武田祐吉 たけだ ゆうきち
1886-1958(明治19.5.5-昭和33.3.29)
国文学者。東京都出身。小田原中学の教員を辞し、佐佐木信綱のもとで「校本万葉集」の編纂に参加。1926(昭和元)、国学院大学教授。「万葉集」を中心に上代文学の研究を進め、「万葉集全註釈」(1948-51)に結実させた。著書「上代国文学の研究」「古事記研究―帝紀攷」。「武田祐吉著作集」全8巻。

◇参照:Wikipedia、『日本史』(平凡社)。
◇表紙イラスト:葛飾北斎「あまのうずめのみこと」『北斎漫画』より。



もくじ 
現代語訳 古事記(一) 序・上巻(前編)
武田祐吉(訳)


ミルクティー*現代表記版
現代語訳 古事記(一)
  古事記 上の巻
   序文
    過去の時代(序文の第一段)
    『古事記』の企画(序文の第二段)
    『古事記』の成立(序文の第三段)
    『古事記』の成立(序文の第三段)
   一、イザナギの命とイザナミの命
    天地のはじめ
    島々の生成
    神々の生成
    黄泉の国
    身禊
   二、アマテラス大神とスサノオの命
    誓約
    天の岩戸
   三、スサノオの命
    穀物の種
    八俣の大蛇
    系譜

オリジナル版
現代語譯 古事記(一)

地名年表人物一覧書籍
難字、求めよ
後記次週予告

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*凡例
〈 〉:割り注、もしくは小書き。
〔 〕:編者(しだ)注。

*底本
底本:「古事記」角川文庫、角川書店
   1956(昭和31)年5月20日初版発行
   1965(昭和40)年9月20日20版発行
底本の親本:「眞福寺本」
http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person1349.html

NDC 分類:164(宗教/神話.神話学)
http://yozora.kazumi386.org/1/6/ndc164.html




現代語訳 古事記(一) 

稗田の阿礼、太の安万侶
武田祐吉(訳)


 古事記 上の巻 序文がついています

   序文

    過去の時代(序文の第一段)

―『古事記』の成立の前提として、本文に記されている過去のことについて、まずわれわれが、伝えごとによって過去のことを知ることを述べ、続いて歴代の天皇がこれによって徳教とっきょうを正したことを述べる。おお安万侶やすまろによって代表される古人が、『古事記』の内容をどのように考えていたかがあきらかにされる。『古事記』成立の思想的根拠である。―

 わたくし安万侶やすまろが申しあげます。
 宇宙のはじめにあたっては、すべてのはじめの物がまずできましたが、その気性はまだ十分でございませんでしたので、名前もなく動きもなく、だれもその形を知るものはございません。それからして天と地とがはじめて別になって、アメノミナカヌシの神・タカミムスビの神・カムムスビの神が、すべてを作り出す最初の神となり、そこで男女の両性がはっきりして、イザナギの神・イザナミの神が、万物を生み出す親となりました。そこでイザナギのみことは、地下の世界をおとずれ、またこの国に帰って、みそぎをして日の神と月の神とが目を洗うときに現われ、海水に浮き沈みして身を洗うときに、さまざまの神が出ました。それゆえに最古の時代は、暗くはるかのあちらですけれども、前々からの教えによって国土を生み成したときのことを知り、先の世の物知り人によって神を生み人間を成り立たせた世のことがわかります。
 ほんとにそうです。神々が賢木さかきの枝に玉をかけ、スサノオのみことが玉をかんでいたことがあってから、代々の天皇がつづき、アマテラス大神おおみかみが剣をおみになり、スサノオの命が大蛇をったことがあってから、多くの神々が繁殖しました。神々が天のやすの川の川原で会議をなされて、天下を平定し、タケミカヅチノオのみことが、出雲の国のイザサの小浜おはま大国主おおくにぬしの神に領土をゆずるようにと談判されてから国内をしずかにされました。これによってニニギのみことが、はじめてタカチホの峰におくだりになり、神武じんむ天皇がヤマトの国におでましになりました。この天皇のおでましにあたっては、バケモノの熊が川から飛び出し、天からはタカクラジ〔高倉下。によって剣をおさずけになり、尾のある人が路をさえぎったり、大きなカラスが吉野へご案内したりしました。人々がともに舞い、合図の歌を聞いて敵をちました。そこで崇神すじん天皇は、夢でご承知になって神さまをご崇敬すうけいになったので、賢明な天皇と申しあげますし、仁徳天皇は、民の家の煙の少ないのを見て人民を愛撫あいぶされましたので、今でも道に達した天皇と申しあげます。成務せいむ天皇は近江の高穴穂たかあなほの宮で、国や郡の境を定め、地方を開発され、允恭いんぎょう天皇は、大和の飛鳥の宮で、氏々の系統をお正しになりました。それぞれ保守的であると進歩的であるとの相違があり、はなやかなのと質素なのとの違いはありますけれども、いつの時代にあっても、古いことをしらべて、現代を指導し、これによって衰えた道徳を正し、えようとする徳教を補強しないということはありませんでした。

    『古事記』の企画(序文の第二段)

―前半は天武天皇のご事跡と徳行とっこうについて述べる。後半、古来の伝えごとに関心をもたれ、これをもって国家経営の基本であるとなし、これを正して稗田ひえだ阿礼あれをしてみ習わしめられたが、まだ書物とするに至らなかったことを記す。―

 飛鳥あすか清原きよみはらの大宮において天下をおおさめになった天武天皇の御世にいたっては、まず皇太子として帝位に昇るべき徳をお示しになりました。しかしながら時がまだ熟しませんでしたので吉野山に入って衣服を変えてお隠れになり、人と事とともに得て伊勢の国において堂々たる行動をなさいました。お乗り物が急におでましになって山や川をおし渡り、軍隊は雷のように威を振い部隊は電光のように進みました。武器が威勢をあらわして強い将士がたくさん立ちあがり、赤い旗のもとに武器を光らせて敵兵は瓦のようにやぶれました。まだ十二日にならないうちに、悪気あっきが自然にしずまりました。そこで軍に使った牛馬を休ませ、なごやかな心になって大和の国に帰り、旗を巻き武器をおさめて、歌い舞って都におとどまりになりました。そうして酉の年の二月に、清原きよみはらの大宮において、天皇の位におつきになりました。その道徳は黄帝こうてい以上であり、周の文王ぶんおうよりもまさっていました。神器を手にして天下を統一し、正しい系統を得て四方八方を併合されました。陰と陽との二つの気性の正しいのに乗じ、木火土金水の五つの性質の順序を整理し、貴い道理を用意して世間の人々を指導し、すぐれた道徳をほどこして国家を大きくされました。そればかりではなく、知識の海はひろびろとして古代のことを深くおさぐりになり、心の鏡はピカピカとして前の時代のことをあきらかにご覧になりました。
 ここにおいて天武天皇のおおせられましたことは「わたしが聞いていることは、諸家で持ち伝えている『帝紀ていき』と『本辞ほんじ』とが、すでに真実とちがい多くのいつわりを加えているということだ。今の時代においてその間違いを正さなかったら、幾年もたたないうちに、その本旨ほんしがなくなるだろう。これは国家組織の要素であり、天皇の指導の基本である。そこで『帝紀』を記し定め、『本辞』をしらべて後世に伝えようと思う」とおおせられました。そのときに稗田ひえだ阿礼あれという奉仕の人がありました。年は二十八でしたが、人がらが賢く、目で見たものは口で読み伝え、耳で聞いたものはよく記憶しました。そこで阿礼あれにおおせくだされて、『帝紀』と『本辞』とを読み習わしめられました。しかしながら時勢が移り世が変わって、まだ記し定めることをなさいませんでした。

    『古事記』の成立(序文の第三段)

―はじめに元明げんめい天皇の徳をたたえ、その命令によって稗田の阿礼のみ習ったものを記したことを述べる。特に文章を書くにあたっての苦心が述べられている。そうして記事の範囲、およびこれを三巻に分けたことを述べて終わる。―

 つつしんで思いまするに、今上天皇陛下(元明天皇)は、帝位におつきになって堂々とましまし、天地人の万物に通じて人民を正しくお育てになります。皇居にいまして道徳をみちびくことは、陸地水上のはてにもおよんでいます。太陽は中天にのぼって光を増し、雲はって晴れわたります。二つの枝が一つになり、一本のくきから二本の穂が出るようなめでたいしるしは、書記が書く手を休めません。国境をこえて知らない国からたてまつります物は、お倉にからになる月がありません。お名まえは禹王うおうよりも高く聞こえ、御徳はいん湯王とうおうよりもまさっているというべきであります。そこで『本辞』のちがっているのをしみ、『帝紀』の誤っているのを正そうとして、和銅四年(七一一)九月十八日をもって、わたくし安万侶やすまろにおおせられまして、稗田の阿礼が読むところの天武天皇のおおせの『本辞』を記し定めて献上せよとおおせられましたので、つつしんでおおせの主旨にしたがって、こまかに採録いたしました。
 しかしながら古代にありましては、言葉も内容もともに素朴そぼくでありまして、文章に作り、句を組織しようといたしましても、文字に書き現わすことが困難であります。文字を訓で読むように書けば、その言葉が思いつきませんでしょうし、そうかと言って字音で読むように書けばたいへん長くなります。そこで今、一句の中に音読・訓読の文字をまじえて使い、時によっては一つのことを記すのにまったく訓読の文字ばかりで書きもしました。言葉やわけのわかりにくいのは注を加えてはっきりさせ、意味のとりやすいのは別に注を加えません。また「クサカ」という姓に「日下」と書き、「タラシ」という名まえに「帯」の字を使うなど、こういうたぐいは、もとのままにして改めません。だいたい書きましたことは、天地のはじめから推古天皇の御代まででございます。そこでアメノミナカヌシの神からヒコナギサウガヤフキアエズのみことまでを上巻とし、神武天皇から応神天皇までを中巻とし、仁徳天皇から推古天皇までを下巻としまして、合わせて三巻を記して、つつしんで献上いたします。わたくし安万侶やすまろ、つつしみかしこまって申しあげます。
  和銅五年(七一二)正月二十八日
正五位の上勲五等 おおの朝臣安万侶やすまろ 

   一、イザナギのみこととイザナミのみこと

    天地のはじめ

―世界のはじめにまず神々の出現したことを説く。これらの神名には、それぞれ意味があって、その順次に出現することによって世界ができてゆくことを述べる。特に最初の三神は、抽象的概念の表現として重視される。日本の神話のうちもっとも思想的な部分である。―

 昔、この世界の一番はじめのときに、天でご出現になった神さまは、お名をアメノミナカヌシの神といいました。つぎの神さまはタカミムスビの神、つぎの神さまはカムムスビの神、このかたはみなおひとりでご出現になって、やがて形をお隠しなさいました。つぎに国ができたてで水に浮いたあぶらのようであり、クラゲのようにフワフワただよっている時に、泥の中からあしを出してくるような勢いの物によってご出現になった神さまは、ウマシアシカビヒコジの神といい、つぎにアメノトコタチの神といいました。この方々かたがたもみなおひとりでご出現になって形をお隠しになりました。
 以上の五神は、特別の天の神さまです。
 それから次々にあらわれ出た神さまは、クニノトコタチの神、トヨクモノの神、ウイジニの神、スイジニの女神、ツノグイの神、イクグイの女神、オオトノジの神、オオトノベの女神、オモダルの神、アヤカシコネの女神、それからイザナギの神とイザナミの女神とでした。このクニノトコタチの神からイザナミの神までを神代かみよ七代ななよと申します。そのうちはじめの御二方おふたかたはお独立ひとりだちであり、ウイジニの神から以下は御二方で一代でありました。

    島々の生成

―神が生み出す形で国土の起原を語る。―

 そこで天の神さま方のおおせで、イザナギのみこと・イザナミのみこと御二方おふたかたに、「このただよっている国を整えてしっかりと作り固めよ」とて、りっぱなほこをおさずけになっておおせつけられました。それでこの御二方おふたかたの神さまは天からの階段にお立ちになって、そのほこをさしおろして下の世界をかきまわされ、海水を音を立ててかき回して引きあげられた時に、矛の先からしたたる海水が、積もって島となりました。これがオノゴロ島です。その島におくだりになって、大きな柱を立て、大きな御殿ごてんをおてになりました。
 そこでイザナギの命が、イザナミの女神に「あなたのからだは、どんなふうにできていますか?」と、おたずねになりましたので、「わたくしのからだは、できあがって、でききらないところが一か所あります」とお答えになりました。そこでイザナギの命のおおせられるには「わたしのからだは、できあがって、できすぎたところが一か所ある。だから、わたしのできすぎた所をあなたのでききらない所にさして国を生み出そうと思うがどうだろう?」とおおせられたので、イザナミの命が「それがいいでしょう」とお答えになりました。そこでイザナギの命が「そんならわたしとあなたが、この太い柱を回りあって、結婚をしよう」とおおせられてこのように約束しておおせられるには「あなたは右からお回りなさい。わたしは左から回ってあいましょう」と約束してお回りになる時に、イザナミの命が先に「ほんとうにりっぱな青年ですね」といわれ、そのあとでイザナギの命が「ほんとうにうつくしいおじょうさんですね」といわれました。それぞれ言い終わってから、その女神に「女が先に言ったのはよくない」とおっしゃいましたが、しかし結婚をして、これによって御子みこ水蛭子をおみになりました。この子はあしの船に乗せて流してしまいました。つぎに淡島あわしまをお生みになりました。これも御子の数には入りません。
 かくて御二方でご相談になって、「今、わたしたちのんだ子がよくない。これは天の神さまのところへ行って申しあげよう」とおおせられて、ご一緒いっしょに天にのぼって天の神さまのおおせをお受けになりました。そこで天の神さまのご命令で鹿の肩の骨をやくうらなかたで占いをしておおせられるには、「それは女のほうさきに物を言ったのでよくなかったのです。帰りくだって、あらためて言いなおしたがよい」とおおせられました。そういうわけで、またくだっておいでになって、またあの柱を前のようにお回りになりました。今度こんどはイザナギのみことがまず「ほんとうにうつくしいおじょうさんですね」とおっしゃって、後にイザナミの命が「ほんとうにりっぱな青年ですね」とおおせられました。かように言い終わって結婚をなさって御子の淡路あわじのホノサワケの島をお生みになりました。つぎに伊予いよ二名ふたなの島(四国)をおみになりました。この島は一つにかおが四つあります。その顔ごとに名があります。伊予いよの国をエひめといい、讃岐さぬきの国をイイヨリひこといい、阿波あわの国をオオケツ姫といい、土佐とさの国をタケヨリワケといいます。つぎに隠岐おき三子みつごの島をお生みなさいました。この島はまたの名をアメノオシコロワケといいます。つぎに筑紫つくしの島(九州)をおみになりました。やはり一つに顔が四つあります。顔ごとに名がついております。それで筑紫つくしの国をシラヒワケといい、とよの国をトヨヒワケといい、の国をタケヒムカヒトヨクジヒネワケといい、熊曽くまその国をタケヒワケといいます。つぎに壱岐の島をお生みになりました。この島はまたの名を天一あめひとはしらといいます。つぎに対馬つしまをお生みになりました。またの名をアメノサデヨリ姫といいます。つぎに佐渡さどの島をお生みになりました。つぎに大倭豊秋津島おおやまととよあきつしま(本州)をお生みになりました。またの名をアマツミソラトヨアキツネワケといいます。この八つの島がまず生まれたので大八島国おおやしまぐにというのです。それからおかえりになったときに吉備きび児島こじまをお生みになりました。またの名をタケヒガタワケといいます。つぎに小豆島あずきじまをお生みになりました。またの名をオオノデひめといいます。つぎに大島をおみになりました。またの名をオオタマルワケといいます。つぎに女島ひめじまをお生みになりました。またの名をあめ一つ根といいます。つぎにチカの島をお生みになりました。またの名をアメノオシオといいます。つぎに両児ふたごの島をお生みになりました。またの名をアメフタヤといいます。吉備の児島からフタヤの島まであわせて六島です。

    神々の生成

―前と同じ形で万物の起原を語る。火の神を生んでから水の神などの出現する部分は鎮火祭ちんかさいの思想による。―

 このように国々を生み終わって、さらに神々をお生みになりました。そのお生みあそばされた神さまのおん名はまずオオコトオシオの神、つぎにイワツチ彦の神、つぎにイワス姫の神、つぎにオオトヒワケの神、つぎにアメノフキオの神、つぎにオオヤ彦の神、つぎにカザモツワケノオシオの神をお生みになりました。つぎに海の神のオオワタツミの神をお生みになり、つぎに水戸の神のハヤアキツ彦の神とハヤアキツ姫の神とをお生みになりました。オオコトオシオの神からアキツ姫の神まであわせて十神です。このハヤアキツ彦とハヤアキツ姫の御二方が河と海とでそれぞれにわけてお生みになった神の名は、アワナギの神・アワナミの神・ツラナギの神・ツラナミの神・アメノミクマリの神・クニノミクマリの神・アメノクヒザモチの神・クニノクヒザモチの神であります。アワナギの神からクニノクヒザモチの神まであわせて八神です。つぎに風の神のシナツ彦の神、木の神のククノチの神、山の神のオオヤマツミの神、野の神のカヤノ姫の神、またの名をノヅチの神という神をお生みになりました。シナツ彦の神からノヅチまであわせて四神です。このオオヤマツミの神とノヅチの神とが山と野とにわけてお生みになった神の名は、アメノサヅチの神・クニノサヅチの神・アメノサギリの神・クニノサギリの神・アメノクラドの神・クニノクラドの神・オオトマドイコの神・オオトマドイメの神であります。アメノサヅチの神からオオトマドイメの神まであわせて八神です。
 つぎにお生みになった神の名はトリノイワクスブネの神、この神はまたの名をあめ鳥船とりふねといいます。つぎにオオゲツ姫の神をお生みになり、つぎにホノヤギハヤオの神、またの名をホノカガ彦の神、またの名をホノカグツチの神といいます。この子をお生みになったためにイザナミの命は御陰みほとが焼かれてご病気になりました。その嘔吐へどでできた神の名はカナヤマ彦の神とカナヤマ姫の神、くそでできた神の名はハニヤス彦の神とハニヤス姫の神、小便でできた神の名はミツハノメの神とワクムスビの神です。この神の子はトヨウケ姫の神といいます。かようなしだいでイザナミの命は火の神をお生みになったためについにおかくれになりました。天の鳥船からトヨウケ姫の神まであわせて八神です。
 すべてイザナギ・イザナミのお二方の神が、ともにお生みになった島の数は十四、神は三十五神であります。これはイザナミの神がまだお隠れになりませんでした前にお生みになりました。ただオノゴロ島はお生みになったのではありません。また水蛭子と淡島とは子の中に入れません。

    黄泉よみの国

―地下に暗い世界があって、魔物がいると考えられている。これは異郷説話の一つである。火の神をる部分は鎮火祭の思想により、黄泉の国から逃げてくる部分は、道饗祭みちあえのまつりの思想による。黄泉の部分は、主として出雲系統の伝来である。―

 そこでイザナギの命のおおせられるには、「わたしの最愛の妻を一人の子にかえたのは残念だ」とおおせられて、イザナミの命の枕の方や足の方にしておきになった時に、涙で出現した神は香具山かぐやまのふもとの小高いところの木の下においでになる泣沢女なきさわめの神です。このおかくれになったイザナミの命は出雲いずもの国と伯耆ほうきの国との境にある比婆ひばの山にお葬り申しあげました。
 ここにイザナギの命は、おきになっていた長い剣をぬいて御子みこのカグツチの神の首をおりになりました。その剣の先についた血がきよらかないわおに走りついて出現した神の名は、イワサクの神、つぎにネサクの神、つぎにイワヅツノオの神であります。つぎにその剣のもとの方についた血も、いわおに走りついて出現した神の名は、ミカハヤビの神、つぎにヒハヤビの神、つぎにタケミカヅチノオの神、またの名をタケフツの神、またの名をトヨフツの神という神です。つぎに剣のつかに集まる血が手のまたからこぼれ出して出現した神の名はクラオカミの神、つぎにクラミツハの神であります。以上、イワサクの神からクラミツハの神まであわせて八神は、御剣によって出現した神です。
 殺されなさいましたカグツチの神の、頭に出現した神の名はマサカヤマツミの神、胸に出現した神の名はオトヤマツミの神、腹に出現した神の名はオクヤマツミの神、御陰みほとに出現した神の名はクラヤマツミの神、左の手に出現した神の名はシギヤマツミの神、右の手に出現した神の名はハヤマツミの神、左の足に出現した神の名はハラヤマツミの神、右の足に出現した神の名はトヤマツミの神であります。マサカヤマツミの神からトヤマツミの神まであわせて八神です。そこでおりになった剣の名はアメノオハバリといい、またの名はイツノオハバリともいいます。
 イザナギの命はおかくれになった女神めがみにもう一度会いたいと思われて、あとを追って黄泉よみの国に行かれました。そこで女神が御殿の組んである戸から出てお出迎でむかえになったときに、イザナギのみことは、「最愛のわたしの妻よ、あなたとともに作った国はまだ作り終らないからかえっていらっしゃい」とおおせられました。しかるにイザナミのみことがお答えになるには、「それは残念なことをいたしました。早くいらっしゃらないので、わたくしは黄泉よみの国の食物をべてしまいました。しかし、あなたさまがわざわざおいでくださったのですから、なんとかしてかえりたいと思います。黄泉よみの国の神さまに相談をしてまいりましょう。その間、わたくしをご覧になってはいけません」とお答えになって、御殿ごてんのうちにお入りになりましたが、なかなか出ておいでになりません。あまり待ちどおだったので左の耳のあたりにつかねた髪にしていたきよらかなくしの太い歯を一本いて一本火ぽんびをとぼして入ってご覧になるとうじがわいてゴロゴロと鳴っており、頭には大きな雷が居、胸には火の雷が居、腹には黒い雷が居、陰にはさかんな雷が居、左の手には若い雷が居、右の手には土の雷が居、左の足には鳴る雷が居、右の足にはねている雷がいて、あわせて十種の雷が出現していました。そこでイザナギの命がおどろいて逃げておかえりになるときにイザナミの命は「わたしにはじをお見せになった」と言って黄泉よみの国の魔女をやってわせました。よってイザナギの命が御髪おぐしにつけていた黒い木のつるの輪を取ってお投げになったのでブドウがえてなりました。それを取って食べている間に逃げておいでになるのをまた追いかけましたから、今度こんどは右の耳の辺りにつかねた髪にしておいでになったきよらかなくしいてお投げになるとタケノコがえました。それをぬいて食べている間にお逃げになりました。のちにはあの女神の身体中からじゅうに生じた雷の神たちにたくさんの黄泉よみの国の魔軍をそえてわしめました。そこで、さげておいでになる長い剣をぬいて後ろの方に振りながら逃げておいでになるのを、なお追って、黄泉比良坂よもつひらさか坂本さかもとまできた時に、その坂本にあった桃のを三つとってお撃ちになったから、みな逃げて行きました。そこでイザナギの命はその桃の実に、「お前がわたしを助けたように、この葦原あしはらの中の国に生活している多くの人間たちが苦しい目にあって苦しむときに助けてくれ」とおおせになってオオカムヅミのみことという名をくださいました。最後には女神めがみイザナミの命がご自身で追っておいでになったので、大きな巌石がんせきをその黄泉比良坂よもつひらさかにふさいでその石を中に置いて両方でむかいあって離別りべつの言葉をかわしたときに、イザナミの命がおおせられるには、「あなたがこんなことをなされるなら、わたしはあなたの国の人間を一日に千人も殺してしまいます」といわれました。そこでイザナギの命は「あんたがそうなされるなら、わたしは一日に千五百も産屋うぶやを立てて見せる」とおおせられました。こういうしだいで一日にかならず千人死に、一日にかならず千五百人生まれるのです。かくしてそのイザナミの命を黄泉津大神よもつおおかみと申します。また、その追いかけたので、道及ちしきの大神とも申すということです。その黄泉の坂にふさがっている巌石がんせきは、ふさいでおいでになる黄泉よみの入口の大神と申します。その黄泉比良坂よもつひらさかというのは、今の出雲いずもの国の伊賦夜ざかという坂です。

    身禊みそぎ

―みそぎの意義を語る。人生の災禍さいかがこれによってはらわれるとする。―

 イザナギのみこと黄泉よみの国からおかえりになって、「わたしはずいぶんいやな、きたない国に行ったことだった。わたしはみそぎをしようと思う」とおおせられて、筑紫つくし日向ひむかたちばな小門おどのアワギはらにおいでになってみそぎをなさいました。その投げすてるつえによってあらわれた神はつフナドの神、投げすてる帯であらわれた神は道のナガチハの神、投げすてる袋であらわれた神はトキハカシの神、投げすてるころもであらわれた神は煩累わずらい大人うしの神、投げすてるはかまであらわれた神はチマタの神、投げすてる冠であらわれた神はアキグイの大人の神、投げすてる左の手につけた腕巻であらわれた神はオキザカルの神とオキツナギサビコの神とオキツカイベラの神、投げすてる右の手につけた腕巻であらわれた神はヘザカルの神とヘツナギサビコの神とヘツカイベラの神とであります。以上、フナドの神からヘツカイベラの神まで十二神は、おからだにつけてあった物を投げすてられたのであらわれた神です。そこで、「上流の方は瀬が速い、下流かりゅうの方は瀬が弱い」とおおせられて、なかの瀬におりて水中に身をお洗いになったときにあらわれた神は、ヤソマガツヒの神とオオマガツヒの神とでした。この二神は、あのきたない国においでになったときの汚垢けがれによってあらわれた神です。つぎにそのわざわいなおそうとしてあらわれた神は、カムナオビの神とオオナオビの神とイヅノメです。つぎに水底でお洗いになったときにあらわれた神はソコツワタツミの神とソコヅツノオの命、海中でお洗いになった時にあらわれた神はナカツワタツミの神とナカヅツノオの命、水面でお洗いになった時にあらわれた神はウワツワタツミの神とウワヅツノオの命です。このうち御三方おさんかたのワタツミの神は安曇氏あずみうじ祖先神そせんじんです。よって安曇のむらじたちは、そのワタツミの神の子、ウツシヒガナサクのみことの子孫です。また、ソコヅツノオの命・ナカヅツノオの命・ウワヅツノオの命御三方おさんかた住吉すみよし神社じんじゃの三座の神さまであります。かくてイザナギの命が左の目をお洗いになったときにご出現しゅつげんになった神はアマテラス大神おおみかみ、右の目をお洗いになった時にご出現になった神は月読つくよみの命、鼻をお洗いになったときにご出現になった神はタケハヤスサノオの命でありました。
 以上、ヤソマガツヒの神からハヤスサノオの命まで十神は、おからだをお洗いになったのであらわれた神さまです。
 イザナギの命はたいへんにおよろこびになって、「わたしはずいぶんたくさんの子をんだが、一ばんしまいに三人の貴い御子みこを得た」とおおせられて、首にかけておいでになった玉のをゆらゆらとらがしてアマテラス大神におさずけになって、「あなたは天をおおさめなさい」とおおせられました。このおくびにかけたたまの名をミクラタナの神と申します。つぎに月読つくよみの命に、「あなたは夜の世界をおおさめなさい」とおおせになり、スサノオの命には、「海上をおおさめなさい」とおおせになりました。それでそれぞれ命ぜられたままにおさめられる中に、スサノオの命だけは命ぜられた国をおおさめなさらないで、長いひげが胸にれさがる年ごろになってもただ泣きわめいておりました。その泣くありさまは青山が枯山になるまで泣きらし、海や河は泣く勢いで泣きほしてしまいました。そういうしだいですから乱暴な神の物音は夏のハエが騒ぐようにいっぱいになり、あらゆる物のわざわいがことごとくおこりました。そこでイザナギの命がスサノオの命におおせられるには、「どういうわけであなたは命ぜられた国をおさめないで泣きわめいているのか?」といわれたので、スサノオの命は、「わたくしは母上のおいでになる黄泉よみの国に行きたいと思うので泣いております」と申されました。そこでイザナギの命がたいへんお怒りになって、「それならあなたはこの国には住んではならない」とおおせられて追いはらってしまいました。このイザナギの命は、淡路の多賀たがやしろにおしずまりになっておいでになります。

   二、アマテラス大神とスサノオの命

    誓約うけい

―暴風の神であり出雲系の英雄でもあるスサノオの命が、高天たかまはらに進出し、その主神であるアマテラス大神との間に、誓約うけいのおこなわれることを語る。誓約うけいの方法は、神秘に書かれているが、これは心をきよめるための行事である。結末においてさまざまの異系統の祖先神が出現するのは、それらの諸民族が同系統であることを語るものである。―

 そこでスサノオのみことがおおせになるには、「それならアマテラス大神おおみかみに申しあげて黄泉よみの国に行きましょう」とおおせられて天におあがりになる時に、山や川がことごとく鳴りさわぎ国土がみな振動しました。それですからアマテラス大神がおどろかれて、「わたしのおとうとが天にのぼってこられるわけは立派な心でくるのではありますまい。わたしの国を奪おうと思っておられるのかもしれない」とおおせられて、髪をおきになり、左右にわけて耳のところに輪におきになり、その左右の髪の輪にも、頭にいただかれるかずらにも、左右の御手にも、みな大きな勾玉まがたまのたくさんついている玉の緒をき持たれて、には矢が千本も入るゆぎわれ、胸にも五百本入りのゆぎをつけ、また威勢のよい音をたてるともをおおびになり、弓をふりたてて力強く大庭をおみつけになり、泡雪あわゆきのように大地を蹴散けちらかして勢いよくさけびの声をおあげになって待ち問われるのには、「どういうわけでのぼってられたか?」とおたずねになりました。そこでスサノオの命の申されるには、「わたくしはきたない心はございません。ただ父上のおおせでわたくしがきわめいていることをおたずねになりましたから、わたくしは母上の国に行きたいと思って泣いておりますと申しましたところ、父上はそれではこの国に住んではならないとおおせられて追いはらいましたので、お暇乞いとまごいにまいりました。変わった心は持っておりません」と申されました。そこでアマテラス大神は、「それならあなたの心の正しいことはどうしたらわかるでしょう?」とおおせになったので、スサノオの命は、誓約ちかいをたてて子を生みましょう」と申されました。よって天のやすの河を中に置いて誓約ちかいをたてる時に、アマテラス大神はまずスサノオの命のはいている長い剣をお取りになって三段にって、音もサラサラと天の真名井まないの水でそそいでみにんで吹きすてる息の霧の中からあらわれた神の名はタギリヒメの命またの名はオキツシマ姫の命でした。つぎにイチキシマヒメの命またの名はサヨリビメの命、つぎにタギツヒメの命のお三方でした。つぎにスサノオの命がアマテラス大神の左の御髪おぐしいておいでになった大きな勾玉まがたまのたくさんついている玉のをおけになって、音もサラサラと天の真名井まないの水にそそいでみにんで吹きすてる息の霧の中からあらわれた神はマサカアカツカチハヤビアメノオシホミミの命、つぎに右の御髪おぐしの輪にかれていた珠をおけになってみにんで吹きすてる息の霧の中からあらわれた神はアメノホヒの命、つぎにかずらいておいでになっていた珠をおけになってみにんで吹きすてる息の霧の中からあらわれた神はアマツヒコネの命、つぎに左の御手におきになっていた珠をおけになってみにんで吹きすてる息の霧の中からあらわれた神はイクツヒコネの命、つぎに右の御手にいておいでになっていた珠をおけになってみにんで吹きすてる息の霧の中からあらわれた神はクマノクスビの命、あわせて五方いつかたの男神がご出現になりました。ここにアマテラス大神はスサノオの命におおせになって、「このあとから生まれた五人の男神は、わたしの身につけた珠によってあらわれた神ですから、自然わたしの子です。先に生まれた三人の姫御子ひめみこはあなたの身につけたものによってあらわれたのですから、やはりあなたの子です」とおおせられました。その先にお生まれになった神のうちタギリヒメの命は、九州のむなかたの沖つ宮においでになります。つぎにイチキシマヒメの命はむなかたの中つ宮においでになります。つぎにタギツヒメの命はむなかたつ宮においでになります。この三人の神は、むなかたの君たちが大切におまつりする神さまであります。そこでこの後でお生まれになった五人の子の中に、アメノホヒの命の子のタケヒラドリの命、これは出雲の国のみやつこ・ムザシの国の造・カミツウナカミの国の造・シモツウナカミの国の造・イジムの国の造・津島のあがたあたえ遠江とおとうみの国の造たちの祖先です。つぎにアマツヒコネの命は、凡川内おおしこうちの国の造・額田ぬかた部の湯座ゆえの連・木の国の造・やまとの田中のあたえ山代やましろの国の造・ウマクタの国の造・道ノシリキベの国の造・スハの国の造・倭のアムチの造・高市たけちの県主・蒲生かもう稲寸いなき三枝部さきくさべの造たちの祖先です。

    天の岩戸いわと

はらえによって暴風の神を放逐ほうちくすることを語る。はじめのスサノオの命の暴行は、暴風の災害である。―

 そこでスサノオの命は、アマテラス大神に申されるには「わたくしの心がきよらかだったので、わたくしのんだ子が女だったのです。これによって言えば、当然わたくしが勝ったのです」といって、勝った勢いにまかせて乱暴をはたらきました。アマテラス大神が田を作っておられたその田のあぜをこわしたりみぞめたりし、また食事をなさる御殿にくそをしらしました。このようなことをなさいましたけれどもアマテラス大神はおとがめにならないで、おおせになるには、くそのようなのは酒に酔ってらすとてこんなになったのでしょう。それから田のあぜをこわし溝をめたのは地面をしまれてこのようになされたのです」といようにとおおせられましたけれども、その乱暴なしわざはみませんでした。アマテラス大神がきよらかな機織場はたおりばにおいでになって神さまの御衣服おめしものらせておいでになる時に、その機織場の屋根に穴をあけて斑駒まだらごまの皮をむいておとし入れたので、機織女はたおりめがおどろいて機織はたおりりに使う板でほとをついて死んでしまいました。そこでアマテラス大神もこれをきらって、あめ岩屋戸いわやとをあけて中におかくれになりました。それですから天がまっくらになり、下の世界もことごとくくらくなりました。永久に夜が続いていったのです。そこで多くの神々の騒ぐ声は夏のハエのようにいっぱいになり、あらゆるわざわいがすべておこりました。
 こういうしだいで多くの神さまたちが天の世界のあめやすの河の河原にお集まりになってタカミムスビの神の子のオモヒガネの神という神に考えさせて、まず海外の国から渡ってきた長鳴鳥ながなきどりを集めて鳴かせました。つぎに天のやすの河の河上にあるかたいいわおを取って来、またあめ金山かなやまの鉄を取って鍛冶屋かじやのアマツマラという人をたずね求め、イシコリドメのみことに命じて鏡を作らしめ、タマノオヤのみことに命じて大きな勾玉まがたまがたくさんついている玉の緒の珠を作らしめ、アメノコヤネの命とフトダマの命とを呼んで天の香山かぐやま男鹿おじかの肩骨をそっくりいてきて、天の香山かぐやまのハハカ〔ウワミズザクラの古名。の木を取ってその鹿しかの肩骨をいてうらなわしめました。つぎに天の香山かぐやましげった賢木さかき根掘ねこぎにこいで、上の枝に大きな勾玉まがたまのたくさんの玉の緒をかけ、中の枝には大きな鏡をかけ、下の枝には麻だのこうぞの皮のさらしたのなどをさげて、フトダマの命がこれをささげ持ち、アメノコヤネの命が荘重そうちょう祝詞のりととなえ、アメノタヂカラオの神が岩戸いわとかげかくれて立っており、アメノウズメのみことが天の香山かぐやま日影蔓ひかげかずら手襁たすきにかけ、真拆まさきかずらかずらとして、天の香山かぐやま小竹ささの葉をたばねて手に持ち、アマテラス大神のおかくれになった岩戸いわとの前におけをふせてふみ鳴らし神懸かみがかりしてひもほとにたらしましたので、天の世界が鳴りひびいて、たくさんの神が、いっしょに笑いました。そこでアマテラス大神はあやしいとお思いになって、天の岩戸いわとを細目にあけて内からおおせになるには、「わたしがかくれているので天の世界は自然にくらく、下の世界もみなくらいでしょうと思うのに、どうしてアメノウズメは舞い遊び、また多くの神は笑っているのですか……?」とおおせられました。そこでアメノウズメの命が、「あなたさまにまさって尊い神さまがおいでになりますので楽しく遊んでおります」と申しました。かように申す間にアメノコヤネの命とフトダマの命とが、かの鏡をさし出してアマテラス大神にお見せ申しあげるときにアマテラス大神はいよいよ不思議にお思いになって、少し戸からお出かけになるところを、かくれて立っておられたタヂカラオの神がその御手を取って引き出し申しあげました。そこでフトダマの命がそのうしろに標縄しめなわを引き渡して、「これから内にはおかえり入りあそばしますな」と申しました。かくてアマテラス大神がお出ましになった時に、天も下の世界も自然とり明るくなりました。ここで神さまたちが相談をしてスサノオのみことにたくさんの品物を出して罪をつぐなわしめ、またひげ手足てあしつめとを切っていはらいました。

   三、スサノオの命

    穀物の種

―穀物などの起原を説く挿入説話である。『日本書紀』では、月の神が保食うけもちの神を殺す形になっている。―

 スサノオの命は、かようにして天の世界からわれて、下界げかいくだっておいでになり、まず食物をオオゲツ姫の神にお求めになりました。そこでオオゲツ姫が鼻や口、またしりからいろいろのごちそうを出して、いろいろお料理をしてさしあげました。この時にスサノオの命はそのしわざをのぞいて見て、きたないことをして食べさせるとお思いになって、そのオオゲツ姫の神を殺してしまいました。殺された神の身体にいろいろの物ができました。頭にカイコができ、二つの目に稲種いねだねができ、二つの耳にアワができ、鼻にアズキができ、またあいだにムギができ、尻にマメができました。カムムスビの命が、これをお取りになって種となさいました。

    八俣やまた大蛇おろち

―スサノオの命は、高天の原系統では暴風の神であり、乱暴な神とされているが、出雲系統では、反対に、功績のある神とされ、農業開発の神とされている。これは次の大国主の神の説話とともに、出雲系統の神話である。―

 かくてスサノオの命はいはらわれて出雲の国のの川上、鳥髪とりかみという所におくだりになりました。このときにはしがその河から流れてきました。それで川上に人が住んでいるとお思いになってたずねてのぼっておいでになりますと、老翁と老女と二人があって少女を中において泣いております。そこで「あなたはだれですか?」とおたずねになったので、その老翁が、「わたくしはこの国の神のオオヤマツミの神の子でアシナヅチといい、妻の名はテナヅチ、娘の名はクシナダ姫といいます」と申しました。また「あなたの泣くわけはどういう次第ですか?」とおたずねになったので「わたくしのむすめはもとは八人ありました。それを高志コシ八俣やまた大蛇おろちが毎年きて食べてしまいます。今また、それの来る時期ですから泣いています」と申しました。「その八俣の大蛇おろちというのはどういう形をしているのですか?」とおたずねになったところ、「その目は丹波たんばホオズキのようにまっで、身体一つに頭が八つ、尾が八つあります。またその身体からだにはこけだのひのき・杉のたぐいが生え、その長さはたにみねつをわたって、その腹を見ればいつも血がれてただれております」と申しました。そこでスサノオの命がその老翁に「これがあなたのむすめさんならば、わたしにくれませんか?」とおおせになったところ、「おそれ多いことですけれども、あなたはどなたさまですか?」と申しましたから、「わたしはアマテラス大神の弟です。今、天からくだってきたところです」とお答えになりました。それでアシナヅチ・テナヅチの神が「そうでしたら、おそれ多いことです。むすめをさしあげましょう」と申しました。よってスサノオの命はその嬢子おとめくしの形に変えて御髪おぐしにおしになり、そのアシナヅチ・テナヅチの神におおせられるには、「あなたたち、ごく濃い酒をかもし、また垣を作り回して八つの入口を作り、入口ごとに八つの物を置く台を作り、その台ごとに酒のおけをおいて、その濃い酒をいっぱい入れて待っていらっしゃい」とおおせになりました。そこで、おおせられたままにかように設けて待っているときに、かの八俣の大蛇おろちがほんとうに言ったとおりに来ました。そこで酒槽さかおけごとにそれぞれ首を乗り入れて酒を飲みました。そうしてっぱらってとどまりして寝てしまいました。そこでスサノオの命がおはきになっていた長い剣をぬいてその大蛇おろちをおらしになったので、肥の河が血になって流れました。その大蛇おろちの中の尾をおきになるときに剣の刃がすこしけました。これはあやしいとお思いになって剣の先でいてご覧になりましたら、するどい大刀たちがありました。この大刀たちをお取りになって不思議のものだとお思いになってアマテラス大神に献上なさいました。これが草薙くさなぎつるぎでございます。
 かくしてスサノオの命は、宮をつくるべきところを出雲の国でお求めになりました。そうして須賀すがところにおいでになっておおせられるには、「わたしはここに来て心もちが清々すがすがしい」とおおせになって、そこに宮殿をおつくりになりました。それでそこをば今でも須賀というのです。この神が、はじめ須賀すがの宮をおつくりになった時に、そこから雲が立ちのぼりました。よって歌をおみになりましたが、その歌は、

雲のむらが出雲いずもの国の宮殿。
妻と住むために宮殿をつくるのだ。
その宮殿よ。

というのです。そこでかのアシナヅチ・テナヅチの神をおびになって、「あなたはわたしの宮の長となれ」とおおせになり、名をイナダの宮主みやぬしスガノヤツミミの神とおつけになりました。

    系譜

―スサノオの命の系譜を説き、大国主の神に結びつけている。このうち、オオトシの神とウカノミタマとは穀物の神で、「大国主の神」に出る系譜に連絡する。―

 そこで、そのクシナダ姫と婚姻こんいんしてお生みになった神さまは、ヤシマジヌミの神です。またオオヤマツミの神のむすめのカムオオチ姫と結婚をして生んだ子は、オオトシの神、つぎにウカノミタマです。兄のヤシマジヌミの神はオオヤマツミの神のむすめ花散はなちる姫と結婚して生んだ子は、フワノモジクヌスヌの神です。この神がオカミの神のむすめのヒカワ姫と結婚して生んだ子がフカブチノミヅヤレハナの神です。この神がアメノツドヘチネの神と結婚して生んだ子がオミヅヌの神です。この神がフノヅノの神のむすめのフテミミの神と結婚して生んだ子がアメノフユギヌの神です。この神がサシクニオオの神のむすめのサシクニワカ姫と結婚して生んだ子が大国主おおくにぬしの神です。この大国主の神はまたの名をオオアナムチの神ともアシハラシコオの神ともヤチホコの神ともウツシクニダマの神とも申します。あわせてお名前が五つありました。(つづく)


底本:「古事記」角川文庫、角川書店
   1956(昭和31)年5月20日初版発行
   1965(昭和40)年9月20日20版発行
底本の親本:「眞福寺本」
※頁数を引用している箇所には標題を注記しました。
※底本は新かなづかいです。なお拗音・促音は小書きではありません。
※表題は底本では、「[#割り注]現代語譯[#割り注終わり] 古事記」となっています。
入力:川山隆
校正:しだひろし
xxxx年xx月xx日公開
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現代語譯 古事記(一)

稗田の阿禮、太の安萬侶
武田祐吉訳

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)安萬侶《やすまろ》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)三|方《かた》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]
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[#1字下げ]古事記 上の卷 序文がついています[#「古事記 上の卷 序文がついています」は大見出し]

[#2字下げ]序文[#「序文」は中見出し]

[#5字下げ]過去の時代(序文の第一段)[#「過去の時代(序文の第一段)」は小見出し]
[#ここから6字下げ]
[#ここから37字詰め]
――古事記の成立の前提として、本文に記されている過去のことについて、まずわれわれが、傳えごとによつて過去のことを知ることを述べ、續いて歴代の天皇がこれによつて徳教を正したことを述べる。太の安萬侶によつて代表される古人が、古事記の内容をどのように考えていたかがあきらかにされる。古事記成立の思想的根據である。――
[#ここで字詰め終わり]
[#ここで字下げ終わり]
 わたくし安萬侶《やすまろ》が申しあげます。
 宇宙のはじめに當つては、すべてのはじめの物がまずできましたが、その氣性はまだ十分でございませんでしたので、名まえもなく動きもなく、誰もその形を知るものはございません。それからして天と地とがはじめて別になつて、アメノミナカヌシの神、タカミムスビの神、カムムスビの神が、すべてを作り出す最初の神となり、そこで男女の兩性がはつきりして、イザナギの神、イザナミの神が、萬物を生み出す親となりました。そこでイザナギの命は、地下の世界を訪れ、またこの國に歸つて、禊《みそぎ》をして日の神と月の神とが目を洗う時に現われ、海水に浮き沈みして身を洗う時に、さまざまの神が出ました。それ故に最古の時代は、くらくはるかのあちらですけれども、前々からの教によつて國土を生み成した時のことを知り、先の世の物しり人によつて神を生み人間を成り立たせた世のことがわかります。
 ほんとにそうです。神々が賢木《さかき》の枝に玉をかけ、スサノヲの命が玉を噛んで吐いたことがあつてから、代々の天皇が續き、天照らす大神が劒をお噛みになり、スサノヲの命が大蛇を斬つたことがあつてから、多くの神々が繁殖しました。神々が天のヤスの川の川原で會議をなされて、天下を平定し、タケミカヅチノヲの命が、出雲の國のイザサの小濱で大國主の神に領土を讓るようにと談判されてから國内をしずかにされました。これによつてニニギの命が、はじめてタカチホの峯にお下りになり、神武天皇がヤマトの國におでましになりました。この天皇のおでましに當つては、ばけものの熊が川から飛び出し、天からはタカクラジによつて劒をお授けになり、尾のある人が路をさえぎつたり、大きなカラスが吉野へ御案内したりしました。人々が共に舞い、合圖の歌を聞いて敵を討ちました。そこで崇神天皇は、夢で御承知になつて神樣を御崇敬になつたので、賢明な天皇と申しあげますし、仁徳天皇は、民の家の煙の少いのを見て人民を愛撫されましたので、今でも道に達した天皇と申しあげます。成務天皇は近江の高穴穗の宮で、國や郡の境を定め、地方を開發され、允恭天皇は、大和の飛鳥の宮で、氏々の系統をお正しになりました。それぞれ保守的であると進歩的であるとの相違があり、華やかなのと質素なのとの違いはありますけれども、いつの時代にあつても、古いことをしらべて、現代を指導し、これによつて衰えた道徳を正し、絶えようとする徳教を補強しないということはありませんでした。

[#5字下げ]古事記の企畫(序文の第二段)[#「古事記の企畫(序文の第二段)」は小見出し]
[#ここから6字下げ]
[#ここから37字詰め]
――前半は天武天皇の御事蹟と徳行について述べる。後半、古來の傳えごとに關心をもたれ、これをもつて國家經營の基本であるとなし、これを正して稗田の阿禮をして誦み習わしめられたが、まだ書物とするに至らなかつたことを記す。――
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 飛鳥《あすか》の清原《きよみはら》の大宮において天下をお治めになつた天武天皇の御世に至つては、まず皇太子として帝位に昇るべき徳をお示しになりました。しかしながら時がまだ熟しませんでしたので吉野山に入つて衣服を變えてお隱れになり、人と事と共に得て伊勢の國において堂々たる行動をなさいました。お乘物が急におでましになつて山や川をおし渡り、軍隊は雷のように威を振い部隊は電光のように進みました。武器が威勢を現わして強い將士がたくさん立ちあがり、赤い旗のもとに武器を光らせて敵兵は瓦のように破れました。まだ十二日にならないうちに、惡氣が自然にしずまりました。そこで軍に使つた牛馬を休ませ、なごやかな心になつて大和の國に歸り、旗を卷き武器を納めて、歌い舞つて都におとどまりになりました。そうして酉の年の二月に、清原の大宮において、天皇の位におつきになりました。その道徳は黄帝以上であり、周の文王よりもまさつていました。神器を手にして天下を統一し、正しい系統を得て四方八方を併合されました。陰と陽との二つの氣性の正しいのに乘じ、木火土金水の五つの性質の順序を整理し、貴い道理を用意して世間の人々を指導し、すぐれた道徳を施して國家を大きくされました。そればかりではなく、知識の海はひろびろとして古代の事を深くお探りになり、心の鏡はぴかぴかとして前の時代の事をあきらかに御覽になりました。
 ここにおいて天武天皇の仰せられましたことは「わたしが聞いていることは、諸家で持ち傳えている帝紀と本辭とが、既に眞實と違い多くの僞りを加えているということだ。今の時代においてその間違いを正さなかつたら、幾年もたたないうちに、その本旨が無くなるだろう。これは國家組織の要素であり、天皇の指導の基本である。そこで帝紀を記し定め、本辭をしらべて後世に傳えようと思う」と仰せられました。その時に稗田の阿禮という奉仕の人がありました。年は二十八でしたが、人がらが賢く、目で見たものは口で讀み傳え、耳で聞いたものはよく記憶しました。そこで阿禮に仰せ下されて、帝紀と本辭とを讀み習わしめられました。しかしながら時勢が移り世が變わつて、まだ記し定めることをなさいませんでした。

[#5字下げ]古事記の成立(序文の第三段)[#「古事記の成立(序文の第三段)」は小見出し]
[#ここから6字下げ]
[#ここから37字詰め]
――はじめに元明天皇の徳をたたえ、その命令によつて稗田の阿禮の誦み習つたものを記したことを述べる。特に文章を書くにあたつての苦心が述べられている。そうして記事の範圍、およびこれを三卷に分けたことを述べて終る。――
[#ここで字詰め終わり]
[#ここで字下げ終わり]
 謹んで思いまするに、今上天皇陛下(元明天皇)は、帝位におつきになつて堂々とましまし、天地人の萬物に通じて人民を正しくお育てになります。皇居にいまして道徳をみちびくことは、陸地水上のはてにも及んでいます。太陽は中天に昇つて光を増し、雲は散つて晴れわたります。二つの枝が一つになり、一本の莖から二本の穗が出るようなめでたいしるしは、書記が書く手を休めません。國境を越えて知らない國から奉ります物は、お倉にからになる月がありません。お名まえは夏の禹王《うおう》よりも高く聞え御徳は殷《いん》の湯王《とうおう》よりもまさつているというべきであります。そこで本辭の違つているのを惜しみ、帝紀の誤つているのを正そうとして、和銅四年九月十八日を以つて、わたくし安萬侶に仰せられまして、稗田の阿禮が讀むところの天武天皇の仰せの本辭を記し定めて獻上せよと仰せられましたので、謹んで仰せの主旨に從つて、こまかに採録いたしました。
 しかしながら古代にありましては、言葉も内容も共に素朴でありまして、文章に作り、句を組織しようと致しましても、文字に書き現わすことが困難であります。文字を訓で讀むように書けば、その言葉が思いつきませんでしようし、そうかと言つて字音で讀むように書けばたいへん長くなります。そこで今、一句の中に音讀訓讀の文字を交えて使い、時によつては一つの事を記すのに全く訓讀の文字ばかりで書きもしました。言葉やわけのわかりにくいのは註を加えてはつきりさせ、意味のとり易いのは別に註を加えません。またクサカという姓に日下と書き、タラシという名まえに帶の字を使うなど、こういう類は、もとのままにして改めません。大體書きました事は、天地のはじめから推古天皇の御代まででございます。そこでアメノミナカヌシの神からヒコナギサウガヤフキアヘズの命までを上卷とし、神武天皇から應神天皇までを中卷とし、仁徳天皇から推古天皇までを下卷としまして、合わせて三卷を記して、謹んで獻上いたします。わたくし安萬侶、謹みかしこまつて申しあげます。
[#2字下げ]和銅五年正月二十八日
[#地から2字上げ]正五位の上勳五等 太の朝臣安萬侶

[#3字下げ]一、イザナギの命とイザナミの命[#「一、イザナギの命とイザナミの命」は中見出し]

[#5字下げ]天地のはじめ[#「天地のはじめ」は小見出し]
[#ここから6字下げ]
[#ここから37字詰め]
――世界のはじめにまず神々の出現したことを説く。これらの神名には、それぞれ意味があつて、その順次に出現することによつて世界ができてゆくことを述べる。特に最初の三神は、抽象的概念の表現として重視される。日本の神話のうちもつとも思想的な部分である。――
[#ここで字詰め終わり]
[#ここで字下げ終わり]
 昔、この世界の一番始めの時に、天で御出現になつた神樣は、お名をアメノミナカヌシの神といいました。次の神樣はタカミムスビの神、次の神樣はカムムスビの神、この御《お》三|方《かた》は皆お獨で御出現になつて、やがて形をお隱しなさいました。次に國ができたてで水に浮いた脂のようであり、水母《くらげ》のようにふわふわ漂つている時に、泥の中から葦《あし》が芽《め》を出して來るような勢いの物によつて御出現になつた神樣は、ウマシアシカビヒコヂの神といい、次にアメノトコタチの神といいました。この方々《かたがた》も皆お獨で御出現になつて形をお隱しになりました。
 以上の五神は、特別の天の神樣です。
 それから次々に現われ出た神樣は、クニノトコタチの神、トヨクモノの神、ウヒヂニの神、スヒヂニの女神、ツノグヒの神、イクグヒの女神、オホトノヂの神、オホトノベの女神、オモダルの神、アヤカシコネの女神、それからイザナギの神とイザナミの女神とでした。このクニノトコタチの神からイザナミの神までを神代七代と申します。そのうち始めの御二方《おふたかた》はお獨立《ひとりだ》ちであり、ウヒヂニの神から以下は御二方で一代でありました。

[#5字下げ]島々の生成[#「島々の生成」は小見出し]
[#ここから6字下げ]
[#ここから37字詰め]
――神が生み出す形で國土の起原を語る。――
[#ここで字詰め終わり]
[#ここで字下げ終わり]
 そこで天の神樣方の仰せで、イザナギの命《みこと》・イザナミの命《みこと》御二方《おふたかた》に、「この漂つている國を整えてしつかりと作り固めよ」とて、りつぱな矛《ほこ》をお授けになつて仰せつけられました。それでこの御二方《おふたかた》の神樣は天からの階段にお立ちになつて、その矛《ほこ》をさしおろして下の世界をかき※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]され、海水を音を立ててかき※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]して引きあげられた時に、矛の先から滴《したゝ》る海水が、積つて島となりました。これがオノゴロ島です。その島にお降《くだ》りになつて、大きな柱を立て、大きな御殿《ごてん》をお建《た》てになりました。
 そこでイザナギの命が、イザナミの女神に「あなたのからだは、どんなふうにできていますか」と、お尋ねになりましたので、「わたくしのからだは、できあがつて、でききらない所が一か所あります」とお答えになりました。そこでイザナギの命の仰せられるには「わたしのからだは、できあがつて、でき過ぎた所が一か所ある。だからわたしのでき過ぎた所をあなたのでききらない所にさして國を生み出そうと思うがどうだろう」と仰せられたので、イザナミの命が「それがいいでしよう」とお答えになりました。そこでイザナギの命が「そんならわたしとあなたが、この太い柱を※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]りあつて、結婚をしよう」と仰せられてこのように約束して仰せられるには「あなたは右からお※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]りなさい。わたしは左から※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]つてあいましよう」と約束してお※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]りになる時に、イザナミの命が先に「ほんとうにりつぱな青年ですね」といわれ、その後《あと》でイザナギの命が「ほんとうに美《うつく》しいお孃《じよう》さんですね」といわれました。それぞれ言い終つてから、その女神に「女が先に言つたのはよくない」とおつしやいましたが、しかし結婚をして、これによつて御子《みこ》水蛭子《ひるこ》をお生《う》みになりました。この子はアシの船に乘せて流してしまいました。次に淡島《あわしま》をお生みになりました。これも御子《みこ》の數にははいりません。
 かくて御二方で御相談になつて、「今わたしたちの生《う》んだ子《こ》がよくない。これは天の神樣のところへ行つて申しあげよう」と仰せられて、御一緒《ごいつしよ》に天に上《のぼ》つて天の神樣の仰せをお受けになりました。そこで天の神樣の御命令で鹿の肩の骨をやく占《うらな》い方《かた》で占いをして仰せられるには、「それは女の方《ほう》が先《さき》に物を言つたので良くなかつたのです。歸り降《くだ》つて改めて言い直したがよい」と仰せられました。そういうわけで、また降つておいでになつて、またあの柱を前のようにお※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]りになりました。今度はイザナギの命《みこと》がまず「ほんとうに美《うつく》しいお孃さんですね」とおつしやつて、後にイザナミの命が「ほんとうにりつぱな青年ですね」と仰せられました。かように言い終つて結婚をなさつて御子の淡路《あわじ》のホノサワケの島をお生みになりました。次に伊豫《いよ》の二名《ふたな》の島(四國)をお生《う》みになりました。この島は身《み》一つに顏《かお》が四つあります。その顏ごとに名があります。伊豫《いよ》の國をエ姫《ひめ》といい、讚岐《さぬき》の國をイヒヨリ彦《ひこ》といい、阿波《あわ》の國をオホケツ姫といい、土佐《とさ》の國をタケヨリワケといいます。次に隱岐《おき》の三子《みつご》の島をお生みなさいました。この島はまたの名をアメノオシコロワケといいます。次に筑紫《つくし》の島(九州)をお生《う》みになりました。やはり身《み》一つに顏が四つあります。顏ごとに名がついております。それで筑紫《つくし》の國をシラヒワケといい、豐《とよ》の國をトヨヒワケといい、肥《ひ》の國をタケヒムカヒトヨクジヒネワケといい、熊曾《くまそ》の國をタケヒワケといいます。次に壹岐《いき》の島をお生みになりました。この島はまたの名を天一《あめひと》つ柱《はしら》といいます。次に對馬《つしま》をお生みになりました。またの名をアメノサデヨリ姫といいます。次に佐渡《さど》の島をお生みになりました。次に大倭豐秋津島《おおやまととよあきつしま》(本州)をお生みになりました。またの名をアマツミソラトヨアキツネワケといいます。この八つの島がまず生まれたので大八島國《おおやしまぐに》というのです。それからお還《かえ》りになつた時に吉備《きび》の兒島《こじま》をお生みになりました。またの名《な》をタケヒガタワケといいます。次に小豆島《あずきじま》をお生みになりました。またの名をオホノデ姫《ひめ》といいます。次に大島をお生《う》みになりました。またの名をオホタマルワケといいます。次に女島《ひめじま》をお生みになりました。またの名を天《あめ》一つ根といいます。次にチカの島をお生みになりました。またの名をアメノオシヲといいます。次に兩兒《ふたご》の島をお生みになりました。またの名をアメフタヤといいます。吉備の兒島からフタヤの島まで合わせて六島です。

[#5字下げ]神々の生成[#「神々の生成」は小見出し]
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――前と同じ形で萬物の起原を語る。火の神を生んでから水の神などの出現する部分は鎭火祭の思想による。――
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 このように國々を生み終つて、更《さら》に神々をお生みになりました。そのお生み遊ばされた神樣の御《おん》名はまずオホコトオシヲの神、次にイハツチ彦の神、次にイハス姫の神、次にオホトヒワケの神、次にアメノフキヲの神、次にオホヤ彦の神、次にカザモツワケノオシヲの神をお生みになりました。次に海の神のオホワタツミの神をお生みになり、次に水戸の神のハヤアキツ彦の神とハヤアキツ姫の神とをお生みになりました。オホコトオシヲの神からアキツ姫の神まで合わせて十神です。このハヤアキツ彦とハヤアキツ姫の御二方が河と海とでそれぞれに分けてお生みになつた神の名は、アワナギの神・アワナミの神・ツラナギの神・ツラナミの神・アメノミクマリの神・クニノミクマリの神・アメノクヒザモチの神・クニノクヒザモチの神であります。アワナギの神からクニノクヒザモチの神まで合わせて八神です。次に風の神のシナツ彦の神、木の神のククノチの神、山の神のオホヤマツミの神、野の神のカヤノ姫の神、またの名をノヅチの神という神をお生みになりました。シナツ彦の神からノヅチまで合わせて四神です。このオホヤマツミの神とノヅチの神とが山と野とに分けてお生みになつた神の名は、アメノサヅチの神・クニノサヅチの神・アメノサギリの神・クニノサギリの神・アメノクラドの神・クニノクラドの神・オホトマドヒコの神・オホトマドヒメの神であります。アメノサヅチの神からオホトマドヒメの神まで合わせて八神です。
 次にお生みになつた神の名はトリノイハクスブネの神、この神はまたの名を天《あめ》の鳥船《とりふね》といいます。次にオホゲツ姫の神をお生みになり、次にホノヤギハヤヲの神、またの名をホノカガ彦の神、またの名をホノカグツチの神といいます。この子《こ》をお生みになつたためにイザナミの命は御陰《みほと》が燒かれて御病氣になりました。その嘔吐《へど》でできた神の名はカナヤマ彦の神とカナヤマ姫の神、屎《くそ》でできた神の名はハニヤス彦の神とハニヤス姫の神、小便でできた神の名はミツハノメの神とワクムスビの神です。この神の子はトヨウケ姫の神といいます。かような次第でイザナミの命は火の神をお生みになつたために遂《つい》にお隱《かく》れになりました。天の鳥船からトヨウケ姫の神まで合わせて八神です。
 すべてイザナギ・イザナミのお二方の神が、共にお生みになつた島の數は十四、神は三十五神であります。これはイザナミの神がまだお隱れになりませんでした前にお生みになりました。ただオノゴロ島はお生みになつたのではありません。また水蛭子《ひるこ》と淡島とは子の中に入れません。

[#5字下げ]黄泉《よみ》の國[#「黄泉の國」は小見出し]
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――地下にくらい世界があつて、魔物がいると考えられている。これは異郷説話の一つである。火の神を斬る部分は鎭火祭の思想により、黄泉の國から逃げてくる部分は、道饗祭の思想による。黄泉の部分は、主として出雲系統の傳來である。――
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 そこでイザナギの命の仰せられるには、「わたしの最愛の妻を一人の子に代えたのは殘念だ」と仰せられて、イザナミの命の枕の方や足の方に這《は》い臥《ふ》してお泣《な》きになつた時に、涙で出現した神は香具山の麓の小高い處の木の下においでになる泣澤女《なきさわめ》の神です。このお隱れになつたイザナミの命は出雲《いずも》の國と伯耆《ほうき》の國との境にある比婆《ひば》の山にお葬り申し上げました。
 ここにイザナギの命は、お佩《は》きになつていた長い劒を拔いて御子《みこ》のカグツチの神の頸《くび》をお斬りになりました。その劒の先についた血が清らかな巖《いわお》に走りついて出現した神の名は、イハサクの神、次にネサクの神、次にイハヅツノヲの神であります。次にその劒のもとの方についた血も、巖に走りついて出現した神の名は、ミカハヤビの神、次にヒハヤビの神、次にタケミカヅチノヲの神、またの名をタケフツの神、またの名をトヨフツの神という神です。次に劒の柄に集まる血が手のまたからこぼれ出して出現した神の名はクラオカミの神、次にクラミツハの神であります。以上イハサクの神からクラミツハの神まで合わせて八神は、御劒によつて出現した神です。
 殺されなさいましたカグツチの神の、頭に出現した神の名はマサカヤマツミの神、胸に出現した神の名はオトヤマツミの神、腹に出現した神の名はオクヤマツミの神、御陰《みほと》に出現した神の名はクラヤマツミの神、左の手に出現した神の名はシギヤマツミの神、右の手に出現した神の名はハヤマツミの神、左の足に出現した神の名はハラヤマツミの神、右の足に出現した神の名はトヤマツミの神であります。マサカヤマツミの神からトヤマツミの神まで合わせて八神です。そこでお斬りになつた劒の名はアメノヲハバリといい、またの名はイツノヲハバリともいいます。
 イザナギの命はお隱れになつた女神《めがみ》にもう一度會いたいと思われて、後《あと》を追つて黄泉《よみ》の國に行かれました。そこで女神が御殿の組んである戸から出てお出迎えになつた時に、イザナギの命《みこと》は、「最愛のわたしの妻よ、あなたと共に作つた國はまだ作り終らないから還つていらつしやい」と仰せられました。しかるにイザナミの命《みこと》がお答えになるには、「それは殘念なことを致しました。早くいらつしやらないのでわたくしは黄泉《よみ》の國の食物を食《た》べてしまいました。しかしあなた樣《さま》がわざわざおいで下さつたのですから、何《なん》とかして還りたいと思います。黄泉《よみ》の國の神樣に相談をして參りましよう。その間わたくしを御覽になつてはいけません」とお答えになつて、御殿《ごてん》のうちにお入りになりましたが、なかなか出ておいでになりません。あまり待ち遠だつたので左の耳のあたりにつかねた髮に插《さ》していた清らかな櫛の太い齒を一本|闕《か》いて一|本火《ぽんび》を燭《とぼ》して入つて御覽になると蛆《うじ》が湧《わ》いてごろごろと鳴つており、頭には大きな雷が居、胸には火の雷が居、腹には黒い雷が居、陰にはさかんな雷が居、左の手には若い雷が居、右の手には土の雷が居、左の足には鳴る雷が居、右の足にはねている雷が居て、合わせて十種の雷が出現していました。そこでイザナギの命が驚いて逃げてお還りになる時にイザナミの命は「わたしに辱《はじ》をお見せになつた」と言つて黄泉《よみ》の國の魔女を遣《や》つて追《お》わせました。よつてイザナギの命が御髮につけていた黒い木の蔓《つる》の輪を取つてお投げになつたので野葡萄《のぶどう》が生《は》えてなりました。それを取つてたべている間に逃げておいでになるのをまた追いかけましたから、今度は右の耳の邊につかねた髮に插しておいでになつた清らかな櫛の齒《は》を闕《か》いてお投げになると筍《たけのこ》が生《は》えました。それを拔いてたべている間にお逃げになりました。後《のち》にはあの女神の身體中《からだじゆう》に生じた雷の神たちに澤山の黄泉《よみ》の國の魔軍を副えて追《お》わしめました。そこでさげておいでになる長い劒を拔いて後の方に振りながら逃げておいでになるのを、なお追つて、黄泉比良坂《よもつひらさか》の坂本《さかもと》まで來た時に、その坂本にあつた桃の實《み》を三つとつてお撃ちになつたから皆逃げて行きました。そこでイザナギの命はその桃の實に、「お前がわたしを助けたように、この葦原《あしはら》の中の國に生活している多くの人間たちが苦しい目にあつて苦しむ時に助けてくれ」と仰せになつてオホカムヅミの命という名を下さいました。最後には女神《めがみ》イザナミの命が御自身で追つておいでになつたので、大きな巖石をその黄泉比良坂《よもつひらさか》に塞《ふさ》いでその石を中に置いて兩方で對《むか》い合つて離別《りべつ》の言葉を交《かわ》した時に、イザナミの命が仰せられるには、「あなたがこんなことをなされるなら、わたしはあなたの國の人間を一日に千人も殺してしまいます」といわれました。そこでイザナギの命は「あんたがそうなされるなら、わたしは一日に千五百も産屋《うぶや》を立てて見せる」と仰せられました。こういう次第で一日にかならず千人死に、一日にかならず千五百人生まれるのです。かくしてそのイザナミの命を黄泉津大神《よもつおおかみ》と申します。またその追いかけたので、道及《ちし》きの大神とも申すということです。その黄泉の坂に塞《ふさ》がつている巖石は塞いでおいでになる黄泉《よみ》の入口の大神と申します。その黄泉比良坂《よもつひらさか》というのは、今の出雲《いずも》の國のイブヤ坂《ざか》という坂です。

[#5字下げ]身禊《みそぎ》[#「身禊」は小見出し]
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――みそぎの意義を語る。人生の災禍がこれによつて拂われるとする。――
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 イザナギの命は黄泉《よみ》の國からお還りになつて、「わたしは隨分|厭《いや》な穢《きたな》い國に行つたことだつた。わたしは禊《みそぎ》をしようと思う」と仰せられて、筑紫《つくし》の日向《ひむか》の橘《たちばな》の小門《おど》のアハギ原《はら》においでになつて禊《みそぎ》をなさいました。その投げ棄てる杖によつてあらわれた神は衝《つ》き立《た》つフナドの神、投げ棄てる帶であらわれた神は道のナガチハの神、投げ棄てる袋であらわれた神はトキハカシの神、投げ棄てる衣《ころも》であらわれた神は煩累《わずらい》の大人《うし》の神、投げ棄てる褌《はかま》であらわれた神はチマタの神、投げ棄てる冠であらわれた神はアキグヒの大人の神、投げ棄てる左の手につけた腕卷であらわれた神はオキザカルの神とオキツナギサビコの神とオキツカヒベラの神、投げ棄てる右の手につけた腕卷であらわれた神はヘザカルの神とヘツナギサビコの神とヘツカヒベラの神とであります。以上フナドの神からヘツカヒベラの神まで十二神は、おからだにつけてあつた物を投げ棄てられたのであらわれた神です。そこで、「上流の方は瀬が速い、下流《かりゆう》の方は瀬が弱い」と仰せられて、眞中の瀬に下りて水中に身をお洗いになつた時にあらわれた神は、ヤソマガツヒの神とオホマガツヒの神とでした。この二神は、あの穢い國においでになつた時の汚垢《けがれ》によつてあらわれた神です。次にその禍《わざわい》を直《なお》そうとしてあらわれた神は、カムナホビの神とオホナホビの神とイヅノメです。次に水底でお洗いになつた時にあらわれた神はソコツワタツミの神とソコヅツノヲの命、海中でお洗いになつた時にあらわれた神はナカツワタツミの神とナカヅツノヲの命、水面でお洗いになつた時にあらわれた神はウハツワタツミの神とウハヅツノヲの命です。このうち御三方《おさんかた》のワタツミの神は安曇氏《あずみうじ》の祖先神《そせんじん》です。よつて安曇の連《むらじ》たちは、そのワタツミの神の子、ウツシヒガナサクの命の子孫です。また、ソコヅツノヲの命・ナカヅツノヲの命・ウハヅツノヲの命|御三方《おさんかた》は住吉神社《すみよしじんじや》の三座の神樣であります。かくてイザナギの命が左の目をお洗いになつた時に御出現《ごしゆつげん》になつた神は天照《あまて》らす大神《おおみかみ》、右の目をお洗いになつた時に御出現になつた神は月讀《つくよみ》の命、鼻をお洗いになつた時に御出現になつた神はタケハヤスサノヲの命でありました。
 以上ヤソマガツヒの神からハヤスサノヲの命まで十神は、おからだをお洗いになつたのであらわれた神樣です。
 イザナギの命はたいへんにお喜びになつて、「わたしは隨分《ずいぶん》澤山《たくさん》の子《こ》を生《う》んだが、一|番《ばん》しまいに三人の貴い御子《みこ》を得た」と仰せられて、頸《くび》に掛けておいでになつた玉の緒《お》をゆらゆらと搖《ゆら》がして天照《あまて》らす大神にお授けになつて、「あなたは天をお治めなさい」と仰せられました。この御頸《おくび》に掛《か》けた珠《たま》の名をミクラタナの神と申します。次に月讀《つくよみ》の命に、「あなたは夜の世界をお治めなさい」と仰せになり、スサノヲの命には、「海上をお治めなさい」と仰せになりました。それでそれぞれ命ぜられたままに治められる中に、スサノヲの命だけは命ぜられた國をお治めなさらないで、長い鬚《ひげ》が胸に垂れさがる年頃になつてもただ泣きわめいておりました。その泣く有樣は青山が枯山になるまで泣き枯らし、海や河は泣く勢いで泣きほしてしまいました。そういう次第ですから亂暴な神の物音は夏の蠅が騷ぐようにいつぱいになり、あらゆる物の妖《わざわい》が悉く起りました。そこでイザナギの命がスサノヲの命に仰せられるには、「どういうわけであなたは命ぜられた國を治めないで泣きわめいているのか」といわれたので、スサノヲの命は、「わたくしは母上のおいでになる黄泉《よみ》の國に行きたいと思うので泣いております」と申されました。そこでイザナギの命が大變お怒りになつて、「それならあなたはこの國には住んではならない」と仰せられて追いはらつてしまいました。このイザナギの命は、淡路の多賀《たが》の社《やしろ》にお鎭《しず》まりになつておいでになります。

[#3字下げ]二、天照らす大神とスサノヲの命[#「二、天照らす大神とスサノヲの命」は中見出し]

[#5字下げ]誓約《うけい》[#「誓約」は小見出し]
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――暴風の神であり出雲系の英雄でもあるスサノヲの命が、高天の原に進出し、その主神である天照らす大神との間に、誓約の行われることを語る。誓約の方法は、神祕に書かれているが、これは心を清めるための行事である。結末においてさまざまの異系統の祖先神が出現するのは、それらの諸民族が同系統であることを語るものである。――
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 そこでスサノヲの命が仰せになるには、「それなら天照らす大神《おおみかみ》に申しあげて黄泉《よみ》の國に行きましよう」と仰せられて天にお上りになる時に、山や川が悉く鳴り騷ぎ國土が皆振動しました。それですから天照らす大神が驚かれて、「わたしの弟《おとうと》が天に上つて來られるわけは立派な心で來るのではありますまい。わたしの國を奪おうと思つておられるのかも知れない」と仰せられて、髮をお解きになり、左右に分けて耳のところに輪にお纏《ま》きになり、その左右の髮の輪にも、頭に戴かれる鬘《かずら》にも、左右の御手にも、皆大きな勾玉《まがたま》の澤山ついている玉の緒を纏《ま》き持たれて、背《せ》には矢が千本も入る靱《ゆぎ》を負われ、胸にも五百本入りの靱をつけ、また威勢のよい音を立てる鞆《とも》をお帶びになり、弓を振り立てて力強く大庭をお踏みつけになり、泡雪《あわゆき》のように大地を蹴散らかして勢いよく叫びの聲をお擧げになつて待ち問われるのには、「どういうわけで上《のぼ》つて來《こ》られたか」とお尋ねになりました。そこでスサノヲの命の申されるには、「わたくしは穢《きたな》い心はございません。ただ父上の仰せでわたくしが哭きわめいていることをお尋ねになりましたから、わたくしは母上の國に行きたいと思つて泣いておりますと申しましたところ、父上はそれではこの國に住んではならないと仰せられて追い拂いましたのでお暇乞いに參りました。變つた心は持つておりません」と申されました。そこで天照らす大神は、「それならあなたの心の正しいことはどうしたらわかるでしよう」と仰せになつたので、スサノヲの命は、「誓約《ちかい》を立てて子を生みましよう」と申されました。よつて天のヤスの河を中に置いて誓約《ちかい》を立てる時に、天照らす大神はまずスサノヲの命の佩《は》いている長い劒をお取りになつて三段に打《う》ち折つて、音もさらさらと天の眞名井《まない》の水で滌《そそ》いで囓《か》みに囓《か》んで吹き棄てる息の霧の中からあらわれた神の名はタギリヒメの命またの名はオキツシマ姫の命でした。次にイチキシマヒメの命またの名はサヨリビメの命、次にタギツヒメの命のお三方でした。次にスサノヲの命が天照らす大神の左の御髮に纏《ま》いておいでになつた大きな勾玉《まがたま》の澤山ついている玉の緒《お》をお請《う》けになつて、音もさらさらと天の眞名井の水に滌《そそ》いで囓《か》みに囓《か》んで吹き棄てる息の霧の中からあらわれた神はマサカアカツカチハヤビアメノオシホミミの命、次に右の御髮の輪に纏《ま》かれていた珠をお請けになつて囓みに囓んで吹き棄てる息の霧の中からあらわれた神はアメノホヒの命、次に鬘《かずら》に纏いておいでになつていた珠をお請けになつて囓みに囓んで吹き棄てる息の霧の中からあらわれた神はアマツヒコネの命、次に左の御手にお纏きになつていた珠をお請けになつて囓みに囓んで吹き棄てる息の霧の中からあらわれた神はイクツヒコネの命、次に右の御手に纏いておいでになつていた珠をお請けになつて囓みに囓んで吹き棄てる息の霧の中からあらわれた神はクマノクスビの命、合わせて五方《いつかた》の男神が御出現になりました。ここに天照らす大神はスサノヲの命に仰せになつて、「この後《あと》から生まれた五人の男神はわたしの身につけた珠によつてあらわれた神ですから自然わたしの子です。先に生まれた三人の姫御子《ひめみこ》はあなたの身につけたものによつてあらわれたのですから、やはりあなたの子です」と仰せられました。その先にお生まれになつた神のうちタギリヒメの命は、九州の※[#「匈/(胃−田)」、213-14]形《むなかた》の沖つ宮においでになります。次にイチキシマヒメの命は※[#「匈/(胃−田)」、213-15]形の中つ宮においでになります。次にタギツヒメの命は※[#「匈/(胃−田)」、213-16]形の邊《へ》つ宮においでになります。この三人の神は、※[#「匈/(胃−田)」、213-16]形の君たちが大切にお祭りする神樣であります。そこでこの後でお生まれになつた五人の子の中に、アメノホヒの命の子のタケヒラドリの命、これは出雲の國の造《みやつこ》・ムザシの國の造・カミツウナカミの國の造・シモツウナカミの國の造・イジムの國の造・津島の縣《あがた》の直《あたえ》・遠江《とおとおみ》の國の造たちの祖先です。次にアマツヒコネの命は、凡川内《おおしこうち》の國の造・額田《ぬかた》部の湯坐《ゆえ》の連・木の國の造・倭《やまと》の田中の直《あたえ》・山代《やましろ》の國の造・ウマクタの國の造・道ノシリキベの國の造・スハの國の造・倭のアムチの造・高市《たけち》の縣主・蒲生《かもう》の稻寸《いなき》・三枝部《さきくさべ》の造たちの祖先です。

[#5字下げ]天の岩戸[#「天の岩戸」は小見出し]
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――祓《はらえ》によつて暴風の神を放逐することを語る。はじめのスサノヲの命の暴行は、暴風の災害である。――
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[#ここで字下げ終わり]
 そこでスサノヲの命は、天照らす大神に申されるには「わたくしの心が清らかだつたので、わたくしの生《う》んだ子が女だつたのです。これに依《よ》つて言えば當然わたくしが勝つたのです」といつて、勝つた勢いに任せて亂暴を働きました。天照らす大神が田を作つておられたその田の畔《あぜ》を毀《こわ》したり溝《みぞ》を埋《う》めたりし、また食事をなさる御殿に屎《くそ》をし散らしました。このようなことをなさいましたけれども天照らす大神はお咎《とが》めにならないで、仰せになるには、「屎《くそ》のようなのは酒に醉つて吐《は》き散《ち》らすとてこんなになつたのでしよう。それから田の畔を毀し溝を埋めたのは地面を惜しまれてこのようになされたのです」と善いようにと仰せられましたけれども、その亂暴なしわざは止《や》みませんでした。天照らす大神が清らかな機織場《はたおりば》においでになつて神樣の御衣服《おめしもの》を織らせておいでになる時に、その機織場の屋根に穴をあけて斑駒《まだらごま》の皮をむいて墮《おと》し入れたので、機織女《はたおりめ》が驚いて機織りに使う板で陰《ほと》をついて死んでしまいました。そこで天照らす大神もこれを嫌つて、天《あめ》の岩屋戸《いわやと》をあけて中にお隱れになりました。それですから天がまつくらになり、下の世界もことごとく闇《くら》くなりました。永久に夜が續いて行つたのです。そこで多くの神々の騷ぐ聲は夏の蠅のようにいつぱいになり、あらゆる妖《わざわい》がすべて起りました。
 こういう次第で多くの神樣たちが天の世界の天《あめ》のヤスの河の河原にお集まりになつてタカミムスビの神の子のオモヒガネの神という神に考えさせてまず海外の國から渡つて來た長鳴鳥《ながなきどり》を集めて鳴かせました。次に天のヤスの河の河上にある堅い巖《いわお》を取つて來、また天の金山《かなやま》の鐵を取つて鍛冶屋《かじや》のアマツマラという人を尋ね求め、イシコリドメの命に命じて鏡を作らしめ、タマノオヤの命に命じて大きな勾玉《まがたま》が澤山ついている玉の緒の珠を作らしめ、アメノコヤネの命とフトダマの命とを呼んで天のカグ山の男鹿《おじか》の肩骨をそつくり拔いて來て、天のカグ山のハハカの木を取つてその鹿《しか》の肩骨を燒《や》いて占《うらな》わしめました。次に天のカグ山の茂《しげ》つた賢木《さかき》を根掘《ねこ》ぎにこいで、上《うえ》の枝に大きな勾玉《まがたま》の澤山の玉の緒を懸け、中の枝には大きな鏡を懸け、下の枝には麻だの楮《こうぞ》の皮の晒《さら》したのなどをさげて、フトダマの命がこれをささげ持ち、アメノコヤネの命が莊重《そうちよう》な祝詞《のりと》を唱《とな》え、アメノタヂカラヲの神が岩戸《いわと》の陰《かげ》に隱れて立つており、アメノウズメの命が天のカグ山の日影蔓《ひかげかずら》を手襁《たすき》に懸《か》け、眞拆《まさき》の蔓《かずら》を鬘《かずら》として、天のカグ山の小竹《ささ》の葉を束《たば》ねて手に持ち、天照らす大神のお隱れになつた岩戸の前に桶《おけ》を覆《ふ》せて踏み鳴らし神懸《かみがか》りして裳の紐を陰《ほと》に垂らしましたので、天の世界が鳴りひびいて、たくさんの神が、いつしよに笑いました。そこで天照らす大神は怪しいとお思いになつて、天の岩戸を細目にあけて内から仰せになるには、「わたしが隱れているので天の世界は自然に闇く、下の世界も皆《みな》闇《くら》いでしようと思うのに、どうしてアメノウズメは舞い遊び、また多くの神は笑つているのですか」と仰せられました。そこでアメノウズメの命が、「あなた樣に勝《まさ》つて尊い神樣がおいでになりますので樂しく遊んでおります」と申しました。かように申す間にアメノコヤネの命とフトダマの命とが、かの鏡をさし出して天照らす大神にお見せ申し上げる時に天照らす大神はいよいよ不思議にお思いになつて、少し戸からお出かけになる所を、隱れて立つておられたタヂカラヲの神がその御手を取つて引き出し申し上げました。そこでフトダマの命がそのうしろに標繩《しめなわ》を引き渡して、「これから内にはお還り入り遊ばしますな」と申しました。かくて天照らす大神がお出ましになつた時に、天も下の世界も自然と照り明るくなりました。ここで神樣たちが相談をしてスサノヲの命に澤山の品物を出して罪を償《つぐな》わしめ、また鬚《ひげ》と手足《てあし》の爪とを切つて逐いはらいました。

[#3字下げ]三、スサノヲの命[#「三、スサノヲの命」は中見出し]

[#5字下げ]穀物の種[#「穀物の種」は小見出し]
[#ここから6字下げ]
[#ここから37字詰め]
――穀物などの起原を説く插入説話である。日本書紀では、月の神が保食《うけもち》の神を殺す形になつている。――
[#ここで字詰め終わり]
[#ここで字下げ終わり]
 スサノヲの命は、かようにして天の世界から逐《お》われて、下界《げかい》へ下《くだ》つておいでになり、まず食物をオホゲツ姫の神にお求めになりました。そこでオホゲツ姫が鼻や口また尻《しり》から色々の御馳走を出して色々お料理をしてさし上げました。この時にスサノヲの命はそのしわざをのぞいて見て穢《きたな》いことをして食べさせるとお思いになつて、そのオホゲツ姫の神を殺してしまいました。殺された神の身體に色々の物ができました。頭《あたま》に蠶《かいこ》ができ、二つの目に稻種《いねだね》ができ、二つの耳にアワができ、鼻にアズキができ、股《また》の間《あいだ》にムギができ、尻にマメが出來ました。カムムスビの命が、これをお取りになつて種となさいました。

[#5字下げ]八俣《やまた》の大蛇《おろち》[#「八俣の大蛇」は小見出し]
[#ここから6字下げ]
[#ここから37字詰め]
――スサノヲの命は、高天の原系統では暴風の神であり、亂暴な神とされているが、出雲系統では、反對に、功績のある神とされ、農業開發の神とされている。これは次の大國主の神の説話と共に、出雲系統の神話である。――
[#ここで字詰め終わり]
[#ここで字下げ終わり]
 かくてスサノヲの命は逐い拂われて出雲の國の肥《ひ》の河上、トリカミという所にお下りになりました。この時に箸《はし》がその河から流れて來ました。それで河上に人が住んでいるとお思いになつて尋ねて上《のぼ》つておいでになりますと、老翁と老女と二人があつて少女を中において泣いております。そこで「あなたは誰《だれ》ですか」とお尋ねになつたので、その老翁が、「わたくしはこの國の神のオホヤマツミの神の子でアシナヅチといい、妻の名はテナヅチ、娘の名はクシナダ姫といいます」と申しました。また「あなたの泣くわけはどういう次第ですか」とお尋ねになつたので「わたくしの女《むすめ》はもとは八人ありました。それをコシの八俣《やまた》の大蛇が毎年來て食《た》べてしまいます。今またそれの來る時期ですから泣いています」と申しました。「その八俣の大蛇というのはどういう形をしているのですか」とお尋ねになつたところ、「その目《め》は丹波酸漿《たんばほおずき》のように眞赤《まつか》で、身體一つに頭が八つ、尾が八つあります。またその身體《からだ》には蘿《こけ》だの檜《ひのき》・杉の類が生え、その長さは谷《たに》八《や》つ峰《みね》八《や》つをわたつて、その腹を見ればいつも血《ち》が垂れて爛《ただ》れております」と申しました。そこでスサノヲの命がその老翁に「これがあなたの女《むすめ》さんならばわたしにくれませんか」と仰せになつたところ、「恐れ多いことですけれども、あなたはどなた樣ですか」と申しましたから、「わたしは天照らす大神の弟です。今天から下つて來た所です」とお答えになりました。それでアシナヅチ・テナヅチの神が「そうでしたら恐れ多いことです。女《むすめ》をさし上げましよう」と申しました。依つてスサノヲの命はその孃子《おとめ》を櫛《くし》の形《かたち》に變えて御髮《おぐし》にお刺《さ》しになり、そのアシナヅチ・テナヅチの神に仰せられるには、「あなたたち、ごく濃い酒を釀《かも》し、また垣を作り※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]して八つの入口を作り、入口毎に八つの物を置く臺を作り、その臺毎に酒の槽《おけ》をおいて、その濃い酒をいつぱい入れて待つていらつしやい」と仰せになりました。そこで仰せられたままにかように設けて待つている時に、かの八俣の大蛇がほんとうに言つた通りに來ました。そこで酒槽《さかおけ》毎にそれぞれ首を乘り入れて酒を飮みました。そうして醉つぱらつてとどまり臥して寢てしまいました。そこでスサノヲの命がお佩きになつていた長い劒を拔いてその大蛇をお斬り散らしになつたので、肥の河が血になつて流れました。その大蛇の中の尾をお割きになる時に劒の刃がすこし毀《か》けました。これは怪しいとお思いになつて劒の先で割いて御覽になりましたら、鋭い大刀がありました。この大刀をお取りになつて不思議のものだとお思いになつて天照らす大神に獻上なさいました。これが草薙の劒でございます。
 かくしてスサノヲの命は、宮を造るべき處を出雲の國でお求めになりました。そうしてスガの處《ところ》においでになつて仰せられるには、「わたしは此處《ここ》に來て心もちが清々《すがすが》しい」と仰せになつて、其處《そこ》に宮殿をお造りになりました。それで其處をば今でもスガというのです。この神が、はじめスガの宮をお造りになつた時に、其處から雲が立ちのぼりました。依つて歌をお詠みになりましたが、その歌は、

[#ここから3字下げ]
雲の叢《むらが》り起《た》つ出雲《いずも》の國の宮殿。
妻と住むために宮殿をつくるのだ。
その宮殿よ。
[#ここで字下げ終わり]

というのです。そこでかのアシナヅチ・テナヅチの神をお呼《よ》びになつて、「あなたはわたしの宮の長となれ」と仰せになり、名をイナダの宮主《みやぬし》スガノヤツミミの神とおつけになりました。

[#5字下げ]系譜[#「系譜」は小見出し]
[#ここから6字下げ]
[#ここから37字詰め]
――スサノヲの命の系譜を説き、大國主の神に結びつけている。このうち、オホトシの神とウカノミタマとは穀物の神で、二三〇頁[#「二三〇頁」は「大國主の神」]に出る系譜に連絡する。――
[#ここで字詰め終わり]
[#ここで字下げ終わり]
 そこでそのクシナダ姫と婚姻してお生みになつた神樣は、ヤシマジヌミの神です。またオホヤマツミの神の女のカムオホチ姫と結婚をして生んだ子は、オホトシの神、次にウカノミタマです。兄のヤシマジヌミの神はオホヤマツミの神の女の木《こ》の花散《はなち》る姫と結婚して生んだ子は、フハノモヂクヌスヌの神です。この神がオカミの神の女のヒカハ姫と結婚して生んだ子がフカブチノミヅヤレハナの神です。この神がアメノツドヘチネの神と結婚して生んだ子がオミヅヌの神です。この神がフノヅノの神の女のフテミミの神と結婚して生んだ子がアメノフユギヌの神です。この神がサシクニオホの神の女のサシクニワカ姫と結婚して生んだ子が大國主《おおくにぬし》の神です。この大國主の神はまたの名をオホアナムチの神ともアシハラシコヲの神ともヤチホコの神ともウツシクニダマの神とも申します。合わせてお名前が五つありました。
(つづく)



底本:「古事記」角川文庫、角川書店
   1956(昭和31)年5月20日初版発行
   1965(昭和40)年9月20日20版発行
底本の親本:「眞福寺本」
※頁数を引用している箇所には標題を注記しました。
※底本は新かなづかいです。なお拗音・促音は小書きではありません。
※表題は底本では、「[#割り注]現代語譯[#割り注終わり] 古事記」となっています。
入力:川山隆
校正:しだひろし
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*地名


天のヤスの川 → 天の安の河
天の安の河 あまの やすのかわ 日本神話で天上にあったという河。神々の会合した所とする。
オノゴロ島 f馭慮島。日本神話で、伊弉諾・伊弉冉二尊が天の浮橋に立って、天瓊矛で滄海を探って引き上げた時、矛先からしたたり落ちる潮の凝って成った島。転じて、日本の国を指す。
大八洲国・大八島国 おおやしまぐに 「おおやしま」に同じ。
大八洲・大八島 おおやしま (多くの島から成る意)日本国の古称。おおやしまぐに。
黄泉比良坂 よもつひらさか 安来市の隣、東出雲町と比定されている。
坂本 さかもと

高天の原 たかまのはら 日本神話で、天つ神がいたという天上の国。天照大神が支配。「根の国」や「葦原の中つ国」に対していう。たかまがはら。
天の岩屋戸 あまのいわやと 天の岩戸。天の岩屋の戸。日本神話で天照大神が素戔嗚尊の暴状を怒り天の岩屋に籠もったため、天地が常闇となった。群神が相談して種々の物を飾り、天児屋根命が祝詞を奏し天鈿女命が舞ったところ、大神が出てきて、世が再び明るくなった。北半球で冬至に太陽の力が弱まり復活する型の神話。
天の金山 あめのかなやま
天のカグ山 あまのかぐやま 天香山・天香具山。(1) 高天原にあったという山。(2) かぐやま。
香具山・香久山 かぐやま 奈良県橿原市の南東部にある山。標高152メートル。耳成山・畝傍山と共に大和三山と称する。樹木が繁茂して美しい。麓に埴安池の跡がある。天の香具山。(歌枕)

[出雲国] いずものくに 旧国名。今の島根県の東部。雲州。
イザサの小浜 おはま 伊耶佐の小浜。五十狭狭小汀(いささのおはま)か。
イブヤ坂 伊賦夜坂。黄泉比良坂。
肥の川 ひのかわ → 斐伊川
斐伊川 ひいかわ 鳥取・島根県境の船通山中に発源し、宍道湖西端に注ぐ川。下流部は天井川。八岐大蛇伝説で知られる。長さ75キロメートル。簸川。
鳥髪 とりかみ 鳥上。肥の川上流。現、船通山。島根県横田町と鳥取県日野郡日南町との県境にまたがる山で標高1142.5m。古代から出雲・伯耆の国境をなす。横田町を西流する斐伊川上流に位置する。『出雲国風土記』仁多郡には鳥上山とある。(地名)
スガ 須賀。現、島根県大原郡大東町須賀。赤川の支流須賀川中流域に位置する。諏訪村。(地名)

ヤマトの国 → 大和国
[大和国]
吉野 よしの 奈良県南部の地名。吉野川流域の総称。大和国の一郡で、平安初期から修験道の根拠地。古来、桜の名所で南朝の史跡が多い。
飛鳥の宮
飛鳥 あすか 明日香。奈良盆地南部の一地方。畝傍山および香具山付近以南の飛鳥川流域の小盆地。推古天皇以後百余年間にわたって断続的に宮殿が造営された。
清原の大宮 きよみはらの おおみや → 飛鳥浄御原宮か
飛鳥浄御原宮 あすかの きよみはらのみや 天武・持統天皇の皇居。672年天武天皇が造営して都とし、694年持統天皇は藤原宮に遷る。
吉野山 よしのやま 奈良県中部、大峰山脈の北側の一支脈の称。南朝の所在地で史跡に富み、古来桜の名所、修験道の根本道場の地。
香具山・香久山 かぐやま 奈良県橿原市の南東部にある山。標高152メートル。耳成山・畝傍山と共に大和三山と称する。樹木が繁茂して美しい。麓に埴安池の跡がある。天の香具山。(歌枕)

[近江]
高穴穂の宮 たかあなほのみや → 志賀高穴穂宮
志賀高穴穂宮 しがの たかあなほのみや 景行天皇・成務天皇・仲哀天皇の皇居。遺称地は大津市坂本穴太町付近。

[伊勢国]

[淡路] あわじ 旧国名。今の兵庫県淡路島。淡州。
淡路のホノサワケの島 淡道之穂之狭別島 → 淡路島
淡路島 あわじしま 瀬戸内海東部にある同海最大の島。本州とは明石海峡・友ヶ島水道(紀淡海峡)で、四国とは鳴門海峡で隔てられる。1985年鳴門海峡に橋が完成。兵庫県に属する。面積592平方キロメートル。

[伊予] いよ 旧国名。今の愛媛県。伊余。伊与。予州。
伊予の二名の島 いよのふたなのしま 伊予之二名島。四国。
[愛媛] えひめ 四国地方の北西部の県。伊予国全域。県庁所在地は松山市。面積5674平方キロメートル。人口146万8千。全11市。

伊予の国 いよのくに エ姫。
讃岐の国 さぬきのくに イイヨリ彦。
阿波の国 あわのくに オオケツ姫。
土佐の国 とさのくに タケヨリワケ。

[隠岐] おき 中国地方の島。旧国名。山陰道の一国。今、島根県に属する。隠州。
隠岐島 おきのしま 島根県に属し、本州の北約50キロメートル沖にある島。最大島の島後と島群である島前とから成る。後鳥羽上皇・後醍醐天皇の流された地。大山隠岐国立公園に属する。隠岐諸島。
隠岐の三子の島 おきのみつごのしま
アメノオシコロワケ 天之忍許呂別。隠岐三子島の別名。

筑紫の島 つくしのしま 九州。
筑紫の国 つくしのくに シラヒワケ。
[筑紫] つくし 九州の古称。また、筑前(ちくぜん)・筑後を指す。

[日向] ひむか/ひゅうが (古くはヒムカ)旧国名。今の宮崎県。
橘の小門 たちばなのおど 日向国にあるという小さい瀬戸。
アハギ原 阿波岐原(あわきはら)。宮崎市阿波岐原町にあった地といわれるが不明。
タカチホの峰 高千穂峰。宮崎県南部、鹿児島県境に近くそびえる火山。霧島火山群に属する。天孫降臨の伝説の地。標高1574メートル。頂上に「天の逆鉾」がある。

豊の国 とよのくに トヨヒワケ。豊日別。
肥の国 ひのくに 火の国。タケヒムカヒトヨクジヒネワケ。肥前・肥後のこと。特に肥後(熊本県)を指すことが多い。
熊曽の国 くまそのくに タケヒワケ。
熊襲 くまそ 記紀伝説に見える九州南部の地名、またそこに居住した種族。肥後の球磨と大隅の贈於か。日本武尊(やまとたけるのみこと)の征討伝説で著名。

壱岐の島 いきのしま 天一つ柱。九州と朝鮮との間に対馬とともに飛石状をなす島。もと壱岐国。
対馬 つしま アメノサデヨリ姫。旧国名。九州と朝鮮半島との間にある島。主島は上島・下島。今は長崎県の一部。
佐渡の島 さどのしま 旧国名。北陸地方北辺、日本海最大の島。新潟県に属する。面積857平方キロメートル。佐州。
大倭豊秋津島 おおやまととよあきつしま 本州。アマツミソラトヨアキツネワケ。

[吉備] きび 山陽地方の古代国名。大化改新後、備前・備中・備後・美作に分かつ。
児島 こじま タケヒガタワケ。岡山県児島半島南部の地区。古くから海上交通の要地で、水軍の拠点。瀬戸内海国立公園の一部で鷲羽山がある。倉敷市に属し、学生服・ジーンズなどの縫製加工業が盛ん。瀬戸大橋の起点。

小豆島 あずきじま/しょうどしま オオノデ姫。香川県小豆郡に属する瀬戸内海東部の島。面積約153平方キロメートル。星ヶ城山を中心に景勝多く、中でも寒霞渓は有名。主要産物は醤油・オリーブ油・素麺。瀬戸内海国立公園の一部。
大島 オオタマルワケ。大多麻流別。
女島 ひめじま 天一つ根。大分県の姫島(東国東郡姫島村)。
チカの島 知訶の島。アメノオシオ。値嘉島。長崎県の五島列島の古称。
両児島 ふたごのしま 天両屋。アメフタヤ。五島列島の男女群島の男島・女島とされている。

[伯耆の国] ほうきのくに 旧国名。今の鳥取県の西部。伯州。
比婆の山 ひばのやま 日本神話においてイザナミが葬られたと記される地。

[淡路]
多賀社 たがのやしろ 淡路市多賀か。

九州
形 むなかた のちの筑前宗像。
宗像 むなかた 福岡県北部の市。福岡市と北九州市とのほぼ中間に位置する衛星都市。人口9万4千。

コシ 越・高志。越の国(こしのくに)。北陸道の古称。高志国。こしのみち。越。越路。


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)、『日本歴史地名大系』(平凡社)。




*年表


七一一(和銅四)九月一八日 元明天皇、安万侶に稗田阿礼が読むところの『本辞』を記し定めて献上せよと命じる。
七一二(和銅五)一月二八日 安万侶、『古事記』序を記す。


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)。



*人物一覧

(人名、および組織・団体名・神名)

稗田阿礼 ひえだの あれ 天武天皇の舎人。記憶力がすぐれていたため、天皇から帝紀・旧辞の誦習を命ぜられ、太安万侶がこれを筆録して「古事記」3巻が成った。
太安万侶 おおの やすまろ ?-723 奈良時代の官人。民部卿。勅により、稗田阿礼の誦習した帝紀・旧辞を筆録して「古事記」3巻を撰進。1979年、奈良市の東郊から遺骨が墓誌銘と共に出土。
武田祐吉 たけだ ゆうきち 1886-1958 国文学者。東京都出身。小田原中学の教員を辞し、佐佐木信綱のもとで「校本万葉集」の編纂に参加。1926(昭和元)、国学院大学教授。「万葉集」を中心に上代文学の研究を進め、「万葉集全註釈」(1948-51)に結実させた。著書「上代国文学の研究」「古事記研究―帝紀攷」。「武田祐吉著作集」全8巻。(日本史)

アメノミナカヌシの神 天之御中主神・天御中主神 古事記で、造化の三神の一柱。天地開闢のはじめ、高天原に最初に出現、天の中央に座して宇宙を主宰したという神。中国の思想による天帝の観念から作られたという。
タカミムスビの神 高皇産霊神・高御産巣日神・高御産日神・高御魂神 
古事記で、天地開闢の時、高天原に出現したという神。天御中主神・神皇産霊神と共に造化三神の一神。天孫降臨の神勅を下す。鎮魂神として神祇官八神の一神。たかみむすびのかみ。別名、高木神。
カムムスビの神 神産巣日神・神皇産霊神 記紀神話で天地開闢の際、天御中主神・高皇産霊神と共に高天原に出現したと伝える神。造化三神の一神。女神ともいう。かむみむすひのかみ。
イザナギの神 伊弉諾尊・伊邪那岐命 (古くはイザナキノミコト)日本神話で、天つ神の命を受け伊弉冉尊と共にわが国土や神を生み、山海・草木をつかさどった男神。天照大神・素戔嗚尊の父神。
イザナミの神 伊弉冉尊・伊邪那美命 日本神話で、伊弉諾尊の配偶女神。火の神を生んだために死に、夫神と別れて黄泉国に住むようになる。
スサノオの命 素戔嗚尊・須佐之男命 日本神話で、伊弉諾尊の子。天照大神の弟。凶暴で、天の岩屋戸の事件を起こした結果、高天原から追放され、出雲国で八岐大蛇を斬って天叢雲剣を得、天照大神に献じた。また新羅に渡って、船材の樹木を持ち帰り、植林の道を教えたという。
天照らす大神 あまてらす おおみかみ 天照大神・天照大御神。伊弉諾尊の女。高天原の主神。皇室の祖神。大日�t貴とも号す。日の神と仰がれ、伊勢の皇大神宮(内宮)に祀り、皇室崇敬の中心とされた。
タケミカヅチノオの命 武甕槌命・建御雷命。日本神話で、天尾羽張命の子。経津主命と共に天照大神の命を受けて出雲国に下り、大国主命を説いて国土を奉還させた。鹿島神宮はこの神を祀る。
大国主の神 → 大国主命
大国主命 おおくにぬしの みこと 日本神話で、出雲国の主神。素戔嗚尊の子とも6世の孫ともいう。少彦名神と協力して天下を経営し、禁厭・医薬などの道を教え、国土を天孫瓊瓊杵尊に譲って杵築の地に隠退。今、出雲大社に祀る。大黒天と習合して民間信仰に浸透。大己貴神・国魂神・葦原醜男・八千矛神などの別名が伝えられるが、これらの名の地方神を古事記が「大国主神」として統合したもの。
オオアナムチの神 大己貴神。
アシハラシコオの神 葦原醜男。
ヤチホコの神 八千矛神。
ウツシクニダマの神 宇都志国玉神。

ニニギの命 ににぎのみこと 瓊瓊杵尊・邇邇芸命。日本神話で天照大神の孫。天忍穂耳尊の子。天照大神の命によってこの国土を統治するために、高天原から日向国の高千穂峰に降り、大山祇神の女、木花之開耶姫を娶り、火闌降命・火明尊・彦火火出見尊を生んだ。天津彦彦火瓊瓊杵尊。
神武天皇 じんむ てんのう 記紀伝承上の天皇。名は神日本磐余彦。伝承では、高天原から降臨した瓊瓊杵尊の曾孫。彦波瀲武��草葺不合尊の第4子で、母は玉依姫。日向国の高千穂宮を出、瀬戸内海を経て紀伊国に上陸、長髄彦らを平定して、辛酉の年(前660年)大和国畝傍の橿原宮で即位したという。日本書紀の紀年に従って、明治以降この年を紀元元年とした。畝傍山東北陵はその陵墓とする。
タカクラジ 高倉下。日本神話に登場する人物。夢で見た神託により、神武天皇に霊剣布都御魂をもたらした。
崇神天皇 すじん てんのう 記紀伝承上の天皇。開化天皇の第2皇子。名は御間城入彦五十瓊殖。
仁徳天皇 にんとく てんのう 記紀に記された5世紀前半の天皇。応神天皇の第4皇子。名は大鷦鷯。難波に都した最初の天皇。租税を3年間免除したなどの聖帝伝承がある。倭の五王のうちの「讃」または「珍」とする説がある。
成務天皇 せいむ てんのう 記紀伝承上の天皇。景行天皇の第4皇子。名は稚足彦。
允恭天皇 いんぎょう てんのう 記紀に記された5世紀中頃の天皇。仁徳天皇の第4皇子。名は雄朝津間稚子宿祢。盟神探湯で姓氏の混乱を正したという。倭の五王のうち「済」に比定される。

天武天皇 てんむ てんのう ?-686 7世紀後半の天皇。名は天渟中原瀛真人、また大海人。舒明天皇の第3皇子。671年出家して吉野に隠棲、天智天皇の没後、壬申の乱(672年)に勝利し、翌年、飛鳥の浄御原宮に即位する。新たに八色姓を制定、位階を改定、律令を制定、また国史の編修に着手。(在位673〜686)
黄帝 こうてい 中国古代伝説上の帝王。三皇五帝の一人。姓は姫、号は軒轅氏。炎帝の子孫を破り、蚩尤を倒して天下を統一、養蚕・舟車・文字・音律・医学・算数などを制定したという。陝西省の黄帝陵に祭られ、漢民族の始祖として尊ばれる。
文王 ぶんおう (ブンノウとも)周王朝の基礎をつくった王。姓は姫。名は昌。武王の父。殷に仕えて西伯と称。勢い盛んとなり紂王に捕らえられたが、許されて都を豊邑に遷した。その人物・政治は儒家の模範とされる。生没年未詳。

元明天皇 げんめい てんのう 661-721 奈良前期の女帝。天智天皇の第4皇女。草壁皇子の妃。文武・元正天皇の母。名は阿閉。都を大和国の平城(奈良)に遷し、太安万侶らに古事記を撰ばせ、諸国に風土記を奉らせた。(在位707〜715)
禹 う 中国古代伝説上の聖王。夏の始祖。鯀の子で、舜の時、治水に功をおさめ、天下を九州に分けて、貢賦を定めた。舜の禅譲を受けて位につき、安邑(山西省)に都し、国を夏と号し、禹の死後、世襲王朝となったという。大禹。夏禹。夏伯。
湯王 とうおう 殷(商)王朝を創始した王。殷の祖契より14世目。夏の桀王を討ち滅ぼす。亳(河南偃師とする説が有力)に都し、伊尹などを用いた。商湯。成湯。武湯。大乙。
推古天皇 すいこ てんのう 554-628 記紀に記された6世紀末・7世紀初の天皇。最初の女帝。欽明天皇の第3皇女。母は堅塩媛(蘇我稲目の娘)。名は豊御食炊屋姫。また、額田部皇女。敏達天皇の皇后。崇峻天皇暗殺の後を受けて大和国の豊浦宮で即位。後に同国の小墾田宮に遷る。聖徳太子を摂政とし、冠位十二階の制定、十七条憲法の発布などを行う。(在位592〜628)
ヒコナギサウガヤフキアヘズの命 彦波瀲武��草葺不合尊 ひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと 
 → うがやふきあえずのみこと
��草葺不合尊 うがやふきあえずのみこと 記紀神話で、彦火火出見尊の子。母は豊玉姫。五瀬命・神日本磐余彦尊(神武天皇)の父。

ウマシアシカビヒコジの神 可美葦牙彦舅神。記紀神話で、国土がまだ出来あがらず天地混沌の時、アシカビ(葦の芽の意)のように生まれたとされる神。
アメノトコタチの神 天常立神。古事記で、天地開闢の時、現れたという神。

クニノトコタチの神 国常立尊。日本書紀の冒頭に記されている、天地開闢とともに最初に現れた神。国底立尊。
トヨクモノの神 豊雲野神・豊斟渟神。天地開闢の時、国常立神に次いで高天原に出現したという神。天神七代の一つ。
ウイジニの神 宇比邇神。男神。
スイジニの女神 須比智邇神。女神。
ツノグイの神 角杙神。男神。
イクグイの女神 活杙神。女神。
オオトノジの神 意富斗能地神。男神。
オオトノベの女神 大斗乃弁神。女神。
オモダルの神 淤母陀琉神。男神。
アヤカシコネの女神 阿夜訶志古泥神。女神。

水蛭子 ひるこ 蛭子。日本神話で、伊弉諾・伊弉冉二神の間に最初に生まれた子。3歳になっても脚が立たず、流し捨てられたと伝える。中世以後、これを恵比須として尊崇。ひるのこ。
淡島 あわしま 日本神話で伊弉諾尊・伊弉冉尊が生んだという島。
イイヨリ彦 飯依彦。讃岐国の擬人名。
オオケツ姫 大宜津比売。(「け」は食物)食物をつかさどる女神。古事記で、鼻・口・尻から種々の食物を取り出して奉り、穢らわしいとして素戔嗚尊に殺されたが、死体から五穀が化生した。日本書紀では保食神。
タケヨリワケ 建依別。土佐国の美称。現、高知県。
オオタマルワケ 大多麻流別。大島の別名。
エ姫 えひめ 愛比売。伊予国の別名。
アメノサデヨリ姫 天の狭手依比売。対馬の別名。

オオコトオシオの神 大事忍男神。

[家宅六神]
イワツチ彦の神 石土毘古神。
イワス姫の神 石巣比売神。
オオトヒワケの神 大戸日別神。
アメノフキオの神 天之吹男神。
オオヤ彦の神 大屋毘古神。
カザモツワケノオシオの神 風木津別之忍男神。

オオワタツミの神 海神・綿津見。海の神。
ハヤアキツ彦の神 速秋津比古。神水戸の神。
ハヤアキツ姫 速秋津比売神。
アワナギの神 沫那藝神。
アワナミの神 沫那美神。
ツラナギの神 頬那藝神。
ツラナミの神 頬那美神。
アメノミクマリの神 天之水分神。
クニノミクマリの神 国之水分神。
アメノクヒザモチの神 天之久比奢母智神。
クニノクヒザモチの神 国之久比奢母智神。

シナツ彦の神 級長津彦神。風をつかさどる神。竜田神・竜田風神と同神ともいう。級長戸辺神。
ククノチの神 久久能智神。日本神話で、木の神。木の守護神。
オオヤマツミの神 大山祇神。山をつかさどる神。伊弉諾尊の子。
カヤノ姫の神 鹿屋野比売神。野の神。またの名をノヅチの神(野椎神)。

アメノサヅチの神 天之狭土神。
クニノサヅチの神 国之狭土神。
アメノサギリの神 天之狭霧神。
クニノサギリの神 国之狭霧神。
アメノクラドの神 天之闇戸神。
クニノクラドの神 国之闇戸神。
オオトマドイコの神 大戸惑子神。
オオトマドイメの神 大戸惑女神。

トリノイワクスブネの神 鳥之石楠船神。またの名を天の鳥船。
鳥磐樟船 とりのいわくすぶね 鳥のように速く、岩のように堅固なクスノキで作った船。あまのいわくすぶね。
天の鳥船 あまの とりふね 日本神話にみえる、速力のはやい船。また、それを神として呼んだ称。
オオゲツ姫の神 大宜津比売。(「け」は食物)食物をつかさどる女神。古事記で、鼻・口・尻から種々の食物を取り出して奉り、穢らわしいとして素戔嗚尊に殺されたが、死体から五穀が化生した。日本書紀では保食神。
ホノヤギハヤオの神 火之夜藝速男神。またの名をホノカガ彦の神(火之?毘古神)、ホノカグツチの神(火之迦具土神)。
迦具土神 かぐつちのかみ 記紀神話で、伊弉諾・伊弉冉二尊の子。火をつかさどる神。誕生の際、母を焼死させたため、父に切り殺される。火産霊神。

カナヤマ彦の神 金山毘古神。鉱山の神。金山姫を配する。
カナヤマ姫 金山毘売神。
ハニヤス彦の神 波邇夜須毘古神。土の神。
ハニヤス姫の神 波邇夜須毘売。
ミツハノメの神 弥都波能売神。罔象女。罔象に同じ。水をつかさどる神。
ワクムスビの神 和久産巣日神。穀物・養蚕の神。
トヨウケ姫の神 豊宇気毘売・豊受姫。豊受大神。伊弉諾尊の孫、和久産巣日神の子。食物をつかさどる神。伊勢神宮の外宮の祭神。豊宇気毘売神。とゆうけのかみ。

泣沢女の神 なきさわめのかみ 古事記神話で、伊邪那岐命が伊邪那美命の死を嘆いた涙から成ったという神。
イワサクの神 石析神。
ネサクの神 根析神。
イワヅツノオの神 石筒之男神。
ミカハヤビの神 甕速日神(みかはやひのかみ)。
ヒハヤビの神 樋速日神(ひはやひのかみ)。
タケミカヅチノオの神 建御雷之男神・建御雷神。またの名をタケフツの神(建布都神)またの名をトヨフツの神(豊布都神)。
クラオカミの神 淤加美神。闇�。(「くら」は谷の意)高�と共に、水をつかさどる神。古来、祈雨・止雨の神として有名。京都の貴船神社の祭神。
クラミツハの神 闇御津羽神。雨をつかさどる竜神。水神。

マサカヤマツミの神 正鹿山津見神。迦具土神の頭から生まれる。
オトヤマツミの神 淤縢山津見神。胸に出現した神。
オクヤマツミの神 奥山津見神。腹に出現した神。
クラヤマツミの神 闇山津見神。御陰に出現した神。
シギヤマツミの神 志藝山津見神。左の手に出現した神。
ハヤマツミの神 羽山津見神。右の手に出現した神。
ハラヤマツミの神 原山津見神。左の足に出現した神。
トヤマツミの神 戸山津見神。右の足に出現した神。

オオカムヅミの命 意富加牟豆美の命。イザナギが桃に与えた名。
黄泉津大神 よもつおおかみ イザナミの命。
道及きの大神 ちしきのおおかみ 道敷大神。イザナミの命。
黄泉の入口の大神 黄泉戸の大神。

衝き立つフナドの神 つきたつふなどのかみ 衝立船戸神。
道のナガチハの神 道之長乳歯神。なげすてる帯であらわれた神。道中の安全を守る。
トキハカシの神 時量師神。なげすてる袋であらわれた神。
煩累の大人の神 わずらいのうしのかみ 和豆良比能宇斯神。なげすてる衣であらわれた神。
チマタの神 道俣神。岐の神。なげすてる褌であらわれた神。
アキグイの大人の神 飽咋大人神。なげすてる冠であらわれた神。
オキザカルの神 奧疎神。なげすてる左の手につけた腕巻であらわれた神。
オキツナギサビコの神 奧津那芸佐毘古神。
オキツカイベラの神 奧津甲斐弁羅神。
ヘザカルの神 辺疎神。なげすてる右の手につけた腕巻であらわれた神。
ヘツナギサビコの神 辺津那芸佐毘古神。
ヘツカイベラの神 辺津甲斐弁羅神。

ヤソマガツヒの神 八十禍津日神。
オオマガツヒの神 大禍津日神。
禍津日神 まがつひのかみ 災害・凶事・汚穢の神。伊弉諾尊のみそぎの時、黄泉の国の汚れから化生したという。

カムナオビの神 神直毘神。
オオナオビの神 大直毘神。凶事を吉事に転ずる神。
イヅノメ 伊豆能売。
ソコツワタツミの神 底津綿津見神。
ソコヅツノオの命 底筒男命。
ナカツワタツミの神 中津綿津見神。
ナカヅツノオの命 中筒男命。
ウワツワタツミの神 上津綿津見神。
ウワヅツノオの命 表筒男命。
安曇氏 あずみうじ/あづみし 古代日本の氏族で、海神である綿津見命を祖とする。安曇氏とも表記する。阿曇族、安曇族ともいう。
ウツシヒガナサクの命 宇都志日金拆命。阿曇氏の祖。
月読尊・月夜見尊 つきよみのみこと (古くはツクヨミノミコト)記紀神話で伊弉諾尊の子で天照大神の弟。月神。「夜の食す国」を治めたという。
タケハヤスサノオの命 → スサノオの命
ミクラタナの神 御倉板挙之神。

タギリヒメの命 多紀理姫命、田霧姫。またの名はオキツシマ姫の命(瀛津嶋姫)。
イチキシマヒメの命 市寸島比売命。またの名はサヨリビメの命。
タギツヒメの命 多岐津姫命。

マサカアカツカチハヤビアメノオシホミミの命 正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命。
アメノホヒの命 天之菩卑能命、天穂日命、天菩比神。日本神話で、素戔嗚尊と天照大神の誓約の際に生まれた子。天孫降臨に先だち、出雲国に降り、大国主命祭祀の祭主となる。出雲国造らの祖とする。千家氏はその子孫という。
アマツヒコネの命 天津日子根命。凡川内の国の造・額田部の湯座の連・木の国の造・倭の田中の直・山代の国の造・ウマクタの国の造・道ノシリキベの国の造・スハの国の造・倭のアムチの造・高市の県主・蒲生の稲寸・三枝部の造たちの祖先。
イクツヒコネの命 活津日子命。
クマノクスビの命 熊野久須毘命。

タケヒラドリの命 建比良鳥命。出雲の国の造・ムザシの国の造・カミツウナカミの国の造・シモツウナカミの国の造・イジムの国の造・津島の県の直・遠江の国の造たちの祖先。

出雲の国の造 いずものくにのみやつこ 出雲の国を支配した豪族。律令制成立以後は大社の神官を世襲し、のち千家・北島の両家に分かれた。
ムザシの国の造 むさしのくにのみやつこ 无邪志国造。
カミツウナカミの国の造 上菟上国造。上菟上は現、千葉県市原市。
シモツウナカミの国の造 下菟上国造。のちの下総海上。
菟上 うなかみ → 海上郡
海上郡 うなかみぐん 上総国にかつて存在した郡。現在の市原市のうちの養老川左岸を領域としていた。

イジムの国の造 伊自牟国造。上総国夷隅郡を本拠とした国造。氏姓は春部直か。(日本史)
津島の県の直 つしまのあがたのあたえ 後の対馬。(p.28上)
遠江の国の造 とおつおうみの くにのみやつこ (p.28上)

凡川内の国の造 おおしこうち/おおしかわち- 凡河内、大河内とも。
額田部の湯座の連 ぬかたべの ゆえの むらじ
木の国の造 きのくにの みやつこ
倭の田中の直 やまとの たなかの あたえ (p.28下)
山代の国の造 やましろの くにのみやつこ 山城国におかれた国造。姓は山背直。のち連、忌寸。(日本史)
ウマクタの国の造 馬来田(まくた)。上総国望陀郡を本拠とした。(日本史)
道ノシリキベの国の造 みちのしりのきえ- 道尻の岐閇。
スハの国の造 周芳(すおう)か。のちの周防。(p.28下)
倭のアムチの造 やまとの あむちの みやつこ 大和の淹知。(p.28下)
高市の県主 たけちの あがたぬし 大和国高市郡を本拠とした。(日本史)
蒲生の稲寸 かもうの いなき
三枝部の造 さきくさべの みやつこ 

オモヒガネの神 思金神。タカミムスビの神の子。知恵者。
アマツマラ 天津麻羅。天目一箇神。天照大神が天岩屋戸に隠れた時、刀・斧など、祭器を作ったという神。後世、金工・鍛冶の祖神とする。天津麻羅。
イシコリドメ 伊斯許理度売命、石凝姥命。記紀神話で、天糠戸神の子。天照大神が天の岩戸に隠れた時、鏡を作った神。鏡作部の遠祖とする。五部神の一神。
タマノオヤの命 玉祖命。古事記神話で、天岩屋戸の前で玉を作ったという神。五部神の一神。玉屋命。
アメノコヤネの命 天児屋命・天児屋根命。日本神話で、興台産霊の子。天岩屋戸の前で、祝詞を奏して天照大神の出現を祈り、のち、天孫に従ってくだった五部神の一人で、その子孫は代々大和朝廷の祭祀をつかさどったという。中臣・藤原氏の祖神とする。
フトダマの命 布刀玉命、太玉命。日本神話で天照大神の岩戸ごもりの際に、天児屋根命と共に祭祀の事をつかさどった神。忌部氏の祖。五部神の一神。
アメノタヂカラオの神 天手力男神。
アメノウズメの命 天宇受賣命、天鈿女命。日本神話で、天岩屋戸の前で踊って天照大神を慰め、また、天孫降臨に随従して天の八衢にいた猿田彦神を和らげて道案内させたという女神。鈿女命。猿女君の祖とする。

保食神 うけもちのかみ 五穀をつかさどる神。食物の神。うかのみたま。

アシナヅチ 足名椎命。オオヤマツミの子で、出雲国の肥の川の上流に住む。スサノオからイナダの宮主スガノヤツミミの神の名を与えられる。
テナヅチ 手名椎命。
クシナダ姫 櫛名田比売。奇稲田姫。(クシイナダヒメとも)出雲国の足名椎・手名椎の女。素戔嗚尊の妃となる。稲田姫。
イナダの宮主スガノヤツミミの神 稲田宮主須賀之八耳神。

オオトシの神 大年神・大歳神。穀物の守護神。
ウカノミタマ 宇迦之御魂神。宇迦御魂・倉稲魂・稲魂。食物、殊に稲をつかさどる神。「うかたま」「うけのみたま」とも。
ヤシマジヌミの神 八島士奴美の神。スサノオとクシナダ姫の子。
カムオオチ姫 神大市比売(かむおおいちひめ)。オオヤマツミの神の女。スサノオの妻となりオオトシの神とウカノミタマを生んだ。
木の花散る姫 このはなちるひめ 木の花知流比売。スサノオの子・八島士奴美神の妻となり、フワノモジクヌスヌの神を生む。
フワノモジクヌスヌの神 布波能母遲久奴須奴の神。淤加美神の女ヒカワ姫を妻として、子にはフカブチノミヅヤレハナの神がいる。
オカミの神 淤加美神。ヒカワ姫の父。
ヒカワ姫 日河比売。淤加美神の娘。日は霊(ひ)の意で、霊的な川に仕える巫女という。(神名)
フカブチノミヅヤレハナの神 深淵之水夜礼花神。
アメノツドヘチネの神 天の都度閇知泥の神。
オミヅヌの神 淤美豆奴の神。
フノヅノの神 布怒豆怒の神。
フテミミの神 布帝耳の神。
アメノフユギヌの神 天の冬衣の神。
サシクニオオの神 刺国大の神。
サシクニワカ姫 刺国若比売。


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)、『日本人名大事典』(平凡社)、『日本史広辞典』(山川出版社、1997.10)、『日本神名辞典 第二版』(神社新報社、1995.6)、『古事記・日本書紀』(福永武彦訳、河出書房新社、1988.1)。



*書籍

(書名、雑誌名、論文名、能・狂言・謡曲などの作品名)

古事記 こじき 現存する日本最古の歴史書。3巻。稗田阿礼が天武天皇の勅により誦習した帝紀および先代の旧辞を、太安万侶が元明天皇の勅により撰録して712年(和銅5)献上。
帝紀 ていき 天皇の系譜の記録。帝皇日嗣。
本辞 ほんじ 皇族や氏族の伝承、また、民間の説話などを書きとどめたもの。旧辞。


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)。



*難字、求めよ


神代七代・神世七代 かみよ ななよ 天地開闢のとき、別天神五柱につづいて出現した国之常立神以下伊邪那岐神・伊邪那美神までの7代。古事記では十二神、日本書紀では十一神。天神七代。
鎮火祭 ちんかさい 陰暦6月・12月の晦日の夜、宮城の四方の隅で神を祭り、火災防止を祈った神事。延喜式に祝詞がある。今も各地の神社で行われる。ひしずめのまつり。ほしずめのまつり。
道饗の祭 みちあえのまつり 律令制で、6月・12月の両度、京都の四隅の道上で八衢比古・八衢比売・久那斗の3神を祀る祭事。魑魅・妖物に食物を饗して、その京都に入るのを防いだ。ちあえのまつり。
アメノオハバリ 天之尾羽張。剣の名。またの名はイツノオハバリ(伊都之尾羽張)。
巌石 がんせき 岩石。
天の真名井 あめのまない 高天原にある神聖な井。
沖つ宮 おきつみや 沖の方にある海神の宮殿。
辺つ宮 へつみや 海の岸の方にある宮。
常世の長鳴鳥 とこよのながなきどり (天照大神が天の岩戸に籠もり、天地が常闇になった時、鳴かせた鳥の意)鶏の古称。
ハハカ 波波迦 ウワミズザクラの古名。
真拆の蔓 まさきのかずら 真拆の葛。テイカカズラの古名。一説にツルマサキの古称。上代、神事に用いた。
八俣の大蛇 やまたのおろち 八岐大蛇。記紀神話で、出雲の簸川にいたという大蛇。頭尾はおのおの八つに分かれる。素戔嗚尊がこれを退治して奇稲田姫を救い、その尾を割いて天叢雲剣を得たと伝える。
草薙剣 くさなぎのつるぎ 三種の神器の一つ。記紀で、素戔嗚尊が退治した八岐大蛇の尾から出たと伝える剣。日本武尊が東征の折、これで草を薙ぎ払ったところからの名とされるが、クサは臭、ナギは蛇の意で、原義は蛇の剣の意か。のち、熱田神宮に祀られたが、平氏滅亡に際し海に没したとされる。天叢雲剣。


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)。



*後記(工作員スリーパーズ日記)


 川崎利夫『出羽の遺跡を歩く』(高志書院、2001.2)読了。こちらは旧石器捏造事件発覚後の著述。安田喜憲、阿部正己、喜田貞吉らの名前も出てくる。本書によれば、西日本にみられる青銅の銅鐸や銅剣や銅鉾が県内で発掘された例はないらしい。ところが、鳳凰の頭を柄にもつ鉄製の環頭太刀(かんとうたち)、十八振の蕨手刀(わらびてとう)、そして羽黒山鏡ヶ池から六〇〇面近い銅鏡が出土している。
 『ず・ぼん』16号(ポット出版、2011.1)読了。シジュウカラの初鳴き。




*次週予告


第三巻 第三一号 
現代語訳『古事記』(二)上巻(後編)
武田祐吉(訳)


第三巻 第三一号は、
二月二六日(土)発行予定です。
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T-Time マガジン 週刊ミルクティー 第三巻 第三〇号
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第二巻

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第四号 毒と迷信 / 若水の話 / 麻薬・自殺・宗教 定価:200円
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第六号 新羅人の武士的精神について 池内宏 月末最終号:無料
第七号 新羅の花郎について 池内宏 定価:200円
第八号 震災日誌 / 震災後記 喜田貞吉 定価:200円
第九号 セロ弾きのゴーシュ / なめとこ山の熊 宮沢賢治 定価:200円
第十号 風の又三郎 宮沢賢治 月末最終号:無料
第一一号 能久親王事跡(一)森 林太郎 定価:200円
第一二号 能久親王事跡(二)森 林太郎 定価:200円
第一三号 能久親王事跡(三)森 林太郎 定価:200円
第一四号 能久親王事跡(四)森 林太郎 定価:200円
第一七号 赤毛連盟 コナン・ドイル 定価:200円
第一八号 ボヘミアの醜聞 コナン・ドイル 定価:200円
第一九号 グロリア・スコット号 コナン・ドイル 月末最終号:無料
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第二一号 蝦夷とコロボックルとの異同を論ず 喜田貞吉 定価:200円
第二二号 コロポックル説の誤謬を論ず 上・下 河野常吉 定価:200円
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第二四号 まれびとの歴史/「とこよ」と「まれびと」と 折口信夫 定価:200円
第二五号 払田柵跡について二、三の考察/山形県本楯発見の柵跡について 喜田貞吉 定価:200円
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第三〇号 生物の歴史(二)石川千代松  定価:200円
第三一号 生物の歴史(三)石川千代松  定価:200円
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第三三号 特集 ひなまつり  定価:200円
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 雛がたり 泉鏡花
 ひなまつりの話 折口信夫

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第三六号 右大臣実朝(二)太宰治 月末最終号:無料
第三七号 右大臣実朝(三)太宰治 定価:200円
第三八号 清河八郎(一)大川周明 定価:200円
第三九号 清河八郎(二)大川周明  定価:200円
第四〇号 清河八郎(三)大川周明  月末最終号:無料
第四一号 清河八郎(四)大川周明  定価:200円
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第四三号 清河八郎(六)大川周明  定価:200円
第四四号 道鏡皇胤論について 喜田貞吉  定価:200円
第四五号 火葬と大蔵/人身御供と人柱 喜田貞吉  月末最終号:無料
第四六号 手長と足長/くぐつ名義考 喜田貞吉  定価:200円
第四七号 「日本民族」とは何ぞや/本州における蝦夷の末路 喜田貞吉  定価:200円
第四八号 若草物語(一)L. M. オルコット  定価:200円
第四九号 若草物語(二)L. M. オルコット  月末最終号:無料
第五〇号 若草物語(三)L. M. オルコット  定価:200円
第五一号 若草物語(四)L. M. オルコット  定価:200円
第五二号 若草物語(五)L. M. オルコット  定価:200円
第五三号 二人の女歌人/東北の家 片山広子  定価:200円
第三巻 第一号 星と空の話(一)山本一清  月末最終号:無料
  一、星座(せいざ)の星
  二、月(つき)
(略)殊にこの「ベガ」は、わが日本や支那では「七夕」の祭りにちなむ「織(お)り女(ひめ)」ですから、誰でも皆、幼い時からおなじみの星です。「七夕」の祭りとは、毎年旧暦七月七日の夜に「織り女」と「牽牛(ひこぼし)〔彦星〕」とが「天の川」を渡って会合するという伝説の祭りですが、その「天の川」は「こと」星座のすぐ東側を南北に流れていますし、また、「牽牛」は「天の川」の向かい岸(東岸)に白く輝いています。「牽牛」とその周囲の星々を、星座では「わし」の星座といい、「牽牛」を昔のアラビア人たちは、「アルタイル」と呼びました。「アルタイル」の南と北とに一つずつ小さい星が光っています。あれは「わし」の両翼を拡げている姿なのです。ところが「ベガ」の付近を見ますと、その東側に小さい星が二つ集まっています。昔の人はこれを見て、一羽の鳥が両翼をたたんで地に舞いくだる姿だと思いました。それで、「こと」をまた「舞いくだる鳥」と呼びました。

 「こと」の東隣り「天の川」の中に、「はくちょう」という星座があります。このあたりは大星や小星が非常に多くて、天が白い布のように光に満ちています。

第三巻 第二号 星と空の話(二)山本一清  定価:200円
  三、太陽
  四、日食と月食
  五、水星
  六、金星
  七、火星
  八、木星
 太陽の黒点というものは誠におもしろいものです。黒点の一つ一つは、太陽の大きさにくらべると小さい点々のように見えますが、じつはみな、いずれもなかなか大きいものであって、(略)最も大きいのは地球の十倍以上のものがときどき現われます。そして同じ黒点を毎日見ていますと、毎日すこしずつ西の方へ流れていって、ついに太陽の西の端(はし)でかくれてしまいますが、二週間ばかりすると、こんどは東の端から現われてきます。こんなにして、黒点の位置が規則正しく変わるのは、太陽全体が、黒点を乗せたまま、自転しているからなのです。太陽は、こうして、約二十五日間に一回、自転をします。(略)
 太陽の黒点からは、あらゆる気体の熱風とともに、いろいろなものを四方へ散らしますが、そのうちで最も強く地球に影響をあたえるものは電子が放射されることです。あらゆる電流の原因である電子が太陽黒点から放射されて、わが地球に達しますと、地球では、北極や南極付近に、美しいオーロラ(極光(きょっこう))が現われたり、「磁気嵐(じきあらし)」といって、磁石の針が狂い出して盛んに左右にふれたりします。また、この太陽黒点からやってくる電波や熱波や電子などのために、地球上では、気温や気圧の変動がおこったり、天気が狂ったりすることもあります。(略)
 太陽の表面に、いつも同じ黒点が長い間見えているのではありません。一つ一つの黒点はずいぶん短命なものです。なかには一日か二日ぐらいで消えるのがありますし、普通のものは一、二週間ぐらいの寿命のものです。特に大きいものは二、三か月も、七、八か月も長く見えるのがありますけれど、一年以上長く見えるということはほとんどありません。
 しかし、黒点は、一つのものがまったく消えない前に、他の黒点が二つも三つも現われてきたりして、ついには一時に三十も四十も、たくさんの黒点が同じ太陽面に見えることがあります。
 こうした黒点の数は、毎年、毎日、まったく無茶苦茶というわけではありません。だいたいにおいて十一年ごとに増したり減ったりします。

第三巻 第三号 星と空の話(三)山本一清  定価:200円
   九、土星
  一〇、天王星
  一一、海王星
  一二、小遊星
  一三、彗星
  一四、流星
  一五、太陽系
  一六、恒星と宇宙
 晴れた美しい夜の空を、しばらく家の外に出てながめてごらんなさい。ときどき三分間に一つか、五分間に一つぐらい星が飛ぶように見えるものがあります。あれが流星です。流星は、平常、天に輝いている多くの星のうちの一つ二つが飛ぶのだと思っている人もありますが、そうではありません。流星はみな、今までまったく見えなかった星が、急に光り出して、そしてすぐまた消えてしまうものなのです。(略)
 しかし、流星のうちには、はじめから稀(まれ)によほど形の大きいものもあります。そんなものは空気中を何百キロメートルも飛んでいるうちに、燃えつきてしまわず、熱したまま、地上まで落下してきます。これが隕石というものです。隕石のうちには、ほとんど全部が鉄のものもあります。これを隕鉄(いんてつ)といいます。(略)
 流星は一年じゅう、たいていの夜に見えますが、しかし、全体からいえば、冬や春よりは、夏や秋の夜にたくさん見えます。ことに七、八月ごろや十月、十一月ごろは、一時間に百以上も流星が飛ぶことがあります。
 八月十二、三日ごろの夜明け前、午前二時ごろ、多くの流星がペルセウス星座から四方八方へ放射的に飛びます。これらは、みな、ペルセウス星座の方向から、地球の方向へ、列を作ってぶっつかってくるものでありまして、これを「ペルセウス流星群」と呼びます。
 十一月十四、五日ごろにも、夜明け前の二時、三時ごろ、しし星座から飛び出してくるように見える一群の流星があります。これは「しし座流星群」と呼ばれます。
 この二つがもっとも有名な流星群ですが、なおこの他には、一月のはじめにカドラント流星群、四月二十日ごろに、こと座流星群、十月にはオリオン流星群などあります。

第三巻 第四号 獅子舞雑考/穀神としての牛に関する民俗 中山太郎  定価:200円
獅子舞雑考
  一、枯(か)れ木も山の賑(にぎ)やかし
  二、獅子舞に関する先輩の研究
  三、獅子頭に角(つの)のある理由
  四、獅子頭と狛犬(こまいぬ)との関係
  五、鹿踊(ししおど)りと獅子舞との区別は何か
  六、獅子舞は寺院から神社へ
  七、仏事にもちいた獅子舞の源流
  八、獅子舞について関心すべき点
  九、獅子頭の鼻毛と馬の尻尾(しっぽ)

穀神としての牛に関する民俗
  牛を穀神とするは世界共通の信仰
  土牛(どぎゅう)を立て寒気を送る信仰と追儺(ついな)
  わが国の家畜の分布と牛飼神の地位
  牛をもって神をまつるは、わが国の古俗
  田遊(たあそ)びの牛の役と雨乞いの牛の首

 全体、わが国の獅子舞については、従来これに関する発生、目的、変遷など、かなり詳細なる研究が発表されている。(略)喜多村翁の所説は、獅子舞は西域の亀茲(きじ)国の舞楽が、支那の文化とともに、わが国に渡来したのであるという、純乎たる輸入説である。柳田先生の所論は、わが国には古く鹿舞(ししまい)というものがあって、しかもそれが広くおこなわれていたところへ、後に支那から渡来した獅子舞が、国音の相通から付会(ふかい)したものである。その証拠には、わが国の各地において、古風を伝えているものに、角(つの)のある獅子頭があり、これに加うるのに鹿を歌ったものを、獅子舞にもちいているという、いわば固有説とも見るべき考証である。さらに小寺氏の観察は、だいたいにおいて柳田先生の固有説をうけ、別にこれに対して、わが国の鹿舞の起こったのは、トーテム崇拝に由来するのであると、付け加えている。
 そこで、今度は管見を記すべき順序となったが、これは私も小寺氏と同じく、柳田先生のご説をそのまま拝借する者であって、べつだんに奇説も異論も有しているわけではない。ただ、しいて言えば、わが国の鹿舞と支那からきた獅子舞とは、その目的において全然別個のものがあったという点が、相違しているのである。ことに小寺氏のトーテム説にいたっては、あれだけの研究では、にわかに左袒(さたん)することのできぬのはもちろんである。

 こういうと、なんだか柳田先生のご説に、反対するように聞こえるが、角(つの)の有無をもって鹿と獅子の区別をすることは、再考の余地があるように思われる。

第三巻 第五号 鹿踊りのはじまり 宮沢賢治/奥羽地方のシシ踊りと鹿供養 喜田貞吉  月末最終号:無料
鹿踊りのはじまり 宮沢賢治
奥羽地方のシシ踊りと鹿供養 喜田貞吉
  一 緒言
  二 シシ踊りは鹿踊り
  三 伊予宇和島地方の鹿の子踊り
  四 アイヌのクマ祭りと捕獲物供養
  五 付記

 奥羽地方には各地にシシ踊りと呼ばるる一種の民間舞踊がある。地方によって多少の相違はあるが、だいたいにおいて獅子頭を頭につけた青年が、数人立ちまじって古めかしい歌謡を歌いつつ、太鼓の音に和して勇壮なる舞踊を演ずるという点において一致している。したがって普通には獅子舞あるいは越後獅子などのたぐいで、獅子奮迅・踊躍の状を表象したものとして解せられているが、奇態なことにはその旧仙台領地方におこなわるるものが、その獅子頭に鹿の角(つの)を有し、他の地方のものにも、またそれぞれ短い二本の角がはえているのである。
 楽舞用具の一種として獅子頭のわが国に伝わったことは、すでに奈良朝のころからであった。くだって鎌倉時代以後には、民間舞踊の一つとして獅子舞の各地におこなわれたことが少なからず文献に見えている。そしてかの越後獅子のごときは、その名残りの地方的に発達・保存されたものであろう。獅子頭はいうまでもなくライオンをあらわしたもので、本来、角があってはならぬはずである。もちろんそれが理想化し、霊獣化して、彫刻家の意匠により、ことさらにそれに角を付加するということは考えられぬでもない。武蔵南多摩郡元八王子村なる諏訪神社の獅子頭は、古来、龍頭とよばれて二本の長い角が斜めにはえているので有名である。しかしながら、仙台領において特にそれが鹿の角であるということは、これを霊獣化したとだけでは解釈されない。けだし、もと鹿供養の意味からおこった一種の田楽的舞踊で、それがシシ踊りと呼ばるることからついに獅子頭とまで転訛するに至り、しかもなお原始の鹿角を保存して、今日におよんでいるものであろう。

第三巻 第六号 魏志倭人伝/後漢書倭伝/宋書倭国伝/隋書倭国伝  定価:200円
魏志倭人伝/後漢書倭伝/宋書倭国伝/隋書倭国伝

倭人在帯方東南大海之中、依山島為国邑。旧百余国。漢時有朝見者、今使訳所通三十国。従郡至倭、循海岸水行、歴韓国、乍南乍東、到其北岸狗邪韓国七千余里。始度一海千余里、至対馬国、其大官曰卑狗、副曰卑奴母離、所居絶島、方可四百余里(略)。又南渡一海千余里、名曰瀚海、至一大国〔一支国か〕(略)。又渡一海千余里、至末盧国(略)。東南陸行五百里、到伊都国(略)。東南至奴国百里(略)。東行至不弥国百里(略)。南至投馬国水行二十日、官曰弥弥、副曰弥弥那利、可五万余戸。南至邪馬壱国〔邪馬台国〕、女王之所都、水行十日・陸行一月、官有伊支馬、次曰弥馬升、次曰弥馬獲支、次曰奴佳�、可七万余戸。(略)其国本亦以男子為王、住七八十年、倭国乱、相攻伐歴年、乃共立一女子為王、名曰卑弥呼、事鬼道、能惑衆、年已長大、無夫壻、有男弟、佐治国、自為王以来、少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人、給飲食、伝辞出入居処。宮室・楼観・城柵厳設、常有人持兵守衛。

第三巻 第七号 卑弥呼考(一)内藤湖南  定価:200円
  一、本文の選択
  二、本文の記事に関するわが邦(くに)最旧の見解
  三、旧説に対する異論
 『後漢書』『三国志』『晋書』『北史』などに出でたる倭国女王卑弥呼のことに関しては、従来、史家の考証はなはだ繁く、あるいはこれをもってわが神功皇后とし、あるいはもって筑紫の一女酋とし、紛々として帰一するところなきが如くなるも、近時においてはたいてい後説を取る者多きに似たり。(略)
 卑弥呼の記事を載せたる支那史書のうち、『晋書』『北史』のごときは、もとより『後漢書』『三国志』に拠りたること疑いなければ、これは論を費やすことをもちいざれども、『後漢書』と『三国志』との間に存する�異(きい)の点に関しては、史家の疑惑をひく者なくばあらず。『三国志』は晋代になりて、今の范曄の『後漢書』は、劉宋の代になれる晩出の書なれども、両書が同一事を記するにあたりて、『後漢書』の取れる史料が、『三国志』の所載以外におよぶこと、東夷伝中にすら一、二にして止まらざれば、その倭国伝の記事もしかる者あるにあらずやとは、史家のどうもすれば疑惑をはさみしところなりき。この疑惑を決せんことは、すなわち本文選択の第一要件なり。
 次には本文のうち、各本に字句の異同あることを考えざるべからず。『三国志』について言わんに、余はいまだ宋板本を見ざるも、元槧明修本、明南監本、乾隆殿板本、汲古閣本などを対照し、さらに『北史』『通典』『太平御覧』『冊府元亀』など、この記事を引用せる諸書を参考してその異同の少なからざるに驚きたり。その�異を決せんことは、すなわち本文選択の第二要件なり。

第三巻 第八号 卑弥呼考(二)内藤湖南  定価:200円
  四、本文の考証
帯方 / 旧百余国。漢時有朝見者。今使訳所通三十国。 / 到其北岸狗邪韓国 / 対馬国、一大国、末盧国、伊都国、奴国、不弥国 / 南至投馬國。水行二十日。/ 南至邪馬壹國。水行十日。陸行一月。/ 斯馬国 / 已百支国 / 伊邪国 / 郡支国 / 弥奴国 / 好古都国 / 不呼国 / 姐奴国 / 対蘇国 / 蘇奴国 / 呼邑国 / 華奴蘇奴国 / 鬼国 / 為吾国 / 鬼奴国 / 邪馬国 / 躬臣国 / 巴利国 / 支惟国 / 烏奴国 / 奴国 / 此女王境界所盡。其南有狗奴國 / 会稽東治
南至投馬國。水行二十日。  これには数説あり、本居氏は日向国児湯郡に都万神社ありて、『続日本後紀』『三代実録』『延喜式』などに見ゆ、此所にてもあらんかといえり。鶴峰氏は『和名鈔』に筑後国上妻郡、加牟豆万、下妻郡、准上とある妻なるべしといえり。ただし、その水行二十日を投馬より邪馬台に至る日程と解したるは著しき誤謬なり。黒川氏は三説をあげ、一つは鶴峰説に同じく、二つは「投」を「殺」の譌りとみて、薩摩国とし、三つは『和名鈔』、薩摩国麑島郡に都万郷ありて、声近しとし、さらに「投」を「敏」の譌りとしてミヌマと訓み、三潴郡とする説をもあげたるが、いずれも穏当ならずといえり。『国史眼』は設馬の譌りとして、すなわち薩摩なりとし、吉田氏はこれを取りて、さらに『和名鈔』の高城郡托摩郷をもあげ、菅氏は本居氏に従えり。これを要するに、みな邪馬台を筑紫に求むる先入の見に出で、「南至」といえる方向に拘束せられたり。しかれども支那の古書が方向をいう時、東と南と相兼ね、西と北と相兼ぬるは、その常例ともいうべく、またその発程のはじめ、もしくは途中のいちじるしき土地の位置などより、方向の混雑を生ずることも珍しからず。『後魏書』勿吉伝に太魯水、すなわち今の�児河より勿吉、すなわち今の松花江上流に至るによろしく東南行すべきを東北行十八日とせるがごとき、陸上におけるすらかくのごとくなれば海上の方向はなおさら誤り易かるべし。ゆえに余はこの南を東と解して投馬国を『和名鈔』の周防国佐婆郡〔佐波郡か。〕玉祖郷〈多萬乃於也〉にあてんとす。この地は玉祖宿祢の祖たる玉祖命、またの名、天明玉命、天櫛明玉命をまつれるところにして周防の一宮と称せられ、今の三田尻の海港をひかえ、内海の衝要にあたれり。その古代において、玉作を職とせる名族に拠有せられて、五万余戸の集落をなせしことも想像し得べし。日向・薩摩のごとき僻陬とも異なり、また筑後のごとく、路程の合いがたき地にもあらず、これ、余がかく定めたる理由なり。

第三巻 第九号 卑弥呼考(三)内藤湖南  月末最終号:無料
  四、本文の考証(つづき)
爾支 / 泄謨觚、柄渠觚、�馬觚 / 多模 / 弥弥、弥弥那利 / 伊支馬、弥馬升、弥馬獲支、奴佳� / 狗古智卑狗
卑弥呼 / 難升米 / 伊声耆掖邪狗 / 都市牛利 / 載斯烏越 / 卑弥弓呼素 / 壱与
  五、結論
    付記
 次に人名を考証せんに、その主なる者はすなわち、「卑弥呼」なり。余はこれをもって倭姫命に擬定す。その故は前にあげたる官名に「伊支馬」「弥馬獲支」あるによりて、その崇神・垂仁二朝を去ること遠からざるべきことを知る、一つなり。「事二鬼道一、能惑レ衆」といえるは、垂仁紀二十五年の記事ならびにその細注、『延暦儀式帳』『倭姫命世記』などの所伝を総合して、もっともこの命(みこと)の行事に適当せるを見る。その天照大神の教えにしたがいて、大和より近江・美濃・伊勢諸国を遍歴し、〈『倭姫世記』によれば尾張・丹波・紀伊・吉備にもおよびしが如し〉いたるところにその土豪より神戸・神田・神地を徴して神領とせるは、神道設教の上古を離るること久しき魏人より鬼道をもって衆を惑わすと見えしも怪しむに足らざるべし、二つなり。余が邪馬台の旁国の地名を擬定せるは、もとより務めて大和の付近にして、倭姫命が遍歴せる地方より選び出したれども、その多数がはなはだしき付会におちいらずして、伊勢を基点とせる地方に限定することを得たるは、また一証とすべし、三つなり。(略)「卑弥呼」の語解は本居氏がヒメコの義とするは可なれども、神代巻に火之戸幡姫児千々姫ノ命、また万幡姫児玉依姫ノ命などある「姫児(ヒメコ)」に同じとあるは非にして、この二つの「姫児」は平田篤胤のいえるごとく姫の子の義なり。「弥」を「メ」と訓(よ)む例は黒川氏の『北史国号考』に「上宮聖徳法王帝説、繍張文の吉多斯比弥乃弥己等(キタシヒメノミコト)、また等已弥居加斯支移比弥乃弥己等(トヨミケカシキヤヒメノミコト)、注云 弥字或当二売音一也」とあるを引けるなどに従うべし。
付記 余がこの編を出せる直後、すでに自説の欠陥を発見せしものあり、すなわち「卑弥呼」の名を考証せる条中に『古事記』神代巻にある火之戸幡姫児(ヒノトバタヒメコ)、および万幡姫児(ヨロヅハタヒメコ)の二つの「姫児」の字を本居氏にしたがいて、ヒメコと読みしは誤りにして、平田氏のヒメノコと読みしが正しきことを認めたれば、今の版にはこれを改めたり。

第三巻 第一〇号 最古日本の女性生活の根底/稲むらの陰にて 折口信夫  定価:200円
最古日本の女性生活の根底
  一 万葉びと――琉球人
  二 君主――巫女
  三 女軍(めいくさ)
  四 結婚――女の名
  五 女の家
稲むらの陰にて
 古代の歴史は、事実の記憶から編み出されたものではない。神人(かみびと)に神憑(がか)りした神の、物語った叙事詩から生まれてきたのである。いわば夢語りともいうべき部分の多い伝えの、世をへて後、筆録せられたものにすぎない。(略)神々の色彩を持たない事実などの、後世に伝わりようはあるべきはずがないのだ。(略)女として神事にあずからなかった者はなく、神事に関係せなかった女の身の上が、物語の上に伝誦せられるわけがなかったのである。
(略)村々の君主の下になった巫女が、かつては村々の君主自身であったこともあるのである。『魏志』倭人伝の邪馬台(ヤマト)国の君主卑弥呼は女性であり、彼の後継者も女児であった。巫女として、呪術をもって、村人の上に臨んでいたのである。が、こうした女君制度は、九州の辺土には限らなかった。卑弥呼と混同せられていた神功皇后も、最高巫女としての教権をもって、民を統べていられた様子は、『日本紀』を見れば知られることである。(略)
 沖縄では、明治の前までは国王の下に、王族の女子あるいは寡婦が斎女王(いつきのみこ)同様の仕事をして、聞得大君(きこえうふきみ)(ちふいぢん)と言うた。尚家の中途で、皇后の下に位どられることになったが、以前は沖縄最高の女性であった。その下に三十三君というて、神事関係の女性がある。それは地方地方の神職の元締めのような位置にいる者であった。その下にあたるノロ(祝女)という、地方の神事官吏なる女性は今もいる。そのまた下にその地方の家々の神につかえる女の神人がいる。この様子は、内地の昔を髣髴(ほうふつ)させるではないか。沖縄本島では聞得大君を君主と同格に見た史実がない。が、島々の旧記にはその痕跡が残っている。(「最古日本の女性生活の根底」より)

第三巻 第一一号 瀬戸内海の潮と潮流(他三編)寺田寅彦  定価:200円
瀬戸内海の潮と潮流
コーヒー哲学序説
神話と地球物理学
ウジの効用
 一体、海の面はどこでも一昼夜に二度ずつ上がり下がりをするもので、それを潮の満干といいます。これは月と太陽との引力のためにおこるもので、月や太陽がたえず東から西へまわるにつれて、地球上の海面の高くふくれた満潮の部分と低くなった干潮の部分もまた、だいたいにおいて東から西へ向かって大洋の上を進んで行きます。このような潮の波が内海のようなところへ入って行きますと、いろいろに変わったことがおこります。ことに瀬戸内海のように外洋との通路がいくつもあり、内海の中にもまた瀬戸がたくさんあって、いくつもの灘に分かれているところでは、潮の満干もなかなか込み入ってきて、これをくわしく調べるのはなかなか難しいのです。しかし、航海の頻繁なところであるから潮の調査は非常に必要なので、海軍の水路部などではたくさんな費用と時日を費やしてこれを調べておられます。東京あたりと四国の南側の海岸とでは満潮の時刻は一時間くらいしか違わないし、満干の高さもそんなに違いませんが、四国の南側とその北側とでは満潮の時刻はたいへんに違って、ところによっては六時間も違い、一方の満潮の時に他のほうは干潮になることもあります。また、内海では満干の高さが外海の倍にもなるところがあります。このように、あるところでは満潮であるのに他のところでは干潮になったり、内海の満干の高さが外海の満干の高さの倍になるところのあるのは、潮の流れがせまい海峡を入るためにおくれ、また、方々の入口から入り乱れ、重なり合うためであります。(「瀬戸内海の潮と潮流」より)

第三巻 第一二号 日本人の自然観/天文と俳句 寺田寅彦  定価:200円
日本人の自然観
 緒言
 日本の自然
 日本人の日常生活
 日本人の精神生活
 結語
天文と俳句
 もしも自然というものが、地球上どこでも同じ相貌(そうぼう)をあらわしているものとしたら、日本の自然も外国の自然も同じであるはずであって、したがって上記のごとき問題の内容吟味は不必要であるが、しかし実際には、自然の相貌がいたるところむしろ驚くべき多様多彩の変化を示していて、ひと口に自然と言ってしまうにはあまりに複雑な変化を見せているのである。こういう意味からすると、同じように、「日本の自然」という言葉ですらも、じつはあまりに漠然としすぎた言葉である。(略)
 こう考えてくると、今度はまた「日本人」という言葉の内容が、かなり空疎な散漫なものに思われてくる。九州人と東北人とくらべると各個人の個性を超越するとしても、その上にそれぞれの地方的特性の支配が歴然と認められる。それで九州人の自然観や、東北人の自然観といったようなものもそれぞれ立派に存立しうるわけである。(略)
 われわれは通例、便宜上、自然と人間とを対立させ、両方別々の存在のように考える。これが現代の科学的方法の長所であると同時に短所である。この両者は、じつは合わして一つの有機体を構成しているのであって、究極的には独立に切り離して考えることのできないものである。(略)
 日本人の先祖がどこに生まれ、どこから渡ってきたかは別問題として、有史以来二千有余年、この土地に土着してしまった日本人が、たとえいかなる遺伝的記憶をもっているとしても、その上層を大部分掩蔽(えんぺい)するだけの経験の収穫をこの日本の環境から受け取り、それにできるだけしっくり適応するように努力し、また少なくも、部分的にはそれに成効してきたものであることには疑いがないであろうと思われる。(「日本人の自然観」より)

第三巻 第一三号 倭女王卑弥呼考(一)白鳥庫吉  定価:200円
 倭人の名は『山海経』『漢書』『論衡』などの古書に散見すれども、その記事いずれも簡単にして、これによりては、いまだ上代における倭国の状態をうかがうに足(た)らず。しかるにひとり『魏志』の「倭人伝」に至りては、倭国のことを叙することすこぶる詳密にして、しかも伝中の主人公たる卑弥呼女王の人物は、赫灼(かくしゃく)として紙上に輝き、読者をしてあたかも暗黒の裡に光明を認むるがごとき感あらしむ。(略)
 それすでに里数をもってこれを測るも、また日数をもってこれを稽(かんが)うるも、女王国の位置を的確に知ることあたわずとせば、はたしていかなる事実をかとらえてこの問題を解決すべき。余輩は幾度か『魏志』の文面を通読玩索(がんさく)し、しかして後、ようやくここに確乎動かすべからざる三個の目標を認め得たり。しからばすなわち、いわゆる三個の目標とは何ぞや。いわく邪馬台国は不弥国より南方に位すること、いわく不弥国より女王国に至るには有明の内海を航行せしこと、いわく女王国の南に狗奴国と称する大国の存在せしこと、すなわちこれなり。さて、このうち第一・第二の二点は『魏志』の文面を精読して、たちまち了解せらるるのみならず、先輩すでにこれを説明したれば、しばらくこれを措(お)かん。しかれども第三点にいたりては、『魏志』の文中明瞭の記載あるにもかかわらず、余輩が日本学会においてこれを述べたる時までは、何人もかつてここに思い至らざりしがゆえに、また、この点は本論起草の主眼なるがゆえに、余輩は狗奴国の所在をもって、この問題解決の端緒を開かんとす。

第三巻 第一四号 倭女王卑弥呼考(二)白鳥庫吉  月末最終号:無料
 九州の西海岸は潮汐満乾の差はなはだしきをもって有名なれば、上に記せる塩盈珠(しおみつたま)・塩乾珠(しおひるたま)の伝説は、この自然的現象に原因しておこれるものならん。ゆえに神典に見えたる彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)と火闌降命(ほのすそりのみこと)との争闘は、『魏志』によりて伝われる倭女王と狗奴(くな)男王との争闘に類せる政治的状態の反映とみなすべきものなり。
 『魏志』の記すところによれば、邪馬台国はもと男子をもって王となししが、そののち国中混乱して相攻伐し、ついに一女子を立てて王位につかしむ。これを卑弥呼となす。この女王登位の年代は詳らかならざれども、そのはじめて魏国に使者を遣わしたるは、景初二年すなわち西暦二三八年なり。しかして正始八年すなわち西暦二四七年には、女王、狗奴国の男王と戦闘して、その乱中に没したれば、女王はけだし後漢の末葉よりこの時まで九州の北部を統治せしなり。女王死してのち国中また乱れしが、その宗女壱与(いよ)なる一小女を擁立するにおよんで国乱定まりぬ。卑弥呼の仇敵狗奴国の男王卑弓弥呼(ヒコミコ)は何年に即位し何年まで在位せしか、『魏志』に伝わらざれば、またこれを知るに由なし。しかれども正始八年(二四七)にこの王は女王卑弥呼と戦って勝利を得たれば、女王の嗣者壱与(いよ)の代におよんでも、依然として九州の南部に拠りて、暴威を逞(たくま)しうせしに相違なし。

第三巻 第一五号 倭奴国および邪馬台国に関する誤解 他 喜田貞吉  定価:200円
倭奴国と倭面土国および倭国とについて稲葉君の反問に答う
倭奴国および邪馬台国に関する誤解
 考古界の重鎮高橋健自君逝(い)かれて、考古学会長三宅先生〔三宅米吉。〕の名をもって追悼の文をもとめられた。しかもまだ自分がその文に筆を染めぬ間にその三宅先生がまた突然逝かれた。本当に突然逝かれたのだった。青天の霹靂というのはまさにこれで、茫然自失これを久しうすということは、自分がこの訃報に接した時にまことに体験したところであった。
 自分が三宅先生とご懇意を願うようになったのは、明治三十七、八年(一九〇四・一九〇五)戦役のさい、一緒に戦地見学に出かけた時であった。十数日間いわゆる同舟の好みを結び、あるいは冷たいアンペラの上に御同様南京虫を恐がらされたのであったが、その間にもあの沈黙そのもののごときお口から、ポツリポツリと識見の高邁なところをうけたまわるの機会を得て、その博覧強記と卓見とは心から敬服したことであった。今度考古学会から、先生のご研究を記念すべき論文を募集せられるというので、倭奴国および邪馬台国に関する小篇をあらわして、もって先生の学界における功績を追懐するの料とする。
 史学界、考古学界における先生の遺された功績はすこぶる多い。しかしその中において、直接自分の研究にピンときたのは漢委奴国王の問題の解決であった。うけたまわってみればなんの不思議もないことで、それを心づかなかった方がかえって不思議なくらいであるが、そこがいわゆるコロンブスの卵で、それまで普通にそれを怡土国王のことと解して不思議としなかったのであった。さらに唐人らの輩にいたっては、それをもって邪馬台国のことなりとし、あるいはただちに倭国全体の称呼であるとまで誤解していたのだった。

第三巻 第一六号 初雪 モーパッサン 秋田 滋(訳)  定価:200円
 長いクロワゼットの散歩路が、あおあおとした海に沿うて、ゆるやかな弧を描いている。はるか右のほうにあたって、エストゥレルの山塊がながく海のなかに突き出て眼界をさえぎり、一望千里のながめはないが、奇々妙々を極めた嶺岑(みね)をいくつとなく擁するその山姿は、いかにも南国へ来たことを思わせる、うつくしいながめであった。
 頭をめぐらして右のほうを望むと、サント・マルグリット島とサント・オノラ島が、波のうえにぽっかり浮かび、樅(もみ)の木におおわれたその島の背を二つ見せている。
 この広い入江のほとりや、カンヌの町を三方から囲んで屹立(きつりつ)している高い山々に沿うて、数知れず建っている白亜の別荘は、おりからの陽ざしをさんさんと浴びて、うつらうつら眠っているように見えた。そしてはるか彼方には、明るい家々が深緑の山肌を、その頂から麓のあたりまで、はだれ雪のように、まだらに点綴(てんてい)しているのが望まれた。
 海岸通りにたちならんでいる家では、その柵のところに鉄の格子戸がひろい散歩路のほうに開くようにつけてある。その路のはしには、もう静かな波がうちよせてきて、ザ、ザアッとそれを洗っていた。――うらうらと晴れわたった、暖かい日だった。冬とは思われない陽ざしの降りそそぐ、なまあたたかい小春日和である。輪を回して遊んでいる子供を連れたり、男となにやら語らいながら、足どりもゆるやかに散歩路の砂のうえを歩いてゆく女の姿が、そこにもここにも見えた。

第三巻 第一七号 高山の雪 小島烏水  定価:200円
 古い雪の上に新雪が加わると、その翌る朝などは、新雪が一段と光輝を放ってまばゆく見える。雪は古くなるほど、結晶形を失って、粒形に変化するもので、粒形になると、純白ではなくなる。また粒形にならないまでも、古い雪に白い輝きがなくなるのは、一部は空気を含むことが少ないからで、一部は鉱物の分子だの、塵芥(じんかい)泥土だのが加わって、黄色、灰色、またはトビ色に変わってしまうからだ。ことに日本北アルプスの飛騨山脈南部などでは、硫黄岳という活火山の降灰のために、雪のおもてが、瀝青(チャン)を塗ったように黒くなることがある。「黒い雪」というものは、私ははじめて、その硫黄岳のとなりの、穂高岳で見た。黒い雪ばかりじゃない、「赤い雪」も槍ヶ岳で私の実見したところである。私は『日本アルプス』第二巻で、それを「色が桃紅なので、水晶のような氷の脈にも血管が通っているようだ」と書いて、原因を花崗岩の※爛(ばいらん)した砂に帰したが、これは誤っている。赤い雪は南方熊楠氏の示教せられたところによれば、スファエレラ・ニヴァリス Sphaerella Nivalis という単細胞の藻で、二本のひげがある。水中を泳ぎまわっているが、またひげを失ってまるい顆粒となり、静止してしまう。それが紅色を呈するため、雪が紅になるので、あまり珍しいものではないそうである。ただし槍ヶ岳で見たのも、同種のものであるや否やは、断言できないが、要するに細胞の藻類であることは、たしかであろうと信ずる。ラボックの『スイス風景論』中、アルプス地方に見る紅雪として、あげてあるのも、やはり同一な細胞藻であった。このほかにアンシロネマ Ancylonema という藻がはえて、雪を青色またはスミレ色に染めることもあるそうであるが、日本アルプス地方では、私はいまだそういう雪を見たことはない。

第三巻 第一八号 光をかかぐる人々[続]『世界文化』連載分(一)徳永 直  月末最終号:無料
 昭和十八年(一九四三)三月のある日、私は“嘉平の活字”をさがすため、東京発鹿児島行きの急行に乗っていた。伴(つ)れがあって、七歳になる甥と、その母親の弟嫁とが、むかいあってこしかけているが、厚狭、小月あたりから、海岸線の防備を見せまいためか、窓をおろしてある車内も、ようやく白んできた。戦備で、すっかり形相のかわった下関構内にはいったころは、乗客たちも洗面の水もない不自由さながら、それぞれに身づくろいして、朝らしく生きかえった顔色になっている……。
 と、私はこの小説だか何だかわからない文章の冒頭をはじめるが、これを書いているのは昭和二十三年(一九四八)夏である。読者のうちには、昭和十八年に出版した同題の、これの上巻を読まれた方もあるかと思うが、私が「日本の活字」の歴史をさがしはじめたのは昭和十四年(一九三九)からだから、まもなくひと昔になろうとしているわけだ。歴史などいう仕事にとっては、十年という月日はちょっとも永くないものだと、素人の私にもちかごろわかってきているが、それでも、鉄カブトに巻ゲートルで、サイレンが鳴っても空襲サイレンにならないうちは、これのノートや下書きをとる仕事をつづけていたころとくらべると、いまは現実の角度がずいぶん変わってきている。弱い歴史の書物など、この変化の関所で、どっかへふっとんだ。いまの私は半そでシャツにサルマタで机のまえにあぐらでいるけれど、上巻を読みかえしてみると、やはり天皇と軍閥におされた多くのひずみを見出さないわけにはゆかない。歴史の真実をえがくということも、階級のある社会では、つねにはげしい抵抗をうける。変わったとはいえ、戦後三年たって、ちがった黒雲がますます大きくなってきているし、新しい抵抗を最初の数行から感じずにいられぬが、はたして、私の努力がどれくらい、歴史の真実をえがき得るだろうか?

第三巻 第一九号 光をかかぐる人々[続]『世界文化』連載分(二)徳永 直  定価:200円
 「江戸期の印刷工場」が近代的な印刷工場に飛躍するためには、活字のほかにいくつかの条件が必要である。第一にはバレンでこするかわりに、鉄のハンドでしめつけるプレスである。第二に、速度のある鋳造機である。第三に、バレン刷りにはふさわしくても金属活字に不向きな「和紙」の改良である。そして第四は、もっともっと重要だが、近代印刷術による印刷物の大衆化を見とおし、これを開拓してゆくところのイデオロギーである。特定の顧客であった大名や貴族、文人や墨客から離脱して、開国以後の新空気に胎動する平民のなかへゆこうとする思想であった。
 苦心の電胎字母による日本の活字がつくれても、それが容易に大衆化されたわけではない。のちに見るように「長崎の活字」は、はるばる「東京」にのぼってきても買い手がなくて、昌造の後継者平野富二は大童(おおわらわ)になって、その使用法や効能を宣伝しなければならなかったし、和製のプレスをつくって売り広めなければならなかったのである。つまり日本の近代的印刷工場が誕生するためには、総合的な科学の力と、それにもまして新しい印刷物を印刷したい、印刷することで大衆的におのれの意志を表現しようとする中味が必要であった。たとえばこれを昌造の例に見ると、彼は蒸汽船をつくり、これを運転し、また鉄を製煉し、石鹸をつくり、はやり眼を治し、痘瘡をうえた。活字をつくると同時に活字のボディに化合すべきアンチモンを求めて、日本の鉱山の半分くらいは探しまわったし、失敗に終わったけれど、いくたびか舶来のプレスを手にいれて、これの操作に熟練しようとした。これらの事実は、ガンブルがくる以前、嘉永から慶応までのことであるが、同時に、昌造が活字をつくったとき最初の目的が、まずおのれの欲する中味の本を印刷刊行したいことであった。印刷して、大名や貴族、文人や墨客ではない大衆に読ませたいということであった。それは前編で見たように、彼が幕府から捕らわれる原因ともなった流し込み活字で印刷した『蘭語通弁』〔蘭和通弁か〕や、電胎活字で印刷した『新塾余談』によっても明らかである。

第三巻 第二〇号 光をかかぐる人々[続]『世界文化』連載分(三)徳永 直  定価:200円
 第一に、ダイアはアルファベット活字製法の流儀にしたがって鋼鉄パンチをつくった。凹型銅字母から凸型活字の再生まで嘉平や昌造と同様であるが、字画の複雑な漢字を「流しこみ」による鋳造では、やさしくないということを自覚していること。自覚していること自体が、アルファベット活字製法の伝統でそれがすぐわかるほど、逆にいえば自信がある。
 第二は、ダイアはたとえば嘉平などにくらべると、後に見るように活字製法では「素人」である。嘉平も昌造も自分でパンチを彫ったが、そのダイアは「労働者を使用し」た。(略)
 第三に、ダイアの苦心は活字つくりの実際にもあるが、もっと大きなことは、漢字の世界を分析し、システムをつくろうとしていることである。アルファベット人のダイアは、漢字活字をつくる前に漢字を習得しなければならなかった。(略)
 さて、ペナンで発生したダイア活字は、これから先、どう発展し成功していったかは、のちに見るところだけれど、いまやパンチによる漢字活字が実際的に誕生したことはあきらかであった。そして、嘉平や昌造よりも三十年早く。日本では昌造・嘉平の苦心にかかわらず、パンチでは成功しなかった漢字活字が、ダイアによっては成功したということ。それが、アルファベット人におけるアルファベット活字製法の伝統と技術とが成功させたものであるということもあきらかであった。そして、それなら、この眼玉の青い連中は、なんで世界でいちばん難しい漢字をおぼえ、活字までつくろうとするのか? いったい、サミュエル・ダイアなる人物は何者か? 世界の同志によびかけて拠金をつのり、世界三分の一の人類の幸福のために、と、彼らは、なんでさけぶのか? 私はそれを知らねばならない。それを知らねば、ダイア活字の、世界で最初の漢字鉛活字の誕生したその根拠がわからぬ、と考えた。

第三巻 第二一号 光をかかぐる人々[続]『世界文化』連載分(四)徳永 直  定価:200円
 アジアには十六世紀を前後して銅活字の時代があり、朝鮮でも日本でもおこなわれている。秀吉の朝鮮侵略のみやげものに端を発している家康・家光時代の銅活字印刷があるけれど、それにくらべると、このさし絵に見る康熙帝の印刷局ははるかに大規模で組織的であることがわかる。しかし、日本でも『お湯殿日記』に見るような最初の文選工は「お公卿たち」であったが、支那でもあごひげの長い官人たちであった。明治になって印刷術が近代化されてからでも、印刷工業をおこした人々の多くが、武家など文字になじみのある階級だったように、私の徒弟だったころの先輩の印刷工の多くが、やはり士族くずれだったことを思い出す。(略)
 武英殿の銅活字は康熙帝の孫、高宗〔乾隆帝〕の代になるとつぶされて銅貨となった。日本でも家康時代の銅活字は同じ運命をたどっているけれど、支那のばあいは銅貨の不足が原因といわれている。しかし、もっと大きな原因は金属活字にあって、漢字組織ができないならば、またプレス式の印刷機もないとするならば、むしろ手わざの発達による木版の方が容易であり便利であった。ボディが銅であれ鉛であれ、それが彫刻に過ぎないならば、むしろ木版にしくはない。銅活字がほろびて再び木版術が栄え、極彩色の芸術的な印刷物もできるようになった。康熙・乾隆の時代に見られるこの傾向は、十七世紀の終わりから十八世紀のなかほどまでであるが、江戸中期から木版術が再興し、世界にたぐいない木版印刷術を生み出した日本と時間的にもほぼ一致している――ということも、漢字が持つ共通の宿命がするわざであったろう。

第三巻 第二二号 光をかかぐる人々[続]『世界文化』連載分(五)徳永 直  月末最終号:無料
 『東洋文化史上におけるキリスト教』(三六二ページ)で溝口靖夫氏は、前に述べたメドハーストが(Ibid, P.366)自分の当時の経験を追懐した文章を根拠にして、つぎのように述べているところがある。――第五の困難は、アヘン問題と宣教師の関係であった。メドハーストが広東に着いた一八三五年は、アヘン戦争の直前であり、支那と英国のあいだに険悪な空気がみなぎっていた。このときにあたって宣教師たちは、きわめて困難なる立場に置かれた。宣教師たちは、しばしばアヘンを積んだ船に乗ってきた。しかも、メドハーストらは切符は買っているが、積荷について容嘴(ようし)する権利はなかった。……宣教師は、英国人と支那人との間に立って、しばしば通訳の労をとらねばならなかったが、こんなとき支那人はアヘン貿易は正義にかなえるものなりや否や? をただすのであった。……ゆえに当時、宣教師たちのこいねがったのは、一艘の伝道用船を得ることであった。これによりアヘンの罪悪からまぬがるることであった。――一艘の伝道船で、アヘンから逃れることはできないけれど、一口にいって「インドからの手紙」は、英国議会をして宣教師らの活動を保証させる決議案をパスさせながら、こんどは「信教の自由憲章」を勝ち取らねばならぬほどそれが首かせになったことを示している。つまり、産業革命が生み出したアルファベット人種の革命的進歩性は、おなじ産業革命が生み出した「アヘンの罪悪」と衝突しなければならなかったが、この矛盾こそ資本主義の矛盾の中味であり、限界であった。

第三巻 第二三号 銀河鉄道の夜(一)宮沢賢治  定価:200円
「ですから、もしもこの天の川がほんとうに川だと考えるなら、その一つ一つの小さな星はみんなその川のそこの砂や砂利の粒にもあたるわけです。またこれを大きな乳の流れと考えるなら、もっと天の川とよく似ています。つまりその星はみな、乳のなかにまるで細かにうかんでいる脂油(あぶら)の球にもあたるのです。(略)」
 先生は中にたくさん光る砂のつぶの入った大きな両面の凸レンズをさしました。
「天の川の形はちょうどこんななのです。このいちいちの光るつぶが、みんな私どもの太陽と同じようにじぶんで光っている星だと考えます。私どもの太陽がこのほぼ中ごろにあって地球がそのすぐ近くにあるとします。みなさんは夜にこのまん中に立ってこのレンズの中を見まわすとしてごらんなさい。こっちの方はレンズが薄いので、わずかの光る粒、すなわち星しか見えないのでしょう。こっちやこっちの方はガラスが厚いので、光る粒すなわち星がたくさん見え、その遠いのはボウッと白く見えるという、これがつまり今日の銀河の説なのです。そんならこのレンズの大きさがどれくらいあるか、また、その中のさまざまの星についてはもう時間ですから、この次の理科の時間にお話しします。では今日はその銀河のお祭りなのですから、みなさんは外へ出て、よく空をごらんなさい。ではここまでです。本やノートをおしまいなさい。
 そして教室じゅうはしばらく机のふたをあけたりしめたり本をかさねたりする音がいっぱいでしたが、まもなく、みんなはきちんと立って礼をすると教室を出ました。 

第三巻 第二四号 銀河鉄道の夜(二)宮沢賢治  定価:200円
 そのとき汽車はだんだんしずかになって、いくつかのシグナルと転轍器(てんてつき)の灯をすぎ、小さな停車場に止まりました。
 その正面の青じろい時計はかっきり第二時を示し、その振子は、風もなくなり汽車も動かずしずかなしずかな野原のなかに、カチッカチッと正しく時をきざんで行くのでした。
 そしてまったくその振子の音の間から遠くの遠くの野原のはてから、かすかなかすかな旋律が糸のように流れてくるのでした。「新世界交響楽だわ。」むこうの席の姉がひとりごとのようにこっちを見ながらそっと言いました。まったくもう車の中ではあの黒服の丈高い青年も誰もみんなやさしい夢を見ているのでした。
(こんなしずかないいところで僕はどうしてもっと愉快になれないだろう。どうしてこんなにひとりさびしいのだろう。けれどもカムパネルラなんかあんまりひどい。僕といっしょに汽車に乗っていながら、まるであんな女の子とばかり話しているんだもの。僕はほんとうにつらい。)
 ジョバンニはまた両手で顔を半分かくすようにして、むこうの窓の外を見つめていました。
 透きとおったガラスのような笛が鳴って、汽車はしずかに動き出し、カムパネルラもさびしそうに星めぐりの口笛をふきました。

第三巻 第二五号 ドングリと山猫/雪渡り 宮沢賢治  定価:200円
 空が青くすみわたり、ドングリはピカピカしてじつにきれいでした。
「裁判ももう今日で三日目だぞ、いい加減になかなおりをしたらどうだ。」山ねこが、すこし心配そうに、それでもむりに威張(いば)って言いますと、ドングリどもは口々にさけびました。
「いえいえ、だめです、なんといったって頭のとがってるのがいちばんえらいんです。そしてわたしがいちばんとがっています。
「いいえ、ちがいます。まるいのがえらいのです。いちばんまるいのはわたしです。
「大きなことだよ。大きなのがいちばんえらいんだよ。わたしがいちばん大きいからわたしがえらいんだよ。
「そうでないよ。わたしのほうがよほど大きいと、きのうも判事さんがおっしゃったじゃないか。
「だめだい、そんなこと。せいの高いのだよ。せいの高いことなんだよ。
「押しっこのえらいひとだよ。押しっこをしてきめるんだよ。」もうみんな、ガヤガヤガヤガヤ言って、なにがなんだか、まるで蜂の巣をつっついたようで、わけがわからなくなりました。そこで山猫がさけびました。
「やかましい! ここをなんとこころえる。しずまれ、しずまれ!」

第三巻 第二六号 光をかかぐる人々[続]『世界文化』連載分(六)徳永 直  定価:200円
 活字が日本に渡るには、他の条件が必要であった。そして、その他の条件のうちもっとも大きなものは、やはり文久二年・一八六二年の日本幕府がはじめてやった貿易船千歳丸の上海入港であったろう。(略)経済的にいえばこの貿易は失敗したけれど、不馴れな幕府の役人たちは積荷をそのまま持ち戻るはめにもなったけれど、オランダの役人につれられて各国の領事たちにあったり、諸外国人の活動ぶりを見てびっくりした。たとえばこれを便乗者・高杉一人の場合に見てもあきらかである。(略)その後二年あまりで、攘夷の中心長州藩が領民に洋品使用の禁を解き、薩摩や佐賀と前後して海外貿易を営なんだ急角度の転回も、したがって「薩長締盟」を可能にした思想的背景も、このときの千歳丸便乗によって彼が上海で感得したものによるところ、はなはだ多いといわれている。
 (略)第一回の千歳丸のときは高杉のほかに中牟田や五代〔五代友厚か。〕や浜松藩の名倉(なぐら)予可人(あなと)などあったが、第二回の健順丸のときは、前巻でなじみの昌造の同僚で長崎通詞、安政開港に功労のあった森山多吉郎、先の栄之助がいまは外国奉行支配調役として乗り組んでいたし、第三回目、慶応三年(一八六七)の同じく幕府船ガンジス号のときは、佐倉藩士高橋作之助〔猪之助か。(のちの由一)ら多数があり、たび重なるにつれて上海渡航者の数は急速に増えていった。(略)
 また、官船以外の密航者、あるいは藩所有の船修理と称して渡航する者もたくさんあった。(略)さては中浜万次郎を案内に立てて汽船を買いに来た土佐藩の後藤象次郎などと、千歳丸以後は「きびす相ついで」いる(略)。

第三巻 第二七号 特集 黒川能・春日若宮御祭 折口信夫  月末最終号:無料
黒川能・観点の置き所
 特殊の舞台構造
 五流の親族
 能楽史をかえりみたい
 黒川の能役者へ
村で見た黒川能
能舞台の解説
春日若宮御祭の研究
 おん祭りの今と昔と
 祭りのお練り
 公人の梅の白枝(ずはえ)
 若宮の祭神
 大和猿楽・翁
 影向松・鏡板・風流・開口
 細男(せいのお)・高足・呪師

 山形県には、秋田県へかけて室町時代の芸能に関した民俗芸術が多く残っております。黒川能は、その中でも著しいものの一つで、これと鳥海山の下のひやま舞い〔杉沢比山舞か。〕との二つは、特に皆さまに見ていただきたいものであります。この黒川能が二十数年ぶりでのぼってくるのであります。世話をしてくださった斎藤氏〔斎藤香村か。〕に感謝しなければならないと思います。
 特にこの能で注意しなければならないのは、舞台構造であります。京都の壬生念仏を思わせるような舞台で、上下の廊下が橋掛りになっており、舞台の正面には春日神社の神殿をひかえているのであります。(略)奉仕する役者はというと、上座と下座が二部落にわかれており、ここで能をするときは、上座は左橋掛り(正面から見て)から出て舞い、下座は右橋掛りから出て舞うことになっている。これはもっとも大きな特徴で、今度の公演にいくぶんでも実現できれば結構だと思います。この神前演奏の形は、春日の若宮祭りの第一日の式と同形式といっていいと思います。しかも、黒川ではつねにその形式をくり返しているわけで、見物人よりも神に対する法楽を主としていることがわかります。
(略)おもしろいのは狂言です。表情にも言語にも必ず多少の驚きを受けられるでしょう。ことに方言的な言い回しなどには、つい、われわれも見ていて釣りこまれるものがありました。(「黒川能・観点の置き所」より)

第三巻 第二八号 面とペルソナ/人物埴輪の眼 他 和辻哲郎  定価:200円
面とペルソナ / 文楽座の人形芝居
能面の様式 / 人物埴輪の眼
(略)しかし「意味ある形」、たとえば「甲冑」を円筒上の人物に着せたとなると、その甲冑は、四肢などに対するとはまったく段ちがいの細かな注意をもって表現されている。(略)それはこの鉄の武器が、人体などよりもはるかに強い関心の対象であったことを示すものであって、いかにも古墳時代の感じ方らしい。(略)
(略)埴輪(はにわ)人形を近くからでなく、三間、五間、あるいはそれ以上に、ときには二、三十間の距離を置いて、ながめてみる必要があると思う。それによって埴輪人形の眼はじつに異様な生気をあらわしてくるのである。もし、この眼が写実的に形作られていたならば、すこし遠のけば、はっきりとは見えなくなるであろう。しかるにこの眼は、そういう形づけを受けず、そばで見れば粗雑に裏までくりぬいた空洞の穴にすぎないのであるが、遠のけば遠のくほど、その粗雑さが見えなくなり、魂の窓としての眼の働きが表面へ出てくる。それが異様な生気を現わしてくるゆえんなのである。眼にそういう働きがあらわれれば、顔面は生気をおび、埴輪人形全体が生きてくるのはもちろんである。古墳時代の人々はそういうふうにして埴輪の人形を見、また、そういうふうに見えるものとして埴輪の人形を作ったのであった。

第三巻 第二九号 火山の話 今村明恒  定価:200円
 桜島噴火はいちじるしい前徴を備えていた。数日前から地震が頻々(ひんぴん)におこることは慣例であるが、今回も一日半前から始まった。また七、八十年前から土地がしだいに隆起しつつあったが、噴火後は元どおりに沈下したのである。そのほか、温泉・冷泉がその温度を高め、あるいは湧出量を増し、あるいは新たに湧出し始めたようなこともあった。
 霧島火山群は東西五里にわたり二つの活火口と多くの死火山とを有している。その二つの活火口とは矛の峰(高さ一七〇〇メートル)の西腹にある御鉢(おはち)と、その一里ほど西にある新燃鉢(しんもえばち)とである。霧島火山はこの二つの活火口で交互に活動するのが習慣のように見えるが、最近までは御鉢が活動していた。ただし享保元年(一七一六)における新燃鉢の噴火は、霧島噴火史上においてもっとも激しく、したがって最高の損害記録をあたえたものであった。
 磐梯山(高さ一八一九メートル)の明治二十一年(一八八八)六月十五日における大爆発は、当時、天下の耳目を聳動(しょうどう)せしめたものであったが、クラカトアには比較すべくもない。このときに磐梯山の大部分は蒸気の膨張力によって吹き飛ばされ、堆積物が渓水をふさいで二、三の湖水を作ったが、東側に流れ出した泥流のために土地のみならず、四百余の村民をも埋めてしまったのである。

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