和辻哲郎 わつじ てつろう
1889-1960(明治22.3.1-昭和35.12.26)
倫理学者。兵庫県生れ。夏目漱石の門に入る。東洋大・京大・東大教授。人間存在を間柄として捉える道徳論の展開に特色がある。風土論をはじめ文化史にも業績が多い。著「古寺巡礼」「日本精神史研究」「風土」「倫理学」「日本倫理思想史」など。文化勲章。

◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)。
◇表紙絵:「白式尉」『黒川能の世界』(平凡社、1985.11)より。



もくじ 
面とペルソナ / 人物埴輪の眼 他 和辻哲郎


ミルクティー*現代表記版
面とペルソナ
文楽座の人形芝居
能面の様式
人物埴輪の眼

オリジナル版
面とペルソナ
文楽座の人形芝居
能面の様式
人物埴輪の眼

地名年表人物一覧書籍
難字、求めよ
後記次週予告

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*凡例
〈 〉:割り注、もしくは小書き。
〔 〕:編者(しだ)注。

*底本
面とペルソナ
底本:「和辻哲郎随筆集」岩波文庫、岩波書店
   1995(平成7)年9月18日第1刷発行
   2006(平成18)年11月22日第6刷発行
初出:「思想」
   1935(昭和10)年6月号
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文楽座の人形芝居
底本:「和辻哲郎随筆集」岩波文庫、岩波書店
   1995(平成7)年9月18日第1刷発行
   2006(平成18)年11月22日第6刷発行
初出:「思想」
   1935(昭和10)年8月号
http://www.aozora.gr.jp/cards/001395/card49908.html

能面の様式
底本:「和辻哲郎随筆集」岩波文庫、岩波書店
   1995(平成7)年9月18日第1刷発行
   2006(平成18)年11月22日第6刷発行
初出:「思想」
   1936(昭和11)年7月号
http://www.aozora.gr.jp/cards/001395/card49907.html

人物埴輪の眼
底本:「和辻哲郎随筆集」岩波文庫、岩波書店
   1995(平成7)年9月18日第1刷発行
   2006(平成18)年11月22日第6刷発行
初出:「世界」
   1956(昭和31)年1月号
http://www.aozora.gr.jp/cards/001395/card49894.html

NDC 分類:121(東洋思想/日本思想)
http://yozora.kazumi386.org/1/2/ndc121.html
NDC 分類:210(日本史)
http://yozora.kazumi386.org/2/1/ndc210.html
NDC 分類:773(演劇/能楽.狂言)
http://yozora.kazumi386.org/7/7/ndc773.html
NDC 分類:777(演劇/人形劇)
http://yozora.kazumi386.org/7/7/ndc777.html




面とペルソナ

和辻哲郎


 問題にしない時にはわかりきったことと思われているものが、さて問題にしてみるとじつにわからなくなる。そういうものがわれわれの身辺には無数に存している。「顔面」もその一つである。顔面が何であるかを知らない人は目明きには一人もないはずであるが、しかも顔面ほど不思議なものはないのである。
 われわれは顔を知らずに他の人とつきあうことができる。手紙・伝言などの言語的表現がその媒介ばいかいをしてくれる。しかし、その場合にはただ相手の顔を知らないだけであって、相手に顔がないと思っているのではない。多くの場合には言語に表現せられた相手の態度から、あるいは文字における表情から、無意識的に相手の顔が想像せられている。それは通例きわめて漠然ばくぜんとしたものであるが、それでも直接った時に予期との合不合をはっきり感じさせるほどの力強いものである。いわんや顔を知りあっている相手の場合には、顔なしにその人を思いうかべることは決してできるものでない。絵をながめながらふとその作者のことを思うと、その瞬間に浮かび出るのは顔である。友人のことが意識にのぼる場合にも、その名とともに顔が出てくる。もちろん顔のほかにも肩つきであるとか、うしろ姿であるとか、あるいは歩きぶりとかというようなものが人の記憶と結びついてはいる。しかし、われわれはこれらのいっさいを排除してもなお人を思いうかべ得るが、ただ顔だけは取りのけることができない。うしろ姿で人を思う時にも、顔は向こうを向いているのである。
 このことを端的に示しているのは肖像彫刻・肖像画のたぐいである。芸術家は「人」を表現するのに「顔」だけに切りつめることができる。われわれは四肢胴体が欠けているなどということを全然感じないで、そこにその人全体を見るのである。しかるに顔を切り離したトルソーになると、われわれはそこに美しい自然の表現を見いだすのであって、決して「人」の表現を見はしない。もっとも芸術家がはじめからこのようなトルソーとして肉体を取りあつかうということは、肉体において自然を見る近代の立場であって、もともと「人」の表現をねらっているのではない。それでは、「人」を表現して、しかも破損によってトルソーとなったものはどうであろうか。そこには明白に首や手足が欠けているのである。すなわちそれは「断片」となっているのである。そうしてみると、胴体から引き離した首はそれ自身「人」の表現として立ち得るにかかわらず、首から離した胴体は断片に化するということになる。顔が人の存在にとっていかに中心的地位を持つかはここに露骨に示されている。
 この点をさらにいっそう突きつめたのが「面」である。それは首から頭や耳を取り去って、ただ顔面だけを残している。どうしてそういうものが作り出されたか。舞台の上で一定の人物を表現するためにである。最初は宗教的な儀式としての所作事にとって必要であった。その所作事が劇に転化するにしたがって登場する人物は複雑となり、面もまた分化する。かかる面を最初に芸術的に仕上げたのはギリシャ人であるが、しかしその面の伝統を持続し、それに優れた発展を与えたものは、ほかならぬ日本人なのである。
 昨秋、表慶館ひょうけいかんにおける伎楽面ぎがくめん舞楽面ぶがくめん能面のうめんなどの展観を見られた方は、日本の面にいかに多くの傑作があるかを知っていられるであろう。自分のとぼしい所見によれば、ギリシャの仮面はこれほど優れたものではない。それは単に王とか王妃とかの「役」を示すのみであって、伎楽面に見られるような一定の表情の思い切った類型化などはくわだてられていない。かと言って、能面のある者のように積極的な表情を注意ぶかくぬぐい去ったものでもない。面におけるこのような芸術的苦心はおそらく他に比類のないものであろう。このことは、日本の彫刻家の眼が肉体の美しさよりもむしろ肉体における「人」に、したがって「顔面の不思議」に集中していたことを示すのではなかろうか。
 が、これらの面の真の優秀さは、それを棚にならべて、彫刻を見ると同じように、ただながめたのではわからない。面が面として胴体から、さらに首から、引き離されたのは、ちょうどそれが彫刻と同じに取り扱われるのではないがためである。すなわち生きて動く人がそれを顔につけて一定の動作をするがためなのである。しからば彫刻が本来静止するものであるに対して、面は本来動くものである。面がその優秀さを真に発揮するのは動く地位に置かれた時でなくてはならない。
 伎楽面が喜び・怒りなどの表情をいかにするどく類型化しているか、あるいは一定の性格、人物の型などをいかにきわどく形づけているか、それは人がこの面をつけて一定の所作をする時にほんとうに露出してくるのである。その時にこそ、この顔面において、不必要なものがすべて抜き去られていること、ただ強調せらるべきもののみが生かし残されていることが、はっきり見えてくる。またそのゆえに、この顔面は実際に生きている人の顔面よりも幾倍か強く生きてくるのである。舞台で動く伎楽面の側に自然のままの人の顔を見いだすならば、その自然の顔がいかに貧弱な、みすぼらしい、生気のないものであるかを痛切に感ぜざるを得ないであろう。芸術の力は面において顔面の不思議さを高め、強め、純粋化しているのである。
 伎楽面が顔面における「人」を積極的に強調し純粋化しているとすれば、能面はそれを消極的に徹底せしめたといえるであろう。伎楽面がいかに神話的・空想的な顔面を作っても、そこに現わされているものはいつも「人」である。たとい口がくちばしになっていても、われわれはそこに人らしい表情を強く感ずる。しかるに能面の鬼は顔面から一切の人らしさを消し去ったものである。これもまた凄さを具象化したものとは言えるであろうが、しかし人のすごさの表情を類型化したものとは言えない。総じてそれは人の顔の類型ではない。能面のこの特徴は男女をあらわす通例の面においても見られる。それは男であるか女であるか、あるいは老年であるか若年であるか、とにかく人の顔面をあらわしてはいる。しかし、喜びとか怒りとかというごとき表情はそこにはぜんぜん現わされていない。人の顔面において通例に見られる筋肉の生動が、ここでは注意深く洗い去られているのである。だからその肉づけの感じは急死した人の顔面にきわめてよく似ている。特にじょううばの面は強く死相を思わせるものである。このように徹底的に人らしい表情を抜き去った面は、おそらく能面以外にどこにも存しないであろう。能面のあたえる不思議な感じは、この否定性にもとづいているのである。
 ところで、この能面が舞台にあらわれて動く肢体を得たとなると、そこに驚くべきことがおこってくる。というのは、表情を抜き去ってあるはずの能面がじつに豊富きわまりのない表情を示しはじめるのである。面をつけた役者が手足の動作によって何ごとかを表現すれば、そこに表現せられたことはすでに面の表情となっている。たとえば手が涙をぬぐうように動けば、面はすでに泣いているのである。さらにその上に「うたい」の旋律による表現が加わり、それがことごとく面の表情になる。これほど自由自在に、また微妙に、心の陰影を現わし得る顔面は、自然の顔面には存しない。そうしてこの表情の自由さは、能面が何らの人らしい表情をも固定的に現わしていないということにもとづくのである。笑っている伎楽面は泣くことはできない。しかし死相を示す尉やうばは泣くことも笑うこともできる。
 このような面の働きにおいて特にわれわれの注意をひくのは、面がそれをかぶって動く役者の肢体や動作をおのれの内に吸収してしまうという点である。実際には役者が面をつけて動いているのではあるが、しかしその効果からいえば面が肢体を獲得したのである。もし、ある能役者が、女の面をつけて舞台に立っているにかかわらず、その姿を女として感じさせないとすれば、それはもう役者の名には価しないのである。否、どんなつたない役者でも、あるいは素人しろうとでも、女の面をつければ女になるといってよい。それほど面の力は強いのである。したがってまた逆に面はその獲得した肢体に支配される。というのは、その肢体は面の肢体となっているのであるから、肢体の動きはすべてその面の動きとして理解され、肢体による表現が面の表情となるからである。この関係を示すものとして、たとえば神代じんだい神楽かぐらを能と比較しつつ考察してみるがよい。同じ様式の女の面が能の動作と神楽の動作との相違によっていかにはなはだしく異なったものになるか。能の動作の中にぜんぜん見られないような、やわらかな、女らしい体のうねりが現われてくれば、同じ女の面でも能の舞台で決して見ることのできないなまめかしいものになってしまう。その変化は実際、人をおどろかせるにたるほどである。同じ面がもし長唄で踊る肢体を獲得したならば、さらにまた全然別の面になってしまうであろう。
 以上の考察から、われわれは次のようにいうことができる。面は元来、人体から肢体や頭を抜き去ってただ顔面だけを残したものである。しかるにその面はふたたび肢体を獲得する。人を表現するためにはただ顔面だけに切りつめることができるが、その切りつめられた顔面は自由に肢体を回復する力を持っている。そうしてみると、顔面は人の存在にとって核心的な意義を持つものである。それは単に肉体の一部分であるのではなく、肉体をおのれに従える主体的なるものの座、すなわち人格の座にほかならない。
 ここまで考えてくると、われわれはおのずから persona を連想せざるを得ない。この語はもと、劇に用いられる面を意味した。それが転じて劇におけるそれぞれの役割を意味し、したがって劇中の人物をさす言葉になる。dramatis personae がそれである。しかるにこの用法は劇を離れて現実の生活にも通用する。人間生活におけるそれぞれの役割がペルソナである。われ・なんじ・彼というのも第一、第二、第三のペルソナであり、地位・身分・資格などもそれぞれ社会におけるペルソナである。そこでこの用法が神にまで押しひろめられて、父と子と聖霊が神の三つのペルソナだといわれる。しかるに人は社会においておのおの彼自身の役目を持っている。おのれ自身のペルソナにおいて行動するのは、彼がおのれのなすべきことをなすのである。したがって他の人のなすべきことを代理する場合には、他の人のペルソナをつとめるということになる。そうなるとペルソナは行為の主体、権利の主体として、「人格」の意味にならざるを得ない。かくして「面」が「人格」となったのである。
 ところで、このような意味の転換がおこなわれるためのもっとも重大な急所は、最初に「面」が「役割」の意味になったということである。面をただ顔面彫刻としてながめるだけならばこのような意味は生じない。面が生きた人をおのれの肢体として獲得する力を持てばこそ、それは役割でありまた人物であることができる。したがって、この力がいきいきと感ぜられている仲間において、「お前はこの前には王の面をつとめたが、今度は王妃の面をつとめろ」というふうなことを言い得るのである。そうなると、ペルソナが人格の意味を獲得したという歴史の背後にも、前に言った顔面の不思議がはたらいていた、と認めてよいはずである。
 面という言葉はペルソナと異なって人格とか法人とかの意味を獲得してはおらない。しかしそういう意味を獲得するような傾向が全然なかったというのではない。「人々」という意味で「面々」という言葉が用いられることもあれば、各自を意味して「めいめい」(面々のなまりであろう)ということもある。これらは面目を立てる、顔をつぶす、顔を出す、などの用法とともに、顔面を人格の意味に用いることの萌芽であった。

付記。能面についての具体的なことは近刊、野上のがみ豊一郎とよいちろう氏編の『能面』を見られたい。氏は能面の理解と研究において現代の第一人者である。


底本:「和辻哲郎随筆集」岩波文庫、岩波書店
   1995(平成7)年9月18日第1刷発行
   2006(平成18)年11月22日第6刷発行
初出:「思想」
   1935(昭和10)年6月号
入力:門田裕志
校正:米田
2010年12月5日作成
青空文庫作成ファイル:
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文楽座ぶんらくざの人形芝居

和辻哲郎


 日本文化協会のもよおしで、文楽座の人形使いの名人吉田よしだ文五郎ぶんごろう桐竹きりたけ紋十郎もんじゅうろう諸氏をまねいて人形芝居についての講演・実演などがあった。竹本たけもと小春太夫こはるたゆう春子太夫はるこたゆうか。・三味線鶴沢つるさわ重造じゅうぞう諸氏も参加した。人形芝居のことをあまり知らないわれわれにとっては、たいへんありがたいもよおしであった。舞台で見ているだけではちょっと気づかない、いろいろな点をはっきり教えられたように思う。
 あの人形芝居の人形の構造はきわめて簡単である。人形として彫刻的に形成せられているのは、ただ首と手と足にすぎない。女の人形では、その足さえもないのが通例である。首は棒で支えてひもであおむかせたり、うつむかせたりする。物によると眼やまゆを動かすひももついている。それ以上の運動はみな、首の棒をにぎっている人形使いの手首の働きである。手は二の腕から先で、指が動くようになっている。女の手は指をそろえたままで開いたりかがめたりする。三味線をはじく時などは個々の指の動く特別の手を使う。男の手は五本の指のパッと開く手、親指だけが離れて開く手などいくぶん種類が多い。しかし、手そのものの構造や動きかたはきわめて単純である。それを生かせて使う力は人形使いの腕にある。足になるといっそう簡単で、ただひざから下の足の形が作られているというにすぎない。
 これらの三つの部分、首と手と足とを結びつける仕方がまた簡単である。首をさしこむために、洋服けの扁平へんぺいな肩のようなざっとしたわくが作ってあって、そのはし糸瓜へちまが張ってある。首の棒をにぎる人形使いの左手がそれを支えるのである。そのわくからひもが四本出ていて、その二本が腕に結びつけられ、他の二本が脚に結びつけられている。すなわち人形の肢体を形成しているのは、じつはこの四本のひもなのであって、手や足はこのひもはしにすぎない。したがって足を見せる必要のない女の人形にあっては、肢体の下半には何もない。あるのは衣装だけである。
 人形の肢体がひもであるということは、じつは人形の肢体を形成するのが人形使いの働きだということなのである。すなわちそれはぜんぜん彫刻的な形成ではなくして人形使い的形成なのである。この形成が人形の衣装によってあらわされる。あの衣装は胴体をつつむ衣装ではなくしてただ衣装のみなのであるが、それが人形使い的形成によってじつにいきいきとした肢体となって活動する。女の人形には足はないが、ただ着物のすその動かし方一つですわりもすれば歩きもする。このように人形使いは、ただ着物だけで、優艶ゆうえんな肉体でも剛強な肉体でも現わし得るのである。ここまでくると、われわれは「人形」という概念をすっかり変えなくてはならなくなる。ここに作り出された「人の形」は、ただ人形使いの運動においてのみ形成される形なのであって、静止し凝固した形象なのではない。したがって彫刻とは最も縁遠いものである。
 たぶん、このことを指摘するためであったろうと思われるが、桐竹きりたけ紋十郎もんじゅうろう氏は「きつね」を持ち出して、それが使い方一つで犬にもきつねにもなることを見せてくれた。そうしてこういう話をした。あるとき、西洋人が文楽の舞台できつねを見て非常に感心し、それを見せてもらいに楽屋へ来た。人形使いはあそこにかっていますと言って柱にぶら下げたきつねをさした。それは胴体が中のうつろな袋なので、柱にかかっているところを見れば子供の玩具にしか見えない。西洋人はどうしても承知しなかった。舞台で見た、あのいきいきとしたきつねがどんなに精妙な製作であろうかを問題として彼は見にきたのであった。そこで人形使いはやむなく立って柱からきつねを取り、それを使って見せた。西洋人は驚喜して、それだそれだとさけびだしたというのである。西洋人は彫刻的に完成せられた驚くべききつねの像を想像していたのであった。しかるにそのきつねは人形使いの動きの中に生きていたのである。
 人形がこういうものであるとすると、われわれの第一に気づくことは、人形芝居がそれを使う人の働きを具象化しているものであり、したがって音楽と同様に刻々の創造であるということである。しかるに人形は一人では使えない。人形使いは左手に首を持ち、右手に人形の右手を持っている。人形の左手は他の使い手にまかせなくてはならぬ。さらに人形の足は第三の人の共働を待たねばならぬ。そうすると使う人の働きを具象化するということは、少なくともこの三人の働きの統一を具象化することでなくてはならない。ところで、ここに表現せられるのは一人の人の動作である。三人の働きが合一ごういつしてあたかも一人の人であるかのごとく動くのではまだたりない。実際に一人の人として動かなければ、人形の動きは生きてこないのである。そこで、この三人の間の気合いの合致が何よりも重大な契機になる。人形が生きて動いているときには、同時にこの三人の使い手の働きが有機的な一つの働きとして進展している。見る目には三人の使い手の体の運動があたかも巧妙な踊りのごとくに隙間すきまなく統一されて、なだらかに流れていくように見える。ただ一つの躊躇ちゅうちょ、ただ一つのつまずきが、この調和せる運動を破るのである。しかし、この一つの運動を形成する三人は、あくまでも三人であって一人ではない。足を動かす人の苦心は彼自身の苦心であって、首を持つ師匠の苦心ではない。それぞれの人はそれぞれの立場においてその精根せいこんをつくさねばならぬ。そうして、彼がもっともよくその自己であり得た時に、彼らはもっともよく一つになり得るのである。
 吉田文五郎氏の話した若いころの苦心談は、このことを指示していたように思われる。足を使っていた少年の彼を、師匠は仮借かしゃくするところなく叱責しっせきした。種々に苦心してもなかなか師匠は叱責の手をゆるめない。ある日、彼はついに苦心の結果一つのやり方を考案し、それでもなお師匠が彼を叱責するようであれば、おもいきり師匠をなぐり飛ばして逃亡しようと決心した。そうしてそのきわどい瞬間に達したときに、師匠は初めてうまいとほめた。自分の運命をその瞬間にかけるというほどにおのれが緊張したとき、はじめて師匠との息が合ったのである。それまでの叱責は自分の非力に起因していた。そこで文五郎氏もはじめて師匠の偉さ、ありがたさをさとったというのである。
 このような気合いの統一はしかし、ただ三人の間に限ることではない。他の人形とのあいだに、さらに語り手や三味線とのあいだに、存しなくてはならない。それでなくては舞台上の統一は取れないのである。オペラや能とちがって人形浄瑠璃においては音楽は純粋に音楽家が、動作は純粋に人形使いが引きうける。そこで動作の心使いにわずらわされることのない音楽家の音楽的表現が、ただちに動作する人形の言葉になる。人形はみずから口をきかないがゆえに、かえってみずから言うよりも何倍か効果のある言葉を使い得るのである。そこで人形の動作において具象化せられる人形使いの働きと、その人形の魂の言葉を語っている音楽家の働きとが、ぴったりと合ってこなくてはならない。オペラにおいて唱い手が唱いつつ動作しているあの働きと同じことをやるために、人形使いたちと語り手のあいだに非常に緊密な気合いの合致が実現されねばならぬのである。そうしてそれだけの苦労は決してむくわれないのではない。オペラにおける動作は一般に芸術的とは言い難いおろかなものであるが、人形の動作はまさに人間の表情活動の強度な芸術化・純粋化と言ってよいのである。
 ところで、オペラの統一はオーケストラの指揮者がにぎっているが、人形芝居にはこのような指揮者がいない。しかも人形の使い手、語り手、弾き手は、直接に統一を作り出すのである。それは古くからいわれているように「息を合わせる」のであって、悟性ごせいの判断に待つのではない。この点について三味線の鶴沢つるさわ重造じゅうぞう氏はきわめて興味の深いことを話してくれた。最初、三味線をき出すときに、左右をかえりみ、ころあいをはかってやるのではない。もちろん合図などをするのではない。自分がパッと飛び出すときに、同時に語り手も使い手も出てくれるのである。左右に気を兼ねるようであればこの気合いが出ない。おもいきってパッと出てしまうのである。ところでこの気合いは、き出しの時にかぎらない。あらゆる瞬間がそれである。刻々として気合いをあわせてゆかなければ舞台は生きるものではない。この話はわれわれに「指揮者なきオーケストラ」の話を思い出させる。それはロシアでは革命的な現象であったかもしれない。しかし日本の芸術家にはきわめてあたりまえのことであった。否、そのほかに統一をつくる仕方はなかったのである。
 第二にわれわれの気づいたことは、人形の動作がいかに鋭い選択によってなっているかということであった。この選択はかならずしも今の名人がやったのではない。最初、人形芝居が一つの芸術様式として成立したのは、この選択が成功したということにほかならぬのである。人形に動作をあたえ、そうして生ける人よりもいっそうよく生きた感じを作り出すためには、人間の動作の中からきわめて特徴的なものを選び取らなくてはならなかった。いかに人形使いの手先が器用であるからといって、人形に無限に多様な動きをあたえることはできない。手先の働きには限度がある。そこでこの限度内において人形を動かすためには、不必要な動作、意味の少ない動作は切り捨てるほかはない。そうすれば人の動作にとって本質的な(と人形使いが直観する)契機のみが残されてくることになる。ここに能の動作との著しい対照がおこってくるゆえんがあり、また人形振にんぎょうぶりが歌舞伎芝居に深い影響をあたえたゆえんもある。これらの演劇形態についてくわしい知識を有する人が、いちいちの動作の仕方を細かく分析し比較したならば、そこに、これらの芸術の最も深い秘密が開示せられはしまいかと思われる。
 一、二の例をあげれば、人形使いが人形の構造そのものによってもっとも強く把握しているのは、首の動作である。特に首を左右に動かす動作である。これは人形使いの左手の手首によってもっとも繊細に実現せられる。それによってうつ向いた顔もあおむいた顔も霊妙な変化を受けることができる。ところで、この種の運動は「能」の動作においてもっとも厳密に切り捨てられたものであった。とともに、歌舞伎芝居がその様式の一つの特徴として取り入れたものであった。歌舞伎芝居において特に顕著に首を動かす一、二の型を頭にうかべつつ、それが自然な人間の動作のどこに起源を持つかを考えてみるがよい。そこにおのずから、人形の首の運動が演技様式発展の媒介者として存することを見いだし得るであろう。
 あるいはまた、人形の肩の動作である。これもまた首の動作に連関して人形の構造そのものの中に重大な地位を占めている。人形使いはたとえば右肩をわずかに下げる運動によって肢体全体に女らしい柔軟さをあたえることができる。逆にいえば肢体全体の動きが肩に集中しているのである。ところで、このように肩の動きによって表情するということも「能」の動作がぜんぜん切り捨て去ったところである。とともに歌舞伎芝居が誇大化しつつ、一つの様式に作り上げたものである。ここでもわれわれは人間の自然的な肩の動作が、人形の動作の媒介によって歌舞伎の型にまで様式化せられていったことを見いだし得るであろう。
 この種の例はなお、いくらでもあげることができるであろう。人形使いは人間の動作を選択し簡単化することによって、逆に芸術的な人間の動作を創造したのである。そうしてかく創造せられた動作は、それが芸術的であり、したがって現実よりも美しいという、まさにその理由によって、人間に模倣衝動をおこさせる。自然的な人の動作のうちに知らず知らずに人形振りがしみこんでくる。この際にはまた逆に、歌舞伎芝居が媒介の役をつとめているといえるかもしれない。徳川時代にできあがった風俗作法のうちには、右のごとき視点からしてはじめて理解され得るものが少なからず存すると思う。


底本:「和辻哲郎随筆集」岩波文庫、岩波書店
   1995(平成7)年9月18日第1刷発行
   2006(平成18)年11月22日第6刷発行
初出:「思想」
   1935(昭和10)年8月号
入力:門田裕志
校正:米田
2010年12月14日作成
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能面の様式

和辻哲郎


 野上のがみ豊一郎とよいちろう君の『能面』がいよいよ出版されることになった。昨年『面とペルソナ』を書いた時にはすぐにも刊行されそうな話だったので、「近刊」として付記しておいたが、それからもう一年以上になる。網目版あみめばんの校正にそれほど念を入れていたのである。それだけに出来ばえはすばらしく良いように思われる。ここに集められた能面は実物を自由に見ることのできないものであるが、写真版としてわれわれの前に置かれてみると、われわれは、ともどもにその美しさや様式について語りあうことができるであろう。この機会に自分も一つの感想を述べたい。
 今からもう十八年の昔になるが、自分は『古寺こじ巡礼じゅんれい〔一九一九年(大正八)刊。のなかで伎楽面の印象を語るに際して、「能の面は伎楽面にくらべれば比較にならぬほどあさましい」と書いた。能面に対してこれほど盲目であったことはまことに慙愧ざんきえないしだいであるが、しかし、そういう感じ方にも意味はあるのである。自分はあのとき、伎楽面の美しさがはっきり見えるようにメガネの度を合わせておいて、そのままのメガネで能面を見たのであった。したがって自分は能面のうちに伎楽面的なものを求めていた。そうして単にそれが無いというのみでなく、さらに反伎楽面的なものを見いだして落胆したのであった。そのとき「あさましい」という言葉で言いあらわしたのは、病的、変態的、退廃的な印象である。伎楽面的な美を標準にしてみれば、能面はまさにこのような印象をあたえるのである。この点については自分は今でも異存がない。
 しかし能面は伎楽面と様式を異にする。能面の美を明白に見得るためには、ちょうど能面に適したようにメガネの度を合わせ変えなくてはならぬ。それによって前に病的、変態的、退廃的と見えたものは、能面特有の深い美しさとしておのれを現わしてくる。それは伎楽面よりも精練された美しさであるともいえるであろうし、また伎楽面に比してひねくれた美しさであるともいえるであろう。だからこの美しさに味到みとうした人は、しばしば逆に伎楽面をあさましいと呼ぶこともある。能面に度を合わせたメガネをもって伎楽面を見るからである。
 もし、はじめからこの両者のいずれをも正しく味わい得る人があるとすれば、その人の眼は生来せいらい自由に度を変更しうる天才的な活眼かつがんである。誰でもがそういう活眼を持つというわけにはいかない。通例は何らかの仕方で度の合わせ方を先人から習う。それを自覚的にしたのが様式の理解なのである。
 では、能面の様式はどこにその特徴を持っているであろうか。自分はそれを自然性の否定に認める。数多くの能面をこの一語の下に特徴づけるのはいささか冒険的にも思えるが、しかし自分は能面を見る度の重なるにしたがって、ますますこの感を深くする。能面のあらわすのは自然的な生の動きを外に押し出したものとしての表情ではない。逆に、かかる表情を殺すのが能面特有の鋭い技巧である。死相をそのままあらわしたような翁やうばの面はいうまでもなく、若い女の面にさえも急死した人の顔面に見るような肉づけが認められる。能面が一般に一味の気味悪さをたたえているのは、かかる否定性にもとづくのである。一見してふくよかに見える面でも、その開いた眼を隠してながめると、その肉づけは著しく死相に接近する。
 といって、自分は顔面の筋肉の生動した能面がないというのではない。ないどころか、能面としてはその方が多いのである。しかし自分はかかる筋肉の生動が、自然的な顔面の表情を類型化して作られたものとは見ることができない。むしろそれは作者の生の動きの直接的な表現である。生の外現としての表情を媒介とすることなく、直接に作者の生が現われるのである。そのためには表情が殺されなくてはならない。ちょうど水墨画の溌剌はつらつとした筆触が描かれる形象の要求する線ではなくして、むしろ形象の自然性を否定するところに生じてくるごとく、能面の生動もまた自然的な生の表情を否定するところに生じてくるのである。
 そこでわれわれは能面のこの作り方が、色彩と形似けいじとを捨て去った水墨画や、自然的な肉体の動きを消し去った能の所作と同一の様式に属することを見いだすのである。能についてほとんど知るところのない自分が能の様式に言及するのははなはだ恐縮であるが、素人しろうとにもはっきりと見えるあの歩き方だけを取って考えても、右のことはあきらかである。能の役者は足を水平にしたままって前に出し、みしめる場所まで動かしてから急に爪先つまさきをあげてパタッとせる。この動作は人の自然な歩き方を二つの運動に分解して、そのいちいちをきわだてたものである。したがって有機的な動き方を機械的な動き方に変質せしめたものと見ることができる。この表現の仕方は、明白に自然的な生の否定の上に立っている。そうして、それがいっさいの動作の最も基礎的なものなのである。が、このように自然的な動きを殺すことが、かえって人間の自然を鋭く表現するゆえんであることは、能の演技がきわめて明白に実証しているところである。それは色彩と形似を殺した水墨画がかえって深く大自然の生を表現するのと等しい。芸術におけるこのような表現の仕方がもっともよく理解せられていた時代に、ちょうど能面の傑作もまた創り出されたのであった。その間に密接な連関の存することは察するに難くないであろう。
 のみならず、顔面のこのような作り方は無自覚的になされ得るものではない。顔面は人の表情の焦点であり、自然的な顔面の把捉はかならずこの表情に即しているのである。ことに能面の時代に先立つ鎌倉時代は、彫刻においても絵画においても、個性の表現の著しく発達した時代であった。その伝統を前にながめつつ、ちょうどその点を殺してかかるということは、何らかの自覚なくしては起こり得ぬことであろう。もちろん能面は、能の演技に使用されるものであり、謡と動作とによる表情をみずからの内に吸収しなくてはならなかった。この条件が、能面の制作家に種々の洞察をあたえたでもあろう。しかし、いかなる条件に恵まれていたにもせよ、人面を彫刻的に表現するに際して、自然的な表情の否定によって仕事をすることに思い至ったのは、おどろくべき天才のしわざであると言わねばならぬ。能面の様式は、かかる天才のしわざに始まってそれがその時代の芸術的意識となったものにほかならない。


底本:「和辻哲郎随筆集」岩波文庫、岩波書店
   1995(平成7)年9月18日第1刷発行
   2006(平成18)年11月22日第6刷発行
初出:「思想」
   1936(昭和11)年7月号
入力:門田裕志
校正:米田
2010年12月4日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。



人物埴輪はにわの眼

和辻哲郎


 埴輪はにわというのは、元来はその言葉の示しているとおり、埴土しょくどで作った素焼き円筒のことである。それはたぶん八〇〇度ぐらいの火熱を加えたものらしく、赤褐色を呈している。用途は、大きい前方後円墳の周囲の垣根であった。が、この素焼きの円筒の中には、上部をいろいろな形象に変化させたものがある。その形象は人間生活において重要な意味を持っているもの、また、人々が日ごろなれ親しんでいるものを現わしている。家とか道具とか家畜とか家禽かきんとか、特に男女の人物とかがそれである。伝説では、殉死の習慣を廃するために埴輪はにわ人形を立て始めたということになっているが、その真偽はわからないにしても、とにかく殉死と同じように、葬られる死者をなぐさめようとする意図にもとづいたものであることは、間違いのないところであろう。そういう埴輪はにわの形象の中では、人物・動物・鳥などになかなかおもしろいのがある。それをわれわれは、わが国の古墳時代の造形美術として取り扱うことができるのである。
 わが国の古墳時代というと、西暦紀元の三世紀ごろから七世紀ごろまでで、応神・仁徳朝()の朝鮮関係を中心とした時代である。あれほど大きい組織的な軍事行動をやっているくせに、その事件が愛らしい息長帯姫おきながたらしひめ〔神功皇后。の物語として語り残されたほどに、この民族の想像力はなお稚拙ちせつであった。が、たとい稚拙であるにもしろ、その想像力が、一方でわが国の古い神話や建国伝説などを形成しつつあった時に、他方ではこの埴輪はにわの人物や動物や鳥などを作っていたのである。言葉による物語と、形象による表現とは、かなり異なってもいるが、しかしそれが同じ想像力の働きであることを考えれば、いろいろ気づかされる点があることと思う。
 神々の物語にしても、この埴輪はにわの人物にしても、前に言ったようにいかにも稚拙である。しかし稚拙ながらにも、あふれるように感情にうったえるものを持っていることは、いなむわけにいかない。それについてまず第一にはっきりさせておきたいことは、この稚拙さが、原始芸術に特有なあの怪奇性とまったく別なものだということである。わが国でそういう原始芸術にあたるものは、縄文土器やその時代の土偶などであって、そこには原始芸術としての不思議な力強さ・巧妙さ・熟練などが認められ、怪奇ではあっても決して稚拙ではない。それは非常にながい期間に成熟してきた一つの様式を示しているのである。しかるにわが国では、そういう古い伝統が、定住農耕生活のはじまった弥生式文化の時代に、一度すっかりと振り捨てられたように見える。土器の形も、模様も、怪奇性を脱して非常に簡素になった。人物や動物の造形は、銅鐸どうたくや土器の表面に描かれた線描において現われているが、これは縄文土器の土偶にくらべてほとんど足元へも寄りつけないほど幼稚なものである。こういう弥生式文化の時代が少なくとも三世紀ぐらい続いたのちに、はじめて古墳時代が現われてくるのであるから、埴輪はにわが縄文土器の伝統とまったく独立に作り始められたものであることはいうまでもない。しかもその出発よりよほど後に、たぶん五世紀の初めごろに、人物の埴輪はにわが現われ出たとなると、この埴輪はにわの稚拙さが日本の原始芸術の怪奇性とまったく縁のないものであることは、いっそう明らかであろう。
 埴輪はにわ人形の稚拙さについて第二に注目すべき点は、この造形がかならずしも人体を写実的に現わそうなどとめざしていないという点である。それは埴輪はにわの円筒形に「意味ある形」をくっつけただけであって、埴輪はにわ本来の円筒形を人体に改造しようとしたのではない。このことは四肢の無雑作むぞうさな取り扱い方によくあらわれている。両足は無視されるのが通例であり、両腕も、この人物が何かを持っているとか、あるいは踊っているのだとか、ということを示すためだけに付けられるのであって、肩や腕を写実的に表現しようなどという意図はぜんぜん見られない。しかし「意味ある形」、たとえば「甲冑かっちゅう」を円筒上の人物に着せたとなると、その甲冑は、四肢などに対するとはまったく段ちがいの細かな注意をもって表現されている。甲冑の材料である鉄板のかたい感じ、その鉄板をつぎあわせているびょうの、いかにもかっちりとして並んでいる感じ、そういう感じまでがかなりはっきりと出ているのである。それはこの鉄の武器が、人体などよりもはるかに強い関心の対象であったことを示すものであって、いかにも古墳時代の感じ方らしい。甲冑のほかには首かざりの曲玉まがたまや、頭の飾りなどのような装飾品も、「意味ある形」として重んぜられていたらしい。しかし何といっても「意味ある形」のなかには、「顔面」の担っている意味よりも重い意味を担っているものはない。その点から考えると、埴輪はにわ人形の顔面が体の他の部分と著しく異なった印象をあたえるのは、いかにも当然のことなのである。
 顔面は、眼・鼻・口・ほお・あごまゆひたい・耳など、ひととおり道具がそろっているが、中でも眼・鼻・口、特に眼が非常に重大な意味を担っている。原始的な造形において眼がそういう役目を持っていることは、フロベニウスに言わせると、南フランスの洞窟の動物画〔ラスコー洞窟の壁画か。以来のことであって、なにも埴輪はにわ人形にかぎったことではないのであるが、しかし埴輪人形において特にこのことを痛感せしめられるということも、軽く見るわけにはいかない。埴輪人形の一番の特色は眼である。あの眼が、あの稚拙な人物像を、異様にかせているのである。
 といってもあの眼は、無雑作むぞうさ埴土しょくどをくりぬいて穴をあけただけのものである。通例はその穴がしい形の、横に長い楕円形になっていて、いくぶん眼の形を写そうとした努力のあることを思わせるが、しかし、それ以外には眼を写実的に現わそうとした点は少しもない。ときには、その穴がまん丸であることさえもある。しかしそういう無雑作むぞうさな穴が二つならんであいていることによって、埴輪はにわの上部に作られた顔面に生き生きとした表情があらわれてくることを、古墳時代の人々はよく心得ていたようにみえる。二つの穴は、魂の窓としての眼の役目を十分にはたしているのである。
 古墳時代の人々がどうしてそれに気づいたかを考えてみるためには、埴輪はにわ人形を近くからでなく、三間、五間、あるいはそれ以上に、ときには二、三十間の距離を置いて、ながめてみる必要があると思う。それによって埴輪はにわ人形の眼はじつに異様な生気をあらわしてくるのである。もし、この眼が写実的に形作られていたならば、すこし遠のけば、はっきりとは見えなくなるであろう。しかるにこの眼は、そういう形づけを受けず、そばで見れば粗雑に裏までくりぬいた空洞の穴にすぎないのであるが、遠のけば遠のくほど、その粗雑さが見えなくなり、魂の窓としての眼の働きが表面へ出てくる。それが異様な生気を現わしてくるゆえんなのである。眼にそういう働きがあらわれれば、顔面は生気をおび、埴輪はにわ人形全体が生きてくるのはもちろんである。古墳時代の人々はそういうふうにして埴輪はにわの人形を見、また、そういうふうに見えるものとして埴輪はにわの人形を作ったのであった。
 こう考えてくると、埴輪はにわの人形の持っているあの不思議な生気のなぞが解けるかと思う。埴輪人形の製作者は、人体を写実的に作ろうとしたのではない。ただ意味ある形を作ろうとしただけである。しかし意味ある形のうちのもっとも重要なものが人の顔面であったがゆえに、ああいう埴輪の人形ができあがったのである。その造形の技術はいかにも稚拙であるが、しかし「人」を顔面によってとらえようとする態度は、技術と同じに稚拙とはいえない。技術を学び取れば、それに乗って急にあふれ出ることのできるようなものが、その背後にある、と私は感ぜざるを得ない。したがって、これらの稚拙な埴輪人形を作っていた民族が、わずかに一、二世紀の後に、彫刻としてまったく段ちがいの推古仏すいこぶつを作り得るにいたったことは、私にはさほど不思議とは思えないのである。


底本:「和辻哲郎随筆集」岩波文庫、岩波書店
   1995(平成7)年9月18日第1刷発行
   2006(平成18)年11月22日第6刷発行
初出:「世界」
   1956(昭和31)年1月号
入力:門田裕志
校正:米田
2010年12月4日作成
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面とペルソナ

和辻哲郎

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)拭《ぬぐ》い

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)直接|逢《あ》った

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)欠けている[#「欠けている」に傍点]
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 問題にしない時にはわかり切ったことと思われているものが、さて問題にしてみると実にわからなくなる。そういうものが我々の身辺には無数に存している。「顔面」もその一つである。顔面が何であるかを知らない人は目明きには一人もないはずであるが、しかも顔面ほど不思議なものはないのである。
 我々は顔を知らずに他の人とつき合うことができる。手紙、伝言等の言語的表現がその媒介をしてくれる。しかしその場合にはただ相手の顔を知らないだけであって、相手に顔がないと思っているのではない。多くの場合には言語に表現せられた相手の態度から、あるいは文字における表情から、無意識的に相手の顔が想像せられている。それは通例きわめて漠然としたものであるが、それでも直接|逢《あ》った時に予期との合不合をはっきり感じさせるほどの力強いものである。いわんや顔を知り合っている相手の場合には、顔なしにその人を思い浮かべることは決してできるものでない。絵をながめながらふとその作者のことを思うと、その瞬間に浮かび出るのは顔である。友人のことが意識に上る場合にも、その名とともに顔が出てくる。もちろん顔のほかにも肩つきであるとか後ろ姿であるとかあるいは歩きぶりとかというようなものが人の記憶と結びついてはいる。しかし我々はこれらの一切を排除してもなお人を思い浮かべ得るが、ただ顔だけは取りのけることができない。後ろ姿で人を思う時にも、顔は向こうを向いているのである。
 このことを端的に示しているのは肖像彫刻、肖像画の類である。芸術家は「人」を表現するのに「顔」だけに切り詰めることができる。我々は四肢胴体が欠けている[#「欠けている」に傍点]などということを全然感じないで、そこにその人全体を見るのである。しかるに顔を切り離したトルソーになると、我々はそこに美しい自然の表現を見いだすのであって、決して「人」の表現を見はしない。もっとも芸術家が初めからこのようなトルソーとして肉体を取り扱うということは、肉体において自然を見る近代の立場であって、もともと「人」の表現をねらっているのではない。それでは、「人」を表現して、しかも破損によってトルソーとなったものはどうであろうか。そこには明白に首や手足が欠けている[#「欠けている」に傍点]のである。すなわちそれは「断片」となっているのである。そうしてみると、胴体から引き離した首はそれ自身「人」の表現として立ち得るにかかわらず、首から離した胴体は断片に化するということになる。顔が人の存在にとっていかに中心的地位を持つかはここに露骨に示されている。
 この点をさらに一層突き詰めたのが「面」である。それは首から頭や耳を取り去ってただ顔面だけを残している。どうしてそういうものが作り出されたか。舞台の上で一定の人物を表現するためにである。最初は宗教的な儀式としての所作事にとって必要であった。その所作事が劇に転化するに従って登場する人物は複雑となり面もまた分化する。かかる面を最初に芸術的に仕上げたのはギリシア人であるが、しかしその面の伝統を持続し、それに優れた発展を与えたものは、ほかならぬ日本人なのである。
 昨秋|表慶館《ひょうけいかん》における伎楽面、舞楽面、能面等の展観を見られた方は、日本の面にいかに多くの傑作があるかを知っていられるであろう。自分の乏しい所見によれば、ギリシアの仮面はこれほど優れたものではない。それは単に王とか王妃とかの「役」を示すのみであって、伎楽面に見られるような一定の表情の思い切った類型化などは企てられていない。かと言って、能面のある者のように積極的な表情を注意深く拭《ぬぐ》い去ったものでもない。面におけるこのような芸術的苦心はおそらく他に比類のないものであろう。このことは日本の彫刻家の眼が肉体の美しさよりもむしろ肉体における「人」に、従って「顔面の不思議」に集中していたことを示すのではなかろうか。
 が、これらの面の真の優秀さは、それを棚に並べて、彫刻を見ると同じようにただながめたのではわからない。面が面として胴体から、さらに首から、引き離されたのは、ちょうどそれが彫刻と同じに取り扱われるのではない[#「ではない」に傍点]がためである。すなわち生きて動く人がそれを顔につけて一定の動作をするがためなのである。しからば彫刻が本来静止するものであるに対して、[#傍点]面は本来動くものである[#傍点終わり]。面がその優秀さを真に発揮するのは動く地位に置かれた時でなくてはならない。
 伎楽面が喜び怒り等の表情をいかに鋭く類型化しているか、あるいは一定の性格、人物の型などをいかにきわどく形づけているか、それは人がこの面をつけて一定の所作をする時にほんとうに露出して来るのである。その時にこそ、この顔面において、不必要なものがすべて抜き去られていること、ただ強調せらるべきもののみが生かし残されていることが、はっきり見えて来る。またそのゆえにこの顔面は実際に生きている人の顔面よりも幾倍か強く生きてくるのである。舞台で動く伎楽面の側に自然のままの人の顔を見いだすならば、その自然の顔がいかに貧弱な、みすぼらしい、生気のないものであるかを痛切に感ぜざるを得ないであろう。芸術の力は面において顔面の不思議さを高め、強め、純粋化しているのである。
 伎楽面が顔面における「人」を積極的に[#「積極的に」に傍点]強調し純粋化しているとすれば、能面はそれを消極的に[#「消極的に」に傍点]徹底せしめたと言えるであろう。伎楽面がいかに神話的空想的な顔面を作っても、そこに現わされているものはいつも「人」である。たとい口が喙《くちばし》になっていても、我々はそこに人らしい表情を強く感ずる。しかるに能面の鬼は顔面から一切の人らしさを消し去ったものである。これもまた[#傍点]凄さを具象化[#傍点終わり]したものとは言えるであろうが、しかし人の凄《すご》さの表情を類型化したものとは言えない。総じてそれは人の顔の類型ではない。能面のこの特徴は男女を現わす通例の面においても見られる。それは男であるか女であるか、あるいは老年であるか若年であるか、とにかく人の顔面を現わしてはいる。しかし喜びとか怒りとかというごとき表情はそこには全然現わされていない。人の顔面において通例に見られる筋肉の生動がここでは注意深く洗い去られているのである。だからその肉づけの感じは急死した人の顔面にきわめてよく似ている。特に尉《じょう》や姥《うば》の面は強く死相を思わせるものである。このように徹底的に人らしい表情を抜き去った面は、おそらく能面以外にどこにも存しないであろう。能面の与える不思議な感じはこの否定性にもとづいているのである。
 ところでこの能面が舞台に現われて動く肢体を得たとなると、そこに驚くべきことが起こってくる。というのは、表情を抜き去ってあるはずの能面が実に豊富きわまりのない表情を示し始めるのである。面をつけた役者が手足の動作によって何事かを表現すれば、そこに表現せられたことはすでに面の表情となっている。たとえば手が涙を拭うように動けば、面はすでに泣いているのである。さらにその上に「謡《うたい》」の旋律による表現が加わり、それがことごとく面の表情になる。これほど自由自在に、また微妙に、心の陰影を現わし得る顔面は、自然の顔面には存しない。そうしてこの表情の自由さは、能面が何らの人らしい表情をも固定的に現わしていない[#「いない」に傍点]ということに基づくのである。笑っている伎楽面は泣くことはできない。しかし死相を示す尉や姥は泣くことも笑うこともできる。
 このような面の働きにおいて特に我々の注意を引くのは、面がそれを被って動く役者の肢体や動作を己れの内に吸収してしまうという点である。実際には役者が面をつけて動いているのではあるが、しかしその効果から言えば面が肢体を獲得したのである。もしある能役者が、女の面をつけて舞台に立っているにかかわらず、その姿を女として感じさせないとすれば、それはもう役者の名には価しないのである。否、どんな拙い役者でも、あるいは素人でも、女の面をつければ女になると言ってよい。それほど面の力は強いのである。従ってまた逆に面はその獲得した肢体に支配される。というのは、その肢体は面の肢体[#「面の肢体」に傍点]となっているのであるから、肢体の動きはすべてその面の動きとして理解され、肢体による表現が面の表情となるからである。この関係を示すものとして、たとえば神代神楽《じんだいかぐら》を能と比較しつつ考察してみるがよい。同じ様式の女の面が能の動作と神楽の動作との相違によっていかにはなはだしく異なったものになるか。能の動作の中に全然見られないような、柔らかな、女らしい体のうねりが現われてくれば、同じ女の面でも能の舞台で決して見ることのできない艶《なま》めかしいものになってしまう。その変化は実際人を驚かせるに足るほどである。同じ面がもし長唄で踊る肢体を獲得したならば、さらにまた全然別の面になってしまうであろう。
 以上の考察から我々は次のように言うことができる。面は元来人体から肢体や頭を抜き去ってただ顔面だけを残したものである。しかるにその面は再び肢体を獲得する。人を表現するためにはただ顔面だけに切り詰めることができるが、その切り詰められた顔面は自由に肢体を回復する力を持っている。そうしてみると、顔面は人の存在にとって核心的な意義を持つものである。それは単に肉体の一部分であるのではなく、肉体を己れに従える主体的なるものの座、すなわち人格の座にほかならない。
 ここまで考えて来ると我々はおのずから persona を連想せざるを得ない。この語はもと劇に用いられる面を意味した。それが転じて劇におけるそれぞれの役割を意味し、従って劇中の人物をさす言葉になる。dramatis personae がそれである。しかるにこの用法は劇を離れて現実の生活にも通用する。人間生活におけるそれぞれの役割がペルソナである。我れ、汝、彼というのも第一、第二、第三のペルソナであり、地位、身分、資格等もそれぞれ社会におけるペルソナである。そこでこの用法が神にまで押しひろめられて、父と子と聖霊が神の三つのペルソナだと言われる。しかるに人は社会においておのおの彼自身の役目を持っている。己れ自身のペルソナにおいて行動するのは彼が己れのなすべきことをなすのである。従って他の人のなすべきことを代理する場合には、他の人のペルソナをつとめるということになる。そうなるとペルソナは行為の主体、権利の主体として、「人格」の意味にならざるを得ない。かくして「面」が「人格」となったのである。
 ところでこのような意味の転換が行なわれるための最も重大な急所は、最初に「面」が「役割」の意味になったということである。面をただ顔面彫刻としてながめるだけならばこのような意味は生じない。面が生きた人を己れの肢体として獲得する力を持てばこそ、それは役割でありまた人物であることができる。従ってこの力が活き活きと感ぜられている仲間において、「お前はこの前には王の面[#「王の面」に傍点]をつとめたが、今度は王妃の面[#「王妃の面」に傍点]をつとめろ」というふうなことを言い得るのである。そうなると、ペルソナが人格の意味を獲得したという歴史の背後にも、前に言った顔面の不思議が働いていた、と認めてよいはずである。
 面という言葉はペルソナと異なって人格とか法人とかの意味を獲得してはおらない。しかしそういう意味を獲得するような傾向が全然なかったというのではない。「人々」という意味で「面々」という言葉が用いられることもあれば、各自を意味して「めいめい」(面々の訛《なまり》であろう)ということもある。これらは面目を立てる、顔をつぶす、顔を出す、などの用法とともに、顔面を人格の意味に用いることの萌芽であった。

[#ここから2字下げ]
付記。能面についての具体的なことは近刊野上豊一郎氏編の『能面』を見られたい。氏は能面の理解と研究において現代の第一人者である。
[#ここで字下げ終わり]



底本:「和辻哲郎随筆集」岩波文庫、岩波書店
   1995(平成7)年9月18日第1刷発行
   2006(平成18)年11月22日第6刷発行
初出:「思想」
   1935(昭和10)年6月号
※ファイル末の「付記」の『能面』には、底本では、〔全10回、一九三六年八月〜一九三七年七月、岩波書店刊〕との補足がありました。
入力:門田裕志
校正:米田
2010年12月5日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。



文楽座の人形芝居

和辻哲郎

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)桐竹紋十郎《きりたけもんじゅうろう》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)名人|吉田文五郎《よしだぶんごろう》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#傍点]全然彫刻的な形成ではなくして人形使い的形成[#傍点終わり]
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 日本文化協会の催しで文楽座の人形使いの名人|吉田文五郎《よしだぶんごろう》、桐竹紋十郎《きりたけもんじゅうろう》諸氏を招いて人形芝居についての講演、実演などがあった。竹本小春太夫《たけもとこはるたゆう》、三味線|鶴沢重造《つるさわじゅうぞう》諸氏も参加した。人形芝居のことをあまり知らない我々にとってはたいへんありがたい催しであった。舞台で見ているだけではちょっと気づかないいろいろな点をはっきり教えられたように思う。
 あの人形芝居の人形の構造はきわめて簡単である。人形として彫刻的に形成せられているのはただ首と手と足に過ぎない。女の人形ではその足さえもないのが通例である。首は棒でささえて紐《ひも》で仰向かせたりうつ向かせたりする。物によると眼や眉を動かす紐もついている。それ以上の運動は皆首の棒を握っている人形使いの手首の働きである。手は二の腕から先で、指が動くようになっている。女の手は指をそろえたままで開いたり屈《かが》めたりする。三味線を弾く時などは個々の指の動く特別の手を使う。男の手は五本の指のパッと開く手、親指だけが離れて開く手など幾分種類が多い。しかし手そのものの構造や動きかたはきわめて単純である。それを生かせて使う力は人形使いの腕にある。足になると一層簡単で、ただ膝から下の足の形が作られているというに過ぎない。
 これらの三つの部分、首と手と足とを結びつける仕方がまた簡単である。首をさし込むために洋服掛けの扁平な肩のようなざっとした框《わく》が作ってあって、その端に糸瓜《へちま》が張ってある。首の棒を握る人形使いの左手がそれをささえるのである。その框から紐が四本出ていて、その二本が腕に結びつけられ、他の二本が脚に結びつけられている。すなわち人形の肢体を形成しているのは実はこの四本の紐なのであって、手や足はこの紐の端に過ぎない。従って足を見せる必要のない女の人形にあっては肢体の下半には何もない。あるのは衣裳だけである。
 人形の肢体が紐であるということは、実は人形の肢体を形成するのが人形使いの働きだということなのである。すなわちそれは[#傍点]全然彫刻的な形成ではなくして人形使い的形成[#傍点終わり]なのである。この形成が人形の衣裳[#「人形の衣裳」に傍点]によって現わされる。あの衣裳は胴体を包む衣裳ではなくして[#傍点]ただ衣裳のみ[#傍点終わり]なのであるが、それが人形使い的形成によって実に活き活きとした肢体となって活動する。女の人形には足はないが、ただ着物の裾《すそ》の動かし方一つで坐りもすれば歩きもする。このように人形使いは、ただ着物だけで、優艶な肉体でも剛強な肉体でも現わし得るのである。ここまでくると我々は「人形」という概念をすっかり変えなくてはならなくなる。ここに作り出された「人の形」はただ人形使いの[#傍点]運動においてのみ形成される形[#傍点終わり]なのであって、静止し凝固した形象なのではない。従って彫刻とは最も縁遠いものである。
 たぶんこの事を指摘するためであったろうと思われるが、桐竹紋十郎氏は「狐」を持ち出して、それが使い方一つで犬にも狐にもなることを見せてくれた。そうしてこういう話をした。ある時西洋人が文楽の舞台で狐を見て非常に感心し、それを見せてもらいに楽屋へ来た。人形使いはあそこに掛かっていますと言って柱にぶら下げた狐をさした。それは胴体が中のうつろな袋なので、柱にかかっている所を見れば子供の玩具にしか見えない。西洋人はどうしても承知しなかった。舞台で見たあの活き活きとした狐がどんなに精妙な製作であろうかを問題として彼は見に来たのであった。そこで人形使いはやむなく立って柱から狐を取りそれを使って見せた。西洋人は驚喜して、それだそれだと叫び出したというのである。西洋人は彫刻的に完成せられた驚くべき狐の像を想像していたのであった。しかるにその狐は人形使いの動きの中に生きていたのである。
 人形がこういうものであるとすると、我々の第一に気づくことは、人形芝居がそれを使う人の働きを具象化しているものであり、従って音楽と同様に刻々の創造であるということである。しかるに人形は一人では使えない。人形使いは左手に首を持ち右手に人形の右手を持っている。人形の左手は他の使い手に委せなくてはならぬ。さらに人形の足は第三の人の共働を待たねばならぬ。そうすると使う人の働きを具象化するということは少なくともこの[#傍点]三人の働きの統一を具象化する[#傍点終わり]ことでなくてはならない。ところでここに表現せられるのは一人の人の動作である。三人の働きが合一してあたかも一人の人で[#傍点]あるかのごとく[#傍点終わり]動くのではまだ足りない。実際に[#傍点]一人の人として[#傍点終わり]動かなければ人形の動きは生きて来ないのである。そこでこの三人の間の[#傍点]気合いの合致[#傍点終わり]が何よりも重大な契機になる。人形が生きて動いている時には、同時にこの三人の使い手の働きが有機的な一つの働きとして進展している。見る目には三人の使い手の体の運動があたかも巧妙な踊りのごとくに隙間《すきま》なく統一されてなだらかに流れて行くように見える。ただ一つの躊躇《ちゅうちょ》、ただ一つのつまずきがこの調和せる運動を破るのである。しかしこの一つの運動を形成する三人はあくまでも三人であって一人ではない。足を動かす人の苦心は彼自身の苦心であって首を持つ師匠の苦心ではない。それぞれの人はそれぞれの立場においてその精根をつくさねばならぬ。そうして彼が最もよくその自己であり得た時に、彼らは最もよく一つになり得るのである。
 吉田文五郎氏の話した若いころの苦心談はこの事を指示していたように思われる。足を使っていた少年の彼を師匠は仮借するところなく叱責した。種々に苦心してもなかなか師匠は叱責の手をゆるめない。ある日彼はついに苦心の結果一つのやり方を考案し、それでもなお師匠が彼を叱責するようであれば、思い切り師匠を撲《なぐ》り飛ばして逃亡しようと決心した。そうしてそのきわどい瞬間に達したときに、師匠は初めてうまいとほめた。自分の運命をその瞬間にかけるというほどに己れが緊張したとき、初めて師匠との息が合ったのである。それまでの叱責は自分の非力に起因していた。そこで文五郎氏も初めて師匠の偉さ、ありがたさを覚《さと》ったというのである。
 このような気合いの統一はしかしただ三人の間に限ることではない。他の人形との間に、さらに語り手や三味線との間に、存しなくてはならない。それでなくては舞台上の統一は取れないのである。オペラや能と違って人形浄瑠璃においては音楽は純粋に音楽家が、動作は純粋に人形使いが引き受ける。そこで動作の心使いに煩わされることのない音楽家の音楽的表現が、直ちに動作する人形の言葉になる。人形は自ら口をきかないがゆえにかえって自ら言うよりも何倍か効果のある言葉を使い得るのである。そこで人形の動作において具象化せられる人形使いの働きと、その人形の魂の言葉を語っている音楽家の働きとが、ぴったりと合って来なくてはならない。オペラにおいて唱い手が唱いつつ動作しているあの働きと同じ事をやるために、人形使いたちと語り手の間に非常に緊密な気合いの合致が実現されねばならぬのである。そうしてそれだけの苦労は決して酬《むく》われないのではない。オペラにおける動作は一般に芸術的とは言い難い愚かなものであるが、人形の動作はまさに人間の表情活動の強度な芸術化純粋化と言ってよいのである。
 ところでオペラの統一はオーケストラの指揮者が握っているが、人形芝居にはこのような指揮者がいない。しかも人形の使い手、語り手、弾き手は、直接に統一を作り出すのである。それは古くから言われているように「息を合わせる」のであって、悟性の判断に待つのではない。この点について三味線の鶴沢重造氏はきわめて興味の深いことを話してくれた。最初三味線を弾き出す時に、左右を顧み、ころあいをはかってやるのではない。もちろん合図などをするのではない。自分がパッと飛び出す時に同時に語り手も使い手も出てくれるのである。左右に気を兼ねるようであればこの気合いが出ない。思い切ってパッと出てしまうのである。ところでこの気合いは弾き出しの時に限らない。あらゆる瞬間がそれである。刻々として気合いを合わせて行かなければ舞台は生きるものではない。この話は我々に「指揮者なきオーケストラ」の話を思い出させる。それはロシアでは革命的な現象であったかも知れない。しかし日本の芸術家にはきわめて当たり前のことであった。否、そのほかに統一をつくる仕方はなかったのである。
 第二に我々の気づいたことは、人形の動作がいかに鋭い選択によって成っているかということであった。この選択は必ずしも今の名人がやったのではない。最初、人形芝居が一つの芸術様式として成立したのは、この選択が成功したということにほかならぬのである。人形に動作を与え、そうして生ける人よりも一層よく生きた感じを作り出すためには、人間の動作の中からきわめて特徴的なものを選び取らなくてはならなかった。いかに人形使いの手先が器用であるからといって、人形に無限に多様な動きを与えることはできない。手先の働きには限度がある。そこでこの限度内において人形を動かすためには、不必要な動作、意味の少ない動作は切り捨てるほかはない。そうすれば人の動作にとって本質的な(と人形使いが直観する)契機のみが残されてくることになる。ここに能の動作との著しい対照が起こって来るゆえんがあり、また人形振りが歌舞伎芝居に深い影響を与えたゆえんもある。これらの演劇形態について詳しい知識を有する人が、一々の動作の仕方を細かく分析し比較したならば、そこにこれらの芸術の最も深い秘密が開示せられはしまいかと思われる。
 一、二の例をあげれば、人形使いが人形の構造そのものによって最も強く把握しているのは、首の動作[#「首の動作」に傍点]である。特に首を[#傍点]左右に動かす動作[#傍点終わり]である。これは人形使いの左手の手首によって最も繊細に実現せられる。それによってうつ向いた顔も仰向いた顔も霊妙な変化を受けることができる。ところでこの種の運動は「能」の動作において最も厳密に[#傍点]切り捨てられた[#傍点終わり]ものであった。とともに、歌舞伎芝居がその様式の一つの特徴として取り入れたものであった。歌舞伎芝居において特に顕著に首を動かす一、二の型を頭に浮かべつつ、それが自然な人間の動作のどこに起源を持つかを考えてみるがよい。そこにおのずから、人形の首の運動が演技様式発展の[#傍点]媒介者として[#傍点終わり]存することを見いだし得るであろう。
 あるいはまた人形の肩の動作[#「肩の動作」に傍点]である。これもまた首の動作に連関して人形の構造そのものの中に重大な地位を占めている。人形使いはたとえば右肩をわずかに下げる運動によって肢体全体に女らしい柔軟さを与えることができる。逆に言えば肢体全体の動きが肩に集中しているのである。ところでこのように肩の動きによって表情するということも「能」の動作が全然切り捨て去ったところである。とともに歌舞伎芝居が誇大化しつつ一つの様式に作り上げたものである。ここでも我々は人間の自然的な肩の動作が、[#傍点]人形の動作の媒介によって[#傍点終わり]歌舞伎の型にまで様式化せられて行ったことを見いだし得るであろう。
 この種の例はなおいくらでもあげることができるであろう。人形使いは人間の動作を選択し簡単化することによって逆に[#傍点]芸術的な人間の動作[#傍点終わり]を創造したのである。そうしてかく創造せられた動作は、それが芸術的であり従って現実よりも美しいというまさにその理由によって、人間に模倣衝動を起こさせる。自然的な人の動作の内に知らず知らずに人形振りが浸み込んで来る。この際にはまた逆に、歌舞伎芝居が媒介の役をつとめていると言えるかもしれない。徳川時代にできあがった風俗作法のうちには、右のごとき視点からして初めて理解され得るものが少なからず存すると思う。



底本:「和辻哲郎随筆集」岩波文庫、岩波書店
   1995(平成7)年9月18日第1刷発行
   2006(平成18)年11月22日第6刷発行
初出:「思想」
   1935(昭和10)年8月号
入力:門田裕志
校正:米田
2010年12月14日作成
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能面の様式

和辻哲郎

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)慚愧《ざんき》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)直接的な表現[#「直接的な表現」に傍点]
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 野上豊一郎君の『能面』がいよいよ出版されることになった。昨年『面とペルソナ』を書いた時にはすぐにも刊行されそうな話だったので、「近刊」として付記しておいたが、それからもう一年以上になる。網目版の校正にそれほど念を入れていたのである。それだけに出来ばえはすばらしくよいように思われる。ここに集められた能面は実物を自由に見ることのできないものであるが、写真版として我々の前に置かれて見ると、我々はともどもにその美しさや様式について語り合うことができるであろう。この機会に自分も一つの感想を述べたい。
 今からもう十八年の昔になるが、自分は『古寺巡礼』のなかで伎楽面の印象を語るに際して、「能の面は伎楽面に比べれば比較にならぬほど浅ましい」と書いた。能面に対してこれほど盲目であったことはまことに慚愧《ざんき》に堪《た》えない次第であるが、しかしそういう感じ方にも意味はあるのである。自分はあの時、伎楽面の美しさがはっきり見えるように眼鏡の度を合わせておいて、そのままの眼鏡で能面を見たのであった。従って自分は能面のうちに伎楽面的なものを求めていた。そうして単にそれが無いというのみでなく、さらに反伎楽面的なものを見いだして落胆したのであった。その時「浅ましい」という言葉で言い現わしたのは、病的、変態的、頽廃的な印象である。伎楽面的な美を標準にして見れば、能面はまさにこのような印象を与えるのである。この点については自分は今でも異存がない。
 しかし能面は伎楽面と様式を異にする。能面の美を明白に見得るためには、ちょうど能面に適したように眼鏡の度を合わせ変えなくてはならぬ。それによって前に病的、変態的、頽廃的と見えたものは、能面特有の深い美しさとして己れを現わして来る。それは伎楽面よりも精練された美しさであるとも言えるであろうし、また伎楽面に比してひねくれた美しさであるとも言えるであろう。だからこの美しさに味到した人は、しばしば逆に伎楽面を浅ましいと呼ぶこともある。能面に度を合わせた眼鏡をもって伎楽面を見るからである。
 もし初めからこの両者のいずれをも正しく味わい得る人があるとすれば、その人の眼は生来自由に度を変更し得る天才的な活眼である。誰でもがそういう活眼を持つというわけには行かない。通例は何らかの仕方で度の合わせ方を先人から習う。それを自覚的にしたのが様式の理解なのである。
 では能面の様式はどこにその特徴を持っているであろうか。自分はそれを自然性の否定に認める。数多くの能面をこの一語の下に特徴づけるのはいささか冒険的にも思えるが、しかし自分は能面を見る度の重なるに従ってますますこの感を深くする。能面の現わすのは自然的な生の動きを外に押し出したものとしての表情ではない。逆にかかる表情を殺すのが能面特有の鋭い技巧である。死相をそのまま現わしたような翁や姥《うば》の面はいうまでもなく、若い女の面にさえも急死した人の顔面に見るような肉づけが認められる。能面が一般に一味の気味悪さを湛《たた》えているのはかかる否定性にもとづくのである。一見してふくよかに見える面でも、その開いた眼を隠してながめると、その肉づけは著しく死相に接近する。
 といって、自分は顔面の筋肉の生動した能面がないというのではない。ないどころか、能面としてはその方が多いのである。しかし自分はかかる筋肉の生動が、自然的な顔面の表情を類型化して作られたものとは見ることができない。むしろそれは作者の生の動きの[#傍点]直接的な表現[#傍点終わり]である。生の外現としての表情を媒介とすることなく、直接に作者の生が現われるのである。そのためには表情が殺されなくてはならない。ちょうど水墨画の溌剌《はつらつ》とした筆触が描かれる形象の要求する線ではなくして、むしろ形象の自然性を否定するところに生じて来るごとく、能面の生動もまた自然的な生の表情を否定するところに生じてくるのである。
 そこで我々は能面のこの作り方が、色彩と形似とを捨て去った水墨画や、自然的な肉体の動きを消し去った能の所作と同一の様式に属することを見いだすのである。能についてほとんど知るところのない自分が能の様式に言及するのははなはだ恐縮であるが、素人にもはっきりと見えるあの歩き方[#「歩き方」に傍点]だけを取って考えても右のことは明らかである。能の役者は足を水平にしたまま擦《す》って前に出し、踏みしめる場所まで動かしてから急に爪先をあげてパタッと伏せる。この動作は人の自然な歩き方を二つの運動に分解してその一々をきわ立てたものである。従って有機的な動き方を機械的な動き方に変質せしめたものと見ることができる。この表現の仕方は明白に自然的な生の否定の上に立っている。そうしてそれが一切の動作の最も基礎的なものなのである。が、このように自然的な動きを殺すことが、かえって人間の自然を鋭く表現するゆえんであることは、能の演技がきわめて明白に実証しているところである。それは色彩と形似を殺した水墨画がかえって深く大自然の生を表現するのと等しい。芸術におけるこのような表現の仕方が最もよく理解せられていた時代に、ちょうど能面の傑作もまた創り出されたのであった。その間に密接な連関の存することは察するに難くないであろう。
 のみならず顔面のこのような作り方は無自覚的になされ得るものではない。顔面は人の表情の焦点であり、自然的な顔面の把捉は必ずこの表情に即しているのである。ことに能面の時代に先立つ鎌倉時代は、彫刻においても絵画においても、個性の表現の著しく発達した時代であった。その伝統を前にながめつつ、ちょうどその点を殺してかかるということは、何らかの自覚なくしては起こり得ぬことであろう。もちろん能面は能の演技に使用されるものであり、謡と動作とによる表情を自らの内に吸収しなくてはならなかった。この条件が能面の制作家に種々の洞察を与えたでもあろう。しかしいかなる条件に恵まれていたにもせよ、人面を彫刻的に表現するに際して、自然的な表情の否定によって仕事をすることに思い至ったのは、驚くべき天才のしわざであると言わねばならぬ。能面の様式はかかる天才のしわざに始まってそれがその時代の芸術的意識となったものにほかならない。



底本:「和辻哲郎随筆集」岩波文庫、岩波書店
   1995(平成7)年9月18日第1刷発行
   2006(平成18)年11月22日第6刷発行
初出:「思想」
   1936(昭和11)年7月号
入力:門田裕志
校正:米田
2010年12月4日作成
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人物埴輪の眼

和辻哲郎

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)埴輪《はにわ》
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 埴輪《はにわ》というのは、元来はその言葉の示している通り、埴土で作った素焼き円筒のことである。それはたぶん八百度ぐらいの火熱を加えたものらしく、赤褐色を呈している。用途は大きい前方後円墳の周囲の垣根であった。が、この素焼きの円筒の中には、上部をいろいろな形象に変化させたものがある。その形象は人間生活において重要な意味を持っているもの、また人々が日ごろ馴《な》れ親しんでいるものを現わしている。家とか道具とか家畜とか家禽とか、特に男女の人物とかがそれである。伝説では、殉死の習慣を廃するために埴輪人形を立て始めたということになっているが、その真偽はわからないにしても、とにかく殉死と同じように、葬られる死者を慰めようとする意図に基づいたものであることは、間違いのないところであろう。そういう埴輪の形象の中では、人物、動物、鳥などになかなかおもしろいのがある。それをわれわれは、わが国の古墳時代の造形美術として取り扱うことができるのである。
 わが国の古墳時代というと、西暦紀元の三世紀ごろから七世紀ごろまでで、応神、仁徳朝の朝鮮関係を中心とした時代である。あれほど大きい組織的な軍事行動をやっているくせに、その事件が愛らしい息長帯姫《おきながたらしひめ》の物語として語り残されたほどに、この民族の想像力はなお稚拙であった。が、たとい稚拙であるにもしろ、その想像力が、一方でわが国の古い神話や建国伝説などを形成しつつあった時に、他方ではこの埴輪の人物や動物や鳥などを作っていたのである。言葉による物語と、形象による表現とは、かなり異なってもいるが、しかしそれが同じ想像力の働きであることを考えれば、いろいろ気づかされる点があることと思う。
 神々の物語にしても、この埴輪の人物にしても、前に言ったようにいかにも稚拙である。しかし稚拙ながらにも、あふれるように感情に訴えるものを持っていることは、否むわけに行かない。それについてまず第一にはっきりさせておきたいことは、この稚拙さが、原始芸術に特有なあの怪奇性と全く別なものだということである。わが国でそういう原始芸術に当たるものは、縄文土器やその時代の土偶などであって、そこには原始芸術としての不思議な力強さ、巧妙さ、熟練などが認められ、怪奇ではあっても決して稚拙ではない。それは非常に永い期間に成熟して来た一つの様式を示しているのである。しかるにわが国では、そういう古い伝統が、定住農耕生活の始まった弥生式文化の時代に、一度すっかりと振り捨てられたように見える。土器の形も、模様も、怪奇性を脱して非常に簡素になった。人物や動物の造形は、銅鐸《どうたく》や土器の表面に描かれた線描において現われているが、これは縄文土器の土偶に比べてほとんど足もとへもよりつけないほど幼稚なものである。こういう弥生式文化の時代が少なくとも三世紀ぐらい続いたのちに、初めて古墳時代が現われてくるのであるから、埴輪が縄文土器の伝統と全く独立に作り始められたものであることはいうまでもない。しかもその出発よりよほど後に、たぶん五世紀の初めごろに、人物の埴輪が現われ出たとなると、この埴輪の稚拙さが日本の原始芸術の怪奇性と全く縁のないものであることは、一層明らかであろう。
 埴輪人形の稚拙さについて第二に注目すべき点は、この造形が必ずしも人体を写実的に現わそうなどと目ざしていないという点である。それは埴輪の円筒形に「意味ある形」をくっつけただけであって、埴輪本来の円筒形を人体に改造しようとしたのではない。このことは四肢の無雑作な取り扱い方によく現われている。両足は無視されるのが通例であり、両腕も、この人物が何かを持っているとか、あるいは踊っているのだとか、ということを示すためだけに付けられるのであって、肩や腕を写実的に表現しようなどという意図は全然見られない。しかし「意味ある形」、たとえば「甲冑《かっちゅう》」を円筒上の人物に着せたとなると、その甲冑は、四肢などに対するとは全く段違いの細かな注意をもって表現されている。甲冑の材料である鉄板の堅い感じ、その鉄板をつぎ合わせている鋲《びょう》の、いかにもかっちりとして並んでいる感じ、そういう感じまでがかなりはっきりと出ているのである。それはこの鉄の武器が、人体などよりもはるかに強い関心の対象であったことを示すものであって、いかにも古墳時代の感じ方らしい。甲冑のほかには首飾りの曲玉《まがたま》や、頭の飾りなどのような装飾品も、「意味ある形」として重んぜられていたらしい。しかし何と言っても「意味ある形」のなかには、「顔面」の担っている意味よりも重い意味を担っているものはない。その点から考えると、埴輪人形の顔面が体の他の部分と著しく異なった印象を与えるのは、いかにも当然のことなのである。
 顔面は、眼、鼻、口、頬《ほお》、顎《あご》、眉《まゆ》、額《ひたい》、耳など、一通り道具がそろっているが、中でも眼、鼻、口、特に眼が非常に重大な意味を担っている。原始的な造形において眼がそういう役目を持っていることは、フロベニウスに言わせると、南フランスの洞窟の動物画以来のことであって、なにも埴輪人形に限ったことではないのであるが、しかし埴輪人形において特にこのことを痛感せしめられるということも、軽く見るわけには行かない。埴輪人形の一番の特色は眼である。あの眼が、あの稚拙な人物像を、異様に活かせているのである。
 と言ってもあの眼は、無雑作に埴土をくりぬいて穴をあけただけのものである。通例はその穴が椎《しい》の実《み》形の、横に長い楕円形になっていて、幾分眼の形を写そうとした努力のあることを思わせるが、しかしそれ以外には眼を写実的に現わそうとした点は少しもない。時にはその穴がまん丸であることさえもある。しかしそういう無雑作な穴が二つ並んであいていることによって、埴輪の上部に作られた顔面に生き生きとした表情が現われてくることを、古墳時代の人々はよく心得ていたようにみえる。二つの穴は、魂の窓としての眼の役目を十分に果たしているのである。
 古墳時代の人々がどうしてそれに気づいたかを考えてみるためには、埴輪人形を近くからでなく、三間、五間、あるいはそれ以上に、時には二、三十間の距離を置いて、ながめてみる必要があると思う。それによって埴輪人形の眼は実に異様な生気を現わしてくるのである。もしこの眼が写実的に形作られていたならば、少し遠のけばはっきりとは見えなくなるであろう。しかるにこの眼は、そういう形づけを受けず、そばで見れば粗雑に裏までくり抜いた空洞の穴に過ぎないのであるが遠のけば遠のくほどその粗雑さが見えなくなり、魂の窓としての眼の働きが表面へ出てくる。それが異様な生気を現わしてくるゆえんなのである。眼にそういう働きが現われれば、顔面は生気を帯び、埴輪人形全体が生きてくるのはもちろんである。古墳時代の人々はそういうふうにして埴輪の人形を見、またそういうふうに見えるものとして埴輪の人形を作ったのであった。
 こう考えてくると埴輪の人形の持っているあの不思議な生気のなぞが解けるかと思う。埴輪人形の製作者は人体を写実的に作ろうとしたのではない。ただ意味ある形を作ろうとしただけである。しかし意味ある形のうちの最も重要なものが人の顔面であったがゆえに、ああいう埴輪の人形ができあがったのである。その造形の技術はいかにも稚拙であるが、しかし「人」を顔面によって捕えようとする態度は、技術と同じに稚拙とはいえない。技術を学び取れば、それに乗って急にあふれ出ることのできるようなものが、その背後にある、と私は感ぜざるを得ない。従って、これらの稚拙な埴輪人形を作っていた民族が、わずかに一、二世紀の後に、彫刻として全く段違いの推古仏《すいこぶつ》を作り得るに至ったことは、私にはさほど不思議とは思えないのである。



底本:「和辻哲郎随筆集」岩波文庫、岩波書店
   1995(平成7)年9月18日第1刷発行
   2006(平成18)年11月22日第6刷発行
初出:「世界」
   1956(昭和31)年1月号
入力:門田裕志
校正:米田
2010年12月4日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。



*地名


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面とペルソナ
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表慶館 ひょうけいかん 東京都上野公園内、東京国立博物館の一部。1900年(明治33)大正天皇が皇太子の時、成婚記念として東京市民から献納した建築物。09年落成開館。
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文楽座の人形芝居
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文楽座 ぶんらくざ 操人形の座。18世紀末に素人浄瑠璃語り植村文楽軒が大坂道頓堀高津新地に創設。のちに転々としたが、1872年(明治5)松島に移り文楽座と称し、1909年(明治42)松竹合名会社の経営となり、56年道頓堀に新築移転。63年文楽協会が運営をひきつぎ、朝日座と改称。84年国立文楽劇場発足により閉座。
日本文化協会
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能面の様式
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人物埴輪の眼
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◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)。




*人物一覧

(人名、および組織・団体名・神名)

和辻哲郎 わつじ てつろう 1889-1960 倫理学者。兵庫県生れ。夏目漱石の門に入る。東洋大・京大・東大教授。人間存在を間柄として捉える道徳論の展開に特色がある。風土論をはじめ文化史にも業績が多い。著「古寺巡礼」「日本精神史研究」「風土」「倫理学」「日本倫理思想史」など。文化勲章。
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面とペルソナ
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野上豊一郎 のがみ とよいちろう 1883-1950 英文学者。臼川と号。大分県生れ。弥生子の夫。東大卒。夏目漱石門下。法政大学学長。能の研究に新分野を開いた。著「能研究と発見」「能の幽玄と花」など。
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文楽座の人形芝居
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吉田文五郎 よしだ ぶんごろう 1869-1962 (3代)人形遣い。本名、河村巳之助。大阪生れ。女形遣いの名人。1956年難波掾を受贈。著「文五郎芸談」。
桐竹紋十郎 きりたけ もんじゅうろう 人形遣い。 (1) 1845頃-1910 (初世)本名、小林福太郎。桐竹門十郎の子。大阪の人。派手な芸風で、明治期の代表的名人。(2) 1900-1970 (2世)本名、磯川佐吉。堺生れ。女形遣いの名手。
竹本小春太夫 たけもと こはるたゆう → 竹本春子太夫か
竹本春子太夫 たけもと はるこたゆう 義太夫節の太夫。
(1) 初代 後の3代目竹本大隅太夫。1854-1913 本名は井上重吉。大阪順慶町の生まれ、1869年に5代目竹本春太夫の門下で初代竹本春子太夫。1884年に3代目大隅太夫を襲名。(2) 2代目 1867-1928 本名、福井清吉。大阪南船場の生まれ。(3) 3代目 1909-1969 本名、坂本竹一。兵庫県淡路島の生まれ、淡路の人形芝居出身。
鶴沢重造 つるさわ/つるざわ じゅうぞう (1) 初代 1822-1872 江戸末期・明治期の人形浄瑠璃三味線方。(2) 2代目 1836-1910 江戸末期・明治期の人形浄瑠璃三味線方。(3) 3代目 1866-1931 明治〜昭和期の人形浄瑠璃三味線方。(4) 4代目 1899-1987 昭和期の人形浄瑠璃三味線方。(人レ)
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能面の様式
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人物埴輪の眼
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フロベニウス → レオ・フロベーニウスか
フロベーニウス,レオ Frobenius, Leo 1873-1938 ドイツの民族学者。フランクフルト(マイン川畔の)大学教授(1925-38)、同大学民族学博物館長。幾度もアフリカを調査旅行し(04-35)、ここに4個の文化圏を確認して文化形態学の学説を立て、文化もまた動植物や人間のような有機的発達の道をたどると説いた(岩波西洋)。


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)、『人物レファレンス事典』(日外アソシエーツ、2000.7)、『岩波西洋人名辞典増補版』。



*書籍

(書名、雑誌名、論文名、能・狂言・謡曲などの作品名)

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面とペルソナ
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『能面』 野上豊一郎の著。全10回、一九三六年八月〜一九三七年七月、岩波書店刊。
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文楽座の人形芝居
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能面の様式
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『面とペルソナ』 和辻哲郎の著。
『古寺巡礼』 こじ じゅんれい 評論。和辻哲郎著。1919年(大正8)刊。飛鳥・奈良の古寺を巡り、その印象を紀行風に記したもの。
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人物埴輪の眼
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◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)。



*難字、求めよ


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面とペルソナ
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トルソー torso 首および四肢を欠く胴体だけの彫像。
神代神楽 じんだい かぐら 太神楽(だいかぐら)(1) に同じ。
太神楽 だいかぐら (1) 伊勢神宮に奉納する神楽。だいだいかぐら。
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文楽座の人形芝居
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枠・框 わく (1) 糸をまきつける具。2本または4本の木を対立させて横木で支え、中央に軸を設けて回転するようにしたもの。(2) 木・竹・金属などの細い材で造り、器具の骨または縁としたもの。
糸瓜 へちま
優艶 ゆうえん しとやかで人の心を魅了し美しいさま。
兼ねる (4) 一方のみならず他方をも考える。遠慮する。きがねする。
人形振 にんぎょうぶり 歌舞伎で、義太夫狂言のある一節を操人形の動作をまねて演ずるもの。
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能面の様式
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網目版 あみめばん → 網版
網版 あみはん 写真・絵画のように濃淡の調子のある画像を網点の大小で再現する印刷版。凸版印刷やオフセット印刷に用いる。網目版。
外現 がいげん? 
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人物埴輪の眼
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埴土 しょくど 土性の名称の一つ。粘土の含有率が高いため、水分を多く含むと粘着力が強く、乾かすと亀裂が入り、耕作が難しい。
埴土 はにつち 粘土。赤土。


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)。



*後記(工作員スリーパーズ日記)


 安田喜憲『古代日本のルーツ・長江文明の謎』(青春出版社、2003.6)読了。奇しくも鳥居龍蔵がブッキング。鼻につくような記述もしばしば出てくるが、そこは、つまみながら読めばよし。
 川崎利夫『やまがたの歴史を掘る』(教育文化センター、1993.2)読了。川崎さんは天童在住、昭和八年生まれ。長らく県内遺跡の発掘調査にたずさわる。昨年は、山寺奥の院発掘と高擶散策のおりにご健在な様子を見る。旧石器捏造事件の発覚が二〇〇〇年一一月だから、本書は、発覚前の当時の見解がそのまま記されている。複式炉のことにも若干ながら言及がある。

 先週のつづき。質問時に複式炉の用法をたずねた人がいる。「暖をとることと、調理をすること」という無難な返答があったが、いくつかひっかかる。住居跡の中心をはずしている理由。暖をとる目的ならば中央にあってよさそう。住居スペースと収容人数と燃焼空気量の関係。空気の取込口と排気。いろりやかまどに想像するような燃焼が可能だったか。炉中央の土器が地中約四〇センチ程度に掘り下げて設置してある。いろりは平面、かまどや暖炉は地上が普通で、どちらも大きく空気口を開いている。炉中央の土器は一つないし二つが、横にもしくは奥と手前に並ぶ。その上に食物を入れた甑(こしき)を置くとした場合、土器の厚みで支えるのに強度は不足しなかったものか。手前の土器は石組み傾斜にあわせて口を欠いている。直接、物を乗せることはおそらく難しい。
 古代の熱利用について。まき木・炭の燃焼熱のほか、植物の腐蝕発酵熱、石材の太陽反射熱、生石灰の化学反応熱を併用していたのではないかと想像するのだが、まだ、該当する論考を読んだことはない。




*次週予告


第三巻 第二九号 
火山の話 今村明恒


第三巻 第二九号は、
二月一二日(土)発行予定です。
定価:200円


T-Time マガジン 週刊ミルクティー 第三巻 第二八号
面とペルソナ / 人物埴輪の眼 他 和辻哲郎
発行:二〇一一年二月五日(土)
編集:しだひろし/PoorBook G3'99
 http://www33.atwiki.jp/asterisk99/
出版:*99 出版
 〒994-0024 山形県天童市鎌田2丁目1−21
 アパートメント山口A−202
販売:DL-MARKET
※ T-Timeは(株)ボイジャーの商標・製品です。



T-Time マガジン 週刊ミルクティー*99 出版

第二巻

第一号 奇巌城(一)モーリス・ルブラン 月末最終号:無料
第二号 奇巌城(二)モーリス・ルブラン 定価:200円
第三号 美し姫と怪獣 / 長ぐつをはいた猫 定価:200円
第四号 毒と迷信 / 若水の話 / 麻薬・自殺・宗教 定価:200円
第五号 空襲警報 / 水の女 / 支流 定価:200円
第六号 新羅人の武士的精神について 池内宏 月末最終号:無料
第七号 新羅の花郎について 池内宏 定価:200円
第八号 震災日誌 / 震災後記 喜田貞吉 定価:200円
第九号 セロ弾きのゴーシュ / なめとこ山の熊 宮沢賢治 定価:200円
第十号 風の又三郎 宮沢賢治 月末最終号:無料
第一一号 能久親王事跡(一)森 林太郎 定価:200円
第一二号 能久親王事跡(二)森 林太郎 定価:200円
第一三号 能久親王事跡(三)森 林太郎 定価:200円
第一四号 能久親王事跡(四)森 林太郎 定価:200円
第一七号 赤毛連盟 コナン・ドイル 定価:200円
第一八号 ボヘミアの醜聞 コナン・ドイル 定価:200円
第一九号 グロリア・スコット号 コナン・ドイル 月末最終号:無料
第二〇号 暗号舞踏人の謎 コナン・ドイル 定価:200円
第二一号 蝦夷とコロボックルとの異同を論ず 喜田貞吉 定価:200円
第二二号 コロポックル説の誤謬を論ず 上・下 河野常吉 定価:200円
第二三号 慶長年間の朝日連峰通路について 佐藤栄太 月末最終号:無料
第二四号 まれびとの歴史/「とこよ」と「まれびと」と 折口信夫 定価:200円
第二五号 払田柵跡について二、三の考察/山形県本楯発見の柵跡について 喜田貞吉 定価:200円
第二六号 日本天変地異記 田中貢太郎 定価:200円
第二七号 種山ヶ原/イギリス海岸 宮沢賢治 定価:200円
第二八号 翁の発生/鬼の話 折口信夫  月末最終号:無料
第二九号 生物の歴史(一)石川千代松  定価:200円
第三〇号 生物の歴史(二)石川千代松  定価:200円
第三一号 生物の歴史(三)石川千代松  定価:200円
第三二号 生物の歴史(四)石川千代松  月末最終号:無料
第三三号 特集 ひなまつり  定価:200円
 雛 芥川龍之介
 雛がたり 泉鏡花
 ひなまつりの話 折口信夫

第三四号 特集 ひなまつり  定価:200円
 人形の話 折口信夫
 偶人信仰の民俗化並びに伝説化せる道 折口信夫

第三五号 右大臣実朝(一)太宰治  定価:200円
第三六号 右大臣実朝(二)太宰治 月末最終号:無料
第三七号 右大臣実朝(三)太宰治 定価:200円
第三八号 清河八郎(一)大川周明 定価:200円
第三九号 清河八郎(二)大川周明  定価:200円
第四〇号 清河八郎(三)大川周明  月末最終号:無料
第四一号 清河八郎(四)大川周明  定価:200円
第四二号 清河八郎(五)大川周明  定価:200円
第四三号 清河八郎(六)大川周明  定価:200円
第四四号 道鏡皇胤論について 喜田貞吉  定価:200円
第四五号 火葬と大蔵/人身御供と人柱 喜田貞吉  月末最終号:無料
第四六号 手長と足長/くぐつ名義考 喜田貞吉  定価:200円
第四七号 「日本民族」とは何ぞや/本州における蝦夷の末路 喜田貞吉  定価:200円
第四八号 若草物語(一)L. M. オルコット  定価:200円
第四九号 若草物語(二)L. M. オルコット  月末最終号:無料
第五〇号 若草物語(三)L. M. オルコット  定価:200円
第五一号 若草物語(四)L. M. オルコット  定価:200円
第五二号 若草物語(五)L. M. オルコット  定価:200円
第五三号 二人の女歌人/東北の家 片山広子  定価:200円
第三巻 第一号 星と空の話(一)山本一清  月末最終号:無料
  一、星座(せいざ)の星
  二、月(つき)
(略)殊にこの「ベガ」は、わが日本や支那では「七夕」の祭りにちなむ「織(お)り女(ひめ)」ですから、誰でも皆、幼い時からおなじみの星です。「七夕」の祭りとは、毎年旧暦七月七日の夜に「織り女」と「牽牛(ひこぼし)〔彦星〕」とが「天の川」を渡って会合するという伝説の祭りですが、その「天の川」は「こと」星座のすぐ東側を南北に流れていますし、また、「牽牛」は「天の川」の向かい岸(東岸)に白く輝いています。「牽牛」とその周囲の星々を、星座では「わし」の星座といい、「牽牛」を昔のアラビア人たちは、「アルタイル」と呼びました。「アルタイル」の南と北とに一つずつ小さい星が光っています。あれは「わし」の両翼を拡げている姿なのです。ところが「ベガ」の付近を見ますと、その東側に小さい星が二つ集まっています。昔の人はこれを見て、一羽の鳥が両翼をたたんで地に舞いくだる姿だと思いました。それで、「こと」をまた「舞いくだる鳥」と呼びました。

 「こと」の東隣り「天の川」の中に、「はくちょう」という星座があります。このあたりは大星や小星が非常に多くて、天が白い布のように光に満ちています。

第三巻 第二号 星と空の話(二)山本一清  定価:200円
  三、太陽
  四、日食と月食
  五、水星
  六、金星
  七、火星
  八、木星
 太陽の黒点というものは誠におもしろいものです。黒点の一つ一つは、太陽の大きさにくらべると小さい点々のように見えますが、じつはみな、いずれもなかなか大きいものであって、(略)最も大きいのは地球の十倍以上のものがときどき現われます。そして同じ黒点を毎日見ていますと、毎日すこしずつ西の方へ流れていって、ついに太陽の西の端(はし)でかくれてしまいますが、二週間ばかりすると、こんどは東の端から現われてきます。こんなにして、黒点の位置が規則正しく変わるのは、太陽全体が、黒点を乗せたまま、自転しているからなのです。太陽は、こうして、約二十五日間に一回、自転をします。(略)
 太陽の黒点からは、あらゆる気体の熱風とともに、いろいろなものを四方へ散らしますが、そのうちで最も強く地球に影響をあたえるものは電子が放射されることです。あらゆる電流の原因である電子が太陽黒点から放射されて、わが地球に達しますと、地球では、北極や南極付近に、美しいオーロラ(極光(きょっこう))が現われたり、「磁気嵐(じきあらし)」といって、磁石の針が狂い出して盛んに左右にふれたりします。また、この太陽黒点からやってくる電波や熱波や電子などのために、地球上では、気温や気圧の変動がおこったり、天気が狂ったりすることもあります。(略)
 太陽の表面に、いつも同じ黒点が長い間見えているのではありません。一つ一つの黒点はずいぶん短命なものです。なかには一日か二日ぐらいで消えるのがありますし、普通のものは一、二週間ぐらいの寿命のものです。特に大きいものは二、三か月も、七、八か月も長く見えるのがありますけれど、一年以上長く見えるということはほとんどありません。
 しかし、黒点は、一つのものがまったく消えない前に、他の黒点が二つも三つも現われてきたりして、ついには一時に三十も四十も、たくさんの黒点が同じ太陽面に見えることがあります。
 こうした黒点の数は、毎年、毎日、まったく無茶苦茶というわけではありません。だいたいにおいて十一年ごとに増したり減ったりします。

第三巻 第三号 星と空の話(三)山本一清  定価:200円
   九、土星
  一〇、天王星
  一一、海王星
  一二、小遊星
  一三、彗星
  一四、流星
  一五、太陽系
  一六、恒星と宇宙
 晴れた美しい夜の空を、しばらく家の外に出てながめてごらんなさい。ときどき三分間に一つか、五分間に一つぐらい星が飛ぶように見えるものがあります。あれが流星です。流星は、平常、天に輝いている多くの星のうちの一つ二つが飛ぶのだと思っている人もありますが、そうではありません。流星はみな、今までまったく見えなかった星が、急に光り出して、そしてすぐまた消えてしまうものなのです。(略)
 しかし、流星のうちには、はじめから稀(まれ)によほど形の大きいものもあります。そんなものは空気中を何百キロメートルも飛んでいるうちに、燃えつきてしまわず、熱したまま、地上まで落下してきます。これが隕石というものです。隕石のうちには、ほとんど全部が鉄のものもあります。これを隕鉄(いんてつ)といいます。(略)
 流星は一年じゅう、たいていの夜に見えますが、しかし、全体からいえば、冬や春よりは、夏や秋の夜にたくさん見えます。ことに七、八月ごろや十月、十一月ごろは、一時間に百以上も流星が飛ぶことがあります。
 八月十二、三日ごろの夜明け前、午前二時ごろ、多くの流星がペルセウス星座から四方八方へ放射的に飛びます。これらは、みな、ペルセウス星座の方向から、地球の方向へ、列を作ってぶっつかってくるものでありまして、これを「ペルセウス流星群」と呼びます。
 十一月十四、五日ごろにも、夜明け前の二時、三時ごろ、しし星座から飛び出してくるように見える一群の流星があります。これは「しし座流星群」と呼ばれます。
 この二つがもっとも有名な流星群ですが、なおこの他には、一月のはじめにカドラント流星群、四月二十日ごろに、こと座流星群、十月にはオリオン流星群などあります。

第三巻 第四号 獅子舞雑考/穀神としての牛に関する民俗 中山太郎  定価:200円
獅子舞雑考
  一、枯(か)れ木も山の賑(にぎ)やかし
  二、獅子舞に関する先輩の研究
  三、獅子頭に角(つの)のある理由
  四、獅子頭と狛犬(こまいぬ)との関係
  五、鹿踊(ししおど)りと獅子舞との区別は何か
  六、獅子舞は寺院から神社へ
  七、仏事にもちいた獅子舞の源流
  八、獅子舞について関心すべき点
  九、獅子頭の鼻毛と馬の尻尾(しっぽ)

穀神としての牛に関する民俗
  牛を穀神とするは世界共通の信仰
  土牛(どぎゅう)を立て寒気を送る信仰と追儺(ついな)
  わが国の家畜の分布と牛飼神の地位
  牛をもって神をまつるは、わが国の古俗
  田遊(たあそ)びの牛の役と雨乞いの牛の首

 全体、わが国の獅子舞については、従来これに関する発生、目的、変遷など、かなり詳細なる研究が発表されている。(略)喜多村翁の所説は、獅子舞は西域の亀茲(きじ)国の舞楽が、支那の文化とともに、わが国に渡来したのであるという、純乎たる輸入説である。柳田先生の所論は、わが国には古く鹿舞(ししまい)というものがあって、しかもそれが広くおこなわれていたところへ、後に支那から渡来した獅子舞が、国音の相通から付会(ふかい)したものである。その証拠には、わが国の各地において、古風を伝えているものに、角(つの)のある獅子頭があり、これに加うるのに鹿を歌ったものを、獅子舞にもちいているという、いわば固有説とも見るべき考証である。さらに小寺氏の観察は、だいたいにおいて柳田先生の固有説をうけ、別にこれに対して、わが国の鹿舞の起こったのは、トーテム崇拝に由来するのであると、付け加えている。
 そこで、今度は管見を記すべき順序となったが、これは私も小寺氏と同じく、柳田先生のご説をそのまま拝借する者であって、べつだんに奇説も異論も有しているわけではない。ただ、しいて言えば、わが国の鹿舞と支那からきた獅子舞とは、その目的において全然別個のものがあったという点が、相違しているのである。ことに小寺氏のトーテム説にいたっては、あれだけの研究では、にわかに左袒(さたん)することのできぬのはもちろんである。

 こういうと、なんだか柳田先生のご説に、反対するように聞こえるが、角(つの)の有無をもって鹿と獅子の区別をすることは、再考の余地があるように思われる。

第三巻 第五号 鹿踊りのはじまり 宮沢賢治/奥羽地方のシシ踊りと鹿供養 喜田貞吉  月末最終号:無料
鹿踊りのはじまり 宮沢賢治
奥羽地方のシシ踊りと鹿供養 喜田貞吉
  一 緒言
  二 シシ踊りは鹿踊り
  三 伊予宇和島地方の鹿の子踊り
  四 アイヌのクマ祭りと捕獲物供養
  五 付記

 奥羽地方には各地にシシ踊りと呼ばるる一種の民間舞踊がある。地方によって多少の相違はあるが、だいたいにおいて獅子頭を頭につけた青年が、数人立ちまじって古めかしい歌謡を歌いつつ、太鼓の音に和して勇壮なる舞踊を演ずるという点において一致している。したがって普通には獅子舞あるいは越後獅子などのたぐいで、獅子奮迅・踊躍の状を表象したものとして解せられているが、奇態なことにはその旧仙台領地方におこなわるるものが、その獅子頭に鹿の角(つの)を有し、他の地方のものにも、またそれぞれ短い二本の角がはえているのである。
 楽舞用具の一種として獅子頭のわが国に伝わったことは、すでに奈良朝のころからであった。くだって鎌倉時代以後には、民間舞踊の一つとして獅子舞の各地におこなわれたことが少なからず文献に見えている。そしてかの越後獅子のごときは、その名残りの地方的に発達・保存されたものであろう。獅子頭はいうまでもなくライオンをあらわしたもので、本来、角があってはならぬはずである。もちろんそれが理想化し、霊獣化して、彫刻家の意匠により、ことさらにそれに角を付加するということは考えられぬでもない。武蔵南多摩郡元八王子村なる諏訪神社の獅子頭は、古来、龍頭とよばれて二本の長い角が斜めにはえているので有名である。しかしながら、仙台領において特にそれが鹿の角であるということは、これを霊獣化したとだけでは解釈されない。けだし、もと鹿供養の意味からおこった一種の田楽的舞踊で、それがシシ踊りと呼ばるることからついに獅子頭とまで転訛するに至り、しかもなお原始の鹿角を保存して、今日におよんでいるものであろう。

第三巻 第六号 魏志倭人伝/後漢書倭伝/宋書倭国伝/隋書倭国伝  定価:200円
魏志倭人伝/後漢書倭伝/宋書倭国伝/隋書倭国伝

倭人在帯方東南大海之中、依山島為国邑。旧百余国。漢時有朝見者、今使訳所通三十国。従郡至倭、循海岸水行、歴韓国、乍南乍東、到其北岸狗邪韓国七千余里。始度一海千余里、至対馬国、其大官曰卑狗、副曰卑奴母離、所居絶島、方可四百余里(略)。又南渡一海千余里、名曰瀚海、至一大国〔一支国か〕(略)。又渡一海千余里、至末盧国(略)。東南陸行五百里、到伊都国(略)。東南至奴国百里(略)。東行至不弥国百里(略)。南至投馬国水行二十日、官曰弥弥、副曰弥弥那利、可五万余戸。南至邪馬壱国〔邪馬台国〕、女王之所都、水行十日・陸行一月、官有伊支馬、次曰弥馬升、次曰弥馬獲支、次曰奴佳�、可七万余戸。(略)其国本亦以男子為王、住七八十年、倭国乱、相攻伐歴年、乃共立一女子為王、名曰卑弥呼、事鬼道、能惑衆、年已長大、無夫壻、有男弟、佐治国、自為王以来、少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人、給飲食、伝辞出入居処。宮室・楼観・城柵厳設、常有人持兵守衛。

第三巻 第七号 卑弥呼考(一)内藤湖南  定価:200円
  一、本文の選択
  二、本文の記事に関するわが邦(くに)最旧の見解
  三、旧説に対する異論
 『後漢書』『三国志』『晋書』『北史』などに出でたる倭国女王卑弥呼のことに関しては、従来、史家の考証はなはだ繁く、あるいはこれをもってわが神功皇后とし、あるいはもって筑紫の一女酋とし、紛々として帰一するところなきが如くなるも、近時においてはたいてい後説を取る者多きに似たり。(略)
 卑弥呼の記事を載せたる支那史書のうち、『晋書』『北史』のごときは、もとより『後漢書』『三国志』に拠りたること疑いなければ、これは論を費やすことをもちいざれども、『後漢書』と『三国志』との間に存する�異(きい)の点に関しては、史家の疑惑をひく者なくばあらず。『三国志』は晋代になりて、今の范曄の『後漢書』は、劉宋の代になれる晩出の書なれども、両書が同一事を記するにあたりて、『後漢書』の取れる史料が、『三国志』の所載以外におよぶこと、東夷伝中にすら一、二にして止まらざれば、その倭国伝の記事もしかる者あるにあらずやとは、史家のどうもすれば疑惑をはさみしところなりき。この疑惑を決せんことは、すなわち本文選択の第一要件なり。
 次には本文のうち、各本に字句の異同あることを考えざるべからず。『三国志』について言わんに、余はいまだ宋板本を見ざるも、元槧明修本、明南監本、乾隆殿板本、汲古閣本などを対照し、さらに『北史』『通典』『太平御覧』『冊府元亀』など、この記事を引用せる諸書を参考してその異同の少なからざるに驚きたり。その�異を決せんことは、すなわち本文選択の第二要件なり。

第三巻 第八号 卑弥呼考(二)内藤湖南  定価:200円
  四、本文の考証
帯方 / 旧百余国。漢時有朝見者。今使訳所通三十国。 / 到其北岸狗邪韓国 / 対馬国、一大国、末盧国、伊都国、奴国、不弥国 / 南至投馬國。水行二十日。/ 南至邪馬壹國。水行十日。陸行一月。/ 斯馬国 / 已百支国 / 伊邪国 / 郡支国 / 弥奴国 / 好古都国 / 不呼国 / 姐奴国 / 対蘇国 / 蘇奴国 / 呼邑国 / 華奴蘇奴国 / 鬼国 / 為吾国 / 鬼奴国 / 邪馬国 / 躬臣国 / 巴利国 / 支惟国 / 烏奴国 / 奴国 / 此女王境界所盡。其南有狗奴國 / 会稽東治
南至投馬國。水行二十日。  これには数説あり、本居氏は日向国児湯郡に都万神社ありて、『続日本後紀』『三代実録』『延喜式』などに見ゆ、此所にてもあらんかといえり。鶴峰氏は『和名鈔』に筑後国上妻郡、加牟豆万、下妻郡、准上とある妻なるべしといえり。ただし、その水行二十日を投馬より邪馬台に至る日程と解したるは著しき誤謬なり。黒川氏は三説をあげ、一つは鶴峰説に同じく、二つは「投」を「殺」の譌りとみて、薩摩国とし、三つは『和名鈔』、薩摩国麑島郡に都万郷ありて、声近しとし、さらに「投」を「敏」の譌りとしてミヌマと訓み、三潴郡とする説をもあげたるが、いずれも穏当ならずといえり。『国史眼』は設馬の譌りとして、すなわち薩摩なりとし、吉田氏はこれを取りて、さらに『和名鈔』の高城郡托摩郷をもあげ、菅氏は本居氏に従えり。これを要するに、みな邪馬台を筑紫に求むる先入の見に出で、「南至」といえる方向に拘束せられたり。しかれども支那の古書が方向をいう時、東と南と相兼ね、西と北と相兼ぬるは、その常例ともいうべく、またその発程のはじめ、もしくは途中のいちじるしき土地の位置などより、方向の混雑を生ずることも珍しからず。『後魏書』勿吉伝に太魯水、すなわち今の�児河より勿吉、すなわち今の松花江上流に至るによろしく東南行すべきを東北行十八日とせるがごとき、陸上におけるすらかくのごとくなれば海上の方向はなおさら誤り易かるべし。ゆえに余はこの南を東と解して投馬国を『和名鈔』の周防国佐婆郡〔佐波郡か。〕玉祖郷〈多萬乃於也〉にあてんとす。この地は玉祖宿祢の祖たる玉祖命、またの名、天明玉命、天櫛明玉命をまつれるところにして周防の一宮と称せられ、今の三田尻の海港をひかえ、内海の衝要にあたれり。その古代において、玉作を職とせる名族に拠有せられて、五万余戸の集落をなせしことも想像し得べし。日向・薩摩のごとき僻陬とも異なり、また筑後のごとく、路程の合いがたき地にもあらず、これ、余がかく定めたる理由なり。

第三巻 第九号 卑弥呼考(三)内藤湖南  月末最終号:無料
  四、本文の考証(つづき)
爾支 / 泄謨觚、柄渠觚、�馬觚 / 多模 / 弥弥、弥弥那利 / 伊支馬、弥馬升、弥馬獲支、奴佳� / 狗古智卑狗
卑弥呼 / 難升米 / 伊声耆掖邪狗 / 都市牛利 / 載斯烏越 / 卑弥弓呼素 / 壱与
  五、結論
    付記
 次に人名を考証せんに、その主なる者はすなわち、「卑弥呼」なり。余はこれをもって倭姫命に擬定す。その故は前にあげたる官名に「伊支馬」「弥馬獲支」あるによりて、その崇神・垂仁二朝を去ること遠からざるべきことを知る、一つなり。「事二鬼道一、能惑レ衆」といえるは、垂仁紀二十五年の記事ならびにその細注、『延暦儀式帳』『倭姫命世記』などの所伝を総合して、もっともこの命(みこと)の行事に適当せるを見る。その天照大神の教えにしたがいて、大和より近江・美濃・伊勢諸国を遍歴し、〈『倭姫世記』によれば尾張・丹波・紀伊・吉備にもおよびしが如し〉いたるところにその土豪より神戸・神田・神地を徴して神領とせるは、神道設教の上古を離るること久しき魏人より鬼道をもって衆を惑わすと見えしも怪しむに足らざるべし、二つなり。余が邪馬台の旁国の地名を擬定せるは、もとより務めて大和の付近にして、倭姫命が遍歴せる地方より選び出したれども、その多数がはなはだしき付会におちいらずして、伊勢を基点とせる地方に限定することを得たるは、また一証とすべし、三つなり。(略)「卑弥呼」の語解は本居氏がヒメコの義とするは可なれども、神代巻に火之戸幡姫児千々姫ノ命、また万幡姫児玉依姫ノ命などある「姫児(ヒメコ)」に同じとあるは非にして、この二つの「姫児」は平田篤胤のいえるごとく姫の子の義なり。「弥」を「メ」と訓(よ)む例は黒川氏の『北史国号考』に「上宮聖徳法王帝説、繍張文の吉多斯比弥乃弥己等(キタシヒメノミコト)、また等已弥居加斯支移比弥乃弥己等(トヨミケカシキヤヒメノミコト)、注云 弥字或当二売音一也」とあるを引けるなどに従うべし。
付記 余がこの編を出せる直後、すでに自説の欠陥を発見せしものあり、すなわち「卑弥呼」の名を考証せる条中に『古事記』神代巻にある火之戸幡姫児(ヒノトバタヒメコ)、および万幡姫児(ヨロヅハタヒメコ)の二つの「姫児」の字を本居氏にしたがいて、ヒメコと読みしは誤りにして、平田氏のヒメノコと読みしが正しきことを認めたれば、今の版にはこれを改めたり。

第三巻 第一〇号 最古日本の女性生活の根底/稲むらの陰にて 折口信夫  定価:200円
最古日本の女性生活の根底
  一 万葉びと――琉球人
  二 君主――巫女
  三 女軍(めいくさ)
  四 結婚――女の名
  五 女の家
稲むらの陰にて
 古代の歴史は、事実の記憶から編み出されたものではない。神人(かみびと)に神憑(がか)りした神の、物語った叙事詩から生まれてきたのである。いわば夢語りともいうべき部分の多い伝えの、世をへて後、筆録せられたものにすぎない。(略)神々の色彩を持たない事実などの、後世に伝わりようはあるべきはずがないのだ。(略)女として神事にあずからなかった者はなく、神事に関係せなかった女の身の上が、物語の上に伝誦せられるわけがなかったのである。
(略)村々の君主の下になった巫女が、かつては村々の君主自身であったこともあるのである。『魏志』倭人伝の邪馬台(ヤマト)国の君主卑弥呼は女性であり、彼の後継者も女児であった。巫女として、呪術をもって、村人の上に臨んでいたのである。が、こうした女君制度は、九州の辺土には限らなかった。卑弥呼と混同せられていた神功皇后も、最高巫女としての教権をもって、民を統べていられた様子は、『日本紀』を見れば知られることである。(略)
 沖縄では、明治の前までは国王の下に、王族の女子あるいは寡婦が斎女王(いつきのみこ)同様の仕事をして、聞得大君(きこえうふきみ)(ちふいぢん)と言うた。尚家の中途で、皇后の下に位どられることになったが、以前は沖縄最高の女性であった。その下に三十三君というて、神事関係の女性がある。それは地方地方の神職の元締めのような位置にいる者であった。その下にあたるノロ(祝女)という、地方の神事官吏なる女性は今もいる。そのまた下にその地方の家々の神につかえる女の神人がいる。この様子は、内地の昔を髣髴(ほうふつ)させるではないか。沖縄本島では聞得大君を君主と同格に見た史実がない。が、島々の旧記にはその痕跡が残っている。(「最古日本の女性生活の根底」より)

第三巻 第一一号 瀬戸内海の潮と潮流(他三編)寺田寅彦  定価:200円
瀬戸内海の潮と潮流
コーヒー哲学序説
神話と地球物理学
ウジの効用
 一体、海の面はどこでも一昼夜に二度ずつ上がり下がりをするもので、それを潮の満干といいます。これは月と太陽との引力のためにおこるもので、月や太陽がたえず東から西へまわるにつれて、地球上の海面の高くふくれた満潮の部分と低くなった干潮の部分もまた、だいたいにおいて東から西へ向かって大洋の上を進んで行きます。このような潮の波が内海のようなところへ入って行きますと、いろいろに変わったことがおこります。ことに瀬戸内海のように外洋との通路がいくつもあり、内海の中にもまた瀬戸がたくさんあって、いくつもの灘に分かれているところでは、潮の満干もなかなか込み入ってきて、これをくわしく調べるのはなかなか難しいのです。しかし、航海の頻繁なところであるから潮の調査は非常に必要なので、海軍の水路部などではたくさんな費用と時日を費やしてこれを調べておられます。東京あたりと四国の南側の海岸とでは満潮の時刻は一時間くらいしか違わないし、満干の高さもそんなに違いませんが、四国の南側とその北側とでは満潮の時刻はたいへんに違って、ところによっては六時間も違い、一方の満潮の時に他のほうは干潮になることもあります。また、内海では満干の高さが外海の倍にもなるところがあります。このように、あるところでは満潮であるのに他のところでは干潮になったり、内海の満干の高さが外海の満干の高さの倍になるところのあるのは、潮の流れがせまい海峡を入るためにおくれ、また、方々の入口から入り乱れ、重なり合うためであります。(「瀬戸内海の潮と潮流」より)

第三巻 第一二号 日本人の自然観/天文と俳句 寺田寅彦  定価:200円
日本人の自然観
 緒言
 日本の自然
 日本人の日常生活
 日本人の精神生活
 結語
天文と俳句
 もしも自然というものが、地球上どこでも同じ相貌(そうぼう)をあらわしているものとしたら、日本の自然も外国の自然も同じであるはずであって、したがって上記のごとき問題の内容吟味は不必要であるが、しかし実際には、自然の相貌がいたるところむしろ驚くべき多様多彩の変化を示していて、ひと口に自然と言ってしまうにはあまりに複雑な変化を見せているのである。こういう意味からすると、同じように、「日本の自然」という言葉ですらも、じつはあまりに漠然としすぎた言葉である。(略)
 こう考えてくると、今度はまた「日本人」という言葉の内容が、かなり空疎な散漫なものに思われてくる。九州人と東北人とくらべると各個人の個性を超越するとしても、その上にそれぞれの地方的特性の支配が歴然と認められる。それで九州人の自然観や、東北人の自然観といったようなものもそれぞれ立派に存立しうるわけである。(略)
 われわれは通例、便宜上、自然と人間とを対立させ、両方別々の存在のように考える。これが現代の科学的方法の長所であると同時に短所である。この両者は、じつは合わして一つの有機体を構成しているのであって、究極的には独立に切り離して考えることのできないものである。(略)
 日本人の先祖がどこに生まれ、どこから渡ってきたかは別問題として、有史以来二千有余年、この土地に土着してしまった日本人が、たとえいかなる遺伝的記憶をもっているとしても、その上層を大部分掩蔽(えんぺい)するだけの経験の収穫をこの日本の環境から受け取り、それにできるだけしっくり適応するように努力し、また少なくも、部分的にはそれに成効してきたものであることには疑いがないであろうと思われる。(「日本人の自然観」より)

第三巻 第一三号 倭女王卑弥呼考(一)白鳥庫吉  定価:200円
 倭人の名は『山海経』『漢書』『論衡』などの古書に散見すれども、その記事いずれも簡単にして、これによりては、いまだ上代における倭国の状態をうかがうに足(た)らず。しかるにひとり『魏志』の「倭人伝」に至りては、倭国のことを叙することすこぶる詳密にして、しかも伝中の主人公たる卑弥呼女王の人物は、赫灼(かくしゃく)として紙上に輝き、読者をしてあたかも暗黒の裡に光明を認むるがごとき感あらしむ。(略)
 それすでに里数をもってこれを測るも、また日数をもってこれを稽(かんが)うるも、女王国の位置を的確に知ることあたわずとせば、はたしていかなる事実をかとらえてこの問題を解決すべき。余輩は幾度か『魏志』の文面を通読玩索(がんさく)し、しかして後、ようやくここに確乎動かすべからざる三個の目標を認め得たり。しからばすなわち、いわゆる三個の目標とは何ぞや。いわく邪馬台国は不弥国より南方に位すること、いわく不弥国より女王国に至るには有明の内海を航行せしこと、いわく女王国の南に狗奴国と称する大国の存在せしこと、すなわちこれなり。さて、このうち第一・第二の二点は『魏志』の文面を精読して、たちまち了解せらるるのみならず、先輩すでにこれを説明したれば、しばらくこれを措(お)かん。しかれども第三点にいたりては、『魏志』の文中明瞭の記載あるにもかかわらず、余輩が日本学会においてこれを述べたる時までは、何人もかつてここに思い至らざりしがゆえに、また、この点は本論起草の主眼なるがゆえに、余輩は狗奴国の所在をもって、この問題解決の端緒を開かんとす。

第三巻 第一四号 倭女王卑弥呼考(二)白鳥庫吉  月末最終号:無料
 九州の西海岸は潮汐満乾の差はなはだしきをもって有名なれば、上に記せる塩盈珠(しおみつたま)・塩乾珠(しおひるたま)の伝説は、この自然的現象に原因しておこれるものならん。ゆえに神典に見えたる彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)と火闌降命(ほのすそりのみこと)との争闘は、『魏志』によりて伝われる倭女王と狗奴(くな)男王との争闘に類せる政治的状態の反映とみなすべきものなり。
 『魏志』の記すところによれば、邪馬台国はもと男子をもって王となししが、そののち国中混乱して相攻伐し、ついに一女子を立てて王位につかしむ。これを卑弥呼となす。この女王登位の年代は詳らかならざれども、そのはじめて魏国に使者を遣わしたるは、景初二年すなわち西暦二三八年なり。しかして正始八年すなわち西暦二四七年には、女王、狗奴国の男王と戦闘して、その乱中に没したれば、女王はけだし後漢の末葉よりこの時まで九州の北部を統治せしなり。女王死してのち国中また乱れしが、その宗女壱与(いよ)なる一小女を擁立するにおよんで国乱定まりぬ。卑弥呼の仇敵狗奴国の男王卑弓弥呼(ヒコミコ)は何年に即位し何年まで在位せしか、『魏志』に伝わらざれば、またこれを知るに由なし。しかれども正始八年(二四七)にこの王は女王卑弥呼と戦って勝利を得たれば、女王の嗣者壱与(いよ)の代におよんでも、依然として九州の南部に拠りて、暴威を逞(たくま)しうせしに相違なし。

第三巻 第一五号 倭奴国および邪馬台国に関する誤解 他 喜田貞吉  定価:200円
倭奴国と倭面土国および倭国とについて稲葉君の反問に答う
倭奴国および邪馬台国に関する誤解
 考古界の重鎮高橋健自君逝(い)かれて、考古学会長三宅先生〔三宅米吉。〕の名をもって追悼の文をもとめられた。しかもまだ自分がその文に筆を染めぬ間にその三宅先生がまた突然逝かれた。本当に突然逝かれたのだった。青天の霹靂というのはまさにこれで、茫然自失これを久しうすということは、自分がこの訃報に接した時にまことに体験したところであった。
 自分が三宅先生とご懇意を願うようになったのは、明治三十七、八年(一九〇四・一九〇五)戦役のさい、一緒に戦地見学に出かけた時であった。十数日間いわゆる同舟の好みを結び、あるいは冷たいアンペラの上に御同様南京虫を恐がらされたのであったが、その間にもあの沈黙そのもののごときお口から、ポツリポツリと識見の高邁なところをうけたまわるの機会を得て、その博覧強記と卓見とは心から敬服したことであった。今度考古学会から、先生のご研究を記念すべき論文を募集せられるというので、倭奴国および邪馬台国に関する小篇をあらわして、もって先生の学界における功績を追懐するの料とする。
 史学界、考古学界における先生の遺された功績はすこぶる多い。しかしその中において、直接自分の研究にピンときたのは漢委奴国王の問題の解決であった。うけたまわってみればなんの不思議もないことで、それを心づかなかった方がかえって不思議なくらいであるが、そこがいわゆるコロンブスの卵で、それまで普通にそれを怡土国王のことと解して不思議としなかったのであった。さらに唐人らの輩にいたっては、それをもって邪馬台国のことなりとし、あるいはただちに倭国全体の称呼であるとまで誤解していたのだった。

第三巻 第一六号 初雪 モーパッサン 秋田 滋(訳)  定価:200円
 長いクロワゼットの散歩路が、あおあおとした海に沿うて、ゆるやかな弧を描いている。はるか右のほうにあたって、エストゥレルの山塊がながく海のなかに突き出て眼界をさえぎり、一望千里のながめはないが、奇々妙々を極めた嶺岑(みね)をいくつとなく擁するその山姿は、いかにも南国へ来たことを思わせる、うつくしいながめであった。
 頭をめぐらして右のほうを望むと、サント・マルグリット島とサント・オノラ島が、波のうえにぽっかり浮かび、樅(もみ)の木におおわれたその島の背を二つ見せている。
 この広い入江のほとりや、カンヌの町を三方から囲んで屹立(きつりつ)している高い山々に沿うて、数知れず建っている白亜の別荘は、おりからの陽ざしをさんさんと浴びて、うつらうつら眠っているように見えた。そしてはるか彼方には、明るい家々が深緑の山肌を、その頂から麓のあたりまで、はだれ雪のように、まだらに点綴(てんてい)しているのが望まれた。
 海岸通りにたちならんでいる家では、その柵のところに鉄の格子戸がひろい散歩路のほうに開くようにつけてある。その路のはしには、もう静かな波がうちよせてきて、ザ、ザアッとそれを洗っていた。――うらうらと晴れわたった、暖かい日だった。冬とは思われない陽ざしの降りそそぐ、なまあたたかい小春日和である。輪を回して遊んでいる子供を連れたり、男となにやら語らいながら、足どりもゆるやかに散歩路の砂のうえを歩いてゆく女の姿が、そこにもここにも見えた。

第三巻 第一七号 高山の雪 小島烏水  定価:200円
 古い雪の上に新雪が加わると、その翌る朝などは、新雪が一段と光輝を放ってまばゆく見える。雪は古くなるほど、結晶形を失って、粒形に変化するもので、粒形になると、純白ではなくなる。また粒形にならないまでも、古い雪に白い輝きがなくなるのは、一部は空気を含むことが少ないからで、一部は鉱物の分子だの、塵芥(じんかい)泥土だのが加わって、黄色、灰色、またはトビ色に変わってしまうからだ。ことに日本北アルプスの飛騨山脈南部などでは、硫黄岳という活火山の降灰のために、雪のおもてが、瀝青(チャン)を塗ったように黒くなることがある。「黒い雪」というものは、私ははじめて、その硫黄岳のとなりの、穂高岳で見た。黒い雪ばかりじゃない、「赤い雪」も槍ヶ岳で私の実見したところである。私は『日本アルプス』第二巻で、それを「色が桃紅なので、水晶のような氷の脈にも血管が通っているようだ」と書いて、原因を花崗岩の※爛(ばいらん)した砂に帰したが、これは誤っている。赤い雪は南方熊楠氏の示教せられたところによれば、スファエレラ・ニヴァリス Sphaerella Nivalis という単細胞の藻で、二本のひげがある。水中を泳ぎまわっているが、またひげを失ってまるい顆粒となり、静止してしまう。それが紅色を呈するため、雪が紅になるので、あまり珍しいものではないそうである。ただし槍ヶ岳で見たのも、同種のものであるや否やは、断言できないが、要するに細胞の藻類であることは、たしかであろうと信ずる。ラボックの『スイス風景論』中、アルプス地方に見る紅雪として、あげてあるのも、やはり同一な細胞藻であった。このほかにアンシロネマ Ancylonema という藻がはえて、雪を青色またはスミレ色に染めることもあるそうであるが、日本アルプス地方では、私はいまだそういう雪を見たことはない。

第三巻 第一八号 光をかかぐる人々[続]『世界文化』連載分(一)徳永 直  月末最終号:無料
 昭和十八年(一九四三)三月のある日、私は“嘉平の活字”をさがすため、東京発鹿児島行きの急行に乗っていた。伴(つ)れがあって、七歳になる甥と、その母親の弟嫁とが、むかいあってこしかけているが、厚狭、小月あたりから、海岸線の防備を見せまいためか、窓をおろしてある車内も、ようやく白んできた。戦備で、すっかり形相のかわった下関構内にはいったころは、乗客たちも洗面の水もない不自由さながら、それぞれに身づくろいして、朝らしく生きかえった顔色になっている……。
 と、私はこの小説だか何だかわからない文章の冒頭をはじめるが、これを書いているのは昭和二十三年(一九四八)夏である。読者のうちには、昭和十八年に出版した同題の、これの上巻を読まれた方もあるかと思うが、私が「日本の活字」の歴史をさがしはじめたのは昭和十四年(一九三九)からだから、まもなくひと昔になろうとしているわけだ。歴史などいう仕事にとっては、十年という月日はちょっとも永くないものだと、素人の私にもちかごろわかってきているが、それでも、鉄カブトに巻ゲートルで、サイレンが鳴っても空襲サイレンにならないうちは、これのノートや下書きをとる仕事をつづけていたころとくらべると、いまは現実の角度がずいぶん変わってきている。弱い歴史の書物など、この変化の関所で、どっかへふっとんだ。いまの私は半そでシャツにサルマタで机のまえにあぐらでいるけれど、上巻を読みかえしてみると、やはり天皇と軍閥におされた多くのひずみを見出さないわけにはゆかない。歴史の真実をえがくということも、階級のある社会では、つねにはげしい抵抗をうける。変わったとはいえ、戦後三年たって、ちがった黒雲がますます大きくなってきているし、新しい抵抗を最初の数行から感じずにいられぬが、はたして、私の努力がどれくらい、歴史の真実をえがき得るだろうか?

第三巻 第一九号 光をかかぐる人々[続]『世界文化』連載分(二)徳永 直  定価:200円
 「江戸期の印刷工場」が近代的な印刷工場に飛躍するためには、活字のほかにいくつかの条件が必要である。第一にはバレンでこするかわりに、鉄のハンドでしめつけるプレスである。第二に、速度のある鋳造機である。第三に、バレン刷りにはふさわしくても金属活字に不向きな「和紙」の改良である。そして第四は、もっともっと重要だが、近代印刷術による印刷物の大衆化を見とおし、これを開拓してゆくところのイデオロギーである。特定の顧客であった大名や貴族、文人や墨客から離脱して、開国以後の新空気に胎動する平民のなかへゆこうとする思想であった。
 苦心の電胎字母による日本の活字がつくれても、それが容易に大衆化されたわけではない。のちに見るように「長崎の活字」は、はるばる「東京」にのぼってきても買い手がなくて、昌造の後継者平野富二は大童(おおわらわ)になって、その使用法や効能を宣伝しなければならなかったし、和製のプレスをつくって売り広めなければならなかったのである。つまり日本の近代的印刷工場が誕生するためには、総合的な科学の力と、それにもまして新しい印刷物を印刷したい、印刷することで大衆的におのれの意志を表現しようとする中味が必要であった。たとえばこれを昌造の例に見ると、彼は蒸汽船をつくり、これを運転し、また鉄を製煉し、石鹸をつくり、はやり眼を治し、痘瘡をうえた。活字をつくると同時に活字のボディに化合すべきアンチモンを求めて、日本の鉱山の半分くらいは探しまわったし、失敗に終わったけれど、いくたびか舶来のプレスを手にいれて、これの操作に熟練しようとした。これらの事実は、ガンブルがくる以前、嘉永から慶応までのことであるが、同時に、昌造が活字をつくったとき最初の目的が、まずおのれの欲する中味の本を印刷刊行したいことであった。印刷して、大名や貴族、文人や墨客ではない大衆に読ませたいということであった。それは前編で見たように、彼が幕府から捕らわれる原因ともなった流し込み活字で印刷した『蘭語通弁』〔蘭和通弁か〕や、電胎活字で印刷した『新塾余談』によっても明らかである。

第三巻 第二〇号 光をかかぐる人々[続]『世界文化』連載分(三)徳永 直  定価:200円
 第一に、ダイアはアルファベット活字製法の流儀にしたがって鋼鉄パンチをつくった。凹型銅字母から凸型活字の再生まで嘉平や昌造と同様であるが、字画の複雑な漢字を「流しこみ」による鋳造では、やさしくないということを自覚していること。自覚していること自体が、アルファベット活字製法の伝統でそれがすぐわかるほど、逆にいえば自信がある。
 第二は、ダイアはたとえば嘉平などにくらべると、後に見るように活字製法では「素人」である。嘉平も昌造も自分でパンチを彫ったが、そのダイアは「労働者を使用し」た。(略)
 第三に、ダイアの苦心は活字つくりの実際にもあるが、もっと大きなことは、漢字の世界を分析し、システムをつくろうとしていることである。アルファベット人のダイアは、漢字活字をつくる前に漢字を習得しなければならなかった。(略)
 さて、ペナンで発生したダイア活字は、これから先、どう発展し成功していったかは、のちに見るところだけれど、いまやパンチによる漢字活字が実際的に誕生したことはあきらかであった。そして、嘉平や昌造よりも三十年早く。日本では昌造・嘉平の苦心にかかわらず、パンチでは成功しなかった漢字活字が、ダイアによっては成功したということ。それが、アルファベット人におけるアルファベット活字製法の伝統と技術とが成功させたものであるということもあきらかであった。そして、それなら、この眼玉の青い連中は、なんで世界でいちばん難しい漢字をおぼえ、活字までつくろうとするのか? いったい、サミュエル・ダイアなる人物は何者か? 世界の同志によびかけて拠金をつのり、世界三分の一の人類の幸福のために、と、彼らは、なんでさけぶのか? 私はそれを知らねばならない。それを知らねば、ダイア活字の、世界で最初の漢字鉛活字の誕生したその根拠がわからぬ、と考えた。

第三巻 第二一号 光をかかぐる人々[続]『世界文化』連載分(四)徳永 直  定価:200円
 アジアには十六世紀を前後して銅活字の時代があり、朝鮮でも日本でもおこなわれている。秀吉の朝鮮侵略のみやげものに端を発している家康・家光時代の銅活字印刷があるけれど、それにくらべると、このさし絵に見る康熙帝の印刷局ははるかに大規模で組織的であることがわかる。しかし、日本でも『お湯殿日記』に見るような最初の文選工は「お公卿たち」であったが、支那でもあごひげの長い官人たちであった。明治になって印刷術が近代化されてからでも、印刷工業をおこした人々の多くが、武家など文字になじみのある階級だったように、私の徒弟だったころの先輩の印刷工の多くが、やはり士族くずれだったことを思い出す。(略)
 武英殿の銅活字は康熙帝の孫、高宗〔乾隆帝〕の代になるとつぶされて銅貨となった。日本でも家康時代の銅活字は同じ運命をたどっているけれど、支那のばあいは銅貨の不足が原因といわれている。しかし、もっと大きな原因は金属活字にあって、漢字組織ができないならば、またプレス式の印刷機もないとするならば、むしろ手わざの発達による木版の方が容易であり便利であった。ボディが銅であれ鉛であれ、それが彫刻に過ぎないならば、むしろ木版にしくはない。銅活字がほろびて再び木版術が栄え、極彩色の芸術的な印刷物もできるようになった。康熙・乾隆の時代に見られるこの傾向は、十七世紀の終わりから十八世紀のなかほどまでであるが、江戸中期から木版術が再興し、世界にたぐいない木版印刷術を生み出した日本と時間的にもほぼ一致している――ということも、漢字が持つ共通の宿命がするわざであったろう。

第三巻 第二二号 光をかかぐる人々[続]『世界文化』連載分(五)徳永 直  月末最終号:無料
 『東洋文化史上におけるキリスト教』(三六二ページ)で溝口靖夫氏は、前に述べたメドハーストが(Ibid, P.366)自分の当時の経験を追懐した文章を根拠にして、つぎのように述べているところがある。――第五の困難は、アヘン問題と宣教師の関係であった。メドハーストが広東に着いた一八三五年は、アヘン戦争の直前であり、支那と英国のあいだに険悪な空気がみなぎっていた。このときにあたって宣教師たちは、きわめて困難なる立場に置かれた。宣教師たちは、しばしばアヘンを積んだ船に乗ってきた。しかも、メドハーストらは切符は買っているが、積荷について容嘴(ようし)する権利はなかった。……宣教師は、英国人と支那人との間に立って、しばしば通訳の労をとらねばならなかったが、こんなとき支那人はアヘン貿易は正義にかなえるものなりや否や? をただすのであった。……ゆえに当時、宣教師たちのこいねがったのは、一艘の伝道用船を得ることであった。これによりアヘンの罪悪からまぬがるることであった。――一艘の伝道船で、アヘンから逃れることはできないけれど、一口にいって「インドからの手紙」は、英国議会をして宣教師らの活動を保証させる決議案をパスさせながら、こんどは「信教の自由憲章」を勝ち取らねばならぬほどそれが首かせになったことを示している。つまり、産業革命が生み出したアルファベット人種の革命的進歩性は、おなじ産業革命が生み出した「アヘンの罪悪」と衝突しなければならなかったが、この矛盾こそ資本主義の矛盾の中味であり、限界であった。

第三巻 第二三号 銀河鉄道の夜(一)宮沢賢治  定価:200円
「ですから、もしもこの天の川がほんとうに川だと考えるなら、その一つ一つの小さな星はみんなその川のそこの砂や砂利の粒にもあたるわけです。またこれを大きな乳の流れと考えるなら、もっと天の川とよく似ています。つまりその星はみな、乳のなかにまるで細かにうかんでいる脂油(あぶら)の球にもあたるのです。(略)」
 先生は中にたくさん光る砂のつぶの入った大きな両面の凸レンズをさしました。
「天の川の形はちょうどこんななのです。このいちいちの光るつぶが、みんな私どもの太陽と同じようにじぶんで光っている星だと考えます。私どもの太陽がこのほぼ中ごろにあって地球がそのすぐ近くにあるとします。みなさんは夜にこのまん中に立ってこのレンズの中を見まわすとしてごらんなさい。こっちの方はレンズが薄いので、わずかの光る粒、すなわち星しか見えないのでしょう。こっちやこっちの方はガラスが厚いので、光る粒すなわち星がたくさん見え、その遠いのはボウッと白く見えるという、これがつまり今日の銀河の説なのです。そんならこのレンズの大きさがどれくらいあるか、また、その中のさまざまの星についてはもう時間ですから、この次の理科の時間にお話しします。では今日はその銀河のお祭りなのですから、みなさんは外へ出て、よく空をごらんなさい。ではここまでです。本やノートをおしまいなさい。
 そして教室じゅうはしばらく机のふたをあけたりしめたり本をかさねたりする音がいっぱいでしたが、まもなく、みんなはきちんと立って礼をすると教室を出ました。 

第三巻 第二四号 銀河鉄道の夜(二)宮沢賢治  定価:200円
 そのとき汽車はだんだんしずかになって、いくつかのシグナルと転轍器(てんてつき)の灯をすぎ、小さな停車場に止まりました。
 その正面の青じろい時計はかっきり第二時を示し、その振子は、風もなくなり汽車も動かずしずかなしずかな野原のなかに、カチッカチッと正しく時をきざんで行くのでした。
 そしてまったくその振子の音の間から遠くの遠くの野原のはてから、かすかなかすかな旋律が糸のように流れてくるのでした。「新世界交響楽だわ。」むこうの席の姉がひとりごとのようにこっちを見ながらそっと言いました。まったくもう車の中ではあの黒服の丈高い青年も誰もみんなやさしい夢を見ているのでした。
(こんなしずかないいところで僕はどうしてもっと愉快になれないだろう。どうしてこんなにひとりさびしいのだろう。けれどもカムパネルラなんかあんまりひどい。僕といっしょに汽車に乗っていながら、まるであんな女の子とばかり話しているんだもの。僕はほんとうにつらい。)
 ジョバンニはまた両手で顔を半分かくすようにして、むこうの窓の外を見つめていました。
 透きとおったガラスのような笛が鳴って、汽車はしずかに動き出し、カムパネルラもさびしそうに星めぐりの口笛をふきました。

第三巻 第二五号 ドングリと山猫/雪渡り 宮沢賢治  定価:200円
 空が青くすみわたり、ドングリはピカピカしてじつにきれいでした。
「裁判ももう今日で三日目だぞ、いい加減になかなおりをしたらどうだ。」山ねこが、すこし心配そうに、それでもむりに威張(いば)って言いますと、ドングリどもは口々にさけびました。
「いえいえ、だめです、なんといったって頭のとがってるのがいちばんえらいんです。そしてわたしがいちばんとがっています。
「いいえ、ちがいます。まるいのがえらいのです。いちばんまるいのはわたしです。
「大きなことだよ。大きなのがいちばんえらいんだよ。わたしがいちばん大きいからわたしがえらいんだよ。
「そうでないよ。わたしのほうがよほど大きいと、きのうも判事さんがおっしゃったじゃないか。
「だめだい、そんなこと。せいの高いのだよ。せいの高いことなんだよ。
「押しっこのえらいひとだよ。押しっこをしてきめるんだよ。」もうみんな、ガヤガヤガヤガヤ言って、なにがなんだか、まるで蜂の巣をつっついたようで、わけがわからなくなりました。そこで山猫がさけびました。
「やかましい! ここをなんとこころえる。しずまれ、しずまれ!」

第三巻 第二六号 光をかかぐる人々[続]『世界文化』連載分(六)徳永 直  定価:200円
 活字が日本に渡るには、他の条件が必要であった。そして、その他の条件のうちもっとも大きなものは、やはり文久二年・一八六二年の日本幕府がはじめてやった貿易船千歳丸の上海入港であったろう。(略)経済的にいえばこの貿易は失敗したけれど、不馴れな幕府の役人たちは積荷をそのまま持ち戻るはめにもなったけれど、オランダの役人につれられて各国の領事たちにあったり、諸外国人の活動ぶりを見てびっくりした。たとえばこれを便乗者・高杉一人の場合に見てもあきらかである。(略)その後二年あまりで、攘夷の中心長州藩が領民に洋品使用の禁を解き、薩摩や佐賀と前後して海外貿易を営なんだ急角度の転回も、したがって「薩長締盟」を可能にした思想的背景も、このときの千歳丸便乗によって彼が上海で感得したものによるところ、はなはだ多いといわれている。
 (略)第一回の千歳丸のときは高杉のほかに中牟田や五代〔五代友厚か。〕や浜松藩の名倉(なぐら)予可人(あなと)などあったが、第二回の健順丸のときは、前巻でなじみの昌造の同僚で長崎通詞、安政開港に功労のあった森山多吉郎、先の栄之助がいまは外国奉行支配調役として乗り組んでいたし、第三回目、慶応三年(一八六七)の同じく幕府船ガンジス号のときは、佐倉藩士高橋作之助〔猪之助か。(のちの由一)ら多数があり、たび重なるにつれて上海渡航者の数は急速に増えていった。(略)
 また、官船以外の密航者、あるいは藩所有の船修理と称して渡航する者もたくさんあった。(略)さては中浜万次郎を案内に立てて汽船を買いに来た土佐藩の後藤象次郎などと、千歳丸以後は「きびす相ついで」いる(略)。

第三巻 第二七号 特集 黒川能・春日若宮御祭 折口信夫  月末最終号:無料
黒川能・観点の置き所
 特殊の舞台構造
 五流の親族
 能楽史をかえりみたい
 黒川の能役者へ
村で見た黒川能
能舞台の解説
春日若宮御祭の研究
 おん祭りの今と昔と
 祭りのお練り
 公人の梅の白枝(ずはえ)
 若宮の祭神
 大和猿楽・翁
 影向松・鏡板・風流・開口
 細男(せいのお)・高足・呪師

 山形県には、秋田県へかけて室町時代の芸能に関した民俗芸術が多く残っております。黒川能は、その中でも著しいものの一つで、これと鳥海山の下のひやま舞い〔杉沢比山舞か。〕との二つは、特に皆さまに見ていただきたいものであります。この黒川能が二十数年ぶりでのぼってくるのであります。世話をしてくださった斎藤氏〔斎藤香村か。〕に感謝しなければならないと思います。
 特にこの能で注意しなければならないのは、舞台構造であります。京都の壬生念仏を思わせるような舞台で、上下の廊下が橋掛りになっており、舞台の正面には春日神社の神殿をひかえているのであります。(略)奉仕する役者はというと、上座と下座が二部落にわかれており、ここで能をするときは、上座は左橋掛り(正面から見て)から出て舞い、下座は右橋掛りから出て舞うことになっている。これはもっとも大きな特徴で、今度の公演にいくぶんでも実現できれば結構だと思います。この神前演奏の形は、春日の若宮祭りの第一日の式と同形式といっていいと思います。しかも、黒川ではつねにその形式をくり返しているわけで、見物人よりも神に対する法楽を主としていることがわかります。
(略)おもしろいのは狂言です。表情にも言語にも必ず多少の驚きを受けられるでしょう。ことに方言的な言い回しなどには、つい、われわれも見ていて釣りこまれるものがありました。(「黒川能・観点の置き所」より)

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