M_Tea*32〜光をかかぐる人々・東洋人の発明
※ オリジナル版に加えて、ミルクティー*現代表記版を同時収録。
※ JIS X 0213・ttz 形式。
※ この作品は2009年2月28日現在、青空文庫にて入力中です。翻訳・朗読・転載は自由です。
※ オリジナル版テキストおよび底本画像は uakira「徳永直『光をかかぐる人々』入力中」(
http://d.hatena.ne.jp/HikariwokakaguruHitobito/)にて連載公開中です。
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桑原隲蔵「東洋人の発明」略年譜
一〇五(元興元) 東漢の蔡倫、支那で紙を発明。
二七〇(泰始六) 今日世界に現存している一番古い紙。英国のスタイン博士が敦煌方面で発掘。
二九六(元康六) 今日世界に現存している一番古い紙。西本願寺から派遣した中央アジア探検隊が新疆から持ち帰った写経。
五九三(隋の開皇十三) 支那の印刷術ができる。
七五一(天宝十載) サラセン国(大食国)と唐との間に戦争。サラセン国に紙の製造伝わる。
七六四—七七〇(称徳天皇の代) 百万塔の陀羅尼の印本が作られる。
一〇二二〜一〇六三(北宋の仁宗時代) 火薬の使用(武経総要)。
一〇四一—一〇四八(慶暦年間) 畢昇、活版印刷を発明。
十一世紀末〜十二世紀初め 支那で航海に羅針盤を使用。
一一六一 金の海陵王が南宋に入冦。宋軍、霹靂砲という武器を使用。
十二世紀末〜十三世紀初め アラビアや欧州方面で羅針盤使用。
一二一三—一二一七(貞祐年間) 金で紙幣が発行。世界に現存している一番古い紙幣。
十三世紀 モンゴル軍が金を攻めて、都の�京を囲んだ時、城中の金人がさかんに火薬を使用。震天雷など称する火砲を使用。
十三世紀なかばごろ 高麗の李奎報、鋳字をもちいて『詳定礼文』を二十八部印行。
(アラブ人が火薬と鉄砲の使用を知ったのは、西暦十三世紀のなかばごろのことであろうとおもわれる)
一二八八〜一二九二(正応年間) モンゴル軍がわが国に来冦したとき、鉄砲で、大いにわが国を悩ます(伏敵編)。
十三世紀末 マルコ・ポーロ、支那よりイタリアへ帰国。
十四、五世紀 欧州で製紙業が発達。
(西洋の印刷の歴史は十四世紀以後にかぎられる)
(西洋に現存している古代印刷の標本も、十五世紀以前のものはない)
十五世紀初めか 李朝三代目の太宗、銅製活字数十万を鋳造させる。
十五世紀 オランダのコスターやドイツのグーテンベルグなど活版を発明。
十六世紀なかばごろ(天文年間) 鉄砲がポルトガル人の手をへて、わが国に輸入。
一五九六〜一六二四(慶長・元和)朝鮮の活字が日本の文禄の役に分捕物になって日本に伝わって印刷に利用。
一九一三(大正二)十月か 雑誌『新日本』、東洋人と西洋人のどちらが世界の文化発達に、より多く力を寄与しているかという題を掲げて、いわゆる名士とか申す各方面の人々の解答を求める。
一九一四(大正三) 『中等学校地理歴史教員協議会議事および講演速記録』十二月刊。
一九一七(大正六) 『史林』七月号、矢野博士、火薬の使用を指摘。
2009.3.14 No.34
桑原隲蔵 東洋人の発明
定価:200円(税込) |
p.91 / *99 出版 |
付録:別冊ミルクティー*Wikipedia(28項目)p.188
(略)この活版もやはり支那人によって発明されたので、すなわち北宋の仁宗の慶暦年間(西暦一〇四一〜一〇四八)に、畢昇という人が発明したのであります。(略)この支那のグーテンベルグとも申すべき畢昇の発明した活字は、粘土に膠(にかわ)を加えて乾し固めて作ったもので、印刷する時には、まず平扁なる鉄の板の上に、ロウもしくは松ヤニなど、容易に溶解する物質をしき、その上に土製の活字をならべて、鉄板の下を火で熱するのである。すると火の熱でもってロウなり松ヤニが溶けた時機を見はからって、さきの鉄板と平行して、他の鉄板で活字の上を圧して、活字の面を水平にして印刷するのが、当時の方法であります。木で作った活字もその当時できておったが、銅とか鉛とかの金属製の活字は、当時の記録に見えませぬ。ずっと後世の記録にはじめて載せてあります。この金属製の活字のことは、支那の記録よりも、かえって朝鮮の記録に早く見えております。(略)十三世紀のなかばごろに、李奎報というものが作った『詳定礼文』の跋によると、当時鋳字をもちいて、この書物を二十八部印行したことが記載してあります。降って朝鮮時代すなわち李朝時代となると、この活字の使用がますます開けて、ことに李朝三代目の太宗は、銅製活字数十万を鋳造させております。
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桑原隲蔵 くわばら じつぞう
1871-1931(明治3.12.7-昭和6.5.24)
越前国(現在の福井県)生まれ。帝国大学文科大学(現・東大文学部)卒業。高等師範学校(現・筑波大学)教授ののち中国留学、1909年、京都帝国大学教授、1935年、退官。1923年、宋代南海貿易史の研究「蒲寿庚の事蹟」で帝国学士院賞受賞。京都派東洋史学を確立し、清朝考証学の伝統と西洋の文献学的方法を総合し、中国史・東西交渉史に優れた業績を残した。「大苑国の貴山城に就いて」で、西域の歴史・地理について、白鳥庫吉、藤田豊八らと論争を展開した。フランス文化研究者の桑原武夫の父。
2009.3.7 No.33
徳永 直 光をかかぐる人々(二)
長崎と通詞 一・二・三
よせくる波 一・二・三・四
定価:200円(税込) |
p.276 / *99 出版 |
付録:別冊ミルクティー*Wikipedia(208項目)p.1002
(略)では長崎よりも江戸においてはよりたくさんの活字の研究者があり、学者があったのに、なぜそれが江戸でなくて、長崎でより早く完成しただろうか? 歴史にしたがえば、活字はついに長崎に誕生して大阪から江戸へと東漸していっているのである。
その理由を簡単にいえば、二つあると思う。その一つは当時の長崎は、唯一の海外文化の入口であったこと。したがって明治二年(一八六九)米人技師ガンブルが上海から帰国の途次、長崎に寄港したとき、たまたま電胎法による活字字母の製法を、本木昌造に伝受するチャンスがあったということ。つまり「地の利」というのが、その一つである。
その二は、昌造が活字製法に二十年来苦心をつづけていた人間だったこと。ガンブル寄港以前にも幾度か門人をつかわして、上海の伝道印刷会社からその製法を学びとろうとくわだてては失敗していた人間だったこと。つまり昌造のような、江戸の洋学者たちと同じく、近代活字の製法にふかい関心を持った人間がいたということであるが、さらにもひとつ、昌造の場合、通詞という職掌柄、外国の文明品を輸入して研究するには、同じ洋学をやる人間のうちでも、比較的好都合だったという条件である。
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(朗読:RealMedia 形式 248KB、1'59'')
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2009.2.28 No.32
徳永 直 光をかかぐる人々(一)
付録:別冊ミルクティー*Wikipedia(88項目)p.430
しかし私のような印刷工から考えると、近代活字の重要性は彫刻しないことにある。字母によって同一のものが無際限に生産されることにある。そして本木昌造はそれを作った。全然の発明とはいえないまでも、日本流に完成したのである(略)。
私は本木の写真を飽かずながめた。五つ紋の羽織を着た、白髪の総髪で、鼻のたかい眼のきれいな、やせた男である。刀をさしているかどうか上半身だけだからわからぬが、どの著書でも同一の写真であった。それに私のやや不満なのは、この近代活版術の始祖、日本のグウテンベルグともいわるべき人についての記述は、どの著書でも二、三ページであって、どの文章でも出典が同じらしく、幾冊読んでも新しいものを加えることができないことだった。
本木昌造についてもっと知りたかった。西郷隆盛や吉田松陰について知れるがごとく知りたい。私は肝腎のところへいって物足りない気がした。もちろん研究などというもので、新事実を一つ加えるなどどんなに大事業であるかは察することができる。しかし多くの著者は本木の活字完成を印刷歴史の一コマとしている傾向があった。あるいは初心者の独断かしれぬが、本木の完成あってこそ、日本の過去の印刷術を語ることができる、といったほどの大きな峰ではないかと、ひとりで不満に思うのだった。
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(朗読:RealMedia 形式 304KB、2'27'')
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底本:『光をかかぐる人々』河出書房
1943(昭和18)年11月20日発行
入力:uakira
校正:しだひろし
徳永 直 とくなが すなお
1899-1958(明治32.1.20-昭和33.2.15)
熊本県飽託郡花園村(現熊本市)生まれ。1922年上京、博文館印刷所(後の共同印刷所)に植字工として勤務。1925年に「無産者の恋」「馬」などを発表。翌年共同印刷争議に敗れ、同僚1700人とともに解雇される。1929年この時の体験を基にした長編「太陽のない街」を『戦旗』に連載。1958年『新日本文学』に長編「一つの歴史」を完結させないまま世田谷の自宅で病没した。享年59。
◇参照:Wikipedia。
『光をかかぐる人々』年表
四千年前 バビロア国のバビロア人が、粘土の上に文字を書いた。
七三六(天平八)法隆寺の陀羅尼経。日本の印刷物。
一一世紀半ば 支那の畢昇が粘土で活字を作る。
一四四五 グウテンベルグ、活字を発明。
一四四七 グウテンベルグ、亀の子文字の三十二行バイブルを印刷。
一五三〇 ヨアン四世、はじめてヴォルガ河を渡って東漸しはじめる。
(元亀、天正ころ)近代活字が全欧州にゆきわたる。キリシタン宗教といっしょに日本へ渡来。
一六〇〇(慶長五)オランダ船、九州豊後水道の沖合いに漂流。
一六〇〇初頭(天正、文禄、慶長のころ)ポルトガルの宣教師、肥前長崎に西洋印刷術を伝える。キリシタン版。
一六四一(寛永十八)オランダ商館が平戸から長崎出島に移転。
一六五九(万治二)本木庄太夫(三十六歳)平戸から長崎へ移住。
一六六四(寛文四)庄太夫、通詞として召しかかえられる(板沢『蘭学の発達』)
一六七一(寛文十一)イムホツフ総督、日本におけるオランダ貿易の黄金時代といいたる頃。(シーボルト『日本交通貿易史』)
一六七六(延宝四)庄太夫、名村、中島、楢林ら『オランダ風説書』を和解して幕府に呈出。
一六九一(元禄四)三世・本木仁太夫生まれる。(三谷家系図)
一六九七(元禄十)十月 和蘭通詞目付、本木良意死。子市郎助年わずかに七歳(洋学年表)。
一六九七(元禄十)十月十九日 庄太夫の墓の碑文「本木武平次 これを建つ」。
一六九七(元禄十)本木庄太夫没。享年七十。
一七一六(享保元)「長崎人 本木仁太夫 二十二歳」(洋学年表)
一七二五 ロシアのベーリング第一次探険隊、ペトログラードを出発。
一七三三(享保十九)ロシア、スパンベルグの日本探険船、クロンシュタットを出る。喜望峰を迂回しながら太平洋を北上、二年後にオホーツクに到着。
一七三五(享保二十)二代仁太夫、本木三世生まれる。西家から入る。栄之進、良永。
一七三八(元文四)スパンベルグ、オホーツクで新たに建造した三隻の船をもって、千島列島を南下。海上暴風にあって目的を達し得ず。
一七三九(元文五)六月 スパンベルグの探険船、牡鹿半島の長坂村沖合いに出現。伊達藩庁が江戸へ早打ちをもって注進。
一七四二 ベーリング、第二次探険中にベーリング島で、壊血病をもって没する。
一七四五(延享二)本木良固、通詞西善三郎、吉雄幸右衛門とともに、オランダ文書を読む特許を得る。
一七四九(寛延二)本木二世初太夫(三谷氏では三世)良固没。享年五十六。
一七六三(明和年間)イギリス、フランスとの植民競争にうちかってインドをうばう。
一七六九 ベニョーウスキー伯爵、シベリア流刑。カムチャツカに護送される。
一七七〇年代(安永年間)イギリス、ジェームズ・クックに日本本土沿岸探険の訓令。
一七七一(明和八)夏 はんぺんごろう事件。カムチャツカ監獄脱走船、千島列島を南下。津軽海峡をぬけて、大阪湾に出現、長崎沖にいで、奄見大島へぬけ、台湾海岸に上陸、蕃人と合戦し、南下して支那のマカオに達する。
一七七四(安永三)良永『平天儀用法』『天地二球使用法』を訳述して幕府に呈出(哲学年表)。
一七七七(安永六)本木良永、小通詞となり、のち進んで大通詞となる。
一七七八(安永七)四世庄左衛門(良永の嫡男)正栄、生まれる。
一七七八(安永七)大畠文治右衛門『長崎之図』。
一七七九 クック、再度太平洋を横断してアラスカまで来るがハワイで没する。
一七八一(天明元)良永『オランダ海鏡書』(哲学年表)
一七八三 シェリコフ、露米会社を創立。
一七八三か フランス・ルイ十六世、ペルウズ海軍大佐に命じて、アラスカに到達、つづいて沿海州海岸を測量し、間宮海峡にまでおよぶ。
一七八八(天明八)良永『オランダ永続暦』(哲学年表)
一七九一(寛政三)林子平『海国兵談』出版。
一七九一(寛政三)イギリス海軍ヴァンクーヴァが軍艦二隻をひきいて、アラスカの多島海へくる。
一七九一(寛政三)十一月 良永『太陽窮理了解』訳述をはじめる。
一七九二(寛政四)良永『太陽窮理了解』はじめて地動説を日本に紹介。(哲学年表)
一七九二(寛政四)ロシア、第一回遣日使節の軍艦エカテリーナ号、女帝の親翰を捧持しつつ、千島列島を南下、根室湾に投錨、松前藩に至る。
一七九二(寛政四)この年、日本の東岸、太平洋を横ぎってゆくアメリカ帆船は二十五隻。
一七九三(寛政五)九月 良永『太陽窮理了解』訳述を終える。
一七九三(寛政五)九月 イギリス・ブラフトン大尉、日本沿岸測量を遂行、暴風の中を津軽海峡に達し、北上して蝦夷地の絵鞆(室蘭)に入港投錨。太平洋沿岸を南下、マカオへ着く。
一七九四(寛政六)二代仁太夫、本木(三世)良永没、享年六十。(速水『哲学年表』)
一七九四(寛政六)「大通詞本木仁太夫死し子元吉つぐ、小通詞なり、庄左衛門とあらため正栄と名乗る」(洋学年表)庄左衛門、二十七歳。
一七九七(寛政九)ブラフトン大尉、再びマカオを出発、東シナ海を東上。台湾海峡を通過して沖縄島に達し、再び太平洋岸にぬけて、日本本土に近接、江戸湾などもたしかめて夏の終わりに絵鞆へ入港。
一七九八(寛政九)露米会社の株券、ヨーロッパにおいて三十五割方騰貴。
一七九八(寛政十)イギリス、オランダ艦隊を打ちたおしてオランダ東インド会社の根拠地ジャワを陥しいれる。
一八〇二 レザノフ、クロンシュタットを発航。
一八〇四(文化元)七月 ロシア、第二回遣日使節国務顧問兼侍従レザノフ、二軍艦で長崎に到着。半年後、長崎を退帆、いったんペトロポウロスクまでひきあげ、解散すると、使節から早変わりして露米会社重役となって、単身アラスカへ立つ。
一八〇四〜一八三〇(文化〜文政)この頃から英船、魯船の来航が頻繁となる。
一八〇五(文化二)七月 レザノフ、ロシア本国政府へ上奏「日本遠征」の計画をあかす。
一八〇六(文化三)十月 フォストフ、ダヴィドフ、露米会社軍艦二隻にてカラフト大泊に兵三十名をもって上陸、松前運上屋を襲撃、日本人四名を捕虜とする。
一八〇七(文化四)五月 フォストフ、千島列島を南下、エトロフ島に上陸して松前会所を襲撃して日本人五名を捕らえる。松前藩は南部、津軽両藩兵二百数十をもって応戦したが敗戦、松前藩吏・戸田又太夫は責を負うて切腹。フォストフ事件。
一八〇八(文化五)英船、フェートン号事件。
一八〇九(文化六)来航オランダ人ヤン・コック・プロムホムその国語に通ずるによってわが訳家はじめて彼言詞習得するを得たり(イギリス言語集成)
一八一〇(文化九)フォストフら投獄。
一八一一(文化八)海軍少佐ゴローニン、訓令によって、千島および沿海州海岸の測量中、六月エトロフにつき薪水補給をもとめたが、彼以下六名が捕らえられる。松前に護送、文化十年九月まで獄中。ゴローニン事件。(日本幽囚記)
一八一一(文化八)二月 庄左衛門、楢林、吉雄『アンゲリア興学小筌』をつくる。
一八一一(文化八)九月 庄左衛門、楢林、吉雄『イギリス言語集成』などをつくる。
一八一二(文化九)八月 北方千島の航路を開拓しつつあった高田屋嘉兵衛の観世丸、ゴローニンの同僚リコルヅ少佐のデイヤナ号に抑留されカムチャツカへ連行。
一八一三(文化十)四月 高田屋嘉兵衛、オホーツク長官代理のリコルヅとともに国後島へ帰還。リコルヅはフォストフ事件の謝罪始末書を提出し、ゴローニン以下は釈放。
一八一三(文化十)リコルヅと松前奉行・服部備後守との会見。ロシア側の希望は江戸へ申し送られ、回答は翌年エトロフにおいてなすべきことが約される。
一八一三(文化十)四世庄左衛門正栄、没。享年三十六。
一八一四(文化十一)日、露、蘭の三国語に認められた文書を松前藩高橋三平が携行、エトロフ、シャナにおもむくと、ロシアの船は会見の場所に来なかった。
一八一四(文化十一)オランダ、英国のために降伏。英国は蘭人で前任館長カツサを表面にたてる。蘭館長ヘンドリック・ヅーフ、日本の通詞たちをダシにして大芝居をうつ。(日本回想録)
一八一七(文化十)? この年まで庄左衛門健在の記録あり。ヅーフ、日本滞留十九年でバタビアへ引きあげる。(日本回想録)
一八一八(文政元)松前藩・飯田五郎作、エトロフ海岸でロシア官憲の文書を偶然ひろう。
一八一八(文政元)五月 英国商船ブラザース号(小帆船)、江戸湾にあらわれる。おそらく江戸湾に乗りこんだ最初の船。船長ゴルドンから馬場佐十郎へ種痘具一式を贈られるものの受領をこばまれる。
一八一八〜一八四四(文政〜天保)アメリカ、イギリスの捕鯨船で日本海岸に漂着するもの「数知れず」。
一八一九(文政二)本木四世庄左衛門、名村八右衛門とともに総通詞教授を命ぜられる。のち大通詞に進む。
一八二〇(文政三)頃 食糧薪水をもとめて、房総方面に上陸する捕鯨船が頻繁だったと記録あり。
一八二二(文政五)庄左衛門(長崎大光寺、享年五十六)とある。(洋学年表)
一八二二(文政五)イギリス捕鯨船、江戸湾に一隻来航。
一八二二(文政五)アメリカ政府、議会において自国の捕鯨会社に対して警告を発する決議。
一八二三(文政六)木村嘉平、生まれる。
一八二三(文政六)シーボルト(二十六歳)出島の蘭館に館付医員として来朝。
一八二三(文政六)イギリス捕鯨船、常陸国沖合いに六、七隻来航。
一八二四(文政七)昌造、長崎の新大工町に生まれる。
一八二四(文政七)高野長英(二十一歳)水沢から長崎に来、シーボルトに弟子入りする。
一八二四(文政七)海峡植民地シンガポールが建設される。
一八二四(文政七)イギリス捕鯨船、常陸国沖合いに二隻、薩摩海岸に一隻来航。交易して薪水をえられず、ボート四隻で大津浜に上陸、十六名が武装。水戸藩吏に捕らえられたのち釈放。一時は沖合いに待機していた本船から大砲をうちかけてくる。薩摩海岸でも、畑にいる牛をもとめたが、拒絶されるとボート三隻に二十名が武装上陸、本船から援護砲撃。薩藩吏応戦、一つの遺棄死体をのこして退散。
一八二五(文政八)長崎の郊外、鳴滝に校舎が建てられる。
一八二五(文政八)「異国船打払令」将軍家斉。昌造二歳。
一八二五(文政八)イギリス捕鯨船、南部藩沿岸に三隻来航。
一八二六(文政九)イギリス捕鯨船、上総国望陀沖に一隻来航。
一八二八 アメリカ大陸にはじめて汽車がはしる。昌造五歳。
一八三〇〜一八四四(天保年間)『長崎之図』
一八三一(天保二)イギリス捕鯨船、蝦夷絵鞆沖に一隻来航。
一八三二(天保三)川本幸民、藩の侍医にあげられる。
一八三四(天保五)昌造(十一歳)本木昌左衛門の養子となる。
一八三四 アメリカのデヴィッド・ブルース、ブルース式カスチングを発明。ヤコビ、電機モーターを発明。
一八三五 モールスの電信機が完成。コルト式拳銃が発明。
一八三七(天保八)小通詞・名村元次郎、サフラン二十五本をどうかしたというかどで獄門にのぼされる。
一八三七(天保八)アメリカ、モリソン号事件。漂民の護送のため長崎港へよらず江戸湾へむかうが、小田原藩および川越藩の砲火をあびて退去。再び薩摩国児水村近くに投錨したが、ここでも砲火をあびて一発は命中、マカオへ帰航。
一八三八(天保九)老中筆頭・水野越前守、長崎奉行を通じてオランダ商館長からの報告によってモリソン号の目的を知る。処置を評定所へ諮問。評定所内部から田原藩家老・渡辺崋山へもれる。蛮社遭厄事件へ。
一八三八 はじめて大西洋に蒸汽船がはしる。
一八三九(天保十)蛮社遭厄事件。高野長英、渡辺崋山捕らえられる。昌造十五歳。
一八四一(天保十二)福地源一郎、長崎に生まれる。
一八四一(天保十二)渡辺崋山、自殺。昌造十七歳。
一八四二(天保十三)「異国船打払令改正」将軍家斉退職の直後。昌造十九歳。
一八四三(天保十三)アヘン戦争を通じて香港島に砲台が築かれる。
一八四四(弘化元)六月 オランダ軍艦「バレムバン」、日本ではじめてみる蒸汽軍艦が長崎にあらわれる。オランダ国王の「開国勧告」の書簡を捧持。長崎停泊五ヶ月の後、何ら得るところなく退散。
一八四四(弘化元)十月 蒸汽軍艦バレムバン、長崎渡来のとき、昌造(二十一歳)小通詞見習。
一八四六(弘化三)フランス軍艦「クレオパトラ」が長崎港外に訪れて、日本への交誼をもとめる。
一八四八(嘉永元)「昌造名永久——庄左衛門の孫なり」(洋学年表)昌造の養父昌左衛門は欠落。
一八四八(嘉永元)本木昌造、外国から鉛活字を購入して近代活字の研究にかかる。
一八四八(嘉永元)川本幸民、はじめて写真鏡用法を唱え出しまたマッチの功用を説く。
一八四八〜一八五四(嘉永年間)川本幸民、電胎法を講述。
一八四九(嘉永二)種痘法の痘苗渡来。
一八五〇(嘉永三)高野長英、自刃。昌造二十七歳。
一八五一(嘉永四)川本幸民『西洋奇器述』など著。
一八五一(嘉永四)本木昌造、活字字母をつくり出す。
一八五二(嘉永五)オランダ人ファン・デン・ベルグ『理学原始』著。
一八五二(嘉永六)アメリカの黒船四隻が浦賀へ来る。
一八五三(嘉永六)日本へ黒船到来。
一八五四〜一八六〇(安政年間)木村嘉平、活字字母の製作を島津斉彬に頼まれる。(印刷大観)
一八五四(安政元)島津斉彬かつて川本幸民の記述『遠西奇器述』を読み西洋造船法を知りたれば その主九鬼侯に請い禄仕せしめたり。(洋学年表)
一八五五(安政二)ごろ 江戸在住蘭学者たち、杉田成卿、箕作阮甫、杉田玄瑞、宇田川興斎、木村軍太郎、大鳥圭介、松本弘庵など。(勝海舟手記)
一八五五(安政二)川路・プーチャチンによる日露修好条約が結ばれる。
一八五六(安政三)四月 川本幸民、蕃書調所の教授手伝出役。
一八五六〜七(安政三〜四)長崎奉行所、オランダ文法書「成句篇」「単語篇」刊。
一八五七(安政四)十二月 川本幸民、蕃書調所の教授職並に進む。
一八五八(安政五)福地源一郎(十八歳)軍艦頭取・矢田堀景蔵について咸臨丸に乗り組む。
一八五八(安政五)杉田成卿「西洋活字の料剤」『万宝玉手箱』刊。
一八五八(安政五)秋山練造の父、蘭書『済生三方付医戒』を翻刻。フーフェランドの写本を原稿として鉛活字で印刷。
一八五八(安政五)「昔時本邦創成の和欧活字製作略伝」によれば、嘉平の活字が完成の緒についたくらいの時。
一八五八(安政五)種痘館ができる。西洋医学所による種痘法が実施。
一八五九(安政六)七月 川本幸民、蕃書調所の教授職となる。
一八六〇(万延元)福地源一郎(二十歳)竹内下野守にしたがって欧州へ使する。
一八六〇(万延元)木村摂津守、勝麟太郎一行、アメリカへ日本使節として行く。日誌あり。
一八六二(文久二)本木昌造『秘事新書』著。
一八六二(文久二)川本幸民、徴出されて幕士になる。
一八六四(元治元)木村嘉平、嘉永元年(一八四八)より活字字母を完成。
一八六六(慶応二)頃 『長崎之図』
一八六七(慶応三)高橋新吉、上海に渡る。
一八六九(明治二)米人技師ガンブル、上海から帰国の途次、長崎に寄港。
一八七〇(明治三)一月 高橋新吉、上海に再渡し『サツマ辞書』三百部完成。
一八七〇 昌造ら、活字を移植。
一八七一(明治四)本木昌造『新塾余談』第三篇、上下二冊発行。
一八七一(明治四)夏 平野富二、昌造の活字を船につんで東京へ売りさばきに出る。
一八九一(明治二十四)福地源一郎「本木昌造、平野富二詳伝」『印刷雑誌』。
一九一〇(明治四十三)徳永直、十二歳。
一九二七(昭和二)『新旧時代』二月号。明治文化研究会発行。
一九四〇(昭和十五)五月 上野美術館「日本文化史展」朝日新聞社主催。
一九四一(昭和十六)夏 H氏、徳永直を訪ねる。
一九四二(昭和十七)春 徳永直、日本橋『印刷雑誌』社を訪ねる。
※ 本文より、年次のわかる部分を主に書き出し、年数、記述順に配列。
※ オリジナルに和暦(西暦)の表記があるばあいは、そのまま使用。和暦優先に配列。齟齬は解消せず。
※ 皇紀と西暦の差を六六〇年とすると、本文中「皇紀二二〇〇年」は西暦一五四〇年をさす。一四四五年から百五十年は「一五九五年」。元亀は「1570〜1573」、天正は「1573〜1591」。
公開:2009.3.1
更新:2009.3.23
しだ目くそ鼻くそ/PoorBook G3'99
翻訳・朗読・転載は自由です。
カウンタ: -
- 裏表紙・背の画像を入れかえるのを忘れていました。「月末週号・無料」に訂正し、ファイルを本日(2009.3.2)付けで第二刷に差しかえます。あ、いま日付、かわりました。 -- 目くそ鼻くそ (2009-03-03 00:01:49)
- おっと、1000カウント初突破。感謝。 -- しだ (2009-03-30 23:44:15)
- あれ? このページだけ著者名リストからはじかれる。「徳永 直 とくなが すなお」で間違いないはずなのに。なぜ? -- しだ (2011-07-25 15:03:35)
最終更新:2011年07月25日 15:03