喜田貞吉 きた さだきち
1871-1939(明治4.5.24-昭和14.7.3)
歴史学者。徳島県出身。東大卒。文部省に入る。日本歴史地理学会をおこし、雑誌「歴史地理」を刊行。法隆寺再建論を主張。南北両朝並立論を議会で問題にされ休職。のち京大教授。


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店)。写真は、Wikipedia 「ファイル:Sadakichi_Kita.png」より。


もくじ 
庄内と日高見(二)喜田貞吉


ミルクティー*現代表記版
庄内と日高見(二)

オリジナル版
庄内と日高見(二)

地名年表人物一覧書籍
難字、求めよ
後記次週予告

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  • 一、漢字、かなづかい、漢字の送りは現代表記に改めました。
  • 一、若干の句読点のみ改めました。適宜、ルビや中黒や感嘆・疑問符をおぎないました。一部、改行と行頭の字下げを改めました。
  • 一、ひらがなに傍点は、一部カタカナに改めました。
  • 一、漢数字の表記を一部、改めました。
  •    例、七百二戸 → 七〇二戸
  •    例、二萬六千十一 → 二万六〇一一
  • 一、和暦にはカッコ書きで西暦をおぎないました。年次のみのばあいは単純な置き換えにとどめ、月日のわかるばあいには陰暦・陽暦の補正をおこないました。
  • 一、カタカナ漢字混用文は、ひらがな漢字混用文に改めました。
  • 一、書名・雑誌名は『 』、論文名・記事名および会話文は「 」で示しました。
  • 一、差別的表現・好ましくない表現はそのままとしました。


底本:『喜田貞吉著作集 第一二巻 斉東史話・紀行文』平凡社
   1980(昭和55)年8月25日 初版第1刷発行
初出:『社会史研究』第九巻第一、二号
   1923(大正12)年1、2月
http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person1344.html

NDC 分類:212(日本史/東北地方)
http://yozora.kazumi386.org/2/1/ndc212.html
NDC 分類:915(日本文学/日記.書簡.紀行)
http://yozora.kazumi386.org/9/1/ndc915.html




庄内と日高見ひだかみ(二)

喜田貞吉

   出羽国分寺の位置に関する疑問


 出羽国分寺は今、山形市にある。しかしこれは特例で、普通ではない。当初の国分寺は、国府付属の寺として、かならずその遠からぬ場所にあったに相違ない。したがって国府が出羽郡いではぐんにあってみれば、かならずその近傍に遺跡を求めねばならぬはずである。もっとも後に国分寺が荒廃し、あるいは炎上・崩壊などのことがあって、国力これを修理・改築するにたえず、ために他の寺をもって国分寺につる例はないではないが、それにしても庄内から山形のような遠方にうつるとは思われぬ。あるいは国府が移転して、旧地に国分寺ののこる例もあるが、それにしてももと山形地方に国府があったという事実はない。これは中世、最上氏の祖・斯波兼頼かねよりがここにあって、出羽探題として羽州の政務を統治したがために、山形が世に府中とよばれるようになり、ついに府中につきものの国分寺がここに再興せられたのではなかろうか。もと、なんらの関係のない別の寺が、偶然、国府址の付近にあるがために後世、国分寺の名跡をついで、これを再興した例もないではない。されば山形の国分寺は、よしや最上氏以後の寺ではないとしても、前からあった他の寺の改称であって、天平当初の国分寺ではあるまい。その天平勅願を云々うんぬんするものは、国分寺の名跡をついだ後におこった伝説と解すべきものであろう。
 一説に、出羽の国分寺は古くから最上郡にあったという。それならばこの山形説もあるいは成立するのであるが、それは近年編纂の『山形県史』引くところの『続日本後紀』の文に、

 承和四年(八三七)六月丁酉ひのととり、依従五位下勲六等小野おのの朝臣宗成むねしげ、勅聴出羽国最上郡建-立済苦院さいくいん一処。又宗成むねしげ同所国分二寺、奉仏菩薩像、並写-得雑経四千余巻。並令官帳紛失。事具官符

とあるものが火元らしい。はたしてこの文のごとくならば、出羽の国分寺は最上郡済苦院さいくいんの場所か、少なくも同郡内にあったもので、今の山形のがそれにあたるというべきであるが、原文は「同所」ではなくて「所司」である。一本に「所同」と誤写したのはあるが「同所」とはない。小野おのの宗成むねしげは天長七年(八三〇)閏十二月に、出羽国守として国府吏員増加のことを請うの文にその名の見えている人で、その後、承和七年(八四〇)正月には、藤原宮房が国守に任ぜられているから、あるいは重任してそれまで出羽に駐在しておったか、あるいはその前に任満ちてもなお出羽に止まり、済苦院のごとき社会事業をこの国におこしたり、国分二寺をつかさどったりしていたものであろう。しからばすなわちこの文はごうも国分寺が山形にあったという証拠とはならぬ。国分寺は依然、国府とほど遠からぬ所にその遺跡を求めねばならぬ。今、飽海郡あくみぐん北平田村に大字布目ぬのめという地がある。布目あるいは旧寺の址で、かつて布目瓦ぬのめがわらを出したのでこの名があるのではなかろうか。国府とは河をへだてているけれども、余目からとすれば約二里十町をへだてたもので、このくらいの距離ならば他に例は少くない。しかし、なるべくは河南に遺跡を求めたいものだ。

   これは「ぬず」です


 出羽の国分寺のことを書いたについて、思いおこす一挿話がある。ここに書きとめて、ついでに奥羽方言のことにおよんでみたい。
 大正四年(一九一五)に中尊寺講演会に臨席の途中、今は二高教授の浜田廉君が陸奥の国分尼寺の住職を知っているから、紹介してやろうというので、さっそく車を走らして訪問におよんだ。さいわい住職在坊で、じきじきのお取りつぎで、わたしが当寺の住職じゃと言われる。これは好都合と持参の紹介状をお手渡しすると、ご住職、変な顔して上書きを見ながら、
「これはぬずです」
という。はてさて、たった今、自分で住職じゃと明言せられたはずの人が、いまさら留守じゃはあまりに露骨な断わり方だと、
「あなたはこちらのご住職ではいらっしゃいませんのですか?」
「ハイ、わたしは当寺の住職で……、これはぬずです」
「では、この宛名あてなのお方はご住職ではないのですか?」
「これはぬずの方の住職で、こちらは国分寺です」
 なんのことだ、ここは目的の国分尼寺ではなくて、国分(僧)寺の方だったのだ。車屋さん早合点して、僧寺の方へ引き込んだのだ。それでご住職はしきりにその尼寺ぬずたることをくり返して説明してくれたのであったのを、さとりの悪い自分は、やっとこれだけの問答をかさねて、はじめて了解することができたのだ。なんという迂闊うかつなことであろう。しかし、こちらもかねてお訪ねしたいと思っていたところなので、間違いをさいわいにいろいろお話をもうけたまわり、大塔の礎石や、古瓦などを拝見し、それから本当の尼寺の方へ車を向けたことであった。

   奥羽地方の方言、訛音かおん


 奥羽地方の方言にウのいんの多いことくらいは、迂闊うかつ千万な自分といえども、このときになってはじめて気がついたわけではなかった。ただそれがあまりに突然であったので、つい留守を使うのだと早合点して、とんだ失態を演じたのだ。駅の売り子の呼び声にも、「スス(すし)やマンヅウ(まんじゅう)、スンプン(新聞)にヅカンヒョウ(時間表)」くらいは、立派に了解し得るほどの素養は有していたはずなのだ。果物のナス(梨子なし)と野菜のナス(茄子なす、腰かけるイス(椅子いす)と道に転がっているイス(石)くらいの区別は、あらかじめよく心得ておらねば、奥羽地方の旅行はとうていできないのだ。
 だいたい奥州をムツというのもミチの義で、本名ミチノク(陸奥)すなわちミチノオク(道奥)ノクニを略して、ミチノクニとなし、それを土音どおんによってムツノクニと呼んだのが、ついに一般に認められる国名となったのだ。例の『拾遺集しゅういしゅう』平兼盛かねもりの黒塚の歌の詞書ことばがきにも、立派に「ミチの国名取なとりの郡黒塚という所」と書いてある。近ごろはこのウ韻を多く使うことをもって、奥羽地方の方言、訛音かおんだということで、小学校ではつとめて矯正する方針をとっているがために、子どもたちはよほど話がわかりやすくなったが、老人たちにはまだちょっと会話の交換に骨の折れる場合が少くない。しかしこのウ韻を多く使うことは、じつに奥羽ばかりではないのだ。山陰地方、特に出雲のごときは最もはなはだしい方で、「私さ雲すうふらたのおまれ、づうる、ぬづうる、三づうる、ぬすのはてから、ふがすのはてまで、ふくずりふっぱりきたものを」などは、ぜんぜん奥羽なまり丸出しの感がないではない。それもそのはず、出雲の殿様は松平出羽守様であったからとしゃれたところが、あれは官名受領で、松平家は何も出羽には関係はありませんと、まじめに説明せられて恐縮したことがあったが、実際、出雲弁は奥羽弁に近い。
 また、遠く西南に離れた薩隅さつぐう地方にも、やはり似た発音があって、大山公爵も土地では「ウ山ドン」となり、大園という地は「うゾン」とよばれている。なお歴史的に考えたならば、上方かみがたでも昔はやはりズーズー弁であったらしい。『古事記』や『万葉集』など、奈良朝ころの発音を調べてみると、大野がオホヌ、しのがシヌ、相模さがみがサガム、多武たふの峰も田身たむみねであった。筑紫はチクシと発音しそうなものだが、今でもツクシと読んでいる。近江の竹生島ちくぶしまのごときも、『延喜式』にはあきらかにツクブスマと仮名書きしてあるので、島ももとにはスマと呼んでいたのであったに相違ない。これはかつて奥州は南部の内藤湖南博士から、一本まいられて閉口したことであった。してみればズーズー弁はもと奥羽や出雲の特有ではなく、言霊ことだまさきわうわが国語の通有のものであって、交通の頻繁ひんぱんな中部地方では後世しだいになまってきて、それが失われた後になってまでも、奥羽や、山陰や、九州のはてのような、交通の少なかった避遠地方には、まだ昔の正しいままの発音がのこっているのだと言ってよいのかもしれぬ。はたしてしからば、これを方言、訛音かおんだなどいうのはもってのほかで、これを矯正するなどはあたらぬ次第だが、何ごとも多数決の世の中だ。多数国民に通じにくい言葉は不便であるという理由から、やはりなまった方へ曲げてでも多数につくことだ。
 ついでに旅行中に聞いた言葉を二つ三つ書きつけておく。
 庄内ではしばしばそれをヒョウナイというふうに発音する。これはヒとシとの取り違えで、江戸ッ子のやることだ。日高見ひだかみの国の「ヒダ」が「シダ」となり、シダ郡という郡があちこちにできたのは、奈良朝以前のことと思われるが、やはりこれも古い転音だ。
 同じ庄内では海人あまをアバという。『日本紀』景行天皇の条に、周防の佐婆さば佐磨さまと書いてあるのと反対だ。
 仙台あたりではタイラをテーラというとみえて、菓子のカステーラを「糠平」と書いた看板があるという。しからば平清盛もテーラの清盛で、これは江戸ッ子が痛いをイテーというのといっしょだ。薩摩でも大根をデコン、西郷さんはセゴドンだ。これも僻地へきちのこった古い発音かもしれぬ。かつて薩摩の書生が東京へ来て、国でデというのは東京ではダイだ、セというのはサイだ、なんでも気をつけて笑われぬようにしなければならぬと思って、下駄げた屋へ行ってガイタをおくれといったら通じなかったという。まさか仙台人も寺町のことをタイラ町とまではいうまい。
 いまひとつ。たしかM博士のお話であったと思う。奥州のマヌケ言葉といって、ありませんをアリセン、知りませんをシリセンという地方があるそうな。これは吉原言葉のリンセン・リンセンと同系だ。まさかにこれは宮城野が奥州くんだりから来て、吉原の大夫になった時に、輸入したというわけではあるまい。
 奥羽の人の発音は鼻へ抜けるという。これはF音を多く使うためで、これもじつは奥羽にかぎらぬ。出雲でも簸川ひのかわ郡をフヌカワグンという人がある。他の地方でももとはF音がおこなわれて、ハヒフヘホをファフィフフェフと発音する場合が多かったのだ。さらにさかのぼるとそれは多くP音であった。それが後世は多くHに変わり、ただ第三音のフのみが今では Fu として保存されているにすぎないが、比較的古音を多く保存する琉球では、今でも内地でハ行音に発音するものを、PまたはFに呼ぶ場合が多い。されば鼻音もまた奥羽にわが古音の保存せられている一例とすべしだ。それについておもしろい挿話を聞いた。かつて宮城女子師範の音楽の教諭をつとめておられたSという先生、かなり鼻音を使われるので、無遠慮な高知出の某教諭が、「Sさん、あなたはすこぶるビオンですねえ」とからかったところが、S君おおいに恐縮して、「どういたしまして」とひどく謙遜けんそんされたそうな。鼻音を美音とまちがえたのだ。

   藤島の館址――本楯の館址


 藤島町ふじしままち東田川郡ひがしたがわぐんの郡役所の所在地で、ここには今なお館址の土塁の一部がのこっている。塁の高さ約二間、根の広がり目測五、六間で、外部に同じくらいの幅の堀がある。豊臣秀吉築造の京都のお土居どいを小規模にしたようなものだ。それも今はたいてい除かれて、ただ八幡宮の森のある一隅のみがさいわいに保存せられ、わずかに旧態を見ることができる。藤島城は大宝寺だいほうじ武藤氏の被官土佐林とさばやし氏の居館だといえば、いずれ室町時代の築造か、あるいはこれが最初の出羽柵いではのきの址であって、中世それを修造したのであるかもしれぬ。昔、出羽郡衙ぐんがのあったことを名に伝うる古郡ふるこおりは、その南六、七町にある。いにしえ諸郡の人居を城堡じょうほう内に安置した時代にあっては、方六、七町くらいの土塁をめぐらしたものであったに相違ない。
 飽海郡本楯もとたて留守氏の館址で、鎌倉時代出羽留守所のあった所、新田目あらため館とて、今も塁濠の址存すという。自分は踏査のひまがなかったが、図を案ずるに、東には城輪きのわ・木ノ内(城内)・門屋・政所まんどころなどいう字があり、西北にも門田かどたという名が見える。いずれ、もとしかるべき城塞のあった場所であるに相違ない。あるいは飽海郡衙の所在地であったかもしれぬ。このほかにも庄内には、所々に塁址があるという。地図に表われた地名をひろっても、館址たてあとらしく思われるものが少くない。いずれ人居を城堡じょうほうの中に安置したとあってみれば、所々にそれがあってしかるべきものであろう。いったい奥羽地方には館址なるものが多い。その山地にある小規模のものは、多く豪族住居の址と解せられ、往時の蝦夷の酋長の遺跡も少くはなかろうが、平地に土塁をめぐらしたものの中には、古代に農民を保護した城塞も多かろう。なおよく実地を研究すべきことだ。

   神矢田かみやだ


 庄内平野の北の端で、大物忌おおものいみの神としてあがめられた鳥海山の西南麓、高瀬村のうちに字神矢田かみやだという所があって、多く石鏃いしやじりを出だすと、阿部君〔阿部正己。のお話だ。いったい庄内とはいわず、奥羽地方各地に石器時代の遺跡が多く、海岸の砂丘、平地にのぞんだ丘陵、いたるところ遺跡ならざるはなしといってもよいほどで、特に庄内地方のは阿部君よく調査せられて、『考古学雑誌』にも報告されてあることだからここにははぶくが、この神矢田という名はおもしろい。
 『続日本後紀』承和六年(八三九)の条に、出羽の国司上言すらく、「去る八月二十九日の管田川郡司のにいわくに、この郡の西浜、府に達するの程五十余里、もとより石なし。しかして同月三日より霖雨りんうやまず、雷電声をたたかわし、十余日をへて、すなわち晴天を見る。時に海畔かいはんに向かって自然に石をおとす。その数少からず。あるいはやじりに似、あるいはほこさきに似、あるいは白、あるいは黒、あるいは青、あるいは赤。およそその状体、鋭皆西に向かい、くきはすなわち東に向かう。古老に〔問う〕に、いまだかつて見ざるところなり。国司商量しょうりょうすらく、この浜沙地にして、径寸の石いにしえよりあるなし。よって上言す」と。これは砂丘内に埋没していた石鏃や石槍いしやりが、十数日の大雨に洗い出されたのだ。それを驚異の目をもって見たがゆえに、神矢天より降ると解して、その先が西に向いていたなどと評判したものであろう。ところが翌年、遣唐使の船が帰って来ての復奏によると、ちょうどこの八月ころに南方の賊地に漂着して、わが少数をもって多数の賊と戦って勝つことを得たという事件があった。これはかならず神助があったのに相違ないということになった。あたかも宮中にものがあって、これをうらなわしめると大物忌神のたたりだという。そこで去年の石鏃降下と、そのころの神助とが結びつけられて、それに気がつかないで放任したから、それで神のたたりがあったのだと物がきまり、ために翌年七月、この神に従四位下の神階を授けたてまつり、封二戸を寄せたてまつるに至った。遠くシナ南蛮の境における戦争に、鳥海山の神がご助力なされたからとて、その矢やほうの先のみが脱落して、山麓に近い砂浜に少なからず落下するようであっては、よほど矢種を要したことであったに相違ないが、このさいそんなことは考える必要はなかったのだ。
 その後、貞観十年(八六八)四月には、飽海郡の月山・大物忌両神社の前に石鏃六枚を降らしたとか、元慶八年(八八四)九月には、飽海郡の海浜に石のやじりに似たるを降らす、そのほこさきみな南に向かう、陰陽寮の占に、かの国の憂応に兵賊・疾疫あるべしといったとか、仁和元年(八八五)十一月には、出羽国秋田城あきたのき中、および飽海郡神宮寺西浜に石鏃せきぞくを降らす、陰陽寮言す、まさに凶狄の陰謀兵乱のことあるべし、神祇官じんぎかん言す、かの国飽海郡大物忌神・月山神、田川郡由豆佐乃売神ともにこの怪をなす、崇不敬にあり、勅して国宰こくさいをしてうやうやしく諸神をまつり、かねて警固を慎ましむだとか、仁和二年四月には、去る二月、出羽国飽海郡諸神社の辺りに石鏃を降らす、陰陽寮占うて言う、よろしく兵賊をいましむべしと、よって出羽国に命じて警固を慎ましめられたとか、とかく庄内地方には神矢降下のさわぎが多かった。今に神矢田かみやだと小字にいうのは、田地耕耘こううんのさい、この神矢かみやを多く発見するからおこった名であろう。
 ちなみにいう、文久五年〔慶応元年(一八六五)か。松浦まつうら武四郎たけしろうの『東蝦夷日誌』にこんなことがある。

「十勝字メモロフトにて、召し連れたる土人やじり石三枚を持ち来たり、この石、昨夜の白雨ゆうだちに降りたりといいて、われに与えたるゆえ、それは何処いずこぞと問うに、上なるチャシコツにありというままに、そこに行きて探しけるに、また三枚と小さき雷斧らいふ一枚を得たり。そのゆえを問うに、たまたま蝦夷にては、大雨の降りし後にこの石のあるよし答えぬ」

 夷地探検になれた松浦氏でも、遺跡の中に住んでいるアイヌでも、考古学的素養がないと、こんなことをいっているのだ。千年前の庄内人が、石器を見てたまげたに無理はない。

   夷浄福寺いじょうふくじ


 本間家の菩提所に、真宗寺の浄福寺というのがある。今では単に浄福寺といっているが、古い文書には夷浄福寺じょうふくとある。寺の縁起では、開基明順みょうじゅんという人は俗名菊池肥後守武光といい、出家して本願寺第八世蓮如れんにょ上人のお弟子となり、文明五年(一四七三)師命によって出羽・奥州・松前・蝦夷地を化導けどうしたみぎりに、七年(一四七五)田川郡に一寺を建立したのがすなわち当寺だとあるらしい。それで、夷地を教化したから夷の字を寺名に冠したのだと説明してあるが、妙な解釈だ。
 由来、出羽方面の蝦夷の中へは、早くから仏法の布教がおこなわれたもので、すでに持統天皇三年(六八九)に、こしの蝦夷の沙門道信に、仏像一、灌頂幡、しょう・鉢各一口、五色のあやぎぬ各五尺、綿五屯、布一十端、くわ一十枚、くら一具を賜わったということが『日本紀』にある。これより先七年の天武天皇十一年(六八三)に、越の蝦夷伊高岐那らが、俘人ふじん熟蝦夷にきえみし)七千戸をもって一郡となさんといて許されたことが同書にあるが、この郡が別項述ぶるごとく田川郡であるとしたならば、この沙門自身もいずれ庄内地方の蝦夷であったかと思われる。降って天長七年(八三〇)には出羽国の俘囚ふしゅう(熟蝦夷)道公千前麿の精進をほめて、特に得度せしめたことがあり、貞観元年(八五九)には、秋田郡の俘囚ふしゅう道公宇夜古、道公宇奈岐の二人が、幼にして野心をすて、深くその異類たるを恥じ、仏法に帰依して苦しみて持戒じかいを願うというので、これを得度せしめたことがともに国史に見えている。出羽方面の蝦夷で、早く仏に帰依したものの少からなんだことが察せられよう。また奥羽地方の寺院のことも古く物に見えて、仏法はかなり早くおこなわれていたものらしい。そこでこの夷浄福寺の「夷」の字の問題だが、開基といわれる明順は天文年間(一五三二〜一五五五)の人であってみれば、そのころ庄内が夷地であったということのあるべきはずはなく、さりとて彼が夷地を教化したから、その紀念に「夷」の字を寺名に冠したというのもおちつきが悪い。思うに、これはもと蝦夷の建立した寺であって、それを明順が再興したくらいのところであろう。それでやはりもとの縁故をついで、夷浄福寺と称していたのではなかろうか。

   庄内の一向宗禁止


 一向一揆のさかんなころには、地方の領主らその弊にたえかねて、昔の専修念仏停止とは別の意味から、一向宗を禁止したものが少なくなかった。越後の上杉や薩摩の島津がこれを禁じたのは著しいことで、島津領のごときは明治の廃仏毀釈にいたるまで、ついにこの宗旨を領内にいれなかったほどであった。しかしそれが遠くこの庄内にまでおよんでいたとは、いささか案外の感がないでもない。『浄福寺文書』に、

 今度酒田津本願寺門徒之道場、庄中門弟准拠、可破壊之処、彼寺之事者、元来上方□□□致造立、于今以連続之段、言上之上者、彼一宇末代無相違、可-置、但当庄之住人不貴賤親疎しんそ于許容者、所違変、仍後日之証状如件。
 天文二□年卯月うづき六日     禅棟(花押)
                 氏頼(花押)
   明順みょうじゅん

というのがある。妙な文章で意味があきらかでないが、思うに、これより先に庄中の一向門徒の禁止のことがあって、それに准拠して酒田の道場も破壊すべきであるが、浄福寺だけは特別に保存する、ただし庄中の住民は貴賤親疎しんそを論ぜずご許容なきことで、それにそむかば寺を保存すべしと定めたところも違変におよぶべしとの義かとも思われる。署名者の禅棟は田川郡藤島館主だと阿部君は説明された。
 浄福寺にはまた、一向一揆石山本願寺明け渡しのさいの、教如きょうにょ上人からの文書がある。

 急度染筆せんぴつ候。今度当寺既可相果之処、以覚悟異議相踏候。然処、雑賀さいかより御書、並以使節、当寺之儀不馳走之旨、国々在々所々へ被仰越候由候。此条御供之輩、今度之無事令張行、剰信長に以一味同心之内存、か様に申成、当家破滅之造意共、あさましく嘆入候。就其、是非とも当寺相拘、慈尊じそん三会さんえのあかつきまでも、聖人の一流退転なきようにとの憶念おくねん、または蓮如れんにょ上人已来らい数代の本寺を、このたび法敵に可相渡事、無念之条、如此候。然者仏法再興たるべき時は、雑賀さいかにも速に可ご納得候歟。此刻諸国門徒之輩、予一味同心に、当寺相つづき候様に、馳走候わば、聖人へ報謝ほうしゃ、併可満足候。兼又今度直参に可召之旨被仰出、或者望申輩有之候由候。不然候。又門徒は他の坊主して可仰付候由候。縦思食寄、または依望雖仰付、重而自是可申付候条、可其意事肝要候。就中弥信心決定歟。仏恩報謝ほうしゃの称名念仏油断ゆだんあるべからず候。なお仏法の一儀、可崇敬事肝要候。万端頼入斗候。なお按察法橋ほっきょう申候。穴賢あなかしこ々々。
 六月二十日(天正八年(一五八〇) 教如(花押)
  浄福寺
  同 門徒中

 これは天正八年、本願寺顕如けんにょ上人(光佐)が、大阪の石山本願寺を織田信長に明け渡して、紀伊の雑賀さいかに引退したさいに、全国の末寺門徒に旨を諭して、このさい本願寺のために奔走すべからざることを戒めたのに対して、長男教如きょうにょ上人(光寿)がそれに不服で、あいかわらず尽力を依頼した手紙である。酒田にはこれとほぼ同文のものが、西派の大信寺だいしんじにもあるそうな。ただし宛名あてなは志賀郡坊主衆、同門徒衆中とあって、近江の志賀郡の寺院門徒に遣わしたものと思われるが、それがどういう関係で酒田へ来たことかは知らぬ。ともかくこの僻遠な庄内地方にまでも、光佐や光寿の通牒が行きとどいていることを思うと、当時の一向一揆の規模が大きく、いかに真剣味にちていたかが察せられるのである。

   庄内のラク町


 奥羽地方には上方かみがたのようにいわゆる特殊部落なるものが多くない。あってもわずかに城下にあるくらいのもので、これは牢番だとか、刑の執行とかに必要ながためにあったにすぎないのだ。他の早く開けた地方では人民が柔弱にゅうじゃくに流れて、自分で汚物を取りかたづけるの衛生事務にあたったり、盗賊の番や火の番をするの警察事務にあたるのがいやながために、特に有利な条件でいわゆるエタに来てもらって、村内警護、衛生などの役にあたってもらったものであった。いわば昔のエタは、村方から扶持ふちを受けた世襲的の駐在警吏けいりにほかならなかったのだ。しかるに奥羽地方では、風俗純樸で、村民がおたがいにその役にあたることをまなかったから、特に駐在警吏をたのむの必要がなかったのだ。
 阿部君のお話に、庄内でもとエタとよばれたものは、鶴岡と酒田とに各数十戸と、ほかに松嶺まつみねに一戸とあるのみで、彼らは皮革業や竹細工に従事し、また牢番をつとめたものだという。普通民との間に通婚や往来はしなかったが、別にそれをきたないとは思わなかったとみえ、その作った竹器は食器にも用いてはばからなかったのだ。また酒田では、維新前には彼らは芝居興行をもなし、他からきた興行ものにはエタが勧進元になる例であったという。古い記録や地図には、それをエタともチョウリともあるが、俗にはこれを「ラク」といい、その住居の一郭を今でも内々にはラク町というものもあるそうな。自分はそのいわゆるラク町を視察したが、家屋も清潔で、生活も立派で、いっこう他と変わったところも見受けなかった。ただ旧来の竹細工に従事するものの多いのが目についたくらいにすぎなかった。
 これをラクというのはどういうことであろう。これが問題となった。三人寄って文殊のよい智恵も出なかったが、自分にはこれは「伯楽はくらく」の略ではないかと思われた。伯楽は馬商人で、「伯楽ひとたび冀北きほくの野をすぎて良馬ついにむなし、馬なきにあらず良馬なきなり」というその伯楽だ。日本ではそれをやわらげてバクロウといえば牛馬商人となる。庄内でも同様だが、特にこれをハクラクといえば獣医のことであるそうな。これは出雲地方でも同様だ。ところが永禄(一五五八〜一五七〇)書写の高野山宝寿院蔵の『貞観じょうがん政要せいよう格式目』という妙な名の古書には、エタをいつに伯楽ともいうとある。室町時代には上方でそう呼んでいたものらしい。それを略してこちらではラクというのではあるまいか。ハチをかくして「十無とうない」とも、「四つ」ともいうような、一種のかくし言葉かもしれぬと思ったことであった。
 なお鶴岡にはエタのほかに「河原」というのがあったそうな。すなわち河原者かわらもので、井戸掘などに従事する。京都の悲田院ひでんいんと同様だ。また酒田ではこれに相当するものをもと非人ひにんといい、井戸掘や火葬場の番人、庭作りなどを業としていたもので、天保ころの飢饉ききんに際し、流民を収容して救ったものだという。由来のきわめて新しいもので、いわゆる非人の起原を見るべきよい材料だ。
 酒田の旧ラク町に空き地がある。もと牢址で、それをんで今なお家を建てるものがないのだという。そこに飼ってある豚を屠場とじょうに運ぶとて、屈竟くっきょうの男子が二人、その四肢をしばり、両耳と尻尾しっぽとをつかまえて、かけ声かけて荷車の上に投げつける。豚はしきりに悲鳴をあげる。それを子どもやおかみさんたちが笑って見ていた。

   庄内雑事


 庄内滞在中に見聞したもので、わざわざ項を分かつほどでもないことを、ここに順序もなく書きとめておく。

 妻入つまいりの家

 酒田町さかたまちを通って第一に目につくことは、家屋が多く妻入つまいりとなって道路に面していることと、その妻がはなはだしく長く突き出ていることとだ。大物忌おおものいみ神社のある吹浦ふくらの町へ行ってみたが、やはり同様であった。出雲の大社が妻入りになっているように、これすなわち太古の住宅建築の遺風と思われるが、それは北陸あたりの田舎の孤立家屋によく見るところで、両隣りょうどなり相接する市街地にあっては、雨水の流れを取るのが不便であるがために、たいていは平入ひらいりに改まって、伊勢の古市ふるいちの町以外では、これまであまり見およばぬところであった。これは自分の見聞のせまいためと、これまで注意の粗漏そろうであったためで、他にも少なからずあるのかは知らぬが、庄内地方ではとくにこれが目に立った。妻の長く前方に突き出ていることは、雪の多い地方において、入口に雪の積らぬようにとの必要からきたものらしい。しかし今では、たいていその下にひさしを設けてあるのだから、いわばひさしの上に二重屋根があるようなもので、ぜんぜん不用と思われる。告朔こくさく癡rきようは容易にやめにくいものだ。

 礫葺れきぶきの屋根

 妻入の家の屋根はたいていソギ板葺いたぶきで、日本海の荒い風に吹きまくられるおそれがあるためか、径四、五寸ぐらいから七、八寸ぐらいの、やや平目の礫石れきせきをもっておおうてある。まるで古墳の表面をれきいたような形だ。この種のき方は他でも往々見るところだが、この地方のはことに目に立つ。そのれきの間に水を含んで、ソギ板が腐りやすい。それがためにたびたび修繕しゅうぜんを要するそうだが、これもなかなか改良されぬものらしい。

 共同井戸

 酒田の町には、路傍に町内共同の井戸がある場所が多い。近ごろはポンプかけになって、便利にできている。いまひと奮発ふんぱつで、これから細い鉛管えんかんで各戸へ引けばよいにと思われるが、そこまでは運ばぬものらしい。毎日のことだ、各戸に井戸を掘れば便利がよさそうなものを、妙なことではある。

 アバの魚売り

 酒田ではよく婦人が魚の荷をになって、「さかな買わないかあ」と呼び歩行いているのを見かける。あれは「アバ」だという。海岸漁民の妻で、広く田舎までへも出かけるものらしい。アバはアマで、海人あまの義たることは申すまでもない。蒲をカマともカバとも呼び、魚肉をつぶして固めたのはカマボコ(蒲鉾)で、ウナギの焼いたのがカバヤキ(蒲焼)であるのと同様だ。ケムリ(煙)をケブリ、ネムリ(睡)をネブリというのもまたこの例だ。先年、土佐の浮津うきつで油屋という宿屋を教わって、いくら探しても見つからなかったが、そこには仮名書きで「あむらや」と大きな看板が出ていた。
 自分の郷里の阿波には、海部郡かいふぐんから「アブのいただき」という婦人が、海藻類をかごに入れて頭へ載せて売りにくる。これは同郡阿倍〔阿部村か。の人で、そのアブは海部はまべの略かと思っていたが、酒田のアバから考えると、これもアマ(海人あま)であるらしい。

 竹細工

 おりから飽海郡郡会議事堂に、酒田町の製産品即売会が開かれていた。竹細工の見事なのがたくさん陳列されてある。いわゆるラク町を通ると、ここでは今も竹細工をおこなっているものが多い。阿部君の話に、この地方の竹細工は、ほとんど酒田が独占だということだ。もちろん鶴岡でも、旧エタは竹細工をやっていたものだという。今はむろん普通人もおこなっていることであろうが、昔は他では竹細工は多くいわゆる非人にんの仕事であった。今でも近ごろサンカとよばれる浮浪民は、往々、竹細工に従事して東国ではこれを古くみのなおしともいったそうな。茶筅ちゃせんささらなどよばれた特殊民も、やはり竹細工の一部が専業的になったのであろう。出雲などではもとおさ売りが他地方から入り込んでも、嫌って宿を貸さなかったものだという。「大宝令」に、隼人はやひとのつかさの隼人は竹笠たけがさを造作することをつかさどるとある。『延喜式』にも、隼人が種々の竹器を造進することが見えている。むろん隼人とこれらの特殊民との間の関係は認められないが、農業に従事しないものが随所手に入りやすい材料に加工して、渡世の料とするのは一番つごうのよいところで、これらの種類の人々の落ちゆく先は、往々一つになってしまう。

 カンジョ

 酒田あたりでは今も便所をカンジョという。これは閑所で、手水場ちょうずばなどというように、きたない意味の語をけたのだ。昔は他地方にも往々おこなわれたものと見えて、東京でもそんな語を聞いたことがある。甲陽こうよう軍鑑ぐんかん』に、「信玄公はご用心の御為やらん、ご閑所かんじょ京間きょうま六帖敷になされ、たたみを敷き、お風呂屋縁の下よりといをかけ、お風呂屋の下水にて不浄を流すようにあそばし」とある。いわゆる川屋の応用だ。これを手水場というのは、日本人は通例、使用の後に手を洗う習慣があるからのきれいな言葉だが、奥羽地方も奥へ行くと今も手洗いの設備のないところが多い。そんな所では手水場は通用しなかろう。手水場でも、閑所かんじょでも、物が物だからやはりいつか不潔の感をおこす。それでか東京駅前の工業倶楽部には、たしか化粧室と書いてあったと記憶する。考えたものだが、それが一般におこなわれるようになると、またしても不潔な感をおこすことになるであろう。
 ちなみにいう、阿部君の話に、庄内飽海郡の吹浦にある大物忌神社の付近の川の上流をウエナイという、これはアイヌ語のウエンナイすなわち悪い川の義かもしれぬといわれたが、それはともかくもとして、そのウエナイでは家の中にかわやを設けず、用は野原にてすようにとの命令が文化・文政(一八〇四〜一八三〇)ころに出ていたという。野糞のぐそ奨励は妙だ。

 マキ、マケ――ドス

 庄内地方では一族のこと、血筋のことをマキまたはマギという。マキが悪いとか、あれはドスのマギだとかいう。ドスとは癩病らいびょう患者のことだ。中学校長・かけい君のお話では、福島地方ではマケというそうな。マキでもマケでももと同語であろうが、語義がわからぬ。あるいは同じ系統のひと巻きの義か。

 大山町の石敢当

 西田川郡大山町に石敢当いしがんとうがある。なかば土中にまっているが、これには武者絵があるという。自分は見なかったがこれも阿部君の話。石敢当は薩隅さつぐうや長崎などではちょいちょい見受けるが、他では珍しい。特に武者絵のあるというのは珍しい。どんな関係でこの庄内にそんなものが作られたか、もしくは持ちこまれたか、由来が知りたいものだ。

 手長・足長

 庄内の北隅、吹浦から山北せんぼく〔仙北。地方へ通ずる御崎峠三崎峠みさきとうげか。の旧道付近の叢林そうりん中に、かつて白骨が散乱していたのを、先年ある篤志の人がうめて石塔を立てたという。ここはもと手長てなが足長あしながが住んでいたとの伝説のある所だ。この辺りの土俗、むかし横死おうしの者あれば、塩越しおこし神子みこ神職をたのみ、亡者の菩提を祈る。これを「みさきばなし」というと。塩越とは由利郡ぐんのうちだ。

 飛島

 吹浦から七里ばかりの海上に飛島とびしまという孤島がある。ここの漁人はもと山北せんぼく仁賀保から移り、はじめは漁期にのみ渡って小屋がけをなし、平素は仁賀保へ引きあげていたのであったが、後に住みついたのだと、これは吹浦の松田君のお話。海岸の漁人が離れ島へ時を限ってかせぎに出ることは、今も能登の海士あまに見るところ。『今昔物語』にもこれに類した話がある。こんな辺鄙へんぴにはてして変わった風俗がある。浦村うらむらのごときは「旧宅のほかに家作りすべき余地なく、別家をやすことならず、一家に三夫婦も四夫婦もおり、弟は兄の下男のごとく働き、縁組は島内三村たがいに嫁娶かしゅす。酒田・塩越しおこしあたりより来るものあれども、はなはだまれなり」とある。自分が吹浦へ行ったときには、風があったためか子どもまで積んだ飛島の船が、何そうも港内に停泊していた。この飛島もとは「とど島」といって、この島からスルメの運上の受け取りを書いた慶長八年(一六〇三)志村しむら伊豆守光安あきやすの文書にある。海驢住居の島の義であろうとは阿部君の解釈だ。右の文書は酒田町史編纂所発行の資料絵はがきにも出ている。しかしそれが飛島となっては、鳥海山から飛んて行ったということに説明されている。ちなみにいう、松田君は吹浦の素封家で、浮世絵や発掘品を多数に集め、付近の貝塚などを調査して、考古学に趣味を有しておられる方だ。

 羅漢岩

 吹浦ふくらの海岸には波に洗われた火山岩が種々の形をして突き立っている。それを利用して十六羅漢その他種々の仏像を彫刻してある。当所、海禅寺かいぜんじ寛海かんかい和尚の発願で、当初はこの海岸全部に仏体をきざむつもりであったが、あまり熱心すぎたためか、後に発狂したと、これも松田君のお話。この石仏は幕末から着手して、明治八年(一八七五)に開眼したのだといえばまだ新しいものだが、それでもはや海風のためにおかされて、刻銘なども読めなくなり、ご面相などもいくらか欠損している所がある。しいものだ。

 玳瑁たいまいの漂着

 松田君の珍蔵品数多い中に、二頭の玳瑁たいまい〔ウミガメ科のカメ。がある。一つは昨年(一九二一)北方の象潟きさかたに漂着したもので、一つはかつて松ヶ崎まつがさきにあがった二頭のうち、酒井侯に献上した残りの分だという。南洋産のはずの玳瑁たいまいが海流に乗せられて、はるばるこんなところまで漂着するのだ。人間が思いよらぬところに漂着して、跡を留めているのも珍しくはない。

 神功じんぐう皇后こうごう伝説

 庄内の中ではないが、近所の象潟の珍伝説を聞いたままに書きとめておく。これも松田君のお話だ。象潟に皇后崎というのがあって、ここに皇后山蚶満寺かんまんじがある。神功皇后袖掛松など、種々、皇后に関する伝説があるというのだ。いくら海流の関係から南洋の玳瑁たいまいが漂着しても、まさかに皇后の御船がここに御着にはなるまいに、伝説の分布はおそろしいものだと思った。安芸の厳島の南端にもコーゴ崎というのがある。九州・中国・四国などによくあるコーゴ石と同じく、共通の意味を持った名であろうが、その地名から昔の賢い人が、いろいろのことを言い出すのだ。

 花嫁はなよめ

 自分が庄内へ入った十一月二十日という日は、吉日であったとみえて、汽車中でも、駅でも、おりからの吹き降りの中に、幾組もの嫁入りを見た。裾模様すそもようの着物に襦珍しゅちんの丸帯という普通のいでたちだが、頭には島原の大夫に侍する禿かむろの頭に挿しているような、ビラビラと纓絡えいらくの下がった大きな銀かんざしを、額髪の上にクルリとまわして、いかにも花嫁はなよめ御らしい気分のするいでたちだった。藤島町にも婿むこ取りがあった。よめ入りや婿むこ入りの行列を子どもらが道に擁して、縄をはって通行をさまたげる。よめ付き・婿むこ付きのものが前もって用意した小銭を投げあたえると、子どもらは先をあらそうてそれを拾って道をあける。戦国時代の土豪らが勝手に関所を設けて、旅客や商品に関銭せきせんと称する通行税を課したようなものだ。弱いものいじめの風習が今も僻遠へきえんの地方にはこんな形でのこっている。

 このほか庄内滞在中に見聞したうちで、書きとめておきたいものはまだまだ少なくはないが、さまではとて略することにする。(十一年(一九二二)十二月十二日)

   桃生郡ものうぐん地方はいにしえの日高見ひだかみの国


 二十三日(大正十一年(一九二二)十一月)の夜、庄内から東北線小牛田駅について、宮城女師教諭の栗田くり茂治しげはる君の案内によって、駅前の小牛田こごたホテルという立派な名前の宿屋に一泊した。へだてのふすまや障子のたてあわせの大きなすきから吹き込む寒風は、とても火鉢の炭火くらいでは防ぎきれぬ。となりの部屋には土地の若い衆の宴会があって、騒々そうぞうしいことおびただしい。宿の女中さんは主人の平素の訓誨くんかいが行きとどいていると見えて、いやしくも客に対して笑顔を見せるようなことがあってはならぬという態度をしておられる。それでもどうにか無事に一夜をすごして、翌朝小牛田こごた駅へ来てみると、仙台から女師訓導の小島甲午郎君が見えておられる。桃生ものう地方の調査に同行したいとのことだ。一同石巻線に乗りかえて、涌谷駅をすぎ、小さいトンネルで一つの丘陵をこえると、汽車は広淵沼の平地に出る。これから先が目的の桃生郡ものうぐんの部内だ。
 涌谷町わくやちょうは今は遠田郡とおだぐん内で、箆岳のだけ箟岳ののだけ・篦岳か。の西南麓にある。もとは小田郡の中で、天平(七二九〜七四九)の昔、聖武天皇が奈良に大仏を造営あそばされたときに、天がこれに感じて宝をくだされ、はじめてわが国で黄金を発見してこれを献じたので、立派に大仏の荘厳そうごんができあがったという場所だ。今に涌谷町の後方には黄金迫こがねはざまという地があり、式内黄金山こがねやま神社もある。後に小田郡廃して遠田郡に併されたのだ。
 遠田郡は天平二年(七三〇)正月に田夷たひな村の蝦夷らが、王化によくして請うて新たに一郡を建て、公民の籍に編入せられたものだ。野田夷とは山夷に対するの語で、すでに邦俗に化して狩猟野生の風を改め、田野にあって耕作に従事していた熟蝦夷にきえみしすなわち俘囚ふしゅうである。遠田郡の郡領遠田公とおだのきみはこの俘囚の種で、もと田夷とよばれていたのであった。その部下なるいわゆる田夷村は、おそらく今の小牛田こごた以西の平地にあったのであろう。しかして当時はいまだ小田郡・桃生郡などは建てられず、なお夷地としてのこされていたものらしい。この方面の経営は比較的おそかった。神亀五年(七二八)に陸奥方面では名取郡にあった丹取にとり軍団を玉造たまつくりに移し、天平五年(七三三)に出羽方面では出羽柵を秋田にうつし、天平九年に玉作と秋田とを連絡すべく雄勝おがちの道を開くほどにも夷地の経営が進捗しんちょくした後にまで、今の桃生郡から牡鹿郡おしかぐん・本吉郡・気仙郡一帯の山地には、いまだ王化に服せぬ蝦夷の族が比較的ながくのこり、いわゆる海道の蝦夷は久しく王師を悩ましたものであった。
 桃生郡ものうぐんはもと牡鹿郡の一部で、この方面では牡鹿郡が一番早く置かれたのである。けだし王化は海によって石巻方面から進入したものらしい。今、石巻の南方日和山ひよりやま下に鹿島御児かしまのみこ神社がある。貞観八年(八六六)の常陸国鹿島神宮司じんぐうじの解に、奥州における鹿島大神の苗裔びょうえい三十八社といううちに、牡鹿郡一社とあるものすなわちこれで、当時の征夷の軍は軍神として往々、鹿島の神の御子神を奉じておこなったものらしい。牡鹿の柵の名は天平九年(七三七)に初見している。このころ陸奥方面には多賀城以外、玉造・新田にいた・牡鹿・色麻しかまなどの諸柵の名が見える。新田は今、登米郡とめぐんの西部にその名をとどめている。もちろんこのほかにも諸柵の存在はこれを認めるが、その名は『続日本紀』にれていてあきらかでない。桃生ものうの名は天平宝字元年(七五七)に初見し、宝字四年(七六〇)条には、牡鹿郡において大河にまたがり峻嶺しゅんれいをしのぎ、桃生柵を造って賊の肝胆を奪うの文がある。当時なお、この地方が牡鹿郡の中であって、王師は石巻方面から漸次ぜんじ北進し、もって海道蝦夷の巣窟たる東方山地を圧迫した状が察せられる。降って宝亀五年(七七四)に至り、海道の蝦夷蜂起して橋を焼き、道をふさぎて往来を絶ち、桃生城ものうのきを侵してその西郭を破るとある。また遠山村は地険岨けんそにして夷俘いふのよる所、歴代の諸将いまだかつて進討せずともある。この遠山はすなわち登米とよなと同語だと解せられているが、よしや語原は別にしても、その地が桃生から本吉・登米の山地にわたった、海道蝦夷の一根拠であったに相違ない。かくのごとくにしてこれらの地方は、比較的久しく蝦夷の巣窟であったのだ。すなわち日高見ひだかみの国であったのだ。
 日高見国のことは前号および本号の両号にわたって詳説しておいたとおり、もと一般に蝦夷の国の義ではあるが、この方面が比較的後までも化外けがいの地として遺されたので、その日高見の名が邦人の口に伝唱せられ、後までも桃生郡に日高見神社の名も唱えられるに至ったものであろう。
 桃生郡の西なる遠田郡が、もと田夷の郡であったことはすでに述べた。これもかつては日高見の国の一部として認められていたのであろうが、その住民、比較的早く熟化して王土となったのだ。またその西南の志太郡〔志田郡か。の名はもと「ヒダ」で、『常陸風土記』に常陸の信太しだ郡はいにしえの日高見国なりとあるがごとく、ここにも日高見の名がのこって後にシダとなまったのであろうとのことは、別項、日高見国の考証に述べておいた。宝亀十一年(七八〇)に蝦夷の大反乱があって、その乱は延暦年間(七八二〜八〇六)征夷大将軍坂上田村麻呂征討のころまで継続し、王土は少なからずいったん夷地に没した。延暦八年(七八九)八月の「勅」に、「牡鹿・小田・新田にいた・長岡・志太・玉造・富田とみた色麻しかま加美かみ・黒川など一十箇郡は賊と居を接す」とある。長岡郡は後世、栗原・遠田二郡に入り、富田郡とみたぐんは延暦十八年に色麻郡に合わして、後に相ともに賀美郡かみぐんに入ったのであるから、当時の形勢、今の登米郡・桃生郡などは、たいてい夷の略するところとなっていたものと察せられる。延暦十八年に富田郡を色麻郡に合わし、讃馬さぬま郡(今の登米郡佐沼地方)を新田郡にいぐんに合わしたとあるのも、もはや一郡として存立することができなくなったためであったに相違ない。かくのごとくにしてこの桃生郡以東の地方は、比較的後までも日高見国としてのこされたのだ。

   佳景山かけやま寨址とりであと


 一行、前谷地まえやち駅に到着したときに、今回の東道の主人たるべき北村の斎藤荘次郎君の一行が迎えにこられて、ともに佳景山かけやま駅に導かれた。駅は広淵沼の東岸に連亘れんこうせる欠山かけやま丘陵の北端にある。駅南、丘陵の端に一つの寨址がある。一行、榛莽しんぼう〔くさむら。をひらきつつ踏査をする。これは東北地方にその例多き館址たてあとで、まさに北海道に見るアイヌの旧城寨じょうさいたるチャシと同一型式のものだ。すなわち丘端の頂上を平げて、ここに寨主の居宅があったらしく、やや下った所に段地を設けてある。そしてこの欠山のとりでには、その段地の外縁に低い土塁の址までが見える。当時はそれに隠れて弓を射たり、石を投げたりしたものであろう。館から南は須江村すえむら字沢田までひと続きの丘陵ではあるが、その北端から約四町の所にくびれがあって、地形おのずから中断し、西南には広淵沼が広くたたえ、東から北西の方は一帯の平地で、東北に北上きたかみの流れがあり、きわめて要害の地をめている。その東北麓の村落を中山という。けだしこの欠山丘陵は、広淵沼をはさんで西の方北村の山地に対し、また東北は桃生郡ものうぐん東部の山地に向かって、まさにその中間にある孤立の丘陵であるから、それでもと中山の名を得ていたのであろう。しかしてこのとりでは延暦二十三年(八〇四)正月に「武蔵・上総・下総・常陸・上野・下野・陸奥などの国、ほしい一万四三一五こく、米九六八五斛を、陸奥国小田郡中山柵に運ぶ、蝦夷を征せんがためなり」と『日本後紀』にある、その中山柵であろうとの説があるそうな。この地、今は桃生郡に属しているが、今の遠田郡の東部がもと小田郡であったのだから、その城東の方北上川にまでおよんで、広淵沼一帯の地はもと小田郡の中であったと言われないこともなかろう。また、今の登米郡の西南部にあたり、遠田郡の山地と広い低湿の谷地やちをはさんで、中津山とよばれる低い丘陵地がある。あるいはこれが中山柵址だとの説もあるが、この低湿の谷地はもとは大きな沼沢しょうたくであったらしく、これをはさんでその北にまで小田郡の地がおよんでいたとは思われぬから、これはおそらく問題にはなるまい。
 いま一か所、今の桃生郡内で北上川の東岸にあたり、中津山村なかつやまむらというのがある。ここには峰とよばれる孤立の丘陵があって、その西麓には館下たてしたという字まで遺り、これまた中山柵址の一候補地として認められているらしい。これは当時の北上川の流路がはたしてどこであったかを調査せねば明らかならぬ問題ではあるが、いずれにしてもこの地は川の東であったらしく、したがって今の中津山村は、小田郡に属したと見んよりは、むしろ桃生郡の域内であったらしく考えられることから思うと、これもいわゆる小田郡の中山柵にはあたらぬものかと解せられる。当時、大量の米やほしいを貯蔵したのは、その明言するごとく征夷のためであって、いわゆる海道の蝦夷を征する軍士の糧食りょうしょくの準備であったとしてみれば、そしてそれが小田郡の中であったとしてみれば、この三つの中山または中津山のうちでは、今見た欠山かけやまとりでが一番条件に合っているらしく思われる。ほしい一万四三一五こく、米九六八五斛は、一万人の兵士約五か月間の食糧である。もって当時の征夷の規模の一斑いっぱんを察することができよう。(つづく)



底本:『喜田貞吉著作集 第一二巻 斉東史話・紀行文』平凡社
   1980(昭和55)年8月25日 初版第1刷発行
初出:『社会史研究』第九巻第一、二号
   1923(大正12)年1、2月
入力:しだひろし
校正:
xxxx年xx月xx日作成
青空文庫作成ファイル:
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庄内と日高見(二)

喜田貞吉

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)爾薩体《にさつたい》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)村山郡|左沢《あてらさわ》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)宝ガ[#「ガ」は小書き]峯

 [#…]:返り点
 (例)依[#二]従五位下勲六等小野朝臣宗成請[#一]
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   出羽国分寺の位置に関する疑問

 出羽国分寺は今山形市にある。しかしこれは特例で、普通ではない。当初の国分寺は、国府附属の寺として、必ずその遠からぬ場所にあったに相違ない。したがって国府が出羽郡にあってみれば、必ずその近傍に遺蹟を求めねばならぬはずである。もっとも後に国分寺が荒廃し、あるいは炎上、崩壊等のことがあって、国力これを修理、改築するに堪えず、ために他の寺をもって国分寺に宛つる例はないではないが、それにしても庄内から山形のような遠方に遷るとは思われぬ。あるいは国府が移転して、旧地に国分寺の遺る例もあるが、それにしてももと山形地方に国府があったという事実はない。これは中世最上氏の祖斯波兼頼がここにあって、出羽探題として羽州の政務を統治したがために、山形が世に府中と呼ばれるようになり、ついに府中につきものの国分寺がここに再興せられたのではなかろうか。もとなんらの関係のない別の寺が、偶然国府址の附近にあるがために、後世国分寺の名跡をついで、これを再興した例もないではない。されば山形の国分寺は、よしや最上氏以後の寺ではないとしても、前からあった他の寺の改称であって、天平当初の国分寺ではあるまい。その天平勅願を云々するものは、国分寺の名跡をついだ後に起った伝説と解すべきものであろう。
 一説に、出羽の国分寺は古くから最上郡にあったという。それならばこの山形説もあるいは成立するのであるが、それは近年編纂の『山形県史』引くところの『続日本後紀』の文に、
[#ここから1字下げ]
 承和四年六月丁酉、依[#二]従五位下勲六等小野朝臣宗成請[#一]、勅聴[#三]出羽国最上郡建[#二]-立済苦院一処[#一]。又宗成同所国分二寺、奉[#レ]造[#二]仏菩薩像[#一]、並写[#二]-得雑経四千余巻[#一]。並令[#下]附[#二]官帳[#一]不[#中]紛失[#上]。事具[#二]官符[#一]。
[#ここで字下げ終わり]
とあるものが火元らしい。果してこの文のごとくならば、出羽の国分寺は最上郡済苦院の場所か、少くも同郡内にあったもので、今の山形のがそれに当るというべきであるが、原文は「同所」ではなくて「所司」である。一本に「所同」と誤写したのはあるが「同所」とはない。小野宗成は天長七年閏十二月に、出羽国守として国府吏員増加のことを請うの文にその名の見えている人で、その後承和七年正月には、藤原宮房が国守に任ぜられているから、あるいは重任してそれまで出羽に駐在しておったか、あるいはその前に任満ちてもなお出羽に止まり、済苦院のごとき社会事業をこの国に起したり、国分二寺を司ったりしていたものであろう。しからばすなわちこの文は毫も国分寺が山形にあったという証拠とはならぬ。国分寺は依然国府とほど遠からぬ所にその遺址を求めねばならぬ。今飽海郡北平田村に大字布目という地がある。布目あるいは旧寺の址で、かつて布目瓦を出したのでこの名があるのではなかろうか。国府とは河を隔てているけれども、余目からとすれば約二里十町を距てたもので、このくらいの距離ならば他に例は少くない。しかしなるべくは河南に遺址を求めたいものだ。

   これは「ぬず」です

 出羽の国分寺のことを書いたについて、思い起す一挿話がある。ここに書きとめて、ついでに奥羽方言のことに及んでみたい。
 大正四年に中尊寺講演会に臨席の途中、今は二高教授の浜田廉君が陸奥の国分尼寺の住職を知っているから、紹介してやろうというので、早速車を走らして訪問に及んだ。幸い住職在坊で、じきじきのお取次で私が当寺の住職じゃと言われる。これは好都合と持参の紹介状をお手渡しすると、御住職変な顔して上わ書きを見ながら、
「これはぬず[#「ぬず」に傍点]です」
という。はてさて、たった今自分で住職じゃと明言せられたはずの人が、今さら留守じゃはあまりに露骨な断り方だと、
「あなたはこちらの御住職ではいらっしゃいませんのですか」
「ハイ私は当寺の住職で……、これはぬずです」
「では、この宛名のお方は御住職ではないのですか」
「これはぬずの方の住職で、こちらは国分寺です」
 なんのことだ、ここは目的の国分尼寺ではなくて、国分(僧)寺の方だったのだ。車屋さん早合点して、僧寺の方へ引き込んだのだ。それで御住職はしきりにその尼寺《ぬず》たることを繰り返して説明してくれたのであったのを、暁りの悪い自分はヤットこれだけの問答を重ねて、始めて了解することが出来たのだ。なんという迂濶なことであろう。しかしこちらもかねてお訪ねしたいと思っていたところなので、間違いを幸いにいろいろお話をも承り、大塔の礎石や、古瓦などを拝見し、それから本当の尼寺の方へ車を向けたことであった。

   奥羽地方の方言、訛音

 奥羽地方の方言にウの韻の多いことくらいは、迂濶千万な自分といえども、この時になって始めて気がついた訳ではなかった。ただそれがあまりに突然であったので、つい留守を使うのだと早合点して、とんだ失態を演じたのだ。駅の売子の呼び声にも、「スス(鮓)やマンヅウ(饅頭)、スンプン(新聞)にヅカンヒョウ(時間表)」くらいは、立派に了解し得るほどの素養は有していたはずなのだ。果物のナス(梨子)と野菜のナス(茄子)、腰掛けるイス(椅子)と道に転がって居るイス(石)くらいの区別は、あらかじめよく心得ておらねば、奥羽地方の旅行はとうてい出来ないのだ。
 だいたい奥州をムツというのもミチの義で、本名ミチノク(陸奥)すなわちミチノオク(道奥)ノクニを略して、ミチノクニとなし、それを土音によってムツノクニと呼んだのが、ついに一般に認められる国名となったのだ。例の『拾遺集』平兼盛の黒塚の歌の詞書にも、立派に「ミチの国名取の郡黒塚といふ所」と書いてある。近ごろはこのウ韻を多く使うことをもって、奥羽地方の方言、訛音だということで、小学校では努めて矯正する方針を執っているがために、子供達はよほど話がわかりやすくなったが、老人達にはまだちょっと会話の交換に骨の折れる場合が少くない。しかしこのウ韻を多く使うことは、実に奥羽ばかりではないのだ。山陰地方、特に出雲のごときは最もはなはだしい方で、「私さ雲すうふらたのおまれ、づうる、ぬづうる、三づうる、ぬすのはてから、ふがすのはてまで、ふくずりふつぱり来たものを」などは、全然奥羽訛り丸出しの感がないではない。それもそのはず、出雲の殿様は松平出羽守様であったからと洒落れたところが、あれは官名受領で、松平家は何も出羽には関係はありませんと、真面目に説明せられて恐縮したことがあったが、実際出雲弁は奥羽弁に近い。
 また遠く西南に離れた薩隅地方にも、やはり似た発音があって、大山公爵も土地では「ウ山ドン」となり、大園という地は「うゾン」と呼ばれている。なお歴史的に考えたならば、上方《かみがた》でも昔はやはりズーズー弁であったらしい。『古事記』や『万葉集』など、奈良朝ころの発音を調べてみると、大野がオホヌ、篠《しの》がシヌ、相模《さがみ》がサガム、多武《たふ》の峯も田身《たむ》の嶺であった。筑紫はチクシと発音しそうなものだが、今でもツクシと読んでいる。近江の竹生島《ちくぶしま》のごときも、『延喜式』には明かにツクブスマと仮名書きしてあるので、島ももとにはスマと呼んでいたのであったに相違ない。これはかつて奥州は南部の内藤湖南博士から、一本参られて閉口したことであった。してみればズーズー弁はもと奥羽や出雲の特有ではなく、言霊《ことだま》の幸《さき》わうわが国語の通有のものであって、交通の頻繁な中部地方では後世次第に訛って来て、それが失われた後になってまでも、奥羽や、山陰や、九州のはてのような、交通の少なかった避遠[#「避遠」は底本のまま]地方には、まだ昔の正しいままの発音が遺っているのだと言ってよいのかも知れぬ。果してしからば、これを方言、訛音だなどいうのはもってのほかで、これを矯正するなどは当らぬ次第だが、何事も多数決の世の中だ。多数国民に通じにくい言葉は不便であるという理由から、やはり訛った方へ曲げてでも多数につくことだ。
 ついでに旅行中に聞いた言葉を二つ三つ書きつけておく。
 庄内ではしばしばそれをヒョウナイという風に発音する。これはヒとシとの取り違えで、江戸ッ子のやることだ。日高見の国の「ヒダ」が「シダ」となり、シダ郡という郡があちこちに出来たのは、奈良朝以前のことと思われるが、やはりこれも古い転音だ。
 同じ庄内では海人《あま》をアバという。『日本紀』景行天皇の条に、周防の佐婆《さば》を佐磨《さま》と書いてあるのと反対だ。
 仙台あたりではタイラをテーラというと見えて、菓子のカステーラを「糠平」と書いた看板があるという。しからば平清盛もテーラの清盛で、これは江戸ッ子が痛いをイテーというのと一所だ。薩摩でも大根をデコン、西郷さんはセゴドンだ。これも僻地に遺った古い発音かも知れぬ。かつて薩摩の書生が東京へ来て、国でデというのは東京ではダイだ、セというのはサイだ、なんでも気をつけて笑われぬようにしなければならぬと思って、下駄屋へ行ってガイタをおくれといったら通じなかったという。まさか仙台人も寺町のことをタイラ町とまではいうまい。
 今一つ。たしかM博士のお話であったと思う。奥州のマヌケ言葉といって、ありませんをアリセン、知りませんをシリセンという地方があるそうな。これは吉原言葉の有リンセン・知リンセンと同系だ。まさかにこれは宮城野が奥州くんだりから来て、吉原の大夫になった時に、輸入したという訳ではあるまい。
 奥羽の人の発音は鼻へ抜けるという。これはF音を多く使うためで、これも実は奥羽に限らぬ。出雲でも簸川《ひのかわ》郡をフヌカワグンという人がある。他の地方でももとはF音が行われて、ハヒフヘホをファフィフフェフホ[#「ホ」は小書き]と発音する場合が多かったのだ。さらに遡るとそれは多くP音であった。それが後世は多くHに変り、ただ第三音のフのみが今では Fu として保存されているに過ぎないが、比較的古音を多く保存する琉球では、今でも内地で波行音に発音するものを、PまたはFに呼ぶ場合が多い。されば鼻音もまた奥羽にわが古音の保存せられている一例とすべしだ。それについて面白い挿話を聞いた。かつて宮城女子師範の音楽の教諭を勤めておられたSという先生、かなり鼻音を使われるので、無遠慮な高知出の某教諭が、「Sさんあなたはすこぶるビオンですねえ」とからかったところが、S君大いに恐縮して、「どう致しまして」とひどく謙遜されたそうな。鼻音を美音と間違えたのだ。

   藤島の館址――本楯の館址

 藤島町は東田川郡の郡役所の所在地で、ここには今なお館址の土塁の一部が遺っている。塁の高さ約二間、根の広がり目測五、六間で、外部に同じくらいの幅の堀がある。豊臣秀吉築造の京都のお土居を小規模にしたようなものだ。それも今はたいてい除かれて、ただ八幡宮の森のある一隅のみが幸いに保存せられ、わずかに旧態を見ることが出来る。藤島城は大宝寺武藤氏の被官土佐林氏の居館だといえば、いずれ室町時代の築造か、あるいはこれが最初の出羽柵の址であって、中世それを修造したのであるかも知れぬ。昔出羽郡衙のあったことを名に伝うる古郡は、その南六、七町にある。古え諸郡の人居を城堡内に安置した時代にあっては、方六、七町くらいの土塁をめぐらしたものであったに相違ない。
 飽海郡|本楯《もとたて》は留守氏の館址で、鎌倉時代出羽留守所のあった所、新田目《あらため》館とて、今も塁濠の址存すという。自分は踏査の暇がなかったが、図を案ずるに、東には城輪《きのわ》・木ノ[#「ノ」は小書き]内(城内)・門屋・政所などいう字があり、西北にも門田という名が見える。いずれ、もとしかるべき城塞のあった場所であるに相違ない。あるいは飽海郡衙の所在地であったかも知れぬ。このほかにも庄内には、所々に塁址があるという。地図に表われた地名を拾っても、館址《たてあと》らしく思われるものが少なくない。いずれ人居を城堡の中に安置したとあってみれば、所々にそれがあってしかるべきものであろう。いったい奥羽地方には館址なるものが多い。その山地にある小規模のものは、多く豪族住居の址と解せられ、往時の蝦夷の酋長の遺蹟も少くはなかろうが、平地に土塁をめぐらしたものの中には、古代に農民を保護した城塞も多かろう。なおよく実地を研究すべきことだ。

   神矢田

 庄内平野の北の端で、大物忌の神として崇められた鳥海山の西南麓、高瀬村のうちに字神矢田という所があって、多く石鏃を出だすと、阿部君のお話だ。いったい庄内とはいわず、奥羽地方各地に石時[#「石時」は底本のまま]時代の遺蹟が多く、海岸の砂丘、平地に臨んだ丘陵、到る処遺蹟ならざるはなしといってもよいほどで、特に庄内地方のは阿部君よく調査せられて、『考古学雑誌』にも報告されてあることだからここには省くが、この神矢田という名は面白い。
『続日本後紀』承和六年の条に、出羽の国司上言すらく、「去る八月廿九日の管田川郡司の解《げ》に※[#「にんべん+稱のつくり」、第3水準1-14-35]くに、此の郡の西浜、府に達するの程五十余里、本より石なし。而して同月三日より霖雨やまず、雷電声を闘はし、十余日を経て、乃ち晴天を見る。時に海畔に向つて自然に石を隕す。其の数少からず。或は鏃に似、或は鋒に似、或は白、或は黒、或は青、或は赤。凡そ厥の状体、鋭皆西に向ひ、茎は則ち東に向ふ。故老に詢ふに、未だ曾て見ざる所なり。国司商量すらく、此の浜沙地にして、径寸の石古よりあるなし。仍て上言す」と。これは砂丘内に埋没していた石鏃や石槍が、十数日の大雨に洗い出されたのだ。それを驚異の目をもって見たがゆえに、神矢天より降ると解して、その先が西に向いていたなどと評判したものであろう。ところが翌年遣唐使の船が帰って来ての復奏によると、ちょうどこの八月ころに南方の賊地に漂着して、わが少数をもって多数の賊と戦って勝つことを得たという事件があった。これは必ず神助があったのに相違ないということになった。あたかも宮中に物《もの》の怪《け》があって、これを卜わしめると大物忌神の祟りだという。そこで去年の石鏃降下と、そのころの神助とが結びつけられて、それに気がつかないで放任したから、それで神の祟りがあったのだと物が極まり、ために翌年七月この神に従四位下の神階を授け奉り、封二戸を寄せ奉るに至った。遠くシナ南蛮の境における戦争に、鳥海山の神が御助力なされたからとて、その矢や鋒の先のみが脱落して、山麓に近い砂浜に少からず落下するようであっては、よほど矢種を要したことであったに相違ないが、このさいそんなことは考える必要はなかったのだ。
 その後、貞観十年四月には、飽海郡の月山・大物忌両神社の前に石鏃六枚を降らしたとか、元慶八年九月には、飽海郡の海浜に石の鏃に似たるを降らす、その鋒皆南に向う、陰陽寮の占に、かの国の憂応に兵賊疾疫あるべしといったとか、仁和元年十一月には、出羽国秋田城中、および飽海郡神宮寺西浜に石鏃を降らす、陰陽寮言す、まさに凶狄の陰謀兵乱のことあるべし、神祇官言す、かの国飽海郡大物忌神・月山神、田川郡由豆佐乃売神ともにこの怪をなす、祟不敬にあり、勅して国宰をして恭しく諸神を祀り、兼ねて警固を慎ましむだとか、仁和二年四月には、去る二月、出羽国飽海郡諸神社の辺に石鏃を降らす、陰陽寮占うて言う、よろしく兵賊を警むべしと、よって出羽国に命じて警固を慎ましめられたとか、とかく庄内地方には神矢降下の騒ぎが多かった。今に神矢田と小字にいうのは、田地耕耘のさいこの神矢を多く発見するから起った名であろう。
 ちなみにいう、文久五年の松浦武四郎の『東蝦夷日誌』にこんなことがある。
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「十勝字メモロフトにて、召連れたる土人鏃石三枚を持ち来り、此石昨夜の白雨に降りたりと云ひて我に与へたる故、夫は何処ぞと問ふに、上なるチヤシコツに在りと云ふまゝに、そこに行きて探しけるに、又三枚と小さき雷斧一枚を得たり。其の故を問ふに、偶々蝦夷にては、大雨の降りし後に此の石のあるよし答へぬ」
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 夷地探検に馴れた松浦氏でも、遺蹟の中に住んでいるアイヌでも、考古学的素養がないと、こんなことをいっているのだ。千年前の庄内人が、石器を見てたまげたに無理はない。

   夷浄福寺

 本間家の菩提所に、真宗寺の浄福寺というのがある。今では単に浄福寺といっているが、古い文書には夷浄福寺とある。寺の縁起では、開基明順という人は俗名菊池肥後守武光といい、出家して本願寺第八世蓮如上人のお弟子となり、文明五年師命によって出羽・奥州・松前・蝦夷地を化導したみぎりに、七年田川郡に一寺を建立したのがすなわち当寺だとあるらしい。それで、夷地を教化したから夷の字を寺名に冠したのだと説明してあるが、妙な解釈だ。
 由来出羽方面の蝦夷の中へは、早くから仏法の布教が行われたもので、すでに持統天皇三年に、越《こし》の蝦夷の沙門道信に、仏像一躯、灌頂幡、鍾・鉢各一口、五色の綵各五尺、綿五屯、布一十端、鍬一十枚、鞍一具を賜わったということが『日本紀』にある。これより先七年の天武天皇十一年に、越の蝦夷伊高岐那らが、俘人(熟蝦夷)七千戸をもって一郡となさんと乞いて許されたことが同書にあるが、この郡が別項述ぶるごとく田川郡であるとしたならば、この沙門自身もいずれ庄内地方の蝦夷であったかと思われる。降って天長七年には出羽国の俘囚(熟蝦夷)道公千前麿の精進を褒めて、特に得度せしめたことがあり、貞観元年には、秋田郡の俘囚道公宇夜古、道公宇奈岐の二人が、幼にして野心をすて、深くその異類たるを恥じ、仏法に帰依して苦しみて持戒を願うというので、これを得度せしめたことがともに国史に見えている。出羽方面の蝦夷で、早く仏に帰依したものの少からなんだことが察せられよう。また奥羽地方の寺院のことも古く物に見えて、仏法はかなり早く行われていたものらしい。そこでこの夷浄福寺の「夷」の字の問題だが、開基と言われる明順は天文年間の人であってみれば、そのころ庄内が夷地であったということのあるべきはずはなく、さりとて彼が夷地を教化したから、その紀念に「夷」の字を寺名に冠したというのも落付が悪い。思うに、これはもと蝦夷の建立した寺であって、それを明順が再興したくらいのところであろう。それでやはりもとの縁故をついで、夷浄福寺と称していたのではなかろうか。

   庄内の一向宗禁止

 一向一揆の盛んなころには、地方の領主らその弊に堪えかねて、昔の専修念仏停止とは別の意味から、一向宗を禁止したものが少くなかった。越後の上杉や薩摩の島津がこれを禁じたのは著しいことで、島津領のごときは明治の廃仏毀釈に至るまで、ついにこの宗旨を領内に容れなかったほどであった。しかしそれが遠くこの庄内にまで及んでいたとは、いささか案外の感がないでもない。『浄福寺文書』に、
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 今度酒田津本願寺門徒之道場、庄中門弟准拠、可[#レ]令[#二]破壊[#一]之処、彼寺之事者、元来上方□□□致[#二]造立[#一]、于[#レ]今以[#二]加《?》力[#一]連続之段、言上之上者、彼一宇末代無[#二]相違[#一]、可[#レ]立[#二]-置|茲《?》[#一]、但当庄之住人不[#レ]論[#二]貴賤親疎[#一]、至《?》[#二]于許容[#一]者、所[#レ]定《?》可[#レ]逮[#二]違変[#一]、仍後日之証状如[#レ]件。
 天文|十《?》二□年卯月六日              禅棟(花押)
                          氏頼(花押)
    明順公
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というのがある。妙な文章で意味が明かでないが、思うに、これより先に庄中の一向門徒の禁止のことがあって、それに准拠して酒田の道場も破壊すべきであるが、浄福寺だけは特別に保存する、ただし庄中の住民は貴賤親疎を論ぜず御許容なきことで、それに背かば寺を保存すべしと定めたところも違変に及ぶべしとの義かとも思われる。署名者の禅棟は田川郡藤島館主だと阿部君は説明された。
 浄福寺にはまた、一向一揆石山本願寺明渡しのさいの、教如上人からの文書がある。
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 急度染筆候。今度当寺既可[#二]相果[#一]之処、以[#二]覚悟[#一]無[#二]異議[#一]相踏候。然処、雑賀より御書、並以[#二]使節[#一]、当寺之儀不[#レ]可[#レ]有[#二]馳走[#一]之旨、国々在々所々へ被[#二]仰越[#一]候由候。此条御供之輩、今度之無事令[#二]張行[#一]、剰信長に以[#二]一味同心之内存[#一]、か様に申成、当家破滅之造意共、あさましく嘆入候。就[#レ]其、是非共当寺相拘、慈尊三会の暁までも、聖人の一流退転なきやうにとの憶念、又は蓮如上人已来数代の本寺を、此度法敵に可[#二]相渡[#一]事、無念之条、如[#レ]此候。然者仏法再興たるべき時は、雑賀にも速に可[#レ]有[#二]御納得[#一]候歟。此刻諸国門徒之輩、予一味同心に、当寺相つゞき候様に、馳走候はゞ、聖人へ報謝、併可[#レ]為[#二]満足[#一]候。兼又今度直参に可[#レ]被[#レ]召之旨被[#二]仰出[#一]、或者望申輩有[#レ]之候由候。不[#レ]可[#レ]然候。又門徒は他の坊主して可[#レ]被[#二]仰付[#一]候由候。縦思食寄、又は依[#レ]望雖[#下]被[#二]仰付[#一]候[#上]、重而自[#レ]是可[#二]申付[#一]候条、可[#レ]得[#二]其意[#一]事肝要候。就[#レ]中弥信心決定歟。仏恩報謝の称名念仏油断あるべからず候。なお仏法の一儀、可[#レ]有[#二]崇敬[#一]事肝要候。万端頼入斗候。猶按察法橋可[#レ]申候。穴賢々々。
 六月二十日(天正八年)               教如(花押)
    浄福寺
    同 門徒中
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 これは天正八年本願寺顕如上人(光佐)が、大阪の石山本願寺を織田信長に明け渡して、紀伊の雑賀に引退したさいに、全国の末寺門徒に旨を諭して、このさい本願寺のために奔走すべからざることを戒めたのに対して、長男教如上人(光寿)がそれに不服で、相変らず尽力を依頼した手紙である。酒田にはこれとほぼ同文のものが、西派の大信寺にもあるそうな。ただし宛名は志賀郡坊主衆、同門徒衆中とあって、近江の志賀郡の寺院門徒に遣わしたものと思われるが、それがどういう関係で酒田へ来たことかは知らぬ。ともかくこの僻遠な庄内地方にまでも、光佐や光寿の通牒が行き届いていることを思うと、当時の一向一揆の規模が大きく、いかに真剣味に充ちていたかが察せられるのである。

   庄内のラク町

 奥羽地方には上方《かみがた》のようにいわゆる特殊部落なるものが多くない。あってもわずかに城下にあるくらいのもので、これは牢番だとか、刑の執行とかに必要ながためにあったに過ぎないのだ。他の早く開けた地方では人民が柔弱に流れて、自分で汚物を取り片づけるの衛生事務に当ったり、盗賊の番や火の番をするの警察事務に当るのが嫌《いや》ながために、特に有利な条件でいわゆるエタに来て貰って、村内警護、衛生等の役に当って貰ったものであった。言わば昔のエタは、村方から扶持を受けた世襲的の駐在警吏にほかならなかったのだ。しかるに奥羽地方では、風俗純樸で、村民がお互いにその役に当ることを忌まなかったから、特に駐在警吏を頼むの必要がなかったのだ。
 阿部君のお話に、庄内でもとエタと呼ばれたものは、鶴岡と酒田とに各数十戸と、ほかに松嶺に一戸とあるのみで、彼らは皮革業や竹細工に従事し、また牢番を勤めたものだという。普通民との間に通婚や往来はしなかったが、別にそれを穢いとは思わなかったと見え、その作った竹器は食器にも用いて憚らなかったのだ。また酒田では、維新前には彼らは芝居興行をもなし、他から来た興行ものにはエタが勧進元になる例であったという。古い記録や地図には、それをエタともチョウリともあるが、俗にはこれを「ラク」といい、その住居の一郭を今でも内々にはラク町というものもあるそうな。自分はそのいわゆるラク町を視察したが、家屋も清潔で、生活も立派で、いっこう他と変ったところも見受けなかった。ただ旧来の竹細工に従事するものの多いのが目についたくらいに過ぎなかった。
 これをラクというのはどういうことであろう。これが問題となった。三人寄って文殊のよい智恵も出なかったが、自分にはこれは「伯楽」の略ではないかと思われた。伯楽は馬商人で、「伯楽一とたび冀北の野を過ぎて良馬ついに空し、馬なきにあらず良馬なきなり」というその伯楽だ。日本ではそれを和らげてバクロウといえば牛馬商人となる。庄内でも同様だが、特にこれをハクラクといえば獣医のことであるそうな。これは出雲地方でも同様だ。ところが永禄書写の高野山宝寿院蔵の『貞観政要格式目』という妙な名の古書には、エタを一に伯楽ともいうとある。室町時代には上方でそう呼んでいたものらしい。それを略してこちらではラクというのではあるまいか。ハチを隠して「十無《とうな》い」とも、「四つ」ともいうような、一種の隠し言葉かも知れぬと思ったことであった。
 なお鶴岡にはエタのほかに「河原」というのがあったそうな。すなわち河原者で、井戸掘などに従事する。京都の悲田院と同様だ。また酒田ではこれに相当するものをもと非人といい、井戸掘や火葬場の番人、庭作りなどを業としていたもので、天保ころの飢饉に際し、流民を収容して救ったものだという。由来のきわめて新しいもので、いわゆる非人の起原を見るべきよい材料だ。
 酒田の旧ラク町に空地がある。もと牢址で、それを忌んで今なお家を建てるものがないのだという。そこに飼ってある豚を屠場に運ぶとて、屈竟の男子が二人、その四肢を縛り、両耳と尻尾とをつかまえて、懸声かけて荷車の上に投げ付ける。豚はしきりに悲鳴をあげる。それを子供やおかみさん達が笑って見ていた。

   庄内雑事

 庄内滞在中に見聞したもので、わざわざ項を分つほどでもないことを、ここに順序もなく書きとめておく。
 妻入の家[#「妻入の家」は見出し] 酒田町を通って第一に目につくことは、家屋が多く妻入となって道路に面していることと、その妻がはなはだしく長く突き出ていることとだ。大物忌神社のある吹浦《ふくら》の町へ行ってみたが、やはり同様であった。出雲の大社が妻入りになっているように、これすなわち太古の住宅建築の遺風と思われるが、それは北陸あたりの田舎の孤立家屋によく見るところで、両隣相接する市街地にあっては、雨水の流れを取るのが不便であるがために、大抵は平入に改まって、伊勢の古市の町以外では、これまであまり見及ばぬところであった。これは自分の見聞の狭いためと、これまで注意の粗漏であったためで、他にも少からずあるのかは知らぬが、庄内地方ではとくにこれが目に立った。妻の長く前方に突き出ていることは、雪の多い地方において、入口に雪の積らぬようにとの必要から来たものらしい。しかし今では大抵その下に庇を設けてあるのだから、言わば庇の上に二重屋根があるようなもので、全然不用と思われる。告朔の※[#「牛+氣」]羊は容易にやめにくいものだ。
 礫葺の屋根[#「礫葺の屋根」は見出し] 妻入の家の屋根は大抵ソギ板葺で、日本海の荒い風に吹きまくられる虞れがあるためか、径四、五寸ぐらいから七、八寸ぐらいの、やや平目の礫石をもって蔽うてある。まるで古墳の表面を礫で葺いたような形だ。この種の葺き方は他でも往々見るところだが、この地方のはことに目に立つ。その礫の間に水を含んで、ソギ板が腐りやすい。それがためにたびたび修繕を要するそうだが、これもなかなか改良されぬものらしい。
 共同井戸[#「共同井戸」は見出し] 酒田の町には、路傍に町内共同の井戸がある場所が多い。近ごろはポンプ仕懸になって、便利に出来ている。今一と奮発で、これから細い鉛管で各戸へ引けばよいにと思われるが、そこまでは運ばぬものらしい。毎日のことだ、各戸に井戸を掘れば便利が善さそうなものを、妙なことではある。
 アバの魚売り[#「アバの魚売り」は見出し] 酒田ではよく婦人が魚の荷を担って、「さかな買わないかあ」と呼び歩行いているのを見かける。あれは「アバ」だという。海岸漁民の妻で、広く田舎までへも出かけるものらしい。アバはアマで、海人の義たることは申すまでもない。蒲をカマともカバとも呼び、魚肉を潰して固めたのはカマボコ(蒲鉾)で、鰻の焼いたのがカバヤキ(蒲焼)であるのと同様だ。ケムリ(煙)をケブリ、ネムリ(睡)をネブリというのもまたこの例だ。先年土佐の浮津で油屋という宿屋を教わって、いくら探しても見付からなかったが、そこには仮名書きで「あむらや」と大きな看板が出ていた。
 自分の郷里の阿波には、海部郡から「アブの戴《いただ》き」という婦人が、海藻類を籠に入れて頭へ載せて売りに来る。これは同郡|阿倍《あぶ》村の人で、そのアブは海部《はまべ》の略かと思っていたが、酒田のアバから考えると、これもアマ(海人)であるらしい。
 竹細工[#「竹細工」は見出し] 折から飽海郡郡会議事堂に、酒田町の製産品即売会が開かれていた。竹細工の見事なのがたくさん陳列されてある。いわゆるラク町を通ると、ここでは今も竹細工を行っているものが多い。阿部君の話に、この地方の竹細工は、ほとんど酒田が独占だということだ。もちろん鶴岡でも、旧エタは竹細工をやっていたものだという。今はむろん普通人も行っていることであろうが、昔は他では竹細工は多くいわゆる非人の仕事であった。今でも近ごろサンカと呼ばれる浮浪民は、往々竹細工に従事して、東国ではこれを古く箕直しともいったそうな。茶筅・簓《ささら》など呼ばれた特殊民も、やはり竹細工の一部が専業的になったのであろう。出雲などではもと筬《おさ》売りが他地方から入り込んでも、嫌って宿を貸さなかったものだという。「大宝令」に、隼人司の隼人は竹笠を造作することを掌るとある。『延喜式』にも、隼人が種々の竹器を造進することが見えている。むろん隼人とこれらの特殊民との間の関係は認められないが、農業に従事しないものが随所手に入りやすい材料に加工して、渡世の料とするのは一番都合のよいところで、これらの種類の人々の落ち行く先は、往々一つになってしまう。
 カンジョ[#「カンジョ」は見出し] 酒田あたりでは今も便所をカンジョという。これは閑所で、手水場《ちょうずば》などというように、穢ない意味の語を避けたのだ。昔は他地方にも往々行われたものと見えて、東京でもそんな語を聞いたことがある。『甲陽軍鑑』に、「信玄公は御用心の御為やらん、御閑所を京間《きょうま》六帖敷になされ、たゝみを敷き、御風呂屋縁の下より樋をかけ、御風呂屋の下水にて不浄を流す様にあそばし」とある。いわゆる川屋の応用だ。これを手水場というのは、日本人は通例使用の後に手を洗う習慣があるからの奇麗な言葉だが、奥羽地方も奥へ行くと今も手洗の設備のない所が多い。そんな所では手水場は通用しなかろう。手水場でも、閑所でも、物が物だからやはりいつか不潔の感を起す。それでか東京駅前の工業倶楽部には、たしか化粧室と書いてあったと記憶する。考えたものだが、それが一般に行われるようになると、またしても不潔な感を起すことになるであろう。
 ちなみにいう、阿部君の話に、庄内飽海郡の吹浦にある大物忌神社の附近の川の上流をウエナイという、これはアイヌ語のウエンナイすなわち悪い川の義かも知れぬと言われたが、それはともかくもとして、そのウエナイでは家の中に厠を設けず、用は野原にて足すようにとの命令が文化文政ころに出ていたという。野糞奨励は妙だ。
 マキ、マケ――ドス[#「マキ、マケ――ドス」は見出し] 庄内地方では一族のこと、血筋のことをマキまたはマギという。マキが悪いとか、あれはドスのマギだとかいう。ドスとは癩病患者のことだ。中学校長筧君のお話では、福島地方ではマケというそうな。マキでもマケでももと同語であろうが、語義がわからぬ。あるいは同じ系統の一と巻きの義か。
 大山町の石敢当[#「大山町の石敢当」は見出し] 西田川郡大山町に石敢当がある。半ば土中に埋まっているが、これには武者絵があるという。自分は見なかったがこれも阿部君の話。石敢当は薩隅や長崎などではちょいちょい見受けるが、他では珍らしい。特に武者絵のあるというのは珍らしい。どんな関係でこの庄内にそんなものが作られたか、もしくは持ち込まれたか、由来が知りたいものだ。
 手長・足長[#「手長・足長」は見出し] 庄内の北隅、吹浦から山北地方へ通ずる御崎峠[#「御崎峠」は底本のまま]の旧道附近の叢林中に、かつて白骨が散乱していたのを、先年ある篤志の人が埋めて石塔を立てたという。ここはもと手長・足長が住んでいたとの伝説のある所だ。この辺の土俗、むかし横死の者あれば、塩越の神子《みこ》神職を頼み、亡者の菩提を祈る。これを「みさきばなし」というと。塩越とは由利郡のうちだ。
 飛島[#「飛島」は見出し] 吹浦から七里ばかりの海上に飛島という孤島がある。ここの漁人はもと山北|仁賀保《にかぷ》から移り、初めは漁期にのみ渡って小屋掛けをなし、平素は仁賀保へ引きあげていたのであったが、後に住みついたのだと、これは吹浦の松田君のお話。海岸の漁人が離れ島へ時を限って稼ぎに出ることは、今も能登の海士に見るところ。『今昔物語』にもこれに類した話がある。こんな辺鄙には得てして変った風俗がある。浦村のごときは「旧宅の外に家作りすべき余地なく、別家を殖やすことならず、一家に三夫婦も四夫婦もおり、弟は兄の下男のごとく働き、縁組は島内三村互いに嫁娶す。酒田・塩越辺より来るものあれども、はなはだ稀なり」とある。自分が吹浦へ行った時には、風があったためか子供まで積んだ飛島の船が、何艘も港内に碇泊していた。この飛島もとは「とど島」といって、この島から鯣の運上の受取を書いた慶長八年の志村伊豆守光安の文書にある。海驢《とど》住居の島の義であろうとは阿部君の解釈だ。右の文書は酒田町史編纂所発行の資料絵はがきにも出ている。しかしそれが飛島となっては、鳥海山から飛んて行ったということに説明されている。ちなみにいう、松田君は吹浦の素封家で、浮世絵や発掘品を多数に集め、附近の貝塚などを調査して、考古学に趣味を有しておられる方だ。
 羅漢岩[#「羅漢岩」は見出し] 吹浦の海岸には浪に洗われた火山岩が種々の形をして突き立っている。それを利用して十六羅漢その他種々の仏像を彫刻してある。当所海禅寺の寛海和尚の発願で、当初はこの海岸全部に仏体を刻むつもりであったが、あまり熱心過ぎたためか、後に発狂したと、これも松田君のお話。この石仏は幕末から着手して、明治八年に開眼したのだといえばまだ新しいものだが、それでもはや海風のために冒されて、刻銘なども読めなくなり、御面相などもいくらか欠損している所がある。借しいものだ。
 玳瑁の漂着[#「玳瑁の漂着」は見出し] 松田君の珍蔵品数多い中に、二頭の玳瑁がある。一つは昨年北方の象潟《きさかた》に漂着したもので、一つはかつて松ガ[#「ガ」は小書き]崎に上った二頭のうち、酒井侯に献上した残りの分だという。南洋産のはずの玳瑁が海流に載せられて、はるばるこんな所まで漂着するのだ。人間が思い寄らぬ所に漂着して、蹟を留めているのも珍しくはない。
 神功皇后伝説[#「神功皇后伝説」は見出し] 庄内の中ではないが、近所の象潟の珍伝説を聞いたままに書きとめておく。これも松田君のお話だ。象潟に皇后崎というのがあって、ここに皇后山蚶満寺がある。神功皇后袖掛松など、種々皇后に関する伝説があるというのだ。いくら海流の関係から南洋の玳瑁が漂着しても、まさかに皇后の御船がここに御着にはなるまいに、伝説の分布は恐ろしいものだと思った。安芸の厳島の南端にもコーゴ崎というのがある。九州・中国・四国などによくあるコーゴ石と同じく、共通の意味を持った名であろうが、その地名から昔の賢い人が、いろいろのことをいい出すのだ。
 花嫁御[#「花嫁御」は見出し] 自分が庄内へ這入った十一月二十日という日は、吉日であったと見えて、汽車中でも、駅でも、折からの吹降りの中に、幾組もの嫁入りを見た。裾模様の着物に襦珍の丸帯という普通のいでたちだが、頭には島原の大夫に侍する禿《かむろ》の頭に挿しているような、ビラビラと纓絡の下った大きな銀簪を、額髪の上にクルリと回して、いかにも花嫁御らしい気分のするいでたちだった。藤島町にも婿取りがあった。嫁入りや婿入りの行列を子供らが道に擁して、縄を張って通行を妨げる。嫁付婿付のものが前もって用意した小銭を投げ与えると、子供らは先を争うてそれを拾って道をあける。戦国時代の土豪らが勝手に関所を設けて、旅客や商品に関銭と称する通行税を課したようなものだ。弱いものいじめの風習が今も僻遠の地方にはこんな形で遺っている。

 このほか庄内滞在中に見聞したうちで、書きとめておきたいものはまだまだ少くはないが、さまではとて略することにする。(十一年十二月十二日)

   桃生郡地方は古えの日高見の国

 二十三日(大正十一年十一月)の夜、庄内から東北線小牛田駅について、宮城女師教諭の栗田茂治君の案内によって、駅前の小牛田ホテルという立派な名前の宿屋に一泊した。隔ての襖《ふすま》や障子のたて合せの大きなすき間から吹き込む寒風は、とても火鉢の炭火くらいでは防ぎ切れぬ。隣の部屋には土地の若い衆の宴会があって、騒々しいこと夥しい。宿の女中さんは主人の平素の訓誨が行き届いていると見えて、いやしくも客に対して笑顔を見せるようなことがあってはならぬという態度をしておられる。それでもどうにか無事に一夜を過ごして、翌朝小牛田駅へ来てみると、仙台から女師訓導の小島甲午郎君が見えておられる。桃生地方の調査に同行したいとのことだ。一同石巻線に乗りかえて、涌谷駅を過ぎ、小さいトンネルで一つの丘陵を越えると、汽車は広淵沼の平地に出る。これから先が目的の桃生郡の部内だ。
 涌谷町は今は遠田郡内で、箆嶽《のだけ》の西南麓にある。もとは小田郡の中で、天平の昔、聖武天皇が奈良に大仏を造営遊ばされた時に、天がこれに感じて宝を降され、始めてわが国で黄金を発見してこれを献じたので、立派に大仏の荘厳が出来上ったという場所だ。今に涌谷町の後方には黄金迫という地があり、式内黄金山神社もある。後に小田郡廃して遠田郡に併されたのだ。
 遠田郡は天平二年正月に田夷《たひな》村の蝦夷らが、王化に浴して請うて新たに一郡を建て、公民の籍に編入せられたものだ。野田夷とは山夷に対するの語で、すでに邦俗に化して狩猟野生の風を改め、田野にあって耕作に従事していた熟蝦夷すなわち俘囚である。遠田郡の郡領|遠田公《とおだのきみ》はこの俘囚の種で、もと田夷と呼ばれていたのであった。その部下なるいわゆる田夷村は、おそらく今の小牛田以西の平地にあったのであろう。しかして当時はいまだ小田郡・桃生郡などは建てられず、なお夷地として遺されていたものらしい。この方面の経営は比較的おそかった。神亀五年に陸奥方面では名取郡にあった丹取《にとり》軍団を玉造に移し、天平五年に出羽方面では出羽柵を秋田にうつし、天平九年に玉作と秋田とを連絡すべく雄勝の道を開くほどにも夷地の経営が進捗した後にまで、今の桃生郡から牡鹿郡・本吉郡・気仙郡一帯の山地には、いまだ王化に服せぬ蝦夷の族が比較的永く遺り、いわゆる海道の蝦夷は久しく王師を悩ましたものであった。
 桃生郡はもと牡鹿郡の一部で、この方面では牡鹿郡が一番早く置かれたのである。けだし王化は海によって石巻方面から進入したものらしい、今石巻の南方日和山下に鹿島御児《かしまのみこ》神社がある。貞観八年の常陸国鹿島神宮司の解に、奧州における鹿島大神の苗裔三十八社といううちに、牡鹿郡一社とあるものすなわちこれで、当時の征夷の軍は軍神として往々鹿島の神の御子神を奉じて行ったものらしい。牡鹿の柵の名は天平九年に初見している。このころ陸奥方面には多賀城以外、玉造・新田・牡鹿・色麻《しかま》等の諸柵の名が見える。新田は今登米郡の西部にその名を留めている。もちろんこのほかにも諸柵の存在はこれを認めるが、その名は『続日本紀』に漏れていて明かでない。桃生の名は天平宝字元年に初見し、宝字四年条には、牡鹿郡において大河に跨り峻嶺を凌ぎ、桃生柵を造って賊の肝胆を奪うの文がある。当時なおこの地方が牡鹿郡の中であって、王師は石巻方面から漸次北進し、もって海道蝦夷の巣窟たる東方山地を圧迫した状が察せられる。降って宝亀五年に至り、海道の蝦夷蜂起して橋を焼き、道を塞ぎて往来を絶ち、桃生城を侵してその西郭を破るとある。また遠山村は地険岨にして夷俘の憑る所、歴代の諸将いまだかつて進討せずともある。この遠山はすなわち登米《とよな》と同語だと解せられているが、よしや語原は別にしても、その地が桃生から本吉・登米の山地に渉った、海道蝦夷の一根拠であったに相違ない。かくのごとくにしてこれらの地方は、比較的久しく蝦夷の巣窟であったのだ。すなわち日高見の国であったのだ。
 日高見国のことは前号および本号の両号に渉って詳説しておいた通り、もと一般に蝦夷の国の義ではあるが、この方面が比較的後までも化外の地として遺されたので、その日高見の名が邦人の口に伝唱せられ、後までも桃生郡に日高見神社の名も唱えられるに至ったものであろう。
 桃生郡の西なる遠田郡が、もと田夷の郡であったことはすでに述べた。これもかつては日高見の国の一部として認められていたのであろうが、その住民比較的早く熟化して王土となったのだ。またその西南の志太郡の名はもと「ヒダ」で、『常陸風土記』に常陸の信太《しだ》郡は古えの日高見国なりとあるがごとく、ここにも日高見の名が遺って後にシダと訛ったのであろうとのことは、別項日高見国の考証に述べておいた。宝亀十一年に蝦夷の大叛乱があって、その乱は延暦年間征夷大将軍坂上田村麻呂征討のころまで継続し、王土は少からずいったん夷地に没した。延暦八年八月の「勅」に、「牡鹿・小田・新田・長岡・志太・玉造・富田・色麻《しかま》・加美・黒川等一十箇郡は賊と居を接す」とある。長岡郡は後世栗原・遠田二郡に入り、富田郡は延暦十八年に色麻郡に合して、後に相ともに賀美郡に入ったのであるから、当時の形勢今の登米郡・桃生郡などは、たいてい夷の略するところとなっていたものと察せられる。延暦十八年に富田郡を色麻郡に合し、讃馬《さぬま》郡(今の登米郡佐沼地方)を新田郡に合したとあるのも、もはや一郡として存立することが出来なくなったためであったに相違ない。かくのごとくにしてこの桃生郡以東の地方は、比較的後までも日高見国として遺されたのだ。

   佳景山の寨址

 一行|前谷地《まえやち》駅に到着した時に、今回の東道の主人たるべき北村の斎藤荘次郎君の一行が迎えに来られて、ともに佳景山《かけやま》駅に導かれた。駅は広淵沼の東岸に連亘せる欠山《かけやま》丘陵の北端にある。駅南、丘陵の端に一の寨址がある。一行榛莽を披きつつ踏査をする。これは東北地方にその例多き館址《たてあと》で、まさに北海道に見るアイヌの旧城寨たるチャシと同一型式のものだ。すなわち丘端の頂上を平げて、ここに寨主の居宅があったらしく、やや下った所に段地を設けてある。そしてこの欠山の寨には、その段地の外縁に低い土塁の址までが見える。当時はそれに隠れて弓を射たり、石を投げたりしたものであろう。館から南は須江村字沢田まで一と続きの丘陵ではあるが、その北端から約四町の所にくびれがあって、地形おのずから中断し、西南には広淵沼が広くたたえ、東から北西の方は一帯の平地で、東北に北上の流れがあり、きわめて要害の地を占めている。その東北麓の村落を中山という。けだしこの欠山丘陵は、広淵沼を夾んで西の方北村の山地に対し、また東北は桃生郡東部の山地に向って、まさにその中間にある孤立の丘陵であるから、それでもと中山の名を得ていたのであろう。しかしてこの寨は延暦二十三年正月に「武蔵・上総・下総・常陸・上野・下野・陸奥等の国、糒一万四千三百十五斛、米九千六百八十五斛を、陸奥国小田郡中山柵に運ぶ、蝦夷を征せんが為なり」と『日本後紀』にある、その中山柵であろうとの説があるそうな。この地今は桃生郡に属しているが、今の遠田郡の東部がもと小田郡であったのだから、その城東の方北上川にまで及んで、広淵沼一帯の地はもと小田郡の中であったと言われないこともなかろう。また今の登米郡の西南部に当り、遠田郡の山地と広い低湿の谷地《やち》を夾んで、中津山と呼ばれる低い丘陵地がある。あるいはこれが中山柵址だとの説もあるが、この低湿の谷地はもとは大きな沼沢であったらしく、これを夾んでその北にまで小田郡の地が及んでいたとは思われぬから、これはおそらく問題にはなるまい。
 今一ヵ所、今の桃生郡内で北上川の東岸に当り、中津山村というのがある。ここには峰と呼ばれる孤立の丘陵があって、その西麓には館下という字まで遺り、これまた中山柵址の一候補地として認められているらしい。これは当時の北上川の流路が果してどこであったかを調査せねば明かならぬ問題ではあるが、いずれにしてもこの地は川の東であったらしく、したがって今の中津山村は、小田郡に属したと見んよりは、むしろ桃生郡の域内であったらしく考えられることから思うと、これもいわゆる小田郡の中山柵には当らぬものかと解せられる。当時大量の米や糒を貯蔵したのは、その明言するごとく征夷のためであって、いわゆる海道の蝦夷を征する軍士の糧食の準備であったとしてみれば、そしてそれが小田郡の中であったとしてみれば、この三つの中山または中津山のうちでは、今見た欠山の寨が一番条件に合っているらしく思われる。糒一万四千三百十五斛、米九千六百八十五斛は、一万人の兵士約五ヵ月間の食糧である。もって当時の征夷の規模の一斑を察することが出来よう。
(つづく)



底本:『喜田貞吉著作集 第一二巻 斉東史話・紀行文』平凡社
   1980(昭和55)年8月25日 初版第1刷発行
初出:『社会史研究』第九巻第一、二号
   1923(大正12)年1、2月
入力:しだひろし
校正:
xxxx年xx月xx日作成
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*地名

  • [北海道]
  • 十勝 とかち (1) 北海道もと11カ国の一つ。1869年(明治2)国郡制設定により成立。現在の十勝支庁の管轄地域。中央から南部に十勝平野が展開、北部は大雪山国立公園。(2) 北海道東南部の支庁。帯広市・音更町・士幌町など19市町村。
  • メモロフト 村名。芽室太。メモロ村。現、十勝支庁河西郡芽室町。
  • チャシコツ
  • -----------------------------------
  • [秋田県]
  • 秋田城 あきたじょう (1) 奈良・平安時代、出羽北部の蝦夷に備えるために、733年(天平5)出羽柵を移して現秋田市寺内の高清水岡に築かれた城。今は土塁の一部などが残存する。(2) 佐竹氏の居城。現、秋田市千秋公園。久保田城。矢留城。
  • 象潟 きさかた 秋田県南西部の海岸、由利郡(現、にかほ市)鳥海山の北西麓にあった潟湖。東西20町余、南北30町余で、湖畔に蚶満寺(円仁の草創)があり、九十九島・八十八潟の景勝の地で松島と並称されたが、1804年(文化1)の地震で地盤が隆起して消失。(歌枕)
  • 皇后崎
  • 皇后山 こうごうさん? 蚶満寺の山号。
  • 蚶満寺 かんまんじ 秋田県にかほ市象潟に所在する曹洞宗の寺院。山号は皇宮山、本尊は釈迦牟尼仏。古くから文人墨客が訪れた名刹として知られ、元禄2年(1689年)には松尾芭蕉が訪れ、『奥の細道』に紹介した。干満珠寺。
  • 松ヶ崎 まつがさき 村名。現、本荘市松ヶ崎。衣川の河口部で日本海に面する。
  • 山北地方 → 仙北
  • 仙北郡 せんぼくぐん 羽後国および秋田県の東部に位置する郡。古い資料では「山北」「仙福」「仙乏」と表記している事もある。
  • 御崎峠 → 三崎峠か
  • 三崎峠 みさきとうげ 現、由利郡象潟町小砂川字三崎山。小砂川の南約4キロ、秋田・山形県境にある。
  • 仁賀保 にかぷ → 仁賀保町
  • 仁賀保町 にかほまち 秋田県南部に位置する日本海に面していた町。2005年10月1日に由利郡金浦町、象潟町と合併し、にかほ市となった。
  • 由利郡 ゆりぐん 羽後国および秋田県の南西部に位置していた郡。成立当初の郡域は、現在の由利本荘市・にかほ市と秋田市の一部に相当する。
  • 塩越 しおこし 村名・湊名。現、由利郡象潟町。
  • 雄勝郡 おがちぐん 羽後国および秋田県の南東部に位置する郡。 羽後町・ 東成瀬村の1町・1村を含む。
  • 雄勝柵 おがちのき 古代、蝦夷に備えて、雄勝峠の北、今の秋田県羽後町の辺に置いた城柵。733年(天平5)に郡を設置、758年(天平宝字2)から築城、翌年完成。雄勝城。
  • -----------------------------------
  • [山形県]
  • 庄内 しょうない 山形県北西部、最上川下流の日本海に臨む地方。米の産地として知られる。中心都市は酒田市・鶴岡市。
  • 飽海郡 あくみぐん 羽後国および山形県の郡。県の北西部に位置する。
  • 鳥海山 ちょうかいさん 秋田・山形県境に位置する二重式成層火山。山頂は旧火山の笙ガ岳(1635メートル)などと新火山の新山(2236メートル)とから成る。中央火口丘は鈍円錐形で、火口には鳥海湖を形成。出羽富士。
  • 高瀬村 たかせむら 現、遊佐町。
  • 神矢田 かみやだ 現、遊佐町北目、神矢田。縄文時代中期末から弥生時代初頭にかけての庄内地方北部の拠点的集落跡が発掘。昭和45(1970)より調査実施。
  • 羅漢岩
  • 海禅寺 かいぜんじ 曹洞宗松河山。現、遊佐町吹浦。慶長元年、永泉寺17世正禅海安が建立。
  • 神宮寺西浜 じんぐうじ にしはま? 現、遊佐町吹浦遺跡か。遺跡の北北西には大物忌神社吹浦口之宮と神宮寺跡がある。
  • 大物忌神社 おおものいみ じんじゃ 山形県北端の鳥海山を神体とする元国幣中社。祭神は大物忌神。山頂に本殿、麓の飽海郡遊佐町吹浦と同町蕨岡に里宮がある。出羽国一の宮。
  • 吹浦 ふくら 村名、現、遊佐町吹浦。菅野村の北西にあり、吹浦川河口右岸に位置し、庄内海岸に面している。内郷街道と浜街道が当村で合流する。
  • 北平田村 きたひらたむら? 村名。現、酒田市。旧、平田郷地区。
  • 布目 ぬのめ 大字。現、酒田市布目。
  • 余目 あまるめ 町名。山形県庄内地方の中央に位置した町。農業が主産業の町。2005年(平成17年)7月1日に立川町と合併し庄内町となった。
  • 本楯 もとたて 村名。現、酒田市本楯。
  • 新田目 あらため 館名。新田目城跡か。現、酒田市本楯。
  • 城輪 きのわ 現、酒田市城輪。酒田市街地より北東8kmの庄内平野北部水田地帯にある。標高11〜13m。
  • 木ノ内(城内) きのうち 村名。現、酒田市城輪。遺跡外郭の西側に位置する。
  • 門屋
  • 政所 まんどころ 村名。現、八幡町政所。
  • 門田 かどた 字名。現、酒田市門田。余目町久田(きゅうでん)。
  • 郡会議事堂
  • 夷浄福寺 いじょうふくじ → 浄福寺
  • 浄福寺 じょうふくじ 現、酒田市中央西町。亀崎山と号。真宗大谷派の寺院。創始の明順(肥後国深川城主、菊池氏)は文亀元(1501)上洛し、9世実如から東奥伝道の偉績により寺名に夷の字を冠され、夷浄福寺と号した。
  • 大信寺 だいしんじ 真宗大谷派。現、酒田市寺町。清涼山大信寺。
  • 酒田町 さかたまち 現、酒田市本町ほか。東側の亀ヶ崎城下とともに酒田町・亀ヶ崎城下・亀ヶ崎町とよばれるが、行政的には酒田湊町部分が酒田町組とされる。
  • 飛島 とびしま 山形県酒田市に属する、日本海の沖合30キロメートルにある小島。面積2.7平方キロメートル。近世、北国廻船の重要寄港地。ウミネコ繁殖地として知られる。
  • 浦村 うらむら 村名。現、酒田市飛島中村。飛島の東側にある。
  • 藤島の館址 ふじしまのたてあと 現、東田川郡藤島町藤島、字古楯跡にある。藤島城跡か。平城跡。現在、八幡神社、県立庄内農業高校がある。
  • 東田川郡 ひがしたがわぐん 山形県の郡。明治11(1878)の郡区町村編制法により、田川郡が東西に分割されて成立。現在、西北部は酒田市・鶴岡市に接する。藤島村(現、藤島町)に郡役所が置かれた。
  • 藤島町 ふじしままち かつて山形県東田川郡におかれていた町。2005年10月1日に、鶴岡市、羽黒町、櫛引町、朝日村、温海町と合併し、鶴岡市となった。
  • 八幡宮の森 → 八幡森か
  • 八幡森 はちまんもり 墳墓の名。現、飽海郡平田町山谷、八幡森。中世火葬墳墓。天保12(1841)に発掘され、阿部正己によって大正10(1921)考古学雑誌に紹介された。
  • 藤島城 ふじしまじょう 現、鶴岡市藤島町藤島。藤島のほぼ中央、字古楯跡にある平城跡。
  • 出羽郡 いではぐん 越後国(その後出羽国庄内地方)にかつて存在した郡。和銅元年(708)、越後国の一部に設立。和銅5年、出羽郡を中心として出羽国が建国。その後の「延喜式」では出羽郡、飽海郡、田川郡の3郡に分かれている。中世以降田川郡に編入され消滅。
  • 出羽柵 でわのさく 奈良時代、中央政府の拠点として、今の山形県庄内地方に置かれた城柵。のち今の秋田市内に移され秋田城となる。
  • 古郡 ふるこおり 村名。東田川郡。現、藤島町古郡。藤島村の南に位置し、西を藤島川が北流する。道橋付近に古代出羽郡衙が置かれたと考えられているが、考古学上は未検出。
  • 田川郡 たがわぐん 羽前国(旧出羽国の南部)の郡、多川郡、田河郡ともいう。和銅5年(712年)に越後国から出羽国が分立した際に出羽郡の南部が分立して成立した。中世末期には東部に櫛引郡が成立していたが後に吸収した。出羽国が分割された明治以降は羽前国に属し、その後酒田県、鶴岡県、山形県の管轄下に置かれた。その後、東田川郡と西田川郡に分割され消滅した。新・鶴岡市大半も旧田川郡である。
  • 由豆佐乃売神 → 由豆佐売神か
  • 由豆佐売神 ゆずさめのかみ 由豆佐売神社は、山形県鶴岡市。
  • 松嶺 まつみね 現、飽海郡松山町。江戸時代の松山藩。松山城下。
  • 鶴岡 つるおか 山形県北西部、庄内平野の中心の市。もと酒井氏14万石の城下町。羽二重などの絹織物、第二次大戦後は農機具・清酒などの生産が盛ん。人口14万2千。旧称、荘内。古名、つるがおか。
  • 西田川郡 にしたがわぐん 山形県にあった郡。消滅直前となる2005年9月30日の時点で、温海町の1町のみで構成されていた。
  • 大山町 おおやままち? 現、鶴岡市大山川流域地区。旧、大山村。昭和38年、鶴岡市に編入となる。
  • 大山 おおやま 鶴岡市西部。高館山の東南山麓に位置する。旧村名。もとは尾浦(大浦)といい、尾浦城は武藤氏の庄内支配の本拠。のちに慶長8年、最上義光により大山城と改称。
  • 月山 がっさん 山形県中部にある楯状火山。標高1984メートル。頂上に月山神社の社殿がある。湯殿山・羽黒山と共に出羽三山の一つ。犂牛山。
  • 山形 やまがた (2) 山形県東部、山形盆地の南東部の市。県庁所在地。もと最上(もがみ)と称し、出羽の要地。江戸時代、保科・松平・奥平・堀田・秋元・水野氏らの城下町。市の南東に蔵王山・蔵王温泉がある。人口25万6千。
  • 出羽国分寺 でわ こくぶんじ (1) 現、柏山寺(はくさんじ)。山形市薬師町二丁目。もとは鮭川左岸の薬師長嶺にあったとする説もあり、最上義光が鮭延城(現、最上郡真室川町)の鮭延氏を降し、国分寺と柏山寺を山形に移したともいう。また、斯波兼頼が山形入封のおり、庄内から移したともいわれる。(2) 現、飽海郡八幡町堂の前遺跡。酒田市の城輪柵遺跡の外郭東辺より1.2キロ東の水田中にある。城輪柵に国府が置かれた平安時代の国分僧寺に比定される。昭和48(1973)より発掘調査。(3) 現、酒田市城輪柵遺跡。遺跡の中心部で古くから古瓦や土器片が出土したため、出羽国分寺に擬定する説があったが、昭和6(1931)から7年にかけて本格的調査を実施。(A) 征夷の拠点としての出羽柵または軍事的城柵跡説(上田三平)、(B) 出羽柵がのちに出羽国分寺になったとする説(阿部正己・喜田貞吉)、(C) 奈良時代末期から平安時代前期の出羽国府説(加藤孝・高橋富雄)などが唱えられた。
  • 最上郡 もがみぐん 出羽国・羽前国・山形県の郡。 古代の最上郡は、後の最上郡と村山郡の双方を包含。仁和2年(886年)、最上郡は北の村山郡と南の最上郡の南北2郡に分割。現在の最上郡に当たるのは村山郡のほう。 江戸時代初期、村山郡と最上郡とが入れ替えられ、現在のように北が最上郡、南が村山郡となった。
  • 済苦院 さいくいん 天長10(833)武蔵国に置かれた悲田所(院)に類して諸国諸寺に設けられた飢病者を救済するところか。小野宗成(当時、出羽守か)による申請。所在地は鮭川(最上郡)説と千手堂(山形市)説があるが確証はない。(『県大百科』
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  • [宮城県]
  • 日高見国 ひだかみのくに 古代の蝦夷地の一部。北上川の下流地方、すなわち仙台平野に比定。
  • 陸奥 みちのく (ミチノオクの約)磐城・岩代・陸前・陸中・陸奥5カ国の古称。おく。むつ。みちのくに。奥州。
  • 陸奥 むつ (1) みちのく。(2) 旧国名。1869年(明治元年12月)磐城・岩代・陸前・陸中・陸奥に分割。分割後の陸奥は、大部分は今の青森県、一部は岩手県に属する。(3) (「むつ」と書く)青森県北東部、下北半島の市。霊場恐山がある。人口6万4千。
  • 宮城野 みやぎの 仙台市の東部にある平野。昔は萩など秋草の名所として有名。(歌枕)
  • 多賀城 たがじょう (1) 奈良時代、蝦夷に備えて、現在の宮城県多賀城市市川に築かれた城柵。東北地方経営の拠点として国府・鎮守府を置く。政庁を中心とした内郭や方1キロメートル余の外郭の土塁が残る。城跡は国の特別史跡。(2) 宮城県中部、仙台市の北東にある市。仙台港の開港後、急速に工業化が進展。人口6万3千。
  • 名取郡 なとりぐん 陸前国(旧陸奥国中部)。宮城県にかつて存在した郡。1988年(昭和63年)3月1日 秋保町が仙台市に編入され、名取郡は消滅。
  • 黒塚 くろづか (1) 福島県二本松市の東方、安達原にある古跡。平兼盛の歌に基づく鬼女伝説に名高い。(2) 能。「安達ヶ原」に同じ。
  • 安達ヶ原 あだちがはら (1) 福島県安達郡の安達太良山東麓の原野。鬼がこもったと伝えた。(2) 能。安達ヶ原黒塚の鬼女の家に宿泊した山伏が、禁じられた寝室を覗いて害されそうになるが、遂に祈り伏せる。黒塚。(3) 浄瑠璃「奥州安達原」の略称。(4) 常磐津・長唄。常磐津は (3) の3段目の改作。長唄は (1) による歌詞で、1870年(明治3)2世杵屋勝三郎作曲。
  • 丹取 にとり 郡名。『和名抄』に記載ながなく、郡域も旧玉造郡を中心とした広大な範囲が考えられるが不詳。
  • 桃生郡 ものうぐん 宮城県(陸前国)にあった郡。2005年4月1日、矢本町・鳴瀬町が合併して東松島市に、河北町・雄勝町・河南町・桃生町・北上町が牡鹿郡牡鹿町および石巻市と合併して新しい石巻市になったため消滅した。
  • 日高見神社 ひだかみ じんじゃ 現、桃生郡桃生町太田。神社は字拾貫にある。
  • 桃生城 → 桃生柵
  • 桃生柵 ものうのき 奈良時代、陸奥の蝦夷に備えて築かれた城柵。所在地は宮城県石巻市飯野とする説が有力。桃生城。
  • 遠山村 とおやまむら 蝦夷の拠点。『続日本紀』宝亀5(774)10月4日条、初めて政府の支配下に入ったとある。登米郡の地とする説があるが確証はない。桃生郡の奥と考える説もある。
  • 北村 きたむら 村名。現、桃生郡河南町北村。広淵村の西に位置する。
  • 前谷地駅 まえやちえき 宮城県石巻市前谷地中埣にある東日本旅客鉄道(JR東日本)の駅。
  • 欠山丘陵 かけやま
  • 須江村 すえむら 現、桃生郡河南町須江。
  • 沢田 さわだ 字名。
  • 北上川 きたかみがわ 岩手県北部の七時雨山付近に発し、奥羽山脈と北上高地の間を南流し、同県中央部、宮城県北東部を貫流して追波湾に注ぐ川。石巻湾に直流する流路は旧北上川と称する。長さ249キロメートル。
  • 中山 村落。
  • 中山柵 なかやまのき? 現、登米郡米山町の中津山の地をその所在地とする説が有力。柵は8世紀末には造営。
  • 中津山 なかつやま  宮城県石巻市桃生町中津山。
  • 中津山村 なかつやまむら 現、桃生町中津山。
  • 峰 みね? 丘陵。
  • 館下 たてした 字名。
  • 遠田郡 とおだぐん 宮城県(陸前国)の郡。 涌谷町・美里町を含む。
  • 小牛田 こごた 宮城県の北部遠田郡に位置していた町。町を南北に縦断する東北本線から、陸羽東線、石巻線が分岐し、鉄道の町として栄えてきた。2006年1月1日に、南郷町と合併し、美里町となった。
  • 広淵沼 ひろぶちぬま? 現、桃生郡河南町広淵。
  • 箆岳 のだけ → 箟岳山・篦岳山か
  • 箟岳山 ののだけ 篦岳山か。現、遠田郡涌谷町篦岳。篦岳丘陵の東方にある標高232mの山。
  • 小田郡 おだぐん 現在の遠田郡の北方、涌谷町・小牛田町を含む一帯と推定される。
  • 涌谷町 わくやちょう 宮城県北部の遠田郡に位置し、大崎地方に属する町。日本で初めて金が産出したことで知られる。宮城県北部に位置する。町のほぼ中央に箟岳山(ののだけ山)があり、周囲は川沿いの平野。
  • 黄金迫 こがねはざま 黄金迫丁。現、遠田郡涌谷町涌谷。
  • 黄金山神社 こがねやま じんじゃ 宮城県遠田郡涌谷町黄金迫に鎮座する神社。日本で初めて金を産出した場所である。延喜式神名帳の「陸奥国小田郡 黄金山神社」に比定される。神社の祭神は鉱山の神の金山毘古神で、現在は商売繁盛の神様として信仰されている。例祭は9月15日。
  • 田夷村 たひな
  • 牡鹿郡 おしかぐん 宮城県(陸前国)の郡。女川町の一町を含む。
  • 本吉郡 もとよしぐん 宮城県(陸前国)の郡。本吉町・南三陸町の2町を含む。
  • 気仙郡 けせんぐん 岩手県南東部(陸前国北東部)に位置する郡。住田町の一町を含む。古代に陸奥国気仙郡が置かれた。これは現在の宮城県北東部および岩手県南東部にまたがるものであり、現在の本吉郡を含むものであった。
  • 石巻 いしのまき 宮城県北東部の市。北上川河口に位置し、仙台藩の米の積出港として発達。近年、河口の西方に工業港を造成。古名、伊寺水門・牡鹿湊。人口16万7千。
  • 日和山 ひよりやま 宮城県石巻市にある低山である。標高56.4メートル。旧北上川の西岸、石巻の町の歴史的中心の至近にある。平安時代に遡る鹿島御児神社が鎮座する。
  • 鹿島御児神社 かしまのみこ じんじゃ 現、石巻日和山山頂に鎮座する。
  • 牡鹿柵 おしかのき 『続日本紀』天平勝宝5(753)6月8日条に初出する牡鹿郡の建置に先立つ天平五柵の一つ。造営時期やその位置は不明。石巻市域の南西部に隣接する桃生郡矢本町赤井遺跡が柵およびのちの郡衙跡地として有力視されている。
  • 玉造柵 たまつくりのき? (1) 現、古川市大崎にある名生館遺跡、(2) 加美郡中新田町の城生柵跡や菜切谷廃寺などの説がある。
  • 新田柵 にったのき 天平五柵の一つで、律令国家によって大崎平野の北東部を治めるため造営された城柵。所在地については(1) 登米郡迫町新田説と、(2) 遠田郡田尻町の八幡・小松・大嶺説がある。
  • 色麻柵 しかまのき 現、中新田町の城生遺跡は、同柵かあるいは色麻郡衙跡とみられるが確証はない。
  • 登米郡 とめぐん 宮城県(陸前国)にあった郡。人口86,832人、面積468.24 km^2(2003年)。郡域は全域が現在の登米市に含まれている。
  • 讃馬郡 さぬまぐん 今の登米郡佐沼地方。讃馬郷か。『日本後紀』延暦18(799)3月17日条に新田郡に讃馬郡を合併するとある。この史料以外には見えない。
  • 志太郡 しだぐん 志田郡か。宮城県中央部に位置する。『続日本紀』延暦8(789)8月30日条に「志田」とある。『和名抄』『延喜式和名帳』に「志太郡」とある。
  • 新田郡 にいたぐん 陸奥国(後の陸前国)にかつて存在した郡。八世紀初めに奥十郡の北端の郡として設立された。延暦18年、東隣の讃馬郡を併せた。室町期に栗原郡に編入された。
  • 長岡郡 ながおかぐん 現在の古川市・遠田郡田尻町の一部か。
  • 玉造郡 たまつくりぐん 宮城県(陸前国)にあった郡。消滅直前となる2006年3月の時点で岩出山町・鳴子町の2町を含んでいた。2町が古川市、遠田郡田尻町、志田郡鹿島台町・三本木町・松山町と合併し、大崎市となったため消滅した。
  • 富田郡 とみたぐん 8世紀の日本の陸奥国(後の陸前国、現在の宮城県中部の内陸)に置かれた郡の一つ。728年頃に設置され、799年に色麻郡に合併して消滅した。位置はその後の色麻郡の一部だが、同郡のどの部分にあたるは不明。色麻郡は後に賀美郡の一部となった。
  • 色麻郡 しかまぐん 現在の加美郡色麻町と中新田町の一部を含む地域とされる。
  • 加美郡 かみぐん 奈良時代、続日本紀に賀美郡として記される。その後色麻郡を併せ、江戸時代に賀美郡から加美郡に改まった。
  • 黒川郡 くろかわぐん 宮城県(陸前国)の郡。北の大松沢丘陵と南の松島丘陵に挟まれた吉田川水系による平地が歴史的に主な可住地となっており、水田が拓かれている。大郷町以外の2町1村の町村役場がある中心部は、奥州街道沿いの微高地にあり、旧宿場町を起源とする。
  • 栗原 くりはら 宮城県北西部の市。東部にラムサール条約湿地の伊豆沼・内沼がある。中心部の築館は奥州街道の宿場町。人口8万。
  • [常陸]
  • 鹿島大神 → 鹿島神
  • 鹿島神 かしまのかみ 武甕槌神(たけみかずちのかみ)。
  • 鹿島神宮 かしま じんぐう 茨城県鹿嶋市宮中にある元官幣大社。祭神は武甕槌神。経津主神・天児屋根命を配祀。古来軍神として武人の尊信が厚い。常陸国一の宮。
  • [能登]
  • [大阪]
  • 石山本願寺 いしやま ほんがんじ 石山(大坂城址旧本丸の地の古称)の地にあった浄土真宗の本山。1496年(明応5)蓮如の開創。1532年(天文1)孫の証如が本山とし、堅固な要塞に整え、70年(元亀1)以降の織田信長との合戦の拠点となったが、80年(天正8)開城の際の火災で廃滅。石山御堂。大坂御坊。
  • [近江]
  • 滋賀 しが 近畿地方の北東部の県。近江国を管轄。県庁所在地は大津市。古くは「志賀」とも書いた。面積4017平方キロメートル。人口138万。全13市。
  • 志賀郡 → 滋賀郡
  • 滋賀郡 しがぐん 近江国・滋賀県にあった郡。2006年3月20日に志賀町が大津市に編入したため消滅した。
  • 竹生島 ちくぶしま 琵琶湖の北部にある島。周囲2キロメートル。樹木が繁茂し、風光絶佳。都久夫須麻神社(竹生島明神)・宝厳寺(竹生島観音)がある。滋賀県長浜市に属する。
  • [京都]
  • 悲田院 ひでんいん 貧窮者・病者・孤児などを救うための施設。聖徳太子が難波に建てたというが確かでなく、723年(養老7)興福寺に、また、730年(天平2)光明皇后が施薬院と共に平城京に設置したと伝える。その後平安京や諸国にも置かれたらしく、10世紀ごろまで存続した。悲田寺。悲田所。
  • [紀伊]
  • 雑賀 さいか/さいが 和歌山市南西部の地名。16世紀後半に一向宗の衆徒が織田信長・豊臣秀吉に対抗して結集した雑賀一揆の中心地。第二次世界大戦後、海岸は埋め立てられ、和歌山南港が造成された。(日本史)
  • [奈良]
  • 多武峰・談武峰・田武峰・塔の峰 とうのみね 奈良盆地南東端にある山。標高608メートル。一説に倉橋山といい、藤原鎌足が山上の藤樹の蔭で中大兄皇子と蘇我氏討伐の謀議を凝らしたので、談山と称したという。山上に鎌足を祀る談山神社がある。だんざん。
  • 田身峰 たむのみね → 多武峰
  • [和歌山県]
  • 高野山 こうやさん (1) 和歌山県北東部にある、千メートル前後の山に囲まれた真言宗の霊地。816年(弘仁7)空海が真言密教の根本道場として下賜を受け、のち真言宗の総本山金剛峯寺を創建。(2) 金剛峯寺の俗称。
  • 宝寿院 ほうじゅいん 現、伊都郡高野町。正智院の西南、小高く石垣を築いた台地上にある。
  • [伊勢]
  • 古市 ふるいち 三重県伊勢市の地名。参宮街道の、外宮・内宮の中間にある古市丘陵を意味する場合が多いが、古市町のみを意味する場合がある。江戸幕府非公認ながら、江戸の吉原、京都の島原と並んで三大遊郭、あるいはさらに大阪の新町、長崎の丸山をたして五大遊郭の一つに数えられた。
  • [周防]
  • 佐婆 さば → 佐波郡か
  • 佐波郡 さばぐん 山口県にあった郡。県のほぼ中央部。南方が防府市、東南の一部が新南陽市。
  • [出雲] いずも (1) 旧国名。今の島根県の東部。雲州。(2) 島根県北東部、出雲平野の中心にある市。室町時代以降市場町として発展。紡績・酒造などの工業が発達。人口14万6千。
  • 出雲大社 いずも たいしゃ 島根県出雲市大社町杵築東にある元官幣大社。祭神は大国主命。天之御中主神・高皇産霊神・神皇産霊神・宇麻志阿志軻備比古遅命・天之常立神を配祀。社殿は大社造と称し、日本最古の神社建築の様式。出雲国一の宮。いずものおおやしろ。杵築大社。
  • 簸川郡 ひのかわ/ひかわぐん 島根県の郡。斐川町の1町を含む。明治29年(1896年)4月1日 神門郡、楯縫郡、出雲郡が合併して簸川郡となった。
  • [阿波]
  • 海部郡 かいふぐん 徳島県(阿波国)の郡。牟岐町・美波町・海陽町の3町を含む。
  • 阿倍村 あぶむら → 阿部村か
  • 阿部村 あぶむら 村名。海部郡由岐町阿部。浦名。
  • [土佐]
  • 浮津 うきつ 村名。現、室戸市浮津。
  • [安芸]
  • 厳島 いつくしま 広島湾南西部の島。日本三景の一つ。面積約30平方キロメートル。その最高所は、標高530メートルの弥山。廿日市市に属し島全体が原始林で覆われる。北岸に厳島神社と門前町がある。伊都岐島。宮島。
  • コーゴ崎
  • [薩隅] さつぐう 薩摩国と大隅国。
  • [中国]
  • 冀北 きほく 中国の冀州の北部。今の河北省の地。良馬を産するので有名。


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)『日本歴史地名大系』(平凡社)『山形県大百科事典』(山形放送、1983)。




*年表

  • 天武天皇一一(六八三) 越の蝦夷伊高岐那らが、俘人(熟蝦夷)七千戸をもって一郡となさんと乞いて許される。
  • 持統天皇三(六八九) 越の蝦夷の沙門道信に、仏像一躯、灌頂幡、鍾・鉢各一口、五色の綵各五尺、綿五屯、布一十端、鍬一十枚、鞍一具を賜わる。『日本紀』
  • 神亀五(七二八) 名取郡にあった丹取軍団を玉造に移す。
  • 天平(七二九〜七四九) 聖武天皇が奈良に大仏を造営あそばされたときに、天がこれに感じて宝をくだされ、小田郡涌谷の地にはじめてわが国で黄金を発見してこれを献じたという。
  • 天平二(七三〇)正月 田夷村の蝦夷らが、王化に浴して請うて新たに一郡(遠田郡)を建て、公民の籍に編入せられる。
  • 天平五(七三三) 出羽柵を秋田にうつす。
  • 天平九(七三七) 玉作と秋田とを連絡すべく雄勝の道を開く。
  • 天平九(七三七) 牡鹿の柵の名、初見。
  • 天平宝字元(七五七) 桃生の名、初見。
  • 宝字四(七六〇)条 牡鹿郡において大河にまたがり峻嶺をしのぎ、桃生柵を造って賊の肝胆を奪う。
  • 宝亀五(七七四) 海道の蝦夷蜂起して橋を焼き、道をふさぎて往来を絶ち、桃生城を侵してその西郭を破る。
  • 宝亀一一(七八〇) 蝦夷の大反乱。
  • 延暦年間(七八二〜八〇六) 乱は征夷大将軍坂上田村麻呂征討のころまで継続し、王土は少なからずいったん夷地に没した。
  • 延暦八(七八九)八月 「勅」、牡鹿・小田・新田・長岡・志太・玉造・富田・色麻・加美・黒川など一十箇郡は賊と居を接す。
  • 延暦十八(七九九) 富田郡は色麻郡に合わして、後に相ともに賀美郡に入る。讃馬郡(今の登米郡佐沼地方)を新田郡に合わす。
  • 延暦二十三(八〇四)正月 武蔵・上総・下総・常陸・上野・下野・陸奥などの国、糒一万四三一五斛、米九六八五斛を、陸奥国小田郡中山柵に運ぶ、蝦夷を征せんがためなり。『日本後紀』
  • 天長七(八三〇) 出羽国の俘囚(熟蝦夷)道公千前麿の精進をほめて、特に得度せしめる。
  • 天長七(八三〇)閏一二月 小野宗成、出羽国守として国府吏員増加のことを請う。
  • 承和六(八三九)条 田川郡西浜に石鏃降る。『続日本後紀』
  • 承和六(八三九)七月 鳥海山の大物忌神に従四位下の神階を授けたてまつり、封二戸を寄せたてまつる。
  • 承和七(八四〇)正月 藤原宮房、出羽国守に任ぜられる。
  • 貞観元(八五九) 秋田郡の俘囚道公宇夜古、道公宇奈岐の二人が、幼にして野心をすて、深くその異類たるを恥じ、仏法に帰依して苦しみて持戒を願い、これを得度せしめる。
  • 貞観八(八六六) 常陸国鹿島神宮司の解に、奥州における鹿島大神の苗裔三十八社といううちに、牡鹿郡一社とある。
  • 貞観一〇(八六八)四月 飽海郡の月山・大物忌両神社の前に石鏃六枚を降らす。
  • 元慶八(八八四)九月 飽海郡の海浜に石の鏃に似たるを降らす、その鋒みな南に向かう、陰陽寮の占に、かの国の憂応に兵賊・疾疫あるべしという。
  • 仁和元(八八五)一一月 出羽国秋田城中、および飽海郡神宮寺西浜に石鏃を降らす、陰陽寮言す、まさに凶狄の陰謀兵乱のことあるべし、神祇官言す、かの国飽海郡大物忌神・月山神、田川郡由豆佐乃売神ともにこの怪をなす、崇不敬にあり、勅して国宰をしてうやうやしく諸神をまつり、かねて警固を慎ましむ。
  • 仁和二年(八八六)四月 去る二月、出羽国飽海郡諸神社の辺りに石鏃を降らす、陰陽寮占うて言う、よろしく兵賊を警むべしと、よって出羽国に命じて警固を慎ましめられる。
  • 文明五(一四七三) 明順、本願寺第八世蓮如の命によって出羽・奥州・松前・蝦夷地を化導。
  • 文明七(一四七五) 明順、田川郡に浄福寺を建立。
  • 永禄(一五五八〜一五七〇)書写の高野山宝寿院蔵の『貞観政要格式目』には、エタを一に伯楽ともいうとある。
  • 天正八(一五八〇) 本願寺顕如上人(光佐)が、大阪の石山本願寺を織田信長に明け渡して、紀伊の雑賀に引退したさいに、全国の末寺門徒に旨を諭して、このさい本願寺のために奔走すべからざることを戒めたのに対して、長男教如上人(光寿)がそれに不服で、あいかわらず尽力を依頼した手紙。
  • 慶長八(一六〇三) 飛島からスルメの運上の受け取りを書いたの志村伊豆守光安の文書。
  • 文久五〔慶応元(一八六五)か。〕 松浦武四郎『東蝦夷日誌』。
  • 明治八(一八七五) 海禅寺の寛海、幕末から着手した吹浦の羅漢岩が開眼。
  • 大正四(一九一五) 喜田、中尊寺講演会に臨席。陸奥の国分寺・国分尼寺へ訪問。
  • 大正一〇(一九二一) 象潟に玳瑁、漂着。
  • 大正一一(一九二二)一一月二三日 夜、庄内から東北線小牛田駅につく。翌日、石巻線にて桃生郡へ。
  • 大正一一(一九二二)一二月一二日 喜田、「庄内と日高見」(前編)執筆。


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)。



*人物一覧

(人名、および組織・団体名・神名)
  • 斯波兼頼 しば かねより 1315-1379 南北朝時代の武将。奥州探題斯波家兼の次男であり、羽州探題最上氏の祖。最上兼頼ともよばれる。竹寿丸。出羽大将。修理大夫。
  • 小野宗成 おのの むねしげ ?-? 国司。出羽守。天長7(830)閏12月、世情不穏につき、蝦夷対策のため国府の目(さかん)と史生の増員を請願して許されたが、承和2(835)12月には、出羽の夷俘が禁制を犯して京都に出入りしたことがわかって譴責処分をうけた。同4(837)6月最上郡に済苦院を建立、また出羽国分寺に仏像と経典を納めた。同6(839)8月、雨の後に多くの石鏃が出現したのでこれを朝廷に献じ、朝廷では不慮の災禍に備えて神仏に祈願させた。(庄内人名)
  • 藤原宮房
  • 浜田廉 〓 二高教授。
  • 平兼盛 たいらの かねもり  -990 平安中期の歌人。三十六歌仙の一人。従五位上駿河守。家集「兼盛集」
  • 内藤湖南 ないとう こなん 1866-1934 東洋史学者。名は虎次郎。陸奥毛馬内(秋田県鹿角市)生れ。大阪朝日新聞などの記者を経て京大教授。シナ学の発展に貢献。著「支那絵画史」「支那論」「近世文学史論」「日本文化史研究」「東洋文化史研究」など。
  • 大宝寺氏 だいほうじし 出羽の大身。本姓は藤原氏。鎮守府将軍藤原秀郷を祖とする武藤氏の流れを汲む。大宝寺氏は鎌倉時代に庄内地方の地頭として入部したのが始まりであると言われている。最初は武藤姓を名乗っていたが、大宝寺城に居住したため、姓を大宝寺と改姓した。南北朝時代に庄内地方を中心にして全盛期を迎えたと言われている。
  • 武藤氏 むとうし 藤原氏の一族である(藤原北家)。藤原秀郷の流れとも藤原道長の流れともいわれる。武蔵に拠点を置いたため武藤氏と名乗ったとの説が有力である。平安時代後期に藤原景頼の子の頼平が武者所に就いたことで有名。出羽の大宝寺氏は、頼平の子の氏平が祖。
  • 土佐林氏 とさばやしし 領主。藤島城主をつとめった中世の有力在地領主。発祥について(1) 藤島宮目寺衆徒説と、(2) 出羽郡衙の在庁官人説とがある。文安2(1445)に大檀那の土佐林和泉守(氏光)が羽黒山の本社を修造、寛正6(1465)には土佐林某が武藤淳氏に従って上洛、馬を朝廷に献じて太刀を贈られた。土佐林甲斐守(心的、義重)は天正19(1591)検地一揆の鎮定に来た直江兼続に降伏して大宝寺(鶴岡)城に在番、のち米沢に移って右等となり、その後も代々上杉家に仕える。(庄内人名)
  • 留守氏 るすし 領主。出羽国府の留守職で、のちに在地領主となる。源義家が後三年の役ののち、須藤某を留守所として出羽国府に残留させたと伝えられる。文治5(1189)奥羽を平定した源頼朝は、出羽国留守所に命じて検地をおこなわせ、建保・承久(1213-1222)年間には北目地頭新留守に出羽国一宮両所宮の修造を監督させるなど、当時、出羽国には「留守所」と北目の地頭を兼ねる「新留守」の両家が存在した。留守遠江守は最上氏にかわった上杉氏に仕え、最上領に復すると帰農して元和5(1619)病死し、子孫代々新田目村に居住した。/飽海郡北目村で大組頭を世襲した菅原氏は、新留守氏の裔と伝えられる。(庄内人名)
  • 阿部君 → 阿部正己
  • 阿部正巳 あべ まさき 1879-1946 阿部正己。山形県飽海郡松嶺生まれ。阿部鉐弥の長男。郷土史家。北海道史編纂委員、酒田町史編纂主務者、山形県史跡調査員。大正12年(1923)頃、職を辞して以後、在野の史学者生活をおくる。主著『川俣茂七郎』『伊藤鳳山』『出羽国分寺遺址調査・付・出羽国府位置』他。『山形県関係文献目録〈人物編〉』『新編 庄内人名辞典』『松山町史 下巻』
  • 松浦武四郎 まつうら たけしろう 1818-1888 幕末・維新期の北方探検家。幼名、竹四郎。名は弘。雅号、多気志楼。伊勢の郷士の子。諸国を遊歴、蝦夷・樺太を踏査。幕府蝦夷地御用掛に登用。維新後は開拓判官となり、蝦夷を北加伊道(北海道)と改称すべきことを提案。翌1870年(明治3)政府の政策を批判して辞職。著「三航蝦夷日誌」「東西蝦夷山川地理取調日誌」「近世蝦夷人物誌」など。
  • 本間氏 ほんまし 佐渡本間の分家で、山形県酒田市を中心に農地解放による解体まで日本最大の地主だった家。「本間様には及びもせぬが、せめてなりたやお殿様」という歌も詠まれるほどの栄華を誇った。一説には佐渡の本間氏の庶流とも言われている。江戸時代初期、元々は商人であったが収益(※主に、大阪堂島米相場の先物取引での巨利をあてたといわれる)を土地の購入にあて田地を拡大していった。庄内藩米沢藩の財政改革を支えた、三代光丘が有名。
  • 明順 みょうじゅん ?-1534 僧侶。浄福寺の開基。俗名、菊池肥後守武光。/本姓名を菊池武邦と称する。90余才で入寂。明順の娘明順尼は天文年間この寺を現在の酒田の地に移し、同12(1543)に領主土佐林禅棟から寺を末長く存続すべき旨の証状を付与された。(庄内人名)
  • 菊池武光 きくち たけみつ ?-1373 南北朝時代の武将。武時の子。征西将軍懐良親王の下、大友氏時・少弐頼尚らと戦う。
  • 蓮如 れんにょ 1415-1499 室町時代、浄土真宗中興の祖。諱は兼寿。本願寺8世。比叡山衆徒の襲撃に遭い、京都東山大谷を出て1471年(文明3)越前吉崎に赴き、北陸地方を教化。さらに山科・石山に本願寺を建立、本願寺を真宗を代表する強大な宗門に成長させた。「正信偈大意」「御文」「領解文」など布教のための著が多い。諡号は慧灯大師。
  • 道信 〓 越の蝦夷の沙門。
  • 伊高岐那 いこきな ?-? 越の蝦夷。天武天皇11(682)70戸の蝦夷による郡の形成を願い出て許可され、のちの出羽郡の原形をつくった。(庄内人名)
  • 道公千前麿 出羽国の俘囚(熟蝦夷)。
  • 道公宇夜古 秋田郡の俘囚。
  • 道公宇奈岐
  • 禅棟 〓 → 土佐林禅棟
  • 土佐林禅棟 とさばやし 〓 ?-? 田川郡藤島館主か。/林斎。能登守。永禄11(1568)武藤義増が本荘繁長の反乱に加わって上杉謙信に投降したおりの証人となる。その後、若年の義氏の後見をつとめ、一時最上郡に出陣してこれを制圧したが、元亀元(1570)義氏と対立して庄内国人衆を二分する動乱に導き、一旦は謙信の調停で和解したものの、まもなく反旗をひるがえしてついに成敗となる。能登守の跡はその子氏慶(氏頼)が継ぎ、親に先立って死亡。しかし土佐林氏はその後も存続。(庄内人名)
  • 教如 きょうにょ 1558-1614 真宗大谷派の始祖。大谷派本願寺12世。諱は光寿。石山本願寺合戦では父顕如の退去後も籠城し、退去派と籠城派との間で教団が分裂する遠因をなした。のち東本願寺を開く。
  • 顕如 けんにょ 1543-1592 安土桃山時代の浄土真宗の僧。本願寺11世。諱は光佐。10世証如の長男。武田・毛利氏らと結び、諸国門徒の蜂起を以て織田信長に対抗したが、石山合戦の結果、1580年(天正8)石山本願寺を退く。信長の死後、豊臣秀吉から京都七条坊門堀川の地を寄進され、祖堂を建立したのが西本願寺の起源。
  • 筧 かけい 中学校長。
  • 松田君 まつだ 吹浦の素封家。
  • 志村光安 しむら あきやす ?-1609? 伊豆守。名は高治とも。最上氏の家臣で長谷堂の城主をつとめる。慶長5(1600)出羽合戦で直江兼続の攻撃をうけて城を死守し、また谷地城にたてこもる下次右衛門を説いて降伏させた。翌6年、義光の命によって酒田を攻略、その功で東禅寺城代を命ぜられ、川北3万石を領した。10年にわたって酒田を治政。慶長13(1608)羽黒山五重塔の大修理造営にあたる。(庄内人名)
  • 寛海 → 石川寛海
  • 石川寛海 いしかわ かんかい 1801-1871 酒田生まれ。吹浦海禅寺21世住職。吹浦海岸の巨岩に十六羅漢のほか大日、普賢、文殊などあわせて22体を彫る。元治元年(1864)から明治にかけて海難供養のために彫った。71才のときみずから海に身を投じる。(『庄内人名』『目で見る酒田・飽海の100年』
  • 神功皇后 じんぐう こうごう 仲哀天皇の皇后。名は息長足媛。開化天皇第5世の孫、息長宿祢王の女。天皇とともに熊襲征服に向かい、天皇が香椎宮で死去した後、新羅を攻略して凱旋し、誉田別皇子(応神天皇)を筑紫で出産、摂政70年にして没。(記紀伝承による)
  • 大物忌神 おおものいみのかみ 山形県鳥海山上の大物忌神社の祭神。倉稲魂神と同神ともいう。
  • -----------------------------------
  • 栗田茂治 くりた しげはる 1883-1960 秋田市新屋生まれ。宮城女師教諭。砂防林の植林で知られる栗田定之丞の曾孫。秋田師範、東京女子経専などの教員を歴任し、戦時中には秋田市登町に疎開した。著『太平川流域郷土史』『南秋田郡史』『秋田城考』など。(郷土史家)
  • 小島甲午郎 こじま こうごろう? 女師訓導。
  • 聖武天皇 しょうむ‐てんのう 701-756 奈良中期の天皇。文武天皇の第1皇子。名は首。光明皇后とともに仏教を信じ、全国に国分寺・国分尼寺、奈良に東大寺を建て、大仏を安置した。(在位724〜749)
  • 遠田公 とおだのきみ 遠田郡の郡領。
  • 坂上田村麻呂 さかのうえの‐たむらまろ 758-811 平安初期の武人。征夷大将軍となり、蝦夷征討に大功があった。正三位大納言に昇る。また、京都の清水寺を建立。
  • 斎藤荘次郎 さいとう〓 北村。


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)『郷土史家人名事典』(日外アソシエーツ、2007.12)『新編 庄内人名辞典』。



*書籍

(書名、雑誌名、論文名、能・狂言・謡曲などの作品名)
  • 『山形県史』
  • 『続日本後紀』 しょく にほんこうき 六国史の一つ。20巻。日本後紀の後を受け、仁明天皇一代18年間(833〜850年)の編年体の史書。藤原良房・同良相・伴善男・春澄善縄らが文徳天皇の勅を奉じて撰進。869年(貞観11)成る。略称、続後紀。
  • 『拾遺集』 しゅういしゅう 「拾遺和歌集」の略称。
  • 『拾遺和歌集』 しゅうい わかしゅう (古今・後撰の2集に漏れた和歌を拾った集の意)勅撰和歌集。三代集の第3。20巻。1005〜07年(寛弘2〜4)ごろ成立。花山法皇親撰。藤原公任の「拾遺抄」の歌をすべて収め、さらに増補。歌数1351首。多くは万葉・古今・後撰時代のもので、洗練された歌が多い。拾遺集。
  • 『日本紀』 → 日本書記
  • 『考古学雑誌』 こうこがく ざっし 日本考古学会の機関誌。1896(明治29)創刊の『考古学会雑誌』が前身で、1900年には『考古』に、01年には『考古界』に改名され、さらに10年『考古学雑誌』と改められて、第1巻第1号が出版された。継続刊行中(日本史)。
  • 『東蝦夷日誌』 松浦武四郎の著。
  • 『浄福寺文書』
  • 『貞観政要格式目』 高野山宝寿院蔵。永禄(一五五八〜一五七〇)書写。
  • 『貞観政要』 じょうがん せいよう 唐の太宗が群臣と政治上の得失を問答した言を集録した書。帝王学の教科書として愛読された。10巻。唐の呉兢編。
  • 「大宝令」 → 大宝律令
  • 『大宝律令』 たいほう りつりょう 律6巻・令11巻の古代の法典。大宝元年(701)刑部親王・藤原不比等ら編。ただちに施行。天智朝以来の法典編纂事業の大成で、養老律令施行まで、律令国家盛期の基本法典となった。古代末期に律令共に散逸したが、養老律令から全貌を推定できる。
  • 『延喜式』
  • 『甲陽軍鑑』 こうようぐんかん 甲州流軍学書。20巻。武田信玄の臣高坂昌信の原作に、昌信の甥春日惣二郎が補筆、小幡景憲が集大成したという。江戸初期の元和頃成る。信玄・勝頼2代の事蹟・軍法が中心。
  • 『今昔物語』 → 今昔物語集
  • 『今昔物語集』 こんじゃく ものがたりしゅう 日本最大の古代説話集。12世紀前半の成立と考えられるが、編者は未詳。全31巻(うち28巻現存)を、天竺(インド)5巻、震旦(中国)5巻、本朝21巻に分け、各種の資料から1000余の説話を集めている。その各説話が「今は昔」で始まるので「今昔物語集」と呼ばれ、「今昔物語」と略称する。中心は仏教説話であるが、世俗説話も全体の3分の1以上を占め、古代社会の各層の生活を生き生きと描く。文章は、漢字と片仮名による宣命書きで、訓読文体と和文体とを巧みに混用している。
  • 『続日本紀』 しょくにほんぎ 六国史の一つ。40巻。日本書紀の後を受け、文武天皇(697年)から桓武天皇(791年)までの編年体の史書。藤原継縄・菅野真道らが桓武天皇の勅を奉じて797年(延暦16)撰進。略称、続紀。
  • 『常陸風土記』 ひたち ふどき 古風土記の一つ。1巻。常陸国11郡のうち、河内(逸文あり)・白壁(のちの真壁)の2郡を欠く9郡の地誌。713年(和銅6)の詔に基づいて養老(717〜724)年間に撰進。文体は漢文による修飾が著しい。常陸国風土記。
  • 『日本後紀』 にほん こうき 六国史の一つ。続日本紀の後をうけ、桓武天皇(792年)から淳和天皇(833年)に至る史実を記述した編年体の史書。40巻。現存10巻。藤原冬嗣・藤原緒嗣らの撰。840年(承和7)成る。後紀。


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)『日本歴史地名大系』(平凡社)『日本史広辞典』(山川出版社、1997.10)。



*難字、求めよ

  • 国分寺 こくぶんじ 741年(天平13)聖武天皇の勅願によって、五穀豊穣・国家鎮護のため、国分尼寺と共に国ごとに建立された寺。正式には金光明四天王護国之寺という。奈良の東大寺を総国分寺とした。
  • 布目瓦 ぬのめがわら 瓦をつくるとき、瓦をはずしやすいように型の上に用いた布の目が残ったもの。鎌倉時代以前の瓦に多い。
  • 国分尼寺 こくぶん にじ 聖武天皇の勅願によって、国分寺とともに国ごとに建立された尼寺。正式には法華滅罪之寺と称し、法華経を講じさせ、奈良の法華寺を総国分尼寺とした。
  • 土音 どおん その土地の人の発音。方音。
  • 言霊 ことだま 言葉に宿っている不思議な霊威。古代、その力が働いて言葉通りの事象がもたらされると信じられた。
  • 言霊の幸ふ国 ことだまの さきはうくに 言霊の霊妙な働きによって幸福をもたらす国。わが国のことを指す。
  • -----------------------------------
  • 被官・被管 ひかん (1) 律令制で、上級官庁に直属する官庁。例えば省の管轄下にある寮・司など。(2) 中世、上級武士に下属して家臣化した下級武士。(3) 中世末、在地領主や土豪の家来で、屋敷地の一部と田畑を分与され、手作りしつつ主家の軍事・家政・農耕に奉仕していた者。(4) 被官百姓の略。
  • 石鏃 せきぞく 石のやじり。木や竹の柄につけて、狩猟具・武器として使用。新石器時代を中心に世界各地に分布。日本では縄文・弥生時代に盛んに用いられた。打製品は両時代ともにあり、磨製品は弥生時代に作られた。石材は黒曜石・サヌカイト・珪岩・粘板岩などで、長さ1センチメートル未満のものから5センチメートル位のものまである。
  • �く いわく 曰く。
  • 霖雨 りんう 幾日も降りつづく雨。ながあめ。淫雨。
  • 海畔 かいはん 海のほとり。海辺。海岸。
  • 詢う とう(問う)。
  • 商量 しょうりょう あれこれとはかり考えること。
  • 復奏・覆奏 ふくそう 繰り返し取り調べて奏上すること。
  • 陰陽寮 おんみょうりょう 律令制で、中務省に属し、天文・気象・暦・時刻・卜占などをつかさどった役所。陰陽頭のもとに、陰陽博士・暦博士・天文博士・漏刻博士などで編成。おんようのつかさ。うらのつかさ。
  • 凶狄
  • 神祇官 じんぎかん (1) 大宝令に制定された官庁。太政官と並立し、神祇の祭祀をつかさどり、諸国の官社を総管。職員は四等官と、伴部として神部と卜部など。かむづかさ。かみづかさ。(2) 明治元年(1868)閏4月に置かれた官庁。神祇・祭祀・祝部・神戸を総管した。同4年格下げして神祇省と改称し、太政官のもとに設置。翌年廃止。事務は式部寮・教部省に移管。
  • 国宰 こくさい (1) 大臣。宰相。(2) 国司。
  • 国宰・国司 くにの みこともち 古代、朝廷から臨時に諸国に派遣されて、その国の政治を行なった官。
  • 神矢・神箭 かみや 神が射るという不思議な矢。
  • 崇不敬 すうふけい?
  • 雷斧 らいふ 石器時代遺物の石斧などを、落雷などの際に天空より降りたと考えたもの。東西を問わず広くあった考え。霹靂碪。雷の鉞。天狗の鉞。雷斧石。
  • 化導 けどう 〔仏〕教化し導くこと。
  • 俘人 ふじん (『県の歴史』
  • 熟蝦夷 にきえみし 古代の蝦夷のうち、朝廷に従順なもの。←→あらえみし
  • 一向一揆 いっこう いっき 室町末期、越前・加賀・三河・近畿などで起こった宗教一揆。一向宗の僧侶や門徒が大名の領国制支配と戦った。
  • 一向宗 いっこうしゅう (一向に阿弥陀仏を信ずるからいう) 浄土真宗のこと。
  • 慈尊三会 じそん さんえ 竜華三会に同じ。
  • 竜華会 りゅうげえ (1) 釈迦が涅槃に入って56億7000万年後、弥勒菩薩がこの世に下生して、華林園の竜華樹下で説法するという会座。3回にわたって行うので竜華三会・弥勒三会ともいう。
  • 憶念 おくねん 深く心中に銘記して忘れぬ考え。
  • 報謝 ほうしゃ (古くはホウジャとも) (1) 恩に報い徳を謝すること。物を贈って報いること。(2) 仏事を修した僧や巡礼に布施物をおくること。また、神仏への報恩のため、慈善をなし、金品を施すこと。
  • 法橋 ほっきょう 〔仏〕(1) (正しくはホウキョウ)仏法を人を渡す橋にたとえていう語。法の橋。(2) (法橋上人位の略)法眼の次に位し、律師に相当する僧位。五位に准ずる。中世・近世には医師・画家などにも与えられた。1873年(明治6)廃止。
  • -----------------------------------
  • 特殊部落 とくしゅ ぶらく 被差別部落の差別的な呼称。
  • 部落 ぶらく (1) 比較的少数の家を構成要素とする地縁団体。共同体としてまとまりをもった民家の一群。村の一部。(2) 身分的・社会的に強い差別待遇を受けてきた人々が集団的に住む地域。江戸時代に形成され、その住民は1871年(明治4)法制上は身分を解放されたが、社会的差別は現在なお完全には根絶されていない。未解放部落。被差別部落。
  • えた ヱタ (「下学集」など中世以降、侮蔑の意をこめて「穢多」の2字を当てた)中世・近世の賤民身分の一つ。牛馬の死体処理などに従事し、罪人の逮捕・処刑にも使役された。江戸幕藩体制下では、非人とともに士農工商より下位の身分に固定、一般に居住地や職業を制限され、皮革業に関与する者が多かった。1871年(明治4)太政官布告により平民の籍に編入された後も社会的差別が存続し、現在なお根絶されていない。
  • 長吏 ちょうり (1) 漢の官制で、比較的高い俸禄の官吏。県吏の200石から400石、一般には600石以上の者。←→少吏。(2) 一寺の首長である僧。特に勧修寺・園城寺・横川楞厳院などでいう。座主・検校・別当などに相当。(3) 近世、えたまたは非人の長。また広く、えた・非人の称。
  • 伯楽 はくらく [荘子馬蹄](1) 中国古代の、馬を鑑定することに巧みであったという人。もとは天帝の馬をつかさどる星の名。(2) よく馬の良否を見分ける者。また、馬医。転じて、人物を見抜く眼力のある人。→ばくろう。
  • 博労・伯楽 ばくろう (1) (「伯楽(はくらく)」の転。「馬喰」とも書く)馬のよしあしを鑑定する人。馬の病をなおす人。また、馬を売買・周旋する人。(2) 物と物とを交易すること。
  • 河原者 かわらもの (1) 中世、河原に住み、卑賤視された雑役や下級遊芸などに従った者。河原は当時穢れを捨てる場所と考えられていた。かわらのもの。(2) 江戸時代、歌舞伎役者の賤称。
  • 非人 ひにん (1) 〔仏〕人間でないもの、すなわち天竜八部衆などの類。(2) 出家遁世の沙門。世捨て人。(3) いやしい身分の人。極貧の人や乞食を指す。(4) 江戸幕藩体制下、えたとともに四民の下におかれた最下層の身分。卑俗な遊芸、罪人の送致、刑屍の埋葬などに従事した。
  • 屈竟 くっきょう 究竟におなじ。
  • -----------------------------------
  • 妻入 つまいり 妻(3) に出入口を設けて、これを正面とする建築様式。←→平入
  • 妻 つま (3) 〔建〕(「端」とも書く) (ア) 建物の長手方向のはし。棟と直角の壁面。←→平。(イ) 切妻や入母屋の側面の三角形の壁面。
  • 平入 ひらいり 建物の大棟に平行な面すなわち平に入口のあるもの。←→妻入
  • 告朔の癡r こくさくの きよう [論語八�]告朔の儀式に、祖廟に供えるいけにえの羊。のち、告朔の礼は行われず羊を供える習慣だけが残ったことから、害のない虚礼は保存する方がよいこと、また、実を失って形式ばかり残っていることのたとえ。
  • 礫葺
  • 枌板 そぎいた (古くはソキイタ)そいだ薄い木の板。屋根などを葺くのに用いる。そぎた。そぎ。
  • 礫石 れきせき 小さな石。こいし。つぶて。
  • 呼び歩行いて
  • 海部・海人部 あまべ 大和政権で、海運や朝廷への海産物貢納に従事した品部。
  • さんか 山窩 (多くサンカと書く)村里に定住せずに山中や河原などで家族単位で野営しながら漂泊の生活をおくっていたとされる人々。主として川漁・箕作り・竹細工・杓子作りなどを業とし、村人と交易した。山家。さんわ。
  • 茶筅・茶筌 ちゃせん (1) 抹茶をたてる際、茶をかきまわして泡を立たせたり練ったりする具。白竹・青竹・胡麻竹・煤竹・紫竹などを用い、10センチメートル前後の竹筒の半分以下を細く割って穂とし、穂先の末端は内に曲げるが、直なものもある。数穂・中穂・荒穂などの種類がある。(2) 近世、茶筅(1) を行商し、賤民視された人々の称。
  • 筬 おさ 竹片を櫛の歯状に並べた、織機の付属具。おさ。
  • 隼人司 はやひとの つかさ 律令制で、宮門警衛にあたる隼人を管理し、隼人舞などの教習、竹器の製作をつかさどった官司。のち兵部省に移管。
  • 隼人 はやひと 古代の九州南部に住み、風俗習慣を異にして、しばしば大和の政権に反抗した人々。のち服属し、一部は宮門の守護や歌舞の演奏にあたった。はいと。はやと。
  • 閑所 かんじょ (カンショとも) (1) 人気のない静かな場所。(2) 便所。閑所場。灌所。
  • まき 古代の氏族、近世の本家・分家の関係など、同一の血族団体。まけ。まく。
  • 癩病 らいびょう ハンセン病に同じ。
  • ハンセン病 ハンセン びょう (癩菌の発見者、ノルウェーのハンセン(G. A. Hansen1841〜1912)に因む)癩菌によって起こる慢性の感染症。癩腫型と類結核型の2病型がある。癩腫型は結節癩ともいい、顔面や四肢に褐色の結節(癩腫)を生じ、眉毛が抜けて頭毛も少なくなり、結節が崩れて特異な顔貌を呈する。皮膚のほか粘膜・神経をもおかす。類結核型は斑紋癩・神経癩ともいい、皮膚に赤色斑を生じ知覚麻痺を伴う。癩病。レプラ。
  • 石敢当 いしがんとう 沖縄や九州南部で、道路のつきあたりや門・橋などに、「石敢当」の3字を刻して建ててある石碑。中国伝来の民俗で、悪魔除けの一種。せきかんとう。
  • 嫁娶 かしゅ よめいりとよめとり。結婚すること。
  • 十六羅漢 じゅうろく らかん 〔仏〕[法住記]永くこの世に在住して正法を護持するという16人の羅漢。平安時代に請来され、後に主に禅宗において受容された。賓度羅跋�^惰闍・迦諾迦伐蹉・迦諾迦跋釐堕闍・蘇頻陀・諾矩羅・跋陀羅・迦理迦・伐闍羅弗多羅・戍博迦・半託迦・�^怙羅・那伽犀那・因掲陀・伐那婆斯・阿氏多・注荼半託迦。
  • 玳瑁 たいまい ウミガメ科のカメ。中形で、甲長約70センチメートル。背甲は鱗板が屋根瓦状に重なり、黄色と黒色の不規則な細斑がある。腹面は暗黄色。四肢は扁平、遊泳に適する。熱帯・亜熱帯地方の海に分布、海浜の砂の中に産卵。背甲は鼈甲といい珍重、各種の装飾品に製作。
  • 襦珍 → 繻珍か
  • 繻珍 シュチン 繻珍・朱珍 (setim ポルトガル・satijn オランダ 一説に唐音「七糸緞」の転)繻子の地合に数種の絵緯糸を用い、浮織や斜文織として文様を織り出したもの。主として女の帯・羽織裏・袋物に用いる。シッチン。シチン。
  • 纓絡 えいらく/ようらく 瓔珞。(1) インドの貴族男女が珠玉や貴金属に糸を通して作った装身具。頭・首・胸にかける。また、仏像などの装飾ともなった。瑶珞。(2) 世の中のわずらわしいかかわりあいのたとえ。
  • 関銭 せきせん 中世、関所を通過する人馬・荷物などに対して徴収した税。関手。関賃。関料。
  • -----------------------------------
  • 野田夷
  • 山夷 やまひな? やまえびす? さんい?
  • 俘囚 ふしゅう (1) とらわれた人。とりこ。俘虜。(2) 朝廷の支配下に入り一般農民の生活に同化した蝦夷。同化の程度の浅いものは夷俘と呼んで区別。
  • 玉作・玉造 たまつくり 玉を製作すること。また、その人。地名として残っている。
  • 王師 おうし (1) 帝王の軍隊。(2) 帝王の師範。
  • 険岨 けんそ 険阻・嶮岨。(1) 道がけわしいこと。けわしい所。(2) 顔つき・性格などがとげとげしいこと。
  • 進討
  • 寨址 とりであと? さいし?
  • 連亘・聯亘 れんこう つらなりわたること。長くつづくこと。
  • 榛莽 しんぼう 草木の乱れ茂ったところ。やぶ。くさむら。しんもう。
  • 城寨 じょうさい 城塞・城砦。
  • チャシ (アイヌ語)砦の意。北海道および東北諸県に500を超える遺跡が残存。地形に恵まれた丘陵の突端の一部に壕をめぐらし、上を地ならししてあるものが多い。


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)『日本国語大辞典 第二版』(小学館、2001.5)『学研新漢和大字典』、『山形県の歴史』(1998)



*後記(工作員スリーパーズ日記)


 寒川旭『地震の日本史・増補版』(中公新書、2011.6)、萩野正昭『電子書籍奮戦記』(新潮社、2010.11)、谷口宏充(編)『中国東北部白頭山の10世紀巨大噴火とその歴史効果』(東北大学東北アジア研究センター、2004.3)読了。

 アマゾンの金ドルにつづいて、28日にはレノボが7インチタブレット発売、12月にはサムソン GALAXY Tab 7インチがリニューアル。ソニー Reader もわるくないけれど、6インチはちっこい。
 モニタの左半分に PDFの元画像を表示して、かつ右半分にテキストファイルを縦書き表示できると、どこでも校正ができる。工作員としてはこのうえない。10インチの高価なタブレットは、図書館へ持ち運びしたくない。机に置いたまま、席をはずすこともできない。

 萩野さんの『奮戦記』を熟読。マイクロソフトからの買収持ちかけやら、パナソニックからの採用打診やら、あらてめて赤裸々に書いたものだなと感心。前半のボブ・スタインと、後半のブルースター・ケールとの交流にけっこうな分量をさいてある。
 季刊雑誌『本とコンピュータ』の創刊が、96年9月の鳥取県米子『本の学校』を機にしていたことをはじめて知る。なるほど、そうつながるのか。やっぱり電子本は、地方発の分散出版をこそ指向してほしいし、きっとそうなる。

 プログラミング担当の祝田さんのことが謎のままで、すっぽりと記述から抜けている。だからこの『奮戦記』は萩野さんの個人史ではあっても、ボイジャーの『奮戦記』というには不足だと思う。『本とコンピュータ』のことにしても、青空文庫や富田さんとのことにしてもまだまだ物語がありそう。
 ところで『本コ』バックナンバー(PDF)を DVD 収録で出版希望しまーす。




*次週予告


第四巻 第一四号 
庄内と日高見(三)喜田貞吉


第四巻 第一四号は、
一〇月二九日(土)発行予定です。
月末最終号:無料


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庄内と日高見(二)喜田貞吉
発行:二〇一一年一〇月二二日(土)
編集:しだひろし/PoorBook G3'99
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出版:*99 出版
 〒994-0024 山形県天童市鎌田2丁目1−21
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販売:DL-MARKET
※ T-Timeは(株)ボイジャーの商標・製品です。



T-Time マガジン
週刊ミルクティー
*99 出版
バックナンバー
  • 第二巻
  • #1 奇巌城(一)M. ルブラン
  • #2 奇巌城(二)M. ルブラン
  • #3 美し姫と怪獣/長ぐつをはいた猫
  • #4 毒と迷信/若水の話/麻薬・自殺・宗教
  • #5 空襲警報/水の女/支流
  • #6 新羅人の武士的精神について 池内 宏
  • #7 新羅の花郎について 池内 宏
  • #8 震災日誌/震災後記 喜田貞吉
  • #9 セロ弾きのゴーシュ/なめとこ山の熊 宮沢賢治
  • #10 風の又三郎 宮沢賢治
  • #11 能久親王事跡(一)森 林太郎
  • #12 能久親王事跡(二)森 林太郎
  • #13 能久親王事跡(三)森 林太郎
  • #14 能久親王事跡(四)森 林太郎
  • #15 欠番
  • #16 欠番
  • #17 赤毛連盟      C. ドイル
  • #18 ボヘミアの醜聞   C. ドイル
  • #19 グロリア・スコット号C. ドイル
  • #20 暗号舞踏人の謎   C. ドイル
  • #21 蝦夷とコロボックルとの異同を論ず 喜田貞吉
  • #22 コロポックル説の誤謬を論ず 上・下 河野常吉
  • #23 慶長年間の朝日連峰通路について 佐藤栄太
  • #24 まれびとの歴史/「とこよ」と「まれびと」と 折口信夫
  • #25 払田柵跡について二、三の考察/山形県本楯発見の柵跡について 喜田貞吉
  • #26 日本天変地異記 田中貢太郎
  • #27 種山ヶ原/イギリス海岸 宮沢賢治
  • #28 翁の発生/鬼の話 折口信夫
  • #29 生物の歴史(一)石川千代松
  • #30 生物の歴史(二)石川千代松
  • #31 生物の歴史(三)石川千代松
  • #32 生物の歴史(四)石川千代松
  • #33 特集 ひなまつり
  •  雛 芥川龍之介
  •  雛がたり 泉鏡花
  •  ひなまつりの話 折口信夫
  • #34 特集 ひなまつり
  •  人形の話 折口信夫
  •  偶人信仰の民俗化並びに伝説化せる道 折口信夫
  • #35 右大臣実朝(一)太宰 治
  • #36 右大臣実朝(二)太宰 治
  • #37 右大臣実朝(三)太宰 治
  • #38 清河八郎(一)大川周明
  • #39 清河八郎(二)大川周明
  • #40 清河八郎(三)大川周明
  • #41 清河八郎(四)大川周明
  • #42 清河八郎(五)大川周明
  • #43 清河八郎(六)大川周明
  • #44 道鏡皇胤論について 喜田貞吉
  • #45 火葬と大蔵/人身御供と人柱 喜田貞吉
  • #46 手長と足長/くぐつ名義考 喜田貞吉
  • #47 「日本民族」とは何ぞや/本州における蝦夷の末路 喜田貞吉
  • #48 若草物語(一)L.M. オルコット
  • #49 若草物語(二)L.M. オルコット
  • #50 若草物語(三)L.M. オルコット
  • #51 若草物語(四)L.M. オルコット
  • #52 若草物語(五)L.M. オルコット
  • #53 二人の女歌人/東北の家 片山広子
  • 第三巻
  • #1 星と空の話(一)山本一清
  • #2 星と空の話(二)山本一清
  • #3 星と空の話(三)山本一清
  • #4 獅子舞雑考/穀神としての牛に関する民俗 中山太郎
  • #5 鹿踊りのはじまり 宮沢賢治/奥羽地方のシシ踊りと鹿供養 喜田貞吉
  • #6 魏志倭人伝/後漢書倭伝/宋書倭国伝/隋書倭国伝
  • #7 卑弥呼考(一)内藤湖南
  • #8 卑弥呼考(二)内藤湖南
  • #9 卑弥呼考(三)内藤湖南
  • #10 最古日本の女性生活の根底/稲むらの陰にて 折口信夫
  • #11 瀬戸内海の潮と潮流(他三編)寺田寅彦
  •  瀬戸内海の潮と潮流/コーヒー哲学序説/
  •  神話と地球物理学/ウジの効用
  • #12 日本人の自然観/天文と俳句 寺田寅彦
  • #13 倭女王卑弥呼考(一)白鳥庫吉
  • #14 倭女王卑弥呼考(二)白鳥庫吉
  • #15 倭奴国および邪馬台国に関する誤解 他 喜田貞吉
  •  倭奴国と倭面土国および倭国とについて稲葉君の反問に答う/倭奴国および邪馬台国に関する誤解
  • #16 初雪 モーパッサン 秋田 滋(訳)
  • #17 高山の雪 小島烏水
  • #18 光をかかぐる人々 続『世界文化』連載分(一)徳永 直
  • #19 光をかかぐる人々 続『世界文化』連載分(二)徳永 直
  • #20 光をかかぐる人々 続『世界文化』連載分(三)徳永 直
  • #21 光をかかぐる人々 続『世界文化』連載分(四)徳永 直
  • #22 光をかかぐる人々 続『世界文化』連載分(五)徳永 直
  • #23 銀河鉄道の夜(一)宮沢賢治
  • #24 銀河鉄道の夜(二)宮沢賢治
  • #25 ドングリと山猫/雪渡り 宮沢賢治
  • #26 光をかかぐる人々 続『世界文化』連載分(六)徳永 直
  • #27 特集 黒川能・春日若宮御祭 折口信夫
  •  黒川能・観点の置き所
  •  村で見た黒川能
  •  能舞台の解説
  •  春日若宮御祭の研究
  • #28 面とペルソナ/人物埴輪の眼 他 和辻哲郎
  •  面とペルソナ / 文楽座の人形芝居
  •  能面の様式 / 人物埴輪の眼
  • #29 火山の話 今村明恒
  • #30 現代語訳『古事記』(一)武田祐吉(訳)
  • #31 現代語訳『古事記』(二)武田祐吉(訳)
  • #32 現代語訳『古事記』(三)武田祐吉(訳)
  • #33 現代語訳『古事記』(四)中巻(後編)武田祐吉(訳)
  • #34 山椒大夫 森 鴎外
  • #35 地震の話(一)今村明恒
  • #36 地震の話(二)今村明恒
  • #37 津波と人間/天災と国防/災難雑考 寺田寅彦
  • #38 春雪の出羽路の三日 喜田貞吉
  • #39 キュリー夫人/はるかな道(他)宮本百合子
  • #40 大正十二年九月一日…/私の覚え書 宮本百合子
  • #41 グスコーブドリの伝記 宮沢賢治
  • #42 ラジウムの雁/シグナルとシグナレス(他)宮沢賢治
  • #43 智恵子抄(一)高村光太郎
  • #44 智恵子抄(二)高村光太郎
  • #45 ヴェスヴィオ山/日本大地震(他)斎藤茂吉
  • #46 上代肉食考/青屋考 喜田貞吉
  • #47 地震雑感/静岡地震被害見学記(他)寺田寅彦
  • #48 自然現象の予報/火山の名について 寺田寅彦
  • #49 地震の国(一)今村明恒
  •  一、ナマズのざれごと
  •  二、頼山陽、地震の詩
  •  三、地震と風景
  •  四、鶏のあくび
  •  五、蝉しぐれ
  •  六、世紀の北米大西洋沖地震
  •  七、観光
  •  八、地震の正体
  • #50 地震の国(二)今村明恒
  •  九 ドリアン
  •  一〇 地震の興味
  •  一一 地割れの開閉現象
  •  一二 称名寺の鐘楼
  •  一三 張衡(ちょうこう)
  •  一四 地震計の冤(えん)
  •  一五 初動の方向性
  •  一六 白鳳大地震
  • #51 現代語訳『古事記』(五)下巻(前編)武田祐吉(訳)
  • #52 現代語訳『古事記』(六)下巻(後編)武田祐吉(訳)
  • 第四巻
  • #1 日本昔話集 沖縄編(一)伊波普猷・前川千帆(絵)
  •  序にかえて
  •   琉球編について
  •  一、沖縄人のはじめ
  •  二、巨人の足あと
  •  三、三十七岳の神々
  •  四、アカナァとヨモ
  •  五、黄金の木のなるまで
  • #2 日本昔話集 沖縄編(二)伊波普猷
  •  六、島の守り神
  •  七、命の水
  • #3 アインシュタイン(一)寺田寅彦
     物質とエネルギー
     科学上における権威の価値と弊害
     アインシュタインの教育観

     光と名づけ、音と名づける物はエネルギーの一つの形であると考えられる。これらは吾人の五官を刺激して、万人その存在を認める。しかし、「光や音がエネルギーである」という言葉では本当の意味はつくされていない。昔、ニュートンは光を高速度にて放出さるる物質の微粒子と考えた。後にはエーテルと称する仮想物質の弾性波と考えられ、マクスウェルにいたっては、これをエーテル中の電磁的ひずみの波状伝播(でんぱ)と考えられるにいたった。その後アインシュタイン一派は、光の波状伝播(でんぱ)を疑った。また現今の相対原理では、エーテルの存在を無意味にしてしまったようである。それで光と称する感覚は依然として存する間に、光の本体に関しては今日にいたるもなんらの確かなことは知られぬのである。(略)
     前世紀において電気は何ものぞ、物質かエネルギーかという問題が流行した。(略)
     電子は質量を有するように見える。それで、前の物質の定義によれば物質のように見える。同時にこれには一定量の荷電がある。荷電の存在はいったい何によって知ることができるかというと、これと同様の物を近づけたときに相互間に作用する力で知られる。その力は、間接に普通の機械力と比較することができるものである。すでに力をおよぼす以上、これは仕事をする能がある、すなわちエネルギーを有している。しかし、このエネルギーは電子のどこにひそんでいるのであろうか。ファラデー、マクスウェルの天才は、荷電体エネルギーをそのものの内部に認めず、かえってその物体の作用をおよぼす勢力範囲すなわち、いわゆる電場(でんば)に存するものと考えた。この考えはさらに、電波の現象によって確かめらるるにいたった。この考えによれば、電子の荷電のエネルギーは、電子そのものに存すると考えるよりは、むしろその範囲の空間に存すると思われるのである。すなわち空間に電場の中心がある、それが電子であると考えられる。これが他の電子、またはその集団の電場におかれると、力を受けて自由の状態にあれば有限な加速度をもって運動する。すなわち質量を有するのである。 (「物質とエネルギー」より)
  • #4 アインシュタイン(二)寺田寅彦
     アインシュタイン
     相対性原理側面観

     物理学の基礎になっている力学の根本に、ある弱点のあるということは早くから認められていた。しかし、彼以前の多くの学者にはそれをどうしたらいいかがわからなかった。あるいは大多数の人は因襲的の妥協になれて別にどうしようとも思わなかった。力学の教科書はこの急所にふれないように知らん顔をしてすましていた。それでも実用上の多くの問題には実際、さしつかえがなかったのである。ところが近代になって電子などというものが発見され、あらゆる電磁気や光熱の現象は、この不思議な物の作用に帰納されるようになった。そしてこの物が特別な条件のもとに、驚くべき快速度で運動することもわかってきた。こういう物の運動に関係した問題にふれはじめると同時に、今までそっとしておいた力学の急所がそろそろ痛みを感ずるようになってきた。ロレンツのごとき優れた老大家ははやくからこの問題に手をつけて、いろいろな矛盾の痛みを局部的の手術で治療しようとして骨折っている間に、この若い無名の学者はスイスの特許局の一隅にかくれて、もっともっと根本的な大手術を考えていた。病の根は電磁気や光よりもっと根本的な、時と空間の概念の中に潜伏していることに眼をつけた。そうしてその腐りかかった、間に合わせの時と空間をとって捨てて、新しい健全なものをそのかわりに植え込んだ。その手術で物理学は一夜に若返った。そして電磁気や光に関する理論の多くの病竈(びょうそう)はひとりでにきれいに消滅した。
     病源を見つけたのが第一のえらさで、それを手術した手際は第二のえらさでなければならない。 (「アインシュタイン」より)
  • #5 作家のみた科学者の文学的活動/科学の常識のため宮本百合子
     作家のみた科学者の文学的活動
      「生」の科学と文学
      科学と文学の交流
      科学者の社会的基調
      科学者の随筆的随想
      科学と探偵小説
      現実は批判する
     科学の常識のため

     若い婦人の感情と科学とは、従来、縁の遠いもののように思われてきている。昔は人間の心の内容を知・情・意と三つのものにわけて、知は理解や判断をつかさどり、情は感情的な面をうけもち、意は意志で、判断の一部と行動とをうけもつという形式に固定して見られ、今でもそのことは、曖昧に受け入れられたままになっている点が多い。だから、科学というとすぐ理知的ということでばかり受けとって、科学をあつかう人間がそこに献身してゆく情熱、よろこびと苦痛との堅忍、美しさへの感動が人間感情のどんなに高揚された姿であるのも若い女のひとのこころを直接に打たないばあいが多い。このことは逆な作用ともなって、たとえばパストゥールを主人公とした『科学者の道』の映画や『キュリー夫人伝』に賛嘆するとき、若い婦人たちはそれぞれの主人公たちの伝奇的な面へロマンティックな感傷をひきつけられ、科学というとどこまでも客観的で実証的な人間精神の努力そのものの歴史的な成果への評価と混同するような結果をも生むのである。
     婦人の文化の素質に芸術の要素はあるが、科学的な要素の欠けていることを多くのひとが指摘しているし、自分たちとしても心ある娘たちはそれをある弱点として認めていると思う。しかしながら、人間精神の本質とその活動についての根本の理解に、昔ながらの理性と感情の分離対立をおいたままで科学という声をきけば、やっぱりそれは暖かく踊る感情のままでは触れてゆけない冷厳な世界のように感じられるであろう。そして、その情感にある遅れた低さには自身気づかないままでいがちである。 (「科学の常識のため」より)
  • #6 地震の国(三)今村明恒

     一七 有馬の鳴動
     一八 田結村(たいむら)の人々
     一九 災害除(よ)け
     二〇 地震毛と火山毛
     二一 室蘭警察署長
     二二 ポンペイとサン・ピエール
     二三 クラカトアから日本まで

     余がかつてものした旧稿「地震に出会ったときの心得」十則の付録に、つぎの一項を加えておいた。

    「頻々におこる小地震は、単に無害な地震群に終わることもあり、また大地震の前提たることもある。震源が活火山にあるときは爆発の前徴たる場合が多い。注意を要する。

     この末段の事項についてわが国の火山中好適な例となるものは、三宅島・富士山・桜島・有珠山などであり、いずれも数十年ないし数百年おきに間欠的爆発をなすのであるが、その数日前から小地震を頻発せしめる習性を持っている。もし、活火山の休眠時間が例外に長いかあるいは短いときは、かような前震が不鮮明となり、短時間で終わりを告げることもあれば、またその反対に非常に長びくこともある。前者の例としては磐梯山があり、後者の例としては浅間山・霧島山・温泉岳〔雲仙岳。〕などがある。
     大正三年(一九一四)一月十二日、桜島爆発に関しては、地盤隆起、天然ガスの噴出、温泉・冷泉の増温・増量などの前徴以外に、特に二日前から著明な前震がはじまったなどのことがあったにかかわらず、爆発の予知が失敗に終わったのは、専門学徒にとってこのうえもない恨事であった。これに反して、明治四十三年(一九一〇)七月二十五日、有珠山爆発に際しては、専門学徒でもない一警官が、前に記したような爆発前の頻発地震に関するわずかの知識だけで完全に予知し、しかも彼の果断な処置によって災害を極度に軽減し得たことは、地震噴火誌上、特筆大書すべき痛快事である。 (「二一 室蘭警察署長」より)
  • #7 地震の国(四)今村明恒

     二四 役小角と津波除(よ)け
     二五 防波堤
     二六 「稲むらの火」の教え方について
      はしがき
      原文ならびにその注
      出典
      実話その一・安政津波
      実話その二・儀兵衛の活躍
      実話その三・その後の梧陵と村民
      実話その四・外人の梧陵崇拝
     二七 三陸津波の原因争い
     二八 三陸沿岸の浪災復興
     二九 土佐と津波

     天台宗の僧侶は、好んで高山名岳にその道場を建てる。したがって往時においては、気象・噴火・薬物などに関する物識りが彼らの仲間に多かった。鳥海・阿蘇・霧島の古い時代の噴火記事は、たいてい彼らの手になったものである。
     役小角はおそらくは当時、日本随一の博物学者であったろう。彼が呪術をよくしたということと、本邦のあちらこちらに残した事跡と称するものが、学理に合致するものであることから、そう想像される。(略)
     この行者が一日、陸中の国船越浦に現われ、里人を集めて数々の不思議を示したのち戒めて、「卿らの村は向こうの丘の上に建てよ。この海浜に建ててはならない。もし、この戒めを守らなかったら、たちまち災害がおこるであろう。」といった。行者の奇跡に魅せられた里人はよくこの教えを守り、爾来千二百年間、あえてこれに背くようなことをしなかった。
     そもそも三陸沿岸は、津波襲来の常習地である。歴史に記されただけでも少くない。貞観十一年(八六九)五月二十六日のは溺死千をもって数えられているから、人口多い今日であったら、幾万をもって数うべき程度であったろう。慶長十六年(一六一一)十月二十八日のは、死者の数、伊達領の一七八三人に、南部・津軽の分を加えて五〇〇〇人に達したといわれている。これも今日であったら幾万という数にのぼったに相違ない。明治二十九年(一八九六)六月十五日の津波死人は二万七一二二名の多数におよんだのであるから、これをもって三陸津波の最大記録とする人もあるが、なるほど、損害の統計はそうでも、津波の破壊力はやや中ぐらいにあったと見るべきである。 (「二四 役小角と津波除け」より)
  • #8 地震の国(五)今村明恒

     三〇 五徳の夢
     三一 島陰の渦(うず)
     三二 耐震すなわち耐風か
     三三 地震と脳溢血
     三四 関東大震火災の火元
     三五 天災は忘れた時分にくる
       一、天変地異と天災地妖
       二、忘と不忘との実例
       三、回向院と被服廠
       四、地震除け川舟の浪災
       五、噴火災と凶作
     三六 大地震は予報できた
     三七 原子爆弾で津波は起きるか
     三八 飢饉除け
     三九 農事四精

     火山噴火は、天変地異としては規模の大きな部類である。山が村里を遠く離れているばあいは、災害はわりあいに軽くてすむが、必ずしもそうばかりではない。わが国での最大記録は天明の浅間噴火であろうが、土地ではよくこれを記憶しており、明治の末から大正のはじめにかけての同山の活動には最善の注意をはらった。(略)
     火山は、噴火した溶岩・軽石・火山灰などによって四近の地域に直接の災禍をあたえるが、なおその超大爆発は、火山塵の大量を成層圏以上に噴き飛ばし、たちまちこれを広く全世界の上空に瀰漫させて日射をさえぎり、しかもその微塵は、降下の速度がきわめて小なるため、滞空時間が幾年月の久しきにわたり、いわゆる凶作天候の素因をなすことになる。
     火山塵に基因する凶作天候の特徴は、日射低下の他、上空に停滞する微塵、いわゆる乾霧によって春霞のごとき現象を呈し、風にも払われず、雨にもぬぐわれない。日月の色は銅色に見えて、あるいはビショップ環と称する日暈を見せることもあり、古人が竜毛として警戒した火山毛をも降らせることがある。秋夏気温の異常低下は当然の結果であるが、やがて暖冬冷夏の特徴を示すことがある。
     最近三〇〇年間、わが国が経験したもっとも深刻な凶作は、天明年度(一七八一〜一七八九)と天保年度(一八三一〜一八四五)とのものである。前者は三年間、後者は七年間続いた。もっとも惨状を呈したのは、いうまでもなく東北地方であったが、ただし凶作は日本全般のものであったのみならず、じつに全世界にわたるものであった。その凶作天候が、原因某々火山の異常大噴火にあったこと、贅説するまでもあるまい。
     世界中の人々が忘れてはならない天災地妖、それは、おそらく火山塵に基因する世界的飢饉であろう。 (「噴火災と凶作」より)
  • #9 地震の国(六)今村明恒

     四〇 渡辺先生
     四一 野宿
     四二 国史は科学的に
     四三 地震および火山噴火に関する思想の変遷
         はしがき
         地震に関する思想の変遷(その一)
         火山噴火に関する思想の変遷
         地震に関する思想の変遷(その二)
     四四 地震活動盛衰一五〇〇年

    (略)地震に関する思想は、藤原氏専政以後においてはむしろ堕落であった。その主要な原因は、陰陽五行の邪説が跋扈(ばっこ)したことにあるのはいうまでもないが、いま一つ、臣下の政権世襲の余弊であったようにも見える。この点につき、歴史家の所見を質してみたことはないが、時代の推移にともなう思想の変遷が、然(し)か物語るように見えるのである。けだし、震災に対する天皇ご自責の詔の発布された最後の例が、貞観十一年(八六九)の陸奥地震津波であり、火山噴火に対する陳謝・叙位のおこなわれた最後の例が、元慶六年(八八二)の開聞岳活動にあるとすることが誤りでなかったなら、これらの二種の行事は、天皇親政時代のものであったといえるわけで、つぎの藤原氏の専政時代において、これらにかわって台頭してきた地震行事が、地震占と改元とであったということになるからである。修法や大祓がこれにともなったこと断わるまでもあるまい。
     地震占には二種あるが、その気象に関するものはまったく近世の産物であって、古代のものは、兵乱・疫癘・飢饉・国家の重要人物の運命などのごとき政治的対象を目的としたものである。
     かつて地震をもって天譴(てんけん)とした思想は、これにおいて少しく改められ、これをもって何らかの前兆を指示する怪異と考えるに至ったのである。これには政治的方便もあったろうが、時代が地震活動の不活発期に入ったことも無視してはなるまい。
     上記の地震占をつかさどる朝廷の役所は陰陽寮で、司は賀茂・安倍二家の世襲であったらしい。 (「四三 地震および火山噴火に関する思想の変遷」より)
  • #10 土神と狐/フランドン農学校の豚宮沢賢治

     一本木の野原の北のはずれに、少し小高く盛りあがった所がありました。イノコログサがいっぱいに生(は)え、そのまん中には一本のきれいな女の樺(かば)の木がありました。
     それはそんなに大きくはありませんでしたが、幹(みき)はテカテカ黒く光り、枝は美しく伸びて、五月には白き雲をつけ、秋は黄金(きん)や紅(べに)やいろいろの葉を降(ふ)らせました。
     ですから、渡り鳥のカッコウやモズも、また小さなミソサザイやメジロもみんな、この木に停(と)まりました。ただ、もしも若い鷹(たか)などが来ているときは、小さな鳥は遠くからそれを見つけて決して近くへ寄(よ)りませんでした。
     この木に二人の友だちがありました。一人はちょうど五百歩ばかり離れたグチャグチャの谷地(やち)の中に住んでいる土神(つちがみ)で、一人はいつも野原の南の方からやってくる茶いろの狐(きつね)だったのです。
     樺(かば)の木は、どちらかといえば狐の方がすきでした。なぜなら、土神(つちがみ)の方は神という名こそついてはいましたが、ごく乱暴で髪もボロボロの木綿糸(もめんいと)の束(たば)のよう、眼も赤く、きものだってまるでワカメに似(に)、いつもはだしで爪(つめ)も黒く長いのでした。ところが狐の方はたいへんに上品なふうで、めったに人を怒らせたり気にさわるようなことをしなかったのです。
     ただもし、よくよくこの二人をくらべてみたら、土神(つちがみ)の方は正直で、狐はすこし不正直(ふしょうじき)だったかもしれません。 (「土神と狐」より)
  • #11 地震学の角度から見た城輪柵趾今村明恒

     出羽の柵址と見るべきものが発見されたのは昭和六年(一九三一)のことである(『史跡調査報告第三』「城輪柵址の部」参照)。この城輪柵址が往古の出羽柵に相当すとの考説は、地震学の角度から見ても容疑の余地がないようである。
     城輪柵址は山形県飽海郡本楯村大字城輪(きのわ)を中心として、おおむね正方形をなし、一辺が約四〇〇間あり、酒田市から北東約八キロメートルの距離にある。掘り出されたのは柵材の根株であるが、これが完全に四門や角櫓の跡を示している。
     この柵址が往古の出羽柵に相当すとの当事者の見解は、地理的関係にあわせて、秋田城内の高泉神とこの柵の城輪神が貞観七年(八六五)と元慶四年(八八〇)とにおいて同時に叙位せられた事実などに基づくもののようであるが、蛇足ながら余は次の諸点をも加えたい。

     一、場所が海岸線から約五キロメートルの距離にあり、しかもこの海岸地方は、酒田市北方から吹浦に至るまで、(略)急性的にも将た慢性的にも、著しく沈下をなす傾向を有す。しかもこの傾向は奥羽海岸地方中においてこの小区域に特有されていること。
     奥羽沿岸における精密水準測量の結果として過去三十余年間における水準変化に、沈下量一〇センチメートル、その延長距離一六キロメートル以上に達する場所を求めるならば上記の酒田以北吹浦に至るまでが唯一のものであるが、しかもそのうち日向川以北およそ五キロメートルの間は三十三年間に約二〇センチメートルほどの漸進的沈下をなしたのであって、かくのごときは日本全国においてきわめて稀有の例である。これすなわち城輪柵址にもっとも近き海岸であるが、この地方を除き、奥羽沿岸の他の地方は大地震とともに一般に隆起をともなう経験をもっている。(略)
     これを要するに、城輪柵址のある辺りは著明な沈下地帯であるが、もし試みに、大地震にともない、海岸線が著しく内陸に侵入するほどの沈下をなすべき地域を奥羽西海岸に求めるとしたならば、それは上記区域を除いては他に求められないであろう。(略)
  • #12 庄内と日高見(一)喜田貞吉

     はしがき
     庄内三郡
     田川郡と飽海郡、出羽郡の設置
     大名領地と草高――庄内は酒井氏の旧領
     高張田地
     本間家
     酒田の三十六人衆
     出羽国府の所在と夷地経営の弛張
     
     奥羽地方へ行ってみたい、要所要所をだけでも踏査したい。こう思っている矢先へ、この夏〔大正一一年(一九二二)〕、宮城女子師範の友人栗田茂次君から一度奥州へ出て来ぬか、郷土史熱心家なる桃生郡北村の斎藤荘次郎君から、桃生地方の実地を見てもらいたい、話も聞きたいといわれるから、共々出かけようじゃないかとの書信に接した。好機逸すべからずとは思ったが、折悪しく亡母の初盆で帰省せねばならぬときであったので、遺憾ながらその好意に応ずることができなかった。このたび少しばかりの余暇を繰り合わして、ともかく奥羽の一部をだけでも見てまわることのできたのは、畢竟、栗田・斎藤両君使嗾の賜だ。どうで陸前へ行くのなら、ついでに出羽方面にも足を入れてみたい。出羽方面の蝦夷経営を調査するには、まずもって庄内地方を手はじめとすべきだと、同地の物識り阿部正巳〔阿部正己。〕君にご都合をうかがうと、いつでもよろこんで案内をしてやろうといわれる。いよいよ思いたって十一月十七日の夜行で京都を出かけ、東京で多少の調査材料を整え、福島・米沢・山形・新庄もほぼ素通りのありさまで、いよいよ庄内へ入ったのが二十日の朝であった。庄内ではもっぱら阿部君のお世話になって、滞在四日中、雨天がちではあったが、おかげでほぼ、この地方に関する概念を得ることができた。その後は主として栗田君や斎藤君のお世話になって、いにしえの日高見国なる桃生郡内の各地を視察し、帰途に仙台で一泊して、翌日、多賀城址の案内をうけ、ともかく予定どおりの調査の目的を達することができた。ここにその間見聞の一斑を書きとめて、後の思い出の料とする。

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