長岡半太郎 ながおか はんたろう
1865-1950(慶応元.6.28-昭和25.12.11)
物理学者。長崎県生れ。阪大初代総長・学士院院長。土星型の原子模型を発表。光学・物理学に業績を残し、科学行政でも活躍。文化勲章。



◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)。写真は、Wikipedia 「ファイル-HantaroNagaoka.jpg」より。


もくじ 
ラザフォード卿を憶う(他)長岡半太郎


ミルクティー*現代表記版
ラザフォード卿を憶う
  順風に帆をはらむ
  放射性の探究へ
  新しき関門をひらく
  核原子
  原子転換に成功
  学界の重鎮
  卿の風貌の印象
  ラザフォード卿からの書簡
ノーベル小伝とノーベル賞
湯川博士の受賞を祝す

オリジナル版
ラザフォード卿を憶う
ノーベル小傳とノーベル賞
湯川博士の受賞を祝す

地名年表人物一覧書籍
難字、求めよ
後記次週予告

※ 製作環境
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*凡例
  • 〈 〉( ):割り注、もしくは小書き。
  • 〔 〕:編者もしくは、しだによる注。
  • 一、漢字、かなづかい、漢字の送りは現代表記に改めました。「云う」「処」「有つ」のような語句は「いう/言う」「ところ/所」「持つ」に改めました。
  • 一、若干の句読点のみ改めました。適宜、ルビや中黒や感嘆・疑問符をおぎないました。一部、改行と行頭の字下げを改めました。
  • 一、ひらがなに傍点は、一部カタカナに改めました。
  • 一、漢数字の表記を一部、改めました。
  •    例、七百二戸 → 七〇二戸
  •    例、二萬六千十一 → 二万六〇一一
  • 一、和暦にはカッコ書きで西暦をおぎないました。年次のみのばあいは単純な置き換えにとどめ、月日のわかるばあいには陰暦・陽暦の補正をおこないました。
  • 一、カタカナ漢字混用文は、ひらがな漢字混用文に改めました。
  • 一、書名・雑誌名は『 』、論文名・記事名および会話文は「 」で示しました。
  • 一、差別的表現・好ましくない表現はそのままとしました。


底本:『長岡半太郎随筆集 原子力時代の曙』朝日新聞社
   1951(昭和26)年6月20日 発行
http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person1153.html

NDC 分類:289(伝記 / 個人伝記)
http://yozora.kazumi386.org/2/8/ndc289.html
NDC 分類:429(物理学 / 原子物理学)
http://yozora.kazumi386.org/4/0/ndc429.html





ラザフォード卿をおも

長岡半太郎


 前世紀の終わりに、キュリー夫人がウラン鉱石よりラジウムを分離してより、放射能作の研究は物理学界をにぎわした。従来、原子ほど安定したものはないと考えられたのが、ある元素にありては自然崩壊を続けている状況が漸次ぜんじ、明るみに出てきた。しかしてこの方面においてもっとも吾人ごじんの知識を発展させたのはラザフォード卿であったことは、その道の人にあらざるも、いやしくも少しくこの現象に手を染めたもののひとしく首肯しゅこうするところである。不幸にして昭和十三年(一九三八)十月十九日、卿はついに不帰ふきの客となった。ここにその小伝を記し、その人となりを読者に紹介するは、卿を知るもののあえて辞せざるところである。

   順風に帆をはらむ


 人生の艱苦かんく暢達ちょうたつは各自その才能により異なるところがある。科学者は政治家のごとき崎嶇きく波乱にまないけれども、たまたま浮き目に遭遇そうぐうしないともかぎらない。卿は幼時より、順風に帆をはらめる舟のごとき行程を一生涯つづけた幸運児であったと評するが至当である。
 卿は一八七一年、ニュージーランドのネルソンに生まれた。両親は英国から移住し農業を営んでいた。小児の頃は、付近に住むマオリ蛮人の子どもと遊んだといわれ、植民地ありのままの環境に育った。小学児童としては成績優秀、ついに抜擢ばってきせられてニュージーランドのクライスト・チャーチ大学に入学した。ここで、電波を受けるに、鉄の磁性が電磁振動により弱めらるるを利用して受信機に相当するものを案出した。この試験はマルコーニの最初の受波装置が公表されない数年前であって、卿が実際、受信器の最初の考案者というが適当である。この成績により英本国留学の給費をかちえてケンブリッジに遊び、J・J・トムソンの門に入ることを得た。ときに一八九五年であった。卿はただちに生国で研究した事項の敷衍ふえんを試み、ついに二マイルの距離において受信するを得るまでに至った。この試験は一人にておこないがたく、僚友数人の援助により、はじめて成功し得べき性質のものであったが、田舎からはじめて出て来た人にしては、その組織的観測の手腕がえていたので、J・Jをおどろかした。卿は生まれながら組織的才能に富んでいた。もし英本国で生まれたならば、おそらく物理学などおさめずして、一流政治家になったのであろう。しかしながら、天がその才を科学方面に発揮せしめたのは、すこぶるわれがあるが如く思わる。

   放射性の探究へ


 無線の試験ははしなくも数週間で終焉しゅうえんげた。そのころレントシェン〔レントゲン〕の発見せるX線は、気体を電離せしむるに簡便なる方法をさずけた。かねてその方面を熱心に攻究していたJ・Jの注意は、とみに電離試験にかたむき、卿の実験もまた方向を転換して針路を移した。そのあいだ二年余の実験は、将来の研究を決定すべき予備考索にすぎなかった。放射能作を精査すべき辣腕らつわんはこの間にみがかれた。仮に無線通信に執着したならば、卿の組織的頭脳はマルコーニに先んじ検波発信に成功して、世界に電波網をひろげ、通信界を風靡ふうびしたであろう。しかし環境に順応してついに放射性を研究し、原子の性質を摘発てきはつし、もって吾人ごじんの原子に関する知識を拡充するに貢献したのも、その成績においてあえて軒輊けんちをその間におくべからざる状態に向わしめた。
 一八九八年にカナダのモントリオール市マクギル大学に物理学教授の空位を生じ、卿はその招きに応じて赴任ふにんした。設備はいたって不完全であったが、幸いに液態空気製造機械と三〇〇ドルの寄付を受けたので、卿はただちにその金でラジウム六デシグラムをあがない、いよいよ放射性の研究に没頭した。三〇〇ドルは些少さしょうの額であるが、これほどに使われた金はなかろう。卿の実験資料は、終生もっぱらこの少量のラジウムより供給された。その結果の偉大なる、あたかも谷間の泉が濫觴らんしょうの水を小川にそそぎ、その末は渾々こんこん大河を決するの勢いあるを想わしむる。
 放射能作は読者周知の現象であれば、これを記するを省略して、その漸次ぜんじ探究された模様を説くに止めておく。両キュリーがラジウムを発見してより、その特質は諸方で攻究された。しかし卿が試験をはじめらるる頃までは、秩序的に按排あんばいした事項はまれであった。ただ実験家は、思いがけなき現象に眩惑げんわくした感に打たれたにすぎなかった。放射線をα・β・γの三線に区別するような仕事は、J・Jの実験場できたえあげた腕には左まで苦痛でなかった。しかし、放射元素がα線あるいはβ線を発して、つぎからつぎへと伝統的に相けていく状況を把握するには、少なからず考慮を要した。ちょうどそのころ、化学の教授にソッジー〔ソディ〕居合いあわせた。このいい相棒と議論を上下して、ついに確算的に元素が崩壊するありさまを計算し、その平均寿命と能作半減期などを、実験にもとづき確定しうるを論じた。しかるに、原子論に確算を流用するは間違っている、気体の分子速度を推定するにマックスウェル定理を使用するを不可なりとしたケルヴィン卿〔本名、ウィリアム・トムソン〕は、同一な立脚点から、ラザフォード、ソッジーの理論は誤れりと批評した。これにも関わらず、論より証拠、トール系〔トリウム系のことか〕においてもウラン系においても、崩壊によって生ずる伝統元素は一定の平均寿命あることが確実となったから、その推理は学界に信ぜらるるに至った。その際、卿が苦心したのは半減期があまりに大なる差を示すにあった。すなわちある者は数分、あるいは数日、はなはだしきは数十億年の値に到達した。その差はあたかも赤貧せきひん者と大富豪との財産別あるが如くであるけれども、これは同じく人の子に属し、また半減期は同系統の放射元素の持ち前である。この特有な性質は、哲学者の原子に関する観念に拘泥こうでいして、元素は一定不変なりと考えていた世人には、青天の霹靂へきれきであった。
 マクギル大学は植民地の一角に位して、当時その名を知るものは少なかったが、卿が放射性元素の研究に従事するや、諸国より学徒が集まって、その門弟には著大ちょだいな発見をなしたものがあった。中にもドイツより来たハーンは、トール系の元素メソトールやトーロンを見出した。その他いちいちこれを記するは煩雑はんざつになるから記さぬ。したがって卿の盛名は、物理学・化学界を聳動しょうどうし、ついにマンチェスターの物理学教室主任として英本国に招喚しょうかんされたのは一九〇七年であった。

   新しき関門をひらく


 イギリスのそのころ著名な物理学者で、世界がその研究を注視していたマックスウェル、レーリー、両トムソンは、おおむね理論と実験とにより斯学しがくの開拓をはかった。したがってその論文は数学を機械のごとく運用し、その論拠を固め、しかして実験によってこれを確定した研究が大部分を占めている。卿のもちいた手段はこれと異なり、ほとんどすべてが実験をもって往来し、あたかもファラデーが電磁気論の基礎をすえるに用いた方策を準拠じゅんきょした。ファラデーは数学の素養にとぼしかった。卿もまたこれに類して、数学の蘊奥うんおうをきわめなかった。マンチェスターで流体力学の専門家ラムの講義に出席して、球関数を学んだ経歴から考うれば、数学方式を乱用するごとき方針は深くいましめたものと解せらるる(故、木下季吉君談話による)。また前記の物理学者は多方面で、物理的現象の諸相に手を染めた。しかるに卿は、単に放射性に重きを置き、これに連関する原子の構造を探究し、おおいに光彩を放った。今日のごとき斯学しがくの発展した時代では、その一角を討究するも、終生没頭するにたる研究事項を輯集しゅうしゅうしうるのである。しかして吾人が今知らんと欲する事項は、諸物体を構造する原子の内部の機構である。放射性はこの難関を突破するにもっとも簡単明瞭なる捷径しょうけいであれば、卿がひたすらこの方面に専念したのは、斯学しがく趨向すうこうを達観し、豊富なる収穫を得んがため邁進まいしんし、ほとんど他をかえりみなかったのであろう。ただに放射性が斬新なるがゆえにこれに執着したのではなく、物理化学などにおいて、従来探究すべくしてその方便に苦しんでいた題目をとらえて、吾人のこれに関する知識を拡大し、もって新しき関門をひらいたものと考うるがとうを得ている。
 ここに卿の研究を逐一ちくいち列記するは、放射能作の大部分を記するにひとしいから、一、二の重要なるものを記すにとどめておく。卿がもっとも注意をはらった放射線はα線であった。これを磁場と電場などとにより運動方面を狂わしめて測定した結果、α微子は水素原子の四倍の質量を有し、その帯電量は電子の二倍にして、しかも陽性であると断定された。すなわちヘリウムと同一質量で、その帯電したものであるを暗示した。これをラムゼーのラドンよりヘリウムを得た試験に対照すれば、明らかにヘリウム原子の陽帯電せるものである帰結となる。しかるに当時、原子の構造はまったく暗黒であって、諸説紛々、種々の模型が案出せられ、ただ均一性を保有している点は、原子は平常は電気的中性であり、電離作用により帯電する、しかしてその安定は強固で、人為的には到底変更あるいは破壊することは不可能であるとせられた。卿は放射原子が人工的にその寿命を変ずるや否につき、コルダイト火薬をもちいてこれを爆撃し、崩壊恒数こうすうに変化をおよぼすや否を検査したけれども、何たる徴候も見出し得なかった。それゆえ、ますます原子の安定性を裏書きせざるを得なくなった。しかして、前記のα微子の本質と撞着どうちゃくするきらいがあるかの如く観察された。卿が終始α微子を精査したのは当然のことである。

   核原子


 これより先ウィリアム・トムソンは、電子が各原子に固有なる要素である見地より、原子模型を提案した。それ以前にすでに上提されたものはスプリングを装置したものでスペクトル説明に供したのであるが、これをいくぶん改善して電気的になおした結果、陽球内に電子がある形勢に配置されて、その運動が振動的なる場合あり、はなはだしきは陽球より飛び出す場合もあり、平衡状態においては電子群と陽球の帯電とは相ひとしくして、外間にはその電気構造を暴露ばくろせぬものと考えた。その後、この案を敷衍ふえんしてJ・Jは陽球内に特別の電子配置を起案し、週期律の説明を試みたが、陽球内は電気をもってたされ、その中を電子が徘徊はいかいするのだから、陰陽電気の相互作用をいかに考うべきか、電気力線を描いてみるとすこぶる奇怪なもので、従来の観念にさらに新しき想像を加えねばならなくなった。その他、大同小異の説も出でた。しかし理論は人間の頭の中でいろいろ考案せらるるものだから、その種類はおびただしくなるが、事実、自然に存在する原子と合致するものをとらえねばならぬ、それゆえ唯一の解題あるのみだから、困難はここにあるのだ。
 そのころ予は考うるに、自然の法則は簡明である。電力の働くのと電気がたがいに引斥する法則は相ひとしい、もし原子が電気構造を有するならば、その機構は相類しているだろう。大にしては太陽系、小にしては原子と考えてもさしつかえあるまい。仮に電子群を惑星に、陽電気を帯ぶる中心体を太陽になぞらえれば、その安定も可能であるし、また固有なスペクトル線の輻射ふくしゃも論ぜられないことはない。したがって陽核と電子群を仮定して進発する方針がトムソン型無核原子より適切ではないかと発表した。その後ショットは丹念に電子運動を計算し、その当否を決せんと試み、ついにケンブリッジ大学でアダムス賞を得たけれども、いまだ黒白を弁ずるまで断定的解決を与うるに至らなかった。
 この基礎的観念と実際とは、物理学と化学とをおさむるものが一日もすみやかに断定せねばならぬ根本問題であるは、いまさら喋々ちょうちょうを用いぬけれども、核原子が是か非か、約八年間疑惑に葬られた。しかし、核原子か無核原子かはついに卿がたえず慣用していたα微子の行使によりこれを判決するを得た。α微子の質量は、電子に比し約七〇〇〇倍である。したがってその運行をそらすには強き電場を要する。それゆえ、もし電子がトムソンの考うるごとく無核で陰陽相和する形勢にあるならば、そのそばにα線を通過せしむるも格別のれを認めない。しかしながら、もし陽核が存在して、そのまわりに電子群があって、全体が中性的になっているとすれば、陽核にすれすれにα微子を運行せしむれば、核はこれをしりぞけ、その軌道は微子の惰性だせいが大なるにもせよ、著しき屈曲を生ぜねばならない。よってα微子をあまたある物質を通過せしむれば、その内に陽核と接近して、はなはだしく進行方向を狂わせるものがなければならぬことを卿はさとった。これを試みるはむずかしい実験でないから、α微子を御するに熟達した手腕をもって探求してみたところ、はたしてα微子の運行方向を激しくそらすものあるを明らかにし、原子内に陽核の存在するを確かめた。卿はこの結果にすこぶる満足したとみえ、ただちに予に書をよせて、核原子に凱歌がいかをかかげたことを報告されたのは一九一一年であった。爾来じらい、原子の内部構造の大綱たいこうにつき、陽核の存否をかれこれ討議するものが跡をったのは、学者がみな卿の試験の確実性を承認した証拠である。
 一九〇〇年に呱々ここの声をあげた量子論は、予が陽核を提唱した一九〇三年ごろまで幼稚であった。しかし、卿の陽核存在を確認したころはかなりの発達をとげ、核原子が自然の構造であることが判明するや否、コペンハーゲンのボーアはたくみに量子論を利用し、核を囲繞いじょうする電子の動きをつまびらかにし、ついにスペクトル線の出現をあきらかにし、十年にわたる物理学におけるボーア期を画成した。聞くところによれば、ボーアはその所説を最初J・Jに打ちあけたが容認せられず、ついに卿の賛同を得てマンチェスター物理教室より公表した。破天荒の議論をく場合にかくの如き蹉跌さてつあるは古今同一轍で、学者のよろしくかんがむべき訓戒くんかいである。科学の先進国をもって誇るイギリスでさえこんなであるから、極東の幼稚なくにではなおさらのことである。

   原子転換に成功


 原子量はおおむね水素の整数倍になっていることは、一八一五年プラウトが指摘した。けだし原子核は、水素原子が電子とからまった構造を有しているのではないかと想像された。しかるに放射元素が伝統的に崩壊する際に、水素原子の現わるることは実験上証明されず、かえって質量が水素原子の四倍であるα微子が奔逸ほんいつする。しからば原子量はその倍数であるかを調しらぶれば、そんなことは確かめられない。これは原子学の謎であった。このジレンマは、卿の試験により一九一九年に緩和されたのみならず、さらに原子転換の可能性を示唆しさした。
 卿は窒素をα微子で爆撃し、そのαならざる微子を出すを発見した。その到達距離は、とてもα微子などのおよばざる長さにおよんだ。これを精査すれば間違いなく水素原子の帯電せるものである。しかもそれが核が破れて奔逸ほんいつしたのでなければ、長距離を大速度で走ることは不可能である結論となった。しかるに水蒸気は、ややもすれば窒素ガスに混入して測器内にまぎれこむおそれがあるから、卿の観測した水素核は水蒸気から出たもので、窒素を壊して得たものではなかろうとキュリー夫人は臆断おくだんし、水蒸気につき試験すれば、たしかに水素が出る。この紛争はパリとケンブリッジとの間に継続したが、卿の成果はついに確認された。すなわち帯電微子の迅速なるものを使用して原子核を破壊し、他元素となしうる元素転換術をはじめて合理的に運用した発端である。この偉大なる発見はその当時思わしく発展しなかったが、近年にいたり著しくその重要性を認められ、ついに人工的にヘリウムよりα微子を発生せしめ、または重水素の核を、数百万ボルトで放出せしめる方法が発明せられて、元素転換試験をはなはだしく簡易ならしめた。その結果、人工的に諸元素に放射性を賦与ふよしうる意外な事実にみちびいた。将来、卿のこの研究が歴史的には最も偉大なるものとしてあがめられるだろう。

   学界の重鎮


 一九一九年、J・Jの後をうけてケンブリッジに移り、今日に至った。かくてカヴェンジッシュ実験場は研究生をもって充満したけれども、卿の組織的才能は、その間に処しよく困難に打ち勝った。その間、実験場から数多あまたの卓越せる研究が発表せられ、ロイヤル・ソサエティ〔王立協会〕の記事はその価値を倍加した。そのうちで、卿が原子核試験より立論した中性子の存在を実験的に確かめたチャドウィックの論文は、もっとも重要な結果である。卿はたしかに政治的色彩があったから、人を鑑別することも妙を得た。ソヴェト人カピッツァの才能を認めて、その考案にもとづき特異な電磁石を作り、五十万ガウスの磁場をはじめて実現したとか、ヴィッカースの技師コッククロフトをんで、強電圧を加えた微子で元素を壊したとか、その辣腕らつわんはすごかった。しかして昨年、小自動車製造家オースチンを動かし、四〇〇余万円の寄付をなさしめ、おおいに実験場の拡張をはかったとか、尋常一様の学者がくわだておよばない計画を実行して、学問の進歩に貢献せんとした。けだし物理学の趨勢すうせいは、世界大戦後大設備に待つもの多く、あたかも軍備競争のごとき状況を呈してきたから、単純な装置と明晰めいせきな頭脳とのみでは追いつかなくなった。卿はここに見るところあり、十分な設備をほどこして、研究上万全を期したのであろう。その企図はいまだ実施するに至らずして没したのは残念である。
 卿の死は学界の災厄さいやくであった。卿の弟子は世界に散布されているけれども、将来、卿ほどの偉業をのこす人ありやは疑問である。また現時、世界各国を見渡してもいかがかと思う。イギリス学界がその死を哀悼あいとうするは言うにおよばない。卿は一九一四年ナイトとなり、一九三一年、学績をもってバロンに叙せられた。しかして遺骸はウェストミンスター・アベィの一角に位するニュートンの墓前に葬られた。科学者にしてこの寺院に骨を納むる栄誉をになうものは指折するにすぎない。殊にイギリス植民地に生まれた人で、貴族に列せられ、またここに永眠するは最初の出来事である。卿が学界の重鎮とあがめられた表示は、これに過ぎたことはない。

   卿の風貌ふうぼうの印象


 予はしばしばカヴェンジッシュ実験場、学会、私宅などで卿と談論する機会があった。その容貌ようぼう魁偉かいいで、見上げるほどの大男であった。談話は快活、ときに諧謔かいぎゃくをまじえ、人を飲むの概を示し、政治家風の弁論すこぶる濃厚であった。かつて放射学国際会議で、諸国から集まった学者のあいだを斡旋あっせんした態度は、会衆を瞠若どうじゃくたらしめた。一九二五年、J・Jの後をおそうてロイヤル・ソサエティの長となり、おおいにその仕事を刷新したのは当然である。また、大英国前首相マクドナルドと親交があった。予は大戦直後卿にあったとき、こんな話をした。議会で研究費が議題となったとき、研究は物好きがなぐさみ半分やるのだから、あんなものに政府が金を支出する理由がないと言ったと憤慨ふんがいして、議員の無識をののしった。しかし彼は奥の手を出して政府当局と結び、この難関を切り抜けたのであろう。また富豪モンドを説いて、カヴェンジッシュ実験場付属のモンド・ラボラトリーを建設した。科学者にもこんな手腕をふるいうる人物がなければ研究は進まない。東洋にいる予が知っていることでもかようであるから、昵近じっきんの人に聞いたらば、おもしろい策動がさらけ出されそうだ。思うに卿が二十四歳になるまで植民地に蟄伏ちっぷくしていたのは、学問のために救われたのだ。本国に生まれたならば、かならず政治界の風雲に乗じて飛躍し、イギリス国民史にその名をとどめたであろう。
 かく記せば、いかにも重々しく威容を飾っていたかと読者は想像さるるかもしれぬが、卿には植民地生まれの質朴しつぼくさと、学者風の淡泊たんぱく風采ふうさいがあった。卿がロイヤル・ソサエティの長になったころである。予はケンブリッジに数日滞在して世話になったから、告別に名刺を卿の私宅に放り込んだ。すると、ちょっとこい、見せるものがあると言われた。握手あくしゅするやいなや、このごろは眼がまわるように忙しいとつぶやきながら、庭のひとすみにある温室につれて行き、今年は手栽のツルになった葡萄ぶどうが食えると、いくつもないふさして喜んだ。つづいて、この庭は剛体力学のラウスがつくったんだ、因縁深いと話しておおいに笑った。その無邪気な気質は、この一事をもって推される。
 卿は孝行ものであった。両親にいくら故国に帰れとすすめても、がんとしてニュージーランドに留まっている。それゆえ折を見てしばしば帰省した。帰英の途、日本に立ち寄ってはどうだ、弟子が十人近くいるから、さぞ喜ぶだろうと来朝を勧誘したけれども、そうすれば半年の日子にっしを費やすから、今のところ不可能だと答えた。六年前に予が逢ったとき、また帰省するのだと話した。ちょうど貴族に列せられたころであったから、いわゆる錦を着て故郷に帰るのである。両親はすでに九十の坂をこえているのだから、その喜びはいかばかりであったろうと、推察にあまりある。
 この稿を草しつつおもい出すのは、卿の快活な相貌そうぼうと、タバコをくゆらしながら、学界を睥睨へいげいして談論縦横なる弁舌である。今やすでにし、すでにしといえどもその偉業は将来に照燿しょうようして、ますます原子に関する研究を刺激するであろう。


  ラザフォード卿からの書簡

           長岡半太郎あて

 冠省かんしょう
 わたしの実験の簡単さということが、そんなに並はずれたものだとは知りませんでした。実際のところ、わたしはいつも、科学の問題には可能なかぎり最も簡単な方法で取っ組むのがよいと固く信じているのです。それというのも、ほんのちょっと気をつけさえすれば、多くの時間と多くの費用とがはぶけるような場合にも、こみいった装置を作りあげては膨大ぼうだいな時間の浪費をしていると思うからであります。
 現在、ここの研究所(カヴェンジッシュ研究所)で進められている仕事のうち二〜三のものについて簡単に報告しておきましょう。
 私個人としましては、α線とβ線の散乱の問題を考え続けており、一つの理論を展開させましたので、近く詳細な点にわたって発表することになっています。ご承知のように、最近、J. J. Thomson がβ線の小散乱に関する理論をたてましたが、それを Crowther が実験の結果、確認したように思われます。この理論に使われた原子模型によれば、結果に現われる散乱は小散乱の累積されたものなのです。ところが一方、わたしはα粒子の大きな方向変化を考察してこういう結論に達したのです。つまり、ただ一回の衝突によって大きな角度の散乱をおこすということが、実際に散乱現象では主要な役割を演ずるのである、と。
 わたしは一つの原子を考察しました。それは中心電荷 Ne のまわりを反対符号の均一な球状分布の電荷が取りまいているものであって、この電荷分布は、もし必要ならば、普通に知られているとおりの原子半径と同じくらいの距離にわたってひろがっているものと考えられるのです。わたしの所見では、この中心電荷の電気量は、金のばあい、約 100e です。大きな方向変化がおこるのは、粒子が中心電荷に近い強力な電場を通過するためであります。ところで、この方向変化の計算ですが、もしもその粒子が、距離の二乗に反比例して変化する中心力の作用によって双曲線を描くものと仮定しますならば、この方向変化は容易に計算できます。偏角をφ(ファイ)とすれば、大きな角度φにわたって散乱する粒子の単位面積あたりの強度は Cosec4 φ/2 に比例するということになります。Geiger〔ガイガー〕がわたしのために、一枚の薄い金箔きんぱくによって散乱されたα粒子の分布を調べてくれましたが、その結果は理論とピッタリ一致しています。この理論はそのまま Crowther の主な結論を全部説明することもわかりました。もっとも、小散乱が存在するということに何の疑いもないのはもちろんですが、しかしたいていの場合には大散乱の方が主な要因であります。わたしはこの理論を念入ねんいりに細かく組み立て、いま Geiger が実験によってしらべているところです。その結果は、今までのところでは、この理論の主要結論が正しいことを示していますし、また、原子の中心電荷がその原子量にほぼ比例することを示しています。
 私としましては、この種の研究は大きな重要性をもつものだと感じています。なぜかと申せば、α粒子またはβ粒子が高速度で原子系を貫通してゆくことは疑いないところであり、その運動を研究することによって、わたしたちは原子の構成について何らかの考えをまとめ上げることができるかもしれないからであります。
 やがてお気づきになることと思いますが、わたしの想像する原子の構造は、あなたが数年前に提出された論文のものと、いくぶんかかよったところがあります。わたしはまだ、あなたの論文をくわしく調べてはいないのですが、それでもあなたがその題目について書かれたことはおぼえています。
 わたしは自分の仕事の結果について、最近 The Manchester Lit. と Phil. Soc. とへ予報を送りましたし、近いうちに The Philosophical Magazine に発表したいと思っております。
 わたしのところの研究者の一人の仕事で興味ぶかいのは、ラジウムCの生成物の構成についてのものです。Hahn がその生成物の中に一つの短寿命の物質が存在することを証明したことは、あなたもおぼえておられるでしょう。非常に徹底綿密な検査をおこなった結果、どうもラジウムの分裂には二つの方法がある。つまり、この点で一つの枝分かれがあって、それは全体からみれば、ほんのわずかな部分にすぎないと思われます。これはなかなか興味ぶかいことです。と申しますのは、わたしはながいこと、そういった結果がかならず存在するに違いないと考えていたからであります。もっとも、これは実験によって完全な証拠をつかむには非常に困難な事柄ではありますが、たとえば、アクチニウムがウラニウム=ラジウム系列のある点での一つの枝分かれであるということは、かなり確実だと思えるのです。もちろん反跳はんちょうや放射線の性質についても、現在ほかに研究を進めていますが、その大部分はたいした問題なく進んでいます。  敬白

  一九一一年三月二十日  E・ラザフォード

(昭和二十五年(一九五〇)一月『科学朝日』



底本:『長岡半太郎随筆集 原子力時代の曙』朝日新聞社
   1951(昭和26)年6月20日 発行
初出:『科学朝日』
   1950(昭和25)年1月
入力:しだひろし
校正:
xxxx年xx月xx日作成
青空文庫作成ファイル:
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ノーベル小伝とノーベル賞

長岡半太郎


 ノーベル賞の存在は昨年、湯川秀樹君の受賞により、ひろくわが邦人に伝わった。しかしその賞を発案したノーベル Alfred Bernard Nobel の事績については知る人まれにして、いかなる動機により、その資産一部を割き優秀なる研究者に与うるようになったかをあきらかにするもの少なきは、まことに遺憾いかんである。ここにその一端を記すは無用であるまい。
 ノーベルの父は工業家でストックホルムに住居し、ロシア政府の用達ようたしをつとめ、首都ペトログラードの入口に設けられたクロンシュタット要塞を堅固けんごにする設計を委託されてあった。しかして家業としては、工業薬品、特に爆薬ニトログリセリンの製造に従事していた。二子があったが、兄ルドウィヒは一八三一年(天保二)に生まれ、弟アルフレッドは一八三三年(天保四)に生まれた。兄弟とも性格相似て、終始たがいに提携して家運をおこした。兄は父の職をついで、「ロシア」に出入りし、海軍船艦を築造するドックを築き、製鉄所を設けて、軍器製造所を建てた。また河川改修に従事し、数多あまたの河川の航路を開き、舟運の便をはかり、二十隻の川蒸汽隊を組み、各河にこれを配置して運送に停滞なからしめた。ロシア農民がバクー産石油をいたるところ燃料として使用するを得たのは、この施設あってからである。かくして兄がロシアにつくした功労は甚大じんだいなものがあった。
 弟は十七歳で米国に遊び、おること四年、そのあいだ何をしたかは判然しないが、明敏めいびんな観察力を諸方面に働かせた。当時、米国の工業は長足ちょうそくの発達をげんとする時期に遭遇そうぐうし、みずからその状勢を洞観どうかんしたものと思われる。二十一歳にしてスウェーデンに帰り大学に入ったが、ついに兄の蹤跡しょうせきをふまず、父とともに家業に従事した。すなわち工業爆薬ニトログリセリンの製造ならびに利用などに、その研究を集注したのである。そのころこの爆薬は「ノーベル油」として知られたが、発煙はつえん硝酸しょうさん・濃硫酸・グリセリンなどを使用して製造したもので、過程は複雑なるのみならず、もっともその弱点として、これを製造する人も利用する人も困却こんきゃくしていたのは、些少さしょうの衝撃で爆発の危惧きぐあることに集注していた。これは直接人命に関係するから、一刻も等閑なおざりに付すべからざる難関であった。
 しかるに天は、わざわいを転じて福となす機会を彼にあたえた。ある日、工人はあやまってこの危険なノーベル油を砂上にこぼした。工人はその掃除に周章しゅうしょう狼狽ろうばいしたが、彼はおちついてその一片をとり、静かにこれに点火してみたが不思議にも何の爆発のきざしもなく、おもむろに燃えた。さらに試験をほどこし衝激的に火を放ったところが、爆発して従前の性質を失わなかった。かくして謎は解けた。ノーベル油は、砂にみれば動揺しても安全だ。これに急激な発火栓を添加すれば、主眼である爆発を支障なくおこなわしむることが可能である。それゆえ運搬して遠地に頒布はんぷするも可能となり、ゆくゆくは軍用にも供せられ、ただに土木工業の如きものに用いられるのみならず、また鉱業、ことに炭坑に大なる需用あるをさとった。彼はよろこびのあまり、「世界平和はこれで企図せらるる」とさけんだという話が残っている。あたかも目下、原子爆弾を創造して、夢幻的に世界平和を祈願していると同調である。しかして彼は不断ふだん、世界平和をとなえ軍備縮小を強調しているが、どこでこの思想を涵養かんようしたか不明である。おそらく彼が、米国に滞在した青年時代に感化されたものであろう。
 ニトログリセリンを砂にみ込ませたものは、ダイナマイトと新たに命名され、爆薬として大飛躍をとげたのは彼が二十九歳のときからである。しかし念には念を入れなければ、まことに有効な物は得られない。砂には粒に大小があり、またその成分は所在地によりちがっている。そのつぎに改善を加うべき点は、どんな砂が最もダイナマイト製造に適し、その原料は豊富にあるかが彼の取り上げた問題であった。この解題には数年を要したようである。製造品が平等でなければ使用者はこまる。したがって売れ行きも順調でないからあまねく世界に行きわたらぬ。彼は研究者であったけれども、また商売にもけ目はなかった。そのため、彼は族行癖もあった。ある日ドイツのチューリンゲンを通過したとき、汽車の窓からのぞけば、砂とは違うがニトログリセリンをみ込ませるに最好適と考えらるる珪藻土けいそうどがレールの両側に堆積するを観察し、ただちにこれを採取して実験してみると、薬をみ込ませるにおいても、平等なる点においても、原料の饒多じょうたなるにおいても、従来の原料に優越せるをさとり、ついに製造所をドイツに移し、大なる爆薬工場を十五か所に経営するにいたり、世界各国に手をひろげ、ダイナマイトの用途を拡張したのは一八六五、六年(慶応年間)ごろであった。しかして、かくのごとく世界をまたにかけて事業を営むことになると、やはり世界の中心と目せらるる都市におらなければ殷盛いんせいを期し難く、彼は四十歳にして居をパリに移し、さらに研究所をも新設し、爆薬研究に腐心した。
 そのころから世界の軍部を聳動しょうどうした研究は、無煙火薬であった。これに対し、彼は注意をかたむけ数種の火薬を発明し、中にはある国でもちいられたバリスタイト、コルダイトと同様なものがあって前後の争いがあったそうだが、戦争を忌避するわがくにでその詳細を発表するは無意味であるから筆をおく。
 前に記するごとく、兄のルドウィヒはロシアのためにバクーの石油を配布するに尽瘁じんすいしたが、彼は兄と共同してバクーの石油精錬を攻究した。この方面の専門家に知らるるとおり、ここの石油は多量にナフサを含み、その精錬は困難である。彼はこれを連続的精錬する方法を発明し、兄が石油配布に努力したゆかりがあるので、その方法を実施し、バクーに兄弟連名で巨大な精錬所を建設したのが一八八四年(明治十七)である。ベデッカー〔ドイツの出版社〕のロシア案内記にその位置は載せてあるが、当時バクーの一名所であった。しかし今は、政体が改まっているから変わっているだろう。
 彼は、晩年(一八九一)パリよりイタリアのフランス国境に近き海水浴場サン・レモに移り、一八九六年(明治二十九)十二月十日に没した、享年六十三。
 兄は一八八八年にすでに没していた。

 爆薬の研究に一生を犠牲に供したアルフレッド・ノーベルは、その研究題目より推せば、あたかも軍備拡張に努力した科学者ででもあったかと想像される。しかるに、その遺言を読めば、心中おおいに平和を熱望していた証拠を発見するのである。彼は当時、各国がさかんに武備を講ずるを憤慨ふんがいし、常備軍の兵数増加を排斥はいせきして、国際闘争を仲裁々判で黒白を決めようとはかったのは、現今、国際連盟の行動を推奨するに近い卓見たっけんであった。彼は一私人でありながら、かくの如き国際関係に対しても、先見の明ありしは賞嘆しょうたんに値する。
 彼は生涯を爆薬攻究に終始したが、その費用はみずからかせいで、他にこれを求めなかった。この点においてはエジソンもまた彼に酷似していた。独立独行で他人の拘束こうそくを離れるから、思うままに行動される。したがって成績も早くあがる、まことに最上の研究方法である。研究事項によっては、この行動を決行するを得るが、研究者の人柄によることが多大であるから、トラをえがいて猫に似たるそしりを受けるものがないでもない。つつしむべきである。
 科学研究の一角から工業の芽が出ることは、周知の事実である。彼は爆発研究に幾多の科学研究を利用したであろう。これは多くアカデミックであって、研究者は貧苦をしのび、ときには日光にも照らされず、自然の真理を窮明きゅうめいするのであるから、社会とはほとんど没交渉である。とてもみずから稼いで研究資材を集めるようなことはできない。しかしその探求した真理は、尋常人には不可解であっても、金玉きんぎょくの価値あり、人智の啓発に資するは論ずる必要がない。工業研究はこれらの基礎的結果を利用して進捗しんちょくするのであるから、そのありがたを納得するものは、わずかにノーベルその人のごときである。これらの深窓しんそう内に呻吟しんぎんして、世離ばなれした人をたすけるは、彼の心中にき立っていたから、優秀なる研究者を奨励しょうれいせんがため、遺言してその資産の一部をき、賞を与えることにした。特に着眼すべきは遺言に、賞を受くる人は国籍のいかんを問わずと記してあり、その博愛の精神が言外に浮動している。彼はじつに世界の人であった。
 彼の遺産はいくらあったか知るによしないが、その建てた多数の製造所と、諸国に設けられた商社の数より推せば、巨額にのぼったであろう。死後これを九分して各方面に分割したが、親族縁故者に争議があって、ようやく五年をへて賞金授与がおこなわれた。すなわち基金三五〇〇万マルクの利子約七十五万マルクを、毎年五個の賞に分配したのである。遺言には、授賞の年より一年半間にしとげた重要なる研究に対して与えるようしたためてあった。しかし、学問の趨進は緩急測り難きがゆえに、この条文は事実上おこなわれていない。
 賞の種類は左のとおりである。

第一、物理学賞 ストックホルム学士院審査、ならびに授与。
第二、化学賞 同上。
第三、生理学および医療学賞 カロリン医学研究所〔カロリンスカ研究所か〕審査、ストックホルム学士院授与。
第四、文学賞 国語のいかんを問わず、高尚な理想的傾向に顕著である文学。ストックホルム学士院審査、ならびに授与。
第五、平和賞 世界一般の親和をはかるに、もっとも有効に努力して、常備軍を削減し、もしくは廃止し、各国間に仲裁々判所を設くるに協力したものに授く。ノルウェイ国議会(Storting)審査、ならびに授与。

 授賞の調査は複雑にして、公平に審議せねばならぬ。それゆえストックホルムに「ノーベル・インスティテュート」と称する館を建て、そこで文献を集め、調査をなし、学士院の審議に付するしくみになっており、第一より第四にいたる賞に限られる。第五はノルウェイ国の議会ストルチングに国際公法の文献が豊富に輯集しゅうしゅうされてあるから、ここで調査し、かつ授賞することになっている。殊に一九〇四年には第五賞をストルチングに与えてこれを強化し、遺漏いろうなからしめた。しかして毎年授賞の日を十二月十日と定めたのは、ノーベルの命日を記念するためである。
 最初の授賞式は、一九〇一年に挙行された。その後、適当な研究者がないときは与えられなかった。かかるばあいは第一・第二世界大戦中におこったが、翌年これを与えられたこともあった。また受賞の人数は二人まで可能になっているから、二人に分与されたこともしばしばあった。しかしてヒトラーはノーベル賞を受けとるなと命令したから、賞に当選してもこれを受けなかった人があった。しかし、当選した研究項目はその方面のすいをぬいたものであるから、ノーベル賞の表を熟覧すれば、歴然として当該科学の進歩過程と方向とをさとることが可能である。これは研究者を世界一般に詮索せんさくし、漏洩ろうえいなく論評するからである。ノーベル賞がいつも冠頭に置かるるのは当然のなりゆきであろう。将来においてもながくこの選択方法を維持されんことを期待するのである。
 人智の啓発には、その進歩に遅速がある。学界に先覚者出でて名論卓説たくせつき、これを実験に照らして検証すれば群小これを開発し、その結果を実用に供するに至り、ついに世界の面貌めんぼうを刷新し、文化の根基こんきを強固にするは、歴史の証明するところである。
 試みにノーベル賞を与えられた研究の類例をあげてみよう。
 電波の存在が理論上説明されてより、その実在を証明し、今日はこれを利用して地球表面上、一瞬にして音信を伝え、話を交換するに至った。
 今世紀のはじめ、小麦を主食とする民衆は餓死するであろう、肥料にあてられているチリ硝石しょうせきは遠からず掘りつくして、小麦は育たなくなるだろうと警告された。しかし大気中の窒素固定法の発明により、難関を切り抜け、欧米人の危惧はまったく一掃された。
 昔からおそれられた、肺炎やようちょうのごとき腫物はれものは、カビを原料として製造せらるるペニシリンにより、やすく治療さるるに至ったのは素人しろうとをおどろかした。
 放射性物質の発見は、原子構造の大略をあばき、その内部の構造まで概観するに至った。しかしてその核心の構造は目下討究中であるが、物理学者は一日いちじつ千秋の思いをもって研究成果のすみやかにあがらんことを望んでいる。しかし、かなりの年数がかかるだろう。愉快ゆかいなことに、湯川秀樹君の研究はこれに密接に関係している。五十年間近く諸賢に与えられたノーベル賞の研究を評価すれば、だいぶ差などがあるけれども、君の創始された中間子論は優秀な位置を占めている。受賞につき国民が祝意を表するに、この点をあきらかにしなかったのは遺憾いかんであった。
 物理学賞と化学賞とを受けた研究者の中で、原子関係の攻究に従事した学者がもっとも多い。したがってこれらの人々の多くは、原子爆弾の発案構造などを協議してついにこれを実現するに至った。その過程を調べれば、発明の功績は多分にこれらの諸賢に帰せねばならぬ。さらに目下懸案中の原子動力機の発展も、ひとしくこれらの人々の協力をらざれば、実用の領域に進まぬであろう。一朝、平和工業にこれを活用するに至らば、いかに世界の状況を変化するであろうか、一言ひとことにしてつくすべからざるものがある。あえて予想をえがけば、原爆の製造能力をわきまえずして、その使用による結果を論ずるは無鉄砲である。ノーベルは、ダイナマイトを発見して世界平和をこれによって決すべしと論じたそうだが、それは早まっていた。原爆とダイナマイトとは、その威力において雲泥の差がある。しかしその製造には時日を要する。原爆は打ちつくせばしばらく待たねばならぬ。この間の微妙な呼吸がある。もし、原爆が砲弾の製造速度で供給さるるならば、世界民衆と都市の壊滅も憂慮ゆうりょされるけれども、原料の豊富でない点より打算すれば、戦わずして勝敗は決するであろう。人類絶滅とは極端論者の誇張にすぎまい。しかし優勝劣敗は自然の数で致し方ないが、人智の進歩はなく、たとえ原爆戦で一頓挫いちとんざをきたしても、時をへて人間は繁殖し、文化は向上するから、時代の変遷をうて世界は平和親睦の風に吹きかれるであろう。また、加速度的に進歩する科学界において、原子動力機の端緒をとらえるを得ば、その工業的に発展するは論をまたず、山岳を平坦にし、河流をつごうよく変更し、さらに天然の形勢を利用せず、人為的に港湾河川を築造するに至らば、世界は別天地を出現するであろう。かくして国際的の呑噬どんぜい行動を絶滅し、互いに相融和するに至らば、ユートピアならざるもこれに近き安楽国を出現するは疑いをいれず、巨大なる威力を獲得して、これを恐れるよりもむしろこれを善用するが得策である。今日の科学研究は、もっぱらこの針路をたどりつつある。現今、危機一髪の恐怖に迷わされて神経をとがらしているから、世界平和を信ずるもの少ないが、一足飛びにここに至らざるも、波乱は幾回か曲折をへて、ついにここに収まるであろう。けだしこの証左しょうさを得るには、少なくも半世紀を要するは必然である。
(昭和二十五年(一九五〇)十月『心』



底本:『長岡半太郎随筆集 原子力時代の曙』朝日新聞社
   1951(昭和26)年6月20日 発行
初出:『心』
   1950(昭和25)年10月
入力:しだひろし
校正:
xxxx年xx月xx日作成
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湯川博士の受賞を祝す

長岡半太郎


 わがくにでは敗戦の創痍そういいまだえず、講和条約いまだ締結されず、国民は暗雲にとざされた気持ちに包まれている際、湯川博士がノーベル賞を受けられた吉報に接したのは、黒雲の一隅いちぐうから一条の日光が燦爛さんらんたる輝きを示した心地ここちがして、専門家にかぎらず大衆に至るまで、歓声をあげて喜びを同じくしました。しかしその喜びには、いろいろの素因が伏在ふくざいしています。単に世界でもっとも重きを置くノーベル賞がはじめて本邦人に与えられたのを喜ぶ人もあり、あるいは久しく暗黒界にひそんでいた原子核を探求するに先鞭せんべんをつけたのは、黄色人の科学者であるにもかかわらず受賞されたことを喜んだ人もあろう。あるいは永く神秘に付せられた原子核の研究が、これよりますます発展して、ひとり学問のみならず、これを文化開発の用に供せらるる時期の遠きにあらざるを予想して拍手した人もあったろう。手をたたいて受賞の報知をむかえた大衆の感想を問わば千差万別でありましょうが、みな喜びに満ちたことは疑いをいれませぬ。
 想うに文化の進歩は階段的であって、ギリシャ時代、ルネッサンス時代とか大別してありますが、科学や工芸は時代の特種啓発により段階が顕著になっています。殊に十九世紀の末葉は物理学界に幾多の発明・発見があらわれて、ただに学界にかぎらず、また工業界に数多あまたの革新をうながしました。なかんずく、電波の発生は可視光線をもその範囲に属せしむるに至り、そのころ発見されたX線もまたこれに包含され、また無線通信ラジオなどまで、これにたよって発展し世界を狭隘きょうあいにしました。さらに電子の発見により電子工学の部門を開発し、その用いらるる方面は多岐たきにわたり、その用途は長足ちょうそくの進歩をとげ、地球表面に通信網をはりまわし一瞬間に情報を各所に伝えるに至りました。しかして人間が、いつかは鳥にひとしく飛びうる時機がくるであろうと予期されていた飛行機も飛翔するようになりまして、おもしろき世態を表現しています。これを一〇〇年前の状勢にくらべますと、雲泥の差があります。これらの進歩は昔から希望されていても容易に実行に至らなかったのでありましたが、学者のもたらし得た成果をたくみに利用した結果であります。しかして昔の人が、ただに理想にすぎずと思ったことが、今日では着々ちゃくちゃく実行に移されています。これを啓発したのは、ほとんどすべてが白色人の手腕によってなされたのであります。もちろん日本人も手伝いはいたしましたが、わずかに九牛きゅうぎゅう一毛いちもうにおよびませぬ。それゆえ彼らは、日本人は真似まねをすることが上手だから、沐猴もっこう冠者であると誹謗ひぼうびせています。この汚辱おじょくは一刻もはやくすすぎ去らねばなりませぬ。さいわいに今回、湯川博士はノーベル賞を受け、はじめて原子核構造を探見した元祖として盛名世界に赫々かっかくとして伝わっています。この好機会を逸せず、諸君が原子核に存在する素粒子を利用する方法を攻究し、人間の福祉に資すべき発明に成功せらるれば、既往きおうそしりを洗い落とすことが可能であると存じます。したがって、理論に没頭している湯川博士もまたみを含んで喜ばれるでありましょう。わたしが受賞を祝するのは、従前のはずかしめを一掃する時期の近寄りたるを待つからであります。いたずらに盃をあげて歓声を発するような普通の祝言ではありませぬ。
 発明もしくは発見に到達する前に、突如、有効なるヒントを偶然受くるを常規じょうきといたします。二二〇〇年前、アルキメデスは入浴してその体重の軽きを感じ、はじめて比重を測る方法を講じました。ニュートンはリンゴの落つるのを見て、地球の引力がしからしむるを悟り、ついに天体力学を啓発しましたが、こんなヒントを得た話は枚挙にいとまありませぬ。ノーベル賞を設けたノーベルにもおもしろい話が伝えられています。彼は父とともに、爆薬ニトロ・グリスリン製造を家業としていました。ある日、薬を砂の上にあやまってこぼしました。尋常人ならばただちに掃除したでありましょうが、彼は砂にみれたニトロ・グリスリンの爆発性を試験しましたところ、液体に比して著しく安定性をおびましたので、これまで苦心したこの爆薬の運送に関する謎が解かれ、ダイナマイトが生まれたのであります。すなわち砂をまぜることがその鍵でありました。いわゆる災いを転じて福となし、失敗をひるがえして富源ふげんとなしたのであります。しかし砂には種類がある。どれが一番よいか、つぎの問題としてあらわれました。彼は何気なにげなくドイツに旅行し、チューリンゲンを通る汽車の窓から展望すると、四辺に盛り上がっている砂はダイナマイトにもちゆるに適しているらしいとの目たかの目で鑑定し、第二のヒントを得て試験すると最上等であったので、ダイナマイトの声価はみにあがり、家運はトントン拍子びょうしで上昇し、エルベ河畔に十五か所の製造所を建設するに至りました。この砂は Kieselguhr(珪藻土けいそうど)であります。じつに彼の慧眼けいがん超凡ちょうぼんであった。彼がノーベル賞を設けたのも超凡ちょうぼんであった。一塊いっかいの砂はよく爆薬工業の基を開き、一塊の砂は世界の科学者・平和論者をおどらしむ、と申しても過言ではありますまい。湯川博士もまた、ノーベルに類した直感的の人であることは察するにあまりあります。かつて大阪大学に助教授となられてから幾年もたたず、二十七歳のとき原子核を探求する方便を得て、勇往邁進まいしんされたのは周知のことでありますが、ある人に、「わたしの仕事はベッドの上ではじまった」と語られたことばより、その直感的ヒントを得てスタートされたことが明白であります。湯川でもノーベルでも、その捕捉ほそくする動機は、尋常一様の搦手からめてでおこなわれないところがあります。
 来会諸君のうちで、卒業試験に上成績を残したお方も、またその反対のお方もありましょう。わがくにでは、試験成績で卒業生を処理する通則になっておりますから、ある場合にはうまくおこなわれ、あるときにはその逆に出ることがありますから、この方法は良いか悪いか判然いたしませぬ。イギリスもこれに近いのであります。試みに著名な物理学工学者などを羅列してみますと、点数により将来をぼくするは不安であることを示します。わがくにでも、ややその傾きがありますから注意を要します。特に考察を要するのは、小学程度の教育で非凡な人物があらわれることであります。その一、二をあげますと、ファラデーとエジソンであります。
 電磁気学と化学に甚大じんだいなる功績をしるしたファラデーは、小学教育を受けたにすぎませぬが、十九世紀の偉人として尊敬されています。またエジソンも、小学校の予備教育を受けたに止まっていますが、大衆向きの発明については抜群ばつぐんでありました。その業績を解剖すれば、天与てんよの才をみがきあげたのですから、無教育というは礼を失っています。かえってファラデーをとりたてたデーヴィこそ具眼ぐがん者として表彰すべきでありましょう。またエジソンは、他人の授助を求めず特立独行、自分のラボラトリーで、さらに自分の機械で数多あまたの実験を遂行したのは、まことに羨望せんぼうまとになります。こんな人が将来出るや否は問題ですから、例外にして論ずるが至当でありましょう。
 十分な教育をうけ、試験を経た英国の物理学者を列記しますれば、大西洋海底電信敷設に成功したウィリアム・トムソン、電磁気学の基礎を築いたマックスウェル、電子を発見したJ・J・トムソンらの雷名はとうに響いていますが、その卒業試験成績はみな第二位であります。量子力学の書を著してノーベル賞を受けたジラクは、ブリストル工業学校を卒業し、就職できず、やむを得ずケンブリッジに行き研究したのであります。マルコーニはボローニャ工業学校を卒業したか否は判然しませぬ。アインシュタインが相対性原理を発表したときは、ベルンの特許局技手でありました。その他、似たりったりでありましょう。聞くところによれば、湯川博士も点数は最上ではなかったそうです。これによってこれをみれば、試験成績はあまり信用ができぬようです。科学巨頭の標準は低迷しています。要するに、試験する先生より学生の方が俊秀しゅんしゅうであったのです。
 試みに、これらの試験する諸先生を一堂に集め、逆に少壮しょうそう気鋭の諸学生が問題を提出して、教授を試験すると仮定すればいかん。将来おおいに飛躍する学生は、かならず教授が解釈に苦しむ問題を案出して、数時間にしてこれを解題することができないであろう。トムソンやマックスウェルの時代には、おそらく及第きゅうだいする手腕をそなえていた人はストークスぐらいにすぎなかったであろうと思われる。かくの如く、試験する人とこれを受ける人を反転して考えれば何の不思議もない。未来の成績を試験で判断するは、そもそも錯誤さくごの基となるは論ずるにおよばない。
 日本人は大学を小学の上達したものと心得ているから、むやみに試験を気にかけます。この心理情態が錯覚のもととなり、優秀な研究者をダメにするらしいです。嘆息たんそくすべきであります。いますこし常識的に勉強するがよいでしょう。試験の上手な人は油断ゆだんするな。下手な人でも独創的意見を発揚はつようすれば、試験上手を追い抜くことが可能である。点数は人間の価値を決するメートルではない。
 終わりにのぞみ、わたしの体験を一つお話するをお許しください。ことわざに、健康なる精神は健康なる身体に宿やどると申します。まことにしかりであります。病床に呻吟しんぎんしている間に、いろいろな研究計画などいたしても、なおってからこれを見ますとに落ちぬことが記してあります。すなわち病的の考えをろうしていることを明らかにしているのです。失礼ながら諸君もご同様であろうと存じます。ひとえに諸君のご健康を祈ります。ご清聴をわずらわし恐縮にたえませぬ。
(昭和二十四年(一九四九)十二月十七日講演 技術連盟)



底本:『長岡半太郎随筆集 原子力時代の曙』朝日新聞社
   1951(昭和26)年6月20日 発行
入力:しだひろし
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ラザフォード卿を憶う

長岡半太郎

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(例)三百|弗《ドル》

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/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)たま/\
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
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 前世紀の終りに、キュリー夫人がウラン鑛石よりラジウムを分離してより、放射能作の研究は物理學界を賑わした。從來原子ほど安定したものは無いと考えられたのが、或る元素に在りては、自然崩壞を續けている状況が、漸次明るみに出て來た。しかしてこの方面に於て最も吾人の知識を發展させたのは、ラザフォード卿であつたことは、その道の人にあらざるも、苟くも少しくこの現象に手を染めたものゝ均しく首肯するところである。不幸にして昭和十三年十月十九日、卿は遂に不歸の客となつた。こゝにその小傳を記し、その人と爲りを讀者に紹介するは、卿を知るものゝ敢て辭せざるところである。

   順風に帆を孕む

 人生の艱苦暢達は各自その才能に依り異なるところがある。科學者は政治家の如き崎嶇波瀾に富まないけれども、たま/\浮き目に遭遇しないとも限らない。卿は幼時より、順風に帆を孕める舟の如き行程を一生涯續けた幸運兒であつたと評するが至當である。
 卿は一八七一年、ニウ・ジーランドのネルソンに生れた。兩親は英國から移住し農業を營んでいた。小兒の頃は、附近に棲むマオリ蠻人の子供と遊んだといわれ、植民地有りの儘の環境に育つた。小學兒童としては成績優秀、終に拔擢せられてニウ・ジーランドのクライスト・チャーチ大學に入學した。こゝで、電波を受けるに、鐵の磁性が電磁振動により弱めらるゝを利用して受信機に相當するものを案出した。この試驗はマルコニーの最初の受波裝置が公表されない數年前であつて、卿が實際受信器の最初の考案者と言うが適當である。この成績に依り、英本國留學の給費を贏ち得て、ケムブリッジに遊び、ジェー・ジェー・トムソンの門に入ることを得た。ときに一八九五年であつた。卿は直ちに生國で研究した事項の敷衍を試み、遂に二哩の距離に於て受信するを得るまでに至つた。この試驗は一人にて行い難く、僚友數人の援助により、始めて成功し得べき性質のものであつたが、田舍から初めて出て來た人にしては、その組織的觀測の手腕が冴えていたので、ジェー・ジェーを驚かした。卿は生れながら組織的才能に富んでいた。若し英本國で生れたならば、恐らく物理學など修めずして、一流政治家になつたのであろう。しかしながら天がその才を科學方面に發揮せしめたのは、頗る謂われがあるが如く思わる。

   放射性の探究へ

 無線の試驗は端なくも數週間で終焉を告げた。その頃レントシェンの發見せるX線は、氣體を電離せしむるに簡便なる方法を授けた。兼てその方面を熱心に攻究していたジェー・ジェーの注意は、頓に電離試驗に傾き、卿の實驗もまた方向を轉換して針路を移した。その間二年餘の實驗は、將來の研究を決定すべき豫備考索に過ぎなかつた。放射能作を精査すべき辣腕は此間に磨かれた。假りに無線通信に執着したならば、卿の組織的頭腦は、マルコニーに先んじ、檢波發信に成功して、世界に電波網を擴げ、通信界を風靡したであろう。しかし環境に順應して、遂に放射性を研究し、原子の性質を摘發し、以つて吾人の原子に關する知識を擴充するに貢獻したのも、その成績に於て敢て軒輊を其間におくべからざる状態に向わしめた。
 一八九八年にカナダのモントリオル市マクギル大學に物理學教授の空位を生じ、卿はその招きに應じて赴任した。設備は至つて不完全であつたが、幸いに液態空氣製造機械と三百|弗《ドル》の寄附を受けたので、卿は直ちにその金でラジウム六デシグラムを購い、いよ/\放射性の研究に沒頭した。三百弗は些少の額であるが、これ程に遣われた金は無かろう。卿の實驗資料は、終生專らこの少量のラジウムより供給された。その結果の偉大なる、恰も谿間の泉が濫觴の水を小川に注ぎ、その末は渾々大河を決するの勢あるを想わしむる。
 放射能作は讀者周知の現象であれば、これを記するを省略して、その漸次探究された模樣を説くに止めて置く。兩キュリーがラジウムを發見してより、その特質は諸方で攻究された。しかし卿が試驗を創めらるゝ頃までは、秩序的に按排した事項は稀であつた。たゞ實驗家は思い懸けなき現象に眩惑した感に打たれたに過ぎなかつた。放射線をαβγの三線に區別するような仕事は、ジェー・ジェーの實驗場で、鍛え上げた腕には左まで苦痛でなかつた。しかし放射元素がα線或はβ線を發して、次から次へと傳統的に相承けて行く状況を把握するには、少からず考慮を要した。丁度その頃化學の教授にソッジーが居合せた。この好い相棒と議論を上下して、遂に確算的に元素が崩壞する有樣を計算し、その平均壽命と能作半減期等を、實驗に基き確定し得るを論じた。しかるに原子論に確算を流用するは間違つている、氣體の分子速度を推定するにマックスウェル定理を使用するを不可なりとしたケルヴィン卿は、同一な立脚點から、ラザフォード、ソッジーの理論は誤れりと批評した。これにも關らず、論より證據、トール系に於ても、ウラン系に於ても、崩壞によつて生ずる傳統元素は、一定の平均壽命あることが確實となつたから、その推理は學界に信ぜらるゝに至つた。その際卿が苦心したのは、半減期が餘りに大なる差を示すにあつた。即ち或る者は、數分、或は數日、甚しきは數十億年の値に到達した。その差は恰も赤貧者と大富豪との財産別あるが如くであるけれども、これは同じく人の子に屬し、また半減期は同系統の放射元素の持ち前である。この特有な性質は、哲學者の原子に關する觀念に拘泥して、元素は一定不變なりと考えていた世人には、青天の霹靂であつた。
 マクギル大學は植民地の一角に位して、當時その名を知るものは少かつたが、卿が放射性元素の研究に從事するや、諸國より學徒が集つて、その門弟には著大な發見を爲したものがあつた。中にもドイツより來たハーンは、トール系の元素メソトールやトーロンを見出した。その他一々これを記するは煩雜になるから記さぬ。從つて卿の盛名は、物理學化學界を聳動し、遂にマンチェスターの物理學教室主任として英本國に招喚されたのは一九〇七年であつた。

   新しき關門をひらく

 イギリスのその頃著名な物理學者で、世界がその研究を注視していたマックスウェル、レーリー、兩トムソンは、概ね理論と實驗とにより、斯學の開拓を圖つた。從つてその論文は數學を機械の如く運用し、その論據を固め、しかして實驗によつてこれを確定した研究が大部分を占めている。卿の用いた手段はこれと異なり、殆ど凡てが實驗を以て往來し、恰もファラデーが電磁氣論の基礎を据えるに用いた方策を準據した。ファラデーは數學の素養に乏しかつた、卿もまたこれに類して、數學の蘊奧を窮めなかつた。マンチェスターで、流體力學の專門家ラムの講義に出席して、球函數を學んだ經歴から考うれば、數學方式を濫用する如き方針は深く戒めたものと解せらるゝ(故木下季吉君談話による)。また前記の物理學者は多方面で、物理的現象の諸相に手を染めた。しかるに卿は單に放射性に重きを置き、これに連關する原子の構造を探究し、大いに光彩を放つた。今日の如き斯學の發展した時代では、その一角を討究するも、終生沒頭するに足る研究事項を輯集し得るのである。しかして吾人が今知らんと欲する事項は、諸物體を構造する原子の内部の機構である。放射性はこの難關を突破するに最も簡單明瞭なる捷徑であれば、卿がひたすらこの方面に專念したのは、斯學の趨向を達觀し、豐富なる收穫を得んが爲め邁進し、殆ど他を顧みなかつたのであろう。たゞに放射性が斬新なるがゆえにこれに執着したのではなく、物理化學等に於て、從來探究すべくして、その方便に苦しんでいた題目を捉えて、吾人のこれに關する知識を擴大し、以つて新しき關門をひらいたものと考うるが當を得ている。
 こゝに卿の研究を逐一列記するは、放射能作の大部分を記するに均しいから、一二の重要なるものを記すに留めて置く。卿が最も注意を拂つた放射線はα線であつた。これを磁場と電場等とにより運動方面を狂わしめて測定した結果、α微子は水素原子の四倍の質量を有し、その帶電量は電子の二倍にして、しかも陽性であると斷定された。即ちヘリウムと同一質量で、その帶電したものであるを暗示した。これをラムゼーのラドンよりヘリウムを得た試驗に對照すれば、明かにヘリウム原子の陽帶電せるものである歸結となる。しかるに當時原子の構造は全く暗黒であつて、諸説紛々、種々の模型が案出せられ、たゞ均一性を保有している點は、原子は平常は電氣的中性であり、電離作用に依り帶電する、しかしてその安定は強固で、人爲的には到底變更或は破壞することは不可能であるとせられた。卿は放射原子が人工的にその壽命を變ずるや否につき、コルダイト火藥を用いて、これを爆撃し、崩壞恆數に變化を及ぼすや否を檢査したけれども、何たる徴候も見出し得なかつた。それゆえ益々原子の安定性を裏書きせざるを得なくなつた。しかして前記のα微子の本質と撞着する嫌いがあるかの如く觀察された。卿が終始α微子を精査したのは當然のことである。

   核原子

 これより先きウィリャム・トムソンは、電子が各原子に固有なる要素である見地より、原子模型を提案した。それ以前に既に上提されたものは、スプリングを裝置したもので、スペクトル説明に供したのであるが、これを幾分改善して、電氣的に直した結果、陽球内に電子が或る形勢に配置されて、その運動が振動的なる場合あり、甚しきは陽球より飛び出す場合もあり、平衡状態に於ては電子群と陽球の帶電とは相均しくして、外間にはその電氣構造を暴露せぬものと考えた。その後この案を敷衍して、ジェー・ジェーは陽球内に特別の電子配置を起案し、週期律の説明を試みたが、陽球内は電氣を以つて充たされ、その中を電子が徘徊するのだから、陰陽電氣の相互作用を如何に考うべきか、電氣力線を描いて見ると、頗る奇怪なもので、從來の觀念に更に新しき想像を加えねばならなくなつた。その他大同小異の説も出でた。しかし理論は人間の頭の中でいろ/\考案せらるるものだから、その種類はおびたゞしくなるが、事實自然に存在する原子と合致するものを捉えねばならぬ、それゆえ唯一の解題あるのみだから、困難は此處にあるのだ。
 その頃予は考うるに、自然の法則は簡明である。電力の働くのと、電氣が互いに引斥する法則は相均しい、若し原子が電氣構造を有するならば、その機構は相類しているだろう。大にしては太陽系、小にしては原子と考えても差支えあるまい。假りに電子群を惑星に、陽電氣を帶ぶる中心體を太陽になぞらえれば、その安定も可能であるし、また固有なスペクトル線の輻射も論ぜられないことは無い、從つて陽核と電子群を假定して進發する方針が、トムソン型無核原子より適切ではないかと發表した。その後ショットは丹念に電子運動を計算し、その當否を決せんと試み、遂にケムブリッジ大學でアダムス賞を得たけれども、未だ黒白を辨ずるまで斷定的解決を與うるに至らなかつた。
 この基礎的觀念と實際とは、物理學と化學とを修むるものが一日も速かに斷定せねばならぬ根本問題であるは、今更喋々を用いぬけれども、核原子が是か非か、約八年間疑惑裡に葬られた。しかし核原子か無核原子かは遂に卿が絶えず慣用していたα微子の行使によりこれを判決するを得た。α微子の質量は電子に比し約七千倍である。從つてその運行を外らすには強き電場を要する。それゆえ若し電子がトムソンの考うる如く無核で陰陽相和する形勢にあるならば、その傍にα線を通過せしむるも格別の外れを認めない。しかしながら若し陽核が存在して、その周りに電子群があつて、全體が中性的になつているとすれば、陽核にすれ/\にα微子を運行せしむれば、核はこれを斥け、その軌道は微子の惰性が大なるにもせよ、著しき屈曲を生ぜねばならない。依つてα微子を數多或る物質を通過せしむれば、その内に陽核と接近して、甚しく進行方向を狂わせるものがなければならぬことを卿は悟つた。これを試みるは六ケ敷い實驗でないから、α微子を馭するに熟達した手腕を以て探求して見たところ、果してα微子の運行方向を激しく外らすものあるを明かにし、原子内に陽核の存在するを確めた。卿はこの結果に頗る滿足したと見え、直ちに予に書を寄せて、核原子に凱歌を掲げたことを報告されたのは一九一一年であつた。爾來原子の内部構造の大綱につき、陽核の存否をかれこれ討議するものが跡を絶つたのは、學者が皆卿の試驗の確實性を承認した證據である。
 一九〇〇年に呱々の聲をあげた量子論は、予が陽核を提唱した一九〇三年頃まで幼稚であつた。しかし卿の陽核存在を確認した頃は可なりの發達を遂げ、核原子が自然の構造であることが判明するや否、コッペンハーゲンのボーアは巧みに量子論を利用し、核を圍繞する電子の動きを詳かにし、終にスペクトル線の出現を明かにし、十年に互る[#「互る」は底本のまま]物理學に於けるボーア期を劃成した。聞くところによれば、ボーアはその所説を最初ジェー・ジェーに打ち明けたが容認せられず、遂に卿の賛同を得てマンチェスター物理教室より公表した。破天荒の議論を吐く場合に此の如き蹉跌あるは古今同一轍で、學者の宜しく鑑むべき訓戒である。科學の先進國を以つて誇るイギリスでさえこんなであるから、極東の幼稚な邦では尚更の事である。

   原子轉換に成功

 原子量は概ね水素の整數倍になつていることは、一八一五年プラウトが指摘した。蓋し原子核は水素原子が電子と絡まつた構造を有しているのではないかと想像された。しかるに放射元素が傳統的に崩壞する際に、水素原子の現わるゝことは實驗上證明されず、反つて質量が水素原子の四倍であるα微子が奔逸する。しからば原子量はその倍數であるかを調ぶれば、そんな事は確められない。これは原子學の謎であつた。このジレムマは卿の試驗により、一九一九年に緩和されたのみならず、更に原子轉換の可能性を示唆した。
 卿は窒素をα微子で爆撃し、そのαならざる微子を出すを發見した。その到達距離は、とてもα微子などの及ばざる長さに及んだ。これを精査すれば間違いなく水素原子の帶電せるものである。しかもそれが核が破れて奔逸したのでなければ、長距離を大速度で走ることは不可能である結論となつた。しかるに水蒸氣は、やゝもすれば窒素瓦斯に混入して測器内に紛れ込む虞れがあるから、卿の觀測した水素核は水蒸氣から出たもので、窒素を壞して得たものではなかろうと、キュリー夫人は臆斷し、水蒸氣に就き試驗すれば、確かに水素が出る。この紛爭はパリーとケムブリッジとの間に繼續したが、卿の成果は遂に確認された。即ち帶電微子の迅速なるものを使用して、原子核を破壞し、他元素と爲し得る元素轉換術を、初めて合理的に運用した發端である。この偉大なる發見は、その當時思わしく發展しなかつたが、近年に至り、著しくその重要性を認められ、遂に人工的にヘリウムよりα微子を發生せしめ、または重水素の核を、數百萬ヴォルトで放出せしめる方法が發明せられて、元素轉換試驗を甚しく簡易ならしめた。その結果人工的に諸元素に放射性を賦與し得る意外な事實に導いた。將來卿のこの研究が、歴史的には最も偉大なるものとしてあがめられるだろう。

   學界の重鎭

 一九一九年ジェー・ジェーの後を承けてケムブリッジに移り、今日に至つた。かくてカヴェンジッシュ實驗場は研究生を以つて充滿したけれども、卿の組織的才能は、其間に處し能く困難に打勝つた。其間實驗場から數多の卓越せる研究が發表せられ、ローヤル・ソサェチーの記事は、その價値を倍加した。その内で卿が原子核試驗より立論した中性子の存在を實驗的に確めたチャドウィックの論文は、最も重要な結果である。卿は確かに政治的色彩があつたから、人を鑑別することも妙を得た。ソヴェト人カピッツァの才能を認めて、その考案に基き特異な電磁石を作り、五十萬ガウスの磁場を創めて實現したとか、ヴィッカースの技師コッククロフトを喚んで、強電壓を加えた微子で元素を壞したとか、その辣腕は凄かつた。しかして昨年小自動車製造家オースチンを動かし、四百餘萬圓の寄附を爲さしめ、大いに實驗場の擴張を圖つたとか、尋常一樣の學者が企て及ばない計畫を實行して、學問の進歩に貢獻せんとした。蓋し物理學の趨勢は、世界大戰後大設備に待つもの多く、恰も軍備競爭の如き状況を呈して來たから、單純な裝置と、明晰な頭腦とのみでは追付かなくなつた。卿はこゝに見るところあり、十分な設備を施して、研究上萬全を期したのであろう。その企圖は未だ實施するに至らずして歿したのは殘念である。
 卿の死は學界の災厄であつた。卿の弟子は世界に撒布されているけれども、將來卿ほどの偉業を遺す人ありやは疑問である。また現時世界各國を見渡しても如何かと思う。イギリス學界がその死を哀悼するは言うに及ばない。卿は一九一四年ナイトとなり一九三一年學績を以つてバロンに叙せられた。しかして遺骸はウェストミンスター・アッベーの一角に位するニウトンの墓前に葬られた。科學者にしてこの寺院に骨を納むる榮譽を荷うものは指折するに過ぎない。殊にイギリス植民地に生れた人で、貴族に列せられ、また此所に永眠するは、最初の出來事である。卿が學界の重鎭と崇められた表示はこれに過ぎたことはない。

   卿の風貌の印象

 予は屡々カヴェンジッシュ實驗場、學會、私宅等で卿と談論する機會があつた。その容貌は魁偉で見上げるほどの大男であつた。談話は快活、時に諧謔を交え、人を呑むの概を示し、政治家風の辯論頗る濃厚であつた。嘗て放射學國際會議で、諸國から集つた學者の間を斡旋した態度は、會衆を瞠若たらしめた。一九二五年ジェー・ジェーの後を襲うて、ローヤル・ソサェチーの長となり大いにその仕事を刷新したのは當然である。また大英國前首相マクドナルドと親交があつた。予は大戰直後卿に逢つたとき、こんな話をした。議會で研究費が議題となつたとき、研究は物好きが慰み半分やるのだから、あんなものに政府が金を支出する理由がないと言つたと憤慨して、議員の無識を罵つた。しかし彼は奧の手を出して、政府當局と結び、この難關を切り拔けたのであろう。また富豪モンドを説いて、カヴェンジッシュ實驗場附屬のモンド・ラボラトリーを建設した。科學者にもこんな手腕を揮い得る人物がなければ研究は進まない。東洋にいる予が知つている事でもかようであるから、眤近[#「眤近」は底本のまま]の人に訊いたらば、面白い策動がさらけ出されそうだ。思うに卿が二十四歳になるまで、植民地に蟄伏していたのは、學問の爲めに救われたのだ。本國に生れたならば、必ず政治界の風雲に乘じて飛躍し、イギリス國民史にその名を留めたであろう。
 斯く記せば、いかにも重々しく威容を飾つていたかと讀者は想像さるゝかも知れぬが、卿には植民地生れの質朴さと、學者風の淡泊な風采があつた。卿がローヤル・ソサェチーの長になつたころである。予はケムブリッジに數日滯在して世話になつたから、告別に名刺を卿の私宅に放り込んだ。するとちよつと來い、見せるものがあると言われた。握手するや否や、この頃は眼が廻るように忙しいと呟きながら、庭の一隅にある温室につれて行き、今年は手栽の蔓になつた葡萄が喰えると、幾つもない房を指して喜んだ。續いてこの庭は剛體力學のラウスが造つたんだ、因縁深いと話して大いに笑つた。その無邪氣な氣質はこの一事を以つて推される。
 卿は孝行ものであつた。兩親にいくら故國に歸れと勸めても、頑としてニウ・ジーランドに留つている、それゆえ折を見てしば/\歸省した。歸英の途日本に立寄つてはどうだ、弟子が十人近くいるから、さぞ喜ぶだろうと、來朝を勸誘したけれども、そうすれば半年の日子を費すから、今のところ不可能だと答えた。六年前に予が逢つたとき、また歸省するのだと話した。丁度貴族に列せられた頃であつたから、いわゆる錦を著て故郷に歸るのである。兩親は既に九十の坂を踰えているのだから、その喜びはいかばかりであつたろうと、推察に餘りある。
 この稿を草しつゝ憶い出すのは、卿の快活な相貌と、煙草を燻らしながら、學界を睥睨して談論縱横なる辯舌である。今や既に亡し、既に亡しと雖もその偉業は將來に照燿して、ます/\原子に關する研究を刺激するであろう。


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   ラザフォード卿からの書簡
         長岡半太郎宛

 冠省
 私の實驗の簡單さということが、そんなに並はずれたものだとは知りませんでした。實際のところ、私はいつも、科學の問題には可能な限り最も簡單な方法で取つ組むのがよいと固く信じているのです。それというのも、ほんのちよつと氣をつけさえすれば、多くの時間と多くの費用とが省けるような場合にも、こみいつた裝置を作りあげては尨大な時間の浪費をしていると思うからであります。
 現在こゝの研究所(カヴェンジッシュ研究所)で進められている仕事のうち二〜三のものについて簡單に報告しておきましよう。
 私個人としましては、α線とβ線の散亂の問題を考え續けており、一つの理論を展開させましたので、近く詳細な點にわたつて發表することになつています。御承知のように、最近、J. J. Thomson がβ線の小散亂に關する理論をたてましたが、それを Crowther が實驗の結果、確認したように思われます。この理論に使われた原子模型によれば、結果に現われる散亂は小散亂の累積されたものなのです。ところが一方私はα粒子の大きな方向變化を考察してこういう結論に達したのです。つまりたゞ一回の衝突によつて大きな角度の散亂を起すということが、實際に散亂現象では主要な役割を演ずるのである、と。
 私は一つの原子を考察しました。それは中心電荷 Ne の周りを反對符號の均一な球状分布の電荷が取りまいているものであつて、この電荷分布は、もし必要ならば、普通に知られている通りの原子半徑と同じくらいの距離にわたつて擴がつているものと考えられるのです。私の所見では、この中心電荷の電氣量は、金の場合、約 100e です。大きな方向變化が起るのは粒子が中心電荷に近い強力な電場を通過するためであります。ところで、この方向變化の計算ですが、もしもその粒子が、距離の二乘に反比例して變化する中心力の作用によつて双曲線を描くものと假定しますならば、この方向變化は容易に計算できます。偏角をφ(ファイ)とすれば、大きな角度φにわたつて散亂する粒子の單位面積當りの強度は Cosec^4 φ/2 に比例するということになります。Geiger が私のために、一枚の薄い金箔によつて散亂されたα粒子の分布を調べてくれましたが、その結果は理論とぴつたり一致しています。この理論はそのまゝ Crowther の主な結論を全部説明することもわかりました。もつとも小散亂が存在するということに何の疑いもないのはもちろんですが、しかし大ていの場合には大散亂の方が主な要因であります。私はこの理論を念入りに細かく組立て、いま Geiger が實驗によつて檢べているところです。その結果は、今までのところでは、この理論の主要結論が正しいことを示していますし、また、原子の中心電荷がその原子量にほぼ比例することを示しています。
 私としましては、この種の研究は大きな重要性をもつものだと感じています。なぜかと申せば、α粒子またはβ粒子が高速度で原子系を貫通してゆくことは疑いないところであり、その運動を研究することによつて、私たちは原子の構成について何らかの考えをまとめ上げることができるかも知れないからであります。
 やがてお氣づきになることと思いますが、私の想像する原子の構造は、貴下が數年前に提出された論文のものと、幾分か似通つたところがあります。私はまだ貴下の論文を詳しく調べてはいないのですが、それでも貴下がその題目について書かれたことはおぼえています。
 私は自分の仕事の結果について、最近 The Manchester Lit. と Phil. Soc. とへ豫報を送りましたし、近いうちに The Philosophical Magazine に發表したいと思つております。
 私のところの研究者の一人の仕事で興味ぶかいのは、ラジウムCの生成物の構成についてのものです。Hahn がその生成物の中に一つの短壽命の物質が存在することを證明したことは、貴下もおぼえておられるでしよう。非常に徹底綿密な檢査を行つた結果、どうもラジウムの分裂には二つの方法がある。つまり、この點で、一つの枝分れがあつて、それは全體からみれば、ほんの僅かな部分にすぎない、と思われます。これはなかなか興味ぶかいことです。と申しますのは、私は永いこと、そういつた結果が必ず存在するに違いないと考えていたからであります。もつとも、これは實驗によつて完全な證據をつかむには非常に困難な事柄ではありますが、たとえば、アクチニウムがウラニウム=ラジウム系列のある點での一つの枝分れであるということは、かなり確實だと思えるのです。もちろん反跳や放射線の性質についても、現在ほかに研究を進めていますが、その大部分は、大した問題なく進んでいます。  敬白

  一九一一年三月二十日         E・ラザフォード
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[#地から3字上げ](昭和二十五年一月 科學朝日)



底本:『長岡半太郎隨筆集 原子力時代の曙』朝日新聞社
   1951(昭和26)年6月20日 発行
初出:『科學朝日』
   1950(昭和25)年1月
入力:しだひろし
校正:
xxxx年xx月xx日作成
青空文庫作成ファイル:
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ノーベル小傳とノーベル賞

長岡半太郎

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)癰《よう》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)遣言[#「遣言」は底本のまま]

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)しば/\
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
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 ノーベル賞の存在は、昨年湯川秀樹君の受賞により、汎く、我邦人に傳わつた。しかしその賞を發案したノーベル Alfred Bernard Nobel の事績については、知る人稀にして、いかなる動機により、その資産一部を割き優秀なる研究者に與うるようになつたかを明かにするもの少きは、まことに遺憾である。こゝにその一端を記すは無用であるまい。
 ノーベルの父は工業家で、ストックホルムに住居し、ロシヤ政府の用達を勤め、首都ペトログラードの入口に設けられた、クロンスタット要塞を堅固にする設計を委託されてあつた。しかして家業としては、工業藥品、特に爆藥ニトログリセリンの製造に從事していた。二子があつたが、兄ルドウィヒは一八三一年(天保二年)に生れ、弟アルフレッドは一八三三年(天保四年)に生れた。兄弟共性格相似て、終始互いに提携して家運を興した。兄は父の職を繼いで、「ロシヤ」に出入し、海軍船艦を築造するドックを築き、製鐵所を設けて、軍器製造所を建てた。また河川改修に從事し、數多の河川の航路を開き、舟運の便を圖り、二十隻の川蒸汽隊を組み、各河にこれを配置して、運送に停滯なからしめた。ロシヤ農民が、バク産石油を、至る所燃料として使用するを得たのは、この施設あつてからである。かくして兄がロシヤに盡した功勞は、甚大なものがあつた。
 弟は十七歳で米國に遊び、居ること四年、其間何をしたかは判然しないが、明敏な觀察力を諸方面に働かせた。當時米國の工業は長足の發達を遂げんとする時期に遭遇し、自らその状勢を洞觀したものと思われる。二十一歳にしてスウェデンに歸り、大學に入つたが、遂に兄の蹤跡を蹈まず、父と共に家業に從事した。即ち工業爆藥ニトログリセリンの製造、並びに利用等に、その研究を集注したのである。その頃この爆藥は「ノーベル油」として知られたが、發煙硝酸、濃硫酸、グリセリン等を使用して製造したもので、過程は、複雜なるのみならず、最もその弱點として、これを製造する人も利用する人も、困却していたのは、些少の衝撃で、爆發の危惧あることに集注していた。これは直接人命に關係するから、一刻も等閑に付すべからざる難關であつた。
 しかるに天は禍を轉じて福となす機會を彼に與えた。或る日工人は過つてこの危險なノーベル油を砂上にこぼした。工人はその掃除に周章狼狽したが、彼は落付いて、その一片を取り、靜かにこれに點火して見たが、不思議にも何の爆發の兆も無く、徐ろに燃えた。更に試驗を施し、衝激的に火を放つたところが、爆發して從前の性質を失わなかつた。かくして謎は解けた。ノーベル油は、砂に浸みれば動搖しても安全だ。これに急激な發火栓を添加すれば、主眼である爆發を支障なく行わしむることが可能である。それゆえ運搬して遠地に頒布するも可能となり、行く行くは軍用にも供せられ、たゞに土木工業の如きものに用いられるのみならず、また鑛業、殊に炭坑に大なる需用あるを覺つた。彼は喜びの餘り、「世界平和は之で企圖せらるゝ」と叫んだという話が殘つている。恰も目下原子爆彈を創造して、夢幻的に世界平和を祈願していると同調である。しかして彼は不斷世界平和を唱え軍備縮小を強調しているが、何所でこの思想を涵養したか不明である。恐らく彼が米國に滯在した青年時代に感化されたものであろう。
 ニトログリセリンを砂に浸み込ませたものは、ダイナマイトと新たに命名され、爆藥として大飛躍を遂げたのは、彼が二十九歳の時からである。しかし念には念を入れなければ、眞に有効な物は得られない。砂には粒に大小があり、またその成分は所在地により違つている。その次に改善を加うべき點は、どんな砂が最もダイナマイト製造に適しその原料は豐富にあるかが、彼の取上げた問題であつた。この解題には數年を要したようである。製造品が平等でなければ、使用者は困る。從つて賣行も順調でないから、汎く世界に行き渡らぬ。彼は研究者であつたけれども、また商賣にも拔け目はなかつた。その爲め彼は族行癖もあつた。或る日ドイツのチューリンゲンを通過したとき、汽車の窓から覗けば、砂とは違うが、ニトログリセリンを浸み込ませるに、最好適と考えらるゝ珪藻土が、レールの兩側に堆積するを觀察し、直ちにこれを採取して實驗して見ると、藥を浸み込ませるに於ても、平等なる點に於ても、原料の饒多なるに於ても、從來の原料に優越せるを覺り、遂に製造所をドイツに遷し、大なる爆藥工場を十五ヶ所に經營するに至り、世界各國に手を擴げ、ダイナマイトの用途を擴張したのは、一八六五、六年(慶應年間)頃であつた。しかして此の如く世界を股にかけて事業を營むことになると、矢張り世界の中心と目せらるゝ都市に居らなければ、殷盛を期し難く、彼は四十歳にして居をパリに移し、更に研究所をも新設し、爆藥研究に腐心した。
 その頃から世界の軍部を聳動した研究は無烟火藥であつた。これに對し彼は注意を傾け數種の火藥を發明し、中には或る國で用いられたバリスタイト、コルダイトと同様なものがあつて、前後の爭いがあつたそうだが、戰爭を忌避する我邦でその詳細を發表するは無意味であるから筆を擱く。
 前に記する如く、兄のルドウィヒはロシヤの爲めにバクの石油を配布するに盡瘁したが、彼は兄と共同して、バクの石油精錬を攻究した。この方面の專門家に知らるゝ通り、此所の石油は多量にナフサを含み、その精錬は困難である。彼はこれを連續的精錬する方法を發明し、兄が石油配布に努力した縁りがあるので、その方法を實施し、バクに兄弟連名で巨大な精錬所を建設したのが、一八八四年(明治十七年)である。ベデッカーのロシヤ案内記にその位置は載せてあるが、當時バクの一名所であつた。しかし今は政體が改まつているから變つているだろう。
 彼は晩年(一八九一年)パリよりイタリヤのフランス國境に近き海水浴場サン・レモに移り、一八九六年(明治二十九年)十二月十日に歿した、享年六十三。
 兄は一八八八年に既に歿していた。

 爆藥の研究に一生を犧牲に供したアルフレッド・ノーベルは、その研究題目より推せば、恰も軍備擴張に努力した科學者でゝもあつたかと想像される。しかるに、その遣言[#「遣言」は底本のまま]を讀めば、心中大いに平和を熱望していた證據を發見するのである。彼は當時各國が盛んに武備を講ずるを憤慨し、常備軍の兵數増加を排斥して、國際鬪爭を仲裁々判で黒白を決めようと圖つたのは、現今國際連盟の行動を推奬するに近い卓見であつた。彼は一私人でありながら、此の如き國際關係に對しても、先見の明ありしは賞嘆に値いする。
 彼は生涯を爆藥攻究に終始したが、その費用は自ら稼いで、他にこれを求めなかつた。この點に於てはエジソンもまた彼に酷似していた。獨立獨行で、他人の拘束を離れるから、思う儘に行動される。從つて成績も早く擧る、眞に最上の研究方法である。研究事項によつては、この行動を決行するを得るが、研究者の人柄によることが多大であるから、虎を畫いて猫に似たる謗りを受けるものがないでもない、謹むべきである。
 科學研究の一角から工業の芽が出ることは、周知の事實である。彼は爆發研究に幾多の科學研究を利用したであろう。これは多くアカデミックであつて、研究者は貧苦を忍び、時には日光にも照されず、自然の眞理を窮明するのであるから、社會とは殆ど沒交渉である。とても自ら稼いで研究資材を集めるようなことはできない。しかしその探求した眞理は、尋常人には不可解であつても、金玉の價値あり、人智の啓發に資するは論ずる必要がない。工業研究はこれ等の基礎的結果を利用して進捗するのであるから、そのありがた味を納得するものは、僅かにノーベルその人の如きである。これ等の深窓内に呻吟して、世離れした人を援けるは、彼の心中に湧き立つていたから、優秀なる研究者を奬勵せんが爲め、遺言してその資産の一部を割き、賞を與えることにした。特に著眼すべきは遺言に、賞を受くる人は國籍の如何を問わずと記してあり、その博愛の精神が言外に浮動している。彼は實に世界の人であつた。
 彼の遺産は幾何あつたか、知るに由ないが、その建てた多數の製造所と、諸國に設けられた商社の數より推せば、巨額に上つたであろう。死後これを九分して各方面に分割したが、親族縁故者に爭議があつて、漸く五年を經て、賞金授與が行われた。即ち基金三千五百萬マルクの利子約七十五萬マルクを、毎年五個の賞に分配したのである。遺言には、授賞の年より一年半間に仕遂げた、重要なる研究に對して與えるよう認めてあつた。しかし學問の趨進は緩急測り難きがゆえに、この條文は事實上行われていない。
 賞の種類は左の通りである。
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第一、物理學賞 ストックホルム學士院審査、並びに授與。
第二、化學賞 同上。
第三、生理學及び醫療學賞 カロリン醫學研究所審査、ストックホルム學士院授與。
第四、文學賞 國語の如何を問わず、高尚な理想的傾向に顯著である文學。ストックホルム學士院審査、並びに授與。
第五、平和賞 世界一般の親和を圖るに、最も有効に努力して、常備軍を削減し、若しくは廢止し、各國間に仲裁々判所を設くるに協力したものに授く。ノルウェイ國議會(Storting)審査、並びに授與。
[#ここで字下げ終わり]
 授賞の調査は、複雜にして、公平に審議せねばならぬ。それゆえストックホルムに「ノーベル・インスチチュート」と稱する館を建て、そこで文獻を集め、調査を爲し、學士院の審議に付する仕組になつており、第一より第四に至る賞に限られる。第五はノルウェイ國の議會ストルチングに國際公法の文獻が豐富に輯集されてあるから、こゝで調査し、且つ授賞することになつている。殊に一九〇四年には、第五賞をストルチングに與えてこれを強化し、遺漏なからしめた。しかして毎年授賞の日を、十二月十日と定めたのは、ノーベルの命日を記念する爲めである。
 最初の授賞式は、一九〇一年に擧行された。その後適當な研究者が無いときは與えられなかつた。かゝる場合は第一第二世界大戰中に起つたが、翌年これを與えられたこともあつた。また受賞の人數は二人まで可能になつているから、二人に分與されたこともしば/\あつた。しかしてヒトラーはノーベル賞を受けとるなと命令したから、賞に當選しても、これを受けなかつた人があつた。しかし當選した研究項目は、その方面の粹を拔いたものであるから、ノーベル賞の表を熟覽すれば、歴然として當該科學の進歩過程と方向とを覺ることが可能である。これは研究者を世界一般に詮索し、漏洩なく論評するからである。ノーベル賞がいつも冠頭に置かるゝのは當然の成行であろう。將來に於ても永くこの選擇方法を維持されんことを期待するのである。
 人智の啓發にはその進歩に遲速がある。學界に先覺者出でて名論卓説を吐き、これを實驗に照して檢證すれば、羣小これを開發し、その結果を實用に供するに至り、遂に世界の面貌を刷新し、文化の根基を強固にするは、歴史の證明するところである。
 試みにノーベル賞を與えられた研究の類例を擧げてみよう。
 電波の存在が理論上説明されてより、その實在を證明し、今日はこれを利用して、地球表面上、一瞬にして音信を傳え、話を交換するに至つた。
 今世紀の始め、小麥を主食とする民衆は餓死するであろう、肥料にあてられている智利硝石は遠からず掘り盡して、小麥は育たなくなるだろうと警告された。しかし大氣中の窒素固定法の發明により、難關を切拔け、歐米人の危惧は全く一掃された。
 昔から懼れられた、肺炎や癰《よう》、疔《ちょう》の如き腫物は、黴を原料として製造せらるゝペニシリンにより、易く治療さるゝに至つたのは素人を驚かした。
 放射性物質の發見は、原子構造の大略を發き、その内部の構造まで概觀するに至つた。しかしてその核心の構造は、目下討究中であるが、物理學者は、一日千秋の思いを以つて研究成果の速かに揚らんことを望んでいる。しかし可なりの年數がかゝるだろう。愉快なことに、湯川秀樹君の研究は、これに密接に關係している。五十年間近く諸賢に與えられたノーベル賞の研究を評價すれば、大分差等があるけれども、君の創始された中間子論は優秀な位置を占めている。受賞につき、國民が祝意を表するに、この點を明かにしなかつたのは遺憾であつた。
 物理學賞と化學賞とを受けた研究者の中で、原子關係の攻究に從事した學者が最も多い。從つてこれ等の人々の多くは、原子爆彈の發案構造等を協議して終にこれを實現するに至つた。その過程を調べれば、發明の功績は、多分にこれらの諸賢に歸せねばならぬ。更に目下懸案中の原子動力機の發展も、均しくこれらの人々の協力を藉らざれば、實用の領域に進まぬであろう。一朝平和工業にこれを活用するに至らば、如何に世界の状況を變化するであろうか、一言にして盡すべからざるものがある。敢て豫想を畫けば、原爆の製造能力を辨えずして、その使用による結果を論ずるは無鐵砲である。ノーベルは、ダイナマイトを發見して世界平和をこれによつて決すべしと論じたそうだが、それは早まつていた。原爆とダイナマイトとは、その威力に於て雲泥の差がある。しかしその製造には時日を要する。原爆は打ち盡せば暫く待たねばならぬ。此間の微妙な呼吸がある。若し原爆が砲彈の製造速度で供給さるゝならば、世界民衆と都市の潰滅も憂慮されるけれども、原料の豐富でない點より打算すれば、戰わずして勝敗は決するであろう。人類絶滅とは極端論者の誇張に過ぎまい。しかし優勝劣敗は自然の數で致方ないが、人智の進歩は絶間なく、たとえ原爆戰で一頓挫を來しても、時を經て人間は繁殖し、文化は向上するから、時代の變遷を逐うて世界は平和親睦の風に吹捲かれるであろう。また加速度的に進歩する科學界に於て、原子動力機の端緒を捉えるを得ば、その工業的に發展するは論をまたず、山岳を平坦にし、河流を都合好く變更し、更に天然の形勢を利用せず、人爲的に港灣河川を築造するに至らば、世界は別天地を出現するであろう。斯くして國際的の呑筮《どんぜい》[#「呑筮」は底本のまま]行動を絶滅し、互いに相融和するに至らば、ユートピアならざるも、これに近き安樂國を出現するは疑いを容れず、巨大なる威力を獲得して、これを恐れるよりも、寧ろこれを善用するが得策である。今日の科學研究は、專らこの針路を辿りつゝある。現今危機一髮の恐怖に迷わされて、神經を尖らしているから、世界平和を信ずるもの少いが、一足飛びにこゝに至らざるも、波瀾は幾回か曲折を經て終にこゝに收まるであろう。蓋しこの證左を得るには、少くも半世紀を要するは必然である。
[#地から3字上げ](昭和二十五年十月 心)



底本:『長岡半太郎隨筆集 原子力時代の曙』朝日新聞社
   1951(昭和26)年6月20日 発行
初出:『心』
   1950(昭和25)年10月
入力:しだひろし
校正:
xxxx年xx月xx日作成
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湯川博士の受賞を祝す

長岡半太郎

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/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)いろ/\
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
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 我邦では敗戰の創痍未だ癒えず、媾和條約未だ締結されず、國民は暗雲に鎖された氣持ちに包まれている際、湯川博士がノーベル賞を受けられた吉報に接したのは、黒雲の一隅から一條の日光が燦爛たる輝きを示した心地がして、專門家に限らず大衆に至るまで、歡聲をあげて喜びを同じくしました。しかしその喜びには、いろ/\の素因が伏在しています。單に世界で最も重きを置くノーベル賞が初めて本邦人に與えられたのを喜ぶ人もあり、或は久しく暗黒界に潜んでいた原子核を探求するに先鞭をつけたのは、黄色人の科學者であるにも拘らず受賞されたことを喜んだ人もあろう。或は永く神秘に付せられた原子核の研究が、これより益々發展して、獨り學問のみならず、これを文化開發の用に供せらるゝ時期の遠きにあらざるを豫想して、拍手した人もあつたろう。手を叩いて受賞の報知を迎えた大衆の感想を問わば、千差萬別でありましょうが、皆喜びに滿ちたことは疑いを容れませぬ。
 想うに文化の進歩は階段的であつて、ギリシャ時代、ルネイッサンス時代とか、大別してありますが、科學や工藝は時代の特種啓發により、段階が顯著になつています。殊に十九世紀の末葉は物理學界に幾多の發明發見が表われて、たゞに學界に限らず、また工業界に數多の革新を促しました。なかんづく、電波の發生は可視光線をもその範圍に屬せしむるに至り、その頃發見されたX線もまた、これに包含され、また無線通信ラジオ等まで、これに頼つて發展し、世界を狹隘にしました。更に電子の發見により、電子工學の部門を開發し、その用いらるゝ方面は多岐に亙り、その用途は長足の進歩を遂げ、地球表面に通信網を張り廻し一瞬間に情報を各所に傳えるに至りました。しかして人間が、いつかは鳥に均しく飛び得る時機が來るであろうと豫期されていた飛行機も飛翔するようになりまして、面白き世態を表現しています。これを百年前の状勢に較べますと、雲泥の差があります。これらの進歩は昔から希望されていても容易に實行に至らなかつたのでありましたが、學者の齎し得た成果を巧みに利用した結果であります。しかして昔の人が、たゞに理想に過ぎずと思つた事が、今日では着々實行に移されています。これを啓發したのは、殆ど總てが白色人の手腕によつて爲されたのであります。勿論日本人も手傳いは致しましたが、僅かに九牛の一毛に及びませぬ。それゆえ彼等は、日本人は眞似をすることが上手だから、沐猴冠者であると誹謗を浴びせています。この汚辱は一刻も早く雪ぎ去らねばなりませぬ。幸いに今回湯川博士はノーベル賞を受け、初めて原子核構造を探見した元祖として盛名世界に赫々として傳わつています。この好機會を逸せず、諸君が原子核に存在する素粒子を利用する方法を攻究し、人間の福祉に資すべき發明に成功せらるれば、既往の謗りを洗い落すことが可能であると存じます。從つて理論に沒頭している湯川博士もまた笑みを含んで喜ばれるでありましよう。私が受賞を祝するのは、從前の辱しめを一掃する時期の近寄りたるを待つからであります。徒らに盃をあげて歡聲を發するような普通の祝言ではありませぬ。
 發明もしくは發見に到達する前に、突如有効なるヒントを偶然受くるを常規と致します。二千二百年前、アルキメデスは入浴して、その體重の輕きを感じ、初めて比重を測る方法を講じました。ニウトンは林檎の落つるのを見て、地球の引力が然らしむるを悟り、遂に天體力學を啓發しましたが、こんなヒントを得た話は枚擧に遑ありませぬ。ノーベル賞を設けたノーベルにも面白い話が傳えられています。彼は父と共に、爆藥ナイトロ・グリスリン製造を家業としていました。或る日藥を砂の上に過つてこぼしました。尋常人ならば直ちに掃除したでありましようが、彼は砂に塗みれたナイトロ・グリスリンの爆發性を試驗しましたところ、液體に比して著しく安定性を帶びましたので、これまで苦心したこの爆藥の運送に關する謎が解かれ、ダイナマイトが生れたのであります。即ち砂をまぜることが、その鍵でありました。いわゆる災を轉じて福となし、失敗を飜して富源となしたのであります。しかし砂には種類がある。どれが一番よいか、次の問題として表われました。彼は何氣なくドイツに旅行し、チューリンゲンを通る汽車の窓から展望すると、四邊に盛り上つている砂はダイナマイトに用ゆるに適しているらしいと、鵜の目鷹の目で鑑定し、第二のヒントを得て試驗すると最上等であつたので、ダイナマイトの聲價は頓みに騰り、家運はトン/\拍子で上昇し、エルベ河畔に十五ケ所の製造所を建設するに至りました。この砂は Kieselguhr(珪藻土)であります。實に彼の慧眼は超凡であつた。彼がノーベル賞を設けたのも超凡であつた。一塊の砂はよく爆藥工業の基を開き、一塊の砂は世界の科學者平和論者を躍らしむ、と申しても過言ではありますまい。湯川博士もまたノーベルに類した直感的の人であることは察するに餘りあります。嘗て大阪大學に助教授となられてから幾年もたゝず、二十七歳のとき原子核を探求する方便を得て、勇往邁進されたのは周知のことでありますが、或る人に、「私の仕事はベッドの上で創つた」と語られた辭より、その直感的ヒントを得て、スタートされたことが明白であります。湯川でも、ノーベルでも、その捕捉する動機は、尋常一樣の搦手で行われないところがあります。
 來會諸君の内で、卒業試驗に上成績を殘したお方も、またその反對のお方もありましよう。我邦では、試驗成績で卒業生を處理する通則になつておりますから、或る場合には、うまく行われ、或る時には、その逆に出ることがありますから、この方法は良いか惡いか判然致しませぬ。イギリスもこれに近いのであります。試みに著名な物理學工學者等を羅列して見ますと、點數により將來を卜するは不安であることを示します。我邦でも、やゝその傾きがありますから注意を要します。特に考察を要するのは、小學程度の教育で非凡な人物が顯われることであります。その一二を擧げますと、ファラデーとエジソンであります。
 電磁氣學と化學に甚大なる功績を印したファラデーは、小學教育を受けたに過ぎませぬが、十九世紀の偉人として尊敬されています。またエジソンも、小學校の豫備教育を受けたに止まつていますが、大衆向きの發明に就いては拔群でありました。その業績を解剖すれば、天與の才を磨き上げたのですから、無教育と言うは禮を失つています。反つてファラデーを取立てたデーヴィこそ具眼者として表彰すべきでありましよう。またエジソンは他人の授助を求めず特立獨行、自分のラボラトリーで、更に自分の機械で數多の實驗を遂行したのは、洵に羨望の的になります。こんな人が將來出るや否は問題ですから、例外にして論ずるが至當でありましょう。
 十分な教育をうけ、試驗を經た英國の物理學者を列記しますれば、大西洋海底電信敷設に成功したウィリャム・トムソン、電磁氣學の基礎を築いたマックスウェル、電子を發見したジェー・ジェー・トムソン等の雷名は夙に響いていますが、その卒業試驗成績は皆第二位であります。量子力學の書を著してノーベル賞を受けたジラクは、ブリストル工業學校を卒業し、就職できず、已むを得ずケムブリッジに行き研究したのであります。マルコニーはボロニヤ工業學校を卒業したか否は、判然しませぬ。アインシュタインが相對性原理を發表したときは、ベルンの特許局技手でありました。その他、似たり寄つたりでありましよう。聞くところによれば、湯川博士も點數は最上ではなかつたそうです。これに由つてこれを觀れば、試驗成績は餘り信用ができぬようです。科學巨頭の標準は低迷しています。要するに、試驗する先生より學生の方が俊秀であつたのです。
 試みに、これらの試驗する諸先生を一堂に集め、逆に少壯氣鋭の諸學生が問題を提出して、教授を試驗すると假定すればいかん。將來大いに飛躍する學生は、必ず教授が解釋に苦しむ問題を案出して、數時間にしてこれを解題することができないであろう。トムソンやマックスウェルの時代には、恐らく及第する手腕を具えていた人は、ストークスぐらいに過ぎなかつたであろうと思われる。かくの如く、試驗する人とこれを受ける人を反轉して考えれば、何の不思議もない。未來の成績を試驗で判斷するは、そも/\錯誤の基となるは論ずるに及ばない。
 日本人は大學を小學の上達したものと心得ているから、無暗に試驗を氣にかけます。この心理情態が錯覺の本となり、優秀な研究者を駄目にするらしいです。歎息すべきであります。今少し常識的に勉強するがよいでしよう。試驗の上手な人は油斷するな。下手な人でも獨創的意見を發揚すれば、試驗上手を追い拔くことが可能である。點數は人間の價値を決するメートルではない。
 終りに臨み、私の體驗を一つお話するをお許し下さい。諺に、健康なる精神は健康なる身體に宿ると申します。洵に然りであります。病床に呻吟している間に、いろ/\な研究計畫など致しても、癒つてからこれを見ますと腑に落ちぬ事が記してあります。即ち病的の考えを弄していることを明かにしているのです。失禮ながら諸君も御同樣であろうと存じます。偏えに諸君の御健康を祈ります。御清聽を煩わし恐縮に堪えませぬ。
[#地から3字上げ](昭和二十四年十二月十七日講演 技術聯盟)



底本:『長岡半太郎隨筆集 原子力時代の曙』朝日新聞社
   1951(昭和26)年6月20日 発行
入力:しだひろし
校正:
xxxx年xx月xx日作成
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*地名

(※ 市町村名は、平成の大合併以前の表記のまま。
  • [ニュージーランド]
  • ネルソン Nelson ニュージーランド南島北部に位置する行政区および町名。中心都市は、ネルソン。南島北部に位置し、マールボロとタスマン行政区の中央に位置するため、“ニュージーランドの中心”と呼ばれることもある。
  • クライスト・チャーチ大学
  • クライストチャーチ Christchurch ニュー‐ジーランド南島の北東部にある商工業都市。英国風の街並が現存。南島観光の拠点。外港はリトルトン。人口33万9千(2004)。
  • [イギリス]
  • ケンブリッジ Cambridge イギリスのイングランド東部にある同名州の州都。ロンドンの北約80キロメートルにある大学都市。人口11万7千(1996)。
  • ケンブリッジ大学 ケンブリッジにある名門総合大学。1209年研究者集団がケンブリッジの交易場で講義を行なったことに始まる。イギリス指導階層の最高教育機関として発展。多数の学寮(カレッジ)から成る。
  • マンチェスター Manchester イギリス、イングランド北西部のランカシャー地方にある商工業都市。産業革命の発祥地で、かつては綿工業の中心地。人口43万1千(1996)。
  • カヴェンジッシュ実験場 → キャヴェンディッシュ研究所
  • キャヴェンディッシュ研究所 Cavendish Laboratory ケンブリッジ大学に所属するイギリスの物理学研究所および教育機関。核物理学のメッカとも呼ばれる。1871年に物理学者ヘンリー・キャヴェンディッシュを記念して作られた。初代所長はマクスウェル。その後、J.J.トムソン、ラザフォード、レイリー卿、W. H. ブラッグ、チャドウィックなどが所長をつとめた。
  • ロイヤル・ソサエティ Royal Society 英国王立協会。1660年創立。1662年、チャールズ2世により認可された科学研究のための学会。正式名は、the Royal Society of London for Improving Natural Knowledge(カタカナ)。
  • ウェストミンスター寺院 Westminster Abbey ウェストミンスターにある聖ペトロ修道教会。7世紀初め創建、現在のドームはヘンリー3世の建立。ここで国王の戴冠式を行う。
  • [カナダ]
  • モントリオール Montreal カナダのセント‐ローレンス川中流にある港湾都市。同国最大の商工業都市で、水陸交通の要地。人口357万5千(2003)。フランス語名モンレアル。
  • マクギル大学 → マギル大学
  • [デンマーク]
  • コペンハーゲン Copenhagen デンマーク王国の首都(1443年以来)。バルト海の入口、シェラン島の東海岸に位置する港湾都市。北欧の経済・文化の中心地。人口49万9千(2001)。デンマーク語名ケーベンハウン。
  • ヴィッカース
  • -----------------------------------
  • ノーベル小伝とノーベル賞
  • -----------------------------------
  • ストックホルム Stockholm スウェーデン王国の首都。同国南東部、メーラレン湖がバルト海の支湾に流入する所に位置し、風光明媚。人口74万4千(1999)。
  • ペトログラード Petrograd 「サンクト‐ペテルブルグ」参照。
  • サンクト‐ペテルブルグ Sankt-Peterburg ロシア北西部にあるモスクワに次ぐ大都市。バルト海の支湾、フィンランド湾頭に位置し、ネヴァ川にまたがる。1703年ピョートル大帝の築いた都でペテルブルグと称し、1914年ペトログラードと改称。18年までロシア帝国の首都。ロシア革命の中心地となった。24年革命指導者レーニンに因みレニングラードと称し、91年現名に改称。機械・造船を中心に工業地帯を形成。エルミタージュ美術館・冬宮などがある。人口460万(2004)。
  • クロンスタット → クロンシュタット
  • クロンシュタット Kronshtadt ロシア西端、フィンランド湾の奥にあるコトリン島上の港湾都市。ネヴァ川口にあり、かつてのバルチック艦隊の母港。十月革命の中心地の一つ。
  • バクー Baku カスピ海に面したアゼルバイジャン共和国の首都。カスピ海に突出するアプシェロン半島の南岸にあり、近郊には油田地帯が展開。人口184万8千(2004)。
  • [ドイツ]
  • チューリンゲン Thuringen ドイツ中東部の州。州都エルフルト。
  • [イタリア]
  • サン‐レモ San Remo イタリア北西部、リヴィエラ海岸の保養都市。1951年から毎年冬、カンツォーネのコンクールが開かれる。
  • カロリン医学研究所 → カロリンスカ研究所か
  • カロリンスカ研究所 Karolinska institutet スウェーデンのストックホルムにある医科大学。カロリンスカ医科大学とも呼ばれる。医学系の単科教育研究機関としては世界で最大。ノーベル賞の生理学医学部門の選考委員会がある。
  • -----------------------------------
  • 湯川博士の受賞を祝す
  • -----------------------------------
  • エルベ Elbe 中部ヨーロッパの大河。チェコのボヘミア盆地の諸流を併せ、ドイツを北西に流れて北海に入る。下流部に河港ハンブルクがある。長さ1170キロメートル。
  • 大阪大学
  • ブリストル工業学校
  • ブリストル Bristol イギリス、イングランド南西部の都市。近世以後、アメリカ大陸との貿易港。造船・自動車・煙草などの工業が盛ん。人口40万(1996)。
  • ボローニャ工業学校
  • ボローニャ Bologna イタリア北部、レノ川に沿う都市。12世紀に大学が成立し、中世文化の中心地となる。人口37万4千(2004)。
  • ベルン Bern スイス連邦の首都。ライン川の支流アーレ川に沿う。精密機械工業で著名。人口12万2千(2001)。フランス語名ベルヌ。


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)『コンサイス・カタカナ語辞典 第四版』(三省堂編修所、2010.2)。




*年表

  • 一八一五 プラウト、原子量はおおむね水素の整数倍になっていることを指摘。
  • 一八七一 ラザフォード卿、ニュージーランドのネルソンに生まれる。
  • 一八九五 ラザフォード、英本国留学の給費をかちえてケンブリッジに遊び、J・J・トムソンの門に入る。
  • 一八九八 ラザフォード、カナダのモントリオール市マクギル大学に物理学教授として赴任。寄付金でラジウム六デシグラムを購入。
  • 一九〇三 長岡、陽核を提唱。
  • 一九〇七 ラザフォード、マンチェスターの物理学教室主任として英本国に招喚。
  • 一九一一年三月 ラザフォード、長岡宛に書簡。
  • 一九一四 ラザフォード、ナイトとなる。
  • 一九一九 ラザフォード、試験により原子量のジレンマを緩和。原子転換の可能性を示唆。J・Jの後をうけてケンブリッジに移る。
  • 一九二五 ラザフォード、J・Jの後をおそうてロイヤル・ソサエティの長となる。
  • 一九三一 ラザフォード、学績をもってバロンに叙せられる。
  • 一九三八(昭和一三)一〇月一九日 ラザフォード卿、没。
  • 一九五〇(昭和二五)一月 長岡「ラザフォード卿を憶う」『科学朝日』。
  • -----------------------------------
  • 一八三一(天保二) 兄ルドウィヒ・ノーベル生まれる。
  • 一八三三(天保四) 弟アルフレッド・ノーベル生まれる。
  • 一八六五、六(慶応年間)ごろ 製造所をドイツに移し、大なる爆薬工場を十五か所に経営するにいたり、世界各国に手をひろげ、ダイナマイトの用途を拡張したのは。
  • 一八八四(明治一七) バクーに兄弟連名で巨大な精錬所を建設。
  • 一八八八 ルドウィヒ、没。
  • 一八九一 アルフレッド、パリよりイタリアのフランス国境に近き海水浴場サン・レモに移る。
  • 一八九六(明治二九)一二月一〇日 アルフレッド、没。享年六十三。
  • 一九〇一 最初の授賞式が挙行。
  • 一九〇四 第五賞をストルチングに与えてこれを強化する。


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)。



*人物一覧

(人名、および組織・団体名・神名)
  • -----------------------------------
  • ラザフォード卿を憶う
  • -----------------------------------
  • ラザフォード Ernest Rutherford 1871-1937 イギリスの化学者・物理学者。ニュー‐ジーランド生れ。放射能および原子核を実験的に研究、アルファ線による窒素原子核の人工破壊に成功。原子核物理学の父といわれる。ノーベル賞。
  • キュリー Marie Curie 1867-1934 フランスの物理学者・化学者。ポーランド生れ。夫はピエール。夫の死後、ラジウムの分離に成功。1903年、夫とともにノーベル物理学賞、11年化学賞。
  • マルコニー → マルコーニか
  • マルコーニ Guglielmo Marconi 1874-1937 イタリアの電気学者。無線電信の発明者。侯爵。学士院長。ヘルツとロッジ(O. J. Lodge1851〜1940)の発見を初めて実用化し、1901年大西洋を隔てて無線電信を送ることに成功。ノーベル賞。
  • J・J・トムソン Joseph John Thomson 1856-1940 イギリスの物理学者。キャヴェンディシュ研究所にあって真空放電現象などを研究、電子の存在を確認し、原子物理学の端緒をひらいた。ノーベル賞。
  • レントシェン → レントゲン
  • レントゲン Wilhelm Konrad Rontgen 1845-1923 ドイツの実験物理学者。1895年X線を発見。第1回ノーベル賞。レンチェン。
  • ソッジー → ソディか
  • ソディ Frederick Soddy 1877-1956 イギリスの化学者。ラザフォードとともに放射性元素の壊変説を立て、壊変の際の原子番号の変化の法則を発見。ノーベル賞。
  • マクスウェル James Clerk Maxwell 1831-1879 イギリスの物理学者。電磁気の理論を大成しマクスウェルの方程式を導き、光が電磁波であることを唱えた。また、気体分子運動論や熱学に業績を残した。
  • ケルヴィン Lord Kelvin 1824-1907 イギリスの物理学者。本名、ウィリアム=トムソン。熱力学の第2法則を研究し、絶対温度目盛を導入。海底電信の敷設を指導し、多くの電気計器を作り、また航海術、潮汐その他の地球物理学の研究も多い。
  • ウィリアム・トムソン William Thomson → ケルヴィン
  • ハーン Otto Hahn 1879-1968 ドイツの化学者。1918年にプロトアクチニウムを発見。38年、ウランに中性子照射すると核分裂が起こることを、シュトラスマン(F. Strassmann1902〜1980)とともに発見。ノーベル賞。
  • レーリー → レイリー
  • レイリー Lord Rayleigh 1842-1919 (本名John William Strutt)イギリスの物理学者。数学を駆使して物理現象を解明。また、ラムゼーとともにアルゴンを発見。主著「音響学」。ノーベル賞。
  • ファラデー Michael Faraday 1791-1867 イギリスの化学者・物理学者。塩素の液化、ベンゼンの発見、電磁誘導の法則、電気分解のファラデーの法則、ファラデー効果および反磁性物質などを発見。電磁気現象を媒質による近接作用として、場の概念を導入、マクスウェルの電磁論の先駆をなす。主著「電気学の実験的研究」
  • ラム 流体力学の専門家。
  • 木下季吉
  • ラムゼー William Ramsay 1852-1916 イギリスの化学者。空気中の希ガスであるアルゴン・ヘリウム・ネオン・クリプトン・キセノンを発見し、周期表に新しい族を加えた。ノーベル賞。
  • ショット
  • ボーア Niels Bohr 1885-1962 デンマークの理論物理学者。量子論の立場からはじめて原子構造を解明し、相補性原理を提唱、量子力学建設の指導者。第二次大戦中イギリスへ亡命、アメリカの原爆開発計画に協力。戦後、原子力の国際的管理に努力した。門下から、物理学・化学から分子生物学に至るノーベル賞学者を輩出。ノーベル賞。
  • ボーア Aage Bohr 1922- デンマークの理論物理学者。N.ボーアの子。原子核の集団運動を研究。ノーベル賞。
  • プラウト Prout, William 1785-1850 イギリスの医者、化学者。原子量は水素の原子量の整数倍であるという説を発表した(1815)。これはその後の実験的研究によって否定されたが、同位元素の発見によってふたたび問題にされ、「プラウトの仮説」とも呼ばれる。(岩波西洋)
  • チャドウィック James Chadwick 1891-1974 イギリスの原子物理学者。中性子を発見。ノーベル賞。
  • カピッツァ Petr Leonidovich Kapitsa 1894-1984 ソ連の物理学者。強磁場の発生、極低温の実験、液体酸素生産用のタービン、液体ヘリウムの研究などに寄与。ノーベル賞。
  • コッククロフト John Douglas Cockcroft 1897-1967 イギリスの物理学者。英原子力研究所長。ウォルトンと共に直流高電圧の加速器をつくり、加速した陽子を原子核に当てて原子の人工破壊に成功。ノーベル賞。
  • マクドナルド James Ramsay MacDonald 1866-1937 イギリスの政治家。1911年労働党党首。第一次大戦が勃発するや非戦論を唱え、党首を辞任。戦後、24年に最初の労働党内閣の首相兼外相。29年再び組閣、31年の財政危機に保守党・自由党と挙国内閣を組織し、労働党と訣別。
  • モンド Mond, Ludwig か。1839-1909 イギリス(ドイツ生まれ)の化学者。ブルンナーと共にチェシャーに会社を創立(1872)して「ソルヴェー法」によるソーダ工業を発展させる。カナダにモンド・ニッケル会社を設立したほか、王立研究所にデーヴィ・ファラデー研究室を設けるなどイギリス化学工業の発展に貢献した。(岩波西洋)
  • ラウス 剛体力学。
  • Crowther
  • Geiger → ハンス・ガイガーか
  • ハンス・ガイガー Johannes (Hans) Wilhelm Geiger 1882-1945 ドイツの物理学者。ガイガー=ミュラー計数管の発明や、原子核の発見につながったガイガー・マースデンの実験で知られる。
  • -----------------------------------
  • ノーベル小伝とノーベル賞
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  • ノーベル Alfred Bernhard Nobel 1833-1896 スウェーデンの化学者・工業家。ダイナマイト・無煙火薬の発明者。ノーベル賞の資金提供者。
  • 湯川秀樹 ゆかわ‐ひでき 1907-1981 理論物理学者。東京生れ。京大卒、同教授。中間子の存在を予言し、素粒子論展開の契機を作った。核兵器を絶対悪と見なし、パグウォッシュ会議・科学者京都会議・世界連邦運動などを通じ平和運動に貢献。ノーベル賞・文化勲章。
  • ベデッカー → ベデカー
  • ベデカー Baedeker ドイツの出版業者ベデカー(1801〜1859)発行の旅行案内書。転じて、広く案内書の意。
  • ヒトラー Adolf Hitler 1889-1945 ドイツの政治家。オーストリアの税関吏の子に生まれ、第一次大戦にはドイツ軍の伍長で出征。戦後ドイツ労働者党に入党、党名をナチ党と改めて1921年党首となる。23年ミュンヘン一揆を企てて入獄。世界大恐慌の混乱の中で中間層の支持を得、財界とも手を握って32年ナチ党を第一党とし、翌年首相。共産党その他を弾圧して34年総統となり独裁権を掌握。以後、対外侵略を強行、39年第二次大戦をひき起こし、降伏直前に自殺。著「わが闘争」
  • -----------------------------------
  • 湯川博士の受賞を祝す
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  • エジソン Thomas Alva Edison 1847-1931 アメリカの発明家・企業家。その発明及び改良は、電信機・電話機・蓄音器・白熱電灯・無線電信・映写機・電気鉄道などにわたり、電灯会社及び発電所の経営によって電気の普及に成功。
  • デーヴィ → ハンフリー・デービー
  • ハンフリー・デービー Sir Humphry Davy 1778-1829 イギリスの化学者。コーンウォールに木彫職人の長男として生まれる。もともとは薬局の使用人であったが、薬局に備え付けの本で独学で化学を学ぶ。1798年、ベドーズ気体研究所に招かれる。ここで笑気ガスの研究を行い、有名になる。また、彼の最大の功績はファラデーを見出したことであると言われている。
  • ジラク
  • ストークス → ジョージ・ガブリエル・ストークスか
  • ジョージ・ガブリエル・ストークス Sir George Gabriel Stokes 1819-1903 アイルランドの数学者、物理学者。 流体力学、光学、数学などの分野で重要な貢献をした。1885年から1890年まで王立協会会長を務めた。
  • 技術連盟


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)『岩波西洋人名辞典増補版』。



*書籍

(書名、雑誌名、論文名、能・狂言・謡曲などの作品名)
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  • ラザフォード卿を憶う
  • -----------------------------------
  • The Manchestre Lit.
  • Phil. Soc.
  • The Philosophical Magazine
  • 『科学朝日』
  • -----------------------------------
  • ノーベル小伝とノーベル賞
  • -----------------------------------
  • 『心』
  • -----------------------------------
  • 湯川博士の受賞を祝す
  • -----------------------------------


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)



*難字、求めよ

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  • ラザフォード卿を憶う
  • -----------------------------------
  • 放射能作
  • 艱苦 かんく なやみ苦しむこと。艱難と苦労。なんぎ。辛苦。
  • 暢達 ちょうたつ (1) のびそだつこと。(2) のびのびとしていること。
  • 崎嶇 きく 山路のけわしいこと。転じて、世わたりの困難なことのたとえ。
  • マオリ Maori ニュー‐ジーランドのポリネシア系先住民。さつまいも・タローいも・ヤムいもなどの定着農耕と採集・狩猟・漁労を行う。ヨーロッパ人との接触によって多くの人口を失ったが、今日では再び増加している。
  • 端無くも はしなくも これといったきっかけなく。思いがけず。はからずも。
  • 頓に とみに (古くは下に否定を伴う場合が多い) (1) 急に。にわかに。(2) しきりに。
  • 軒輊 けんち (「軒」は車の前が高くあがること、「輊」は車の前が低くさがること) (1) あがりさがり。高低。(2) 優劣。軽重。
  • 液態 えきたい 液体の状態。
  • デシグラム decigram メートル法単位系の質量の単位。1デシグラムは1グラムの10分の1に相当する。記号 dg。
  • 濫觴 らんしょう [荀子子道「其源可以濫觴」](長江も水源にさかのぼれば、觴(さかずき)を濫(うか)べるほどの、または觴に濫(あふ)れるほどの小さな流れである意)物の始まり。物事の起原。おこり。もと。
  • 確算的
  • 能作半減期
  • トール系 → トリウム系列か
  • トリウム系列 トリウム けいれつ トリウム232から始まり鉛208で終わる放射性核種の崩壊系列。この系列の核種の質量はすべて4n(nは整数)となるので、4n系列ともいう。
  • ウラン系 → ウラン系列
  • ウラン系列 ウラン けいれつ ウラン238から始まり鉛206で終わる放射性核種の崩壊系列。途中にラジウムを経るのでウラン‐ラジウム系列ともいう。この系列の核種の質量はすべて4n+2(nは整数)となるので、4n+2系列とも呼ぶ。
  • 拘泥 こうでい こだわること。小さい事に執着して融通がきかないこと。
  • メソトール メソトリウム? メソトロン?
  • メソトリウム mesothorium 放射性元素の1。記号 MsTH。トリウム系のもので、ラジウムの同位元素とアクチニウムの同位元素とがある。ラジウムの代用品として医療用、発光塗料に用いる。(カタカナ)
  • メソトロン mesotron メソンの旧称。meson 中間子。強い相互作用をし、バリオン数0の素粒子。バリオン間の強い相互作用を媒介する粒子と考えられる。旧称メソトロン。★以前は電子と陽子との中間の質量をもつ一連の素粒子を中間子と呼んでいたが、最近では陽子よりも重い中間子も見つかっている。昭和9年(1934)に湯川秀樹によってはじめて予言された中間子は、現在ではパイ中間子と呼ばれる。(カタカナ)
  • トーロン トロン(thoron)か。ラドンの放射性同位元素。トリウムの崩壊によって生成。記号Tn。(カタカナ)
  • 聳動 しょうどう 恐れ動くこと。驚かし動かすこと。
  • 蘊奥 うんおう (ウンノウと連声)[宋史理宗紀「発揮聖賢蘊奥有補治道」]学術・技芸などの奥深いところ。奥義。極意。
  • 球関数
  • 輯集 しゅうしゅう
  • 捷径 しょうけい (「捷」は、すばやい意) (1) ちかみち。(2) 転じて、ある物事に通達し得るてばやい方法。はやみち。
  • 趨向 すうこう 物事のなりゆきが、その方へおもむき向かうこと。
  • 上提 上程(じょうてい)か。
  • 引斥 いんせき → 引斥力
  • 引斥力 いんせきりょく 原子あるいは分子間に働く引力と反発力。
  • 喋喋 ちょうちょう しきりにしゃべるさま。多言なさま。
  • 呱呱の声をあげる ここのこえをあげる 産声(うぶごえ)を上げる。転じて、物事が新しく生まれる。
  • 囲繞 いじょう (イニョウとも)かこいめぐらすこと。
  • 画成
  • 蹉跌 さてつ (1) つまずくこと。(2) 失敗すること。
  • 一轍 いってつ 車の輪のあとを一つにすること。同一であること。同じ結果を得ること。
  • 奔逸 ほんいつ (1) 走り逃げること。速く走ること。(2) 自由気ままの行動をすること。
  • 魁偉 かいい [後漢書郭太伝「容貌魁偉」]顔やからだが人並はずれて大きく立派なさま。
  • 瞠若 どうじゃく おどろいて目をみはるさま。
  • 昵近 じっきん (1) なれしたしむこと。したしみ近づくこと。じっこん。(2) 昵近衆の略。
  • 蟄伏 ちっぷく (1) 蛇・蛙・虫などが、冬の間地中にこもっていること。(2) ひそみ隠れること。とじこもること。
  • 質朴・質樸 しつぼく (1) 自然のままで、人為の加わらないこと。(2) かざりけがなく律儀なこと。純朴。
  • 手栽
  • 照燿 しょうよう 照耀。=照曜。日月が照り輝く。
  • 冠省 かんしょう (カンセイは誤読)手紙で、時候の挨拶など前文を省略すること。また、その際に書く語。
  • コセカント cosecant 〔数〕三角関数の一つ。サインの逆数。余割。記号cosec
  • 反跳 はんちょう はね返ること。はずんで元へ返ること。
  • -----------------------------------
  • ノーベル小伝とノーベル賞
  • -----------------------------------
  • ノーベル賞 ノーベルの遺言により1896年設けられた国際的な賞。基金168万ポンドで、毎年その利息をもって物理学・化学・生理学医学・文学・平和事業の5分野に貢献した人に贈る。1901年第1回の授賞が行われた。69年経済学賞を追加。
  • ニトロ‐グリセリン nitroglycerine 分子式C(3)H(5)(NO(3)(3) 三硝酸グリセリンの慣用名。グリセリンと硝酸および硫酸の混合物との反応により生じる三硝酸エステル。無色油状の液体で強力な爆発物。ダイナマイトの原料。血管拡張作用があるので狭心症の特効薬に用いる。
  • 洞観 どうかん (1) 見ぬくこと。見とおすこと。(2) 推理・思考などによらず、直覚的に真理を知ること。
  • 蹤跡 しょうせき (1) あしあと。あと。事跡。(2) ゆくえ。ゆきがた。
  • 困却 こんきゃく ひどく困ること。困りはてること。
  • 珪藻土 けいそうど 珪藻の遺骸から成る堆積物。主成分は二酸化ケイ素水化物で、白色・灰白色・黄色など。多孔質で吸水性に富み、軽くてもろい。海底のほかに、湖沼または温泉・溜池にも生ずる。磨き粉・耐火材・吸収剤やダイナマイト製造などに使用。
  • 饒多 じょうた 豊かで多いこと。
  • 殷盛 いんせい きわめて盛んなこと。
  • バリスタイト
  • 尽瘁 じんすい [詩経小雅、北山「或は尽瘁して国に事(つか)う」](「瘁」は病み疲れる意)一所懸命に力を尽くして労苦すること。
  • 窮明 究明(きゅうめい)か。
  • 呻吟 しんぎん うめくこと。苦しみうなること。
  • 趨進 すうしん 貴人、君主など目上の人の前に、小走りに進み出ること。
  • 面貌 めんぼう (メンミョウとも)かおかたち。面相。
  • チリ硝石 ちりしょうせき Chile saltpeter/nitratine 硝酸ナトリウムの別名。硝酸塩鉱物。六方晶系、菱(りょう)面体の結晶。肥料、硝酸の原料。チリの北部砂漠地帯に多く産出することから。(カタカナ)
  • 癰 よう 〔医〕皮膚や皮下組織に生じる急性化膿性炎症。隣接する多数の毛包・皮脂腺などが化膿菌に侵されたもので、�(せつ)の集合したもの。局所に多くの膿栓を生じ、周辺から腫脹して赤色を呈する。痛みが激しくて、悪化すると死に至ることがある。項(うなじ)・背・顔などによくできる。〈日葡辞書〉
  • 疔 ちょう 皮膚の皮脂腺または汗腺などから、化膿菌、特にブドウ球菌が侵入することによって皮膚の深部および皮下結合組織中に生ずる炎症巣。激痛を感じ、膿(うみ)を生じる。顔面に生じるものを面疔という。〈易林本節用集〉
  • 呑噬 どんぜい (1) のむことと、かむこと。(2) 他国を攻略してその領土を奪うこと。
  • -----------------------------------
  • 湯川博士の受賞を祝す
  • -----------------------------------
  • 創痍 そうい (1) きりきず。てきず。創傷。(2) 転じて、こうむった損害。
  • 九牛の一毛 きゅうぎゅうの いちもう [司馬遷、任少卿に報ずる書「仮令(たとい)僕(われ)法に伏し誅を受くるも、九牛の一毛を亡(うしな)うが若(ごと)し」](多くの牛の毛の中の1本の毛の意)多数の中のきわめて小さい部分。取るに足りない小事にいう。
  • 沐猴 もっこう 猿の類。
  • 赫々 かっかく (1) 赤くかがやくさま。熱気を発するさま。(2) あらわれて盛んなさま。功名などの人にすぐれているさま。
  • 俊秀 しゅんしゅう 才知の秀でている人。また、その才知。俊才。


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)『日本国語大辞典 第二版』(小学館、2001.5)『学研新漢和大字典』『コンサイス・カタカナ語辞典 第四版』(三省堂編修所、2010.2)。



*後記(工作員スリーパーズ日記)


 本文中「φ(ファイ)」は全角一字で表記した。「偏角をφ……」「角度φ」の部分は問題ないが、「Cosec4 φ/2」のように半角計算式中に全角一字の「φ」を使用すると、縦書きでは「φ」だけが正体で表示されてしまう。画像化してしまえばすむ問題だけれども、それではおもしろくない。解決策を思いつかず断念。そのままにした。
 
 昨年10月のこと。「原子力」と「1970年以前の刊行」をキーワードに県立図書館で検索。数件のヒットがあり、『広辞苑』や日外アソシエーションの人名事典にあたって著作者の生没年を確認。保護期間を経過した長岡半太郎の本著にたどりつく。Wikipedia で確認すると日下部四郎太・寺田寅彦・石原純・仁科芳雄らは彼の弟子とある。ノーベル賞委員会に湯川秀樹を推薦したのも彼とのこと。
 出発点に立ち返って見れば、どこでボタンのかけ違いが始まったのかわかるかもしれない、もしかしたら問題解決のヒントが隠されてはいまいか。おそるおそる本書を読む。
 半世紀前、原子力のおもてと裏の力をもっとも知っていたはずの長岡半太郎の弁は、今見ればあまりにも楽観的・無邪気すぎた。

 中曽根康弘氏や正力松太郎がどんなに工作しようとも、彼らにできることは予算を獲得することと推進の旗をふることまでであって、みずから研究開発はできない。実務にあたってきた科学者・研究者はつねにいたはずで、彼らがつっぱねれば別の可能性がありえたはずなのだろうけれども、残念ながらバラスト役はつとまらなかった、ということだろう。

 原子力学、地震学、歴史学、哲学……。それぞれの科学分野には、セルフ・リフレクションをになう部門がかならず組み込まれているはずなのだけれども、この十か月、その声はあまりに小さく限定的であることが気にかかる。これからも、ボタンのかけ違いを黙認するつもりなのだろうか。それとも、ドリンクドライバーを演じ続けるつもりなのか。




*次週予告


第四巻 第二六号 
追遠記 / わたしの子ども時分 伊波普猷


第四巻 第二六号は、
二〇一二年一月二一日(土)発行予定です。
定価:200円


T-Time マガジン 週刊ミルクティー 第四巻 第二五号
ラザフォード卿を憶う(他)長岡半太郎
発行:二〇一二年一月一四日(土)
編集:しだひろし/PoorBook G3'99
 http://www33.atwiki.jp/asterisk99/
出版:*99 出版
 〒994-0024 山形県天童市鎌田2丁目1−21
 アパートメント山口A−202
販売:DL-MARKET
※ T-Timeは(株)ボイジャーの商標・製品です。



  • T-Time マガジン 週刊ミルクティー *99 出版
  • バックナンバー
  • 第一巻
  • 創刊号 竹取物語 和田万吉
  • 第二号 竹取物語小論 島津久基(210円)
  • 第三号 竹取物語の再検討(一)橘 純一(210円)
  • 第四号 竹取物語の再検討(二)橘 純一(210円)
  •  「絵合」『源氏物語』より 紫式部・与謝野晶子(訳)
  • 第五号 『国文学の新考察』より 島津久基(210円)
  •  昔物語と歌物語 / 古代・中世の「作り物語」/
  •  平安朝文学の弾力 / 散逸物語三つ
  • 第六号 特集 コロボックル考 石器時代総論要領 / コロボックル北海道に住みしなるべし 坪井正五郎 マナイタのばけた話 小熊秀雄 親しく見聞したアイヌの生活 / 風に乗って来るコロポックル 宮本百合子
  • 第七号 コロボックル風俗考(一〜三)坪井正五郎(210円)
  •  シペ物語 / カナメの跡 工藤梅次郎
  • 第八号 コロボックル風俗考(四〜六)坪井正五郎(210円)
  • 第九号 コロボックル風俗考(七〜十)坪井正五郎(210円)
  • 第十号 特集 コロボックル考 喜田貞吉
  •  日本太古の民族について / 日本民族概論 / 土蜘蛛種族論につきて
  • 第十一号 特集 コロボックル考 喜田貞吉
  •  東北民族研究序論 / 猪名部と佐伯部 / 吉野の国巣と国樔部
  • 第十二号 日高見国の研究 喜田貞吉        
  • 第十三号 夷俘・俘囚の考 喜田貞吉
  • 第十四号 東人考     喜田貞吉
  • 第十五号 奥州における御館藤原氏 喜田貞吉
  • 第十六号 考古学と古代史 喜田貞吉
  • 第十七号 特集 考古学 喜田貞吉
  •  遺物・遺蹟と歴史研究 / 日本における史前時代の歴史研究について / 奥羽北部の石器時代文化における古代シナ文化の影響について
  • 第十八号 特集 考古学 喜田貞吉
  •  日本石器時代の終末期について /「あばた」も「えくぼ」、「えくぼ」も「あばた」――日本石器時代終末期―
  • 第十九号 特集 考古学 喜田貞吉
  •  本邦における一種の古代文明 ――銅鐸に関する管見―― /
  •  銅鐸民族研究の一断片
  • 第二〇号 特集 考古学 喜田貞吉
  •  「鐵」の字の古体と古代の文化 / 石上神宮の神宝七枝刀 /
  •  八坂瓊之曲玉考
  • 第二一号 博物館(一)浜田青陵
  • 第二二号 博物館(二)浜田青陵
  • 第二三号 博物館(三)浜田青陵
  • 第二四号 博物館(四)浜田青陵
  • 第二五号 博物館(五)浜田青陵
  • 第二六号 墨子(一)幸田露伴
  • 第二七号 墨子(二)幸田露伴
  • 第二八号 墨子(三)幸田露伴
  • 第二九号 道教について(一)幸田露伴
  • 第三〇号 道教について(二)幸田露伴
  • 第三一号 道教について(三)幸田露伴
  • 第三二号 光をかかぐる人々(一)徳永 直
  • 第三三号 光をかかぐる人々(二)徳永 直
  • 第三四号 東洋人の発明 桑原隲蔵
  • 第三五号 堤中納言物語(一)池田亀鑑(訳)
  • 第三六号 堤中納言物語(二)池田亀鑑(訳)
  • 第三七号 堤中納言物語(三)池田亀鑑(訳)
  • 第三八号 歌の話(一)折口信夫
  • 第三九号 歌の話(二)折口信夫
  • 第四〇号 歌の話(三)・花の話 折口信夫
  • 第四一号 枕詞と序詞(一)福井久蔵
  • 第四二号 枕詞と序詞(二)福井久蔵
  • 第四三号 本朝変態葬礼史 / 死体と民俗 中山太郎
  • 第四四号 特集 おっぱい接吻  
  •  乳房の室 / 女の情欲を笑う 小熊秀雄
  •  女体 芥川龍之介
  •  接吻 / 接吻の後 北原白秋
  •  接吻 斎藤茂吉
  • 第四五号 幕末志士の歌 森 繁夫
  • 第四六号 特集 フィクション・サムライ 愛国歌小観 / 愛国百人一首に関連して / 愛国百人一首評釈 斎藤茂吉
  • 第四七号 「侍」字訓義考 / 多賀祢考 安藤正次
  • 第四八号 幣束から旗さし物へ / ゴロツキの話 折口信夫
  • 第四九号 平将門 幸田露伴
  • 第五〇号 光をかかぐる人々(三)徳永 直
  • 第五一号 光をかかぐる人々(四)徳永 直
  • 第五二号 「印刷文化」について 徳永 直
  •  書籍の風俗 恩地孝四郎
  • 第二巻
  • 第一号 奇巌城(一)モーリス・ルブラン
  • 第二号 奇巌城(二)モーリス・ルブラン
  • 第三号 美し姫と怪獣 / 長ぐつをはいた猫 楠山正雄(訳)
  • 第四号 毒と迷信 / 若水の話 / 麻薬・自殺・宗教 小酒井不木 / 折口信夫 / 坂口安吾
  • 第五号 空襲警報 / 水の女 / 支流 海野十三 / 折口信夫 / 斎藤茂吉
  • 第六号 新羅人の武士的精神について 池内 宏
  • 第七号 新羅の花郎について 池内 宏
  • 第八号 震災日誌 / 震災後記 喜田貞吉
  • 第九号 セロ弾きのゴーシュ / なめとこ山の熊 宮沢賢治
  • 第一〇号 風の又三郎 宮沢賢治
  • 第一一号 能久親王事跡(一)森 林太郎
  • 第一二号 能久親王事跡(二)森 林太郎
  • 第一三号 能久親王事跡(三)森 林太郎
  • 第一四号 能久親王事跡(四)森 林太郎
  • 第一五号 【欠】
  • 第一六号 【欠】
  • 第一七号 赤毛連盟       コナン・ドイル
  • 第一八号 ボヘミアの醜聞    コナン・ドイル
  • 第一九号 グロリア・スコット号 コナン・ドイル
  • 第二〇号 暗号舞踏人の謎    コナン・ドイル
  • 第二一号 蝦夷とコロボックルとの異同を論ず 喜田貞吉
  • 第二二号 コロポックル説の誤謬を論ず 上・下 河野常吉
  • 第二三号 慶長年間の朝日連峰通路について 佐藤栄太
  • 第二四号 まれびとの歴史 /「とこよ」と「まれびと」と 折口信夫
  • 第二五号 払田柵跡について二、三の考察 / 山形県本楯発見の柵跡について 喜田貞吉
  • 第二六号 日本天変地異記 田中貢太郎
  • 第二七号 種山ヶ原 / イギリス海岸 宮沢賢治
  • 第二八号 翁の発生 / 鬼の話 折口信夫
  • 第二九号 生物の歴史(一)石川千代松
  • 第三〇号 生物の歴史(二)石川千代松
  • 第三一号 生物の歴史(三)石川千代松
  • 第三二号 生物の歴史(四)石川千代松
  • 第三三号 特集 ひなまつり
  •  雛 芥川龍之介 / 雛がたり 泉鏡花 / ひなまつりの話 折口信夫
  • 第三四号 特集 ひなまつり
  •  人形の話 / 偶人信仰の民俗化並びに伝説化せる道 折口信夫
  • 第三五号 右大臣実朝(一)太宰 治
  • 第三六号 右大臣実朝(二)太宰 治
  • 第三七号 右大臣実朝(三)太宰 治
  • 第三八号 清河八郎(一)大川周明
  • 第三九号 清河八郎(二)大川周明
  • 第四〇号 清河八郎(三)大川周明
  • 第四一号 清河八郎(四)大川周明
  • 第四二号 清河八郎(五)大川周明
  • 第四三号 清河八郎(六)大川周明
  • 第四四号 道鏡皇胤論について 喜田貞吉
  • 第四五号 火葬と大蔵 / 人身御供と人柱 喜田貞吉
  • 第四六号 手長と足長 / くぐつ名義考 喜田貞吉
  • 第四七号 「日本民族」とは何ぞや / 本州における蝦夷の末路 喜田貞吉
  • 第四八号 若草物語(一)L.M. オルコット
  • 第四九号 若草物語(二)L.M. オルコット
  • 第五〇号 若草物語(三)L.M. オルコット
  • 第五一号 若草物語(四)L.M. オルコット
  • 第五二号 若草物語(五)L.M. オルコット
  • 第五三号 二人の女歌人 / 東北の家 片山広子
  • 第三巻
  • 第一号 星と空の話(一)山本一清
  • 第二号 星と空の話(二)山本一清
  • 第三号 星と空の話(三)山本一清
  • 第四号 獅子舞雑考 / 穀神としての牛に関する民俗 中山太郎
  • 第五号 鹿踊りのはじまり 宮沢賢治 / 奥羽地方のシシ踊りと鹿供養 喜田貞吉
  • 第六号 魏志倭人伝 / 後漢書倭伝 / 宋書倭国伝 / 隋書倭国伝
  • 第七号 卑弥呼考(一)内藤湖南
  • 第八号 卑弥呼考(二)内藤湖南
  • 第九号 卑弥呼考(三)内藤湖南
  • 第一〇号 最古日本の女性生活の根底 / 稲むらの陰にて 折口信夫
  • 第一一号 瀬戸内海の潮と潮流(他三編)寺田寅彦
  •  瀬戸内海の潮と潮流 / コーヒー哲学序説 /
  •  神話と地球物理学 / ウジの効用
  • 第一二号 日本人の自然観 / 天文と俳句 寺田寅彦
  • 第一三号 倭女王卑弥呼考(一)白鳥庫吉
  • 第一四号 倭女王卑弥呼考(二)白鳥庫吉
  • 第一五号 倭奴国および邪馬台国に関する誤解 他 喜田貞吉
  •  倭奴国と倭面土国および倭国とについて稲葉君の反問に答う /
  •  倭奴国および邪馬台国に関する誤解
  • 第一六号 初雪 モーパッサン 秋田 滋(訳)
  • 第一七号 高山の雪 小島烏水
  • 第一八号 光をかかぐる人々 続『世界文化』連載分(一)徳永 直
  • 第一九号 光をかかぐる人々 続『世界文化』連載分(二)徳永 直
  • 第二〇号 光をかかぐる人々 続『世界文化』連載分(三)徳永 直
  • 第二一号 光をかかぐる人々 続『世界文化』連載分(四)徳永 直
  • 第二二号 光をかかぐる人々 続『世界文化』連載分(五)徳永 直
  • 第二三号 銀河鉄道の夜(一)宮沢賢治
  • 第二四号 銀河鉄道の夜(二)宮沢賢治
  • 第二五号 ドングリと山猫 / 雪渡り 宮沢賢治
  • 第二六号 光をかかぐる人々 続『世界文化』連載分(六)徳永 直
  • 第二七号 特集 黒川能・春日若宮御祭 折口信夫
  •  黒川能・観点の置き所 / 村で見た黒川能
  •  能舞台の解説 / 春日若宮御祭の研究
  • 第二八号 面とペルソナ/人物埴輪の眼 他 和辻哲郎
  •  面とペルソナ / 文楽座の人形芝居
  •  能面の様式 / 人物埴輪の眼
  • 第二九号 火山の話 今村明恒
  • 第三〇号 現代語訳『古事記』(一)前巻(前編)武田祐吉(訳)
  • 第三一号 現代語訳『古事記』(二)前巻(後編)武田祐吉(訳)
  • 第三二号 現代語訳『古事記』(三)中巻(前編)武田祐吉(訳)
  • 第三三号 現代語訳『古事記』(四)中巻(後編)武田祐吉(訳)
  • 第三四号 山椒大夫 森 鴎外
  • 第三五号 地震の話(一)今村明恒
  • 第三六号 地震の話(二)今村明恒
  • 第三七号 津波と人間 / 天災と国防 / 災難雑考 寺田寅彦
  • 第三八号 春雪の出羽路の三日 喜田貞吉
  • 第三九号 キュリー夫人 / はるかな道(他)宮本百合子
  • 第四〇号 大正十二年九月一日…… / 私の覚え書 宮本百合子
  • 第四一号 グスコーブドリの伝記 宮沢賢治
  • 第四二号 ラジウムの雁 / シグナルとシグナレス(他)宮沢賢治
  • 第四三号 智恵子抄(一)高村光太郎
  • 第四四号 智恵子抄(二)高村光太郎
  • 第四五号 ヴェスヴィオ山 / 日本大地震(他)斎藤茂吉
  • 第四六号 上代肉食考 / 青屋考 喜田貞吉
  • 第四七号 地震雑感 / 静岡地震被害見学記(他)寺田寅彦
  • 第四八号 自然現象の予報 / 火山の名について 寺田寅彦
  • 第四九号 地震の国(一)今村明恒
  • 第五〇号 地震の国(二)今村明恒
  • 第五一号 現代語訳『古事記』(五)下巻(前編)武田祐吉(訳)
  • 第五二号 現代語訳『古事記』(六)下巻(後編)武田祐吉(訳)
  • 第四巻
  • 第一号 日本昔話集 沖縄編(一)伊波普猷・前川千帆(絵)
  • 第二号 日本昔話集 沖縄編(二)伊波普猷
  • 第三号 アインシュタイン(一)寺田寅彦
  •  物質とエネルギー / 科学上における権威の価値と弊害 /
  •  アインシュタインの教育観
  • 第四号 アインシュタイン(二)寺田寅彦
  •  アインシュタイン / 相対性原理側面観
  • 第五号 作家のみた科学者の文学的活動 / 科学の常識のため 宮本百合子
  • 第六号 地震の国(三)今村明恒
  • 第七号 地震の国(四)今村明恒
  • 第八号 地震の国(五)今村明恒
  • 第九号 地震の国(六)今村明恒
  • 第一〇号 土神と狐 / フランドン農学校の豚 宮沢賢治
  • 第一一号 地震学の角度から見た城輪柵趾 今村明恒
  • 第一二号 庄内と日高見(一)喜田貞吉
  •  はしがき
  •  庄内三郡
  •  田川郡と飽海郡、出羽郡の設置
  •  大名領地と草高――庄内は酒井氏の旧領
  •  高張田地
  •  本間家
  •  酒田の三十六人衆
  •  出羽国府の所在と夷地経営の弛張
  •  
  •  奥羽地方へ行ってみたい、要所要所をだけでも踏査したい。こう思っている矢先へ、この夏〔大正一一年(一九二二)〕、宮城女子師範の友人栗田茂次君から一度奥州へ出て来ぬか、郷土史熱心家なる桃生郡北村の斎藤荘次郎君から、桃生地方の実地を見てもらいたい、話も聞きたいといわれるから、共々出かけようじゃないかとの書信に接した。好機逸すべからずとは思ったが、折悪しく亡母の初盆で帰省せねばならぬときであったので、遺憾ながらその好意に応ずることができなかった。このたび少しばかりの余暇を繰り合わして、ともかく奥羽の一部をだけでも見てまわることのできたのは、畢竟、栗田・斎藤両君使嗾の賜だ。どうで陸前へ行くのなら、ついでに出羽方面にも足を入れてみたい。出羽方面の蝦夷経営を調査するには、まずもって庄内地方を手はじめとすべきだと、同地の物識り阿部正巳〔阿部正己。〕君にご都合をうかがうと、いつでもよろこんで案内をしてやろうといわれる。いよいよ思いたって十一月十七日の夜行で京都を出かけ、東京で多少の調査材料を整え、福島・米沢・山形・新庄もほぼ素通りのありさまで、いよいよ庄内へ入ったのが二十日の朝であった。庄内ではもっぱら阿部君のお世話になって、滞在四日中、雨天がちではあったが、おかげでほぼ、この地方に関する概念を得ることができた。その後は主として栗田君や斎藤君のお世話になって、いにしえの日高見国なる桃生郡内の各地を視察し、帰途に仙台で一泊して、翌日、多賀城址の案内をうけ、ともかく予定どおりの調査の目的を達することができた。ここにその間見聞の一斑を書きとめて、後の思い出の料とする。
  • 第一三号 庄内と日高見(二)喜田貞吉
  •  出羽国分寺の位置に関する疑問
  •  これは「ぬず」です
  •  奥羽地方の方言、訛音
  •  藤島の館址――本楯の館址
  •  神矢田
  •  夷浄福寺
  •  庄内の一向宗禁止
  •  庄内のラク町
  •  庄内雑事
  •   妻入の家 / 礫葺の屋根 / 共同井戸 / アバの魚売り / 竹細工 /
  •   カンジョ / マキ、マケ――ドス / 大山町の石敢当 / 手長・足長 /
  •   飛島 / 羅漢岩 / 玳瑁(たいまい)の漂着 / 神功皇后伝説 / 花嫁御
  •  桃生郡地方はいにしえの日高見の国
  •  佳景山の寨址
  •  
  •  だいたい奥州をムツというのもミチの義で、本名ミチノク(陸奥)すなわちミチノオク(道奥)ノクニを略して、ミチノクニとなし、それを土音によってムツノクニと呼んだのが、ついに一般に認められる国名となったのだ。(略)近ごろはこのウ韻を多く使うことをもって、奥羽地方の方言、訛音だということで、小学校ではつとめて矯正する方針をとっているがために、子どもたちはよほど話がわかりやすくなったが、老人たちにはまだちょっと会話の交換に骨の折れる場合が少くない。しかしこのウ韻を多く使うことは、じつに奥羽ばかりではないのだ。山陰地方、特に出雲のごときは最もはなはだしい方で、「私さ雲すうふらたのおまれ、づうる、ぬづうる、三づうる、ぬすのはてから、ふがすのはてまで、ふくずりふっぱりきたものを」などは、ぜんぜん奥羽なまり丸出しの感がないではない。(略)
  •  また、遠く西南に離れた薩隅地方にも、やはり似た発音があって、大山公爵も土地では「ウ山ドン」となり、大園という地は「うゾン」とよばれている。なお歴史的に考えたならば、上方でも昔はやはりズーズー弁であったらしい。『古事記』や『万葉集』など、奈良朝ころの発音を調べてみると、大野がオホヌ、篠がシヌ、相模がサガム、多武の峰も田身(たむ)の峰であった。筑紫はチクシと発音しそうなものだが、今でもツクシと読んでいる。近江の竹生島のごときも、『延喜式』にはあきらかにツクブスマと仮名書きしてあるので、島ももとにはスマと呼んでいたのであったに相違ない。これはかつて奥州は南部の内藤湖南博士から、一本参られて閉口したことであった。してみればズーズー弁はもと奥羽や出雲の特有ではなく、言霊の幸わうわが国語の通有のものであって、交通の頻繁な中部地方では後世しだいになまってきて、それが失われた後になってまでも、奥羽や、山陰や、九州のはてのような、交通の少なかった僻遠地方には、まだ昔の正しいままの発音が遺っているのだと言ってよいのかもしれぬ。(略)
  • 第一四号 庄内と日高見(三)喜田貞吉
  •  館と柵および城
  •  広淵沼干拓
  •  宝ヶ峯の発掘品
  •  古い北村
  •  姉さんどこだい
  •  二つの飯野山神社、一王子社と嘉暦の碑
  •  日高見神社と安倍館――阿部氏と今野氏
  •  天照大神は大日如来
  •  茶臼山の寨、桃生城
  •  貝崎の貝塚
  •  北上川改修工事、河道変遷の年代
  •  合戦谷付近の古墳
  •  いわゆる高道の碑――坂上当道と高道
  •  
  •  しかし安倍氏の伝説はこの地方に多く、現に阿部姓を名乗る村民も少くないらしい。(略)先日、出羽庄内へ行ったときにも、かの地方に阿部氏と佐藤氏とがはなはだ多かった。このほか奥羽には、斎藤・工藤などの氏が多く、秀郷流藤原氏の繁延を思わしめるが、ことに阿部氏の多いのは土地柄もっともであるといわねばならぬ。『続日本紀』を案ずるに、奈良朝末葉・神護景雲三年(七六九)に、奥州の豪族で安倍(または阿倍)姓を賜わったものが十五人、宝亀三年(七七二)に十三人、四年に一人ある。けだし大彦命の後裔たる阿倍氏の名声が夷地に高かったためであろう。しかしてかの安倍貞任のごときも、これらの多数の安倍姓の中のものかもしれぬ。前九年の役後には、別に屋・仁土呂志・宇曽利あわして三郡の夷人安倍富忠などいう人もあった。かの日本将軍たる安東(秋田)氏のごときも、やはり安倍氏の後なのだ。もしこの安倍館がはたして安倍氏の人の拠った所であったならば、それは貞任ではない他の古い安倍氏かもしれぬ。阿部氏と並んでこの地方に今野氏の多いのもちょっと目に立った。(略)今野はけだし「金氏」であろう。前九年の役のときに気仙郡の郡司金為時が、頼義の命によって頼時を攻めたとある。また帰降者の中にも、金為行・同則行・同経永らの名が見えている。金氏はもと新羅の帰化人で、早くこの夷地にまで移って勢力を得ていたものとみえる。今野あるいは金野・紺野などともあって、やはり阿倍氏の族と称している。その金に、氏と名との間の接続詞たる「ノ」をつけてコンノというので、これは多氏をオオノ、紀氏をキノと呼ぶのと同様である。
  • 第一五号 私は海をだきしめてゐたい / 安吾巷談・ストリップ罵倒 坂口安吾
  •  
  •  私はいつも神さまの国へ行こうとしながら地獄の門をもぐってしまう人間だ。ともかく私ははじめから地獄の門をめざして出かけるときでも、神さまの国へ行こうということを忘れたことのない甘ったるい人間だった。私は結局、地獄というものに戦慄したためしはなく、バカのようにたわいもなくおちついていられるくせに、神さまの国を忘れることができないという人間だ。私はかならず、いまに何かにひどい目にヤッツケられて、たたきのめされて、甘ったるいウヌボレのグウの音も出なくなるまで、そしてほんとに足すべらしてまっさかさまに落とされてしまう時があると考えていた。
  •  私はずるいのだ。悪魔の裏側に神さまを忘れず、神さまの陰で悪魔と住んでいるのだから。いまに、悪魔にも神さまにも復讐されると信じていた。けれども、私だって、バカはバカなりに、ここまで何十年か生きてきたのだから、ただは負けない。そのときこそ刀折れ、矢尽きるまで、悪魔と神さまを相手に組み打ちもするし、蹴とばしもするし、めったやたらに乱戦乱闘してやろうと悲愴な覚悟をかためて、生きつづけてきたのだ。ずいぶん甘ったれているけれども、ともかく、いつか、化の皮がはげて、裸にされ、毛をむしられて、突き落とされる時を忘れたことだけはなかったのだ。
  •  利巧な人は、それもお前のずるさのせいだと言うだろう。私は悪人です、と言うのは、私は善人ですと、言うことよりもずるい。私もそう思う。でも、なんとでも言うがいいや。私は、私自身の考えることもいっこうに信用してはいないのだから。「私は海をだきしめていたい」より)
  • 第一六号 三筋町界隈 / 孫 斎藤茂吉
  •  
  •  (略)父がここに開業している間に、診察の謝礼に賀茂真淵書入の『古今集』をもらった。たぶん田安家にたてまつったものであっただろうとおもうが、佳品の朱できわめてていねいに書いてあった。出所も好し、黒川真頼翁の鑑定を経たもので、わたしが作歌を学ぶようになって以来、わたしは真淵崇拝であるところから、それを天からの授かり物のように大切にして長崎に行った時にもやはりいっしょに持って歩いていたほどであったが、大正十三年(一九二四)暮の火災のとき灰燼になってしまった。わたしの書架は貧しくて何も目ぼしいものはなく、かろうじてその真淵書入の『古今集』ぐらいが最上等のものであったのに、それも失せた。わたしは東三筋町時代を回顧するごとに、この『古今集』のことを思い出して残念がるのであるが、何ごとも思うとおりに行くものでないと今ではあきらめている。そして古来書物などのなくなってしまう径路に、こういうふとしたことにもとづくものがあると知って、それであきらめているようなわけである。
  •  まえにもちょっとふれたが、上京したとき、わたしの春機は目ざめかかっていて、いまだ目ざめてはいなかった。今はすでに七十の齢をいくつか越したが、やをという女中がいる。わたしの上京当時はまだ三十いくつかであっただろう。「東京ではお餅のことをオカチンといいます」とわたしに教えた女中である。その女中がわたしを、ある夜、銭湯に連れて行った。そうすると浴場にはみな女ばかりいる。年寄りもいるけれども、キレイな娘がたくさんにいる。わたしは故知らず胸のおどるような気持ちになったようにもおぼえているが、実際はまだそうではなかったかもしれない。女ばかりだとおもったのはこれは女湯であった。後でそのことがわかり、女中は母にしかられて私はふたたび女湯に入ることができずにしまった。わたしはただ一度の女湯入りを追憶して愛惜したこともある。今度もこの随筆から棄てようか棄てまいかと迷ったが、棄てるには惜しい甘味がいまだ残っている。「三筋町界隈」より)
  • 第一七号 原子力の管理(他)仁科芳雄
  • 原子力の管理
  •  一 緒言
  •  二 原子爆弾の威力
  •  三 原子力の管理
  •  
  • 日本再建と科学
  •  一.緒言
  •  二.科学の役割
  •  三.科学の再建
  •  四.科学者の組合組織
  •  五.科学教育
  •  六.結語
  •  
  • 国民の人格向上と科学技術
  • ユネスコと科学
  •  
  •  原子爆弾は有力な技術力、豊富な経済力の偉大な所産である。ところが、その技術力も経済力も科学の根につちかわれて発達したことを思うとき、アメリカの科学の深さと広さとは歴史上比類なきものといわねばならぬ。しかしその科学はまた、技術力と経済力とに養われたものである。アメリカの膨大な研究設備や精巧な測定装置や純粋な化学試薬が、アメリカ科学をして今日あらしめた大切な要素である。これはもちろん、アメリカ科学者の頭脳の問題であるとともに、その技術力・経済力の有力なる背景なくしては生まれ得なかったものなのである。すなわち科学は技術・経済の発達をつちかい、技術・経済はまた科学を養うものであって、互いに原因となり結果となって進歩するものである。「日本再建と科学」より)
  •  科学は呪うべきものであるという人がある。その理由は次のとおりである。
  •  原始人の闘争と現代人の戦争とを比較してみると、その殺戮の量において比較にならぬ大きな差異がある。個人どうしのつかみ合いと、航空機の爆撃とをくらべて見るがよい。さらに進んでは人口何十万という都市を、一瞬にして壊滅させる原子爆弾にいたっては言語道断である。このような残虐な行為はどうして可能になったであろうか。それは一に自然科学の発達した結果にほかならない。であるから、科学の進歩は人類の退歩を意味するものであって、まさに呪うべきものであるという。「ユネスコと科学」より)
  • 第一八号 J・J・トムソン伝(他)長岡半太郎
  • J・J・トムソン伝
  •  学修時代
  •  研究生時代
  •  実験場におけるトムソン
  •  トムソンの研究
  •  余談
  • アインシュタイン博士のこと 
  •  帯電した物体の運動は、従来あまり攻究されなかった。物体が電気を帯びたるも帯びざるも、その質量において認め得べき差あるわけはない。しかし、ひとたび運動するときは磁性を生ずる。仮に帯電をeとし、速度をvとすれば、磁力はevに比例す。しかして物体の周囲におけるエネルギー密度は磁力の二乗に比例するにより、帯電せる物体の運動エネルギーは、帯電せられざるときのそれと、帯電によるものとの和にて示されるゆえ、物体の見かけの質量は m + ke2 にて与えらるべし。式中mは質量、kは正常数である。すなわち、あたかも質量が増加したるに等しいのである。その後かくのごとき問題は電子論において詳悉されたのであるが、先生はすでにこの将来ある問題に興味をよせていた。(略)
  •  電子の発見は電子学に対し画期的であったが、はじめは半信半疑の雲霧につつまれた。ある工学者はたわむれに、また物理学者の玩弄物が一つ加わったとあざけった。しかし電子ほど一定不変な帯電をもち、かつ小さな惰性を有するものはなかったから、これを電気力で支配するときは、好個の忠僕であった。その作用の敏速にして間違いなきは、他物のおよぶところでなかった。すなわち工業上電子を使役すれば、いかなる微妙な作用でもなしうることがだんだん確かめられた。果然、電子は電波の送受にもっぱら用いらるるようになって、現時のラジオは電子の重宝な性質を遺漏なく利用して、今日の隆盛を来たした。その他整流器、X線管、光電管など枚挙にいとまあらず。ついに電気工学に、電子工学の部門を構成したのも愉快である。かくのごとく純物理学と工学との連鎖をまっとうした例はまれである。
  • 第一九号 原子核探求の思い出(他)長岡半太郎
  • 総合研究の必要
  • 基礎研究とその応用
  • 原子核探求の思い出
  •  湯川君の受賞
  •  土星原子模型
  •  トムソンが電子を発見
  •  マックスウェル論文集
  •  化学原子に核ありと発表
  •  原子核と湯川君
  •  (略)十七世紀の終わりに、カヴェンジッシュ(Cavendish)が、ジェレキ恒数〔定数〕・オーム則などを暗々裏に研究していたが、その工業的価値などはまったく論外であった。一八三一年にファラデー(Faraday)が誘導電流を発見したけれども、その利用は数十年後に他人によって発展せられ、強電流・弱電流・変圧器・モーターなどにさかんに用いられ、結局、電気工学の根幹はこの誘導電流の発見にもとづくものといってよろしい。(略)近年は電気工学の一部門として、電子工学なるものが生まれた。その源をたずねてみると、J・J・トムソン(Joseph John Thomson)が気体中の電気伝導を研究したのに始まっている。気体が電離すると、物質は異なっていても必ず同じ帯電と同じ質量を持っている微細なものが存在する。すなわち電子であって、今日まで知られているもっとも微質量の物質である。その帯電を利用し、自由にこれが速度を調節することが可能であることを認め、はじめてフレミング(Fleming)によって無線通信を受けるに使われた。(略)
  •  つぎに申し上げるのは、光電池のことである。ドイツの片田舎ウォルフェンブッテル(Wolfenbu:ttel)の中学教員エルステル(Elster)とガイテル(Geitel)は、真空内にカリウム元素を置き、これに光をあてると電子の発散するのを認め、ついにこれをもって光電池を作った。近ごろではカリウムよりセシウム(Caesium)が感度が鋭敏であるから、物質は変化したけれども、その本能においては変わらない。この発見者はこれを工業的に発展することはべつに考えなかったが、意外な方面に用いられるようになった。すなわち光度計としては常識的に考えうるが、これを利用してドアを開閉し、あるいは盗賊の警戒にもちい、あるいは光による通信に利するなど、意外なる利用方法が普通におこなわれるようになった。もっともさかんに使われるのは活動写真のトーキーであろう。光電池の創作者にこの盛況を見せ得ないのは残念である。
  • 第二〇号 蒲生氏郷(一)幸田露伴
  •  (略)当時の武士、ケンカ商買、人殺し業、城取り、国取り、小荷駄取り、すなわち物取りを専門にしている武士というものも、然様さようチャンチャンバラばかり続いているわけではないから、たまには休息して平穏に暮らしている日もある。行儀のよい者は酒でも飲むくらいのことだが、犬をひき鷹を肘にして遊ぶほどの身分でもなく、さればといって何の洒落た遊技を知っているほど怜悧(れいり)でもない奴は、他に知恵がないから博奕を打って閑(ひま)をつぶす。戦(いくさ)ということが元来バクチ的のものだからたまらないのだ、バクチで勝つことの快さを味わったが最期、何に遠慮をすることがあろう、戦乱の世はいつでもバクチが流行る。そこで社や寺はバクチ場になる。バクチ道の言葉に堂を取るだの、寺を取るだの、開帳するだのというのは今に伝わった昔の名残だ。そこでバクチのことだから勝つ者があれば負けるものもある。負けた者は賭(か)ける料がなくなる。負ければ何の道の勝負でもくやしいから、賭ける料がつきてもやめられない。仕方がないから持ち物をかける。また負けて持ち物を取られてしまうと、ついには何でも彼でもかける。いよいよ負けてまた取られてしまうと、ついには賭けるものがなくなる。それでも剛情にいまひと勝負したいと、それでは乃公(おれ)は土蔵ひとつかける、土蔵ひとつをなにがし両のつもりにしろ、負けたら今度、戦のある節にはかならず乃公が土蔵ひとつを引き渡すからというと、その男が約を果たせるらしい勇士だと、ウンよかろうというので、その口約束に従ってコマをまわしてくれる。ひどい事だ。自分の土蔵でもないものを、分捕(ぶんどり)して渡す口約束でバクチを打つ。相手のものでもないのにバクチで勝ったら土蔵ひと戸前(とまえ)受け取るつもりで勝負をする。こういうことが稀有ではなかったから雑書にも記されて伝わっているのだ。これでは資本の威力もヘチマもあったものではない。
  • 第二一号 蒲生氏郷(二)幸田露伴
  •  (略)政宗も底倉(そこくら)幽居を命ぜられた折に、心配の最中でありながら千ノ利休を師として茶事を学んで、秀吉をして「辺鄙(ひな)の都人」だと嘆賞させたが、氏郷は早くより茶道を愛して、しかも利休門下の高足〔高弟のこと。〕であった。(略)また氏郷があるときに古い古い油を運ぶ竹筒を見て、その器をおもしろいと感じ、それを花生けにして水仙の花を生け、これも当時風雅をもって鳴っていた古田織部に与えたという談が伝わっている。織部はいまに織部流の茶道をも花道をも織部好みの建築や器物の意匠をも遺している人で、利休に雁行すべき侘道の大宗匠であり、利休より一段簡略な、侘(わび)に徹した人である。氏郷のその花生けの形は普通に「舟」という竹の釣花生けに似たものであるが、舟とはすこし異なったところがあるので、今にその形を模した花生けを舟とはいわずに、「油さし」とも「油筒」ともいうのは最初の因縁からおこってきているのである。古い油筒を花生けにするなんというのは、もう風流において普通を超えて宗匠分になっていなくてはできぬ作略で、宗匠の指図や道具屋の入れ知恵を受け取っている分際の茶人のことではない。(略)天下指折りの大名でいながら古油筒のおもしろみを見つけるところはうれしい。(略)氏郷がわびの趣味を解して油筒を花器に使うまで踏込んでいたのは利休の教えを受けた故ばかりではあるまい、たしかに料簡の据えどころを合点して何にも徹底することのできる人だったからであろう。しかも油筒ごとき微物をとりあげるほどの細かい人かと思えば、細川越中守が不覚に氏郷所有の佐々木の鐙を所望したときには、それが蒲生重代の重器であったにかかわらず(略)真物を与えた。(略)竹の油筒を掘り出して賞美するかと思えば、ケチではない人だ、家重代のものをも惜し気なく親友の所望には任せる。なかなかおもしろい心の行きかたを持った人だった。
  • 第二二号 蒲生氏郷(三)幸田露伴
  •  氏郷はまことに名生(みょう)の城が前途にあったことを知らなかったろうか。種々の書にはまったくこれを知らずに政宗にあざむかれたように記してある。なるほど氏郷の兵卒らは知らなかったろうが、氏郷が知らなかったろうとは思えぬ。縮みかえっていた小田原を天下の軍勢と共に攻めたときにさえ、忍びの者を出しておいて、五月三日の夜の城中からの夜討ちを知って、使い番をもって陣中へ夜討ちがくるぞと触れ知らせたほどに用意をおこたらぬ氏郷である。ましていまだかつて知らぬ敵地へふみこむ戦、ことに腹の中の黒白不明な政宗を後ろへおいて、三里五里の間も知らぬごとき不詮議のことで真っ黒闇の中へ盲目さぐりで進んで行かれるものではない。小田原の敵の夜討ちを知ったのは、氏郷の伊賀衆の頭、忍びの上手と聞こえし町野輪之丞という者で、毎夜毎夜忍びて敵城をうかがったとある。(略)頭があれば手足は無論ある。不知案内の地へのぞんで戦い、料簡不明の政宗と与(とも)にするに、氏郷がこの輪之丞以下の伊賀衆をポカリと遊ばせておいたり徒(いたず)らに卒伍の間に編入していることのありうるわけはない。輪之丞以下は氏郷出発以前から秘命を受けて、(略)ある者は政宗の営をうかがい、ある者は一揆方の様子をさぐり、必死の大活躍をしたろうことは推察にあまりあることである。そしてこれらの者の報告によって、いたって危ない中からいたって安らかな道を発見して、精神気迫の充ち満ちた力足を踏みながら、忠三郎氏郷は兜の銀のナマズを悠然と游がせたのだろう。それでなくて何で中新田城から幾里も距らぬところにあった名生の敵城を知らずに、十九日の朝に政宗を後ろにして出立しよう。城は騎馬武者の一隊ではない、突然にわいて出るものでも何でもない。まして名生の城は木村の家来の川村隠岐守が守っていたのを旧柳沢の城主・柳沢隆綱が攻め取って拠っていたのである。それだけの事実が氏郷の耳に入らぬわけはない。
  • 第二三号 科学の不思議(一)アンリ・ファーブル
  • 大杉栄、伊藤野枝(訳)
  •  訳者から
  •  一 六人
  •  二 おとぎ話と本当のお話
  •  三 アリの都会
  •  四 牝牛(めうし)
  •  五 牛小舎
  •  六 利口な坊さん
  •  七 無数の家族
  •  学問というものは、学者といういかめしい人たちの研究室というところにばかり閉じこめておかれるはずのものではありません。だれもかれも知らなければならないのです。今までの世間の習慣は、学問というものをあんまり崇(あが)めすぎて、一般の人たちから遠ざけてしまいすぎました。何の研究でも、その道の学者だけが知っていれば、ほかの者は知らなくてもいいようなふうにきめられていました。いや、知らなくてもいい、ではなくて、知る資格がないようにきめられていました。けれども、この習慣はまちがっています。非常にこみ入ったむずかしい研究は別として、だれでもひととおりの学問は知っていなければなりません、子どもでも大人でも。
  •  子どものためのおとぎ話の本は、たくさんすぎるほどあります。けれども、おとぎ話よりは「本当の話が聞きたい」という、ジュールのような子どものためのおもしろい本を書いてくれる学者は日本にはあまりないのか、いっこうに見あたりません。 (伊藤野枝「訳者から」より)
  • 第二四号 科学の不思議(二)アンリ・ファーブル
  • 大杉栄、伊藤野枝(訳)
  •  八 古い梨の木
  •  九 樹木の齢(とし)
  •  一〇 動物の寿命
  •  一一 湯わかし
  •  一二 金属
  •  一三 被金(きせがね)
  •  一四 金と鉄
  •  一五 毛皮
  •  一六 亜麻と麻
  •  一七 綿
  •  一八 紙
  • 「亜麻(あま)は小さな青い花が咲く細い植物で、毎年まいたり、刈ったりする。これは北フランスや、ベルギーや、オランダにたくさん栽培されている。そしてこれは、人間が一番はじめに織り物をつくるのに使った植物だ。四〇〇〇年以上もたった大昔のエジプトのミイラは、リンネルの帯でまいてある。(略)
  • 「麻は何百年もヨーロッパじゅうで栽培された。麻は一年生の、じょうぶな、いやな香(にお)いのする、緑色の陰気な小さな花を開く。そして茎は溝が深くて六尺くらいにのびる。麻は、亜麻と同じように、その皮と、麻の実という種子を取るために栽培せられるんだ。(略)
  • 「麻や亜麻が成熟すると、刈られて種子は扱(こ)きわけられてしまう。それから、それを湿して、皮の繊維を取る仕事がはじまる。すなわち、その繊維がわけもなく木から離れるようにする仕事だ。実際この繊維は、茎にくっついていて、非常に抵抗力の強い、弾力の強い物で、くさってしまうまで離れないようになっている。時によると、この麻の皮を一、二週間も野原にひろげて、なんべんもなんべんもひっくり返して、皮が自然と木質の部分、すなわち、茎から離れるまでつづける。
  • 「だが、一番早い方法は、亜麻や麻を束にしてしばって、池の中にしずめておくことだ。すると、まもなく腐っていやなにおいを出し、皮は朽ちて、強い弾力を持った繊維がやわらかくなる。
  • 「それから麻束を乾かして、ブレーキという道具の歯の間でそれを押しつぶして、皮と繊維とを離してしまう。しまいに、その繊維のくずを取って、それを美しい糸にするために、刷梳(こきくし)という大きな櫛のような鋼鉄の歯のあいだを通す。そしてこの繊維は手なり機械なりでつむがれて、そうしてできた糸を機(はた)にかけるのだ。

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