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角富士夫

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角富士夫


  • 1974年ドラフト3位で指名され、福岡第一高から入団。
    1位は1973年の選抜甲子園の優勝投手だった横浜高・永川英植氏。
    他球団では巨人・定岡正二、広島・ 高橋慶彦、大洋(現・横浜)は、のちに巨人の王さんから通算800号を被弾した大川浩、近鉄・吹石徳一(ご令嬢は芸能人の吹石一恵)氏らがいる。
  • 高校の後輩はロッテ-中日-巨人-米国3Aオクラホマの前田幸長氏。
  • 高校時代はエース。1974年の甲子園に出場、大会2号HRを放ち活躍するも3回戦で敗退。ちなみに優勝したのは、後に巨人へ入団した篠塚利夫氏を擁した千葉・銚子商。

  • 真面目な性格で、パンチ力のある打撃と堅実な守備の元祖「いぶし銀」
  • 現役時代は、その顔立ちから「ガマガエル」と一部で呼ばれていたらしい。
  • 漫画家の故ちばあきおさんの名作「プレイボール」の単行本の巻末には、有名人・著名人から「プレイボール」に対するコメントが写真付きで掲載されたが、その20巻で登場、掲載されている。その前に7巻で酒井圭一氏、19巻で杉浦亨氏も登場している。

  • 応援歌は軽快なメロディに乗せ「かっ飛ばせかっ飛ばせ富士夫ー かっ飛ばせかっ飛ばせ富士夫ー 富士夫ぉ~富士夫ぉ~♪」と、ライトスタンドから声援がひと際大きかった。
    ちなみにこの応援歌は、後に西武から移籍してきた辻発彦氏に引き継がれた。※現在この3連符のメロディを奏で切れる人はいるだろうか…。

  • ルーキーイヤーの1975年から早々ケガとの闘いであったが徐々に頭角を現し、1978年は主にサードの故・船田和英氏やショートの水谷新太郎氏との併用で87試合出場、打率.273・7HR・29打点と規定打席未達ながら初のリーグ優勝と日本一へ貢献した。
  • 優勝した1978年のNHK紅白歌合戦でゲストとして若松勉氏、故・船田和英氏とともに佐良直美の曲(愛の消しゴム)紹介に出演も。

  • 1982年にサードのレギュラーとして若松勉、杉浦享、八重樫幸雄の各氏らと共に1980年代の打撃陣を支え、1984年には唯一の130試合フル出場も果たしている。
    逆に翌年の1985年は122試合出場するも、規定打席到達者の中で最下位の打率.245の記録(35位)…。
  • 余談だが、1980年代のヤクルトの選手でドレミの歌が歌えたらしい。「ドは土橋のドー、レはレオンのレェ~、ミは水谷のミィ、ファは富士夫のファ~、ソは染宮のソー、ラは乱橋のラァー、シは渋井シィ~♪」 絶対ファは無理やり感があるんだが…。

  • 選手会長であった1985年にスワローズ黒歴史のある事件で、今ではちょっと笑えるやらかしをしてしまう。

  • 1987年にはボブ・ホーナー加入のあおりを受けレギュラーを譲るも、ボブ・ホーナーがオフに退団したため、翌年からはレギュラー復帰。1990年には初の打率.301を記録、1991年にはゴールデングラブ賞を獲得する。
  • 1992年からジャック・ハウエルの加入で出場機会は激減するものの、1993年の日本シリーズでは15年ぶり日本一の瞬間をサードとして迎えた。
  • 現役引退は1994年。
    通算成績は1521試合出場、1196安打・打率.262・128HR・489打点・19盗塁。
    犠打数205回は2008年現在、は… いや、宮本慎也に次ぐチーム歴代2位。

  • 現役引退後の1995年から戸田軍内野守備・走塁コーチに就任。
    現役時はサード・ショート・セカンド・ファーストを経験しており、チーム歴代指折りの守備(特にサード)の上手さを若手へ継承すべく指導している。

  • 2008年オフに八重樫氏がスカウトへ転身し、入団以降、荒川→広岡→故・武上→土橋→関根→野村→若松→古田→高田の各歴代監督の下、現役・コーチとして現場第一線でスワローズ一筋で指導する唯一の人となってしまったが、2009年のシーズンをもって本人も現場を離れフロントへ。それは同時に1978年の球団初の優勝メンバーが全員去ることを意味する。(ただし、2009年末時点で横浜に2人コーチとして、MLBの監督として1人まだまだ頑張っている人はいるが…)
  • 後任には現役のとき同じ背番号5を付けていた土橋コーチへ。

  • 34年間お疲れ様でした。

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