折口信夫 おりくち しのぶ
1887-1953(明治20.2.11-昭和28.9.3)
大阪府西成郡木津村(現在の大阪市浪速区)生まれ。民俗学、国文学、国学の研究者。釈迢空と号して詩歌もよくした。1913年12月、「三郷巷談」を柳田國男主催の『郷土研究』に発表し、以後、柳田の知遇を得る。柳田國男の高弟として民俗学の基礎を築いた。

◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)。
◇表紙絵:「土蜘蛛」『黒川能の世界』(平凡社、1985.11)より。



もくじ 
特集 黒川能・春日若宮御祭 折口信夫


ミルクティー*現代表記版
黒川能・観点の置き所
村で見た黒川能
能舞台の解説
春日若宮御祭の研究

オリジナル版
黒川能・観点の置き所
村で見た黒川能
能舞台の解説
春日若宮御祭の研究

地名年表人物一覧書籍
難字、求めよ
後記次週予告

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*凡例
〈 〉:割り注、もしくは小書き。
〔 〕:編者(しだ)注。

*底本
黒川能・観点の置き所
底本:「折口信夫全集 21」中央公論社
   1996(平成8)年11月10日初版発行
初出:「能楽画報 第三十一巻第九号」
   1936(昭和11)年9月

村で見た黒川能
底本:「折口信夫全集 21」中央公論社
   1996(平成8)年11月10日初版発行
初出:「能楽画報 第三十一巻第十一号」
   1936(昭和11)年11月

能舞台の解説
底本:「折口信夫全集 21」中央公論社
   1996(平成8)年11月10日初版発行
初出:「梅若 第七巻第二号」
   1939(昭和14)年2月

春日若宮御祭の研究
底本:「折口信夫全集 21」中央公論社
   1996(平成8)年11月10日初版発行
初出:「能楽画報 第三十五巻第四号」
   1940(昭和15)年4月

http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person933.html

NDC 分類:773(演劇/能楽.狂言)
http://yozora.kazumi386.org/7/7/ndc773.html




黒川能くろかわのう・観点の置き所

折口信夫


 山形県には、秋田県へかけて室町時代の芸能に関した民俗芸術が多く残っております。黒川能は、その中でも著しいものの一つで、これと鳥海山ちょうかいさんの下のひやま舞い〔杉沢比山舞ひやままいか。との二つは、特に皆さまに見ていただきたいものであります。この黒川能が二十数年ぶりでのぼってくるのであります。世話をしてくださった斎藤氏〔斎藤香村こうそんか。に感謝しなければならないと思います。

   特殊の舞台構造

 特にこの能で注意しなければならないのは、舞台構造であります。京都の壬生みぶ念仏ねんぶつを思わせるような舞台で、上下の廊下が橋掛はしがかりになっており、舞台の正面には春日神社の神殿をひかえているのであります。すなわち、舞台と神殿との間には屋根がかけられて、全体が内陣のような形を持っています。以前は神殿だけが独立しておったのですが、現今は、全体として完全な室内舞台の形式になっております。奉仕する役者はというと、上座と下座が二部落にわかれており、ここで能をするときは、上座は左橋がかり(正面から見て)から出て舞い、下座は右橋がかりから出て舞うことになっている。これはもっとも大きな特徴で、今度の公演にいくぶんでも実現できれば結構けっこうだと思います。この神前演奏の形は、春日の若宮祭りの第一日の式と同形式といっていいと思います。しかも、黒川ではつねにその形式をくり返しているわけで、見物人よりも神に対する法楽ほうらくを主としていることがわかります。

   五流ごりゅうの親族

 能は上下両座を通じて三百番も実演できるといわれています。はたして正確にそれだけの数を演出することができるかどうか疑問ですが、今度の東上に際してはできるだけむさぼり見たいと思います。地謡じうたい囃子はやしをはじめ、能そのものに対し、専門家あるいは同好家の一部からは、現在の東京の能謡を標準とした批難があることでしょうが、それはいわれのないことです。まず、仮に、おおよそ百年も前に首府付近の田舎の演能を見ている気持ちで静かに観れば、正しい鑑賞ができると思います。中央の能にしろうたいにしろ、明治以後とても変化もあり進歩のあとも確かであるから、それ以前とても、いくどか変転をかさねているに相違ありません。この能が、今の諸流家元の能の祖先ではありません。けれどもある時代に血をわけた、きわめて血の濃い親族芸であることを考えねばなりません。むしろ、固定して自由を失って残っているものと見ても、すぐれた芸が堕落してこんな姿になったんだと思うのはいけないと思います。たとえば泉お作、いずみ祐三郎すけさぶろうなどの照葉てりは狂言きょうげんなどは、能とある点まで分離して考えれば相当な価値もありましたが、能を標準とすれば、たしかに堕落したものといえますけれども、それとこれとはおおいに違います。

   能楽史をかえりみたい

 がまた、この能が能楽の起原に近い形だと考えるのも間違いです。かなり進歩したものでありまた、相当に他からの影響も取り込んでいます。それでなおこれだけの特殊性を持っている点は、専門家その他の方々がよくお考えになっていいことだと思います。何も教えられることがなかったと放言する人があれば、それは能楽の歴史を考えない人なのです。ともかく今の能もこういう道を通過してきたのだなという静かな見方が一番正しいのです。あるいは、能を普及させようとする野心のある方などには、黒川能の演出などが参考になることが多いと思います。なぜなれば、意識した品格というものを持ちすぎていませんから、その点でかえって素人しろうとにはわかりやすいと思います。つまり代々の名人の特殊の鍛錬たんれんを経なかった、鍛錬を経て高級な発達をしなかったという点を見るべきでしょう。
 おもしろいのは狂言です。表情にも言語にも必ず多少の驚きを受けられるでしょう。ことに方言的な言い回しなどには、つい、われわれも見ていてりこまれるものがありました。

   黒川の能役者へ

 今度は、できるだけ番組に工夫がつまれていますから、黒川能の概念は十分に得られるでしょう。私どもは、まだ見たことのない「翁」をことことに期待しています。最後に、もしこの詞が黒川能役者の方々にもいうことができれば、これだけは申したい。「もうこれ以上に新しいものを取り入れるな」ということです。大山能おおやまのうのようになっては、存在の意義がなくなります。それは演技上にも、装束の上にも、すべてについていうべきことだと思います。
 けれども、底をった話をすれば、東京の家元の舞台で舞うより、黒川村くろかわむらの春日神社の内陣でおこなわれるのを見るのがほんとなのです。有志家には、一度彼の地へ行ってご覧になり、実感としての黒川能を得て帰られるようにすすめます。この実感こそ芸の基礎であり、また学問的に組織する考察の土台にもなるのであります。


底本:「折口信夫全集 21」中央公論社
   1996(平成8)年11月10日初版発行
初出:「能楽画報 第三十一巻第九号」
   1936(昭和11)年9月
※底本の題名の下に書かれている「昭和十一年九月「能楽画報」第三十一巻第九号」はファイル末の「初出」欄に移しました。
入力:門田裕志
校正:しだひろし
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このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。



村で見た黒川能

折口信夫


 黒川能くろかわのう東京公演に先だつこと二か月、私は偶然あの村(黒川村くろかわむら)に行き合わせて能および狂言を見ることができた。(本誌前号『能楽画報』第三十一巻第九号〕誌上で話したとおりである。)そこで上京公演の日も近いということを聞いたとき、私は、これがはたして東京の目のえた、しかも高ぶった能の常連に私どもの得たような深い感銘や同感を持たせられるかどうかと、黒川村の舞台・能役者その他の敬虔けいけんな気分に刺激された共感からあやうんだ。しかし東京公演に対する能楽批評家の批評を聞いて、すべてが杞憂きゆうにすぎなかったことを知って、私は黒川能のためにおおいに喜んだ。ただし能楽としてだけ見るのではないわれわれ、つまり日本芸能全体の上に能楽を見、かつ、他の芸能と同じようにあつかっているわれわれにとっては、多少不満足な批評も耳にしないではなかった。
 それは第一に狂言が不評判だったことで、私どもはどちらかといえば、上座・下座両座の大夫その他が努力して伝統を保っている能それ自体よりも、じつは狂言の方を高く評価すべきだと思っていたからである。これは黒川能の人々にとっては名誉でないかもしれないが、地方の芸能あるいは演劇的傾向のあるものとしては当然であり、意味があるのである。黒川能が本道に生きて、少なくとも現代に近いものとして、役者にも村の人にも庄内人士にも同感を起こし、なお多少でも伸びていくのは狂言の方にあるはずだと思った。ところが東京では、狂言に出てくる方言、あるいは方言的発音に好感を持たなかったように聞いている。これは狂言の性質上、たしかに東京の能楽愛好家の方が間違っていると思う。
 私の印象――少なくとも村の生活の全面にわたって観察するには一週間くらい滞在する必要があるのだが、ほんの半日ばかりいた印象からいえば、さすがに両座の組織によって村人の心が整頓せいとんされているだけあって、表情にも挙動にも他村に見られない、ある閑雅かんがとはいえないまでもある静けさが観取かんしゅされた。だいたい、私ども芸能のおこなわれる地方を見て歩いた者の経験からすれば、芸能のおこなわれている村はかえってたちが悪いといった感じを持たされることが多い。ところが黒川村は、私の瞥見べっけんでは非常によい印象を受けた。これは今の社会において能楽の持たれている感じが、村人にも反映しているのだ、といったほうが適当だと思う。
 東京公演の成績については、私は他の能楽愛好家と変わった考えを持っている。それはこの黒川能が、古代を現状に保持するとともに一地方的に変化を自由に加えているらしいところにある。能評家の話も多くこの点を中心として好意を示されたらしいが、「よくわかる」ということ、「むやみにとらわれた高雅こうがというものにへんしていない」ということ、「地方風でありながら多少、近代味が入ってきている」という点にある。明治時代に一度能楽が衰えた時期から、その復興した後も引き続いておこなわれていた泉お作、同祐三郎すけさぶろうらのおこなった照葉てりは狂言一類の、能楽と三味線音楽および京舞などを調和したもの――それは能楽からいえば非常な堕落といえるが、ある一面から見れば、今後も能楽の生きていく道はこれに暗示せられていると思っている。それと黒川能とは一つにあつかえないけれども、あの能が私を同感させたのも、今の能楽よりも古い姿を持ちながら新しい方向を含んでいるところがあるからだ。
 今後も一般の能楽や謡曲は、刻一刻新しい芸術家によって変わっていくことは確からしい。そしていよいよ、お上品なものになっていくきらいのある一面に、この黒川能の持っているよさを私たちはよくかえりみてゆくべきだと思っている。こういうと、黒川能がむやみに立派に見えるが、私のいうのは能芸としてばかりでなく、演芸という方面を加味してこの能を批評しているわけなのだ。何にしても、私は旅行中でられなかったが、観世の舞台では、あの黒川の春日神社――両橋掛はしがかりを持った神社の内陣ともいうべき場所で観能するような恍惚こうこつ境には、入れなかったろうと思う。


底本:「折口信夫全集 21」中央公論社
   1996(平成8)年11月10日初版発行
初出:「能楽画報 第三十一巻第十一号」
   1936(昭和11)年11月
※底本の題名の下に書かれている「昭和十一年十一月「能楽画報」第三十一巻第十一号」はファイル末の「初出」欄に移しました。
入力:門田裕志
校正:しだひろし
YYYY年MM月DD日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。



能舞台の解説

折口信夫


 この会のこの役は久しく、先輩山崎やまざき楽堂がくどうさんが続けられていましたが、今度は私がかわって申すことになりました。いわば翁のかわりに、風流ふりゅうが出てきたようなものです。とは申せ、私にはお能の解説などといったところで、まったくの門外漢でございます。約束の多い舞台について、完全な解説などはできそうもありません。ただ、どこか一点ずつでも、みなさんのご参考になるところがあれば、それで結構けっこうだと思うて出たしだいです。
 さて、先ほど皆様もご覧になりました「小袖こそで曽我梅若うめわかさんのご兄弟で、ちょうどほどよい年輩としばいで、景英かげふさ〔梅若六郎か。さんはいかにも思慮深い十郎そのものであり、安弘さんは、また元気な、しかもいじらしいところのある能の五郎らしくて、感じ深く拝見しました。能における曽我物そがものは後の語の世話物とでも申しましょうか、そうした意味のもののようです。なるほどこうしててますと、歌舞妓などとちがってかえって、今様いまようと申しますか、近代的な感じがいたすのも、不思議なものでございます。
 私の話は、当節のお能の上を語るのではなく、ずっと古く、たとえば梅若に関したことで申しましても、丹波や、あるいは伏見などでおこなわれていた時代にもどってお話したいと存じます。そしてそれを話の本筋、お能の舞台にかけて話を進めてゆくようなことにしたいと思います。ご覧のとおり、最初からこんなに立派なお能の舞台ができていたとは、誰しもお思いにはなりますまいが、―もっとも、この会館の舞台は、仮設の物で、話の対象とするには完全なものではありませんが――たとえばこの「橋掛はしがかり」という長い廊下のようなところも、長さはじつはいろいろだったので、五間、七間ないし十一間といった長いのもありました。また、たいがいはこのように本舞台の横についていますが、これが後ろについているのもありました。現に京都の片山家かたやまがの舞台にそれを見ることができました。もちろん、鏡板かがみいたの松」などもありようはなかったのです。だいたい、お能というものは、どこからでも見られるように、見物は舞台のぐるりのどこにでもひかえていられるようにできています。これは、お能というものが、多くの見物人を本位としていなかったことを示すものなのです。ただ一人の貴人、あるいは一家の主人といったそのときの主座の人にのみ観せればよかったのです。そうした相伴しょうばんに見るものは、自由に見ることができる。勝手に芸をやっているから見たい者は勝手にどこからでもご覧、といった自由な観客席をこさえていたのです。その一つの例に、江戸柳営りゅうえい町入能まちいりのうというのがあります。あれがそうで、将軍の上覧の際、特に町人どもにもお能拝見差し許すといった意味なのです。
 さて、前にも申しました能舞台は、その他の点においても、元来こうした完全な形式をそなえていたものではありませんが、それでは、古くはどうであったか、お話して見ましょう。はじめは多く、でやったものだと思われます。いわゆる、「庭の能」で、むしろなどの上でしたもののようです。だから勢い、もちろん平舞台です。神社仏閣、その他のパトロンの庭でおこなったものでしょう。それがやがて舞台めいた小高い物、いわゆる露台ろだいをつくって、その上で演じることになったもののようです。それとても決まった方式があるのではなく、ずいぶん自由だったものと考えてよいと思います。舞楽の舞台のようなものになったこともあるでしょう。それには舞楽の影響もあったかもしれません。そのほかに、相撲すまいの節会せちえ」という儀式がありましたが、この場合の影響も舞台に現われているのではないかと思われます。また、移動舞台のなごりは「曲舞くせまい」に残っていました。舞車まいぐるまの曲などを見ても、そう思われます。
 芝能しばのうまたは芝居能と称せられるものは、築土塀のことを芝居と称することから見ても、芝の上にいてするということではないのがわかります。いわば土壇どだんの上でするのです。奈良の若宮祭りの能が、今日まで、そのおもかげを伝えているようです。
 本道のことはすぐわかりませんが、田楽というものは、家の中でしたという記録は見あたりません。たいていの田楽は庭の中門、―今も田舎では塀中門などいうものを持った建築が多いのですが――すなわち、いわゆる、寝殿造りの中門のところで演ぜられました。それで、この演技で重要なものに、「中門口」と呼ぶものがあります。ただ一つ、中門から中に入った記録が、経覚きょうかく私要鈔しようしょう』という書に出ていますのを、小林こばやし静雄しずお氏が見つけておられます。応仁元年(一四六七)五月五日の条に、「午刻猿楽参。楽屋公文所也。屏中門ヨリ入了。……」とあります。この「林」というのは、すなわち「松」のことでしょう。松囃子まつばやし」――また松拍子まつばやし松拍まつばやしなど――ということは室町時代以下、江戸の末までおこなわれています。その松拍子などの中心になるものが、はやし、すなわち「林」だったのです。当時、別にとりたてて言うほどのことでなく、いわば家常かじょう茶飯事さはんじですから、だれもその形容や用途は書き留めておかなかったのです。松拍まつばやしという名称はおこなわれても、形式はしだいに変わっていたのです。記録的な文献がなかったままできたものと思われます。つまり、始終お祭りやなんか祝言事でもありますと、「はやす」は元、木をることです。「はやし」はった大きな木の枝をみきごとって、これにあたることを後世にも松切まつきりまたは松下まつおろしと言っていますが、それを、祝福すべき家へ担ぎこんで、祝言いわいごとをのべ、また所作をおこなったのです。中心にこれを置くから「松林」松囃子まつばやし)と言ったものです。はやし」の連想が深くなって、はやされた木を忘れたのです。風流ふりゅうというものにも、これに似たものが多かった。場合によれば「林」を風流ともいうが、団体の中心になるものと、個人個人の頭上なり、着物なりについているものが風流といわれるようになった。つまり風流をつけると、仮装した形になるのである。そのおもかげを今も、千歳せんざい三番叟さんばそうに付随して残っている「風流ふりゅう」のたぐいにも見ることができましょう。そして、この松を担ぎこんでそれを立て、その囲りで祝言を述べ、あるいはうたいしたものなのです。
 この仮装支度したくの風流をつけたものが、風流芸として分化し、さらにそれが風流であったことすら忘れてしまって、一番の能として独立したらしいものもあります。狂言にもその風流から出たことを露骨に示しているものがあります。
 能で申せば、たとえば今日最後にある「猩々しょうじょう」などに、やはりある本芸の間に、飛び入りのように、シテ・ワキなどの詞・所作などにきっかけをつくって出てくる風流の一つが、人間以外の異類の物が所作するという考えの芸能が、あれだけに発達してきたのだということが想像せられます。
 古来、この「鏡板かがみいたの松」については諸説いろいろでしたが、私はまずこの「松」のなごりだと解しております。つまり神ろしのために設けるわけだったのです。自然木のあるその囲りで、一種の神がかりをおこして、神事をおこなう。それがだんだん儀式化してくる。影向ようごうの松の信仰がそれであります。春日の社の一の松でおこなわれる松の下の式もそれなのです。こうしたことから、鏡板かがみいたの松」を暗示されたという解釈が先輩高野たかの斑山はんざん翁によってなされてまいりました。私も以前、同様に「へうやま」、山・ほこの前型の研究から、それに似たことを申していたことでした。だが、ただ今は、私は前述のように、「林」を持ちこんで、祝言を述べた松拍子の松のあるところでなければ、神事芸能はおこなわれない、それで後ようやく「松」を描く鏡板かがみいたができて、一方だけ見物を遮断しゃだんすることになったのだと考えております。そうしたことからまた、橋掛はしがかりの一の松・二の松・三の松などに関しても、同様なことがいわれるのではないかと考えられますが、そこまで立ち入ることはいささか危険です。
 松の木をはやした「林」または「松拍まつばやし」といわれるものは、諸芸能に広く通用していたので、ただ記録類に見える「松拍まつばやし」というのは、一唱門師しょうもんじの徒の仕事のように見えるだけであります。
 神がかりの状態になると申しましたが、今日これから梅若さんの舞われるはずの「井筒いづつ」にしても、また「杜若かきつばた」、ちょっと異なりますが、松風まつかぜ」、それに「二人静ふたりしずか」のようなものに、そうした物を見い出すことができます。お能の本質的な演出に、こうしたものを見ることができるのは、たしかに前述の私の考えの一証左になると思います。一人の役が二人分の芸を演ずることになっていたり、また二人が同時に一つ事を演じたりするのは、つまり神がかりの形が、芸能式に発達変化してきたわけなのです。
 したがって能舞台の構造に関する従来の諸説中、神楽殿かぐらでんの影響を深く見すぎる説は、私はあまり賛成いたしません。これはかえって能舞台の発達した後の形の模倣が見られるくらいですから、まあたいした参考にはなりません。また雅楽舞台の影響についても、なんら根拠のないことです。今も数種見ることができますが、「鎌倉御所」の絵図というものに、能舞台に似たものが見られますが、この「鎌倉御所」というのはもちろんうそです。ですが、ともかく室町時代の柳営りゅうえいまたは大名屋敷の僣上僭上せんしょうした建物のプランに違いはありません。この図面には、たいていいわゆる寝殿造りの「泉殿いずみどの」が能舞台の役目をしていまして、客殿――寝殿の変化――から見ることができるようになっているのです。つまり泉殿いずみどのがまず、庭の芸が舞台の芸になった最初の建て物と見てよいのだと考えるのです。
 さらに芸をするものは神聖なものという一種の信仰、これは、その演者が神になって、神技をするからです。ですから、その演技に対しても、一種の尊敬を認め、はるか遠方からそれを拝するといったふうです。今でも、能舞台の周囲に「白洲しらす」と称し、見所みどころとの間に一定の間隔を保っています。庭の芸・道の芸の場合には桟敷さじきであったわけです。だから、客殿と桟敷との考えが一つになって、後世の見所というものは発達してきたことが察せられます。はなはだ荒っぽい話し方に筋をたくさん盛り込みまして、おわかりになりかねたご見物があったろうと思います。


底本:「折口信夫全集 21」中央公論社
   1996(平成8)年11月10日初版発行
初出:「梅若 第七巻第二号」
   1939(昭和14)年2月
※底本の題名の下に書かれている「昭和十四年二月「梅若」第七巻第二号」はファイル末の「初出」欄に移しました。
入力:門田裕志
校正:しだひろし
YYYY年MM月DD日作成
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春日若宮かすがわかみや御祭の研究

折口信夫


   おん祭りの今と昔と

 春日のおん祭りに関しては、一番参考になるのは『嘉慶かきょう元年(一三八七)春日臨時祭記』のようです。この本は南北合一ごういつのころの記録であるが、もともと若宮祭りの記事ではありません。ところが、これが臨時りんじの祭りの記録であったのかといぶかるほど、ただいまの若宮祭りの行事と、ある点までピッタリと合っている。役々の名前などもおおかた合っている。それより昔の臨時祭りは、ずっと古い記録で見て、『嘉慶記』のようなふうのものではないだろうかと思われるほどだが、事実そう書いてあるのだから、この頃の事として間違いはあるまい。今おこなわれている若宮祭りは、この『臨時祭記』によって組織しなおしたものではないかと思われるほど、よく似ている。
 しかし、同時に春日祭り――普通、申祭さるまつりと通称する――も、今おこなわれている若宮祭りと似たところがあります。今の若宮祭りというのは、春日祭りと臨時祭りとを突きまぜたものだといえば、大体そうした疑問はけるような気がします。若宮祭りがある時代おとろえたのを復興する時にそうしたともとれるが、どうも春日祭りとしては、かえってこちらが盛んであったらしいから、それについてまたいろいろ手入れをする機会があったのではないかと思われます。一つはこの御祭はさかんは盛んでも、本宮の二度の恒例臨時の祭りとくらべて、本質としての重要性が軽いとでもいうか、まあそんな事から、ときどき延期したり、延期したまま挙行せずにすました年もあり、また、もしおこなっても極々内々ないないですました年もたびたびあったらしく、頻々ひんぴんと間隔ができております。もちろん室町以後の記録です。それ以前にもそういう事がなかったとはいえないとすれば、毎年おこなっていなければだんだん変形し、忘却してくるような事はあったといえます。
 今度、二度目に若宮祭りを拝しまして、先に感じなかったことを申せば、大乗院だいじょういん寺社雑事記ぞうじき』を見ますと、毎年の恒例だからではありましょうが――記事はすこぶる簡単である。けれども時々参考になるいい記事がある。たとえば、

祭礼行烈次第、別会五師ごし以中綱進之。小番取進之―尋尊じんそん大僧正記(享徳三年(一四五四)十一月二十六日)

 同様な文が後に見える。たとえば、長禄二年(一四五八)十一月二十七日のところに、

自別会五師ごし方行烈次第以中綱進之。小番取進之。立紙ニ書、之本式也。但近例折紙ニ書之。馬長頭 弁法印・善定房法印権大僧都・宗禅房権少僧都・定清大法師・懐兼大法師。田楽頭 琳舜房権律師・浄真房擬講ぎこう流鏑馬やぶさめ……自余如例也。

 これらによれば、田楽でんがくは興福寺から出すものである。そうして五師ごしから、それぞれ田楽頭の出ることも知れる。若宮祭りに年地を定める五師の坊から、若宮祭りをまかなうのであって、本座ほんざ新座しんざの田楽も、五師の坊の監督で出る猿楽さるがくも、この五師の坊に関係はあるが、田楽から見ればずっと交渉が薄くなる。五師の坊中心に見れば、田楽はうちの者、猿楽はよそから来るというような様子がみえる。
 若宮祭りは若宮の神官がおこなうのであるが、いわゆる「おんまつり」の行列は、五師の坊がおこなうものというてよいのである。
『春日若宮御祭礼図』を見ても、ただ今とは時間が違う。お祭りの行列がお旅所たびしょに入ると、すぐに接続してお旅所の儀式がはじまるようで、だいぶ時間が変わってきている。それよりも私の一番失望したのは、お旅所たびしょの芝舞台が『臨時祭記』にはちゃんとした舞台としてあったらしいことである。今のはすなわち、土居の舞台である。前回来たときも今度と同様、芝舞台であった。私はそれが古くからの形だと信じて、相応の理論を導いてきた。芝舞台が先入主になって、それからいろいろ空想していたのだが、それがはずれたのである。
 『臨時祭記』のお旅所たびしょの舞台の図では、板の舞台でなければならないと思うが、芝のようにも見える。もしそれなら、露台ろだいとでも書きそうなものだ。
 また、図にある舞台前方の「中門」は、後にいうらち〔馬場の周囲の柵。であろうが、あるいはもとかららちであったのを、中門と呼んでいたのかも知れない。

   祭りのお

 若宮を出てお旅所たびしょに入るあのおりは何であるかというと、同じく御神幸ごしんこうを中心とした行列と見えるが、じつはああいうふうなのを私は近ごろ「まねかれざる客」といっている。方々の祭りの節、まれびととしてのぞむ者のうち、正座にくるのが真のまれびと。そしてそのまれびとに正式に随行してくる一行がある。ところがそうした客座の外に立って、これをながめているものが来る。これが精霊、スピリットにあたる者で、祭りや饗宴きょうえんをうらやんでやって来るのである。
 田楽や猿楽についてもそれが言われる。田楽は内々ないないの者、猿楽は外のものである。だが同時に二つながら、若宮祭りからいえば、招かれざる客なのである。その田楽が正式のものの姿をそなえてくると、また猿楽がそれに対して外の者としてうてくる。絵で見ても、田楽師のあつかいが違っている。また、八処女やおとめらの神楽かぐらに対しては細男せいのおという異風なものが出てくる。
 すこし話はちがうが、雅楽ががくを盛んにするのは、―この想像はだいぶ問題になりそうだが――相撲に雅楽がいて発達してきたためではないか。相撲すまい節会せちえには、雅楽が付きものであった。『臨時祭記』にも雅楽は見えているが、どうも相撲との関係からそう思われる。こうして見ると芸能の組み合わせにも、皆、相当よりどころがある。わき芸とももどきとも付属芸ともいえる。それで、三つのものが六つにもなっている。
 芸能以外のもので見ると、行列の最初に、京都から来た氏の長者の使いにあたる者とせられている日の使いが出る。それに対して五師ごしの坊からたくさんの人が出る。馬長うまおさ稚児ちごが出てくる。馬長頭という名目が『大乗院寺社雑事記』には見えて、五人出ている。それが出ないで稚児ちごだけが出るようになっているのだ。それをめぐって供が出る。そのほか願主が一つの中心になっているが、出る所がきまっている。ただいま忘れたが、神様が外へお出ましになって活躍かつやくしておられるときは、願をかけて聴いていただけるものと信じた。それが祭りのときの願主である。主として神楽を奏して法楽ほうらくをたてまつるつもりなのであろう。それは大和の豪族が出なければ願主が出ないから、祭りの要素が欠ける。それだから郡山こおりやまその他、大和の諸侯が参向するようになった。
 そのほか大きな太刀を持った者が出る。あれは奈良の六方ろっぽう法師ほうし六方衆ろっぽうしゅうともいう者の流れであろう。これが芝居の六方ろっぽうの語源をなすものです。闊達かったつといえば闊達、乱暴狼藉ろうぜきなる六方衆の風が芸能化して伝わったのが芝居の六方である。この六方と語は変わるが、かぶきという語からして、そもそもそうだし、それから寛闊かんかつ丹前たんぜんなどと外形も内容も変わっていったが、この六方ろっぽう法師ほうしは祇園の犬神人いぬじにん、加茂の放免ほうめんなどに似た行装であったからだろうと思う。野太刀も、その姿をうつしたものと思われる。
 春日祭りならば、宮廷から近衛使このえのつかいが出なければならず、それとともに内侍使が出ました。春日祭りはもともと斎女いつきめが出て、それが内侍使になったのです。近衛使はそれについて送って行く形だったのが、かえってこちらが使いの本体らしく見え出したのです。それから藤氏とうしの氏の長者自身、それと別に出向いてくる事がありました。これが氏使となったのです。臨時祭りには近衛使や内侍使が来ない。これも特別のことがあって、もと氏使が来たのが、それも来ないで、そのまた代理といった意味で、奈良で出すようになったのが日の使いだという説がよいようです。
 興福寺の僧が日の使いに扮したのであるというが、日の使いの意義は、はっきりわからない。が、ともかく宮廷から来たものではない。この日の使いは若宮祭りに元からあったかどうかわからない。この起原の説明として、藤原ふじわらの忠通ただみちがこれにあたる役をつとめたところ、急病で装束を楽人に与えて代理させ、その日の使いに命じたから日の使いという、という伝えはわからぬようで意味がありそうだ。交替で勤務することが、日の勤めであり、蔵人くろうどにも日下uひのげろうなどいう名称もあるくらいだから、当番のことである。当番の人が使いとして来るくらいの義かもしれぬ。ただし、春日祭りに本来の性質を等しくしている大原野おおはらの祭りで見ると、この祭りには神主がうらない定められる。それには藤原ふじわら北家ほっけ・長岡大臣(内麻呂)の子孫から採るということになっていて、毎年そうしていたらしいことは、北山抄ほくざんしょう』にあります。だから、京都から来なければならなかった時代にはこの使いが、神主以外に今一人毎年くだったと見られましょう。そうしてそれがいつの代からか、出る家が――内麻呂流でも――きまって、日野家一流ということになっていたのではないか。それは内麻呂流では、この流れといま一つ藤原本流ともいうべき冬嗣ふゆつぐの系統のほかは微々たるものだから、結果日野流が、こういう方面には用いられるのでしょう。大原野おおはらの神社では一年神主であり、春日では若宮祭りに日野使いが出た、こういうことになるのではありませんか。ともかく若宮祭りの行列に出るものの中には、興福寺から出るのにかかわらず、臨時祭りはもちろん、春日祭りに出た種目もできる。僣上僭上せんしょうといえば僣上だが、一つの模擬行列です。そういうところがあります。だから前にも言いました臨時祭りを型としているものだということが、はっきりしてきます。
 それから巫女、芸能の者が出てくる。さらにも一つ流鏑馬やぶさめが出る。これは願主に付属したものである。それから大和大名の連衆れんじゅ、六方の連衆が出た。それでひととおり、祭り行列の整理がつく。つまり、神ではなく、招かれざる客の一行で、それが神の祝福に来た形だ。そしてそれは、春日祭りや臨時祭りの一行の形に似せた姿を見せているのである。

   公人くにんの梅の白枝ずはえ

 行列には二種類あるわけで、芸能の連衆と京都からの使いとに大別されるが、はじめの方は、拍手かしわで公人くにん、戸上の公人くにんとある。旧記にはすでに公人の字を書いているが、公人は奈良だけのて字らしい。戸上拍手かしわではわからないが、「とがめの公人」だという説もある。梅の白枝ずはえを持っているのがそれで、多くの旧社の祭礼には、これが先頭に立つことが多い。
 これはちはやをかけ、そのすそを長く長く引いている。『臨時祭記』にも出ており、『寺社雑事記』にはこれに要する木綿の分量も書いてあります。このちはやは『年中行事絵詞』の加茂祭り〔賀茂祭、葵祭か。の条にもあり、『春日霊験記』でもかけている。加茂でも春日でもまた余所よそでもかけているが、異風な感をおこさせるもので、お祭りにはふさわしいものである。巫女がかける笈摺おいずるに似たもの、あれもちはやである。能などではそでなしの前のあいてる側継〔そばつぎ(傍続・側次)か。、あれがちはやである。公人のはすそを長く引きずるのが特長だが、加茂祭りもその通りである。元来このちはやは、裂地きれじの中に穴をあけ、そこに首を入れて前にも後にも垂れるもので、原始的な着物である。着物が発達してからは、その上にかける、という状態になったのである。
 公人は奈良だけだろうと思うのは、これが春日神社から出たのではなく、興福寺から出たものだからだ。「公人」は候人こうにん、すなわち、さむらいびとである。寺にいる一種の武力を持った奴隷法師なのである。「候人」を音読もし、また「さむらいぼうし」とも言った。
 梅の白枝ずはえしもとで、警固のための意味の物である。社々の前駆ぜんくには、梅のずはえを持つことがじつに多い。『春日霊験記』にある、鏡を盗んだ男を捕らえ、鏡をとりかえして帰る行列にもそれが出ている。申祭さるまつりの時に、古老の神人が南大門から南に向かって、祭りの終わりに強盗々々と中音で言ったという。その理由はわからぬが、ともかくも昔からしているのだと答えたよしが『御祭礼図』に見えているが、そこにも書いてあるとおり、春日祭りにつきもののしきたりだったのが、江戸の享保(一七一六〜一七三六)まで残っていたわけだ。江家ごうけ次第しだい「春日祭使途中次第」に詳しくあります。一種の決まった余興とも演劇ともとれるものです。これが昔はおこなわれていたのだが、後にそういう事もなくなって、しかもなお男の乳房のように、どこかにすがって残っていようとした形が見えます。だから大宮祭りのが臨時祭りに、臨時祭りのが若宮祭りにというふうに、しだいに入って残るわけもわかります。一度そうした盗人ぬすびとが、春日使い一行をおそうたことがあったのでしょう。それが歴史になって、くり返されたわけです。
 白馬あおうま節会せちえに、犯人を作って梅の白枝ずはえ打擲ちょうちゃくするという例があるが、北陣で検非違使けびいし雑犯ぞうはんを裁断する式も、白馬あおうまの節会せちえのつきものです。起原が一つと考えられるのはおもしろいが、ちょっと場合がちがいますし、まあ宿題にしておいた方がいい。
 公人がするのかどうか、誰がするのかわかりません。古くは近衛使このえのつかいについて行った近衛府このえふの下部のようです。禄を分ける前提として、盗人をこしらえ、これが隠匿いんとくした贓物ぞうぶつの所在を白状する、ということになっています。狂言の「瓜盗人うりぬすびと」の鬼のめが思い出されるが、斎藤さいとう香村こうそん氏によれば、くじ罪人ざいにん」はそれよりも、もっと仕組みが複雑になっています。祇園会ぎおんえ山鉾やまぼこを出す相談で、地獄の鬼が罪人を責めるところを囃子物はやしものに乗せてしようということに定まり、主人が罪人、太郎たろう冠者かじゃが鬼のくじを引きあててその稽古けいこをするというのです。
 愛知県には「かんど打つ」ということがある。それは祝福に行って物をもらうことにそう言うらしい。祭り日の闖入者ちんにゅうしゃ饗応きょうおうの座をうらやんで入りこんでくる者ということになる。そうしたところに由来がある。白枝ずはえは、奈良のは特に長い。
 十列の稚児ちごはもともと伶人れいじんなんでしょう。舞人は武官です。使いの伴だから陪従ばいじゅう。それがもとらしいのです。舞わないのではありませんが、普通は歌の方です。それが東遊あずまあそびなどに関係します。

   若宮わかみやの祭神

 若宮様は、元はかしこい神でおありになったのかどうかということだが、これについては、明応七年(一四九八)十二月三日、

昨夕自九条殿御書到来。若宮御本地事、預御尋、可注進之也。

とあって、その後に、案文が載っている。

……春日若宮御本地事。文殊候。令師子間シシノマ給故也。(師子間者大宮殿第二御殿与第三御殿之間於申也)御出現時分事如仰長保五年(一〇〇三)候歟。不存知仕候。被別殿候事者、大治二年(一一二七)候。祭礼初候事者保延三年(一一三七)九月候。

 そのほか、十一面観音、阿弥陀八幡が若宮と示現せられたともいうといったふうな異説をあげて、これにもまだ異説はあるが、悉皆しっかい南無阿弥陀仏ぶつと御祈念あるべく候というような答申をしている。まるでおとばなしです。九条殿ではおどろいたでしょう。
 若宮が天押雲あめのおしくものみことだという説は『御祭礼略記』にあって、名法みょうほう要集ようしゅう』にあり。しかれども若宮神主一家の秘にて知ることなし。長保五年(一〇〇三)三月三日、二、三の御殿の間にあらわれさせたまいしを、時風ときかぜ五代の孫中臣連是忠三の御殿に移しほうりをたてまつる云々うんぬん」と、ここでもたたり神だとある。たたり神をば、大きな威力のある神様に付属させて、若宮と呼んでなごしずめるようにしたのだというのが、柳田国男先生の若宮考です。ことに八幡神やわたのかみ関係についてくわしく説かれています。
 若宮と若宮八幡との関係を考えれば、細男せいのおの出るのは八幡系だという考えも出てくるが、それはすこし合理化しすぎるでしょう。
 祭りの時期は、しきりに動いている。動かないほうが不思議だと思われるような時代さえありました。大和や河内に変事があったりすると動いています。
 今は八月十一日にお旅所たびしょをつくり、九月に棟上むねあげをおこなっているが、『寺社雑事記』時代は、原則としては十一月二十七日だと思うが、それさえ動揺がある。若宮祭りは九月十七日におこなったというのが記録にある古い形でしょう。平安朝末期です。ただしどういうわけか、若宮の祭礼の日は動揺が激しいのです。第一、旧記類で見ても、戦乱や物忌みでばすのはもちろん、雨や荒天で延期している例もだんだんあります。祭りに付属した芸能のおこなわれないような場合には、日を替えることができたらしいのです。本社の祭礼にも延引の例が多いのですが、何かわれわれにはうかがい知れない理由と、日を替える方法とがあったものと思われます。ことに若宮祭りが五月におこなわれているのなどは、不思議だが、たびたびあります。

   大和やまと猿楽さるがくおきな

 猿楽の大和の四座は、春日神社からはかなり遠いと思われるが、たいした事はない。本家が他国に移っていたことが、中間にあるとすれば――京都でなく――その期間は別だ。宝生ほうしょうはやや遠くて、昔の足で半日だが、観世かんぜなどは結崎ゆうざきだし、金剛こんごう坂戸さかどだって半日かからない。
 金春こんぱるは、翁に対して、他流とは特別な点があるかどうかという問題だが、これについて、斎藤香村こうそんさんは、「金春は四座の中では最も古いから、翁もやはり金春が古いといわねばなるまいが、この翁について、金春と観世との間に、古く足利時代に問題がおこったことがあったらしい。それは、観世かんぜ大夫だゆうが、代々京都の吉田神社から翁の伝授を受けている一事から想像されるので、単に翁の神聖を裏書きする必要だけではないような気がする」との説です。

   影向松ようごうまつ鏡板かがみいた風流ふりゅう開口かいこう

 松の下の開口かいこう能の、例の影向ようごうの松だが、これは、昔からある標山しめやま―王朝時代の大嘗祭だいじょうさいでは、ひをのやま、あるいはへうのやまといった――の信仰から考えて、神様の天降あまくだりなさる場所を、人がここときめている。そうした木のある所が標山しめやまで、春日の一の松もこれで解決すべきものだろうくらいに漠然と考えていました。ところが今日の能舞台などの「鏡板かがみいたの松」をこの影向松ようごうまつをあらわしたものだという高野たかの斑山はんざん博士の説が発表になりました。いかにももっともだと賛同していました。もちろんその通り、標山しめやま鏡板かがみいたもおしつめれば一つになるのですが、もうちょっと、鏡板かがみいたの松に直接に関係あるものが介在しているような気がします。昔の松拍まつばやしを考えると、松の木を切ったものをいてきて、それを中心に大家の祝福をしてまわっている。それが松拍まつばやしなのです。神木の一部分を切って持ってくる。すなわち、それに御分霊がのりうつっておいでになる。春日でいえば、ときどき都へ動座なされた神木というのが、同じ信仰です。このはやしる・るの祝福語)た木すなわち、松のはやしをひいてその下で演じた芸能であるから、中門から庭の芸になり、庭から舞台の芸になっても、なお、はやした木だけはその形容を留めている。それがだんだん誇張せられて老木を描くようになった。猿楽は古く松拍まつばやしをおこなう徒だったとは言いきれません。もっとも、猿楽役者も後に松囃子まつばやしをおこなうたことはたしかですが、こういう祝福芸能の村々では、拍子はやし物を持っているのが多かったし、拍子物の実体ははやすからはやし物でなく、そうしたひき物があり、ねりの中心になっていたことは考えなくてはならぬのです。ついでに橋掛はしがかりの松だが、斑山はんざん博士の説明は、橋掛はしがかりの松にも関連していまして、いかにも心ゆくうつくしい感じ方でした。これは私の方ではうまくけないのです。ただ、猿楽以前の先輩芸能の舞台にすでにそれがあったと見るのが、ほんとうではないかと思うのです。
 風流も、翁烏帽子おきなえぼし狩衣かりぎぬで、私どもの考えている風流というものとちがって感じられる。斎藤氏によれば、三笠風流というのは明治になってからの新作だそうです。

   細男せいのお高足たかあし呪師じゅし

 細男せいのおは主として退すさる足ばかり、舞楽ぶがくは出る足ばかりでした。これはたいへんおもしろいことだと思います。斎藤さんが「たいていの芸能が出るのに呪師が出て来なかったのはちょっと意外に思った」と言っておられたが、田楽が発達してくると、その中にとりこめられて、呪師そのものはあとをひそめました。だから今日呪師を見ることは望めません。五師ごしの坊であれだけ保護したのだが、流行の力がもっと大切だったのでしょう。流行しなくなるとたちまち他の芸能の中へよい物が吸収せられてしまう。田楽自身があのとおりで、今度こんど刀玉かたなだまなどまがりなりにもやっていたが、前はあれもなかった。
 高足たかあしなども、工夫がしゃべるを足で土へ突き込むような形をするだけで、ちょっと足をかけるだけで、いっこうたあいのないものだが、今だって高足たかあしに乗る地方の祭りが多いのだから、何でもないのです。一本足の竹馬のようにして、両足をかける横木がある。それに乗って走るんでしょう。正しくは一足でしょうが、どこでも高足たかあしというようです。ただの一本の高足たかあしが、竹馬になって珍しくなくなってから、一足を高足たかあしともっぱら言いらしたのでしょう。


底本:「折口信夫全集 21」中央公論社
   1996(平成8)年11月10日初版発行
初出:「能楽画報 第三十五巻第四号」
   1940(昭和15)年4月
※底本の題名の下に書かれている「昭和十五年四月「能楽画報」第三十五巻第四号」はファイル末の「初出」欄に移しました。
入力:門田裕志
校正:しだひろし
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黒川能くろかわのう・観点の置き所

折口信夫

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【テキスト中に現れる記号について】

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)ひやま舞ひ[#「ひやま舞ひ」に傍点]

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)われ/\
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山形県には、秋田県へかけて、室町時代の芸能に関した民俗芸術が多く残つて居ります。黒川能は、その中でも著しいものゝ一つで、これと鳥海山の下のひやま舞ひ[#「ひやま舞ひ」に傍点]との二つは、特に皆様に見て頂きたいものであります。この黒川能が二十数年ぶりで上つて来るのであります。世話をして下さつた斎藤氏に感謝しなければならないと思ひます。

[#5字下げ]特殊の舞台構造[#「特殊の舞台構造」は中見出し]

特にこの能で注意しなければならないのは、舞台構造であります。京都の壬生念仏を思はせるやうな舞台で、上下の廊下が橋掛りになつて居り、舞台の正面には春日神社の神殿を控へて居るのであります。即、舞台と神殿との間には屋根がかけられて、全体が内陣のやうな形をもつてゐます。以前は神殿だけが独立して居つたのですが、現今は、全体として完全な室内舞台の形式になつて居ります。奉仕する役者はといふと、上座と下座が二部落に別れて居り、こゝで能をする時は、上座は左橋掛り(正面から見て)から出て舞ひ、下座は右橋掛りから出て舞ふことになつて居る。これは最大きな特徴で、今度の公演に幾分でも実現出来れば結構だと思ひます。この神前演奏の形は、春日の若宮祭りの第一日の式と同形式といつていゝと思ひます。しかも、黒川では常にその形式を繰り返してゐるわけで、見物人よりも神に対する法楽を主としてゐることがわかります。

[#5字下げ]五流の親族[#「五流の親族」は中見出し]

能は上下両座を通じて三百番も実演出来るといはれてゐます。果して正確にそれだけの数を演出することが出来るかどうか疑問ですが、今度の東上に際しては出来るだけむさぼり見たいと思ひます。地謡・囃子をはじめ、能そのものに対し、専門家或は同好家の一部からは、現在の東京の能謡を標準とした批難があることでせうが、それは謂はれのないことです。まづ、仮りに、おほよそ百年も前に首府附近の田舎の演能を見て居る気持ちで静かに観れば、正しい鑑賞が出来ると思ひます。中央の能にしろ謡にしろ、明治以後とても変化もあり進歩のあとも確かであるから、それ以前とても、幾度か変転を重ねてゐるに相違ありません。この能が、今の諸流家元の能の祖先ではありません。けれども或時代に血をわけた、極めて血の濃い親族芸であることを考へねばなりません。寧、固定して自由を失つて残つてゐるものと見ても、すぐれた芸が堕落してこんな姿になつたんだと思ふのはいけないと思ひます。たとへば泉お作、泉祐三郎などの照葉狂言などは、能とある点まで分離して考へれば、相当な価値もありましたが、能を標準とすれば、確かに堕落したものといへますけれども、それとこれとは大いに違ひます。

[#5字下げ]能楽史を省みたい[#「能楽史を省みたい」は中見出し]

が又、この能が能楽の起原に近い形だと考へるのも間違ひです。可なり進歩したものであり又、相当に他からの影響も取り込んでゐます。それで尚これだけの特殊性をもつてゐる点は、専門家その他の方々がよくお考へになつていゝことだと思ひます。何も教へられることがなかつたと放言する人があれば、それは能楽の歴史を考へない人なのです。ともかく今の能もかういふ道を通過して来たのだなといふ静かな見方が一番正しいのです。或は、能を普及させようとする野心のある方などには、黒川能の演出などが参考になることが多いと思ひます。なぜなれば、意識した品格といふものを持ち過ぎてゐませんから、その点で却つて素人にはわかり易いと思ひます。つまり代々の名人の特殊の鍛錬を経なかつた、鍛錬を経て高級な発達をしなかつたといふ点を見るべきでせう。
面白いのは狂言です。表情にも言語にも必多少の驚きを受けられるでせう。殊に方言的な言ひ廻しなどには、つひわれ/\も見てゐて釣り込まれるものがありました。

[#5字下げ]黒川の能役者へ[#「黒川の能役者へ」は中見出し]

今度は、出来るだけ番組に工夫がつまれてゐますから、黒川能の概念は十分に得られるでせう。私共は、まだ見たことのない「翁」を殊に/\期待してゐます。最後に、若しこの詞が黒川能役者の方々にもいふことが出来れば、これだけは申したい。「もうこれ以上に新しいものを取り入れるな」といふことです。大山能のやうになつては、存在の意義がなくなります。それは演技上にも、装束の上にも、総べてについていふべきことだと思ひます。
けれども、底を割つた話をすれば、東京の家元の舞台で舞ふより、黒川村の春日神社の内陣で行はれるのを見るのがほんとなのです。有志家には、一度彼の地へ行つて御覧になり、実感としての黒川能を得て帰られるやうに奨めます。この実感こそ芸の基礎であり、又学問的に組織する考察の土台にもなるのであります。



底本:「折口信夫全集 21」中央公論社
   1996(平成8)年11月10日初版発行
初出:「能楽画報 第三十一巻第九号」
   1936(昭和11)年9月
※底本の題名の下に書かれている「昭和十一年九月「能楽画報」第三十一巻第九号」はファイル末の「初出」欄に移しました。
入力:門田裕志
校正:しだひろし
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村で見た黒川能

折口信夫

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)質《タチ》
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黒川能東京公演に先だつこと二个月、私は偶然あの村(黒川村)に行き合はせて能及び狂言を見ることが出来た。(本誌前号誌上で話した通りである。)そこで上京公演の日も近いといふことを聞いた時、私は、これが果して東京の目の肥えた、しかも高ぶつた能の常連に私共の得たやうな深い感銘や同感を持たせられるかどうかと、黒川村の舞台、能役者その他の敬虔な気分に刺戟された共感から危んだ。しかし東京公演に対する能楽批評家の批評を聞いて、すべてが杞憂に過ぎなかつたことを知つて、私は黒川能のために大いに喜んだ。たゞし能楽としてだけ見るのではない我々、つまり日本芸能全体の上に能楽を見、かつ、他の芸能と同じやうに扱つてゐる我々にとつては、多少不満足な批評も耳にしないではなかつた。
それは第一に狂言が不評判だつたことで、私共はどちらかといへば、上座下座両座の大夫その他が努力して伝統を保つてゐる能それ自体よりも、実は狂言の方を高く評価すべきだと思つてゐたからである。これは黒川能の人々にとつては名誉でないかも知れないが、地方の芸能或は演劇的傾向のあるものとしては当然であり、意味があるのである。黒川能が本道に生きて、少くとも現代に近いものとして、役者にも村の人にも庄内人士にも同感を起し、なほ多少でも伸びて行くのは狂言の方にある筈だと思つた。ところが東京では、狂言に出てくる方言、或は方言的発音に好感を持たなかつたやうに聞いてゐる。これは狂言の性質上、たしかに東京の能楽愛好家の方が間違つてゐると思ふ。
私の印象――少くとも村の生活の全面にわたつて観察するには一週間位滞在する必要があるのだが、ほんの半日ばかりゐた印象から言へば、流石に両座の組織によつて村人の心が整頓されてゐるだけあつて、表情にも挙動にも他村に見られない、ある閑雅とはいへないまでもある静けさが観取された。大体、私共芸能の行はれる地方を見て歩いた者の経験からすれば、芸能の行はれてゐる村は却つて質《タチ》が悪いといつた感じを持たされることが多い。処が黒川村は、私の瞥見では非常によい印象を受けた。これは今の社会において能楽の持たれてゐる感じが、村人にも反映してゐるのだ、といつた方が適当だと思ふ。
東京公演の成績については、私は他の能楽愛好家と変つた考へを持つてゐる。それはこの黒川能が、古代を現状に保持すると共に一地方的に変化を自由に加へてゐるらしい所にある。能評家の話も多くこの点を中心として好意を示されたらしいが、「よく訣る」といふこと、「無暗に囚はれた高雅といふものに偏してゐない」といふこと、「地方風でありながら多少近代味が這入つてきてゐる」といふ点にある。明治時代に一度能楽が衰へた時期から、その復興した後も引き続いて行はれてゐた泉お作、同祐三郎等の行つた照葉狂言一類の、能楽と三味線音楽及び京舞等を調和したもの――それは能楽からいへば非常な堕落といへるが、ある一面から見れば、今後も能楽の生きて行く道はこれに暗示せられてゐると思つてゐる。それと黒川能とは一つに扱へないけれども、あの能が私を同感させたのも、今の能楽よりも古い姿を持ちながら新しい方向を含んでゐる所があるからだ。
今後も一般の能楽や謡曲は、刻一刻新しい芸術家によつて変つて行くことは確からしい。そして愈、お上品なものになつて行く嫌ひのある一面に、この黒川能の持つてゐるよさを私達はよく顧みてゆくべきだと思つてゐる。かういふと、黒川能が無暗に立派に見えるが、私のいふのは能芸としてばかりでなく、演芸といふ方面を加味してこの能を批評してゐる訣なのだ。何にしても、私は旅行中で観られなかつたが、観世の舞台では、あの黒川の春日神社――両橋掛りを持つた神社の内陣ともいふべき場所で観能するやうな恍惚境には、這入れなかつたらうと思ふ。



底本:「折口信夫全集 21」中央公論社
   1996(平成8)年11月10日初版発行
初出:「能楽画報 第三十一巻第十一号」
   1936(昭和11)年11月
※底本の題名の下に書かれている「昭和十一年十一月「能楽画報」第三十一巻第十一号」はファイル末の「初出」欄に移しました。
入力:門田裕志
校正:しだひろし
YYYY年MM月DD日作成
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能舞台の解説

折口信夫

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)年輩《トシバイ》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)庭[#「庭」に白丸傍点]
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此会の此役は久しく、先輩山崎楽堂さんが続けられてゐましたが、今度は私が代つて申すことになりました。謂はゞ翁の替りに、風流が出て来た様なものです。とは申せ、私にはお能の解説などゝ謂つた処で、全くの門外漢でございます。約束の多い舞台について、完全な解説などは出来さうもありません。唯、何処か一点づゝでも、皆さんの御参考になる処があれば、それで結構だと思うて出た次第です。
偖、先程皆様も御覧になりました「小袖曾我」梅若さんの御兄弟で、ちようど程よい年輩《トシバイ》で、景英さんは如何にも思慮深い十郎そのものであり、安弘さんは、又元気な而もいぢらしい処のある能の五郎らしくて、感じ深く拝見しました。能に於ける曾我物は後の語の世話物とでも申しませうか、さうした意味のものゝ様です。なる程かうして観てますと、歌舞妓などゝ違つて却つて、今様と申しますか、近代的な感じが致すのも、不思議なもので御座います。
私の話は、当節のお能の上を語るのではなく、ずつと古く、譬へば梅若に関したことで申しましても、丹波や、或は伏見等で行はれてゐた時代に戻つてお話したいと存じます。そして其を話の本筋、お能の舞台にかけて話を進めて行くやうな事にしたいと思ひます。御覧の通り、最初からこんなに立派なお能の舞台が出来てゐたとは、誰しもお思ひにはなりますまいが、――尤、この会館の舞台は、仮設の物で、話の対象とするには完全なものではありませんが――譬へば此「橋掛」と言ふ長い廊下の様な処も、長さは実は色々だつたので、五間、七間乃至十一間と言つた長いのもありました。又、大概はこの様に本舞台の横についてゐますが、これが後についてゐるのもありました。現に京都の片山家の舞台にそれを見る事が出来ました。勿論、「鏡板の松」などもありやうはなかつたのです。大体、お能と言ふものは、どこからでも見られる様に、見物は舞台のぐるりの何処にでも控へてゐられるやうに出来てゐます。是は、お能と言ふものが、多くの見物人を本位としてゐなかつた事を示すものなのです。只一人の貴人、或は一家の主人と言つたその時の主座の人にのみ観せればよかつたのです。さうした相伴に見るものは、自由に見ることが出来る。勝手に芸をやつてゐるから見たい者は勝手にどこからでも御覧、と言つた自由な観客席をこさへて居たのです。その一つの例に、江戸柳営の町入能と言ふのがあります。あれがさうで、将軍の上覧の際、特に町人共にもお能拝見差許すと言つた意味なのです。
偖、前にも申しました能舞台は、その他の点に於ても、元来かうした完全な形式を備へてゐたものではありませんが、それでは、古くはどうであつたか、お話して見ませう。始めは多く、庭[#「庭」に白丸傍点]でやつたものだと思はれます。所謂、「庭の能」で、莚などの上でしたものゝやうです。だから勢ひ、勿論平舞台です。神社仏閣その他のぱとろん[#「ぱとろん」に傍線]の庭で行つたものでせう。それがやがて舞台めいた小高い物、所謂露台を造つて、その上で演じる事になつたものゝやうです。それとてもきまつた方式があるのではなく、随分自由だつたものと考へてよいと思ひます。舞楽の舞台のやうなものになつた事もあるでせう。其には舞楽の影響もあつたかも知れません。その外に、「相撲節会」と言ふ儀式がありましたが、この場合の影響も舞台に現れてゐるのではないかと思はれます。又、移動舞台の名残は「曲舞」に残つてゐました。舞車の曲などを見ても、さう思はれます。
芝能又は芝居能と称せられるものは、築土塀の事を芝居と称することから見ても、芝の上に居てするといふ事ではないのが訣ります。謂はゞ土壇の上でするのです。奈良の若宮祭りの能が、今日まで、その俤を伝へてゐるやうです。
本道の事はすぐ訣りませんが、田楽と言ふものは、家の中でしたと言ふ記録は見当りません。大ていの田楽は庭の中門、――今も田舎では塀中門など言ふものを持つた建築が多いのですが――即、所謂、寝殿造りの中門の処で演ぜられました。それで、この演技で重要なものに、「中門口」と呼ぶものがあります。只一つ、中門から中に入つた記録が、「経覚私要鈔」と言ふ書に出てゐますのを、小林静雄氏が見つけて居られます。応仁元年五月五日の条に、「午刻猿楽参。楽屋公文所也。屏中門[#「屏中門」に白丸傍点]ヨリ林[#「林」に白丸傍点]入了。……」とあります。この「林」と言ふのは、即「松」の事でせう。「松囃子」――又松拍子・松拍など――と言ふ事は室町時代以下、江戸の末まで行はれてゐます。その松拍子などの中心になるものが、はやし即「林」だつたのです。当時、別にとりたてゝ言ふ程の事でなく、言はゞ家常茶飯事ですから、誰もその形容や用途は書き留めて置かなかつたのです。松拍といふ名称は行はれても、形式は次第に変つてゐたのです。記録的な文献がなかつたまゝで来たものと思はれます。つまり、始終お祭りやなんか祝言事でもありますと、「はやす」は元、木を伐ることです。「はやし」は伐つた大きな木の枝を幹ごと伐つて、これに当る事を後世にも松切《マツキ》り又は松下《マツオロ》しと言つてゐますが、それを、祝福すべき家へ担ぎ込んで、祝言を陳べ、又所作を行つたのです。中心に之を置くから「松林」(松囃子)と言つたものです。「囃」の聯想が深くなつて、はやさ[#「はやさ」に傍点]れた木を忘れたのです。風流と言ふものにも、之に似たものが多かつた。場合によれば「林」を風流とも言ふが、団体の中心になるものと、個人々々の頭上なり、著物なりについてゐるものが、風流と言はれる様になつた。つまり風流をつけると、仮装した形になるのである。その俤を今も、千歳三番叟に附随して残つてゐる「風流」の類にも、見る事が出来ませう。そして、この松を担ぎ込んでそれを立て、その囲りで祝言を述べ、或は謡ひ舞ひしたものなのです。
この仮装支度の風流をつけたものが、風流芸として分化し、更に其が風流であつたことすら忘れて了つて、一番の能として独立したらしいものもあります。狂言にもその風流から出た事を露骨に示してゐるものがあります。
能で申せば、譬へば今日最後にある「猩々」などに、やはりある本芸の間に、飛び入りのやうに、して・わきなどの詞・所作などにきつかけをつくつて出て来る風流の一つが、人間以外の異類の物が所作するといふ考への芸能が、あれだけに発達して来たのだといふ事が想像せられます。
古来、この「鏡板の松」については諸説色々でしたが、私はまづこの「松」の名残だと解して居ります。つまり神降しの為に設ける訣だつたのです。自然木のあるその囲りで、一種の神懸りを起して、神事を行ふ。其が段々儀式化して来る。影向の松の信仰が其であります。春日の社の一の松で行はれる松の下の式も其なのです。かうした事から、「鏡板の松」を暗示されたと言ふ解釈が先輩高野斑山翁によつてなされて参りました。私も以前、同様に「標《ヘウ》の山《ヤマ》」、山・鉾の前型の研究から、其に似たことを申して居たことでした。だが唯今は、私は前述の様に、「林」を持ちこんで、祝言を述べた松拍子の松のある処でなければ、神事芸能は行はれない、其で後漸く「松」を描く鏡板が出来て、一方だけ見物を遮断することになつたのだと考へて居ります。さうした事から又、橋掛りの一の松・二の松・三の松等に関しても、同様な事が言はれるのではないかと考へられますが、そこまで立ち入る事は些か危険です。
松の木をはやした「林」又は「松拍」と謂はれるものは、諸芸能に広く通用してゐたので、唯記録類に見える「松拍」といふのは、一唱門師の徒の為事の様に見えるだけであります。
神懸りの状態になると申しましたが、今日これから梅若さんの舞はれる筈の井筒にしても、又杜若、一寸異りますが、松風、其に二人静の様なものに、さうした物を見出す事が出来ます。お能の本質的な演出に、かうしたものを見る事が出来るのは、慥かに前述の私の考への一証左になると思ひます。一人の役が二人分の芸を演ずることになつて居たり、又二人が同時に一つ事を演じたりするのは、つまり神懸りの形が、芸能式に発達変化して来たわけなのです。
従つて能舞台の構造に関する従来の諸説中、神楽殿の影響を深く見過ぎる説は、私はあまり賛成致しません。これは却つて能舞台の発達した後の形の模倣が見られる位ですから、まあ大した参考にはなりません。又雅楽舞台の影響についても、何等根拠のない事です。今も数種見ることが出来ますが、「鎌倉御所」の絵図と言ふものに、能舞台に似たものが見られますが、この「鎌倉御所」と言ふのは勿論嘘です。ですがともかく室町時代の柳営又は大名屋敷の僣上した建物のぷらん[#「ぷらん」に傍線]に違ひはありません。此図面には、大抵所謂寝殿造りの「泉殿」が能舞台の役目をして居まして、客殿――寝殿の変化――から見ることが出来る様になつて居るのです。つまり泉殿がまづ、庭の芸が舞台の芸になつた最初の建て物と見てよいのだと考へるのです。
更に芸をするものは神聖なものと言ふ一種の信仰、これは、その演者が神になつて、神技をするからです。ですから、その演技に対しても、一種の尊敬を認め、遥か遠方からそれを拝すると言つた風です。今でも、能舞台の周囲に「白洲《シラス》」と称し、見所との間に一定の間隔を保つてゐます。庭の芸・道の芸の場合には桟敷であつた訣です。だから、客殿と桟敷との考へが一つになつて、後世の見所といふものは発達して来たことが察せられます。甚だ荒つぽい話し方に筋を沢山盛り込みまして、お訣りになりかねた御見物があつたらうと思ひます。



底本:「折口信夫全集 21」中央公論社
   1996(平成8)年11月10日初版発行
初出:「梅若 第七巻第二号」
   1939(昭和14)年2月
※底本の題名の下に書かれている「昭和十四年二月「梅若」第七巻第二号」はファイル末の「初出」欄に移しました。
入力:門田裕志
校正:しだひろし
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春日若宮御祭の研究

折口信夫

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)申祭《サルマツ》り

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)戸上|拍手《カシハデ》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「藹」の「言」に代えて「月」、第3水準1-91-26]

 [#…]:返り点
 (例)昨夕自[#二]九条殿[#一]御書到来

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)いろ/\
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[#5字下げ]おん祭りの今と昔と[#「おん祭りの今と昔と」は中見出し]

春日のおん祭りに関しては、一番参考になるのは「嘉慶元年春日臨時祭記」のやうです。この本は南北合一の頃の記録であるが、元々若宮祭りの記事ではありません。所が、これが臨時祭りの記録であつたのかといぶかるほど、只今の若宮祭りの行事と、ある点までぴつたりと合つてゐる。役々の名前なども大方合つてゐる。其より昔の臨時祭りは、ずつと古い記録で見て、嘉慶記の様な風のものではないだらうかと思はれる程だが、事実さう書いてあるのだから、此頃の事として間違ひはあるまい。今行はれてゐる若宮祭りは、此臨時祭記によつて組織し直したものではないかと思はれるほど、よく似てゐる。
しかし、同時に春日祭り――普通、申祭《サルマツ》りと通称する――も、今行はれてゐる若宮祭りと似たところがあります。今の若宮祭りといふのは、春日祭りと臨時祭りとを突き交ぜたものだといへば、大体さうした疑問は釈ける様な気がします。若宮祭りがある時代衰へたのを復興する時に、さうしたともとれるが、どうも春日祭りとしては、却つて此方が盛んであつたらしいから、其について又色々手入れをする機会があつたのではないかと思はれます。一つは此御祭は盛んは盛んでも、本宮の二度の恒例臨時の祭りと比べて、本質としての重要性が軽いとでも言ふか、まあそんな事から、時々延期したり、延期したまゝ挙行せずにすました年もあり、又もし行つても極々内々ですました年も度々あつたらしく、頻々と間隔が出来て居ります。勿論室町以後の記録です。其以前にもさういふ事がなかつたとは言へないとすれば、毎年行つて居なければ段々変形し、忘却して来る様な事はあつたといへます。
今度、二度目に若宮祭りを拝しまして、先に感じなかつたことを申せば、大乗院寺社雑事記を見ますと、毎年の恒例だからではありませうが――記事は頗、簡単である。けれども時々参考になるいゝ記事がある。譬へば、
[#ここから2字下げ]
祭礼行烈次第、別会五師以中綱進之。小番取進之――尋尊大僧正記(享徳三年十一月廿六日)。
[#ここで字下げ終わり]
同様な文が後に見える。譬へば、長禄二年十一月廿七日の所に、
[#ここから2字下げ]
自別会五師方行烈次第以中綱進之。小番取進之。立紙ニ書、之本式也。但近例折紙ニ書之。馬長頭 弁法印・善定房法印権大僧都・宗禅房権少僧都・定清大法師・懐兼大法師。田楽頭 琳舜房権律師・浄真房擬講。流鏑馬……自余如例也。
[#ここで字下げ終わり]
これらによれば、田楽は興福寺から出すものである。さうして五師から、其々田楽頭の出ることも知れる。若宮祭りに年地を定める五師の坊から、若宮祭りをまかなふのであつて、本座新座の田楽も、五師の坊の監督で出る猿楽も、この五師の坊に関係はあるが、田楽から見ればずつと交渉が薄くなる。五師の坊中心に見れば、田楽はうちの者、猿楽はよそから来るといふやうな様子がみえる。
若宮祭りは若宮の神官が行ふのであるが、所謂「おんまつり」の行列は、五師の坊が行ふものというてよいのである。
「春日若宮御祭礼図」を見ても、只今とは時間が違ふ。お祭りの行列がお旅所に這入ると、直ぐに接続してお旅所の儀式が初まるやうで、だいぶ時間が変つて来ている。それよりも私の一番失望したのは、御旅所の芝舞台が臨時祭記にはちやんとした舞台としてあつたらしいことである。今のは即、土居の舞台である。前回来た時も今度と同様、芝舞台であつた。私は其が古くからの形だと信じて、相応の理論を導いて来た。芝舞台が先入主になつて、それからいろ/\空想してゐたのだが、それがはづれたのである。
臨時祭記の御旅所の舞台の図では、板の舞台でなければならないと思ふが、芝の様にも見える。もしそれなら、露台とでも書きさうなものだ。
又、図にある舞台前方の「中門」は、後にいふ埒であらうが、或はもとから、埒であつたのを、中門と呼んでゐたのかも知れない。

[#5字下げ]祭りのお練り[#「祭りのお練り」は中見出し]

若宮を出てお旅所に這入るあのお練りは何であるか、と言ふと、同じく御神幸を中心とした行列と見えるが、実はあゝ言ふ風なのを私は近頃「招かれざる客」といつてゐる。方々の祭りの節、まれびと[#「まれびと」に傍点]として臨む者の中、正座に来るのが真のまれびと。そしてそのまれびとに正式に随行して来る一行がある。所がさうした客座の外に立つて、之を眺めてゐるものが来る。これが精霊、すぴりつと[#「すぴりつと」に傍線]に当る者で、祭りや饗宴を羨んでやつて来るのである。
田楽や猿楽についても其が言はれる。田楽は内々の者、猿楽は外のものである。だが同時に二つながら、若宮祭りからいへば、招かれざる客なのである。其田楽が正式のものゝ姿を備へて来ると、又猿楽が其に対して外の者として添うて来る。絵で見ても、田楽師の扱ひが違つてゐる。又、八処女等の神楽に対しては細男《セイナウ》といふ異風なものが出て来る。
少し話は違ふが、雅楽を盛んにするのは、――此想像は大分問題になりさうだが――相撲に雅楽が附いて発達して来たゝめではないか。相撲の節会には、雅楽が附きものであつた。臨時祭記にも雅楽は見えてゐるが、どうも相撲との関係からさう思はれる。かうして見ると芸能の組合せにも、皆相当拠り所がある。わき[#「わき」に傍点]芸とももどき[#「もどき」に傍点]とも附属芸ともいへる。それで、三つのものが六つにもなつてゐる。
芸能以外のもので見ると、行列の最初に、京都から来た氏の長者の使に当る者とせられてゐる日の使が出る。それに対して五師の坊から沢山の人が出る。馬長の稚児が出て来る。馬長頭と言ふ名目が大乗院寺社雑事記には見えて、五人出て居る。其が出ないで稚児だけが出るやうになつてゐるのだ。それをめぐつて供が出る。その外願主が一つの中心になつてゐるが、出る所がきまつてゐる。只今忘れたが、神様が外へお出ましになつて活躍して居られるときは、願をかけて聴いて頂けるものと信じた。其が祭りの時の願主である。主として神楽を奏して法楽を奉るつもりなのであらう。それは大和の豪族が出なければ願主が出ないから、祭りの要素が欠ける。それだから郡山其他大和の諸侯が参向するやうになつた。
その外大きな太刀を持つた者が出る。あれは奈良の六方法師・六方衆ともいふ者の流れであらう。これが芝居の六方の語源をなすものです。闊達といへば闊達、乱暴狼藉なる六方衆の風が、芸能化して伝つたのが芝居の六方である。この六方と語は変るが、かぶき[#「かぶき」に傍線]と言ふ語からして、そもそもさうだし、其から寛闊丹前などゝ、外形も内容も変つて行つたが、この六方法師は祇園の犬神人、加茂の放免などに似た行装であつたからだらうと思ふ。野太刀も、其姿をうつしたものと思はれる。
春日祭りならば、宮廷から近衛使が出なければならず、それと共に内侍使が出ました。春日祭りはもと/\斎女が出て、それが内侍使になつたのです。近衛使はそれについて送つて行く形だつたのが、却て此方が使の本体らしく見え出したのです。其から藤氏の氏の長者自身、其と別に出向いて来る事がありました。此が氏使となつたのです。臨時祭りには近衛使や内侍使が来ない。これも特別の事があつて、もと氏使が来たのが、其も来ないで、その又代理といつた意味で、奈良で出すやうになつたのが日の使だといふ説がよい様です。
興福寺の僧が日の使に扮したのであるといふが、日の使の意義は、はつきりわからない。が、ともかく宮廷から来たものではない。この日の使は若宮祭りにもとからあつたかどうかわからない。此起原の説明として、藤原忠通が、これに当る役を勤めた処、急病で装束を楽人に与へて代理させ、その日の使に命じたから日の使といふ、といふ伝へは訣らぬ様で意味がありさうだ。交替で勤務することが、日の勤めであり、蔵人にも日下※[#「藹」の「言」に代えて「月」、第3水準1-91-26]《ヒノゲラフ》などいふ名称もある位だから、当番のことである。当番の人が使として来る位の義かも知れぬ。併し、春日祭りに本来の性質を等しくしてゐる、大原野祭りで見ると、此祭りには神主が卜ひ定められる。其には藤原北家長岡大臣(内麻呂)の子孫から採るといふ事になつてゐて、毎年さうしてゐたらしいことは、北山抄にあります。だから、京都から来なければならなかつた時代には此使が、神主以外に今一人毎年下つたと見られませう。さうして其が何時の代からか、出る家が――内麻呂流でも――きまつて、日野家一流といふ事になつてゐたのではないか。其は内麻呂流では、此流れと今一つ藤原本流ともいふべき冬嗣の系統の外は微々たるものだから、結果日野流が、かういふ方面には用ゐられるのでせう。大原野神社では一年神主であり、春日では若宮祭りに日野使が出た、かういふことになるのではありませんか。ともかく若宮祭りの行列に出るものゝ中には、興福寺から出るのに繋らず、臨時祭りは勿論、春日祭りに出た種目も出来る。僣上といへば僣上だが、一つの模擬行列です。さういふ所があります。だから前にも言ひました臨時祭りを型としてゐるものだといふ事が、はつきりして来ます。
それから巫女、芸能の者が出て来る。更にも一つ流鏑馬が出る。これは願主に附属したものである。それから大和大名の連衆、六方の連衆が出た。それで一通り、祭り行列の整理がつく。つまり、神ではなく、招かれざる客の一行で、それが神の祝福に来た形だ。そしてそれは、春日祭りや臨時祭りの一行の形に似せた姿を見せてゐるのである。

[#5字下げ]公人の梅の白枝《ズハエ》[#「公人の梅の白枝」は中見出し]

行列には二種類ある訣で、芸能の連衆と、京都からの使とに大別されるが、初めの方は、拍手の公人、戸上の公人とある。旧記には既に公人の字を書いてゐるが、公人は奈良だけの宛て字らしい。戸上|拍手《カシハデ》はわからないが、「とがめの公人」だといふ説もある。梅の白枝《ズハエ》を持つてゐるのがそれで、多くの旧社の祭礼には、これが先頭に立つ事が多い。
これは※[#「ころもへん+畢」、第4水準2-88-32]《チハヤ》をかけ、その裾を長く/\引いてゐる。臨時祭記にも出てをり、寺社雑事記にはこれに要する木綿の分量も書いてあります。このちはや[#「ちはや」に傍点]は年中行事絵詞の加茂祭りの条にもあり、春日霊験記でもかけてゐる。加茂でも春日でも又余所でもかけてゐるが、異風な感を興させるもので、お祭りにはふさはしいものである。巫女がかける笈摺に似たもの、あれも※[#「ころもへん+畢」、第4水準2-88-32]である。能などでは袖なしの前のあいてる側継、あれがちはや[#「ちはや」に傍点]である。公人のは裾を長く引きずるのが特長だが、加茂祭りもその通りである。元来このちはや[#「ちはや」に傍点]は、裂地の中に穴をあけ、其処に首を入れて前にも後にも垂れるもので、原始的な着物である。着物が発達してからは、その上にかける、といふ状態になつたのである。
公人は奈良だけだらうと思ふのは、これが春日神社から出たのではなく、興福寺から出たものだからだ。「公人」は候人、即、さむらひゞと[#「さむらひゞと」に傍点]である。寺にゐる一種の武力をもつた奴隷法師なのである。「候人」を音読もし、又「さむらひぼふし」とも言つた。
梅の白枝はしもと[#「しもと」に傍点]で、警固の為の意味の物である。社々の前駆には、梅のずはえ[#「ずはえ」に傍点]を持つことが実に多い。春日霊験記にある、鏡を盗んだ男を捕へ、鏡をとり返して帰る行列にもそれが出てゐる。申祭りの時に、故老の神人が南大門から南に向つて、祭りの終りに強盗々々と中音で言つたと言ふ。其理由はわからぬが、ともかくも昔からして居るのだと答へたよしが御祭礼図に見えてゐるが、其処にも書いてあるとほり、春日祭りにつきものゝ為来りだつたのが、江戸の享保まで残つてゐた訣だ。江家次第春日祭使途中次第に詳しくあります。一種のきまつた余興とも演劇ともとれるものです。之が昔は行はれてゐたのだが、後にさう言ふ事もなくなつて、しかも尚男の乳房のやうに、どこかに縋つて残つて居ようとした形が見えます。だから大宮祭りのが臨時祭りに、臨時祭りのが若宮祭りにといふ風に、次第に這入つて残るわけもわかります。一度さうした盗人が、春日使一行を襲うたことがあつたのでせう。其が歴史になつて、くり返された訣です。
白馬の節会に、犯人を作つて梅の白枝で打擲すると言ふ例があるが、北陣で検非違使が雑犯を裁断する式も、白馬節会のつきものです。起原が一つと考へられるのはおもしろいが、ちよつと場合が違ひますし、まあ宿題にしておいた方がいゝ。
公人がするのかどうか、誰がするのかわかりません。古くは近衛使について行つた近衛府の下部のやうです。禄を分ける前提として、盗人を拵へ、之が隠匿した贓物の所在を白状する、といふ事になつてゐます。狂言の「瓜盗人」の鬼の責めが思ひ出されるが、斎藤香村氏によれば、「鬮罪人」はそれよりも、もつと為組みが複雑になつてゐます。祇園会の山鉾を出す相談で、地獄の鬼が罪人を責めるところを囃子物に乗せてしようといふことに定まり、主人が罪人、太郎冠者が鬼の鬮を引きあてゝその稽古をするといふのです。
愛知県には「かんど打つ」といふことがある。それは祝福に行つて物を貰ふことにさう言ふらしい。祭り日の闖入者、饗応の座を羨んで這入りこんで来る者といふことになる。さうした処に由来がある。白枝は、奈良のは特に長い。
十列の稚児はもと/\伶人なんでせう。舞人は武官です。使の伴だから陪従。其が素らしいのです。舞はないのではありませんが、普通は歌の方です。それが東遊びなどに関係します。

[#5字下げ]若宮の祭神[#「若宮の祭神」は中見出し]

若宮様は、元は畏い神でおありになつたのかどうかと言ふことだが、これについては、明応七年十二月三日、
[#ここから2字下げ]
昨夕自[#二]九条殿[#一]御書到来。若宮御本地事、預[#二]御尋[#一]、可[#二]注進[#一]之也。
[#ここで字下げ終わり]
とあつて、其後に、案文が載つてゐる。
[#ここから2字下げ]
……春日若宮御本地事。文殊候。令[#レ]出[#二]現|師子間《シシノマ》[#一]給故也。(師子間者大宮殿第二御殿与第三御殿之間於申也)御出現時分事如[#レ]仰長保五年候歟。不[#二]存知仕[#一]候。被[#レ]称[#二]別殿[#一]候事者、大治二年候。祭礼初候事者保延三年九月候。
[#ここで字下げ終わり]
其外、十一面観音、阿弥陀八幡が若宮と示現せられたともいふと謂つた風な異説をあげて、此にもまだ異説はあるが、悉皆を南無阿弥陀仏と御祈念あるべく候といふ様な答申をしてゐる。まるで落し咄です。九条殿では驚いたでせう。
若宮が天押雲命だといふ説は、御祭礼略記にあつて、「名法要集にあり。然れども若宮神主一家の秘にて知ることなし。長保五年三月三日、二三の御殿の間にあらはれさせ給ひしを、時風《トキカゼ》五代の孫中臣連是忠三の御殿に移し祝を奉る云々」と、こゝでも祟り神だとある。たゝり神をば、大きな威力のある神様に附属させて、若宮と呼んで和《ナゴ》め鎮めるやうにしたのだといふのが、柳田国男先生の若宮考です。殊に八幡神関係について詳しく説かれてゐます。
若宮と若宮八幡との関係を考へれば、細男の出るのは八幡系だといふ考へも出て来るが、それは少し合理化しすぎるでせう。
祭りの時期は、しきりに動いてゐる。動かない方が不思議だと思はれる様な時代さへありました。大和や河内に変事があつたりすると動いてゐます。
今は八月十一日に御旅所を造り、九月に棟上を行つてゐるが、寺社雑事記時代は、原則としては、十一月廿七日だと思ふが、それさへ動揺がある。若宮祭りは九月十七日に行つたといふのが記録にある古い形でせう。平安朝末期です。併しどういふ訣か、若宮の祭礼の日は動揺が激しいのです。第一、旧記類で見ても、戦乱や物忌みで延すのは勿論、雨や荒天で延期してゐる例も段々あります。祭りに附属した芸能の行はれない様な場合には、日を替へることが出来たらしいのです。本社の祭礼にも延引の例が多いのですが、何か我々には窺ひ知れない理由と、日を替へる方法とがあつたものと思はれます。殊に若宮祭りが五月に行はれてゐるのなどは、不思議だが度々あります。

[#5字下げ]大和猿楽・翁[#「大和猿楽・翁」は中見出し]

猿楽の大和の四座は、春日神社からはかなり遠いと思はれるが、大した事はない。本家が他国に移つてゐたことが、中間にあるとすれば――京都でなく――其期間は別だ。宝生はやゝ遠くて、昔の足で半日だが、観世などは結崎だし、金剛の坂戸だつて半日かゝらない。
金春は、翁に対して、他流とは特別な点があるかどうかと言ふ問題だが、これについて、斎藤香村さんは、「金春は四座の中では最古いから、翁もやはり金春が古いと言はねばなるまいが、この翁について、金春と観世との間に、古く足利時代に問題が起つた事があつたらしい。それは、観世大夫が、代々京都の吉田神社から翁の伝授を受けてゐる一事から想像されるので、単に翁の神聖を裏書きする必要だけではない様な気がする」との説です。

[#5字下げ]影向松・鏡板・風流・開口[#「影向松・鏡板・風流・開口」は中見出し]

松の下の開口能の、例の影向の松だが、これは、昔からある標山《シメヤマ》――王朝時代の大嘗祭では、ひをのやま[#「ひをのやま」に傍線]、或はへうのやま[#「へうのやま」に傍線]と言つた――の信仰から考へて、神様の天降りなさる場所を、人がこゝときめてゐる。さうした木のある所が標山で、春日の一の松もこれで解決すべきものだらう位に漠然と考へてゐました。ところが今日の能舞台などの「鏡板の松」をこの影向松を表したものだといふ高野斑山博士の説が発表になりました。如何にも尤だと賛同してゐました。勿論其通り、標山・鏡板もおしつめれば一つになるのですが、まうちよつと、鏡板の松に直接に関係あるものが介在してゐるやうな気がします。昔の松拍《マツバヤシ》を考へると、松の木を切つたものを曳いて来て、其を中心に大家の祝福をして廻つてゐる。それが松拍《マツバヤシ》なのです。神木の一部分を切つて持つて来る。即、其に御分霊がのりうつゝておいでになる。春日でいへば、時々都へ動座なされた神木といふのが、同じ信仰です。この伐りはやし[#「はやし」に傍点](伐る・截るの祝福語)た木即、松のはやし[#「はやし」に傍点]を牽いて其下で演じた芸能であるから、中門から庭の芸になり、庭から舞台の芸になつても、なほ、はやした木だけは其形容を留めてゐる。其が段々誇張せられて老木を描くやうになつた。猿楽は古く松拍を行ふ徒だつたとは言ひきれません。尤、猿楽役者も後に松囃子を行うたことは確かですが、かう言ふ祝福芸能の村々では、拍子《ハヤシ》物を持つて居るのが多かつたし、拍子物の実体は囃すからはやし[#「はやし」に傍点]物でなく、さうしたひき[#「ひき」に傍点]物があり、ねり[#「ねり」に傍点]の中心になつてゐた事は考へなくてはならぬのです。ついでに橋掛りの松だが、斑山博士の説明は、橋掛りの松にも関聯して居まして、如何にも心ゆくうつくしい感じ方でした。此は私の方ではうまく説けないのです。唯、猿楽以前の先輩芸能の舞台に既に其があつたと見るのが、ほんたうではないかと思ふのです。
風流も、翁烏帽子狩衣で、私どもの考へてゐる風流といふものと違つて感じられる。斎藤氏によれば、三笠風流といふのは、明治になつてからの新作ださうです。

[#5字下げ]細男・高足・呪師[#「細男・高足・呪師」は中見出し]

細男は主として退る足ばかり、舞楽は出る足ばかりでした。此は大変おもしろい事だと思ひます。斎藤さんが「大ていの芸能が出るのに呪師が出て来なかつたのは一寸意外に思つた」と言つてをられたが、田楽が発達して来ると、その中にとり込められて、呪師其ものは痕を潜めました。だから今日呪師を見ることは望めません。五師の坊であれだけ保護したのだが、流行の力がもつと大切だつたのでせう。流行しなくなると忽ち他の芸能の中へよい物が吸収せられて了ふ。田楽自身があの通りで、今度は刀玉など曲りなりにもやつてゐたが、前はあれもなかつた。
高足なども、工夫がしやべる[#「しやべる」に傍線]を足で土へ突き込むやうな形をするだけで、一寸足をかけるだけで、一向たあいのないものだが、今だつて高足に乗る地方の祭りが多いのだから、何でもないのです。一本足の竹馬のやうにして、両足をかける横木がある。それに乗つて走るんでせう。正しくは一足でせうが、何処でも高足《タカアシ》といふ様です。唯の一本の高足が、竹馬になつて珍しくなくなつてから、一足を高足と専ら言ひ慣らしたのでせう。



底本:「折口信夫全集 21」中央公論社
   1996(平成8)年11月10日初版発行
初出:「能楽画報 第三十五巻第四号」
   1940(昭和15)年4月
※底本の題名の下に書かれている「昭和十五年四月「能楽画報」第三十五巻第四号」はファイル末の「初出」欄に移しました。
入力:門田裕志
校正:しだひろし
YYYY年MM月DD日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。



*地名


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黒川能・観点の置き所
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鳥海山 ちょうかいさん 秋田・山形県境に位置する二重式成層火山。山頂は旧火山の笙ガ岳(1635メートル)などと新火山の新山(2236メートル)とから成る。中央火口丘は鈍円錐形で、火口には鳥海湖を形成。出羽富士。
黒川村 くろかわむら 山形県東田川郡にあった村。1954年(昭和29年)12月1日、山添村と合併して櫛引町となった。
杉沢村 すぎさわむら 現、山形県遊佐町。蕨岡上寺村の北部にあり、月光川上流左岸に位置する。
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村で見た黒川能
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能舞台の解説
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丹波 たんば (1) (古くはタニハ)旧国名。大部分は今の京都府、一部は兵庫県に属する。(2) 兵庫県東部の市。中国山地の東端、加古川・由良川両水系の最上流部で、日本で一番低い分水界がある。人口7万1千。
伏見 ふしみ 京都市の南部の区。もと豊臣秀吉がつくった城下町。酒造業が盛ん。
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春日若宮御祭の研究
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春日 かすが (枕詞の「春日(はるひ)を」が「かすが」の地にかかることからの当て字) (1) 奈良市春日野町春日神社一帯の称。
春日神社 かすが じんじゃ 奈良市春日野町にある元官幣大社。祭神は武甕槌命・斎主命(経津主命)・天児屋根命・比売神。平城遷都後まもなく藤原氏により現在の地に創建され、以後ながくその氏神として尊崇された。二十二社の一つ。三社の一つとも称す。今は春日大社と称。
大乗院 だいじょういん 奈良興福寺の門跡。1087年(寛治1)隆禅の創立。12世紀末から摂関家の子弟が入室し、一乗院に次ぐ門跡となった。明治維新の際、廃院。「大乗院寺社雑事記」など中世史料が多く伝わる。
興福寺 こうふくじ 奈良市にある法相宗の大本山。南都七大寺の一つ。藤原鎌足の遺志により夫人の鏡王女が山城国山科に創建した山階寺が起源で、藤原京に移って厩坂寺と称し、さらに平城京に移されたとされているが、実際には藤原不比等が8世紀初頭に現在の地に開創。以来藤原氏の氏寺、大和国領主として僧兵を擁し、久しく盛大をきわめた。東金堂・南円堂・北円堂・三重塔・五重塔などがあり、貴重な文化財多数を存する。こうぶくじ。
大和
郡山 → 大和郡山か
大和郡山 やまと こおりやま 奈良県北部の市。もと柳沢氏15万石の城下町。近世以降、金魚の養殖で有名。人口9万2千。
祇園 ぎおん 京都の八坂神社の旧称。また、その付近の地名で、遊里。
加茂 かも 京都府南部、木津川市の地名。木津川北岸には8世紀に3年余にわたって恭仁京の中心部があった。
大原野神社 おおはらの じんじゃ 大原野南春日町にある元官幣中社。藤原氏が氏神の春日明神を奈良から勧請したもので、朝廷の尊崇が厚かった。二十二社の一つ。
宝生 ほうしょう → 外山村
外山村 とびむら 村名。現、奈良県桜井市大字外山。鳥見(とみ)山北麓の集落。鵄(とび)邑の伝承地の一つで、鳥見山も神武東征神話伝承地。大和猿楽四座の外山座があったが、外山座はやがて宝生座となり、以後、代々室町幕府・豊臣家・江戸幕府に仕え、宝生流として今日に伝わっている。
結崎 ゆうざき 村名。現、奈良県磯城郡川西町大字結崎。寺川右岸にあり、夕崎とも書く。能の観世流の始祖、観阿弥清次が伊賀国小波多(おばた)(現、名張市)から移って結崎座を組織したことで知られる。
坂戸 さかど 奈良県平群町付近。
金春 こんぱる → 円満井座
円満井座 えんまいざ/えまいざ 円満寺(えんまんじ)の訛伝か。円満寺は奈良西ノ京の薬師寺南方にあった寺。大和四座の一つで最も古い由緒を持つ。金春座。
吉田神社 よしだ じんじゃ 京都市左京区吉田神楽岡町にある元官幣中社。奈良の春日神社を藤原氏が勧請したもの。吉田神道の本拠地となり、大元宮が設けられた。二十二社の一つ。


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)、『日本歴史地名大系』(平凡社)。




*年表


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黒川能・観点の置き所
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村で見た黒川能
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能舞台の解説
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春日若宮御祭の研究
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嘉慶 かきょう (カケイとも)[毛詩正義]南北朝時代の北朝、後小松天皇朝の年号。至徳4年8月23日(1387年10月5日)改元、嘉慶3年2月9日(1389年3月7日)康応に改元。


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)。



*人物一覧

(人名、および組織・団体名・神名)

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黒川能・観点の置き所
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斎藤氏 → 斎藤香村か
斎藤香村 さいとう こうそん 1882-1954 能楽評論家。(人レ)/鶴岡出身。能楽書院を主宰。(『黒川能の世界』)
泉お作
泉祐三郎 いずみ すけさぶろう 1854-? 今様能狂言師。
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村で見た黒川能
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能舞台の解説
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山崎楽堂 やまざき がくどう 1885-1944 能楽研究家。建築家。俳人。本名、静太郎。和歌山県生まれ。地拍子研究の権威として知られ、また、時事新報・読売新聞その他に能評を掲げた。梅若能楽堂、細川家能楽堂、松平家能楽堂などを設計。著『地拍子精義』『観世流地拍子詳解』など。(人名)
梅若 うめわか 能楽の一派。もと丹波猿楽の一座。
梅若景英 うめわか かげふさ → 梅若六郎か
梅若六郎 うめわか ろくろう 1907-1979 能楽師。シテ方観世流。2世梅若実の長子。初名亀之、のち景英・六之丞。父の隠居により家督を継ぎ活躍。
安弘
経覚 きょうかく/ぎょうかく 1395-1473 室町時代の法相宗の僧侶。父は関白九条経教、母は浄土真宗本願寺(後の大谷家)の出身。母方の縁で後に本願寺8世となる蓮如を弟子として預かり、宗派の違いを越えて生涯にわたり師弟の関係を結んだ。興福寺別当である寺務大僧正を4度務めた事でも知られている。諡号は後五大院。
小林静雄 こばやし しずお 1909-1945 能楽研究家。東京生まれ。雑誌『観世』編集主任。観世流謡本(大成版)刊行に際しては前付の解説などの執筆にあたった。著『能楽史料』第一輯、『室町能楽記』『世阿弥』『能楽史研究』など。フィリピンで戦死。(人名)
高野斑山 たかの はんざん → 高野辰之
高野辰之 たかの たつゆき 1876-1947 国文学者。斑山と号。長野県生れ。長野師範卒。東京音楽学校・大正大学教授。著「日本歌謡史」「日本演劇史」、編「日本歌謡集成」など。
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春日若宮御祭の研究
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尋尊 じんそん 1430-1508 室町時代、法相宗の学僧。興福寺大乗院の門跡。一条兼良の子。興福寺の経営や教学振興に努めると共に、「大乗院寺社雑事記」「大乗院日記目録」などの記録を残す。
藤原忠通 ふじわらの ただみち 1097-1164 平安末期の貴族。忠実の子。摂政関白・太政大臣。父や弟の頼長と対立したが、保元の乱後また氏長者となる。出家して法性寺入道前関白太政大臣ともいう。詩歌にすぐれ、書法にも一家をなして、法性寺様といわれた。家集「田多民治集」、詩集「法性寺関白集」。
長岡大臣(内麻呂)
藤原冬嗣 ふじわらの ふゆつぐ 775-826 平安初期の貴族。内麻呂の子。嵯峨天皇の信任を受け、蔵人所の新設と共に蔵人頭となり、のち左大臣。閑院大臣ともいう。施薬院を復興し勧学院を置いた。
斎藤香村 さいとう こうそん 1882-1954 能楽評論家。(人レ)
天押雲命 あめのおしくもの みこと 天押雲根神。天神。天児屋命の子。父神の命により天水を天二上よりもち下った。奈良市春日大社の摂社・若宮神社に祀られている。
時風《ときかぜ》五代の孫
連是忠三
柳田国男 やなぎた くにお 1875-1962 民俗学者。兵庫県生れ。東大卒。貴族院書記官長を経て朝日新聞に入社。民間にあって民俗学研究を主導。民間伝承の会・民俗学研究所を設立。「遠野物語」「蝸牛考」など著作が多い。文化勲章。
観世大夫 かんぜ だゆう 観世座の長。すなわち、シテ方観世流の家元。


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)、『人物レファレンス事典』(日外アソシエーツ、2000.7)、『黒川能の世界』(平凡社、1985.11)。



*書籍

(書名、雑誌名、論文名、能・狂言・謡曲などの作品名)

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黒川能・観点の置き所
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『能楽画報』 雑誌。
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村で見た黒川能
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能舞台の解説
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小袖曾我 こそで そが 能。直面物。曾我十郎・五郎の兄弟が敵工藤祐経を討とうとして、母に五郎の勘当の許しを請い、富士の狩場に急ぐ。
曾我物 そがもの 曾我兄弟の事跡を題材とした能・人形浄瑠璃・歌舞伎などの演目の総称。「元服曾我」「小袖曾我」「草摺引」「矢の根五郎」「鬼王貧家」「対面」「夜討曾我」の類。
経覚私要鈔 きょうがく しようしょう 経覚私要抄・安位寺殿御自記。経覚が記した日記。原本82冊が国立公文書館(内閣文庫)に所蔵(ただし、1冊は尋尊の日記が誤って伝えられたものと判明している)され、平成15年(2003年)には重要文化財に指定された。写本も宮内庁書陵部、東京大学史料編纂所、東北大学に所蔵されている。
猩猩 しょうじょう (1) 能。唐土の潯陽江にすむ霊獣の猩猩が酒に浮かれて舞を舞い、孝子高風を祝福する。(2) (1) に取材した歌舞伎舞踊・上方舞・地歌・一中節・山田流箏曲など。
井筒 いづつ 能。世阿弥作の鬘物。紀有常の娘が幼時背丈を井筒で計り合った在原業平と結ばれたことを脚色する。
杜若 かきつばた 能。金春禅竹作の鬘物。三河国八つ橋の杜若の精が女となってあらわれ、在原業平東下りの物語を舞う。
松風 まつかぜ (1) 能。鬘物。田楽能の古曲「汐汲」をふまえ、観阿弥作曲の一節をも取り入れて、世阿弥が改作したもの。須磨浦の汐汲女松風・村雨の姉妹が在原行平に愛されたことを脚色する。(2) (1) に取材した浄瑠璃・歌舞伎舞踊などの通称。富本節の「徒髪恋曲者」、長唄の「汐汲」「浜松風」など。(3) 山田流箏曲。中能島検校・3世山木検校作曲。松風の銘ある箏に因んだ歌詞で、能の「松風」とは無関係。故人を偲ぶ思いを主題とする。
二人静 ふたりしずか 能。鬘物。静御前の霊が、自身の乗り移った菜摘女と共に同じ衣裳で舞を舞って見せ、吉野の勝手社の神職に弔いを頼む。
「鎌倉御所」の絵図
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春日若宮御祭の研究
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『嘉慶元年春日臨時祭記』
『嘉慶記』
『大乗院寺社雑事記』 だいじょういん じしゃぞうじき 大乗院門跡尋尊・政覚・経尋の3代の日記。1450年(宝徳2)より1527年(大永7)に至る。応仁の乱前後の史料として重要。自筆本が現存。
『春日若宮御祭礼図』
『北山抄』 ほくざんしょう 有職故実書。藤原公任著。10巻。朝儀や政務に関する行事などを記したもの。「西宮記」に次ぎ、平安中期の朝儀を知る上の重要史料。北山は公任晩年隠棲の地。
『年中行事絵詞』 → 年中行事絵巻か
年中行事絵巻 ねんじゅうぎょうじ えまき 平安時代の宮廷や公家の年中行事を描いた絵巻。もと六十余巻あったとされるが散逸・焼失。二十余巻の江戸時代の模本が残る。原本は保元(1156〜1159)〜治承(1177〜1181)の頃、後白河法皇の命により常盤光長らの制作と伝えられる。
『春日霊験記』 → 春日権現験記
春日権現験記 かすがごんげん げんき 奈良春日神社創建の由来と霊験とを20巻、全93場面に描いた豊麗な絵巻物。西園寺公衡の発願により、絵所預高階隆兼が描き、1309年(延慶2)同社に奉納。伝統的な技法を集大成。鎌倉末期の代表的絵巻物。御物。春日験記。春日権現霊記。
『御祭礼図』
『江家次第』 ごうけしだい 大江匡房が関白二条師通の委嘱によって、朝廷の公事・儀式などを詳記した書。21巻。巻16・巻21は伝わらない。略称、江次第。一条兼良に「江次第抄」がある。
「春日祭使途中次第」

瓜盗人 うりぬすびと 狂言。貧しい男が瓜を盗みに畑へ入り、畑主が案山子に化けているとも知らず、祭の稽古をするうち打ち叩かれる。
鬮罪人 くじざいにん 狂言。鬮できまった罪人役の主人に対し、鬼役の太郎冠者が日頃の仕返しをする。

『御祭礼略記』
『名法要集』 → 唯一神道名法要集か
唯一神道名法要集 ゆいいつしんとう みょうぼうようしゅう 吉田兼倶の主著。先祖の卜部兼延の著に仮託して、唯一神道の教理の大綱を問答体で記したもの。


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)、『国史大辞典』(吉川弘文館)。



*難字、求めよ


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黒川能・観点の置き所
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黒川能 くろかわのう 山形県鶴岡市黒川の春日神社の王祇祭に主として行われる能。氏子の中の能の家が上座・下座の両座に分かれて伝承し、古い様式を各所に残している。
ひやま舞 → 杉沢比山舞か
杉沢比山舞 すぎさわ ひやままい 現、飽海郡遊佐町杉沢比山。熊野神社に伝わる山伏神楽。修験者によって伝承されてきた番楽。神楽と修験思想が融和。「三番叟」「翁」「影政」など14曲目があり、毎年8月に仕組・本舞・神送りとして熊野神社特設舞台で奉納される。国の重要無形民俗文化財に指定。(『郷土資料事典・山形県』人文社)
壬生念仏 みぶ ねんぶつ 京都の壬生寺で4月下旬行われる大念仏会。
壬生狂言 みぶ きょうげん 猿楽系統の民俗芸能。京都の壬生寺で毎年4月21〜29日の大念仏会の期間に行われる仮面劇。一切無言で鰐口・笛・太鼓の伴奏に合わせて演ずる。演目は独自のものと、能や狂言を再脚色したものとある。大念仏狂言。
橋掛り はしがかり (1) 能舞台の一部で、鏡の間から舞台への通路として斜めにかけわたし欄干を設けた道。(2) 旧式歌舞伎劇場の舞台の左(下手)、奥の廊下状の部分。
内陣 ないじん 神社の本殿や寺院の本堂で、神体または本尊を安置してある部分。
五流 ごりゅう 能のシテ方である観世・宝生・金春・金剛・喜多の五つの流派。
地謡 じうたい 能または狂言で、舞台の一隅(地謡座)に列座する者がうたう謡。また、その役。地。
囃子物 はやしもの (1) 囃子に用いる音楽・歌謡。また、それにならって作られた曲。通常、囃子詞が入る。(2) 中世の、囃子を伴う群舞。風流。
伶人 れいじん 音楽を奏する人。特に雅楽寮で雅楽を奏する人。楽人。楽官。
能謡 のううたい?
照葉狂言 てりは きょうげん (1) (「テニハ俄狂言」の略訛とも、照葉という女性が始めたからともいう)能や能狂言を歌舞伎風にくずしたもの。はやり歌や小唄や踊りを交え、三味線を囃子に加える。今様能狂言。吾妻能狂言。泉祐能。(2) 泉鏡花の小説。1896年(明治29)読売新聞に発表。両親を失った不幸な少年貢が年上の照葉狂言の女芸人に純真な思慕を寄せる浪漫的な作品。
大山能 おおやまのう 神奈川県大山の阿夫利神社で、神事として御師がおこなった能楽。元禄(1688〜1704)以降、毎年2月28におこなわれたが、臨時に興行することもあった。明治維新後、一時中絶、のち復活して、5月5日と8月28日の年2回おこなわれるようになったが、次第に都会化して、昔の異色を失っている。
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村で見た黒川能
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能舞台の解説
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町入能 まちいりのう 江戸時代、幕府で将軍宣下・婚礼・世嗣誕生などの重大な儀式の時、5日位にわたり江戸城本丸大書院の南庭の能舞台で演能し、その第1日に江戸の町人に観覧を許したもの。
相撲の節会 すまいの せちえ 「すまいのせち」に同じ。
相撲の節 すまいのせち 奈良・平安時代、毎年7月、天皇が宮中で相撲を観覧する行事。2〜3月頃、左右近衛府から部領使を諸国に遣わして相撲人を召し出し、7月26日に仁寿殿の庭で予行の内取があり、相撲人は犢鼻褌の上に狩衣・袴を着けて取る。28日(小の月は27日)に本番の召合があって20番(後には17番)を取り、天皇が紫宸殿などでこれを観覧する。翌29日に抜出という前日の相撲人の優秀者の取組と追相撲とがある。
曲舞 くせまい (1) (「久世舞」とも書く)日本中世芸能。また、その演者。南北朝時代から室町時代にかけて行われた。叙事的な詞章を鼓に合わせて歌い、舞うもの。男は直垂、女は水干・立烏帽子で舞う。のちの幸若舞もその一派で、この名で呼ばれたことがある。猿楽の能では観阿弥がこれを採り入れて能の曲節を改革したので、今の曲にその面影が見られる。舞々。(2) 能楽の曲の部分の名称。また、金剛流・喜多流で闌曲の別称。
舞車 まいぐるま 祭礼の時にひきだす山車。
芝能 しばのう 奈良市春日大社および興福寺南大門の前庭でおこなわれる能楽の称。古くは、陰暦2月2日、のち6日から7日の晴天2日間、戦前までは3月14・15日、戦後は5月11・12日におこなわれている。芝の能。薪能。
芝居能
築土塀 築地塀(ついじべい)か。
祝言事
千歳 せんざい (1) 千年。ちとせ。長い年月。(2)「式三番」参照。
式三番 しきさんば (シキサンバンとも) (1) 猿楽の能に古くから伝わる祭儀的な演目。もと、父尉・翁・三番叟(はじめ三番猿楽)の三老人の祝福舞の総称。室町時代には父尉が露払い役の千歳にかわる。曲は、翁役の「どうどうたらり」という呪文的な歌に始まる。翁の舞のあとに三番叟役のモミの段、鈴の段の舞があり、後に、三番叟の部分を中心にした舞踊曲多数を生む母胎となる。能では翁の謡を「神歌」とも称する。現在でも「翁」と題し、祝賀・追悼等の能の催しの初めに演じる。特殊演式「父尉延命冠者」として父尉の面影を残している流派もある。(2) 能の「翁」に取材した三番叟物のうち、常磐津「祝言式三番叟」、義太夫「寿式三番叟」などの略称。式三番叟。
三番叟 さんばそう (1) 能の「翁」に出る狂言方の役とその担当部分。三番三。(2) 歌舞伎舞踊・三味線音楽の一系統。能の「翁」に取材し、(1) を主体に扱う。長唄「種蒔三番叟」「廓三番叟」「操三番叟」、清元・長唄掛合「舌出し三番叟」、清元「四季三葉草」、常磐津「子宝三番三」など。(3) (演目の初めに演じられることから)物事の始め。幕開き。
影向の松 ようごうのまつ?
影向 ようごう (ヨウコウとも) 神仏が一時姿を現すこと。神仏の来臨。えごう。
標山 しめやま → 標の山、か
標の山 ひょうのやま 大嘗祭に悠紀・主基の両国司の列立すべき所を標示する飾り物。山形に作り木綿・榊・日月などをかたどって装飾し、卯の日に斎場から供物と共に大嘗宮へ引く。祇園祭の山鉾のようなもの。しるしのやま。月日山。標山。
唱門師・声聞師 しょうもんじ 中世、民家の門に立ち金鼓を打って経文を唱え歩いた俗法師。千秋万歳などの芸能にも従った。近世は門説経の類をいう。しょもじ。
神楽殿 かぐらでん 神社の境内に設けて神楽を奏する殿舎。
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春日若宮御祭の研究
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臨時祭 りんじの まつり 例祭以外に臨時に行う祭祀。11月の下酉の日に行なった賀茂神社の祭祀、3月の中午の日に行なった石清水の祭祀、6月15日に行なった祇園社(今の八坂神社)の祭祀の類。りんじさい。
春日祭 かすが まつり 春日神社の祭礼。昔は陰暦2月・11月の上の申の日に行われ、申祭といわれた。今は3月13日。藤原氏の氏神であったから、盛大な祭礼が行われた。賀茂祭・石清水祭と共に三勅祭の一つ。かすがさい。
擬講 ぎこう 〔仏〕(1) 僧侶が三会の講師を拝命してから、それを勤めるまでの呼称。(2) 浄土宗・真宗大谷派などの学階の一つ。
流鏑馬 やぶさめ 騎射の一種。馬上で矢継ぎ早に射る練習として、馳せながら鏑矢で的を射る射技。的は方板を串に挿んで3カ所に立て、一人おのおの三的を射る。平安末期から鎌倉時代に武士の間で盛行。現在は、神社などで儀式として行う。三的。
五師 ごし 〔仏〕諸大寺あるいは宮寺で寺務を管掌した五人の役僧。また、五種の法師(経師・律師・論師・法師・禅師)や付法の五師をいうこともある。
本座 ほんざ (2) 田楽・猿楽などの複数の同業者組織で、新しく編成された新座に対し、もとから存在した座。
新座 しんざ (1) 田楽・猿楽などの演技団体で本座に対して、新しく組織した座。
御旅所 おたびしょ 神社の祭礼に、神輿が本宮から渡御して仮にとどまる所。おたびのみや。みこしやど。おたびどころ。
露台 ろだい (2) 紫宸殿と仁寿殿との間の、渡殿の間に設けられた板張りの床で、乱舞などを奏する所。(3) 一般に、屋根のない床張りの舞台。
埒 らち (ラツとも) (1) 馬場の周囲の柵。
八処女 やおとめ 八少女、八乙女。(1) 8人の少女。(2) 大嘗祭・新嘗祭・神今食など皇室の神事に、神饌を献って奉仕する采女。(3) 神に奉仕し、神楽などを舞う少女。
せいなう せいのう/せいのお 細男・才男。(1) 奈良の春日神社の若宮の祭に白丁・立烏帽子姿で登場する6人の男。(2) 八幡宮などの祭に行われた行列の先駆の人形。また、その代りに歌舞する人。その舞を細男舞という。ほそおとこ。青農。さいのお。
わき芸
もどき 擬き・抵牾・牴牾 (3) 日本の各種の芸能で、主役をからかったり動作をまねたりして、主に滑稽を演ずる役。
馬長 うまおさ 昔、京都の祇園の御霊会の神事に、朝廷から奉られる馬に乗った人。うまのおさ。
法楽 ほうらく (1) 仏法を敬愛し、善を行い、徳を積んで自ら楽しむこと。(2) 法会の終りに、詩歌を誦しまたは楽などを奏して本尊に供養すること。(3) 神仏の手向けにするわざ。
六方法師 ろっぽう ほうし 六方衆に同じ。
六方衆 ろっぽうしゅう 中世、奈良興福寺の衆徒のうち、修学者(学道)の若衆集団。室町時代、大和国内に武力をふるった。
六方 ろっぽう 歌舞伎で俳優が花道から揚幕に入る時、手を大きく振り高く足踏みして歩く誇張した演技。「飛び六方」などいろいろの様式がある。
寛闊 かんかつ (1) ゆったりとしていること。寛大なこと。度量の広いこと。(2) 性格や服装などが派手なこと。だて。
丹前 たんぜん (1) 厚く綿を入れた広袖風のもので、衣服の上におおうもの。「丹前風」から起こるという。江戸に始まり京坂に流行した。主として京坂での名称。江戸で「どてら」と称するもの。(2) 雪踏の鼻緒の一種。丹前風の人の用いたもの。(3) 歌舞伎の特殊演技の一つ。丹前風から舞踊化された特殊な手の振り方と足の踏み方。丹前六法。丹前振。
犬神人 いぬじにん 中世、京都祇園の八坂神社に所属し、洛中の死屍の始末や八坂神社の武力を担うとともに、平常は沓・弓弦などの製造を業とした人々。また祇園祭の神幸に道路を清掃する役目を負った。つるめそ。
放免 ほうめん
野太刀 のだち (1) 野外出行の際に帯びた兵仗の太刀。(2) 長太刀の異称。
斎女 さいじょ/いつきめ 神に奉仕する処女。例えば、藤原氏の未婚の女子を選んで、その氏神たる春日神社・大原野神社に奉仕させた。いつきめ。
藤氏 とうし 藤原氏。
氏使
日の使い
蔵人 くろうど (クラヒトの音便) (1) 蔵人所の職員。令外の官の一つ。810年(弘仁1)任命。くらんど。(2) 女蔵人。
日下臈 ひげろう 六位の蔵人が毎日交替に一人ずつ朝夕の供御に伺候し雑事を勤めたもの。
大原野祭り おおはらのまつり 京都市西京区の大原野神社の祭礼。古くは毎年2月上卯の日と11月中子の日におこなわれ、室町時代に中絶したが、慶応元年(1865)に再興、現在は4月8日におこなう。奈良の春日大社の祭礼にならい、能楽が催される。大原祭。
僣上 せんしょう/せんじょう 僭上。(1) 身分を越えて奢りたかぶること。長上をしのぐこと。(2) 分を越えたおごり。ぜいたく。(3) 大言壮語すること。
連衆 れんじゅ (レンジュウとも)連歌・俳諧の会に作者として列席する人々。
連れ衆 つれしゅ 同伴の仲間。
公人 くにん (公方の禄を食む人の意) (1) 平安末期以降、朝廷に仕えた身分の低い役人の称。(2) 鎌倉・室町幕府の政所・問注所または侍所などの寄人以下の役人の称。(3) 室町時代、社寺に属して雑事に奉仕する者。
梅の白枝 ズハエ
近衛使 このえのつかい 平安時代、賀茂祭・大原野祭にあたり、左右近衛府より交互に差し遣わされた中将または少将。こんえの使い。
内侍使
氏使
氏の長者 うじの ちょうじゃ 「うじのかみ」参照。
氏上・氏長・氏宗 うじのかみ 氏の首長。大化改新以後は朝廷によって任命されるようになり、平安時代にかけては一族の宗家として、氏人を統率して朝廷に仕え、祖神の祭祀や叙爵推薦・処罰などをつかさどった。平安初期には宣旨によって氏長者または氏長という称を源・平・藤・橘の諸氏に賜ったが、室町時代以後は藤原氏の摂関となった者および源氏の征夷大将軍となった者だけがこれを称した。うじのこのかみ。
戸上
 ちはや (1) 日本の原始衣。貫頭衣の類。(2) 小忌衣の類。身二幅・袖一幅の、衽のない白布の単衣で、打掛けの形をし、袖を縫わずに、紙捻でくくったもの。山藍で水草・蝶・鳥などの模様を摺る。千早。
加茂祭り → 賀茂祭か
賀茂祭 かもまつり 京都の賀茂神社の祭。葵祭のこと。かものまつり。
笈摺 おいずる/おいずり 巡礼者などが着物の上に着る、袖無羽織に似たうすい衣。笈を負う時、背の摺れるのを防いだという。
側継 そばつぎ? そばつづき?
傍続・側次 そばつぎ (1) 袖なし脇明で、前身と後身の裾を襴でつないだ上着。金襴などで作る。上級武士の常服であるが、時には軍陣で鎧の上に羽織る。能装束としては、武装の侍、天部の神、唐人に用いる。(2) 小直衣の別名。そばつづき。
切れ地・布地・裂地 きれじ (1) 織物の地質。また、織物。(2) 織物のきれはし。(3) 袋物・鼻緒などにするための特殊な紋織物。
候人 こうにん (1) 中世、蔵人と同じく殿上に祗候し、御膳に侍し、宿直を勤めた人。こうじん。(2) 比叡山の門跡に奉仕する妻帯僧形の侍者。
しもと 笞・楚 刑罰の具。罪人を打つのに用いる細い木の枝で作った笞または杖。
前駆 ぜんく (古くはゼング・セングとも)騎馬で先導すること。また、その人。さきのり。さきがけ。先駆。
大宮祭り
白馬節会 あおうまの せちえ 宮廷年中行事の一つ。正月7日、朝廷で、左右馬寮から白馬を庭上に引き出して天覧の後、群臣に宴を賜う儀式。この日に青馬を見ると年中の邪気を払うという中国の風習による。本来は青馬を引いたのを、日本で白馬を神聖視したところから後に白馬に変更、字は「白馬」と改めたがアオウマとよむ。七日の節会。
打擲 ちょうちゃく 拳や棒などでうちたたくこと。なぐること。
雑犯 ぞうはん 律に規定された八虐以外の犯罪。ざっぱん。
贓物 ぞうぶつ/ぞうもつ 窃盗など財産に対する罪に当たる行為によって得た財物で、被害者が法律上の回復追求権をもつもの。贓品。
為組み 仕組み、か。
祇園会 ぎおんえ 京都の八坂神社の祭礼。昔は6月7日から14日、今は7月17日から24日まで行う。山鉾巡行などは有名。祇園御霊会。祇園祭。
山鉾 やまぼこ 山車の一種。屋台の上に山の形などの造物があって、その上に鉾・薙刀などを立てたもの。京都の祇園会の山鉾は有名。やまほこ。ほこ。やま。
陪従 べいじゅう/ばいじゅう (1) 貴人に付きしたがうこと。供奉。(2) 古代、賀茂神社・石清水八幡宮などの祭儀に、神楽・東遊の歌、伴奏楽器、舞に従事した地下の楽人。
若宮 わかみや (4) 本宮の祭神の子をその境内に祀った神社。(5) 本宮を他の地に新たに勧請して祀った神社。新宮。
畏い かしこい、か。
師子間 シシノマ
十一面観音 じゅういちめんかんのん 梵名エーカダシャ・ムカ。仏教の信仰対象である菩薩の一尊。梵名は文字通り「11の顔」の意。観音菩薩の変化身の一つであり、六観音の一つでもある。玄奘訳の「十一面神咒心経」にその像容が明らかにされているとおり、本体の顔以外に頭上に11の顔を持つ菩薩。
阿弥陀八幡
大和猿楽 やまと さるがく 室町時代、大和国に住し、春日神社の神事に従事した結崎・外山・円満井・坂戸の4座の猿楽。後にそれぞれ観世・宝生・金春・金剛の4座となった。
宝生 ほうしょう (1) 能の家の一つ。(2) 宝生流の略。(3) 宝生座の略。
宝生座 ほうしょうざ 猿楽の四座の一つ。大和猿楽四座の一つである外山座のことで、大夫は宝生姓を名のる。
宝生流 ほうしょうりゅう (1) 能楽のシテ方の流派。観阿弥の兄宝生の後で、蓮阿弥を中興の祖とする。(2) 能楽のワキ方の流派。江戸中期、下掛の春藤流から分かれ、宝生流の座付となって宝生と称した。下掛宝生流、下宝生、脇宝生とも。(3) 能楽の大鼓方の流派。宝生錬三郎派。近年、本来の観世流に認定。
観世 かんぜ (観阿弥の芸名から) (1) 観世座の略。(2) 観世流の略。
観世座 かんぜざ 猿楽の四座の一つ。大和猿楽四座の一つである結崎座の後。大夫は観世姓を名のる。
観世流 かんぜりゅう (1) 能楽のシテ方の流派。観阿弥を祖とする。(2) 能楽の小鼓方の流派。観世九郎豊次(1525〜1585)が宮増弥左衛門親賢(1482〜1556)から受けて創始。(3) 能楽の大鼓方の流派。観世弥三郎信方(1672〜1718)を祖とする。近年まで宝生錬三郎派といわれた。(4) 能楽の太鼓方の流派。観世与四郎吉国(1440〜1493)を祖とする。
結崎座 ゆうざきざ 大和猿楽四座の一つ。大和の結崎に座を持った。後の観世座。
金剛座 こんごうざ 大和猿楽四座の一つ。古くは坂戸座ともいい、大夫は金剛姓を名のる。
金剛流 こんごうりゅう 能楽のシテ方の流派。流祖は坂戸孫太郎氏勝。
坂戸座 さかどざ 大和猿楽四座の一つ。大和の坂戸に座を持った。後の金剛座。
金春座 こんぱるざ 大和猿楽四座の一つ。古くは円満井座ともいい、大夫は金春姓を名のる。
金春流 こんぱるりゅう (1) 能楽のシテ方の流派。秦河勝を遠祖と伝えるが、猿楽の家としては南北朝時代の毘沙王権守が流祖。ついで光太郎・昆沙王次郎・金春弥三郎と続き、金春権守の孫の金春禅竹が中興。(2) 能楽の太鼓方の流派。金春禅竹の伯父という金春三郎豊氏(観阿)( 〜1458)を祖とする。
開口 かいこう (1) 口を開くこと。話し始めること。(2) 外に向かって穴が開くこと。また、その穴。(3) 儀式的な能楽で、脇能の最初に、ワキの役が祝賀の文句を謡うこと。文章はその都度作る。(4) 延年などの芸能で、地口風に物尽しを唱えたりする話芸的演目。
開口能 かいこうのう?
大嘗祭 だいじょうさい 天皇が即位後、初めて行う新嘗祭。その年の新穀を献じて自ら天照大神および天神地祇を祀る、一代一度の大祭。祭場を2カ所に設け、東(左)を悠紀、西(右)を主基といい、神に供える新穀はあらかじめ卜定した国郡から奉らせ、当日、天皇はまず悠紀殿、次に主基殿で、神事を行う。おおなめまつり。おおにえまつり。おおんべのまつり。
一の松 いちのまつ 能舞台の橋掛りの前面に植える3本の松のうち、舞台に最も近い松。
松囃子・松拍子・松囃 まつばやし (1) 南北朝・室町時代の正月芸能。村人・町衆・侍衆などがそれぞれ組を作り、美しく装って歌い舞い、諸邸に参入して祝賀の芸を演じたものだが、詳細は不明。将軍邸には唱門師が参入するのを例としたが、のちには猿楽と代わり、観世大夫などが勤めた。(2) 謡初の称。江戸幕府では正月2日(のち3日)、諸大名を殿中に集めて催した。(3) 左義長のこと。飾囃。飾揚げ。(4) 松迎のこと。
橋掛りの松
翁烏帽子 おきなえぼし 能楽で用いる烏帽子の一つ。黒塗りの大型の立烏帽子で、「翁」のシテや、神職に扮するシテが用いる。
狩衣 かりぎぬ (もと狩などの時に用いたからいう)平安時代の公家の常用略服。盤領で、身頃を一幅とし、脇を縫い合わさずに袖にくくり紐を通してすぼまるようにしてある。括袴を用い裾を袴の外へ出し、烏帽子を用いる。地質はもと布を用いたが、のち、綾・固織物・平絹または紗を用い、地下は単、殿上人は裏をつけたものも用いる。色は一定しないが、五位以上は織文、地下は無文を用いた。白色で神事に用いるのを浄衣といい、江戸時代には、文様のないものを布衣、文様あるものを狩衣とした。
三笠風流
高足 たかあし (7) 歌舞伎の大道具で、御殿向きあるいは大茶屋場など、最も高く造った二重舞台。高さは2尺8寸。
呪師 じゅし (シュシ・スシ・ズシとも) (1) 大法会で、陀羅尼を誦して加持祈祷をする僧。法呪師。(2) 日本芸能の一つ。広義の猿楽に属し、平安末から鎌倉時代に行われた。(1) の行う呪法の内容を演技によって一般の目に明らかにするもので、法会に付随する芸能であったが、後に独立の鑑賞芸能ともされた。華麗な装束で敏速に動くので、その演技を「走り」(呪師走)と称した。のろんじ。
刀玉 かたなだま 田楽などで、短い刀をいくつも投げ上げて手で受ける曲芸。
片山家 かたやまが へんぴな山里にある家。


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)。



*後記(工作員スリーパーズ日記)


モスクワの屋根に雪ふりつむ
カイロの屋根に雪ふりつむ。
李、セルジオの雄叫び。

 『山形新聞』より。高松和紙(上山市)を守ってきた土屋さんが、九十五才の高齢のため今期で紙すきを終えるとのこと。後継者がいないので、四〇〇年以上にわたる高松和紙の伝統が途絶えることになる。昨夏の、カモシカによる楮の葉の食害も大きな要因という。
 
 二九日(土)快晴のち曇り。天童より山形のほうが若干、積雪が少ない。夕刻より冷えて乾いた雪。県立博物館、考古学講座。水戸部秀樹「県内最大級の複式炉を持つ村・鮭川村小反(こぞり)遺跡」。
 複式炉とは、石と土器の組み合わせの炉のことをさし、縄文中期、土器形式編年で大木9〜10式の短期間に南東北地域にのみ限定して出土するという。




*次週予告


第三巻 第二八号 
面とペルソナ 他 和辻哲郎


第三巻 第二八号は、
二〇一一年二月五日(土)発行予定です。
定価:200円


T-Time マガジン 週刊ミルクティー 第三巻 第二七号
特集 黒川能・春日若宮御祭 折口信夫
発行:二〇一一年一月二九日(土)
編集:しだひろし/PoorBook G3'99
 http://www33.atwiki.jp/asterisk99/
出版:*99 出版
 〒994-0024 山形県天童市鎌田2丁目1−21
 アパートメント山口A−202
販売:DL-MARKET
※ T-Timeは(株)ボイジャーの商標・製品です。

T-Time マガジン 週刊ミルクティー*99 出版

第二巻

第一号 奇巌城(一)モーリス・ルブラン 月末最終号:無料
第二号 奇巌城(二)モーリス・ルブラン 定価:200円

第三号 美し姫と怪獣 / 長ぐつをはいた猫 定価:200円

第四号 毒と迷信 / 若水の話 / 麻薬・自殺・宗教 定価:200円

第五号 空襲警報 / 水の女 / 支流 定価:200円

第六号 新羅人の武士的精神について 池内宏 月末最終号:無料

第七号 新羅の花郎について 池内宏 定価:200円

第八号 震災日誌 / 震災後記 喜田貞吉 定価:200円

第九号 セロ弾きのゴーシュ / なめとこ山の熊 宮沢賢治
定価:200円

第十号 風の又三郎 宮沢賢治 月末最終号:無料

第一一号 能久親王事跡(一)森 林太郎 定価:200円

第一二号 能久親王事跡(二)森 林太郎 定価:200円

第一三号 能久親王事跡(三)森 林太郎 定価:200円

第一四号 能久親王事跡(四)森 林太郎 定価:200円

第一七号 赤毛連盟 コナン・ドイル 定価:200円

第一八号 ボヘミアの醜聞 コナン・ドイル 定価:200円

第一九号 グロリア・スコット号 コナン・ドイル
月末最終号:無料

第二〇号 暗号舞踏人の謎 コナン・ドイル 定価:200円

第二一号 蝦夷とコロボックルとの異同を論ず 喜田貞吉
定価:200円

第二二号 コロポックル説の誤謬を論ず 上・下 河野常吉
定価:200円
第二三号 慶長年間の朝日連峰通路について 佐藤栄太
月末最終号:無料
第二四号 まれびとの歴史/「とこよ」と「まれびと」と 折口信夫  定価:200円

第二五号 払田柵跡について二、三の考察/山形県本楯発見の柵跡について 喜田貞吉  定価:200円
第二六号 日本天変地異記 田中貢太郎 定価:200円
第二七号 種山ヶ原/イギリス海岸 宮沢賢治 定価:200円

第二八号 翁の発生/鬼の話 折口信夫  月末最終号:無料

第二九号 生物の歴史(一)石川千代松  定価:200円
第三〇号 生物の歴史(二)石川千代松  定価:200円
第三一号 生物の歴史(三)石川千代松  定価:200円
第三二号 生物の歴史(四)石川千代松  月末最終号:無料
第三三号 特集 ひなまつり  定価:200円
 雛 芥川龍之介
 雛がたり 泉鏡花
 ひなまつりの話 折口信夫

第三四号 特集 ひなまつり  定価:200円
 人形の話 折口信夫
 偶人信仰の民俗化並びに伝説化せる道 折口信夫

第三五号 右大臣実朝(一)太宰治  定価:200円
第三六号 右大臣実朝(二)太宰治  月末最終号:無料

第三七号 右大臣実朝(三)太宰治  定価:200円

第三八号 清河八郎(一)大川周明  定価:200円

第三九号 清河八郎(二)大川周明  定価:200円
第四〇号 清河八郎(三)大川周明  月末最終号:無料
第四一号 清河八郎(四)大川周明  定価:200円
第四二号 清河八郎(五)大川周明  定価:200円
第四三号 清河八郎(六)大川周明  定価:200円
第四四号 道鏡皇胤論について 喜田貞吉  定価:200円
第四五号 火葬と大蔵/人身御供と人柱 喜田貞吉  月末最終号:無料
第四六号 手長と足長/くぐつ名義考 喜田貞吉  定価:200円

第四七号 「日本民族」とは何ぞや/本州における蝦夷の末路 喜田貞吉  定価:200円
第四八号 若草物語(一)L. M. オルコット  定価:200円
第四九号 若草物語(二)L. M. オルコット  月末最終号:無料
第五〇号 若草物語(三)L. M. オルコット  定価:200円
第五一号 若草物語(四)L. M. オルコット  定価:200円
第五二号 若草物語(五)L. M. オルコット  定価:200円
第五三号 二人の女歌人/東北の家 片山広子  定価:200円

第三巻 第一号 星と空の話(一)山本一清  月末最終号:無料
  一、星座(せいざ)の星
  二、月(つき)
(略)殊にこの「ベガ」は、わが日本や支那では「七夕」の祭りにちなむ「織(お)り女(ひめ)」ですから、誰でも皆、幼い時からおなじみの星です。「七夕」の祭りとは、毎年旧暦七月七日の夜に「織り女」と「牽牛(ひこぼし)〔彦星〕」とが「天の川」を渡って会合するという伝説の祭りですが、その「天の川」は「こと」星座のすぐ東側を南北に流れていますし、また、「牽牛」は「天の川」の向かい岸(東岸)に白く輝いています。「牽牛」とその周囲の星々を、星座では「わし」の星座といい、「牽牛」を昔のアラビア人たちは、「アルタイル」と呼びました。「アルタイル」の南と北とに一つずつ小さい星が光っています。あれは「わし」の両翼を拡げている姿なのです。ところが「ベガ」の付近を見ますと、その東側に小さい星が二つ集まっています。昔の人はこれを見て、一羽の鳥が両翼をたたんで地に舞いくだる姿だと思いました。それで、「こと」をまた「舞いくだる鳥」と呼びました。

 「こと」の東隣り「天の川」の中に、「はくちょう」という星座があります。このあたりは大星や小星が非常に多くて、天が白い布のように光に満ちています。

第三巻 第二号 星と空の話(二)山本一清  定価:200円
  三、太陽
  四、日食と月食
  五、水星
  六、金星
  七、火星
  八、木星
 太陽の黒点というものは誠におもしろいものです。黒点の一つ一つは、太陽の大きさにくらべると小さい点々のように見えますが、じつはみな、いずれもなかなか大きいものであって、(略)最も大きいのは地球の十倍以上のものがときどき現われます。そして同じ黒点を毎日見ていますと、毎日すこしずつ西の方へ流れていって、ついに太陽の西の端(はし)でかくれてしまいますが、二週間ばかりすると、こんどは東の端から現われてきます。こんなにして、黒点の位置が規則正しく変わるのは、太陽全体が、黒点を乗せたまま、自転しているからなのです。太陽は、こうして、約二十五日間に一回、自転をします。(略)
 太陽の黒点からは、あらゆる気体の熱風とともに、いろいろなものを四方へ散らしますが、そのうちで最も強く地球に影響をあたえるものは電子が放射されることです。あらゆる電流の原因である電子が太陽黒点から放射されて、わが地球に達しますと、地球では、北極や南極付近に、美しいオーロラ(極光(きょっこう))が現われたり、「磁気嵐(じきあらし)」といって、磁石の針が狂い出して盛んに左右にふれたりします。また、この太陽黒点からやってくる電波や熱波や電子などのために、地球上では、気温や気圧の変動がおこったり、天気が狂ったりすることもあります。(略)
 太陽の表面に、いつも同じ黒点が長い間見えているのではありません。一つ一つの黒点はずいぶん短命なものです。なかには一日か二日ぐらいで消えるのがありますし、普通のものは一、二週間ぐらいの寿命のものです。特に大きいものは二、三か月も、七、八か月も長く見えるのがありますけれど、一年以上長く見えるということはほとんどありません。
 しかし、黒点は、一つのものがまったく消えない前に、他の黒点が二つも三つも現われてきたりして、ついには一時に三十も四十も、たくさんの黒点が同じ太陽面に見えることがあります。
 こうした黒点の数は、毎年、毎日、まったく無茶苦茶というわけではありません。だいたいにおいて十一年ごとに増したり減ったりします。

第三巻 第三号 星と空の話(三)山本一清  定価:200円
   九、土星
  一〇、天王星
  一一、海王星
  一二、小遊星
  一三、彗星
  一四、流星
  一五、太陽系
  一六、恒星と宇宙
 晴れた美しい夜の空を、しばらく家の外に出てながめてごらんなさい。ときどき三分間に一つか、五分間に一つぐらい星が飛ぶように見えるものがあります。あれが流星です。流星は、平常、天に輝いている多くの星のうちの一つ二つが飛ぶのだと思っている人もありますが、そうではありません。流星はみな、今までまったく見えなかった星が、急に光り出して、そしてすぐまた消えてしまうものなのです。(略)
 しかし、流星のうちには、はじめから稀(まれ)によほど形の大きいものもあります。そんなものは空気中を何百キロメートルも飛んでいるうちに、燃えつきてしまわず、熱したまま、地上まで落下してきます。これが隕石というものです。隕石のうちには、ほとんど全部が鉄のものもあります。これを隕鉄(いんてつ)といいます。(略)
 流星は一年じゅう、たいていの夜に見えますが、しかし、全体からいえば、冬や春よりは、夏や秋の夜にたくさん見えます。ことに七、八月ごろや十月、十一月ごろは、一時間に百以上も流星が飛ぶことがあります。
 八月十二、三日ごろの夜明け前、午前二時ごろ、多くの流星がペルセウス星座から四方八方へ放射的に飛びます。これらは、みな、ペルセウス星座の方向から、地球の方向へ、列を作ってぶっつかってくるものでありまして、これを「ペルセウス流星群」と呼びます。
 十一月十四、五日ごろにも、夜明け前の二時、三時ごろ、しし星座から飛び出してくるように見える一群の流星があります。これは「しし座流星群」と呼ばれます。
 この二つがもっとも有名な流星群ですが、なおこの他には、一月のはじめにカドラント流星群、四月二十日ごろに、こと座流星群、十月にはオリオン流星群などあります。

第三巻 第四号 獅子舞雑考/穀神としての牛に関する民俗 中山太郎  定価:200円
獅子舞雑考
  一、枯(か)れ木も山の賑(にぎ)やかし
  二、獅子舞に関する先輩の研究
  三、獅子頭に角(つの)のある理由
  四、獅子頭と狛犬(こまいぬ)との関係
  五、鹿踊(ししおど)りと獅子舞との区別は何か
  六、獅子舞は寺院から神社へ
  七、仏事にもちいた獅子舞の源流
  八、獅子舞について関心すべき点
  九、獅子頭の鼻毛と馬の尻尾(しっぽ)

穀神としての牛に関する民俗
  牛を穀神とするは世界共通の信仰
  土牛(どぎゅう)を立て寒気を送る信仰と追儺(ついな)
  わが国の家畜の分布と牛飼神の地位
  牛をもって神をまつるは、わが国の古俗
  田遊(たあそ)びの牛の役と雨乞いの牛の首

 全体、わが国の獅子舞については、従来これに関する発生、目的、変遷など、かなり詳細なる研究が発表されている。(略)喜多村翁の所説は、獅子舞は西域の亀茲(きじ)国の舞楽が、支那の文化とともに、わが国に渡来したのであるという、純乎たる輸入説である。柳田先生の所論は、わが国には古く鹿舞(ししまい)というものがあって、しかもそれが広くおこなわれていたところへ、後に支那から渡来した獅子舞が、国音の相通から付会(ふかい)したものである。その証拠には、わが国の各地において、古風を伝えているものに、角(つの)のある獅子頭があり、これに加うるのに鹿を歌ったものを、獅子舞にもちいているという、いわば固有説とも見るべき考証である。さらに小寺氏の観察は、だいたいにおいて柳田先生の固有説をうけ、別にこれに対して、わが国の鹿舞の起こったのは、トーテム崇拝に由来するのであると、付け加えている。
 そこで、今度は管見を記すべき順序となったが、これは私も小寺氏と同じく、柳田先生のご説をそのまま拝借する者であって、べつだんに奇説も異論も有しているわけではない。ただ、しいて言えば、わが国の鹿舞と支那からきた獅子舞とは、その目的において全然別個のものがあったという点が、相違しているのである。ことに小寺氏のトーテム説にいたっては、あれだけの研究では、にわかに左袒(さたん)することのできぬのはもちろんである。

 こういうと、なんだか柳田先生のご説に、反対するように聞こえるが、角(つの)の有無をもって鹿と獅子の区別をすることは、再考の余地があるように思われる。

第三巻 第五号 鹿踊りのはじまり 宮沢賢治/奥羽地方のシシ踊りと鹿供養 喜田貞吉  月末最終号:無料
鹿踊りのはじまり 宮沢賢治
奥羽地方のシシ踊りと鹿供養 喜田貞吉
  一 緒言
  二 シシ踊りは鹿踊り
  三 伊予宇和島地方の鹿の子踊り
  四 アイヌのクマ祭りと捕獲物供養
  五 付記

 奥羽地方には各地にシシ踊りと呼ばるる一種の民間舞踊がある。地方によって多少の相違はあるが、だいたいにおいて獅子頭を頭につけた青年が、数人立ちまじって古めかしい歌謡を歌いつつ、太鼓の音に和して勇壮なる舞踊を演ずるという点において一致している。したがって普通には獅子舞あるいは越後獅子などのたぐいで、獅子奮迅・踊躍の状を表象したものとして解せられているが、奇態なことにはその旧仙台領地方におこなわるるものが、その獅子頭に鹿の角(つの)を有し、他の地方のものにも、またそれぞれ短い二本の角がはえているのである。
 楽舞用具の一種として獅子頭のわが国に伝わったことは、すでに奈良朝のころからであった。くだって鎌倉時代以後には、民間舞踊の一つとして獅子舞の各地におこなわれたことが少なからず文献に見えている。そしてかの越後獅子のごときは、その名残りの地方的に発達・保存されたものであろう。獅子頭はいうまでもなくライオンをあらわしたもので、本来、角があってはならぬはずである。もちろんそれが理想化し、霊獣化して、彫刻家の意匠により、ことさらにそれに角を付加するということは考えられぬでもない。武蔵南多摩郡元八王子村なる諏訪神社の獅子頭は、古来、龍頭とよばれて二本の長い角が斜めにはえているので有名である。しかしながら、仙台領において特にそれが鹿の角であるということは、これを霊獣化したとだけでは解釈されない。けだし、もと鹿供養の意味からおこった一種の田楽的舞踊で、それがシシ踊りと呼ばるることからついに獅子頭とまで転訛するに至り、しかもなお原始の鹿角を保存して、今日におよんでいるものであろう。

第三巻 第六号 魏志倭人伝/後漢書倭伝/宋書倭国伝/隋書倭国伝  定価:200円
魏志倭人伝/後漢書倭伝/宋書倭国伝/隋書倭国伝

倭人在帯方東南大海之中、依山島為国邑。旧百余国。漢時有朝見者、今使訳所通三十国。従郡至倭、循海岸水行、歴韓国、乍南乍東、到其北岸狗邪韓国七千余里。始度一海千余里、至対馬国、其大官曰卑狗、副曰卑奴母離、所居絶島、方可四百余里(略)。又南渡一海千余里、名曰瀚海、至一大国〔一支国か〕(略)。又渡一海千余里、至末盧国(略)。東南陸行五百里、到伊都国(略)。東南至奴国百里(略)。東行至不弥国百里(略)。南至投馬国水行二十日、官曰弥弥、副曰弥弥那利、可五万余戸。南至邪馬壱国〔邪馬台国〕、女王之所都、水行十日・陸行一月、官有伊支馬、次曰弥馬升、次曰弥馬獲支、次曰奴佳�、可七万余戸。(略)其国本亦以男子為王、住七八十年、倭国乱、相攻伐歴年、乃共立一女子為王、名曰卑弥呼、事鬼道、能惑衆、年已長大、無夫壻、有男弟、佐治国、自為王以来、少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人、給飲食、伝辞出入居処。宮室・楼観・城柵厳設、常有人持兵守衛。

第三巻 第七号 卑弥呼考(一)内藤湖南  定価:200円
  一、本文の選択
  二、本文の記事に関するわが邦(くに)最旧の見解
  三、旧説に対する異論
 『後漢書』『三国志』『晋書』『北史』などに出でたる倭国女王卑弥呼のことに関しては、従来、史家の考証はなはだ繁く、あるいはこれをもってわが神功皇后とし、あるいはもって筑紫の一女酋とし、紛々として帰一するところなきが如くなるも、近時においてはたいてい後説を取る者多きに似たり。(略)
 卑弥呼の記事を載せたる支那史書のうち、『晋書』『北史』のごときは、もとより『後漢書』『三国志』に拠りたること疑いなければ、これは論を費やすことをもちいざれども、『後漢書』と『三国志』との間に存する�異(きい)の点に関しては、史家の疑惑をひく者なくばあらず。『三国志』は晋代になりて、今の范曄の『後漢書』は、劉宋の代になれる晩出の書なれども、両書が同一事を記するにあたりて、『後漢書』の取れる史料が、『三国志』の所載以外におよぶこと、東夷伝中にすら一、二にして止まらざれば、その倭国伝の記事もしかる者あるにあらずやとは、史家のどうもすれば疑惑をはさみしところなりき。この疑惑を決せんことは、すなわち本文選択の第一要件なり。
 次には本文のうち、各本に字句の異同あることを考えざるべからず。『三国志』について言わんに、余はいまだ宋板本を見ざるも、元槧明修本、明南監本、乾隆殿板本、汲古閣本などを対照し、さらに『北史』『通典』『太平御覧』『冊府元亀』など、この記事を引用せる諸書を参考してその異同の少なからざるに驚きたり。その�異を決せんことは、すなわち本文選択の第二要件なり。

第三巻 第八号 卑弥呼考(二)内藤湖南  定価:200円
  四、本文の考証
帯方 / 旧百余国。漢時有朝見者。今使訳所通三十国。 / 到其北岸狗邪韓国 / 対馬国、一大国、末盧国、伊都国、奴国、不弥国 / 南至投馬國。水行二十日。/ 南至邪馬壹國。水行十日。陸行一月。/ 斯馬国 / 已百支国 / 伊邪国 / 郡支国 / 弥奴国 / 好古都国 / 不呼国 / 姐奴国 / 対蘇国 / 蘇奴国 / 呼邑国 / 華奴蘇奴国 / 鬼国 / 為吾国 / 鬼奴国 / 邪馬国 / 躬臣国 / 巴利国 / 支惟国 / 烏奴国 / 奴国 / 此女王境界所盡。其南有狗奴國 / 会稽東治
南至投馬國。水行二十日。  これには数説あり、本居氏は日向国児湯郡に都万神社ありて、『続日本後紀』『三代実録』『延喜式』などに見ゆ、此所にてもあらんかといえり。鶴峰氏は『和名鈔』に筑後国上妻郡、加牟豆万、下妻郡、准上とある妻なるべしといえり。ただし、その水行二十日を投馬より邪馬台に至る日程と解したるは著しき誤謬なり。黒川氏は三説をあげ、一つは鶴峰説に同じく、二つは「投」を「殺」の譌りとみて、薩摩国とし、三つは『和名鈔』、薩摩国麑島郡に都万郷ありて、声近しとし、さらに「投」を「敏」の譌りとしてミヌマと訓み、三潴郡とする説をもあげたるが、いずれも穏当ならずといえり。『国史眼』は設馬の譌りとして、すなわち薩摩なりとし、吉田氏はこれを取りて、さらに『和名鈔』の高城郡托摩郷をもあげ、菅氏は本居氏に従えり。これを要するに、みな邪馬台を筑紫に求むる先入の見に出で、「南至」といえる方向に拘束せられたり。しかれども支那の古書が方向をいう時、東と南と相兼ね、西と北と相兼ぬるは、その常例ともいうべく、またその発程のはじめ、もしくは途中のいちじるしき土地の位置などより、方向の混雑を生ずることも珍しからず。『後魏書』勿吉伝に太魯水、すなわち今の�児河より勿吉、すなわち今の松花江上流に至るによろしく東南行すべきを東北行十八日とせるがごとき、陸上におけるすらかくのごとくなれば海上の方向はなおさら誤り易かるべし。ゆえに余はこの南を東と解して投馬国を『和名鈔』の周防国佐婆郡〔佐波郡か。〕玉祖郷〈多萬乃於也〉にあてんとす。この地は玉祖宿祢の祖たる玉祖命、またの名、天明玉命、天櫛明玉命をまつれるところにして周防の一宮と称せられ、今の三田尻の海港をひかえ、内海の衝要にあたれり。その古代において、玉作を職とせる名族に拠有せられて、五万余戸の集落をなせしことも想像し得べし。日向・薩摩のごとき僻陬とも異なり、また筑後のごとく、路程の合いがたき地にもあらず、これ、余がかく定めたる理由なり。

第三巻 第九号 卑弥呼考(三)内藤湖南  月末最終号:無料
  四、本文の考証(つづき)
爾支 / 泄謨觚、柄渠觚、�馬觚 / 多模 / 弥弥、弥弥那利 / 伊支馬、弥馬升、弥馬獲支、奴佳� / 狗古智卑狗
卑弥呼 / 難升米 / 伊声耆掖邪狗 / 都市牛利 / 載斯烏越 / 卑弥弓呼素 / 壱与
  五、結論
    付記
 次に人名を考証せんに、その主なる者はすなわち、「卑弥呼」なり。余はこれをもって倭姫命に擬定す。その故は前にあげたる官名に「伊支馬」「弥馬獲支」あるによりて、その崇神・垂仁二朝を去ること遠からざるべきことを知る、一つなり。「事二鬼道一、能惑レ衆」といえるは、垂仁紀二十五年の記事ならびにその細注、『延暦儀式帳』『倭姫命世記』などの所伝を総合して、もっともこの命(みこと)の行事に適当せるを見る。その天照大神の教えにしたがいて、大和より近江・美濃・伊勢諸国を遍歴し、〈『倭姫世記』によれば尾張・丹波・紀伊・吉備にもおよびしが如し〉いたるところにその土豪より神戸・神田・神地を徴して神領とせるは、神道設教の上古を離るること久しき魏人より鬼道をもって衆を惑わすと見えしも怪しむに足らざるべし、二つなり。余が邪馬台の旁国の地名を擬定せるは、もとより務めて大和の付近にして、倭姫命が遍歴せる地方より選び出したれども、その多数がはなはだしき付会におちいらずして、伊勢を基点とせる地方に限定することを得たるは、また一証とすべし、三つなり。(略)「卑弥呼」の語解は本居氏がヒメコの義とするは可なれども、神代巻に火之戸幡姫児千々姫ノ命、また万幡姫児玉依姫ノ命などある「姫児(ヒメコ)」に同じとあるは非にして、この二つの「姫児」は平田篤胤のいえるごとく姫の子の義なり。「弥」を「メ」と訓(よ)む例は黒川氏の『北史国号考』に「上宮聖徳法王帝説、繍張文の吉多斯比弥乃弥己等(キタシヒメノミコト)、また等已弥居加斯支移比弥乃弥己等(トヨミケカシキヤヒメノミコト)、注云 弥字或当二売音一也」とあるを引けるなどに従うべし。
付記 余がこの編を出せる直後、すでに自説の欠陥を発見せしものあり、すなわち「卑弥呼」の名を考証せる条中に『古事記』神代巻にある火之戸幡姫児(ヒノトバタヒメコ)、および万幡姫児(ヨロヅハタヒメコ)の二つの「姫児」の字を本居氏にしたがいて、ヒメコと読みしは誤りにして、平田氏のヒメノコと読みしが正しきことを認めたれば、今の版にはこれを改めたり。

第三巻 第一〇号 最古日本の女性生活の根底/稲むらの陰にて 折口信夫  定価:200円
最古日本の女性生活の根底
  一 万葉びと――琉球人
  二 君主――巫女
  三 女軍(めいくさ)
  四 結婚――女の名
  五 女の家
稲むらの陰にて
 古代の歴史は、事実の記憶から編み出されたものではない。神人(かみびと)に神憑(がか)りした神の、物語った叙事詩から生まれてきたのである。いわば夢語りともいうべき部分の多い伝えの、世をへて後、筆録せられたものにすぎない。(略)神々の色彩を持たない事実などの、後世に伝わりようはあるべきはずがないのだ。(略)女として神事にあずからなかった者はなく、神事に関係せなかった女の身の上が、物語の上に伝誦せられるわけがなかったのである。
(略)村々の君主の下になった巫女が、かつては村々の君主自身であったこともあるのである。『魏志』倭人伝の邪馬台(ヤマト)国の君主卑弥呼は女性であり、彼の後継者も女児であった。巫女として、呪術をもって、村人の上に臨んでいたのである。が、こうした女君制度は、九州の辺土には限らなかった。卑弥呼と混同せられていた神功皇后も、最高巫女としての教権をもって、民を統べていられた様子は、『日本紀』を見れば知られることである。(略)
 沖縄では、明治の前までは国王の下に、王族の女子あるいは寡婦が斎女王(いつきのみこ)同様の仕事をして、聞得大君(きこえうふきみ)(ちふいぢん)と言うた。尚家の中途で、皇后の下に位どられることになったが、以前は沖縄最高の女性であった。その下に三十三君というて、神事関係の女性がある。それは地方地方の神職の元締めのような位置にいる者であった。その下にあたるノロ(祝女)という、地方の神事官吏なる女性は今もいる。そのまた下にその地方の家々の神につかえる女の神人がいる。この様子は、内地の昔を髣髴(ほうふつ)させるではないか。沖縄本島では聞得大君を君主と同格に見た史実がない。が、島々の旧記にはその痕跡が残っている。(「最古日本の女性生活の根底」より)

第三巻 第一一号 瀬戸内海の潮と潮流(他三編)寺田寅彦  定価:200円
瀬戸内海の潮と潮流
コーヒー哲学序説
神話と地球物理学
ウジの効用
 一体、海の面はどこでも一昼夜に二度ずつ上がり下がりをするもので、それを潮の満干といいます。これは月と太陽との引力のためにおこるもので、月や太陽がたえず東から西へまわるにつれて、地球上の海面の高くふくれた満潮の部分と低くなった干潮の部分もまた、だいたいにおいて東から西へ向かって大洋の上を進んで行きます。このような潮の波が内海のようなところへ入って行きますと、いろいろに変わったことがおこります。ことに瀬戸内海のように外洋との通路がいくつもあり、内海の中にもまた瀬戸がたくさんあって、いくつもの灘に分かれているところでは、潮の満干もなかなか込み入ってきて、これをくわしく調べるのはなかなか難しいのです。しかし、航海の頻繁なところであるから潮の調査は非常に必要なので、海軍の水路部などではたくさんな費用と時日を費やしてこれを調べておられます。東京あたりと四国の南側の海岸とでは満潮の時刻は一時間くらいしか違わないし、満干の高さもそんなに違いませんが、四国の南側とその北側とでは満潮の時刻はたいへんに違って、ところによっては六時間も違い、一方の満潮の時に他のほうは干潮になることもあります。また、内海では満干の高さが外海の倍にもなるところがあります。このように、あるところでは満潮であるのに他のところでは干潮になったり、内海の満干の高さが外海の満干の高さの倍になるところのあるのは、潮の流れがせまい海峡を入るためにおくれ、また、方々の入口から入り乱れ、重なり合うためであります。(「瀬戸内海の潮と潮流」より)

第三巻 第一二号 日本人の自然観/天文と俳句 寺田寅彦  定価:200円
日本人の自然観
 緒言
 日本の自然
 日本人の日常生活
 日本人の精神生活
 結語
天文と俳句
 もしも自然というものが、地球上どこでも同じ相貌(そうぼう)をあらわしているものとしたら、日本の自然も外国の自然も同じであるはずであって、したがって上記のごとき問題の内容吟味は不必要であるが、しかし実際には、自然の相貌がいたるところむしろ驚くべき多様多彩の変化を示していて、ひと口に自然と言ってしまうにはあまりに複雑な変化を見せているのである。こういう意味からすると、同じように、「日本の自然」という言葉ですらも、じつはあまりに漠然としすぎた言葉である。(略)
 こう考えてくると、今度はまた「日本人」という言葉の内容が、かなり空疎な散漫なものに思われてくる。九州人と東北人とくらべると各個人の個性を超越するとしても、その上にそれぞれの地方的特性の支配が歴然と認められる。それで九州人の自然観や、東北人の自然観といったようなものもそれぞれ立派に存立しうるわけである。(略)
 われわれは通例、便宜上、自然と人間とを対立させ、両方別々の存在のように考える。これが現代の科学的方法の長所であると同時に短所である。この両者は、じつは合わして一つの有機体を構成しているのであって、究極的には独立に切り離して考えることのできないものである。(略)
 日本人の先祖がどこに生まれ、どこから渡ってきたかは別問題として、有史以来二千有余年、この土地に土着してしまった日本人が、たとえいかなる遺伝的記憶をもっているとしても、その上層を大部分掩蔽(えんぺい)するだけの経験の収穫をこの日本の環境から受け取り、それにできるだけしっくり適応するように努力し、また少なくも、部分的にはそれに成効してきたものであることには疑いがないであろうと思われる。(「日本人の自然観」より)

第三巻 第一三号 倭女王卑弥呼考(一)白鳥庫吉  定価:200円
 倭人の名は『山海経』『漢書』『論衡』などの古書に散見すれども、その記事いずれも簡単にして、これによりては、いまだ上代における倭国の状態をうかがうに足(た)らず。しかるにひとり『魏志』の「倭人伝」に至りては、倭国のことを叙することすこぶる詳密にして、しかも伝中の主人公たる卑弥呼女王の人物は、赫灼(かくしゃく)として紙上に輝き、読者をしてあたかも暗黒の裡に光明を認むるがごとき感あらしむ。(略)
 それすでに里数をもってこれを測るも、また日数をもってこれを稽(かんが)うるも、女王国の位置を的確に知ることあたわずとせば、はたしていかなる事実をかとらえてこの問題を解決すべき。余輩は幾度か『魏志』の文面を通読玩索(がんさく)し、しかして後、ようやくここに確乎動かすべからざる三個の目標を認め得たり。しからばすなわち、いわゆる三個の目標とは何ぞや。いわく邪馬台国は不弥国より南方に位すること、いわく不弥国より女王国に至るには有明の内海を航行せしこと、いわく女王国の南に狗奴国と称する大国の存在せしこと、すなわちこれなり。さて、このうち第一・第二の二点は『魏志』の文面を精読して、たちまち了解せらるるのみならず、先輩すでにこれを説明したれば、しばらくこれを措(お)かん。しかれども第三点にいたりては、『魏志』の文中明瞭の記載あるにもかかわらず、余輩が日本学会においてこれを述べたる時までは、何人もかつてここに思い至らざりしがゆえに、また、この点は本論起草の主眼なるがゆえに、余輩は狗奴国の所在をもって、この問題解決の端緒を開かんとす。

第三巻 第一四号 倭女王卑弥呼考(二)白鳥庫吉  月末最終号:無料
 九州の西海岸は潮汐満乾の差はなはだしきをもって有名なれば、上に記せる塩盈珠(しおみつたま)・塩乾珠(しおひるたま)の伝説は、この自然的現象に原因しておこれるものならん。ゆえに神典に見えたる彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)と火闌降命(ほのすそりのみこと)との争闘は、『魏志』によりて伝われる倭女王と狗奴(くな)男王との争闘に類せる政治的状態の反映とみなすべきものなり。
 『魏志』の記すところによれば、邪馬台国はもと男子をもって王となししが、そののち国中混乱して相攻伐し、ついに一女子を立てて王位につかしむ。これを卑弥呼となす。この女王登位の年代は詳らかならざれども、そのはじめて魏国に使者を遣わしたるは、景初二年すなわち西暦二三八年なり。しかして正始八年すなわち西暦二四七年には、女王、狗奴国の男王と戦闘して、その乱中に没したれば、女王はけだし後漢の末葉よりこの時まで九州の北部を統治せしなり。女王死してのち国中また乱れしが、その宗女壱与(いよ)なる一小女を擁立するにおよんで国乱定まりぬ。卑弥呼の仇敵狗奴国の男王卑弓弥呼(ヒコミコ)は何年に即位し何年まで在位せしか、『魏志』に伝わらざれば、またこれを知るに由なし。しかれども正始八年(二四七)にこの王は女王卑弥呼と戦って勝利を得たれば、女王の嗣者壱与(いよ)の代におよんでも、依然として九州の南部に拠りて、暴威を逞(たくま)しうせしに相違なし。

第三巻 第一五号 倭奴国および邪馬台国に関する誤解 他 喜田貞吉  定価:200円
倭奴国と倭面土国および倭国とについて稲葉君の反問に答う
倭奴国および邪馬台国に関する誤解
 考古界の重鎮高橋健自君逝(い)かれて、考古学会長三宅先生〔三宅米吉。〕の名をもって追悼の文をもとめられた。しかもまだ自分がその文に筆を染めぬ間にその三宅先生がまた突然逝かれた。本当に突然逝かれたのだった。青天の霹靂というのはまさにこれで、茫然自失これを久しうすということは、自分がこの訃報に接した時にまことに体験したところであった。
 自分が三宅先生とご懇意を願うようになったのは、明治三十七、八年(一九〇四・一九〇五)戦役のさい、一緒に戦地見学に出かけた時であった。十数日間いわゆる同舟の好みを結び、あるいは冷たいアンペラの上に御同様南京虫を恐がらされたのであったが、その間にもあの沈黙そのもののごときお口から、ポツリポツリと識見の高邁なところをうけたまわるの機会を得て、その博覧強記と卓見とは心から敬服したことであった。今度考古学会から、先生のご研究を記念すべき論文を募集せられるというので、倭奴国および邪馬台国に関する小篇をあらわして、もって先生の学界における功績を追懐するの料とする。
 史学界、考古学界における先生の遺された功績はすこぶる多い。しかしその中において、直接自分の研究にピンときたのは漢委奴国王の問題の解決であった。うけたまわってみればなんの不思議もないことで、それを心づかなかった方がかえって不思議なくらいであるが、そこがいわゆるコロンブスの卵で、それまで普通にそれを怡土国王のことと解して不思議としなかったのであった。さらに唐人らの輩にいたっては、それをもって邪馬台国のことなりとし、あるいはただちに倭国全体の称呼であるとまで誤解していたのだった。

第三巻 第一六号 初雪 モーパッサン 秋田 滋(訳)  定価:200円
 長いクロワゼットの散歩路が、あおあおとした海に沿うて、ゆるやかな弧を描いている。はるか右のほうにあたって、エストゥレルの山塊がながく海のなかに突き出て眼界をさえぎり、一望千里のながめはないが、奇々妙々を極めた嶺岑(みね)をいくつとなく擁するその山姿は、いかにも南国へ来たことを思わせる、うつくしいながめであった。
 頭をめぐらして右のほうを望むと、サント・マルグリット島とサント・オノラ島が、波のうえにぽっかり浮かび、樅(もみ)の木におおわれたその島の背を二つ見せている。
 この広い入江のほとりや、カンヌの町を三方から囲んで屹立(きつりつ)している高い山々に沿うて、数知れず建っている白亜の別荘は、おりからの陽ざしをさんさんと浴びて、うつらうつら眠っているように見えた。そしてはるか彼方には、明るい家々が深緑の山肌を、その頂から麓のあたりまで、はだれ雪のように、まだらに点綴(てんてい)しているのが望まれた。
 海岸通りにたちならんでいる家では、その柵のところに鉄の格子戸がひろい散歩路のほうに開くようにつけてある。その路のはしには、もう静かな波がうちよせてきて、ザ、ザアッとそれを洗っていた。――うらうらと晴れわたった、暖かい日だった。冬とは思われない陽ざしの降りそそぐ、なまあたたかい小春日和である。輪を回して遊んでいる子供を連れたり、男となにやら語らいながら、足どりもゆるやかに散歩路の砂のうえを歩いてゆく女の姿が、そこにもここにも見えた。

第三巻 第一七号 高山の雪 小島烏水  定価:200円
 古い雪の上に新雪が加わると、その翌る朝などは、新雪が一段と光輝を放ってまばゆく見える。雪は古くなるほど、結晶形を失って、粒形に変化するもので、粒形になると、純白ではなくなる。また粒形にならないまでも、古い雪に白い輝きがなくなるのは、一部は空気を含むことが少ないからで、一部は鉱物の分子だの、塵芥(じんかい)泥土だのが加わって、黄色、灰色、またはトビ色に変わってしまうからだ。ことに日本北アルプスの飛騨山脈南部などでは、硫黄岳という活火山の降灰のために、雪のおもてが、瀝青(チャン)を塗ったように黒くなることがある。「黒い雪」というものは、私ははじめて、その硫黄岳のとなりの、穂高岳で見た。黒い雪ばかりじゃない、「赤い雪」も槍ヶ岳で私の実見したところである。私は『日本アルプス』第二巻で、それを「色が桃紅なので、水晶のような氷の脈にも血管が通っているようだ」と書いて、原因を花崗岩の※爛(ばいらん)した砂に帰したが、これは誤っている。赤い雪は南方熊楠氏の示教せられたところによれば、スファエレラ・ニヴァリス Sphaerella Nivalis という単細胞の藻で、二本のひげがある。水中を泳ぎまわっているが、またひげを失ってまるい顆粒となり、静止してしまう。それが紅色を呈するため、雪が紅になるので、あまり珍しいものではないそうである。ただし槍ヶ岳で見たのも、同種のものであるや否やは、断言できないが、要するに細胞の藻類であることは、たしかであろうと信ずる。ラボックの『スイス風景論』中、アルプス地方に見る紅雪として、あげてあるのも、やはり同一な細胞藻であった。このほかにアンシロネマ Ancylonema という藻がはえて、雪を青色またはスミレ色に染めることもあるそうであるが、日本アルプス地方では、私はいまだそういう雪を見たことはない。

第三巻 第一八号 光をかかぐる人々[続]『世界文化』連載分(一)徳永 直  月末最終号:無料
 昭和十八年(一九四三)三月のある日、私は“嘉平の活字”をさがすため、東京発鹿児島行きの急行に乗っていた。伴(つ)れがあって、七歳になる甥と、その母親の弟嫁とが、むかいあってこしかけているが、厚狭、小月あたりから、海岸線の防備を見せまいためか、窓をおろしてある車内も、ようやく白んできた。戦備で、すっかり形相のかわった下関構内にはいったころは、乗客たちも洗面の水もない不自由さながら、それぞれに身づくろいして、朝らしく生きかえった顔色になっている……。
 と、私はこの小説だか何だかわからない文章の冒頭をはじめるが、これを書いているのは昭和二十三年(一九四八)夏である。読者のうちには、昭和十八年に出版した同題の、これの上巻を読まれた方もあるかと思うが、私が「日本の活字」の歴史をさがしはじめたのは昭和十四年(一九三九)からだから、まもなくひと昔になろうとしているわけだ。歴史などいう仕事にとっては、十年という月日はちょっとも永くないものだと、素人の私にもちかごろわかってきているが、それでも、鉄カブトに巻ゲートルで、サイレンが鳴っても空襲サイレンにならないうちは、これのノートや下書きをとる仕事をつづけていたころとくらべると、いまは現実の角度がずいぶん変わってきている。弱い歴史の書物など、この変化の関所で、どっかへふっとんだ。いまの私は半そでシャツにサルマタで机のまえにあぐらでいるけれど、上巻を読みかえしてみると、やはり天皇と軍閥におされた多くのひずみを見出さないわけにはゆかない。歴史の真実をえがくということも、階級のある社会では、つねにはげしい抵抗をうける。変わったとはいえ、戦後三年たって、ちがった黒雲がますます大きくなってきているし、新しい抵抗を最初の数行から感じずにいられぬが、はたして、私の努力がどれくらい、歴史の真実をえがき得るだろうか?

第三巻 第一九号 光をかかぐる人々[続]『世界文化』連載分(二)徳永 直  定価:200円
 「江戸期の印刷工場」が近代的な印刷工場に飛躍するためには、活字のほかにいくつかの条件が必要である。第一にはバレンでこするかわりに、鉄のハンドでしめつけるプレスである。第二に、速度のある鋳造機である。第三に、バレン刷りにはふさわしくても金属活字に不向きな「和紙」の改良である。そして第四は、もっともっと重要だが、近代印刷術による印刷物の大衆化を見とおし、これを開拓してゆくところのイデオロギーである。特定の顧客であった大名や貴族、文人や墨客から離脱して、開国以後の新空気に胎動する平民のなかへゆこうとする思想であった。
 苦心の電胎字母による日本の活字がつくれても、それが容易に大衆化されたわけではない。のちに見るように「長崎の活字」は、はるばる「東京」にのぼってきても買い手がなくて、昌造の後継者平野富二は大童(おおわらわ)になって、その使用法や効能を宣伝しなければならなかったし、和製のプレスをつくって売り広めなければならなかったのである。つまり日本の近代的印刷工場が誕生するためには、総合的な科学の力と、それにもまして新しい印刷物を印刷したい、印刷することで大衆的におのれの意志を表現しようとする中味が必要であった。たとえばこれを昌造の例に見ると、彼は蒸汽船をつくり、これを運転し、また鉄を製煉し、石鹸をつくり、はやり眼を治し、痘瘡をうえた。活字をつくると同時に活字のボディに化合すべきアンチモンを求めて、日本の鉱山の半分くらいは探しまわったし、失敗に終わったけれど、いくたびか舶来のプレスを手にいれて、これの操作に熟練しようとした。これらの事実は、ガンブルがくる以前、嘉永から慶応までのことであるが、同時に、昌造が活字をつくったとき最初の目的が、まずおのれの欲する中味の本を印刷刊行したいことであった。印刷して、大名や貴族、文人や墨客ではない大衆に読ませたいということであった。それは前編で見たように、彼が幕府から捕らわれる原因ともなった流し込み活字で印刷した『蘭語通弁』〔蘭和通弁か〕や、電胎活字で印刷した『新塾余談』によっても明らかである。

第三巻 第二〇号 光をかかぐる人々[続]『世界文化』連載分(三)徳永 直  定価:200円
 第一に、ダイアはアルファベット活字製法の流儀にしたがって鋼鉄パンチをつくった。凹型銅字母から凸型活字の再生まで嘉平や昌造と同様であるが、字画の複雑な漢字を「流しこみ」による鋳造では、やさしくないということを自覚していること。自覚していること自体が、アルファベット活字製法の伝統でそれがすぐわかるほど、逆にいえば自信がある。
 第二は、ダイアはたとえば嘉平などにくらべると、後に見るように活字製法では「素人」である。嘉平も昌造も自分でパンチを彫ったが、そのダイアは「労働者を使用し」た。(略)
 第三に、ダイアの苦心は活字つくりの実際にもあるが、もっと大きなことは、漢字の世界を分析し、システムをつくろうとしていることである。アルファベット人のダイアは、漢字活字をつくる前に漢字を習得しなければならなかった。(略)
 さて、ペナンで発生したダイア活字は、これから先、どう発展し成功していったかは、のちに見るところだけれど、いまやパンチによる漢字活字が実際的に誕生したことはあきらかであった。そして、嘉平や昌造よりも三十年早く。日本では昌造・嘉平の苦心にかかわらず、パンチでは成功しなかった漢字活字が、ダイアによっては成功したということ。それが、アルファベット人におけるアルファベット活字製法の伝統と技術とが成功させたものであるということもあきらかであった。そして、それなら、この眼玉の青い連中は、なんで世界でいちばん難しい漢字をおぼえ、活字までつくろうとするのか? いったい、サミュエル・ダイアなる人物は何者か? 世界の同志によびかけて拠金をつのり、世界三分の一の人類の幸福のために、と、彼らは、なんでさけぶのか? 私はそれを知らねばならない。それを知らねば、ダイア活字の、世界で最初の漢字鉛活字の誕生したその根拠がわからぬ、と考えた。

第三巻 第二一号 光をかかぐる人々[続]『世界文化』連載分(四)徳永 直  定価:200円
 アジアには十六世紀を前後して銅活字の時代があり、朝鮮でも日本でもおこなわれている。秀吉の朝鮮侵略のみやげものに端を発している家康・家光時代の銅活字印刷があるけれど、それにくらべると、このさし絵に見る康熙帝の印刷局ははるかに大規模で組織的であることがわかる。しかし、日本でも『お湯殿日記』に見るような最初の文選工は「お公卿たち」であったが、支那でもあごひげの長い官人たちであった。明治になって印刷術が近代化されてからでも、印刷工業をおこした人々の多くが、武家など文字になじみのある階級だったように、私の徒弟だったころの先輩の印刷工の多くが、やはり士族くずれだったことを思い出す。(略)
 武英殿の銅活字は康熙帝の孫、高宗〔乾隆帝〕の代になるとつぶされて銅貨となった。日本でも家康時代の銅活字は同じ運命をたどっているけれど、支那のばあいは銅貨の不足が原因といわれている。しかし、もっと大きな原因は金属活字にあって、漢字組織ができないならば、またプレス式の印刷機もないとするならば、むしろ手わざの発達による木版の方が容易であり便利であった。ボディが銅であれ鉛であれ、それが彫刻に過ぎないならば、むしろ木版にしくはない。銅活字がほろびて再び木版術が栄え、極彩色の芸術的な印刷物もできるようになった。康熙・乾隆の時代に見られるこの傾向は、十七世紀の終わりから十八世紀のなかほどまでであるが、江戸中期から木版術が再興し、世界にたぐいない木版印刷術を生み出した日本と時間的にもほぼ一致している――ということも、漢字が持つ共通の宿命がするわざであったろう。

第三巻 第二二号 光をかかぐる人々[続]『世界文化』連載分(五)徳永 直  月末最終号:無料
 『東洋文化史上におけるキリスト教』(三六二ページ)で溝口靖夫氏は、前に述べたメドハーストが(Ibid, P.366)自分の当時の経験を追懐した文章を根拠にして、つぎのように述べているところがある。――第五の困難は、アヘン問題と宣教師の関係であった。メドハーストが広東に着いた一八三五年は、アヘン戦争の直前であり、支那と英国のあいだに険悪な空気がみなぎっていた。このときにあたって宣教師たちは、きわめて困難なる立場に置かれた。宣教師たちは、しばしばアヘンを積んだ船に乗ってきた。しかも、メドハーストらは切符は買っているが、積荷について容嘴(ようし)する権利はなかった。……宣教師は、英国人と支那人との間に立って、しばしば通訳の労をとらねばならなかったが、こんなとき支那人はアヘン貿易は正義にかなえるものなりや否や? をただすのであった。……ゆえに当時、宣教師たちのこいねがったのは、一艘の伝道用船を得ることであった。これによりアヘンの罪悪からまぬがるることであった。――一艘の伝道船で、アヘンから逃れることはできないけれど、一口にいって「インドからの手紙」は、英国議会をして宣教師らの活動を保証させる決議案をパスさせながら、こんどは「信教の自由憲章」を勝ち取らねばならぬほどそれが首かせになったことを示している。つまり、産業革命が生み出したアルファベット人種の革命的進歩性は、おなじ産業革命が生み出した「アヘンの罪悪」と衝突しなければならなかったが、この矛盾こそ資本主義の矛盾の中味であり、限界であった。

第三巻 第二三号 銀河鉄道の夜(一)宮沢賢治  定価:200円
「ですから、もしもこの天の川がほんとうに川だと考えるなら、その一つ一つの小さな星はみんなその川のそこの砂や砂利の粒にもあたるわけです。またこれを大きな乳の流れと考えるなら、もっと天の川とよく似ています。つまりその星はみな、乳のなかにまるで細かにうかんでいる脂油(あぶら)の球にもあたるのです。(略)」
 先生は中にたくさん光る砂のつぶの入った大きな両面の凸レンズをさしました。
「天の川の形はちょうどこんななのです。このいちいちの光るつぶが、みんな私どもの太陽と同じようにじぶんで光っている星だと考えます。私どもの太陽がこのほぼ中ごろにあって地球がそのすぐ近くにあるとします。みなさんは夜にこのまん中に立ってこのレンズの中を見まわすとしてごらんなさい。こっちの方はレンズが薄いので、わずかの光る粒、すなわち星しか見えないのでしょう。こっちやこっちの方はガラスが厚いので、光る粒すなわち星がたくさん見え、その遠いのはボウッと白く見えるという、これがつまり今日の銀河の説なのです。そんならこのレンズの大きさがどれくらいあるか、また、その中のさまざまの星についてはもう時間ですから、この次の理科の時間にお話しします。では今日はその銀河のお祭りなのですから、みなさんは外へ出て、よく空をごらんなさい。ではここまでです。本やノートをおしまいなさい。
 そして教室じゅうはしばらく机のふたをあけたりしめたり本をかさねたりする音がいっぱいでしたが、まもなく、みんなはきちんと立って礼をすると教室を出ました。 

第三巻 第二四号 銀河鉄道の夜(二)宮沢賢治  定価:200円
 そのとき汽車はだんだんしずかになって、いくつかのシグナルと転轍器(てんてつき)の灯をすぎ、小さな停車場に止まりました。
 その正面の青じろい時計はかっきり第二時を示し、その振子は、風もなくなり汽車も動かずしずかなしずかな野原のなかに、カチッカチッと正しく時をきざんで行くのでした。
 そしてまったくその振子の音の間から遠くの遠くの野原のはてから、かすかなかすかな旋律が糸のように流れてくるのでした。「新世界交響楽だわ。」むこうの席の姉がひとりごとのようにこっちを見ながらそっと言いました。まったくもう車の中ではあの黒服の丈高い青年も誰もみんなやさしい夢を見ているのでした。
(こんなしずかないいところで僕はどうしてもっと愉快になれないだろう。どうしてこんなにひとりさびしいのだろう。けれどもカムパネルラなんかあんまりひどい。僕といっしょに汽車に乗っていながら、まるであんな女の子とばかり話しているんだもの。僕はほんとうにつらい。)
 ジョバンニはまた両手で顔を半分かくすようにして、むこうの窓の外を見つめていました。
 透きとおったガラスのような笛が鳴って、汽車はしずかに動き出し、カムパネルラもさびしそうに星めぐりの口笛をふきました。

第三巻 第二五号 ドングリと山猫/雪渡り 宮沢賢治  定価:200円
 空が青くすみわたり、ドングリはピカピカしてじつにきれいでした。
「裁判ももう今日で三日目だぞ、いい加減になかなおりをしたらどうだ。」山ねこが、すこし心配そうに、それでもむりに威張(いば)って言いますと、ドングリどもは口々にさけびました。
「いえいえ、だめです、なんといったって頭のとがってるのがいちばんえらいんです。そしてわたしがいちばんとがっています。
「いいえ、ちがいます。まるいのがえらいのです。いちばんまるいのはわたしです。
「大きなことだよ。大きなのがいちばんえらいんだよ。わたしがいちばん大きいからわたしがえらいんだよ。
「そうでないよ。わたしのほうがよほど大きいと、きのうも判事さんがおっしゃったじゃないか。
「だめだい、そんなこと。せいの高いのだよ。せいの高いことなんだよ。
「押しっこのえらいひとだよ。押しっこをしてきめるんだよ。」もうみんな、ガヤガヤガヤガヤ言って、なにがなんだか、まるで蜂の巣をつっついたようで、わけがわからなくなりました。そこで山猫がさけびました。
「やかましい! ここをなんとこころえる。しずまれ、しずまれ!」

第三巻 第二六号 光をかかぐる人々[続]『世界文化』連載分(六)徳永 直  定価:200円
 活字が日本に渡るには、他の条件が必要であった。そして、その他の条件のうちもっとも大きなものは、やはり文久二年・一八六二年の日本幕府がはじめてやった貿易船千歳丸の上海入港であったろう。(略)経済的にいえばこの貿易は失敗したけれど、不馴れな幕府の役人たちは積荷をそのまま持ち戻るはめにもなったけれど、オランダの役人につれられて各国の領事たちにあったり、諸外国人の活動ぶりを見てびっくりした。たとえばこれを便乗者・高杉一人の場合に見てもあきらかである。(略)その後二年あまりで、攘夷の中心長州藩が領民に洋品使用の禁を解き、薩摩や佐賀と前後して海外貿易を営なんだ急角度の転回も、したがって「薩長締盟」を可能にした思想的背景も、このときの千歳丸便乗によって彼が上海で感得したものによるところ、はなはだ多いといわれている。
 (略)第一回の千歳丸のときは高杉のほかに中牟田や五代〔五代友厚か。〕や浜松藩の名倉(なぐら)予可人(あなと)などあったが、第二回の健順丸のときは、前巻でなじみの昌造の同僚で長崎通詞、安政開港に功労のあった森山多吉郎、先の栄之助がいまは外国奉行支配調役として乗り組んでいたし、第三回目、慶応三年(一八六七)の同じく幕府船ガンジス号のときは、佐倉藩士高橋作之助〔猪之助か。(のちの由一)ら多数があり、たび重なるにつれて上海渡航者の数は急速に増えていった。(略)
 また、官船以外の密航者、あるいは藩所有の船修理と称して渡航する者もたくさんあった。(略)さては中浜万次郎を案内に立てて汽船を買いに来た土佐藩の後藤象次郎などと、千歳丸以後は「きびす相ついで」いる(略)。

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