今村明恒 いまむら あきつね
1870-1948(明治3.5.16-昭和23.1.1)
地震学者。理学博士。鹿児島県生まれ。明治38年、統計上の見地から関東地方に大地震が起こりうると説き、大森房吉との間に大論争が起こった。大正12年、東大教授に就任。翌年、地震学科の設立とともに主任となる。昭和4年、地震学会を創設、その会長となり、機関誌『地震』の編集主任を兼ね、18年間その任にあたる。


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店)。写真は、Wikipedia 「ファイル:Imamura_Akitsune.jpg」より。


もくじ 
地震の国(三)今村明恒


ミルクティー*現代表記版
地震の国(三)
  • 一七 有馬の鳴動
  • 一八 田結村(たいむら)の人々
  • 一九 災害除(よ)け
  • 二〇 地震毛と火山毛
  • 二一 室蘭警察署長
  • 二二 ポンペイとサン・ピエール
  • 二三 クラカトアから日本まで

オリジナル版
地震の國(三)

地名年表人物一覧書籍
難字、求めよ
後記次週予告

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*凡例
  • 〈 〉( ):割り注、もしくは小書き。
  • 〔 〕:編者もしくは、しだによる注。
  • 一、漢字、かなづかい、漢字の送りは現代表記に改めました。
  • 一、若干の句読点のみ改めました。適宜、ルビや中黒をおぎないました。一部、改行と行頭の字下げを改めました。
  • 一、ひらがなに傍点は、一部カタカナに改めました。
  • 一、漢数字の表記を一部、改めました。
  •    例、七百二戸 → 七〇二戸
  •    例、二萬六千十一 → 二万六〇一一
  • 一、和暦にはカッコ書きで西暦をおぎないました。年次のみのばあいは単純な置き換えにとどめ、月日のわかるばあいには陰暦・陽暦の補正をおこないました。
  • 一、カタカナ漢字混用文は、ひらがな漢字混用文に改めました。
  • 一、書名・雑誌名は『 』、論文名・記事名および会話文は「 」で示しました。
  • 一、差別的表現・好ましくない表現はそのままとしました。


底本:『地震の國』文藝春秋新社
   1949(昭和24)年5月30日発行
http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person1578.html

NDC 分類:453(地球科学.地学/地震学)
http://yozora.kazumi386.org/4/5/ndc453.html




地震の国(三)

今村明恒

   一七 有馬の鳴動


 摂津有馬ありまの温泉は、その沿革においても有名だが、温泉とともに多量の塩類を湧出ゆうしゅつすることにおいてもまた名を得ている。あるいはこの辺りに岩塩を産するかもしれないなどと疑っている人もある。
 それと因縁があるか否かはわからぬが、その界隈かいわいに特種の鳴動のおこることもまた指摘しなくてはならぬ。明治三十二年(一八九九)の大鳴動は言うまでもなかろう。昭和六年(一九三一)七月には数日間に十数回の鳴動を頻発せしめ、近くは同十三年(一九三八)八月九日に二回の軽微な鳴動をおこして地方人士を驚かしたことがある。
 この最後の鳴動に関しては、雑誌『地震』同年九月号ニュース欄に、兵庫県農会長山脇延吉氏の経験談が出ているが、この鳴動にともなって温泉の湧出量が変化したとの説や、明治三十二年七月以来、約一年間その地方を震駭しんがいせしめたいわゆる有馬鳴動の回顧談までつけ加えてある。記事を読んで自然にほほえまれたのであるが、これは、余がこの回顧談中の一人物であって、しかも山脇氏の引用された事項中、動源の位置・原因・予測に関することなど、とくの昔、忘却していたことが、まざまざと記憶によみがえってきたためである。
 山脇氏談はつぎのとおりである。

「八月九日午後四時二十六分、神有しんゆう電車岡場おかば駅で、あまたの乗客とともに電車を待ち合わせていたところ、突如ドドーンという音響とともに、地震のような衝動を感じた。人々は異口同音に「地震だ!」とさけんだが、わたしはその瞬間に、六甲ろっこうの鳴動だと直感したので、「それはちがう。これは鳴動だ。」と言ったようなしだいだった。六甲山の鳴動は明治三十二年(一八九九)七月五日にはじまって約一年間続いたが、そのときは、地震学の権威、今村博士・大森博士〔大森房吉。の来県を求めて調査を依頼した。右調査の結果は、有馬鼓滝つづみがたきの上流なすび谷の地下三十余町のところに大洞窟ができていて、これに地殻の一部がくずれ落ちるために生ずる鳴動だということがわかって、有馬町民も安堵あんどしたものだ。このたびの鳴動は三十二年のものほどひどくはなかった。鳴動と関係があるか否かわからんが、有馬温泉の人々の話によると、温泉の湧出量が最近増したといっている。三十二年の鳴動の際には、湧出量が倍にも増加し、鳴動がやむと同時に湧出量も旧に復した。今日の鳴動は、有馬郡八多はた方面にも聞いた人がある。

 明治三十二年の鳴動がはじまったのは七月五日となっているが、爾来じらい、日に日にその数と勢力とを増し、一週間の後には、浴客よっかくはいうにおよばず、土地の人へも多大な脅威をあたえた。浴客数は、平年ならば内外人あわせて千五百人にもおよぶべきはずなのに、それがしだいに減少して、今はそのなかばにもりぬという状態に、県当局は捨ておけず、県の技術者を派遣したが要領を得ず、あるいは紀淡きたん海峡方面における演習射撃の余波であろうかなどの説も出て、こうじ果てたあげく、専門家派遣のことを震災予防調査会に電請でんせいしてきたのである。
 余が偵察のため派遣されたのは、その月二十日ごろであった。まず打ち合わせのため兵庫県庁に乗りこんだが、応接したのが書記官床次とこなみ竹次郎氏。氏はわが同郷の先輩。「や、君がやってきたのか」という。「どうやって調べるのか?」との問いに、「まず動源の位置をつきとめるんです」と答えると、「それがどうしてもわからんのだよ」という。
「それなら警察署・役場などから集まった報告を見せてください。
「うん、これ見たまえ。
といって、分厚ぶあつ綴込とじこみ帳二冊を出した。余は、その中から著大ちょだいな一鳴動を物色して、同じ鳴動を感じた地方を読みあげ、床次とこなみ氏ならびに属僚に依頼して、地図上の各位置に赤印をつけてもらった。これらの赤印は、おおむね一つの円内におさまるので、これに相当する円心を求めると、ほぼ有馬町に近い位置が得られた。
「それ、ごらんなさい。このとおり、有馬の辺りが動源にあたるではありませんか。
「なるほど、それに相違ない。こんなに簡単にわかるのだったら、吾輩わがはいでもできたのだがなあ。
と大笑いであった。
「ただしお待ちなさい。中心が移動しているかもしれませんから。
と制しておいて、いまひとつ、他の鳴動について同じことをやってみたが、結果に変わりはなかった。
「このつぎはどうするのか?」
「仮想中心の周囲に、中心をへだたる一里くらいの数点を物色し、そこで鳴動の方向や、ドンという鳴音とブルブルという震動の間隔を調べて、いっそう中心に近寄ちかよって行くのです。
「いや、もう中心は有馬に定まった。浴客はいうにおよばず、土地のものどもまで戦々恐々として、逃げ出そう、逃げ出そうとしている状態だから、今夜中にそこへ行ってくれ。
というわけ。
 その晩、有馬町に到着したのは十一時ごろであった。同行者は神戸測候所の江原技手。阪神の新聞記者がついてきたこと言うまでもあるまいが、その中には大朝の五十崎杏沖君もいた。
 ここは震源から四キロメートル以内の距離にあったのだろう。鳴動の末尾のブルブルはとにかく、はじめのドンという鳴音はじつにすごい。その後経験した名草地震・伊東地震のごとき、ぜんぜん比較にならない。数においてもまたはるかにこちらが超越していた。数日後、動源の直上でこれを数えてみたら、一時間に六十余回を得た。一昼夜間には一五〇〇回にのぼったのだろう。
 鳴動の方向や、鳴と動との時差に関し、有馬町ではその晩のうちに調べができ、翌日は六甲山の頂上と唐櫃村からむらとで計測した。その結果、中心は有馬町鼓滝つづみがたきの上流、俗称なすび谷、あるいはたかつこ高津孝たかづこか。、有馬町中央からおおむね南二キロメートルくらいの辺りにあたることがわかった。
 第三日は、まっすぐに、ここぞと思われる点に行ってみたが、鳴動は直下にほとんど間断なく聞こえる。震央に相違ないと感じた。ただし、数か月後の模様では位置がすこしく北方に移動し、しまいごろには有馬町正南十二町ぐらいのあたりが中心らしくなってきた。
 その晩、調査の結果を発表した。いつごろ、いかにして鎮静するかとの問いにも答えた。洞穴が地表までき出たらどうなるかとの問いに対しては、きよらかな水をたたえて、よい遊園地ができましょうと言ったら、聴衆がいっせいに笑った。鳴動開始以来、最初の安心笑いであったそうだ。
 動源は地下三十余町の深さと発表されたむね山脇氏は認めておられるが、余が最初、数日間の調べではそうであった。ただし後に至ってしだいに浅くなり、二十町から五、六町くらいまでになったようである。
 この深さを計測するには二つの方法を用いた。第一は鳴動の方向による方法。それは方位のみならず、伏角ふっかくまでも含み、身体を直接に地面に横たえてこれを体験することにした。第二は、鳴と動との時差をはかり、それと距離係数との乗積として深さを求めたのであるが、この時差は、動源の直上において〇・七秒と出てきた。これはたん振子ふりこをいろいろな長さに変え、その一振がちょうどドンとブルとの間隔に相当するよう調節して振子ふりこの長さを定め、しかるのち、その振子ふりこに周期をはかって得た値である。ただし、そのとき採用した距離係数はすこしく大きすぎたように思う。三・五ぐらいに取りたいところ、さすれば動源の深さは二・五キロメートルぐらいと訂正すべきであろう。
 余は、温泉の湧出量や温度も調査したが、わずかに数日の間においても、その増進の傾向が認められた。
 以上は余が偵察の全収穫であった。その後、大森博士は地動計と傾斜計とを有馬町にすえつけ、温泉異常についても引き続き調査された。その成果は震災予防調査会報告に出ている。
 余が調査は、上記のように、じつに他愛たあいもなく簡単幼稚なものであったが、ただし、おびやかされた人々の余に対する感謝款待かんたいは、余がこれまでの経験中もっとも熱烈深厚しんこうなものであったように記憶している。町経営の温泉・冷泉には出入りの自由をゆるされた。湯の花染、竹細工などのみやげ品を買いに行くとだいは取らぬという。それではこまると言って買わずに帰ると、品物を宿に届けるという始末。鳴動の調べも一応すんだから帰ろうとすると、「これからは町の賓客ひんきゃくとしたい。夏休み中いてくれないか。奥さんもお迎えに人を出すから。」と町長が相談にくる。兵衛旅館の堂々たる別館をおよそ旬日じゅんじつ〔十日ほど。独占していたのに、一泊三十銭しか取らないというに至っては、まったく言語道断であった。

   一八 田結村たいむらの人々


 大正十四年(一九二五)五月二十三日、但馬地震において、城崎きのさきの温泉町は七〇二戸のうち半数ほどつぶれたうえ、五四八戸を焼失せしめて二七二人を失い、また豊岡町とよおかちょうは二一七八戸のうち四分の一ほどつぶれたうえ、一四八三戸を焼失せしめて八十七人の死者を生じた。このとき、港村田結たい部落は、その位置が震源の直上にあったため、震動は他の町村に比較してもっとも激烈をきわめ、最初から五秒とたない中、全部落八十三戸のうち八十二戸は全壊し、うち六十七戸はまるつぶれにつぶれ、村人のうち六十五人はその下敷きとなった。時あたかもカイコの掃立はきたて日にあたり、三十六戸はさかんに炭火をおこしていたため、潰家かいかからはところどころ煙をき始め、見る見る三戸は火の手をあげた。おりから余震はあいついで轟々ごうごう襲来し、圧伏された人たちは救助をさけぶなど、平和の楽土は一転して焦熱しょうねつ地獄と化したのである。もしこのとき、村人が他の町村なみに狼狽ろうばい無策であったならば、村は丸焼けとなり、六十五人も黒こげとなって、およそ震災郷に起こり得べき最大限度の惨害さんがいを現出したであろうが、しかしながら、それにしては村人はあまりに沈着であった。賢明であった。そして訓練が行きとどいていた。いやしくも屋外にいて手足の自由を持つかぎり、彼らは異口同音にさけんだ。「まず火を消せ! まず火を!」と。そして三所の火はたちまちもみ消され、また煙をあげている潰家かいかも屋根をやぶって火の元を消し、時を移さず、下敷きの人たちをも救出した。これがため、五十八人は無事であった。遺憾いかんながら七名だけは下敷きになった瞬間に致命傷をこうむり、いかに敏速に救助の手がまわっても、助かる見込みのない不運な人たちであった。
 かくて田結の部落は、地震国日本が経験しうる最強度の地動におそわれながら、震災は付近の町村に比較してきわめて軽かったのである。これは決して偶然ではない。前にも指摘したとおり、彼らは沈着で賢明でかつよく訓練されていた。何がかくあらしめたか、少しく語らせてほしい。
 そもそも田結は半農半漁の部落である。海には海産物が豊かであり、陸にはやなぎ行李ごうりの原料たる柳苗の栽培がさかんであり、むしろ自然に恵まれている方であろう。加うるに村人の勤勉努力は、北但ほくたん僻陬へきすうにありながら、比較的に有福な楽土を築き上げていたのである。
 話はさらに二十年ほどさかのぼる。ある日、男子出漁の留守に失火して一部落烏有うゆうに帰したことがある。そこで婦人消防隊が編成され、ついでガソリンポンプまで備えつけられたのだそうだ。母や姉が消防演習をやれば、児童もそのマネをする。震災のとき震災国日本における模範的な行動を演じ得たのも、決して偶然ではなかったのである。
 以上の話は、公会の席上あるいは各種の紙上においてたびたび紹介されたことがあり、今日ではもはや世間周知の事実となっている。いまさらここに話をむしかえす必要を見なかったのであるが、ただし、余が今語ろうとするのは、むしろ震災地田結たいの横顔であって、余においてもいまだかつてこれを公表したことがなく、そして上記の事実は、その側面観の前提となるべきものであるから、便宜べんぎ上これを回顧してみたにすぎないのである。
 余は、地震学に志してからすでに五十年、明治二十七年(一八九四)の東京大地震・庄内大地震をはじめとして、震災地を見学したこと幾回とも数えきれないくらいである。かかるばあい、不幸な罹災者りさいしゃの心理状態の憂欝ゆううつ・失望におちいりやすいのは無理もないことであるが、研究資料をあさるため、そこへ割り込むわれわれの苦痛もまたひととおりではない。ただし、余が五十年間の経験において、かような遠慮がまったく無用であった唯一の例がある。それがすなわち、ここに語ろうとする田結たい震災地の見学談である。

 時は五月二十八日、地震後五日もすぎ、手まわしのよい研究者はそろそろ引きあげるころであった。午後四時ごろ、われわれの一行山崎やまさき直方なおまさ・坪井誠太郎せいたろう・鈴木じゅんの三博士および余)は港村気比けひの見学を終え、久美浜はま街道をたどりつつ、田結部落への分岐点へ到達した。ここで山崎博士は久美浜方面の調査を先にしようといい、余は田結を主張する。余が意見には机上調査の根拠があったので、三人も曲げてこれをれ、久美浜をあとまわしにすることにした。
 行くことおよそ一キロメートル、田結部落に到着した。見れば一村全滅、ただところどころに、傾きながらつぶれずにいるものはあるけれども、仔細に検すれば、柱折れ軸部けなどしてとうてい修繕しゅうぜんのきかない、いわゆる立ちながらの全壊家屋である。すなわちこの村は、これまで見学した町村中、地震動のもっとも激烈なところだったということになるのだが、ただ火災がおこらなかったのは幸運であったと思われたのである。その中に、大きな地割れや段違いなども見つかったから、本格的な断層もありそうに思われたので、余は一人の青年を呼びとめて聞いてみた。青年はしばらくわれわれの様子をながめていたが、それでは団長を呼んできますと言ってけ出して行き、まもなくそれらしい人物を案内してきた。余は近づいて発問しようとすると、先方は驚きの眼をみはった。「おや、今村先生ではありませんか。」という。今度はこちらが驚いて、「それに相違ありません。ただし、わたしにはあなたの記憶がありませんが、どこでお目にかかったでしょう?」と不審がれば、「いや、ごもっとも。わたしは関東大震災のとき早稲田にいましたが、あの直後、先生の早稲田での講演を三回とも残らず聞いた一人です。」という。なるほど、思いあたることがある。早稲田での三回目の講演は第一高等学院でやったと記憶するが、そのとき、待たせてある車まで相当な距離があったので、聴衆の忌憚きたんのない批評を聞くのも一興と思い、さいわい夜は暗し、人波ひとなみにもまれながら聞くとはなしに聞くと、「僕はこれで三度聞いたが、毎度まいど初耳のことがあるね。「うん、もっと早く聞かしてくれればよかったになあ。」などという批評もあった。余はとっさの間、この団長はそのときの一人であったかもしれぬと思った。書くとこう長くなるが、ただし、思い出は単に一瞬間であった。
「それではわれわれの任務を説明する必要はありますまいが、これが某々ぼうぼう……」
と一行を紹介して、今回の不幸に対する慰謝いしゃの辞を述べ、例の本格的な断層らしいものを気づいた人はないかをたずねたのである。
「あります、あります。三田野というこの北の方の台地で耕作していた一人が、あの地震とともにはたけを横ぎって断層ができた珍事に仰天ぎょうてんして、農具もそのまま、一気に村まで飛んで帰ったそうですが、今呼びにやりますから暫時ざんじお待ちください。
といって、待つ間の少閑しょうかんを利用して一問一答、この文章のはじめに掲げたような地震経験談を聞かしてくれたのである。
 青年はさらに話を続けた。
「どこかに、お休みくださるよう、ご案内したいところですが、ご覧のとおりのつぶれ方で、破損しながらも使える家とては、まず青年団の事務所ぐらいのものです。それとても、現在、復興事務所その他にあてていますので、お話にもならぬ雑踏ざっとうぶりです。ただしご安心ください。震災がかく軽かったため、方々からの物資・人手などの救助慰問品類一切おことわりして、これを震災のもっとひどかった他の町村におゆずりし、本部落だけは自給自足によって復興につとめています。
というのである。
 余は、この村の人々が大地震に対して模範的な行動を取ったことにつき、予期しない宝物をひろったように感じたのであるが、末段の「自給自足」にもまた少なからず動かされたのであった。あたかも彼らは地動がもっとも激烈であったことを寸毫すんごうも気づかないようであったから、そのことを指摘してみると、いや、それでも震災は最も軽かったのですととなえて、きわめてほがらかに自力更生の当然さを主張するのであった。なんたる気高い人たちであろう。余は、後年ある機会において、このことを思い出し、日本にも田結の青年のごとき人々がいるではないかと言ってやったことがある。それは昭和五年(一九三〇)七月二十三日イタリア中部大地震に関して、伊国政府が他国の慰問品いもんひんを断わったときのことであった。ある人が、このことを指摘して、ムッソリーニのやり方を感嘆したのに対して、余は前記の一言ひとことをもってこれにむくいたのである。
 かような話のうちに、三田野の断層目撃者も見えたから、われわれは地図をひらいてその場所を確かめ、彼らの好意を謝して別れを告げると、彼らはそれだけで満足する人たちではなかった。目撃者にいま一人を加えて案内に立とうというのだ。われらは、自給自足の妨害となるをおそれ、いてこれを辞退したけれどもがんとして聴かない。
「われわれの自給自足は部落だけのことです。あなたたちの任務は、今回はもちろん、将来の地震についても、その災害予防の基礎となるべき大事業ですから、われわれにも分相応ぶんそうおうの奉仕をさしていただきたいと思います。どうぞご辞退なきように。
というので、これ以上断わってはかえって彼らを苦しめそうであったから、こころよくその好意を受けることにした。ただし、かような好意はこのときだけではなく、次から次へとひろげられていったのである。
 田結部落北側の台地、俗称三田野には、はたして本格的な断層が現われていた。ただし、まもなく夕闇がせまってきたので、調査は翌日にばし、ひとまず引き上げることにした。
 前にも述べたように、その日はあるいは久美浜泊にもなるべき状勢であったから、それ以外には宿舎のことなどぜんぜん考えていなかった。ただし、このことは田結の青年たちには知らせたくなかった。それで誰やらの気転で、瀬戸に宿舎を定めておいたと称し、ふたたび気比けひ部落へもどり、円山川まるやまがわを渡って帰るべく、その日の好意を謝して別れを告げると、「いや、それではまわり路だ。すぐここから送ってあげます」と言ってたちまち端舟はしぶねの用意をしてくれた。一行は疲れてもいたし、お世話せわになりついでだという気分も手伝ったのだろう。今度は遠慮なしにその好意を受けて瀬戸まで送ってもらい、明朝は何時にむかいにくればよいかとのたずねに、それも辞退せず、時刻を約し、かつ一行の人数の増加するむねをも告げて別れたのであった。
 一行は瀬戸に上陸したものの、まり場所の心あたりはぜんぜんないのである。そこで港西小学校長・鳥居諦岸氏にたのんで、二階建て校舎の壊れ残った部分を利用し、そこの二階裁縫さいほう室に一夜の雨露をしのがしてもらった。翌朝は松沢教授に引率された中期・前期の地震学科学生も来会らいかいしたから、一行合計十三名となり、約束どおり田結へ渡してもらって徹底的に研究を続けたのであった。これによって山崎博士の命名した田結断層の全貌ぜんぼうも明瞭となったしだいである。
 田結の青年たちがこの日も案内に立ってくれたこと、いうまでもない。彼らは中食のころを見はかり、湯茶を舟路しゅうろによって神水かんじまで運んでくれた。その他用務を終えた一行を海路ふたたび瀬戸まで送ってくれるなど、あの窮乏きゅうぼうのおりから尋常一様の人には到底とうていなしがたいことを、彼らはきわめてほがらかな気持ちをもってやってくれたのであった。
 もっとも激烈な地震におそわれながら災害防止のために取った模範的行動、きわめてほがらかな気持ちをもって自力更生にあたった健気けなげさ、地震に対する深い理解、そしてその研究者に対して示した親切、余は過去五十年間、田結村たいむらの人々のような罹災者りさいしゃを二度と見たことがない。一行の何人も、別れにのぞんで適当な感謝の辞を見い出すに苦しんだであろうが、余のごときは、ただ心に彼らの前途を祝福するのみであった。
 山崎博士も、たぶん同じ意味で言ったのであろう。「この両日間の研究によって調べあげた断層に、貴村の名を取って田結断層と呼ぶことにいたしました。」というと、団長まじめくさって、「それは困ります」という。「なぜか?」と問うと、「田結が震源だと聞いては、およめにくる人がなくなるでしょう。」と、カラカラ大笑たいしょうするのであった。
 さもあろう。正義勤勉の貴さを知らないやからから見たらそうかもしれぬ。さもないかぎり、田結の人々は、地方若人たちの憧憬しょうけいまととなること、疑いの余地がないであろう。

   一九 災害


 往昔おうせき、迷信の多かった時代には、天変地妖ちようの発生につけ、あるいは疫癘えきれいの流行に際し、災害けのために、公に私に神事祈祷きとうがいとなまれ、恐怖の刹那せつな、個人的にはさまざまな呪文が唱えられるようなことがあった。
 天然痘はそのころ非常な恐怖であったこと想像にかたくない。疱瘡ほうそうを仕上げるまではわが子と思うなとは子を持つ親へのいましめであった。このことは種痘がおこなわれるようになった後までも続いていた。余の生国は南薩〔薩摩半島南部。であるが、親どもが早く種痘をさしてくれたので、天然痘の流行に際しても、別段べつだんな不安を感ずることもなく、迷信者の行事をおもしろ半分にながめることができた。爾来じらい六十余の星霜せいそうたけれども、当時流行した疱瘡ほうそうおどり(今日の東京音頭のような)や、それにつけてうたう歌など、今なおよく記憶している。滑稽こっけいなのは、疫病神やくびょうがみきらいそうな名札を門札もんさつに並べてかけ、あるいはりつけるのであった。佐々良ささら三八さんぱち御宿、鎮西ちんぜい八郎はちろう御宿のたぐいである。
 火山爆発に関する迷信は、原始的生活において世界共通であったかもしれぬ。上古、わが国においては、火山の鳴動あるいは爆発をもって、火山の主の怒りたましるしとしてつつしみ怖れ、主神に叙位叙勲のご沙汰さたがあり、祭祀さいしがおこなわれたことなど、信憑しんぴょうすべき歴史に麗々れいれいしくせてある。
 地震に対する観念も火山爆発のばあいと同様であった。もし災害がことにはなはだしいときには、もったいなくも、天皇ご自責じせきの詔勅をくだしたまい、諸神・諸山へご祈祷きとうのことが、免税賑恤しんじゅつなどの恩典と並びおこなわれていた。これは徳川幕府の初期までも続いていた。慶長十六年(一六一一)会津大地震に際し、領主蒲生がもう秀行ひでゆきが、この地妖ちようの発生をもって失政の一つに数えられ、国をのぞかれたことは有名な話である。ただし、まもなく江戸が地震活動の中心となったので、この迷信は、そのまま続けられなくなり、やがて地震をもって一つの自然現象と見る時代となったのである。
 武者むしゃ金吉きんきち氏は「地震と呪文」と題し、本邦各地におこなわれていた呪文を列挙しておられる。つぎにこれを抄録する。

 昔江戸では、地震があると「万歳楽まんざいらく、万歳楽」と唱える習慣があった。この呪文は、岩手県釜石あたりでもおこなわれるそうだから、相当広い範囲にわたるものかもしれない。開西では「世直よなおし、世直よなおし」、土佐では「かは」、石垣島や那覇では「きょうつか、きょうつか」と唱えるそうだ。いずれも震災けの呪文であろう。万歳楽まんざいらく世直よなおしはわかるが、かははわからぬ。一説に川水の増減に注意して津波の襲来にそなえよという意味だというが、いかにも付会ふかいの説のようである。琉球のきょうつかにいたっては、琉球語の知識なき筆者にはまったくチンプンカンである。

 余は毎度ながら同氏の文を興味ぶかく読んでいるが、上記の一文はことにおもしろかったので、知らずしらず、のマネをする烏の心持ちとやらになってきた。
 余は、少時しょうじ桜島の噴煙を朝夕にながめていたから、地震を感じた経験も少くはなかった。今考えると、多数は火山地震であった。最初に、鳴響につれて微動を感じ、数秒の後、ゆさゆさと本れを感ずるのが通常であった。この本れを、当時はり戻しと呼んでいたが、これは、地方により、今もそう呼んでいるところがある。そこでこのような鳴響を感ずるやいなや、親どもは口々くちぐちに「り戻し、り戻し!」とさけんで子どもたちを警戒するのであった。ただしこれは呪文ではなく、余がかつて物した地震心得十則の第一条と同工異曲のような感がある。第一条は前にも一言ひとことしたが、その全文は次のとおりである。

 最初の一瞬間において非常の地震なるか否かを判断し、機宜に適する目論見もくろみをたてること。最初から器物を倒し、壁を裂くほどのものは大地震たるべく、初動ゆるやかならば震源距離やや遠く、主要動となるまでに若干の余裕あるも、急ならば距離近し。主要動は初動のおよそ十倍ほどである。

 武者さんは、土佐で唱える「かは」の因縁を不明とし、川水注意の一説を付会ふかいの説らしいとしておられるが、余はかならずしも付会とは思わない。なるほど川水の増減に注意してという一句は、意がつくされていないきらいがあるが、つぎの句の「津波の襲来にそなえよ」というのは真理だと思う。余は、土佐にかような呪文が今なおおこなわれているか否かを知らないが、これは呪文とするよりも、「ゆり戻し、ゆり戻し」と同様に警戒の辞とする方があたりそうに思われる。元来、土佐には地震はそう多くは起こらないが、そのまれに起こる地震の中には、規模のきわめて大きいものがある。近くは宝永四年(一七〇七)・安政元年(一八五四)の大地震などがそれである。かかるばあい、地震による直接の損害も大きいが、それ以上に大きな災害を与え、土地の人を恐怖せしめるのは津波である。かつ、津波の特性として、なみはまず川筋に進入して避難用の道路を遮断し、集団的に多数の溺死者を生ぜしめることがあるもので、その実例は土佐の沿岸いたる所にある。さればこの地方において、津波に備えるためにまず川筋を警戒せよというのは、むしろ常識としてよいことであり、またそうありたいと希望する。
 つぎに琉球における「きょうつか」という呪文であるが、武者さんがこれを琉球語とされたのは思いすごしらしい。これはたぶん日本語「京の塚」であろう。現に九州地方では多くそう唱えている。京の塚は、京都の将軍塚かあるいは田村塚のことと思うが、余はむしろ後者だと思う。あるいは田村塚すなわち田村将軍の塚、すなわち将軍塚ではないかといわれるかもしれんが、そう簡単にはかたづけられぬ。まず両者の起原から出発する。(以下三件『大日本地名辞書』から抄録)

 将軍塚 華頂山かちょうざんの南峰にして青蓮院しょうれんいんの背より登るべし。長楽寺の東にそびゆ。『平家物語』いわく、延暦十三年(七九四)長岡の京よりこの京へ移されし時、帝土ていどにて八尺の人形をつくり、鉄の鎧冑がいちゅうをきせ、鉄の弓矢を持たせて、末代というもこの京を他国へ移すことあらば守護神とならんとちかいつつ、東山の峰に西向きに立てぞ埋めける。されば天下に事できたらんには必ず鳴動す。

 田村塚 宇治郡山科村やましなむら大字栖野東南勧修寺かんじゅじの北)圃中にあり。土俗馬背と呼ぶ。すなわち前征東大使大納言兼右大将・坂上さかのうえの田村麿たむらまろの墓なり、塋域えいいきおよそ四十坪。明治二十八年(一八九五)修理して墓道を作る。

 『大日本史』いわく。弘仁二年(八一一)坂上田村麿こう。賜従二位、賜宇治郡栗栖村水陸田山林三町墓地。使しかばねひつぎ平安城而葬上レ之。并甲冑剣矛弓箭きゅうせん糒塩之。是後国家将事時、則其墓鳴動云。毎大将出征、先詣而祷焉。其所佩剣、蔵之郷府、曰坂上宝剣

すなわち上記のとおり、将軍塚と田村塚とはぜんぜん別物である。ただしその創設、前者は後者に先だつ十七年であるから、この十七年間にいう将軍塚にはいささかの疑義もないが、ただその以後のものについては判然しない点がある。ただし、塚の本尊が一つは人形であり、他は威徳兼備の田村将軍自身であるから、人々の崇敬は同日に論じ難いものがある。後世、将軍出征にあたって、まず田村将軍の墓にもうでて戦勝を祈るという慣例のできたのも証拠とするにりるであろう。されば、後世いわゆる将軍塚鳴動の塚はこの田村塚のことと解してさしつかえないもののようである。
 あるいは、塚が鳴動するとは怪しいではないかという人があるかもしれぬ。これは往時、科学知識のとぼしかった時代に、そう解釈したまでのことであって、今日から見ると、この地方におこったきわめて局部的な地鳴り地震の種類と解すべきである。このごろでも、山科やましな醍醐だいごあたりにはまれにこの種の地鳴り地震がおこることがある。

   二〇 地震毛と火山毛


 火山毛かざんもうなら聞いたことがあるが、地震毛とは初耳だという人があるかもしれぬ。しかしながら、シナの書物には地震毛の記事のほうが多く、火山毛に関するものはかえってまれである。天毛をらすというような記事は、むしろ日本の書物に多い。
 これもその例であるが、松前まつまえ大島おおしまの噴火に「寛保二年(一七四二)四月、灰降る。灰中赤白毛あり」とし、宝暦九年(一七五九)七月二十七日、青森にて、「晴天。正午西北方より曇りはじめ、午後二時には一天暗黒となり、翌朝までに灰の積むこと五、六分、白毛を混ず。長さ二、三寸より六、七寸に至る。」と記してある。
 東京帝国大学・地震学教室にはハワイのキラウエア火山と伊豆大島とから噴出した火山毛のみごとな、しかも無上の光栄をこうむった標本を蔵している。前者は故大森博士により、後者は中村清二博士によって採集されたものである。
 去る大正九年(一九二〇)秋のなかばのころであった。一日、高貴の方を教室にお迎え申し上げたとき、大森博士が、これはハワイの火山から噴出いたしました火山毛でござりますと奏上すると、一間も離れて不思議そうにながめて御ましました御方は、わたしは西洋婦人の髪の毛が、どうして地震学の参考になるのかと不思議に思っているところであったとませたまい、それを持たせてみてくれとお望みになる。博士は恐縮しつつ、これはガラス質でござりますから、細いトゲがサボテン以上でござりますと申し上げると、「いいえ、手袋をはめているから大丈夫だ」とおおせあそばして、この標本を玉手に載せたまい、しばしご観賞をたまわったのはまことにかしこき極みであった。
 いま一つの標本も右におとらぬ光栄を有するものである。
 火山毛が溶岩の変態であり、溶融した溶岩が急に溶岩池から飛び出すとき、細い尾をくのでこれができるのだとは、中等学校程度の書物にも載っていることだから、これに細説する必要もあるまい。
 火山毛は天から降るから、地震毛は地にえるのだろうと先まわりされる方があるかもしれぬ。まったくそのとおり。
 シナの歴史本、晋の時代から明末に至るまでの地震記事の中に、地震毛に関するものが、余の気づいただけでも二十九件ある。今、その二、三の標本を左に陳列してみる。

「晋の安帝、隆安四年(四〇〇)夏四月、地震う。己未、地毛を生ず。あるいは白く、あるいは黒し。
「梁の太清二年(五四八)九月戊辰、地震う。江左〔江南のことか。もっともはなはだしく、屋をやぶり人を殺す、地白毛を生ず。長さ二尺。
「明の正徳六年(一五一一)八月、福建地震う。後三日、地白毛を生ず。
「明の正徳十二年(一五一七)四月十九日、沙県さけん地震う。この年地毛を生ず。一夜にして長さ二、三寸。白あり、黒あり。民驚駭きょうがいす。両閲月、すなわち没す。
「明の崇禎すうてい十四年(一六四一)十二月二十四日夜、掲陽けいよう郡地おおいに震う。声あり、雷のごとく、西より東南におよぶ、かきを倒し、屋をやぶり、桃山鄒堂らのところ、地け山くずれ、人物を圧死せしむ。次日に至って地毛を生ず、色赤黒、長さ四、五寸。

 またまれには、地震の記事はなく、毛を生じたことのみの記事もある。

「明の嘉靖かせい三十六年(一五五七)安岳あんがく、地白毛を生ず。長さ四寸馬尾のごとし。

とあるがごとき、その一例である。
 右の記事に現われた白毛あるいは黒毛を、余は仮に、地震毛と呼んでいるのである。
 今、上記二十九件の地震毛記事を通覧してみると、いわゆる地震毛とはおおむね次のようなものである。

 地面から生ずる毛髪状のもの。
 色合いは白または黒。
 十年か数十年に一回ぐらいしかおこらない強烈な地震に続いて生ずるばあいが多いが、まれには地震に縁のないらしいのもある。
 発生の季節を調べてみると、その明記された二十二回のうち、春九回、夏五回、秋六回、冬二回。これを月別にすると、一月を欠き、四月の六回、十一月の三回は多い方を代表している。かようにシナの書物には地震毛の記事の多いのに、日本の地震史にはそれがまったく見あたらぬ。

 近年の地震調査においても、誰一人かようなものを気づかなかった。じつに地震毛なるものは、地震ナマズや地震にともなう発光現象とともに、ある意味においてわが地震学界における三大謎であったのである。
 さすがの大森博士やミルン先生も、これには手を触れなかったとみえる。あるいは大森さんは牛馬の毛ぐらいに、軽くかたつけておられたようにも記憶する。日本の地震ナマズに相当して、インドには地牛の説があるくらいだから、それも一応もっとものように思われるが、しかしながら、地から生ずる毛の解釈にはふさわしくない。
 近ごろに至り、地震ナマズに関する畑井博士の研究ができ、地震の発光現象に関する寺田博士・武者むしゃ金吉きんきち氏の研究があって、例の三大謎の二つまでがすでに解かれ、あるいはまさに解かれようとしているのに、地震毛のみが依然として幻覚視されていたのは、学徒としてはずかしい次第であった。ただし、べつだん発憤していたわけでもなかったから、天これに感応したまうはずもないのだが、ただし偶然にも、まったく偶然にも、人もあろうに、また場所もあろうに、その地震毛を余が寓居の前庭に下したまわったのである。もし、シナの歴史本によってこれを記載するならば、

 昭和七年(一九三二)秋十月。砧村きぬたむら〔現、東京都世田谷区。地毛を生ず。長さ六、七寸。その色初めは白く、終いは黒し。月をけみしてすなわち没す。

とでもすべきであろうか。
 話は変わる。それは大正十二年(一九二三)関東大震災直後、東京・横浜の焼け跡から第一に萌出もえだしてきた植物のことである。
 最初は、焼きただれた生木の液汁が黄色く変わったものとのみ思っていたが、数日たつと、それが焼け残りの材木にも付着しているのに気がついた。よく見ると一種の菌である。この菌は、まもなく焼け跡全体を占領したのみならず、山の手の焼けなかった地区にも侵入し、油断ゆだんをすると食料、特に食パン類にまで繁殖してしまった。気候の関係であろう。やがて晩秋の頃にはしだいに衰微して、ついに見えなくなった。そしていつとはなしに、それが人々の記憶からも消え去った。
「地震毛とは何ぞや」が余が脳裏に徂徠そらいしている際、ふとよみがえってきたのはこの焼け跡の菌である。地震毛よりも先に、この方をかたづけねばならぬ。そこでこのことを植物の大家、藤井健次郎博士にただすと、当時、この菌を専門的に研究している江本義数学士を紹介してくれた。余は、一人で聞くのはもったいないと思ったから、学士に懇談して、この菌に関する一編を雑誌『地震』に寄稿してもらった。今、その概要を抄録する。

「問題の菌は、学名をネウロスポラ・シトフィラ(Neurospora sitophila)と称する糸状菌しじょうきんで、菌線ははなはだ長く、太さは六・五ないし三一・五ミクロンあり、色は最初灰白色なるも、しだいに赤橙色をおびてくる。異常な耐熱性を持ち、蒸気には弱いが乾熱に対してははなはだ強く、一〇〇度では百分間、一一〇度ないし一二〇度では二十分間も生存の能を持っている。この点、焼け跡にての繁殖に適する所以ゆえんであって、ほかの菌が大火災によってたいてい死滅し、もしくは発育をさまたげられる状態にあったにかかわらず、この菌のみはよく残存し、かつ焼け跡の乾熱状態のため、他の菌を圧倒して大繁殖をとげるに至ったのである。

 余が、ここにこの糸状菌の話を挿んだのは、この菌と地震毛との間に多少の類似点が気づかれたからである。糸状菌は、前に記したように過般かはんの大震火災の副産物であったが、樹木が火山噴出物で損傷されたばあいにも、同様の発育をとげるものだそうだ。いずれにしても火山・地震・火災に縁故のある代物しろものである。地震毛と兄弟分らしく思われるではないか。
 地震毛は右の類似性のほかに、それが植物たることについてもほとんど疑問の余地がない。地から生ずるというだけでも、か速断されないこともない。加之しかのみならず、そのもっとも発生しやすい季節は春であって、秋これにつぎ、反対に厳冬においてはその発生を見ないではないか。
 そこでふたたび植物学者のお世話になることにした。藤井博士の答えはすこぶる簡単明瞭である。いわく、「それはたぶん、ヒゲカビ、学名をフィコミセス・ニテンス(Phycomyces nitens)と称する毛状菌であろう。色の白または黒なること、成長の速やかなること、太さ毛髪程度で、長さ一尺にも達することなど、それに相違ない」というのである。なお、東大農学部・三宅やけ驥一きいち博士の植物学教室には、小南君というカビの専門家もいるから、詳細はそれについてうけたまわれとのことであった。余は、当面の問題に対して一つの光明を見い出したのみならず、カビという微細な存在に対してすら、真摯しんしな研究者の済々せいせいたるに意を強うするところがあった。
 伝え聞くところによれば、この菌は日本の特産ではなく、およそ十年前、研究の目的のために輸入されたのだそうだ。爾来じらい、東京ならびにその近郊の庭園や畑地にまで潜行的に拡がっていくらしい。
 数年前のことだとか、目黒か渋谷かの神社か寺院かの庭にこのヒゲカビが繁茂はんもして大評判となり、新聞だねにまでなったことがあるという。また、東京女子高等師範の校庭に飼育してあった兎のおりの中にもそれが発生して、長さ一尺ほどに成長したことがあるというが、このときには、兎フンがその培養基ばいようきとなったものらしい。
 余は、一昨年おととし〔昭和六年(一九三一)か。の晩秋に寓居を砧村きぬたむらの高台に転じた。東京朝日新聞社が、都下の近郊に健康地をぼくして朝日住宅地と名づけ、模範家屋十数むねを建てて同好者の観覧に供し、希望者にこれを譲与したことがあるが、この朝日住宅地も砧台の一部分である。土地が健康地であることは、壮丁そうていの兵役検査の結果を見てもあきらかであるが、旧幕時代には子宝を希望する人の転地場所であったともいわれている。現在でも、十年ないし十数年子宝のなかった人で、この住宅地へ移転したためにそれをさずかった例が十指を屈するにるといっている人もある。
 それはとにかく、地面はつねによくかわいている。多摩川に近いためか、もやのかかること割合に多く、これがため、空気は朝夕浄化される。地震毛が萌出もえだしたのは、じつにかような土地柄であったのである。
 昨秋のある日、近所の小猫が余の寓居の花壇にきて用をたしていた。別段べつだん花卉かきの害にならないのみならず、かえって肥料にもなることだし、それに跡は例のとおり地ならしをしていくのだから、小言もいわずに帰してやった。ところが一両日たつと、たしかにここぞと思う位置に、白いカビが群生してきた。翌朝になると二寸ほどに伸び、数日後には六、七寸に達した。太さはわれわれの毛髪ぐらいであるが、すくすくと直立し、先端はすこしく丸くふくらんでいる。これはかねて聞いているニテンス菌らしく直感したから、なお入念に観察していると、先端のふくらみは次々に破裂している。胞子を出しているらしい。それから徐々に変色して、ついに暗黒色となり、菌身の上部は多少縮れてきた。根元ねもとを検査してみると、猫フンがまさしく培養基ばいようきとなっている。
 いよいよそれに相違ないと信じたから、まず風雨に害されぬよう保護を加え、あわせてその繁殖を助け、また標本製作と写真撮影とに取りかかった。
 繁殖のためには、パンに牛乳をひたしてこれを培養基とし、その面に土をって発生地のそばに置いたらみごとに成功し、数日の後には前同様、六、七寸のたけに伸びた。これで標本を作り、写真をとり、教室に持って行って同人らの一覧に供した。
 標本は、別にその二、三を三宅博士のところに送って鑑定を乞うたところ、まさしくニテンス菌だとの答えであった。
 標本の一つは地震学教室にも納めておいた。一日客を案内して教室を参観すると、例の光栄ある火山毛の入れてあるガラス箱の内に、試験管に入れた火山毛の標本が新たに加わっている。大島から噴出したものとしてある。ただし、火山毛に特有な光沢がなく、あたかも小人島からでも到来した海苔のりかワカメかという感じがする。仔細に見ると見おぼえがある。余が先ごろ納めた地震毛をかく誤って陳列したのであった。それほどに両者相似ている。
 地震毛の本体は、以上のとおり、やや明瞭になったが、シナの本場の物ははたしてニテンス菌であるか否か、なお未解決のままに残されている。ただし、それが地震直後に繁殖する理由はあきらかである。
 地震が相当に強烈であればその地方に恐惶きょうこうきたし、住民はやむなく一時なりとも屋外生活を営むであろう。かようなばあい、家畜はいうにおよばず、万物の霊長までが、曩日のうじつ余が庭園にたわむれた小猫のごとき動作をなすは自然の勢いであるから、地上いたるところに毛状菌の培養基が豊富に敷設されることになろう。大地を打つつちははずれることがあっても、この想像ははずれることはあるまい。
 余は、前に地震ナマズ・地震の発光現象・地震毛をもって、ある意味における地震学界の三個の謎だと言った。
 三者ともに、古人はこれを写真だとして物の本にも書いた。しかるに明治・大正を通じて半世紀間の地震学は、むしろこれを愚弄ぐろうしていた。そうして昭和に至って、それがはじめて正当に解釈されるに至った。この意味において、この三者は当に三幅対さんぶくついとなり得べきものであろう。
 いま一つ。地震ナマズは地震の先駆となり、地震の発光現象は地震時の現象であり、地震毛は地震後に発生するところ、これまた三者三幅対さんぶくついとすべき価値があるであろう。
 ただし、地震ナマズと地震の発光現象とは、学術的に有益な研究論文がすでに発表されたにかかわらず、地震毛の表題では学術的報文には成りかねる。この一文も、単に地震学界の残渣ざんさを掃除したにすぎない。

   二一 室蘭警察署長


 余がかつてものした旧稿「地震に出会ったときの心得」十則の付録に、つぎの一項を加えておいた。

頻々ひんぴんにおこる小地震は、単に無害な地震群に終わることもあり、また大地震の前提たることもある。震源が活火山にあるときは爆発の前徴たる場合が多い。注意を要する。

 この末段の事項についてわが国の火山中好適な例となるものは、三宅島・富士山・桜島・有珠山などであり、いずれも数十年ないし数百年おきに間欠的爆発をなすのであるが、その数日前から小地震を頻発せしめる習性を持っている。もし、活火山の休眠時間が例外に長いかあるいは短いときは、かような前震が不鮮明となり、短時間で終わりを告げることもあれば、またその反対に非常に長びくこともある。前者の例としては磐梯山ばんだいさんがあり、後者の例としては浅間山・霧島山・温泉岳雲仙岳うんぜんだけなどがある。
 大正三年(一九一四)一月十二日、桜島爆発に関しては、地盤隆起、天然ガスの噴出、温泉・冷泉の増温・増量などの前徴以外に、特に二日前から著明な前震がはじまったなどのことがあったにかかわらず、爆発の予知が失敗に終わったのは、専門学徒にとってこのうえもない恨事こんじであった。これに反して、明治四十三年(一九一〇)七月二十五日、有珠山爆発に際しては、専門学徒でもない一警官が、前に記したような爆発前の頻発地震に関するわずかの知識だけで完全に予知し、しかも彼の果断な処置によって災害を極度に軽減し得たことは、地震噴火誌上、特筆大書たいしょすべき痛快事である。
 大森博士は、上記二噴火のいずれのばあいにも徹底的な調査をなし、その研究結果は大きな著述となって公にされた。有珠山についてはその噴火の習性として先駆地震のあることが、つぎの記述の中にも現われている。

 寛文三年(一七六三)七月十一日より微震鳴動あり、十四日、あかつきにいたりて噴煙す。
 明和五年(一七六八)十二月十六日、臼山うすざん焼け夷人畏怖いふ避難す。
 文政五年(一八二二)閏正月十九日。閏正月十六日午後十時ごろよりすでに地震を発し、翌朝までに三十一回あり。十七日には地震鳴動約四十四回、十八日には約七十五回を算し、十九日にはいよいよその数を増し、朝より正午ごろまでに約百回の地震を感ぜしが、同日午後二時ごろに至りてついにはなはだしき鳴動とともに破裂したり。
 嘉永六年(一八五三)三月十五日、虻田あぶたにて地震八回を感じ、正午ごろ噴火となる。
 明治四十三年(一九一〇)七月二十五日。七月二十一日にはすでに有珠山より数回の微震を発し、二十二日には西紋鼈にしもんべつにおいても二十五回を算したり。翌二十三日にはさらに震数を増して一一〇回を感じたれば山麓諸村落の住民は他に避難し始めたるが、この夕、警察当局においては、付近住民をして有珠山より三里以外の地に立ち退くよう強制せり。越えて二十四日にはいよいよ震数を増して二五一回を感ずるにいたり、ついに二十五日午後十時におよびて山の北側にある金毘羅こんぴら山より噴煙をはじめたり。

 上記のとおり、この最後の噴火につき、地方の警察官憲かんけんが、爆発を未然に察知して、保安上の非常手段を取ったことが記載してあるが、これ以上に詳細な記事は、『地震噴火誌』には載っていないようである。
 余は、この話に非常な興味を感じ、さらに詳細を故大森博士にたずねてみたことがあったが、博士は言葉短かに、当時の警察当事者は室蘭警察署長・飯田誠一氏であったと告げるのみであった。
 爾来じらい余は、機会があったら飯田氏に面接し、その実験談を聞こうと思っていた。さいわい大正十二年(一九二三)八月には樽前山たるまえさんの調査に行ったので、この機会に小樽おたるに下車して、今は市助役たる飯田氏を訪問するつもりであった。しかるに樽前たるまえ登山中爆発の珍事が出来しゅったいし、案外手間取てまどったので、同氏訪問はもとより、予約してあった湯川ゆのかわのミルン夫人〔旧姓、堀川利根子。のもとへも行かれなくなり、終生取り返しのつかないほど遺憾いかんに思った。ミルン夫人ははたしてその冬、没してしまった。
 ところが昨春、ある日の午後、地震学教室へ珍しくも、那須理学士が一人の紳士をへやに案内してきて、「先生が逢いたがっている珍客をお連れ申しました」という。見れば、ガッチリしたかっぷく、赤ら顔ながら柔和にゅうわな相。余はなんとなく飯田さんらしいと直感したから、うかがいを立てると、そうだとの事。なるほど、これは余にとってまったくの珍客である。何はさておき、「ごゆっくりできますか?」とたずねてみると、「かねてあなたのご希望を伝聞していたし、自分としてもお目にかかり、かつ教室の見学もしたいと希望していたため、いそがしい中をちょっとくりあわせてきたのだ。」との答えであった。「それでは遺憾いかんながら閑話かんわはつぎの機会にして、さっそくながら、かねて私がうかがってみたいと思っていたことに答えてくださいませんか。」と言って、有珠うす爆発の予知ならびに保安処置について、不躾ぶしつけな質問を連発してみた。今おぼろげながら、そのときの余が記憶をたどって、飯田さんのお答えをつづりあわせて見ると、大要つぎのようなものであった。

一 爆発予知に関する基礎知識は大森博士の書きものからひろい取った。
二 いよいよ爆発するらしいとの確信を得て、居民きょみんに対し、山の三里以外へ立ち退くよう強制命令を発したのは爆発二昼夜前であって、執行を終わったのは一日前であった。
三 有珠山を中心とする三里以内の距離には、当時、およそ三千戸に一万五千の住民がいた。
四 居住民の中には、立ち退きに反対するものもあり、反抗の気勢を示すものすらあった。
五 余は、もし余の所信が誤りであって、爆発なしに事が終わったら、いさぎよくその責任を負うべく悲壮な決心をしていた。
六 この強制執行については、あらかじめ上司へ報告してその許可を受ける余裕がなく、まったく独断専行でやった。
七 上司からは何のおとがめもなく、また、おめもなかった。
八 事終わって、居住民からは感謝された。決死の覚悟までしていた余は、彼らの真剣な感謝によってむくいられたと思った。

 以上は、飯田さんのお答えのうち、余らにとって最も重要な事項を臚列ろれつしたにすぎないが、なお、あの時はいくぶんかの時間の余裕のままに、種々瑣末さまつな問いをも発してみたのであった。飯田さんをわれわれの教室へひきよせた動機如何いかんというのもその一つであったが、お答えによってつぎのようなことがわかった。すなわち、飯田さんは現在、苫小牧とまこまい町長を勤めておられる。ところが、その苫小牧の王子製紙事務所は余がたびたびお世話せわになった所、ことに前記樽前たるまえ登山のおりには、ちょうど爆発に出会ったため行方不明などと誤報されたくらいだが、このときの余が根拠地は右の事務所であったのである。してみると、余が飯田さんを敬慕けいぼしているという事実が、いつしか事務所の人たちから伝わって、やがて同氏の耳にまで入るようになったのもあえて不思議とするにたらぬ。
 それはさておき、飯田氏の実験談は、われわれに対していろいろな教訓を与える。あの悲壮な決心、それは熟慮のうえの断行であったにちがいなく、そのときの心事は、高陞号こうしょうごう撃沈の際における東郷艦長のそれと同じであったろう。ここに貴き教訓として、何人なんぴとにも適用さるべきものがあろうが、余は、地震や火山の学徒たるわれわれにとって、特に二つの偉大な教訓の含まれていることを指摘してみたい。

一 飯田さんを真似まねようと思うやからは、これも確実な根拠に立ち、熟慮に熟慮を重ねたうえに決行すべきであるが、もし自己の推断が失敗に帰したばあいには、死をも辞せざる覚悟を必要とすること。
  余はこの機会において、ことに力説しておきたいことがある。それは危機すでにせまるにかかわらず、これを気づかないのみか、かえって薄弱な根拠のもとに、他人にまでも楽観をすすめ安心を強いるような言辞をろうしたならば、その責任の重大さは前者の比ではないということである。危機の推断が失敗に終わったばあいの損害はむしろ軽く、楽観に失敗した損失は取りかえしのつかぬことになることを思わなくてはならぬ。
二 飯田さんを真似まねてさいわいにそれが成功しても、おおやけに推賞されようなどと期待してはならぬこと。これはわが国のごとく、国民が一般に学問に無関心なうえに、為政家もまた学術上の功績を表彰することをこころがけぬ国においてそうである。ただ学徒としては、国家社会・人道のため善事をつくし得たらば、それでよいのである。

 話は横道にはずれたが、飯田さんはお急ぎのことであったから、要談をそこそこに切りあげて記念の撮影をなし、さらに再会を約してしきたもとかった。(昭和九年(一九三四)七月)

   二二 ポンペイとサン・ピエール


 火山の爆発によって付近の村落が大損害をこうむった例は数えきれないほどあるが、ただし、数万の人口を有する都会がただ一瞬に失われたという例は、そうざらにあるものではない。ポンペイとサン・ピエールとは、この種の被害記録として、まさしく天下の双壁である。
 ポンペイ市の遺跡は、世界名所の一つとなっているから、いまさらここに詳明する必要を見ない。ただ簡単に、ヴェスヴィオの西紀七九年の大噴火によって湮滅いんめつしたまま、ながくその所在地を見失われていたのが、西紀一七四八年、一農夫の偶然な発見を端緒として、ついに今日のようにほとんど全部発掘されるに至ったことを想起するにとどめておく。
 余は、それにもかかわらず、ここにいささか言及してみたいことがある。ほかでもない。それはこの都市が湮滅いんめつに帰した直接の原因如何いかんということである。
 ポンペイは火山の中心から南々東、約九キロメートルの位置にある。同じ運命をたどったヘルキュラニウムは西南西、約七キロメートルにある。廃墟はいきょの外観を比較すると、前者においては、家屋の屋根が残らず抜けて、四壁の損傷は比較的に軽いという特徴があるのに、後者においては、山に対する方の側壁が破壊されている。すなわち前者は火山爆発の空襲により、後者は同じく直射砲撃によって破壊されたというべきである。
 以上の推定を根拠づけるものに、つぎの二つの事項がある。すなわちその一つはヴェスヴィオそれ自身の西紀一九〇六年の噴火であって、いま一つはマルチニク島プレー火山の一九〇二年の噴火である。
 オッタヤーノは、ヴェスヴィオの火口中心から北東、約四キロメートルの距離にある一村落であるが、上記一九〇六年の噴火のとき、もっとも濃厚に灰を噴出す期間において、あたかもその風下にあたり、わずかに三十分間という短時間内に降灰九〇センチメートルほど堆積して多数の屋根を打ち抜かれ、二二〇人の死者を生じた経験を持っている。ポンペイ湮滅いんめつの直接の原因は、疑いもなくこれと同様のものであったろうが、実際はもっと激烈であったに相違ない。廃墟はいきょから発掘された人骨の数があまり多くないため、あるいは市民の大多数は事変前に無事に立ち退いたのであろうなどと唱える人もあるが、それもおぼつかなげに思われる。
 マルチニク島プレー火山の有名な爆発は、西紀一九〇二年五月八日に始まったのであるが、このときは、噴火作用中もっとも恐れられている熱雲ねつうん抛射ほうしゃという現象が見られたのである。それは赤熱した火山灰に軽石や岩片を混じた巨大な量が火口から抛射ほうしゃされるのであるが、その速さは毎秒一〇〇メートル内外もあるので、それが一過いっかした跡には、いたるところに廃墟はいきょが現出するのである。これがため、当時、山麓にあって繁栄をほこっていたサン・ピエールの港町は一瞬にして掃き去られ焼きつくされたのであるが、跡には何が残ったであろうか。火口と町とを一直線に海の方からながめると、家の側壁がまばらに焼け跡の樹木が立っているようにしか見えないのに、横から眺めると、それが壁らしく鮮明に見えるのである。ただし、一歩を陸上にしるした何人もそこにすくんでしまったというが、さもあろう。全市は一つの巨大な火葬場になっていたのである。すべて二万六〇一一の市民中、奇跡的に助かったのは地下室に監禁されていた一囚人のみであったということである。
 本邦における火山爆発の勢力は、あなどりがたいものがあるには相違ないけれども、世界のもっとも激烈なのにくらべれば、はるかに下級なものといわなければなるまい。

   二三 クラカトアから日本まで


 明治十六年(一八八三)八月二十七日、ジャワとスマトラとの間、スンダ海峡にあるクラカトア火山島の大爆発は、自然界の出来事として三個の記録を残した。その一は爆発そのものの偉大であったことで、このとき、東西約五キロメートル、南北約八キロメートルの同島が、おおむねその三分の二を爆破飛散せしめられたのである。その二は、この爆発が空気に与えた影響のすこぶる偉大であったことで、その結果、大気におこった波動がクラカトアから出発して対蹠点たいせきてんに集まり、さらにそこから発足してクラカトアに戻り、かくて地球を一巡したのであるが、引き続きかような巡回を三回半までもしたことが追跡せられた。その他、大気中に塵埃じんあいを飛散させて、それがたちまち全地球に瀰漫びまんしたため、太陽はいたるところで赤く見え、その色が幾週間もさめなかったという奇現象をあらわした。現にかくいう余のごときも、郷里鹿児島においてこの事を目撃した一人である。
 クラカトア爆発のその三の特色は、それがきわめて偉大な津波を惹起じゃっきしたという点である。すなわちこの時の波はジャワ、スマトラの沿岸にかなりな損害を与えたこともちろんであるが、余波は五大洋のいたるところに観測され、あるいは目撃された。有名な『クラカトア爆発記』には、世界各地に散在せる三十五か所の検潮所で得た記録が収集されてある。ただしこの時、日本にはまだ検潮儀けんちょうぎの設備がなかったから、右の集録に本邦記録を欠くこともちろんである。
 前記の検潮記録を一瞥いちべつして見ると、第一に気づかれることは、津波の波長の異常に大きいことで、波の周期はおよそ二時間に達したのである。日本や米州の太平洋沿岸にときどき襲来する津波の基調周期はがいして二十分ないし四十分ぐらいのものであるが、これに対して、クラカトア津波はかくも異彩をはなっている。津波が五大洋に波及したのは、かような特色が一基因をなしたのであろう。
 前記のごとく、わが国においてはクラカトア津波の記録を欠いていたが、余は、先般その津波の目撃談を聴くことを得たので、ここにこれを填補てんぽする機会をとらえ得たわけである。
 目撃者は動物学の権威、理学博士・石川千代松先生である。以下、先生の談話を記憶のままに記してみる。

「それは、余が大学卒業の翌年の夏であった(注、先生の卒業は明治十五年(一八八二)。場所は神奈川県三崎町みさきまち、当時、動物学科の二年生であった故箕作みつくり元八げんぱち(後、東大教授文学博士)の臨海実験所(仮のもので、三崎町東端、俗称ほうじょうにあった)で動物学の実習をやっていた。おりしも突然戸外で、津波だ! 津波だ! と言って漁師どもがさわぎ出した。とりあえず外に飛び出してみると、なるほど、沖の方から長堤ちょうていのごとき沖膨おきぶくれがこちらに向かって徐々に押しよせている。高さは三、四尺ぐらいと推測したから、たいしたことはあるまいと考え、いずれも逃避などせずになりゆきを静観していた。はたして何らの被害もなく、海水は徐々に水嵩みずかさを増し、ややしばらくして徐々に減退した。それでも終わったことと思っていると、かれこれ二時間か一時間半もたったと思うころ、前のような現象がふたたびくり返された。
 余はかような海水の進退を最初の二回しか目撃しなかったけれども、漁師どもの言によると、夜になってもなおまず、おそらく四、五回も継続したろうとのことであった。
 当時、余らの信用していた一老漁師は、これは遠方に大地震でもあって、そのためにおこった津波の余波だろうと言っていたから、余もまたそんなものかなと思い、その場をすませておいた。しかるに今夕こんゆう、君のクラカトア津波の話を聞き、ちょうど半世紀前の記憶がまざまざとよみがえってきた。時といい周期に関する特色といい、まさしくそれに相違ない。

 以上が石川先生の談話である。
 この津波がバタビヤに到着したのは、二十七日、午前十一時半ごろであったから、クラカトアにおける津波発生の時刻は、午前十時十分ごろであったろう。すなわち、東京地方時の午後〇時二十分ごろにあたる。今これに、浪原〔波源のことか。から相模湾に至る旅程りょてい約五三〇〇キロメートルをよこぎるに要する六時間弱という時間を加えると、津波がはじめて相模湾頭に現われる刻限が出てくるわけだが、これは午後六時前後ということになる。この刻限も、まさしく上記、石川先生の話に一致すというべきである。(つづく)



底本:『地震の國』文藝春秋新社
   1949(昭和24)年5月30日発行
入力:しだひろし
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地震の國(三)

今村明恒

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*濁點付きの二倍の踊り字は「/″\」
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   一七 有馬の鳴動

 攝津有馬の温泉は、其の沿革に於ても有名だが、温泉と共に多量の鹽類を湧出することに於ても亦名を得てゐる。或は此の邊に岩鹽を産するかも知れないなどと疑つてゐる人もある。
 それと因縁があるか否かはわからぬが、其の界隈に特種の鳴動の起ることも亦指摘しなくてはならぬ。明治三十二年の大鳴動は言ふまでもなからう。昭和六年七月には數日間に十數回の鳴動を頻發せしめ、近くは同十三年八月九日に二回の輕微な鳴動を起して地方人士を驚かしたことがある。
 此の最後の鳴動に關しては、雜誌地震同年九月號ニュース欄に、兵庫縣農會長山脇延吉氏の經驗談が出てゐるが、此の鳴動に伴つて温泉の湧出量が變化したとの説や、明治三十二年七月以來約一年間其の地方を震駭せしめた所謂有馬鳴動の回顧談まで附加へてある。記事を讀んで自然に微笑まれたのであるが、此は、余が此の回顧談中の一人物であつて、而も山脇氏の引用された事項中、動源の位置、原因、豫測に關すること等、疾くの昔、忘却してゐたことが、まざ/\と記憶に甦つて來た爲である。
 山脇氏談は次の通りである。
[#ここから1字下げ]
「八月九日午後四時二十六分、神有電車岡場驛で、數多の乘客と共に電車を待合せてゐたところ、突如ドドーンといふ音響と共に、地震のやうな衝動を感じた。人々は異口同音に「地震だ。」と叫んだが、私は其の瞬間に、六甲の鳴動だと直感したので、「それは違ふ。此は鳴動だ。」と言つたやうな次第だつた。六甲山の鳴動は明治三十二年七月五日に始まつて約一年間續いたが、其の時は、地震學の權威今村博士、大森博士の來縣を求めて調査を依頼した。右調査の結果は、有馬皷瀧の上流なすび[#「なすび」に傍点]谷の地下三十餘町の處に大洞窟が出來てゐて、之に地殼の一部が崩れ落ちる爲に生ずる鳴動だといふことがわかつて、有馬町民も安堵したものだ。此度の鳴動は三十二年のもの程ひどくはなかつた。鳴動と關係があるか否かわからんが、有馬温泉の人々の話に據ると、温泉の湧出量が最近増したと云つてゐる。三十二年の鳴動の際には、湧出量が倍にも増加し、鳴動が止むと同時に湧出量も舊に復した。今日の鳴動は有馬郡八多方面にも聞いた人がある。」
[#ここで字下げ終わり]
 明治三十二年の鳴動が始まつたのは七月五日となつてゐるが、爾來日に/\其の數と勢力とを増し、一週間の後には、浴客は云ふに及ばず、土地の人へも多大な脅威を與へた。浴客數は、平年ならば内外人合せて千五百人にも及ぶべき筈なのに、それが次第に減少して、今は其の半ばにも足りぬといふ状態に、縣當局は捨置けず、縣の技術者を派遣したが要領を得ず、或は紀淡海峽方面に於ける演習射撃の餘波であらうかなどの説も出て、困じ果てた擧句、專門家派遣のことを、震災豫防調査會に電請して來たのである。
 余が偵察の爲派遣されたのは、其の月二十日頃であつた、[#読点は底本のまま]先づ打合の爲兵庫縣廳に乘込んだが、應接したのが書記官床次竹次郎氏。氏は吾が同郷の先輩。「や、君がやつて來たのか」といふ、「どうやつて調べるのか」との問に、「先づ動源の位置を突きとめるんです」と答へると、「それがどうしてもわからんのだよ」といふ。
[#ここから1字下げ]
「それなら警察署役場等から集まつた報告を見せて下さい。」
「うん、これ見給へ。」
[#ここで字下げ終わり]
と言つて、分厚な綴込帳二册を出した。余は、其中から著大な一鳴動を物色して、同じ鳴動を感じた地方を讀上げ、床次氏並に屬僚に依頼して、地圖上の各位置に赤印をつけて貰つた。此等の赤印は、概ね一つの圓内に收まるので、之に相當する圓心を求めると、略ぼ有馬町に近い位置が得られた。
[#ここから1字下げ]
「それ御覽なさい。此の通り、有馬の邊が動源に當るではありませんか。」
「或程[#「或程」は底本のまま]それに相違ない。こんなに簡單にわかるのだつたら、吾輩でも出來たのだがなあ。」
[#ここで字下げ終わり]
と大笑であつた。
[#ここから1字下げ]
「併しお待ちなさい。中心が移動してゐるかも知れませんから。」
[#ここで字下げ終わり]
と制して置いて、今一つ、他の鳴動に就て同じ事をやつて見たが、結果に變りはなかつた。
[#ここから1字下げ]
「此の次はどうするのか。」
「假想中心の周圍に、中心を距る一里位の數點を物色し、其處で鳴動の方向や、ドンといふ鳴音とブル/\といふ震動の間隔を調べて、一層中心に近寄つて行くのです。」
「いや、もう中心は有馬に定まつた。浴客は云ふに及ばず、土地のもの共まで戰々兢々として、逃出さう、逃出さうとしてゐる状態だから、今夜中に其處へ行つて呉れ。」
[#ここで字下げ終わり]
といふ譯。
 其の晩有馬町に到着したのは十一時頃であつた。同行者は神戸測候所の江原技手。阪神の新聞記者がついて來たこと、言ふまでもあるまいが、其の中には大朝の五十崎杏沖君もゐた。
 此處は震源から四粁以内の距離にあつたのだらう。鳴動の末尾のブル/\は兎に角、初のドンといふ鳴音は實に凄い。其の後經驗した名草地震、伊東地震の如き、全然比較にならない。數に於ても亦遙に此方が超越してゐた。數日後、動源の直上で之を數へて見たら、一時間に六十餘回を得た。一晝夜間には千五百回に上つたのだらう。
 鳴動の方向や、鳴と動との時差に關し、有馬町では其の晩の中に調べが出來、翌日は六甲山の頂上と唐櫃《からと》村とで計測した。其の結果、中心は有馬町皷瀧の上流、俗稱なすび[#「なすび」に傍点]谷或はたかつこ[#「たかつこ」に傍点]、有馬町中央から概ね南二粁位の邊に當ることがわかつた。
 第三日は、眞直に、此處ぞと思はれる點に行つて見たが、鳴動は、直下に殆んど間斷なく聞える。震央に相違ないと感じた。併し數月後の模樣では、位置が少しく北方に移動し、終頃には有馬町正南十二町位の邊が中心らしくなつて來た。
 其の晩、調査の結果を發表した。何時頃如何にして鎭靜するかとの問にも答へた。洞穴が地表まで拔出たらどうなるかとの問に對しては、清らかな水を湛へて、よい遊園地が出來ませうと言つたら、聽衆が一齊に笑つた。鳴動開始以來最初の安心笑であつたさうだ。
 動源は地下三十餘町の深さと發表された旨山脇氏は認めて居られるが、余が最初數日間の調べではさうであつた。併し後に至つて次第に淺くなり、二十町から五六町位までになつたやうである。
 此の深さを計測するには二つの方法を用ひた。第一は鳴動の方向に依る方法。それは方位のみならず、伏角までも含み、身體を直接に地面に横たへて之を體驗することにした。第二は、鳴と動との時差を計り、それと距離係數との乘積として深さを求めたのであるが、此の時差は、動源の直上に於て〇・七秒と出て來た。此は單振子を色々な長さに變へ、其一振が、丁度ドンとブルとの間隔に相當するやう調節して振子の長さを定め、然る後、其の振子に週期を計つて得た値である。但し其の時採用した距離係數は少しく大き過ぎたやうに思ふ。三・五位に取りたい所、さすれば動源の深さは二・五粁位と訂正すべきであらう。
 余は、温泉の湧出量や温度も調査したが、僅に數日の間に於ても、其の増進の傾向が認められた。
 以上は余が偵察の全收穫であつた。其の後、大森博士は地動計と傾斜計とを有馬町に据附け、温泉異常に就ても引續き調査された。其の成果は震災豫防調査會報告に出てゐる。
 余が調査は、上記のやうに、實に他愛もなく、簡單幼稚なものであつたが、併し脅かされた人々の余に對する感謝款待は、余が是までの經驗中最も熱烈深厚なものであつたやうに記憶してゐる。町經營の温泉冷泉には出入の自由を許された。湯の花染、竹細工などの土産品を買ひに行くと代は取らぬといふ。それでは困ると言つて買はずに歸ると、品物を宿に屆けるといふ仕末。鳴動の調べも一應濟んだから歸らうとすると、「これからは町の賓客としたい。夏休み中ゐて呉れないか。奧さんもお迎へに人を出すから。」と町長が相談に來る。兵衞旅館の堂々たる別館を凡そ旬日獨占してゐたのに、一泊三十錢しか取らないといふに至つては、全く言語道斷であつた。

   一八 田結村の人々

 大正十四年五月二十三日但馬地震に於て、城崎の温泉町は七百二戸の中半數程潰れた上、五百四十八戸を燒失せしめて二百七十二人を失ひ、又豊岡町は二千百七十八戸の中四分の一程潰れた上、一千四百八十三戸を燒失せしめて八十七人の死者を生じた。此の時、港村|田結《たい》部落は、其の位置が震源の直上にあつた爲、震動は他の町村に比較して最も激烈を極め、最初から五秒と經たない中、全部落八十三戸の中八十二戸は全潰し、中六十七戸は丸潰れに潰れ、村人の中六十五人は其の下敷となつた。時恰も蠶の掃立日に當り、三十六戸は盛んに炭火を起してゐた爲、潰家からは處々煙を噴き始め、見る/\三戸は火の手を上げた。折柄餘震は相次いで轟々襲來し、壓伏された人達は救助を叫ぶなど、平和の樂土は一轉して焦熱地獄と化したのである。若し此の時、村人が他の町村なみに狼狽無策であつたならば、村は丸燒けとなり、六十五人も黒焦となつて、凡そ震災郷に起り得べき最大限度の慘害を現出したであらうが、併しながら、それにしては村人は餘りに沈著であつた。賢明であつた。そして訓練が行屆いてゐた。苟も屋外に居て手足の自由を有つ限り、彼等は異口同音に叫んだ、「先づ火を消せ、先づ火を」と。そして三所の火は忽ち揉消され、又煙を上げてゐる潰家も屋根を破つて火の元を消し、時を移さず、下敷の人達をも救出した。之が爲、五十八人は無事であつた。遺憾ながら、七名だけは下敷になつた瞬間に致命傷を被り、如何に敏速に救助の手が廻つても、助かる見込のない不運な人達であつた。
 斯くて田結の部落は、地震國日本が經驗し得る最強度の地動に襲はれながら、震災は附近の町村に比較して極めて輕かつたのである。此は決して偶然ではない。前にも指摘した通り、彼等は沈着で賢明で且つ能く訓練されてゐた。何が斯くあらしめたか、少しく語らせてほしい。
 抑※[#二の字点]田結は半農半漁の部落である。海には海産物が豊かであり、陸には柳行李の原料たる柳苗の栽培が盛んであり、寧ろ自然に惠まれてゐる方であらう。加ふるに村人の勤勉努力は、北但の僻陬にありながら、比較的に有福な樂土を築上げてゐたのである。
 話は更に二十年程遡る。或る日、男子出漁の留守に失火して一部落烏有に歸したことがある。そこで婦人消防隊が編成され、尋でガソリンポンプまで備附けられたのださうだ。母や姉が消防演習をやれば、兒童も其の眞似をする。震災のとき震災國日本に於ける模範的な行動を演じ得たのも決して偶然ではなかつたのである。
 以上の話は、公會の席上或は各種の紙上に於て度々紹介されたことがあり、今日では最早世間周知の事實となつてゐる。今更茲に話を蒸返す必要を見なかつたのであるが、併し、余が今語らうとするのは、寧ろ震災地田結の横顏であつて、余に於ても未だ曾て之を公表したことがなく、そして上記の事實は、其の側面觀の前提となるべきものであるから、便宜上之を回顧して見たに過ぎないのである。
 余は、地震學に志してから既に五十年、明治二十七年の東京大地震莊内大地震を始として、震災地を見學したこと幾回とも數へきれない位である。斯る場合、不幸な罹災者の心理状態の憂欝失望に陷り易いのは無理もないことであるが、研究資料をあさる爲、其處へ割込む吾々の苦痛も亦一通りではない。但し、余が五十年間の經驗に於て、斯樣な遠慮が全く無用であつた唯一の例がある。それが即ち、茲に語らうとする田結震災地の見學談である。

 時は五月二十八日、地震後五日も過ぎ、手廻しのよい研究者はそろ/\引揚げる頃であつた。午後四時頃吾々の一行(山崎直方、坪井誠太郎、鈴木醇の三博士及び余)は港村氣比の見學を終へ、久美濱街道を辿りつゝ、田結部落への分岐點へ到達した。此處で山崎博士は久美濱方面の調査を先にしようと言ひ、余は田結を主張する。余が意見には机上調査の根據があつたので、三人も曲げて之を容れ、久美濱を後廻しにすることにした。
 行くこと凡そ一粁、田結部落に到着した。見れば一村全滅、唯處々に、傾きながら潰れずにゐるものはあるけれども、仔細に檢すれば、柱折れ軸部裂けなどして到底修繕の利かない、所謂立ちながらの全潰家屋である。乃ち此の村は、是迄見學した町村中、地震動の最も激烈な處だつたといふことになるのだが、唯火災が起らなかつたのは幸運であつたと思はれたのである。其の中に、大きな地割や段違なども見附かつたから、本格的な斷層もありさうに思はれたので、余は一人の青年を呼留めて聞いて見た。青年は暫く吾々の樣子を眺めてゐたが、それでは團長を呼んで來ますと言つて駈出して行き、間もなくそれらしい人物を案内して來た。余は近づいて發問しようとすると、先方は驚きの眼を瞠つた、「おや、今村先生ではありませんか。」といふ。今度は此方が驚いて、「それに相違ありません。併し私には貴方の記憶がありませんが、何處でお目に懸つたでせう。」と不審がれば、「いや、御尤、私は關東大震災のとき早稻田にゐましたが、あの直後、先生の早稻田での講演を三回とも殘らず聞いた一人です。」といふ。成程、思當ることがある。早稻田での三回目の講演は第一高等學院でやつたと記憶するが、其の時、待たせてある車まで相當な距離があつたので、聽衆の忌憚のない批評を聞くのも一興と思ひ、幸ひ夜は暗し、人波に揉まれながら聞くとはなしに聞くと、「僕はこれで三度聞いたが、毎度初耳のことがあるね。」「うん、もつと早く聞かして呉れゝばよかつたになあ。」などといふ批評もあつた。余は咄嗟の間、此の團長は其の時の一人であつたかも知れぬと思つた。書くと斯う長くなるが、併し思出は單に一瞬間であつた。
[#ここから1字下げ]
「それでは吾々の任務を説明する必要はありますまいが、これが某々。」
[#ここで字下げ終わり]
と一行を紹介して、今回の不幸に對する慰藉の辭を述べ、例の本格的な斷層らしいものを氣附いた人はないかを尋ねたのである。
[#ここから1字下げ]
「あります、あります。三田野といふ此の北の方の臺地で耕作してゐた一人が、あの地震と共に畠を横ぎつて斷層が出來た珍事に仰天して、農具も其のまゝ、一氣に村まで飛んで歸つたさうですが、今呼びにやりますから暫時お待ち下さい。」
[#ここで字下げ終わり]
と言つて、待つ間の少閑を利用して一問一答、此の文章の初に掲げたやうな地震經驗談を聞かして呉れたのである。
 青年は更に話を續けた。
[#ここから1字下げ]
「何處かに、お休み下さるやう、御案内したい所ですが、御覽の通りの潰れ方で、破損しながらも使へる家とては、先づ青年團の事務所位のものです。それとても、現在、復興事務所其の他に充てゝゐますので、お話にもならぬ雜沓ぶりです。併し御安心下さい。震災が斯く輕かつた爲、方々からの物資・人手などの救助慰問品類一切お斷りして、之を震災のもつとひどかつた他の町村にお讓りし、本部落だけは自給自足に依つて復興に力めてゐます。」
[#ここで字下げ終わり]
といふのである。
 余は、此の村の人々が大地震に對して模範的な行動を取つたことにつき、豫期しない寶物を拾つたやうに感じたのであるが、末段の「自給自足」にも亦尠なからず動かされたのであつた。恰も彼等は地動が最も激烈であつたことを寸毫も氣附かないやうであつたから、其の事を指摘して見ると、いや、それでも震災は最も輕かつたのですと稱へて、極めて朗かに自力更生の當然さを主張するのであつた。何たる氣高い人達であらう。余は、後年或る機會に於て、此の事を思出し、日本にも田結の青年の如き人々がゐるではないかと言つてやつたことがある。それは昭和五年七月二十三日伊太利中部大地震に關して、伊國政府が他國の慰問品を斷つたときの事であつた。或る人が、此の事を指摘して、ムッソリーニの遣り方を感歎したのに對して、余は前記の一言を以て之に酬いたのである。
 斯樣な話の中に、三田野の斷層目撃者も見えたから、吾々は地圖を披いて其の場處を確め、彼等の好意を謝して別れを告げると、彼等はそれだけで滿足する人達ではなかつた。目撃者に今一人を加へて案内に立たうといふのだ。吾等は、自給自足の妨害となるを虞れ、強ひて之を辭退したけれども頑として聽かない。
[#ここから1字下げ]
「吾々の自給自足は部落だけのことです。貴方達の任務は、今回は勿論、將來の地震についても、其の災害豫防の基礎となるべき大事業ですから、吾々にも分相應の奉仕をさして戴きたいと思ひます。どうぞ御辭退なきやうに。」
[#ここで字下げ終わり]
といふので、是れ以上斷つては却て彼等を苦しめさうであつたから、快く其の好意を受けることにした。但し斯樣な好意は、此の時だけではなく、次から次へと擴げられて行つたのである。
 田結部落北側の臺地俗稱三田野には、果して本格的な斷層が現はれてゐた。併し、間もなく夕闇が迫つて來たので、調査は翌日に延し、一先づ引上げることにした。
 前にも述べたやうに、其の日は或は久美濱泊にもなるべき状勢であつたから、それ以外には宿舍のことなど全然考へてゐなかつた。併し此の事は田結の青年達には知らせたくなかつた。それで誰やらの氣轉で、瀬戸に宿舍を定めて置いたと稱し、再び氣比部落へ戻り、圓山川を渡つて歸るべく、其の日の好意を謝して別れを告げると、「いや、それでは廻り路だ。直ぐ此處から送つて上げます」と言つて忽ち端舟の用意をして呉れた。一行は疲れてもゐたし、お世話になり序だといふ氣分も手傳つたのだらう。今度は遠慮なしに其の好意を受けて瀬戸まで送つて貰ひ、明朝は何時に迎ひに來ればよいかとの尋ねに、それも辭退せず、時刻を約し、且つ一行の人數の増加する旨をも告げて別れたのであつた。
 一行は瀬戸に上陸したものの、泊り場處の心當りは全然ないのである。そこで港西小學校長鳥居諦岸氏に頼んで、二階建校舍の壞れ殘つた部分を利用し、其處の二階裁縫室に一夜の雨露を凌がして貰つた。翌朝は松澤教授に引率された中期前期の地震學科學生も來會したから、一行合計十三名となり、約束通り田結へ渡して貰つて徹底的に研究を續けたのであつた。之に依つて山崎博士の命名した田結斷層の全貌も明瞭となつた次第である。
 田結の青年達が此の日も案内に立つて呉れたこと言ふまでもない。彼等は中食の頃を見計り、湯茶を舟路に依つて神水《かんじ》まで運んで呉れた。其の他用務を終へた一行を海路再び瀬戸まで送つて呉れるなど、あの窮乏の折柄尋常一樣の人には到底爲し難い事を、彼等は極めて朗かな氣持を以てやつて呉れたのであつた。
 最も激烈な地震に襲はれながら災害防止の爲に取つた模範的行動、極めて朗かな氣持を以て自力更生に當つた健氣さ、地震に對する深い理解、そして其の研究者に對して示した親切、余は過去五十年間、田結村の人々のやうな罹災者を二度と見たことがない。一行の何人も、別れに臨んで適當な感謝の辭を見出すに苦しんだであらうが、余の如きは、唯心に彼等の前途を祝福するのみであつた。
 山崎博士も多分同じ意味で言つたのであらう。「此の兩日間の研究に依つて調べ上げた斷層に、貴村の名を取つて田結斷層と呼ぶことに致しました。」といふと、團長まじめ腐つて、「それは困ります」といふ。「何故か」と問ふと、「田結が震源だと聞いては、お嫁に來る人がなくなるでせう。」と、呵々大笑するのであつた。
 さもあらう。正義勤勉の貴さを知らない輩から見たらさうかも知れぬ。さもない限り、田結の人々は、地方若人達の憧憬の的となること、疑の餘地がないであらう。

   一九 災害除け

 往昔迷信の多かつた時代には、天變地妖の發生につけ、或は疫癘の流行に際し、災害除けの爲に、公に私に神事祈祷が營まれ、恐怖の刹那、個人的には樣々な呪文が唱へられるやうなことがあつた。
 天然痘は其頃非常な恐怖であつたこと想像に難くない。疱瘡を仕上げるまでは我が子と思ふなとは子を持つ親への戒であつた。此事は種痘が行はれるやうになつた後までも續いてゐた。余の生國は南薩であるが、親共が早く種痘をさして呉れたので、天然痘の流行に際しても、別段な不安を感ずることもなく、迷信者の行事を面白半分に眺めることが出來た。爾來六十餘の星霜を經たけれども、當時流行した疱瘡踊(今日の東京音頭のやうな)や、それにつけて謠ふ歌など、今猶ほ能く記憶してゐる。滑稽なのは、疫病神の嫌ひさうな名札を門札に並べて懸け、或は貼附けるのであつた。佐々良三八御宿、鎭西八郎御宿の類である。
 火山爆發に關する迷信は、原始的生活に於て、世界共通であつたかも知れぬ。上古、我國に於ては、火山の鳴動或は爆發を以て、火山の主の怒り給ふ徴として愼み怖れ、主神に叙位叙勳の御沙汰があり、祭祀が行はれたことなど、信憑すべき歴史に麗々しく載せてある。
 地震に對する觀念も火山爆發の場合と同樣であつた。若し災害が殊に甚しいときには、勿體なくも、天皇御自責の詔勅を下し賜ひ、諸神諸山へ御祈祷のことが、免税賑恤などの恩典と並び行はれてゐた。此は徳川幕府の初期までも續いてゐた。慶長十六年會津大地震に際し、領主蒲生秀行が、此の地妖の發生を以て失政の一に數へられ、國を除かれたことは有名な話である。併し間もなく、江戸が地震活動の中心となつたので、此の迷信は、其まゝ續けられなくなり、軈て地震を以て一の自然現象と見る時代となつたのである。
 武者金吉氏は「地震と呪文」と題し、本邦各地に行はれてゐた呪文を列擧して居られる。次に之を抄録する。
[#ここから1字下げ]
 昔江戸では、地震があると「萬歳樂々々」と唱へる習慣があつた。此の呪文は、岩手縣釜石邊でも行はれるさうだから、相當廣い範圍に亙るものかも知れない。開西では「世直し/\」、土佐では「かは/\」、石垣島や那覇では「きようつか、きようつか」と唱へるさうだ。何れも震災除けの呪文であらう。萬歳樂や世直しは分るが、かは/\は分らぬ。一説に川水の増減に注意して津浪の襲來に備へよといふ意味だと謂ふが、如何にも附會の説のやうである。琉球のきようつかに至つては、琉球語の知識なき筆者には全くちんぷんかんである。
[#ここで字下げ終わり]
 余は毎度ながら同氏の文を興味深く讀んでゐるが、上記の一文は殊に面白かつたので、知らず識らず、鵜の眞似をする烏の心持とやらになつて來た。
 余は、少時櫻島の噴煙を朝夕に眺めてゐたから、地震を感じた經驗も少くはなかつた。今考へると、多數は火山地震であつた。最初に、鳴響につれて微動を感じ、數秒の後、ゆさ/\と本揺れを感ずるのが通常であつた。此の本搖れを、當時は搖り戻しと呼んでゐたが、此は、地方により、今もさう呼んでゐる處がある。そこで此のやうな鳴響を感ずるや否や、親共は口々に「揺り戻し搖り戻し」と叫んで子供達を警戒するのであつた。但し此は呪文ではなく、余が嘗て物した地震心得十則の第一條と同工異曲のやうな感がある。第一條は前にも一言したが、其の全文は次の通りである。
[#ここから1字下げ]
 最初の一瞬間に於て非常の地震なるか否かを判斷し機宜に適する目論見を立てること。最初から器物を倒し、壁を裂く程のものは大地震たるべく、初動緩ならば震源距離稍遠く、主要動となるまでに若干の餘裕あるも、急ならば距離近し。主要動は初動の凡そ十倍程である。
[#ここで字下げ終わり]
 武者さんは、土佐で唱へる「かは/\」の因縁を不明とし、川水注意の一説を附會の説らしいとして居られるが、余は必ずしも附會とは思はない。成程川水の増減に注意してといふ一句は、意が盡されてゐない嫌ひがあるが、次の句の「津浪の襲來に備へよ」といふのは眞理だと思ふ。余は、土佐に斯樣な呪文が、今猶ほ行はれてゐるか否かを知らないが、これは呪文とするよりも、「ゆり戻しゆり戻し」と同樣に、警戒の辭とする方が當りさうに思はれる。元來、土佐には地震はさう多くは起らないが、其の稀に起る地震の中には、規模の極めて大きいものがある。近くは寶永四年安政元年の大地震等が其れである。斯る場合、地震に因る直接の損害も大きいが、それ以上に大きな災害を與へ、土地の人を恐怖せしめるのは津浪である。且つ津浪の特性として、浪は先づ川筋に進入して避難用の道路を遮斷し、集團的に多數の溺死者を生ぜしめることがあるもので、其の實例は土佐の沿岸到る處に在る。されば此の地方に於て、津浪に備へる爲に先づ川筋を警戒せよといふのは、寧ろ常識としてよいことであり、又さうありたいと希望する。
 次に琉球に於ける「きようつか」といふ呪文であるが、武者さんが之を琉球語とされたのは思過ごしらしい。此は多分日本語「京の塚」であらう。現に九州地方では多くさう唱へてゐる。京の塚は、京都の將軍塚か或は田村塚のことと思ふが、余は寧ろ後者だと思ふ。或は田村塚即ち田村將軍の塚、即ち將軍塚ではないかと云はれるかも知れんが、さう簡單には片附けられぬ。先づ兩者の起原から出發する。(以下三件大日本地名辭書から抄録)
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 將軍塚 華頂山の南峰にして青蓮院の背より登るべし。長樂寺の東に聳ゆ。平家物語云、延暦十三年長岡の京より此の京へ移されし時、帝土にて八尺の人形を造り鐵の鎧冑をきせ、鐵の弓矢を持せて、末代と云ふも此京を他國へ移すことあらば守護神とならんと誓つゝ、東山の峰に西向に立てぞ埋めける。されば天下に事出來たらんには必鳴動す。
 田村塚 宇治郡山科村大字栖野東南(勸修寺の北)圃中に在り。土俗馬背と呼ぶ。即前征東大使大納言兼右大將坂上田村麿の墓なり、塋域凡四十坪。明治二十八年修理して墓道を作る。
 大日本史云。弘仁二年坂上田村麿薨。賜[#二]從二位[#一]、賜[#二]宇治郡栗栖村水陸田山林三町[#一]爲[#二]墓地[#一]。使[#下]其屍立[#二]棺中[#一]向[#二]平安城[#一]而葬[#上レ]之。并[#二]甲冑劍矛弓箭糒鹽[#一]※[#「やまいだれ+(夾/土)」、第3水準1-88-54][#レ]之。是後國家將[#レ]有[#レ]事時、則其墓鳴動云。毎[#二]大將出征[#一]、先詣而祷焉。其所[#レ]佩劍、藏[#二]之郷府[#一]、曰[#二]坂上寶劍[#一]。
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即ち上記の通り、將軍塚と田村塚とは全然別物である。但し其の創設、前者は後者に先だつ十七年であるから、此の十七年間に云ふ將軍塚には些かの疑義もないが、唯其の以後のものに就ては判然しない點がある。併し塚の本尊が一は人形であり、他は威徳兼備の田村將軍自身であるから、人々の崇敬は同日に論じ難いものがある。後世將軍出征に方つて、先づ田村將軍の墓に詣でて戰勝を祷るといふ慣例の出來たのも證據とするに足りるであらう。されば後世所謂將軍塚鳴動の塚は此の田村塚のことと解して差支ないもののやうである。
 或は塚が鳴動するとは恠しいではないかといふ人があるかも知れぬ。此は、往時科學知識の乏しかつた時代に、さう解釋したまでの事であつて、今日から見ると、此の地方に起つた極めて局部的な地鳴り地震の種類と解すべきである。此頃でも、山科醍醐邊には稀に此種の地鳴り地震が起ることがある。

   二〇 地震毛と火山毛

 火山毛なら聞いたことがあるが、地震毛とは初耳だといふ人があるかも知れぬ。併しながら、支那の書物には、地震毛の記事の方が多く、火山毛に關するものは却て稀である。天毛を降らすといふやうな記事は寧ろ日本の書物に多い。
 これも其の例であるが、松前大島の噴火に「寛保二年四月灰降る。灰中赤白毛あり」とし、寶暦九年七月二十七日青森にて、「晴天。正午西北方より曇り初め、午後二時には一天暗黒となり、翌朝までに灰の積むこと五六分、白毛を混ず。長さ二三寸より六七寸に至る。」と記してある。
 東京帝國大學地震學教室には布哇のキラウエア火山と伊豆大島とから噴出した火山毛の、見事な而も無上の光榮を被つた標本を藏してゐる。前者は故大森博士により、後者は中村清二博士によつて採集されたものである。
 去る大正九年秋の央ばの頃であつた。一日高貴の方を教室にお迎へ申上げたとき、大森博士が、これは布哇の火山から噴出致しました火山毛で御座りますと奏上すると、一間も離れて不思議さうに眺めて御在した御方は、わたしは西洋婦人の髮の毛が、どうして地震學の參考になるのかと不思議に思つてゐる處であつたと笑ませ給ひ、其れを持たせて見て呉れと御望みになる。博士は恐縮しつゝ、これはガラス質で御座りますから、細いとげが仙人掌以上で御座りますと申上げると、いゝえ手袋をはめてゐるから大丈夫だと仰せ遊ばして、此の標本を玉手に載せ給ひ、暫し御觀賞を賜はつたのは誠に畏き極みであつた。
 今一つの標本も右に劣らぬ光榮を有するものである。
 火山毛が熔岩の變態であり、熔融した熔岩が急に熔岩池から飛出すとき、細い尾を曳くので、之が出來るのだとは、中等學校程度の書物にも載つてゐることだから、此に細説する必要もあるまい。
 火山毛は天から降るから、地震毛は地に生えるのだらうと先廻りされる方があるかも知れぬ。全く其通り。
 支那の歴史本、晋の時代から明末に至るまでの地震記事の中に、地震毛に關するものが、余の氣附いただけでも、二十九件ある。今其の二三の標本を左に陳列して見る。
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「晋の安帝、隆安四年夏四月地震ふ。己未、地毛を生ず。或は白く或は黒し。」
「梁の太清二年九月戊辰地震ふ。江左最も甚だしく、屋を壞り人を殺す、地白毛を生ず。長さ二尺。」
「明の正徳六年八月福建地震ふ。後三日、地白毛を生ず。」
「明の正徳十二年四月十九日沙縣地震ふ。此の年地毛を生ず。一夜にして長さ二三寸。白あり、黒あり。民驚駭す。兩閲月、乃ち沒す。」
「明の崇禎十四年十二月二十四日夜、掲陽郡地大に震ふ。聲有り、雷の如く、西より東南に及ぶ、牆を倒し、屋を壞り、桃山鄒堂等の處、地裂け山崩れ、人物を壓死せしむ。次日に至つて地毛を生ず、色赤黒、長さ四五寸。」
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 又稀には、地震の記事はなく、毛を生じたことのみの記事もある。
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「明の嘉靖三十六年、安岳、地白毛を生ず。長さ四寸馬尾の如し。」
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とあるが如き、其の一例である。
 右の記事に現はれた白毛或は黒毛を、余は假に、地震毛と呼んでゐるのである。
 今上記二十九件の地震毛記事を通覽して見ると、所謂地震毛とは概ね次のやうなものである。
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 地面から生ずる毛髮状のもの。
 色合は白又は黒。
 十年か數十年に一回位しか起らない強烈な地震に續いて生ずる場合が多いが、稀には地震に縁のないらしいのもある。
 發生の季節を調べて見ると、其の明記された二十二回の中、春九回、夏五回、秋六回、冬二回。之を月別にすると、一月を缺き、四月の六回、十一月の三回は多い方を代表してゐる。斯樣に、支那の書物には、地震毛の記事の多いのに、日本の地震史にはそれが全く見當らぬ。
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[#底本は行頭の一字下げなし] 近年の地震調査に於ても、誰一人斯樣なものを氣附かなかつた。實に地震毛なるものは、地震鯰や地震に伴ふ發光現象と共に、或る意味に於て我が地震學界に於ける三大謎であつたのである。
 流石の大森博士や、ミルン先生も、之には手を觸れなかつたと見える。或は大森さんは牛馬の毛位に、輕く片つけて居られたやうにも記憶する。日本の地震鯰に相當して、印度には地牛の説がある位だから、それも一應尤ものやうに思はれるが、併しながら、地から生ずる毛の解釋には相應しくない。
 近頃に至り、地震鯰に關する畑井博士の研究が出來、地震の發光現象に關する寺田博士、武者金吉氏の研究があつて、例の三大謎の二つまでが既に解かれ、或は將に解かれようとしてゐるのに、地震毛のみが依然として幻覺視されてゐたのは、學徒として恥かしい次第であつた。但し別段發憤してゐた譯でもなかつたから、天之に感應し給ふ筈もないのだが、併し偶然にも、全く偶然にも、人もあらうに、又場處もあらうに、其の地震毛を余が寓居の前庭に下し賜はつたのである。若し支那の歴史本に依つて之を記載するならば、
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 昭和七年秋十月。砧村地毛を生ず。長さ六七寸。其色初は白く終は黒し。月を閲して乃ち沒す。
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とでもすべきであらうか。
 話は變る。それは大正十二年關東大震災直後、東京横濱の燒跡から第一に萌出して來た植物のことである。
 最初は燒爛れた生木の液汁が黄色く變つたものとのみ思つてゐたが、數日經つと、それが燒殘りの材木にも附著してゐるのに氣が附いた。能く見ると一種の菌である。此の菌は、間もなく、燒跡全體を占領したのみならず、山の手の燒けなかつた地區にも侵入し、油斷をすると食料、特に食パン類にまで繁殖して仕舞つた。氣候の關係であらう。軈て晩秋の頃には次第に衰微して、遂に見えなくなつた。そして何時とはなしに、それが人々の記憶からも消え去つた。
「地震毛とは何ぞや」が余が腦裡に徂徠してゐる際、ふと甦つて來たのは此の燒跡の菌である。地震毛よりも先きに、此の方を片附けねばならぬ。そこで此の事を植物の大家藤井健次郎博士に質すと、當時此の菌を專門的に研究してゐる江本義數學士を紹介して呉れた。余は、一人で聞くのは勿體ないと思つたから、學士に懇談して、此の菌に關する一篇を雜誌地震に寄稿して貰つた。今其の概要を抄録する。
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「問題の菌は學名をネウロスポラ・シトフィラ(Neurospora sitophila)と稱する絲状菌で、菌線は甚だ長く、太さは六・五乃至三一・五ミクロンあり、色は最初灰白色なるも、次第に赤橙色を帶びて來る。異常な耐熱性を有ち、蒸氣には弱いが、乾熱に對しては甚だ強く、一〇〇度では百分間、一一〇度乃至一二〇度では二十分間も生存の能を有つてゐる。此點燒跡にての繁殖に適する所以であつて、外の菌が、大火災に由つて、大抵死滅し若くは發育を妨げられる状態にあつたに拘らず、此の菌のみは能く殘存し、且つ燒跡の乾熱状態の爲、他の菌を壓倒して大繁殖を遂げるに至つたのである。」
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 余が、此に此の絲状菌の話を※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28]んだのは、此の菌と地震毛との間に多少の類似點が氣附かれたからである。絲状菌は、前に記したやうに、過般の大震火災の副産物であつたが、樹木が火山噴出物で損傷された場合にも、同樣の發育を遂げるものださうだ。何れにしても火山・地震・火災に縁故のある代物である。地震毛と兄弟分らしく思はれるではないか。
 地震毛は、右の類似性の外に、それが植物たることに就ても殆ど疑問の餘地がない。地から生ずるといふだけでも、然か速斷されないこともない。加之、其の最も發生し易い季節は春であつて、秋之に次ぎ、反對に、嚴冬に於ては其の發生を見ないではないか。
 そこで再び植物學者のお世話になることにした。藤井博士の答は頗る簡單明瞭である。曰く、「それは多分髭黴、學名をフィコミセス・ニテンス(Phycomyces nitens)と稱する毛状菌であらう。色の白又は黒なること、成長の速かなること、太さ毛髮程度で、長さ一尺にも達することなど、それに相違ない」といふのである。尚ほ東大農學部三宅驥一博士の植物學教室には、小南君といふ黴の專門家もゐるから、詳細はそれに就て承れとのことであつた。余は、當面の問題に對して一の光明を見出したのみならず、黴といふ微細な存在に對してすら、眞摯な研究者の濟々たるに意を強うする所があつた。
 傳へ聞く所に據れば、此の菌は日本の特産ではなく、凡そ十年前、研究の目的の爲に輸入されたのださうだ。爾來、東京並に其の近郊の庭園や畑地にまで潜行的に擴がつて行くらしい。
 數年前のことだとか、目黒か澁谷かの神社か寺院かの庭に此の髭黴が繁茂して大評判となり、新聞種にまでなつたことがあるといふ。又東京女子高等師範の校庭に飼育してあつた兎の檻の中にもそれが發生して、長さ一尺程に成長したことがあるといふが、此のときには、兎糞が其の培養基となつたものらしい。
 余は、一昨年の晩秋に、寓居を砧村の高臺に轉じた。東京朝日新聞社が、都下の近郊に健康地を卜して朝日住宅地と名づけ、模範家屋十數棟を建てゝ同好者の觀覽に供し、希望者に之を讓與したことがあるが、此の朝日住宅地も砧臺の一部分である。土地が健康地であることは、壯丁の兵役檢査の結果を見ても明かであるが、舊幕時代には子寶を希望する人の轉地場處であつたとも云はれてゐる。現在でも、十年乃至十數年子寶のなかつた人で、此の住宅地へ移轉した爲にそれを授かつた例が十指を屈するに足るといつてゐる人もある。
 それは兎に角、地面は常に能く乾いてゐる。多摩川に近い爲か、靄のかゝること割合に多く、之が爲、空氣は朝夕淨化される。地震毛が萌出したのは、實に斯樣な土地柄であつたのである。
 昨秋の或る日、近所の小猫が、余の寓居の花壇に來て用を足してゐた。別段花卉の害にならないのみならず、却て肥料にもなることだし、それに跡は例の通り、地均しをして行くのだから、小言も言はずに歸してやつた。處が一兩日經つと、慥に此處ぞと思ふ位置に、白い黴が群生して來た。翌朝になると二寸程に伸び、數日後には六七寸に達した。太さは吾々の毛髮位であるが、すくすくと直立し、先端は少しく丸く膨らんでゐる。此は豫ねて聞いてゐるニテンス菌らしく直感したから、尚ほ入念に觀察してゐると、先端の膨らみは次々に破裂してゐる。胞子を出してゐるらしい。それから徐々に變色して、終に暗黒色となり、菌身の上部は多少縮れて來た。根元を檢査して見ると、猫糞が正しく培養基となつてゐる。
 愈※[#二の字点]それに相違ないと信じたから、先づ風雨に害されぬやう保護を加へ、併せて其の繁殖を助け、又標本製作と寫眞撮影とに取掛つた。
 繁殖の爲には、パンに牛乳を浸して之を培養基とし、其の面に土を塗つて發生地の傍に置いたら見事に成功し、數日の後には、前同樣六七寸のたけに伸びた。これで標本を作り、寫眞を取り教室に持つて行つて同人等の一覽に供した。
 標本は、別に其の二三を三宅博士の所に送つて鑑定を乞うた處、正しくニテンス菌だとの答であつた。
 標本の一は地震學教室にも納めて置いた。一日客を案内して教室を參觀すると、例の光榮ある火山毛の入れてある硝子箱の内に、試驗管に入れた火山毛の標本が新たに加はつてゐる。大島から噴出したものとしてある。併し火山毛に特有な光澤がなく、恰も小人島からでも到來した海苔か若布かといふ感じがする。仔細に見ると見覺えがある。余が先頃納めた地震毛を斯く誤つて陳列したのであつた。それ程に兩者相似てゐる。
 地震毛の本體は、以上の通り、稍※[#二の字点]明瞭になつたが、支那の本場の物は果してニテンス菌であるか否か、尚ほ未解決のまゝに殘されてゐる。併しそれが地震直後に繁殖する理由は明かである。
 地震が相當に強烈であれば其の地方に恐惶を來し、住民は已むなく一時なりとも屋外生活を營むであらう。斯樣な場合、家畜は言ふに及ばず、萬物の靈長までが、曩日余が庭園に戯れた小猫の如き動作をなすは自然の勢であるから、地上到る處に毛状菌の培養基が豊富に敷設されることにならう。大地を打つ槌は外れることがあつても、此の想像は外れることはあるまい。
 余は、前に地震鯰、地震の發光現象、地震毛を以て、或る意味に於ける地震學界の三箇の謎だと言つた。
 三者共に、古人は之を寫眞だとして物の本にも書いた。然るに明治大正を通じて半世紀間の地震學は、寧ろ之を愚弄してゐた。さうして昭和に至つて、それが始めて正當に解釋されるに至つた。此の意味に於て、此の三者は當に三幅對となり得べきものであらう。
 今一つ。地震鯰は地震の先驅となり、地震の發光現象は地震時の現象であり、地震毛は地震後に發生する所、是れ亦三者三幅對とすべき價値があるであらう。
 但し、地震鯰と地震の發光現象とは、學術的に有益な研究論文が既に發表されたに拘らず、地震毛の表題では學術的報文には成り兼ねる。此の一文も、單に地震學界の殘渣を掃除したに過ぎない。

   二一 室蘭警察署長

 余が嘗てものした舊稿「地震に出會つたときの心得」十則の附録に、次の一項を加へておいた。
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「頻々に起る小地震は、單に無害な地震群に終ることもあり、又大地震の前提たることもある。震源が活火山にあるときは爆發の前徴たる場合が多い。注意を要する。」
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 此の末段の事項について我が國の火山中好適な例となるものは、三宅島・富士山・櫻島・有珠山等であり、孰れも數十年乃至數百年置きに間歇的爆發をなすのであるが、其の數日前から小地震を頻發せしめる習性を有つてゐる。若し活火山の休眠時間が例外に長いか或は短いときは、斯樣な前震が不鮮明となり、短時間で終を告げることもあれば、又その反對に非常に長引くこともある。前者の例としては磐梯山があり、後者の例としては淺間山・霧島山・温泉岳等がある。
 大正三年一月十二日櫻島爆發に關しては、地盤隆起、天然瓦斯の噴出、温泉冷泉の増温増量等の前徴以外に、特に二日前から著明な前震が始まつたなどのことがあつたに拘らず、爆發の豫知が失敗に終つたのは、專門學徒に取つて此上もない恨事であつた。之に反して、明治四十三年七月二十五日有珠山爆發に際しては、專門學徒でもない一警官が、前に記したやうな、爆發前の頻發地震に關する僅かの知識だけで完全に豫知し、而も彼れの果斷な處置に依つて災害を極度に輕減し得たことは、地震噴火誌上特筆大書すべき痛快事である。
 大森博士は、上記二噴火の孰れの場合にも徹底的な調査をなし、其の研究結果は大きな著述となつて公にされた。有珠山については其の噴火の習性として先驅地震のあることが、次の記述の中にも現はれてゐる。
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 寛文三年(西紀一七六三年)七月十一日より微震鳴動あり、十四日曉に至りて噴煙す。
 明和五年(一七六八)十二月十六日臼山燒け夷人畏怖避難す。
 文政五年(一八二二)閏正月十九日。閏正月十六日午後十時頃より既に地震を發し、翌朝までに三十一回あり。十七日には地震鳴動約四十四回、十八日には約七十五回を算し、十九日には愈※[#二の字点]其の數を増し、朝より正午頃までに約百回の地震を感ぜしが、同日午後二時頃に至りて遂に甚だしき鳴動と共に破裂したり。
 嘉永六年(一八五三)三月十五日虻田にて地震八回を感じ正午頃噴火となる。
 明治四十三年(一九一〇)七月二十五日。七月二十一日には既に有珠山より數回の微震を發し、二十二日には西紋鼈に於ても二十五回を算したり。翌二十三日には更に震數を増して百十回を感じたれば山麓諸村落の住民は他に避難し始めたるが、此の夕、警察當局に於ては、附近住民をして有珠山より三里以外の地に立退く樣強制せり。越えて二十四日には愈※[#二の字点]震數を増して二百五十一回を感ずるに至り、遂に二十五日午後十時に及びて山の北側に在る金毘羅山より噴煙を始めたり。
[#ここで字下げ終わり]
 上記の通り、此の最後の噴火につき、地方の警察官憲が、爆發を未然に察知して、保安上の非常手段を取つたことが記載してあるが、是れ以上に詳細な記事は、地震噴火誌には載つてゐないやうである。
 余は、此の話に非常な興味を感じ、更に詳細を故大森博士に尋ねて見たことがあつたが、博士は言葉短かに、當時の警察當事者は室蘭警察署長飯田誠一氏であつたと告げるのみであつた。
 爾來余は、機會があつたら、飯田氏に面接し、其の實驗談を聞かうと思つてゐた。幸ひ大正十二年八月には樽前山の調査に行つたので、此の機會に、小樽に下車して、今は市助役たる飯田氏を訪問する心算であつた。然るに樽前登山中爆發の珍事が出來し、案外手間取つたので、同氏訪問は固より、豫約してあつた湯川のミルン夫人の許へも行かれなくなり、終生取返しのつかないほど遺憾に思つた。ミルン夫人は果して其の冬歿してしまつた。
 ところが昨春或る日の午後、地震學教室へ珍しくも、那須理學士が一人の紳士を室に案内して來て、「先生が逢ひたがつてゐる珍客をお連申しました」といふ。見れば、がつちりしたかつぷく[#「かつぷく」に傍点]、赤ら顏ながら柔和な相。余は、何となく飯田さんらしいと直感したから、伺を立てると、さうだとの事。成程、これは余に取つて全くの珍客である。何は扨置き「御ゆつくり出來ますか」と尋ねて見ると、「豫ねて貴方の御希望を傳聞してゐたし、自分としても御目に懸り、且つ教室の見學もしたいと希望してゐた爲、忙しい中を一寸繰合せて來たのだ。」との答であつた。「それでは、遺憾ながら、閑話は次の機會にして、早速ながら、豫ねて私が伺つて見たいと思つてゐたことに答へて下さいませんか。」と言つて、有珠爆發の豫知並に保安處置に就て、不躾な質問を連發して見た。今朧氣ながら、其の時の余が記憶を辿つて、飯田さんのお答を綴合せて見ると、大要次のやうなものであつた。
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一 爆發豫知に關する基礎知識は大森博士の書きものから拾ひ取つた。
二 愈※[#二の字点]爆發するらしいとの確信を得て、居民に對し、山の三里以外へ立退くやう強制命令を發したのは、爆發二晝夜前であつて、執行を終つたのは一日前であつた。
三 有珠山を中心とする三里以内の距離には、當時凡そ三千戸に一萬五千の住民がゐた。
四 居住民の中には、立退きに反對するものもあり、反抗の氣勢を示すものすらあつた。
五 余は、若し余の所信が誤であつて、爆發なしに事が終つたら、潔く其の責任を負ふべく悲壯な決心をしてゐた。
六 此の強制執行に就ては、豫め上司へ報告して其の許可を受ける餘裕がなく、全く獨斷專行でやつた。
七 上司からは何の御咎めもなく、又御褒めもなかつた。
八 事終つて、居住民からは感謝された。決死の覺悟までしてゐた余は、彼等の眞劍な感謝に依つて酬いられたと思つた。
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 以上は、飯田さんのお答の中、余等に取つて最も重要な事項を臚列したに過ぎないが、尚あの時は幾分かの時間の餘裕のまゝに、種々瑣末な問をも發して見たのであつた。飯田さんを吾々の教室へ引寄せた動機如何といふのも其の一つであつたが、お答によつて次のやうな事がわかつた。即ち、飯田さんは現在苫小牧町長を勤めて居られる。ところが、其の苫小牧の王子製紙事務所は余が度々お世話になつた所、殊に前記樽前登山の折には、丁度爆發に出會つた爲、行方不明などと誤報された位だが、此の時の余が根據地は右の事務所であつたのである。して見ると、余が飯田さんを敬慕してゐるといふ事實が、いつしか事務所の人達から傳はつて、軈て同氏の耳にまで入るやうになつたのも敢て不思議とするに足らぬ。
 それは扨置き、飯田氏の實驗談は、吾々に對して色々な教訓を與へる。あの悲壯な決心、それは熟慮の上の斷行であつたに違ひなく、其の時の心事は、高陞號撃沈の際に於ける東郷艦長のそれと同じであつたらう。こゝに貴き教訓として、何人にも適用さるべきものがあらうが、余は、地震や火山の學徒たる吾々に取つて、特に二つの偉大な教訓の含まれてゐることを指摘して見たい。
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 一 飯田さんを眞似ようと思ふ輩は、是も確實な根據に立ち、熟慮に熟慮を重ねた上に決行すべきであるが、若し自己の推斷が失敗に歸した場合には、死をも辭せざる覺悟を必要とすること。
 余は此の機會に於て、殊に力説して置きたいことがある。それは危機既に迫るに拘らず、之を氣附かないのみか、却て薄弱な根據の下に、他人にまでも樂觀をすゝめ安心を強ひるやうな言辭を弄したならば、其の責任の重大さは前者の比ではないといふことである。危機の推斷が失敗に終つた場合の損害は寧ろ輕く、樂觀に失敗した損失は取りかへしのつかぬことになることを思はなくてはならぬ。
 二 飯田さんを眞似て幸にそれが成功しても、公に推賞されようなどと期待してはならぬこと。此は我國の如く、國民が一般に學問に無關心な上に、爲政家も亦學術上の功績を表彰することを心懸けぬ國に於てさうである。唯學徒としては、國家社會人道の爲、善事を盡し得たらば、それでよいのである。
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 話は横道に外れたが、飯田さんはお急ぎのことであつたから、要談をそこ/\に切上げて記念の撮影をなし、更に再會を約して惜しき袂を分つた。(昭和九年七月)

   二二 ポンペイとサン・ピエール

 火山の爆發に因つて附近の村落が大損害を被つた例は、數へきれないほど有るが、併し數萬の人口を有する都會が唯一瞬に失はれたといふ例は、さうざらにあるものではない。ポンペイとサン・ピエールとは、此の種の被害記録として、正しく天下の雙壁である。
 ポンペイ市の遺跡は、世界名所の一つとなつてゐるから、今更茲に詳明する必要を見ない。唯簡單に、ヴェスヴィオの西紀七九年の大噴火に因つて湮滅したまゝ、永く其の所在地を見失はれてゐたのが、西紀一七四八年一農夫の偶然な發見を端緒として、遂に今日のやうに、殆ど全部發掘されるに至つたことを想起するに止めて置く。
 余は、それにも拘らず、茲に聊か言及して見たいことがある。外でもない。それは此の都市が湮滅に歸した直接の原因如何といふことである。
 ポンペイは火山の中心から南々東約九粁の位置にある。同じ運命を辿つたヘルキュラニウムは西南西約七粁にある。廢墟の外觀を比較すると、前者に於ては、家屋の屋根が殘らず拔けて、四壁の損傷は比較的に輕いといふ特徴があるのに、後者に於ては、山に對する方の側壁が破壞されてゐる。乃ち前者は火山爆發の空襲により、後者は同じく直射砲撃に因つて破壞されたと謂ふべきである。
 以上の推定を根據づけるものに次の二つの事項がある。即ち其の一つはヴェスヴィオ其れ自身の西紀一九〇六年の噴火であつて、今一つはマルチニク島プレー火山の一九〇二年の噴火である。[#底本は句点なし]
 オッタヤーノは、ヴェスヴィオの火口中心から北東約四粁の距離にある一村落であるが、上記一九〇六年の噴火のとき、最も濃厚に灰を噴出す期間に於て、恰も其の風下に當り、僅に三十分間といふ短時間内に降灰九〇糎程堆積して多數の屋根を打拔かれ、二百二十人の死者を生じた經驗を有つてゐる。ポンペイ湮滅の直接の原因は、疑もなく、これと同樣のものであつたらうが、實際はもつと激烈であつたに相違ない。廢墟から發掘された人骨の數が餘り多くない爲、或は市民の大多數は事變前に無事に立退いたのであらうなどと唱へる人もあるが、それも覺束なげに思はれる。
 マルチニク島プレー火山の有名な爆發は、西紀一九〇二年五月八日に始まつたのであるが、此の時は、噴火作用中最も恐れられてゐる熱雲の抛射といふ現象が見られたのである。それは赤熱した火山灰に輕石や岩片を混じた巨大な量が火口から抛射されるのであるが、其の速さは毎秒百米内外もあるので、それが一過した跡には、到る處に廢墟が現出するのである。之が爲、當時山麓にあつて繁榮を誇つてゐたサン・ピエールの港町は一瞬にして掃去られ燒盡されたのであるが跡には何が殘つたであらうか。火口と町とを一直線に海の方から眺めると、家の側壁がまばらに燒跡の樹木が立つてゐるやうにしか見えないのに、横から眺めると、それが壁らしく鮮明に見えるのである。併し、一歩を陸上に印した何人もそこに竦んで仕舞つたといふが、さもあらう。全市は一つの巨大な火葬場になつてゐたのである。凡て二萬六千十一の市民中、奇蹟的に助かつたのは地下室に監禁されてゐた一囚人のみであつたといふことである。
 本邦に於ける火山爆發の勢力は、侮り難いものがあるには相違ないけれども、世界の最も激烈なのに比べれば、遙に下級なものと謂はなければなるまい。

   二三 クラカトアから日本まで

 明治十六年(西紀一八八三年)八月二十七日ジャワとスマトラとの間、スンダ海峽にあるクラカトア火山島の大爆發は、自然界の出來事として三箇の記録を殘した。其一は爆發其物の偉大であつたことで、此のとき、東西約五粁、南北約八粁の同島が、概ね其の三分の二を爆破飛散せしめられたのである。其二は此の爆發が空氣に與へた影響の頗る偉大であつたことで、其の結果、大氣に起つた波動が、クラカトアから出發して對蹠點に集まり、更に其處から發足してクラカトアに戻り、斯くて地球を一巡したのであるが、引續き斯樣な巡廻を三回半までもしたことが追跡せられた。其の他、大氣中に塵埃を飛散させて、それが忽ち全地球に瀰漫した爲、太陽は到る處で赤く見え、其の色が幾週間も褪めなかつたといふ奇現象を呈した。現に斯くいふ余の如きも、郷里鹿兒島に於て此の事を目撃した一人である。
 クラカトア爆發の其三の特色は、それが極めて偉大な津浪を惹起したといふ點である。即ち此の時の浪はジャワ、スマトラの沿岸に可なりな損害を與へたこと勿論であるが、餘波は五大洋の到る處に觀測され、或は目撃された。有名なクラカトア爆發記には、世界各地に散在せる三十五所の檢潮所で得た記録が蒐集されてある。但し此の時、日本にはまだ檢潮儀の設備がなかつたから、右の輯録に本邦記録を缺くこと勿論である。
 前記の檢潮記録を一瞥して見ると、第一に氣附かれることは、津浪の波長の異常に大きいことで、波の週期は凡そ二時間に達したのである。日本や米洲の太平洋沿岸に時々襲來する津浪の基調週期は概して二十分乃至四十分位のものであるが、之に對して、クラカトア津浪は斯くも異彩を放つてゐる。津浪が五大洋に波及したのは、斯樣な特色が一基因をなしたのであらう。
 前記の如く、我國に於てはクラカトア津浪の記録を缺いてゐたが、余は、先般其の津浪の目撃談を聽くことを得たので、茲に之を填補する機會を捉へ得た譯である。
 目撃者は動物學の權威理學博士石川千代松先生である。以下先生の談話を記憶のまゝに記して見る。
[#ここから1字下げ]
「それは余が大學卒業の翌年の夏であつた(註、先生の卒業は明治十五年)。場處は神奈川縣三崎町、當時動物學科の二年生であつた故箕作元八氏(後東大教授文學博士)の臨海實驗所(假のもので、三崎町東端俗稱ほうでうにあつた)で動物學の實習をやつてゐた。折しも突然戸外で、津浪だ津浪だと言つて漁師共が騷ぎ出した。取敢ず外に飛出して見ると、成程、沖の方から長堤の如き沖膨れが此方に向つて徐々に押寄せてゐる。高さは三四尺位と推測したから、大したことはあるまいと考へ、何れも逃避などせずに成行を靜觀してゐた。果して何等の被害もなく、海水は徐々に水嵩を増し稍※[#二の字点]暫くして徐々に減退した。それでも終つたことと思つてゐると、彼此二時間か一時間半も經つたと思ふ頃、前のやうな現象が再び繰返された。
 余は斯樣な海水の進退を最初の二回しか目撃しなかつたけれども、漁師共の言に據ると、夜になつても猶止まず、恐らく四五回も繼續したらうとのことであつた。
 當時、余等の信用してゐた一老漁師は、此は遠方に大地震でもあつて、其の爲に起つた津浪の餘波だらうと言つてゐたから、余も亦そんなものかなと思ひ、其の場を濟ませて置いた。然るに今夕、君のクラカトア津浪の話を聞き、丁度半世紀前の記憶がまざ/\と甦つて來た。時といひ週期に關する特色といひ、正しくそれに相違ない。」
[#ここで字下げ終わり]
 以上が石川先生の談話である。
 此の津浪がバタビヤに到着したのは、二十七日午前十一時半頃であつたから、クラカトアに於ける津浪發生の時刻は、午前十時十分頃であつたらう。即ち東京地方時の午後〇時二十分頃に當る。今之に、浪原から相模灣に至る旅程約五三〇〇粁を横ぎるに要する六時間弱といふ時間を加へると、津浪が始めて相模灣頭に現はれる刻限が出て來る譯だが、此は午後六時前後といふことになる。此の刻限も、正しく上記石川先生の話に一致すと謂ふべきである。(つづき)



※ 欠と缺、鼓と皷、着と著の混用は底本のとおり。
底本:『地震の國』文藝春秋新社
   1949(昭和24)年5月30日発行
入力:しだひろし
校正:
xxxx年xx月xx日作成
青空文庫作成ファイル:
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*地名

  • [北海道]
  • 有珠山 うすざん 北海道南西部、洞爺湖の南にある二重式活火山。標高733メートル。2000年に大規模な水蒸気爆発を観測。
  • 臼山 → 有珠山
  • 虻田 あぶた 郡名・村名。現、胆振支庁虻田町。
  • 虻田町 あぶたちょう 北海道南西部、胆振支庁管内虻田郡にあった町。噴火湾(内浦湾)と洞爺湖に挟まれた場所にある。洞爺湖岸には洞爺湖温泉があり、東の壮瞥町にある有珠山、昭和新山観光の拠点としての役割も担う道内有数の観光地である。
  • 西紋鼈 にしもんべつ 現、胆振支庁伊達市・有珠郡壮瞥町・大滝村の各一部。
  • 金毘羅山 こんぴらさん? 洞爺湖温泉背後の山。有珠山の北西麓から北東麓にある山麓寄生火山群の一つ。
  • 室蘭 むろらん 北海道南西部の市。内浦湾の東端、室蘭港を抱く絵鞆岬に位置する港湾都市。石炭の積出港、鉄鋼生産地として発展。胆振支庁所在地。人口9万8千。
  • 樽前山 たるまえさん/たるまえざん 標高1,041m。北海道南西部、支笏湖の南、苫小牧市と千歳市にまたがる活火山。支笏洞爺国立公園に属する。1909年(明治42年)の噴火で、山頂には世界的にも珍しい溶岩ドームができた。樽前山熔岩円頂丘として、北海道指定文化財の天然記念物に指定されている。
  • 小樽 おたる 北海道石狩湾に面する市。港湾都市として発展。観光拠点としても名高い。人口14万2千。
  • 湯川 ゆのかわ 函館市湯川町・根崎町にある温泉地。無色透明の塩類泉。北海道では最も早く発見された。「函館の奥座敷」といわれる。
  • 苫小牧 とまこまい 北海道南西部の市。室蘭本線に沿う。製紙・パルプ工業の他、近年自動車製造業も定着。人工港を中心に工業地域を形成。人口17万3千。
  • 松前大島 まつまえおおしま 大島。東経139度23分、北緯41度30分の位置にあり北海道松前郡松前町(渡島国)の西方沖50kmにある無人島。他の大島と区別するため便宜的に渡島大島或いは松前大島と呼ばれる。
  • [岩手県]
  • 釜石 かまいし 岩手県東部の市。釜石湾に臨む港湾・製鉄都市。人口4万3千。
  • [福島県]
  • 磐梯山 ばんだいさん 福島県の北部、猪苗代湖の北にそびえる活火山。標高1819メートル。1888年(明治21)に爆発し、岩屑流が北麓の集落を埋没、渓流をせきとめて桧原・小野川・秋元の桧原三湖と五色沼その他大小百余の池や沼を作った。会津嶺。会津富士。
  • [東京都]
  • 関東大震災 かんとう だいしんさい 1923年(大正12)9月1日午前11時58分に発生した、相模トラフ沿いの断層を震源とする関東地震(マグニチュード7.9)による災害。南関東で震度6(当時の最高震度)。被害は、死者・行方不明10万5000人余、住家全半壊21万余、焼失21万余に及び、京浜地帯は壊滅的打撃をうけた。また震災の混乱に際し、朝鮮人虐殺事件・亀戸事件・甘粕事件が発生。
  • 砧村 きぬたむら 現、世田谷区。明治22年、神奈川県北多摩郡砧村。明治26年、東京府に編入。
  • 砧地域 きぬた ちいき 世田谷区の定める5地域の一つで、砧総合支所管内を指す。成城学園前駅を中心として、大規模な住宅街を形成している。また、成城は住宅地として名高い。国分寺崖線を中心として砧公園や多摩川など、都市部にあって自然環境に恵まれた地域である。東京近郊では、かつては安行に次ぐ植木の主産地であった為、造園業者が多く所在する。
  • 砧台
  • 多摩川 たまがわ 多摩川・玉川。山梨県北東部、秩父山地の笠取山に発源し、南東へ流れ、東京都と神奈川県の境で東京湾に注ぐ川。下流を六郷川という。上流は東京都の上水道の水源、奥多摩の景勝がある。長さ138キロメートル。
  • [伊豆]
  • 三宅島 みやけじま 伊豆七島の一つ。東京の都心から南方約200キロメートル。中央に成層火山の雄山(標高775メートル)がそびえる。東京都に属し、面積は55平方キロメートル。漁業を主とし、鰹節・木炭・椿油などを産する。
  • 伊豆大島 いず おおしま 伊豆諸島北部に位置する伊豆諸島最大の島。本州で最も近い伊豆半島からは南東方約25kmに位置する。大島と名のつく島は日本各地にあるが国土地理院では伊豆大島と表記する。面積は91.06km^2。行政区域は、東京都大島町。大島は伊豆大島火山と呼ばれる水深300〜400mほどの海底からそびえる活火山の陸上部分であって、山頂火口のある三原山は1777年ごろの安永の大噴火の際にカルデラ内に出来た中央火口丘である。数多くの噴火の記録が残っているが、最近では1912年〜1914年、1950年〜1951年、1986年に中規模以上の噴火があり、特に1986年の大噴火では全島民が避難した。また、この期間中にはしばしば小規模な噴火を起こしており、1957年の噴火では死者が1名出ている。
  • [神奈川県]
  • 三崎町 みさきまち 現、三崎市三崎。
  • 臨海実験所 りんかい じっけんしょ 海産動植物の研究のため、臨海地につくられた実験所。日本では、1886年(明治19)三浦半島の三崎町に東京帝国大学付属臨海実験所を初めて設置。
  • ほうでう 三崎町東端。ほうじょう。
  • 相模湾 さがみわん 神奈川県三浦半島南端の城ヶ島と真鶴岬とを結ぶ線から北側の海域。相模川、境川、酒匂川が流入。ブリ・アジ・サバなどの好漁場。
  • 名草地震 なぐさ?
  • [静岡県]
  • 富士山 ふじさん (不二山・不尽山とも書く)静岡・山梨両県の境にそびえる日本第一の高山。富士火山帯にある典型的な円錐状成層火山で、美しい裾野を引き、頂上には深さ220メートルほどの火口があり、火口壁上では剣ヶ峰が最も高く3776メートル。史上たびたび噴火し、1707年(宝永4)爆裂して宝永山を南東中腹につくってから静止。箱根・伊豆を含んで国立公園に指定。立山・白山と共に日本三霊山の一つ。芙蓉峰。富士。
  • 伊東地震
  • 伊東 いとう 静岡県伊豆半島東岸の市。温泉を中心とする観光・保養地。人口7万2千。
  • 浅間山 あさまやま 長野・群馬両県にまたがる三重式の活火山。標高2568メートル。しばしば噴火、1783年(天明3)には大爆発し死者約2000人を出した。斜面は酪農や高冷地野菜栽培に利用され、南麓に避暑地の軽井沢高原が展開。浅間岳。(歌枕)
  • [摂津] せっつ 旧国名。五畿の一つ。一部は今の大阪府、一部は兵庫県に属する。摂州。津国。
  • 有馬 ありま 兵庫県南東部の旧郡名、また神戸市北区、六甲山地の北西麓にある温泉地。
  • 有馬温泉 ありま おんせん 有馬の湯。古代から名湯として知られた。泉質は含鉄泉。
  • 唐櫃村 からとむら 現、兵庫県北区。六甲山地北斜面から、その北麓を東流する有野川の段丘にかけた地を占める山間の村。有馬郡に属する。
  • たかつこ 字、高津孝(たかづこ)か。石祠に神功皇后を祀った唐櫃石神社が鎮座。
  • 兵衛旅館
  • 岡場駅 おかばえき 兵庫県神戸市北区藤原台中町1丁目1番1号にある、神戸電鉄三田線の駅。標高231m。神戸三田国際公園都市の南部に位置するニュータウンである藤原台の中心駅。一時期、北神中央駅や藤原台駅への改名が検討されたが、地域住民の反対により岡場駅として現在に至る。
  • 六甲山 ろっこうさん 兵庫県南東部、神戸市・芦屋市北部にそびえる六甲山地の主峰。東六甲山は標高931メートル、西六甲山は804メートル。行楽地として知られ、山頂付近に別荘村が、山中に鷲林寺の廃址がある。
  • 鼓滝 つづみがたき 鼓ヶ滝。川西市の中部。川辺郡猪名川の流域。県南東部。
  • なすび谷
  • 有馬郡 ありまぐん 摂津国西北部の郡。現在の三田市全域・西宮市北部(山口町・塩瀬町)・神戸市北区の東部(有馬・有野・道場・八多・大沢の各町)にあたる。兵庫県東南部に存在した郡。東は川辺郡、南は武庫郡、西は播磨国美嚢郡、北は丹波国多紀郡に隣接している。1958年7月1日に、三田町が市制施行し三田市になったことで消滅した。
  • 八多 はた 八多町・八多庄か。
  • 紀淡海峡 きたん かいきょう 紀伊と淡路、すなわち和歌山県の加太と兵庫県淡路島の由良との間にある海峡。北は大阪湾、南は紀伊水道に連なる。
  • 神戸測候所
  • 田結村 たいむら 現在の兵庫県豊岡市田結。北は日本海に面する。豊岡市は県北但馬地方の北東部。豊岡盆地を中心市域とする。大正14年(1925)、港村田結沖を震源地とする北但馬大震災が発生。
  • 但馬地震 → 北但馬地震
  • 但馬 たじま 旧国名。今の兵庫県の北部。但州。
  • 城崎温泉 きのさき おんせん 兵庫県豊岡市城崎町にある温泉。無色・無臭の塩化物泉で、720年(養老4)僧道智の霊験により発見されたと伝える。
  • 豊岡町 とよおかまち 兵庫県城崎郡豊岡町(とよおかちょう、現・豊岡市)。
  • 北但 ほくたん → 北但馬
  • 気比村 けひむら 村名。現、豊岡市気比。円山川河口部東岸に位置し、北は海(津居山湾)に臨む。城崎郡の気比神社がある。
  • 久美浜街道 くみはま かいどう 現、京都府大宮町から久美浜(現、熊野郡久美浜町)に至る街道をいい、現在の国道178号にほぼ一致。
  • 三田野 田結部落北側の台地。
  • 瀬戸村 せとむら 村名。現、豊岡市瀬戸。円山川河口部左岸。
  • 円山川 まるやまがわ 兵庫県北東部を流れる一級水系の本流。朝来川とも呼ばれる。兵庫県中部、旧播磨国の境界近く、朝来市生野町円山(標高641.1m)に源を発して北流。途中養父市、豊岡市を流れ、豊岡市北部で日本海に注ぐ。下流域の豊岡盆地は旧但馬国では最大の平地で、穀倉地帯となっている。
  • 港西小学校
  • 神水 かんじ かんずい、か。神水村。村名。現、美方郡美方町神水。矢田川の左岸に位置。
  • [京都]
  • 華頂山 かちょうざん (2) 京都東山三十六峰の一つ。(3) 京都知恩院の山号。
  • 青蓮院 しょうれんいん 京都市東山区粟田口にある天台宗の門跡寺院。最澄が比叡山東塔南谷に建てた青蓮坊に始まり、1150年(久安6)関白藤原師実の子行玄の時に門跡となり京内にも殿舎を建立。以後皇族が相ついで入寺し、仏教界全体に君臨する権威を誇った。仏画「青不動」などを所蔵。粟田御所。
  • 長楽寺 ちょうらくじ 京都市円山公園にある時宗の寺。805年(延暦24)最澄の創建と伝え、観音・阿弥陀信仰を集めた。南北朝時代、国阿に帰依して時宗となる。
  • 長岡京 ながおかきょう (1) 桓武天皇の初めての都。784年(延暦3)平城京から移ったが、遷都を首唱した藤原種継が暗殺されたりしたため、794年平安京に移った。宮域の中心は京都府向日市にあり、長岡京市・京都市・乙訓郡大山崎町まで広がっていた。ながおかのみやこ。(2) 京都府南部の市。市名は(1) に由来。京都と大阪の中間に位置し、双方の衛星都市。人口7万8千。
  • 宇治郡 うじぐん 山城国・京都府に存在した郡。郡域は現在の京都市南東部と宇治市東部に相当する。京都市の南東部では、伏見区と山科区の一部が含まれる。
  • 山科村 やましなむら 現、山科区。
  • 栖野 山科村大字。
  • 勧修寺 かんじゅじ (カジュウジ・カンシュウジとも)京都市山科区にある真言宗山階派の本山。900年(昌泰3)、醍醐天皇の母胤子の本願によって藤原定方が創建。開基は承俊。905年(延喜5)定額寺となる。済信・寛信など東密の高僧を輩出。山科門跡。
  • 栗栖村 くるすむら?
  • 栗栖野 くるすの (1) 山城国宇治郡山科村(現、京都市山科区)の地名。(2) 京都市北区鷹峰の東、西賀茂の辺。みくるすの。(歌枕)
  • 山科 やましな 山科・山階。京都市東部の区。天智天皇山科御陵・山科別院・坂上田村麻呂墓などがある。
  • 醍醐 だいご 京都市伏見区の地名。醍醐・朱雀両天皇陵および醍醐寺などがある。古くは略して「酉酉」とも書いた。
  • [長崎県]
  • 温泉岳 → 雲仙岳
  • 雲仙岳 うんぜんだけ 長崎県島原半島にある火山群の総称。標高1486メートルの普賢岳を主峰とする。南西の山麓に硫黄泉の雲仙温泉がある。ミヤマキリシマ・霧氷などは有名。1990年、普賢岳が噴火。
  • [鹿児島]
  • 南薩 なんさつ? 薩摩南部。
  • 霧島山 きりしまやま 鹿児島・宮崎両県にまたがる、霧島山系中の火山群。高千穂峰(東霧島)は標高1574メートル、韓国岳(西霧島)は1700メートル。
  • 桜島 さくらじま 鹿児島湾内の活火山島。北岳・中岳・南岳の3火山体から成り、面積77平方キロメートル。しばしば噴火し、1475〜76年(文明7〜8)、1779年(安永8)および1914年(大正3)の噴火は有名。1914年の噴火で大隅半島と陸続きとなる。
  • [琉球]
  • 石垣島 いしがきじま 沖縄県南西部、八重山諸島の島。面積223平方キロメートル。サトウキビ・パイナップルを産する。奈良時代初めの史料にみえる信覚島はこの島という。
  • 那覇 なは 沖縄本島南西部、東シナ海に面する市。沖縄県の県庁所在地。太平洋戦争中に焦土と化し、戦後米軍の沖縄占領中は軍政府、のちに民政府・琉球政府がおかれた。市の東部、首里には再建した首里城など史跡が多い。人口31万2千。
  • [中国]
  • 江左 こうさ 江南のことか。
  • 江南 こうなん (1) 川の南。(2) 長江下流南側の地。江蘇・安徽省南部と浙江省北部を含む。広く、長江以南の地方を指すこともある。
  • 福建 ふっけん (Fujian)中国南東部の省。台湾海峡に面する。省都は福州。面積約12万平方キロメートル。山地が9割を占める。略称は�p。古来、東アジア海上交通の中心地。また華僑の主要な出身地の一つ。米のほか、甘蔗・茶・果物などを産する。
  • 沙県 さけん 中華人民共和国福建省三明市の管轄下にある県。福建省中央部の西北に位置し、?江支流の沙渓の下流域にある。
  • 掲陽郡 けいようぐん 掲陽市は中華人民共和国広東省に位置する地級市。広東省の東部に位置し、梅州市、潮州市、汕頭市、汕尾市と接する。
  • 桃山鄒堂
  • 安岳県 あんがく けん 中華人民共和国四川省資陽市に位置する県。
  • [インドネシア]
  • ジャワ Java 東南アジア大スンダ列島南東部の島。インドネシア共和国の中心をなし、首都ジャカルタがある。17世紀オランダによる植民地化が始まり、1945年まで同国領。面積は属島マドゥラを合わせて13万平方キロメートル。ジャヴァ。
  • スマトラ Sumatra 東南アジア、大スンダ列島の北西端にある島。シュリーヴィジャヤなど多くの王国が興亡、のちオランダ領。1945年独立を宣言、インドネシア共和国の一部となった。面積43万平方キロメートル。主な都市はメダン・パレンバン。
  • スンダ海峡 Selat Sunda スマトラ島とジャワ島との間の海峡。ジャワ海とインド洋を繋ぐ。海峡の東側が狭くなっており、最狭部は約24km。海峡の中には火山島のクラカタウなど、多くの島がある。マラッカ海峡と並んで南シナ海とインド洋との間の主要な航路。
  • クラカトア火山島 Krakatau クラカタウ。インドネシアのジャワ島とスマトラ島の中間、スンダ海峡にある火山島の総称であり、ランプン州に属する。全体がウジュンクーロン国立公園の一部である。
  • バタビヤ Batavia バタヴィア。(2) インドネシアの首都ジャカルタのオランダ領時代の名。
  • [ハワイ]
  • キラウエア火山 Kilauea ハワイ島南東部の活火山。標高1222メートル。山頂に直径4〜6キロメートルのカルデラがあり、その中央部の噴火口ハレマウマウは常時活動し、玄武岩の溶岩でみたされ、溶岩湖を形成する。
  • [西インド諸島]
  • サン・ピエール Saint Pierre 西インド諸島のフランス領マルティニークにある村。かつてはマルティニークの県庁所在地だったが、1902年プレー山の火山噴火で壊滅的打撃を受けた。
  • マルチニク島 Martinique マルティニク。カリブ海、小アンティル諸島中の島。フランスの海外県。面積1102平方キロメートル。中心都市フォール‐ド‐フランス。
  • プレー火山 プレー山、ペレ山、ペレー山、モンプレ 西インド諸島のなかのウィンドワード諸島に属するマルティニーク島にある活火山。名称は『はげ山』の意味。1902年に大噴火を起こし、当時の県庁所在地だったサン・ピエールを全滅させた。これによる死者数は2万4,000人とも、3万人ないし4万人とも言われる。20世紀の火山災害中最大。
  • [イタリア]
  • イタリア中部大地震
  • ポンペイ Pompeii イタリア南部、ナポリ湾に臨むカンパーニア地方にあった古代都市。前4世紀以来繁栄し、のち一時ローマに反抗、最盛期の西暦79年、ヴェスヴィオ火山の大噴火で埋没。18世紀半ば以来の発掘により、当時の建造物・生活様式・美術工芸などを知る史跡となった。
  • ヴェスヴィオ Vesuvio イタリア南部の活火山。ナポリ湾の東側、ナポリの南東16キロメートルにある。標高1281メートル。二重式火山で、古来しばしば大噴火をなし、西暦79年8月ポンペイ・ヘルクラネウムを噴出物で埋めた。英語名ヴェスヴィアス。
  • ヘルキュラニウム → ヘルクラネウム
  • ヘルクラネウム Herculaneum イタリア南部、カンパニア州西部、ナポリ県中部の古代都市遺跡。ベスビオ山西斜面、ナポリ湾に臨む。別称、ヘルクラヌム Herculanum(仏)。ナポリの南東9km。63年の震災、79年のベスビオ山の噴火により、ポンペイとともに厚さ20m以上堆積した火山噴火物により地中に埋没。1709年井戸掘り中に劇場を発見。18世紀中ごろ以来発掘が続く。(外国地名)
  • オッタヤーノ 村名。


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)『日本歴史地名大系』(平凡社)『コンサイス外国地名事典』第三版(三省堂、1998.4)。




*年表

  • [中国]
  • 隆安四(四〇〇)夏四月 地震う。己未、地毛を生ず。
  • 太清二(五四八)九月 地震う。江左もっともはなはだしく、屋を壊り人を殺す、地白毛を生ず。長さ二尺。
  • 正徳六(一五一一)八月 福建地震う。後三日、地白毛を生ず。
  • 正徳一二(一五一七)四月一九日 沙県地震う。この年地毛を生ず。一夜にして長さ二、三寸。白あり、黒あり。民驚駭す。両閲月、すなわち没す。
  • 嘉靖三六(一五五七) 安岳、地白毛を生ず。長さ四寸馬尾のごとし。
  • 崇禎一四(一六四一)一二月二四日夜 掲陽郡地おおいに震う。声あり、雷のごとく、西より東南におよぶ、牆を倒し、屋を壊り、桃山鄒堂らのところ、地裂け山くずれ、人物を圧死せしむ。次日に至って地毛を生ず、色赤黒、長さ四、五寸。
  • [イタリア]
  •   七九 ヴェスヴィオ大噴火。
  • 一七四八 ポンペイ市の遺跡、一農夫が偶然に発見。
  • 一九〇六 ヴェスヴィオ噴火。二二〇人の死者。
  • [西インド諸島]
  • 一九〇二 五月八日 マルチニク島プレー火山の噴火。二万六〇一一の市民中、奇跡的に助かったのは地下室に監禁されていた一囚人のみ。
  • [有珠山]
  • 寛文三(一七六三)七月一一日より 有珠山、微震鳴動あり、一四日、暁にいたりて噴煙す。
  • 明和五(一七六八)一二月一六日 臼山焼け夷人畏怖避難す。
  • 文政五(一八二二)閏正月一九日 有珠山、閏正月十六日午後十時ごろよりすでに地震を発し、翌朝までに三十一回あり。
  • 嘉永六(一八五三)三月一五日 虻田にて地震八回を感じ、正午ごろ噴火となる。
  • 明治四三(一九一〇)七月二一日にはすでに有珠山より数回の微震を発し、二二日には西紋鼈においても二五回を算したり。翌二三日にはさらに震数を増して一一〇回を感じたれば山麓諸村落の住民は他に避難し始める。
  •  
  • -----------------------------------
  • 延暦一三(七九四) 将軍塚。長岡の京よりこの京へ移されし時、帝土にて八尺の人形をつくり、鉄の鎧冑をきせ、鉄の弓矢を持たせて東山の峰に埋めたという。(平家物語)
  • 弘仁二(八一一) 坂上田村麿、薨。(大日本史)
  • 慶長一六(一六一一)八月二一日 会津大地震。M6.9程度と推定。倒壊家屋は2万戸余り、死者は3,700人に上る。領主蒲生秀行、移封。
  • 宝永四(一七〇七)一〇月四日 宝永地震。東海地方から四国・九州にかけて。M8.4。東海道・紀伊半島を中心に倒壊6万戸、流失2万戸、死者約2万人。
  • 寛保二(一七四二)四月 松前大島の噴火。灰降る。灰中赤白毛あり。
  • 宝暦九(一七五九)七月二七日 青森「晴天。正午西北方より曇りはじめ、午後二時には一天暗黒となり、翌朝までに灰の積むこと五、六分、白毛を混ず。長さ二、三寸より六、七寸に至る」
  • 安政元(一八五四)一二月二四日 安政南海地震。M 8.4、死者千〜3千人。紀伊・土佐などで津波により大きな被害。前日に東海地震。
  • 明治一六(一八八三)八月二七日 ジャワとスマトラとの間、スンダ海峡にあるクラカトア火山島、大爆発。石川千代松、神奈川県三崎町臨海実験所にて津波と遭遇。
  • 明治二七(一八九四)六月二〇日 東京大地震。死者31人、負傷者157人。
  • 明治二七(一八九四)一〇月二二日 庄内大地震。死者739人。
  • 明治三二(一八九九)七月 有馬大鳴動。以来、約一年間その地方を震駭。
  • 明治四三(一九一〇)七月二五日 有珠山爆発。
  • 大正三(一九一四)一月十二日 桜島爆発。地盤隆起、天然ガスの噴出、温泉・冷泉の増温・増量などの前徴以外に、特に二日前から著明な前震がはじまる。
  • 大正九(一九二〇)秋 高貴の方を地震学教室に迎える。大森・今村、対応。
  • 大正一二(一九二三)八月 今村、北海道樽前山の調査。登山中爆発に遭遇。
  • 大正一二(一九二三) 関東大震災。
  • 大正一四(一九二五)五月二三日 北但馬地震。M6.8。死者428名、負傷者1,016名。
  • 大正一四(一九二五)五月二八日 今村・山崎直方・坪井誠太郎・鈴木醇、田結震災地を見学。
  • 昭和五(一九三〇)七月二三日 イタリア中部大地震。ムッソリーニ、他国の慰問品を断わる。
  • 昭和六(一九三一)七月 有馬、数日間に十数回の鳴動を頻発。
  • 昭和六(一九三一)晩秋 今村、居を砧村の高台に転じる。
  • 昭和八(一九三三)春 地震学教室へ飯田氏訪問。今村、面会。
  • 昭和一三(一九三八)八月九日 有馬、二回の軽微な鳴動。
  • 昭和一三(一九三八) 雑誌『地震』九月号ニュース欄、兵庫県農会長・山脇延吉氏の経験談。


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)。



*人物一覧

(人名、および組織・団体名・神名)
  • 今村明恒 いまむら あきつね 1870-1948 地震学者。理学博士。鹿児島県生まれ。明治38年、統計上の見地から関東地方に大地震が起こりうると説き、大森房吉との間に大論争が起こった。大正12年、東大教授に就任。翌年、地震学科の設立とともに主任となる。昭和4年、地震学会を創設、その会長となり、機関誌『地震』の編集主任を兼ね、18年間その任にあたる(人名)。
  • 山脇延吉 兵庫県農会長。
  • 神有電車 しんゆう でんしゃ → 神戸電鉄株式会社
  • 神戸電鉄株式会社 こうべ でんてつ 兵庫県南東部で神戸市の湊川駅を起点に有馬温泉・三田・粟生へ延びる鉄道路線を運営する阪急阪神ホールディングスグループの鉄道会社。2004年までは準大手私鉄に分類されていた (国土交通省監修『数字で見る鉄道』(財団法人運輸政策研究機構)の2005年版では中小民鉄に分類されている。準大手私鉄も参照。) 。古くは創業時の社名の略称から神有、現在は神鉄と呼ばれ、沿線には神電と呼ぶ年配者もいる。本社は神戸市兵庫区新開地一丁目3番24号。
  • 大森博士 → 大森房吉
  • 大森房吉 おおもり ふさきち 1868-1923 地震学者。福井県人。東大卒、同教授。大森公式の算出、地震計の発明、地震帯の研究など。
  • 震災予防調査会 しんさい よぼう ちょうさかい 明治・大正時代の文部省所轄の地震研究機関。明治24年(1891)濃尾大地震のあと建議され発足。活動は明治25年より大正14年(1925)の34年間。大森房吉が精力的に活動。大正12年、関東大地震が発生し、この被害にかんがみ委員制ではなく独自の研究員と予算をもつ常設研究所設置の必要がさけばれ、大正14年、研究所発足とともに調査会は発展解消された。(国史)
  • 床次竹二郎 とこなみ たけじろう 1867-1935 明治、大正、昭和初期の官僚、政治家。薩摩藩士床次正精・友子の長男として、現在の鹿児島市新照院町に生まれる。大蔵省に入省し、その後内務省に転ずる。宮城県参事官、岡山県警察部長、東京府書記官、徳島県知事、秋田県知事などを歴任し、明治39年(1906年)第1次西園寺公望内閣で内務省地方局長に就任。
  • 江原技手 神戸測候所。
  • 大朝
  • 五十崎杏沖
  • 山崎直方 やまさき なおまさ 1870-1929 地質・地理学者。高知県生れ。東大卒。日本の氷河地形・断層地形・火山地形などを研究、日本地理学の基礎を確立。
  • 坪井誠太郎 つぼい せいたろう 1893-1986 地球科学者、理学博士。専門は、地質学・鉱物学・岩石学。坪井正五郎・直子の長男として東京都に生まれた。
  • 鈴木醇 すずき じゅん 1896-1970 地質学者、理学博士。昭和3(1928)ヨーロッパに留学し、チューリッヒ大学のニグリ教授のもとで岩石学の研究をおこなった。同5年、北海道帝大に理学部が設置され、教授として迎えられ、地質学鉱物学教室の設立に尽力し、第一講座(地質・岩石)を担当し、のち第三講座(応用地質学)に移った。新期火山岩類の研究をおこない、千島列島の火山調査を指導した。23年日本地質学会会長、37年日本鉱山地質学会会長となった。(人名)
  • ムッソリーニ Benito Mussolini 1883-1945 イタリアの政治家。初め社会党員、1919年「イタリア戦士のファッシ」を組織、21年全国ファシスト党を結成、22年政権を掌握してファシスト独裁体制を樹立。36年エチオピアを併合、40年連合国に対して宣戦、43年連合軍のシチリア上陸後、失脚。北イタリアのドイツ軍占領地域で再起をはかったが、パルチザンに銃殺された。
  • 鳥居諦岸 港西小学校長。
  • 松沢教授
  • -----------------------------------
  • 鎮西八郎 ちんぜい はちろう 源為朝の通称。
  • 源為朝 みなもとの ためとも 1139-1170 平安末期の武将。為義の8男。豪勇で、強弓をもって名高い。九州に勢力を張り、鎮西八郎と称す。保元の乱には崇徳上皇方につき、敗れて伊豆大島に流罪。のち、工藤茂光の討伐軍と戦って自殺。
  • 蒲生秀行 がもう ひでゆき 1583-1612 織豊期〜江戸初期の大名。父は氏郷。はじめ秀隆。1595(文禄4)父の死により13歳で遺領会津若松92万石を相続。豊臣秀吉の命で徳川家康の女と結婚し、家康と前田利家の後見をうけた。98年(慶長3)家臣の内紛がもとで減封、下野宇都宮18万石に転じた。関ヶ原の戦いで東軍に属し、戦後会津60万石に復する。大酒家で放埒だったと伝えられる。(日本史)
  • 武者金吉 むしゃ きんきち 1891-1962 地震学者。東京浅草生まれ。大正12年の関東大震災ののち独学で地震学の研究を進め、東京帝国大学に地震研究所が大正15年に設立されると、今村明恒、寺田寅彦の両教授の指導の下に地震史料の収集にあたった。昭和5(1930)北伊豆地震の発生にあたっては、発光現象の研究をおこなった。地震史料の収集はその後、震災予防評議会・震災予防協会において続けられ、その成果は『増訂大日本地震史料』全4巻にまとめられた。早稲田大学などで地震学を教え、のち中央気象台に移り、ついで米国地質調査所の技術顧問として地学論文の紹介につとめた。(人名)
  • 坂上田村麿 さかのうえの たむらまろ 758-811 平安初期の武人。征夷大将軍となり、蝦夷征討に大功があった。正三位大納言に昇る。また、京都の清水寺を建立。
  • -----------------------------------
  • 中村清二 なかむら せいじ 1869-1960 物理学者。光学、地球物理学の研究で知られ、光弾性実験、色消しプリズムの最小偏角研究などを行なった。地球物理学の分野では三原山の大正噴火を機に火山学にも興味を持ち、三原山や浅間山の研究体制の整備に与力している。また、精力的に執筆した物理の教科書や、長きに亘り東京大学で講義した実験物理学は日本における物理学発展の基礎となった。定年後は八代海の不知火や魔鏡の研究を行なった。
  • ミルン → ジョン・ミルンか
  • ジョン・ミルン John Milne 1850-1913 イギリスリバプール出身の鉱山技師、地震学者、人類学者、考古学者。東京帝国大学名誉教授。北海道函館市船見町26番地に、ジョン・ミルン夫妻の墓がある。
  • 畑井博士 地震ナマズに関する研究。
  • 寺田博士 → 寺田寅彦か
  • 寺田寅彦 てらだ とらひこ 1878-1935 物理学者・随筆家。東京生れ。高知県人。東大教授。地球物理学を専攻。夏目漱石の門下、筆名は吉村冬彦。随筆・俳句に巧みで、藪柑子と号した。著「冬彦集」「藪柑子集」など。
  • 藤井健次郎 ふじい けんじろう 1866-1952 植物学者。金沢の人。東大教授。細胞学を基礎とする遺伝学講座を開設。国際細胞学雑誌「キトロギア」を創刊。文化勲章。
  • 江本義数 〓 植物学者。菌の研究。
  • 三宅驥一 みやけ きいち 1876-1964 兵庫県出身の生物学者。理学博士(東京帝国大学)。日本水産学会会長、日本遺伝学会会長、同志社校友会第9代会長を務めた。
  • 小南 植物学教室、カビの専門家。
  • -----------------------------------
  • 飯田誠一 室蘭警察署長。
  • ミルン夫人 → 堀川トネ
  • 堀川トネ ?-1925 堀川利根子(地学)。/ジョン・ミルン夫人。願乗寺(西本願寺函館別院)の住職・堀川乗経の長女。明治14年(1881年)結婚。明治28年(1895年)ミルンは、トネ夫人と共にイギリスに帰国し、住居を南イングランドのワイト島シャイドに構えて研究を続ける。大正2年(1913年)ミルン、イギリスで死去。大正8年(1919年)トネ、病気のため函館に帰る。大正14年(1925年)死去。
  • 那須理学士
  • 東郷艦長 → 東郷平八郎か
  • 東郷平八郎 とうごう へいはちろう 1847-1934 軍人。海軍大将・元帥。薩摩藩士。日露戦争に連合艦隊司令長官就任、日本海海戦でバルチック艦隊を破り国民的英雄となる。ロンドン海軍軍縮条約交渉では強硬派を支持。侯爵。
  • -----------------------------------
  • 石川千代松 いしかわ ちよまつ 1860-1935 動物学者。東京の人。ドイツに留学して、日本にワイスマン流の進化論を紹介。東大教授。魚類学・細胞学を研究。
  • 箕作元八 みつくり げんぱち 1862-1919 西洋史学者。津山藩士の子。佳吉の弟。ドイツに留学、動物学を学び、後に史学に転じた。東大教授。著「西洋史講話」「仏蘭西大革命史」など。


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)『新版 地学事典』(平凡社、2005.5)『日本人名大事典』(平凡社)『日本史広辞典』(山川出版社、1997.10)『国史大辞典』(吉川弘文館)



*書籍

(書名、雑誌名、論文名、能・狂言・謡曲などの作品名)
  • 雑誌『地震』 じしん 今村明恒が編集主任の機関誌。昭和4年、地震学会が創設。機関誌『地震』が創刊。(国史)
  • 震災予防調査会報告
  • -----------------------------------
  • 「地震と呪文」 武者金吉の著。
  • 『大日本地名辞書』 だいにほん ちめいじしょ 吉田東伍著の地誌。国郡の区分に従い、著名の土地を標目とし、地名の変遷などを出典を示して精細に説く。本文6巻、汎論・索引1巻。1900〜07年(明治33〜40)刊。続編09年刊。
  • -----------------------------------
  • 「地震に出会ったときの心得」 今村明恒の著。
  • 『地震噴火誌』
  • -----------------------------------
  • 『クラカトア爆発記』


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)



*難字、求めよ

  • 動源
  • 困じ果てる こうじ はてる こまりきる。
  • 伏角 ふっかく (dip) (1) 観測者が下方の物体を見下ろす場合、視線方向が観測者を通る水平面となす角。俯角。←→仰角。(2) 地球上任意の点に置いた磁針の方向が水平面となす角。傾角。
  • 単振子 たん ふりこ 質点と見なせるような小さい物体を、軽くて伸縮しない強い糸でつるした振子。これが振幅の小さい振動を鉛直面内で行う場合、運動は単振動となる。たんしんし。
  • -----------------------------------
  • 掃立て はきたて (2) 養蚕で、孵化した毛蚕を、蚕卵紙から羽箒で掃きおろし蚕座へ移すこと。
  • 柳苗 やなぎなえ?
  • -----------------------------------
  • 疫癘 えきれい 疫病。流行病。伝染病。
  • 天然痘 てんねんとう 痘瘡に同じ。
  • 痘瘡 とうそう (small-pox)痘瘡ウイルスによる感染症。気道粘膜から感染。高熱を発し、悪寒・頭痛・腰痛を伴い、解熱後、主として顔面に発疹を生じ、あとに痘痕を残す。感染性が強く、死亡率も高いが、種痘によって予防できる。1980年WHOが絶滅宣言を出した。疱瘡。天然痘。
  • 種痘 しゅとう (vaccination)痘苗を人体に接種し、天然痘に対する免疫性を得させ、感染を予防する方法。牛痘種痘法はジェンナーの発明。植え疱瘡。
  • 疱瘡おどり ほうそう- ホソ踊りとも。女性を中心とする小歌踊の一つ。三味線や太鼓の囃子方にあわせて踊る。鹿児島県下に分布。江戸時代に疫病のうち最も恐れられた疱瘡が村中で発生すると、これを厄神として村境まで送り出す行事や、事前に厄神を村境で饗応して侵入を防ぐ祈願が各地にみられた。疱瘡踊は厄神饗応の筋書きのもとで踊られた。のちに伊勢信仰と結びつき、疱瘡祈願のための伊勢詣の道中劇の形式で踊った。現在は饗宴の余興として踊る。(日本史)
  • 東京音頭 とうきょう おんど 昭和初期の東京をうたう、民謡調の流行歌。西条八十作詞、中山晋平作曲。初名、丸の内音頭。1933年改作され、広まる。
  • 佐々良三八 ささら さんぱち → 簓三八
  • 簓三八 ささら さんぱち 盛岡地方で、疫病・疱瘡などを防ぐために門戸に貼ったまじないの文句。簓三助宿。
  • 麗麗しい れいれいしい 人目に立つように飾り立ててある。ことさらに目立つようにしてある。
  • 賑恤 しんじゅつ 貧困者・罹災者などを救うために金品を施与すること。
  • 万歳楽 まんざいらく 雅楽の唐楽、平調の曲。六人または四人舞。めでたい文の舞として、武の舞の「太平楽」とともに即位礼その他の賀宴に用いる。まざいらく。
  • 世直し よなおし (2) 地震や雷鳴の時に唱える呪文。浄瑠璃、嫗山姥「めりめりぴしやりと鳴る音に、そりや地震よ雷よ、―くはばらくはばらと」
  • かは/\
  • きょうつか
  • 経塚 きょうづか 経典を永く後世に伝えるため、経筒などに入れて地中に埋め納めて塚を築いたもの。上に五輪塔などを建てることもある。経石・瓦経なども埋納する。
  • 揺り戻し ゆりもどし (1) 一度ゆれたものが、もとに戻ること。(2) 余震に同じ。
  • 余震 よしん 大地震の後に引き続いて起こる小地震。ゆりかえし。
  • 本震 ほんしん 前震または余震をひきおこしたと考えられる大きな地震。主震。
  • 京の塚
  • 将軍塚 しょうぐんづか 京都市東山区華頂山上にある塚。平安遷都の際、京の守護神とし、8尺の土偶に鉄甲を着せ、弓矢を携えさせて埋めたが、事変の起こる前にはこの塚が鳴動したと伝える。
  • 田村塚
  • 田村将軍
  • 鎧冑 がいちゅう よろいとかぶと。
  • 圃中 ほちゅう?
  • 塋域 えいいき はかば。墓地。兆域。
  • -----------------------------------
  • 地震毛
  • 火山毛 かざんもう 火山から噴出した流動性の溶岩滴がガラス質の毛髪状をなすもの。ペレーの毛。
  • 地震ナマズ
  • 地牛 ちぎゅう?
  • 徂徠 そらい ゆきき。往来。
  • ネウロスポラ・シトフィラ(Neurospora sitophila)
  • 糸状菌 しじょうきん 糸状の菌糸をもつ真菌類の通称。
  • ひげかび 鬚黴。接合菌類に属するかびの一種。草食動物糞などに生える。菌糸は無色。分枝して這い、黒色で直立した長柄のある胞子嚢を多数つける。胞子は淡黄色。
  • 壮丁 そうてい (1) 壮年の男子。血気さかんな男子。成年に達した男子。わかもの。(2) 夫役または軍役にあたる壮年の男子。
  • ニテンス菌
  • -----------------------------------
  • 前震 ぜんしん 大きな地震に先立って起こる前触れの小さい地震。予震。
  • 臚列 ろれつ (「臚」も並べる意) 並べること。並ぶこと。
  • 高陞号事件 こうしょうごう じけん 日清戦争の豊島沖の海戦(1894年7月)の際、清国軍隊をのせてイギリス国旗を掲揚した輸送船高陞号を日本の軍艦が撃沈した事件。イギリスの世論が一時激昂したが適法とされて鎮静。こうしんごうじけん。
  • 熱雲 ねつうん 〔地〕小規模で高温の火砕流。ラクロア(A. Lacroix1863〜1948)の命名。
  • -----------------------------------
  • 対蹠 たいせき/たいしょ (タイセキの慣用読み)ある事に対して反対であること。正反対。
  • 弥漫・瀰漫 びまん 気分や風潮などが一面にみなぎること。ひろがりはびこること。
  • 検潮儀 けんちょうぎ 潮汐による海面の昇降を測定する機械。海岸の検潮所に設置され、テレメーター型が多く用いられる。
  • 沖膨れ おきぶくれ?
  • 浪原 → 波源か
  • 波源 はげん 波動の源。空間や物体に周期的な変動をおこさせるもとになるもの。外部からの作用によって媒質中の一部が強制的に振動するようになって波源となる。


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)『日本国語大辞典 第二版』(小学館、2001.5)『日本史広辞典』(山川出版社、1997.10)。



*後記(工作員スリーパーズ日記)


『季刊東北学』第28号(東北文化研究センター、2011)特集「地震・津波・原発」読了。いつにも増して読みごたえあり。

 保立道久「貞観津波と大地動乱の九世紀」「千年に一度」と安易に形容される今回の地震津波を疑問視する。(1) 貞観津波の痕跡の砂層の上に14世紀以降の砂層が二層想定される(産総研の調査)。(2) 1454(享徳3)室町時代、奥州に津波入て、山の奥百里入て、かへりに人多取る(王代記)。……少なくとも五〇〇年に一度と推定。貞観の鳥海山噴火にもふれている。

 特集に不満もある。地震噴火史と地域史と宗教史を横断する視点が弱い。県内地域史を専門とする雑誌『羽陽文化』と『山形県地域史研究』をくってみても期待の論述は少ない。『県史』『市町村史』も同様。奥州平泉に先立って出羽文化はじまりの物語りがあったはずで、天然地理条件を舞台に、先住蝦夷と征討為政、奈良法相宗と天台密教と陰陽・修験道、そして国内各地からの移住者と新羅使や渤海使が、とぐろを巻いて溶融していた時代のはず。確証はないが、その後登場する「武士」出生の秘密もこのあたりに関係するのではないかという予感もある。

 市立図から新野直吉の著書を二冊かりる。




*次週予告


第四巻 第七号 
地震の国(四)今村明恒


第四巻 第七号は、
九月一〇日(土)発行予定です。
定価:200円


T-Time マガジン 週刊ミルクティー 第四巻 第六号
地震の国(三)今村明恒
発行:二〇一一年九月三日(土)
編集:しだひろし/PoorBook G3'99
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出版:*99 出版
 〒994-0024 山形県天童市鎌田2丁目1−21
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販売:DL-MARKET
※ T-Timeは(株)ボイジャーの商標・製品です。



T-Time マガジン
週刊ミルクティー
*99 出版
バックナンバー
  • 第二巻
  • #1 奇巌城(一)M. ルブラン
  • #2 奇巌城(二)M. ルブラン
  • #3 美し姫と怪獣/長ぐつをはいた猫
  • #4 毒と迷信/若水の話/麻薬・自殺・宗教
  • #5 空襲警報/水の女/支流
  • #6 新羅人の武士的精神について 池内 宏
  • #7 新羅の花郎について 池内 宏
  • #8 震災日誌/震災後記 喜田貞吉
  • #9 セロ弾きのゴーシュ/なめとこ山の熊 宮沢賢治
  • #10 風の又三郎 宮沢賢治
  • #11 能久親王事跡(一)森 林太郎
  • #12 能久親王事跡(二)森 林太郎
  • #13 能久親王事跡(三)森 林太郎
  • #14 能久親王事跡(四)森 林太郎
  • #15 欠番
  • #16 欠番
  • #17 赤毛連盟      C. ドイル
  • #18 ボヘミアの醜聞   C. ドイル
  • #19 グロリア・スコット号C. ドイル
  • #20 暗号舞踏人の謎   C. ドイル
  • #21 蝦夷とコロボックルとの異同を論ず 喜田貞吉
  • #22 コロポックル説の誤謬を論ず 上・下 河野常吉
  • #23 慶長年間の朝日連峰通路について 佐藤栄太
  • #24 まれびとの歴史/「とこよ」と「まれびと」と 折口信夫
  • #25 払田柵跡について二、三の考察/山形県本楯発見の柵跡について 喜田貞吉
  • #26 日本天変地異記 田中貢太郎
  • #27 種山ヶ原/イギリス海岸 宮沢賢治
  • #28 翁の発生/鬼の話 折口信夫
  • #29 生物の歴史(一)石川千代松
  • #30 生物の歴史(二)石川千代松
  • #31 生物の歴史(三)石川千代松
  • #32 生物の歴史(四)石川千代松
  • #33 特集 ひなまつり
  •  雛 芥川龍之介
  •  雛がたり 泉鏡花
  •  ひなまつりの話 折口信夫
  • #34 特集 ひなまつり
  •  人形の話 折口信夫
  •  偶人信仰の民俗化並びに伝説化せる道 折口信夫
  • #35 右大臣実朝(一)太宰 治
  • #36 右大臣実朝(二)太宰 治
  • #37 右大臣実朝(三)太宰 治
  • #38 清河八郎(一)大川周明
  • #39 清河八郎(二)大川周明
  • #40 清河八郎(三)大川周明
  • #41 清河八郎(四)大川周明
  • #42 清河八郎(五)大川周明
  • #43 清河八郎(六)大川周明
  • #44 道鏡皇胤論について 喜田貞吉
  • #45 火葬と大蔵/人身御供と人柱 喜田貞吉
  • #46 手長と足長/くぐつ名義考 喜田貞吉
  • #47 「日本民族」とは何ぞや/本州における蝦夷の末路 喜田貞吉
  • #48 若草物語(一)L.M. オルコット
  • #49 若草物語(二)L.M. オルコット
  • #50 若草物語(三)L.M. オルコット
  • #51 若草物語(四)L.M. オルコット
  • #52 若草物語(五)L.M. オルコット
  • #53 二人の女歌人/東北の家 片山広子
  • 第三巻
  • #1 星と空の話(一)山本一清
  • #2 星と空の話(二)山本一清
  • #3 星と空の話(三)山本一清
  • #4 獅子舞雑考/穀神としての牛に関する民俗 中山太郎
  • #5 鹿踊りのはじまり 宮沢賢治/奥羽地方のシシ踊りと鹿供養 喜田貞吉
  • #6 魏志倭人伝/後漢書倭伝/宋書倭国伝/隋書倭国伝
  • #7 卑弥呼考(一)内藤湖南
  • #8 卑弥呼考(二)内藤湖南
  • #9 卑弥呼考(三)内藤湖南
  • #10 最古日本の女性生活の根底/稲むらの陰にて 折口信夫
  • #11 瀬戸内海の潮と潮流(他三編)寺田寅彦
  •  瀬戸内海の潮と潮流/コーヒー哲学序説/
  •  神話と地球物理学/ウジの効用
  • #12 日本人の自然観/天文と俳句 寺田寅彦
  • #13 倭女王卑弥呼考(一)白鳥庫吉
  • #14 倭女王卑弥呼考(二)白鳥庫吉
  • #15 倭奴国および邪馬台国に関する誤解 他 喜田貞吉
  •  倭奴国と倭面土国および倭国とについて稲葉君の反問に答う/倭奴国および邪馬台国に関する誤解
  • #16 初雪 モーパッサン 秋田 滋(訳)
  • #17 高山の雪 小島烏水
  • #18 光をかかぐる人々 続『世界文化』連載分(一)徳永 直
  • #19 光をかかぐる人々 続『世界文化』連載分(二)徳永 直
  • #20 光をかかぐる人々 続『世界文化』連載分(三)徳永 直
  • #21 光をかかぐる人々 続『世界文化』連載分(四)徳永 直
  • #22 光をかかぐる人々 続『世界文化』連載分(五)徳永 直
  • #23 銀河鉄道の夜(一)宮沢賢治
  • #24 銀河鉄道の夜(二)宮沢賢治
  • #25 ドングリと山猫/雪渡り 宮沢賢治
  • #26 光をかかぐる人々 続『世界文化』連載分(六)徳永 直
  • #27 特集 黒川能・春日若宮御祭 折口信夫
  •  黒川能・観点の置き所
  •  村で見た黒川能
  •  能舞台の解説
  •  春日若宮御祭の研究
  • #28 面とペルソナ/人物埴輪の眼 他 和辻哲郎
  •  面とペルソナ / 文楽座の人形芝居
  •  能面の様式 / 人物埴輪の眼
  • #29 火山の話 今村明恒
  • #30 現代語訳『古事記』(一)武田祐吉(訳)
  • #31 現代語訳『古事記』(二)武田祐吉(訳)
  • #32 現代語訳『古事記』(三)武田祐吉(訳)
  • #33 現代語訳『古事記』(四)中巻(後編)武田祐吉(訳)
  • #34 山椒大夫 森 鴎外
  • #35 地震の話(一)今村明恒
  • #36 地震の話(二)今村明恒
  • #37 津波と人間/天災と国防/災難雑考 寺田寅彦
  • #38 春雪の出羽路の三日 喜田貞吉
  • #39 キュリー夫人/はるかな道(他)宮本百合子
  • #40 大正十二年九月一日…/私の覚え書 宮本百合子
  • #41 グスコーブドリの伝記 宮沢賢治
  • #42 ラジウムの雁/シグナルとシグナレス(他)宮沢賢治
  • #43 智恵子抄(一)高村光太郎

      あどけない話

    智恵子は東京に空がないという、
    ほんとの空が見たいという。
    私はおどろいて空を見る。
    桜若葉の間にあるのは、
    切っても切れない
    むかしなじみのきれいな空だ。
    どんよりけむる地平のぼかしは
    うすもも色の朝のしめりだ。
    智恵子は遠くを見ながらいう。
    阿多々羅山(あたたらやま)の山の上に
    毎日出ている青い空が
    智恵子のほんとの空だという。
    あどけない空の話である。


      千鳥と遊ぶ智恵子

    人っ子ひとりいない九十九里の砂浜の
    砂にすわって智恵子は遊ぶ。
    無数の友だちが智恵子の名をよぶ。
    ちい、ちい、ちい、ちい、ちい―
    砂に小さな趾(あし)あとをつけて
    千鳥が智恵子によってくる。
    口の中でいつでもなにか言ってる智恵子が
    両手をあげてよびかえす。
    ちい、ちい、ちい―
    両手の貝を千鳥がねだる。
    智恵子はそれをパラパラ投げる。
    群れ立つ千鳥が智恵子をよぶ。
    ちい、ちい、ちい、ちい、ちい―
    人間商売さらりとやめて、
    もう天然の向こうへ行ってしまった智恵子の
    うしろ姿がぽつんと見える。
    二丁も離れた防風林の夕日の中で
    松の花粉をあびながら私はいつまでも立ちつくす。
  • #44 智恵子抄(二)高村光太郎
     わたしは昭和九年(一九三四)五月から十二月末まで、毎週一度ずつ九十九里浜の真亀納屋という小さな部落に東京から通った。頭を悪くしていた妻を、そこに住む親類の寓居にあずけておいたので、その妻を見舞うために通ったのである。真亀という部落は、海水浴場としても知られているイワシの漁場、千葉県山武郡片貝村の南方一里たらずの浜辺に沿ったさびしい漁村である。
    (略)午前に両国駅を出ると、いつも午後二、三時ごろ、この砂丘につく。わたしは一週間分の薬や、菓子や、妻の好きな果物などを出す。妻は熱っぽいような息をして私をよろこび迎える。わたしは妻をさそって、いつも砂丘づたいに防風林の中をまず歩く。そして小松のまばらな高みの砂へ腰をおろして二人で休む。五月の太陽がすこしななめに白い砂を照らし、そよかぜは海から潮の香りをふくんで、あおあおとした松の枝をかすかに鳴らす。空気のうまさを満喫して私は陶然とする。ちょうど五月は松の花のさかりである。クロマツの新芽ののびたさきに、あの小さな、黄いろい、俵のような、ほろほろとした単性の花球がこぼれるように着く。
     松の花粉の飛ぶ壮観を、わたしはこの九十九里浜の初夏にはじめて見た。防風林のクロマツの花が熟するころ、海から吹きよせる風にのって、その黄いろい花粉が飛ぶさまは、むしろおそろしいほどの勢いである。支那の黄土をまきあげた黄塵というのは、もとより濁って暗くすさまじいもののようだが、松の花粉の風に流れるのはその黄塵をも想像させるほどで、ただそれが明るく、透明の感じを持ち、不可言の芳香をただよわせて風のまにまに空間を満たすのである。さかんな時には座敷の中にまでその花粉がつもる。妻の浴衣の肩につもったその花粉を軽くはたいて、私は立ち上がる。妻は足もとの砂を掘って、しきりに松露の玉をあつめている。日が傾くにつれて海鳴りが強くなる。千鳥がついそこを駈けるように歩いている。
  • #45 ヴェスヴィオ山/日本大地震(他)斎藤茂吉
     新聞の報告はみなほとんど同一であった。上海電報によると、地震は九月一日の早朝におこり、東京・横浜の住民は十万人死んだ。東京の砲兵工廠は空中に舞い上がり、数千の職工が死んだ。熱海・伊東の町は全くなくなった。富士山の頂が飛び、大島は海中に没した。云々である。
     私はしばらく息をつめてこれらの文句を読んだが、どうも現実の出来事のような気がしない。ただし私は急いでそこを出で、新しく間借りしようとする家へ行った。部屋は綺麗に調えてあったので私は床上に新聞紙と座布団とをしき、尻をペタリとおろした。それからふたたび新聞の日本震災記事を読むに、これは容易ならぬことである。私の意識はようやく家族の身上に移っていった。不安と驚愕とがしだいに私の心を領するようになってくる。私は眠り薬を服してベッドの上に身を横たえた。
     暁になり南京虫におそわれ、この部屋も不幸にして私の居間ときめることができなかった。九月四日の朝、朝食もせずそこを出て日本媼のところに急ぐ途中N君に会った。N君も日本のことが心配でたまらぬので、やはり朝食もせずに日本媼のところに来た途中なのであった。N君の持っている今日の朝刊新聞の記事を読むと、昨日の夕刊よりもややくわしく出ている。コレア丸からの無線電報によるに、東京はすでに戒厳令が敷かれて戦時状態に入った。横浜の住民二十万は住む家なく食う食がない。(略)
     九月五日。日本の惨事は非常である。部屋の中に沈黙していても何ごとも手につかない。九月六日。思いきって、Thorwalsen(トールワルゼン) Str.(シュトラセ) 六番地に引っ越してしまった。ここには南京虫はいなかった。教室まで遠くて不便であるが、日本の状態がこんなであってみれば、私自身、今後どう身を所決せねばならんか今のところまったく不明である。そこでせめて南京虫のいないところにおちつこうと決心したのであった。
  • #46 上代肉食考/青屋考 喜田貞吉
    (略)そのはばかりの程度は神社により、また時代によって相違があったようだが、ともかく肉は穢れあるものとして、これを犯したものは神に近づくことができず、これに合火(あいび)したもの、合火したものに合火のものまでも、またその穢れあるものとしておったのである。(略)
     右のしだいであったから、自分らのごときも子どもの時分には、決して獣肉を食ったことはなかった。かつて村人の猪肉・兎肉を食べているものを見て、子供心に、よくこの人らには神罰があたらぬものだと思ったこともあった。これらの人々の遁辞(とんじ)には、イノシシは山鯨で魚の仲間、兎は鴉鷺(あろ)で鳥の仲間だとあって、これだけは食べてもよいのだとすすめられたけれども、ついに食べる気にはなれなかった。しかるに郷里の中学校へ入学して、寄宿舎に入ったところが、賄い方はしばしば夕食の膳に牛肉をつけてくれた。上級生も平気でそれを食っている。こわごわながら人並みに箸を採ってみると、かつて経験したことのない美味を感じた。いつしか牛肉随喜党となり、はては友達の下宿へ行って、ひそかに近郷のある部落から売りにくる牛肉を買って、すき焼きの味をもおぼえるようになった。時は明治十七、八年(一八八四、一八八五)ころで、諸物価も安かったが、牛肉の需要が少なかったために、百目四、五銭で買えたと記憶する。かようなしだいで、おいおい大胆になっては来たが、それでもまだ家庭へ帰っては、牛肉の香りをかいだこともないような顔をしていた。これは自分の家庭が特に物堅いためで、去る大正三年(一九一四)に八十三歳で没した父のごときは、おそらく一生涯、牛肉の味を知らなかったようであるし、今なお健在の母も、たぶんまだこれを口にしたことはなかろうと思われるほどであるから、自分のこの一家庭の事情をもって、もとより広い世間を推すわけにはいかぬが、少なくも維新前後までの一般の気分は、たいていそんなものであった。したがって肉食を忌まなかった旧時のエタが、人間でないかのごとく思われたのにも無理はないが、しかしかくのごときものが、はたしてわが固有の習俗であったであろうか。
  • #47 地震雑感/静岡地震被害見学記(他)寺田寅彦
    地震雑感
     一 地震の概念
     二 震源
     三 地震の原因
     四 地震の予報
    静岡地震被害見学記
    小爆発二件
     震災の原因という言語はいろいろに解釈される。多くの場合には、その地震が某火山の活動に起因するとか、あるいは某断層における地すべりに起因するとかいうようなことが一通りわかれば、それで普通の原因追究欲が満足されるようである。そして、その上にその地すべりなら地すべりがいかなる形状の断層に沿うて幾メートルの距離だけ移動したというようなことがわかれば、それで万事は解決されたごとく考える人もある。これは原因の第一段階である。
     しかし、いかなる機巧(メカニズム)でその火山のそのときの活動がおこったか、また、いかなる力の作用でその地すべりを生じたかを考えてみることはできる。これに対する答えとしては、さらにいろいろな学説や憶説が提出され得る。これが原因の第二段階である。たとえば、地殻の一部分にしかじかの圧力なり歪力なりが集積したためにおこったものであるという判断である。
     これらの学説が仮に正しいとしたときに、さらに次の問題がおこる。すなわち地殻のその特別の局部に、そのような特別の歪力をおこすにいたったのはなぜかということである。これが原因の第三段階である。
     問題がここまで進んでくると、それはもはや単なる地震のみの問題ではなくなる。地殻の物理学、あるいは地球物理学の問題となってくるのである。
     地震の原因を追究して現象の心核にふれるがためには、結局、ここまで行かなければならないはずだと思われる。地球の物理をあきらかにしないで地震や火山の現象のみの研究をするのは、ことによると、人体の生理をあきらかにせずして、単に皮膚の吹出物だけを研究しようとするようなものかもしれない。地震の根本的研究は、すなわち地球、特に地殻の研究ということになる。本当の地震学は、これを地球物理学の一章として見たときにはじめて成立するものではあるまいか。
  • #48 自然現象の予報/火山の名について 寺田寅彦
    自然現象の予報
    火山の名について
     つぎに、地震予報の問題に移りて考えん。地震の予報ははたして可能なりや。天気予報と同じ意味において可能なりや。
     地震がいかにしておこるやは、今もなお一つの疑問なれども、ともかくも地殻内部における弾性的平衡が破るる時におこる現象なるがごとし。これが起こると否とを定むべき条件につきては、吾人いまだ多くを知らず。すなわち天気のばあいにおける気象要素のごときものが、いまだあきらかに分析されず。この点においても、すでに天気の場合とおもむきを異にするを見る。
     地殻のひずみが漸次蓄積して不安定の状態に達せるとき、適当なる第二次原因、たとえば気圧の変化のごときものが働けば、地震を誘発することは疑いなきもののごとし。ゆえに一方において地殻のゆがみを測知し、また一方においては主要なる第二次原因を知悉するを得れば、地震の予報は可能なるらしく思わる。この期待は、いかなる程度まで実現されうべきか。
     地下のゆがみの程度を測知することはある程度までは可能なるべく、また主なる第二次原因を知ることも可能なるべし。今、仮にこれらがすべて知られたりと仮定せよ。
     さらに事柄を簡単にするため、地殻の弱点はただ一か所に止まり、地震がおこるとせば、かならずその点におこるものと仮定せん。かつまた、第二次原因の作用は毫も履歴効果を有せず、すなわち単に現在の状況のみによりて事柄が定まると仮定せん。かくのごとき理想的のばあいにおいても、地震の突発する「時刻」を予報することはかなり困難なるべし。何となれば、このばあいは前に述べし過飽和溶液の晶出のごとく、現象の発生は、吾人の測知し得るマクロ・スコピックの状態よりは、むしろ、吾人にとりては偶然なるミクロ・スコピックの状態によりて定まると考えらるるがゆえなり。換言すれば、マクロ・スコピックなる原因の微分的変化は、結果の有限なる変化を生ずるがゆえなり。このばあいは、重量を加えて糸を引き切るばあいに類す。
  • #49 地震の国(一)今村明恒
     一、ナマズのざれごと
     二、頼山陽、地震の詩
     三、地震と風景
     四、鶏のあくび
     五、蝉しぐれ
     六、世紀の北米大西洋沖地震
     七、観光
     八、地震の正体

    「日本は震災国です。同時に地震学がもっともよく発達していると聞いています。したがってその震災を防止あるいは軽減する手段がよく講ぜられていると思いますが、それに関する概要をできるだけよくうかがって行って、本国へのみやげ話にしたいと思うのです。
    「よくわかりました。
     これはすばらしい好質問だ。本邦の一般士人、とくに記者諸君に吹聴したいほどの好質問だ。余は永年の学究生活中、かような好質問にかつて出会ったことがない。(略)余は順次につぎのようなことを説明した。
    「震災の防止・軽減策は三本建にしている。すなわち、第一は耐震構造の普及方。これには、建築法規に耐震構造の実施に関する一項が加えてあり、これを実行している都市は現在某々地にすぎないが、じつは国内の市町村の全部にと希望している。構造物を耐震的にするにはしかじかの方法が講ぜられている。(略)
    「第二は震災予防知識の普及。これは尋常小学校の国定教科書に一、二の文章を挿入することにより、おおむねその目的が達せられる。
    「第三は地震の予知問題の解決。この問題を分解すると、地震の大きさの程度、そのおこる場所ならびに時期という三つになり、この三者をあわせ予知することが本問題の完全な解決となる。これは前の二つとは全然その趣きが別で、専門学徒に課せられた古今の難問題である。
     ここで彼女はすかさず喙(くちばし)をいれた。
    「じつはその詳細がとくに聞きたいのです。事項別に説明してください。して、その程度とは?」
    「(略)われわれのごとく防災地震学に専念している者は、講究の目標を大地震にのみ限定しています。大きさの程度をわざとこう狭く局限しているのです。
    「そして、その場所の察知は?」
    「過去の大地震の統計と地質構造とによって講究された地震帯、磁力・重力など地球物理学的自然力の分布異状、とくに測地の方法によって闡明(せんめい)された特種の慢性的・急性的陸地変形などによります。
    「それから、いつ起こるかということは?」
    「右の起こりそうな場所に網をはっておいて、大地震の前兆と思われる諸現象を捕捉するのです。
     パイパー夫人はなおも陸地変形による場所ならびに時期の前知方法の講究に関して、さらに具体的の例をあげるよう迫るので、余は南海道沖大地震に関する研究業績の印刷物をもってこれに応じておいた。
  • #50 地震の国(二)今村明恒
     九 ドリアン
     一〇 地震の興味
     一一 地割れの開閉現象
     一二 称名寺の鐘楼
     一三 張衡(ちょうこう)
     一四 地震計の冤(えん)
     一五 初動の方向性
     一六 白鳳大地震

     文部大臣は、昨年の関西風水害直後、地方庁あてに訓令を出されて、生徒児童の非常災害に対する教養に努めるよう戒められたのであった。まことに結構な訓令である。ただし、震災に関するかぎり、小学教師は、いつ、いかなる場合、いかようにしてこの名訓令の趣旨を貫徹せしめるかについては、すこぶる迷っているというのが、いつわらざる現状である。実際、尋常科用国定教科書をいかにあさって見ても理科はもとより、地理・国語・修身、その他にも、地震を主題とした文章は一編も現われず、ただ数か所に「地震」という文字が散見するのみである。地震の訓話をするに、たとえかような機会をとらえるとしても、いかなることを話したらよいか、それが教師にとってかえって大きな悩みである。文部大臣の監督下にある震災予防評議会が、震火災防止をめざす積極的精神の振作に関し、内閣総理をはじめ、文部・内務・陸海軍諸大臣へあて建議書を提出したのは昭和三年(一九二八)のことであるが、その建議書にはとくに「尋常小学校の課程に地震に関する一文章を加える議」が強調してある。同建議書は文部省に設置してある理科教科書編纂委員会へも照会されたが、同委員会からは、問題の事項は加えがたいむねの返事があった。地震という事項は、尋常科の課程としては難解でもあり、また、その他の記事が満載されていて、割り込ませる余地もないという理由であった。この理由はとくに理科の教科書に限られたわけでもなく、他の科目についても同様であったのである。難解なりとは、先ほどから説明したとおり問題にならぬ。われわれはその後、文案を具して当局に迫ったこともあるくらいであるから、当局ももはや諒としておられるであろう。さすれば主な理由は、余地なしという点に帰着するわけである。つくづく尋常科教科書を検討してみるに、次のようなことが載せてあるのを気づく。すなわち「南洋にはドリアンという果物ができる。うまいけれども、とても臭い」と。このような記事を加える余裕があるにもかかわらず、地震国・震災国の幼い小国民に地震のことを教える余地がないとは、じつに不可解なことといわねばならぬ。
  • #51 現代語訳『古事記』(五)下巻(前編)武田祐吉(訳)
    古事記 下の巻
     一、仁徳天皇
      后妃と皇子女
      聖(ひじり)の御世
      吉備の黒日売
      皇后石の姫の命
      ヤタの若郎女
      ハヤブサワケの王とメトリの王
      雁の卵
      枯野という船
     二、履中天皇・反正天皇
      履中天皇とスミノエノナカツ王
      反正天皇
     三、允恭天皇
      后妃と皇子女
      八十伴の緒の氏姓
      木梨の軽の太子
     四、安康天皇
      マヨワの王の変
      イチノベノオシハの王

     皇后石の姫の命はひじょうに嫉妬なさいました。それで天皇のお使いになった女たちは宮の中にも入りません。事がおこると足擦りしてお妬みなさいました。しかるに天皇、吉備の海部の直の娘、黒姫という者が美しいとお聞きあそばされて、喚し上げてお使いなさいました。しかしながら、皇后さまのお妬みになるのをおそれて本国に逃げ下りました。(略)
     これより後に皇后さまが御宴をお開きになろうとして、カシワの葉を採りに紀伊の国においでになったときに、天皇がヤタの若郎女と結婚なさいました。ここに皇后さまがカシワの葉を御船にいっぱいに積んでおかえりになるときに、(略)「天皇はこのごろヤタの若郎女と結婚なすって、夜昼たわむれておいでになります。皇后さまはこのことをお聞きあそばさないので、しずかに遊んでおいでになるのでしょう」と(略)聞いて、(略)ひじょうに恨み、お怒りになって、御船に載せたカシワの葉をことごとく海に投げすてられました。それでそこを御津の埼というのです。そうして皇居にお入りにならないで、船をまげて堀江にさかのぼらせて、河のままに山城にのぼっておいでになりました。(略)それから山城からまわって、奈良の山口においでになってお歌いになった歌、

     山また山の山城川を
     御殿の方へとわたしがさかのぼれば、
     うるわしの奈良山をすぎ
     青山のかこんでいる大和をすぎ
     わたしの見たいと思うところは、
     葛城の高台の御殿、
     故郷の家のあたりです。

     かように歌っておかえりになって、しばらく筒木の韓人のヌリノミの家にお入りになりました。
  • #52 現代語訳『古事記』(六)下巻(後編)武田祐吉(訳)
    古事記 下の巻
     五、雄略天皇
      后妃と皇子女
      ワカクサカベの王
      引田部の赤猪子
      吉野の宮
      葛城山
      春日のオド姫と三重の采女
     六、清寧天皇・顕宗天皇・仁賢天皇
      清寧(せいねい)天皇
      シジムの新築祝い
      歌垣
      顕宗(けんぞう)天皇
      仁賢天皇
     七、武烈天皇以後九代
      武烈(ぶれつ)天皇
      継体(けいたい)天皇
      安閑(あんかん)天皇
      宣化(せんか)天皇
      欽明(きんめい)天皇
      敏達(びだつ)天皇
      用明(ようめい)天皇
      崇峻(すしゅん)天皇
      推古天皇

     天皇〔顕宗天皇〕、その父君をお殺しになったオオハツセの天皇を深くおうらみ申し上げて、天皇の御霊に仇(あだ)をむくいようとお思いになりました。よってそのオオハツセの天皇の御陵を毀(やぶ)ろうとお思いになって人を遣わしましたときに、兄君のオケの命の申されますには、「この御陵を破壊するには他の人をやってはいけません。わたくしが自分で行って陛下の御心のとおりに毀してまいりましょう」と申し上げました。そこで天皇は、「それならば、お言葉どおりに行っていらっしゃい」とおおせられました。そこでオケの命がご自身でくだっておいでになって、御陵のそばを少し掘って帰っておのぼりになって、「すっかり掘り壊(やぶ)りました」と申されました。そこで天皇がその早く帰っておのぼりになったことを怪しんで、「どのようにお壊りなさいましたか?」とおおせられましたから、「御陵のそばの土を少し掘りました」と申しました。天皇のおおせられますには、「父上の仇を報ずるようにと思いますので、かならずあの御陵をことごとく壊すべきであるのを、どうして少しお掘りになったのですか?」とおおせられましたから、申されますには、「かようにしましたわけは、父上の仇をその御霊にむくいようとお思いになるのはまことに道理であります。しかしオオハツセの天皇は、父上の仇ではありますけれども、一面は叔父でもあり、また天下をお治めなさった天皇でありますのを、今もっぱら父の仇ということばかりを取って、天下をお治めなさいました天皇の御陵をことごとく壊しましたなら、後の世の人がきっとおそしり申し上げるでしょう。しかし、父上の仇は報(むく)いないではいられません。それであの御陵の辺りを少し掘りましたから、これで後の世に示すにも足りましょう」とかように申しましたから、天皇は「それも道理です。お言葉のとおりでよろしい」とおおせられました。
  • 第四巻
  • #1 日本昔話集 沖縄編(一)伊波普猷・前川千帆(絵)

     序にかえて
      琉球編について
     一、沖縄人のはじめ
     二、巨人の足あと
     三、三十七岳の神々
     四、アカナァとヨモ
     五、黄金の木のなるまで

     地上には、草や木はもちろんのこと、鳥や獣(けもの)というては一匹もいなかった大昔のことです。その時分、沖縄島の上には、霞(かすみ)がかかったように、天が垂(た)れ下がっていて、天と地との区別がまったくありませんでした。しかも、東の海から寄せてくる波は、島をこえて西の海に行き、西の海の潮は、東の海に飛びこえて渦を巻いているという、それはそれは、ものすごいありさまでした。
     それまで天にいられたアマミキヨ、シネリキヨという二人の神さまは、このありさまをごらんになって、
    「あれでは、せっかく作り上げた島もなにもならん」
    とおっしゃって、さっそく天上から土や石や草や木やをお運びになって、まず最初に、海と陸との境をお定めになりました。
     二人の神さまは、それから浜辺にお出でになり、阿旦(あだん)やユウナという木をお植えつけになって、波を防ぐようにせられました。それからというものは、さしもに逆巻いていた、あの騒がしい波も飛び越さなくなり、地上には草や木が青々としげって、野や山には小鳥の声が聞こえ、獣があちこち走るようになりました。地上がこういう平和な状態になったときに、二人の神さまは、今度は人間をおつくりになりました。そして最初は、鳥や獣といっしょにしておかれました。人間は、何も知らないものですから、鳥や獣とあちこち走りまわっていました。ところが人間に、だんだん知恵がついてきまして、今までお友だちだった鳥や獣を捕って食べることを覚えたものですから、たまりません。鳥や獣はびっくりして、だんだん、山へ逃げこんでしまうようになりました。 (「巨人の足あと」より)
  • #2 日本昔話集 沖縄編(二)伊波普猷

     六、島の守り神
     七、命の水

     むかし、大里村の与那原(よなばる)というところに、貧乏な漁師がありました。この漁師は、まことに正直な若者でした。
     あの燃えるようにまっ赤な梯梧(だいご)の花は、もうすでに落ちてしまって、黄金色に熟(う)れた阿旦(あだん)の実が、浜の細道に匂う七月ごろのことでした。ある日のこと、その晩はことに月が美しかったものですから、若い漁師は、仕事から帰るなり、ふらふらと海岸のほうへ出かけました。(略)
     暑いとはいえ、盆近い空には、なんとなく秋らしい感じがします。若い漁師は、青々と輝いている月の空をながめながら、こんなことをいうてため息をついていましたが、やがて、何かを思い出したらしく、
    「ああそうだ。盆も近づいているのだから、すこし早いかもしれぬが、阿旦の実のよく熟れたのから選り取って、盆のかざり物に持って帰ろう」
    とつぶやいて、いそいそと海岸の阿旦林のほうへ行きました。
     そのときのことでした。琉球では、阿旦の実のにおいは、盆祭りを思い出させるものですが、そのにおいにまじって、この世のものとも思えぬなんともいえない気高いにおいが、どこからとなくしてきます。若い漁師は、
    「不思議だな。なんというよい匂いだ。どこからするんだろうな」
    と、ふと眼をあげて、青白い月の光にすかして、向こうを見ました。すると、白砂の上にゆらゆらゆれている、黒いものがあります。若い漁師はすぐに近づいて行って、急いでそれをひろいあげました。それは、世にもまれな美しいつやのある、漆のように黒い髪で、しかもあの不思議な天国のにおいは、これから発しているのでした。 (「命の水」より)
  • #3 アインシュタイン(一)寺田寅彦

     物質とエネルギー
     科学上における権威の価値と弊害
     アインシュタインの教育観

     光と名づけ、音と名づける物はエネルギーの一つの形であると考えられる。これらは吾人の五官を刺激して、万人その存在を認める。しかし、「光や音がエネルギーである」という言葉では本当の意味はつくされていない。昔、ニュートンは光を高速度にて放出さるる物質の微粒子と考えた。後にはエーテルと称する仮想物質の弾性波と考えられ、マクスウェルにいたっては、これをエーテル中の電磁的ひずみの波状伝播(でんぱ)と考えられるにいたった。その後アインシュタイン一派は、光の波状伝播(でんぱ)を疑った。また現今の相対原理では、エーテルの存在を無意味にしてしまったようである。それで光と称する感覚は依然として存する間に、光の本体に関しては今日にいたるもなんらの確かなことは知られぬのである。(略)
     前世紀において電気は何ものぞ、物質かエネルギーかという問題が流行した。(略)
     電子は質量を有するように見える。それで、前の物質の定義によれば物質のように見える。同時にこれには一定量の荷電がある。荷電の存在はいったい何によって知ることができるかというと、これと同様の物を近づけたときに相互間に作用する力で知られる。その力は、間接に普通の機械力と比較することができるものである。すでに力をおよぼす以上、これは仕事をする能がある、すなわちエネルギーを有している。しかし、このエネルギーは電子のどこにひそんでいるのであろうか。ファラデー、マクスウェルの天才は、荷電体エネルギーをそのものの内部に認めず、かえってその物体の作用をおよぼす勢力範囲すなわち、いわゆる電場(でんば)に存するものと考えた。この考えはさらに、電波の現象によって確かめらるるにいたった。この考えによれば、電子の荷電のエネルギーは、電子そのものに存すると考えるよりは、むしろその範囲の空間に存すると思われるのである。すなわち空間に電場の中心がある、それが電子であると考えられる。これが他の電子、またはその集団の電場におかれると、力を受けて自由の状態にあれば有限な加速度をもって運動する。すなわち質量を有するのである。 (「物質とエネルギー」より)
  • #4 アインシュタイン(二)寺田寅彦

     アインシュタイン
     相対性原理側面観

     物理学の基礎になっている力学の根本に、ある弱点のあるということは早くから認められていた。しかし、彼以前の多くの学者にはそれをどうしたらいいかがわからなかった。あるいは大多数の人は因襲的の妥協になれて別にどうしようとも思わなかった。力学の教科書はこの急所にふれないように知らん顔をしてすましていた。それでも実用上の多くの問題には実際、さしつかえがなかったのである。ところが近代になって電子などというものが発見され、あらゆる電磁気や光熱の現象は、この不思議な物の作用に帰納されるようになった。そしてこの物が特別な条件のもとに、驚くべき快速度で運動することもわかってきた。こういう物の運動に関係した問題にふれはじめると同時に、今までそっとしておいた力学の急所がそろそろ痛みを感ずるようになってきた。ロレンツのごとき優れた老大家ははやくからこの問題に手をつけて、いろいろな矛盾の痛みを局部的の手術で治療しようとして骨折っている間に、この若い無名の学者はスイスの特許局の一隅にかくれて、もっともっと根本的な大手術を考えていた。病の根は電磁気や光よりもっと根本的な、時と空間の概念の中に潜伏していることに眼をつけた。そうしてその腐りかかった、間に合わせの時と空間をとって捨てて、新しい健全なものをそのかわりに植え込んだ。その手術で物理学は一夜に若返った。そして電磁気や光に関する理論の多くの病竈(びょうそう)はひとりでにきれいに消滅した。
     病源を見つけたのが第一のえらさで、それを手術した手際は第二のえらさでなければならない。 (「アインシュタイン」より)
  • #5 作家のみた科学者の文学的活動/科学の常識のため宮本百合子

     作家のみた科学者の文学的活動
      「生」の科学と文学
      科学と文学の交流
      科学者の社会的基調
      科学者の随筆的随想
      科学と探偵小説
      現実は批判する
     科学の常識のため

     若い婦人の感情と科学とは、従来、縁の遠いもののように思われてきている。昔は人間の心の内容を知・情・意と三つのものにわけて、知は理解や判断をつかさどり、情は感情的な面をうけもち、意は意志で、判断の一部と行動とをうけもつという形式に固定して見られ、今でもそのことは、曖昧に受け入れられたままになっている点が多い。だから、科学というとすぐ理知的ということでばかり受けとって、科学をあつかう人間がそこに献身してゆく情熱、よろこびと苦痛との堅忍、美しさへの感動が人間感情のどんなに高揚された姿であるのも若い女のひとのこころを直接に打たないばあいが多い。このことは逆な作用ともなって、たとえばパストゥールを主人公とした『科学者の道』の映画や『キュリー夫人伝』に賛嘆するとき、若い婦人たちはそれぞれの主人公たちの伝奇的な面へロマンティックな感傷をひきつけられ、科学というとどこまでも客観的で実証的な人間精神の努力そのものの歴史的な成果への評価と混同するような結果をも生むのである。
     婦人の文化の素質に芸術の要素はあるが、科学的な要素の欠けていることを多くのひとが指摘しているし、自分たちとしても心ある娘たちはそれをある弱点として認めていると思う。しかしながら、人間精神の本質とその活動についての根本の理解に、昔ながらの理性と感情の分離対立をおいたままで科学という声をきけば、やっぱりそれは暖かく踊る感情のままでは触れてゆけない冷厳な世界のように感じられるであろう。そして、その情感にある遅れた低さには自身気づかないままでいがちである。 (「科学の常識のため」より)

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