幸田露伴
  • 第二三号 科学の不思議(一)アンリ・ファーブル
  • 第二四号 科学の不思議(二)アンリ・ファーブル
  • 第二五号 ラザフォード卿を憶う(他)長岡半太郎
  •  ラザフォード卿を憶う / ノーベル小伝とノーベル賞 / 湯川博士の受賞を祝す
  • 第二六号 追遠記 / わたしの子ども時分 伊波普猷
  •  物心がついた時分、わたしの頭に最初に打ち込まれた深い印象は、わたしの祖父(おじい)さんのことだ。わたしの祖父さんは十七のとき家の系図を見て、自分の祖先に出世した人が一人もいないのを悲しみ、奮発してシナ貿易を始め、六、七回も福州に渡った人だ。わたしが四つの時には祖父さんはまだ六十にしかならなかったが、髪の毛もひげも真っ白くなって、七、八十ぐらいの老人のようであった。(略)
  •  わたしは生まれてから何不足なしに育てられたが、どうしたのか、泣くくせがついて家の人を困らせたとのことだ。
  •  いつぞやわたしが泣き出すと、乳母がわたしを抱き、祖母さんは団扇でわたしをあおぎ、お父さんは太鼓をたたき、お母さんは人形を持ち、家中の者が行列をなして、親見世(今の那覇警察署)の前から大仮屋(もとの県庁)の前を通って町を一周したのを覚えている。もう一つ、家の人を困らせたことがある。それは、わたしが容易に飯を食べなかったことだ。他の家では子どもが何でも食べたがって困るが、わたしの家では子どもが何も食べないで困った。そこで、わたしに飯を食べさせるのは家中の大仕事であった。あるとき祖父さんはおもしろいことを考え出した。向かいの屋敷の貧しい家の子どもで、わたしより一つ年上のワンパク者を連れてきて、わたしといっしょに食事をさせたが、わたしはこれと競争していつもよりたくさん食べた。その後、祖父さんはしばしばこういう晩餐会を開くようになった。
  •  それから祖父さんは、わたしと例の子どもとに竹馬をつくってくれて、十二畳の広間で競馬のまねをさせて非常に興に入ることもあった。そのときには祖父さんはまったく子どもとなって子どもとともに遊ぶのであった。 (「わたしの子ども時分」より)
  • 第二七号 ユタの歴史的研究 伊波普猷
  • (略)おおよそ古代において国家団結の要素としては権力・腕力のほかに重大な勢力を有するのは血液と信仰であります。すなわち、古代の国家なるものはみな祖先を同じうせる者の相集まって組織せる家族団体であって、同時にまた、神を同じうせる者の相集まって組織せる宗教団体であります。いったい、物には進化してはじめて分化があります。そこで今日においてこそ、政治的団体、宗教的団体などおのおの相分かれて互いに別種の形式内容を保っているものの、これら各種の団体は、古代にさかのぼるとしだいに相寄り相重なり、ついにまったくその範囲を同じうして、政治的団体たる国家は同時に家族的団体たり、宗教的団体たりしもので、古来の国家がはじめて歴史にあらわれた時代にはみなそうであったのであります(略)。わたしは沖縄の歴史においても、かくのごとき事実のあることを発見するのであります。
  • (略)さて、政治の方面において国王が国民最高の機官であるごとく、宗教の方面においては聞得大君が国民最高の神官でありました。(略)それは伊勢神宮に奉仕した斎女王のようなもので、昔は未婚の王女(沖縄では昔は、王女は降嫁しなかった)がこれに任ぜられたのであります。(略)聞得大君の下には、前に申し上げた三殿内(三神社)の神官なる大アムシラレがあります。これには首里の身分のよい家の女子が任ぜられるのであります。もちろん昔は、未婚の女子が任ぜられたのであります。さてこの「あむ」という語は母ということで、「しられ」という語は治めるまたは支配するということであるから、大アムシラレには政治的の意味のあることがよくわかります。そして大アムシラレの下には三〇〇人以上のノロクモイという田舎の神官がありまして、これには地方の豪族の女子(もちろん昔は未婚の女子)が任ぜられたのであります(ノロクモイの中で格式のよいのは、大アムととなえられています)。(略)そしてこれらのノロクモイの任免の時分には、銘々の監督たる大アムシラレの所に行って辞令を受けるのであります(これらの神官はいずれも世襲であります)。
  • 第二八号 科学の不思議(三) アンリ・ファーブル
  • 大杉栄、伊藤野枝(訳)
  •  一九 本
  •  二〇 印刷
  •  二一 チョウ
  •  二二 大食家(たいしょくか)
  •  二三 絹(きぬ)
  •  二四 変態(へんたい)
  •  二五 クモ
  •  二六 ジョロウグモの橋
  •  二七 蛛網(くものす)
  •  
  • 「その絹糸は、唇の下から出てくる。その孔を糸嚢(しのう)という。虫の体の中には絹の材料がうんと入っているのだ。それはゴムに似たネバネバする液体だ。唇が開いて出てくるその液体をひきのばしたものが糸になるが、それは糸になるまでは膠(にかわ)のような粘着物だが、すぐに固まってしまう。絹の材料は虫の食べる桑の葉の中には、まったく含まれてはいない。(略)虫の助けがなかったならば、人間は決して桑の葉から高価な織り物の材料を引き出すことはできなかったのだ。(略)
  • 「二週間のあいだに、もしも適当な温度であればカイコの蛹(さなぎ)は熟した果物のように割れる。そして、その小さな部屋を破り開いてそこからチョウがぬけ出す。すべてがクシャクシャで湿って、そのふるえる足でやっと立つことができるくらいだ。(略)
  • 「そのマユは歯でやぶって出るのじゃないんですか?」とエミルがたずねました。
  • 「だが、ぼうや、それがないんだよ。それに似たものもないんだ。ただ、とがった鼻を持っているだけだ。いいかげんな骨折りは役に立たない。
  • 「じゃあ、ツメでですか?」とジュールがいい出しました。
  • 「そうだ、もしそれを持っていればじゅうぶん役に立つ。だが厄介なことには、それもないのだ。
  • 「だって、チョウは外に出ることができなければならないのです」とジュールががんばりました。
  • 「まちがいなく外へ出る。すべての生物がそうとはゆかないが、生命の困難な瞬間の手段はみんな持っている。ニワトリのヒナが閉じこめられていた卵を破るのに、その小さなヒナのくちばしの端がその目的のために、ほんのすこしその先が固くなっている。だが、チョウはそのマユを破るのに何も持たないだろうか? 持っている! だが、お前たちには、とても簡単な道具だが、何を使うか察しはつくまい。それはね、眼を使うのだよ。
  • 第二九号 南島の黥 / 琉球女人の被服 伊波普猷
  •  南島の黥もやはり宗教的意義を有していたようである。琉球の漢詩人喜舎場朝賢翁の『続東汀随筆』にこういうことが見えている。
  •  女子すでに人に嫁すれば、すなわち左右の手指表面に墨黥す。これを波津幾(はづき)という。鍼衝(はりつき)の中略なり。婦女もっとも愛好す。もし久しく白指なる者は、※(ちくり)これを笑う。ゆえに、二十一、二をすぎて墨黥せざる者なし。『隋書』「流求伝」に、婦人手に墨黥して梅花の形をなすと。上古の遺風なり。すでに黥して数年を経れば、墨色淡薄になる。ふたたび黥して新鮮ならしむ。すでに黥して五、六回におよぶときは終身淡薄になる憂いなし。置県の今日にいたり、人身墨黥するを許さざる法律を発せらる。もしこれを犯しおよびこれを業となす者あらば、捕えられて処刑せらるるにつき、ついにその悪弊を止めたり。
  •  はじめて黥するときは、閑静な別荘などを借り、親戚縁者を招待してごちそうしながらおこなったものであるが、このとき十二、三歳ぐらいの少女たちは、図のごとき黥をしてもらい、黥の色のあせた人たちもその上に黥をしてもらうのであった。歌などを謡っていたところから見ると、古くはオモロなどを謡って、宗教的儀式をおこなっていたことが推測される。すでに嫁した者が黥をしないうちに死ぬことがあったら、そのままであの世に行くと、葦のイモを掘らせられるというので、手の甲にその紋様を描いてやって、野辺送りをすることになっていた。ついでにいうが、葦のイモを掘ることは、あの世での最も苦しい労働だと信じられている。 (「南島の黥」より)
  • 第三〇号 『古事記』解説 / 上代人の民族信仰 武田祐吉・宇野円空
  • (略)神聖な動物としては、記録に現われるところではヘビがもっとも多くその大部分を占め、そのほかにはオオカミも少くはないが、トラ・ワニ・ウサギなどは特殊の例と見ることができる。植物としては単に大木としたのがことに多く、槻・杉・楠・椋などもあり、またツバキ・発枳などの特例もあげることができるが、ただしこれらも特に、その大木であるばあいが多い。これをもって見るに、その崇拝の対象となるものが、有用、殊に経済的生活に必要なものからむしろよほどかけ離れておるということができる。動物においてもクマやイノシシ・シカの類をさしおいて、特にヘビとオオカミとが諸所に散見することは、上代人の神秘観が単に食用、または有用ということにもとづいているのでないことを明らかにするものである。これは、一面には上代日本人がすでに狩猟時代のものでなく、肉としてのイノシシ・シカなどに宗教的力を認める以上に、農耕時代の民族として、殊にその開墾または耕作に密接な関係のあるヘビやオオカミの類を、より多くいっそう神秘的な存在と考えたからでもあろう。すなわち『常陸風土記』によると、麻多智という人が開墾に従事中、夜刀神(やとのかみ)すなわちヘビが群がり来たって耕作を妨げた。そこで麻多智は大いに怒り、みずから武装してこれらのヘビを打ち殺し、また駆逐し、山口のところに至って杭を打ち、堺を掘り、夜刀神に告げてこれより以上を神地とし、以下を人間の田地とする。今後、神祝となって永久に奉斎するから、祟ることなく恨むことなかれといった、とある。 (宇野円空「上代人の民族信仰」より)
  • 第三一号 科学の不思議(四)アンリ・ファーブル
  • 大杉栄、伊藤野枝(訳)
  •  二八 猟(りょう)
  •  二九 毒虫
  •  三〇 毒
  •  三一 マムシとサソリ
  •  三二 イラクサ
  •  三三 行列虫
  •  三四 嵐(あらし)
  •  三五 電気
  •  三六 ネコの実験
  • 「さて、ここにその空気よりはもっとかくれた、もっと眼に見えない、もっと見あらわしにくいものがある。それはどこにもある。かならずどこにもある。わたしたちの体の中にさえある。だがそれは、お前たちが自分がそれを持っていることに今もまだ決して気がつかないくらいに、静かにしているのだ。(略)
  • 「お前たちだけで一日じゅうさがしても、一年じゅうさがしても、たぶん一生かかっても、それはムダだろう。お前たちには見つけ出すことはできまい。そのわたしの話している物は、別段によく隠れている。学者たちは、それについてのいろんなことを知るために、非常にめんどうな研究をした。わたしたちは、その学者たちがわたしたちに教えてくれた方法をもちいて、手軽にそれを引っぱり出してみよう。
  •  ポールおじさんは、机から封蝋(ふうろう)の棒を取って、それを上着のそでで手早くこすりました。それからそれを、小さな紙きれに近づけました。子どもたちはそれを見つめています。見ると、その紙は舞いあがって封蝋の棒にくっつきました。その実験を、いくどもくりかえしました。そのたびに紙きれは、ひとりで舞い上がって棒にくっつきます。
  • 「(略)この見えないものを、電気というのだ。ガラスのかけらや、硫黄、樹脂、封蝋などの棒を着物にこすりつけて、それで電気をおこすことはお前たちにもたやすくできることだ。それらの物は摩擦をすると、小さな藁(わら)きれや紙のきれっぱしや、ほこりのような軽いものを引きつけるもちまえを出すのだ。もし、うまいぐあいにゆけば、今夜、ネコがそのことについて、もっとよくわたしたちに教えてくれるだろう。
  • 第三二号 科学の不思議(五)アンリ・ファーブル
  • 大杉栄、伊藤野枝(訳)
  •  三七 紙の実験
  •  三八 フランクリンとド・ロマ
  •  三九 雷(かみなり)と避雷針
  •  四〇 雲(くも)
  •  四一 音の速度
  •  四二 水差(みずさ)しの実験
  •  四三 雨
  •  四四 噴火山
  •  四五 カターニア
  •  
  • 「もし、噴火山の近所に町があったら、その火の河はそこへ流れこんでこないでしょうか? そして灰の雲がその町をうめてしまいやしないでしょうか?」とジュールが聞きました。
  • 「不幸にしてそんなこともありえる。そしてまた、実際ありもした。(略)
  • 「そうだ。今から二〇〇年ほどむかしのこと、シチリアに歴史上もっとも激しい大噴火がおこった。激しい暴風雨(あらし)があった後で、たくさんの馬が一時にドッとたおれるような強い地震が夜じゅうつづいた。木は葦が風になびくようになぎ倒され、人はたおれる家の下におしつぶされないように気狂いのように野原へ逃げようとしたが、ふるえる地上に足場を失って、つまずき倒れた。ちょうどそのとき、エトナは爆発して四里ほどの長さに裂けて、この割れ目に沿うてたくさんの噴火口ができ、爆発のおそろしい響きともろともに、黒煙と焼け砂とを雲のように吐き出した。やがて、この噴火口の七つが、一つの深い淵のようになって、それが四か月間雷鳴したり、うなったり、燃えかすや溶岩を噴き出した。(略)
  • 「そのうちに溶岩の河は山のすべての裂け目から流れ出して、家や森や作物をほろぼしながら平原のほうへ流れて行った。この噴火山から数里離れた海岸に、じょうぶな壁にとりかこまれたカターニアという大きな町があった。火の河はとうとう数か村を飲みつくして、カターニアの壁の前まできた。そしてその近郊にひろがって行った。(略)

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