森 林太郎 もり りんたろう
1862-1922(文久2.1.19-大正11.7.9)
森鴎外。作家。名は林太郎。別号、観潮楼主人など。石見(島根県)津和野生れ。東大医科出身。軍医となり、ヨーロッパ留学。陸軍軍医総監・帝室博物館長。文芸に造詣深く、「しからみ草紙」を創刊。傍ら西欧文学の紹介・翻訳、創作・批評を行い、明治文壇の重鎮。主な作品は「舞姫」「雁」「阿部一族」「渋江抽斎」「高瀬舟」、翻訳は「於母影」「即興詩人」「ファウスト」など。


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店)。


*底本
底本:『鴎外全集 第三巻』岩波書店
   1972(昭和47)年1月22日発行
初出:『能久親王事蹟』東京偕行社内棠陰會編纂、春陽堂
   編集兼発行人代表者 森林太郎
   1908(明治41)6月29日刊行
NDC 分類:288(伝記/系譜.家史.皇室)
http://yozora.kazumi386.org/2/8/ndc288.html


もくじ 能久親王事跡(五)

ミルクティー*現代表記版
能久親王事跡(五) 森 林太郎

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能久親王事蹟(五) 森 林太郎

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能久親王事跡(五)

森 林太郎


 五日、師団の参謀河村秀一、前哨を巡視せしに、水返脚の民たずね来て、敵兵の台北たいほくにありて掠奪りゃくだつをほしいままにし、水返脚にも出没して良民をくるしむるをつげ、軍を進められんことをいぬ。秀一、返り報じて、まず歩兵第一連隊を台北に派遣することとなしつ。常備艦隊は基隆キールン港口にて水雷十四個を発見し、爆破しつ。薩摩丸など港に入りぬ。この日、歩兵第一連隊第六中隊の中尉・田中又三郎ら基隆寺にありて、鹵獲ろかくせし弾薬数千箱をまもりたるを、連隊の一軍曹、役夫百余をひきいて受け取りに来ぬ。授受の時、地雷爆発して又三郎以下士卒二十一名即死し、下士卒二十余名、役夫百余名負傷しつ。寺内に潜匿せんとくして導火せしシナ人混参金ら二人はばくにつきぬ。人みな、宮のこの寺院に入らせたまわざりしを喜びぬ。
 六日、樺山かばやま総督上陸しぬれば、宮、いてわせたまう。師団兵站監部、上陸しはじむ。第一連隊第一大隊は暖暖街を発して水返脚に至り、連隊長は二中隊をひきいて七肚に至りぬ。午後五時ごろ、台北に寄留きりゅうせる外人の総代三人 英商一人、米国 HERALDヘラルド 新聞記者一人、独商一人。水返脚の陣に至りてうていわく。台北をば今、大尉のひきいたるイギリス水兵三十人、中尉のひきいたるドイツ水兵二十五名、警戒せり。敵兵約五千は淡水たんすいに逃れ去り、余は新竹しんちくに向かいてはしりぬ。糧食のごときは、某ら周旋しゅうせんして欠乏あらせじ。願わくは速やかに軍を進めさせ給えという。たまたま、第一大隊の道路を偵察せしめんとて、錫口に派遣せし士官帰りて、錫口の民、わが軍の至るを待つと告ぐ。連隊長、前進に決す。午後七時、第一大隊 二中隊闕。水返脚を発す。途中、しばしば銃声を聞きしかど、そは土人の敗兵にそなうるにて、わが兵に抗抵こうていするにあらざりき。
 七日、午前一時半、第一大隊、台北城廓の外に至り、練兵場に露営す。五時、進みて北門に向かう。敵門をとざして射撃す。大隊は一部をして門外を警衛せしめ、主力をもて城壁にはんじしめんとす。一女子ありて、弾をおかしてはしごを壁に架す。わが兵、壁にのぼりて射撃す。敵、退く。大隊、城門をひらいて入り、敵を掃蕩そうとうして諸官衙かんがを占領し、居留地および停車場を警衛す。敵の数は約百名なりき。死者数人をのこして淡水たんすいおよび新竹しんちくに向かいてはしりぬ。宮は給養を顧慮して、師団 じつは混成旅団。を二梯団ていだんに分かち、第一旅団長に第一団をて台北に入らしめ、第二団をば基隆キールンに留め給う。この日、騎兵大隊、基隆に至りて上陸す。
 八日、第一梯団第一連隊第二大隊を淡水たんすいに進む。大隊は江頭に宿せり。新たに川村かわむら旅団長の指揮下に入りし騎兵第二小隊 長少尉、坊城ぼうじょう俊延。偵察のために淡水におもむき、砲台を占領して、軍艦浪速なにわと連絡す。基隆にいます宮は、病院をわせ給う。
 九日、第二大隊、淡水たんすい滬尾街に入りぬ。敵、約三十人くだる。総督府参謀福島ふくしま安正やすまさとりこを万国、河野浦の両船および英船某号に分かち載せて送還す。この日、洩底および三貂大嶺の東方なる地に留めたりし人馬・材料、おおむね基隆に集まりぬ。
 十日、第二梯団、基隆より前進す。宮は午前六時四十分、基隆を発せさせ給い、午後二時、水返脚に着かせ給う。御宿営をば村長蘇樹林が家に定めさせたまいぬ。この日、基隆・台北間の汽車の交通を開始し、午後、運転せしむ。この間、道路しくして、鉄道ならでは兵を進むべからず。されば兵は午前、鉄道を歩みて進み、午後は汽車もて材料を運搬しつ。
 十一日、第二梯団および師団司令部、台北に入る。宮は午前七時、水辺脚を発せさせ給い、午後一時、台北なる巡撫布政使庁に入らせ給う。師団はこれより新竹しんちくに前進せざるべからず。されど運輸の状況はいまだこれを許さず。総督の命令もまた、いまだ発せられず。よりて歩兵第二連隊第四中隊に参謀河村秀一をそえて、新竹方向を偵察せしめ、また騎兵一小隊 中尉田中たなか国重くにしげ、引率す。に大方向を偵察せしめたまう。これより先、大には清国の将校余清勝、駐屯して土蕃どばんを鎮圧せりしが、書を総督にたてまつりて処置をいぬ。

 十二日、両偵察隊は桃仔園に至りぬ。
 十三日、新竹偵察隊、中歴ちゅうれきに至る。大偵察隊は大姑陥に入り、余清勝をひしいて台北に返る。
 十四日、総督、台北に入る。宮、将校をひきいて停車場に迎えさせ給う。新竹偵察隊、大湖ダイコ口に至る。第一連隊第三中隊、海山かいざん口より進みて、偵察隊の後援となる。
 十五日、新竹偵察隊は将校斥候を派して新竹を偵察し、下士斥候を派して鳳山渓を偵察せしむ。後援隊、中歴に至る。淡水たんすい・台北間の水路兵站、開始せらる。
 十六日、第二連隊第一大隊長に一中隊をひきいて桃仔園に進まんことを令し、第一連隊第三中隊をその指揮下に属せらる。新竹偵察隊、中歴に返りて、後援隊とともに宿営す。当時、新竹に呉光亮および楊某の兵約二千あり。新車付近に土兵へい数百あり。宜蘭ギラン付近に敵兵の散じて掠奪を事とせるあり。台南付近には、はじめ台湾大統領と称する唐某ありしが、ひげをそり、姿を変じて厦門アモイに逃れ、台南の道台知県もまた厦門に逃れ、劉永福りゅうえいふく、留まりて清兵を指揮せり。この日、宮の家従高野盛三郎、東京より至り、家扶かふ心得を命ぜらる。家従心得山本喜勢治、基隆キールンより至る。
 十七日、午後二時、総督閲兵式をおこなう。四時、総督府開庁式をおこなう。宮ならびにこれにhのぞませ給う。この日、小松宮依仁よりひと親王、山階宮菊麿王きくまろおう、来訪せさせ給う。
 十八日、歩兵第二連隊 第二大隊本部ならび三中隊欠。騎兵一小隊 隊長中尉、高橋利作。山砲兵一中隊、砲四門。機関砲第四隊 砲四門○別に衛生隊半部、第一糧食縦列あり。をもて新竹支隊となし、歩兵第二連隊長、阪井さかい重季しげすえを司令官たらしめ、新竹を占領し、台北・新竹間の鉄道および電信線を保護し、前方道路の状況を偵察すべきことを命ぜさせ給う。
 十九日、新竹支隊、台北を発して桃仔園に至る。楫取道明、宮の御許おんもとにまいりぬ。
 二十日、新竹支隊、中歴に至る。宮、高屋宗繁に帰京を命ぜさせ給う。
 二十一日、新竹支隊は楊梅、崩坡、大湖口に戦闘して、大湖口西南高地に露営す。第二次輸送船ようやく基隆キールンに至り、指揮官、陸軍少将山根やまね信成のぶなり、上陸す。高屋宗繁、帰京の途につく。西郷隆凖 式部官。中村純九郎 参事官心得。伺候しこうす。
 二十二日、新竹支隊は新車および新竹付近に戦闘して、午前十一時五十二分、新竹を占領しつ。山根少将、伺候す。
 二十三日、歩兵第一連隊の三中隊 第一・第三・第六。騎兵一小隊、工兵第一中隊 一小隊闕。をもて台北・新竹間連絡支隊となし、騎兵中佐、渋谷しぶや在明ざいめいをして司令官たらしめさせ給う。こは沿道の土人、大部隊の過ぐるに会いては抗抵こうていすることなく、小部隊を見るごとに襲撃し、新竹支隊の消息、なかごろゆるに至りしがためなり。
 二十四日、渋谷支隊、台北を発して桃仔園に至る。宮は第二次輸送船の載せ来たれる歩兵第二旅団、騎・砲・工・輜重兵しちょうへいの半部をもて近衛混成旅団となし、山根少将をしてひきいしめ、これに水路、澎湖島ほうとう 澎湖島はこれより先、三月二十三日、わが混成支隊、占領したりき。に集合して、台南および鳳山ほうざんを占領せんことをはかるべきよしを命ぜさせ給い、同時に参謀長鮫島さめじま重雄しげおに、この旅団に同伴すべきことを訓令せさせ給う。これより先、安平アンピンにある英国領事はあるいは淡水たんすい領事館に電報し、あるいは東京公使館に電報していわく。劉永福りゅうえいふく黒旗兵こっきへい五千を擁して安平にり、居留民に退去を命ず。英国水兵百五十名は現に居留地を警衛すといえども、勢い久しきを支えがたし。願わくは速やかに軍を進められよと。総督これを聞きて、十七日、近衛師団に命ずるに、その第二次輸送部隊をして南征せしむることをもてしつ。師団命令はこれにもとづきて混成旅団に下りしなり。この日、台北・新竹間の逓騎ていき第三小隊長、吉田宗吾 特務曹長。新車において敵におそわれ、部下一人とともに戦死す。
 二十五日、渋谷支隊は頭亭渓に戦いて敵将潘良を殺し、大湖口に至る。この日、歩兵第一連隊第一大隊に安平鎮 中の西南約六吉米。を攻撃せんことを命ぜさせ給う。安平鎮には敵将黄娘盛の家ありて、黄は胡嘉猷らと共にここにれり。
 二十六日、渋谷支隊、新竹に至りて、新竹支隊と連絡す。
 二十七日、歩兵第一連隊第一大隊の二中隊 第二、第三中隊。中歴に集合して、安平鎮を攻撃せんとす。鮫島参謀長、基隆におもむく。宮、恩地おんち轍に帰京を命ぜさせ給う。轍、台北を発す。
 二十八日、歩兵第一連隊第一大隊、安平鎮の敵を攻撃して中歴にかえる。
 二十九日、渋谷支隊、台北に帰る。
 七月一日、歩兵第一連隊第一大隊の二中隊・砲兵一中隊・工兵一中隊はふたたび安平鎮を攻撃して中歴にかえる。基隆にては部隊の乗船すべきもの乗船し始めしに、夜、総督府、急に第二次輸送部隊の水路南に行くことを止め、これに基隆に上陸し、台北に集合すべきことを令しつ。宮、ただちに基隆に電報せしめ給う。総督府のこの命令を発せしは、第二次輸送部隊の来航遅延して、季節ようやく航海によろしからざるに至りしこと、舟中の水を給するにはさらに琉球に回航せざるべからざること、台湾北部、おだやかならざることなどにもとづき、まず新竹以北の地域を平定して、後顧こうこうれいなからしめ、さておもむろに南征せんとははかれるなりき。
 二日、安平鎮の敵、のがれ去りしをもて、わが兵ただちにこれを占領しつ。
 三日、前に基隆につかわされし参謀長鮫島さめじま重雄しげお、帰り来ぬ。
 八日、第二次に輸送せられし部隊、ほとんど全く台北付近の地に集合しおわりぬ。
 十日、敵 主力は尖筆山付近にあり。わが新竹支隊をおそいしかども、ただちに撃退せられぬ。宮は第二旅団長山根やまね信成のぶなりをして、混成旅団をひきいて、本道の南側に沿いて新竹に進ましめ、みずから爾余じよの兵をひきいて、本道を新竹に向かわんとおぼし、山根旅団長に命令せさせ給う。その要領にいわく。支隊は十二日、台北を発し、三道に分かれ進むべし。その一は大川の南方、察加沿、大をへて進み、その二は大川の左岸に沿いて進み、その三は兵站線路をへて進み、第三日に龍潭坡に至りて合一し、苗栗びょうりつに通ずる道の、新竹と斉頭なる所に達して後命を待つべしとなり。こは三角涌、大付近の民、おもてに好意をュいて、ひそかに禍心かしんをなつけるあとようやく明なるに至りぬれば、そを撃ち平げまさんとてなり。山根支隊は歩兵第三連隊、騎兵一小隊、砲兵一中隊、第四。工兵一中隊 衛生隊半部。よりなる。別に歩兵第一連隊の一中隊 第七。を大守備隊となし、支隊と同行せしめたまう。こは大を平定せんとき、兵力を分かちて守備に任ぜしめんことの不利なるをおもんばからせ給えばなり。
 十一日、山根支隊の一部にして、大をへて進むべき、歩兵第三連隊第二大隊、第五・第六、および第八中隊。工兵一小隊よりなれる、いわゆる坊城ぼうじょう支隊は、台北兵站司令部にはかりて、一隊の運糧船を編成し、夕に台北を発せしめつ。運糧船はおよそ十八隻に、米百五十俵、一に百七十俵に作る。梅干うめぼし三十たるを分かちせ、歩兵第三連隊第六中隊第一小隊の下士卒三十五人 一に三十二人に作る。をして役夫舟人を護衛せしむ。その指揮官は特務曹長、桜井茂夫なりき。
 十二日、山根支隊ことごとく台北を発しつ。その本隊は歩兵第三連隊第一大隊・騎兵一小隊 隊長中尉、牧野正臣。砲兵一中隊、第四。工兵一中隊 衛生隊半部。よりなれるを、少将山根やまね信成のぶなりひきいて、鉄道線路に沿いて進み、事なくして桃仔園に達しつ。大べき坊城支隊は、午後一時四十分、事なくして三角涌に至り、運糧船より糧を受け、三角涌付近に露営しつ。中央の道路を進むべき歩兵第三連隊第七中隊は、午後二時、二甲九庄付近に至りて露営したりしに、敵のおそい来たるにあいて、戦をまじえつ。大守備隊歩兵第一連隊第七中隊は、坊城支隊に跟随こんずいして進み、ともに三角涌付近に露営しつ。
 十三日、山根支隊の本隊は中櫪に至りて、龍潭坡付近の敵と対峙たいじす。安平鎮より引き退きし黄娘盛・胡嘉猷ら、皆、この方面にあり。坊城支隊および大守備隊は、午前四時三十分、三角涌を発し、進むこと約八吉米にして、支隊の前衛大の東北方約四吉米なる山腹に達し、その後衛後方なる山の鞍部にあるとき、敵三千余、四方より起こりて包囲しつ。坊城支隊および守備隊は苦戦して日をえにき。これにともなえる運糧船は、三角涌付近にて敵におそわれ、糧をばことごとくうばわれぬ。守衛兵は桜井特務曹長以下、みな戦死して、兵卒のまぬがれて桃仔園に至りしもの三人、海山かいざん口に向かいしもの一人なりき。中央の道路を進みし歩兵第三連隊第七中隊は、前夜より敵に応戦したりしが、午後、二甲九庄の西方一吉米ばかりの地に集合し、これより潜行して桃仔園に至ることとしつ。この日また、運糧隊ありて、打類坑 海山かいざん口をへだたること六吉米ばかり。付近をよぎりしを、敵約六百人、急に起こりて襲撃し、守衛兵二十九人を殺して糧をうばいつ。宮、台北におわしてこしし、海山かいざん口にある歩兵第四連隊 内藤正明これに長たり。に命じてこれを討ち退けしめたまう。連隊の第二大隊この敵を攻撃して夜に入りぬ。
 十四日、山根支隊の本隊は未明に中櫪を発して、龍潭坡付近の敵を攻撃せんとしつ。第三連隊第四中隊をば、右側衛として銅羅騫 一に銅羅圏に作る。に向かわしむ。銅羅騫は胡嘉猷が家のある所なり。午前七時三十分、支隊本隊の前衛 第三連隊第三中隊。龍潭坡に達して敵と衝突し、これより戦闘、午後四時に至る。黄娘盛・胡嘉猷ら、皆これに死す。右側衛は午前、銅羅騫を占領しつ。支隊本隊は夜、龍潭坡付近に露営せり。坊城ぼうじょう支隊および大守備隊は、この日もまた苦戦して、毎卒平均五十発の弾薬をあますに至り、大付近に露営しつ。これにともなえる運糧船の守衛兵一人は、この日、海山かいざん口に達することを得て、海山口より台北にゆきぬ。中央の道路を進みし第三連隊第七中隊は、この日、桃仔園に達することを得つ。打類坑付近の敵に向かえる歩兵第四連隊第二大隊は、この日、攻撃を続けたりき。この日また、台北より偵察に派遣せられし騎兵一小隊 少尉、浮田家雄ひきいたり。ありしに、河水に阻げられ、目的地に達することあたわずして、暮に至りむなしく帰りぬ。この日また、台北に流言あり。敵は夜半大挙して台北をおそわんとすといえり。宮は武装して夜をとおさせ給う。当時、宮の掌握しょうあくせさせ給える兵は、わずかに歩兵第一連隊の三中隊半ありしのみなりき。
 十五日、山根支隊本隊は、坊城ぼうじょう支隊と連絡せんと欲して、偵察隊 中尉、菊池きくち慎之助しんのすけのひきいる一中隊。を出ししかどはたさざりき。坊城支隊および大守備隊はなお苦戦を続けたるが、この日、携帯口糧こうりょうほとんどつきて、もみ三分・水七分のかゆを食うに至りぬ。支隊は勇士四人を選びて密使となし、支隊本隊と師団司令部とに消息を通ぜんことをはかりぬ。支隊本隊のあるべき龍潭坡に向かいしは、第三連隊第八中隊の上等兵白井安蔵 一作、安吉。と同じ連隊の第五中隊の一等卒、三宅保太郎となりき。中櫪をへて、台北なる師団司令部にゆかんとせしは、第三連隊第六中隊の軍曹小賀友左衛門と、大守備隊たる第一連隊第七中隊の上等兵、横田安治となりき。四人はみな土人によそおいて、夜、わが陣をけ出でぬ。この日また、近衛騎兵大隊第二中隊第三小隊の准士官以下二十二名 指揮官特務曹長、山本好道。は、三角涌付近を偵察せんことを命ぜられ、正午、台北を発して板橋ばんきょう頭をへて進みしに、敵に包囲せられて、ほとんどみな戦死しつ。その逃れて海山かいざん口に入りしものは、わずかに三人なりき。
 十六日、山根支隊は午前二時、龍潭坡を発し、銅羅騫をへて、牛欄河の敵を攻撃し、その地を占領して、九時、龍潭坡に帰りぬ。時に坊城支隊の派遣せし使者、白井安蔵至りてつぶさに窮迫きゅうはくの状を告ぐ。白井とともに出でし三宅保太郎は途にたおれぬ。山根支隊は午前十一時、また龍潭坡を発し、午後一時三十分、大河岸に至り、五時、突撃して、大を占領しつ。夜、坊城支隊の出しし歩兵第三連隊第七中隊の士卒二、三十人、やりをとり河を渡りて至りぬ。山根少将すなわち歩兵第三連隊第一中隊の士卒を派して、坊城支隊と連絡せしめき。山根少将はこの日、わずかに歩兵第四連隊を亀崙に応援すべき師団命令を受けつ。坊城支隊の台北に派せし小賀友左衛門ら、この日午前二時、中櫪に至りて、歩兵第一連隊第二中隊に会し、横田安治はさらに台北に向かいぬ。この日、三角涌付近の囲を脱せし騎兵三人、台北に至る。また桃仔園・海山かいざん口の間の逓騎哨に、騎兵一小隊 浮田少尉ひきいたり。を派せらる。
 十七日、坊城支隊は午前二時、露営地を発して、大に至り、山根支隊と会し、午後零時三十分、共に大を発して、亀崙に向かい、桃仔園をへだたること六吉米の地に至りて露営しつ。この日、総督、近衛師団に訓令して、台北・新竹しんちく間鉄道の南方なる地帯に土着せる敵を掃蕩そうとうせしめんとす。
 十八日、山根および坊城支隊、桃仔園に至りぬ。この夜、宮、三角涌付近の敵を掃蕩そうとうせんことを計画せさせ給う。
 十九日、いわゆる三角涌付近大掃蕩の師団命令、出でぬ。これに任ずべき部隊は山根支隊、内藤支隊および沢崎支隊なり。山根支隊は歩兵第三連隊本部ならびに第一大隊、歩兵第四連隊第四中隊、騎兵第二中隊の一小隊、砲兵第四中隊、臨時工兵中隊よりなる。内藤支隊は歩兵第四連隊本部ならびに第二大隊、騎兵第二中隊 二小隊闕。隊長、松浦藤三郎。砲兵第二大隊本部および第三中隊、工兵第一中隊の一小隊よりなる。沢崎支隊はのち松原支隊と称す。歩兵第二連隊第二大隊本部ならびに二中隊よりなる。この諸隊は二十一日集合して、二十二日より二十三日にいたる間に、まず三角涌を中心とせる、半径二十ないし二十四吉米の圏を画し、しだいに敵を討ち家を焼き、外より内に向かいて圏の半径を縮め、相対せる部隊の交互に連絡するに至るべしとなり。三角涌方面には敵二、三千あるごとくなりき。
 二十一日、勅使、歩兵中佐中村なかむらさとる、総督府に至る。宮、いて迎えさせ給う。
 二十二日、山根支隊は大を発し、その本隊たる歩兵第三連隊第一大隊 二中隊闕。砲兵中隊・工兵中隊、河の右岸を行き、歩兵第三連隊第一・第四中隊・騎兵一小隊・工兵半小隊のいわゆる林 第一中隊長。隊は河の左岸を行きぬ。本隊は三角涌の西南方約八吉米の地に至りて敵にあい、これを撃破し、三角涌の西南方約三吉米半の地に露営しつ。林隊はみちに当たれる敵を撃破し、二甲九庄に至りて露営しつ。内藤支隊は海山かいざん口を発し、左側隊 隊長、蔵田砲兵第二大隊長。たる歩兵第四連隊第七中隊・騎兵第二中隊・砲兵第三中隊 砲二門。に河の右岸を行かしめ、本隊たる歩兵第四連隊第五、第六および第八中隊、砲兵および工兵は右方なる山麓を行き、ならびに敵前に露営しつ。松原支隊は鮫島参謀長のひきいたる砲兵第一中隊とともに、台北を発し、板橋頭の西南方約一吉米半の山上に至りて露営しつ。台北にありし騎兵全部は枋寮ほうりょう街付近におもむき、三角涌付近を警戒しつ。宮は午前八時五十分、台北西門の廓壁の上に登らせ給いて、観戦せさせ給いぬ。
 二十三日、山根支隊本隊は当面の敵を撃破して、三角涌に至り、午後二時すぎ、一中隊を横渓口方面に派して、松原支隊に連絡せしめき。林隊は二甲九庄北方高地の敵を撃破し、午後二時、本隊に連絡し、夕に内藤支隊に連絡しつ。松原支隊は土城どじょう村付近の敵を撃破して、ここに露営したりしに、午後八時、山根支隊の連絡中隊の至るに会いぬ。三支隊は三角涌付近に夜を徹しつ。
 二十四日、山根支隊三角涌を焼夷しょういし、三支隊各前の陣地に帰りぬ。この掃蕩そうとうの間、道路みな狭隘きょうあい険阻けんそにして、糧食を運ぶによろしからざりしかば、諸隊多く甘藷さつまいもを掘りてかてててき。敵は多くいわゆる喀家族にして、性質もっとも獰悪どうあくなりき。二日間に遺棄せられたりし敵のしかばねは四百を下らざりき。
 二十五日、午前零時三十分、敵、新竹しんちくの西門をおそう。歩兵第二連隊第三中隊これに応戦し、天、くるにおよびて、大佐阪井さかい重季しげすえみずから戦を指揮し、午前八時三十分、敵を撃退しつ。この日、勅使、台北を発す。宮、いて送らせ給う。
 二十七日、師団は新竹方面に向かいて発せんとし、川村少将は阪井支隊を指揮することを命ぜられぬ。龍潭坡付近の地は、山根支隊の去りてより、また敵にられたり。その主なるものは、簡玉和・林木生・王尖頭らのひきいたるいわゆる管帯忠字正中営義民、約五、六百なりき。山根支隊はまず再びこれをたんとす。夕に総督、うたげを設けて宮の南行を送りまつりぬ。この日、宮は兵站監部および野戦病院をわせ給いぬ。

 二十九日、午前五時、宮、台北を発せさせ給い、午後三時十五分、桃仔園に至らせ給い、林某の家に宿らせ給う。この夜、軽き下利症にかからせ給う。
 三十日、午前七時四十分、宮、桃仔園を発せさせ給い、午時、中櫪に至らせ給い、寺院に宿らせ給う。山根支隊は大河の左岸に集合しつ。新たに歩兵二中隊、砲兵一中隊、騎兵一分隊もて松原支隊を編成し、山根支隊をたすけしめらる。内藤支隊は抗抵こうていにあうことなく、桃仔園より中櫪に至り、松原支隊の編成せらるると同時に解散せられぬ。
 三十一日、午後二時三十分、宮、中櫪を発せさせ給い、三時二十分、汽車に乗らせ給う。五時三十分、汽車大湖口をへて、六時十分、新竹しんちくに至る。宮はきょうに乗りて兵站司令部に入らせ給いぬ。山根支隊は午前四時三十分、大を発し、松原支隊と策応して、龍潭坡の西北方なる高地の一部を占領し、午後三時、銅羅騫付近に至り、牛欄河高地の敵に対して露営しつ。
 八月一日、山根支隊は午前四時、戦をまじえて、牛欄河高地の敵を撃破し、鹹菜硼村の東北なる高地に進み、ふたたび敵を撃退し、午後五時ごろ、新埔の東三吉米の地に至りて露営す。その偵察隊 歩兵中尉、中村道明ひきいたり。新埔シンプにおいて敵に衝突す。師団司令部は大湖口にありき。
 二日、山根支隊は午前六時、露営地に集合し、ただちに新埔の敵を攻撃し、伊崎のひきいたる歩兵第四連隊第二大隊本部および二中隊の援を得て、午時、新埔に入りぬ。師団司令部は新埔街の西北なる寺院に置かれぬ。
 六日、山根支隊は午前五時四十五分、新埔を発し、九林河をさかのぼりて水尾に至り、敵にあいて撃退しつ。敵は林某 林学林また林老師と称す。ひきいし棟字副営の兵なりき。後、その遺棄せししかばねを検して、年少き女子の男装して戦死したるを見き。支隊は九林に宿りぬ。伊崎が隊はこの日、管府坑を占領しつ。
 七日、明日、枕頭山鶏卵面の前なる敵を攻撃すべき師団命令出でぬ。右翼隊は歩兵第二連隊 二中隊闕。騎兵一小隊、砲兵連隊本部ならびに第二中隊・機関砲一隊・工兵一中隊 二小隊闕。よりなり、川村少将ひきいたり。左翼隊は歩兵第四連隊 第一大隊闕。騎兵半小隊、砲兵第一大隊本部ならびに第一中隊・機関砲一隊・工兵一小隊 二分隊闕。よりなり、内藤大佐ひきいたり。山根支隊はもとのごとし。予備隊は歩兵第四連隊第一大隊の二中隊、歩兵第二連隊の一中隊・騎兵大隊、四小半隊闕。工兵大隊本部および二分隊、新竹しんちく守備隊は歩兵第二連隊第五中隊・機関砲一隊なりき。山根支隊はこの日、小戦闘をまじえつつ進みて北埔ほくふに至り、午後四時二十三分、水仙嶺を占領しつ。宮はこの日に至るまで新竹に留まらせ給いぬ。

 八日、宮は午前四時、新竹しんちくを発せさせたまう。五時二十分、左右両翼隊戦闘を開き、七時より八時にいたる間に、枕頭山鶏卵面の前なりし敵を駆逐して、その陣地を占領し、十一時、香山こうざん庄南勢山の上に至りて、敵前に露営しつ。山根支隊は水仙嶺の敵を追撃しつつ左翼隊に接近し、午後一時、左翼隊と斉頭なる位置に達しつ。この日の戦闘には艦隊の援助ありき。南勢山なる露営地は昼はげしき日をけ、夜繁き露をしのぐべき木蔭こかげだになく、くむべき谷水もあらざりければ、汚れたる稲田の水もてほしいを蒸したるを、夕餉ゆうげに宮もめさせ給いぬ。
 九日、午前五時三十分、戦闘は開かれぬ。七時、尖筆山にせまり、七時三十分これを占領しつ。宮は予備隊をひきいて、九時、尖筆山砲塁のそばなる墓地の木蔭かげに至らせ給いぬ。右翼隊は午後一時、埔仔港に至り、中港ちゅうこうに宿りぬ。宮も右翼隊に続かせ給いて、午後三時、中港に着かせ給う。左翼隊は中港と頭�との間に宿り、山根支隊は頭�に至りて宿やどりぬ。この日もまた艦隊の援助ありき。尖筆山にありし六、七千の敵は、呉湯興が部下なる邱国霖の義民兵を主とし、楊某の兵など交わりたりき。この夜、左翼隊の編成を解きて、山根少将の指揮の下に属せしめられぬ。
 十日、歩兵第一連隊 第一大隊闕。らの諸隊を台北より新竹に進む。
 十二日、苗栗びょうりつ方面の敵を攻撃すべき師団命令出でぬ。前衛は歩兵第一旅団司令部、歩兵第二連隊、第一大隊本部および三中隊闕。騎兵一小隊、砲兵連隊 第二大隊闕。工兵第一中隊 二小隊闕。よりなれるを川村少将ひきい、左側支隊は歩兵第二旅団司令部、歩兵第四連隊、第二大隊闕。騎兵一小隊および一分隊・砲兵第二大隊・臨時工兵中隊よりなれるを山根少将ひきい、本隊は新たに台北より至りし歩兵第一連隊、第一大隊闕。騎兵大隊、四小隊闕。工兵一小隊よりなれるを宮みずからひきいさせ給う。衛生隊は半部を左側隊に、半部を本隊に付せられぬ。前衛および本隊は十三日、後�付近に至り、左側支隊は乱亀山付近に至り、彼は十四日、田寮でんりょう以西の地に至り、此は田寮以東の地に至り、十五日、苗栗びょうりつを攻撃せんとす。中港を守備する部隊は、歩兵第四連隊第二大隊の二中隊、第一機関砲隊、騎兵若千にして、司令官、今井直治。後�を守備すべき部隊は、歩兵第四連隊第二大隊、二中隊闕。騎兵若干、合併機関砲隊なりき。司令官、伊崎良煕。敵は李惟義の黒旗新楚軍苗栗・通霄つうしょう大甲だいこうにあり、黎景順の義民兵大甲・彰化しょうかにあり、羅某の義民兵彰化にあり、呉湯興・梅福喜および陳某の義民兵、苗栗にありて、台湾府なる台湾防務統領劉永福りゅうえいふくが号令を聞くという。
 十三日、前衛は午前六時、中港を発し、七時十分、塩仔頭に至りて河をわたり、十時三十分、後�に達してこれを占領しつ。午後一時、敵の後�の南方一吉米の高地にれるを撃退し、ついでその東方の高地に拠れるを撃退しつ。前衛の三中隊はここに露営し、その派出せし右側隊一中隊は新港に露営しつ。宮は午前七時三十分、中港を発せさせ給い、午後一時、後�付近に至らせ給いぬ。左側支隊はこの日、頭�を発し、進みて乱亀山を占領し、苗栗びょうりつの東北方に露営しつ。宮は午後五時、後�の舎営しゃえいに着かせ給いぬ。
 十四日、前衛は午前六時三十分、後�付近を発して進みしに、苗栗の敵すでにはしりぬと聞き、西方および北方より苗栗に入り、第一旅団司令部を苗栗河の北岸なる民家に置き、左側支隊は東方より入り、第二旅団司令部を苗栗県庁に置きつ。本隊は前衛についで苗栗に入り、また後�に帰りぬ。騎兵大隊は打揶叭頭湖庄の南なる高地にありて、通霄つうしょう方向を警戒せり。宮は本隊とともに苗栗に入りて、また後�に帰らせ給いぬ。この日、歩兵第二連隊の一大隊 前田大隊。新竹しんちく・白沙�~間の守備隊とし、歩兵第四連隊第二大隊 伊崎大隊。を師団本隊とせらる。歩兵第三連隊第二大隊 坊城大隊。をば新竹に留められき。
 十五日、前衛、通霄つうしょうに至りぬ。
 十六日、宮は総督に交渉せさせ給いて、師団を前進せしむることに決せさせ給う。糧秣りょうまつの大部分をば、水路、大甲だいこうに輸送せんとす。
 十九日、師団命令を発して、山根支隊 前の左側支隊に第二大隊を闕ける歩兵第三連隊を加えて編成す。に大甲を攻撃せしめさせ給う。この日、歩兵第三連隊第二大隊、中港に至りぬ。
 二十日、午前六時、山根支隊苗栗びょうりつを発し、銅羅湾、福興ふくこう街、樟樹林正をすぎ、午後零時三十分、三叉河に至り、三叉河の西方なる高地の林間に露営しつ。川村支隊 前の前衛。の偵察隊は房裡に至りぬ。歩兵第四連隊第二大隊は苗栗びょうりつに至りぬ。歩兵第三連隊第二大隊は中港より後�に至りぬ。
 二十一日、午前六時、山根支隊、三叉河付近を発し、新店しんてん庄に至り、歩兵第三連隊第二、第三中隊を左側衛として、胡盧�~に向かわしめ、第一連隊の二中隊をして、台中たいちゅう方面を偵察せしめ、午後一時、大甲だいこうに至りぬ。川村支隊の偵察隊と歩兵第四連隊第二大隊ともまた大甲に至りぬ。この日、某蕃社の酋長の父子、後�の師団司令部に至りて、軍にしたがわんことをう。宮、これを許させ給う。
 二十二日、午前六時、宮、後�を発せさせ給う。白沙�~を過ぎさせ給うとき、酋長は子に足疾そくしつありて長途ちょうとを行くにたえずというをもて、暇をいて去りぬ。午後一時三十分、通霄つうしょうに着かせ給う。山根支隊の偵察隊、胡盧�~に至り、潭子たんしに進まんとして敵にあい、退き帰りぬ。
 二十三日、午前六時、宮、通霄を立たせ給い、午時、大甲だいこうに至らせ給う。前に水路この地に輸送せしめし糧秣りょうまつは、その舟、風に阻げられていたらず。土人について糧秣を買弁ばいべんせしめんとするに、貨物少なくして大部隊を供給するに足らざりき。山根支隊の偵察隊はふたたび進みて、胡盧�~方面の敵のすでに退きしを偵知ていちしつ。
 二十四日、宮、師団を大肚渓だいとけい付近に前進せしむることに決せさせ給う。山根支隊の牛馬頭に至れるを右縦隊とし、その偵察左側衛の胡盧�~に至れるに、歩兵第三連隊第一・第四中隊・騎兵一小隊・工兵中隊を加えて左縦隊 中岡支隊。とし、本隊を第一・第二梯隊に分かたせ給う。行進の次第は、二十五日、左縦隊を東大�~ 台中。に至らしめ、右縦隊を大肚街に至らしめ、二十六日、両縦隊および本隊第一梯隊を大肚渓だいとけい付近に至らしめ、第二梯隊を牛馬頭付近に至らしめ、二十七日、第二梯隊を大肚渓付近に至らしめんとす。しかして左右縦隊はみな山根少将の指揮に属す。前進の策決せられしとき、人々、糧秣りょうまつの給せざらんことをあやぶみしに、宮、かてなくばいもを食いて進まんのみと宣給のたまいて、人々をはげまさせ給いぬ。
 二十五日、左縦隊は午前五時三十分、胡盧�~を発し、七時五分、潭子たんしに至りて、騎兵の敵をへだたること一吉米ばかりなるを報ずるを聞き、進めば敵すでに退きにき。七時三十分、尖兵、頭家 一に頭家膺に作る。の北方三百メートルの地に達して敵にあう。縦隊じゅうたい、戦いて日暮れに至り、ここに露営しつ。右縦隊 山根支隊本隊。は牛馬頭を発して大肚街に至りぬ。敵は大肚渓の左岸にありて、テントをならべれり。新楚軍に義民をまじえて、七ないし十営ありと称す。その数、じつに五千を下らざるべし。谷の幅五百ないし千メートルにして流れすこぶる急なり。右縦隊は前哨中隊に夜に乗じて徒渉としょう点を求めしめ、上流約千五百メートルのところに浅瀬あるを偵知ていちしつ。宮はこの日、午前五時三十分、大甲だいこうを発せさせ給い、九時三十分、牛馬頭に至らせ給いぬ。
 二十六日、朝、師団命令もて、第四連隊第一・第二中隊・砲兵中隊を左縦隊に加えらる。左縦隊は午前二時、戦を始め、大隊長摺沢静夫がひきいたる部隊とともに、四時三十分、敵のれりし一家屋を爆破し、六時さらにまた二家屋を爆破しつ。午後一時、第四連隊の敵の左側背に出づるにおよびて、共に敵を撃破し、四時台中たいちゅうに入り、ついで烏日うじつ庄付近に進みぬ。東大�~をば後�より進みたる坊城大隊、守備す。宮はこの日、午前六時、牛馬頭を発せさせ給い、九時三十分、大肚街なる学林に着かせ給う。十一時、宮、�仔頭付近に出でさせ給い、大肚渓だいとけいの岸なる歩哨線を観させ給う。このあたりの地、落花生らっかせいを栽えたる畑多し。当時、衛兵たりし新海しんかい竹太郎たけたろうは、後、宮の騎馬銅像の原型を作りしとき、宮の落花生の畑を騎行せさせ給う状に擬しつ。午時、宮、ひももてえりけさせ給える望遠鏡をあげて、敵陣を望みつつ、幕僚と語らせ給うとき、敵の発せし七サンチメートルの榴弾、宮の頭上五メートルばかりの所を飛びすぎて、宮の背後二十メートルの地におちぬ。幸いにして弾は破裂せざりしかど、土砂はほとばしりて宮のはかまそそぎぬ。されど宮は意に介せさせ給わず、従容しょうようとして眼鏡を放たせ給い、幕僚をかえりみて、敵の兵数を語りつづけさせ給いぬ。幕僚、危害の宮の御身におよばんことを恐れ、宮をすすめまつりて後方三十メートルの凹地に退きぬ。午後一時、帰路につかせ給いて、ふたたび大肚街なる学林に入らせ給いぬ。
 二十七日、正午、師団命令出でぬ。その要領にいわく。師団は明二十八日、前面および八卦山の敵を攻撃せんとす。右翼隊は午前五時三十分より前面の敵を攻撃すべし。左翼隊は未明に�仔頭の上流を徒渉としょうして、右翼隊と相応じて敵を攻撃し、一部は八卦山に向かうべし。工兵大隊は�仔頭に架橋すべしとなり。軍隊区分に、右翼隊として川村少将に属せられしは、歩兵第一連隊第一大隊、二中隊闕。歩兵第二連隊、第一大隊闕。騎兵一小隊、砲兵連隊、第二大隊闕。機関砲第一および合併第四隊、工兵半小隊にて、左翼隊として山根少将に属せられしは、歩兵第三連隊、第二大隊闕。歩兵第四連隊、第二大隊闕。騎兵一小隊・砲兵第二大隊・臨時工兵中隊なりき。歩兵第一連隊第二大隊本部および六中隊は、後これに加えられぬ。本隊は歩兵第一連隊、第一大隊本部および二中隊闕。騎兵大隊、二小隊闕。工兵大隊 一中隊および半小隊闕。なりき。衛生隊は右翼隊と本隊とに分かち付けられぬ。午後十一時、左翼隊の第四連隊第一・第二・第三・第四中隊・歩兵第一連隊第七・第八中隊は、内藤大佐これをひきいて、徒渉としょう点付近の畑地に集合しつ。宮は午後四時三十分、大肚街の舎営を出でさせ給い、本隊を�仔頭付近に露営せしめ、大肚街西北端なる寺院にいこわせ給いぬ。
 二十八日、右翼隊は午前五時、砲兵および機関砲隊を大肚渓だいとけいの右岸に配置し、諸隊を�仔頭の上流に集合せしめ、牽制けんせいの準備を整えつ。これより先、左翼隊の第四連隊の四中隊・砲兵二中隊は、零時集合地を発し、三時、河をわたり、八卦山の東方、敵と右側背に向かいて、険路を進むこと約四吉米、五時三十分、砲台にせまりぬ。左翼隊本隊は、四時過ぎに河をわたり、右翼隊の前面の敵の右側背にせまりぬ。右翼隊は歩兵第二連隊を先頭とし、左翼隊につぎて河をわたり、師団本隊は、五時、露営地付近に集合し、右翼隊につぎて河をわたりぬ。六時、八卦山に向かえる左翼隊の一部は突撃に移り、左翼隊本隊の第一連隊第五中隊とともに、逐次ちくじに諸砲台を占領し、七時十分、八卦山まったくおちいりぬ。左右翼の諸部隊、皆、彰化しょうかの東北二門より進み入り、はじめ八卦山に向かえる左翼隊の一部より分派せし第四連隊の一中隊はまず南門に至りて、敵の退路をやくしつ。宮は午前五時、舎営を出でて、河岸にとどまらせ給い、八卦山のおちいるころおい河をわたらせたまい、七時二十分、騎兵大隊 隊長、渋谷しぶや在明ざいめい嘉義かぎ街道の敵を追撃せんことを命ぜさせ給い、十時、八卦山の上におわして、ふたたび臨機の諸命令を発せさせ給いぬ。この時、本隊の第一連隊第二大隊 隊長、千田貞幹。は嘉義街道の敵を追撃することを命ぜられ、右翼隊は鹿港ろくこうを占領することを命ぜられぬ。騎兵大隊は、八時、彰化しょうかを離れ、茄苳脚をへて、午後零時二十分、員林いんりん街に至り、敵を斗六とろく門以南に駆逐しつ。歩兵第一連隊第二大隊は騎兵大隊をたすけて追撃し、茄苳脚に至りぬ。右翼隊は歩兵第一連隊第一大隊らに鹿港を占領せんことを命ぜしに、この諸隊は午後二時、鹿港に至りて占領し、統領頼望雲をとりこにしつ。工兵大隊は午前七時三十分、大肚渓だいとけいに橋を架しおわんぬ。この戦闘には敵の死傷はなはだ多く、彰化しょうか城内にて埋みししかばね三百八十二を算し、追撃中殺しし敵も五百を超えたりき。宮は彰化に入らせ給いて、師団司令部を台湾府庁に置き、庁内なる敵将・黎景順が家にやどらせ給う。総督の命令至る。師団は南進を停止し、台南方向を偵察せよとなり。総督は宮に祝捷しゅくしょう電報を送りぬ。(つづく)


底本:『鴎外全集 第三巻』岩波書店
   1972(昭和47)年1月22日発行
初出:『能久親王事蹟』東京偕行社内棠陰會編纂、春陽堂
   編集兼発行人代表者 森林太郎
   1908(明治41)6月29日刊行
入力:しだひろし
校正:
xxxx年xx月xx日公開
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能久親王事蹟(五)

森林太郎

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)御館《みたち》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)厚一寸五分|許《ばかり》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)鷹司左大臣政※[#「冫+熙」、第3水準1-87-58]

〈〉:級下げ
(例)〈後の文書に、御誕生の年弘化三年と記《しる》せるも見ゆめるは、嘉永元年八月仁孝天皇の御猶子に立たせ給ふに及びて、同じ帝《みかど》の崩御の年をもて御誕生の年となししなるべし。〉
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 五日、師團の參謀河村秀一前哨を巡視せしに、水返脚の民尋ね來て、敵兵の臺北にありて掠奪を縱にし、水返脚にも出沒して良民を窘むるを告げ、軍を進められんことを請ひぬ。秀一返り報じて、先づ歩兵第一聯隊を臺北に派遣することとなしつ。常備艦隊は基隆港口にて水雷十四個を發見し、爆破しつ。薩摩丸等港に入りぬ。是日歩兵第一聯隊第六中隊の中尉田中又三郎等基隆寺に在りて、鹵獲せし彈藥數千箱を護りたるを、聯隊の一軍曹役夫百餘を率ゐて受取りに來ぬ。授受の時、地雷爆發して又三郎以下士卒二十一名即死し、下士卒二十餘名、役夫百餘名負傷しつ。寺内に潛匿して導火せし支那人混參金等二人は縛に就きぬ。人皆宮の此寺院に入らせ給はざりしを喜びぬ。六日、樺山總督上陸しぬれば、宮往いて訪はせ給ふ。師團兵站監部上陸しはじむ。第一聯隊第一大隊は暖暖街を發して水返脚に至り、聯隊長は二中隊を率ゐて七肚に至りぬ。午後五時頃、臺北に寄留せる外人の總代三人〈英商一人、米國 HERALD《ヘラルド》 新聞記者一人、獨商一人。〉水返脚の陣に至りて請うて曰はく。臺北をば今大尉の率ゐたる英吉利水兵三十人、中尉の率ゐたる獨逸水兵二十五名警戒せり。敵兵約五千は淡水に逃れ去り、餘は新竹に向ひて奔りぬ。糧食の如きは、某等周旋して缺乏あらせじ。願はくは速に軍を進めさせ給へといふ。偶第一大隊の道路を偵察せしめんとて、錫口に派遣せし士官歸りて、錫口の民我軍の至るを待つと告ぐ。聯隊長前進に決す。午後七時第一大隊〈二中隊闕。〉水返脚を發す。途中屡銃聲を聞きしかど、そは土人の敗兵に備ふるにて、我兵に抗抵するに非ざりき。七日、午前一時半第一大隊臺北城廓の外に至り、練兵場に露營す。五時進みて北門に向ふ。敵門を鎖して射撃す。大隊は一部をして門外を警衞せしめ、主力をもて城壁に攀ぢしめんとす。一女子ありて、彈を冒して梯を壁に架す。我兵壁に上りて射撃す。敵退く。大隊城門を闢いて入り、敵を掃蕩して諸官衙を占領し、居留地及停車塲を警衞す。敵の數は約百名なりき。死者數人を遺して淡水及新竹に向ひて奔りぬ。宮は給養を顧慮して、師團〈實は混成旅團。〉を二梯團に分ち、第一旅團長に第一團を率《ゐ》て臺北に入らしめ、第二團をば基隆に留め給ふ。是日騎兵大隊基隆に至りて上陸す。八日、第一梯團第一聯隊第二大隊を淡水に進む。大隊は江頭に宿せり。新に川村旅團長の指揮下に入りし騎兵第二小隊〈長少尉坊城俊延。〉偵察の爲めに淡水に赴き、砲臺を占領して、軍艦浪速と聯絡す。基隆にいます宮は、病院を訪はせ給ふ。九日、第二大隊淡水滬尾街に入りぬ。敵約三十人降る。總督府參謀福島安正俘を萬國、河野浦の兩船及英船某號に分ち載せて送還す。是日、洩底及三貂大嶺の東方なる地に留めたりし人馬材料概ね基隆に集りぬ。十日、第二梯團基隆より前進す。宮は午前六時四十分基隆を發せさせ給ひ、午後二時水返脚に着かせ給ふ。御宿營をば村長蘇樹林が家に定めさせたまひぬ。是日、基隆臺北間の汽車の交通を開始し、午後運轉せしむ。此間道路惡しくして、鐵道ならでは兵を進むべからず。されば兵は午前鐵道を歩みて進み、午後は汽車もて材料を運搬しつ。十一日、第二梯團及師團司令部臺北に入る。宮は午前七時水邊脚を發せさせ給ひ、午後一時臺北なる巡撫布政使廳に入らせ給ふ。師團は是より新竹に前進せざるべからず。されど運輸の状況は未だこれを許さず。總督の命令も亦未だ發せられず。よりて歩兵第二聯隊第四中隊に參謀河村秀一を添へて、新竹方向を偵察せしめ、又騎兵一小隊〈中尉田中國重引率す。〉に大※[#「山/科」]※[#「山/坎」]方向を偵察せしめたまふ。これより先、大※[#「山/科」]※[#「山/坎」]には清國の將校余清勝駐屯して土蕃を鎭壓せりしが、書を總督に上りて處置を請ひぬ。
 十二日、兩偵察隊は桃仔園に至りぬ。十三日、新竹偵察隊中歴に至る。大※[#「山/科」]※[#「山/坎」]偵察隊は大姑陷に入り、余清勝を拉いて臺北に返る。十四日、總督臺北に入る。宮將校を率ゐて停車場に迎へさせ給ふ。新竹偵察隊大湖口に至る。第一聯隊第三中隊海山口より進みて、偵察隊の後援となる。十五日、新竹偵察隊は將校斥候を派して新竹を偵察し、下士斥候を派して鳳山溪を偵察せしむ。後援隊中歴に至る。淡水臺北間の水路兵站開始せらる。十六日、第二聯隊第一大隊長に一中隊を率ゐて桃仔園に進まんことを令し、第一聯隊第三中隊を其指揮下に屬せらる。新竹偵察隊中歴に返りて、後援隊と共に宿營す。當時新竹に呉光亮及楊某の兵約二千あり。新車附近に土兵數百あり。宜蘭附近に敵兵の散じて掠奪を事とせるあり。臺南附近には、初め臺灣大統領と稱する唐某ありしが、髯を剃り姿を變じて厦門に逃れ、臺南の道臺知縣も亦厦門に逃れ、劉永福留まりて清兵を指揮せり。是日、宮の家從高野盛三郎東京より至り、家扶心得を命ぜらる。家從心得山本喜勢治基隆より至る。十七日、午後二時總督閲兵式を行ふ。四時總督府開廳式を行ふ。宮並にこれに※[#「くさかんむり/(さんずい+位)」、第3水準1-91-13]ませ給ふ。是日、小松宮依仁親王、山階宮菊麿王來訪せさせ給ふ。十八日、歩兵第二聯隊〈第二大隊本部並三中隊缺。〉騎兵一小隊〈隊長中尉高橋利作。〉山砲兵一中隊、〈砲四門。〉機關砲第四隊〈砲四門○別に衞生隊半部、第一糧食縱列あり。〉をもて新竹支隊となし、歩兵第二聯隊長阪井重季を司令官たらしめ、新竹を占領し、臺北新竹間の鐵道及電信線を保護し、前方道路の状況を偵察すべきことを命ぜさせ給ふ。十九日、新竹支隊臺北を發して桃仔園に至る。楫取道明宮の御許に參りぬ。二十日、新竹支隊中歴に至る。宮高屋宗繁に歸京を命ぜさせ給ふ。二十一日、新竹支隊は楊梅※[#「土+櫪のつくり」、第4水準2-5-21]、崩坡、大湖口に戰鬪して、大湖口西南高地に露營す。第二次輸送船漸く基隆に至り、指揮官陸軍少將山根信成上陸す。高屋宗繁歸京の途に就く。西郷隆凖〈式部官。〉中村純九郎〈參事官心得。〉伺候す。二十二日、新竹支隊は新車及新竹附近に戰鬪して、午前十一時五十二分新竹を占領しつ。山根少將伺候す。二十三日、歩兵第一聯隊の三中隊〈第一、第三、第六。〉騎兵一小隊、工兵第一中隊〈一小隊闕。〉をもて臺北新竹間連絡支隊となし、騎兵中佐澁谷在明をして司令官たらしめさせ給ふ。こは沿道の土人大部隊の過ぐるに會ひては抗抵することなく、小部隊を見る毎に襲撃し、新竹支隊の消息中ごろ絶ゆるに至りしが爲めなり。二十四日、澁谷支隊臺北を發して桃仔園に至る。宮は第二次輸送船の載せ來れる歩兵第二旅團、騎、砲、工、輜重兵の半部をもて近衞混成旅團となし、山根少將をして率ゐしめ、これに水路澎湖島〈澎湖島は是より先三月二十三日、我混成支隊占領したりき。〉に集合して、臺南及鳳山を占領せんことを謀るべきよしを命ぜさせ給ひ、同時に參謀長鮫島重雄に此旅團に同伴すべきことを訓令せさせ給ふ。是より先、安平に在る英國領事は或は淡水領事館に電報し、或は東京公使館に電報して云く。劉永福黒旗兵五千を擁して安平に據り、居留民に退去を命ず。英國水兵百五十名は現に居留地を警衞すと雖、勢久しきを支へ難し。願はくは速に軍を進められよと。總督これを聞きて、十七日近衞師團に命ずるに、其第二次輸送部隊をして南征せしむることをもてしつ。師團命令はこれにもとづきて混成旅團に下りしなり。是日、臺北新竹間の遞騎第三小隊長吉田宗吾〈特務曹長。〉新車において敵に襲はれ、部下一人と共に戰死す。二十五日、澁谷支隊は頭亭溪に戰ひて敵將潘良を殺し、大湖口に至る。是日、歩兵第一聯隊第一大隊に安平鎭〈中※[#「土+櫪のつくり」、第4水準2-5-21]の西南約六吉米。〉を攻撃せんことを命ぜさせ給ふ。安平鎭には敵將黄娘盛の家ありて、黄は胡嘉猷等と共に此に據れり。二十六日、澁谷支隊新竹に至りて、新竹支隊と連絡す。二十七日、歩兵第一聯隊第一大隊の二中隊〈第二、第三中隊。〉中歴に集合して、安平鎭を攻撃せんとす。鮫島參謀長基隆に赴く。宮恩地轍に歸京を命ぜさせ給ふ。轍臺北を發す。二十八日、歩兵第一聯隊第一大隊安平鎭の敵を攻撃して中歴に還る。二十九日、澁谷支隊臺北に歸る。七月一日、歩兵第一聯隊第一大隊の二中隊、砲兵一中隊、工兵一中隊は再び安平鎭を攻撃して中歴に還る。基隆にては部隊の乘船すべきもの乘船し始めしに、夜總督府急に第二次輸送部隊の水路南に行くことを止め、これに基隆に上陸し、臺北に集合すべきことを令しつ。宮ただちに基隆に電報せしめ給ふ。總督府のこの命令を發せしは、第二次輸送部隊の來航遲延して、季節漸く航海に宜しからざるに至りしこと、舟中の水を給するには更に琉球に囘航せざるべからざること、臺灣北部穩ならざること等に基き、先づ新竹以北の地域を平定して、後顧の憂なからしめ、さておもむろに南征せんとは謀れるなりき。二日、安平鎭の敵遁れ去りしをもて、我兵ただちにこれを占領しつ。三日、前に基隆に遣されし參謀長鮫島重雄歸り來ぬ。八日、第二次に輸送せられし部隊殆ど全く臺北附近の地に集合しをはりぬ。十日、敵〈主力は尖筆山附近に在り。〉我新竹支隊を襲ひしかども、ただちに撃退せられぬ。宮は第二旅團長山根信成をして、混成旅團を率ゐて、本道の南側に沿ひて新竹に進ましめ、自ら爾餘の兵を率ゐて、本道を新竹に向はんとおぼし、山根旅團長に命令せさせ給ふ。其要領に曰はく。支隊は十二日臺北を發し、三道に分れ進むべし。其一は大※[#「山/科」]※[#「山/坎」]川の南方、察加沿、大※[#「山/科」]※[#「山/坎」]を經て進み、其二は大※[#「山/科」]※[#「山/坎」]川の左岸に沿ひて進み、其三は兵站線路を經て進み、第三日に龍潭坡に至りて合一し、苗栗に通ずる道の、新竹と齊頭なる處に達して後命を待つべしとなり。こは三角涌、大※[#「山/科」]※[#「山/坎」]附近の民|陽《おもて》に好意を※[#「米+女」、第3水準1-89-81]ひて、陰《ひそか》に禍心を懷ける迹漸く明なるに至りぬれば、そを撃ち平げまさんとてなり。山根支隊は歩兵第三聯隊、騎兵一小隊、砲兵一中隊、〈第四。〉工兵一中隊〈衞生隊半部。〉より成る。別に歩兵第一聯隊の一中隊〈第七。〉を大※[#「山/科」]※[#「山/坎」]守備隊となし、支隊と同行せしめたまふ。こは大※[#「山/科」]※[#「山/坎」]を平定せんとき、兵力を分ちて守備に任ぜしめんことの不利なるを慮らせ給へばなり。十一日、山根支隊の一部にして、大※[#「山/科」]※[#「山/坎」]を經て進むべき、歩兵第三聯隊第二大隊、〈第五、第六、及第八中隊。〉工兵一小隊より成れる所謂坊城支隊は、臺北兵站司令部に謀りて、一隊の運糧船を編成し、夕に臺北を發せしめつ。運糧船は凡十八隻に、米百五十俵、〈一に百七十俵に作る。〉梅干三十樽を分ち載せ、歩兵第三聯隊第六中隊第一小隊の下士卒三十五人〈一に三十二人に作る。〉をして役夫舟人を護衞せしむ。其指揮官は特務曹長櫻井茂夫なりき。十二日、山根支隊悉く臺北を發しつ。其本隊は歩兵第三聯隊第一大隊、騎兵一小隊〈隊長中尉牧野正臣。〉砲兵一中隊、〈第四。〉工兵一中隊〈衞生隊半部。〉より成れるを、少將山根信成率ゐて、鐵道線路に沿ひて進み、事なくして桃仔園に達しつ。大※[#「山/科」]※[#「山/坎」]を經べき坊城支隊は、午後一時四十分事なくして三角涌に至り、運糧船より糧を受け、三角涌附近に露營しつ。中央の道路を進むべき歩兵第三聯隊第七中隊は、午後二時二甲九庄附近に至りて露營したりしに、敵の襲ひ來るに逢ひて、戰を交へつ。大※[#「山/科」]※[#「山/坎」]守備隊歩兵第一聯隊第七中隊は、坊城支隊に跟隨して進み、共に三角涌附近に露營しつ。十三日、山根支隊の本隊は中櫪に至りて、龍潭坡附近の敵と對峙す。安平鎭より引き退きし黄娘盛胡嘉猷等皆此方面に在り。坊城支隊及大※[#「山/科」]※[#「山/坎」]守備隊は、午前四時三十分三角涌を發し、進むこと約八吉米にして、支隊の前衞大※[#「山/科」]※[#「山/坎」]の東北方約四吉米なる山腹に達し、其後衞後方なる山の鞍部に在るとき、敵三千餘四方より起りて包圍しつ。坊城支隊及守備隊は苦戰して日を終へにき。これに伴へる運糧船は、三角涌附近にて敵に襲はれ、糧をば悉く奪はれぬ。守衞兵は櫻井特務曹長以下皆戰死して、兵卒の免れて桃仔園に至りしもの三人、海山口に向ひしもの一人なりき。中央の道路を進みし歩兵第三聯隊第七中隊は、前夜より敵に應戰したりしが、午後二甲九庄の西方一吉米許の地に集合し、これより潛行して桃仔園に至ることとしつ。是日又運糧隊ありて、打類坑〈海山口を距ること六吉米許。〉附近を過《よぎ》りしを、敵約六百人急に起りて襲撃し、守衞兵二十九人を殺して糧を奪ひつ。宮臺北におはして聞召し、海山口に在る歩兵第四聯隊〈内藤正明これに長たり。〉に命じてこれを討ち退けしめ給ふ。聯隊の第二大隊此敵を攻撃して夜に入りぬ。十四日、山根支隊の本隊は未明に中櫪を發して、龍潭坡附近の敵を攻撃せんとしつ。第三聯隊第四中隊をば、右側衞として銅羅騫〈一に銅羅圈に作る。〉に向はしむ。銅羅騫は胡嘉猷が家の在る處なり。午前七時三十分支隊本隊の前衞〈第三聯隊第三中隊。〉龍潭坡に達して敵と衝突し、これより戰鬪午後四時に至る。黄娘盛、胡嘉猷等皆これに死す。右側衞は午前銅羅騫を占領しつ。支隊本隊は夜龍潭坡附近に露營せり。坊城支隊及大※[#「山/科」]※[#「山/坎」]守備隊は、此日も亦苦戰して、毎卒平均五十發の彈藥を餘すに至り、大※[#「山/科」]※[#「山/坎」]附近に露營しつ。〈これに伴へる運糧船の守衞兵一人は、此日海山口に達することを得て、海山口より臺北に往きぬ。〉中央の道路を進みし第三聯隊第七中隊は、此日桃仔園に達することを得つ。打類坑附近の敵に向へる歩兵第四聯隊第二大隊は、此日攻撃を續けたりき。是日又臺北より偵察に派遣せられし騎兵一小隊〈少尉浮田家雄率ゐたり。〉ありしに、河水に阻げられ、目的地に達すること能はずして、暮に至り空しく歸りぬ。是日又臺北に流言あり。敵は夜半大擧して臺北を襲はんとすと云へり。宮は武裝して夜を徹《とほ》させ給ふ。當時宮の掌握せさせ給へる兵は、僅に歩兵第一聯隊の三中隊半ありしのみなりき。十五日、山根支隊本隊は、坊城支隊と連絡せんと欲して、偵察隊〈中尉菊池愼之助の率ゐる一中隊。〉を出ししかど果さざりき。坊城支隊及大※[#「山/科」]※[#「山/坎」]守備隊は猶苦戰を續けたるが、此日携帶口糧殆盡きて、籾三分水七分の粥を食ふに至りぬ。支隊は勇士四人を選びて密使となし、支隊本隊と師團司令部とに消息を通ぜんことを謀りぬ。支隊本隊の在るべき龍潭坡に向ひしは、第三聯隊第八中隊の上等兵白井安藏〈一作安吉。〉と同じ聯隊の第五中隊の一等卒三宅保太郎となりき。中櫪を經て、臺北なる師團司令部に往かんとせしは、第三聯隊第六中隊の軍曹小賀友左衞門と、大※[#「山/科」]※[#「山/坎」]守備隊たる第一聯隊第七中隊の上等兵横田安治となりき。四人は皆土人に裝ひて、夜我陣を拔け出でぬ。是日又近衞騎兵大隊第二中隊第三小隊の准士官以下二十二名〈指揮官特務曹長山本好道。〉は、三角涌附近を偵察せんことを命ぜられ、正午臺北を發して板橋頭を經て進みしに、敵に包圍せられて、殆皆戰死しつ。その逃れて海山口に入りしものは、僅に三人なりき。十六日、山根支隊は午前二時龍潭坡を發し、銅羅騫を經て、牛欄河の敵を攻撃し、其地を占領して、九時龍潭坡に歸りぬ。時に坊城支隊の派遣せし使者白井安藏至りて具さに窮迫の状を告ぐ。白井と共に出でし三宅保太郎は途に殪れぬ。山根支隊は午前十一時又龍潭坡を發し、午後一時三十分大※[#「山/科」]※[#「山/坎」]河岸に至り、五時突撃して、大※[#「山/科」]※[#「山/坎」]を占領しつ。夜坊城支隊の出しし歩兵第三聯隊第七中隊の士卒二三十人槍を把り河を渡りて至りぬ。山根少將乃ち歩兵第三聯隊第一中隊の士卒を派して、坊城支隊と連絡せしめき。山根少將は此日纔に歩兵第四聯隊を龜崙に應援すべき師團命令を受けつ。坊城支隊の臺北に派せし小賀友左衞門等、此日午前二時中櫪に至りて、歩兵第一聯隊第二中隊に會し、横田安治は更に臺北に向ひぬ。是日三角涌附近の圍を脱せし騎兵三人臺北に至る。又桃仔園海山口の間の遞騎哨に、騎兵一小隊〈浮田少尉率ゐたり。〉を派せらる。十七日坊城支隊は午前二時露營地を發して、大※[#「山/科」]※[#「山/坎」]に至り、山根支隊と會し、午後零時三十分共に大※[#「山/科」]※[#「山/坎」]を發して、龜崙に向ひ、桃仔園を距ること六吉米の地に至りて露營しつ。是日總督近衞師團に訓令して、臺北新竹間鐵道の南方なる地帶に土着せる敵を掃蕩せしめんとす。十八日、山根及坊城支隊桃仔園に至りぬ。是夜宮三角涌附近の敵を掃蕩せんことを計畫せさせ給ふ。十九日、所謂三角涌附近大掃蕩の師團命令出でぬ。これに任ずべき部隊は山根支隊、内藤支隊及澤崎支隊なり。山根支隊は歩兵第三聯隊本部並に第一大隊、歩兵第四聯隊第四中隊、騎兵第二中隊の一小隊、砲兵第四中隊、臨時工兵中隊より成る。内藤支隊は歩兵第四聯隊本部並に第二大隊、騎兵第二中隊〈二小隊闕。隊長松浦藤三郎。〉砲兵第二大隊本部及第三中隊、工兵第一中隊の一小隊より成る。澤崎支隊は後松原支隊と稱す。歩兵第二聯隊第二大隊本部並に二中隊より成る。此諸隊は二十一日集合して、二十二日より二十三日に至る間に、先づ三角涌を中心とせる、半徑二十乃至二十四吉米の圈を畫し、次第に敵を討ち家を燒き、外より内に向ひて圈の半徑を縮め、相對せる部隊の交互に連絡するに至るべしとなり。三角涌方面には敵二三千ある如くなりき。二十一日、勅使歩兵中佐中村覺總督府に至る。宮往いて迎へさせ給ふ。二十二日、山根支隊は大※[#「山/科」]※[#「山/坎」]を發し、其本隊たる歩兵第三聯隊第一大隊〈二中隊闕。〉砲兵中隊、工兵中隊河の右岸を行き、歩兵第三聯隊第一、第四中隊、騎兵一小隊、工兵半小隊の所謂林〈第一中隊長。〉隊は河の左岸を行きぬ。本隊は三角涌の西南方約八吉米の地に至りて敵に遇ひ、これを撃破し、三角涌の西南方約三吉米半の地に露營しつ。林隊は途に當れる敵を撃破し、二甲九庄に至りて露營しつ。内藤支隊は海山口を發し、左側隊〈隊長藏田砲兵第二大隊長。〉たる歩兵第四聯隊第七中隊、騎兵第二中隊、砲兵第三中隊〈砲二門。〉に河の右岸を行かしめ、本隊たる歩兵第四聯隊第五、第六及第八中隊、砲兵及工兵は右方なる山麓を行き、並に敵前に露營しつ。松原支隊は鮫島參謀長の率ゐたる砲兵第一中隊と共に、臺北を發し、板橋頭の西南方約一吉米半の山上に至りて露營しつ。臺北に在りし騎兵全部は枋寮街附近に赴き、三角涌附近を警戒しつ。宮は午前八時五十分臺北西門の廓壁の上に登らせ給ひて、觀戰せさせ給ひぬ。二十三日、山根支隊本隊は當面の敵を撃破して、三角涌に至り、午後二時過一中隊を横溪口方面に派して、松原支隊に連絡せしめき。林隊は二甲九庄北方高地の敵を撃破し、午後二時本隊に連絡し、夕に内藤支隊に連絡しつ。松原支隊は土城村附近の敵を撃破して、ここに露營したりしに、午後八時山根支隊の連絡中隊の至るに會ひぬ。三支隊は三角涌附近に夜を徹しつ。二十四日、山根支隊三角涌を燒夷し、三支隊各前の陣地に歸りぬ。此掃蕩の間、道路皆狹隘險阻にして、糧食を運ぶに宜しからざりしかば、諸隊多く甘藷を掘りて糧に充ててき。敵は多く所謂喀家族にして、性質最も獰惡なりき。二日間に遺棄せられたりし敵の屍は四百を下らざりき。二十五日、午前零時三十分敵新竹の西門を襲ふ。歩兵第二聯隊第三中隊これに應戰し、天明くるに及びて、大佐阪井重季自ら戰を指揮し、午前八時三十分敵を撃退しつ。此日、勅使臺北を發す。宮往いて送らせ給ふ。二十七日、師團は新竹方面に向ひて發せんとし、川村少將は阪井支隊を指揮することを命ぜられぬ。龍潭坡附近の地は、山根支隊の去りてより、又敵に據られたり。その主なるものは、簡玉和、林木生、王尖頭等の率ゐたる所謂管帶忠字正中營義民約五六百なりき。山根支隊は先づ再びこれを撃たんとす。夕に總督宴を設けて宮の南行を送りまつりぬ。此日、宮は兵站監部及び野戰病院を訪はせ給ひぬ。
 二十九日、午前五時宮臺北を發せさせ給ひ、午後三時十五分桃仔園に至らせ給ひ、林某の家に宿らせ給ふ。此夜輕き下利症に罹らせ給ふ。三十日、午前七時四十分宮桃仔園を發せさせ給ひ、午時中櫪に至らせ給ひ、寺院に宿らせ給ふ。山根支隊は大※[#「山/科」]※[#「山/坎」]河の左岸に集合しつ。新に歩兵二中隊、砲兵一中隊、騎兵一分隊もて松原支隊を編成し、山根支隊を援けしめらる。内藤支隊は抗抵に逢ふことなく、桃仔園より中櫪に至り、松原支隊の編成せらるると同時に解散せられぬ。三十一日、午後二時三十分宮中櫪を發せさせ給ひ、三時二十分汽車に乘らせ給ふ。五時三十分汽車大湖口を經て、六時十分新竹に至る。宮は轎に乘りて兵站司令部に入らせ給ひぬ。山根支隊は午前四時三十分大※[#「山/科」]※[#「山/坎」]を發し、松原支隊と策應して、龍潭坡の西北方なる高地の一部を占領し、午後三時銅羅騫附近に至り、牛欄河高地の敵に對して露營しつ。八月一日、山根支隊は午前四時戰を交へて、牛欄河高地の敵を撃破し、鹹菜硼村の東北なる高地に進み、再び敵を撃退し、午後五時頃新埔の東三吉米の地に至りて露營す。其偵察隊〈歩兵中尉中村道明率ゐたり。〉新埔に於て敵に衝突す。師團司令部は大湖口に在りき。二日、山根支隊は午前六時露營地に集合し、直ちに新埔の敵を攻撃し、伊崎の率ゐたる歩兵第四聯隊第二大隊本部及二中隊の援を得て、午時新埔に入りぬ。師團司令部は新埔街の西北なる寺院に置かれぬ。六日、山根支隊は午前五時四十五分新埔を發し、九※[#「くさかんむり/弓」、第3水準1-90-62]林河を遡りて水尾に至り、敵に逢ひて撃退しつ。敵は林某〈林學林又林老師と稱す。〉の率ゐし棟字副營の兵なりき。後その遺棄せし屍を檢して、年少き女子の男裝して戰死したるを見き。支隊は九※[#「くさかんむり/弓」、第3水準1-90-62]林に宿りぬ。伊崎が隊は此日管府坑を占領しつ。七日、明日枕頭山鷄卵面の前なる敵を攻撃すべき師團命令出でぬ。右翼隊は歩兵第二聯隊〈二中隊闕。〉騎兵一小隊、砲兵聯隊本部並に第二中隊、機關砲一隊、工兵一中隊〈二小隊闕。〉より成り、川村少將率ゐたり。左翼隊は歩兵第四聯隊〈第一大隊闕。〉騎兵半小隊、砲兵第一大隊本部並に第一中隊、機關砲一隊、工兵一小隊〈二分隊闕。〉より成り、内藤大佐率ゐたり。山根支隊は故《もと》の如し。豫備隊は歩兵第四聯隊第一大隊の二中隊、歩兵第二聯隊の一中隊、騎兵大隊、〈四小半隊闕。〉工兵大隊本部及二分隊、新竹守備隊は歩兵第二聯隊第五中隊、機關砲一隊なりき。山根支隊は此日小戰鬪を交へつつ進みて北埔に至り、午後四時二十三分水仙嶺を占領しつ。宮は此日に至るまで新竹に留まらせ給ひぬ。
 八日、宮は午前四時新竹を發せさせ給ふ。五時二十分左右兩翼隊戰鬪を開き、七時より八時に至る間に、枕頭山鷄卵面の前なりし敵を驅逐して、其陣地を占領し、十一時香山庄南勢山の上に至りて、敵前に露營しつ。山根支隊は水仙嶺の敵を追撃しつつ左翼隊に接近し、午後一時左翼隊と齊頭なる位置に達しつ。此日の戰鬪には艦隊の援助ありき。南勢山なる露營地は晝烈しき日を避け、夜繁き露を凌ぐべき木蔭だになく、汲むべき谿水もあらざりければ、汚れたる稻田の水もて糒を蒸したるを、夕餉に宮もめさせ給ひぬ。九日、午前五時三十分戰鬪は開かれぬ。七時尖筆山に薄り、七時三十分これを占領しつ。宮は豫備隊を率ゐて、九時尖筆山砲壘の傍なる墓地の木蔭に至らせ給ひぬ。右翼隊は午後一時埔仔港に至り、中港に宿りぬ。宮も右翼隊に續かせ給ひて、午後三時中港に着かせ給ふ。左翼隊は中港と頭※[#「にんべん+分」、第3水準1-14-9]との間に宿り、山根支隊は頭※[#「にんべん+分」、第3水準1-14-9]に至りて宿りぬ。此日も又艦隊の援助ありき。尖筆山に在りし六七千の敵は、呉湯興が部下なる邱國霖の義民兵を主とし、楊某の兵など交りたりき。此夜左翼隊の編成を解きて、山根少將の指揮の下に屬せしめられぬ。十日、歩兵第一聯隊〈第一大隊闕。〉等の諸隊を臺北より新竹に進む。十二日、苗栗方面の敵を攻撃すべき師團命令出でぬ。前衞は歩兵第一旅團司令部、歩兵第二聯隊、〈第一大隊本部及三中隊闕。〉騎兵一小隊、砲兵聯隊〈第二大隊闕。〉工兵第一中隊〈二小隊闕。〉より成れるを川村少將率ゐ、左側支隊は歩兵第二旅團司令部、歩兵第四聯隊、〈第二大隊闕。〉騎兵一小隊及一分隊、砲兵第二大隊、臨時工兵中隊より成れるを山根少將率ゐ、本隊は新に臺北より至りし歩兵第一聯隊、〈第一大隊闕。〉騎兵大隊、〈四小隊闕。〉工兵一小隊より成れるを宮自ら率ゐさせ給ふ。〈衞生隊は半部を左側隊に、半部を本隊に附せられぬ。〉前衞及本隊は十三日後※[#「土+龍」、第3水準1-15-69]附近に至り、左側支隊は亂龜山附近に至り、彼は十四日田寮以西の地に至り、此は田寮以東の地に至り、十五日苗栗を攻撃せんとす。中港を守備する部隊は、歩兵第四聯隊第二大隊の二中隊、第一機關砲隊、騎兵若千にして、〈司令官今井直治。〉後※[#「土+龍」、第3水準1-15-69]を守備すべき部隊は、歩兵第四聯隊第二大隊、〈二中隊闕。〉騎兵若干、合併機關砲隊なりき。〈司令官伊崎良※[#「冫+熙」、第3水準1-87-58]。〉敵は李惟義の黒旗新楚軍苗栗、通霄、大甲に在り、黎景順の義民兵大甲、彰化に在り、羅某の義民兵彰化に在り、呉湯興、梅福喜及陳某の義民兵苗栗に在りて、臺灣府なる臺灣防務統領劉永福が號令を聞くと云ふ。十三日、前衞は午前六時中港を發し、七時十分鹽仔頭に至りて河を渉り、十時三十分後※[#「土+龍」、第3水準1-15-69]に達してこれを占領しつ。午後一時敵の後※[#「土+龍」、第3水準1-15-69]の南方一吉米の高地に據れるを撃退し、次いでその東方の高地に據れるを撃退しつ。前衞の三中隊はここに露營し、その派出せし右側隊一中隊は新港に露營しつ。宮は午前七時三十分中港を發せさせ給ひ、午後一時後※[#「土+龍」、第3水準1-15-69]附近に至らせ給ひぬ。左側支隊は此日頭※[#「にんべん+分」、第3水準1-14-9]を發し、進みて亂龜山を占領し、苗栗の東北方に露營しつ。宮は午後五時後※[#「土+龍」、第3水準1-15-69]の舍營に着かせ給ひぬ。十四日、前衞は午前六時三十分後※[#「土+龍」、第3水準1-15-69]附近を發して進みしに、苗栗の敵既に奔りぬと聞き、西方及北方より苗栗に入り、第一旅團司令部を苗栗河の北岸なる民家に置き、左側支隊は東方より入り、第二旅團司令部を苗栗縣廳に置きつ。本隊は前衞に次いで苗栗に入り、又後※[#「土+龍」、第3水準1-15-69]に歸りぬ。騎兵大隊は打揶叭頭湖庄の南なる高地に在りて、通霄方向を警戒せり。宮は本隊と倶に苗栗に入りて、又後※[#「土+龍」、第3水準1-15-69]に歸らせ給ひぬ。この日、歩兵第二聯隊の一大隊〈前田大隊。〉を新竹白沙※[#「土+敦」、第3水準1-15-63]間の守備隊とし、歩兵第四聯隊第二大隊〈伊崎大隊。〉を師團本隊とせらる。歩兵第三聯隊第二大隊〈坊城大隊。〉をば新竹に留められき。十五日、前衞通霄に至りぬ。十六日、宮は總督に交渉せさせ給ひて、師團を前進せしむることに決せさせ給ふ。糧秣の大部分をば水路大甲に輸送せんとす。十九日、師團命令を發して、山根支隊〈前の左側支隊に第二大隊を闕ける歩兵第三聯隊を加へて編成す。〉に大甲を攻撃せしめさせ給ふ。是日、歩兵第三聯隊第二大隊中港に至りぬ。二十日、午前六時山根支隊苗栗を發し、銅羅灣、福興街、樟樹林正を過ぎ、午後零時三十分三叉河に至り、三叉河の西方なる高地の林間に露營しつ。川村支隊〈前の前衞。〉の偵察隊は房裡に至りぬ。歩兵第四聯隊第二大隊は苗栗に至りぬ。歩兵第三聯隊第二大隊は中港より後※[#「土+龍」、第3水準1-15-69]に至りぬ。二十一日、午前六時山根支隊三叉河附近を發し、新店庄に至り、歩兵第三聯隊第二、第三中隊を左側衞として、胡盧※[#「土+敦」、第3水準1-15-63]に向はしめ、第一聯隊の二中隊をして、臺中方面を偵察せしめ、午後一時大甲に至りぬ。川村支隊の偵察隊と歩兵第四聯隊第二大隊とも亦大甲に至りぬ。是日、某蕃社の酋長の父子後※[#「土+龍」、第3水準1-15-69]の師團司令部に至りて、軍に從はんことを請ふ。宮これを許させ給ふ。二十二日、午前六時宮後※[#「土+龍」、第3水準1-15-69]を發せさせ給ふ。白沙※[#「土+敦」、第3水準1-15-63]を過ぎさせ給ふとき、酋長は子に足疾ありて長途を行くに堪へずと云ふをもて、暇を乞ひて去りぬ。午後一時三十分通霄に着かせ給ふ。山根支隊の偵察隊胡盧※[#「土+敦」、第3水準1-15-63]に至り、潭仔※[#「土+乾」]に進まんとして敵に逢ひ、退き歸りぬ。二十三日、午前六時宮通霄を立たせ給ひ、午時大甲に至らせ給ふ。前に水路此地に輸送せしめし糧秣は、其舟風に阻げられて到らず。土人に就いて糧秣を買辨せしめんとするに、貨物少くして大部隊を供給するに足らざりき。山根支隊の偵察隊は再び進みて、胡盧※[#「土+敦」、第3水準1-15-63]方面の敵の既に退きしを偵知しつ。二十四日、宮師團を大肚溪附近に前進せしむることに決せさせ給ふ。山根支隊の牛馬頭に至れるを右縱隊とし、その偵察左側衞の胡盧※[#「土+敦」、第3水準1-15-63]に至れるに、歩兵第三聯隊第一、第四中隊、騎兵一小隊、工兵中隊を加へて左縱隊〈中岡支隊。〉とし、本隊を第一、第二梯隊に分たせ給ふ。行進の次第は、二十五日左縱隊を東大※[#「土+敦」、第3水準1-15-63]〈臺中。〉に至らしめ、右縱隊を大肚街に至らしめ、二十六日兩縱隊及本隊第一梯隊を大肚溪附近に至らしめ、第二梯隊を牛馬頭附近に至らしめ、二十七日第二梯隊を大肚溪附近に至らしめんとす。而して左右縱隊は皆山根少將の指揮に屬す。前進の策決せられしとき、人人糧秣の給せざらんことを危ぶみしに、宮糧なくば藷を食ひて進まんのみと宣給ひて、人人を勵まさせ給ひぬ。二十五日、左縱隊は午前五時三十分胡盧※[#「土+敦」、第3水準1-15-63]を發し、七時五分潭仔※[#「土+乾」]に至りて、騎兵の敵を距ること一吉米許なるを報ずるを聞き、進めば敵既に退きにき。七時三十分尖兵頭家※[#「厂+昔」]〈一に頭家膺に作る。〉の北方三百米の地に達して敵に逢ふ。縱隊戰ひて日暮に至り、ここに露營しつ。右縱隊〈山根支隊本隊。〉は牛馬頭を發して大肚街に至りぬ。敵は大肚溪の左岸に在りて、天幕を列べ張れり。新楚軍に義民を交へて、七乃至十營ありと稱す。其數實に五千を下らざるべし。谿の幅五百乃至千米にして流頗急なり。右縱隊は前哨中隊に夜に乘じて徒渉點を求めしめ、上流約千五百米の處に淺瀬あるを偵知しつ。宮は此日午前五時三十分大甲を發せさせ給ひ、九時三十分牛馬頭に至らせ給ひぬ。二十六日、朝師團命令もて、第四聯隊第一、第二中隊、砲兵中隊を左縱隊に加へらる。左縱隊は午前二時戰を始め、大隊長摺澤靜夫が率ゐたる部隊と倶に、四時三十分敵の據れりし一家屋を爆破し、六時更に又二家屋を爆破しつ。午後一時第四聯隊の敵の左側背に出づるに及びて、共に敵を撃破し、四時臺中に入り、尋いで烏日庄附近に進みぬ。東大※[#「土+敦」、第3水準1-15-63]をば後※[#「土+龍」、第3水準1-15-69]より進みたる坊城大隊守備す。宮は此日午前六時牛馬頭を發せさせ給ひ、九時三十分大肚街なる學林に着かせ給ふ。十一時宮※[#「さんずい+卞」、第3水準1-86-52]仔頭附近に出でさせ給ひ、大肚溪の岸なる歩哨線を觀させ給ふ。此邊の地、落花生を栽ゑたる畑多し。當時衞兵たりし新海竹太郎は後宮の騎馬銅像の原型を作りしとき、宮の落花生の畑を騎行せさせ給ふ状に擬しつ。午時宮紐もて領に懸けさせ給へる望遠鏡を擧げて、敵陣を望みつつ、幕僚と語らせ給ふとき、敵の發せし七珊米の榴彈、宮の頭上五米許の處を飛び過ぎて、宮の背後二十米の地に墜ちぬ。幸にして彈は破裂せざりしかど、土砂は迸りて宮の袴に濺ぎぬ。されど宮は意に介せさせ給はず、從容として眼鏡を放たせ給ひ、幕僚を顧みて、敵の兵數を語りつづけさせ給ひぬ。幕僚危害の宮の御身に及ばんことを恐れ、宮を勸めまつりて後方三十米の凹地に退きぬ。午後一時歸路に就かせ給ひて、再び大肚街なる學林に入らせ給ひぬ。二十七日、正午師團命令出でぬ。其要領に曰はく。師團は明二十八日前面及八卦山の敵を攻撃せんとす。右翼隊は午前五時三十分より前面の敵を攻撃すべし。左翼隊は未明に※[#「さんずい+卞」、第3水準1-86-52]仔頭の上流を徒渉して、右翼隊と相應じて敵を攻撃し、一部は八卦山に向ふべし。工兵大隊は※[#「さんずい+卞」、第3水準1-86-52]仔頭に架橋すべしとなり。軍隊區分に、右翼隊として川村少將に屬せられしは、歩兵第一聯隊第一大隊、〈二中隊闕。〉歩兵第二聯隊、〈第一大隊闕。〉騎兵一小隊、砲兵聯隊、〈第二大隊闕。〉機關砲第一及合併第四隊、工兵半小隊にて、左翼隊として山根少將に屬せられしは、歩兵第三聯隊、〈第二大隊闕。〉歩兵第四聯隊、〈第二大隊闕。〉騎兵一小隊、砲兵第二大隊、臨時工兵中隊なりき。歩兵第一聯隊第二大隊本部及六中隊は、後これに加へられぬ。本隊は歩兵第一聯隊、〈第一大隊本部及二中隊闕。〉騎兵大隊、〈二小隊闕。〉工兵大隊〈一中隊及半小隊闕。〉なりき。〈衞生隊は右翼隊と本隊とに分ち附けられぬ。〉午後十一時、左翼隊の第四聯隊第一、第二、第三、第四中隊、歩兵第一聯隊第七、第八中隊は、内藤大佐これを率ゐて、徒渉點附近の畑地に集合しつ。宮は午後四時三十分大肚街の舍營を出でさせ給ひ、本隊を※[#「さんずい+卞」、第3水準1-86-52]仔頭附近に露營せしめ、大肚街西北端なる寺院に憩はせ給ひぬ。二十八日、右翼隊は午前五時砲兵及機關砲隊を大肚溪の右岸に配置し、諸隊を※[#「さんずい+卞」、第3水準1-86-52]仔頭の上流に集合せしめ、牽制の準備を整へつ。是より先、左翼隊の第四聯隊の四中隊、砲兵二中隊は、零時集合地を發し、三時河を渉り、八卦山の東方、敵と右側背に向ひて、險路を進むこと約四吉米、五時三十分砲臺に薄りぬ。左翼隊本隊は、四時過に河を渉り、右翼隊の前面の敵の右側背に薄りぬ。右翼隊は歩兵第二聯隊を先頭とし、左翼隊に次ぎて河を渉り、師團本隊は、五時露營地附近に集合し、右翼隊に次ぎて河を渉りぬ。六時八卦山に向へる左翼隊の一部は突撃に移り、左翼隊本隊の第一聯隊第五中隊と倶に、逐次に諸砲臺を占領し、七時十分八卦山全く陷りぬ。左右翼の諸部隊皆彰化の東北二門より進み入り、初め八卦山に向へる左翼隊の一部より分派せし第四聯隊の一中隊は先づ南門に至りて、敵の退路を扼しつ。宮は午前五時舍營を出でて、河岸に駐らせ給ひ、八卦山の陷るころほひ河を渉らせたまひ、七時二十分騎兵大隊〈隊長澁谷在明。〉に嘉義街道の敵を追撃せんことを命ぜさせ給ひ、十時八卦山の上におはして、再び臨機の諸命令を發せさせ給ひぬ。此時本隊の第一聯隊第二大隊〈隊長千田貞幹。〉は嘉義街道の敵を追撃することを命ぜられ、右翼隊は鹿港を占領することを命ぜられぬ。騎兵大隊は、八時彰化を離れ、茄苳脚を經て、午後零時二十分員林街に至り、敵を斗六門以南に驅逐しつ。歩兵第一聯隊第二大隊は騎兵大隊を援けて追撃し、茄苳脚に至りぬ。右翼隊は歩兵第一聯隊第一大隊等に鹿港を占領せんことを命ぜしに、此諸隊は午後二時鹿港に至りて占領し、統領頼望雲を擒にしつ。工兵大隊は午前七時三十分大肚溪に橋を架し畢んぬ。此戰鬪には敵の死傷甚だ多く、彰化城内にて埋みし屍三百八十二を算し、追撃中殺しし敵も五百を踰えたりき。宮は彰化に入らせ給ひて、師團司令部を臺灣府廳に置き、廳内なる敵將黎景順が家に舍らせ給ふ。總督の命令至る。師團は南進を停止し、臺南方向を偵察せよとなり。總督は宮に祝捷電報を送りぬ。(つづく)



底本:『鴎外全集 第三巻』岩波書店
   1972(昭和47)年1月22日発行
初出:『能久親王事蹟』東京偕行社内棠陰會編纂、春陽堂
   編集兼発行人代表者 森林太郎
   1908(明治41)6月29日刊行
入力:しだひろし
校正:
xxxx年xx月xx日公開
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*地名

  • 水返脚
  • 台北 たいほく/タイペイ (Taibei)台湾北部、台北盆地の中央にある台湾最大の都市。第二次大戦後、国共内戦に敗北した中華民国国民政府の首都。人口264万(1999)。
  • 基隆 キールン (Jilong; Keelung)台湾北端の港湾都市。1860年天津条約によって正式に開港、台湾の重要な貿易港として発展。人口38万3千(1999)。
  • 基隆寺
  • 暖暖街
  • 七肚
  • 淡水 たんすい/タンシュイ (Danshui)台湾北部、淡水河口の右岸に位置する海港。
  • 新竹 しんちく (Xinzhu)台湾北西部、台湾海峡に臨む都市。清代からの県城で、1980年代以降、ハイテク産業が発達。別称、風城。人口35万9千(1999)。
  • 錫口
  • 江頭
  • 滬尾 こび 台湾台北県淡水鎮。=淡水。
  • 洩底
  • 三貂大嶺
  • 巡撫布政使庁 台北。
  • 清国
  • 桃仔園
  • 中歴 ちゅうれき 台湾省北部。桃園見中部の都市。桃園の南西10km、台北の南西30kmに位置。
  • 大姑陥
  • 大湖口 だいこ〓
  • 海山口 かいざん〓
  • 鳳山渓 ほうざん〓
  • 鳳山 ほうざん  (高雄)、台湾高雄市にある山。
  • 新車
  • 宜蘭市 ぎらんし 台湾宜蘭県の県轄市。宜蘭県政府の所在地である。宜蘭県は台湾北東部に位置する県。台湾語ではGi^-la^n(ギーラン)と読まれる。海岸沿いまで山地が迫る地勢が交通の大きな障害となっていたが、2006年、北宜高速道路の雪山トンネルが開通し、台北市内と30分で結ばれるようになった。
  • 台南 たいなん (Tainan)台湾南西岸にある台湾最古の都市。南部台湾の商工業の中心。安平はその外港。人口72万5千(1999)。
  • 台湾 たいわん (Taiwan)中国福建省と台湾海峡をへだてて東方200キロメートルにある島。台湾本島・澎湖列島および他の付属島から成る。総面積3万6000平方キロメートル。明末・清初、鄭成功がオランダ植民者を追い出して中国領となったが、日清戦争の結果1895年日本の植民地となり、1945年日本の敗戦によって中国に復帰し、49年国民党政権がここに移った。60年代以降、経済発展が著しい。人口2288万(2006)。フォルモサ。
  • 厦門 アモイ (Xiamen; Amoy)中国福建省南東部の港湾・商工都市。明末清初、鄭成功が廈門島や金門島を拠点に清軍と戦った。対岸に鼓浪嶼(コロンス)がある。経済特別区を設置。人口205万3千(2000)。
  • 楊梅
  • 崩坡
  • 澎湖島 ほうことう → 澎湖諸島
  • 澎湖諸島 ほうこしょとう/ぼうこ/ポンフー 台湾島の西方約50kmに位置する台湾海峡上の島嶼群。澎湖列島、澎湖群島とも呼ばれる。島々の海岸線は複雑で、その総延長は約300キロメートルを誇っている。大小併せて90の島々から成るが、人が住んでいる島はそのうちの19島。
  • 安平 アンピン/あんぺい、Anping 台湾・台南市の行政区域。安平古堡が含まれる。都心の西約5km。台湾海峡に臨む。
  • 英国領事 安平。
  • 頭亭渓
  • 安平鎮 → 安平
  • 察加
  • 龍潭坡
  • 苗栗 びょうりつ/ミャオリー 台湾苗栗県苗栗市。台湾北西部に位置する県。
  • 斉頭
  • 三角涌
  • 二甲九庄
  • 打類坑
  • 中櫪
  • 銅羅騫 一に銅羅圏。
  • 板橋(頭) ばんきょう、か。パンチィアオ。台湾省北部。台北県の中心都市。台北市の南西4km。淡水河と新店渓との合流する地点に位置。
  • 牛欄河
  • 亀崙
  • 枋寮 ほうりょう/ぼうりょう 台湾屏東県枋寮郷枋寮村。
  • 横渓口
  • 土城村
  • 土城市 どじょうし/慣用読み:つちしろし 台湾台北県の県轄市。台北市のベッドタウンとしての板橋市が開発飽和状態になったことで、その南部に位置する土城市の開発が進んだ。
  • 鹹菜硼村
  • 新埔 しんほ/シンプー 台湾新竹県。
  • 新埔鎮 しんぷちん 台湾新竹県の鎮。
  • 九林河
  • 水尾
  • 管府坑
  • 北埔 ほくふ/ほくほ/ベイフー 台湾花蓮県新城郷?。新竹県北埔か。
  • 水仙嶺
  • 枕頭山
  • 鶏卵面
  • 香山庄
  • 香山 こうざん/シャンシアン 台湾新竹市香山区。
  • 南勢山
  • 尖筆山
  • 埔仔港
  • 中港 ちゅうこう 竹南(ちくなん)の旧称。台湾省北西部の町。新竹の南西10kmに位置。
  • 頭�
  • 後�
  • 乱亀山
  • 田寮 でんりょう
  • 田寮郷 でんりょうちん 台湾高雄県の郷。高雄県北西部に位置し、北は台南県龍崎郷、関廟郷と、東は旗山鎮と、西は岡山鎮、阿蓮郷と、西北は内門郷と、南は燕巣郷とそれぞれ接している。四面を山に囲まれた環境であり、郷内は起伏に富んだ丘陵地帯となり、二層行渓の支流が流れており、産業に不利な地勢となっている。
  • 通霄 つうしょう/トンシャオ
  • 通霄鎮 つうしょうちん 台湾苗栗県の鎮。苗栗県の西南部に位置し、北は後龍鎮、南は苑裡鎮、東は西湖?、銅鑼?、三義?。
  • 大甲 だいこう/ダージャー
  • 大甲鎮 だいこうちん 台湾台中県の鎮。台湾中部の沿岸地域に位置し、台中県の北西部に、大甲渓]下流の北岸に位置している。東は外埔郷と、西は台湾海峡及び大安郷と、南は大甲渓を挟んで清水鎮と、北は苗栗県苑裡鎮と接している。南北は約8.34km、東西は約9.07kmとなっている。鎮内には大甲渓と大安渓が南部及び中部に流れている。
  • 彰化 しょうか/チョンフア 彰化県彰化市。
  • 台湾府
  • 塩仔頭
  • 新港
  • 苗栗河 びょうりつ〓
  • 打揶叭頭湖庄
  • 白沙�~ 白沙島? はくしゃとう 台湾省西部の島。台湾海峡中の澎湖列島北部に位置。
  • 銅羅湾
  • 福興郷 ふくこうこうきょう〓? 台湾彰化県の郷。
  • 樟樹林正
  • 三叉河
  • 房裡
  • 新店庄 新店渓? しんてんけい 台湾省北部を流れる淡水河の支流。
  • 新店市 しんてんし 台湾台北県の県轄市。台北市市中心地へ向かう通勤人口を多数抱えるベッドタウンとしての地位を占めている。
  • 胡盧�~ ころ〓
  • 某蕃社
  • 潭子 たんし/タンヅー〓
  • 潭子郷 たんしきょう 台湾台中県の鎮。
  • 台中 たいちゅう (Taizhong)台湾中部の商工業都市。中部の経済の中心で、蔗糖・米・果実の集散地。人口93万(1999)。
  • 大肚渓 だいとけい 台湾。台湾省中部の川。南投県北東の山中に源を発し、南西流、北西流して南港渓と合流し、台中の西方で台湾海峡にそそぐ。
  • 牛馬頭
  • 東大�~ 台中。
  • 大肚街 だいと〓
  • 頭家 一に頭家膺。
  • 烏日庄 うじつ/ウーリー〓
  • 烏日郷 うじつきょう 台湾台中県の南端に位置する郷。古くは湖日と呼ばれたが日本統治時代に烏日という地名に変更され今に至る。
  • 学林
  • �仔頭 べんし?
  • 八卦山
  • 嘉義街道
  • 嘉義 かぎ (Jiayi)台湾中央部の都市。西部縦貫鉄道に沿い、製糖・製材の中心地。人口26万4千(1999)。
  • 鹿港
  • 鹿港鎮 ろくこうちん 台湾彰化県の鎮。台湾語ではLo?k-ka'ng(ロッカン)と発音される。鹿港鎮は彰化平原北西部の鹿港渓北岸似位置している。西側は台湾海峡に面し、東は秀水郷と、南は鹿港渓を隔てて福興郷と、北は番雅溝を隔てて線西郷及び和美鎮と接している。
  • 茄苳脚
  • 員林街 いんりん/ユェンリン〓
  • 員林鎮 いんりんちん 台湾彰化県の鎮。彰化平原の東部に位置し、南投県との県境にある八卦台地を除き平原により構成されている。平均海抜は25m。機構は亜熱帯気候区に属し、年間平均気温は23℃。
  • 斗六門
  • 斗六市 とろくし 台湾雲林県の県轄市。雲林県政府の所在地。雲林県の東端、嘉南平原北端と中央山脈西麓の丘陵地帯の接点に位置している。東は南投県竹山鎮と、南は古坑郷と、西は虎尾鎮、斗南鎮と、北は?桐郷、林内郷と接している。東西約15Km、南北16Kmとなっている。
  • [軍艦]
  • 浪速 なにわ 日本海軍の防護巡洋艦。浪速型の1番艦である。艦名は大阪の古称「浪速」にちなんで名づけられた。1884年、イギリス、ニューキャッスルのアームストロング社エルジック工場で起工、1886年2月15日に竣工し、二等艦と定められた。日本海軍が採用した最初の防護巡洋艦である。日本に回航され、同年6月26日、品川に到着した。
  • 万国号
  • 河野浦号
  • 英船某号


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店)。

*年表

  • -----------------------------------
  • 明治二八(一八九五)六月
  • -----------------------------------
  •  五日 師団の参謀河村秀一、前哨を巡視。常備艦隊は基隆港口にて水雷十四個を発見し、爆破。薩摩丸など港に入る。
  •  六日 樺山総督上陸。宮、往いて訪わせ給う。師団兵站監部、上陸しはじむ。
  •  七日 午前一時半、第一大隊、台北城廓の外に至り、練兵場に露営。宮は給養を顧慮して、師団(じつは混成旅団)を二梯団に分かち、第一旅団長に第一団を率て台北に入らしめ、第二団をば基隆に留める。
  •  八日 第一梯団第一連隊第二大隊を淡水に進む。大隊は江頭に宿す。基隆にいます宮は、病院を訪う。
  •  九日 第二大隊、淡水滬尾街に入る。
  • 一〇日 第二梯団、基隆より前進。宮は午前六時四十分、基隆を発し、午後二時、水返脚に着く。御宿営をば村長蘇樹林が家に定める。この日、基隆・台北間の汽車の交通を開始し、午後、運転。
  • 一一日 第二梯団および師団司令部、台北に入る。宮は午前七時、水辺脚を発し、午後一時、台北なる巡撫布政使庁に入る。
  • 一二日 両偵察隊、桃仔園に至る。
  • 一三日 新竹偵察隊、中歴に至る。
  • 一四日 総督、台北に入る。宮、将校をひきいて停車場に迎える。
  • 一五日 新竹偵察隊は将校斥候を派して新竹を偵察し、下士斥候を派して鳳山渓を偵察。後援隊、中歴に至る。淡水・台北間の水路兵站、開始。
  • 一六日 宮の家従高野盛三郎、東京より至り、家扶心得を命ぜらる。家従心得山本喜勢治、基隆より至る。
  • 一七日 午後二時、総督閲兵式。四時、総督府開庁式。宮ならびにこれにhませ給う。この日、小松宮依仁親王、山階宮菊麿王、来訪。
  • 一九日 楫取道明、宮の御許にまいる。
  • 二〇日 宮、高屋宗繁に帰京を命じる。
  • 二一日 高屋宗繁、帰京の途につく。西郷隆凖(式部官)中村純九郎(参事官心得)伺候す。
  • 二二日 山根少将、伺候す。
  • 二四日 渋谷支隊、台北を発して桃仔園に至る。宮は第二次輸送船の載せ来たれる歩兵第二旅団、騎・砲・工・輜重兵の半部をもて近衛混成旅団となし、山根少将をしてひきいしめ、これに水路、澎湖島に集合して、台南および鳳山を占領せんことを謀るべきよしを命じ、同時に参謀長鮫島重雄に、この旅団に同伴すべきことを訓令。
  • 二七日 宮、恩地轍に帰京を命じる。轍、台北を発す。
  • -----------------------------------
  • 七月
  • -----------------------------------
  •  一日 基隆にては部隊の乗船すべきもの乗船し始めしに、夜、総督府、急に第二次輸送部隊の水路南に行くことを止め、これに基隆に上陸し、台北に集合すべきことを令しつ。宮、ただちに基隆に電報せしめる。
  •  三日 前に基隆に遣わされし参謀長鮫島重雄、帰り来ぬ。
  • 一〇日 宮は第二旅団長山根信成をして、混成旅団をひきいて、本道の南側に沿いて新竹に進ましめ、みずから爾余の兵をひきいて、本道を新竹に向かわんとおぼし、山根旅団長に命令す。
  • 一三日 宮、台北におわして聞こし召し、海山口にある歩兵第四連隊(内藤正明これに長たり)に命じてこれを討ち退けしめる。連隊の第二大隊この敵を攻撃して夜に入る。
  • 一四日 宮、武装して夜を徹す。当時、宮の掌握する兵は、わずかに歩兵第一連隊の三中隊半のみ。
  • 一七日 総督、近衛師団に訓令して、台北・新竹間鉄道の南方なる地帯に土着せる敵を掃蕩せしめんとす。
  • 一八日 この夜、宮、三角涌付近の敵を掃蕩せんことを計画せさせ給う。
  • 二一日 勅使、歩兵中佐中村覚、総督府に至る。宮、往いて迎えさせ給う。
  • 二二日 宮、午前八時五十分、台北西門の廓壁の上に登り、観戦。
  • 二五日 勅使、台北を発す。宮、往いて送らせ給う。
  • 二七日 夕に総督、宴を設けて宮の南行を送る。この日、宮は兵站監部および野戦病院を訪う。
  • 二九日 午前五時、宮、台北を発し、午後三時十五分、桃仔園に至り、林某の家に宿る。この夜、軽き下利症にかかる。
  • 三〇日 午前七時四十分、宮、桃仔園を発し、午時、中櫪に至り、寺院に宿る。
  • 三一日 午後二時三十分、宮、中櫪を発し、三時二十分、汽車に乗る。五時三十分、汽車大湖口をへて、六時十分、新竹に至る。宮は轎に乗りて兵站司令部に入る。
  • -----------------------------------
  • 八月
  • -----------------------------------
  •  七日 宮、この日に至るまで新竹に留まる。
  •  八日 宮、午前四時、新竹を発する。この日の戦闘には艦隊の援助ありき。南勢山なる露営地は昼烈しき日を避け、夜繁き露をしのぐべき木蔭だになく、くむべき谷水もあらざりければ、汚れたる稲田の水もて糒を蒸したるを、夕餉に宮もめさせ給いぬ。
  •  九日 宮、予備隊をひきいて、九時、尖筆山砲塁のそばなる墓地の木蔭に至る。右翼隊は午後一時、埔仔港に至り、中港に宿る。宮も右翼隊に続かせ給いて、午後三時、中港に着く。
  • 一二日 苗栗方面の敵を攻撃すべき師団命令出る。本隊は新たに台北より至りし歩兵第一連隊、騎兵大隊、工兵一小隊よりなれるを宮みずからひきいる。
  • 一三日 宮、午前七時三十分、中港を発し、午後一時、後�付近に至る。午後五時、後�の舎営に着く。
  • 一四日 宮、本隊とともに苗栗に入り、また後�に帰る。この日、歩兵第二連隊の一大隊(前田大隊)を新竹・白沙�~間の守備隊とし、歩兵第四連隊第二大隊(伊崎大隊)を師団本隊とす。歩兵第三連隊第二大隊(坊城大隊)を新竹に留める。
  • 一五日 前衛、通霄に至る。
  • 一六日 宮、総督に交渉させ、師団を前進せしむることに決す。糧秣の大部分を、水路、大甲に輸送せんとす。
  • 一九日 師団命令を発して、山根支隊に大甲を攻撃せしめる。
  • 二一日 某蕃社の酋長の父子、後�の師団司令部に至りて、軍にしたがわんことを請う。宮、これを許す。
  • 二二日 午前六時、宮、後�を発す。午後一時三十分、通霄に着く。山根支隊の偵察隊、胡盧�~に至り、潭子に進まんとして敵にあい、退き帰る。
  • 二三日 午前六時、宮、通霄を立つ。午時、大甲に至る。前に水路この地に輸送せしめし糧秣は、その舟、風に阻げられて到らず。
  • 二四日 宮、師団を大肚渓付近に前進せしむることに決す。
  • 二五日 宮、午前五時三十分、大甲を発し、九時三十分、牛馬頭に至る。
  • 二六日 宮、午前六時、牛馬頭を発し、九時三十分、大肚街なる学林に着く。十一時、宮、�仔頭付近に出で、大肚渓の岸なる歩哨線を観す。午時、宮、紐もて領に懸けさせ給える望遠鏡をあげて、敵陣を望みつつ、幕僚と語らせ給うとき、敵の発せし七サンチメートルの榴弾、宮の頭上五メートルばかりの所を飛びすぎて、宮の背後二十メートルの地におちぬ。幸いにして弾は破裂せざりしかど、土砂はほとばしりて宮の袴に濺ぎぬ。幕僚、危害の宮の御身におよばんことを恐れ、宮を勧めまつりて後方三十メートルの凹地に退きぬ。午後一時、帰路につき、ふたたび大肚街なる学林に入る。
  • 二七日 宮、午後四時三十分、大肚街の舎営を出で、本隊を�仔頭付近に露営、大肚街西北端なる寺院に憩う。
  • 二八日 宮、午前五時、舎営を出で河岸に駐らせ、八卦山の陥るころおい河をわたる。七時二十分、騎兵大隊(隊長、渋谷在明)に嘉義街道の敵を追撃せんことを命じ、十時、八卦山の上におわして、ふたたび臨機の諸命令を発す。宮、彰化に入り、師団司令部を台湾府庁に置き、庁内なる敵将・黎景順が家にやどる。総督の命令至る。師団は南進を停止し、台南方向を偵察せよとなり。総督、宮に祝捷電報を送りぬ。


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)。

*人物一覧

  • 能久親王 よしひさ しんのう 1847-1895 北白川宮第2代。伏見宮邦家親王の第9王子。仁孝天皇の猶子。陸軍大将。近衛師団長として台湾出兵中、台南で没。
  • 河村秀一 かわむら? 幕僚。師団の参謀。
  • 田中又三郎 たなか? 歩兵第一連隊第六中隊の中尉。地雷爆発して又三郎以下士卒二十一名即死。
  • 混参金 〓 シナ人。
  • 樺山資紀 かばやま すけのり 1837-1922 軍人。海軍大将。薩摩藩士。戊辰・西南戦争で軍功をあげ、海相となり、日清戦争時は軍令部長。初代台湾総督。伯爵。
  • 川村景明 かわむら かげあき 1850-1926 鹿児島生まれ。薩摩藩士、野崎吉兵衛の三男。後に川村新左衛門景尚の養子となり川村家を継ぐ。陸軍軍人、華族。東京衛戍総督、鴨緑江軍司令官等を歴任。通称は源十郎。旅団長。明治27年、日清の戦端開かるるにおよび、近衛兵第一旅団長に任じられ、28年4月、大連に出征。能久親王を師団長に仰ぐ近衛師団は台湾の鎮定と守備の任務をもって、5月旅順を発し、三貂角に上陸。享年77。
  • 坊城俊延 ぼうじょう 〓 騎兵第二小隊長少尉。
  • 福島安正 ふくしま やすまさ 1852-1919 信濃国(長野県)生まれ。軍人。陸軍大将。信州松本藩士の子。情報将校として参謀本部に勤務、1892年(明治25)ドイツから単騎シベリアを横断して帰国。参謀次長・関東都督。男爵。総督府参謀。
  • 蘇樹林 〓 水返脚。村長。家が宿営となる。
  • 田中国重 たなか くにしげ 1870-1941 鹿児島県出身。田中国高の長男。陸軍の軍人。最終階級は陸軍大将。当時、騎兵一小隊中尉。
  • 余清勝 〓 清国の将校。
  • 呉光亮
  • 楊某
  • 唐某 台湾大統領と称する。
  • 劉永福 りゅうえいふく 1837-1917 字は淵亭、広東省欽州(現在の広西チワン族自治区)の清朝の軍人。民主国政府より大将軍に任じられ、台北陥落後の抵抗を担うこととなった。日本軍が台南に迫ると安平へ、その後ドイツ船籍の船で中国へ逃亡。
  • 高野盛三郎 〓 宮の家従。
  • 山本喜勢治 やまもと? 宮の家従心得。
  • 小松宮 こまつのみや 旧宮家の一つ。東伏見宮を1882年(明治15)改称したもの。継嗣なく1代で廃絶。
  • 依仁親王 よりひと しんのう 1867-1922 皇族、海軍軍人。伏見宮邦家親王王子。官位は元帥海軍大将・大勲位・功三級。妃は岩倉具定公爵の長女周子。1869年(明治2年)兄宮山階宮晃親王の養子となる。イギリス留学を経験した後、1885年(明治18年)12月に小松宮彰仁親王の養子となり、1886年(明治19年)5月に親王宣下を受け明治天皇猶子となり名を依仁と改める。
  • 山階宮 やましなのみや 旧宮家の一つ。1864年(元治1)伏見宮邦家親王の第1王子晃(あきら)親王が、山科の勧修寺より還俗して創始。1947年宮号廃止。
  • 菊麿王 きくまろおう 1873-1908 山階宮。皇族、海軍軍人。山階宮晃親王の第一王子。母は家女房中条千枝子。明治7年(1874年)梨本宮守脩親王養子となり、明治14年(1881年)後を継ぎ梨本宮第二代となる。明治18年には山階宮に復籍し晃親王の継嗣となる。海軍に入り磐手、八雲の分隊長を務めた。
  • 高橋利作 たかはし? 騎兵一小隊隊長中尉。
  • 阪井重季 さかい しげすえ/しげき 1847-1922 陸軍の軍人。最終階級は陸軍中将。貴族院議員、男爵。旧名・元助。土佐藩馬廻役、二川周五郎の長男。歩兵第二連隊長。司令官。
  • 楫取道明 かとり?
  • 高屋宗繁
  • 山根信成 やまね のぶなり 1851-1895 陸軍の軍人。最終階級は陸軍少将。山口県出身。明治維新後、陸軍に入る。2月、歩兵第12連隊長となり、10月、歩兵大佐に昇進した。
  • 西郷隆凖 さいごう? 式部官。
  • 中村純九郎 なかむら? 参事官心得。
  • 渋谷在明 しぶや ざいめい 1856-1923 陸軍中将。和歌山藩士渋谷在質の長男。江戸生まれ。騎兵中佐。司令官。享年68。
  • 鮫島重雄 さめじま しげお 1849-1928 薩摩藩士鮫島藤兵衛の次男。陸軍軍人。師団参謀長。
  • 吉田宗吾 よしだ? 逓騎第三小隊長。特務曹長。新車において敵におそわれ、部下一人とともに戦死。
  • 潘良 〓 敵将。渋谷支隊により頭亭渓で殺害。
  • 黄娘盛 敵将。安平鎮。
  • 胡嘉猷 〓 銅羅騫。
  • 恩地轍 おんち 〓 東京地方裁判所検事で、のち宮内省式部職。四男は装幀家の孝四郎。
  • 桜井茂夫 さくらい? 特務曹長。
  • 牧野正臣 まきの? 騎兵一小隊、隊長中尉。
  • 内藤正明 ないとう? 歩兵第四連隊長。
  • 浮田家雄 うきた? 騎兵一小隊。少尉。
  • 菊池慎之助 きくち しんのすけ 1866-1927 水戸藩士、戸田道守の子。菊池敬之進の養子。陸軍の軍人。最終階級は陸軍大将。当時、偵察隊、中尉。
  • 白井安蔵 しらい? 一作、安吉。第三連隊第八中隊の上等兵。
  • 三宅保太郎 みやけ? 第五中隊の一等卒。
  • 小賀友左衛門 こが? 第三連隊第六中隊の軍曹。
  • 横田安治 よこた? 第一連隊第七中隊の上等兵。
  • 山本好道 やまもと? 指揮官特務曹長。
  • 松浦藤三郎 まつうら? 騎兵第二中隊、隊長。
  • 中村覚 なかむら さとる 1854-1925 彦根藩士、中村千太夫の次男。陸軍軍人、華族。関東都督、東京衛戍総督、侍従武官長を歴任。当時、歩兵中佐。
  • 簡玉和
  • 林木生
  • 王尖頭
  • 管帯忠字正中営義民
  • 中村道明
  • 林某 林学林また林老師。
  • 蔵田〓 くらた? 砲兵第二大隊長。
  • 呉湯興
  • 邱国霖
  • 李惟義 〓 黒旗新楚軍。
  • 黎景順 〓 敵将。
  • 梅福喜
  • 陳某
  • 今井直治 司令官。
  • 伊崎良煕 司令官。
  • 前田〓 まえた? 歩兵第二連隊、大隊。
  • 伊崎〓 いさき? 歩兵第四連隊第二大隊。
  • 摺沢静夫 すりさわ? 大隊長。
  • 新海竹太郎 しんかい たけたろう 1868-1927 彫刻家。山形市生れ。小倉惣次郎(1846〜1913)に塑造を、浅井忠にデッサンを学び、ベルリンに留学。帰国後、太平洋画会彫刻部を主宰。新古典主義的作風で知られる。作「ゆあみ」
  • 千田貞幹 せんだ? 千田貞暁(せんだ さだあき)か。/第一連隊第二大隊、隊長。
  • 頼望雲 〓 統領。鹿港。


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店)『日本人名大事典』平凡社。

*難字、求めよ


窘むる くるしむる
鹵獲 ろかく (「鹵」は捕らえて奪う意)戦勝の結果、敵の軍用品などを奪い取ること。
往いて ゆいて、か。
寄留 きりゅう (1) 他郷または他家に一時的に身を寄せて住むこと。かりずまい。寓宿。仮宿。仮寓。(2) 〔法〕旧制で、90日以上、本籍地以外の一定の場所に居住する目的で住所または居所を有すること。
偶 たまたま、か。
攀じしめん よじしめん
闢いて ひらいて
抗抵 こうてい (明治期に用いた語)てむかうこと。抵抗。
梯団 ていだん 大人数の部隊が行進などを行うにあたり、便宜上、数個の部隊に分けた時の各部隊。もと軍隊の用語。
俘 ふ、とりこ、か。
土蕃 どばん 土着の蕃人。
拉いて ひしいて、か。とりひしぐ。ひっぱる。
土兵 どへい 土着の兵士。その土地で徴集した兵。
上り たてまつり
hませ のぞませ
輜重兵 しちょうへい 軍需品の輸送・補給にあたる兵。旧陸軍の兵科の一つ。
黒旗兵 こっきへい 清末、清仏戦争に際して劉永福(1837〜1917)の編成した義勇軍。ベトナムでフランスに抵抗した。黒旗軍。
逓騎 ていき (「逓」は駅伝の意)遠隔の地に命令などを伝達する騎兵。
吉米
後顧の憂え こうこのうれえ 立ち去ったあとの心配。残された者への気づかい。
爾余 じよ 自余・爾余。このほか。そのほか。それ以外。
ュいて
禍心 かしん 禍害を加えようとする心。
跟随 こんずい (「跟」は、かかとの意)人の後について行くこと。跟従。
阻げられ さまたげられ?
口糧 こうりょう 兵士一人分の糧食。
逓騎哨 ていきしょう?
殪れ たおれ
狭隘 きょうあい (1) 面積が狭いこと。(2) 度量が狭いこと。
獰悪 どうあく 性質などが荒々しくわるづよいこと。夏目漱石、吾輩は猫である「書生といふ人間中で一番―な種類」
喀家族
客家 ハッカ (中国語の方言から)中国、漢族中の、客家語を話す集団。黄河中流域の中原地方を原郷とし、東晉末頃から南下したとされる。主に広東省東部に住むが、広西、四川、湖南の各省、台湾さらに東南アジア各地にも広がる。独自の言語、風俗を保持している。
轎 きょう (1) かご。肩でかつぐこし。やまかご。「轎夫」(2) 小さくて軽い車。「轎車」
舎営 しゃえい 軍隊が家屋内に休養・宿泊すること。
糧秣 りょうまつ 軍隊で、兵と馬との糧食。兵糧とまぐさ。
足疾 そくしつ 足の病気。
長途 ちょうと 長いみちのり。
買弁 ばいべん/まいべん (明・清代、宮廷用物品を調達する者の意) (1) (comprador ポルトガル 購買者・買付商の意)清末以降、中国にある外国商館・領事館などが、中国商人との取引の仲介手段として雇用した中国人。自ら資本家となる者もあった。中華人民共和国成立で消滅。(2) 外国資本への奉仕によって利益を得、自国の利益を抑圧するもの。
縦隊 じゅうたい 縦列に並んだ隊形。
徒渉・渡渉 としょう (1) 歩いて水を渡ること。かちわたり。(2) 徒歩で陸を歩いたり水を渡ったりすること。
偵知 ていち 様子をさぐり知ること。
糎・珊 サンチ センチに同じ。サンチメートル(centim*tre フランス)の略。主に火砲の口径などにいう。
濺ぎ そそぎ
従容・縦容 しょうよう 動じることなくゆったりとしているさま。おちついたさま。
逐次 ちくじ (古くはチクシ)順を追って次々に。順次。
扼する やくする (1) 握りしめる。(2) おさえつける。とりひしぐ。(3) 重点・要点をおさえる。要衝を占める。
駐らせ とどまらせ
舎らせ やどらせ
祝捷 しゅくしょう 勝利を祝うこと。祝勝。


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店)『日本国語大辞典 第二版』(小学館、2001.5)。
*後記(工作員スリーパーズ日記)
 二年半か。時間がかかってしまった……。ようやく人に見てもらえるくらいまで形を整えることができました。
 登場人物も台湾の地名もまったくお手上げ。内容理解は二割に満たないと思う。

 たしか七、八年ほど前に、幕末の出羽三山のことを知りたいと思って『山形県史』や『羽黒町史』などに目をとおしていたとき、羽黒山最後の別当である官田(かんでん)という人物に行き当たりました。
 官田。現、山形県西村山郡船町出身。山寺立石寺で得度、東叡寺で修行、福聚院住職となる。累進して東叡山内陣係にあげられ、公現法親王(のちの北白川宮能久親王)の養育にあたる。『庄内人名事典』より)

 つまり、東叡山寛永寺の主たる輪王寺宮になったばかりの能久親王、そのお世話にあたったのが出羽国出身の官田。その後、官田は羽黒山最後の別当をつとめる。かたや能久親王は、徳川慶喜の助命嘆願役を請われ、薩長軍と彰義隊の上野戦争を脱出、奥羽越列藩同盟の盟主として奉られて、日光、会津、白石、仙台へとおもむくことになる。
 関東から奥羽へ。維新倒幕と廃仏毀釈・神仏分離。
 
 芭蕉と曾良の奥の細道をなぞるように進む西郷吉之介・黒田清隆ら薩長新政府軍が対立したのは、旧幕臣や佐幕諸藩であったと同時に、上野寛永寺や日光輪王寺や仙台仙岳院といった徳川・天台ネットワークであったとも見てとれる。

*次週予告


第二巻 第一六号 
能久親王事跡(六)森 林太郎


第二巻 第一六号は一〇月三一日(土)発行予定です。
月末最終号:無料


T-Time マガジン 週刊ミルクティー第二巻 第一五号
能久親王事跡(五)森 林太郎
発行:二〇一二年三月一五日(木)
編集:しだひろし/PoorBook G3'99
 http://www33.atwiki.jp/asterisk99/pages/1.html
出版:*99 出版
 〒994-0024 山形県天童市鎌田2丁目1−21
 アパートメント山口A−202
販売:DL-MARKET
※ T-Timeは(株)ボイジャーの商標・製品です。

T-Time マガジン 週刊ミルクティー*99 出版

奇巌城 モーリス・ルブラン 菊池寛(訳)

第二巻 第一号 奇巌城(一)  月末最終号:無料
「十分わかりました。第一、レイモンド嬢が塀の外の小路で君を見たという時間に、君はたしかにブールレローズにおられた。君はまちがいなくジャンソン中学の学生で、しかも優等生であることがわかりました。
「では、放免してくださいますか?」
「もちろんします。しかし、先日話しかけてやめてしまった話のつづきを、ぜひしていただきたい。二日間も飛びまわったことだから、だいぶ調べは進んだでしょう。
(略)「ガニマールさん、いけない、いけない、ここにいらっしゃい。ボートルレ君の話は十分聞くだけの値があります。ボートルレ君の、するどい頭を持っていることはなかなかの評判で、英国の名探偵エルロック・ショルムス氏のいい対手(あいて)とさえいわれているのですよ。(略)
 伯爵が室を出ていったあとで、判事は今度は、犯人のかくれている宿屋のことのついてたずねた。ボートルレの答えは、また、ちがっていた。ボートルレの答えによると、犯人は宿屋などにはいないというのである。宿屋へ運んだように見せかけたのは警察をたぶらかす陥穽(わな)であった。犯人はたしかにまだ、あの僧院の中にかくれている。死にそうになっている病人をそんなに運び出せるものではない。あの火事さわぎをやっている間に、医学博士を僧院の中へ案内した。医学博士が宿屋だといったのは、犯人たちが博士をおどかして、あのようにいわせたのだとボートルレは語った。
「しかし、僧院の中は円柱が五、六本あるばかりで……」
 判事は不思議がった。
「そこに、もぐりこんでいるのです。」とボートルレは力をこめてさけんだ。「判事さん、そこを探さなければ、アルセーヌ・ルパンを見つけだすことはできません。

第二巻 第二号 奇巌城(二)  定価:200円(税込)
 少年はある朝、村の小さな飯屋(めしや)で、馬方(うまかた)のような男がじろじろと自分を見ているのに気がついた。ボートルレは、変(へん)なやつだと思ってその飯屋(めしや)を出ようとすると、その馬方(うまかた)が声をかけた。
「ボートルレさんでしょう、変装(へんそう)していてもわかりますよ。」という。どうやらその男も変装(へんそう)しているらしい。
「あなたはどなたです?」
「わかりませんかね、私はショルムスです。
 ああ、英国(えいこく)の名探偵(めいたんてい)ショルムス! ここであうということは、何というめずらしいことであろう。しかしショルムスは、少年よりも先に秘密(ひみつ)をにぎったのではないだろうか。探偵(たんてい)は、少年のその顔色(かおいろ)を見て、
「いや、心配(しんぱい)なさらんでもいい、私のはエイギュイユの秘密(ひみつ)のことではない。私のは、ルパンの乳母(うば)のヴィクトワールのいる場所(ばしょ)がわかったので、そこで、ルパンをつかまえようというつもりなんです。」なお、探偵(たんてい)はいった。「私とルパンとが顔をつきあわせる日には、そのときこそ、どちらかに悲劇(ひげき)が起(お)こらないではすまないでしょう。
 探偵(たんてい)は、ルパンに深いうらみを持っている。ルパンとのたたかいに、ショルムスは死ぬ覚悟(かくご)を持っているのだ。二人はわかれた。



第二巻 第三号 美し姫と怪獣 / 長ぐつをはいた猫
定価:200円(税込)
美し姫と怪獣 ヴィルヌーヴ夫人
長ぐつをはいた猫 ペロー
楠山正雄(訳)

(略)ある日、町(まち)からしらせがとどいて、難船(なんせん)したとおもった商人(しょうにん)の持(も)ち船(ふね)が、にもつを山(やま)とつんだまま、ぶじに港(みなと)へ入(はい)ってきたということがわかりました。さあ、うちじゅうの大(おお)よろこびといってはありません。なかでも、ふたりの姉(あね)むすめは、あしたにももう、いやないなかをはなれて、町(まち)の大きな家(いえ)へかえれるといって、はしゃいでいました。そして、もうさっそくに、きょう、町(まち)へ出たら、きものと身(み)の飾(かざ)りのこまものを、買(か)ってきてくれるように、父親(ちちおや)にせがみました。
「それで、美し姫(ラ・ベル)ちゃん、お前(まえ)さんは、なんにも注文(ちゅうもん)はないのかい?」と、父(ちち)はいいました。
「そうですね、せっかくおっしゃってくださるのですから、では、バラの花(はな)を一(いち)りん、おみやげにいただきましょう。このへんには、一本もバラの木がありませんから。」と、むすめはいいました。べつだん、バラの花(はな)のほしいわけもなかったのですが、姉(あね)たちがワイワイいうなかで、自分(じぶん)ひとり、りこうぶって、わざとなかまはずれになっていると、おもわれたくないからでした。
「美し姫と怪獣」より)


第二巻 第四号 毒と迷信 / 若水の話 / 麻薬・自殺・宗教
定価:200円(税込)
毒と迷信 小酒井不木
若水の話 折口信夫
安吾巷談 麻薬・自殺・宗教 坂口安吾

 ダーウィンの進化論を、明快なる筆により、通俗的に説明せしことをもって名高い英国の医学者ハックスレーが、「医術はすべての科学の乳母(うば)だ」といったのはけだし至言(しげん)といわねばなるまい。何となれば、吾人(ごじん)の祖先すなわち原始人類が、この世を征服するために最も必要なりしことは主として野獣との争闘であり、したがって野獣を殺すための毒矢の必要、また負傷したときの創(きず)の手当(てあて)の必要などからして、医術は人類の創成とともに発達しなければならなかったからである。しかして現今の医学の主要なる部分を占(し)むる薬物療法なるものは、じつに原始人類から伝えられてきた種々の毒に関する口碑(こうひ)が基(もと)となって発達してきたものであって、この意味において、毒はすべての科学の開祖とみなしてもさしつかえないのである。本来、「薬」なる語は毒を消す意味を持ち、毒と相対峙(あいたいじ)してもちいられたものであるが、毒も少量にもちうるときは薬となり、のみならず最も有効な薬は、これを多量に用うれば最もおそろしい毒であることは周知のことである。
「毒と迷信」より)


第二巻 第五号 空襲警報 / 水の女 / 支流
定価:200円(税込)
空襲警報 海野十三
水の女  折口信夫
支流   斎藤茂吉

「炭なんか持ってきて……お前(まえ)さん、この暑いのに火をおこす気かネ?」
 辻村氏の顔を見て、鉄造は首を横にふった。
「牛乳、ビール、サイダーの空(あき)ビンを集めてください」
 妙(みょう)な物を注文した。――やがて七、八本の空(あき)ビンが、鉄造の前にならんだ。
 炭は女づれのところへまわされ、学生のピッケルをかりて、こまかく砕(くだ)くことを命じた。一人の奥さんの指から、ルビーの指環(ゆびわ)が借りられ、それを使って、ガラスビンの下部に小さな傷(きず)をつけた。それから登山隊の連中からロウソクが借りられた。灯をつけると、ガラスビンの傷(きず)をあぶった。ピーンとビンに割目(われめ)が入った。ビンをグルグルまわしてゆくと、しまいにビンの底がきれいに取れた。一同は固唾(かたず)をのんで鍛冶屋(かじや)の大将の手(て)もとを見ている。
 彼はポケットから綿をつかみだした。炭と綿とは、駅の宿直室(しゅくちょくしつ)から集めてきたのだった。――綿をのばしたのを三枚、ぬけたビン底から上の方へ押しこんだ。
「炭をあたためて水気(みずけ)をなくし、活性炭(かっせいたん)にすれば一番いいのだが、今はそんな余裕もないから……」
 といいながら小さくした堅炭(かたずみ)をドンドン中へつめこんだ。そしてまた底の方をすこしすかせ、綿を三枚ほどかさねてふたをした。そうしておいてビン底を、使いのこりの布で包み、その上を長い紐(ひも)で何回もグルグル巻(ま)いてしばった。
(略)「形は滑稽(こっけい)だが、これでも猛烈(もうれつ)に濃(こ)いホスゲンガスの中で正味一時間ぐらい、風に散(ち)ってすこし薄(うす)くなったガスなら三、四時間ぐらいはもつ。立派な防毒面(ぼうどくめん)が手に入らないときは、これで一時はしのげるわけさ……」
「空襲警報」より)

特集 花郎(ファラン)

第二巻 第六号 新羅人の武士的精神について 池内宏
月末最終号:無料
(略)そうして新羅の地理上の位置は、他の諸国に比してすこぶる遜色(そんしょく)がある。半島の東方に偏在して、海岸線が短かく、山岳が多くて肥沃(ひよく)なる大平野がない。のみならず直接に大陸と交通する便宜(べんぎ)を欠いていたから、文化の発達もおくれていた。だからこの国が周囲の圧迫にたえてゆくには、是非ともおのずからたのみとする力強い何ものかを持たねばならぬ。そういうものがなければ、国家の存立すら危(あや)うくなる。いわんや進んで国力を振張(しんちょう)せんとするにおいてをやである。祖国の擁護(ようご)のためには身命をかえりみない武士的精神、―忠と勇とを基調とする愛国的精神は、かような関係から自然に涵養(かんよう)せられたであろう。のみならずそれがまた奨励(しょうれい)せられたであろう。そうしてことに真興王(しんこうおう)の領域拡張の結果、百済・高句麗二国の共同の圧迫が、いっそう強く加わるようになると、それに正比例して、こういう精神はますます強烈の度を加えたにちがいない。それは上に目(もく)をかかげた忠臣義士の伝が、いずれもこの時代に属するのを見てもあきらかである。かくのごとき国家多難の時代において、特にその衝(しょう)にあたった偉大なる政治家には金(きん)春秋(しゅんじゅう)があり、抜群(ばつぐん)なる武将には金(きん)�信(ゆしん)があった。これら二人の努力の結果は、ついに新羅をして半島全体の主人たることに成功せしめた。しかも彼らの背後には、彼らを支持する有形無形の民衆的の強い力のはたらいていたことを認めなければならないのである。


第二巻 第七号 新羅の花郎について 池内宏
定価:200円(税込)
(略)花郎(ファラン)はおおむね貴族の子弟であって、年十五、六のうら若き少年である。そうしてさまざまの階級の徒衆がこれに属し、その数は数百ないし一千にのぼった。すなわちいわゆる「郎徒」である。
 無慮二百余人もあったという上中下三代の花郎のうち、その事跡のあきらかにして、かつ最も古いのは、上代における真興王(第二十四代)の二十三年(五六四)、加羅征伐のおこなわれた時、名将異斯夫(いしふ)にしたがって抜群なる戦功を立てた斯多含(したがん)である。
(略)花郎および郎徒の風流韻事は、前章に述べた尽忠報国、勇壮義烈の精神とともに、その特別なる修養団体の本質の一部をなすものであろう。花郎が徒衆を領して山水に優遊することが、それおのずから風流なる行為であると同時に、彼らはそういう場合にかぎらず、平生韻事をたしなみ、かつ文字に親しんでいたにちがいない。
(略)『三国遺事』には、郷歌(きょうか)を対象とする記事がすこぶる多い。全然『三国史記』に記されていない十四首の郷歌のごときも、本書によって今日に伝わったのである。そうして本書の国仙すなわち花郎の物語は、おおむね郷歌に関係づけられている。しかるに前章に述べた『三国史記』列伝の花郎は、いずれもいわゆる芳名美事を遺した武勇伝中の人物であって、たがいに著しい対照をなしている。


第二巻 第八号 震災日誌 / 震災後記 喜田貞吉
定価:200円(税込)
(略)転じて本郷の通りへ出て、焼けたという一高へ行ってみると、これも噂ばかりで何のこともない。門内には避難者が群集している。様子を聞こうと門衛所の前へ行くと、「喜田先生ではありませんか」と声をかける生徒がいる。よく見るとこれは原博士(京大文学部長)の令息が警戒に立っておられるのだ。
 帝大の大部はすでに無残にも焼け落ちている。門衛について聞くと、法文両学部は全滅で、図書館の書庫まで焼けてしまったという。なんという情けないことであろう。ここには金で補いのつかぬ多くの書籍があったはずだのに。しかし史料編纂掛が無事だと聞いて、国史科のためには思わず万歳を唱えざるを得なかった。
 大学の前は避難者でいっぱいだ。その中を押しわけて本郷三丁目の十字路へ来てみると、角の長島雑貨店など二、三戸を残したほかは、本郷座の方へかけて見渡すかぎり一面の火だ。これではたとい水があったとて消防の手のまわるはずはない。猛火は容赦なくあらゆる物を焼いて、下谷・神田・浅草の方まで一つになっているのだという。湯島の和田英松君(史料編纂官)のお宅が気にかかるがとても寄りつかれそうもない。同君は自分ら仲間ではことに蔵書家として知られている人だ。浅草には黒川真道君や大槻如電翁がおられる。有名な書肆(しょし)浅倉屋がある。その莫大な蔵書はどうなったことであろうと気にかかる。


第二巻 第九号 セロ弾きのゴーシュ / なめとこ山の熊 宮沢賢治
定価:200円(税込)
 ゴーシュは、町の活動写真館でセロを弾(ひ)く係でした。けれどもあんまり上手でないという評判でした。上手でないどころではなく、じつは仲間の楽手のなかではいちばん下手(へた)でしたから、いつでも楽長にいじめられるのでした。
 ひるすぎ、みんなは楽屋にまるくならんで、今度の町の音楽会へ出す第六交響曲の練習をしていました。
 トランペットは一生けん命歌っています。
 ヴァイオリンも二いろ風のように鳴っています。
 クラリネットもボーボーとそれに手伝っています。
 ゴーシュも、口をりんと結(むす)んで眼を皿のようにして楽譜を見つめながら、もう一心に弾いています。
 にわかにパタッと楽長が両手をならしました。みんなピタリと曲をやめてしんとしました。楽長がどなりました。
「セロがおくれた。トォテテ テテテイ、ここからやりなおし。はいっ。
「セロ弾きのゴーシュ」より)


第二巻 第十号 風の又三郎 宮沢賢治
月末最終号:無料
(略)二人(ふたり)ともまるでびっくりして棒立(ぼうだ)ちになり、それから顔を見あわせてブルブルふるえましたが、ひとりはとうとう泣(な)き出してしまいました。というわけは、そのしんとした朝の教室(きょうしつ)のなかにどこからきたのか、まるで顔も知らないおかしな赤い髪(かみ)の子供(こども)がひとり、いちばん前の机(つくえ)にちゃんとすわっていたのです。そしてその机(つくえ)といったら、まったくこの泣(な)いた子の自分の机(つくえ)だったのです。(略)
「あいづは外国人(がいこくじん)だな。
「学校さはいるのだな。」みんなは、ガヤガヤガヤガヤいいました。ところが五年生の嘉助(かすけ)がいきなり、
「ああ三年生さはいるのだ。」とさけびましたので、
「ああそうだ。」と小さいこどもらは思いましたが、一郎はだまってくびをまげました。
 変(へん)なこどもは、やはりきょろきょろこっちを見るだけ、きちんと腰(こし)かけています。
 そのとき風(かぜ)がドウと吹(ふ)いてきて教室(きょうしつ)のガラス戸(ど)はみんなガタガタ鳴(な)り、学校のうしろの山の萱(かや)や栗(くり)の木はみんな変(へん)に青じろくなってゆれ、教室(きょうしつ)のなかのこどもはなんだか、ニヤッとわらってすこしうごいたようでした。


第二巻 第一一号 能久親王事跡(一)森 林太郎
定価:200円(税込)
(安政)五年(一八五八)九月二十七日、勅によりて梶井宮より召し還され、輪王寺宮の御付弟にならせ給う。輪王寺宮とは、明暦元年(一六五五)十一月二十六日、後水尾上皇の勅して、当時、東叡山寛永寺におわせし上皇の第三子、守澄親王に賜わりし称号なり。同じ宮をば、また日光御門主と称えたてまつる。これよりさき、天文年間(一五三二〜一五五五)慈眼大師、満願寺を下野国日光山に興し、比叡・日光両山を管領す。慶長十四年(一六〇九)後陽成上皇の勅によりて、山城国山科なる毘沙門堂を再興す。元和三年(一六一七)後水尾天皇の勅によりて、徳川家康の遺骸の駿河国久能山におさめられたるを、日光山に移し、東照廟を建つ。寛永三年(一六二六)、徳川家光、勅許を受けて、東叡山寛永寺を武蔵国江戸、忍岡に建て、山城国比叡山に擬う。(略)当時(安政五年)在職せさせ給えるは、弘化三年(一八四六)四月二十五日、公紹親王の後をうけさせ給いし韶仁(つなひと)親王の子、光格天皇の御養子、慈性親王にておわしき。御付弟をば、世に日光新宮とぞ称えまつりし。(略)十月七日(略)輪王寺宮執当代、霊山院官田は同日江戸を立ちて、十月十一日、京都にいたりぬ。(略)


第二巻 第一二号 能久親王事跡(二)森 林太郎
定価:200円(税込)
(略)亮栄、星野長兵衛をまねきて、宮の召させ給うべき端艇のことを委托す。長兵衛は紀州家の用達回漕問屋にして、鉄砲洲船松町二丁目に住めり。屋号は松坂屋なり。(略)二十五日、午餉おわりて、未刻のころ、宮の一行は医師の病家にゆく状に擬して自証院を出づ。西川玄仲、先に立ちて行けり。宮は自証院の侍、伊藤喜作の帷子羽織を召して、角帯をしめ、木刀を挿し、雪駄を穿きて、玄仲が門人に扮せさせ給う。背後には匹田丑之助、薬籠を負いて随えり。(略)夜半、長兵衛、小舟を屋後の溝渠に漕ぎ入れて一行を載せ、羽田沖に停泊せる軍艦長鯨丸に送りとどく。榎本和泉守は回陽丸より来て、長鯨丸の乗組、斯波清一郎らと宮を迎えまつる。艦内には二室を準備し、一つを宮の御座間にあて、一つには随行員を居らしむ。(略)榎本、御前に進みていわく。こたびの御出発は重大なる事なり。もしなお大総督府におもむかせ給わん思召しおわしまさば、船員、命をすてて護衛しまいらせてん。然らずして必ず北国に渡らせ給わんとおぼさば、その御趣旨をうけたまわらばやという。宮、宣給わく。東叡山の道場、兵燹(へいせん)にかかりて、身を寄すべきところなし。頃日(けいじつ)左右に諮るに、みな江戸の危険にして、たとい大総督府に倚(よ)らんも、また安全を期し難かるべきを語れり。よりてしばらく乱を奥州に避けて、皇軍の国内を平定せん日を待たんとすと。(略)須臾(しゅゆ)にして舟、羽田沖を発す。榎本は回陽丸もて安房国館山沖まで送りまつりぬ。


第二巻 第一三号 能久親王事跡(三)森 林太郎
定価:200円(税込)
(略、慶応四年九月)二十日(略)この日、円覚院義観、米沢より帰る。ただちに執当の職を免じて、尭忍とともに謹慎せんことを命ぜさせ給う。二人は仙岳院の末寺に閉居しつ。義観、人に語りていわく。宮のこの行あるに至らせ給いしは、東叡山の戦にさきだちて、我がほしいままに大総督府の使をこばみしによる。我、いかでか宮の陳謝状に自署せさせ給うを傍看して恬然(てんぜん)たることを得べきと。これより自証院亮栄、かわりて執当の職をおこなう。
(略、十月)五日、(略)義観・尭忍の職を免じ、その弟子をして覚王院、龍王院の後住たらしめんことを約せさせ給う。(略)六日、功徳院慈亮、東照宮の神体・什物を護り、別当大楽院、安居院、信行房、社家二人、神職十七人を伴いて、羽前柏山寺(はくさんじ)より帰る。
(略)八日、慶邦(よしくに)に書を与えて、伊達家の借りたる東叡山府庫(ふこ)の金をかえすことを要せずと告げ、かねて義観、尭忍の仙台にあらんかぎり、扶持せんことを頼み聞こえさせ給う。(略)
(十月)十二日、辰半刻、宮は輿に乗りて仙岳院を立たせ給う。伊州藩士藤堂仁右衛門、兵六十人ばかりをひきいて、菊御紋を染めさせたる旗をたて、輿の前後を護れり。藩主慶邦、後藤孫兵衛を遣わして送りまいらす。東照宮の神体および什宝は、別当ら護りて一行の後に随いぬ。さて陸前国名取郡中田、増田、岩沼をへて、火ともし頃に柴田郡槻木(つきのき)に着かせ給う。この日、義観、尭忍、檻にて東京に送られぬ。


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