光をかかぐる人々[続]
『世界文化』連載分(六)
十六
アジアの近代的な鋳造の漢字活字は、ペナンで生まれた。生んだ背景はヨーロッパの産業革命であり、生み出したのは新教プロテスタントの宣教師たちであった。私は『上海行日記』で、
それで、それならペナンの漢字活字は、その後どういうふうにして南方から支那本土へ
つまり一八四二年には、ペナンから香港までダイア活字はのぼってきたが、大事なことが広東時代にある。アメリカ人ブリッジマンが一八三〇年、広東へ来て『支那叢報』を創刊したことと、同じ一八三〇年にロバート・ウィリアムスが広東へ来たことである。ウィリアムスはモリソンの息子で、父親の意志により「支那伝道の印刷者」になれるよう、幼いころからロンドンの印刷工場で印刷術の修業をしていたのであった。父親は一人前の修業をつんだ
そこでダイア活字が、広東・香港へと来て、しだいに発展・実用化されてきたが、さて、それからが私にわからない。ダイアは一八四二年のこの年に死んでいるが、上海へはどうしてのびていったか? また、ダイア活字がそのまま未完成の形で上海へ流れこんでいったのかどうか? もっとも、これを人間の動き、宣教師たちの動きだけで見れば、たとえば、前に見た宣教師であり医者であったロンドン・ミッショナリー・ソサエティ所属のW・ロカートは一八三八年、広東にきて、一八四〇年には英軍が占領していた
私はまた、この関所にひっかかったまま、昭和十八年(一九四三)の前半をすごしてしまわなければならなかったが、ある日、思いがけなく上海から手紙がきた。昭和十七年の暮れに出した私の手紙、読者からの質間に答えて、
――漢字の金属活字――外人による漢字の金属活字の発明は、一八一五年、マカオの東インド会社事務所において、トムス(P. P. Thoms)がモリソンの辞書印刷のため、なしとげました。この辞書第一巻は一八一七年出版。このための金属活字は、その後マカオ・マラッカおよびセラムポールの三か所で使用されましたが、『支那叢報』記事にあるとおり、一八二七年ペナンへ来たダイア(Samuel, Dyer)の六か年の苦心、改良研究により一八三三年には一万四千字の字母ができ、小型のものも製造されはじめ、のち一八五九年コール(Richard, Cole)により完成されました。
ギャンブル――(William, Gamble)一八五九年に来任して改良型の字母や印刷機をもたらし、翌年一八六〇年十二月、印刷所を上海に移転して拡充しました。当時“Electrotype, Founding of Matrics”を採用し二種の新漢字活字を持ち、日本文字の活字(小型)も有していました。日本文字というのは四十八の仮名文字のことと思われます。
ギャンブルは、アイルランド生まれの米国移民、一八六九年、日本へ来て本木 昌造 に協力しました。その後、Sheffield, Scientibis, School および Yale callege からA・Mの学位を贈られ、薬学の研究にも従事したことがあり、パリでしばらく暮らしたこともあり、一八八六年ころペンシルバニアの某地で死亡いたしました。
上海美華書館は一八六二年、拡張移転、シリンダープレスを採用、一年後、年産一四〇〇万ページ。ヘボン・吟香 らは一八六六年、上海に来 たり、美華書館で辞書を印刷。(別送『滬上史談』参照)印刷当時の動静は、吟香の手紙(慶応三年(一八六七)正月二十三日付、川上 冬崖 あて)で、わかります。これは土方 定一 著『近代日本洋画史』(昭和十六年(一九四一)) に全文あり。(中略)
美華書館史には“The Mission Press In China l895”という小冊子があります。日本文字についての記述はきわめて僅少 です。(以下略)――
以上、
手紙のうちの第一のこと、マカオ、マラッカおよびセラムポールの三か所で使用せられた彫刻活字のことは前にたびたび述べたように、読者もすぐわかるところのものだが、これがP・P・トムスという人によって作られたということが新たに記憶さるべきことであった。第二のダイアの活字が「一八三三年には、一万四千の字母ができ、小型のものも製造されはじめ」
しかし、あとに続く文章で、まるでわからないことはない。一八四四年にパリでつくった漢字々母でマカオに印刷所をおこし、三二三個の漢字で仕事をはじめたが、翌年にはダイア活字を採用している。パリ産の漢字々母と、ア・ヨークというアメリカ名前しかわからない支那少年印刷工と、その何年以前かに、この支那少年をアメリカへつれていった Onr という、手紙の字をいくら見ても、Oとnとrとしか読めない、私にわからぬ、たぶんアメリカ人らしい人物などの、つまりダイアをイギリス系統とすれば、これはアメリカ系統の漢字印刷努力の集積がここで結合したということである。
コールの「完成」は一八五九年というから、イギリス系統とアメリカ系統の結合の一八四五年から十五年目ということになるが、具体的には何をさすか? 手紙にあるように、
第四は、日本の活字にとってもっとも歴史的な美華書館の歴史とアメリカ人宣教師ウィリアム・ギャンブルの素性があきらかになったことであった。さらに第五は、一八六〇年に“Electrotype, Founding of Matrices”つまり、電胎字母を採用したことと、一八六二年にアジアではじめてシリンダー・プレスを採用したことであった。電気分解による字母製法は、漢字活字製法にいっさいの解決を与えた歴史的なものであるけれど、シリンダー・プレスの採用も印刷歴史にとって革命的なものであった。回転動力は人間の手、ガス、石炭などをへて電動機となるまでは、日本でも、この以後、半世紀を費やしているけれど、回転胴による印刷法はアジアではバレンでこする式、西洋では
そして最後に第六は、ダイア活字がアメリカ系統と結合して香港から
そこで当然、私はリチャード・コールという人物について述べねばなるまい。いまや私の頭には、P・P・トムスや、ウォーター・ローリィをのぞいても、ダイア―
さてしかし、ここまでくれば誰しも気がつくことであろうと思うが、ペナンで生まれて広東、香港までせりあがったダイア活字がこんどは一挙に、
アヘン戦争は、
十七
アヘン戦争によって割譲された香港とヴェールがはぎとられた上海とが、一八四二年以後をどう変化していったか?
「―
ロシアの作家ゴンチャロフが『日本渡航記』にこう書いたのは一八五三年の六月だから、アヘン戦争後ちょうど十年目だ。
しかし、この熱病の巣である岩塊が「極東における商業上の重鎮」となるためには、
そして一八六六年には香港住民の死亡率が二%にくだり、一八四五年に香港へ入港した商船の数一六八隻が、一八六八年には二万七五〇〇隻に上昇し、
そこで、イギリス自身は決してしゃべらない一八五三年当時の香港島を、いま一度、ゴンチャロフに語らせてみよう。
それでは一つ、開港後の上海はどうであったろう? 南京条約成立の最初の年に、イギリス人は二十五人しかいなかった。彼らはみな上海城内に住んでいたが、将来の発展をみこして城外の土地を買いつけた。その値段が一
一八四五年になって上海道台と初代英領事との間に土地
一八四六年にはアメリカが、一八四八年にはフランスが、というふうに、上海はたちまちアルファベットの声におおわれていった。開港翌年八五八四トンが、五年後には五万二四七四トンのヨーロッパ船が入港するようになり、そして輸入品の五分の三までが、あいかわらずアヘンであった。
この偉大なる作家が上海に上陸したのは一八五三年の十一月で、香港を訪れてから五か月目である。上海に関する外国人の紀行文がどれくらいあるか私にわからぬけれど、
「支那人は活動的な民族である。仕事をしてない人間はほとんどない。その騒音、混雑、動き、さけび、話し声。一歩ごとに
ゴンチャロフのこの観察は、アジア人である私らが見るとき、逆にいえばそれは当時のロシア人気質を裏写しにしているようなものだけれど、これ以上のすぐれた観察は、おそらく一世紀後の今日にもないであろう。そして勤勉で、従順で、
おのれ自身をさえ「登場人物」とすることのできる眼で見たこの数行によって、はじめて当時の上海風景が、一世紀後の私らに遺憾なく伝えられたのだといえよう。
私らは、これ以上ロシア作家をわずらわさなくてもよいだろう。まさに一八五三年代の上海は、このとおりであった。香港をだんごのようにこねあげた同じ力は、上海を開港十年目にすでにアジアにおける最大の国際都市にしてしまったのであった。マンチェスターの、ニューヨークの、リオンの「
最初の
「―
「上海で私は支那語の本を三冊買った。
前巻で見たように、江戸と長崎と函館とを開かせたプーチャチンの艦隊について日本にやってきた、この帝政ロシアの九等官は、長崎でカタカナの流しこみ活字など作っていた、まだ若い小通詞の「昌造」にたびたび
十八
ほんとに、活字は活字だけで独立に成長することはできなかった。ダイア―
活字が日本に渡るには、他の条件が必要であった。そして、その他の条件のうちもっとも大きなものは、やはり文久二年・一八六二年の日本幕府がはじめてやった貿易船千歳丸の上海入港であったろう。開港後からは二十年目、ゴンチャロフの上海からは九年目にあたるが、長崎からは海上七〇〇キロそこらの地点で、日ごとに成長しつつあった近代文明から、ふた
「日本はこのたび、日進月歩の今の時勢にまったく応わしく、一つの興味ある観物を商界に展示した。日本国旗をかかげた英国製帆船の過日の上海入港は、それだけでもはなはだ注目に値する事件である。ところがさらにこの船は、同国政府の手で買上げられた官有船であるばかりでなく、海外貿易の目的の下に、同国の特産物や製造品を積んできているということがわかった。これは、この特異な国民の排外国策の上に、まったく新しい光を投げかけるものである。―
という文句は、千歳丸の上海到着後五日目、一八六二年六月七日付の『字林西報』
しかし、この最初の貿易船千歳丸上海入港がどんなに大きな意味を持つかは、明治維新史の研究が深まるにつれてますます史家の強調するところだ。経済的にいえばこの貿易は失敗したけれど、
「五月二十日、朝、
一八六〇年代の上海は、アジアにおける近代文明の中心地であった。
また、官船以外の密航者、あるいは藩所有の船修理と称して渡航する者もたくさんあった。たとえば長州藩の伊藤俊助〔俊輔、伊藤博文か。
そして藩の大小にかかわらず、彼らの多くが武器の買い入れにきたのも、もちろんであった。幕末艦船・銃砲などの輸入港は、おもに長崎・横浜・兵庫などになっているけれど、幕府を先頭として各藩競争の勢いであったから、しぜん上海まで押し出したのだともいわれる。
そして吟香と正名の上海渡航が、ダイア活字の後身であるガムブルの電胎活字が上海から長崎へ渡来するため水先案内として歴史的な意味を持つものであった。吟香も正名もそれぞれに独立に行動しているし、ギャンブルと昌造を結びつける直接の機縁とはなっていないのだけれど、それは上海にあってはじめて日本文字、つまりこの場合カタカナの電胎活字を作らせ、日本人自身の意志によって使用したというほどの事実だけれども、日本印刷史上じゅうぶんにページを占めるほどの事柄であった。同時にまた文久二年(一八六二)以来日本人の上海往来として見れば、その多くが大小藩の直接・間接の政治的・経済的使命をおびて渡航する者であったり、個人的な場合にも、それがいたってロマンチックな画家文人の漂泊であったのにくらべると、これはだいぶ毛色が変わって文化的な性質を持っていた。吟香は武士でもなければ、いわゆる文人墨客でもなかった。前田は薩摩の藩士であったが、脱藩以後は扶知をはなれた一青年でしかなく、しかもいわゆる「志士」とちがって何の背景も持っていなかった。周知のように、前者はヘボン博士の助手として「ヘボン辞書」
つまり、幕末の上海渡航も、吟香・正名らにいたって、高杉らのそれとくらべるときは、わずか四、五年の差でありながら、急速な質的変化があるわけであったが、しかしいずれにもしろ、記録にみる当時の上海在住の日本人は少数で、たとえば次のような岸田の上海日記に見ても様子がわかる。
「二十一日(慶応三年三月)
「二十四日、てんき、おおよし、よつじぶんにぶらりと出て、どこへいこうかとおもいながら、河岸を南へすたすたあるくに、ふと軋位仏の
弘光は八戸善三郎のことで、
しかしここで大切なことは、上海の文化を日本の長崎や横浜に導いた人々が、記録にもあきらかな以上の人たちだけではなかったということである。それは、長崎にもどれば奉行の手によって暗い所に入れられねばならぬたくさんの漂流民、それから外人や支那人に買われた多くの男女、あるいは密航者たちであって、表向きにも裏向きにも藩とか幕府とかの庇護も何もない人々が、記録に残るよすがもないままに、文化の歴史を進める大きな土台石になっていただろうということである。そういう人々は、きっと吟香の日記に見るような、何の某がどこそこの旅館にいるという存り方ではなかったであろうし、記録にないものは叙述のしようもないけれど、たとえば明治元年、つまり慶応四年・一八六八年の上海に「田代屋」という長崎出の日本商人があって、日本婦女子のための小間物を売っていたと『滬上史談』
浅草材木町の徳助、小田原在天坪村の七之丞が船乗りだったろうことは、その建立者たちによっても想像できるところだが、記録に残っている漂流民、尾張の音吉そのほかも当時の上海に生存しているはずであった。彼らがたまたま記録に残った機縁は、たとえば天保六年・一八三五年、前巻で見たように「モリソン号」で送還されようとしたからで、尾張の船乗り音吉・久吉・岩吉ほか数人、また肥後の漁民庄蔵・寿三郎・力松など、
漂流民の多くが故国に帰れなかったことは「じゃがたら文章」以来有名なところであった。肥後の力松連中も尾張の音吉の連中も、ついに恋しい日本へもどされた形跡はない。モリソン号で追いもどされた音吉は安政元年、再度長崎へ来たとき「その中の一人は、同じく日本語にて
漂流民についての研究は、史学の間でもまだ未開拓の分野だとされているそうだが、
もちろん「二人の日本人労働者」が音吉たちであるかどうかはわからない。音吉たちの漂流は天保二年・一八三一年で、
広東の『支那叢報』印刷所にいた日本人が、マラッカの英華学堂印刷所にいた「二人の日本人労働者」と同一かどうか私にはわからない。またメドハーストの『和英語彙』の日本文字がどんなものであったか、木彫か金属彫刻か知るよしもない。しかし前掲『上海史話』の著者は手紙の一節で、コールの後任ギャンブルが来任してから、
十九
しかしまた上海で、岸田吟香がカタカナの種字を作って、日本文字活字をふたたび誕生させたということは、一方から見ると、決して偶然ではなかった。周知のように吟香は元治元年(一八六四)にジョゼフ彦(浜田彦太郎)らと“新聞紙”を発行した。
「予が“新聞紙”を刊行したるは元治元年(一八六四)にして、これを刊行せんと
いわば漂流民ジョゼフ彦の知識を通じた
したがって「姜先生と申す人はあめりか人にてぎやんぶると申しますが、この人美華書館の主人(七、
書簡の文章は残念にも“不明”が多いが、大意を判ずるには充分だ。
さて岸田吟香がヘボン博士夫妻に伴われて上海にきた一八六六年十月ごろの美華書館はどんな所で、どれほどの印刷能力を有したか、またどういうふうに整版され、吟香自身どういうふうに働いたろうか? 残念ながら私は、吟香の上海日記全体を見る機会をいまだに持つことができない。
「なにさま、印刷場は寺の下にあったということだ。吟香らは二階に住んでな、うむ」
昭和十八年(一九四三)の二月、ある寒い日の午後、まだ在世中だった『明治事物起原』の著者を
「―
コタツに背をまるくしながら、
「うむ、まあ、どうやら、この冬も
「ヘボン辞書」から「サツマ辞書」の話もしてくれながらそんなこともいった。
「ああ、きみは『太陽のない街』を書いたんだね」
コタツにもどってまだ呼吸をはずませていたが、もう帰るころになってから
「どうりで、聞いたような、名だと思った―
しかし、石井研堂氏はとうとう、その「冬が
「寺」というのは教会のことで、
次に日本文字まじりの「ヘボン辞書」が毎日どれくらい整版されたか? 吟香はどんなふうに働いたか? を知るためには『滬上史談』におもしろい記事がある。それはこの著者が一八七三年三月二十日(明治六年)のノース・チャイナ・ヘラルド紙から、ブラムゼンという人が「ヘボン辞書」に誤植や見落としが非常に多いという批評を加えたについて当時の美華書館主マティーア(ギャンブルの後任)という人が、印刷者としての責任上から答えている、その文章を翻訳したものだ。
「本紙十三日号に『和英語林集成』に対する批評が出た以上、同書印刷当時の事情を発表するのが正しいと思う。著者ヘボン博士はみずから全部の校正を見られた。したがって印刷上の間違いでも、その他どのような間違いでも、その責任はヘボン博士にあって美華書館にはない。ヘボン博士の校正は次のような事情でなされた。この校正を開始するとすぐ博士の日本語教師は去ってしまった。そしてその代理の者は辞書が完成するまで働いたが、ほんの小僧程度で、したがってはなはだ正確とは申し
この文章は全体として印刷者が責任から逃れるために強弁しているの傾きがあり、罪の多くを「小僧」吟香に押しつけすぎているきらいもあるが、何にしても一日八ページの割合で校了にまでしたとすれば、ヘボン博士夫妻が病気だとすると、一人の校正者ではあきらかに無理であった。
「右のようにヘボン夫妻とも病気であったので、仕事の大部分は吟香にかかってきた。
吟香が「小僧」であったか、なかったか? 吟香はこのとき三十五歳であるが、四十前後と思われるころの彼の洋服姿の写真を見ると、
さらにこれより一年後に「サツマ辞書」を印刷した、当時の前田正名の日記(前田三介『社会および国家』昭和十二年(一九三七)四月号所載「上海日記」)に見ると、
閏四月三日
(前略)夫より下船いたしガアンボル(ギャンブルのこと)のところへようやくにたずね行き候ところ、ソンデイにて客人これあり、一刻相はなし候て、夕刻七ツ時分まで寛談いたし、じつに丁寧 なることにて、明日林方へ書状為持候様可致段うけたまわり候。西洋料理にわれわれ上席にて馳走これあり候。そののち寺へ友朋と差し越し候、われわれどもは亭主はボイを連越六ツ過まで町など見物いたし、じつに聞きしにまさり手広 にこれあり候。もっとも異人の宅は長崎より比較すれば、大変これあり、異国に差し越し候おもいをなし、立派に作りたり。少々の用事はボイに漢文をもって筆談いたし候(略)」
というのが正名の上海上陸第一日の印象であるが、閏四月三日はまだ改元前の慶応四年である。林というのは何人かあきらかにしないが、後続するところから見ると支那人で、印刷工場の支配人か職長かと思われる。
閏四月四日
(前略)一、書籍出版のありさま致談判候ところ、本書はなはだ誤謬 これあり、かつ英字にてこれなき字過分これあり候につき、自分誤りをわれわれどもに致相談しても可然候 えども、なかなか閑暇 これなきにつき、ウリヤムスと申す者当地にまかりおり候につき、われわれどもを連れ越しよく談判いたし候て可然候半と存じ候。この人は和語にも通じ候につき、旁々以都合宜敷 と申すことに候。明日林も同道、ウリヤムス処へ差し越し筋に取究置候。」
正名らの辞書出版の目的が、海外留学の費用を得ようためであったことも前巻で見たとおりであるが、
そして、
「一、何千部出来可致哉と相尋につき、二四〇〇部こしらえ度段申し述べ候ところ、可致段うけたまわり相当。
一、一部何ドルばかりの賦に候哉と尋ね候ところ、六ドルくらいと返答いたし候。何か月ばかりにて可致成就相考候哉と尋ね候ところ、四、五か月くらいにてぜひ仕度 段申通候につき、その内には随分成就可致段うけたまわり候、もっとも何分軽目にあいなり候可致につき算当のところは近日ひとまず出版いたし候上、明白に可申通段うけたまわり候。右今日の談判にて候。」(前掲四月号所載)
と、閏四月四日の日記が続いていて、すぐ四月五日に、
吟香におとらず正名たちも苦労しなければならなかった。ウィリアムスが「サツマ辞書」に手伝ったかどうか? 四月七日に「一、
「サツマ辞書」も「ヘボン辞書」とほぼ同じく、約九か月でできあがった。慶応四年(一八六八)閏四月三日に上海へ上陸した彼らは、大福帳型の和紙に木版で印刷した『英和対訳袖珍辞書』のかわりにハイカラな皮表紙の「サツマ辞書」をかかえて、明治二年(一八六九)二月、神戸に上陸したのである。しかしその間、彼ら薩摩の脱藩青年たちも上海に上陸してまもない四月二十一日に、故国では置県制がしかれ、二年一月には薩長土肥が先んじて藩籍奉還するに至って、とにかく身の始末をつけるために、五月の五日に「十枚だけ
このように、日本文字の電胎活字は上海で基礎を作りつつあった。すでにそれによる書物は日本に上陸していて、こころざしある当時の人々によって重要な存在となっており、たとえば「ヘボン辞書」初版はたちまち売り切れ、定価の三、
考えてみると、吟香の場合も正名の場合も、英和字引きであるということだった。つまり日本の仮名文字の電胎活字を作らせた動機というものが、日本語とイギリス語の接触から始まったということだ。このことはまったく意味深い。
しかし、吟香も正名も長いこと洋式印刷工場に近く起き
「―
「―
ある日、芝
「そのころになると長崎と上海の往来は、いま記録に残ってるよりも何倍も
卓の上には、私のために祖父富二翁の残した当時の日記や短冊やいろんなものがひろげてある。大福帳型に
一八六六年までは、まだ鎖国であった。しかも、記録に残らぬような形で上海・長崎の往来は
底本:
1949(昭和24)年4月1日発行
入力:uakira
校正:しだひろし
xxxx年xx月xx日公開
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
光をかかぐる人々[続]
『世界文化』連載分(六)
徳永直世界文化連載分、十六
アジアの、近代的な鑄造の漢字活字は、ペナンでうまれた。うんだ背景は、ヨーロッパの産業革命であり、うみだしたのは、新教プロテスタントの宣教師たちであつた。私は、「上海行日記」で、中牟田倉之助のハイカラなみやげもの、文久二年の上海版「上海新報」という新聞が、どんな活字であつたかを知ろうとして、安政五年の寧波版「中外新報」や、嘉永三年の香港版「遐邇貫珍」などに、ぶつつかり、かえつて途方にくれてしまつたけれど、ダイア活字の發見によつて、香港よりも、もつと南方で、しかも天保三年に、その源の、發生していることがわかつた。
それで、それなら、ペナンの漢字活字は、その後、どういう風にして、南方から、支那本土へ、東漸していつたろうか? まず、ペナンから、マラツカ、廣東までいつた事情は、讀者も、前章のうちで理解できたと思う。ダイア自身が、ペナンからでて、英華學堂の印刷所を、監督經營することになつたからである。そして、その英華學堂が、こんどは、香港にひつこしたのである。溝口靖夫は「東洋文化史上における基督教」(三三五頁)で、いつている。「一八二二年六月二日、ミルンの歿後、その學院は、他の後繼者により、うけつがれたが、一八四二年、香港に移轉した。」――「學院」というのは「學堂」のことで、ミルンは、モリソンの協力者であり、「學堂」の經營責任者であつた。まだこの頃、學長ロバート・モリソンは生きているが、多くは布教にあたつていたのである。廣東での、モリソンの後繼者は、もと印刷工のメドハーストということになつているから、こゝにある「他の後繼者」というのが、私にはわからないけれど、上海時代まで活動しているメドハーストが、移轉した香港時代も、とにかく學長だか「經營責任者」だか、そのいずれかであつただろうし、英華學堂とともに、ダイア監督の印刷工場が、ともに香港へ、ひつこしただろうことは、うたがいない。
つまり、一八四二年には、ペナンから香港まで、ダイア活字は、のぼつてきたが、大事なことが、廣東時代にある。アメリカ人ブリツヂマンが、一八三〇年、廣東へきて、「支那叢報」を創刊したことと、同じ一八三〇年に、ロバート・ウイリヤムスが、廣東へきたことである。ウイリヤムスは、モリソンの息子で、父親の意志により、「支那傳道の印刷者」になれるよう、幼いころから、ロンドンの印刷工場で、印刷術の修業をしていたのであつた。父親は、一人前の修業をつんだ忰をみてから、三年ばかりのち、死んでいるが、モリソンたちが、印刷術をどんなに重くみていたかがわかろう。モリソン及びウイリヤムス親子は、周知のように、日本の歴史にとつても、大事な人々であつた。ウイリヤムスは、のち、澳門の東印度會社經營の印刷工場も、監督しているが、「支那叢報」の創刊には、父親とともに、ブリツヂマンにとつて、大事な協力者であつた、と「東洋文化史上における基督教」は、かんたんだが、のべている。「支那叢報」は、もちろん、アルハベツトだから、ダイア活字が、直接には、どう關係したかわからぬけれど、メドハーストが、一八三五年、モリソンの歿後をうけて、廣東にきたときは、廣東の印刷所では、ちやんとした漢字の印刷物が、つくられていたことが、明らかになつている。たとえば、メドハーストが後年、思いでをのべた、前に引用した文章で、「阿片と宣教師の關係」は、「第五の困難」であつたが、「第三の困難」というのは、「漢字印刷物にたいする、支那官憲のあつぱくであつた。」(東洋文化史上における――三五九頁)といつていることでもわかる。そのころ、阿片戰爭がはじまるまえで、アルハベツト人種と、支那政府とのあいだは緊迫していた。廣東で出版する宣教師たちの、雜誌や本は、アルハベツトのものは許されても、漢字印刷物は、直接に支那人へ影響をあたえるとして、支那官憲は、きびしく取締つた。そのために、辛苦の末、やつと出來あがつている漢字の組版が、工場にふみこんできた、支那刑吏たちによつて、幾度も破かいされたり、不足の漢字活字を、木活字でうめようとして、街にもとめにゆくメドハーストらが、たびたび危害を加えられた、というのであるから、たとえ、不足の文字は、木活字でまにあわせたとしても、實際に、ダイア活字が、印刷物となつて、活動していた證據にはなる。
そこで、ダイア活字が、廣東、香港へときて、しだいに發展、實用化されてきたが、さて、それからが私にわからない。ダイアは、一八四二年のこの年に、死んでいるが、上海へはどうしてのびていつたか? また、ダイア活字が、そのまま、未完成の形で、上海へ流れこんでいつたのか、どうか? もつとも、これを人間のうごき、宣教師たちのうごきだけでみれば、たとえば、前にみた宣教師であり、醫者であつた、ロンドン・ミツシヨナリー・ソサエテイ所屬のW・ロカートは、一八三八年、廣東にきて、一八四〇年には、英軍が占領していた舟山島に入り、翌々年、開港の第一日に、上海へ入つて、布教と醫療の活動をはじめている。おなじく醫者で宣教師のA・ホブソンも、一八三九年に澳門に着、まもなく廣東へきて、「支那叢報」創刊者のブリツヂマンと同居、上海へいつた年が、私にわからぬが、一八五六年にはW・ロカートの病院の後繼者となつて、「西醫略説」以下、二種の、鉛の漢字活字による書物を上海で發行している。つまり、人間のうごきでだけなら、印度・ペナン・マラツカ・シンガポール・澳門・廣東・香港・上海と、ずツとまえからみてきたところで、明らかになるけれど、活字という、物の形ではわからない。一八五六年の、上海版「西醫略説」が、ダイア活字、そのままの發展か、どうか、わからぬのである。「支那叢報」の解説版も、九卷、十卷となつてくると、ほとんど阿片戰爭の記事ばかりで、ダイア活字の行衞は、わからなくなつている。
私は、また、この關所にひつかかつたまま、昭和十八年の前半をすごしてしまわなければならなかつたが、ある日、思いがけなく、上海から手紙がきた。昭和十七年のくれにだした私の手紙、讀者からの質間にこたえて、「上海史話」の著者は、しんせつに回答してくれたばかりか、「滬上史談」という本を、一册そえて、おくつてくれたのであつた。「滬上史談」については、あとでのべるが、私はまず、手紙のあらましを、讀者に紹介しようと思う。手紙という形は、私的だけれど、中味は、著者から讀者へという性質であるから、「上海史話」の著者も、許してくれるだろう。――
[#ここから1字下げ]
――漢字の金屬活字――外人による漢字の金屬活字の發明は、一八一五年、澳門の東印度會社事務所において、トムス(P.P.Thoms)が、モリソンの辭書印刷のため、成し遂げました。この辭書第一卷は、一八一七年出版。このための金屬活字は、その後澳門・マラツカ及びセラムポールの、三ケ所で使用されましたが、「支那叢報」記事にある通り、一八二七年、ペナンへきたダイア(Samuel, Dyer)の六ケ年の苦心、改良研究により一八三三年には、一萬四千字の字母が出來、小型のものも製造されはじめ、のち一八五九年コール(Richard, Cole)により、完成されました。
美華書館――(American[#「American」は底本では「Ameican」], Pressytesion, Mission, Press)は、一八四四年、アメリカのミツシヨンのローリイ(Water, Rowrie)が、パリでつくられた、漢字の字母をとりよせ、支那へむけて發送し、同年、コールを主任として、澳門に印刷所をおこさせたのに始まる。當所、Onr(?)がアメリカへ、つれてもどつた支那少年(A. yuk)に、印刷技術を教えこみ、この少年を、また澳門につれもどして、三百二十三個の字母で、作業を開始しました。印刷工二名、組版工一名の、小規模でしたが、翌年一八四五年には、寧波へ移轉して、擴張し、ダイアの活字をも採用。一八四八年には、一日平均一三・三一四1/2頁を、印刷するくらいになりました。一八五五年には、職工九名。
ギヤンブル――(William, Gamble)一八五九年に、來任して、改良型の字母や、印刷機をもたらし、翌年一八六〇年十二月、印刷所を上海に移轉して、擴充しました。當時“Electrotype, Faunding[#「Faunding」は底本のまま] of Matrics”を採用し、二種の新漢字活字をもち、日本文字の活字(小型)も、有していました。日本文字というのは、四十八の假名文字のことと思われます。
ギヤンブルは、アイルランド生れの米國移民、一八六九年、日本へきて、本木昌造に協力しました。其後、Sheffield, Scientibis, School 及び Yale callege から、A・Mの學位をおくられ、藥學の研究にも、從事したことがあり、パリでしばらく暮したこともあり、一八八六年頃、ペンシルバニアの某地で、死亡いたしました。
上海美華書館は、一八六二年、擴張移轉、シリンダープレスを採用、一年後、年産一千四百萬頁。ヘボン、吟香等は、一八六六年、上海に來り、美華書館で辭書を印刷。(別送「滬上史談」參照)印刷當時の動靜は、吟香の手紙(慶應三年正月廿三日附、川上冬崖宛)で、判ります。これは土方定一著「近代日本洋畫史」(昭和十六年)に全文あり(中略)
上海新報、文久二年、中牟田が買つてもどつた新聞は、字林洋行(ノース・チャイナ・ヘラルド社)發行の華文版で、これは一八六一年に創刊されました。主筆は林楽知(Young, L, Allen)一八七二年「申報」創刊、「上海新報」廢刊。(中畧)
美華書館史には(The Mission Press In China l895)という、小册子があります。日本文字についての記述は、きわめて僅少です(以下畧)――
[#ここで字下げ終わり]
以上、「上海史話」の著者からもらつた手紙のあらましが、私にとつて、どんなに有難いものであつたかは、讀者にも同感できるところだと思う。これで、私は最後の關所を、通ることができるのである。もつとも、この關所の通り方は、他人のうしろから、頬かむりして、すりぬけるようなもので、大手をふつて通る、通り方ではない。この手紙が明示し、或は暗示している、澤山のことがらの、枝葉まできわめるためには、おそらく、また相當の月日をついやさねばならないだろうけれど、しかし、現在の私にも、およそ、つぎの程度には、この手紙を消化できるというものだ。
手紙のうちの、第一のこと、澳門、マラツカ及びセラムポールの三ケ所で使用せられた彫刻活字のことは、まえにたびたびのべたように、讀者もすぐわかるところのものだが、これがP・P・トムスという人によつてつくられたということが、新たに記憶さるべきことであつた。第二のダイアの活字が「一八三三年には、一萬四千の字母が出來、小型のものも製造されはじめ」云々は、まえにみた通り、「支那叢報」の記事が過大で、手紙も同樣である。第三は、非常に大きなことがらで、リチヤード・コールと、ウオーター・ローリイという人物の出現である。とりわけ、リチヤード・コールであると考えられるが、これが、いわば、ダイア活字との、つぎめであろう。「後、一八五九年、コールにより完成されました」という文句は、私にとつて、かんじんかなめのところだけれど、かんたん過ぎて、上海まで、大聲でどなりたい氣がするのである。
しかし、あとにつずく文章で、まるでわからないことはない。一八四四年に、パリでつくつた漢字々母で、澳門に印刷所をおこし、三百二十三個の漢字で、仕事をはじめたが、翌年には、ダイア活字を採用している。パリ産の漢字々母と、ア・ヨークという、アメリカ名前しかわからない支那少年印刷工と、その何年以前かに、この支那少年を、アメリカへつれていつた Onr という、手紙の字をいくらみても、Oとnとrとしかよめない、私にわからぬ、たぶんアメリカ人らしい人物などの、つまり、ダイアをイギリス系統とすれば、これはアメリカ系統の、漢字印刷努力の集積が、ここで結合したということである。
コールの「完成」は一八五九年というから、イギリス系統とアメリカ系統の結合の、一八四五年から十五年めということになるが、具體的には、何を指すか? 手紙にあるように、電胎法字母は、まだこの後であるから、彫刻による字母、大小ともに、フオントのそろつた、そして少くとも、ダイアの「支那語のうち最も重要な三千の文字の選集」が示す、漢字の種類を完成したことをいうのだろう。そして、それをそうさせた力は、支那少年ア・ヨークにみるような、支那人と、マラツカの英華學堂以來、記録のはしばしにみる日本人漂民の、つまり漢字人種印刷工の參加と、たまたま、ここへあらわれたような「パリで作られた漢字の字母」のような、ヨーロツパや、アメリカ本國の、科學技術の授助であつた。ダイアのつくつた漢字々母と、パリ産の漢字々母のいずれが、すぐれていたか、私に知る由もないけれど、ヨーロツパの印刷技術が、アジアの文字を消化しようとしていたことは、前卷でみたように、嘉永末年頃、一八五一、二年頃、本木昌造が、日本長崎から、はるばるオランダへ、日本文字(漢字および假名)の種書をおくつている例でもわかる。つまり、電胎法なしには、ほとんど不可能な、日本では、江戸の嘉平も、長崎の昌造も、さじを投げた。彫刻字母、パンチによる漢字活字が、ここではヨーロツパや、前卷でみたような、フランクリン以來の、世界印刷術中興の祖というべき、アメリカの技術にささえられて、一應の成功をなしとげたのであつた。寧波版「中外新報」にみるような活字、字ずらの不ぞろい、線のそぼくさは、一とめでわかるほどながら、それは木版や、木活字とくらべるとき、格段の、金屬的鮮明さと、近代的強度をもつものとして、成功したのであつた。
第四は、日本の活字にとつて、最も歴史的な美華書館の歴史と、アメリカ人宣教師ウイリヤム・ギヤムブルの素性が明らかになつたことであつた。さらに第五は、一八六〇年に、“Electrhotype[#「Electrhotype」は底本のまま], Founding of Matrices”つまり、電胎字母を採用したことと、一八六二年に、アジアではじめて、シリンダー・プレスを採用したことであつた。電氣分解による字母製法は、漢字活字製法に、一切の解決を與えた、歴史的なものであるけれど、シリンダー・プレスの採用も、印刷歴史にとつて、革命的なものであつた。廻轉動力は、人間の手、ガス、石炭などを經て、電動機となるまでは、日本でも、この以後、半世紀をついやしているけれど、廻轉胴による印刷法は、アジアでは「ばれん」でこする式、西洋では葡萄しぼりのあつさく式から、完全に、機械的に解放されたものであつた。つまり、一八三九年完成したフアラデーの法則は、一八六〇年に、一八二〇年ごろ、ドイツ人フリードリツヒ・ケーニツヒの發明したシリンダー・プレスは、一八六二年に、漢字印刷の歴史に登場したのであつた。
そして最後に、第六は、ダイア活字が、アメリカ系統と結合して、香港から寧波へ、寧波から上海へと、東へ、東へと、すすんでいつた足どりが、とにもかく、明らかとなつたことであつた。ペナンでうまれたダイア活字は、上海の美華書館へ、とつながつている。文久二年、一八六二年の上海版、中牟田倉之助の「上海新報」は、あきらかに電胎活字であることが出來、そこにはダイアの「支那語のうち最も重要な三千の文字の選集」が、生きているのであつた。
そこで、當然、私はリチヤード・コールという人物について、述べねばなるまい。いまや、私の頭には、P・P・トムスや、ウオータア・ローリイをのぞいても、ダイア――コール――ギヤンブル――昌造――富二と、不連續線が、できあがつてしまつている。時間的には、一八一五年、文化十二年から、一八七一年、明治四年にいたる、空間的には、ペナンから、東京にいたる、日本近代活字のコースである。ところが、コールなる人物について、私は何も知らない。たぶん、アメリカ人で、イギリス系だとしても、アメリカ傳道協會にぞくする人物には、ちがいない、くらいしかわからない。私は、百科辭典にもでていないコールについて、何によつて知ればよいか、また、支那少年ア・ヨークを、アメリカへつれていつたという、發音のわからない“Onr”という人物について、教えてもらいたいと、「上海史話」の著者に、また手紙をかかねばならなかつた。そして、さいわいに、二度めの手紙が、つゝがなく先方について、「上海史話」の著者の好意が、再び、私のところへもどつてくる日、あらためて、讀者への責を果たそうと、思うのであるが、飛行便にすることのできなかつた、二度めの手紙の返事は、一年たつても、まだ返事がこない。これを下書きしている現在は、昭和十九年十月である。すでに東支那海も、アメリカ潜航艇の手の中にあるし、B29が日本々土の上空を、しばしばおとずれる、きようこのごろ、手紙ばかりか、「上海史話」の著者も、私自身も、無事であることが出來るだろうか?
さて、しかし、ここまでくれば、誰しも氣がつくことであろうと思うが、ペナンでうまれて、廣東、香港までせりあがつたダイア活字がこんどは一擧に、寧波、上海へと、せきをやぶつたように進出したのは、阿片戰爭によるイギリスの勝利の、直接影響ということであつた。英華學堂の香港移轉が、一八四二年、美華書館の寧波移轉が、一八四五年、そして上海の入口、舟山島で待機していたW・ロカートの上海入りが、一八四二年、上海開港の第一日であつた、ことを思えば足りよう。支那政府の、阿片密輸への抵抗が、一八三九年、以來、イギリス艦隊の舟山列島占據となり、上海城攻畧となつて、一八四二年、南京條約成立までの「阿片戰爭」とあだ名される支那とイギリスの戰爭が、どんな性質のものであつたかは、讀者周知のところであろう。南京條約の中味は、香港の割讓であり、上海、寧波以下、三港の、アルハベツト人への解放であつた。
阿片戰爭は、「竹の大砲」が、「鋼鐵の大砲」にうちやぶられねばならぬ戰爭であつた。同時に、「阿片」と「大砲」を懷中にいれた「平等主義」の布告文さえ、支那民衆にとつては、新らしい思想をもたらした戰爭であつた。岩塊と熱病ばいきんの巣でしかなかつた香港島に、近代的な砲臺と港がきずかれ、有史以來の鎖港であつた上海は、「歐羅波諸邦之商船、軍艦數千艘碇泊」うんぬんと、高杉晋作が感嘆したところの、東洋第一の開港場となつた。アルハベツトと一緒に、懷中時計が、寫眞機が、ピストルが、「テレガラフ」が、汽車が、ながれこんできた。楊子江[#「楊子江」は底本のまま]の上流には、四億の支那庶民が住んでおり、海上七百キロのむこうには、まだ開かれざる「處女日本」があつた。「新しい不斷に擴大される市場」を、もとめてやまぬヨーロツパの「不斷に増大する生産の慾望と力」とは、うなりをあげて殺到してきたのであつたが、その最も先頭をすすんだのが、「神の前には萬人平等なり」という、新教プロテスタント宣教師と、アルハベツトおよび漢字の活字だつたのである。
世界文化連載分、十七
阿片戰爭によつて割讓された香港と、ヴエールが剥ぎとられた上海とが、一八四二年以後を、どう變化していつたか?
「――香港島そのものの地勢を見廻して見給へ。諸君の眼は、點々と緑草の入つた代赭色の山に惹きつけられるだらう、丁度繪の懸つた壁を見るやうに。この山の麓の海岸には家が群がつて、人家の間からはまるで見せかけのやうに芭蕉の葉の叢が覗いてゐる。――その代りに砂と石とは全く夥しいものである。イギリス人達はこの材料を使ひこなしたのだ。山の頂上にも、石造の獨立家屋や、地均らしのすんだ敷地が見えるだらう。人間の勞力と技術は、絶壁の上まで伸びてゐるのだ。海岸通りの壯麗な邸宅を眺めてゐると、この山の未來の姿が自然と想像に浮んで來る。支那人たちは一八四二年の南京條約によつて、花かをる舟山列島の代りに、この不毛の岩石をイギリス人に讓渡したときには、紅毛の夷狄共が、この岩石をどうするのか夢にも考へなかつた。況んや彼等支那人自ら自分の手でこの岩石を切り出して、自分の首にかついで壁や胸墻に組み上げ、大砲を据ゑつけようなどとは全く夢にも考へなかつたのである……」
ロシヤの作家ゴンチヤロフが「日本渡航記」にこう書いたのは一八五三年の六月だから、阿片戰爭後ちようど十年めだ。曽我祐準が、砲台をみあげて「轉た感慨に堪へず」と日記に書いた慶應二年からは、十三年前である。阿片戰爭の前年、一八四一年に、スエズ運河が開通して、地中海を近廻りしてくるイギリスの手は、この岩塊を團子のように捏ねあげて、都市にしてしまつた。最初の二年間に、港が築かれ軍艦と商船が碇泊した。英國政府が支出する、一八五五年までの、毎年の行政費は、二萬磅であつたが、軍事費は、その十倍の二十萬磅であつたという。
しかし、この熱病の巣である岩塊が「極東に於ける商業上の重鎮」となるためには、「一八四二年には、香港停泊中の軍艦アギンコートの乘組員が、半數まで死亡」し、「一八四三年には、駐屯軍一千五百二十六名の、一年内入院度數七千八百九十二回、即ち平均一人入院各五回以上に及び、一隊の兵士約七、八百名中、二十一ケ月内に死亡者二百五十七名を算」(「上海史話」二七六頁)えねばならなかつたし、物貨の貿易が不振なときは、代つて「人間の貿易」をもしなければならなかつたのである。カリフオルニヤと濠洲で、金鑛が發見されて、海外移民の需要がさかんになつたとき、「支那の法律の及ばぬ地點で募集して、ここから積み送ることは出來」たところの香港からの「一八五三年の移民總數は、一萬三千五百九人」にのぼり、「ハバナへ向つた二萬四千人のうち、五千五百人すなはち總數の二二%以上が、中途で病死」(同、二八二頁)しなければならなかつたのである。
そして一八六六年には、香港住民の死亡率が二%にくだり、一八四五年に、香港へ入港した商船の數一六八隻が、一八六八年には、二七、五〇〇隻に上昇し、「香港の發展は、實に地勢の關係による。その港灣は許多の船隻を停泊せしむることが出來、同時に商業は頻る[#「頻る」は底本のまま]安全自由であり、且つ如何なる關税も課せられず、汽船による運輸は、香港をその樞軸としてゐる。氣候の方面も、人工的改良によつて、頻る[#「頻る」は底本のまま]よくなつた。これら種々のものが、香港をして商業の中心地たらしめ、歐米、印度及び支那の貨物を、すべてここに集中せしめるのである。」(同、二八五頁)と、一八六三年に、イギリスの一商務官が、報告中に香港の繁榮を謳歌するに至つたが、「香港の發展は、實に地勢の關係による」というとき、イギリス人の頭には、石塊と熱病の巣そのものが眼中にあるのではなくて、支那海の咽喉くびをしめている、アジアの國々、島々にむかつてひらかれた、巨大な砲台と、港の位置をいうのであつたろう。
そこで、イギリス自身は決してしやべらない一八五三年當時の香港島を、いま一度、ゴンチヤロフに語らせてみよう。「――ヴイクトリア市はなるほど一本の通りしかない。然しこの通りには家らしいものは殆んど一軒もないのだ。前に「家」といつたが、それは誤りで、ここにあるのはどれもこれも宮殿で、その台石は海の水に浸つているのだ。これらの宮殿のバルコニーやヴヱランダは海に面し」てゐるのだつたが、「二つの住宅地から出來」てゐる支那街の方は「その一つは小舟を住み家とし、今一つは小さな棲み家である。その家はぎつしりとかたまつて、海岸一杯にへばりつき、中には海に打ちこんだ杭の上に建て」たものであつた。そして、この山の未來を誤りなく想像することの出來たロシアの作家は、當時の支那人がどう働いていたかをも見のがさなかつたのである。「支那町を一渡り――歩いて、私達は丘に登つた。丘は丁度この邊で人工的に切り拔いて滑らかな絶壁となつてゐた。ここには新道が出來ることになつてゐた。そこには一聯隊程の勞働者が集つて、土を掘つたり、石を切つたり、塵芥を運んだりしてゐた。それは全部ポルトガルの植民地たる澳門から來た移民である。イギリス人達がここで植民を目論んで、一聲呼聲をあげたかと思ふと、澳門は殆んどがら空きになつてしまつた。仕事が、つまり食と金が、三萬人からの支那人を此處へ誘つたのである。彼等は澳門で貧乏しているよりも、此處で無限の勞働と無盡藏の賃銀を取つた方がよいと思つたのだ。彼らは、最初の間猖獗を極めた傳染性の熱病にもおどろかなかつた。彼らはイギリスの指導を受けて、土地を整理し乾燥させた。――」(前掲「日本渡航記」井上滿譯)
それでは一つ、開港後の上海はどうであつたろう? 南京條約成立の最初の年に、イギリス人は二十五人しかいなかつた。彼らはみな上海城内に住んでいたが、將來の發展をみこして、城外の土地を買いつけた。その値段が一畝あたり五十錢から八十錢であつた。
一八四五年になつて、上海道台と初代英領事との間に、土地章程がきめられて、上海最初の外人租借地が出來た。當時の面積は八百三十畝であつたが、一八四八年には、一躍二千八百二十畝となり、この擴張要求を貫徹したのが、二代目領事であり、のち、日本へきて初代駐日公使となつた、「吾人は不斷に新しく擴大される市場を――」云々のぬし、オールコツクであつた。
一八四六年には、アメリカが、一八四八年には、フランスが、というふうに、上海は、たちまちアルハベツトの聲におゝわれていつた。開港翌年、八、五八四噸が、五年後には、五二、四七四噸の、ヨーロツパ船が入港するようになり、そして輸入品の五分の三までが、あいかわらず阿片であつた。「イギリス人に開かれた五港の一つである上海――が、現在如何に輝かしい役割を演じてゐるか、又將來演ずるであらうかといふことを結論することは出來ない。現在でも上海はその巨大な貿易高において、カルカツタに次いで、この界隈第一位を占め、香港、廣東、シドニーの名聲を蔽うてゐる。それが全く阿片のためだ! 支那人は阿片の代りに茶も、絹も――汗も、血も、エネルギーも、知識も、全生命も拂つてゐるのだ。イギリス人とアメリカ人はそれを全部平然として取り上げて――顏も赧らめずにこの非難を甘受してゐる。――上海に着く十六浬手前の呉淞には――阿片船が一艦隊となつて碇泊してゐる。――この阿片船は荷物を卸すばかりである。――この商賣は支那政府によつて禁止されてをり、呪はれてさへゐるのだが、力を伴はぬ呪咀など問題にならぬのだ。――」と、同じヨーロツパ人のゴンチヤロフが痛烈に書いた。
この偉大なる作家が、上海に上陸したのは、一八五三年の十一月で、香港を訪れてから五カ月めである。上海に關する外國人の紀行文が、どれくらいあるか、私にわからぬけれど、「オブロモフ」の著者であるゴンチヤロフの名譽にかけて、私は、「日本渡航記」の一部「上海」を信用するのであるが、このロシヤ作家のうしろについて、しばらく當時の上海風景をみてゆこう。「上海に近づくに從つて、河は目立つて活氣を呈して來た。木の繊維や皮で作つた例の赤紫の帆をかけた戎克が絶え間なく行違つた。支那の戎克は構造はいくらか日本の小舟に似てゐるが、あの艪の切込みがないだけだ。」前卷でみたように、この作家は、長崎で、傳馬船の艪の構造を一と眼みて、當時の日本の封建的性格を指摘したのであつた。「そら上海が見え出した。――立派なヨーロツパ風の建築物、金色燦爛たる禮拜堂、プロテスタント派の教會、公園――さう云つたものが全部まだぼんやりした塊になつて、まるで教會が水の上に建つてゐて、船が街路の上に浮んでゐる樣に見え」る朝方の風景のなかを上陸して、「私は眼を皿のやうにして支那を探し」ながら、やがて市内に入つた。そして、市内を一巡したとき、もうこの作家は、はつきりと、當時の支那人の生活ぶりから、この民族の特徴的性格が、新らしいヨーロツパ人たちと、どう觸れあつてるかを描寫してしまつたのである。――
「支那人は活動的な民族である。仕事をしてない人間は殆んどない。その騒音、混雜、動き、叫び、話聲。一歩毎に擔き人夫に出合ふ。彼等は規則正しい叫びをあげて調子を取りながら、大股に走るやうに荷物を搬んでゐる。――從順で謙遜で非常に身綺麗である。こんな人夫となら出會つても恐ろしくはない。例の規則正しい叫び聲をたてて警告を發する。――もし相手が聽き入れなかつたり、道を讓らうとしないなら、こちらで立停つて道を讓るのである。」そして「數名の支那人が家の戸口のところで夕食を食つてゐ」る上海郊外では「二本の箸を使つて敏捷に茶碗から口の中へ飯をかきこんで、いつまでも詰めこんでゐたものだから、私達が『請々《チンチン》!』(今日は)と挨拶しても、返事が出來ないで、愛想よく頭を下げるばかりであつた。」という支那農民について「だがこの惡臭や、哀れな窮乏ぶりや、泥濘があるにもかかはらず、農業上、村内經營上の些細な點に至るまで、支那人の知識と、秩序と、几張面[#「几張面」は底本のまま]さを認めざるを得なかつた。――どんな物でも投げやりにしないで、十分考へて用に使つてある。すべてが仕上げ濟みであり、完成されてゐる。無雜作に、所構はずに捨てられたものは藁の小束一つ見えないのだ。倒れたままの垣根とか、畑の中をうろついてゐる羊や牛といふやうなものもない。――ここではどんな木片でも、小石でも、芥でも、必らずそれぞれの使途があり、用に供せられるやうに思はれる。――」と。
ゴンチヤロフのこの觀察は、アジア人である私らがみるとき、逆にいえば、それは當時のロシヤ人氣質を裏寫しにしているようなものだけれど、これ以上のすぐれた觀察は、恐らく一世紀後の今日にも無いであろう。そして勤勉で、從順で、几帳面で、しかも「哀れな窮乏ぶり」の、當時の支那人はヨーロツパの新らしい主人たちをどういう眼でみたか?「私達は部落と離れて遊歩道に出た。これは乘馬用として、又散歩道として、ヨーロツパ人のために割いた郊外の一地帶である。――私達は競馬場に出た。上海の男女ヨーロツパ人がそこで行つたり來たり馬を乘り廻してゐた。イギリスから輸入した優秀なアングロ種の馬を飛ばす者もあれば、小さな支那馬に乘る者もある。無蓋馬車に乘つて一家族が來るかと思ふと、牧師の細君と思はれるレデイを、二本の竹竿に鐵製の椅子を置いて四人の支那人が擔いでゐるのもあつた。數名の歩行者、船の士官、それに私達が觀客を作つてゐた。いや皆が登場人物となつてゐたのだ。本當の觀客は都市、農村の平和な住人であり、一日の仕事を終つた支那の商人や農民であつた。そこにはいろいろな服裝が入りまじつてゐた。商人の絹の上衣や廣幅のズボン、農夫の青い長着や――この群衆が文字通り手をこまぬいて、しかも好奇心をもつて、外國人を見まもつてゐた。その外國人は力づくで彼等の領土に闖入したばかりでなく、自分は勝手に畑の中を歩き廻るくせに、主人たる支那人がこの道路上を通行することを禁ずるといふ文句を書いた立札まで立てたのである。支那人たちは苦々しげに一人一人の通行人を送迎してゐた。ことに乘馬の婦人は彼等の注意を惹いてゐた。これは彼等の國では未曾有の現象だ! 支那の婦人はまだ家政上の附屬品の樣なもので、牝獅子となるのは前途遼遠なのだ。――」
己れ自身をさえ「登場人物」とすることのできる眼でみた、この數行によつて、はじめて當時の上海風景が、一世紀後の私らに遺憾なく傳えられたのだといえよう。竹竿につるした轎(かご)をかついでいる四人の支那人と、それに乘つている髮の毛の赤いヨーロツパ婦人と、アングロ種の馬を乘り廻すレデイと「手をこまぬいて」、眼をみはつている支那人群衆と。そこに阿片や艦隊をふくめても、なお「不斷に増大する生産」力に驅りたてられて、際限なくおしよせてくるアルハベット人種の、新らしい相貌がある。しかも一方では、支那の婦人はまだ家政上の附屬品」でしかなく、印度産の罌粟の實が、そつくり吸いこまれるような古い支那への、ゴンチヤロフ自身の、おどろきと諷刺があつた。――「アメリカ領事カニングハム氏は、有名なアメリカのロツセル商事會社の上海代表者を兼任してゐるが、その邸宅は上海で最も立派な邸宅の一つである。この邸宅の建築費は五萬ドルを越えた。邸宅の周圍は公園だ。いや正しく云へば樹を植えた庭だ。廣々としたヴエランダは美しい柱廊の上に乘つてゐる。夏は涼しいことであらう。太陽は日覆のかかつた窓を襲ふことはないのだ。バルコニーの下に當る車寄せには、街頭に向つて大きな大砲が一門据えてあつた。――」(前掲「日本渡航記」)
私らはこれ以上、ロシア作家をわずらわさなくてもよいだろう。まさに、一八五三年代の上海は、このとおりであつた。香港を團子のように捏ねあげたおなじ力は、上海を、開港十年めにすでにアジアにおける最大の國際都市にしてしまつたのであつた。マンチエスターの、ニユーヨークの、リオンの「不斷に増大する生産の欲望と力」は、こういう形で噴出していたのである。阿片と大砲はその花束の一つに過ぎない。ヨーロツパの船は、絹や茶を搬び去つてゆき、綿製品や毛製品を搬んで來た。呉淞河に懸けられた、眞ン中から二つに割れる鐵の橋は、支那人から橋錢をとりあげたし、汽車は高價な賃錢を請求した。しかし橋は渡らねばならぬし、レールにそむいて歩くわけにはゆかない。たとえばカニングハム氏の邸宅に据えられた大砲が、どこにむかつて砲口をひらいているか、それはゴンチヤロフよりも支那人自身が一等よく知つているところだけれど、しかし同時に、大切なことは「新しい支那」にとつては、それは恐怖である以上に、驚異であり發見でもあるということだつた。
最初の呉淞鐵道が開通したとき、最後まで反對したのは支那政府であつたが、乘客は連日超滿員であつた。延長四分の三哩のレールの上を、時速十五哩で「中華帝國號」がはしつたとき、線路の兩側にむらがつた支那民衆と、同じ支那人乘客は歓呼して喜んだといわれる。もつとも最初の呉淞鐵道は、ある日、金に買われた兵士風の男が、線路の上を眞ツすぐにあるいてきて、汽罐車の下敷になつたということから、支那政府とイギリス領事との政治的接渉となつて、揚句は數十萬兩で買ひとつた支那政府の手で、レールも汽罐車も、わざわざ臺灣の海邊へはこんで遺棄される始末となり、その後十餘年間は、支那大陸に汽車は見られなくなつたけれど、一度發見された汽車は、やはり「新しい支那」にとつては限りなき將來をもつものであつたろう。それは紅ツ毛の鐵道經營者がいくら儲けたかとか、または「民衆の興味を惧れた」支那政府の謀略が、どれほど成功したかとか、そういうことからはまつたく獨立の、支那民衆の驚異であり發見であつたのだ。
「――彼等には狂信といふことがない。彼等は佛教徒の狂信にさへ感染しなかつたのである。孔子教は宗教ではなくて、單なる通俗倫理であり、實踐哲學であつて、如何なる宗教をも妨碍するものではない。――支那人の實際的、工業的精神には、カトリツク教よりも、新教の精神の方がぴつたりするやうである。新教徒は通商を開始し、最後に宗教を持つて來た。支那人は通商の方は大喜びで取入れ、宗教の方は何も邪魔にもならぬので、目立たぬやうに取入れてゐる。――」と、これはゴンチヤロフのみた支那民衆のあざやかな特質であるけれど、しかしこの特質は同時に、一方ではヨーロツパ文明を充分に吸收消化するばかりか、アジア的特徴をも加えて、プラスにしうるところまで成長した時代的素質ででもあつたろう。――
「上海で私は支那語の本を三册買つた。新約聖書と地理とイソツプ物語だ。これは新教宣教師の好意であつた。――最も活躍してゐる宣教師の一人であるメドハースト氏は支那に三十年も生活し、休む暇もなくキリスト教の傳道に活躍し、ヨーロツパの本を支那語に譯し、各地を巡回してゐる。この人は現在は上海に住んでゐる。」と、ゆくりなくも、晩年のメドハーストの消息を、ゴンチヤロフはつたえている。
前卷でみたように、江戸と長崎と凾館とをひらかせたプーチヤチンの艦隊について、日本にやつてきた、この帝政ロシアの九等官は、長崎で、片假名の流しこみ活字などつくつていた。まだ若い小通詞の「昌造」に、たびたび逢つているが、上海で、ペルリの艦隊をまちあわせているうちに、もと、イギリスの印刷工、いわばダイア活字の協力者、もう老人のメドハーストに逢つているのであつた。ここでいう「支那語の本三册」とは、もちろん、漢字活字による印刷物であることがわかるが、もうそのころ「華字版の印刷物」は、新約聖書や、イソツプ物語や、地理やの「三册」ばかりではなかつた。ダイア以來、コール以來の、アルハベット人によつてつくられた、パンチによる漢字活字の、鉛の活字の、近代的印刷術が花ひらいていたのであつた。中牟田倉之助みやげにみるような「重學淺説」や「代數學」などがあつたように、日本に渡つて、近代醫術の手がかりともなつた、上海傳道病院々長、そしてアメリカ外國傳道協會々員A・ホブソンの「西醫略説」や、「内科新説」や、または「博物新篇」などいつたものが、ひろく支那人のあいだに、人類にとつて新らしく有益な、澤山の知識をふりまいていたのであつて、そして、こんなアルハベツト人種の、善き知惠と理想とこそが、じつは彼らの大砲や阿片におとらず、支那を、アジアを、虜にしたにちがいないと、私は考える。
世界文化連載分、十八
ほんとに、活字は活字だけで、獨立に成長することはできなかつた。ダイア――コール――ギヤムブルと、ペナンから上海まで、のぼつてきた近代漢字活字も、それから、日本に渡るまで二十年も、電胎字母活字になつてからでさえ十年も、そこで足ぶみしているのであつた。
活字が日本に渡るには、ほかの條件が必要であつた。そして、そのほかの條件のうち、もつとも大きなものは、やはり文久二年、一八六二年の、日本幕府が、はじめてやつた貿易船千歳丸の、上海入港であつたろう。開港後からは二十年め、ゴンチヤロフの上海からは、九年めにあたるが、長崎からは海上七百キロそこらの地點で、日ごとに成長しつつあつた近代文明から、二たむかしの間も、かく離していることのできた鎖國の力は、幕府おとろえたりとはいうものの、おどろくべきものがあつたといえる。しかしまた、一方からいうと、この二十年こそが、家光以來、二百餘年の鎖國傳統をうちやぶつたのでもあつた。「上海」で、支那の領土に立札をたてたアルハベツト人種を、痛烈に批難したゴンチヤロフ自身が、じつはプーチヤチンの祕書であり、「六十斤砲を撫しながら」長崎や、大阪や、江戸をおとづれて、日本の土臺石をゆすぶつた、役者の一人だつたではないか。
「日本はこのたび、日進月歩の今の時勢に全く應はしく、一の興味ある觀物を商界に展示した。日本國旗を掲げた英國製帆船の、過日の上海入港は、それだけでも甚だ注目に値する事件である。ところが更に、この船は、同國政府の手で買上げられた官有船であるばかりでなく、海外貿易の目的の下に、同國の特産物や製造品を積んで來てゐるといふことが判つた。これは、この特異な國民の排外國策の上に、全く新しい光りを投げかけるものである。――」
と、いう文句は、千歳丸の上海到着後五日め、一八六二年六月七日付の「字林西報」(ノース・チヤイナ・ヘラルド)紙が、トツプにかかげた社説の書き出し(前掲「上海史話」一二七頁より孫引)だそうであるが、まつたくこの三本マスト三五八噸の、前檣にオランダ國旗、中檣にイギリス國旗、そして、後檣に日本國旗をかかげた奇妙な船こそが、そのまま江戸期開國のシンボルとなつているといえる。
しかし、この最初の貿易船千歳丸上海入港がどんなに大きな意味をもつかは、明治維新史の研究が深まるにつれて、益々史家の強調するところだ。經濟的にいえばこの貿易は失敗したけれど、不馴れな幕府の役人たちは、積荷をそのまま持ち戻る羽目にもなつたけれど、オランダの役人につれられて、各國の領事たちに逢つたり、諸外國人の活動ぶりを見てびつくりした。たとえばこれを便乘者高杉一人の場合にみても明らかである。
「五月廿日、朝中牟田と亞米利加商館に至る。商人の名はチヤルス、專ら二人を通して、その居室に至る。(中略)中牟田英語を解し、談話分明す。奇問を聞きて、益を得ること少からず、予チヤルスに謂つて曰く、弟近日英書を讀めるも、未だ人と談ずるを得ず。日夜勉強し、他日再逢のとき兄と能く談ずるを得んと欲す。チヤルス曰く、再逢の日、弟また兄と能く其邦語を解せんと欲す。乃ち禮を告げて去り」云々と「游清五録」の一節に自分で記したのを、決して單純な外國人同志のお世辭とだけ解してはならない。「五月廿一日(中略)支那は盡く外國人の便役たり。英佛の人街市を歩行すれば、清人皆傍らに避け、道を讓る。實に上海の地は、支那に屬すと雖も、英佛の屬地と謂ふも、また可なり。(中略)我が邦人と雖も心を須ひざるべけんや。支那のことにはあらざるなり。」と、すぐその翌日に記したとき、アルハベツト人種の文明におどろけば、おどろくほど、「中華帝國號」がレールのうえをはしるのをみて、手をたたいてよろこんだ支那民衆とはちがつた、日本の支配者武士的、領主的な感情でうけとられているのがわかる。その後二年あまりで、攘夷の中心長州藩が、領民に洋品使用の禁を解き、薩摩や佐賀と前後して、海外貿易を營なんだ急角度の轉回も、從つて「薩長締盟」を可能にした思想的背景も、この時の千歳丸便乘によつて、彼が、上海で感得したものによるところ、甚だ多いといわれている。
一八六〇年代の上海は、アジアにおける近代文明の中心地であつた。「日本の幕末文化は上海から吸收したと云はれます程で、當時は上海が主、日本、長崎は從の位置にあつたのであります。」とさえ「滬上史談」の著者沖田一氏は書いてゐる。福澤諭吉など、ごく少數の人間が、いたつて窮迫した政治的性質の、萬延元年の遣米使節、または文久元年の遣歐使節などに随行して、産業資本主義時代の華やかなヨーロツパ文化に、じかに觸れえたような機會をのぞけば、上海はその唯一のものであつた。第一回の千歳丸のときは高杉のほかに中牟田や、五代や、濱松藩の名倉豫可人などあつたが、第二回の健順丸のときは、前卷でなじみの昌造の同僚で、長崎通詞安政開港に功勞のあつた森山多吉郎、さきの榮之助がいまは外國奉行支配調役として乘り組んでいたし、第三回め、慶應三年の同じく幕府船ガンヂス號のときは、佐倉藩士高橋作之助(のちの由一)ら、多數があり、たび重なるにつれて、上海渡航者の數は急速に増えていつた。ことに第三回めのときは、同じ日に横濱を出帆したフランス船アルヘー號に、パリの萬國博覽會へ派遣される幕府代表者徳川昭武の一行、箕作貞一郎や澁澤榮一、博覽會出品人日本代表清水卯三郎など、多數が寄港したために、上海の街には、開港以來、はじめて澤山の日本人が見られたという。
また、官船以外の密航者、或いは藩所有の船修理と稱して渡航する者もたくさんあつた。たとえば長州藩の伊藤俊助、柳川藩の曾我祐準、熊本藩の竹添進一郎、藝州藩の小林六郎や長尾治策、薩藩の上野景範、さては中濱萬次郎を案内にたてて、汽船を買に來た土佐藩の後藤象次郎などと、千歳丸以後は、「きびす相ついで」いるが、これを千歳丸からガンヂズ號までの、乘くんだ顏ぶれにみてゆけば、最初は薩摩、長州、佐賀などの大藩の武士であつたものが、しだいに中小の藩士にも及んできているのがわかる。もちろん、渡航に便利な長崎に近いという地理的事情も影響しているようだが、それよりは「明治維新」の大きな動力となつた大藩ほど、より先んじていることはいうまでもない。
そして、藩の大小にかかわらず、彼らの多くが武器の買い入れにきたのも、もちろんであつた。幕末艦船、銃砲などの輸入港は、おもに長崎、横濱、兵庫などになつているけれど、幕府を先頭として各藩競爭の勢いであつたから、しぜん上海まで押しだしたのだともいわれる。山口和雄氏の「幕末貿易史」によると、たとえば艦船だけをみても、安政元年から慶應三年までの購入百十一隻、そのうちの三分の一が幕府で、三分の二が薩、長、土を先頭とする各藩の買入れであつた。日本で最初のものといわれる、土佐侯の命令で、本木昌造がつくつた蒸汽船模型も軍艦であつたように、近代日本の貿易のはじまりは武器ばかり買つている。それでも千歳丸以來、元治、慶應と、上海往來も、四五年も經過してくると、いくらか毛色が變つてきた。たとえば、元治元年に上海へ來た美濃の人で安田老山という畫家や、畫家で英語に堪能、のち香港に移つて日本漂民の世話をした八戸喜三郎、越後の畫家で長井雲坪など、「上海史話」や「滬上史談」にあげてあるが、美作の人で日本新聞史上に元祖として知られる岸田吟香や、前卷でみた「サツマ辭書」編纂者の一人、薩摩の前田正名なども、幕末いわゆる「上海へ洋行」した人々であつて、前者は慶應二年の一八六六年、後者は慶應四年の一八六八年であつた。
そして吟香と、正名の上海渡航が、ダイア活字の後身であるガムブルの電胎活字が、上海から長崎へ渡來するため水先案内として、歴史的な意味をもつものであつた。吟香も正名も、それぞれに獨立に行動しているし、ギヤムブルと昌造を結びつける、直接の機縁とはなつていないのだけれど、それは上海にあつてはじめて日本文字、つまりこの場合片假名の電胎活字を作らせ、日本人自身の意志によつて使用したというほどの事實だけれども、日本印刷史上、充分に頁を占めるほどの事柄であつた。同時にまた、文久二年以來日本人の上海往來としてみれば、その多くが大小藩の直接間接の政治的經濟的使命をおびて渡航する者であつたり、個人的な場合にも、それが至つてロマンチツクな畫家文人の漂泊であつたのにくらべると、これはだいぶ毛色が變つて、文化的な性質をもつていた。吟香は武士でもなければ、いわゆる文人墨客でもなかつた。前田は薩摩の藩士であつたが、脱藩以後は扶知をはなれた一青年でしかなく、しかもいわゆる「志士」とちがつて、なんの背景ももつていなかつた。周知のように、前者はヘボン博士の助手として、「ヘボン辭書」印刷のためであり、後者は同じ和英對譯「サツマ辭書」印刷のためであつて、こと前卷でみたように後者の方は、浪々の青年らが菊判一千頁にちかい大辭書を、その發刊の理想から本の出來ばえ、經濟上の損得一切を自己の一身にかけて、とにかく成就させたということが、古えの陀羅尼經以來にみる破天荒の大仕事だつたのである。
つまり、幕末の上海渡航も、吟香、正名らに至つて、高杉らのそれと比べるときは、わずか四五年の差でありながら、急速な質的變化があるわけであつたが、しかしいずれにもしろ、記録にみる當時の上海在住の日本人は少數で、たとえば次のような岸田の上海日記にみても容子がわかる。
「廿一日(慶應三年三月)、ひるから、きんきへいて見るに、弘光、明日、香港へいくとて、したくしてゐる。曾我彌一といふ人がきてゐる。きのふ逢た。處々あるいてきたさうだが、香港で日本の三味線をひいてゐるのを見たといふ。(以下略)」
「廿四日、てんき、おほよし、よつじぶんにぶらりと出て、どこへいかうかとおもひながら、河岸を南へすた/\あるくに、ふと軋位佛の招牌を見て、此間、弘光のいふた事をおもひ出して、このうちへたちよつて、日本人がゐるかといへばゐますとて、支那奴が案内してくれて、はじめて曾我準造にあふ。いろ/\はなしをしておもしろし。梁川の藩中の人なり。――」
弘光は八戸善三郎のことで、「準造」は曽我祐準のこと、前記したように祐準は、イギリス商船に乘りくんでカルカツタまでいつたが、海軍志願の彼には商船では面白くなく、ふたたび上海へ引返したときのことであつた。もともと幕府は、自らは千歳丸などを仕たてて、最初の上海貿易をやつたが、一般に海外渡航を免許したのは慶應二年のことであつた。高杉や五代やが幕府役人の從者や人夫に化けたりして、千歳丸に便乘したのは有名な話だけれど、慶應になつてからでも、曾我祐準が、英商ガラバの斡旋で商船に乘りこむためには、柳河藩から扶知離れした形式をとらねばならなかつたし、熊本藩の竹添進一郎など、表向きには「漂流」といふことになつていた。
しかし、ここで大切なことは、上海の文化を日本の長崎や横濱に導びいた人々が、記録にも明らかな以上の人たちだけではなかつたということである。それは、長崎にもどれば奉行の手によつて、暗らい所に入れられねばならぬ、たくさんの漂流民、それから外人や支那人に買われた多くの男女、或いは密航者たちであつて、表向きにも裏向きにも、藩とか幕府とかの庇護も何にもない人々が、記録にのこるよすがもないままに、文化の歴史をすすめる大きな土臺石になつていただろうということである。そういう人々は、きつと吟香の日記にみるような、何の某がどこそこの旅館にいるという存り方ではなかつたであろうし、記録にないものは叙述のしようもないけれど、たとえば明治元年、つまり慶應四年、一八六八年の上海に「田代屋」という長崎出の日本商人があつて、日本婦女子のための小間物を賣つていたと「滬上史談」(九二頁)は書いているから、その買手たるべき日本婦人が何人か何十人か、少くとも慶應四年以前から在住していたことは確かである。また工部局墓地にはたくさんの日本人墓碑があつて、それらのうちには、アメリカ飛脚船乘組員茂助、利七外三人によつて「江戸淺草材木町徳助、相州小田原在天坪村七之丞」二人の靈のために「明治四辛未六月建之」というのもあるし、外人墓地にも澤山の日本女性の墓石が混つている。たとえば「マリヤ・ハシモトの靈に獻ぐ、一九一一年十月九日歿、行年七十三歳と英文で認めて、下方に漢字で「麥理海細麥多」和歌山縣日高郡御坊東町橋本仕歿明治四十四年十月九日」というのがあり、「安らかに眠り給へ、セレツザ・マリヤ・ド・ジーサスの靈に獻ぐ、一九〇九年六月廿五日歿とポルトガル語で認め、主の司る幸福なる死、とラテン語で書加へてある。下方には漢字で、明治肆十貳年、島谷カネ長崎人第陸月念伍日死ス」というのがあり「カキガワ・パリサーの靈に獻ぐ、一八九六年三月二日歿、行年四十七歳、我らの愛する唯一の母は永遠に眠れり、怖れを知らぬ天に登りて永遠に祝福されぬ、逝けど忘る能はず、と全部英文で綴つ」(前掲八七頁)」たのやがあるという。カキガワ・パリサーの碑は、彼女の毛色眼色のちがつた愛兒たちによつて建立されたのだろうか。セレツザ・マリヤ・ド・ジーサスは死歿年齢が明らかでないけれどマリヤ・ハシモトは行年七十三歳というのだから、明治四十四年としても、彼女がかつて若く美しかつた日に、外國人に伴われて海を渡つたのだとするならば、或は幕府の千歳丸よりはるかに以前だつたか知れない。さらにまた一八七〇年明治三年の工部局人口統計では、當時の上海在住日本人合計二十九名、そのうち二十二名までが「船員」となつているそうで、女性は一名もないという。これは上海における日本女性のありかたか[#「ありかたか」は底本のまま]特殊だつたろうことを示すと同時に、男性でもその大部分が「船員」だつたということは、この統計の正確さ不正確さは一應べつとして、吟香の日記にみるような日本人のあり方でないところの日本人が、相當多數だつたことを物語るものだと考えられる。
淺草材木町の徳助、小田原在天坪村の七之丞が船乘りだつたろうことは、その建立者たちによつても想像できるところだが、記録に殘つている漂流民、屋張[#「屋張」は底本のまま]の音吉そのほかも當時の上海に生存している筈であつた。彼らがたまたま記録にのこつた機縁は、たとえば天保六年、一八三五年、前卷でみたように「モリソン號」で送還されようとしたからで、屋張[#「屋張」は底本のまま]の船乘り音吉、久吉、岩吉ほか數人、また肥後の漁民庄藏、壽三郎、力松など、「モリソン號」にからまる政治的焦點の、餘映に照らしだされたからに過ぎない。ことに音吉は一八五四年、安政元年、イギリス軍艦に通辯として乘くみ長崎に來て、當時の蘭學書生福澤諭吉と對面していたり、肥後の力松は一八五五年、安政二年、露土戰爭の餘波で、プーチヤチンの艦隊を追撃してきたイギリス軍艦が、凾館へ侵入したとき、艦付き通辯として幕府役人との通辯に當つていることが「大日本古文書卷十」に記録されたりしている。九州天草生れ、十三歳のとき漂流、片假名の日本語を示して通辯した日本人「通辯リキ」と書かれている。
漂流民の多くが故國に歸れなかつたことは「じやがたら文章」以來有名なところであつた。肥後の力松連中も、尾張の音吉の連中も、遂に戀しい日本へ戻された形跡はない。モリソン號で追い戻された音吉は、安政元年、再度長崎へきたとき、「其中の一人は、同じく日本語にて肴買ひたし、金は澤山ありといひしかば、賣る肴はなしと答へしに、私は日本尾張國の御米船に乘り組みたる者にて、十六歳のとき漂流し、漸く七年前、薩摩まで連れ渡されたれど、命に係はると申し聞かされて、據ろなく、イギリス國へ歸れり。宗門所詰の妻の十八歳なるがある外、島原にも懇ろなる者一人ありしと咄し」(「滬上史談」九八頁)たという。この音吉は、のちに外國人を妻とし、上海に住んでいて、文久二年、一八六二年、中牟田倉五助[#「倉五助」は底本のまま]が人ずてにきいて訪ねていつたが、あいにく會うことが出來なかつたと、「中牟田倉之助傳」は傳えている。
漂流民についての研究は、史學の間でもまだ未開拓の分野だとされているそうだが、田保橋潔氏の「幕末海外關係史」には、たとえば岩吉、音吉の一行は太平洋上に漂ようこと十四ケ月、カナダ、コロンビア州の沿岸クインシヤイロツト島に漂着して、アメリカインデヤンの手に落ちていたが、アメリカ商船によつて救出された。この頃イギリス及びアメリカは、そのほかフイリツピンや、南洋諸島に漂着した日本人を收容し、新教宣教師の手にあずけて、マカオや香港あたり轉々させたという容子が記してある。これらの漂流民が、みんなでどれほどの數であり、どんか名前だつたか、もちろんわかりようもないが、私はここでフツとおもいだす。前に述べた新教宣教師で、のち上海で活動していることを「オブロモフ」の著者によつて消息されたメドハーストの世界最初の「和英語彙」が、當時マラツカにあつた英華學堂内の、日本人勞働者二人の協力によつて出來たということである。
もちろん「二人の日本人勞働者」が音吉たちであるかどうかはわからない。音吉たちの漂流は天保二年、一八三一年で、「和英語彙」が一八三三年の發行であるから、そして「和英語彙」が「支那叢報」のブツクレビユにみるような素朴な單語集にすぎないとすれば、時間的には無理がないけれど、よし、それが音吉らであろうと、ほかの日本漂民であろうと、事の本質の重要さに變りはないわけだ。メドハーストより二三年遲れて、支那へまたドイツ人ギユツツラフも「日本語はマカオで漂流民からギユツツラフが先づ學び、後にウイリアムスも習つた。ウイリアムスの廣東『支那叢報』印刷所には日本人が二名ゐたらしく思はれます。」と、前掲「上海史話」の著者からの手紙の一節にあるし、またほかにも、ギユツツラフに日本語を教えたのは音吉、久吉の二人だという説がある。しかしいずれにもしろ、日本をおとずれて、渡邊華山や高野長英に、命がけの文章をかかせ、鎖國日本をおしゆすぶつた「平和の使節」といわれる「モリソン號」の、導びきとなつたのがギユツツラフの「日本語」であり、「ペルリの艦隊」「嘉永の黒船」の通譯が、ウイリアムスの「日本語」であつたのをみるとき、それが誰だつたにもしろ、日本漂流民の功績が、歴史の大きな齒車の一つとなつていることを否むことは出來ないだろう。
廣東の「支那叢報」印刷所にいた日本人が、マラツカの英華學堂印刷所にいた「二人の日本人勞働者」と同一かどうか、私にはわからない。またメドハーストの「和英語彙」の日本文字がどんなものであつたか、木彫か、金屬彫刻か知るよしもない。しかし前掲「上海史話」の著者は手紙の一節で、コールの後任ギヤンブルが來任してから、「――一八六〇年十二月印刷所を上海に移轉して擴充し」たとき「二種の新漢字活字を有し、日本文の活字(小型)も有してゐました。日本文字といふのは四十八文字の假名活字のことと思はれます。」と書いているとき、私はそれを自然に肯定することが出來るのである。岸田吟香が「ヘボン辭書」の印刷に當つて日本文字の種字を書いて、金屬活字を作らせたという事實は日本印刷史上有名で、たとえば、後年吟香は追憶して「岸田吟香氏の朝野記者に語りし新聞實歴談」(石井研堂著「明治事物起原」)の一節はいつている。「當時上海に美華、墨海の二活版所あり、共に耶蘇宣教師が漢文聖書を印刷して布教に資するものなり、さて印刷せんとするに方りて、この活版所に、日本かな字の無き不都合に逢ひ、予自ら平かな片かなの細字(五號)版下を書き、之を黄楊に刻ませて、字母を作り、活字を鑄造せしめたるが、我邦の假名字を以て、鉛活字となせるは、蓋しこれが嚆矢ならんか。」ところが、これは吟香が知らないので、黄楊に木彫したことは、電胎法字母をつくることができた證據であるし、かなの鉛活字の傳統は、前卷以來みたところ、すでに昌造の「蘭話通辯」があるし、英華學堂でつくられた「日本勞働者」のそれによるものはもつと古い。しかし、私が岩崎克己氏の家でみた「サツマ辭書」の片假名活字の字形はなるほどりつぱであつた。「ヘボン辭書」と同一のものを使つたという、この片假名は、しよせん「尾張の音[#「音」は底本のまま]」や「通辯リキ」などに書ける文字ではないけれど、それにしても、金くぎ流の文字で、たぶんは、めつたに使われることもないままに、不揃ひにもなつた何本か、何十本かの片假名活字が、マラツカ以來、廣東、香港、寧波、上海と、轉々しつつ、工場のすみつこに埃りをあびていただろう、その歴史こそ貴重であつたと思うのである。
世界文化連載分、十九
しかしまた、上海で、岸田吟香が片假名の種字をつくつて、日本文字活字をふたたび誕生させたということは、一方からみると、けつして偶然ではなかつた。周知のように、吟香は元治元年にジヨゼフ彦(濱田彦太郎)らと“新聞紙”を發行した。「新聞」と名ずけたものには、これよりさき文久二年に開成所教授、さきにペルリ來航當時通詞として活動した昌造の同僚堀達之助らによつて編輯されていた「官板バタビヤ新聞」や「海外新聞」などがあつたけれど、これはそれぞれに一册の書物であり、外國の新聞から抄譯したものを、時間の制限なしに、刊行され書店から發賣されたものであつた。しかし吟香の“新聞紙”はリーフレットである。月に「三四回」ずつ發行されて勿論日刊でも週刊でもなかつたが、それは能うかぎり早く、しかも講讀者を予約して配達されたものであつたという點で、日本で一番最初に、新聞の性質に近ずいた新聞であつた。
「予が“新聞紙”を刊行したるは元治元年にして、之を刊行せんと企てたるは、曾て横濱に在てドクトル・ヘボン氏と共に和英對譯辭書を編纂する頃、ジヨゼフ彦といふ者と相往來したる時にあり。――一日彦藏予等と語りて曰く、米國には新聞紙といふ者あり。專ら世間の珍しき事及び日日の出來事などを書き集め、之を世間に公布するにありと。――即ち彦藏は西洋新聞を飜譯し、予と本間氏とはこれを平かな交りの日本文に綴りたり。さればその頃は活字等一切なければ、予ら自ら版下をかきて木版に刻し、半紙五六枚にて、單に「新聞紙」と名づけ、月に三四回づつ刊行して、自ら横濱市中に配達したり云々。」と、吟香は「明治事物起原」所載「朝野記者に語りし新聞實歴談」の一節に語つている。
いわば漂流民ジヨゼフ彦の知識を通じた摸倣であるが、こういう社會的要素は、すでに當時の日本に醸成しつつあつたのであろう。ことに文中「これを平かな交りの日本文に綴り」と云々は、吟香の新らしい平民的思想を示すものであり、新聞を創ろうとする思想とつながるものにちがいない。私は未だに“新聞紙”を見たことがないけれど、吟香が明治元年二度めに起した「横濱新報もしほ草」の文章は(後でみるところだが)當時の他の新聞に比べても、圖ぬけて假名の多い文章であるが、それは吟香がアルハベツトに親しんだところから生れた觀念というよりは、もつと新聞がその對象とするような大衆的なもの、平民的なものが、彼の身うちに思想として成長していたからであろう。逆にいえば、そういう彼の觀念こそが“新聞紙”を摸倣させたかも知れない。そしてそういう彼が「その頃は活字など一切なければ」「自ら版下をかきて木版に刻」さねばならなかつたし「自ら横演市中を配達」せねばならなかつたということは、當然「新聞」がもつ時間的制約とまだ機械化されない當時の日本印刷術との矛盾に突き當つたことであつた。「新聞」を印刷するに適當な紙製法が發達していたならば「半紙五六枚」を綴じあわせないで、大判の一枚刷りとしたであろう。金屬活字や印刷機が出來ていたらば「版下を書」いたり「木版に刻」んだりしないで、フランクリンの如く、しかも日刊が出來たであろう。したがつて吟香らの「月に三四回」の“新聞紙”は、當時にあつては最大限度のものであつたといえる。
したがつて「姜先生と申人はあめりか人にてぎやんぶると申しますが、此人美華書館の主人(七八字不明)至てこころやすくいたしますが、活字版屋の事故もとよりそればかりが(六七字不明)至て(二三字不明)い人なり。日本へいて片カナ平がな活字板をすることをしたいと(十五六字不明)開成所(十字程不明)おたのみになりますれば(十六字程不明)ますがいかがでございましよう。ヘボンこちらにゐるうちに相談になりますれば熟談(五六字不明)ございますから、よくお考へなされて下さいまし。」(土方定一「近代日本洋畫史」二一――二二頁)というのは、吟香が慶應三年正月、上海から日本の川上冬崖あてに書き送つた書翰の一節であつて、彼の金屬や活字や印刷術に對する關心がここにあらわれているのも自然であつた。
書簡の文章は殘念にも(不明)が多いが、大意を判ずるには充分だ。「ぎやんぶる」はギヤムブルであり、「日本へいて片カナ平がな活字板をつくることををしへたい」というとき、それは前章からみてきたところでも明らかなように、電胎字母をふくむ活字の製法であつた。周知のように川上冬崖は明治洋畫の開拓者であり、「開成所」が「蕃書調所」といつた頃からの役人であつたから、吟香は友人の冬崖を通じて、官板ものなど主として出版している開成所へ、日本活字の製法傳授を斡旋したわけである。元治元年に改正された「開成所稽古規則覺書」によると「和蘭學、英吉利學、佛蘭西學、獨乙學、魯西亞學、天文學、地理學、窮理學、數學、物産學、精錬學、器械學、畫學、活字」(文部省編「維新史」第四卷三三三――三三四頁)という科目の列擧があつて、活字もその一科目となつていたのだから、至極當然であるが、しかし吟香の、この斡旋がどう經過したかは、今日も明らかではない。前卷でみたように開成所には萬延元年大鳥圭介によつて發行された「斯氏築城典刑」の彫刻鉛活字などの印刷傳統があつた筈であるが、おそらく、この頃慶應三年から明治元年へかけての、國内的變革期にあつては、幕府役人であつた書翰の受取人も、また開成所自身も平和的な事業に手をつける餘裕がなかつたのであろうか。
さて岸田吟香が、ヘボン博士夫妻に伴われて上海にきた一八六六年十月頃の美華書館はどんなところで、どれほどの印刷能力を有したか、またどういうふうに整版され、吟香自身どういうふうにはたらいたろうか? 殘念ながら、私は吟香の上海日記ぜんたいをみる機會を末だに[#「末だに」は底本のまま]もつことが出來ない。
「なにさま、印刷場は寺の下にあつたということだ。吟香らは二階に住んでな、うむ」
昭和十八年の二月、ある寒い日の午後、まだ在世中だつた「明治事物起原」の著者を、下谷にたずねていつたことがある。ひどく無人な家であるが、うすくらい二階で、研堂老人は私にいつた。
「――ひどくきりつめた生活でな、言語は通ぜんし、不便だつたという話だつた」
こたつに背をまるくしながら、抑揚のない、ひくい聲で、こんなふうにかたる。この人には、私のたずねる岸田吟香のことが、まだ「歴史」ではないのだつた。私が上野の圖書館で讀んでいる「明治事物起原」は、手あかでよごれた革表紙の、カード番號も、2とか3とかいう、もう古い本なのに、この人は、その時代を、今日に生きているのであつた。人間にとつて、なんと、その鑄りつけられた「歴史」はおもいものであろう。
「うむ、まあ、どうやら、この冬も越せるか、と思つている――」
「ヘボン辭書」から「サツマ辭書」の話もしてくれながら、そんなこともいつた。前田正名のことでは、このあとに紹介するような文章ののつている雜誌を、室いつぱいにつみあげてある書物のうちから、さがしてくれるために、まがつた腰をおこして、たんねんにかたずけはじめた。それは一ととぢの雜誌類をもちあげるのでも、たいへんな努力であつたが、私がそばから手傳うのも許さないような、いつこくさがあつた。
「ああ、きみは『太陽のない街』を、かいたんだね」
こたつにもどつて、まだ呼吸をはずませていたが、もう皈るころになつてから、研堂老人がいつた。私はうれしくなつて、あいてをみると、こんどは咳きこんで、老人はこたつぶとんに顏をふせているのだつた。
「どうれで[#「どうれで」は底本のまま]、きいたような、名だとおもつた――」
しかし、石井研堂氏は、とうとう、その「冬が越せ」なかつた。岸田吟香のことを、じかに話せる人は亡くなつた。――
「寺」というのは教會のことで、「寺の下」というのは、或は地下室のことかも知れない。教會のことを「寺」とは高杉も日記にそう書いているし、前田正名の日記にもあり、「寺」でキリスト教徒たちが祈祷をするさまも書いてあるから、疑がいなかろう。また「上海史話」の口繪にある安田老山筆の當時の上海風景には、河岸に沿うて林立する、數階建の西洋家屋があるから、きつと禮拜堂につながる洋家屋の一部分に印刷工場があつたと想像出來るし、その場所は「當時の小東門外にあ」つたと「滬上史談」の著者は書いている。
次に日本文字混じりの「ヘボン辭書」が、毎日どれくらい整版されたか?、吟香はどんな風にはたらいたか? を知るためには「滬上史談」に面白い記事がある。それはこの著者が一八七三年三月二十日(明治六年)のノース・チャイナ・ヘラルド紙から、ブラムゼンという人が「ヘボン辭書」に誤植や見落しが非常に多いという批評を加えたについて當時の美華書館主マテイーア(ギャムブルの後任)という人が、印刷者としての責任上から答えている、その文章を飜譯したものだ。
「本紙十三日號に和英語林集成に對する批評が出た以上、同書印刷當時の事情を發表するのが正しいと思ふ。著者ヘボン博士は自ら全部の校正を見られた。從つて印刷上の間違ひでも、その他どのやうな間違ひでも、その責任はヘボン博士にあつて美華書館にはない。ヘボン博士の校正は次のやうな事情でなされた。この校正を開始するとすぐ博士の日本語教師は去つて了つた。そしてその代理の者は辭書が完成するまで働いたが、ほんの小僧程度で、從つて甚だ正確とは申し難い。博士はこの印刷中ずツと病氣で、非常に惡いために事務所に來る事が出來ず、校正刷を博士の部屋に送つた事が數回あつた。ヘボン夫人の校正に盡した功は貴重なものであるが、夫人も亦病氣で香港へ靜養旅行に行かねばならなかつた。この本は一日八頁の割で上梓されたので、若し博士が完全に健康であり、あらゆる便宜を持つて居られたなら、この不完全な書を完全にするのに、大繁忙であつたらうと思ふ。このやうな不利益な點を考慮すれば、本紙に現れた批評中に指摘された以上にひどい誤がなければ結構だとしなければならぬ。ゼイ・エル・マテイーア」(前掲二七頁)
この文章は全體として印刷者が責任からのがれる爲に強辯しているの傾きがあり、罪の多くを「小僧」吟香に押しつけ過ぎている嫌いもあるが、何にしても一日八頁の割合で校了にまでしたとすれば、ヘボン博士夫妻が病氣だとすると、一人の校正者では、明らかに無理であつた。「サツマ辭書」から察しても活字は大きいが、菊判の辭書ものとなれば今日でも大變だ。沖田氏も書いている。
「右のやうにヘボン夫妻共病氣であつたので、仕事の大部分は吟香に掛つて來た。よなべまでしなければならぬ程忙しかつた。」そして「小僧」とあしらわれた吟香は「どれほどヘボンから月給を貰つて居つたかと云ふと、月僅に十弗であつた。五十仙出せば鶏卵が百個あり、牛肉一封度五仙半、魚一封度七仙と云ふやうな物價安の時ではあつたが、月給の半分は食べるものに要つて了ひ、殘金ではどうすることも出來なかつた。」(前掲二七頁)というのである。
吟香が「小僧」であつたかなかつたか?、吟香はこのとき卅五歳であるが、四十前後とおもわれる頃の、彼の洋服姿の寫眞をみると、頬骨の張つたふとりじしで、眉根のけわしい、毛むくじやらの顏であつた。しかも、この日本最初の完全な形をもつた、日本にはじめて英語というものの大衆的傳統をつくつた和英辭書が、吟香の協力なしには出來上らなかつたのだ、という事實一つで充分な答になるだろうと、私は考えるが、とにかく、當時の美華書館印刷所は、本業の傳道書印刷のかたわらに、菊判の辭書八頁を一日平均に生産する能力があり、そのうち半分のスペースをうずめるだけの日本文字活字があつたことがわかる。
さらにこれより一年後に「サツマ辭書」を印刷した、當時の前田正名の日記(前田三介「社會及國家」昭和十二年四月號所載「上海日記」)にみると、
閏四月三日
(前略)夫より下船いたしガアンボル(ギヤンブルのこと)の處へ漸くに尋ね行候處、ソンデイにて客人有之、一刻相咄候て、夕刻七ツ時分迄寛談いたし、實に丁寧なる事にて、明日林方へ書状爲持候樣可致段承り候。西洋料理に我々上席にて馳走有之候。其後寺へ友朋と差越候、我々共は亭主はボイを連越六ツ過まで町など見物いたし、實に聞きしにまさり手廣に有之候。尤も異人の宅は長崎より比較すれば、大變有之、異國に差越候おもひをなし、立派に作りたり。少々の用事はボイに漢文を以て筆談いたし候(略)」
というのが正名の上海上陸第一日の印象であるが、閏四月三日はまだ改元前の慶應四年である。林というのは何人か明らかにしないが、後續するところからみると、支那人で印刷工場の支配人か職長かとおもわれる。「我々共」というのは、たぶん協力者である正名の兄獻吉と高橋新吉の二人をふくんでいるのであろうが、當時ようやく廿三歳の青年正名の日記は、卅五歳の吟香のそれと比べるとき、西洋文化に對するおどろきがもつと率直でもありつよくもあつた。
閏四月四日
(前略)一、書籍出版の有樣致談判候處、本書甚誤謬有之、且英字にて無之字過分有之候に付、自分誤を我々共に致相談しても可然候得共、中々閑暇無之に付、ウリヤムスと申者當地に罷居候に付、我々共を連越よく談判いたし候て可然候半と存候。此人は和語にも通じ候に付、旁々以都合宜敷と申事に候。明日林も同道、ウリヤムス處へ差越筋に取究置候。」
正名らの辭書出版の目的が、海外留學の費用を得ようためであつたことも、前卷でみたとおりであるが、「前田正名自叙傳」中の一節に「――三人はいよいよ辭書の編纂に從事することとなりしも、何れもそれ丈の學力なければ、行徳(三字缺)といふ二人の學者を頼み、曾て幕府の編纂に成りし和蘭、英吉利の二つの辭書を骨子として」(「社會及國家」昭和十二年二月號、前田三介編)云々とあるように、それは開成所版堀達之助編の「英和對譯袖珍辭書」を改良したほどの原稿であつた。三人のうち、薩藩の洋學教授であつた高橋新吉など、當時長崎在住のフエルベツキにも親しく、英語に堪能と謂われているし、正名なども、九歳のときから和蘭語を學んでいたのであるけれど、ヘボンの弟子であつた吟香校正の「ヘボン辭書」にミスプリントが多かつたように、「辭書の編纂」ともなると「それ丈の學力な」かつたというのは、英語草創の時期として當然のことであつたろうか。また、文中にいう、つまりギヤンブルが、自分は忙しくて原稿の誤りを正しておられぬから、「ウリヤムスと申者當地に罷居」「此人は和語にも通」じているから紹介しようという「ウリヤムス」こそ、モリソン博士の息子、ペルリの黒船の通譯となつたロバート・ウイリヤムスであつた。
そして、
「一、何千部出來可致哉と相尋に付、貳千四百部拵度段申述候處、可致段承り相當。
一、壹部何ドル計の賦に候哉と尋候所、六ドル位と返答致候。何ケ月計にて可致成就相考候哉と尋候所、四五ケ月位にて是非仕度段申通候に付、其内には隨分成就可致段承り候、尤何分輕目に相成候可致に付算當の處は近日一先出版いたし候上、明白に可申通段承り候。右今日の談判にて候。」(前掲四月號所載)
と、閏四月四日の日記がつずいていて、すぐ四月五日に、
「一、今日試に書籍活字植付方いたし候事」というのがみえる。つまり、見本ぐみをしてみないと、正確な値段も返辭出來ないというのであるが、五月五日に「大概枚數は七百枚位にて可相成候はんとガアンボル申候」とあり、ここでいう「枚」は「頁」のことらしいから、七百頁の辭書を、四五ケ月うちには充分本にまで出來ると、答えているわけであつた。四月五日に「試組み」にかかつたものの、翌六日には「一、今日より小の假名文字不足故活字拵方に付三七日相待候樣承り候事」とあつて、小の假名文字が不足で新鑄する間、三週間まつてくれというので、五月の朔日に「一、今日者一昨日活字植付方に相掛り候、少し惡敷(一字不明)然候故(一字不明)方抔いたし候事(三字不明)日本紙一枚丈相濟候、未だ出版無之」(前同)と、月末になつて整版がはじまつている。今日でも六册ものの印刷となれば、若干の日數は準備に要するのが普通だから、不思議はないが、正名たちはもはや日本文字の種字を書く必要はなかつたのだつた。「日本紙一枚丈」というのは、二頁だけ組めたものと考えられるが、「未だ出版無之」と書いた青年正名は洋式印刷術にも一々おどろいて、すぐつずけて「一、仕掛八枚丈無之候得ば、出版難成候事」とも書いている。これで當時の美華書館は八頁掛のシリンダー・プレスを使用していたこともあきらかになるし、八頁そろわねばゲラ刷りは出來ぬもんだと、正名は首を長くしているのだつた。
吟香に劣らず正名たちも苦勞しなければならなかつた。ウイリアムスが「サツマ辭書」に手傳つたかどうか? 四月七日に「一、今朝ガアンボルのすすめによつて英人の漢學に通達した者の方へ同道差越候事」といい、以後はその漢學に通じたる英人ホエレーという名前ばかりが出てくるから、ウイリヤムスは都合惡かつたと思われる「一、三字前よりホエレーと申者漢學に達せし先生へ參り、字引改正いたし候事、尤も明日より其仁の宅へ差越、ウヱブストルになき語度々日記に書(き)相尋、尤も調音を正す筋に約束致候事」とか、「一、今日より別法を仕立書籍取しらべいたし候事、朝八字より十二字迄。二字半より五字半迄、夜七字より十字まで」(前同)などというのがある。正名たちの「サツマ辭書」印刷のための上海渡航は、一方で自身「サツマ辭書」を學ぶことでもあつた。「字」は「時」であつて晝夜兼行、しかも二十三才の青年は倦むことを知らず、五月二日の「ソンデイ」に「一、今七つ過より夕刻までガアムボルの誘引により西洋の寺に參り候事、男ともに百七八拾人に候乎、甚盛成事に候」(前同)などと無邪氣な印象もある。
「サツマ辭書」も「ヘボン辭書」と略ぼ同じく、約九ケ月で出來上つた。慶應四年閏四月三日に上海へ上陸した彼らは、大福帳型の和紙に木版で印刷した「英和對譯袖珍辭書」のかわりにハイカラな皮表紙の「サツマ辭書」をかかえて、明治二年二月神戸に上陸したのである。しかしその間、彼ら薩摩の脱藩青年たちも、上海に上陸してまもない四月廿一日に、故國では置縣制が布かれ、二年一月には薩長土肥が先んじて藩籍奉還するに至つて、とにかく身の始末をつけるために、五月の五日に「拾枚丈土産として差遣候事」と、拾頁のゲラ刷をもらつて中途歸國しており、十月に再渡するまで、約五ケ月間の不在もあるから、正味は「ヘボン辭書」よりずツと短期間であつたわけで、それだけ、上海美華書館の印刷能力も發展していたのであろう。
このように、日本文字の電胎活字は上海で基礎をつくりつつあつた。すでにそれによる書物は日本に上陸していて、こころざしある當時の人々によつて重要な存在となつており、たとえば「ヘボン辭書」初版は忽ち賣切れ、定價の三四倍が市價となつていた。慶應四年閏四月創刊の「美國新聞紙」第六集(東京)は次のように書いている。「亞國ヘボンの英和對譯辭書成就せり、簡便確實にして且つ鮮明なり。英學に志ある諸君ハ坐右に置かずんばあるべからず、然れども多分にあらざれハ速に買はずんハ及はさるべし、横濱三十八番にて賣り出せり――。」木版で發行していた「美國新聞紙」の記者にも、洋式印刷のことはわからなくても「且つ鮮明なり」という文句は忘れることができなかつたのであろう。
考えてみると、吟香の場合も、正名の場合も、英和字引であるということだつた。つまり日本の假名文字の電胎活字をつくらせた動機というものが、日本語とイギリス語の接しよくからはじまつたということだ。このことはまつたく意味ふかい。「江戸の活字」は、齊彬の意志によつて、オランダ語との接しよくにはじまつていること、前にみたとおりである。木村嘉平は、おどろくべき努力によつて、まつたく獨創的に電胎字母の漢字活字までつくりだしながら、ついに日本の活字の傳統となることができなかつたことの、意味の一面がここにある。嘉平の遺品には、前にみたように假名文字がなかつた。齊彬が死んでから、齊彬の意志をこえて、イギリス語とむすびつくことがなかつた事實を、「長崎の活字」の昌造と、くらべてみればわかる。昌造もオランダ語との接しよくから、はじまつたのだけれど、安政の開港前後からイギリス語にむすびつき、しかも彼が最初につくつた鉛活字は、四十八の片假名活字であつたということだ。オランダ語は、徳川期を通じて、唯一ともいつていいほど、日本とヨーロツパをつなぐ外國語であつたけれど、それは弘化四年、一八四七年の「開國勸告使節」オランダ軍艦の來訪までであつたといえよう。ヨーロツパからアジアへおしよせてくる新しい波の主人は、すでに變つていた。幕府の貿易船千歳丸が、そのセンター・マストをイギリス國旗でかざつていたことは、けつして氣まぐれではなかつたのだ。
しかし、吟香も、正名も、永いこと、洋式印刷工場にちかく起きふししながら、電胎字母製法などを、まなびとることはしなかつた。吟香は、のち、いわゆる「支那浪人の元祖」みたいになつた人だが、眼は「毛唐人」をこえて、支那四百餘州ばかりにそそいでいたし、正名は、のち弘安となり、ヨーロツパの科學的農法をとりいれて、日本農業に功勞ある人となつたが、當時はひたすらに、「サツマ辭書」をつくつてもうけた金で、洋行することばかり考えていた。しかも、この頃長崎の昌造は、いろいろと苦心して、その電胎法をまなびとろうと試みながら、いまだにそれが出來ないでいたのである。
「――年來くわだてたりし活版製造の業を成就せしめん」と「資金五萬圓を出して、其の業に從事し、日夜、心を砕かれしかど、容易の業にあらざれば月日と費えを失ふのみにて、進退谷まり」(三谷幸吉、本木、平野詳傳)というのは、安政五年、一八五八年以後、慶應末年、一八六七年までのことで、前卷でみたように、昌造が、安政開港の談判に奔走したあげく、その「痛烈な開國論者」であつたため、安政二年から五年へかけて入獄したといわるる、その後のことである。またある時、「薩藩の儒者、重野鑛之丞氏(安釋)上海より活字を取よせ、印刷を試みたれど、その技に熟せず、庫中に積みおけり」というのをきいて「その機械及び活字を買受けたり。機械はワシントン・プレスにて、活字は和洋二種一組宛なりと云ふ。此を先生の宅に運び、門生陽其二と、日夜を分たす」「先生毎夜眠らず午餐を喫したる後、坐睡に止まるのみ」で、活字製法と印刷技法の習得に苦勞したが、なかなか成功せず「偶々米國の宣教師某、清國上海の地に美華書院と云ふを建て、ガラハニにて字型を製す」るとききこんで、早速、門人を「上海に遣わし、其術を視察せしめしが、彼れ深く其術を祕し」ているので「空しく歸國すること幾回なるを知らず」(前掲四九――五〇頁)というのであつた。殘念ながら、重野安釋が上海から活字を買つたのは何時か、また門人を上海にやつたのは何時か、この文章は、そのへんを少しも明らかにしていないけれど、薩藩の重野安釋が、上海から買いとつた印刷機具は、「ワシントン・プレス」はアメリカものだし、「和洋二種の活字」というのをふくめて、少なくとも美華書館印刷所が、電胎字母製法をはじめた、一八六一年、安政元年[#「一八六一年、安政元年」は底本のまま]以後のことでなければなるまい。
「――記録がのこつていないけれど、昌造翁が、門人を上海にやつたというのは、ほんとか知れませんね」
ある日、芝白金三光町に、平野義太郎氏をたずねてゆくと、そういつた。おだやかなこの學者は、昌造の門人で、その後繼者であつた平野富二の孫にあたるのである。
「その頃になると、長崎と上海の往來は、いま記録にのこつてるよりも、何倍もひんぱんだつたらしいですからね」
卓のうえには、私のために、祖父富二翁ののこした當時の日記や、短册や、いろんなものがひろげてある。大福帳型に、こくめいにしるされた筆文字をめくつてみても、そこから昌造の門人のうち、だれが、いつ、どういう風にして、美華書館へちかずいていつたかはわからない。わからなけれど[#「わからなけれど」は底本のまま]、つよい筆勢の、ところどころ片假名まじりの日記をみていると、古風なうちに、つよいハイカラさがあふれていて、當時の長崎と上海が、まじかにうかんでくる氣がする。――
一八六六年までは、まだ鎖國であつた。しかも、記録にのこらぬような形で、上海、長崎の往來はひんぱんであつた。表むき、裏むきの形でも、藩を背景にした武士たちか、それでなければ、買われた女性、船の勞働者として名もない人々が、往來していたが、昌造はそのどつちでもないのだつた。彼は徳川期を通じて由緒ある「長崎通詞」の家柄でありながら、身分的には、足軽武士にも呼びすてられる「町方小者」に過ぎない。さらに、同じ、安政開港に奔走した同僚たち、たとえば森山多吉郎は外國奉行支配調役に、堀達之助は開成所教授に出世しているときに、彼は「揚り屋入り」をしなければならなかつたような事情が、自分みずからは、なかなか上海密航など、思いもよらぬ環境におかれて、ひとり身をもだえていたのであろう。
底本:『世界文化』4月号 第4巻第4号、世界文化社
1949(昭和24)年4月1日発行
入力:uakira
校正:しだひろし
xxxx年xx月xx日公開
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
*地名
[マレーシア]
ペナン Penang・彼南 マレー半島の西側、マラッカ海峡北口にある小島。1786年イギリス植民地となる。現在マレーシアに属する。檳榔嶼・檳城。
マラッカ Malacca マレーシアの一州。マレー半島の南西部に位置する。同名の市はマラッカ川河口にまたがる港。中継貿易により栄え、15世紀にイスラム化したが、1511年ポルトガルの、1641年オランダの、1795年からイギリスの支配下に入った。1957年マラヤ連邦に加わり、1963年マレーシアの州となる。ムラカ。
[中国]
上海 シャンハイ (Shanghai)中国長江の河口近く、黄浦江下流部にある中央政府直轄の大都市。1842年南京条約によって開港して以来、外国資本の中国進出の拠点で、金融・貿易・商工業の中心地。
香港 ホンコン (Xianggang; Hong Kong)中国本土の南にある特別行政区。香港島・九竜半島・付属諸島から成る。アヘン戦争の後、1842年香港島、60年に九竜半島南端部がイギリスに割譲され、98年九竜半島の大部分と付属諸島とから成る新界が租借地となった。深水の良港で、自由貿易地域として繁栄。1997年中国に返還。
広東 カントン (1) (Guangdong)中国南部の省。省都は広州。面積約18万平方キロメートル。別称、粤(えつ)。華僑の出身地として古くから知られ、海外との経済交流が盛ん。民国時代には孫文ら革命派の根拠地として、北方軍閥に対立する革命勢力の拠点となった。(2) (Canton)広州の別称。
英華学堂 えいか がくどう? 一八一八年、モリソンによってマラッカに創立された学校と印刷所。サミュエル・ダイアが関係。
マカオ 澳門 (Aomen; Macao)中国南部、広東湾口にあるマカオ半島と2島から成る特別行政区。古くは濠鏡澳・阿媽港とも書き、日本では天川(あまかわ)と称した。1557年以来ポルトガル人の居住を許し、1887年割譲。中華人民共和国成立後もイギリス領香港と並んで特殊な地位を占めたが、1999年中国へ返還。
舟山島 しゅうざんとう 中国浙江省の北東部の杭州湾沖にある舟山群島のうちの最大の島。島々はいずれも険阻で、山頂は鋭くとがっている。潮流が強い。東シナ海を航行する船舶の中継・避難所として重要(外国コ)。
美華書館 びか しょかん The American Presbyterian Mission Press アメリカ長老会が中国に設立。出版・印刷機構。1844年、マカオに花華聖経書房を設立。リチャード・コール(谷立)が責任者となり、2名の印刷工と1名の植字工がいた。1854年、花華聖経書房は浙江省寧波に移転。1858年、アメリカ長老会は印刷技術に詳しい宣教師ウィリアム・ギャンブル(姜別利)を派遣して、花華聖経書房を担当させた。花華聖経書房は美華書館と改名し、1860年12月に寧波から上海小東門に移転。さらに1874年には小東門から北京路に移転。
寧波 ニンポー/ねいは (Ningbo)中国浙江省北東部の沿海港湾都市。1842年南京条約により開港。遣唐使派遣時より日中交通の要地として知られた。人口156万7千(2000)。
揚子江 ようすこう (Yanzi Jiang)長江の通称。本来は揚州付近の局部的名称。
ヴィクトリア市 香港が1842年にイギリスの植民地となったのち、最初に都市化した居住地の1つである。当初はクイーンズタウン (Queenstown) と呼ばれたが、すぐにヴィクトリア・シティの名で知られるようになった。ほとんどすべての政府機関の本部が置かれているため、イギリスの植民地時代には、しばしば香港の首都とも呼ばれた。
上海道台
呉淞 ごしょう 上海市北部、揚浦区の臨海工業地区。上海の中心より北20km、黄浦江河口左岸に位置。上海事変・日中戦争での激戦地で、呉淞砲台がある(外国コ)。
呉淞河 → 呉淞江か
呉淞江 ごしょうこう 中国、華東地区東部の川。江蘇省南部の太湖に源を発し、東流して上海に至り、黄浦江と合して長江に注ぐ。別称、蘇州河。長さ58.5km。
上海伝道病院
墨海書館 ぼっかい しょかん 墨海活版所。上海。1864年ごろ印刷部門を閉鎖。印刷機の動力に牛を使う。(タイポ p.33)
上海工部局墓地
工部局 こうぶきょく 清末以降、上海・天津などの外国租界にあった行政機関。居留各国人および中国人の代表によって組織する市参事会の事務機構。その成立当時は特に租界設定の土木事業に重点を置いた。
東インド会社 アジア地域との貿易独占権を与えられた特許会社。重商主義帝国下、特に貿易差額主義に基づく経済活動に極めて大きな役割を果たした。なお、ここで言う「インド」とはヨーロッパ、地中海沿岸地方以外の地域をさす。同様の特許会社に新世界との交易を行った西インド会社がある。各国ごとに設立され、オランダ東インド会社は世界初の株式会社としても有名。
イギリス東インド会社 1600-1874 1600年に設立された合本会社。貿易商人の組合に近い性格を持っていたレヴァント会社、モスコー会社などの制規会社とは異なり、自前の従業員を持ち、貿易を行った。ロンドンに本社を置く。
オランダ東インド会社 1602年3月オランダで設立され、世界初の株式会社といわれる。会社といっても商業活動のみでなく、条約の締結権・軍隊の交戦権・植民地経営権など喜望峰以東における諸種の特権を与えられ、アジアでの交易や植民に従事し、一大海上帝国を築いた。本社はアムステルダムに設置。18世紀末に政府により解散させられた。
ロンドン・ミッショナリー・ソサエティ London Missionary Society ロンドン伝道協会。海外の非キリスト教徒に福音をもたらすことを目的に、1795年ロンドンで設立された組織。おもな後援者は会衆派教会であった。J. クックの太平洋探険を契機に太平洋地区を最初の宣教の場に選ぶ(『世界大百科事典』平凡社、2007)。
[インド]
セラムポール → セランポールか
セランポール Serampore インド東部、西ベンガル州中部の町。カルカッタの北19km。フーグリ川下流右岸に位置。旧称、スリランプール Srirampore。
[シンガポール] Singapore・新嘉坡 (梵語で「獅子の都」の意) (1) マレー半島の最南端の島。その属島と共に構成する共和国。1819年イギリス植民地、1963年イギリスから独立し、マレーシア連邦の一州になったが、65年分離独立。住民の約4分の3が華人。面積618平方キロメートル。人口424万(2004)。(2) (1) の首都。シンガポール島南岸にあり、交通・軍事上の要地。また工業・金融の中心。東南アジアの貿易上の拠点として発展。もとイギリスの極東における根拠地。星港。
[イギリス]
ロンドン London イギリス連合王国の首都。イングランド南東部、テムズ川にまたがる大都市。
Sheffield, Scientibis〓, School
シェフィールド Sheffield イギリス、イングランド北部の都市。ヨークシャー地方南部に位置し、鉄鋼業のほか刃物製造が盛ん。人口53万(1996)。
Yale callege → イェール大学
イェール大学 Yale University アメリカのコネチカット州にある私立大学。1701年創立。18年後援者イェール(Elihu Yale1649〜1721)の名を記念してイェール‐カレッジに改称。1887年大学となる。エール大学。
マンチェスター Manchester イギリス、イングランド北西部のランカシャー地方にある商工業都市。産業革命の発祥地で、かつては綿工業の中心地。人口43万1千(1996)。
[フランス]
リオン → リヨンか
リヨン Lyon フランス南東部、ローヌ・ソーヌ両川合流点にある都市。ローマ時代に起こり、史跡は世界遺産。大聖堂・大司教館・大学などがある。繊維・機械などの工業が発達。人口44万5千(1999)。
[アメリカ]
ペンシルバニア Pennsylvania ペンシルヴァニア。アメリカ合衆国北東部、大西洋岸から内陸にのびる州。独立13州の一つ。州西部は19世紀以来、石炭や製鉄産業の中心。州都ハリスバーグ。
カリフォルニア California アメリカ合衆国太平洋岸の州。州都サクラメント。経済規模は合衆国の州のうち最大。農業のほか電子工業・航空宇宙産業が盛ん。加州。
ニューヨーク New York・紐育 (1) アメリカ合衆国北東部、大西洋岸の州。独立13州の一つ。州都オルバニー。(2) ニューヨーク州の都市。ハドソン河口に位置する世界屈指の大都市。また、世界経済上の大中心地で、エンパイア‐ステート‐ビルディング・国連本部など多くの高層建築(摩天楼)がそびえる。オランダ人の入植が起源。人口800万8千(2000)。
[カナダ]
コロンビア州 → ブリティッシュ‐コロンビア
ブリティッシュ‐コロンビア British Columbia カナダ太平洋岸の州。山岳地帯で、針葉樹林が広がり林業が産業の中心。国立公園が多く観光業も盛ん。州都ヴィクトリア。
クインシャイロット島 → クイーンシャーロット諸島
クイーンシャーロット諸島 The Queen Charlotte Islands カナダ、ブリティッシュコロンビア州の太平洋岸沖の群島。鋭い逆三角形をなしていて、北のグレアム島、南のモレスビー島の2つの大きな島をはじめとして、大小約150の島々からなる。ほぼ北緯52度から54度、西経131度から133度に位置しており、北端は州本土よりアラスカ州の方に近い。イギリス国王ジョージ3世の王妃シャーロットにちなんで名付けられた。先住民からはハイダ・グワイ(Haida Gwaii)と呼ばれる。行政上はブリティッシュコロンビア州スキーナ・クイーンシャーロット地域に属する。
[キューバ]
ハバナ Havana キューバ共和国の首都。キューバ島北西部、メキシコ湾の良港。砂糖・タバコ産業の発展とともに繁栄し、植民地期の白い街並が残る美しい都市。旧市街などが世界遺産。人口220万2千(2003)。
[オーストラリア]
シドニー Sydney オーストラリア最大の都市。同国の南東部にある貿易港。ニュー‐サウス‐ウェールズ州の州都。人口371万3千(1993)。
字林洋行 ノース・チャイナ・ヘラルド社。
アメリカ伝道協会
伝道協会 でんどう きょうかい キリスト教伝道のため、宣教師派遣の目的で設立された団体。
ロッセル商事会社
軍艦アギンコート
貿易船千歳丸
健順丸
幕府船ガンジス号
フランス船アルヘー号
モリソン号
浜松藩 はままつはん 遠江国の浜松宿(現在の静岡県浜松市)の浜松城を居城とした。
長州藩 ちょうしゅうはん 江戸時代に周防国と長門国を領国とした外様大名・毛利氏を藩主とする藩。家格は国主・大広間詰。
柳川藩 やながわはん 柳河藩。筑後国に存在した藩。藩庁は柳川城(現福岡県柳川市)。当初は筑後一国を支配する大藩であったが、のち、筑後南部のみを領有する中藩となった。
熊本藩 くまもとはん 肥後国(熊本県)の球磨郡・天草郡を除く地域と豊後国(大分県)の一部(鶴崎・佐賀関等)を領有した藩。肥後藩とも呼ばれる。藩庁は熊本城(熊本市)に置かれた。
芸州藩 → 広島藩
広島藩 ひろしまはん 安芸国一国と備後国の半分を領有した藩で、現在の広島県の大部分にあたる。藩庁は広島城(広島市)に置かれた。芸州藩(または安芸藩)と呼ばれることも多い。
薩藩 → 薩摩藩
薩摩藩 さつまはん 江戸時代に薩摩・大隅の2ヶ国、日向国諸県郡、南西諸島(大東諸島及び尖閣諸島を除く)を領有した藩。現在の鹿児島県全域と宮崎県の南西部を領有したほか、沖縄県の大部分を服属させた。
土佐藩 とさはん 土佐国(現在の高知県)一円を領有した外様藩の通称。正称は高知藩。藩庁は高知城(高知市)にあった。江戸城内控えは大広間詰。
梁川藩 やながわはん 江戸時代の一時期、陸奥国(後の岩代国)伊達郡に存した藩。現在の福島県伊達市梁川町鶴ヶ岡の梁川城跡に陣屋を置いた。当初は尾張藩徳川家の支藩。後には一時、松前氏が入封した。
[江戸、東京]
浅草材木町
開成所 かいせいじょ 江戸幕府が設立したオランダ・イギリス・フランス・ドイツ・ロシアなどの洋学の研究・教育機関。1863年(文久3)洋書調所を改称したもの。68年(明治1)新政府により開成学校として再興され、69年大学南校、71年南校と改称、73年再び開成学校と称。77年東京大学の一部となる。
蕃書調所 ばんしょ しらべしょ 1856年(安政3)江戸幕府が九段坂下に創立した洋学の教育研究機関。洋学の教授・統制、洋書の翻訳に当たる。翌年開校、62年(文久2)一橋門外に移転、洋書調所と改称、63年さらに開成所と改称。
下谷 したや 東京都台東区の一地区。もと東京市35区の一つ。
芝 しば 東京都港区の一地区。もと東京市35区の一つ。古くは品川沖を望む東海道の景勝の地。
白金 しろかね 東京都港区の地名。狭義には現在の住居表示の町名(白金一〜六丁目)を指す。広義には現在の港区白金に白金台・高輪の一部を含めた旧芝白金地区全域を指すことがある。
三光町 さんこうちょう 現、港区白金。
[相州] そうしゅう 相模国の別称。
小田原 おだわら 神奈川県南西部の市。古来箱根越え東麓の要駅。戦国時代は北条氏の本拠地として栄えた。もと大久保氏11万石の城下町。かまぼこなどの水産加工、木工業が盛ん。人口19万9千。
天坪村 → 雨坪村か
雨坪村 あまつぼむら 現、神奈川県南足柄市。
[和歌山県]
日高郡 ひだかぐん 廃藩置県以前に成立した和歌山県の郡。
御坊東町 ごぼうひがしちょう?
◇参照:Wikipedia、
*年表
一八一五 トムス、マカオの東インド会社事務所においてモリソンの辞書印刷のため漢字の金属活字を発明。
一八一七 辞書第一巻が出版。
一八二〇ごろ フリードリッヒ・ケーニッヒ、シリンダー・プレスを発明。
一八二二 六月二日 ミルン、没。
一八二七 ダイア、ペナンへ来る。
一八三〇 ブリッジマン、広東へ来て『支那叢報』を創刊。
一八三〇 ロバート・ウィリアムス、広東へ来る。
一八三一(天保二) 音吉たち漂流。
一八三二(天保三) ペナン漢字活字の誕生。
一八三三 ダイア、一万四千字の字母を作り、小型のものも製造。
一八三三 『和英語彙』発行。
一八三五 メドハースト、モリソンの没後を受けて広東に来る。
一八三五(天保六) 漂流民、尾張の船乗り音吉・久吉・岩吉ほか数人、また肥後の漁民庄蔵・寿三郎・力松ら「モリソン号」で送還されるも追いもどされる。
一八三八 W・ロカート、広東にくる。
一八三九 医者で宣教師のA・ホブソン、マカオに着き、まもなく広東へきてブリッジマンと同居。
一八三九 ファラデーの法則、完成。
一八三九 支那政府、アヘン密輸へ抵抗。以来、イギリス艦隊の舟山列島占拠となり、上海城攻略。
一八四〇 ロカート、英軍が占領していた舟山島に入る。
一八四一 スエズ運河が開通。
一八四二 英華学堂、香港に移転。
一八四二 ダイア、没。
一八四二 舟山島で待機していたロカート、開港の第一日に上海へ入って布教と医療の活動をはじめる。
一八四二 南京条約、成立。イギリス人二十五人、みな上海城内に住む。
一八四二 香港停泊中の軍艦アギンコートの乗組員が半数まで死亡。
一八四三 香港駐屯軍一五二六名の一年内入院度数七八九二回。
一八四四 ローリィ、パリで作られた漢字字母を取り寄せ、支那へ向けて発送。コールを主任としてマカオに印刷所を起こす。美華書館、始まる。
一八四五 美華書館、寧波へ移転拡張。ダイアの活字を採用。
一八四五 香港へ入港した商船の数一六八隻。
一八四五 上海道台と初代英領事との間に土地章程が決められて、上海最初の外人租借地ができる。当時の面積は八三〇畝。
一八四六 上海にアメリカ船入港。
一八四七(弘化四) 「開国勧告使節」オランダ軍艦、来訪。
一八四八 美華書館、一日平均一三・三一四1/2ページを印刷。
一八四八 上海の外人租借地、二八二〇畝。二代目領事オールコック、拡張要求を貫徹。
一八四八 上海にフランス船入港。
一八五〇(嘉永三) 香港版『遐迩貫珍』。
一八五一、二年ごろ(嘉永末年ごろ) 本木昌造、日本長崎からオランダへ日本文字(漢字および仮名)の種書を送る。
一八五三 六月 ゴンチャロフ『日本渡航記』に香港と上海を記録。
一八五三 香港からカリフォルニア、オーストラリア等への移民総数は一万三五〇九人。
一八五三 一一月 ゴンチャロフ、上海に上陸。
一八五四(安政元) 音吉、イギリス軍艦に通弁として乗り組み長崎に来て、当時の蘭学書生・福沢諭吉と対面。
一八五五 美華書館、職工九名。
一八五五 この年まで英国政府が支出する毎年の行政費は二万ポンド。軍事費は二十万ポンド。
一八五五(安政二) 肥後の力松、露土戦争の余波で、プーチャチンの艦隊を追撃してきたイギリス軍艦が函館へ侵入したとき、艦付き通弁として幕府役人との通弁にあたる。
一八五六 ホブソン、ロカートの病院の後継者となって『西医略説』以下二種の鉛の漢字活字による書物を上海で発行。
一八五五〜一八五八(安政二〜五) 昌造、安政開港の談判に奔走したあげく、その「痛烈な開国論者」であったため入獄か。
一八五八(安政五) 寧波版『中外新報』。
一八五九 コール、ダイアのあと一万四千字を完成。
一八五九 ギャンブル、来任して改良型の字母や印刷機をもたらす。
一八六〇 一二月 ギャンブル、印刷所を上海に移転して拡充。漢字活字に電胎字母を採用。
一八六〇(万延元) 遣米使節。
一八六〇(万延元) 大鳥圭介、開成所にて『斯氏築城典刑』発行。
一八六一(文久元) 遣欧使節。
一八六一 字林洋行(ノース・チャイナ・ヘラルド社)『上海新報』を創刊。主筆、林楽知。
一八六二 上海美華書館、拡張移転。ギャンブル、アジアではじめてシリンダープレスを採用。
一八六二(文久二) 中牟田、『上海新報』を買ってもどる。
一八六二(文久二) 日本幕府、はじめて貿易船千歳丸を上海へ入港。高杉、中牟田、五代、名倉予可人など乗船。
一八六二 五月二〇日 高杉日記。
一八六二 五月二一日 高杉日記。
一八六二 六月七日付 『字林西報』。千歳丸、上海到着後五日目。
一八六二(文久二) 音吉はのちに外国人を妻とし上海に住んでいて、中牟田倉之助が人づてに聞いて訪ねて行ったが、あいにく会うことができず。
一八六二(文久二) 堀達之助、先にペリー来航当時通詞として活動。
一八六三 美華書館、年産一四〇〇万ページ。
一八六三 イギリスの一商務官が報告中に香港の繁栄を謳歌。
一八六四(元治元) 安田老山、八戸喜三郎、長井雲坪ら上海へ渡航。
一八六四(元治元) 吟香、ジョゼフ彦(浜田彦太郎)らと“新聞紙”を発行。
一八六四(元治元) 「開成所稽古規則覚え書き」改正。
一八六六 吟香ら上海に来たり、美華書館で辞書を印刷。
一八六六 香港住民の死亡率が二%。
一八六六(慶応二) 幕府、一般に海外渡航を免許。
一八六六(慶応二) 曽我祐準、砲台を見上げて「転た感慨にたえず」と日記に記録。
一八六六(慶応二)一〇月ごろ 岸田吟香、ヘボン博士夫妻に伴われて上海の美華書館に来る。
一八六七(慶応三)一月二三日付 吟香、上海から日本の川上冬崖あてに手紙。
一八六七(慶応三) 第三回目幕府船ガンジス号、上海へ渡航。高橋由一ら多数乗船。同日、横浜を出帆したフランス船アルヘー号に、パリの万国博覧会へ派遣される幕府代表者徳川昭武の一行、箕作貞一郎や渋沢栄一、博覧会出品人日本代表清水卯三郎など多数が寄港
一八六七(慶応三) 三月二一日 吟香、上海日記。
一八六七(慶応三) 三月二四日 吟香、日記。
一八六八 香港へ入港した商船の数二万七五〇〇隻。
一八六八(慶応四)閏四月三日 前田正名、上海へ上陸。
一八六八(慶応四)閏四月 『美国新聞紙』創刊。第六集(東京)。
一八六八(慶応四/明治元) 上海に「田代屋」という長崎出の日本商人があって、日本婦女子のための小間物を売る。
一八六八(明治元) 吟香、二度目に『横浜新報もしほ草』を起こす。
一八六九 ギャンブル、日本へ来て本木昌造に協力。
一八六九(明治二)二月 前田正名ら「サツマ辞書」をかかえて神戸に上陸。
一八六九 一月 薩長土肥が先んじて藩籍奉還。
一八六九 四月二一日 故国では置県制がしかれる。
一八六九 五月五日 前田正名「十枚だけ土産として差遣候事」と、十ページのゲラ刷をもらって中途帰国。
一八六九 一〇月 前田正名、再渡。
一八七〇(明治三) 工部局人口統計、当時の上海在住日本人合計二十九名、そのうち二十二名までが「船員」。女性は一名もない。
一八七二 『申報』創刊、『上海新報』廃刊。
一八七三(明治六) 三月二〇日 ブラムゼン、ヘボン辞書を批評。美華書館主マティーア、それに返答。
一八八六ころ ギャンブル、ペンシルバニア某地で死去。
一八九六 三月二日 カキガワ・パリサー没、行年四十七。
一九〇九 六月二五日 島谷カネ没。
一九一一 一〇月九日 マリア・ハシモト没、行年七十三。
一九三七(昭和一二)二月号 前田三介編『社会および国家』。
一九三七(昭和一二)四月号 前田正名「上海日記」(前田三介『社会および国家』所載)。
一九四一(昭和一六) 土方定一、著『近代日本洋画史』。
昭和十七年暮れ 徳永、米沢秀夫あてに手紙を出す。
一九四三(昭和一八)二月 徳永、下谷の石井研堂を訪ねる。研堂、この冬に没する。
一九四三(昭和一八) 徳永あて上海の米沢から手紙。
一九四四(昭和一九)一〇月 徳永、本稿を下書き。
◇参照:Wikipedia、
*人物一覧
(人名、および組織・団体名・神名)中牟田倉之助 なかむた くらのすけ 1837-1916 海軍軍人。海軍大学校長、枢密顧問官、子爵。金丸孫七郎の次男。中牟田家の養子となる。藩主鍋島直正の推薦で安政3年(1856)、20歳で長崎海軍伝習所へ入所し、卒業後には佐賀藩海軍方助役を務めて海軍力の発展を促す。著『上海行日記』。
ダイア → サミュエル・ダイア
サミュエル・ダイア Dyer, Samuel 1804-1843 ダイアー。イギリスの宣教師。ロンドン伝道会よりマラッカに派遣され、印刷活字鋳造に従事。マカオで客死(西レ)。
溝口靖夫 〓 著『東洋文化史上におけるキリスト教』。
ミルン
ジョン・ミルン John Milne 1850-1913 イギリス、リバプール出身の鉱山技師、地震学者、人類学者、考古学者。東京帝国大学名誉教授。明治9年(1876年)工部省工学寮教師に招かれて来日。明治28年(1895年)トネ夫人と共にイギリスに帰国。
ミルン (1) Milne, William 1785-1822 イギリスのロンドン伝道会宣教師。マラッカに英華学院を設立し(1820)、その校長となる(同〜1822)。伝道のかたわら、モリソンと分担して旧約聖書の中国語訳を完成(1819)(西レ)。
ミルン (2) Milne, William Charles 1815-1863 イギリスのロンドン伝道会宣教師。中国に派遣され(1837-1843)、再び中国に渡り(1846〜1852)、新旧約聖書翻訳に従事(西レ)。
モリソン → ロバート・モリソン
ロバート・モリソン Morrison, Robert 1782-1834 イギリス人。博士。一八一八年マラッカに英華学堂を創立。中国人にキリスト教と科学知識を普及する学校で、キリスト新教徒が東洋で最初につくった印刷工場が付属する。学長。/イギリスの宣教師。中国学者。プロスタンティズムの中国宣教の基礎を作った。著『シナ語文法』(西レ)。
W・H・メドハースト Medhurst, Walter Henry 1796-1857 イギリスの組合教会伝道師。中国におもむき聖書の中国語現行版への改訳に助力した(西レ)。/イギリス人。印刷工。作『和英語彙』。
ブリッジマン Bridgman, Elijah Coleman 1801-1861 プロテスタント会衆派宣教師。広東で布教(西レ)。/アメリカ人。1832年、広東で『支那叢報』を発刊し、これを二十年間継続。
ロバート・ウィリアムス → ロバート・ウィリアムズ
ロバート・ウィリアムズ → Williams, Samuel Wells か
Williams, Samuel Wells 1812-1884 アメリカの宣教師。シナ学者。広東で宣教活動を行う。ペリーの通訳として来日(西レ)。/モリソンの息子。広東の『支那叢報』印刷所の監督となり、のち、マカオの東インド会社印刷所の監督者。ペリーが江戸湾へやってきたとき、通訳官として日本へ上陸。
W・ロカート 〓 医師。ロンドン・ミッショナリー・ソサエティ所属。マカオに伝道病院を開く。
A・ホブソン → Hobson, Benjamin か
Hobson, Benjamin 1816-1873 イギリスの医療宣教師。主著『全体新論』(1851)は、初めて中国に解剖学を伝えたといわれる。/著『全体新論』『博物新編』(以上広東で発行)『西医略説』『婦嬰新説』『内科新説』(以上上海で発行)。
米沢秀夫 よねざわ ひでお 1905-? 昭和期の中国経済研究家(人レ)。著『上海史話』。
トムス P. P. Thoms マカオの東インド会社事務所。
リチャード・コール Richard, Cole 北米長老会印刷所からロンドン伝道会印刷所英華書院に転じ、ダイア没後、一号活字の改刻と新刻を進め、1851年には本を組むのに必要な約4700字にする(タイポ p.32、小宮山)
ウォーター・ローリィ Water, Rowrie アメリカのミッション。パリで作られた漢字の字母を取り寄せ支那へ向けて発送し、同年、コールを主任としてマカオに印刷所を起こさせる。 → ウォルター・ローリーか
ウォルター・ローリー Lowrie, Walter Macon 1819-1847 アメリカの長老教会宣教師。マカオに到着し、中国各地に伝道して同地に没(西レ)。
Onr(?)
ア・ヨーク A. yuk 支那少年。
ギャンブル William, Gamble → ガンブル
ガンブル William Gamble ?-1886 アメリカ人技師。1869(明治二)上海から帰国の途次、長崎に寄港。/アメリカの宣教師。長老会の海外伝道局経営の印刷所監督として寧波(ニンポー)に渡り(1858)、華花聖経書房に赴任し、電胎法による漢字活字の製作改良に成功。ついで上海に移って美華書館と称し(61)S.R.ブラウンの《日本口語対話篇》とヘボンの《和英語林集成》=薩摩辞書とよばれる和訳英辞書等を印刷した。帰国(69)の途中長崎に立寄り、フルベッキの紹介で本木昌造およびその社中の人々に活版技術を指導し、日本の活版印刷発達の基を築いた(岩波西洋人名、西レ)。
本木昌造 もとき しょうぞう 1824-1875 幕末・明治の蘭学者。日本の活版印刷の創始者。長崎に生まれ、母方の本木家を継ぐ。蘭学を修め、造船術・活版印刷術を研究。維新後、アメリカ人ガンブルについて字母鋳造を習得、長崎に活版所を起こした。
ヘボン James Curtis Hepburn 1815-1911 アメリカ長老派教会宣教師・医師。1859年(安政6)来日、医療・伝道のかたわら、最初の和英・英和辞典(和英語林集成)を完成、ヘボン式ローマ字を創始。明治学院を創立。92年(明治25)帰国。日本名、平文。ヘプバーン。
吟香 → 岸田吟香
岸田吟香 きしだ ぎんこう 1833-1905 新聞記者・事業家。名は銀次。美作出身。ヘボンの「和英語林集成」編纂に協力。後に東京日日新聞編集に従事し、また、目薬「精�V水」を販売。訓盲院を開設。東亜同文会などの創設に尽力。
川上冬崖 かわかみ とうがい 1827-1881 幕末・明治初期の洋画家。信州松代藩生れ。名は寛。初め南画を学び、のち蕃書調所の画学局で洋画を研究。明治初期、私塾の聴香読画館を起こす。また製図法の先駆者。
土方定一 ひじかた ていいち 1904-1980 美術評論家・美術史家。大垣市生れ。東大卒。神奈川県立近代美術館館長。著「近代日本洋画史」「ブリューゲル」など。
林楽知 Young, L, Allen
嘉平 → 木村嘉平
木村嘉平 きむら かへい 1823-1886 江戸神田小柳町に住む。代々彫刻師。安政年間に島津斉彬に頼まれて電胎法による活字字母の製作をおこなう。/木版印刷師。欧文活字を作製(人物レ)。
フランクリン Benjamin Franklin 1706-1790 アメリカの政治家・文筆家・科学者。印刷事業を営み、公共事業に尽くした。理化学に興味を持ち、雷と電気とが同一であることを立証し、避雷針を発明。また、独立宣言起草委員の一人で、合衆国憲法制定会議にも参与。自叙伝は有名。
フリードリッヒ・ケーニッヒ Friedrich Konig 1774-1833 シリンダー式印刷機を完成。ドイツの印刷技術者。1811年、蒸気機関を動力とする輪転式印刷機を発明。印刷技術に大きな革新をもたらした。
富二 → 平野富二
平野富二 ひらの とみじ 1846-1892 長崎生まれ。本木の協力者。文久元年飽の浦にあった幕府の長崎製鉄所機関手見習を仰せ付けられ、本木昌造に師事してチャーチル号機関手となる。明治2、長崎小菅造船所所長。翌年長崎製鉄所所長。明治5年築地活版所を創立。明治9、石川島に民間造船所を創設。演説中に倒れ、没する。享年47。(幕末維新・日本史広辞典・日本人名)
高杉晋作 たかすぎ しんさく 1839-1867 幕末の志士。長州藩士。名は春風、字は暢夫、号は東行。変名、谷梅之助。久坂玄瑞とともに松下村塾の双璧。江戸に遊学。藩校明倫館都講。藩命で上海を視察。この頃より攘夷論の急先鋒。帰藩後、奇兵隊を組織。四国艦隊下関砲撃事件では和議の交渉に当たる。のち保守派(俗論党)に藩政を握られたが、これを破って藩論を倒幕に統一。1866年(慶応2)第2次長州征討の幕府軍を潰敗させた。著『游清五録』。
-----------------------------------
ゴンチャロフ Ivan A. Goncharov 1812-1891 ゴンチャローフ。ロシア遣日使節の秘書。著『日本渡航記』。ロシアの小説家。地主貴族の生活と心理を克明に描写。1853年(嘉永6)プチャーチン提督に随行して日本に来航。小説「オブローモフ」「断崖」、紀行「フリゲート艦パルラダ号」(「日本渡航記」はその一部分)など。
曽我祐準 そが すけのり 1844-1935 陸軍軍人、華族、政治家。陸軍中将、子爵。柳河藩士・曾我祐興の次男。長崎で砲術を学び、イギリス商人のトーマス・ブレーク・グラバーの援助で上海・香港・シンガポールを航海し、航海術を学んだ。著『曽我祐準自叙伝』。
井上満 いのうえ みつる 1900-1959 ロシア文学者、翻訳家。福岡県久留米市生まれ。1924年ハルピン日露協会学校卒、翌年上京し文筆活動に入り、社会科学文献を翻訳。1930年ソ連大使館に勤務、ロシア事情の紹介などを行う。訳『日本渡航記』『日本幽囚記』など。
オールコック → オルコック
オルコック Rutherford Alcock 1809-1897 イギリスの外交官。中国各地の領事を経て、日本駐在の総領事・初代公使となり、幕末の混乱した時代に活躍。著「大君の都」。オールコック。
カニングハム 〓 アメリカ領事。ロッセル商事会社の上海代表者。
プーチャチン → プチャーチン
プチャーチン Evfimii Vasil'evich Putyatin 1804-1883 ロシアの提督。1853年(嘉永6)長崎に来航。55年2月(安政元年12月)日露和親条約、58年日露修好通商条約を締結。また、伊豆戸田で帆船を建造、洋式造船技術を初めて日本に伝えた。
ペリー Matthew Calbraith Perry 1794-1858 アメリカの海軍軍人。1853年7月(嘉永6年6月)日本を開港させるため東インド艦隊を率いて浦賀に来航、大統領の親書を幕府に提出。翌年江戸湾に再航、横浜で日米和親条約を結ぶ。後に下田・箱館に回航。帰国後「日本遠征記」3巻を刊行。ペルリ。漢字名、彼理。
-----------------------------------
沖田一 〓 著『滬上史談』。
福沢諭吉 ふくざわ ゆきち 1834-1901 思想家・教育家。豊前中津藩士の子。緒方洪庵に蘭学を学び、江戸に洋学塾を開く。幕府に用いられ、その使節に随行して3回欧米に渡る。維新後は、政府に仕えず民間で活動、1868年(慶応4)塾を慶応義塾と改名。明六社にも参加。82年(明治15)「時事新報」を創刊。独立自尊と実学を鼓吹。のち脱亜入欧・官民調和を唱える。著「西洋事情」「世界国尽」「学問のすゝめ」「文明論之概略」「脱亜論」「福翁自伝」など。
五代 → 五代友厚か
五代友厚 ごだい ともあつ 1835-1885 明治初期の実業家。薩摩藩士。維新後、外国事務局判事などののち、財界に入り政商として活躍。大阪で造船・紡績・鉱山・製藍・製銅などの業を興し、大阪株式取引所・大阪商法会議所(のち大阪商工会議所)などの創立に尽力。
名倉予可人 なぐら あなと 1822-1901 兵学者。著書に『海外日録』などの海外渡航記や『遠江紀行』などの紀行文がある(人レ)。/浜松藩。
森山多吉郎 もりやま たきちろう → 森山栄之助
森山栄之助 もりやま えいのすけ 1820-1871 多吉郎。大通詞。外国通弁頭取。次席大通詞過人。長崎生まれ。
高橋作之助 → 高橋由一
高橋由一 たかはし ゆいち 1828-1894 明治初期の代表的洋画家。江戸生れ。川上冬崖に師事、ワーグマンの指導を受け、私塾の天絵楼を創立。独自のリアリズムを確立。作「花魁」「鮭」など。
徳川昭武 とくがわ あきたけ 1853-1910 最後の水戸藩主。徳川斉昭の18男。三卿の清水家を相続し、1867年(慶応3)パリの万国博覧会に将軍慶喜の名代として参加。帰国後、生家を相続。
箕作貞一郎 → 箕作阮甫か
箕作阮甫 みつくり げんぽ 1799-1863 幕末の蘭学者。津山藩医。江戸に出て宇田川榛斎に師事。幕府天文方の翻訳掛(蕃書和解御用)。蕃書調所教授。安政五カ国条約締結に尽力。著訳「和蘭文典」「外科必読」「八紘通誌」「水蒸船説略」など。
渋沢栄一 しぶさわ えいいち 1840-1931 実業家。青淵と号。武州血洗島村(埼玉県深谷市)の豪農の子。初め幕府に仕え、明治維新後、大蔵省に出仕。辞職後、第一国立銀行を経営、製紙・紡績・保険・運輸・鉄道など多くの企業設立に関与、財界の大御所として活躍。引退後は社会事業・教育に尽力。
清水卯三郎 しみず うさぶろう 1829-1910 武蔵国埼玉郡羽生村(現在の羽生市)出身の実業家。母は根岸友山の妹。芳川波山に漢学を学んだ後、箕作阮甫に蘭学を学んだ。1854年(嘉永7年)には筒井政憲の供人として下田でロシア全権のプチャーチンに会いロシア語を学んだ。博覧会出品人日本代表。
伊藤俊助 → 俊輔? 伊藤博文か
伊藤博文 いとう ひろぶみ 1841-1909 明治の政治家。初名は利助、のち俊輔。号、春畝。長州藩士。松下村塾に学ぶ。討幕運動に参加。維新後、藩閥政権内で力を伸ばし、憲法制定の中心となる。首相・枢密院議長・貴族院議長(いずれも初代)を歴任、4度組閣し、日清戦争などにあたる。政友会を創設。1905年(明治38)韓国統監。ハルビンで朝鮮の独立運動家安重根に暗殺された。元老。公爵。
竹添進一郎 たけぞえ しんいちろう 1842-1917 外交官・漢学者。号、井井。肥後天草生れ。朝鮮での壬午軍乱後、弁理公使となり、甲申政変に参画、その敗北後に罷免。のち東大で経書を講じた。著「左氏会箋」。
小林六郎
長尾治策
上野景範 うえの かげのり 1845-1888 外交官。鹿児島県出身。英学に明るく、明治維新後に、ハワイの元年者移民問題などに当たり、駐米・英・墺などの全権公使を歴任。後に元老院議官となった。趣味は油絵。1873年(明治6年)5月、内閣に提議した李氏朝鮮との修好条約締結問題における意見書は、征韓論の端緒となり、明治六年政変を引き起こすこととなる。
中浜万次郎 なかはま まんじろう 1827-1898 ジョン万次郎。幕末・明治の語学者。土佐国の漁夫の次男。1841年(天保12)出漁中に漂流、アメリカ船に救われ米国で教育を受け、51年(嘉永4)帰国。土佐藩、ついで幕府に仕え、翻訳・航海・測量・英語の教授に当たる。のち開成学校教授。
後藤象次郎 → 後藤象二郎
後藤象二郎 ごとう しょうじろう 1838-1897 政治家。土佐藩士。大政奉還運動を起こし、明治維新後、参議。征韓論政変で下野。板垣退助・副島種臣・江藤新平らと民撰議院設立を建白。自由党に参加。大同団結を提唱。のち逓相・農商務相。伯爵。
山口和雄 やまぐち かずお 1907-2000 経済学者。東京大学教授。三井文庫館長。著『幕末貿易史』『日本漁業史』など多数(人レ)。
土佐侯 → 山内容堂か
山内容堂 やまのうち ようどう 1827-1872 幕末の土佐藩主。名は豊信。分家の出。藩政を改革。公武合体に尽力、後藤象二郎の建策を容れて将軍徳川慶喜に大政奉還を建白。維新後、議定。酒を好み、鯨海酔侯と自称。
安田老山 やすだ ろうざん 1830-1883 日本画家。明治初期の日本画の領袖。作品に「山水画」など(人レ)。/美濃。
八戸喜三郎 〓 画家で英語に堪能、のち香港にうつって日本漂民の世話をした。
長井雲坪 ながい うんぺい 1833-1899 文人画家。名は元。通称、元次郎。越後の人。長崎に遊学。1867年(慶応3)密かに上海に渡り、のち信濃に隠棲した。
前田正名 まえだ まさな 1850-1921 鹿児島生まれ。明治の官僚。北海道阿寒町に財団法人前田一歩園の基を設立し、阿寒湖周辺の森林を購入し保護を図る。父は薩摩藩医前田善安の6男。兄に前田正穀(献吉)がいる。明治期における殖産興業政策の実践者としてしられ、「布衣の農相」とも呼ばれた。妻は大久保利通の姪・いち。
弘光 → 八戸善三郎? 八戸喜三郎?
曽我弥一
曽我準造 → 曽我祐準
ガラバ → グラバーか
トーマス・ブレーク・グラバー Thomas Blake Glover 1838-1911 スコットランド・アバディーンシャイア生まれ。商人。明治以降は高島炭鉱の経営に当たる。もともと武器商人であるが、蒸気機関車の試走、ドック建設、炭鉱開発など日本の近代化に果たした役割は大きい。造船の街・長崎の基礎をつくった。
田代屋 長崎出の日本商人。
茂助、利七 アメリカ飛脚船乗組員。
徳助 江戸浅草材木町。
七之丞 相州小田原在天坪村。
マリア・ハシモト
橋本仕 和歌山県日高郡御坊東町。
島谷カネ 長崎人。
カキガワ・パリサー
肥後の力松 通弁リキ。
尾張の音吉
田保橋潔 たぼはし/たほばし きよし 1897-1945 歴史学者。京城帝国大学教授。朝鮮近現代史および日本近代外交史を研究(人レ)。
ギュッツラフ → ギュツラフ
ギュツラフ Gutzlaff, Karl Friedrich August 1803-1851 ドイツのルター派の牧師。中国で布教活動。初の日本語訳ヨハネ福音書『約翰福音之伝』を刊行(39-40頃)。主著 "Bericht einer Reise von China nach England"(1851)。(西レ)/アーモスト卿の案内人。
渡辺華山 → 渡辺崋山
渡辺崋山 わたなべ かざん 1793-1841 幕末の文人画家・洋学者。名は定静。通称、登。別号、全楽堂。三河田原藩の家老。儒学を佐藤一斎に学び、蘭学にも通じた。谷文晁の門下に学び、西洋画法を取り入れて独自の様式を完成。鋭い筆致で写実的な肖像画に優れた作品を遺す。高野長英・小関三英らと尚歯会を結成。幕府の攘夷策を責めた「慎機論」を著し、蛮社の獄に連座、郷国に蟄居中に自刃。作「鷹見泉石像」「千山万水図」など。
高野長英 たかの ちょうえい 1804-1850 江戸後期の蘭学者。名は譲、のち長英。陸奥水沢の人。長崎でシーボルトに蘭学を学び、江戸で町医者を開業。渡辺崋山の蘭学研究を助け、「夢物語」を著し幕府の対外政策を批判、1839年(天保10)永牢。獄舎に放火させ脱獄、沢三伯と変名して諸国に潜伏。江戸で自刃。医学・理化学・兵書を多く訳述。
石井研堂 いしい けんどう 1865-1943 明治文化研究家。ジャーナリスト。ライフワークに『明治事物起原』があり、『明治文化全集』の編纂に尽力(人レ)。
岩崎克己 著『前野蘭化』。
-----------------------------------
ジョゼフ彦 浜田彦太郎。 → 浜田彦蔵
浜田彦蔵 はまだ ひこぞう 1837-1897 幕末・明治の通訳・貿易商。播州出身。1850年(嘉永3)暴風にあい、漂流して米商船に救助され、米国の市民権を得、ジョセフ=ヒコと改名。幕末の日米外交に活躍、その後、貿易商を営み、また、64年(元治1)横浜で「海外新聞」を発行。アメリカ彦蔵。
堀達之助 ほり たつのすけ 1823-1894 蕃書調所教授。オランダ通詞のち英学者。諱は政徳。長崎生まれ。のち堀儀左衛門政信の養子となる。日米和親条約の翻訳に加わる。安政2年より入牢5年。同6年蕃書調所翻訳方、文久2年洋書調所教授方となる。開成所教授職・函館奉行通詞。明治、函館裁判所参事席文武学校掛、開拓使大主典。5年退職。長崎に帰り、のち大阪に移住。病没72才(国史)。
彦蔵 ひこぞう → 浜田彦蔵か
本間氏
姜先生 きょう? → ギャンブル
大鳥圭介 おおとり けいすけ 1833-1911 幕末・明治期の政治家。播磨出身。蘭学・兵学を学び、幕府に用いられ、歩兵奉行。戊辰戦争では榎本武揚らと箱館五稜郭に拠ったが敗れて帰順。日清戦争勃発の際、清国兼朝鮮公使。男爵。
ブラムゼン
ゼイ・エル・マティーア ギャムブルの後任の美華書館主。 → Mateer, Calvin Wilson か
マティーア Mateer, Calvin Wilson 1836-1908 アメリカの長老教会宣教師。中国に渡り(1863)、芝罘大学を創立(西レ)。
前田三介 〓 著「上海日記」『社会および国家』昭和十二年四月号所載。
前田献吉 まえだ けんきち 1835-1894 正名の兄。前田正穀。/官吏。元老院議官。アメリカに留学。「和訳英辞書」を編纂(人レ)。
高橋新吉 たかはし しんきち 1843-1918 薩摩藩出身。良昭。長崎に遊学して何礼之の元で英学を学ぶ。慶応2年(1866年)に江戸開成所から出された「英和対訳袖珍辞書」を底本として辞書編纂を開始。途中、藩の財政支援とグイド・フルベッキの助力によって明治元年(1868年)に完成。翌年、上海にあった米国長老派教会系の出版社の印刷で「和訳英辞林」の名で刊行。
フェルベッキ → フルベッキ
フルベッキ Guido Herman Fridolin Verbeck 1830-1898 アメリカのオランダ改革派教会宣教師・教育家。オランダ生れ。1859年(安政6)長崎に渡来。維新後政府の顧問をつとめ、ドイツ医学の採用などを建議。明治学院神学教授。ヴァーベック。
英人ホエレー
斉彬 → 島津斉彬
島津斉彬 しまづ なりあきら 1809-1858 江戸末期の薩摩藩主。斉興の子。早くから開国の意見を抱き、殖産興業に力を入れ、藩営工場集成館を設立、洋式の造船・造兵・紡織などの業を興す。
三谷幸吉 みたに こうきち 1886-1941 明治期の植字工。神戸印刷工組合メンバー(社史、人レ)。著『本木・平野詳伝』。
重野鉱之丞 〓 安釈。薩藩の儒者。 → 重野安繹か
重野安繹 しげの やすつぐ 1827-1910 歴史学者。通称、厚之丞。成斎と号。薩摩藩士。昌平黌に学ぶ。維新後、政府の修史事業にあたる。また、東大教授として国史科を設置。星野恒・久米邦武らと近代史学の基礎を作る。
平野義太郎 ひらの よしたろう 1897-1980 マルクス主義法学者、平和運動家。20年間にわたって日本平和委員会会長を務める。平野富二の孫。
◇参照:Wikipedia、