今村明恒 いまむら あきつね
1870-1948(明治3.5.16-昭和23.1.1)
地震学者。理学博士。鹿児島県生まれ。明治38年、統計上の見地から関東地方に大地震が起こりうると説き、大森房吉との間に大論争が起こった。大正12年、東大教授に就任。翌年、地震学科の設立とともに主任となる。昭和4年、地震学会を創設、その会長となり、機関誌『地震』の編集主任を兼ね、18年間その任にあたる。


◇参照:Wikipedia、『日本人名大事典』(平凡社)。写真は、Wikipedia 「ファイル:Imamura_Akitsune.png」より。


もくじ 
地震学の角度から見た城輪柵趾 今村明恒


ミルクティー*現代表記版
地震学の角度から見た城輪柵趾

オリジナル版
地震學の角度から見た城輪柵趾

『喜田貞吉著作集』より
第一二巻 斉東史話・紀行文 目次
第一三巻 学窓日誌 目次
第一四巻 六十年の回顧・日誌 目次

地名年表人物一覧書籍
難字、求めよ
後記次週予告

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  • 一、漢数字の表記を一部、改めました。
  •    例、七百二戸 → 七〇二戸
  •    例、二萬六千十一 → 二万六〇一一
  • 一、和暦にはカッコ書きで西暦をおぎないました。年次のみのばあいは単純な置き換えにとどめ、月日のわかるばあいには陰暦・陽暦の補正をおこないました。
  • 一、カタカナ漢字混用文は、ひらがな漢字混用文に改めました。
  • 一、書名・雑誌名は『 』、論文名・記事名および会話文は「 」で示しました。
  • 一、差別的表現・好ましくない表現はそのままとしました。


底本:『雑誌荘内』第2巻第14号
   1939(昭和14)年3月
http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person1578.html

NDC 分類:453(地球科学.地学/地震学)
http://yozora.kazumi386.org/4/5/ndc453.html




地震学の角度から見た城輪柵きのわのさくあと

理学博士 今村明恒


 嘉祥かしょう三年(八五〇)の出羽大地震は、奥羽地方における上古の地下活動を論ずるにあたってきわめて重要な役割を受け持つものであるが、いかにせん、従来その震源の位置が明確を欠き、したがって後世におこった大地震中においてこれに類似の型を求めることが困難であったのである。しかるに最近における城輪柵きのわのさくあとの発見は、この問題の解決に対してもっとも大切な示唆をあたえたものと称すべく、奥羽地方上古の地下活動研究に一大光明を投じた感がある。
 城輪柵址の発見はかくして地震学にまで裨益ひえきをあたえるに至ったのであるが、反対に地震学の角度からこの史跡を見るとき、史跡調査諸賢の視野には映じなかったらしい他の方面が現われてくるように思われる。もし、これに関する本記事が些少さしょうなりとも参考に資する点があるならば望外の幸いである。

   ×   ×   ×   ×

 嘉祥地震に関しては『三代実録』所載、出羽国守坂上さかのうえの大宿祢茂樹の上書と『文徳もんとく実録』所載記事および詔書とが参考記録である。『大日本地震史料』に「国府井口いのくちの地山谷処を易うまた海波をげ」とあるは編者の誤解である。『三代実録』には次のように書いてある。

 光孝天皇仁和三年(八八七)五月二十日、先是出羽国守従五位下坂上大宿祢茂樹上言、国府在出羽郡いではぐん井口いのくち地、即去延暦年中(七八二〜八〇六)陸奥守従五位下小野おのの朝臣岑守みねもり拠大将軍従三位坂上さかのうえの大宿祢田村麻呂むら論奏所建也、去嘉祥三年(八五〇)地大震動、形勢変改、既成雲泥、加之しかのみならず、海水漲移、迫府六里処、大川崩壊去こう一町余、両端受害、無力塞、湮没いんぼつ之期在于旦暮たんぼ、望請遷建最上郡もがみぐん大山郷おおやまごう保宝士野拠其険固避彼危殆者(中略)、太政官因国宰解状討覈とうかく事情曰、避水遷府之議雖得其宜、去中出外之謀未見其便、何者最上郡もがみぐん地在国南辺、有山而隔、自河而通、河水浮舟纜有運漕之利、寒風結凍曽無向路之期、況復秋田維勝城雄勝城おかちのきか。相去己遥、烽候不接(中略)、以此論之、南遷之事難可聴許ちょうきょ、須択旧府近側高敞之地、閑月遷造、不妨農務、用其旧材勿労新採、官帳之数不得増減、勅宣宜依太政官議早令行之。

また『文徳もんとく実録じつろく』所載の記事は次のとおりである。

冬十月乙巳きのとみ朔、庚申かのえさる、出羽国上言、地大震裂、山谷易処、圧死者衆。

これに対する詔書は次のとおりである。

十一月甲戌きのえいぬ朔、丙申ひのえさる、詔曰、紫極しきょく高映、運亭毒而不言、(中略)、険徳僣和、柔祗告譴、出羽州壊、偏応銅龍之機、辺府黎、空被梟禽之害、邑居震蕩しんとう、踏厚載而不安、城柵傾頽けいたい、想難虞而益恐、(中略)、其被災最甚、不能自存、使国商量しょうりょう免けんめん租調、并不問民狄、開倉廩そうりん貸振其生業、莫使重困(後略)

 上記の文献に対しては従来、種々の異なれる解釈がおこなわれていた。国府所在地の井口いのくち井上郷いのえごうであろうとか、否、最上郡もがみぐん保宝士野(現在の最上川もがみがわ中流域、稲舟村いなふねむらの隣村八向村やむきむらにある福寿野ふくじゅのなりと)を南遷という以上、当時の国府は由利郡ゆりぐんの辺りにあったろうかという類であるが、事実は最近発見された城輪柵址に相当するに相異ない。海水漲移して府の六里のところに迫るというにも異説があったが、当時の六里は現今の一里にあたるべく、陸地が沈下したのであろうか、海岸線が府から四キロメートルほどのところへ近寄ってきたとの意味であろう。出羽の柵址の発見や、文化大地震にともなった地変ならびに最近における水準変化の結果から見て、か推定されるのである。
 出羽の柵址と見るべきものが発見されたのは昭和六年(一九三一)のことである『史跡調査報告第三』「城輪柵址の部」参照)。この城輪柵址が往古の出羽柵に相当すとの考説は、地震学の角度から見ても容疑の余地がないようである。
 城輪柵址は山形県飽海郡あくみぐん本楯村もとたてむら大字城輪きのわを中心として、おおむね正方形をなし、一辺が約四〇〇間あり、酒田市から北東約八キロメートルの距離にある。掘り出されたのは柵材の根株ねかぶであるが、これが完全に四門しもん角櫓すみやぐらの跡を示している。
 この柵址が往古の出羽柵に相当すとの当事者の見解は、地理的関係にあわせて、秋田城内の高泉神とこの柵の城輪神が貞観七年(八六五)と元慶四年(八八〇)とにおいて同時に叙位せられた事実などに基づくもののようであるが、蛇足ながら余は次の諸点をも加えたい。

 一、場所が海岸線から約五キロメートルの距離にあり、しかもこの海岸地方は、酒田市北方から吹浦ふくらに至るまで、特に日光川日向川にっこうがわか。の川口から北方月光川がっこうがわの川口に至る十キロメートルぐらいの間は、急性的にもた慢性的にも、著しく沈下をなす傾向を有す。しかもこの傾向は奥羽海岸地方中においてこの小区域に特有されていること。
 奥羽沿岸における精密水準測量の結果として過去三十余年間における水準変化に、沈下量一〇センチメートル、その延長距離一六キロメートル以上に達する場所を求めるならば上記の酒田以北吹浦ふくらに至るまでが唯一のものであるが、しかもそのうち日向川にっこうがわ以北およそ五キロメートルの間は三十三年間に約二〇センチメートルほどの漸進的ぜんしんてき沈下をなしたのであって、かくのごときは日本全国においてきわめて稀有の例である。これすなわち城輪柵址にもっとも近き海岸であるが、この地方を除き、奥羽沿岸の他の地方は大地震とともに一般に隆起をともなう経験をもっている。小藤博士小藤ことう文次郎ぶんじろうか。調査によるも上記小区域が文化元年(一八〇四)大地震において著しい沈下をなしたことが認められるが、すなわち「昨年(明治二十七年(一八九四)比較的軽震にて文化度に激烈なりしは日向川にっこうがわの南辺、本楯もとたておよびその北方宮内みやうちより月向川月光川がっこうがわか。丸子まりこにわたる区域にあり、後者においては人家地盤とともに土中に沈み、その跡沼のごとく変ぜりという。また日向川にっこうがわ以北の海岸砂山は昨年と異なり、地中に大地割を生じ、左右にひらき、大いに高さを揺り滅せしとのことなり」と記してある『震災報告』第八号)
 これを要するに、城輪柵址のある辺りは著明な沈下地帯であるが、もし試みに、大地震にともない、海岸線が著しく内陸に侵入するほどの沈下をなすべき地域を奥羽西海岸に求めるとしたならば、それは上記区域を除いては他に求められないであろう。
 二、『三代実録』にいう「大川崩壊しこうを去る一町余」の大川は最上川たることに疑いはない。伝説にも大昔、問題の柵址のあたりを最上川が流れていたといい、柵址の南部にある古川ふるかわの地がそれに相当し、字名もこれにもとづいたといわれている。
 最上川が往古このあたりを流れていたとの説は地形学上からも肯定される。元来、庄内平野はその東側の東山にて限られているが、この境界線は小藤博士によれば曲折断層であって、その北部をなしている中牧田なかまきた松嶺まつみね町の西北一キロメートル半)から市条いちじょう(柵址東方二キロメートル)に至る約一〇キロメートルの間はおおむね一直線をなし、清川きよかわから中牧田なかまきたに至る最上川の流路がさらに北進してこの断層線に沿うて延びていたことを想わしめるものがある。試みに陸地測量部『五万分の一地図』を開いてこの辺りを一瞥いちべつしたならばこの仮想流路には全然村落を欠き、川床の跡らしいとの想像をいっそう深からしめるであろう。
 最上川の流路がしだいに南遷したことは徳川幕府時代にもその証跡がある『震災報告』九五号、参照)。また精密水準測量結果によるに、線路が最上川ほどの大川をよこぎるとき、V字形断層型の水準変更が経験せられるのを普通とするに、現在の最上川をよこぎる場合にはかようなものがまったく現われないのみならず、かえって日向川にっこうがわと月向川月光川がっこうがわか。との流域間においてそれが現われる事実は、最上川の本来の流路がこのあたりにあったことを思わしめるに十分である。
 三、詔書に「城柵傾きくずれ」とあるが、その結果として残存根株ねかぶがあるいは傾斜しあるいは列を乱したはずである。元来、柵址地域は東部に高く、西部に低いから、創設の当時においても西部は比較的に卑湿ひしつであったと想像して可なるべく、はたしてしからば柵の傾頽けいたいは西部において起こりやすい状態にあったと見なければならぬ。柵址検査の結果、柵の根株ねかぶは概して整列直立しているにかかわらず、西北すみに近い部分においてはそれが南に傾き、また食い違いを生じていたそうである。柵の廃滅後における著しい地下変動としては文化元年(一八〇四)および明治二十七年(一八九四)の大地震をあげることができるが、ただしそれは地下に埋没せる根株ねかぶの位置を擾乱じょうらんせしめる原因としては微弱である。かく考えるとき、問題における柵根の擾乱は詔書にいわゆる城柵傾頽けいたいに相当するものと見てよいであろう。
 四、「国府在出羽郡いではぐん井口地」という井口いのくちの地が永く疑問として残され、『和名抄』にある井上郷いのえごうをこれに擬したものすらある。ただし柵址の発見によりてただちに気づかれるのは、その地域中もっとも高燥な部分が本楯村もとたてむら樋の口の地であり、守護神城輪きのわ神社もここに近く建てられたくらいだから、国府のごとき重要な建造物も同様であったろうと想像し得られる。樋の口と井の口とは音義ともに相近いから、現在の樋の口の地を上古の井口いのくちの地とするも牽強けんきょう付会ふかいではあるまい。

 以上の根拠によりて、余は上古の国府ならびに出羽柵がこの城輪柵址に相当するに相違ないと信ずるものである。かつて「南遷之事難可聴許ちょうきょ」の南遷に疑義がはさまれていたが、これも自然に解消し、また田川郡がわぐん郡家から西浜をへて国府に達する里程五十余里というにも疑義がはさまれていたが、五十余里を当分の八里余と見るとき、この疑義おのずから解消するであろう。
 嘉祥かしょう大地震に大破した国府の位置が上記のとおりであり、その付近に陸地沈降がおこったこと既記のとおりでありとするとき、地震現象が文化大地震のばあいに彷彿ほうふつするのが気づかれる。文化大地震のばあいには小砂川こさがわあたりから象潟きさかたをへて平沢ひらさわに至るまで、著しい隆起がともなったことは余がしばしば記載したとおりであるが、嘉祥地震のばあいにもまた同様の地変がともなったとしても不合理ではあるまい。
 文化地震にともない、鳥海山ちょうかいさん以北の海岸地方が著しい隆起をなしたことは著明な事実であるが、旧記ならびに現今なお追跡し得られる旧汀線ていせんは象潟および金の浦金浦このうらか。における隆起量がそれぞれ二二〇センチメートルおよび一七〇センチメートルであったことを証拠立てる。小砂川こさがわにおける隆起は記録こそないが、三一〇センチメートルの隆起のあったことは疑いの余地がない。しかるにこれらの海岸における岩壁をさらに熟視してみると、いま一つその上部おおむね二三〇センチメートルの高さに、やや不鮮明な汀線ていせんが気づかれる。同様に金の浦金浦このうらにおいても一七〇センチメートル線の上方さらに一三〇センチメートルの高さにおいていま一つ古い汀線ていせんが気づかれる。これらの第二汀線ていせんの痕跡の存在は文化大地震に匹敵すべき大地震がその以前にあったことを物語るものであろうが、この大地震が嘉祥のものに相当するならんとの仮定はあながち荒唐無稽なものでもないと思う。
 余は従来、嘉祥地震の震源を現在の西田川郡にしたがわぐんのあたりに取っていたが、これは誤解であった。むしろこれを飽海郡あくみぐん以北に取り、かつ文化大地震の同一の型であったとする方が真相に近いであろう。 『史跡名勝天然記念物』十四の二)



底本:『雑誌荘内』第2巻第14号
   1939(昭和14)年3月
入力:しだひろし
校正:
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地震學の角度から見た城輪柵趾

理學博士 今村明恒

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【テキスト中に現れる記号について】

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「風+昜」、第3水準1-94-7]

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)それ/″\
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
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 嘉祥三年の出羽大地震は奧羽地方に於ける上古の地下活動を論ずるに方つて極めて重要な役割を受持つものであるが、如何にせん、從來其の震原の位置が明確を缺き、隨つて後世に起つた大地震中に於て之に類似の型を求めることが困難であつたのである。然るに最近に於ける城輪柵阯の發見は此の問題の解決に對して最も大切な示唆を與へたものと稱すべく、奧羽地方上古の地下活動研究に一大光明を投じた感がある。
 城輪柵阯の發見は斯くして地震學にまで裨益を與へるに至つたのであるが、反對に地震學の角度から此の史蹟を見るとき、史蹟調査諸賢の視野には映じなかつたらしい他の方面が現れて來るやうに思はれる。若し之に關する本記事が些少なりとも參考に資する點があるならば望外の幸である。
   ×   ×   ×   ×   ×
 嘉祥地震に關しては三代實録所載出羽國守坂上大宿禰茂樹の上書と文徳實録所載記事及び詔書とが參考記録である。大日本地震史料に「國府井口の地山谷處を易ふ又海波を※[#「風+昜」、第3水準1-94-7]げ」とあるは編者の誤解である。三代實録には次のやうに書いてある。
[#ここから1字下げ]
 光孝天皇仁和三年五月廿日、先是出羽國守從五位下坂上大宿禰茂樹上言、國府在出羽郡井口地、即去延暦年中陸奧守從五位下小野朝臣岑守據大將軍從三位坂上大宿禰田村麻呂論奏所建也、去嘉祥三年地大震動、形勢變改、既成雲泥、加之、海水漲移、迫府六里處、大川崩壞去隍一町餘、兩端受害、無力塞、湮沒之期在于旦暮、望請遷建最上郡大山郷保寳士野據其險固避彼危殆者(中略)、太政官因國宰解状討覈事情曰、避水遷府之議雖得其宜、去中出外之謀未見其便、何者最上郡地在國南邊、有山而隔、自河而通、河水浮舟纜有運漕之利、寒風結凍曾無向路之期、況復秋田維勝城[#「維勝城」は底本のまま]相去己遙、烽候不接(中略)、以此論之、南遷之事難可聽許、須擇舊府近側高敞之地、閑月遷造、不妨農務、用其舊材勿勞新採、官帳之數不得増減、勅宣宜依太政官議早令行之。
[#ここで字下げ終わり]
又文徳寶録[#「寶録」は底本のまま]所載の記事は次の通りである。
[#ここから1字下げ]
冬十月乙巳朔、庚申、出羽國上言、地大震裂、山谷易處、壓死者衆。
[#ここで字下げ終わり]
之に對する詔書は次の通りである。
[#ここから1字下げ]
十一月甲戍[#「戍」は底本のまま]朔、丙申、詔曰、紫極高映、運亭毒而不言、(中略)、險徳僭和、柔祗告譴、出羽州壞、偏應銅龍之機、邊府黎※[#「田+亡」、U+753F]、空被梟禽之害、邑居震蕩、蹈厚載而不安、城柵傾頽、想難虞而益恐、(中略)、其被災最甚、不能自存、使國商量、※[#「縊のつくり+蜀」、第4水準2-88-2]免租調、并不問民狄、開倉廩貸振其生業、莫使重困(後略)。
[#ここで字下げ終わり]
 上記の文献に對しては從來種々の異れる解釋が行はれてゐた。國府所在地の井口は井上郷であらうとか、否、最上郡保寳士野(現在の最上川中流域稻舟村の隣村八向村にある福壽野なりと)を南遷といふ以上、當時の國府は由利郡の邊にあつたらうかといふ類であるが、事實は最近發見された城輪柵趾に相當するに相異ない。海水漲移して府の六里の處に迫るといふにも異説があつたが、當時の六里は現今の一里に當るべく、陸地が沈下したのであらうか、海岸線が府から四粁程の處へ近寄つて來たとの意味であらう。出羽の柵阯の發見や、文化大地震に伴つた地變並に最近に於ける水準變化の結果から見て、然か推定されるのである。
 出羽の柵阯と見るべきものが發見されたのは昭和六年のことである(史蹟精査[#「精査」は底本のまま]報告第三城輪柵阯の部參照)。此の城輪柵趾が往古の出羽柵に相當すとの考説は地震學の角度から見ても容疑の餘地が無いやうである。
 城輪柵は阯[#「は阯」は底本のまま]山形縣飽海郡本楯村大字城輪を中心として、概ね正方形をなし、一邊が約四百間あり、酒田市から北東約八粁の距離にある。掘出されたのは柵材の根株であるが、これが完全に四門や角櫓の跡を示してゐる。
 此の柵阯が往古の出羽柵に相當すとの當事者の見解は地理的關係に併せて、秋田城内の高泉神と此の柵の城輪神が貞觀七年と元慶四年とに於て同時に叙位せられた事實等に基づくものゝやうであるが、蛇足ながら余は次の諸點をも加へたい。
 一、場處が海岸線から約五粁の距離にあり、而も此の海岸地方は、酒田市北方から吹浦に至るまで、特に日光川[#「日光川」は底本のまま]の川口から北方月光川の川口に至る十粁位の間は急性的にも、將た慢性的にも、著しく沈下をなす傾向を有す、而も此の傾向は奧羽海岸地方中に於て此の小區域に特有されてゐること。
 奧羽沿岸に於ける精密水準測量の結果として過去三十餘年間に於ける水準變化に、沈下量十糎、其延長距離十六粁以上に達する場處を求めるならば上記の酒田以北吹浦に至るまでが唯一のものであるが、而も其の中日向川以北凡そ五粁の間は三十三年間に約二十糎程の漸進的沈下をなしたのであつて、斯の如きは日本全國に於て極めて稀有の例である。是れ即ち城輪柵阯に最も近き海岸であるが、此地方を除き、奧羽沿岸の他の地方は大地震と共に一般に隆起を伴ふ經驗を有つてゐる。小藤博士調査に據るも上記小區域が文化元年大地震に於て著しい沈下をなしたことが認められるが、即ち「昨年(明治二十七年)比較的輕震にて文化度に激烈なりしは日向川の南邊、本楯及其の北方宮内より月向川[#「月向川」は底本のまま]の丸子に渉る區城[#「區城」は底本のまま]にあり、後者に於ては人家地盤と共に土中に沈み、其の跡沼の如く變ぜりといふ。又日向川以北の海岸砂山は昨年と異なり、地中に大地割を生じ、左右に開き、大に高さを搖り滅せしとのことなり」と記してある(震災報告第八號)。
 之を要するに、城輪柵阯のある邊は著明な沈下地帶であるが、著し試みに、大地震に伴ひ、海岸線が著しく内陸に侵入する程の沈下をなすべき地域を奧羽西海岸に求めるとしたならば、それは上記區域を除いては外に求められないであらう。
 二、三代實録に謂ふ「大川崩壞し隍を去る一町餘」の大川は最上川たることに疑はない。傳説にも大昔、問題の柵阯の邊を最上川が流れてゐたと云ひ、柵阯の南部にある古川の地がそれに相當し、字名も之に基いたと言はれてゐる。
 最上川が往古此邊を流れてゐたとの説は地形學上からも肯定される。元來莊内平野は其の東側の東山にて限られてゐるが、此の境界線は小藤博士に據れば曲折斷層であつて、其の北部をなしてゐる中牧田(松嶺町の西北一粁半)から市條(柵阯東方二粁)に至る約十粁の間は概ね一直線をなし、清川から中牧田に至る最上川の流路が更に北進して此の斷層線に沿うて延びてゐたことを想はしめるものがある。試みに陸地測量部五萬分一地圖を開いて此の邊を一瞥したならば此の假想流路には全然村落を缺き、川床の跡らしいとの想像を一層深からしめるであらう。
 最上川の流路が次第に南遷したことは徳川幕府時代にも其の證跡がある(震災報告九五號參照)。又精密水準測量結果に據るに、線路が最上川程の大川を横切るとき、V字形斷層型の水準變更が經驗せられるのを普通とするに、現在の最上川を横ぎる場合には斯樣なものが全く現れないのみならず、却て日向川と月向川[#「月向川」は底本のまま]との流域間に於てそれが現れる事實は、最上川の本來の流路が此の邊にあつたことを思はしめるに十分である。
 三、詔書に「城柵傾き頽れ」とあるが、其の結果として殘存根株が或は傾斜し或は列を亂した筈である。元來柵阯地域は東部に高く、西部に低いから、創設の當時に於ても西部は比較的に卑濕であつたと想像して可なるべく、果して然らば柵の傾頽は西部に於て起り易い状態にあったと見なければならぬ。柵阯檢査の結果、柵の根株は概して整列直立して居るに拘らず、西北隅に近い部分に於てはそれが南に傾き又喰違を生じてゐたさうである。柵の廢滅後に於ける著しい地下變動としては文化元年及び明治二十七年の大地震を擧げることが出來るが、併しそれは地下に埋沒せる根株の位置を擾亂せしめる原因としては微弱である。斯く考へるとき、問題に於ける柵根の擾亂は詔書に所謂城柵傾頽に相當するものと見てよいであらう。
 四、「國府在出羽郡井口地」といふ井口の地が永く疑問として殘され、和名抄にある井上郷を之に擬したものすらある。併し柵阯の發見によりて直ちに氣附かれるのは、其の地域中最も高燥な部分が本楯村樋の口の地であり、守護神城輪神社も此處に近く建てられた位だから、國府の如き重要な建造物も同樣であつたらうと想像し得られる。樋の口と井の口とは音義共に相近いから、現在の樋の口の地を上古の井口の地とするも牽強附會ではあるまい。
 以上の根據によりて、余は上古の國府並に出羽柵が此の城輪柵阯に相當するに相違ないと信ずるものである。曾て「南遷之事難可聽許 [#閉じカッコなしは底本のまま]の南遷に疑義が挾まれてゐたが、これも自然に解消し、又田川郡々家から西濱を經て國府に達する里程五十餘里といふにも疑義が挾まれてゐたが、五十餘里を當分の八里餘と見るとき、此の疑義自ら解消するであらう。
 嘉祥大地震に大破した國府の位置が上記の通りであり、其の附近に陸地沈降が起つたこと既記の通りでありとするとき、地震現象が文化大地震の場合に彷彿するのが氣附かれる。文化大地震の場合には小砂川邊から象潟を經て平澤に至るまで、著しい隆起が伴つたことは余が屡々記載した通りであるが、嘉祥地震の場合にも亦同樣の地變が伴つたとしても不合理ではあるまい。
 文化地震に伴ひ、鳥海山以北の海岸地方が著しい隆起をなしたことは著明な事實であるが、舊記並に現今尚ほ追跡し得られる舊汀線は象潟及び金の浦に於ける隆起量がそれ/″\二百二十糎及び百七十糎であつたことを證據立てる。小砂川に於ける隆起は記録こそないが、三百十糎の隆起のあつたことは疑の餘地がない。然るに此等の海岸に於ける岩壁を更に熟視して見ると、今一つ其の上部概ね二百三十糎の高さに、稍不鮮明な汀線が氣附かれる。同樣に金の浦に於ても百七十糎線の上方更に百三十糎の高さに於て今一つ舊い汀線が氣附かれる。此等の第二汀線の痕跡の存在は文化大地震に匹敵すべき大地震が其の以前にあつたことを物語るものであらうが、此の大地震が嘉祥のものに相當するならんとの假定は強ち荒唐無稽なものでもないと思ふ。
 余は從來嘉祥地震の震原を現在の西田川郡の邊に取つてゐたが、此は誤解であつた。寧ろ之を飽海郡以北に取り、且つ文化大地震の同一の型であつたとする方が眞相に近いであらう。      (史蹟名勝天然記念物十四ノ二)


※ 趾と阯の混用は底本のとおり。
底本:『雑誌莊内』第2巻第14号
   1939(昭和14)年3月
入力:しだひろし
校正:
xxxx年xx月xx日作成
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『喜田貞吉著作集 第一二巻 斉東史話・紀行文』
目次


 I
斉東史話
自序 年号と治世の号 縁結びの神 道祖神を縁結びの神ということ 道祖神と生殖器崇拝 縁起のうそ 善光寺の阿弥陀如来 本田善光 善光寺如来仏座の位置 善光寺新仏の御歌 徳川幕府僧侶女犯禁止の励行 公家の人口調節と出家得道 蔭子・蔭孫と華族制度 知らぬが仏の昔の国際関係 倭奴国と倭人 自己尊大の国 建国以来の氏子 建国以前の旧家 長髄彦の子孫 それは清衡公に聞いて貰いたい 我々アイヌの後裔なる奥州人 合の子民族 複成民族たることの誇り 腹は借り物、腹は畠 他種族を毛嫌いせぬ日本民族 日本民族の包容性 隼人を犬ということ アイヌの祖先は犬ということ 北海道のアイヌと奥羽の蝦夷 伊勢参宮を三度すれば蝦夷も日本人になる 外ガ[#「ガ」は小書き]浜の狄爺那となる うそしても蝦夷語言うな宇鉄村 いずれも同じ日本人 いわゆる美人系 家柄と血統 北越・奥羽は美人系 アイヌは白人系か わが古代を見んにはまず琉球を見よ 沖縄の文化と山原美人 毛の多い日本人 アイヌ族と日本民族との歩み寄り お種頂戴 アイヌの血 蝦夷の内地移住 内地移住の蝦夷の末路 エミシを一人、百な人 いみじき盗賊 サムライ(侍)と武士 武士とエビス 忠勇なる武夫 マット狢 武士道に関する一考察 武士と系図 系図の尊重 系図の穿鑿 成り上りと成り下り あてにならぬ系図 名家の仮冒 秀吉は系図仮冒の親玉 さすがに正しい公家の系図 パパとママ 汽車から落ちた 男親をチチと呼ぶ邦語 オヤと言えば母 女ならでは夜の明けぬ国 千二百年前の市民の投票 米糞上人 数理 他人の土蔵を博奕のたて物 昔の人の見た商人 出入商人の奸策 百姓 大みたから 徒党 犯人捜索と手形 犯人捜索と三輪山伝説 血液型による親子の鑑定 名称の変更 君と公 「おまえ」と「御前」 「正親町」の読み方 細君の異名 オンボウ(御坊) ハッチ坊主 用心棒 湯屋と風呂屋 汚穢忌避の習俗と浴湯の発達 湯屋の発達と温泉との関係 「猪」と「鹿」と「しし」 肉食禁忌の風習 血の穢れと肉の穢れ 牛膓祭 隠し念仏 大仏は奴隷血肉の結晶ということについて 「道鏡皇胤論」について 京間と田舎間と奈良間 仏像の反射する魔鏡のこと 現状維持 東京の地価 歌人いながらに名所を作る 坊ッちゃんと坊んさん わが上代の祓 アイヌのツグノイ 僧侶の白衣 朝鮮の白丁 紀伊に多い「何楠」という人名 手長足長 手長と膳夫 土師部と粘土採掘権 百姓は猥りに米を喰うべからず 河屋


 II
隠岐日記
はしがき 夜見ガ[#「ガ」は小書き]浜 境から美保へ 美保神社 地蔵ガ[#「ガ」は小書き]崎 美保の一夜 隠岐への海上 島前と島後 西郷の一昼二夜 津戸への恐ろしい波の上 津戸の二昼夜(上) 「わに」と「みち」 津戸の二昼夜(下) 黒木御所の跡という山

奈良・高野・和歌山六日の旅
春日の神鹿 菩薩の称号 太子奉賛 平城宮址保存 遺物蒐集家 高野登山 汚穢不浄之者入門不許 明王院の赤不動 高野の谷の者 霊宝館の古書展覧会 聖徳太子の御墓探し 太子に対する贔負の引倒し 三家者と連寂衆 和歌山の一昼夜

庄内と日高見
はしがき 庄内三郡 田川郡と飽海郡、出羽郡の設置 大名領地と草高 高張田地 本間家 酒田の三十六人衆 出羽国府の所在と夷地経営の弛張 出羽国分寺の位置に関する疑問 これは「ぬず」です 奥羽地方の方言、訛音 藤島の館址――本楯の館址 神矢田 夷浄福寺 庄内の一向宗禁止 庄内のラク町 庄内雑事 桃生郡地方は古えの日高見の国 佳景山の寨址 館と柵および城 広淵沼干拓 宝ガ[#「ガ」は小書き]峯の発掘品 古い北村 姉さんどこだい 二つの飯野山神社、一王子社と嘉暦の碑 日高見神社と安倍館 天照大神は大日如来 茶臼山の寨、桃生城 貝崎の貝塚 北上川改修工事、河道変遷の年代 合戦谷附近の古墳 いわゆる高道の碑

春雪の出羽路の三日
思いのほかの雪中旅行 箱雪車とモンペ 後三年駅 江畑新之助君 タヤとラク 防壁と立薦 雪の金沢柵址 金沢八幡社のお通夜 仙北の俘囚 山形泰安寺 荘内の獅子踊と神楽、サイドウ 山形県の史蹟調査について 山形城址 おばこ踊 羽黒の裸祭

大正乙丑宇鉄遊記抄
前記 寛文ころの諸狄村(上) 寛文ころの諸狄村(下) 舎利石 昆布納屋 地方に上下ということ 宇鉄の珍らしい石器時代遺物 宇鉄での聞書きいろいろ 裏切られた予想 熟蕃の娘を見て下さい 宇鉄の酋長四郎三郎アイヌ 長門屋伝四郎 イタコの祈祷 龍馬山義経寺 アイヌが何だ 外ガ[#「ガ」は小書き]浜づたいに青森へ

佐渡視察記
はしがき 大八洲の一としての佐渡 佐渡の地形とその国名 奥床しい夷町の名 武士道的な佐渡人の気風 えぞ船、えぞ言葉 御前様 石油ランプ 本間周敬君所蔵の土面 山本半蔵君の玉斧 石鏃の形態とその新古 佐渡の石器時代土器 佐渡の考古学界 真野陵参拝 豪族の館址 国分寺址 三宮貝塚 性の神、子王大権現 道祖神と性の神 石棒と凹み石 鼠除けの護符 佐渡のホイト 靴をケリといったことについて(追記)



底本:『喜田貞吉著作集 第一二巻 斉東史話・紀行文』平凡社
   1980(昭和55)年8月25日 初版第1刷発行
入力:しだひろし
校正:
xxxx年xx月xx日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。



『喜田貞吉著作集 第一三巻 学窓日誌』
目次


『民族と歴史』
大正八年
第二巻第五号
遠州平田寺 相良の鈴木文書 吉田博士の建碑式 温故堂坂兼治郎君 津雲貝塚発掘史

第二巻第六号
神武天皇高島宮址 田島の骨畠 呉郷文庫 葛城地方の古代 伊那の史料展覧 大本願と大勧進 お手長様 嗚呼田中先生

第三巻第一号
百姓の次三男が従五位殿 「善光寺草創考」 七福神の賊 史学研究会大会 読史会大会 摂津大掾 対馬の石塚

第三巻第三号
「善光寺草創考」下 小松原英太郎氏の薨去 南北朝問題の回顧

大正九年
第三巻第三号(承前)
興津の歳旦・潮花の行事 箱根登山鉄道 箱根強羅遊園地 シベリアの石器時代

第三巻第四号
社家の有官受領禁止 岩井雍南君の『日本古建築精華』 関西考古会 『土俗大観』 乳の欲しい人

第三巻第五号
何事もてての種じゃ由って―宗源宣旨 故富岡謙蔵君の『古鏡の研究』 『古墳発見石製模造器具の研究』 大和宇智郡の初踏査 栄山寺

第三巻第六号
阿※[#「こざとへん+施のつくり」、第4水準2-91-67]の鵜養と鬼筋 宇智の地方と隼人の旅 病間の黙想 『炉辺叢書』 『考古図集』 『土形・弊岐 蓁原君考』 亡き父の追懐

第三巻第七号
一家族同穴の墓 亡き姉の十七回忌 文禄朝鮮役の捕虜 ドイツ人クゲルさん 史学会大会 最後の文学博士会 聖徳太子奉賛 皇陵巡拝団 人類・考古・土俗に関する写真集の発行 図書館から図書局へ 『中央史壇』 時代風俗劇 銅鐸発見

第四巻第一号
鷹司鶴洲夫人遺愛の箪笥 律田敬武君の『神道起原論』 神戸史料展覧会 満鮮見物 再び摂津大掾

第四巻第二号
大本教 大漁―鉢巻の風習

第四巻第三号
華族の数 宮古島の抱き合い遺骨 金田一君のアイヌ人及びアイヌ語研究 蘆原温泉 若狭の細工村

第四巻第四号
盆踊 六斎念仏踊

第六巻第二号
珍らしい石器 御殿場在の神楽神子 浜村温泉 埴輪によくある古い形式の家作り 滝中菊太郎君 泊温泉 正倉院拝観 アイヌに関する講義聴講 舞子貝類館訪問


大正一〇年
第六巻第二号(承前)
飛鳥発見新酒槽の行衛 日本語の数詞 玉造温泉 出雲言葉 大社参詣 本山氏蒐集品 都巽軒和鏡展覧 倉光清六君 新しい踊念仏 宇治の県祭 神代史上の新発見

第六巻第四号
のろ汽車 日本語とシナ語、松村博士の『溯源語彙』 三田尻講演 防長地方の古代 穴門と長門 防府めぐり 防府の車塚 俗伝琳聖太子の塚 牟礼の鉢巻岩、豊島農園 千葉の講演 房総地方を主としたる上代の東国 飯野の古墳見学 「道鏡皇胤論」 鵯越と一の谷

第六巻第五号
馬鹿囃と大神楽 特殊部落解放運動 大江天也氏逝く

第六巻第六号
淵瀬常ならぬ飛鳥川 衣ほすてふ天の香久山 犬車 万燈会 飛騨の代官および郡代政治 耶馬台国 挙母行の軽鉄 実地踏査のお流れ 三河のあるササラ部落 新羅王陵の発掘 長沼賢海君の「夷神考再考」

第七巻第一号
正倉院拝観 鳥見の邑から富雄村へ 「てには」の「の」の存亡 生駒の聖天様 生駒山から志貴山へ 生駒と日下 瓢箪山稲荷大明神 熊野田楽 蘇我蝦夷・入鹿父子の墓 葛村という新村名 鉱石運搬より材木運搬へ 巨勢寺塔礎 安曇仙人と龍門寺 石棺の珍らしい埋没状態 本山氏邸の考古品展覧 広筋と狭筋 古代学の泰斗喜田博士―浜名湖畔の不思議な窟屋 橘園喜多貞吉君 肥前にドルメンの発見(?) 消防の今昔 弘法大師の入定説と火葬説

第七巻第二号
大阪茶臼山古墳 主義者 長沼君の「夷神再考」の続き 偽書『先代旧事本紀』 龍門寺の所在

大正一一年
第七巻第四号
耶馬台国の研究 湖南博士の日本文化観 六甲苦楽園 お座敷人形 岩が平古墳群 六甲山と甲山 厄神祭 『金森氏雑考』 ジョッフル元帥歓迎 史蹟考査に関する珍事件 内地におけるアイヌ族の末路 地獄線まわし 黄金の力 産児制限 同胞差別撤廃大会 望月の歌 水平社創立大会

第七巻第五号
大名領地図脱稿 『愛に満てる世を望みて』 同居同火を忌むことの由来 いわゆる部落民の数 昔の警察 賤民の家人と武士の御家人 茶漬 お摂待―四国遍路 案じられる幾日 阿波にアイヌ遺蹟の新発見

第七巻第六号
大名領地図納付 平等会 間引村 悲しき日 講組と氏族 産土神と氏神 本家と小家 偕老同穴

第八巻第一号
夷と鬼 南葛めぐり 森田氏蒐集発掘品 「後淡海宮御宇天皇論」 「親鸞聖人筆跡の研究」 勿体なや祖師は紙衣の九十年 京大創立二十五年記念会 「国分寺建立発願の詔勅について」 王さん屋敷

第八巻第二号
森鴎外博士逝く 僻地に遺れる大家族制 祇園祭の山鉾行列 『法然上人行状画図』 今西伊之吉君逝く 何某は部落民なり 清野博士の古代人骨調査 再び「後淡海宮御宇天皇論」について

第八巻第三号
いかもの喰い 雑誌『水平』 水平社と本願寺 浜田博士の『通論考古学』

第八巻第四号
親鸞聖人の研究 亡き母の初盆 故樋口杏斎先生 阿波の盆踊 池田町の古代住居跡 中庄八幡宮の盤境 性の神お花大権現 徳島旧城山岩窟内の遺蹟 子無税 童子と山人 氏神祭

第八巻第五号
阿花大権現の詩 内田博士の胸像除幕式 本朝相撲沿革史の編纂 長柄豊崎宮 『教行信證』に関する辻博士の講演 東大史学会大会 日蓮上人大師号宣下 全国学生雄弁大会 辻博士の講演について

第八巻第六号
善人尚以て往生す、況や悪人をや 大江山鬼退治祈願 病気透明不思議の施術 軍港見学 官幣大社丹生川上神社 伊勢人はひが事しけり 飛鳥地方史蹟案内 『大阪府全志』成る 同情と慈善 苦しかった大津講演 化石人骨発見の報

『社会史研究』
大正一一年
第九巻第一号
山形・宮城両県下旅行 新庄在の珍らしい土偶 龍巻 多賀城碑論の「弁妄」 石器時代遺物・遺蹟の研究 多賀城址の踏査 親鸞聖人と『教行信證』 『日本古建築精華』の完成 秦人と銅鐸 論戦遊戯 梅原真隆氏の『教行信證』誤読観 職人気質

第九巻第二号
仏像の首級 妻求ぎの願文

大正一二年
第九巻第二号(承前)
年始状 労働者の産児制限 佐野学君の『日本社会史序論』 雑誌『水平』第二号といわゆる水平運動 差別待遇に関する不平の声 斎瓮と土器・陶器 差別撤廃講演

第九巻第三号
志納金 人買いと監獄部屋 厄除の参詣者と吉田大元宮 『教行信證』問題 大和史談会生る 謝罪広告―エタという語 西本願寺蔵『教行信證』の複製本 『教行信證』に関する本多君の弁明 宇和島の鹿の子踊 豊橋鬼祭の田楽 殺生の徒

第九巻第四号
明石史談会 盛大なる本願寺の葬儀 純日本研究会 悪という姓 全国水平社大会 瀬田村の半日 医学博士と開業医 辻博士の『教行信證』に関する再駁 「誤読」と「読み方の相違」 草書の字体と五音相通 大和史学会発会式 鹿を逐う猟師山を見ず 世間の噂

第九巻第五号
『雅楽堂鶏肋集』巻一 因襲打破の建議案といわゆる特殊部落名称の問題 士族称号存否の問題 武士と特殊民 金爵結婚と金権結婚 水平社と国粋会の衝突 春雪の出羽路の三日 阿波に珍らしい石敢当 天王山裏山の古墳 河原の者 修行者と舞踊 顔役への貢ぎ金 難波文化史蹟展覧会 本多君の「教行信證の撰述者に就いて」の講演 例の『教行信證』誤読問題 部落民と残忍性 士族会と水平社 最後のシャア部落

第九巻第六号
古伝の堙滅と後世の誤解 この写真はあなたによく似ている 杉浦丘園君の糸印 児島高徳存否問題 真宗開宗七百年紀念大法要 島原の大夫の道中 山村の開発 水平運動に対する誤解 いかにして世人を理解せしめんか 時勢の変 華族求婚 いわゆる北越の一邪人 神泉院の大念仏無言狂言 南葛めぐり第三回 朝鮮の衡平社 「今上」の「今」の字 「教行信證新研究号」 歴史眼と教理眼 信仰の衝突と女犯の問題 『教行信證』の代作者か

第一〇巻第一号
琵琶湖底から奈良朝の古銭 山東土匪の横行 禿氏祐祥君の『教行信證考證』 本願寺と一向衆堂 西仏と大夫房覚明 『教行信證』の後序原訓の解釈 神経過敏 日本青銅文化の起原 東亜の探究は鳥居博士の独り舞台 学者の自重と宝の持ち腐れ 謝罪状 親鸞聖人『往生論註奥書』の読み方 蕃人と高砂族 『鉢の木』の史蹟争い 売文 祖師に対する敬語

第一〇巻第二号
説教僧 末子相続 痘痕も見様で笑窪に見える 『教行信證』に関する論戦とその批判 西本願寺の賽銭開き ルソンにおける日本人の後裔(?) 女系相続 人さまざま 国民研究会と『国民運動』創刊号 「魏末高斉之初」の解 再び大夫房覚明と西仏 奥羽北海道方面の視察旅行 電報の読み違い

第一〇巻第三号
奥羽北海道方面の視察旅行 アイヌのメノコ鍋沢ユキ子嬢 『穢多族に関する研究』 相模の国分寺址踏査 夏の高野山 高野の谷の者 粉河寺参詣 桑原子

第一〇巻第四号
生夷谷の懐古 川面凡児君 水平社と国民研究会 日高のアイヌ平村金太君 浜口熊嶽君 ポンソンビ・リチャード君 鍬形調査 小出寿之太先生 堺の妙国寺 淡路の四日 松前子爵の宝探し



底本:『喜田貞吉著作集 第一三巻 学窓日誌』平凡社
   1979(昭和54)年8月25日 初版第1刷発行
入力:しだひろし
校正:
xxxx年xx月xx日作成
青空文庫作成ファイル:
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『喜田貞吉著作集 第一四巻 六十年の回顧・日誌』
目次



 I
六十年の回顧
序言ならびに凡例 喜田貞吉略年譜 過去六十年の概観 発育不完全なる畸形児 感謝の六十年 わが生家のことども わが父のことども わが誕生と墳墓 負んぶして小学校へ 杏斎樋口先生のことども 懶け通した中学時代 一ヵ月の学資金三円なり 月給取の生活 第三高等中学校入学 「ヘイ」と「ハイ」から方向転換 三高在学中のことども 帝大入学と専攻学科の選択 帝大在学中のことども 学士の肩書切売の五年間 二足の草鞋 国定教科書の編纂 法隆寺建築年代論 平城京址の研究 学位受領 南北朝正閏問題 国定教科書に対する論難攻撃 問題の政治化 国定教科書の改訂 南朝正統説は既決の問題 生活更新 個人雑誌の発行 民族研究熱の高潮といわゆる特殊部落の解放運動 大名領知の調査、内田博士のこと、その他 東北帝大勤務中のことども 還暦祝賀記念会 旅行 論文著作年譜 後記


 II
震災日誌
大正一二年九月一日―六日
土塵濛々 地震よりも恐ろしい火事 夜中の情況視察 放火の警戒 食糧の心配 待ちかねた横浜の消息 嬉しき便り(一) 嬉しき便り(二) 見たものでなければ想像の出来ぬ惨状

震災後記
大正一二年九月七日―一〇月一八日


 III
随筆日録(一)(『歴史地理』所載)
大正一三年
第四三巻第三号
『社会史研究』と『歴史地理』との合併 原勝郎博士逝く 崇福寺と梵釈寺 北山十八間戸 奈良地獄谷の石仏 萩野由之先生逝く

第四三巻第四号
アイヌ語地名解 神前の供物と仏前の供物 大名領地図の完成

第四三巻第五号
法皇山の横穴群 石器時代民族の厚手派と薄手派ということ

第四四巻第一号
羽後仙北の竪穴群 その後の銅鐸説について

第四五巻第三号
平城宮址の保存工事 平安京大極殿址は共同便所 大唐平百済碑

大正一四年
第四五巻第三号(承前)
誕辰状

学窓日誌(『東北文化研究』所載)
昭和三年
第一巻第一号
東北遺物展覧会 お大名道具 福島県の古墳発掘 菅江真澄翁百年祭と角館史料展覧会 武家任官辞令の一型式 東にあっても北家 角館城址 小館 生保内竪穴 道祖神 田沢湖 銅鐸発見 蕨手刀 丹生川上神社三社 平城宮址の一新発見

第一巻第三号
宇陀から吉野ヘ 四ヵ所の鳥見 榛原の鳥見 いわゆる霊畤址 霊畤址考証の困難 丹生川上の旧蹟問題 鬼筋 足立と篠野 高倉山と高見山 宇賀志村と穿邑 丹生川上中社 丹生川上の親祭地新蹟 鳥見霊畤址新蹟 いわゆる伝説地について 国樔の翁 宮滝吉野郡院説 三十六町一里 吉野離宮と宮滝 宮滝の絶景と新発見の遺蹟 便利な世の中 考古学大会 国樔の沿革と蝦夷の末路 移住者の行く末

第一巻第五号
日出谷の石器時代遺蹟 日出谷という地名 名家の落胤 古銭発掘 南蒲原郡五十嵐神社の館址 南蒲原郡見聞雑事四則 ※[#「王+夬」、第3水準1-87-87]状耳飾と金環とニンガリ 珍しい大石槍 中頸城地方見聞雑事六則 文化小屋 荒陵山の石棺蓋 山形県郷土博物館 大石呉公君 山形県郷土研究会と庄内史談会 光丘文庫 旅行中恒例の小失策 青森県下の五日 偶然の暗合

第二巻第一号
子の出来る湯 蝦夷の遺※[#「((山/(追−しんにゅう)+辛)/子」、第4水準2-5-90]の村 ツチヤマキ 日本民族起原の一観察 大山史前学研究所 九州における俘囚安倍氏の遺蹟 アイヌ一行の災厄

昭和四年
第二巻第一号(承前)
東北文化会 怒ろうにも怒らりゃせん 実兄夫婦の金婚式 石原呉郷君所蔵の銅鼓 京都市の増区実施と左京区の名 いわゆる特殊部落と仏教、特に念仏宗 石器時代の植物性器具 銅鐸に銘文

第二巻第二号
柳田君の「人形とオシラ神」 オシラ神と夷の神 障らぬ神に祟りなし 有銘銅鐸(再び) 煙草飢饉

第二巻第三号
亀ケ岡出土土器 『日本案内記』 オシラ様の御神体調べ オシラ遊び 福岡市崇福寺所蔵銅鐸 根津氏蔵品拝見 その後の銅鐸に関する新発見について

第二巻第四号
『日向国史』の印刷 佐々木喜善君 本州における蝦夷の末路 米沢藩の屯田組織 貨幣のない時代 ヤップの石貨とアイヌの宝物 忘れられやすい古代文化 『広西両宮記』 地方官大更迭 阿波訛り 『日向国史』印刷の行悩み 名誉社友推薦 無茶な漢字制限 是川村遺蹟の新々発見 珍しい七戸在の竪穴 オシラ神像の原始型 イタコの市 津軽狄村所載の絵図 津軽浪岡の朱塗異形の櫛 文字ある石皿 モダンオシラ 石鏃の形とその数の割合 アスファルト坑内の土器 増村卯吉君 庄内高畑出土の編物漆器

第二巻第五号
手向百穴出土の漆器 尾浦城址の木柵発見 高橋健自君逝く 宮崎・福岡地方の十一日

昭和五年
第二巻第五号(承前)
蝦夷村と言われた久喜、小袖 血液型による民族的および団体的研究 『日向国史』出版完成 飛鳥浄見原宮址 春日の御田植祭 東北大学学生上方見学 時田館ほか数館視祭 遺物の鑑定 横川目での見聞雑記 山野菜のいろいろ 愛宕山館 五十集屋 火葬の塚とその石棺 払田柵址 払田柵はなにものか 払田柵と答甲城 庄内地方の柱根 尾浦城門址の木柵 陸前三本木方面の遺物・遺蹟 奇禍 死に関する所感 菓子よりも砂糖、砂糖よりも金


随筆日録(二)(『歴史地理』所載)
昭和七年
第六一巻第四号
鳴子考古品陳列館 石器時代の穴蔵 沼館の好適例=四十二館 是川遺蹟記念館 隠し念仏

第六一巻第六号
平館の一例=津軽飯詰館 酒井忠純氏蔵珍土器 板井のいろいろ 独木舟の埋没 陰石 アスファルトの膠着せる石鏃 男女の両性をあらわした土偶 ケットの調査報告聴取

昭和八年
第六二巻第一号
田中光顕伯訪問

第六二巻第二号
直弧紋を描出した盾の埴輪 飛鳥の石葺 僧侶の妻帯禁止 小楠公遺詠の証明書 女人解放の高野山

第六二巻第三号
常成梅 弥彦神社 石船柵址踏査 念珠関と都岐沙羅柵

第六二巻第五号
天満獅子 独木舟廃物利用の謎 山形の印役神社 還暦記念六十年の回顧 今は隠さぬ隠し念仏 奥羽地方における各時代文化遺物の共存 骨製青龍刀形石器時代遺物 鹿角の初視察 風張の一円墳と小竪穴 野中堂のいわゆるストーンサークル 猿賀神社参拝(田道戦歿之地) 小枝指館その他 枯草木坂の古墳 泉森発掘の刀剣

第六三巻第二号
上越鉄道沿線の初踏査 護国の神と五穀の神 陰石、陽石

第六三巻第三号
石器時代石葺住宅址 竪穴から土師器と縄文土器 飯綱山石器時代遺蹟 余川古墳群 ヒナタ山改め舟岡山 両面土偶 異形石冠 他人の妻妾を抱くベからず 安倍貞任の後裔 奥利根の石葺住宅址 浅見作兵衛氏の蔵品

第六四巻第一号
北海道日高国荷負発掘の鎧 北海道原始文化展覧会 発寒の環状石籬と古墳

第六四巻第二号
夷酋シャクシャインに関する異伝 稲田家の開墾事業 椚別金毘羅社

IV
著作目録



底本:『喜田貞吉著作集 第一四巻 六十年の回顧・日誌』平凡社
   1982(昭和57)年11月25日 初版第1刷発行
入力:しだひろし
校正:
xxxx年xx月xx日作成
青空文庫作成ファイル:
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*地名

  • [奥羽] おうう 陸奥と出羽。現在の東北地方。福島・宮城・岩手・青森・秋田・山形の6県の総称。
  • [秋田県]
  • 秋田維勝城 → 雄勝城か
  • 雄勝城 おかちのき 藤原朝狩が759年(天平宝字3)に雄勝郡(現在の秋田県雄物川流域地方)に造った城柵。現在の雄勝郡域内に、雄勝城と同時代の遺構は見つかっておらず、その造営地は現在も不明。
  • 由利郡 ゆりぐん 羽後国および秋田県の南西部に位置していた郡。成立当初の郡域は、現在の由利本荘市・にかほ市と秋田市の一部に相当する。
  • 秋田城 あきたじょう (1) 奈良・平安時代、出羽北部の蝦夷に備えるために、733年(天平5)出羽柵を移して現秋田市寺内の高清水岡に築かれた城。今は土塁の一部などが残存する。(2) 佐竹氏の居城。現、秋田市千秋公園。久保田城。矢留城。
  • 高泉神
  • 小砂川 こさがわ 秋田県にかほ市象潟町小砂川。
  • 象潟 きさかた 秋田県南西部の海岸、由利郡(現、にかほ市)鳥海山の北西麓にあった潟湖。東西20町余、南北30町余で、湖畔に蚶満寺(円仁の草創)があり、九十九島・八十八潟の景勝の地で松島と並称されたが、1804年(文化1)の地震で地盤が隆起して消失。(歌枕)
  • 平沢 ひらさわ 村名。現、由利郡仁賀保町平沢。
  • 金の浦 このうら 金浦。町名。由利郡南西部。仁賀保海岸にあり、東は仁賀保町、南は象潟町。
  • [山形県]
  • 城輪柵 きのわのき/きのわのさく 現在の山形県酒田市城輪で発見された古代城柵。奈良時代末期に秋田城から移設された出羽国国府の最終的な所在地として有力な候補となっている。昭和59年度(1984)からの保存整備事業により、政庁南門、東門、築地塀の一部が復元され、現在は国指定の史跡「城輪柵跡」として公開されている。
  • 古川 ふるかわ 村名。酒田市刈穂。日向川の支流荒瀬川の自然堤防上に立地。
  • 出羽郡 いではぐん 越後国(その後出羽国庄内地方)にかつて存在した郡。和銅元年(708)、越後国の一部に設立。和銅5年、出羽郡を中心として出羽国が建国。その後の「延喜式」では出羽郡、飽海郡、田川郡の3郡に分かれている。中世以降田川郡に編入され消滅。
  • 井口 →  井口国府か。『三代実録』仁和3(887)5月、延暦(782-806)出羽国府は秋田城から移転、庄内に戻る。移転後の国府は「井口国府」とよばれ、所在を現、酒田市城輪柵遺跡に比定する説がある。
  • 井口国府 いのくち こくふ 阿部正己は飽海郡南吉田の小字「井口」と推定した。(『県大百科』
  • 井上郷 いのえごう 「和名抄」所載の郷。諸本とも訓を欠く。『大日本地名辞書』は広野・新堀・袖浦(現、酒田市)・栄(現、鶴岡市)にわたる一帯に比定するが妥当と思われ、京田川の自然堤防上には平安期の集落遺跡が散在する。なお同書は、「井」の字を共有することから出羽国府の置かれた「井口」も当郷内に所在比定しているが、酒田市城輪柵遺跡を井口国府と推定する説もある。
  • 中牧田 なかまきた 字名か。現、飽海郡松山町中牧田。
  • 松嶺 まつみね 現、飽海郡松山町。江戸時代の松山藩。松山城下。
  • 市条 いちじょう 村名。現、飽海郡八幡町市条。日向川支流の荒瀬川中流左岸に位置。
  • 清川 きよかわ 山形県東田川郡庄内町清川。
  • [最上郡] もがみぐん 出羽国・羽前国・山形県の郡。 古代の最上郡は、後の最上郡と村山郡の双方を包含。仁和2年(886年)、最上郡は北の村山郡と南の最上郡の南北2郡に分割。現在の最上郡に当たるのは村山郡のほう。 江戸時代初期、村山郡と最上郡とが入れ替えられ、現在のように北が最上郡、南が村山郡となった。
  • 大山郷 おおやまごう 「和名抄」所載の郷。従来は最上川の最上小国川合流点付近から下流域に比定する説が多かった。しかし昭和55(1980)年に発掘された西村山郡河北町畑中遺跡から出土した須恵器坏に「大山郷」「大山」などの墨書銘があり、河北町あたりを中心とした最上川左岸一帯に比定する説が有力となりつつある。
  • 保宝士野 ほほしの?
  • 稲舟村 いなふねむら 村名。現、新庄市。
  • 八向村 やむきむら 村名。現、新庄市。
  • 福寿野 ふくじゅの 現、最上郡舟形町長者原の西方に位置する。
  • 最上川 もがみがわ 山形県の南境、飯豊山および吾妻火山群に発源、米沢・山形・新庄の各盆地を貫流し、庄内平野を経て酒田市で日本海に注ぐ川。富士川・球磨川とともに日本三急流の一つ。古くから水運に利用。長さ229キロメートル。
  • 庄内平野 しょうない へいや 山形県北西部の日本海側に位置する平野。
  • 東山
  • 出羽柵 でわのさく 奈良時代、中央政府の拠点として、今の山形県庄内地方に置かれた城柵。のち今の秋田市内に移され秋田城となる。
  • 飽海郡 あくみぐん 羽後国および山形県の郡。県の北西部に位置する。
  • 本楯村 もとたてむら 村名。現、酒田市本楯。
  • 城輪 きのわ 現、酒田市城輪。酒田市街地より北東8kmの庄内平野北部水田地帯にある。標高11〜13m。
  • 樋の口 ひのくち? 本楯村。
  • 城輪神社 きのわじんじゃ 山形県酒田市にある神社。出羽国二宮で、旧社格は県社。
  • 酒田 さかた 山形県北西部、最上川の河口に位置する市。江戸時代、北国廻船と最上川舟運とが結びついて庄内米を積み出した日本海有数の港町。人口11万8千。
  • 吹浦 ふくら 村名、現、遊佐町吹浦。菅野村の北西にあり、吹浦川河口右岸に位置し、庄内海岸に面している。内郷街道と浜街道が当村で合流する。
  • 日光川 → 日向川か
  • 月光川 がっこうがわ 鳥海山鳥海湖を源流として西流し、途中、溶岩流を刻んで深い谷をつくり、月光川渓谷となる。熊野川と合流して平場を西流し、江地から流路をかえて庄内砂丘東辺沿いに北流し、丸子で高瀬川・菅野で洗沢川、吹浦南端で滝淵川を合わせ、河口近くで吹浦川と名を変えて日本海に注ぐ。全長約17.4km。
  • 日向川 にっこうがわ 鳥海山に源を発して西流、八幡町福山から庄内平野に達し日本海に注ぐ、延長32.5kmの二級河川。
  • 月向川 → 月光川か
  • 宮内 みやうち 字名か。現、酒田市宮内。
  • 丸子 まりこ 村名。現、飽海郡遊佐町北目。高瀬川と月光川の合流点近くに位置する。
  • 田川郡 たがわぐん 羽前国(旧出羽国の南部)の郡、多川郡、田河郡ともいう。和銅5年(712年)に越後国から出羽国が分立した際に出羽郡の南部が分立して成立した。中世末期には東部に櫛引郡が成立していたが後に吸収した。出羽国が分割された明治以降は羽前国に属し、その後酒田県、鶴岡県、山形県の管轄下に置かれた。その後、東田川郡と西田川郡に分割され消滅した。新・鶴岡市大半も旧田川郡である。
  • 郡家 田川郡。
  • 西浜
  • 西田川郡 にしたがわぐん 山形県にあった郡。消滅直前となる2005年9月30日の時点で、温海町の1町のみで構成されていた。
  • 鳥海山 ちょうかいさん 秋田・山形県境に位置する二重式成層火山。山頂は旧火山の笙ガ岳(1635メートル)などと新火山の新山(2236メートル)とから成る。中央火口丘は鈍円錐形で、火口には鳥海湖を形成。出羽富士。


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)『山形県大百科事典』(山形放送、1983)。




*年表

  • 嘉祥三(八五〇) 出羽大地震。
  • 貞観七(八六五)・元慶四(八八〇) 秋田城内の高泉神と出羽柵の城輪神が同時に叙位。
  • 文化元(一八〇四) 日向川の南辺、本楯およびその北方宮内より月向川〔月光川か。〕の丸子にわたる区域、大地震において著しい沈下。小砂川あたりから象潟をへて平沢に至るまで、著しい隆起。
  • 明治二七(一八九四)一〇月二二日 庄内地震。最大震度は烈震を記録。余震も数多く発生。震源は現在の山形県酒田市の中心部であり、庄内平野東縁断層帯の一部の観音寺断層で発生したと推定。後の計算によりM7.0と推定。死者739人、負傷者8,403人。酒田では大火災が発生し総戸数の8割が焼失。
  • 昭和六(一九三一) 城輪柵址が発見。出羽柵址と推定。


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)。



*人物一覧

(人名、および組織・団体名・神名)
  • 坂上茂樹 大宿祢。出羽国守。
  • 小野岑守 おのの みねもり 778-830 平安時代初期の貴族・文人。陸奥守、内蔵頭、皇后宮大夫、参議、大宰大弐を歴任した。弘仁元年(810年)に嵯峨天皇が即位した際には侍読となるなど漢詩に優れ、同5年(814年)に成立した勅撰漢詩集である『凌雲集』の編纂に携わる。さらに、『日本後紀』『内裏式』の編纂に関わった。
  • 坂上田村麻呂 さかのうえの たむらまろ 758-811 平安初期の武人。征夷大将軍となり、蝦夷征討に大功があった。正三位大納言に昇る。また、京都の清水寺を建立。
  • 小藤博士 → 小藤文次郎か
  • 小藤文次郎 ことう ぶんじろう 1856-1935 地質学者。島根県生れ。東大教授。日本の古期岩類を地帯構造区分し、火山調査に指導的役割を果たして日本の火山学の確立に貢献。濃尾地震で断層地震説を唱えて注目された。


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)



*書籍

(書名、雑誌名、論文名、能・狂言・謡曲などの作品名)
  • 『三代実録』 さんだい じつろく 六国史の一つ。50巻。文徳実録の後をうけて、清和・陽成・光孝3天皇の時代約30年の事を記した編年体の史書。901年(延喜1)藤原時平・大蔵善行らが勅を奉じて撰進。日本三代実録。
  • 『文徳実録』 もんとく じつろく 六国史の一つ。10巻。続日本後紀の後をうけ、文徳天皇一代(850〜858年)の事跡を漢文で記述した史書。871年(貞観13)藤原基経らが撰して中絶、菅原是善らが加わって879年(元慶3)完結。日本文徳天皇実録。
  • 『大日本地震史料』
  • 『史跡調査報告第三』「城輪柵址の部」
  • 『震災報告』第八号 小藤。
  • 『震災報告』九五号 今村。
  • 『和名抄』 わみょうしょう → 倭名類聚鈔
  • 『倭名類聚鈔』 わみょうるいじゅしょう 日本最初の分類体の漢和辞書。源順著。10巻本と20巻本とがあり、20巻本では、漢語を32部249門に類聚・掲出し、音・意義を漢文で注し、万葉仮名で和訓を加え、文字の出所を考証・注釈する。承平(931〜938)年中、醍醐天皇の皇女勤子内親王の命によって撰進。略称、和名抄。順和名。
  • 『史跡名勝天然記念物』十四の二 今村。
  • 『雑誌荘内』第2巻第14号、1939(昭和14)年3月。今村。


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)



*難字、求めよ

  • 詔書 しょうしょ 律令制で、改元など臨時の大事に関して発せられる天皇の文書。明治憲法下では、皇室の大事および大権の施行に関する勅旨を一般に宣布する文書。日本国憲法下では、大権事項はなく、議会の召集または衆議院の解散を命ずる詔書など、単に天皇の国事行為の範囲に限られる。
  • 裨益 ひえき おぎない益すること。たすけとなること。役に立つこと。
  • �げ あげ 風に吹き上げられる。また、風が吹き上がる。
  • 論奏 ろんそう (1) 事の是非を論じて意見を奏聞すること。(2) 太政官で恒例・臨時の大祀、歳入歳出の増減、職員の増減などの重要事をあらかじめ議してから、決裁を仰ぐために天皇に上奏すること。
  • 漲移 ちょうい?
  • 隍 こう 城のまわりの水のないほり。からぼり。
  • 旦暮 たんぼ (1) あさゆう。あけくれ。(2) (朝から暮までの意)ちょっとの間。(3) 時機の切迫したさま。旦夕。
  • 討覈 とうかく たずねしらべること。たずねきわめて事実を明らかにすること。
  • 聴許 ちょうきょ ききいれゆるすこと。
  • 紫極 しきょく (「紫」は天帝の座の紫微垣の意)王宮。天子の座所。
  • 梟禽 きょうきん?
  • 傾頽 けいたい かたむきくずれること。
  •  れいぼう? りぼう? 「」は畑仕事をする細民。水のみ百姓たち。流亡の民。
  • 商量 しょうりょう あれこれとはかり考えること。
  • 免 けんめん 租税や力役などを免除する。
  • 民狄 みんてき?
  • 倉廩 そうりん 米穀をたくわえるところ。穀物ぐらや米ぐら。
  • 四門 しもん (1) 四つの門。四方(東・西・南・北)の門。
  • 角櫓 すみやぐら 城郭の隅の櫓。
  • 曲折断層
  • 卑湿 ひしつ 土地が低くて湿気のあること。また、その土地。
  • 擾乱 じょうらん (1) 入り乱れること。乱れさわぐこと。また、乱し騒がすこと。騒擾。(2) 気象学で、大気の定常状態からの乱れ。高気圧・低気圧・竜巻・積乱雲など、大気中に発生し、しばらく持続して消滅する現象。
  • 牽強付会・牽強附会 けんきょう ふかい 自分に都合のいいように無理に理屈をこじつけること。こじつけ。
  • 郡家 ぐうけ 郡司が政務をとる役所。郡院。こおりのみやけ。ぐんけ。
  • 汀線 ていせん 海面と陸地との交わる線。潮汐によって常に変動する。みぎわせん。


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)『日本国語大辞典 第二版』(小学館、2001.5)『学研新漢和大字典』。



*後記(工作員スリーパーズ日記)


 鳥海山噴火のことを探っていたところ、今村明恒の名に目が止まる。残念ながら期待の鳥海山には触れていなかったが、大きな収穫が一つ。

 文化元年(一八〇四)象潟隆起は有名で、すぐそばの庄内地方もてっきり隆起傾向にあるんだろうと早合点していたが、今村ははっきりと「城輪柵址のある辺りは著明な沈下地帯」「日本全国においてきわめて稀有の例」と断言。
 局地的な傾向……ということは、プレート全体の沈み込みということではなく、鳥海山直下のマグマだまりか伏流水か、あるいは砂丘の堆積物か何かの影響だろうか。

 予定を変更して、変則ながら『喜田貞吉著作集』の目次を入力公開することに。当巻は随筆や紀行文・日誌から成り立っているので、専門的な論考よりも肩ひじがはらず読みやすい作品がならんでいる。
 震災を経て、ますます喜田貞吉の復刻をすすめたいと思うようになった。歴史家・東北文化研究者である彼は、自然災害をどのように経験し記述したのか。

 せっかく今村明恒が「城輪柵跡」に言及してくれたので、次号より念願の喜田貞吉「庄内と日高見」を連載開始することにします。さて喜田貞吉の見立てや、いかに!




*次週予告


第四巻 第一二号 
庄内と日高見(一)喜田貞吉


第四巻 第一二号は、
一〇月一五日(土)発行予定です。
定価:200円


T-Time マガジン 週刊ミルクティー 第四巻 第一一号
地震学の角度から見た城輪柵趾 今村明恒
発行:二〇一一年一〇月八日(土)
編集:しだひろし/PoorBook G3'99
 http://www33.atwiki.jp/asterisk99/
出版:*99 出版
 〒994-0024 山形県天童市鎌田2丁目1−21
 アパートメント山口A−202
販売:DL-MARKET
※ T-Timeは(株)ボイジャーの商標・製品です。



T-Time マガジン
週刊ミルクティー
*99 出版
バックナンバー
  • 第二巻
  • #1 奇巌城(一)M. ルブラン
  • #2 奇巌城(二)M. ルブラン
  • #3 美し姫と怪獣/長ぐつをはいた猫
  • #4 毒と迷信/若水の話/麻薬・自殺・宗教
  • #5 空襲警報/水の女/支流
  • #6 新羅人の武士的精神について 池内 宏
  • #7 新羅の花郎について 池内 宏
  • #8 震災日誌/震災後記 喜田貞吉
  • #9 セロ弾きのゴーシュ/なめとこ山の熊 宮沢賢治
  • #10 風の又三郎 宮沢賢治
  • #11 能久親王事跡(一)森 林太郎
  • #12 能久親王事跡(二)森 林太郎
  • #13 能久親王事跡(三)森 林太郎
  • #14 能久親王事跡(四)森 林太郎
  • #15 欠番
  • #16 欠番
  • #17 赤毛連盟      C. ドイル
  • #18 ボヘミアの醜聞   C. ドイル
  • #19 グロリア・スコット号C. ドイル
  • #20 暗号舞踏人の謎   C. ドイル
  • #21 蝦夷とコロボックルとの異同を論ず 喜田貞吉
  • #22 コロポックル説の誤謬を論ず 上・下 河野常吉
  • #23 慶長年間の朝日連峰通路について 佐藤栄太
  • #24 まれびとの歴史/「とこよ」と「まれびと」と 折口信夫
  • #25 払田柵跡について二、三の考察/山形県本楯発見の柵跡について 喜田貞吉
  • #26 日本天変地異記 田中貢太郎
  • #27 種山ヶ原/イギリス海岸 宮沢賢治
  • #28 翁の発生/鬼の話 折口信夫
  • #29 生物の歴史(一)石川千代松
  • #30 生物の歴史(二)石川千代松
  • #31 生物の歴史(三)石川千代松
  • #32 生物の歴史(四)石川千代松
  • #33 特集 ひなまつり
  •  雛 芥川龍之介
  •  雛がたり 泉鏡花
  •  ひなまつりの話 折口信夫
  • #34 特集 ひなまつり
  •  人形の話 折口信夫
  •  偶人信仰の民俗化並びに伝説化せる道 折口信夫
  • #35 右大臣実朝(一)太宰 治
  • #36 右大臣実朝(二)太宰 治
  • #37 右大臣実朝(三)太宰 治
  • #38 清河八郎(一)大川周明
  • #39 清河八郎(二)大川周明
  • #40 清河八郎(三)大川周明
  • #41 清河八郎(四)大川周明
  • #42 清河八郎(五)大川周明
  • #43 清河八郎(六)大川周明
  • #44 道鏡皇胤論について 喜田貞吉
  • #45 火葬と大蔵/人身御供と人柱 喜田貞吉
  • #46 手長と足長/くぐつ名義考 喜田貞吉
  • #47 「日本民族」とは何ぞや/本州における蝦夷の末路 喜田貞吉
  • #48 若草物語(一)L.M. オルコット
  • #49 若草物語(二)L.M. オルコット
  • #50 若草物語(三)L.M. オルコット
  • #51 若草物語(四)L.M. オルコット
  • #52 若草物語(五)L.M. オルコット
  • #53 二人の女歌人/東北の家 片山広子
  • 第三巻
  • #1 星と空の話(一)山本一清
  • #2 星と空の話(二)山本一清
  • #3 星と空の話(三)山本一清
  • #4 獅子舞雑考/穀神としての牛に関する民俗 中山太郎
  • #5 鹿踊りのはじまり 宮沢賢治/奥羽地方のシシ踊りと鹿供養 喜田貞吉
  • #6 魏志倭人伝/後漢書倭伝/宋書倭国伝/隋書倭国伝
  • #7 卑弥呼考(一)内藤湖南
  • #8 卑弥呼考(二)内藤湖南
  • #9 卑弥呼考(三)内藤湖南
  • #10 最古日本の女性生活の根底/稲むらの陰にて 折口信夫
  • #11 瀬戸内海の潮と潮流(他三編)寺田寅彦
  •  瀬戸内海の潮と潮流/コーヒー哲学序説/
  •  神話と地球物理学/ウジの効用
  • #12 日本人の自然観/天文と俳句 寺田寅彦
  • #13 倭女王卑弥呼考(一)白鳥庫吉
  • #14 倭女王卑弥呼考(二)白鳥庫吉
  • #15 倭奴国および邪馬台国に関する誤解 他 喜田貞吉
  •  倭奴国と倭面土国および倭国とについて稲葉君の反問に答う/倭奴国および邪馬台国に関する誤解
  • #16 初雪 モーパッサン 秋田 滋(訳)
  • #17 高山の雪 小島烏水
  • #18 光をかかぐる人々 続『世界文化』連載分(一)徳永 直
  • #19 光をかかぐる人々 続『世界文化』連載分(二)徳永 直
  • #20 光をかかぐる人々 続『世界文化』連載分(三)徳永 直
  • #21 光をかかぐる人々 続『世界文化』連載分(四)徳永 直
  • #22 光をかかぐる人々 続『世界文化』連載分(五)徳永 直
  • #23 銀河鉄道の夜(一)宮沢賢治
  • #24 銀河鉄道の夜(二)宮沢賢治
  • #25 ドングリと山猫/雪渡り 宮沢賢治
  • #26 光をかかぐる人々 続『世界文化』連載分(六)徳永 直
  • #27 特集 黒川能・春日若宮御祭 折口信夫
  •  黒川能・観点の置き所
  •  村で見た黒川能
  •  能舞台の解説
  •  春日若宮御祭の研究
  • #28 面とペルソナ/人物埴輪の眼 他 和辻哲郎
  •  面とペルソナ / 文楽座の人形芝居
  •  能面の様式 / 人物埴輪の眼
  • #29 火山の話 今村明恒
  • #30 現代語訳『古事記』(一)武田祐吉(訳)
  • #31 現代語訳『古事記』(二)武田祐吉(訳)
  • #32 現代語訳『古事記』(三)武田祐吉(訳)
  • #33 現代語訳『古事記』(四)中巻(後編)武田祐吉(訳)
  • #34 山椒大夫 森 鴎外
  • #35 地震の話(一)今村明恒
  • #36 地震の話(二)今村明恒
  • #37 津波と人間/天災と国防/災難雑考 寺田寅彦
  • #38 春雪の出羽路の三日 喜田貞吉
  • #39 キュリー夫人/はるかな道(他)宮本百合子
  • #40 大正十二年九月一日…/私の覚え書 宮本百合子
  • #41 グスコーブドリの伝記 宮沢賢治
  • #42 ラジウムの雁/シグナルとシグナレス(他)宮沢賢治
  • #43 智恵子抄(一)高村光太郎
  • #44 智恵子抄(二)高村光太郎
  • #45 ヴェスヴィオ山/日本大地震(他)斎藤茂吉
  • #46 上代肉食考/青屋考 喜田貞吉
  • #47 地震雑感/静岡地震被害見学記(他)寺田寅彦
  •  地震雑感
  •   一 地震の概念
  •   二 震源
  •   三 地震の原因
  •   四 地震の予報
  •  静岡地震被害見学記
  •  小爆発二件
  • #48 自然現象の予報/火山の名について 寺田寅彦
  •  自然現象の予報
  •  火山の名について
  • #49 地震の国(一)今村明恒
     一、ナマズのざれごと
     二、頼山陽、地震の詩
     三、地震と風景
     四、鶏のあくび
     五、蝉しぐれ
     六、世紀の北米大西洋沖地震
     七、観光
     八、地震の正体

    「日本は震災国です。同時に地震学がもっともよく発達していると聞いています。したがってその震災を防止あるいは軽減する手段がよく講ぜられていると思いますが、それに関する概要をできるだけよくうかがって行って、本国へのみやげ話にしたいと思うのです。
    「よくわかりました。
     これはすばらしい好質問だ。本邦の一般士人、とくに記者諸君に吹聴したいほどの好質問だ。余は永年の学究生活中、かような好質問にかつて出会ったことがない。(略)余は順次につぎのようなことを説明した。
    「震災の防止・軽減策は三本建にしている。すなわち、第一は耐震構造の普及方。これには、建築法規に耐震構造の実施に関する一項が加えてあり、これを実行している都市は現在某々地にすぎないが、じつは国内の市町村の全部にと希望している。構造物を耐震的にするにはしかじかの方法が講ぜられている。(略)
    「第二は震災予防知識の普及。これは尋常小学校の国定教科書に一、二の文章を挿入することにより、おおむねその目的が達せられる。
    「第三は地震の予知問題の解決。この問題を分解すると、地震の大きさの程度、そのおこる場所ならびに時期という三つになり、この三者をあわせ予知することが本問題の完全な解決となる。これは前の二つとは全然その趣きが別で、専門学徒に課せられた古今の難問題である。
     ここで彼女はすかさず喙(くちばし)をいれた。
    「じつはその詳細がとくに聞きたいのです。事項別に説明してください。して、その程度とは?」
    「(略)われわれのごとく防災地震学に専念している者は、講究の目標を大地震にのみ限定しています。大きさの程度をわざとこう狭く局限しているのです。
    「そして、その場所の察知は?」
    「過去の大地震の統計と地質構造とによって講究された地震帯、磁力・重力など地球物理学的自然力の分布異状、とくに測地の方法によって闡明(せんめい)された特種の慢性的・急性的陸地変形などによります。
    「それから、いつ起こるかということは?」
    「右の起こりそうな場所に網をはっておいて、大地震の前兆と思われる諸現象を捕捉するのです。
     パイパー夫人はなおも陸地変形による場所ならびに時期の前知方法の講究に関して、さらに具体的の例をあげるよう迫るので、余は南海道沖大地震に関する研究業績の印刷物をもってこれに応じておいた。
  • #50 地震の国(二)今村明恒
     九 ドリアン
     一〇 地震の興味
     一一 地割れの開閉現象
     一二 称名寺の鐘楼
     一三 張衡(ちょうこう)
     一四 地震計の冤(えん)
     一五 初動の方向性
     一六 白鳳大地震

     文部大臣は、昨年の関西風水害直後、地方庁あてに訓令を出されて、生徒児童の非常災害に対する教養に努めるよう戒められたのであった。まことに結構な訓令である。ただし、震災に関するかぎり、小学教師は、いつ、いかなる場合、いかようにしてこの名訓令の趣旨を貫徹せしめるかについては、すこぶる迷っているというのが、いつわらざる現状である。実際、尋常科用国定教科書をいかにあさって見ても理科はもとより、地理・国語・修身、その他にも、地震を主題とした文章は一編も現われず、ただ数か所に「地震」という文字が散見するのみである。地震の訓話をするに、たとえかような機会をとらえるとしても、いかなることを話したらよいか、それが教師にとってかえって大きな悩みである。文部大臣の監督下にある震災予防評議会が、震火災防止をめざす積極的精神の振作に関し、内閣総理をはじめ、文部・内務・陸海軍諸大臣へあて建議書を提出したのは昭和三年(一九二八)のことであるが、その建議書にはとくに「尋常小学校の課程に地震に関する一文章を加える議」が強調してある。同建議書は文部省に設置してある理科教科書編纂委員会へも照会されたが、同委員会からは、問題の事項は加えがたいむねの返事があった。地震という事項は、尋常科の課程としては難解でもあり、また、その他の記事が満載されていて、割り込ませる余地もないという理由であった。この理由はとくに理科の教科書に限られたわけでもなく、他の科目についても同様であったのである。難解なりとは、先ほどから説明したとおり問題にならぬ。われわれはその後、文案を具して当局に迫ったこともあるくらいであるから、当局ももはや諒としておられるであろう。さすれば主な理由は、余地なしという点に帰着するわけである。つくづく尋常科教科書を検討してみるに、次のようなことが載せてあるのを気づく。すなわち「南洋にはドリアンという果物ができる。うまいけれども、とても臭い」と。このような記事を加える余裕があるにもかかわらず、地震国・震災国の幼い小国民に地震のことを教える余地がないとは、じつに不可解なことといわねばならぬ。
  • #51 現代語訳『古事記』(五)下巻(前編)武田祐吉(訳)
    古事記 下の巻
     一、仁徳天皇
      后妃と皇子女
      聖(ひじり)の御世
      吉備の黒日売
      皇后石の姫の命
      ヤタの若郎女
      ハヤブサワケの王とメトリの王
      雁の卵
      枯野という船
     二、履中天皇・反正天皇
      履中天皇とスミノエノナカツ王
      反正天皇
     三、允恭天皇
      后妃と皇子女
      八十伴の緒の氏姓
      木梨の軽の太子
     四、安康天皇
      マヨワの王の変
      イチノベノオシハの王

  • #52 現代語訳『古事記』(六)下巻(後編)武田祐吉(訳)
    古事記 下の巻
     五、雄略天皇
      后妃と皇子女
      ワカクサカベの王
      引田部の赤猪子
      吉野の宮
      葛城山
      春日のオド姫と三重の采女
     六、清寧天皇・顕宗天皇・仁賢天皇
      清寧(せいねい)天皇
      シジムの新築祝い
      歌垣
      顕宗(けんぞう)天皇
      仁賢天皇
     七、武烈天皇以後九代
      武烈(ぶれつ)天皇
      継体(けいたい)天皇
      安閑(あんかん)天皇
      宣化(せんか)天皇
      欽明(きんめい)天皇
      敏達(びだつ)天皇
      用明(ようめい)天皇
      崇峻(すしゅん)天皇
      推古天皇

  • 第四巻
  • #1 日本昔話集 沖縄編(一)伊波普猷・前川千帆(絵)

     序にかえて
      琉球編について
     一、沖縄人のはじめ
     二、巨人の足あと
     三、三十七岳の神々
     四、アカナァとヨモ
     五、黄金の木のなるまで

     地上には、草や木はもちろんのこと、鳥や獣(けもの)というては一匹もいなかった大昔のことです。その時分、沖縄島の上には、霞(かすみ)がかかったように、天が垂(た)れ下がっていて、天と地との区別がまったくありませんでした。しかも、東の海から寄せてくる波は、島をこえて西の海に行き、西の海の潮は、東の海に飛びこえて渦を巻いているという、それはそれは、ものすごいありさまでした。
     それまで天にいられたアマミキヨ、シネリキヨという二人の神さまは、このありさまをごらんになって、
    「あれでは、せっかく作り上げた島もなにもならん」
    とおっしゃって、さっそく天上から土や石や草や木やをお運びになって、まず最初に、海と陸との境をお定めになりました。
     二人の神さまは、それから浜辺にお出でになり、阿旦(あだん)やユウナという木をお植えつけになって、波を防ぐようにせられました。それからというものは、さしもに逆巻いていた、あの騒がしい波も飛び越さなくなり、地上には草や木が青々としげって、野や山には小鳥の声が聞こえ、獣があちこち走るようになりました。地上がこういう平和な状態になったときに、二人の神さまは、今度は人間をおつくりになりました。そして最初は、鳥や獣といっしょにしておかれました。人間は、何も知らないものですから、鳥や獣とあちこち走りまわっていました。ところが人間に、だんだん知恵がついてきまして、今までお友だちだった鳥や獣を捕って食べることを覚えたものですから、たまりません。鳥や獣はびっくりして、だんだん、山へ逃げこんでしまうようになりました。 (「巨人の足あと」より)
  • #2 日本昔話集 沖縄編(二)伊波普猷

     六、島の守り神
     七、命の水

     むかし、大里村の与那原(よなばる)というところに、貧乏な漁師がありました。この漁師は、まことに正直な若者でした。
     あの燃えるようにまっ赤な梯梧(だいご)の花は、もうすでに落ちてしまって、黄金色に熟(う)れた阿旦(あだん)の実が、浜の細道に匂う七月ごろのことでした。ある日のこと、その晩はことに月が美しかったものですから、若い漁師は、仕事から帰るなり、ふらふらと海岸のほうへ出かけました。(略)
     暑いとはいえ、盆近い空には、なんとなく秋らしい感じがします。若い漁師は、青々と輝いている月の空をながめながら、こんなことをいうてため息をついていましたが、やがて、何かを思い出したらしく、
    「ああそうだ。盆も近づいているのだから、すこし早いかもしれぬが、阿旦の実のよく熟れたのから選り取って、盆のかざり物に持って帰ろう」
    とつぶやいて、いそいそと海岸の阿旦林のほうへ行きました。
     そのときのことでした。琉球では、阿旦の実のにおいは、盆祭りを思い出させるものですが、そのにおいにまじって、この世のものとも思えぬなんともいえない気高いにおいが、どこからとなくしてきます。若い漁師は、
    「不思議だな。なんというよい匂いだ。どこからするんだろうな」
    と、ふと眼をあげて、青白い月の光にすかして、向こうを見ました。すると、白砂の上にゆらゆらゆれている、黒いものがあります。若い漁師はすぐに近づいて行って、急いでそれをひろいあげました。それは、世にもまれな美しいつやのある、漆のように黒い髪で、しかもあの不思議な天国のにおいは、これから発しているのでした。 (「命の水」より)
  • #3 アインシュタイン(一)寺田寅彦

     物質とエネルギー
     科学上における権威の価値と弊害
     アインシュタインの教育観

     光と名づけ、音と名づける物はエネルギーの一つの形であると考えられる。これらは吾人の五官を刺激して、万人その存在を認める。しかし、「光や音がエネルギーである」という言葉では本当の意味はつくされていない。昔、ニュートンは光を高速度にて放出さるる物質の微粒子と考えた。後にはエーテルと称する仮想物質の弾性波と考えられ、マクスウェルにいたっては、これをエーテル中の電磁的ひずみの波状伝播(でんぱ)と考えられるにいたった。その後アインシュタイン一派は、光の波状伝播(でんぱ)を疑った。また現今の相対原理では、エーテルの存在を無意味にしてしまったようである。それで光と称する感覚は依然として存する間に、光の本体に関しては今日にいたるもなんらの確かなことは知られぬのである。(略)
     前世紀において電気は何ものぞ、物質かエネルギーかという問題が流行した。(略)
     電子は質量を有するように見える。それで、前の物質の定義によれば物質のように見える。同時にこれには一定量の荷電がある。荷電の存在はいったい何によって知ることができるかというと、これと同様の物を近づけたときに相互間に作用する力で知られる。その力は、間接に普通の機械力と比較することができるものである。すでに力をおよぼす以上、これは仕事をする能がある、すなわちエネルギーを有している。しかし、このエネルギーは電子のどこにひそんでいるのであろうか。ファラデー、マクスウェルの天才は、荷電体エネルギーをそのものの内部に認めず、かえってその物体の作用をおよぼす勢力範囲すなわち、いわゆる電場(でんば)に存するものと考えた。この考えはさらに、電波の現象によって確かめらるるにいたった。この考えによれば、電子の荷電のエネルギーは、電子そのものに存すると考えるよりは、むしろその範囲の空間に存すると思われるのである。すなわち空間に電場の中心がある、それが電子であると考えられる。これが他の電子、またはその集団の電場におかれると、力を受けて自由の状態にあれば有限な加速度をもって運動する。すなわち質量を有するのである。 (「物質とエネルギー」より)
  • #4 アインシュタイン(二)寺田寅彦

     アインシュタイン
     相対性原理側面観

     物理学の基礎になっている力学の根本に、ある弱点のあるということは早くから認められていた。しかし、彼以前の多くの学者にはそれをどうしたらいいかがわからなかった。あるいは大多数の人は因襲的の妥協になれて別にどうしようとも思わなかった。力学の教科書はこの急所にふれないように知らん顔をしてすましていた。それでも実用上の多くの問題には実際、さしつかえがなかったのである。ところが近代になって電子などというものが発見され、あらゆる電磁気や光熱の現象は、この不思議な物の作用に帰納されるようになった。そしてこの物が特別な条件のもとに、驚くべき快速度で運動することもわかってきた。こういう物の運動に関係した問題にふれはじめると同時に、今までそっとしておいた力学の急所がそろそろ痛みを感ずるようになってきた。ロレンツのごとき優れた老大家ははやくからこの問題に手をつけて、いろいろな矛盾の痛みを局部的の手術で治療しようとして骨折っている間に、この若い無名の学者はスイスの特許局の一隅にかくれて、もっともっと根本的な大手術を考えていた。病の根は電磁気や光よりもっと根本的な、時と空間の概念の中に潜伏していることに眼をつけた。そうしてその腐りかかった、間に合わせの時と空間をとって捨てて、新しい健全なものをそのかわりに植え込んだ。その手術で物理学は一夜に若返った。そして電磁気や光に関する理論の多くの病竈(びょうそう)はひとりでにきれいに消滅した。
     病源を見つけたのが第一のえらさで、それを手術した手際は第二のえらさでなければならない。 (「アインシュタイン」より)
  • #5 作家のみた科学者の文学的活動/科学の常識のため宮本百合子

     作家のみた科学者の文学的活動
      「生」の科学と文学
      科学と文学の交流
      科学者の社会的基調
      科学者の随筆的随想
      科学と探偵小説
      現実は批判する
     科学の常識のため

     若い婦人の感情と科学とは、従来、縁の遠いもののように思われてきている。昔は人間の心の内容を知・情・意と三つのものにわけて、知は理解や判断をつかさどり、情は感情的な面をうけもち、意は意志で、判断の一部と行動とをうけもつという形式に固定して見られ、今でもそのことは、曖昧に受け入れられたままになっている点が多い。だから、科学というとすぐ理知的ということでばかり受けとって、科学をあつかう人間がそこに献身してゆく情熱、よろこびと苦痛との堅忍、美しさへの感動が人間感情のどんなに高揚された姿であるのも若い女のひとのこころを直接に打たないばあいが多い。このことは逆な作用ともなって、たとえばパストゥールを主人公とした『科学者の道』の映画や『キュリー夫人伝』に賛嘆するとき、若い婦人たちはそれぞれの主人公たちの伝奇的な面へロマンティックな感傷をひきつけられ、科学というとどこまでも客観的で実証的な人間精神の努力そのものの歴史的な成果への評価と混同するような結果をも生むのである。
     婦人の文化の素質に芸術の要素はあるが、科学的な要素の欠けていることを多くのひとが指摘しているし、自分たちとしても心ある娘たちはそれをある弱点として認めていると思う。しかしながら、人間精神の本質とその活動についての根本の理解に、昔ながらの理性と感情の分離対立をおいたままで科学という声をきけば、やっぱりそれは暖かく踊る感情のままでは触れてゆけない冷厳な世界のように感じられるであろう。そして、その情感にある遅れた低さには自身気づかないままでいがちである。 (「科学の常識のため」より)
  • #6 地震の国(三)今村明恒

     一七 有馬の鳴動
     一八 田結村(たいむら)の人々
     一九 災害除(よ)け
     二〇 地震毛と火山毛
     二一 室蘭警察署長
     二二 ポンペイとサン・ピエール
     二三 クラカトアから日本まで

     余がかつてものした旧稿「地震に出会ったときの心得」十則の付録に、つぎの一項を加えておいた。

    「頻々におこる小地震は、単に無害な地震群に終わることもあり、また大地震の前提たることもある。震源が活火山にあるときは爆発の前徴たる場合が多い。注意を要する。

     この末段の事項についてわが国の火山中好適な例となるものは、三宅島・富士山・桜島・有珠山などであり、いずれも数十年ないし数百年おきに間欠的爆発をなすのであるが、その数日前から小地震を頻発せしめる習性を持っている。もし、活火山の休眠時間が例外に長いかあるいは短いときは、かような前震が不鮮明となり、短時間で終わりを告げることもあれば、またその反対に非常に長びくこともある。前者の例としては磐梯山があり、後者の例としては浅間山・霧島山・温泉岳〔雲仙岳。〕などがある。
     大正三年(一九一四)一月十二日、桜島爆発に関しては、地盤隆起、天然ガスの噴出、温泉・冷泉の増温・増量などの前徴以外に、特に二日前から著明な前震がはじまったなどのことがあったにかかわらず、爆発の予知が失敗に終わったのは、専門学徒にとってこのうえもない恨事であった。これに反して、明治四十三年(一九一〇)七月二十五日、有珠山爆発に際しては、専門学徒でもない一警官が、前に記したような爆発前の頻発地震に関するわずかの知識だけで完全に予知し、しかも彼の果断な処置によって災害を極度に軽減し得たことは、地震噴火誌上、特筆大書すべき痛快事である。 (「二一 室蘭警察署長」より)
  • #7 地震の国(四)今村明恒

     二四 役小角と津波除(よ)け
     二五 防波堤
     二六 「稲むらの火」の教え方について
      はしがき
      原文ならびにその注
      出典
      実話その一・安政津波
      実話その二・儀兵衛の活躍
      実話その三・その後の梧陵と村民
      実話その四・外人の梧陵崇拝
     二七 三陸津波の原因争い
     二八 三陸沿岸の浪災復興
     二九 土佐と津波

     天台宗の僧侶は、好んで高山名岳にその道場を建てる。したがって往時においては、気象・噴火・薬物などに関する物識りが彼らの仲間に多かった。鳥海・阿蘇・霧島の古い時代の噴火記事は、たいてい彼らの手になったものである。
     役小角はおそらくは当時、日本随一の博物学者であったろう。彼が呪術をよくしたということと、本邦のあちらこちらに残した事跡と称するものが、学理に合致するものであることから、そう想像される。(略)
     この行者が一日、陸中の国船越浦に現われ、里人を集めて数々の不思議を示したのち戒めて、「卿らの村は向こうの丘の上に建てよ。この海浜に建ててはならない。もし、この戒めを守らなかったら、たちまち災害がおこるであろう。」といった。行者の奇跡に魅せられた里人はよくこの教えを守り、爾来千二百年間、あえてこれに背くようなことをしなかった。
     そもそも三陸沿岸は、津波襲来の常習地である。歴史に記されただけでも少くない。貞観十一年(八六九)五月二十六日のは溺死千をもって数えられているから、人口多い今日であったら、幾万をもって数うべき程度であったろう。慶長十六年(一六一一)十月二十八日のは、死者の数、伊達領の一七八三人に、南部・津軽の分を加えて五〇〇〇人に達したといわれている。これも今日であったら幾万という数にのぼったに相違ない。明治二十九年(一八九六)六月十五日の津波死人は二万七一二二名の多数におよんだのであるから、これをもって三陸津波の最大記録とする人もあるが、なるほど、損害の統計はそうでも、津波の破壊力はやや中ぐらいにあったと見るべきである。 (「二四 役小角と津波除け」より)
  • #8 地震の国(五)今村明恒

     三〇 五徳の夢
     三一 島陰の渦(うず)
     三二 耐震すなわち耐風か
     三三 地震と脳溢血
     三四 関東大震火災の火元
     三五 天災は忘れた時分にくる
       一、天変地異と天災地妖
       二、忘と不忘との実例
       三、回向院と被服廠
       四、地震除け川舟の浪災
       五、噴火災と凶作
     三六 大地震は予報できた
     三七 原子爆弾で津波は起きるか
     三八 飢饉除け
     三九 農事四精

     火山噴火は、天変地異としては規模の大きな部類である。山が村里を遠く離れているばあいは、災害はわりあいに軽くてすむが、必ずしもそうばかりではない。わが国での最大記録は天明の浅間噴火であろうが、土地ではよくこれを記憶しており、明治の末から大正のはじめにかけての同山の活動には最善の注意をはらった。(略)
     火山は、噴火した溶岩・軽石・火山灰などによって四近の地域に直接の災禍をあたえるが、なおその超大爆発は、火山塵の大量を成層圏以上に噴き飛ばし、たちまちこれを広く全世界の上空に瀰漫させて日射をさえぎり、しかもその微塵は、降下の速度がきわめて小なるため、滞空時間が幾年月の久しきにわたり、いわゆる凶作天候の素因をなすことになる。
     火山塵に基因する凶作天候の特徴は、日射低下の他、上空に停滞する微塵、いわゆる乾霧によって春霞のごとき現象を呈し、風にも払われず、雨にもぬぐわれない。日月の色は銅色に見えて、あるいはビショップ環と称する日暈を見せることもあり、古人が竜毛として警戒した火山毛をも降らせることがある。秋夏気温の異常低下は当然の結果であるが、やがて暖冬冷夏の特徴を示すことがある。
     最近三〇〇年間、わが国が経験したもっとも深刻な凶作は、天明年度(一七八一〜一七八九)と天保年度(一八三一〜一八四五)とのものである。前者は三年間、後者は七年間続いた。もっとも惨状を呈したのは、いうまでもなく東北地方であったが、ただし凶作は日本全般のものであったのみならず、じつに全世界にわたるものであった。その凶作天候が、原因某々火山の異常大噴火にあったこと、贅説するまでもあるまい。
     世界中の人々が忘れてはならない天災地妖、それは、おそらく火山塵に基因する世界的飢饉であろう。 (「噴火災と凶作」より)
  • #9 地震の国(六)今村明恒

     四〇 渡辺先生
     四一 野宿
     四二 国史は科学的に
     四三 地震および火山噴火に関する思想の変遷
         はしがき
         地震に関する思想の変遷(その一)
         火山噴火に関する思想の変遷
         地震に関する思想の変遷(その二)
     四四 地震活動盛衰一五〇〇年

    (略)地震に関する思想は、藤原氏専政以後においてはむしろ堕落であった。その主要な原因は、陰陽五行の邪説が跋扈(ばっこ)したことにあるのはいうまでもないが、いま一つ、臣下の政権世襲の余弊であったようにも見える。この点につき、歴史家の所見を質してみたことはないが、時代の推移にともなう思想の変遷が、然(し)か物語るように見えるのである。けだし、震災に対する天皇ご自責の詔の発布された最後の例が、貞観十一年(八六九)の陸奥地震津波であり、火山噴火に対する陳謝・叙位のおこなわれた最後の例が、元慶六年(八八二)の開聞岳活動にあるとすることが誤りでなかったなら、これらの二種の行事は、天皇親政時代のものであったといえるわけで、つぎの藤原氏の専政時代において、これらにかわって台頭してきた地震行事が、地震占と改元とであったということになるからである。修法や大祓がこれにともなったこと断わるまでもあるまい。
     地震占には二種あるが、その気象に関するものはまったく近世の産物であって、古代のものは、兵乱・疫癘・飢饉・国家の重要人物の運命などのごとき政治的対象を目的としたものである。
     かつて地震をもって天譴(てんけん)とした思想は、これにおいて少しく改められ、これをもって何らかの前兆を指示する怪異と考えるに至ったのである。これには政治的方便もあったろうが、時代が地震活動の不活発期に入ったことも無視してはなるまい。
     上記の地震占をつかさどる朝廷の役所は陰陽寮で、司は賀茂・安倍二家の世襲であったらしい。 (「四三 地震および火山噴火に関する思想の変遷」より)
  • #10 土神と狐/フランドン農学校の豚宮沢賢治

     一本木の野原の北のはずれに、少し小高く盛りあがった所がありました。イノコログサがいっぱいに生(は)え、そのまん中には一本のきれいな女の樺(かば)の木がありました。
     それはそんなに大きくはありませんでしたが、幹(みき)はテカテカ黒く光り、枝は美しく伸びて、五月には白き雲をつけ、秋は黄金(きん)や紅(べに)やいろいろの葉を降(ふ)らせました。
     ですから、渡り鳥のカッコウやモズも、また小さなミソサザイやメジロもみんな、この木に停(と)まりました。ただ、もしも若い鷹(たか)などが来ているときは、小さな鳥は遠くからそれを見つけて決して近くへ寄(よ)りませんでした。
     この木に二人の友だちがありました。一人はちょうど五百歩ばかり離れたグチャグチャの谷地(やち)の中に住んでいる土神(つちがみ)で、一人はいつも野原の南の方からやってくる茶いろの狐(きつね)だったのです。
     樺(かば)の木は、どちらかといえば狐の方がすきでした。なぜなら、土神(つちがみ)の方は神という名こそついてはいましたが、ごく乱暴で髪もボロボロの木綿糸(もめんいと)の束(たば)のよう、眼も赤く、きものだってまるでワカメに似(に)、いつもはだしで爪(つめ)も黒く長いのでした。ところが狐の方はたいへんに上品なふうで、めったに人を怒らせたり気にさわるようなことをしなかったのです。
     ただもし、よくよくこの二人をくらべてみたら、土神(つちがみ)の方は正直で、狐はすこし不正直(ふしょうじき)だったかもしれません。 (「土神と狐」より)

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