武田祐吉 たけだ ゆうきち
1886-1958(明治19.5.5-昭和33.3.29)
国文学者。東京都出身。小田原中学の教員を辞し、佐佐木信綱のもとで「校本万葉集」の編纂に参加。1926(昭和元)、国学院大学教授。「万葉集」を中心に上代文学の研究を進め、「万葉集全註釈」(1948-51)に結実させた。著書「上代国文学の研究」「古事記研究―帝紀攷」。「武田祐吉著作集」全8巻。

◇参照:Wikipedia、『日本史』(平凡社)。
◇表紙イラスト:葛飾北斎「猿田彦太神」『北斎漫画』より。




 そこで、そのおきさきが、酒盃さかずきをお取りになり、立ち寄りささげて、お歌いになった歌、

ヤチホコのかみさま、
わたくしの大国主おおくにぬしさま。
あなたこそ男ですから
まわっている岬々みさきみさき
回っているさきごとに
若草のような方をお持ちになりましょう。
わたくしはおんなのことですから
あなた以外に男はなく
あなた以外におっとはございません。
ふわりとれた織物おりものの下で、
あたたかいふすまのやわらかい下で、
白いふすまのさやさやとる下で、
泡雪あわゆきのような若々しい胸を
コウゾのつなのような白い腕で、
そっとたたいて手をさしかわし
玉のような手を回して
足をのばしてお休みあそばせ。
おいしいおさけをおあがりあそばせ。
もくじ 
現代語訳 古事記(二) 上巻(後編)
武田祐吉(訳)


ミルクティー*現代表記版
現代語訳 古事記(二)
  古事記 上の巻
   四、大国主の命
    兎と鰐
    赤貝姫と蛤貝姫
    根の堅州国(かたすくに)
    ヤチホコの神の歌物語
    系譜
    スクナビコナの神
    御諸山の神
    大年の神の系譜
   五、アマテラス大神と大国主の命
    天若日子(あめわかひこ)
    国譲り
   六、ニニギの命
    天降り
    猿女の君
    木の花の咲くや姫
   七、ヒコホホデミの命
    海幸と山幸
    トヨタマ姫

オリジナル版
現代語譯 古事記(二)

地名年表人物一覧書籍
難字、求めよ
後記次週予告

※ 製作環境
 ・Macintosh iBook、Mac OS 9.2.2、T-Time 2.3.1
※ 週刊ミルクティー*は、JIS X 0213 文字を使用しています。
※ この作品は青空文庫にて校正中です。転載・印刷・翻訳は自由です。
(c) Copyright this work is public domain.

*凡例
〈 〉:割り注、もしくは小書き。
〔 〕:編者(しだ)注。

*底本
底本:「古事記」角川文庫、角川書店
   1956(昭和31)年5月20日初版発行
   1965(昭和40)年9月20日20版発行
底本の親本:「眞福寺本」
http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person1349.html

NDC 分類:164(宗教/神話.神話学)
http://yozora.kazumi386.org/1/6/ndc164.html




現代語訳 古事記(二) 

稗田の阿礼、太の安万侶
武田祐吉(訳)


   四、大国主おおくにぬしみこと

    うさぎわに

―これから出雲系の英雄大国主おおくにぬしの神の神話になる。さまざまの神話を、一神の名のもとにせたもののごとくである。―

 この大国主おおくにぬしみことの兄弟は、たくさんおいでになりました。しかし、国はみな大国主の命におゆずり申しました。おゆずり申しあげたわけは、その大勢の神がみな、因幡いなばのヤガミひめと結婚しようという心があって、いっしょに因幡に行きました。時に大国主の命に袋をおわせ、従者として連れて行きました。そして気多けたさきに行きましたときに、裸になったうさぎしておりました。大勢の神がその兎に言いましたには、「お前は、この海水をあびて風のくのにあたって高山の尾上おのえに寝ているとよい」と言いました。それで、この兎が大勢の神の教えたとおりにして寝ておりました。ところが、その海水のかわくままに身の皮がことごとく風に吹きさかれたから、痛んで泣きしておりますと、最後に来た大国主の命がその兎を見て、なんだって泣きしているのですか?」とおたずねになったので、兎が申しますよう、「わたくしは隠岐おきの島にいてこの国に渡りたいと思っていましたけれども、渡るすべがございませんでしたから、海のわにをあざむいて言いましたのは、わたしはあなたとどちらが一族いちぞくが多いかくらべてみましょう。あなたは一族をことごとく連れてきて、この島から気多けたさきまで、みな並んでしていらっしゃい。わたしはその上をんで走りながら勘定かんじょうをして、わたしの一族とどちらが多いかということを知りましょうと言いましたから、あざむかれて並んでしているときに、わたくしはその上をんで渡ってきて、今、土におりようとする時に、お前はわたしにだまされたと言うか言わないときに、一番はししていたわにがわたくしをつかまえてすっかり着物きものをはいでしまいました。それでこまって泣いて悲しんでおりましたところ、先においでになった大勢の神さまが、海水をあびて風にあたって寝ておれとお教えになりましたから、その教えのとおりにしましたところ、すっかり身体からだをこわしました」と申しました。そこで大国主の命は、その兎にお教えあそばされるには、「いそいであの水門みなとに行って、水で身体からだを洗ってその水門のがまの花粉を取って、きちらしてその上にころがりまわったなら、お前の身はもとのはだのようにきっとなおるだろう」とお教えになりました。よって教えたとおりにしましたから、その身は元のとおりになりました。これが因幡いなば白兎しろうさぎというものです。今では兎神といっております。そこで兎がよろこんで大国主の命に申しましたことには、「あの大勢の神は、きっとヤガミ姫を得られないでしょう。袋をせおっておられても、きっとあなたが得るでしょう」と申しました。

    赤貝あかがい姫と蛤貝はまぐり

―前のうさぎわにの話とともに、古代医療の方法について語っている説話である。―

 兎の言ったとおり、ヤガミ姫は大勢の神に答えて「わたくしは、あなたたちの言うことは聞きません。大国主のみことと結婚しようと思います」と言いました。そこで大勢の神がおこって、大国主の命を殺そうと相談して伯耆ほうきの国の手間てまの山本に行って言いますには、「この山には赤いいのししがいる。わたしたちが追いくだすから、お前が待ちうけてつかまえろ。もしそうしないと、きっとお前を殺してしまう」と言って、いのししに似ている大きな石を火で焼いてころがし落としました。そこで追いくだして取ろうとするときに、その石に焼きつかれて死んでしまいました。そこで母の神が泣き悲しんで、天にのぼって行ってカムムスビの神のもとにまいりましたので、赤貝あかがいひめ蛤貝はまぐりひめとをやって生きかえらしめなさいました。それで赤貝姫がしるをしぼりあつめ、蛤貝姫がこれを受けて母の乳汁ちしるとしてりましたから、立派りっぱな男になって出歩であるくようになりました。

    堅州国かたすくに

―これも異郷説話の一つで、王子の求婚説話の形をとっている。姫の父親から難題を課せられるが、姫の助力を得て解決する。―

 これをまた大勢の神が見てあざむいて山に連れて行って、大きな樹を切りせて楔子くさびを打っておいて、その中に大国主のみことを入らせて、楔子くさびを打って放って打ち殺してしまいました。そこでまた母の神が泣きながらさがしたので、見つけ出してその木をさいて取り出してかして、その子におおせられるには、「お前がここにいると、しまいには大勢の神にころされるだろう」とおおせられて、紀伊きいの国のオオヤ彦の神のもとに逃がしてやりました。そこで大勢の神が求めて追ってきて、矢をつがえてうときに、木のまたからぬけて逃げて行きました。
 そこで母の神が「これは、スサノオのみことのおいでになる黄泉よみの国に行ったなら、きっとよいはかりごとをしてくださるでしょう」とおおせられました。そこでお言葉のままに、スサノオの命の御所おんもとにまいりましたから、その御娘おんむすめのスセリひめが出て見てお会いになって、それからかえって父君に申しますには、「たいへん立派りっぱな神さまがおいでになりました」と申されました。そこで、その大神が出て見て、「これはアシハラシコオのみことだ」とおっしゃって、び入れてヘビのいるむろに寝させました。そこでスセリ姫のみことがヘビの領巾ひれをその夫にあたえて言われたことは、「そのヘビがおうとしたなら、この領巾ひれを三度ふって打ちはらいなさい」と言いました。それで大国主のみことは、教えられたとおりにしましたから、ヘビが自然に静まったので安らかに寝ておいでになりました。また次の日の夜は、ムカデとハチとのむろにお入れになりましたのを、またムカデとハチの領巾ひれをあたえて前のようにお教えになりましたから、安らかに寝ておいでになりました。つぎには鏑矢かぶらやを大野原の中にて入れて、その矢をらしめ、その野にお入りになったときに火をもってその野を焼き囲みました。そこで出る所を知らないで困っているときに、ねずみが来て言いますには、うちはほらほら、そとはすぶすぶ」と言いました。こう言いましたから、そこをんで落ちてかくれておりました間に、火は焼けてぎました。そこでそのねずみがその鏑矢かぶらやわえ出してきてたてまつりました。その矢のはねは鼠の子どもがみな食べてしまいました。
 かくておきさきのスセリひめは葬式の道具を持って泣きながらおいでになり、その父の大神は、もう死んだとお思いになってその野においでになると、大国主の命はその矢を持ってたてまつりましたので、家に連れて行って大きなむろに呼び入れて、頭のシラミを取らせました。そこでその頭を見るとムカデがいっぱいおります。この時にお妃がむくの木の実と赤土とを夫君に与えましたから、その木の実をやぶり、赤土を口に含んでき出されると、その大神はムカデをやぶってき出すとお思いになって、御心に感心にお思いになって寝ておしまいになりました。そこで、その大神の髪をってそのむろの屋根のたる木ごとにいつけて、大きないわをそのむろの戸口にふさいで、おきさきのスセリ姫をせおって、その大神の宝物の大刀たち弓矢ゆみや、また美しいことを持って逃げておいでになるときに、そのことが樹にさわって音を立てました。そこで寝ておいでになった大神が聞いてお驚きになって、そのむろを引きたおしてしまいました。しかし、たる木に結びつけてある髪をいておいでになる間に、遠く逃げてしまいました。そこで黄泉比良坂よもつひらさかまで追っておいでになって、遠くに見て大国主の命を呼んでおおせになったには、「そのお前の持っている大刀や弓矢をもって、大勢の神をば坂の上に追いせ、河のに追いはらって、自分で大国主のみこととなってそのわたしのむすめのスセリ姫を正妻として、宇迦うかの山の山本に大磐石だいばんじゃくの上に宮柱みやばしらを太く立て、大空に高く棟木むなぎを上げて住めよ、このやつめ」と、おおせられました。そこで、その大刀弓を持ってかの大勢の神を追いはらうときに、坂の上ごとに追いせ、河の瀬ごとに追いはらって国を作り始めなさいました。
 かのヤガミひめは、前の約束どおりに婚姻こんいんなさいました。そのヤガミ姫をれておいでになりましたけれども、おきさきのスセリ姫をおそれて、生んだ子を木のまたにさしはさんでお帰りになりました。ですから、その子の名を木のまたの神と申します。またの名は御井みいの神とも申します。

    ヤチホコの神の歌物語

―長い歌の贈答を中心とした物語で、もと歌曲かきょくとして歌い伝えられたもの。―

 このヤチホコの神大国主おおくにぬしみことが、こしの国のヌナカワ姫と結婚しようとしておいでになりましたときに、そのヌナカワ姫の家に行っておみになりました歌は、

ヤチホコの神さまは、
方々の国で妻を求めかねて、
遠い遠いこしの国に
かしこい娘がいると聞き
美しい娘がいると聞いて
結婚におましになり
結婚におかよいになり、
大刀たちもまだ解かず
羽織はおりをもまだがずに、
娘さんのねむっておられる板戸を
押しゆすぶり立っていると
引きこころみて立っていると、
青い山ではヌエが鳴いている。
野の鳥のキジはさけんでいる。
庭先でニワトリも鳴いている。
腹が立つさまに鳴く鳥だな
こんな鳥はやっつけてしまえ。
下におります走り使いをする者の
ことかたつたえはかようでございます。

 そこで、そのヌナカワ姫が、まだ戸をけないで、家のなかで歌いました歌は、

ヤチホコの神さま、
しおれた草のような女のことですから
わたくしの心はただよう水鳥、
いまこそ、わたくしどりでも
のちには、あなたの鳥になりましょう。
いのち長くおきあそばしませ。
下におります走り使いをする者の
ことかたつたえは、かようでございます。
青い山にかくれたら
まっくらになりましょう。
朝のおさまのように、にこやかに来て
コウゾのつなのような白いうで
泡雪あわゆきのような若々しい胸を
そっとたたいて手をとりかわし
玉のような手をまわして
足をばしてお休みなさいましょうもの。
そんなにわびしいおもいをなさいますな。
ヤチホコの神様かみさま
ことかたつたえは、かようでございます。

 それで、その夜はおいにならないで、翌晩、おいなさいました。
 また、その神のおきさきスセリ姫のみことは、たいへん嫉妬しっとぶかかたでございました。それをおっとの君は心く思って、出雲から大和の国におのぼりになろうとして、お仕度したくあそばされましたときに、片手は馬のくらにかけ、片足はそのあぶみみ入れて、おうたいあそばされた歌は、

カラスオウギいろの黒い御衣服おめしもの
十分に身につけて、
水鳥のように胸を見るとき、
たたきも似合にあわしくない、
波うちよせるそこにぎすて、
翡翠色ひすいいろの青い御衣服おめしもの
十分に身につけて
水鳥のように胸を見るとき、
たたきも、これも似合にあわしくない、
波うちよせるそこにぎすて、
山畑やまはたにまいた茜草あかねぐさいて
染料の木の汁で染めた衣服を
十分に身につけて、
水鳥のように胸を見るとき、
たたきも、これはよろしい。
むつましのわが妻よ、
鳥のむれのようにわたしがれて行ったら、
引いてく鳥のようにわたしが引いて行ったら、
泣かないとあなたはいっても、
山地やまぢに立つ一本薄いっぽんすすきのように、
うなだれてあなたはお泣きになって、
朝の雨の霧に立つようだろう。
若草のようなわが妻よ。
ことかたつたえは、かようでございます。

 そこでさかずきりかわして、手をかけ合って、今日までもしずまっておいでになります。これらの歌は神語かむがたりと申す歌曲かきょくです。

    系譜

―出雲系の、ある豪族の家系を語るもののようである。―

 この大国主の神が、むなかたの沖つ宮においでになるタギリ姫のみことと結婚して生んだ子はアジスキタカヒコネの神、つぎにタカ姫の命、またの名はシタテル姫の命であります。このアジスキタカヒコネの神は、今、迦毛大御神おおみかみと申す神さまであります。
 大国主の神が、またカムヤタテ姫の命と結婚して生んだ子は、コトシロヌシの神です。またヤシマムチの神のむすめのトリトリの神と結婚して生んだ子は、トリナルミの神です。この神がヒナテリヌカダビチオイコチニの神と結婚して生んだ子は、クニオシトミの神です。この神がアシナダカの神、またの名はヤガハエ姫と結婚して生んだ子は、ツラミカノタケサハヤジヌミの神です。この神がアメノミカヌシの神の娘のサキタマ姫と結婚して生んだ子は、ミカヌシ彦の神です。この神がオカミの神のむすめのヒナラシ姫と結婚して生んだ子は、タヒリキシマミの神です。この神がヒイラギノソノハナマズミの神のむすめのイクタマサキタマ姫の神と結婚して生んだ子は、ミロナミの神です。この神がシキヤマヌシの神のむすめのアオヌマヌオシ姫と結婚して生んだ子は、ヌノオシトミトリナルミの神です。この神がワカヒルメの神と結婚して生んだ子は、アメノヒバラオオシナドミの神です。この神がアメノサギリの神の娘のトオツマチネの神と結婚して生んだ子は、トオツヤマザキタラシの神です。
 以上、ヤシマジヌミの神からトオツヤマザキタラシの神までを十七代の神と申します。

    スクナビコナの神

―オオアナムチのみこととしばしば並んで語られるスクナビコナの神は、農民の間に語り伝えられた神で、ここではツルイモの種の擬人化として語られている。―

 そこで大国主のみこと出雲いずも御大みほ御埼みさきにおいでになった時に、波の上をツルイモのさやをって船にして、の皮をそっくりはいで着物にしてってくる神さまがあります。その名を聞きましたけれども答えません。また、御従者おともの神たちにおたずねになったけれども、みな知りませんでした。ところがヒキガエルが言うことには、「これはクエびこがきっと知っているでしょう」と申しましたから、そのクエ彦を呼んでおたずねになると、「これはカムムスビの神の御子みこでスクナビコナの神です」と申しました。よってカムムスビの神に申し上げたところ、「ほんとにわたしの子だ。子どもの中でも、わたしの手のまたからこぼれて落ちた子どもです。あなた、アシハラシコオのみことと兄弟となってこの国を作りかためなさい」とおおせられました。それで、それから大国主とスクナビコナとお二人が並んでこの国を作り固めたのです。後にはそのスクナビコナの神は、海のあちらへ渡って行ってしまいました。このスクナビコナの神のことを申し上げたクエ彦というのは、今いう山田のカカシのことです。この神は足は歩きませんが、天下のことをすっかり知っている神さまです。

    御諸山みもろのやまの神

―大和の三輪山みわやまにある大神おおみわ神社の鎮座の縁起である。―

 そこで大国主のみこと心憂こころうく思っておおせられたことは、「わたしはひとりではどのようにしてこの国を作り得ましょう。どの神さまといっしょにわたしはこの国を作りましょうか?」とおおせられました。この時に、海上をらしてってくる神さまがあります。その神のおおせられることには、「わたしに対してよくおまつりをしたら、わたしがいっしょになって国を作りましょう。そうしなければ国はできにくいでしょう」とおおせられました。そこで大国主の命が申されたことには、「それなら、どのようにしておまつりをいたしましょう?」と申されましたら、「わたしを大和の国の青々と取り囲んでいる東の山の上におまつりなさい」とおおせられました。これは御諸みもろの山においでになる神さまです。

    大年おおとしの神の系譜

―前に出たスサノオのみことの系譜の中の大年おおとしの神の系譜で、一年中の耕作の経過を系譜化したものである。耕作に関する祭りの詞から抜け出したものと見られる。―

 オオトシの神が、カムイクスビの神の娘のイノ姫と結婚して生んだ子は、オオクニミタマの神、つぎにカラの神、つぎにソホリの神、つぎにシラヒの神、つぎにヒジリの神の五神です。またカグヨ姫と結婚して生んだ子は、オオカグヤマトミの神、つぎにミトシの神の二神です。またアメシルカルミヅ姫と結婚して生んだ子はオキツ彦の神、つぎにオキツ姫のみこと、またの名はオオベ姫の神です。これはみなさまのまつっているかまどの神であります。つぎにオオヤマクイの神、またの名はスエノオオヌシの神です。これは近江の国の比叡山ひえいざんにおいでになり、また葛野かづのの松の尾においでになる鏑矢かぶらやをお持ちになっている神さまであります。つぎにニワツヒの神、つぎにアスハの神、つぎにハヒキの神、つぎにカグヤマトミの神、つぎにハヤマトの神、つぎにニワノタカツヒの神、つぎにオオツチの神、またの名はツチノミオヤの神の九神です。
 以上、オオトシの神の子のオオクニミタマの神からオオツチの神まであわせて十六神です。
 さてハヤマトの神が、オオゲツ姫の神と結婚して生んだ子は、ワカヤマクイの神、つぎにワカトシの神、つぎに女神のワカサナメの神、つぎにミヅマキの神、つぎにナツノタカツヒの神、またの名はナツノメの神、つぎにアキ姫の神、つぎにククトシの神、つぎにククキワカムロツナネの神です。
 以上、ハヤマトの神の子のワカヤマクイの神からワカムロツナネの神まであわせて八神です。

   五、アマテラス大神おおみかみと大国主のみこと

    天若日子あめわかひこ

天若日子あめわかひこに関する部分は、語部かたりべなどによって語られた物語の挿入。―

 アマテラス大神のお言葉で、葦原あしはら水穂みずほくに御子みこのマサカアカツカチハヤヒアメノオシホミミのみことのおおさめあそばすべき国である」とおおせられて、天からおくだしになりました。そこでオシホミミのみことが天からの階段にお立ちになってご覧になり、葦原あしはらの水穂の国はひどくさわいでいる」とおおせられて、またおかえりになってアマテラス大神に申されました。そこでタカミムスビの神、アマテラス大神のご命令で天のやすの河の河原に多くの神をお集めになって、オモイガネの神に思わしめておおせになったことには、「この葦原あしはらの中心の国は、わたしの御子みこおさむべき国と定めた国である。それだのに、この国に暴威をふるう乱暴な土着どちゃくの神が多くあると思われるが、どの神をつかわしてこれを平定すべきであろうか?」と、おおせになりました。そこでオモイガネの神および多くの神たちが相談して、「ホヒの神をつたらよろしいでございましょう」と申しました。そこでホヒの神をつかわしたところ、この神は大国主のみことにへつらいいて三年たってもご返事申し上げませんでした。このような次第でタカミムスビの神・アマテラス大神がまた多くの神たちにおたずねになって、葦原あしはらの中心の国につかわしたホヒの神が久しく返事をしないが、また、どの神をやったらよいだろうか?」と、おおせられました。そこでオモイガネの神が申されるには、「アマツクニダマの神の子の天若日子あめわかひこりましょう」と申しました。そこで立派りっぱ弓矢ゆみやを天若日子にたまわってつかわしました。しかるに天若日子はその国にりついて大国主のみことむすめ下照したてひめを妻とし、またその国をようと思って、八年たってもご返事申しあげませんでした。
 そこでアマテラス大神、タカミムスビの神が大勢の神におたずねになったのには、天若日子あめわかひこが久しく返事をしないが、どの神をつかわして天若日子のとどまっている仔細しさいをたずねさせようか?」とおたずねになりました。そこで大勢の神たち、またオモイガネの神が申しますには、「キジの名鳴女ななきめをやりましょう」と申しました。そこでそのキジに、「お前が行って天若日子にたずねるには、あなたを葦原あしはらの中心の国につかわしたわけは、その国の乱暴な神たちを平定せよというためです。なにゆえに八年たってもご返事申し上げないのかと問え」と、おおせられました。そこでキジの鳴女なきめが天から降ってきて、天若日子の門にある貴いかつらの木の上にいて、くわしく天の神のおおせのとおりに言いました。ここにあま探女さぐめという女がいて、このキジの言うことを聞いて天若日子あめわかひこに「この鳥は鳴く声がよくありませんから射殺しておしまいなさい」とすすめましたから、天若日子は天の神のくださった立派りっぱな弓矢をもってそのキジを射殺しました。ところがその矢がキジの胸から通りぬけて、さかさまに射上げられて天のやすの河の河原においでになるアマテラス大神、高木たかぎの神の御許おんもとにいたりました。この高木の神というのはタカミムスビの神の別の名です。その高木の神が弓矢を取ってご覧になると、矢の羽に血がついております。そこで高木の神が「この矢は天若日子にあたえた矢である」とおおせになって、多くの神たちに見せておおせられるには、「もし、天若日子が命令どおりに乱暴な神を射た矢がきたのなら、天若日子にたることなかれ。そうでなくて、もし不届ふとどきな心があるなら天若日子はこの矢で死んでしまえ」とおおせられて、その矢をお取りになって、その矢の飛んできた穴からき返しておくだしになりましたら、天若日子が朝床あさどこに寝ている胸の上にあたって死にました。かくしてキジはかえってまいりませんから、今でもことわざに「行ったきりのキジのお使い」というのです。それで天若日子の妻、下照したてる姫のお泣きになる声が風のまにまに響いて天に聞こえました。そこで、天にいた天若日子の父のアマツクニダマの神、また天若日子のもとの妻子たちが聞いて、りてきて泣き悲しんで、そこに葬式の家を作って、がんを死人の食物を持つ役とし、さぎほうきを持つ役とし、カワセミをご料理人とし、スズメをうすをつく女とし、キジを泣く役の女として、かように定めて八日八夜というもの遊んでさわぎました。
 このとき、アジシキタカヒコネの神がおいでになって、天若日子のくなったのを弔問ちょうもんされる時に、天から降ってきた天若日子の父や妻がみな泣いて、「わたしの子は死ななかった」「わたしのおっとは死ななかったのだ」と言って、手足に取りすがって泣き悲しみました。かように間違えたしだいは、このお二方の神のお姿が非常によく似ていたからです。それで間違えたのでした。ここにアジシキタカヒコネの神が非常に怒って言われるには、「わたしは親友だから弔問ちょうもんにきたのだ。何だって、わたしをきたない死人にくらべるのか?」といって、おはきになっている長い剣をいてその葬式の家を切りふせ、足でとばしてしまいました。それは美濃の国の藍見あいみ河の川上の喪山もやまという山になりました。その持ってった大刀たちの名は大量オオバカリといい、また神度カンドの剣ともいいます。そこでアジシキタカヒコネの神が怒って飛び去ったときに、その妹の下照したてる姫が兄君のお名前をあらわそうと思って歌った歌は、

天の世界のわか織姫おりひめ
首にかけているたまかざり、
そのたまかざりの大きい珠のような方、
谷二つ、一度にお渡りになる
アジシキタカヒコネの神でございます。
と歌いました。この歌は夷振ひなぶりです。

    国譲くにゆず

―出雲の神が、託宣たくせんによって国をゆずったことを語る。出雲大社の鎮座縁起を、政治的に解釈したものと考えられる。―

 かように天若日子あめわかひこもダメだったので、アマテラス大神のおおせになるには、「また、どの神をつかわしたらよかろう?」とおおせになりました。そこでオモイガネの神、また多くの神たちの申されるには、「天のやす河の川上のあま石屋いわやにおいでになるアメノオハバリの神がよろしいでしょう。もしこの神でなくば、その神の子のタケミカヅチの神をつかわすべきでしょう。オハバリの神はやすの河の水をさかさまにきあげて道をふさいでおりますから、他の神では行かれますまい。特にアメノカクの神をつかわしてオハバリの神にたずねさせなければなりますまい」と申しました。よってカクの神をつかわしてたずねた時に、「つつしんでおつかえ申しましょう。しかし、わたくしの子のタケミカヅチの神をつかわしましょう」と申してたてまつりました。そこでアメノトリフネの神をタケミカヅチの神にそえてつかわされました。
 そこで、このお二方の神が出雲の国の伊耶佐いざさ小浜おはまりついて、長い剣をぬいて波の上にさかさまにし立てて、その剣のきっさきに安座あぐらをかいて大国主の命におたずねになるには、「アマテラス大神、高木の神のおおせごとで問いの使いに来ました。あなたの領している葦原あしはらの中心の国は、わが御子みこおさむべき国であるとご命令がありました。あなたの心はどうですか?」とおたずねになりましたから、答えて申しますには「わたくしは何とも申しません。わたくしの子のコトシロヌシの神がご返事申し上ぐべきですが、鳥や魚の猟をしに御大みほさきに行っておって、まだかえってまいりません」と申しました。よってアメノトリフネの神をつかわしてコトシロヌシの神を呼んできておたずねになった時に、その父の神さまに「この国はつつしんで天の神の御子みこに献上なさいませ」といって、その船をみかたむけて、さかさまに手をうって青々とした神籬ひもろぎを作りなして、その中にかくれておしずまりになりました。
 そこで大国主の命におたずねになったのは、「今、あなたの子のコトシロヌシの神は、かように申しました。また申すべき子がありますか?」と問われました。そこで大国主の命は「また、わたくしの子にタケミナカタの神があります。これ以外にはございません」と申されるときに、タケミナカタの神が大きな石を手の上にさしあげてきて、だれだ? わしの国に来てないしょ話をしているのは? さあ、力くらべをしよう。わしが先にその手をつかむぞ」と言いました。そこでその手を取らせますと、立っている氷のようであり、剣の刃のようでありました。そこで、おそれてしりぞいております。今度はタケミナカタの神の手を取ろうと言ってこれを取ると、若いアシをつかむようにつかみひしいで、投げうたれたので逃げて行きました。それを追って信濃の国の諏訪すわみずうみに追い攻めて、殺そうとなさった時に、タケミナカタの神の申されますには、「おそれ多いことです。わたくしをお殺しなさいますな。この地以外には他の土地にはまいりますまい。また、わたくしの父、大国主のみことの言葉にそむきますまい。この葦原あしはらの中心の国は天の神の御子みこのおおせにまかせて献上いたしましょう」と申しました。
 そこで、さらにかえってきてその大国主の命に問われたことには、「あなたの子ども、コトシロヌシの神・タケミナカタの神お二方は、天の神の御子みこのおおせにそむきませんと申しました。あなたの心はどうですか?」と問いました。そこでお答え申しますには、「わたくしの子ども二人の申したとおりに、わたくしも違いません。この葦原あしはらの中心の国は、おおせのとおり献上いたしましょう。ただ、わたくしの住所を天の御子みこの帝位におのぼりになる壮大そうだいな御殿の通りに、大磐石だいばんじゃくに柱を太く立て、大空に棟木むなぎを高くあげてお作りくださるならば、わたくしは所々のすみかくれておりましょう。また、わたくしの子どもの多くの神はコトシロヌシの神をみちびきとしておつかえ申しましたなら、そむく神はございますまい」と、かように申して出雲の国の多芸志たぎし小浜おはま立派りっぱな宮殿をつくって、水戸みなとの神の子孫のクシヤタマの神を料理役としてごちそうをさしあげたときに、呪言じゅげんとなえてクシヤタマの神がになって海底に入って、底の埴土はにつちをくわえ出てたくさんの神聖なお皿を作って、また海草のみきを刈り取ってきて燧臼ひうちうす燧杵ひうちきねを作って、これをって火をつくりだして唱言となえごとを申したことは、「今、わたくしの作る火は大空高くカムムスビのみことみ栄える新しい宮居のすすの長くがるようにげ、地の下は底のいわにかたく焼き固まらして、コウゾの長い綱をのばしてりをする海人あまのつりあげた大きなすずきをさらさらと引きよせあげて、つくえもたわむまでに立派りっぱなお料理を献上いたしましょう」と申しました。かくしてタケミカヅチの神が天にかえってのぼって、葦原あしはらの中心の国を平定したありさまを申し上げました。

   六、ニニギのみこと

    天降あまくだ

―本来は、祭りの庭に神の降下することを説くものと解せられるが、政治的に解釈されており、諸氏の伝来の複合した形になっている。―

 そこでアマテラス大神おおみかみ高木たかぎの神のお言葉で、太子オシホミミのみことにおおせになるには、「今、葦原あしはらの中心の国は平定し終わったと申すことである。それゆえ、申しつけたとおりに降って行っておおさめなされるがよい」と、おおせになりました。そこで太子オシホミミの命がおおせになるには、「わたくしはりようとして仕度したくをしておりますあいだに子が生まれました。名はアメニギシクニニギシアマツヒコヒコホノニニギの命と申します。この子をくだしたいと思います」と申しました。この御子みこはオシホミミの命が高木の神のむすめヨロヅハタトヨアキツシ姫のみことと結婚されておみになった子がアメノホアカリの命・ヒコホノニニギの命のお二方なのでした。かようなわけで、申されたままにヒコホノニニギの命におおせごとがあって、「この葦原あしはらの水穂の国はあなたのおさむべき国であると命令するのである。よって命令のとおりにおくだりなさい」とおおせられました。
 ここにヒコホノニニギのみことが天からおくだりになろうとするときに、道のなかにいて上は天をらし、下は葦原あしはらの中心の国をらす神がおります。そこでアマテラス大神・高木の神のご命令で、アメノウズメの神におおせられるには、「あなたは女ではあるが、出会った神に向きあって勝つ神である。だからあなたが行ってたずねることは、わが御子みこのおくだりなろうとする道をかようにしているのは誰であるかと問え」とおおせになりました。そこで問われる時に答え申されるには、「わたくしは国の神でサルタ彦の神という者です。天の神の御子みこがお降りになると聞きましたので、御前みまえにおつかえ申そうとして出迎でむかえております」と申しました。
 かくてアメノコヤネのみこと・フトダマの命・アメノウズメの命・イシコリドメの命・タマノオヤの命、あわせて五部族の神をそえて天からくだらせ申しました。このときに先にあめ石戸いわとの前でアマテラス大神をおむかえした大きな勾玉まがたま、鏡、また草薙くさなぎつるぎ、およびオモイガネの神・タヂカラオの神・アメノイワトワケの神をおそえになっておおせになるには、「この鏡こそは、もっぱらわたしのたましいとして、わたしの前をまつるようにおまつり申し上げよ。つぎにオモイガネの神はわたしの御子みこおさめられるいろいろのことを取りあつかっておつかえ申せ」とおおせられました。この二神は伊勢神宮におまつり申しあげております。なお伊勢神宮の外宮げくうにはトヨウケの神をまつってあります。つぎにアメノイワトワケの神は、またの名はクシイワマドの神、またトヨイワマドの神といい、この神は御門ごもんの神です。タヂカラオの神は佐那さなの地においでになります。このアメノコヤネの命は中臣なかとみむらじらの祖先、フトダマの命は忌部いみべおびとらの祖先、ウズメの命は猿女さるめきみらの祖先、イシコリドメの命は鏡作かがみつくりの連らの祖先、タマノオヤの命は玉祖たまのおやの連らの祖先であります。

    猿女さるめきみ

―前にあったウズメのみことがサルタ彦の神を見あらわす神話に接続するものである。猿女さるめの君の系統の伝来で、もと遊離していたものを取り入れたのであろう。―

 そこでアマツヒコホノニニギのみことにおおせになって、天上の御座を離れ、八重やえ立つ雲を押しわけて勢いよく道を押しわけ、天からの階段によって、下の世界に浮洲うきすがあり、それにお立ちになって、ついに筑紫つくしの東方なる高千穂たかちほの尊い峰におくだり申さしめました。ここにアメノオシヒの命とアマツクメの命と二人が石のゆきを負い、頭がこぶになっている大刀たちをはいて、強い弓を持ち、立派な矢をはさんで、御前みまえに立ってお仕え申しました。このアメノオシヒの命は大伴おおともむらじらの祖先、アマツクメの命は久米くめあたえらの祖先であります。
 ここにおおせになるには「このところは海外に向かって、笠紗かささ御埼みさきに行きかよって、朝日のかがやく国、夕日のかがやく国である。こここそは、たいへんよいところである」とおおせられて、地の下の石根いわねに宮柱を壮大そうだいに立て、天上に千木ちぎを高く上げて宮殿をご造営あそばされました。
 ここにアメノウズメの命におおせられるには、「この御前みまえに立ってお仕え申しあげたサルタ彦の大神を、あらわし申し上げたあなたがお送り申せ。また、その神のお名前はあなたが受けておつかえ申せ」とおおせられました。このゆえに猿女さるめの君らはそのサルタ彦の男神の名をついで女を猿女さるめの君というのです。そのサルタ彦の神は阿耶訶あざかにおいでになった時に、すなどりをして比良夫貝がいに手をい合わされて海水におぼれました。その海底にしずんでおられる時の名を底につく御魂みたまと申し、海水にツブツブとあわが立つときの名をつぶたつ御魂みたまと申し、水面に出てあわが開くときの名を泡咲あわさ御魂みたまと申します。
 ウズメのみことはサルタ彦の神を送ってから帰ってきて、ことごとく大小さまざまの魚どもを集めて、「お前たちは天の神の御子みこにお仕え申しあげるか、どうですか?」と問うときに、魚どもはみな「お仕え申しましょう」と申しました中に、ナマコだけが申しませんでした。そこでウズメの命がナマコに言うには、「この口は返事をしない口か?」と言って小刀かたなでその口をきました。それで、今でもナマコの口はけております。かようのしだいで、御世みよごとに志摩しまの国から魚類の貢物みつぎものをたてまつるときに猿女さるめの君らにくだされるのです。

    の花のくや姫

―人名に対する信仰が語られ、また古代の婚姻の風習から生じやすい疑惑の解決法が語られる。―

 さてヒコホノニニギの命は、笠紗かささ御埼みさきで美しい嬢子おとめにお会いになって、「どなたの娘子むすめごですか?」とおたずねになりました。そこで「わたくしはオオヤマツミの神のむすめの花のくや姫です」と申しました。また「兄弟がありますか?」とおたずねになったところ、「姉に石長姫いわながひめがあります」と申し上げました。よっておおせられるには、「あなたと結婚けっこんをしたいと思うが、どうですか?」とおおせられますと、「わたくしは何とも申し上げられません。父のオオヤマツミの神が申し上げるでしょう」と申しました。よってその父オオヤマツミの神にお求めになると、非常によろこんで姉の石長姫いわながひめをそえて、たくさんの献上物を持たせてたてまつりました。ところがその姉はたいへんみにくかったのでおそれて返し送って、妹の木の花の咲くや姫だけをめて一夜おやすみになりました。しかるにオオヤマツミの神は石長姫いわながひめをお返しあそばされたのによって、非常にじて申し送られたことは、「わたくしが二人を並べてたてまつったわけは、石長姫いわながひめをお使いになると、天の神の御子みこのご寿命は雪が降り風がいても永久に石のように堅実けんじつにおいでになるであろう。また木の花の咲くや姫をお使いになれば、木の花の栄えるように栄えるであろうと誓言ちかいごとをたててたてまつりました。しかるに今、石長姫いわながひめを返して木の花の咲くや姫を一人おめなすったから、天の神の御子みこのご寿命は、木の花のようにもろくおいでなさることでしょう」と申しました。こういうしだいで、今日にいたるまで天皇のご寿命が長くないのです。
 かくして後にの花のくや姫がまいり出て申すには、「わたくしは妊娠にんしんしまして、今、子を産む時になりました。これは天の神の御子みこですから、勝手にお生み申しぐべきではございません。そこで、このことを申しあげます」と申されました。そこでみことがおおせになって言うには、「咲くや姫よ、一夜ではらんだというが、国の神の子ではないか?」とおおせになったから、「わたくしのはらんでいる子が国の神の子ならば、生むときに無事でないでしよう。もし天の神の御子みこでありましたら、無事でありましょう」と申して、戸口のない大きな家を作ってその家の中にお入りになり、粘土ねばつちですっかりりふさいで、お生みになる時にあたってその家に火をつけてお生みになりました。その火が真盛まっさかりに燃えるときにお生まれになった御子みこはホデリのみことで、これは隼人はやとらの祖先です。つぎにお生まれになった御子みこはホスセリの命、つぎにお生まれになった御子はホオリの命、またの名はアマツヒコヒコホホデミの命でございます。

   七、ヒコホホデミのみこと

    海幸うみさち山幸やまさち

―西方の海岸地帯に伝わった海神の宮訪問の神話で、異郷説話の一つである。政治的な意味として隼人はやとの服従が語られている。―

 ニニギのみこと御子みこのうち、ホデリの命は海幸彦うみさちびことして、海のさまざまの魚をお取りになり、ホオリの命は山幸彦として山に住む鳥獣のたぐいをお取りになりました。ところでホオリの命が兄君ホデリの命に、「おたがいに道具えものを取りかえて使ってみよう」といって、三度われたけれども承知しませんでした。しかし、最後にようやく取りかえることを承諾しょうだくしました。そこで、ホオリの命がり道具を持って魚をおりになるのに、ついに一つも得られません。そのはりまでも海に失ってしまいました。ここにその兄のホデリの命がそのはりうて、山幸やまさちも自分のさちだ。海幸うみさちも自分のさちだ。やはりおたがいにさちを返そう」と言うときに、弟のホオリの命がおおせられるには、「あなたのはりは魚をりましたが、一つも得られないでついに海でなくしてしまいました」とおおせられますけれども、なお、しいてはたりました。そこで弟がおびになっている長い剣を破って、五百のはりを作ってつぐなわれるけれども取りません。また千のはりを作ってつぐなわれるけれども受けないで、「やはり、もとのはりをよこせ」と言いました。
 そこでその弟が海辺に出て泣きうれえておられたときに、シオツチの神が来てたずねるには、「貴い御子みこさまのご心配なすっていらっしゃるのは、どういうわけですか?」と問いますと、答えられるには、「わたしは兄とはりをかえて針をなくしました。しかるに針を求めますから多くの針をつぐないましたけれども受けないで、もとの針をよこせと言います。それで泣き悲しむのです」とおおせられました。そこでシオツチの神が「わたくしが今、あなたのためにはかりごとをめぐらしましょう」といって、隙間すきまのないかごの小船をつくって、その船にお乗せ申し上げて教えて言うには、「わたしがその船を押し流しますから、すこしいらっしゃい。道がありますから、その道のとおりにおいでになると、魚のウロコのようにつくってある宮があります。それが海神の宮です。その御門ごもんのところにおいでになると、そばの井の上に立派りっぱかつらの木がありましょう。その木の上においでになると、海神の娘が見て何とかいたしましょう」と、お教え申し上げました。
 よって教えたとおり、すこしおいでになりましたところ、すべて言ったとおりでしたから、そのかつらの木に登っておいでになりました。ここに海神のむすめのトヨタマ姫の侍女じじょが玉の器を持って、水をくもうとする時に、井に光がさしました。あおいで見ると立派りっぱな男がおります。不思議に思っていますと、ホオリの命が、その侍女じじょに「水をください」と言われました。侍女がそこで水をくんで器に入れてあげました。しかるに水をお飲みにならないで、首におけになっていた珠をおきになって口に含んでその器におき入れなさいました。しかるにその珠が器について、女が珠を離すことができませんでしたので、ついたままにトヨタマ姫にさしあげました。そこでトヨタマ姫が珠を見て、女に「門の外に人がいますか?」とたずねられましたから、「井の上のかつらの上に人がおいでになります。それはたいへん立派りっぱな男でいらっしゃいます。王様にもまさって尊いお方です。その人が水を求めましたので、さしあげましたところ、水をお飲みにならないで、この珠をき入れましたが、離せませんので入れたままに持ってきてさしあげたのです」と申しました。そこでトヨタマ姫が不思議にお思いになって、出て見て感心して、そこで顔を見合って、父に「門の前にりっぱな方がおります」と申しました。そこで海神が自分で出て見て、「これは貴い御子みこさまだ」といって、内にお連れ申し上げて、海驢あじか〔アシカ。の皮八枚をき、その上にきぬ敷物しきものを八枚しいて、ご案内申し上げ、たくさんの献上物をそなえてごちそうして、やがてその女トヨタマ姫をさしあげました。そこで三年になるまで、その国にとどまりました。
 ここにホオリの命は、はじめのことをお思いになって大きなため息をなさいました。そこでトヨタマ姫がこれをお聞きになってその父に申しますには、「あのかたは三年お住みになっていますが、いつもおなげきになることもありませんですのに、今夜、大きなため息を一つなさいましたのは何か仔細しさいがありましょうか?」と申しましたから、その父の神さまがムコの君に問われるには、今朝けさわたくしのむすめの語るのを聞けば、三年おいでになるけれどもいつもおなげきになることもなかったのに、今夜、大きなため息を一つなさいましたと申しました。何かわけがありますか? また、ここにおいでになった仔細しさいはどういうことですか?」とおたずね申しました。よってその大神にくわしく、兄がなくなったはりを請求するありさまを語りました。そこで海の神が海中の魚を大小となくことごとく集めて、「もしこの針を取った魚があるか?」と問いました。ところがその多くの魚どもが申しますには、「このごろ、たいのどに骨をたてて物が食えないと言っております。きっと、これが取ったのでしょう」と申しました。そこでたいのどさぐりましたところ、針があります。そこで取り出して洗ってホオリの命にたてまつりましたときに、海神がお教え申し上げて言うのに、「このはりを兄さまにあげるときには、この針は貧乏針びんぼうばりの悲しみばりだと言って、うしろ向きにおあげなさい。そして兄さまが高い所に田を作ったら、あなたは低い所に田をお作りなさい。兄さまが低い所に田を作ったら、あなたは高い所に田をお作りなさい。そうなすったらわたくしが水をつかさどっておりますから、三年の間にきっと兄さまが貧しくなるでしょう。もし、このようなことをうらんで攻め戦ったら、しおちる珠を出しておぼらせ、もし、たいへんにあやまってきたら、しおる珠を出して生かし、こうしてお苦しめなさい」と申して、潮の満ちる珠・潮のる珠、あわせて二つをおさずけ申しあげて、ことごとくわにどもを呼び集め、たずねて言うには、「今、天の神の御子みこ御子みこさまが上の国においでになろうとするのだが、お前たちは幾日にお送り申し上げてご返事するか?」とたずねました。そこで、それぞれに自分の身の長さのままに日数を限って申す中に、一丈のわにが「わたくしが一日にお送り申し上げて帰ってまいりましょう」と申しました。よってその一丈のわにに「それならば、お前がお送り申し上げよ。海中を渡るときにこわがらせ申すな」といって、そのわにの首にお乗せ申し上げて送り出しました。はたして約束どおり一日にお送り申し上げました。そのわにが帰ろうとしたときに、ひものついている小刀をおきになって、そのわにの首につけてお返しになりました。そこでその一丈のわにをば、今でもサヒモチの神と言っております。
 かくして、ことごとく海神の教えたとおりにしてはりを返されました。そこでこれより、いよいよ貧しくなってさらに荒い心をおこして攻めてきます。攻めようとするときは潮のみちる珠を出しておぼらせ、あやまってくるときは潮のる珠を出して救い、苦しめました時に、おじぎをして言うには、「わたくしは今から後、あなたさまの昼夜の護衛兵となってお仕え申し上げましょう」と申しました。そこで今にいたるまで隼人はやとはそのおぼれたときのしわざを演じてお仕え申し上げるのです。

    トヨタマ姫

―前の説話の続きで、男が禁止を破ることによって、別離になることを語る。この種の説話の常型である。―

 ここに海神の娘、トヨタマ姫のみことがご自身で出ておいでになって申しますには、「わたくしは以前から妊娠にんしんしておりますが、今、御子みこを産むべき時になりました。これを思うに、天の神の御子みこを海中でおみ申し上ぐべきではございませんから出てまいりました」と申し上げました。そこで、その海辺の波際なぎさの羽を屋根にして産室さんしつをつくりましたが、その産室がまだき終わらないのに、御子みこが生まれそうになりましたから、産室にお入りになりました。そのとき、夫の君に申されて言うには「すべて他国の者は子を産むときになれば、その本国の形になって産むのです。それでわたくしも、もとの身になって産もうと思いますが、わたくしをご覧あそばしますな」と申されました。ところがその言葉を不思議に思われて、今、さかんに子をお産みになる最中さいちゅうのぞいてご覧になると、八丈もある長いわにになっていのたくっておりました。そこでおそれおどろいて逃げ退きなさいました。しかるにトヨタマ姫の命は窺見のぞきみなさったことをお知りになって、はずかしいことにお思いになって、御子みこを産み置いて「わたくしは、つねに海の道をとおってかよおうと思っておりましたが、わたくしの形をのぞいてご覧になったのははずかしいことです」と申して、海の道をふさいで帰っておしまいになりました。そこでおまれになった御子みこの名をアマツヒコヒコナギサタケウガヤフキアエズのみことと申しあげます。しかしながら後には窺見のぞきみなさったお心をうらみながらも恋しさにおえなさらないで、その御子みこをご養育申し上げるために、その妹のタマヨリ姫をさしあげ、それにつけて歌をさしあげました。その歌は、

赤い玉はまでも光りますが、
白玉のような君のお姿は
たっといことです。
 そこで、その夫の君がお答えなさいました歌は、

水鳥みずとりかもりつく島で
ちぎりを結んだ私の妻は忘れられない。
世の終わりまでも。
 このヒコホホデミのみこと高千穂たかちほの宮に五八〇年おいでなさいました。御陵ごりょうはその高千穂の山の西にあります。
 アマツヒコヒコナギサタケウガヤフキアエズのみことは、叔母おばのタマヨリ姫と結婚してお生みになった御子みこの名は、イツセの命・イナヒの命・ミケヌの命・ワカミケヌの命、またの名はトヨミケヌの命、またの名はカムヤマトイワレ彦の命の四人です。ミケヌの命は波の高みをんで海外の国へとお渡りになり、イナヒの命は母の国として海原にお入りになりました。(つづく)


底本:「古事記」角川文庫、角川書店
   1956(昭和31)年5月20日初版発行
   1965(昭和40)年9月20日20版発行
底本の親本:「眞福寺本」
※頁数を引用している箇所には標題を注記しました。
※底本は新かなづかいです。なお拗音・促音は小書きではありません。
※表題は底本では、「[#割り注]現代語譯[#割り注終わり] 古事記」となっています。
入力:川山隆
校正:しだひろし
xxxx年xx月xx日公開
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。



現代語譯 古事記(二)

稗田の阿禮、太の安萬侶
武田祐吉訳

-------------------------------------------------------
【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)安萬侶《やすまろ》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)三|方《かた》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]
-------------------------------------------------------

[#3字下げ]四、大國主の命[#「四、大國主の命」は中見出し]

[#5字下げ][#小見出し]兎と※[#「鰐」の「夸−大」に代えて「汚のつくり」、220-7][#小見出し終わり]
[#ここから6字下げ]
[#ここから37字詰め]
――これから出雲系の英雄大國主の神の神話になる。さまざまの神話を、一神の名のもとに寄せたものの如くである。――
[#ここで字詰め終わり]
[#ここで字下げ終わり]
 この大國主の命の兄弟は、澤山おいでになりました。しかし國は皆大國主の命にお讓り申しました。お讓り申し上げたわけは、その大勢の神が皆《みな》因幡《いなば》のヤガミ姫《ひめ》と結婚しようという心があつて、一緒に因幡《いなば》に行きました。時に大國主の命に袋を負わせ從者として連れて行きました。そしてケタの埼に行きました時に裸になつた兎が伏しておりました。大勢の神がその兎に言いましたには、「お前はこの海水を浴びて風の吹くのに當つて高山の尾上《おのえ》に寢ているとよい」と言いました。それでこの兎が大勢の神の教えた通りにして寢ておりました。ところがその海水の乾《かわ》くままに身の皮が悉く風に吹き拆《さ》かれたから痛んで泣き伏しておりますと、最後に來た大國主の命がその兎を見て、「何《なん》だつて泣き伏しているのですか」とお尋ねになつたので、兎が申しますよう、「わたくしは隱岐《おき》の島にいてこの國に渡りたいと思つていましたけれども渡るすべがございませんでしたから、海の※[#「鰐」の「夸−大」に代えて「汚のつくり」、221-4]《わに》を欺《あざむ》いて言いましたのは、わたしはあなたとどちらが一|族《ぞく》が多いか競《くら》べて見ましよう。あなたは一族を悉く連れて來てこの島からケタの埼《さき》まで皆竝んで伏していらつしやい。わたしはその上を蹈んで走りながら勘定をして、わたしの一族とどちらが多いかということを知りましようと言いましたから、欺かれて竝んで伏している時に、わたくしはその上を蹈んで渡つて來て、今土におりようとする時に、お前はわたしに欺《だま》されたと言うか言わない時に、一番|端《はし》に伏していた※[#「鰐」の「夸−大」に代えて「汚のつくり」、221-8]《わに》がわたくしを捕《つかま》えてすつかり着物《きもの》を剥《は》いでしまいました。それで困《こま》つて泣いて悲しんでおりましたところ、先においでになつた大勢の神樣が、海水を浴びて風に當つて寢ておれとお教えになりましたからその教えの通りにしましたところすつかり身體《からだ》をこわしました」と申しました。そこで大國主の命は、その兎にお教え遊ばされるには、「いそいであの水門に往つて、水で身體を洗つてその水門の蒲《がま》の花粉を取つて、敷き散らしてその上に輾《ころが》り※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]《まわ》つたなら、お前の身はもとの膚《はだ》のようにきつと治るだろう」とお教えになりました。依つて教えた通りにしましたから、その身はもとの通りになりました。これが因幡《いなば》の白兎というものです。今では兎神といつております。そこで兎が喜んで大國主の命に申しましたことには、「あの大勢の神はきつとヤガミ姫を得られないでしよう。袋を背負つておられても、きつとあなたが得るでしよう」と申しました。

[#5字下げ]赤貝姫と蛤貝姫[#「赤貝姫と蛤貝姫」は小見出し]
[#ここから6字下げ]
[#ここから37字詰め]
――前の兎と鰐の話と共に、古代醫療の方法について語つている説話である。――
[#ここで字詰め終わり]
[#ここで字下げ終わり]
 兎の言つた通り、ヤガミ姫は大勢の神に答えて「わたくしはあなたたちの言う事は聞きません。大國主の命と結婚しようと思います」と言いました。そこで大勢の神が怒つて、大國主の命を殺そうと相談して伯耆《ほうき》の國のテマの山本に行つて言いますには、「この山には赤い猪《いのしし》がいる。わたしたちが追い下《くだ》すからお前が待ちうけて捕えろ。もしそうしないと、きつとお前を殺してしまう」と言つて、猪《いのしし》に似ている大きな石を火で燒いて轉《ころ》がし落しました。そこで追い下して取ろうとする時に、その石に燒きつかれて死んでしまいました。そこで母の神が泣き悲しんで、天に上つて行つてカムムスビの神のもとに參りましたので、赤貝姫《あかがいひめ》と蛤貝姫《はまぐりひめ》とを遣《や》つて生き還らしめなさいました。それで赤貝姫が汁《しる》を搾《しぼ》り集《あつ》め、蛤貝姫がこれを受けて母の乳汁として塗りましたから、りつぱな男になつて出歩《である》くようになりました。

[#5字下げ]根《ね》の堅州國《かたすくに》[#「根の堅州國」は小見出し]
[#ここから6字下げ]
[#ここから37字詰め]
――これも異郷説話の一つで、王子の求婚説話の形を採つている。姫の父親から難題を課せられるが、姫の助力を得て解決する。――
[#ここで字詰め終わり]
[#ここで字下げ終わり]
 これをまた大勢の神が見て欺《あざむ》いて山に連れて行つて、大きな樹を切り伏せて楔子《くさび》を打つておいて、その中に大國主の命をはいらせて、楔子《くさび》を打つて放つて打ち殺してしまいました。そこでまた母の神が泣きながら搜したので、見つけ出してその木を拆《さ》いて取り出して生《い》かして、その子に仰せられるには、「お前がここにいるとしまいには大勢の神に殺《ころ》されるだろう」と仰せられて、紀伊の國のオホヤ彦の神のもとに逃がしてやりました。そこで大勢の神が求めて追つて來て、矢をつがえて乞う時に、木の俣《また》からぬけて逃げて行きました。
 そこで母の神が「これは、スサノヲの命のおいでになる黄泉の國に行つたなら、きつとよい謀《はかりごと》をして下さるでしよう」と仰せられました。そこでお言葉のままに、スサノヲの命の御所《おんもと》に參りましたから、その御女《おんむすめ》のスセリ姫《ひめ》が出て見ておあいになつて、それから還つて父君に申しますには、「大變りつぱな神樣がおいでになりました」と申されました。そこでその大神が出て見て、「これはアシハラシコヲの命だ」とおつしやつて、呼《よ》び入れて蛇のいる室《むろ》に寢させました。そこでスセリ姫の命が蛇の領巾《ひれ》をその夫に與えて言われたことは、「その蛇が食おうとしたなら、この領巾《ひれ》を三度振つて打ち撥《はら》いなさい」と言いました。それで大國主の命は、教えられた通りにしましたから、蛇が自然に靜まつたので安らかに寢てお出になりました。また次の日の夜は呉公《むかで》と蜂《はち》との室《むろ》にお入れになりましたのを、また呉公と蜂の領巾を與えて前のようにお教えになりましたから安らかに寢てお出になりました。次には鏑矢《かぶらや》を大野原の中に射て入れて、その矢を採《と》らしめ、その野におはいりになつた時に火をもつてその野を燒き圍みました。そこで出る所を知らないで困つている時に、鼠が來て言いますには、「内《うち》はほらほら、外《そと》はすぶすぶ」と言いました。こう言いましたからそこを踏んで落ちて隱れておりました間に、火は燒けて過ぎました。そこでその鼠がその鏑矢を食わえ出して來て奉りました。その矢の羽《はね》は鼠の子どもが皆食べてしまいました。
 かくてお妃《きさき》のスセリ姫《ひめ》は葬式の道具を持つて泣きながらおいでになり、その父の大神はもう死んだとお思いになつてその野においでになると、大國主の命はその矢を持つて奉りましたので、家に連れて行つて大きな室に呼び入れて、頭の虱《しらみ》を取らせました。そこでその頭を見ると呉公《むかで》がいつぱいおります。この時にお妃が椋《むく》の木の實と赤土とを夫君に與えましたから、その木の實を咋《く》い破《やぶ》り赤土を口に含んで吐き出されると、その大神は呉公を咋《く》い破つて吐き出すとお思いになつて、御心に感心にお思いになつて寢ておしまいになりました。そこでその大神の髮を握《と》つてその室の屋根のたる木ごとに結いつけて、大きな巖をその室の戸口に塞いで、お妃のスセリ姫を背負《せお》つて、その大神の寶物の大刀《たち》弓矢《ゆみや》、また美しい琴を持つて逃げておいでになる時に、その琴が樹にさわつて音を立てました。そこで寢ておいでになつた大神が聞いてお驚きになつてその室を引き仆してしまいました。しかしたる木に結びつけてある髮を解いておいでになる間に遠く逃げてしまいました。そこで黄泉比良坂《よもつひらさか》まで追つておいでになつて、遠くに見て大國主の命を呼んで仰せになつたには、「そのお前の持つている大刀や弓矢を以つて、大勢の神をば坂の上に追い伏せ河の瀬《せ》に追い撥《はら》つて、自分で大國主の命となつてそのわたしの女《むすめ》のスセリ姫を正妻として、ウカの山の山本に大磐石《だいばんじやく》の上に宮柱を太く立て、大空に高く棟木《むなぎ》を上げて住めよ、この奴《やつ》め」と仰せられました。そこでその大刀弓を持つてかの大勢の神を追い撥《はら》う時に、坂の上毎に追い伏せ河の瀬毎に追い撥《はら》つて國を作り始めなさいました。
 かのヤガミ姫《ひめ》は前の約束通りに婚姻なさいました。そのヤガミ姫を連《つ》れておいでになりましたけれども、お妃《きさき》のスセリ姫を恐れて生んだ子を木の俣《また》にさし挾んでお歸りになりました。ですからその子の名を木の俣の神と申します。またの名は御井《みい》の神とも申します。

[#5字下げ]ヤチホコの神の歌物語[#「ヤチホコの神の歌物語」は小見出し]
[#ここから6字下げ]
[#ここから37字詰め]
――長い歌の贈答を中心とした物語で、もと歌曲として歌い傳えられたもの。――
[#ここで字詰め終わり]
[#ここで字下げ終わり]
 このヤチホコの神(大國主の命)が、越の國のヌナカハ姫と結婚しようとしておいでになりました時に、そのヌナカハ姫の家に行《い》つてお詠みになりました歌は、

[#ここから3字下げ]
ヤチホコの神樣は、
方々の國で妻を求めかねて、
遠い遠い越《こし》の國に
賢《かしこ》い女がいると聞き
美しい女がいると聞いて
結婚にお出《で》ましになり
結婚にお通《かよ》いになり、
大刀《たち》の緒《お》もまだ解かず
羽織《はおり》をもまだ脱《ぬ》がずに、
娘さんの眠つておられる板戸を
押しゆすぶり立つていると
引き試みて立つていると、
青い山ではヌエが鳴いている。
野の鳥の雉《きじ》は叫んでいる。
庭先でニワトリも鳴いている。
腹が立つさまに鳴く鳥だな
こんな鳥はやつつけてしまえ。
[#ここから5字下げ]
下におります走り使をする者の
事《こと》の語《かた》り傳《つた》えはかようでございます。
[#ここで字下げ終わり]

 そこで、そのヌナカハ姫が、まだ戸を開《あ》けないで、家の内で歌いました歌は、

[#ここから3字下げ]
ヤチホコの神樣、
萎《しお》れた草のような女のことですから
わたくしの心は漂う水鳥、
今《いま》こそわたくし鳥《どり》でも
後《のち》にはあなたの鳥になりましよう。
命《いのち》長《なが》くお生《い》き遊《あそ》ばしませ。
[#ここから5字下げ]
下におります走り使をする者の
事《こと》の語《かた》り傳《つた》えはかようでございます。
[#ここから3字下げ]
青い山《やま》に日《ひ》が隱《かく》れたら
眞暗《まつくら》な夜《よ》になりましよう。
朝のお日樣《ひさま》のようににこやかに來て
コウゾの綱のような白い腕、
泡雪のような若々しい胸を
そつと叩いて手をとりかわし
玉のような手をまわして
足を伸《の》ばしてお休みなさいましようもの。
そんなにわびしい思《おも》いをなさいますな。
ヤチホコの神樣《かみさま》。
[#ここから5字下げ]
事《こと》の語《かた》り傳《つた》えは、かようでございます。
[#ここで字下げ終わり]

 それで、その夜はお會《あ》いにならないで、翌晩お會《あ》いなさいました。
 またその神のお妃《きさき》スセリ姫の命は、大變《たいへん》嫉妬深《しつとぶか》い方《かた》でございました。それを夫《おつと》の君は心|憂《う》く思つて、出雲から大和の國にお上りになろうとして、お支度遊ばされました時に、片手は馬の鞍に懸け、片足はその鐙《あぶみ》に蹈み入れて、お歌《うた》い遊ばされた歌は、

[#ここから3字下げ]
カラスオウギ色《いろ》の黒い御衣服《おめしもの》を
十分に身につけて、
水鳥のように胸を見る時、
羽敲《はたた》きも似合わしくない、
波うち寄せるそこに脱ぎ棄て、
翡翠色《ひすいいろ》の青い御衣服《おめしもの》を
十分に身につけて
水鳥のように胸を見る時、
羽敲《はたた》きもこれも似合わしくない、
波うち寄せるそこに脱ぎ棄て、
山畑《やまはた》に蒔《ま》いた茜草《あかねぐさ》を舂《つ》いて
染料の木の汁で染めた衣服を
十分に身につけて、
水鳥のように胸を見る時、
羽敲《はたた》きもこれはよろしい。
睦《むつま》しのわが妻よ、
鳥の群《むれ》のようにわたしが群れて行つたら、
引いて行《ゆ》く鳥のようにわたしが引いて行つたら、
泣かないとあなたは云つても、
山地《やまぢ》に立つ一本薄《いつぽんすすき》のように、
うなだれてあなたはお泣きになつて、
朝の雨の霧に立つようだろう。
若草のようなわが妻よ。
[#ここから5字下げ]
事《こと》の語《かた》り傳《つた》えは、かようでございます。
[#ここで字下げ終わり]

 そこで、そのお妃《きさき》が、酒盃《さかずき》をお取りになり、立ち寄り捧げて、お歌いになつた歌、

[#ここから3字下げ]
ヤチホコの神樣《かみさま》、
わたくしの大國主樣《おおくにぬしさま》。
あなたこそ男ですから
※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]つている岬々《みさきみさき》に
※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]つている埼《さき》ごとに
若草のような方をお持ちになりましよう。
わたくしは女《おんな》のことですから
あなた以外に男は無く
あなた以外に夫《おつと》はございません。
ふわりと垂《た》れた織物《おりもの》の下で、
暖《あたたか》い衾《ふすま》の柔《やわらか》い下《した》で、
白《しろ》い衾《ふすま》のさやさやと鳴《な》る下《した》で、
泡雪《あわゆき》のような若々しい胸を
コウゾの綱のような白い腕で、
そつと叩いて手をさしかわし
玉のような手を※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]して
足をのばしてお休み遊ばせ。
おいしいお酒《さけ》をお上《あが》り遊《あそ》ばせ。
[#ここで字下げ終わり]

 そこで盃《さかずき》を取《と》り交《かわ》して、手《て》を懸《か》け合《あ》つて、今日までも鎭《しず》まつておいでになります。これらの歌は神語《かむがたり》と申す歌曲《かきよく》です。

[#5字下げ]系譜[#「系譜」は小見出し]
[#ここから6字下げ]
[#ここから37字詰め]
――出雲系の、ある豪族の家系を語るもののようである。――
[#ここで字詰め終わり]
[#ここで字下げ終わり]
 この大國主の神が、※[#「匈/(胃−田)」、230-14]形《むなかた》の沖つ宮においでになるタギリ姫の命と結婚して生んだ子はアヂスキタカヒコネの神、次にタカ姫の命、またの名はシタテル姫の命であります。このアヂスキタカヒコネの神は、今カモの大御神と申す神樣であります。
 大國主の神が、またカムヤタテ姫の命と結婚して生んだ子は、コトシロヌシの神です。またヤシマムチの神の女《むすめ》のトリトリの神と結婚して生んだ子は、トリナルミの神です。この神がヒナテリヌカダビチヲイコチニの神と結婚して生んだ子は、クニオシトミの神です。この神がアシナダカの神、またの名はヤガハエ姫と結婚して生んだ子は、ツラミカノタケサハヤヂヌミの神です。この神がアメノミカヌシの神の女のサキタマ姫と結婚して生んだ子は、ミカヌシ彦の神です。この神がオカミの神の女のヒナラシ姫と結婚して生んだ子は、タヒリキシマミの神です。この神がヒヒラギのソノハナマヅミの神の女のイクタマサキタマ姫の神と結婚して生んだ子は、ミロナミの神です。この神がシキヤマヌシの神の女のアヲヌマヌオシ姫と結婚して生んだ子は、ヌノオシトミトリナルミの神です。この神がワカヒルメの神と結婚して生んだ子は、アメノヒバラオホシナドミの神です。この神がアメノサギリの神の女のトホツマチネの神と結婚して生んだ子は、トホツヤマザキタラシの神です。
 以上ヤシマジヌミの神からトホツヤマザキタラシの神までを十七代の神と申します。

[#5字下げ]スクナビコナの神[#「スクナビコナの神」は小見出し]
[#ここから6字下げ]
[#ここから37字詰め]
――オホアナムチの命としばしば竝んで語られるスクナビコナの神は、農民の間に語り傳えられた神で、ここでは蔓芋の種の擬人化として語られている。――
[#ここで字詰め終わり]
[#ここで字下げ終わり]
 そこで大國主の命が出雲《いずも》の御大《みほ》の御埼《みさき》においでになつた時に、波《なみ》の上《うえ》を蔓芋《つるいも》のさやを割《わ》つて船にして蛾《が》の皮をそつくり剥《は》いで著物《きもの》にして寄《よ》つて來る神樣があります。その名を聞きましたけれども答えません。また御從者《おとも》の神たちにお尋ねになつたけれども皆知りませんでした。ところがひきがえるが言《い》うことには、「これはクエ彦がきつと知つているでしよう」と申しましたから、そのクエ彦を呼んでお尋ねになると、「これはカムムスビの神の御子《みこ》でスクナビコナの神です」と申しました。依つてカムムスビの神に申し上げたところ、「ほんとにわたしの子だ。子どもの中でもわたしの手の股《また》からこぼれて落ちた子どもです。あなたアシハラシコヲの命と兄弟となつてこの國を作り堅めなさい」と仰せられました。それでそれから大國主とスクナビコナとお二人が竝んでこの國を作り堅めたのです。後にはそのスクナビコナの神は、海のあちらへ渡つて行つてしまいました。このスクナビコナの神のことを申し上げたクエ彦というのは、今いう山田の案山子《かかし》のことです。この神は足は歩《ある》きませんが、天下のことをすつかり知つている神樣です。

[#5字下げ]御諸山の神[#「御諸山の神」は小見出し]
[#ここから6字下げ]
[#ここから37字詰め]
――大和の三輪山にある大神《おおみわ》神社の鎭坐の縁起である。――
[#ここで字詰め終わり]
[#ここで字下げ終わり]
 そこで大國主の命が心憂く思つて仰せられたことは、「わたしはひとりではどのようにしてこの國を作り得ましよう。どの神樣と一緒にわたしはこの國を作りましようか」と仰せられました。この時に海上を照らして寄つて來る神樣があります。その神の仰せられることには、「わたしに對してよくお祭をしたら、わたしが一緒になつて國を作りましよう。そうしなければ國はできにくいでしよう」と仰せられました。そこで大國主の命が申されたことには、「それならどのようにしてお祭を致しましよう」と申されましたら、「わたしを大和の國の青々と取り圍んでいる東の山の上にお祭りなさい」と仰せられました。これは御諸《みもろ》の山においでになる神樣です。

[#5字下げ]大年の神の系譜[#「大年の神の系譜」は小見出し]
[#ここから6字下げ]
[#ここから37字詰め]
――前に出たスサノヲの命の系譜の中の大年の神の系譜で、一年中の耕作の經過を系譜化したものである。耕作に關する祭の詞から拔け出したものと見られる。――
[#ここで字詰め終わり]
[#ここで字下げ終わり]
 オホトシの神が、カムイクスビの神の女のイノ姫と結婚して生んだ子は、オホクニミタマの神、次にカラの神、次にソホリの神、次にシラヒの神、次にヒジリの神の五神です。またカグヨ姫と結婚して生んだ子は、オホカグヤマトミの神、次にミトシの神の二神です。またアメシルカルミヅ姫と結婚して生んだ子はオキツ彦の神、次にオキツ姫の命、またの名はオホヘ姫の神です。これは皆樣の祭つている竈《かまど》の神であります。次にオホヤマクヒの神、またの名はスヱノオホヌシの神です。これは近江の國の比叡山《ひえいざん》においでになり、またカヅノの松の尾においでになる鏑矢《かぶらや》をお持ちになつている神樣であります。次にニハツヒの神、次にアスハの神、次にハヒキの神、次にカグヤマトミの神、次にハヤマトの神、次にニハノタカツヒの神、次にオホツチの神、またの名はツチノミオヤの神の九神です。
 以上オホトシの神の子のオホクニミタマの神からオホツチの神まで合わせて十六神です。
 さてハヤマトの神が、オホゲツ姫の神と結婚して生んだ子は、ワカヤマクヒの神、次にワカトシの神、次に女神のワカサナメの神、次にミヅマキの神、次にナツノタカツヒの神、またの名はナツノメの神、次にアキ姫の神、次にククトシの神、次にククキワカムロツナネの神です。
 以上ハヤマトの神の子のワカヤマクヒの神からワカムロツナネの神まで合わせて八神です。

[#3字下げ]五、天照らす大神と大國主の命[#「五、天照らす大神と大國主の命」は中見出し]

[#5字下げ]天若日子[#「天若日子」は小見出し]
[#ここから6字下げ]
[#ここから37字詰め]
――天若日子に關する部分は、語部などによつて語られた物語の插入。――
[#ここで字詰め終わり]
[#ここで字下げ終わり]
 天照らす大神のお言葉で、「葦原《あしはら》の水穗《みずほ》の國《くに》は我《わ》が御子《みこ》のマサカアカツカチハヤヒアメノオシホミミの命のお治め遊《あそ》ばすべき國である」と仰せられて、天からお降《くだ》しになりました。そこでオシホミミの命が天からの階段にお立ちになつて御覽《ごらん》になり、「葦原の水穗の國はひどくさわいでいる」と仰せられて、またお還りになつて天照らす大神に申されました。そこでタカミムスビの神、天照らす大神の御命令で天のヤスの河の河原に多くの神をお集めになつて、オモヒガネの神に思わしめて仰せになつたことには、「この葦原の中心の國はわたしの御子《みこ》の治むべき國と定めた國である。それだのにこの國に暴威を振う亂暴な土著《どちやく》の神が多くあると思われるが、どの神を遣《つかわ》してこれを平定すべきであろうか」と仰せになりました。そこでオモヒガネの神及び多くの神たちが相談して、「ホヒの神を遣《や》つたらよろしいでございましよう」と申しました。そこでホヒの神を遣《つかわ》したところ、この神は大國主の命に諂《へつら》い著《つ》いて三年たつても御返事申し上げませんでした。このような次第でタカミムスビの神天照らす大神がまた多くの神たちにお尋ねになつて、「葦原の中心の國に遣《つかわ》したホヒの神が久しく返事をしないが、またどの神を遣つたらよいだろうか」と仰せられました。そこでオモヒガネの神が申されるには、「アマツクニダマの神の子の天若日子《あめわかひこ》を遣《や》りましよう」と申しました。そこでりつぱな弓矢《ゆみや》を天若日子《あめわかひこ》に賜わつて遣《つかわ》しました。しかるに天若日子はその國に降りついて大國主の命の女《むすめ》の下照《したて》る姫《ひめ》を妻とし、またその國を獲ようと思つて、八年たつても御返事申し上げませんでした。
 そこで天照らす大神、タカミムスビの神が大勢の神にお尋ねになつたのには、「天若日子が久しく返事をしないが、どの神を遣して天若日子の留まつている仔細を尋ねさせようか」とお尋ねになりました。そこで大勢の神たちまたオモヒガネの神が申しますには、「キジの名鳴女《ななきめ》を遣《や》りましよう」と申しました。そこでそのキジに、「お前が行《い》つて天若日子に尋ねるには、あなたを葦原の中心の國に遣したわけはその國の亂暴な神たちを平定せよというためです。何故に八年たつても御返事申し上げないのかと問え」と仰せられました。そこでキジの鳴女《なきめ》が天から降つて來て、天若日子の門にある貴い桂《かつら》の木の上にいて詳しく天の神の仰せの通りに言いました。ここに天の探女《さぐめ》という女がいて、このキジの言うことを聞いて天若日子に「この鳥は鳴く聲がよくありませんから射殺しておしまいなさい」と勸めましたから、天若日子は天の神の下さつたりつぱな弓矢をもつてそのキジを射殺しました。ところがその矢がキジの胸から通りぬけて逆樣に射上げられて天のヤスの河の河原においでになる天照らす大神|高木《たかぎ》の神の御許《おんもと》に到りました。この高木の神というのはタカミムスビの神の別の名です。その高木の神が弓矢を取つて御覽になると矢の羽に血がついております。そこで高木の神が「この矢は天若日子に與えた矢である」と仰せになつて、多くの神たちに見せて仰せられるには、「もし天若日子が命令通りに亂暴な神を射た矢が來たのなら、天若日子に當ることなかれ。そうでなくてもし不屆《ふとどき》な心があるなら天若日子はこの矢で死んでしまえ」と仰せられて、その矢をお取りになつて、その矢の飛んで來た穴から衝き返してお下しになりましたら、天若日子が朝床《あさどこ》に寢ている胸の上に當つて死にました。かくしてキジは還つて參りませんから、今でも諺《ことわざ》に「行《い》つたきりのキジのお使」というのです。それで天若日子の妻、下照《したて》る姫のお泣きになる聲が風のまにまに響いて天に聞えました。そこで天にいた天若日子の父のアマツクニダマの神、また天若日子のもとの妻子たちが聞いて、下りて來て泣き悲しんで、そこに葬式の家を作つて、ガンを死人の食物を持つ役とし、サギを箒《ほうき》を持つ役とし、カワセミを御料理人とし、スズメを碓《うす》を舂《つ》く女とし、キジを泣く役の女として、かように定めて八日八夜というもの遊んでさわぎました。
 この時アヂシキタカヒコネの神がおいでになつて、天若日子の亡《な》くなつたのを弔問される時に、天から降つて來た天若日子の父や妻が皆泣いて、「わたしの子は死ななかつた」「わたしの夫《おつと》は死ななかつたのだ」と言つて手足に取りすがつて泣き悲しみました。かように間違えた次第はこの御二方の神のお姿が非常によく似ていたからです。それで間違えたのでした。ここにアヂシキタカヒコネの神が非常に怒つて言われるには、「わたしは親友だから弔問に來たのだ。何だつてわたしを穢《きたな》い死人に比《くら》べるのか」と言つて、お佩《は》きになつている長い劒を拔いてその葬式の家を切り伏せ、足で蹴|飛《と》ばしてしまいました。それは美濃の國のアヰミ河の河上の喪山《もやま》という山になりました。その持つて切《き》つた大刀《たち》の名はオホバカリといい、またカンドの劒ともいいます。そこでアヂシキタカヒコネの神が怒つて飛び去つた時に、その妹の下照る姫が兄君のお名前を顯そうと思つて歌つた歌は、

[#ここから3字下げ]
天の世界の若《わか》い織姫《おりひめ》の
首《くび》に懸けている珠《たま》の飾《かざ》り、
その珠の飾りの大きい珠のような方、
谷《たに》二《ふた》つ一度にお渡りになる
アヂシキタカヒコネの神でございます。
[#ここで字下げ終わり]

と歌いました。この歌は夷振《ひなぶり》です。

[#5字下げ]國讓り[#「國讓り」は小見出し]
[#ここから6字下げ]
[#ここから37字詰め]
――出雲の神が、託宣によつて國を讓つたことを語る。出雲大社の鎭坐縁起を、政治的に解釋したものと考えられる。――
[#ここで字詰め終わり]
[#ここで字下げ終わり]
 かように天若日子もだめだつたので、天照らす大神の仰せになるには、「またどの神を遣したらよかろう」と仰せになりました。そこでオモヒガネの神また多くの神たちの申されるには、「天のヤス河の河上の天の石屋《いわや》においでになるアメノヲハバリの神がよろしいでしよう。もしこの神でなくば、その神の子のタケミカヅチの神を遣すべきでしよう。ヲハバリの神はヤスの河の水を逆樣《さかさま》に塞《せ》きあげて道を塞いでおりますから、他の神では行かれますまい。特にアメノカクの神を遣してヲハバリの神に尋ねさせなければなりますまい」と申しました。依つてカクの神を遣して尋ねた時に、「謹しんでお仕え申しましよう。しかしわたくしの子のタケミカヅチの神を遣しましよう」と申して奉りました。そこでアメノトリフネの神をタケミカヅチの神に副えて遣されました。
 そこでこのお二方の神が出雲の國のイザサの小濱《おはま》に降りついて、長い劒を拔いて波の上に逆樣に刺《さ》し立てて、その劒のきつさきに安座《あぐら》をかいて大國主の命にお尋ねになるには、「天照らす大神、高木の神の仰せ言で問の使に來ました。あなたの領している葦原の中心の國は我が御子の治むべき國であると御命令がありました。あなたの心はどうですか」とお尋ねになりましたから、答えて申しますには「わたくしは何とも申しません。わたくしの子のコトシロヌシの神が御返事申し上ぐべきですが、鳥や魚の獵をしにミホの埼《さき》に行《い》つておつてまだ還つて參りません」と申しました。依つてアメノトリフネの神を遣してコトシロヌシの神を呼んで來てお尋ねになつた時に、その父の神樣に「この國は謹しんで天の神の御子に獻上なさいませ」と言つて、その船を踏み傾けて、逆樣《さかさま》に手をうつて青々とした神籬《ひもろぎ》を作り成してその中に隱れてお鎭まりになりました。
 そこで大國主の命にお尋ねになつたのは、「今あなたの子のコトシロヌシの神はかように申しました。また申すべき子がありますか」と問われました。そこで大國主の命は「またわたくしの子にタケミナカタの神があります。これ以外にはございません」と申される時に、タケミナカタの神が大きな石を手の上にさし上げて來て、「誰だ、わしの國に來て内緒話をしているのは。さあ、力くらべをしよう。わしが先にその手を掴《つか》むぞ」と言いました。そこでその手を取らせますと、立つている氷のようであり、劒の刃のようでありました。そこで恐れて退いております。今度はタケミナカタの神の手を取ろうと言つてこれを取ると、若いアシを掴むように掴みひしいで、投げうたれたので逃げて行きました。それを追つて信濃の國の諏訪《すわ》の湖《みずうみ》に追い攻めて、殺そうとなさつた時に、タケミナカタの神の申されますには、「恐れ多いことです。わたくしをお殺しなさいますな。この地以外には他の土地には參りますまい。またわたくしの父大國主の命の言葉に背きますまい。この葦原の中心の國は天の神の御子《みこ》の仰せにまかせて獻上致しましよう」と申しました。
 そこで更に還つて來てその大國主の命に問われたことには、「あなたの子どもコトシロヌシの神・タケミナカタの神お二方は、天の神の御子の仰せに背《そむ》きませんと申しました。あなたの心はどうですか」と問いました。そこでお答え申しますには、「わたくしの子ども二人の申した通りにわたくしも違いません。この葦原の中心の國は仰せの通り獻上致しましよう。ただわたくしの住所を天の御子《みこ》の帝位にお登りになる壯大な御殿の通りに、大磐石に柱を太く立て大空に棟木《むなぎ》を高くあげてお作り下さるならば、わたくしは所々の隅に隱れておりましよう。またわたくしの子どもの多くの神はコトシロヌシの神を導《みちび》きとしてお仕え申しましたなら、背《そむ》く神はございますまい」と、かように申して出雲の國のタギシの小濱《おはま》にりつぱな宮殿を造つて、水戸《みなと》の神の子孫のクシヤタマの神を料理役として御馳走をさし上げた時に、咒言を唱えてクシヤタマの神が鵜《う》になつて海底に入つて、底の埴土《はにつち》を咋《く》わえ出て澤山の神聖なお皿を作つて、また海草の幹《みき》を刈り取つて來て燧臼《ひうちうす》と燧杵《ひうちきね》を作つて、これを擦《す》つて火をつくり出して唱言《となえごと》を申したことは、「今わたくしの作る火は大空高くカムムスビの命の富み榮える新しい宮居の煤《すす》の長く垂《た》れ下《さが》るように燒《た》き上《あ》げ、地の下は底の巖に堅く燒き固まらして、コウゾの長い綱を延ばして釣をする海人《あま》の釣り上げた大きな鱸《すずき》をさらさらと引き寄せあげて、机《つくえ》もたわむまでにりつぱなお料理を獻上致しましよう」と申しました。かくしてタケミカヅチの神が天に還つて上つて葦原の中心の國を平定した有樣を申し上げました。

[#3字下げ]六、ニニギの命[#「六、ニニギの命」は中見出し]

[#5字下げ]天降[#「天降」は小見出し]
[#ここから6字下げ]
[#ここから37字詰め]
――本來は、祭の庭に神の降下することを説くものと解せられるが、政治的に解釋されており、諸氏の傳來の複合した形になつている。――
[#ここで字詰め終わり]
[#ここで字下げ終わり]
 そこで天照らす大神、高木の神のお言葉で、太子オシホミミの命に仰せになるには、「今葦原の中心の國は平定し終つたと申すことである。それ故、申しつけた通りに降つて行つてお治めなされるがよい」と仰《おお》せになりました。そこで太子オシホミミの命が仰せになるには、「わたくしは降《お》りようとして支度《したく》をしております間《あいだ》に子が生まれました。名はアメニギシクニニギシアマツヒコヒコホノニニギの命と申します。この子を降したいと思います」と申しました。この御子《みこ》はオシホミミの命が高木の神の女《むすめ》ヨロヅハタトヨアキツシ姫の命と結婚されてお生《う》みになつた子がアメノホアカリの命・ヒコホノニニギの命のお二方なのでした。かようなわけで申されたままにヒコホノニニギの命に仰せ言があつて、「この葦原の水穗の國はあなたの治むべき國であると命令するのである。依《よ》つて命令の通りにお降りなさい」と仰せられました。
 ここにヒコホノニニギの命が天からお降《くだ》りになろうとする時に、道の眞中《まんなか》にいて上は天を照《て》らし、下《した》は葦原の中心の國を照らす神がおります。そこで天照らす大神・高木の神の御命令で、アメノウズメの神に仰せられるには、「あなたは女ではあるが出會つた神に向き合つて勝つ神である。だからあなたが往つて尋ねることは、我が御子《みこ》のお降《くだ》りなろうとする道をかようにしているのは誰であるかと問え」と仰せになりました。そこで問われる時に答え申されるには、「わたくしは國の神でサルタ彦の神という者です。天の神の御子《みこ》がお降りになると聞きましたので、御前《みまえ》にお仕え申そうとして出迎えております」と申しました。
 かくてアメノコヤネの命・フトダマの命・アメノウズメの命・イシコリドメの命・タマノオヤの命、合わせて五部族の神を副えて天から降らせ申しました。この時に先《さき》に天《あめ》の石戸《いわと》の前で天照らす大神をお迎えした大きな勾玉《まがたま》、鏡また草薙《くさなぎ》の劒、及びオモヒガネの神・タヂカラヲの神・アメノイハトワケの神をお副《そ》えになつて仰せになるには、「この鏡こそはもつぱらわたしの魂《たましい》として、わたしの前を祭るようにお祭り申し上げよ。次《つぎ》にオモヒガネの神はわたしの御子《みこ》の治められる種々《いろいろ》のことを取り扱つてお仕え申せ」と仰せられました。この二神は伊勢神宮にお祭り申し上げております。なお伊勢神宮の外宮《げくう》にはトヨウケの神を祭つてあります。次にアメノイハトワケの神はまたの名はクシイハマドの神、またトヨイハマドの神といい、この神は御門の神です。タヂカラヲの神はサナの地においでになります。このアメノコヤネの命は中臣《なかとみ》の連等《むらじら》の祖先、フトダマの命は忌部《いみべ》の首等《おびとら》の祖先、ウズメの命は猿女《さるめ》の君等《きみら》の祖先、イシコリドメの命は鏡作《かがみつくり》の連等の祖先、タマノオヤの命は玉祖《たまのおや》の連等の祖先であります。

[#5字下げ]猿女の君[#「猿女の君」は小見出し]
[#ここから6字下げ]
[#ここから37字詰め]
――前にあつたウズメの命がサルタ彦の神を見顯す神話に接續するものである。猿女の君の系統の傳來で、もと遊離していたものを取り入れたのであろう。――
[#ここで字詰め終わり]
[#ここで字下げ終わり]
 そこでアマツヒコホノニニギの命に仰せになつて、天上の御座を離れ、八重《やえ》立つ雲を押し分けて勢いよく道を押し分け、天からの階段によつて、下の世界に浮洲《うきす》があり、それにお立《た》ちになつて、遂《つい》に筑紫《つくし》の東方《とうほう》なる高千穗《たかちほ》の尊い峰にお降《くだ》り申さしめました。ここにアメノオシヒの命とアマツクメの命と二人が石の靫《ゆき》を負い、頭《あたま》が瘤《こぶ》になつている大刀《たち》を佩《は》いて、強い弓を持ち立派な矢を挾んで、御前《みまえ》に立つてお仕え申しました。このアメノオシヒの命は大伴《おおとも》の連等《むらじら》の祖先、アマツクメの命は久米《くめ》の直等《あたえら》の祖先であります。
 ここに仰せになるには「この處は海外に向つて、カササの御埼《みさき》に行《ゆ》き通つて、朝日の照り輝《かがや》く國、夕日の輝《かがや》く國である。此處こそはたいへん吉い處《ところ》である」と仰せられて、地の下《した》の石根《いわね》に宮柱を壯大《そうだい》に立て、天上に千木《ちぎ》を高く上げて宮殿を御造營遊ばされました。
 ここにアメノウズメの命に仰せられるには、「この御前に立つてお仕え申し上げたサルタ彦の大神を、顯し申し上げたあなたがお送り申せ。またその神のお名前はあなたが受けてお仕え申せ」と仰せられました。この故に猿女《さるめ》の君等はそのサルタ彦の男神の名を繼いで女を猿女の君というのです。そのサルタ彦の神はアザカにおいでになつた時に、漁《すなどり》をしてヒラブ貝に手を咋《く》い合わされて海水に溺れました。その海底に沈んでおられる時の名を底につく御魂《みたま》と申し、海水につぶつぶと泡が立つ時の名を粒立《つぶた》つ御魂と申し、水面に出て泡が開く時の名を泡咲《あわさ》く御魂と申します。
 ウズメの命はサルタ彦の神を送つてから還つて來て、悉く大小樣々の魚どもを集めて、「お前たちは天の神の御子にお仕え申し上げるか、どうですか」と問う時に、魚どもは皆「お仕え申しましよう」と申しました中に、海鼠《なまこ》だけが申しませんでした。そこでウズメの命が海鼠に言うには、「この口は返事をしない口か」と言つて小刀《かたな》でその口を裂《さ》きました。それで今でも海鼠の口は裂けております。かようの次第で、御世《みよ》ごとに志摩《しま》の國から魚類の貢物《みつぎもの》を獻《たてまつ》る時に猿女の君等に下《くだ》されるのです。

[#5字下げ]木の花の咲くや姫[#「木の花の咲くや姫」は小見出し]
[#ここから6字下げ]
[#ここから37字詰め]
――人名に對する信仰が語られ、また古代の婚姻の風習から生じ易い疑惑の解決法が語られる。――
[#ここで字詰め終わり]
[#ここで字下げ終わり]
 さてヒコホノニニギの命は、カササの御埼《みさき》で美しい孃子《おとめ》にお遇いになつて、「どなたの女子《むすめご》ですか」とお尋ねになりました。そこで「わたくしはオホヤマツミの神の女《むすめ》の木《こ》の花の咲《さ》くや姫です」と申しました。また「兄弟がありますか」とお尋ねになつたところ、「姉に石長姫《いわながひめ》があります」と申し上げました。依つて仰せられるには、「あなたと結婚《けつこん》をしたいと思うが、どうですか」と仰せられますと、「わたくしは何とも申し上げられません。父のオホヤマツミの神が申し上げるでしよう」と申しました。依つてその父オホヤマツミの神にお求めになると、非常に喜んで姉の石長姫《いわながひめ》を副えて、澤山の獻上物を持たせて奉《たてまつ》りました。ところがその姉は大變醜かつたので恐れて返し送つて、妹の木の花の咲くや姫だけを留《と》めて一夜お寢《やす》みになりました。しかるにオホヤマツミの神は石長姫をお返し遊ばされたのによつて、非常に恥じて申し送られたことは、「わたくしが二人を竝べて奉つたわけは、石長姫をお使いになると、天の神の御子《みこ》の御壽命は雪が降り風が吹いても永久に石のように堅實においでになるであろう。また木の花の咲くや姫をお使いになれば、木の花の榮えるように榮えるであろうと誓言をたてて奉りました。しかるに今石長姫を返して木の花の咲くや姫を一人お留めなすつたから、天の神の御子の御壽命は、木の花のようにもろくおいでなさることでしよう」と申しました。こういう次第で、今日に至るまで天皇の御壽命が長くないのです。
 かくして後に木の花の咲くや姫が參り出て申すには、「わたくしは姙娠《にんしん》しまして、今子を産む時になりました。これは天の神の御子ですから、勝手にお生み申し上《あ》ぐべきではございません。そこでこの事を申し上げます」と申されました。そこで命が仰せになつて言うには、「咲くや姫よ、一夜で姙《はら》んだと言うが、國の神の子ではないか」と仰せになつたから、「わたくしの姙んでいる子が國の神の子ならば、生む時に無事でないでしよう。もし天の神の御子でありましたら、無事でありましよう」と申して、戸口の無い大きな家を作つてその家の中におはいりになり、粘土《ねばつち》ですつかり塗りふさいで、お生みになる時に當つてその家に火をつけてお生みになりました。その火が眞盛《まつさか》りに燃える時にお生まれになつた御子はホデリの命で、これは隼人等《はやとら》の祖先です。次にお生まれになつた御子はホスセリの命、次にお生まれになつた御子はホヲリの命、またの名はアマツヒコヒコホホデミの命でございます。

[#3字下げ]七、ヒコホホデミの命[#「七、ヒコホホデミの命」は中見出し]

[#5字下げ]海幸《うみさち》と山幸[#「海幸と山幸」は小見出し]
[#ここから6字下げ]
[#ここから37字詰め]
――西方の海岸地帶に傳わつた海神の宮訪問の神話で、異郷説話の一つである。政治的な意味として隼人の服從が語られている。――
[#ここで字詰め終わり]
[#ここで字下げ終わり]
 ニニギの命の御子のうち、ホデリの命は海幸彦《うみさちびこ》として、海のさまざまの魚をお取りになり、ホヲリの命は山幸彦として山に住む鳥獸の類をお取りになりました。ところでホヲリの命が兄君ホデリの命に、「お互に道具《えもの》を取り易《か》えて使つて見よう」と言つて、三度乞われたけれども承知しませんでした。しかし最後にようやく取り易えることを承諾しました。そこでホヲリの命が釣道具を持つて魚をお釣りになるのに、遂に一つも得られません。その鉤《はり》までも海に失つてしまいました。ここにその兄のホデリの命がその鉤を乞うて、「山幸《やまさち》も自分の幸《さち》だ。海幸《うみさち》も自分の幸《さち》だ。やはりお互に幸《さち》を返そう」と言う時に、弟のホヲリの命が仰せられるには、「あなたの鉤は魚を釣りましたが、一つも得られないで遂に海でなくしてしまいました」と仰せられますけれども、なおしいて乞い徴《はた》りました。そこで弟がお佩びになつている長い劒を破つて、五百の鉤を作つて償《つぐな》われるけれども取りません。また千の鉤を作つて償われるけれども受けないで、「やはりもとの鉤をよこせ」と言いました。
 そこでその弟が海邊に出て泣き患《うれ》えておられた時に、シホツチの神が來て尋ねるには、「貴い御子樣《みこさま》の御心配なすつていらつしやるのはどういうわけですか」と問いますと、答えられるには、「わたしは兄と鉤を易えて鉤をなくしました。しかるに鉤を求めますから多くの鉤を償《つぐな》いましたけれども受けないで、もとの鉤をよこせと言います。それで泣き悲しむのです」と仰せられました。そこでシホツチの神が「わたくしが今あなたのために謀《はかりごと》を※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]《めぐ》らしましよう」と言つて、隙間《すきま》の無い籠の小船を造つて、その船にお乘せ申し上げて教えて言うには、「わたしがその船を押し流しますから、すこしいらつしやい。道《みち》がありますから、その道の通りにおいでになると、魚の鱗《うろこ》のように造つてある宮があります。それが海神の宮です。その御門《ごもん》の處においでになると、傍《そば》の井の上にりつぱな桂の木がありましよう。その木の上においでになると、海神の女が見て何とか致しましよう」と、お教え申し上げました。
 依《よ》つて教えた通り、すこしおいでになりましたところ、すべて言つた通りでしたから、その桂の木に登つておいでになりました。ここに海神の女《むすめ》のトヨタマ姫の侍女が玉の器を持つて、水を汲《く》もうとする時に、井に光がさしました。仰いで見るとりつぱな男がおります。不思議に思つていますと、ホヲリの命が、その侍女に、「水を下さい」と言われました。侍女がそこで水を汲《く》んで器に入れてあげました。しかるに水をお飮みにならないで、頸《くび》にお繋けになつていた珠をお解きになつて口に含んでその器にお吐き入れなさいました。しかるにその珠が器について、女が珠を離すことが出來ませんでしたので、ついたままにトヨタマ姫にさし上げました。そこでトヨタマ姫が珠を見て、女に「門の外に人がいますか」と尋ねられましたから、「井の上の桂の上に人がおいでになります。それは大變りつぱな男でいらつしやいます。王樣にも勝《まさ》つて尊いお方です。その人が水を求めましたので、さし上げましたところ、水をお飮みにならないで、この珠を吐き入れましたが、離せませんので入れたままに持つて來てさし上げたのです」と申しました。そこでトヨタマ姫が不思議にお思いになつて、出て見て感心して、そこで顏を見合つて、父に「門の前にりつぱな方がおります」と申しました。そこで海神が自分で出て見て、「これは貴い御子樣だ」と言つて、内にお連れ申し上げて、海驢《あじか》の皮八枚を敷き、その上に絹《きぬ》の敷物を八枚敷いて、御案内申し上げ、澤山の獻上物を具えて御馳走して、やがてその女トヨタマ姫を差し上げました。そこで三年になるまで、その國に留まりました。
 ここにホヲリの命は初めの事をお思いになつて大きな溜息をなさいました。そこでトヨタマ姫がこれをお聞きになつてその父に申しますには、「あの方は三年お住みになつていますが、いつもお歎きになることもありませんですのに、今夜大きな溜息を一つなさいましたのは何か仔細がありましようか」と申しましたから、その父の神樣が聟の君に問われるには、「今朝わたくしの女の語るのを聞けば、三年おいでになるけれどもいつもお歎きになることも無かつたのに、今夜大きな溜息を一つなさいましたと申しました。何かわけがありますか。また此處においでになつた仔細はどういう事ですか」とお尋ね申しました。依つてその大神に詳しく、兄が無くなつた鉤《はり》を請求する有樣を語りました。そこで海の神が海中の魚を大小となく悉く集めて、「もしこの鉤を取つた魚があるか」と問いました。ところがその多くの魚どもが申しますには、「この頃|鯛《たい》が喉《のど》に骨をたてて物が食えないと言つております。きつとこれが取つたのでしよう」と申しました。そこで鯛の喉を探りましたところ、鉤があります。そこで取り出して洗つてホヲリの命に獻りました時に、海神がお教え申し上げて言うのに、「この鉤を兄樣にあげる時には、この鉤は貧乏鉤《びんぼうばり》の悲しみ鉤《ばり》だと言つて、うしろ向きにおあげなさい。そして兄樣が高い所に田を作つたら、あなたは低い所に田をお作りなさい。兄樣が低い所に田を作つたら、あなたは高い所に田をお作りなさい。そうなすつたらわたくしが水を掌《つかさど》つておりますから、三年の間にきつと兄樣が貧しくなるでしよう。もしこのようなことを恨んで攻め戰つたら、潮《しお》の滿《み》ちる珠を出して溺らせ、もし大變にあやまつて來たら、潮《しお》の乾《ひ》る珠を出して生かし、こうしてお苦しめなさい」と申して、潮の滿ちる珠潮の乾る珠、合わせて二つをお授け申し上げて、悉く※[#「鰐」の「夸−大」に代えて「汚のつくり」、248-7]《わに》どもを呼び集め尋ねて言うには、「今天の神の御子の日《ひ》の御子樣《みこさま》が上の國においでになろうとするのだが、お前たちは幾日にお送り申し上げて御返事するか」と尋ねました。そこでそれぞれに自分の身の長さのままに日數を限つて申す中に、一丈の※[#「鰐」の「夸−大」に代えて「汚のつくり」、248-9]《わに》が「わたくしが一日にお送り申し上げて還つて參りましよう」と申しました。依つてその一丈の※[#「鰐」の「夸−大」に代えて「汚のつくり」、248-10]に「それならばお前がお送り申し上げよ。海中を渡る時にこわがらせ申すな」と言つて、その※[#「鰐」の「夸−大」に代えて「汚のつくり」、248-11]の頸にお乘せ申し上げて送り出しました。はたして約束通り一日にお送り申し上げました。その※[#「鰐」の「夸−大」に代えて「汚のつくり」、248-12]が還ろうとした時に、紐の附いている小刀をお解きになつて、その※[#「鰐」の「夸−大」に代えて「汚のつくり」、248-13]の頸につけてお返しになりました。そこでその一丈の※[#「鰐」の「夸−大」に代えて「汚のつくり」、248-13]をば、今でもサヒモチの神と言つております。
 かくして悉く海神の教えた通りにして鉤を返されました。そこでこれよりいよいよ貧しくなつて更に荒い心を起して攻めて來ます。攻めようとする時は潮の盈ちる珠を出して溺らせ、あやまつてくる時は潮の乾る珠を出して救い、苦しめました時に、おじぎをして言うには、「わたくしは今から後、あなた樣の晝夜の護衞兵となつてお仕え申し上げましよう」と申しました。そこで今に至るまで隼人《はやと》はその溺れた時のしわざを演じてお仕え申し上げるのです。

[#5字下げ]トヨタマ姫[#「トヨタマ姫」は小見出し]
[#ここから6字下げ]
[#ここから37字詰め]
――前の説話の續きで、男が禁止を破ることによつて、別離になることを語る。この種の説話の常型である。――
[#ここで字詰め終わり]
[#ここで字下げ終わり]
 ここに海神の女、トヨタマ姫の命が御自身で出ておいでになつて申しますには、「わたくしは以前から姙娠《にんしん》しておりますが、今御子を産むべき時になりました。これを思うに天の神の御子を海中でお生《う》み申し上ぐべきではございませんから出て參りました」と申し上げました。そこでその海邊の波際《なぎさ》に鵜《う》の羽を屋根にして産室を造りましたが、その産室がまだ葺き終らないのに、御子が生まれそうになりましたから、産室におはいりになりました。その時夫の君に申されて言うには「すべて他國の者は子を産む時になれば、その本國の形になつて産むのです。それでわたくしももとの身になつて産もうと思いますが、わたくしを御覽遊ばしますな」と申されました。ところがその言葉を不思議に思われて、今盛んに子をお産みになる最中《さいちゆう》に覗《のぞ》いて御覽になると、八丈もある長い※[#「鰐」の「夸−大」に代えて「汚のつくり」、249-12]になつて匐《は》いのたくつておりました。そこで畏れ驚いて遁げ退きなさいました。しかるにトヨタマ姫の命は窺見《のぞきみ》なさつた事をお知りになつて、恥かしい事にお思いになつて御子を産み置いて「わたくしは常に海の道を通つて通《かよ》おうと思つておりましたが、わたくしの形を覗《のぞ》いて御覽になつたのは恥かしいことです」と申して、海の道をふさいで歸つておしまいになりました。そこでお産《う》まれになつた御子の名をアマツヒコヒコナギサタケウガヤフキアヘズの命と申し上げます。しかしながら後には窺見《のぞきみ》なさつた御心を恨みながらも戀しさにお堪えなさらないで、その御子を御養育申し上げるために、その妹のタマヨリ姫を差しあげ、それに附けて歌を差しあげました。その歌は、

[#ここから3字下げ]
赤い玉は緒《お》までも光りますが、
白玉のような君のお姿は
貴《たつと》いことです。
[#ここで字下げ終わり]

 そこでその夫の君がお答えなさいました歌は、

[#ここから3字下げ]
水鳥《みずとり》の鴨《かも》が降《お》り著《つ》く島で
契《ちぎり》を結んだ私の妻は忘れられない。
世の終りまでも。
[#ここで字下げ終わり]

 このヒコホホデミの命は高千穗の宮に五百八十年おいでなさいました。御陵《ごりよう》はその高千穗の山の西にあります。
 アマツヒコヒコナギサタケウガヤフキアヘズの命は、叔母のタマヨリ姫と結婚してお生みになつた御子の名は、イツセの命・イナヒの命・ミケヌの命・ワカミケヌの命、またの名はトヨミケヌの命、またの名はカムヤマトイハレ彦の命の四人です。ミケヌの命は波の高みを蹈んで海外の國へとお渡りになり、イナヒの命は母の國として海原におはいりになりました。
(つづく)



底本:「古事記」角川文庫、角川書店
   1956(昭和31)年5月20日初版発行
   1965(昭和40)年9月20日20版発行
底本の親本:「眞福寺本」
※頁数を引用している箇所には標題を注記しました。
※底本は新かなづかいです。なお拗音・促音は小書きではありません。
※表題は底本では、「[#割り注]現代語譯[#割り注終わり] 古事記」となっています。
入力:川山隆
校正:しだひろし
YYYY年MM月DD日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。



*地名


葦原の水穂の国 あしはらの みずほのくに 葦原の瑞穂の国。「葦原の国」に同じ。
葦原の国 あしはらのくに 記紀神話などに見える、日本国の称。
根の堅州国 ねの かたすくに → 根の国
根の国 ねのくに 地底深く、また海の彼方など遠くにあり、現世とは別にあると考えられた世界。死者がゆくとされた。黄泉の国。根の堅洲国。
天の石屋 あまのいわや 天岩戸。高天原にあったという岩屋。

[出雲] いずも 旧国名。今の島根県の東部。雲州。
御大の御埼 みほのみさき → 御大の埼
御大の埼 みほのさき 三穂之埼。現、島根県八束郡美保関町の東部地域を占めた中世郷。美保。島根半島の東端に位置。
出雲大社 いずも たいしゃ 島根県出雲市大社町杵築東にある元官幣大社。祭神は大国主命。天之御中主神・高皇産霊神・神皇産霊神・宇麻志阿志軻備比古遅命・天之常立神を配祀。社殿は大社造と称し、日本最古の神社建築の様式。出雲国一の宮。いずものおおやしろ。杵築大社。
伊耶佐の小浜 いざさの おはま
多芸志の小浜 たぎしの おはま
宇迦の山 うかのやま 宇迦能山。現、島根県簸川郡大社町の出雲御埼山か。

[因幡] いなば 旧国名。今の鳥取県の東部。因州。
気多の埼 けたのさき 因幡国北西部にあった郡。現在の鳥取県気高郡にあたる。気多岬は郡内に比定。(日本史)

[隠岐] おき 中国地方の島。旧国名。山陰道の一国。今、島根県に属する。隠州。
隠岐の島 おきのしま 島根県に属し、本州の北約50キロメートル沖にある島。最大島の島後と島群である島前とから成る。後鳥羽上皇・後醍醐天皇の流された地。大山隠岐国立公園に属する。隠岐諸島。

[伯耆] ほうき 旧国名。今の鳥取県の西部。伯州。
手間の山本 てまのやまもと? 
手間村 てまむら 村名。現、鳥取県西伯郡会見町天万村。てんま、とも。

[紀伊] きい (キ(木)の長音的な発音に「紀伊」と当てたもの)旧国名。大部分は今の和歌山県、一部は三重県に属する。紀州。紀国。

[伊勢]
伊勢神宮 いせ じんぐう 三重県伊勢市にある皇室の宗廟。正称、神宮。皇大神宮(内宮)と豊受大神宮(外宮)との総称。皇大神宮の祭神は天照大神、御霊代は八咫鏡。豊受大神宮の祭神は豊受大神。20年ごとに社殿を造りかえる式年遷宮の制を遺し、正殿の様式は唯一神明造と称。三社の一つ。二十二社の一つ。伊勢大廟。大神宮。

[志摩] しま 旧国名。今の三重県の東部。伊勢湾の南、伊勢市の南東に突出した半島部。志州。

大野原

[越の国] こしのくに 北陸道の古称。高志国。こしのみち。越。越路。

[信濃] しなの 旧国名。いまの長野県。科野。信州。
諏訪湖 すわこ 長野県諏訪盆地の中央にある断層湖。天竜川の水源。湖面標高759メートル。最大深度7.6メートル。周囲8キロメートル。面積12.9平方キロメートル。冬季は結氷しスケート場となり、氷が割れ目に沿って盛り上がる御神渡りの現象が見られる。代表的な富栄養湖。

[大和]
御諸の山 みもろのやま → 三輪山
三輪山 みわやま 奈良県桜井市にある山。標高467メートル。古事記崇神天皇の条に、活玉依姫と蛇神美和の神とによる地名説明伝説が見える。三諸山。(歌枕)
大神神社 おおみわ じんじゃ 奈良県桜井市三輪にある元官幣大社。祭神は大物主大神。大己貴神・少彦名神を配祀。日本最古の神社で、三輪山が神体。本殿はない。酒の神として尊崇される。二十二社の一つ。大和国一の宮。すぎのみやしろ。三輪明神。

[山城]
比叡山 ひえいざん 京都市北東方、京都府・滋賀県の境にそびえる山。古来、王城鎮護の霊山として有名。山嶺に2高所があり、東を大比叡または大岳(848メートル)、西を四明岳(839メートル)という。東の中腹に天台宗の総本山延暦寺がある。叡山。天台山。台岳。北嶺。台嶺。
葛野の松の尾 かづのの まつのお?

[美濃] みの 旧国名。今の岐阜県の南部。濃州。
藍見河 あいみがわ 藍見川。現、岐阜県長良川の地域的な古称。長良川中流の呼称か。
喪山 もやま 藍見川の川上。美濃市大矢田をあてる説、現、不破郡垂井町垂井の送葬山(通称喪山)をあてる説がある。

[筑紫] つくし 九州の古称。また、筑前・筑後を指す。
形 むなかた のちの筑前宗像。
高千穂 たかちほ 宮崎県北部、西臼杵郡の町。
高千穂の宮 たかちほのみや 彦火火出見尊から神武天皇に至る3代の皇居。宮崎県西臼杵郡高千穂町・同県西諸県郡の東霧島山などの諸説がある。
高千穂の山 → 高千穂峰か
高千穂峰 たかちほのみね 宮崎県南部、鹿児島県境に近くそびえる火山。霧島火山群に属する。天孫降臨の伝説の地。標高1574メートル。頂上に「天の逆鉾」がある。

佐那 さな
笠紗の御前 かささのみさき
阿耶訶 あざか のちの阿坂。(p.60下)


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)、『日本歴史地名大系』(平凡社)、『古事記・日本書紀』(福永武彦訳、河出書房新社、1988.1)。




*人物一覧

(人名、および組織・団体名・神名)

稗田阿礼 ひえだの あれ 天武天皇の舎人。記憶力がすぐれていたため、天皇から帝紀・旧辞の誦習を命ぜられ、太安万侶がこれを筆録して「古事記」3巻が成った。
太安万侶 おおの やすまろ ?-723 奈良時代の官人。民部卿。勅により、稗田阿礼の誦習した帝紀・旧辞を筆録して「古事記」3巻を撰進。1979年、奈良市の東郊から遺骨が墓誌銘と共に出土。
武田祐吉 たけだ ゆうきち 1886-1958 国文学者。東京都出身。小田原中学の教員を辞し、佐佐木信綱のもとで「校本万葉集」の編纂に参加。1926(昭和元)、国学院大学教授。「万葉集」を中心に上代文学の研究を進め、「万葉集全註釈」(1948-51)に結実させた。著書「上代国文学の研究」「古事記研究―帝紀攷」。「武田祐吉著作集」全8巻。(日本史)

大国主命 おおくにぬしの みこと 日本神話で、出雲国の主神。素戔嗚尊の子とも6世の孫ともいう。少彦名神と協力して天下を経営し、禁厭・医薬などの道を教え、国土を天孫瓊瓊杵尊に譲って杵築の地に隠退。今、出雲大社に祀る。大黒天と習合して民間信仰に浸透。大己貴神・国魂神・葦原醜男・八千矛神などの別名が伝えられるが、これらの名の地方神を古事記が「大国主神」として統合したもの。
ヤガミ姫 因幡の八上比売。古事記神話で、大穴牟遅神とその兄弟の八十神とに求婚され、大穴牟遅神の妻になった神。
赤貝姫 あかがいひめ 貝比売(きさがいひめ)。(p.38下)
蛤貝姫 はまぐりひめ/うむぎひめ (p.38下)
カムムスビの神 神産巣日神・神皇産霊神。記紀神話で天地開闢の際、天御中主神・高皇産霊神と共に高天原に出現したと伝える神。造化三神の一神。女神ともいう。かむみむすひのかみ。
オオヤ彦の神 大屋毘古の神。家宅六神のうち5番目に産まれた神。葺き終わった屋根を表す。災厄を司る大禍津日神と同神。大国主の神話に登場し、五十猛神の別名ともされる「大屋毘古神」とは別神とされる。
スサノオの命 素戔嗚尊・須佐之男命。
スセリ姫 須勢理毘売。古事記神話で須佐之男命の女。大国主命の苦難を助けて嫡妻となる。
アシハラシコオの命 葦原色許男の命。古事記で大国主命の別名。播磨風土記では天之日矛と国の占有争いをする神。
木の俣の神 きのまたのかみ 大穴牟遅神が因幡の八上比売に生ませた神。
御井の神 みいのかみ 木の俣の神の別名。

ヤチホコの神 八千矛の神。(「多くの矛の神」の意)古事記で、大国主命の異称。神語に歌われる。
ヌナカワ姫 沼河比売、沼名河比売。古事記で、高志国(新潟県)に住み八千矛神に求婚された神。

タギリ姫の命 たきりびめのみこと 多紀理毘売の命、田心姫命。天照大神と素戔嗚尊が誓約をしたときに生まれた宗像三女神の一神。宗像神社の祭神。多紀理毘売命。
アジスキタカヒコネの神 味耜高彦根神・阿遅�K高日子根神。日本神話で、大国主命の子。あじしきたかひこねのかみ。かものおおかみ。
タカ姫の命 たかひめのみこと 高比売の命。 → シタテル姫の命
シタテル姫の命 したてるひめ 下光比売命、下照媛・下照姫。(古くはシタデルヒメ)記紀神話で大国主命の女、味耜高日子根命の妹、天稚彦の妃。天稚彦が高皇産霊神に誅せられた時、その哀しみの声が天に達したという。
迦毛の大御神 かものおおみかみ 迦毛大御神。アジスキタカヒコネの神の別名。

カムヤタテ姫の命 神屋楯比売の命。
コトシロヌシの神 事代主神。日本神話で大国主命の子。国譲りの神に対して国土献上を父に勧め、青柴垣を作り隠退した。託宣の神ともいう。八重言代主神。
ヤシマムチの神 八島牟遲の神。
トリトリの神 鳥取の神。ヤシマムチの神の娘。
トリナルミの神 鳥鳴海の神。
ヒナテリヌカダビチオイコチニの神 日名照額田毘道男伊許知迩の神。
クニオシトミの神 国忍富の神。
アシナダカの神 葦那陀迦の神。またの名はヤガハエ姫。
ヤガハエ姫 八河江比売。
ツラミカノタケサハヤジヌミの神 連甕の多氣佐波夜遲奴美の神。
アメノミカヌシの神 天の甕主の神。
サキタマ姫 前玉比売。アメノミカヌシの神の娘。
ミカヌシ彦の神 甕主日子の神。
オカミの神 淤加美の神。
ヒナラシ姫 比那良志毘売。オカミの神の娘。
タヒリキシマミの神 多比理岐志麻美の神。
ヒイラギノソノハナマズミの神 比比羅木のその花麻豆美の神。
イクタマサキタマ姫の神 活玉前玉比売。
ミロナミの神 美呂浪の神。
シキヤマヌシの神 敷山主の神。
アオヌマヌオシ姫 青沼馬沼押比売。
ヌノオシトミトリナルミの神 布忍富鳥鳴海の神。
ワカヒルメの神 若昼女の神。
アメノヒバラオオシナドミの神 天の日腹大科度美の神。
アメノサギリの神 天の狭霧の神。
トオツマチネの神 遠津待根の神。
トオツヤマザキタラシの神 遠津山岬多良斯の神。

スクナビコナの神 少彦名神。日本神話で、高皇産霊神(古事記では神産巣日神)の子。体が小さくて敏捷、忍耐力に富み、大国主命と協力して国土の経営に当たり、医薬・禁厭などの法を創めたという。
オオアナムチの命 大穴牟遅命。大国主命の別名。大穴持命とも。
クエ彦 くえびこ 久延毘古。(「崩え彦」の意という)古事記に見える神の名。今の案山子のことという。

オオトシの神 おおとしのかみ 大歳神。穀物の守護神。
カムイクスビの神 神活須毘の神。
イノ姫 伊怒比売。カムイクスビの神の娘。
オオクニミタマの神 大国御魂の神。
カラの神 韓の神。(朝鮮から渡来した神の意か)守護神として宮内省に祀られていた神。大己貴・少彦名2神をさすという。
ソホリの神 曽富理の神。
シラヒの神 白日の神。
ヒジリの神 聖の神。
カグヨ姫 香用比売。
オオカグヤマトミの神 大香山戸臣の神。
ミトシの神 御年神・御歳神。素戔嗚尊の子である大年神の子。母は香用比売命。穀物の守護神。
アメシルカルミヅ姫 天知る迦流美豆比売。
オキツ彦の神 奧津日子の神。
オキツ姫の命 奧津比売の命。またの名はオオベ姫の神。竃の神。
オオベ姫の神 おおべひめのかみ 大戸比売の神。
オオヤマクイの神 大山咋の神。大年神の子。一名、山末之大主神。大津の日吉神社や京都松尾大社の祭神。
スエノオオヌシの神 末の大主の神。
ニワツヒの神 庭津日の神。
アスハの神 阿須波の神。
ハヒキの神 波比岐の神。
カグヤマトミの神 香山戸臣の神。
ハヤマトの神 羽山戸の神。山麓の土地を神格化した神か。
ニワノタカツヒの神 庭の高津日の神。
オオツチの神 大土の神。またの名はツチノミオヤの神。
ツチノミオヤの神 土の御祖の神。

オオゲツ姫の神 大気都比売の神。
ワカヤマクイの神 若山咋の神。
ワカトシの神 若年の神。
ワカサナメの神 若沙那売の神。女神。
ミヅマキの神 弥豆麻岐の神。
ナツノタカツヒの神 夏の高津日の神。またの名はナツノメの神。
ナツノメの神 夏の売の神。
アキ姫の神 秋毘売の神。
ククトシの神 久久年の神。
ククキワカムロツナネの神 久久紀若室葛根の神。

天若日子 あめわかひこ 天稚彦・天若日子。日本神話で、天津国玉神の子。天孫降臨に先だって出雲国に降ったが復命せず、問責の使者雉の鳴女を射殺、高皇産霊神にその矢を射返されて死んだという。
マサカアカツカチハヤヒアメノオシホミミの命 正勝吾勝勝速日天の忍穗耳の命。古事記では、アマテラスとスサノオとの誓約の際、スサノオがアマテラスの勾玉を譲り受けて生まれた五皇子の長男(日本書紀の一書では次男)で、物実の持ち主であるアマテラスの子としている。高木神の娘であるヨロヅハタトヨアキツシヒメとの間にアメノホアカリとニニギをもうけた。
タカミムスビの神 高皇産霊神・高御産巣日神・高御産日神・高御魂神。古事記で、天地開闢の時、高天原に出現したという神。天御中主神・神皇産霊神と共に造化三神の一神。天孫降臨の神勅を下す。鎮魂神として神祇官八神の一神。たかみむすびのかみ。別名、高木神。
オモイガネの神 思金神・思兼神。記紀神話で高皇産霊神の子。天照大神が天の岩戸に隠れた時、謀を設けて誘い出した、思慮のある神。思金命。
ホヒの神 天の菩卑の命 あまのほひのみこと 天穂日命。日本神話で、素戔嗚尊と天照大神の誓約の際に生まれた子。天孫降臨に先だち、出雲国に降り、大国主命祭祀の祭主となる。出雲国造らの祖とする。千家氏はその子孫という。
アマツクニダマの神 天津国玉の神。天若日子の父。
下照る姫 したてるひめ 下照媛・下照姫。(古くはシタデルヒメ)記紀神話で大国主命の女、味耜高日子根命の妹、天稚彦の妃。天稚彦が高皇産霊神に誅せられた時、その哀しみの声が天に達したという。
キジの名鳴女 ななきめ
天の探女 あまのさぐめ 日本神話で、天照大神の詔を受けて天稚彦を問責に降った雉を天稚彦に射殺させた女の名。後世の天邪鬼。
高木の神 たかぎのかみ タカミムスビの神の別名。
アジシキタカヒコネの神 あじすき- 阿遲志貴高日子根の神。味耜高彦根神。日本神話で、大国主命の子。あじしきたかひこねのかみ。かものおおかみ。

アメノオハバリの神 天の尾羽張の神。
天尾羽張 あまのおはばり 伊弉諾尊が迦具土神を斬った剣の名。伊都尾羽張。
タケミカヅチの神 武甕槌命・建御雷命 日本神話で、天尾羽張命の子。経津主命と共に天照大神の命を受けて出雲国に下り、大国主命を説いて国土を奉還させた。鹿島神宮はこの神を祀る。
アメノカクの神 天の迦久の神。
アメノトリフネの神 鳥之石楠船神。日本神話に登場する神であり、また、神が乗る船の名前。別名を天鳥船という。
タケミナカタの神 建御名方神。日本神話で、大国主命の子。国譲りの使者武甕槌命に抗するが敗れ、信濃国の諏訪に退いて服従を誓った。諏訪神社上社はこの神を祀る。
水戸の神 みなとのかみ ハヤアキツヒコの別名か。
クシヤタマの神 櫛八玉の神。

ニニギの命 瓊瓊杵尊・邇邇芸命。日本神話で天照大神の孫。天忍穂耳尊の子。天照大神の命によってこの国土を統治するために、高天原から日向国の高千穂峰に降り、大山祇神の女、木花之開耶姫を娶り、火闌降命・火明尊・彦火火出見尊を生んだ。天津彦彦火瓊瓊杵尊。

オシホミミの命 → アメノオシホミミ
アメノオシホミミ 天忍穂耳尊 日本神話で、瓊瓊杵尊の父神。素戔嗚尊と天照大神の誓約の際に生まれた神。正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊。
アメニギシクニニギシアマツヒコヒコホノニニギの命 → ニニギの命
ヨロヅハタトヨアキツシ姫の命 萬幡豊秋津師比売命、栲幡千千姫命。
アメノホアカリの命 天火明命。天照大神の子天忍穂耳命の子。尾張連の祖とする。
ヒコホノニニギの命 → ニニギの命
アメノウズメの命 天鈿女命・天宇受売命。日本神話で、天岩屋戸の前で踊って天照大神を慰め、また、天孫降臨に随従して天の八衢にいた猿田彦神を和らげて道案内させたという女神。鈿女命。猿女君の祖とする。
サルタ彦の神 猿田彦。(古くはサルダビコ)日本神話で、瓊瓊杵尊降臨の際、先頭に立って道案内し、のち伊勢国五十鈴川上に鎮座したという神。容貌魁偉で鼻長7咫、身長7尺余と伝える。俳優・衢の神ともいう。中世に至り、庚申の日にこの神を祀り、また、道祖神と結びつけた。
アメノコヤネの命 天児屋命・天児屋根命。日本神話で、興台産霊の子。天岩屋戸の前で、祝詞を奏して天照大神の出現を祈り、のち、天孫に従ってくだった五部神の一人で、その子孫は代々大和朝廷の祭祀をつかさどったという。中臣・藤原氏の祖神とする。
フトダマの命 太玉命。日本神話で天照大神の岩戸ごもりの際に、天児屋根命と共に祭祀の事をつかさどった神。忌部氏の祖。五部神の一神。
イシコリドメの命 石凝姥命。記紀神話で、天糠戸神の子。天照大神が天の岩戸に隠れた時、鏡を作った神。鏡作部の遠祖とする。五部神の一神。
タマノオヤの命 玉祖命。古事記神話で、天岩屋戸の前で玉を作ったという神。五部神の一神。玉屋命。
タヂカラオの神 手力男命、天手力男命。天岩屋戸を開いて天照大神を出したという大力の神。天孫の降臨に従う。
アメノイワトワケの神 天石門別神。またの名はクシイワマドの神、またトヨイワマドの神といい、御門の神。
クシイワマドの神
トヨイワマドの神
トヨウケの神 豊宇気毘売・豊受姫。豊受大神。伊弉諾尊の孫、和久産巣日神の子。食物をつかさどる神。伊勢神宮の外宮の祭神。豊宇気毘売神。とゆうけのかみ。
猿女君 さるめのきみ 古代より朝廷の祭祀に携わってきた氏族の一つ。アメノウズメを始祖としている。
かがみつくり 鏡作り 大和政権で、鏡を作る技術を世襲していた品部。鏡作部。

アメノオシヒの命 天忍日命。天孫降臨の時、天久米命らと刀や弓矢を持って先駆したという神。大伴連の祖とする。
アマツクメの命 天久米命。天孫降臨の時、天忍日命らと刀や弓矢を持って先駆したという神。久米直らの祖とする。
大伴 おおとも 姓氏の一つ。古代の豪族。来目部・靫負部・佐伯部などを率いて大和政権に仕え、大連となるものがあった。のち伴氏。

木の花の咲くや姫 このはなのさくやびめ 木花之開耶姫・木花之佐久夜毘売。日本神話で、大山祇神の女。天孫瓊瓊杵尊の妃。火闌降命・彦火火出見尊・火明命の母。後世、富士山の神と見なされ、浅間神社に祀られる。
石長姫 いわながひめ
オオヤマツミ 大山祇神 山をつかさどる神。伊弉諾尊の子。
ホデリの命 火照命。瓊瓊杵尊の子。母は木花之開耶姫。弟の山幸彦と幸をかえ、屈服して俳人として宮門を守護。隼人の始祖と称される。火闌降命。海幸彦。
隼人 はやと ハヤヒトの約。古代の九州南部に住み、風俗習慣を異にして、しばしば大和の政権に反抗した人々。のち服属し、一部は宮門の守護や歌舞の演奏にあたった。はいと。はやと。
ホスセリの命 火須勢理命。
ホオリの命 火遠理命。(書紀の古訓ではホノヲリノミコト) 彦火火出見尊の別名。
アマツヒコヒコホホデミの命 → 彦火火出見尊
彦火火出見尊 ひこほほでみのみこと 記紀神話で瓊瓊杵尊の子。母は木花之開耶姫。海幸山幸神話で海宮に赴き海神の女と結婚。別名、火遠理命。山幸彦。
シオツチの神 塩土老翁。山幸彦が海幸彦から借りた釣針を失って困っていた時、舟で海神の宮へ渡した神。また、神武天皇東征の際、東方が統治に適した地であると奏した神。しおつつのおじ。塩椎神。
トヨタマ姫 豊玉毘売・豊玉姫。(古くはトヨタマビメ)海神、豊玉彦神の娘で、彦火火出見尊の妃。産屋の屋根を葺き終わらないうちに産気づき、八尋鰐の姿になっているのを夫神にのぞき見られ、恥じ怒って海へ去ったと伝える。その時生まれたのが��草葺不合尊という。

サヒモチの神 佐比持の神。
アマツヒコヒコナギサタケウガヤフキアエズの命 → ��草葺不合尊
��草葺不合尊 うがやふきあえずのみこと 記紀神話で、彦火火出見尊の子。母は豊玉姫。五瀬命・神日本磐余彦尊(神武天皇)の父。
イツセの命 五瀬命。��草葺不合尊の長子。神武天皇の兄。天皇と共に東征、長髄彦と戦って負傷、紀伊国の竈山で没したという。竈山神社に祀る。
イナヒの命 稲飯命。
ミケヌの命 御毛沼命。
ワカミケヌの命 若御毛沼命。神武天皇。別名、トヨミケヌの命、カムヤマトイワレ彦の命。
トヨミケヌの命 豊御毛沼命。
カムヤマトイワレ彦の命 神倭伊波礼毘古命。
神武天皇 じんむ てんのう 記紀伝承上の天皇。名は神日本磐余彦。伝承では、高天原から降臨した瓊瓊杵尊の曾孫。彦波瀲武��草葺不合尊の第4子で、母は玉依姫。日向国の高千穂宮を出、瀬戸内海を経て紀伊国に上陸、長髄彦らを平定して、辛酉の年(前660年)大和国畝傍の橿原宮で即位したという。日本書紀の紀年に従って、明治以降この年を紀元元年とした。畝傍山東北陵はその陵墓とする。


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)、『日本人名大事典』(平凡社)、『日本史広辞典』(山川出版社、1997.10)、『日本神名辞典 第二版』(神社新報社、1995.6)、『古事記・日本書紀』(福永武彦訳、河出書房新社、1988.1)。



*書籍

(書名、雑誌名、論文名、能・狂言・謡曲などの作品名)

古事記 こじき 現存する日本最古の歴史書。3巻。稗田阿礼が天武天皇の勅により誦習した帝紀および先代の旧辞を、太安万侶が元明天皇の勅により撰録して712年(和銅5)献上。


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)。



*難字、求めよ


夷振 ひなぶり 鄙振・夷振・夷曲。古代歌謡の曲名。宮廷に取り入れた大歌で、短歌形式または8〜9句。歌曲名はその一つの歌謡の歌詞から採ったもの。
神籬 ひもろぎ (古くは清音)往古、神霊が宿っていると考えた山・森・老木などの周囲に常磐木を植えめぐらし、玉垣で囲んで神聖を保ったところ。後には、室内・庭上に常磐木を立て、これを神の宿る所として神籬と呼んだ。現在、普通の形式は、下に荒薦を敷き、八脚案を置き、さらに枠を組んで中央に榊の枝を立て、木綿と垂とを取り付ける。ひぼろぎ。
つかみひしぐ つかんで押しつぶす。つかみつぶす。
燧臼 ひうちうす
燧杵 ひうちきね
浮洲 うきす 水面に浮いているように見える洲。
靫 ゆき/ゆぎ (平安時代までユキと清音)矢を入れて携帯する容器。木または革で作り、長方形の箱形の筒とし、令制では1個に矢50筋を入れた。平安時代以後、壺胡ィといい、公家の儀仗となる。箙。
千木 ちぎ 知木・鎮木。社殿の屋上、破風の先端が延びて交叉した2本の木。後世、破風と千木とは切り離されて、ただ棟上に取り付けた一種の装飾(置千木)となる。氷木。
領巾 ひれ 肩巾。(風にひらめくものの意) (1) 古代、波をおこしたり、害虫・毒蛇などをはらったりする呪力があると信じられた、布様のもの。(2) 奈良・平安時代に用いられた女子服飾具。首にかけ、左右へ長く垂らした布帛。別れを惜しむ時などにこれを振った。(3) 平安時代、鏡台の付属品として、鏡をぬぐうなどに用いた布。(4) 儀式の矛などにつける小さい旗。
カラスオウギ 烏扇。〔植〕ヒオウギの別称。
ヒオウギ 桧扇。アヤメ科の多年草。山野に自生し、高さ約1メートル。葉は広い剣状で密に互生し、桧扇を開いた形に似る。夏、濃色の斑点のある黄赤色の花を多数総状に開く。黒色の種子を「ぬばたま」または「うばたま」という。観賞用に栽培。カラスオウギ。漢名、射干。
比良夫貝 ひらぶがい 貝の名。未詳。古事記で、猿田彦を挟んでおぼれさせた貝。
徴る・債る はたる 徴収する。
献り たてまつり
窺見 のぞきみ


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)。



*後記(工作員スリーパーズ日記)


 パナソニックのコードレス・ヘアカット購入。四〇〇〇円。予備充電に14時間! ……まあ、それ以外は軽くて使いやすい。寒気の合間をねらって散髪。ひさびさに手にしもやけを作る。右手の薬指をのぞく四本。三週間ぐらいまいった。
 二二日、「マガジン航」あて投稿メール。仲俣さんからすぐに返事あり。




*次週予告


第三巻 第三二号 
現代語訳『古事記』(三)中巻(前編)
武田祐吉(訳)


第三巻 第三二号は、
三月五日(土)発行予定です。
定価:200円


T-Time マガジン 週刊ミルクティー 第三巻 第三一号
現代語訳『古事記』(二)武田祐吉(訳)
発行:二〇一一年二月二六日(土)
編集:しだひろし/PoorBook G3'99
 http://www33.atwiki.jp/asterisk99/
出版:*99 出版
 〒994-0024 山形県天童市鎌田2丁目1−21
 アパートメント山口A−202
販売:DL-MARKET
※ T-Timeは(株)ボイジャーの商標・製品です。



T-Time マガジン 週刊ミルクティー*99 出版

第二巻

第一号 奇巌城(一)モーリス・ルブラン 月末最終号:無料
第二号 奇巌城(二)モーリス・ルブラン 定価:200円
第三号 美し姫と怪獣 / 長ぐつをはいた猫 定価:200円
第四号 毒と迷信 / 若水の話 / 麻薬・自殺・宗教 定価:200円
第五号 空襲警報 / 水の女 / 支流 定価:200円
第六号 新羅人の武士的精神について 池内宏 月末最終号:無料
第七号 新羅の花郎について 池内宏 定価:200円
第八号 震災日誌 / 震災後記 喜田貞吉 定価:200円
第九号 セロ弾きのゴーシュ / なめとこ山の熊 宮沢賢治 定価:200円
第十号 風の又三郎 宮沢賢治 月末最終号:無料
第一一号 能久親王事跡(一)森 林太郎 定価:200円
第一二号 能久親王事跡(二)森 林太郎 定価:200円
第一三号 能久親王事跡(三)森 林太郎 定価:200円
第一四号 能久親王事跡(四)森 林太郎 定価:200円
第一七号 赤毛連盟 コナン・ドイル 定価:200円
第一八号 ボヘミアの醜聞 コナン・ドイル 定価:200円
第一九号 グロリア・スコット号 コナン・ドイル 月末最終号:無料
第二〇号 暗号舞踏人の謎 コナン・ドイル 定価:200円
第二一号 蝦夷とコロボックルとの異同を論ず 喜田貞吉 定価:200円
第二二号 コロポックル説の誤謬を論ず 上・下 河野常吉 定価:200円
第二三号 慶長年間の朝日連峰通路について 佐藤栄太 月末最終号:無料
第二四号 まれびとの歴史/「とこよ」と「まれびと」と 折口信夫 定価:200円
第二五号 払田柵跡について二、三の考察/山形県本楯発見の柵跡について 喜田貞吉 定価:200円
第二六号 日本天変地異記 田中貢太郎 定価:200円
第二七号 種山ヶ原/イギリス海岸 宮沢賢治 定価:200円
第二八号 翁の発生/鬼の話 折口信夫  月末最終号:無料
第二九号 生物の歴史(一)石川千代松  定価:200円
第三〇号 生物の歴史(二)石川千代松  定価:200円
第三一号 生物の歴史(三)石川千代松  定価:200円
第三二号 生物の歴史(四)石川千代松  月末最終号:無料
第三三号 特集 ひなまつり  定価:200円  雛 芥川龍之介
 雛がたり 泉鏡花
 ひなまつりの話 折口信夫

第三四号 特集 ひなまつり  定価:200円  人形の話 折口信夫
 偶人信仰の民俗化並びに伝説化せる道 折口信夫

第三五号 右大臣実朝(一)太宰治  定価:200円
第三六号 右大臣実朝(二)太宰治 月末最終号:無料
第三七号 右大臣実朝(三)太宰治 定価:200円
第三八号 清河八郎(一)大川周明 定価:200円
第三九号 清河八郎(二)大川周明  定価:200円
第四〇号 清河八郎(三)大川周明  月末最終号:無料
第四一号 清河八郎(四)大川周明  定価:200円
第四二号 清河八郎(五)大川周明  定価:200円
第四三号 清河八郎(六)大川周明  定価:200円
第四四号 道鏡皇胤論について 喜田貞吉  定価:200円
第四五号 火葬と大蔵/人身御供と人柱 喜田貞吉  月末最終号:無料
第四六号 手長と足長/くぐつ名義考 喜田貞吉  定価:200円
第四七号 「日本民族」とは何ぞや/本州における蝦夷の末路 喜田貞吉  定価:200円
第四八号 若草物語(一)L. M. オルコット  定価:200円
第四九号 若草物語(二)L. M. オルコット  月末最終号:無料
第五〇号 若草物語(三)L. M. オルコット  定価:200円
第五一号 若草物語(四)L. M. オルコット  定価:200円
第五二号 若草物語(五)L. M. オルコット  定価:200円
第五三号 二人の女歌人/東北の家 片山広子  定価:200円
第三巻 第一号 星と空の話(一)山本一清  月末最終号:無料
  一、星座(せいざ)の星
  二、月(つき)
(略)殊にこの「ベガ」は、わが日本や支那では「七夕」の祭りにちなむ「織(お)り女(ひめ)」ですから、誰でも皆、幼い時からおなじみの星です。「七夕」の祭りとは、毎年旧暦七月七日の夜に「織り女」と「牽牛(ひこぼし)〔彦星〕」とが「天の川」を渡って会合するという伝説の祭りですが、その「天の川」は「こと」星座のすぐ東側を南北に流れていますし、また、「牽牛」は「天の川」の向かい岸(東岸)に白く輝いています。「牽牛」とその周囲の星々を、星座では「わし」の星座といい、「牽牛」を昔のアラビア人たちは、「アルタイル」と呼びました。「アルタイル」の南と北とに一つずつ小さい星が光っています。あれは「わし」の両翼を拡げている姿なのです。ところが「ベガ」の付近を見ますと、その東側に小さい星が二つ集まっています。昔の人はこれを見て、一羽の鳥が両翼をたたんで地に舞いくだる姿だと思いました。それで、「こと」をまた「舞いくだる鳥」と呼びました。

 「こと」の東隣り「天の川」の中に、「はくちょう」という星座があります。このあたりは大星や小星が非常に多くて、天が白い布のように光に満ちています。

第三巻 第二号 星と空の話(二)山本一清  定価:200円
  三、太陽
  四、日食と月食
  五、水星
  六、金星
  七、火星
  八、木星
 太陽の黒点というものは誠におもしろいものです。黒点の一つ一つは、太陽の大きさにくらべると小さい点々のように見えますが、じつはみな、いずれもなかなか大きいものであって、(略)最も大きいのは地球の十倍以上のものがときどき現われます。そして同じ黒点を毎日見ていますと、毎日すこしずつ西の方へ流れていって、ついに太陽の西の端(はし)でかくれてしまいますが、二週間ばかりすると、こんどは東の端から現われてきます。こんなにして、黒点の位置が規則正しく変わるのは、太陽全体が、黒点を乗せたまま、自転しているからなのです。太陽は、こうして、約二十五日間に一回、自転をします。(略)
 太陽の黒点からは、あらゆる気体の熱風とともに、いろいろなものを四方へ散らしますが、そのうちで最も強く地球に影響をあたえるものは電子が放射されることです。あらゆる電流の原因である電子が太陽黒点から放射されて、わが地球に達しますと、地球では、北極や南極付近に、美しいオーロラ(極光(きょっこう))が現われたり、「磁気嵐(じきあらし)」といって、磁石の針が狂い出して盛んに左右にふれたりします。また、この太陽黒点からやってくる電波や熱波や電子などのために、地球上では、気温や気圧の変動がおこったり、天気が狂ったりすることもあります。(略)
 太陽の表面に、いつも同じ黒点が長い間見えているのではありません。一つ一つの黒点はずいぶん短命なものです。なかには一日か二日ぐらいで消えるのがありますし、普通のものは一、二週間ぐらいの寿命のものです。特に大きいものは二、三か月も、七、八か月も長く見えるのがありますけれど、一年以上長く見えるということはほとんどありません。
 しかし、黒点は、一つのものがまったく消えない前に、他の黒点が二つも三つも現われてきたりして、ついには一時に三十も四十も、たくさんの黒点が同じ太陽面に見えることがあります。
 こうした黒点の数は、毎年、毎日、まったく無茶苦茶というわけではありません。だいたいにおいて十一年ごとに増したり減ったりします。

第三巻 第三号 星と空の話(三)山本一清  定価:200円
   九、土星
  一〇、天王星
  一一、海王星
  一二、小遊星
  一三、彗星
  一四、流星
  一五、太陽系
  一六、恒星と宇宙
 晴れた美しい夜の空を、しばらく家の外に出てながめてごらんなさい。ときどき三分間に一つか、五分間に一つぐらい星が飛ぶように見えるものがあります。あれが流星です。流星は、平常、天に輝いている多くの星のうちの一つ二つが飛ぶのだと思っている人もありますが、そうではありません。流星はみな、今までまったく見えなかった星が、急に光り出して、そしてすぐまた消えてしまうものなのです。(略)
 しかし、流星のうちには、はじめから稀(まれ)によほど形の大きいものもあります。そんなものは空気中を何百キロメートルも飛んでいるうちに、燃えつきてしまわず、熱したまま、地上まで落下してきます。これが隕石というものです。隕石のうちには、ほとんど全部が鉄のものもあります。これを隕鉄(いんてつ)といいます。(略)
 流星は一年じゅう、たいていの夜に見えますが、しかし、全体からいえば、冬や春よりは、夏や秋の夜にたくさん見えます。ことに七、八月ごろや十月、十一月ごろは、一時間に百以上も流星が飛ぶことがあります。
 八月十二、三日ごろの夜明け前、午前二時ごろ、多くの流星がペルセウス星座から四方八方へ放射的に飛びます。これらは、みな、ペルセウス星座の方向から、地球の方向へ、列を作ってぶっつかってくるものでありまして、これを「ペルセウス流星群」と呼びます。
 十一月十四、五日ごろにも、夜明け前の二時、三時ごろ、しし星座から飛び出してくるように見える一群の流星があります。これは「しし座流星群」と呼ばれます。
 この二つがもっとも有名な流星群ですが、なおこの他には、一月のはじめにカドラント流星群、四月二十日ごろに、こと座流星群、十月にはオリオン流星群などあります。

第三巻 第四号 獅子舞雑考/穀神としての牛に関する民俗 中山太郎  定価:200円
獅子舞雑考
  一、枯(か)れ木も山の賑(にぎ)やかし
  二、獅子舞に関する先輩の研究
  三、獅子頭に角(つの)のある理由
  四、獅子頭と狛犬(こまいぬ)との関係
  五、鹿踊(ししおど)りと獅子舞との区別は何か
  六、獅子舞は寺院から神社へ
  七、仏事にもちいた獅子舞の源流
  八、獅子舞について関心すべき点
  九、獅子頭の鼻毛と馬の尻尾(しっぽ)

穀神としての牛に関する民俗
  牛を穀神とするは世界共通の信仰
  土牛(どぎゅう)を立て寒気を送る信仰と追儺(ついな)
  わが国の家畜の分布と牛飼神の地位
  牛をもって神をまつるは、わが国の古俗
  田遊(たあそ)びの牛の役と雨乞いの牛の首

 全体、わが国の獅子舞については、従来これに関する発生、目的、変遷など、かなり詳細なる研究が発表されている。(略)喜多村翁の所説は、獅子舞は西域の亀茲(きじ)国の舞楽が、支那の文化とともに、わが国に渡来したのであるという、純乎たる輸入説である。柳田先生の所論は、わが国には古く鹿舞(ししまい)というものがあって、しかもそれが広くおこなわれていたところへ、後に支那から渡来した獅子舞が、国音の相通から付会(ふかい)したものである。その証拠には、わが国の各地において、古風を伝えているものに、角(つの)のある獅子頭があり、これに加うるのに鹿を歌ったものを、獅子舞にもちいているという、いわば固有説とも見るべき考証である。さらに小寺氏の観察は、だいたいにおいて柳田先生の固有説をうけ、別にこれに対して、わが国の鹿舞の起こったのは、トーテム崇拝に由来するのであると、付け加えている。
 そこで、今度は管見を記すべき順序となったが、これは私も小寺氏と同じく、柳田先生のご説をそのまま拝借する者であって、べつだんに奇説も異論も有しているわけではない。ただ、しいて言えば、わが国の鹿舞と支那からきた獅子舞とは、その目的において全然別個のものがあったという点が、相違しているのである。ことに小寺氏のトーテム説にいたっては、あれだけの研究では、にわかに左袒(さたん)することのできぬのはもちろんである。

 こういうと、なんだか柳田先生のご説に、反対するように聞こえるが、角(つの)の有無をもって鹿と獅子の区別をすることは、再考の余地があるように思われる。

第三巻 第五号 鹿踊りのはじまり 宮沢賢治/奥羽地方のシシ踊りと鹿供養 喜田貞吉  月末最終号:無料
鹿踊りのはじまり 宮沢賢治
奥羽地方のシシ踊りと鹿供養 喜田貞吉
  一 緒言
  二 シシ踊りは鹿踊り
  三 伊予宇和島地方の鹿の子踊り
  四 アイヌのクマ祭りと捕獲物供養
  五 付記

 奥羽地方には各地にシシ踊りと呼ばるる一種の民間舞踊がある。地方によって多少の相違はあるが、だいたいにおいて獅子頭を頭につけた青年が、数人立ちまじって古めかしい歌謡を歌いつつ、太鼓の音に和して勇壮なる舞踊を演ずるという点において一致している。したがって普通には獅子舞あるいは越後獅子などのたぐいで、獅子奮迅・踊躍の状を表象したものとして解せられているが、奇態なことにはその旧仙台領地方におこなわるるものが、その獅子頭に鹿の角(つの)を有し、他の地方のものにも、またそれぞれ短い二本の角がはえているのである。
 楽舞用具の一種として獅子頭のわが国に伝わったことは、すでに奈良朝のころからであった。くだって鎌倉時代以後には、民間舞踊の一つとして獅子舞の各地におこなわれたことが少なからず文献に見えている。そしてかの越後獅子のごときは、その名残りの地方的に発達・保存されたものであろう。獅子頭はいうまでもなくライオンをあらわしたもので、本来、角があってはならぬはずである。もちろんそれが理想化し、霊獣化して、彫刻家の意匠により、ことさらにそれに角を付加するということは考えられぬでもない。武蔵南多摩郡元八王子村なる諏訪神社の獅子頭は、古来、龍頭とよばれて二本の長い角が斜めにはえているので有名である。しかしながら、仙台領において特にそれが鹿の角であるということは、これを霊獣化したとだけでは解釈されない。けだし、もと鹿供養の意味からおこった一種の田楽的舞踊で、それがシシ踊りと呼ばるることからついに獅子頭とまで転訛するに至り、しかもなお原始の鹿角を保存して、今日におよんでいるものであろう。

第三巻 第六号 魏志倭人伝/後漢書倭伝/宋書倭国伝/隋書倭国伝  定価:200円
魏志倭人伝/後漢書倭伝/宋書倭国伝/隋書倭国伝

倭人在帯方東南大海之中、依山島為国邑。旧百余国。漢時有朝見者、今使訳所通三十国。従郡至倭、循海岸水行、歴韓国、乍南乍東、到其北岸狗邪韓国七千余里。始度一海千余里、至対馬国、其大官曰卑狗、副曰卑奴母離、所居絶島、方可四百余里(略)。又南渡一海千余里、名曰瀚海、至一大国〔一支国か〕(略)。又渡一海千余里、至末盧国(略)。東南陸行五百里、到伊都国(略)。東南至奴国百里(略)。東行至不弥国百里(略)。南至投馬国水行二十日、官曰弥弥、副曰弥弥那利、可五万余戸。南至邪馬壱国〔邪馬台国〕、女王之所都、水行十日・陸行一月、官有伊支馬、次曰弥馬升、次曰弥馬獲支、次曰奴佳�、可七万余戸。(略)其国本亦以男子為王、住七八十年、倭国乱、相攻伐歴年、乃共立一女子為王、名曰卑弥呼、事鬼道、能惑衆、年已長大、無夫壻、有男弟、佐治国、自為王以来、少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人、給飲食、伝辞出入居処。宮室・楼観・城柵厳設、常有人持兵守衛。

第三巻 第七号 卑弥呼考(一)内藤湖南  定価:200円
  一、本文の選択
  二、本文の記事に関するわが邦(くに)最旧の見解
  三、旧説に対する異論
 『後漢書』『三国志』『晋書』『北史』などに出でたる倭国女王卑弥呼のことに関しては、従来、史家の考証はなはだ繁く、あるいはこれをもってわが神功皇后とし、あるいはもって筑紫の一女酋とし、紛々として帰一するところなきが如くなるも、近時においてはたいてい後説を取る者多きに似たり。(略)
 卑弥呼の記事を載せたる支那史書のうち、『晋書』『北史』のごときは、もとより『後漢書』『三国志』に拠りたること疑いなければ、これは論を費やすことをもちいざれども、『後漢書』と『三国志』との間に存する�異(きい)の点に関しては、史家の疑惑をひく者なくばあらず。『三国志』は晋代になりて、今の范曄の『後漢書』は、劉宋の代になれる晩出の書なれども、両書が同一事を記するにあたりて、『後漢書』の取れる史料が、『三国志』の所載以外におよぶこと、東夷伝中にすら一、二にして止まらざれば、その倭国伝の記事もしかる者あるにあらずやとは、史家のどうもすれば疑惑をはさみしところなりき。この疑惑を決せんことは、すなわち本文選択の第一要件なり。
 次には本文のうち、各本に字句の異同あることを考えざるべからず。『三国志』について言わんに、余はいまだ宋板本を見ざるも、元槧明修本、明南監本、乾隆殿板本、汲古閣本などを対照し、さらに『北史』『通典』『太平御覧』『冊府元亀』など、この記事を引用せる諸書を参考してその異同の少なからざるに驚きたり。その�異を決せんことは、すなわち本文選択の第二要件なり。

第三巻 第八号 卑弥呼考(二)内藤湖南  定価:200円
  四、本文の考証
帯方 / 旧百余国。漢時有朝見者。今使訳所通三十国。 / 到其北岸狗邪韓国 / 対馬国、一大国、末盧国、伊都国、奴国、不弥国 / 南至投馬國。水行二十日。/ 南至邪馬壹國。水行十日。陸行一月。/ 斯馬国 / 已百支国 / 伊邪国 / 郡支国 / 弥奴国 / 好古都国 / 不呼国 / 姐奴国 / 対蘇国 / 蘇奴国 / 呼邑国 / 華奴蘇奴国 / 鬼国 / 為吾国 / 鬼奴国 / 邪馬国 / 躬臣国 / 巴利国 / 支惟国 / 烏奴国 / 奴国 / 此女王境界所盡。其南有狗奴國 / 会稽東治
南至投馬國。水行二十日。  これには数説あり、本居氏は日向国児湯郡に都万神社ありて、『続日本後紀』『三代実録』『延喜式』などに見ゆ、此所にてもあらんかといえり。鶴峰氏は『和名鈔』に筑後国上妻郡、加牟豆万、下妻郡、准上とある妻なるべしといえり。ただし、その水行二十日を投馬より邪馬台に至る日程と解したるは著しき誤謬なり。黒川氏は三説をあげ、一つは鶴峰説に同じく、二つは「投」を「殺」の譌りとみて、薩摩国とし、三つは『和名鈔』、薩摩国麑島郡に都万郷ありて、声近しとし、さらに「投」を「敏」の譌りとしてミヌマと訓み、三潴郡とする説をもあげたるが、いずれも穏当ならずといえり。『国史眼』は設馬の譌りとして、すなわち薩摩なりとし、吉田氏はこれを取りて、さらに『和名鈔』の高城郡托摩郷をもあげ、菅氏は本居氏に従えり。これを要するに、みな邪馬台を筑紫に求むる先入の見に出で、「南至」といえる方向に拘束せられたり。しかれども支那の古書が方向をいう時、東と南と相兼ね、西と北と相兼ぬるは、その常例ともいうべく、またその発程のはじめ、もしくは途中のいちじるしき土地の位置などより、方向の混雑を生ずることも珍しからず。『後魏書』勿吉伝に太魯水、すなわち今の�児河より勿吉、すなわち今の松花江上流に至るによろしく東南行すべきを東北行十八日とせるがごとき、陸上におけるすらかくのごとくなれば海上の方向はなおさら誤り易かるべし。ゆえに余はこの南を東と解して投馬国を『和名鈔』の周防国佐婆郡〔佐波郡か。〕玉祖郷〈多萬乃於也〉にあてんとす。この地は玉祖宿祢の祖たる玉祖命、またの名、天明玉命、天櫛明玉命をまつれるところにして周防の一宮と称せられ、今の三田尻の海港をひかえ、内海の衝要にあたれり。その古代において、玉作を職とせる名族に拠有せられて、五万余戸の集落をなせしことも想像し得べし。日向・薩摩のごとき僻陬とも異なり、また筑後のごとく、路程の合いがたき地にもあらず、これ、余がかく定めたる理由なり。

第三巻 第九号 卑弥呼考(三)内藤湖南  月末最終号:無料
  四、本文の考証(つづき)
爾支 / 泄謨觚、柄渠觚、�馬觚 / 多模 / 弥弥、弥弥那利 / 伊支馬、弥馬升、弥馬獲支、奴佳� / 狗古智卑狗
卑弥呼 / 難升米 / 伊声耆掖邪狗 / 都市牛利 / 載斯烏越 / 卑弥弓呼素 / 壱与
  五、結論
    付記
 次に人名を考証せんに、その主なる者はすなわち、「卑弥呼」なり。余はこれをもって倭姫命に擬定す。その故は前にあげたる官名に「伊支馬」「弥馬獲支」あるによりて、その崇神・垂仁二朝を去ること遠からざるべきことを知る、一つなり。「事二鬼道一、能惑レ衆」といえるは、垂仁紀二十五年の記事ならびにその細注、『延暦儀式帳』『倭姫命世記』などの所伝を総合して、もっともこの命(みこと)の行事に適当せるを見る。その天照大神の教えにしたがいて、大和より近江・美濃・伊勢諸国を遍歴し、〈『倭姫世記』によれば尾張・丹波・紀伊・吉備にもおよびしが如し〉いたるところにその土豪より神戸・神田・神地を徴して神領とせるは、神道設教の上古を離るること久しき魏人より鬼道をもって衆を惑わすと見えしも怪しむに足らざるべし、二つなり。余が邪馬台の旁国の地名を擬定せるは、もとより務めて大和の付近にして、倭姫命が遍歴せる地方より選び出したれども、その多数がはなはだしき付会におちいらずして、伊勢を基点とせる地方に限定することを得たるは、また一証とすべし、三つなり。(略)「卑弥呼」の語解は本居氏がヒメコの義とするは可なれども、神代巻に火之戸幡姫児千々姫ノ命、また万幡姫児玉依姫ノ命などある「姫児(ヒメコ)」に同じとあるは非にして、この二つの「姫児」は平田篤胤のいえるごとく姫の子の義なり。「弥」を「メ」と訓(よ)む例は黒川氏の『北史国号考』に「上宮聖徳法王帝説、繍張文の吉多斯比弥乃弥己等(キタシヒメノミコト)、また等已弥居加斯支移比弥乃弥己等(トヨミケカシキヤヒメノミコト)、注云 弥字或当二売音一也」とあるを引けるなどに従うべし。
付記 余がこの編を出せる直後、すでに自説の欠陥を発見せしものあり、すなわち「卑弥呼」の名を考証せる条中に『古事記』神代巻にある火之戸幡姫児(ヒノトバタヒメコ)、および万幡姫児(ヨロヅハタヒメコ)の二つの「姫児」の字を本居氏にしたがいて、ヒメコと読みしは誤りにして、平田氏のヒメノコと読みしが正しきことを認めたれば、今の版にはこれを改めたり。

第三巻 第一〇号 最古日本の女性生活の根底/稲むらの陰にて 折口信夫  定価:200円
最古日本の女性生活の根底
  一 万葉びと――琉球人
  二 君主――巫女
  三 女軍(めいくさ)
  四 結婚――女の名
  五 女の家
稲むらの陰にて
 古代の歴史は、事実の記憶から編み出されたものではない。神人(かみびと)に神憑(がか)りした神の、物語った叙事詩から生まれてきたのである。いわば夢語りともいうべき部分の多い伝えの、世をへて後、筆録せられたものにすぎない。(略)神々の色彩を持たない事実などの、後世に伝わりようはあるべきはずがないのだ。(略)女として神事にあずからなかった者はなく、神事に関係せなかった女の身の上が、物語の上に伝誦せられるわけがなかったのである。
(略)村々の君主の下になった巫女が、かつては村々の君主自身であったこともあるのである。『魏志』倭人伝の邪馬台(ヤマト)国の君主卑弥呼は女性であり、彼の後継者も女児であった。巫女として、呪術をもって、村人の上に臨んでいたのである。が、こうした女君制度は、九州の辺土には限らなかった。卑弥呼と混同せられていた神功皇后も、最高巫女としての教権をもって、民を統べていられた様子は、『日本紀』を見れば知られることである。(略)
 沖縄では、明治の前までは国王の下に、王族の女子あるいは寡婦が斎女王(いつきのみこ)同様の仕事をして、聞得大君(きこえうふきみ)(ちふいぢん)と言うた。尚家の中途で、皇后の下に位どられることになったが、以前は沖縄最高の女性であった。その下に三十三君というて、神事関係の女性がある。それは地方地方の神職の元締めのような位置にいる者であった。その下にあたるノロ(祝女)という、地方の神事官吏なる女性は今もいる。そのまた下にその地方の家々の神につかえる女の神人がいる。この様子は、内地の昔を髣髴(ほうふつ)させるではないか。沖縄本島では聞得大君を君主と同格に見た史実がない。が、島々の旧記にはその痕跡が残っている。(「最古日本の女性生活の根底」より)

第三巻 第一一号 瀬戸内海の潮と潮流(他三編)寺田寅彦  定価:200円
瀬戸内海の潮と潮流
コーヒー哲学序説
神話と地球物理学
ウジの効用
 一体、海の面はどこでも一昼夜に二度ずつ上がり下がりをするもので、それを潮の満干といいます。これは月と太陽との引力のためにおこるもので、月や太陽がたえず東から西へまわるにつれて、地球上の海面の高くふくれた満潮の部分と低くなった干潮の部分もまた、だいたいにおいて東から西へ向かって大洋の上を進んで行きます。このような潮の波が内海のようなところへ入って行きますと、いろいろに変わったことがおこります。ことに瀬戸内海のように外洋との通路がいくつもあり、内海の中にもまた瀬戸がたくさんあって、いくつもの灘に分かれているところでは、潮の満干もなかなか込み入ってきて、これをくわしく調べるのはなかなか難しいのです。しかし、航海の頻繁なところであるから潮の調査は非常に必要なので、海軍の水路部などではたくさんな費用と時日を費やしてこれを調べておられます。東京あたりと四国の南側の海岸とでは満潮の時刻は一時間くらいしか違わないし、満干の高さもそんなに違いませんが、四国の南側とその北側とでは満潮の時刻はたいへんに違って、ところによっては六時間も違い、一方の満潮の時に他のほうは干潮になることもあります。また、内海では満干の高さが外海の倍にもなるところがあります。このように、あるところでは満潮であるのに他のところでは干潮になったり、内海の満干の高さが外海の満干の高さの倍になるところのあるのは、潮の流れがせまい海峡を入るためにおくれ、また、方々の入口から入り乱れ、重なり合うためであります。(「瀬戸内海の潮と潮流」より)

第三巻 第一二号 日本人の自然観/天文と俳句 寺田寅彦  定価:200円
日本人の自然観
 緒言
 日本の自然
 日本人の日常生活
 日本人の精神生活
 結語
天文と俳句
 もしも自然というものが、地球上どこでも同じ相貌(そうぼう)をあらわしているものとしたら、日本の自然も外国の自然も同じであるはずであって、したがって上記のごとき問題の内容吟味は不必要であるが、しかし実際には、自然の相貌がいたるところむしろ驚くべき多様多彩の変化を示していて、ひと口に自然と言ってしまうにはあまりに複雑な変化を見せているのである。こういう意味からすると、同じように、「日本の自然」という言葉ですらも、じつはあまりに漠然としすぎた言葉である。(略)
 こう考えてくると、今度はまた「日本人」という言葉の内容が、かなり空疎な散漫なものに思われてくる。九州人と東北人とくらべると各個人の個性を超越するとしても、その上にそれぞれの地方的特性の支配が歴然と認められる。それで九州人の自然観や、東北人の自然観といったようなものもそれぞれ立派に存立しうるわけである。(略)
 われわれは通例、便宜上、自然と人間とを対立させ、両方別々の存在のように考える。これが現代の科学的方法の長所であると同時に短所である。この両者は、じつは合わして一つの有機体を構成しているのであって、究極的には独立に切り離して考えることのできないものである。(略)
 日本人の先祖がどこに生まれ、どこから渡ってきたかは別問題として、有史以来二千有余年、この土地に土着してしまった日本人が、たとえいかなる遺伝的記憶をもっているとしても、その上層を大部分掩蔽(えんぺい)するだけの経験の収穫をこの日本の環境から受け取り、それにできるだけしっくり適応するように努力し、また少なくも、部分的にはそれに成効してきたものであることには疑いがないであろうと思われる。(「日本人の自然観」より)

第三巻 第一三号 倭女王卑弥呼考(一)白鳥庫吉  定価:200円
 倭人の名は『山海経』『漢書』『論衡』などの古書に散見すれども、その記事いずれも簡単にして、これによりては、いまだ上代における倭国の状態をうかがうに足(た)らず。しかるにひとり『魏志』の「倭人伝」に至りては、倭国のことを叙することすこぶる詳密にして、しかも伝中の主人公たる卑弥呼女王の人物は、赫灼(かくしゃく)として紙上に輝き、読者をしてあたかも暗黒の裡に光明を認むるがごとき感あらしむ。(略)
 それすでに里数をもってこれを測るも、また日数をもってこれを稽(かんが)うるも、女王国の位置を的確に知ることあたわずとせば、はたしていかなる事実をかとらえてこの問題を解決すべき。余輩は幾度か『魏志』の文面を通読玩索(がんさく)し、しかして後、ようやくここに確乎動かすべからざる三個の目標を認め得たり。しからばすなわち、いわゆる三個の目標とは何ぞや。いわく邪馬台国は不弥国より南方に位すること、いわく不弥国より女王国に至るには有明の内海を航行せしこと、いわく女王国の南に狗奴国と称する大国の存在せしこと、すなわちこれなり。さて、このうち第一・第二の二点は『魏志』の文面を精読して、たちまち了解せらるるのみならず、先輩すでにこれを説明したれば、しばらくこれを措(お)かん。しかれども第三点にいたりては、『魏志』の文中明瞭の記載あるにもかかわらず、余輩が日本学会においてこれを述べたる時までは、何人もかつてここに思い至らざりしがゆえに、また、この点は本論起草の主眼なるがゆえに、余輩は狗奴国の所在をもって、この問題解決の端緒を開かんとす。

第三巻 第一四号 倭女王卑弥呼考(二)白鳥庫吉  月末最終号:無料
 九州の西海岸は潮汐満乾の差はなはだしきをもって有名なれば、上に記せる塩盈珠(しおみつたま)・塩乾珠(しおひるたま)の伝説は、この自然的現象に原因しておこれるものならん。ゆえに神典に見えたる彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)と火闌降命(ほのすそりのみこと)との争闘は、『魏志』によりて伝われる倭女王と狗奴(くな)男王との争闘に類せる政治的状態の反映とみなすべきものなり。
 『魏志』の記すところによれば、邪馬台国はもと男子をもって王となししが、そののち国中混乱して相攻伐し、ついに一女子を立てて王位につかしむ。これを卑弥呼となす。この女王登位の年代は詳らかならざれども、そのはじめて魏国に使者を遣わしたるは、景初二年すなわち西暦二三八年なり。しかして正始八年すなわち西暦二四七年には、女王、狗奴国の男王と戦闘して、その乱中に没したれば、女王はけだし後漢の末葉よりこの時まで九州の北部を統治せしなり。女王死してのち国中また乱れしが、その宗女壱与(いよ)なる一小女を擁立するにおよんで国乱定まりぬ。卑弥呼の仇敵狗奴国の男王卑弓弥呼(ヒコミコ)は何年に即位し何年まで在位せしか、『魏志』に伝わらざれば、またこれを知るに由なし。しかれども正始八年(二四七)にこの王は女王卑弥呼と戦って勝利を得たれば、女王の嗣者壱与(いよ)の代におよんでも、依然として九州の南部に拠りて、暴威を逞(たくま)しうせしに相違なし。

第三巻 第一五号 倭奴国および邪馬台国に関する誤解 他 喜田貞吉  定価:200円
倭奴国と倭面土国および倭国とについて稲葉君の反問に答う
倭奴国および邪馬台国に関する誤解
 考古界の重鎮高橋健自君逝(い)かれて、考古学会長三宅先生〔三宅米吉。〕の名をもって追悼の文をもとめられた。しかもまだ自分がその文に筆を染めぬ間にその三宅先生がまた突然逝かれた。本当に突然逝かれたのだった。青天の霹靂というのはまさにこれで、茫然自失これを久しうすということは、自分がこの訃報に接した時にまことに体験したところであった。
 自分が三宅先生とご懇意を願うようになったのは、明治三十七、八年(一九〇四・一九〇五)戦役のさい、一緒に戦地見学に出かけた時であった。十数日間いわゆる同舟の好みを結び、あるいは冷たいアンペラの上に御同様南京虫を恐がらされたのであったが、その間にもあの沈黙そのもののごときお口から、ポツリポツリと識見の高邁なところをうけたまわるの機会を得て、その博覧強記と卓見とは心から敬服したことであった。今度考古学会から、先生のご研究を記念すべき論文を募集せられるというので、倭奴国および邪馬台国に関する小篇をあらわして、もって先生の学界における功績を追懐するの料とする。
 史学界、考古学界における先生の遺された功績はすこぶる多い。しかしその中において、直接自分の研究にピンときたのは漢委奴国王の問題の解決であった。うけたまわってみればなんの不思議もないことで、それを心づかなかった方がかえって不思議なくらいであるが、そこがいわゆるコロンブスの卵で、それまで普通にそれを怡土国王のことと解して不思議としなかったのであった。さらに唐人らの輩にいたっては、それをもって邪馬台国のことなりとし、あるいはただちに倭国全体の称呼であるとまで誤解していたのだった。

第三巻 第一六号 初雪 モーパッサン 秋田 滋(訳)  定価:200円
 長いクロワゼットの散歩路が、あおあおとした海に沿うて、ゆるやかな弧を描いている。はるか右のほうにあたって、エストゥレルの山塊がながく海のなかに突き出て眼界をさえぎり、一望千里のながめはないが、奇々妙々を極めた嶺岑(みね)をいくつとなく擁するその山姿は、いかにも南国へ来たことを思わせる、うつくしいながめであった。
 頭をめぐらして右のほうを望むと、サント・マルグリット島とサント・オノラ島が、波のうえにぽっかり浮かび、樅(もみ)の木におおわれたその島の背を二つ見せている。
 この広い入江のほとりや、カンヌの町を三方から囲んで屹立(きつりつ)している高い山々に沿うて、数知れず建っている白亜の別荘は、おりからの陽ざしをさんさんと浴びて、うつらうつら眠っているように見えた。そしてはるか彼方には、明るい家々が深緑の山肌を、その頂から麓のあたりまで、はだれ雪のように、まだらに点綴(てんてい)しているのが望まれた。
 海岸通りにたちならんでいる家では、その柵のところに鉄の格子戸がひろい散歩路のほうに開くようにつけてある。その路のはしには、もう静かな波がうちよせてきて、ザ、ザアッとそれを洗っていた。――うらうらと晴れわたった、暖かい日だった。冬とは思われない陽ざしの降りそそぐ、なまあたたかい小春日和である。輪を回して遊んでいる子供を連れたり、男となにやら語らいながら、足どりもゆるやかに散歩路の砂のうえを歩いてゆく女の姿が、そこにもここにも見えた。

第三巻 第一七号 高山の雪 小島烏水  定価:200円
 古い雪の上に新雪が加わると、その翌る朝などは、新雪が一段と光輝を放ってまばゆく見える。雪は古くなるほど、結晶形を失って、粒形に変化するもので、粒形になると、純白ではなくなる。また粒形にならないまでも、古い雪に白い輝きがなくなるのは、一部は空気を含むことが少ないからで、一部は鉱物の分子だの、塵芥(じんかい)泥土だのが加わって、黄色、灰色、またはトビ色に変わってしまうからだ。ことに日本北アルプスの飛騨山脈南部などでは、硫黄岳という活火山の降灰のために、雪のおもてが、瀝青(チャン)を塗ったように黒くなることがある。「黒い雪」というものは、私ははじめて、その硫黄岳のとなりの、穂高岳で見た。黒い雪ばかりじゃない、「赤い雪」も槍ヶ岳で私の実見したところである。私は『日本アルプス』第二巻で、それを「色が桃紅なので、水晶のような氷の脈にも血管が通っているようだ」と書いて、原因を花崗岩の※爛(ばいらん)した砂に帰したが、これは誤っている。赤い雪は南方熊楠氏の示教せられたところによれば、スファエレラ・ニヴァリス Sphaerella Nivalis という単細胞の藻で、二本のひげがある。水中を泳ぎまわっているが、またひげを失ってまるい顆粒となり、静止してしまう。それが紅色を呈するため、雪が紅になるので、あまり珍しいものではないそうである。ただし槍ヶ岳で見たのも、同種のものであるや否やは、断言できないが、要するに細胞の藻類であることは、たしかであろうと信ずる。ラボックの『スイス風景論』中、アルプス地方に見る紅雪として、あげてあるのも、やはり同一な細胞藻であった。このほかにアンシロネマ Ancylonema という藻がはえて、雪を青色またはスミレ色に染めることもあるそうであるが、日本アルプス地方では、私はいまだそういう雪を見たことはない。

第三巻 第一八号 光をかかぐる人々[続]『世界文化』連載分(一)徳永 直  月末最終号:無料
 昭和十八年(一九四三)三月のある日、私は“嘉平の活字”をさがすため、東京発鹿児島行きの急行に乗っていた。伴(つ)れがあって、七歳になる甥と、その母親の弟嫁とが、むかいあってこしかけているが、厚狭、小月あたりから、海岸線の防備を見せまいためか、窓をおろしてある車内も、ようやく白んできた。戦備で、すっかり形相のかわった下関構内にはいったころは、乗客たちも洗面の水もない不自由さながら、それぞれに身づくろいして、朝らしく生きかえった顔色になっている……。
 と、私はこの小説だか何だかわからない文章の冒頭をはじめるが、これを書いているのは昭和二十三年(一九四八)夏である。読者のうちには、昭和十八年に出版した同題の、これの上巻を読まれた方もあるかと思うが、私が「日本の活字」の歴史をさがしはじめたのは昭和十四年(一九三九)からだから、まもなくひと昔になろうとしているわけだ。歴史などいう仕事にとっては、十年という月日はちょっとも永くないものだと、素人の私にもちかごろわかってきているが、それでも、鉄カブトに巻ゲートルで、サイレンが鳴っても空襲サイレンにならないうちは、これのノートや下書きをとる仕事をつづけていたころとくらべると、いまは現実の角度がずいぶん変わってきている。弱い歴史の書物など、この変化の関所で、どっかへふっとんだ。いまの私は半そでシャツにサルマタで机のまえにあぐらでいるけれど、上巻を読みかえしてみると、やはり天皇と軍閥におされた多くのひずみを見出さないわけにはゆかない。歴史の真実をえがくということも、階級のある社会では、つねにはげしい抵抗をうける。変わったとはいえ、戦後三年たって、ちがった黒雲がますます大きくなってきているし、新しい抵抗を最初の数行から感じずにいられぬが、はたして、私の努力がどれくらい、歴史の真実をえがき得るだろうか?

第三巻 第一九号 光をかかぐる人々[続]『世界文化』連載分(二)徳永 直  定価:200円
 「江戸期の印刷工場」が近代的な印刷工場に飛躍するためには、活字のほかにいくつかの条件が必要である。第一にはバレンでこするかわりに、鉄のハンドでしめつけるプレスである。第二に、速度のある鋳造機である。第三に、バレン刷りにはふさわしくても金属活字に不向きな「和紙」の改良である。そして第四は、もっともっと重要だが、近代印刷術による印刷物の大衆化を見とおし、これを開拓してゆくところのイデオロギーである。特定の顧客であった大名や貴族、文人や墨客から離脱して、開国以後の新空気に胎動する平民のなかへゆこうとする思想であった。
 苦心の電胎字母による日本の活字がつくれても、それが容易に大衆化されたわけではない。のちに見るように「長崎の活字」は、はるばる「東京」にのぼってきても買い手がなくて、昌造の後継者平野富二は大童(おおわらわ)になって、その使用法や効能を宣伝しなければならなかったし、和製のプレスをつくって売り広めなければならなかったのである。つまり日本の近代的印刷工場が誕生するためには、総合的な科学の力と、それにもまして新しい印刷物を印刷したい、印刷することで大衆的におのれの意志を表現しようとする中味が必要であった。たとえばこれを昌造の例に見ると、彼は蒸汽船をつくり、これを運転し、また鉄を製煉し、石鹸をつくり、はやり眼を治し、痘瘡をうえた。活字をつくると同時に活字のボディに化合すべきアンチモンを求めて、日本の鉱山の半分くらいは探しまわったし、失敗に終わったけれど、いくたびか舶来のプレスを手にいれて、これの操作に熟練しようとした。これらの事実は、ガンブルがくる以前、嘉永から慶応までのことであるが、同時に、昌造が活字をつくったとき最初の目的が、まずおのれの欲する中味の本を印刷刊行したいことであった。印刷して、大名や貴族、文人や墨客ではない大衆に読ませたいということであった。それは前編で見たように、彼が幕府から捕らわれる原因ともなった流し込み活字で印刷した『蘭語通弁』〔蘭和通弁か〕や、電胎活字で印刷した『新塾余談』によっても明らかである。

第三巻 第二〇号 光をかかぐる人々[続]『世界文化』連載分(三)徳永 直  定価:200円
 第一に、ダイアはアルファベット活字製法の流儀にしたがって鋼鉄パンチをつくった。凹型銅字母から凸型活字の再生まで嘉平や昌造と同様であるが、字画の複雑な漢字を「流しこみ」による鋳造では、やさしくないということを自覚していること。自覚していること自体が、アルファベット活字製法の伝統でそれがすぐわかるほど、逆にいえば自信がある。
 第二は、ダイアはたとえば嘉平などにくらべると、後に見るように活字製法では「素人」である。嘉平も昌造も自分でパンチを彫ったが、そのダイアは「労働者を使用し」た。(略)
 第三に、ダイアの苦心は活字つくりの実際にもあるが、もっと大きなことは、漢字の世界を分析し、システムをつくろうとしていることである。アルファベット人のダイアは、漢字活字をつくる前に漢字を習得しなければならなかった。(略)
 さて、ペナンで発生したダイア活字は、これから先、どう発展し成功していったかは、のちに見るところだけれど、いまやパンチによる漢字活字が実際的に誕生したことはあきらかであった。そして、嘉平や昌造よりも三十年早く。日本では昌造・嘉平の苦心にかかわらず、パンチでは成功しなかった漢字活字が、ダイアによっては成功したということ。それが、アルファベット人におけるアルファベット活字製法の伝統と技術とが成功させたものであるということもあきらかであった。そして、それなら、この眼玉の青い連中は、なんで世界でいちばん難しい漢字をおぼえ、活字までつくろうとするのか? いったい、サミュエル・ダイアなる人物は何者か? 世界の同志によびかけて拠金をつのり、世界三分の一の人類の幸福のために、と、彼らは、なんでさけぶのか? 私はそれを知らねばならない。それを知らねば、ダイア活字の、世界で最初の漢字鉛活字の誕生したその根拠がわからぬ、と考えた。

第三巻 第二一号 光をかかぐる人々[続]『世界文化』連載分(四)徳永 直  定価:200円
 アジアには十六世紀を前後して銅活字の時代があり、朝鮮でも日本でもおこなわれている。秀吉の朝鮮侵略のみやげものに端を発している家康・家光時代の銅活字印刷があるけれど、それにくらべると、このさし絵に見る康熙帝の印刷局ははるかに大規模で組織的であることがわかる。しかし、日本でも『お湯殿日記』に見るような最初の文選工は「お公卿たち」であったが、支那でもあごひげの長い官人たちであった。明治になって印刷術が近代化されてからでも、印刷工業をおこした人々の多くが、武家など文字になじみのある階級だったように、私の徒弟だったころの先輩の印刷工の多くが、やはり士族くずれだったことを思い出す。(略)
 武英殿の銅活字は康熙帝の孫、高宗〔乾隆帝〕の代になるとつぶされて銅貨となった。日本でも家康時代の銅活字は同じ運命をたどっているけれど、支那のばあいは銅貨の不足が原因といわれている。しかし、もっと大きな原因は金属活字にあって、漢字組織ができないならば、またプレス式の印刷機もないとするならば、むしろ手わざの発達による木版の方が容易であり便利であった。ボディが銅であれ鉛であれ、それが彫刻に過ぎないならば、むしろ木版にしくはない。銅活字がほろびて再び木版術が栄え、極彩色の芸術的な印刷物もできるようになった。康熙・乾隆の時代に見られるこの傾向は、十七世紀の終わりから十八世紀のなかほどまでであるが、江戸中期から木版術が再興し、世界にたぐいない木版印刷術を生み出した日本と時間的にもほぼ一致している――ということも、漢字が持つ共通の宿命がするわざであったろう。

第三巻 第二二号 光をかかぐる人々[続]『世界文化』連載分(五)徳永 直  月末最終号:無料
 『東洋文化史上におけるキリスト教』(三六二ページ)で溝口靖夫氏は、前に述べたメドハーストが(Ibid, P.366)自分の当時の経験を追懐した文章を根拠にして、つぎのように述べているところがある。――第五の困難は、アヘン問題と宣教師の関係であった。メドハーストが広東に着いた一八三五年は、アヘン戦争の直前であり、支那と英国のあいだに険悪な空気がみなぎっていた。このときにあたって宣教師たちは、きわめて困難なる立場に置かれた。宣教師たちは、しばしばアヘンを積んだ船に乗ってきた。しかも、メドハーストらは切符は買っているが、積荷について容嘴(ようし)する権利はなかった。……宣教師は、英国人と支那人との間に立って、しばしば通訳の労をとらねばならなかったが、こんなとき支那人はアヘン貿易は正義にかなえるものなりや否や? をただすのであった。……ゆえに当時、宣教師たちのこいねがったのは、一艘の伝道用船を得ることであった。これによりアヘンの罪悪からまぬがるることであった。――一艘の伝道船で、アヘンから逃れることはできないけれど、一口にいって「インドからの手紙」は、英国議会をして宣教師らの活動を保証させる決議案をパスさせながら、こんどは「信教の自由憲章」を勝ち取らねばならぬほどそれが首かせになったことを示している。つまり、産業革命が生み出したアルファベット人種の革命的進歩性は、おなじ産業革命が生み出した「アヘンの罪悪」と衝突しなければならなかったが、この矛盾こそ資本主義の矛盾の中味であり、限界であった。

第三巻 第二三号 銀河鉄道の夜(一)宮沢賢治  定価:200円
「ですから、もしもこの天の川がほんとうに川だと考えるなら、その一つ一つの小さな星はみんなその川のそこの砂や砂利の粒にもあたるわけです。またこれを大きな乳の流れと考えるなら、もっと天の川とよく似ています。つまりその星はみな、乳のなかにまるで細かにうかんでいる脂油(あぶら)の球にもあたるのです。(略)」
 先生は中にたくさん光る砂のつぶの入った大きな両面の凸レンズをさしました。
「天の川の形はちょうどこんななのです。このいちいちの光るつぶが、みんな私どもの太陽と同じようにじぶんで光っている星だと考えます。私どもの太陽がこのほぼ中ごろにあって地球がそのすぐ近くにあるとします。みなさんは夜にこのまん中に立ってこのレンズの中を見まわすとしてごらんなさい。こっちの方はレンズが薄いので、わずかの光る粒、すなわち星しか見えないのでしょう。こっちやこっちの方はガラスが厚いので、光る粒すなわち星がたくさん見え、その遠いのはボウッと白く見えるという、これがつまり今日の銀河の説なのです。そんならこのレンズの大きさがどれくらいあるか、また、その中のさまざまの星についてはもう時間ですから、この次の理科の時間にお話しします。では今日はその銀河のお祭りなのですから、みなさんは外へ出て、よく空をごらんなさい。ではここまでです。本やノートをおしまいなさい。
 そして教室じゅうはしばらく机のふたをあけたりしめたり本をかさねたりする音がいっぱいでしたが、まもなく、みんなはきちんと立って礼をすると教室を出ました。 

第三巻 第二四号 銀河鉄道の夜(二)宮沢賢治  定価:200円
 そのとき汽車はだんだんしずかになって、いくつかのシグナルと転轍器(てんてつき)の灯をすぎ、小さな停車場に止まりました。
 その正面の青じろい時計はかっきり第二時を示し、その振子は、風もなくなり汽車も動かずしずかなしずかな野原のなかに、カチッカチッと正しく時をきざんで行くのでした。
 そしてまったくその振子の音の間から遠くの遠くの野原のはてから、かすかなかすかな旋律が糸のように流れてくるのでした。「新世界交響楽だわ。」むこうの席の姉がひとりごとのようにこっちを見ながらそっと言いました。まったくもう車の中ではあの黒服の丈高い青年も誰もみんなやさしい夢を見ているのでした。
(こんなしずかないいところで僕はどうしてもっと愉快になれないだろう。どうしてこんなにひとりさびしいのだろう。けれどもカムパネルラなんかあんまりひどい。僕といっしょに汽車に乗っていながら、まるであんな女の子とばかり話しているんだもの。僕はほんとうにつらい。)
 ジョバンニはまた両手で顔を半分かくすようにして、むこうの窓の外を見つめていました。
 透きとおったガラスのような笛が鳴って、汽車はしずかに動き出し、カムパネルラもさびしそうに星めぐりの口笛をふきました。

第三巻 第二五号 ドングリと山猫/雪渡り 宮沢賢治  定価:200円
 空が青くすみわたり、ドングリはピカピカしてじつにきれいでした。
「裁判ももう今日で三日目だぞ、いい加減になかなおりをしたらどうだ。」山ねこが、すこし心配そうに、それでもむりに威張(いば)って言いますと、ドングリどもは口々にさけびました。
「いえいえ、だめです、なんといったって頭のとがってるのがいちばんえらいんです。そしてわたしがいちばんとがっています。
「いいえ、ちがいます。まるいのがえらいのです。いちばんまるいのはわたしです。
「大きなことだよ。大きなのがいちばんえらいんだよ。わたしがいちばん大きいからわたしがえらいんだよ。
「そうでないよ。わたしのほうがよほど大きいと、きのうも判事さんがおっしゃったじゃないか。
「だめだい、そんなこと。せいの高いのだよ。せいの高いことなんだよ。
「押しっこのえらいひとだよ。押しっこをしてきめるんだよ。」もうみんな、ガヤガヤガヤガヤ言って、なにがなんだか、まるで蜂の巣をつっついたようで、わけがわからなくなりました。そこで山猫がさけびました。
「やかましい! ここをなんとこころえる。しずまれ、しずまれ!」

第三巻 第二六号 光をかかぐる人々[続]『世界文化』連載分(六)徳永 直  定価:200円
 活字が日本に渡るには、他の条件が必要であった。そして、その他の条件のうちもっとも大きなものは、やはり文久二年・一八六二年の日本幕府がはじめてやった貿易船千歳丸の上海入港であったろう。(略)経済的にいえばこの貿易は失敗したけれど、不馴れな幕府の役人たちは積荷をそのまま持ち戻るはめにもなったけれど、オランダの役人につれられて各国の領事たちにあったり、諸外国人の活動ぶりを見てびっくりした。たとえばこれを便乗者・高杉一人の場合に見てもあきらかである。(略)その後二年あまりで、攘夷の中心長州藩が領民に洋品使用の禁を解き、薩摩や佐賀と前後して海外貿易を営なんだ急角度の転回も、したがって「薩長締盟」を可能にした思想的背景も、このときの千歳丸便乗によって彼が上海で感得したものによるところ、はなはだ多いといわれている。
 (略)第一回の千歳丸のときは高杉のほかに中牟田や五代〔五代友厚か。〕や浜松藩の名倉(なぐら)予可人(あなと)などあったが、第二回の健順丸のときは、前巻でなじみの昌造の同僚で長崎通詞、安政開港に功労のあった森山多吉郎、先の栄之助がいまは外国奉行支配調役として乗り組んでいたし、第三回目、慶応三年(一八六七)の同じく幕府船ガンジス号のときは、佐倉藩士高橋作之助〔猪之助か。(のちの由一)ら多数があり、たび重なるにつれて上海渡航者の数は急速に増えていった。(略)
 また、官船以外の密航者、あるいは藩所有の船修理と称して渡航する者もたくさんあった。(略)さては中浜万次郎を案内に立てて汽船を買いに来た土佐藩の後藤象次郎などと、千歳丸以後は「きびす相ついで」いる(略)。

第三巻 第二七号 特集 黒川能・春日若宮御祭 折口信夫  月末最終号:無料
黒川能・観点の置き所
 特殊の舞台構造
 五流の親族
 能楽史をかえりみたい
 黒川の能役者へ
村で見た黒川能
能舞台の解説
春日若宮御祭の研究
 おん祭りの今と昔と
 祭りのお練り
 公人の梅の白枝(ずはえ)
 若宮の祭神
 大和猿楽・翁
 影向松・鏡板・風流・開口
 細男(せいのお)・高足・呪師

 山形県には、秋田県へかけて室町時代の芸能に関した民俗芸術が多く残っております。黒川能は、その中でも著しいものの一つで、これと鳥海山の下のひやま舞い〔杉沢比山舞か。〕との二つは、特に皆さまに見ていただきたいものであります。この黒川能が二十数年ぶりでのぼってくるのであります。世話をしてくださった斎藤氏〔斎藤香村か。〕に感謝しなければならないと思います。
 特にこの能で注意しなければならないのは、舞台構造であります。京都の壬生念仏を思わせるような舞台で、上下の廊下が橋掛りになっており、舞台の正面には春日神社の神殿をひかえているのであります。(略)奉仕する役者はというと、上座と下座が二部落にわかれており、ここで能をするときは、上座は左橋掛り(正面から見て)から出て舞い、下座は右橋掛りから出て舞うことになっている。これはもっとも大きな特徴で、今度の公演にいくぶんでも実現できれば結構だと思います。この神前演奏の形は、春日の若宮祭りの第一日の式と同形式といっていいと思います。しかも、黒川ではつねにその形式をくり返しているわけで、見物人よりも神に対する法楽を主としていることがわかります。
(略)おもしろいのは狂言です。表情にも言語にも必ず多少の驚きを受けられるでしょう。ことに方言的な言い回しなどには、つい、われわれも見ていて釣りこまれるものがありました。(「黒川能・観点の置き所」より)

第三巻 第二八号 面とペルソナ/人物埴輪の眼 他 和辻哲郎  定価:200円
面とペルソナ / 文楽座の人形芝居
能面の様式 / 人物埴輪の眼
(略)しかし「意味ある形」、たとえば「甲冑」を円筒上の人物に着せたとなると、その甲冑は、四肢などに対するとはまったく段ちがいの細かな注意をもって表現されている。(略)それはこの鉄の武器が、人体などよりもはるかに強い関心の対象であったことを示すものであって、いかにも古墳時代の感じ方らしい。(略)
(略)埴輪(はにわ)人形を近くからでなく、三間、五間、あるいはそれ以上に、ときには二、三十間の距離を置いて、ながめてみる必要があると思う。それによって埴輪人形の眼はじつに異様な生気をあらわしてくるのである。もし、この眼が写実的に形作られていたならば、すこし遠のけば、はっきりとは見えなくなるであろう。しかるにこの眼は、そういう形づけを受けず、そばで見れば粗雑に裏までくりぬいた空洞の穴にすぎないのであるが、遠のけば遠のくほど、その粗雑さが見えなくなり、魂の窓としての眼の働きが表面へ出てくる。それが異様な生気を現わしてくるゆえんなのである。眼にそういう働きがあらわれれば、顔面は生気をおび、埴輪人形全体が生きてくるのはもちろんである。古墳時代の人々はそういうふうにして埴輪の人形を見、また、そういうふうに見えるものとして埴輪の人形を作ったのであった。

第三巻 第二九号 火山の話 今村明恒  定価:200円
 桜島噴火はいちじるしい前徴を備えていた。数日前から地震が頻々(ひんぴん)におこることは慣例であるが、今回も一日半前から始まった。また七、八十年前から土地がしだいに隆起しつつあったが、噴火後は元どおりに沈下したのである。そのほか、温泉・冷泉がその温度を高め、あるいは湧出量を増し、あるいは新たに湧出し始めたようなこともあった。
 霧島火山群は東西五里にわたり二つの活火口と多くの死火山とを有している。その二つの活火口とは矛の峰(高さ一七〇〇メートル)の西腹にある御鉢(おはち)と、その一里ほど西にある新燃鉢(しんもえばち)とである。霧島火山はこの二つの活火口で交互に活動するのが習慣のように見えるが、最近までは御鉢が活動していた。ただし享保元年(一七一六)における新燃鉢の噴火は、霧島噴火史上においてもっとも激しく、したがって最高の損害記録をあたえたものであった。
 磐梯山(高さ一八一九メートル)の明治二十一年(一八八八)六月十五日における大爆発は、当時、天下の耳目を聳動(しょうどう)せしめたものであったが、クラカトアには比較すべくもない。このときに磐梯山の大部分は蒸気の膨張力によって吹き飛ばされ、堆積物が渓水をふさいで二、三の湖水を作ったが、東側に流れ出した泥流のために土地のみならず、四百余の村民をも埋めてしまったのである。

第三巻 第三〇号 現代語訳『古事記』(一)武田祐吉(訳)  定価:200円
 古事記 上の巻
   序文
    過去の時代(序文の第一段)
    『古事記』の企画(序文の第二段)
    『古事記』の成立(序文の第三段)
    『古事記』の成立(序文の第三段)
   一、イザナギの命とイザナミの命
    天地のはじめ
    島々の生成
    神々の生成
    黄泉の国
    身禊
   二、アマテラス大神とスサノオの命
    誓約
    天の岩戸
   三、スサノオの命
    穀物の種
    八俣の大蛇
    系譜
 スサノオの命は、かようにして天の世界から逐(お)われて、下界へ下っておいでになり、まず食物をオオゲツ姫の神にお求めになりました。そこでオオゲツ姫が鼻や口、また尻からいろいろのごちそうを出して、いろいろお料理をしてさしあげました。この時にスサノオの命はそのしわざをのぞいて見て、きたないことをして食べさせるとお思いになって、そのオオゲツ姫の神を殺してしまいました。殺された神の身体にいろいろの物ができました。頭にカイコができ、二つの目に稲種ができ、二つの耳にアワができ、鼻にアズキができ、股の間にムギができ、尻にマメができました。カムムスビの命が、これをお取りになって種となさいました。
 かくてスサノオの命は逐いはらわれて出雲の国の肥(ひ)の川上、鳥髪(とりかみ)という所におくだりになりました。このときに箸(はし)がその河から流れてきました。それで川上に人が住んでいるとお思いになってたずねて上っておいでになりますと、老翁と老女と二人があって少女を中において泣いております。そこで「あなたは誰ですか?」とおたずねになったので、その老翁が、「わたくしはこの国の神のオオヤマツミの神の子でアシナヅチといい、妻の名はテナヅチ、娘の名はクシナダ姫といいます」と申しました。また「あなたの泣くわけはどういう次第ですか?」とおたずねになったので「わたくしの女(むすめ)はもとは八人ありました。それを高志(コシ)の八俣の大蛇(おろち)が毎年きて食べてしまいます。今また、それの来る時期ですから泣いています」と申しました。

※ 価格は税込みです。
※ タイトルをクリックすると、無料号はダウンロードを開始、有料号および1MB以上の無料号はダウンロードサイトへジャンプします。