徳永 直 とくなが すなお
1899-1958(明治32.1.20-昭和33.2.15)
熊本県飽託郡(現熊本市)生まれ。1922年上京、博文館印刷所(後の共同印刷所)に植字工として勤務。1925年に「無産者の恋」「馬」などを発表。翌年共同印刷争議に敗れ、同僚1700人とともに解雇。1929年この時の体験を基にした長編「太陽のない街」を『戦旗』に連載。『新日本文学』に長編「一つの歴史」を完結させないまま世田谷の自宅で病没。享年59。

◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)。



もくじ 
光をかかぐる人々[続]
『世界文化』連載分(六) 徳永とくなが すなお


ミルクティー*現代表記版
光をかかぐる人々[続]
『世界文化』連載分(六)
 徳永 直

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光をかかぐる人々[続]
『世界文化』連載分(六)
 徳永 直

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*凡例
〈 〉:割り注、もしくは小書き。
〔 〕:編者(しだ)注。

*底本
底本:『世界文化』4月号 第4巻第4号、世界文化社
   1949(昭和24)年4月1日発行
http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person1308.html

NDC 分類:022(図書.書誌学/写本.刊本.造本)
http://yozora.kazumi386.org/0/2/ndc022.html
NDC 分類:210(日本史)
http://yozora.kazumi386.org/2/1/ndc210.html
NDC 分類:914(日本文学/評論.エッセイ.随筆)
http://yozora.kazumi386.org/9/1/ndc914.html




光をかかぐる人々[続]
『世界文化』連載分(六)

徳永とくなが すなお


  十六

 アジアの近代的な鋳造の漢字活字は、ペナンで生まれた。生んだ背景はヨーロッパの産業革命であり、生み出したのは新教プロテスタントの宣教師たちであった。私は『上海行日記』で、中牟田なかむた倉之助くらのすけのハイカラなみやげもの、文久二年(一八六二)の上海版『上海新報』という新聞が、どんな活字であったかを知ろうとして、安政五年(一八五八)寧波ニンポー版『中外ちゅうがい新報しんぽう』や、嘉永三年(一八五〇)の香港版『遐迩貫珍』などにぶっつかり、かえって途方にくれてしまったけれど、ダイア活字の発見によって、香港よりももっと南方で、しかも天保三年(一八三二)にその源の発生していることがわかった。
 それで、それならペナンの漢字活字は、その後どういうふうにして南方から支那本土へ東漸とうぜんして行ったろうか? まずペナンから、マラッカ、広東カントンまで行った事情は、読者も前章のうちで理解できたと思う。ダイア自身がペナンから出て、英華学堂の印刷所を監督・経営することになったからである。そして、その英華学堂が、こんどは香港に引っ越したのである。溝口靖夫は『東洋文化史上におけるキリスト教』(三三五ページ)で言っている。「一八二二年六月二日、ミルンの没後、その学院は他の後継者により受けつがれたが、一八四二年、香港に移転した。」――「学院」というのは「学堂」のことで、ミルンはモリソンの協力者であり、「学堂」の経営責任者であった。まだこのころ、学長ロバート・モリソンは生きているが、多くは布教にあたっていたのである。広東でのモリソンの後継者は、もと印刷工のメドハーストということになっているから、ここにある「他の後継者」というのが私にはわからないけれど、上海時代まで活動しているメドハーストが移転した香港時代も、とにかく学長だか「経営責任者」だか、そのいずれかであっただろうし、英華学堂とともに、ダイア監督の印刷工場がともに香港へ引っ越しただろうことは疑いない。
 つまり一八四二年には、ペナンから香港までダイア活字はのぼってきたが、大事なことが広東時代にある。アメリカ人ブリッジマンが一八三〇年、広東へ来て『支那叢報』を創刊したことと、同じ一八三〇年にロバート・ウィリアムスが広東へ来たことである。ウィリアムスはモリソンの息子で、父親の意志により「支那伝道の印刷者」になれるよう、幼いころからロンドンの印刷工場で印刷術の修業をしていたのであった。父親は一人前の修業をつんだせがれを見てから、三年ばかりのち死んでいるが、モリソンたちが印刷術をどんなに重く見ていたかがわかろう。モリソンおよびウィリアムス親子は、周知のように日本の歴史にとっても大事な人々であった。ウィリアムスはのち、マカオの東インド会社経営の印刷工場も監督しているが、『支那叢報』の創刊には父親とともに、ブリッジマンにとって大事な協力者であった、と『東洋文化史上におけるキリスト教』は簡単だが述べている。『支那叢報』はもちろんアルファベットだから、ダイア活字が直接にはどう関係したかわからぬけれど、メドハーストが一八三五年、モリソンの没後を受けて広東に来たときは、広東の印刷所ではちゃんとした漢字の印刷物が作られていたことが明らかになっている。たとえばメドハーストが後年、思い出を述べた前に引用した文章で、「アヘンと宣教師の関係」は「第五の困難」であったが、「第三の困難」というのは「漢字印刷物に対する支那官憲の圧迫であった。『東洋文化史上における――』三五九ページ)といっていることでもわかる。そのころ、アヘン戦争がはじまる前で、アルファベット人種と支那政府とのあいだは緊迫していた。広東で出版する宣教師たちの雑誌や本は、アルファベットのものは許されても、漢字印刷物は直接に支那人へ影響をあたえるとして、支那官憲はきびしく取りまった。そのために、辛苦しんくの末、やっとできあがっている漢字の組版が、工場にふみこんできた支那刑吏けいりたちによって幾度も破壊されたり、不足の漢字活字を木活字で埋めようとして街に求めにゆくメドハーストらが、たびたび危害を加えられたというのであるから、たとえ、不足の文字は木活字でにあわせたとしても、実際にダイア活字が印刷物となって活動していた証拠にはなる。
 そこでダイア活字が、広東・香港へと来て、しだいに発展・実用化されてきたが、さて、それからが私にわからない。ダイアは一八四二年のこの年に死んでいるが、上海へはどうしてのびていったか? また、ダイア活字がそのまま未完成の形で上海へ流れこんでいったのかどうか? もっとも、これを人間の動き、宣教師たちの動きだけで見れば、たとえば、前に見た宣教師であり医者であったロンドン・ミッショナリー・ソサエティ所属のW・ロカートは一八三八年、広東にきて、一八四〇年には英軍が占領していた舟山島しゅうざんとうに入り、翌々年、開港の第一日に上海へ入って布教と医療の活動をはじめている。同じく医者で宣教師のA・ホブソンも、一八三九年にマカオに着き、まもなく広東へきて『支那叢報』創刊者のブリッジマンと同居、上海へ行った年が私にわからぬが、一八五六年にはW・ロカートの病院の後継者となって『西医略説』以下二種のなまりの漢字活字による書物を上海で発行している。つまり人間の動きでだけなら、インド・ペナン・マラッカ・シンガポール・マカオ・広東・香港・上海と、ずっと前から見てきたところであきらかになるけれど、活字という物の形ではわからない。一八五六年の上海版『西医略説』が、ダイア活字そのままの発展かどうか、わからぬのである。『支那叢報』の解説版も九巻・十巻となってくるとほとんどアヘン戦争の記事ばかりで、ダイア活字のゆくえはわからなくなっている。
 私はまた、この関所にひっかかったまま、昭和十八年(一九四三)の前半をすごしてしまわなければならなかったが、ある日、思いがけなく上海から手紙がきた。昭和十七年の暮れに出した私の手紙、読者からの質間に答えて、『上海史話』の著者米沢よねざわ秀夫ひでおは親切に回答してくれたばかりか、『滬上史談』という本を一冊そえて送ってくれたのであった。『滬上史談』については後で述べるが、私はまず、手紙のあらましを読者に紹介しようと思う。手紙という形は私的だけれど、中味なかみは著者から読者へという性質であるから、『上海史話』の著者もゆるしてくれるだろう。―

―漢字の金属活字――外人による漢字の金属活字の発明は、一八一五年、マカオの東インド会社事務所において、トムス(P. P. Thoms)がモリソンの辞書印刷のため、なしとげました。この辞書第一巻は一八一七年出版。このための金属活字は、その後マカオ・マラッカおよびセラムポールの三か所で使用されましたが、『支那叢報』記事にあるとおり、一八二七年ペナンへ来たダイア(Samuel, Dyer)の六か年の苦心、改良研究により一八三三年には一万四千字の字母ができ、小型のものも製造されはじめ、のち一八五九年コール(Richard, Cole)により完成されました。
 美華びか書館しょかん(American, Pressytesion, Mission, Press)は一八四四年、アメリカのミッションのローリィ(Water, Rowrie)がパリで作られた漢字の字母を取り寄せ、支那へ向けて発送し、同年、コールを主任としてマカオに印刷所を起こさせたのに始まる。当所、Onr(?)がアメリカへつれてもどった支那少年(A. yuk)に印刷技術を教えこみ、この少年をまたマカオにつれもどして、三二三個の字母で作業を開始しました。印刷工二名・組版工一名の小規模でしたが、翌年一八四五年には寧波ニンポーへ移転して拡張し、ダイアの活字をも採用。一八四八年には一日平均一三・三一四1/2ページを印刷するくらいになりました。一八五五年には職工九名。
 ギャンブル―(William, Gamble)一八五九年に来任して改良型の字母や印刷機をもたらし、翌年一八六〇年十二月、印刷所を上海に移転して拡充しました。当時“Electrotype, Founding of Matrics”を採用し二種の新漢字活字を持ち、日本文字の活字(小型)も有していました。日本文字というのは四十八の仮名文字のことと思われます。
 ギャンブルは、アイルランド生まれの米国移民、一八六九年、日本へ来て本木もとき昌造しょうぞうに協力しました。その後、Sheffield, Scientibis, School および Yale callege からA・Mの学位を贈られ、薬学の研究にも従事したことがあり、パリでしばらく暮らしたこともあり、一八八六年ころペンシルバニアの某地で死亡いたしました。
 上海美華書館は一八六二年、拡張移転、シリンダープレスを採用、一年後、年産一四〇〇万ページ。ヘボン・吟香ぎんこうらは一八六六年、上海にたり、美華書館で辞書を印刷。(別送『滬上史談』参照)印刷当時の動静は、吟香の手紙(慶応三年(一八六七)正月二十三日付、川上かわかみ冬崖とうがいあて)で、わかります。これは土方ひじかた定一ていいち著『近代日本洋画史』(昭和十六年(一九四一)に全文あり。(中略)
 『上海新報』文久二年(一八六二)中牟田なかむたが買ってもどった新聞は、字林洋行(ノース・チャイナ・ヘラルド社)発行の華文版で、これは一八六一年に創刊されました。主筆は林楽知(Young, L, Allen)一八七二年『申報しんぽう』創刊、『上海新報』廃刊。(中略)
 美華書館史には“The Mission Press In China l895”という小冊子があります。日本文字についての記述はきわめて僅少きんしょうです。(以下略)

 以上、『上海史話』の著者からもらった手紙のあらましが、私にとってどんなにありがたいものであったかは、読者にも同感できるところだと思う。これで、私は最後の関所を通ることができるのである。もっともこの関所の通り方は、他人のうしろからほおかむりしてすりぬけるようなもので、大手をふって通る、通り方ではない。この手紙が明示し、あるいは暗示しているたくさんのことがらの枝葉まできわめるためには、おそらく、また相当の月日を費やさねばならないだろうけれど、しかし、現在の私にもおよそ次の程度には、この手紙を消化できるというものだ。
 手紙のうちの第一のこと、マカオ、マラッカおよびセラムポールの三か所で使用せられた彫刻活字のことは前にたびたび述べたように、読者もすぐわかるところのものだが、これがP・P・トムスという人によって作られたということが新たに記憶さるべきことであった。第二のダイアの活字が「一八三三年には、一万四千の字母ができ、小型のものも製造されはじめ」云々うんぬんは、前に見たとおり『支那叢報』の記事が過大で、手紙も同様である。第三は非常に大きなことがらで、リチャード・コールとウォーター・ローリィという人物の出現である。とりわけ、リチャード・コールであると考えられるが、これがいわばダイア活字との継ぎ目であろう。「後、一八五九年、コールにより完成されました」という文句は、私にとって肝心かんじんかなめのところだけれど、簡単かんたんすぎて上海まで大声でどなりたい気がするのである。
 しかし、あとに続く文章で、まるでわからないことはない。一八四四年にパリでつくった漢字々母でマカオに印刷所をおこし、三二三個の漢字で仕事をはじめたが、翌年にはダイア活字を採用している。パリ産の漢字々母と、ア・ヨークというアメリカ名前しかわからない支那少年印刷工と、その何年以前かに、この支那少年をアメリカへつれていった Onr という、手紙の字をいくら見ても、Oとnとrとしか読めない、私にわからぬ、たぶんアメリカ人らしい人物などの、つまりダイアをイギリス系統とすれば、これはアメリカ系統の漢字印刷努力の集積がここで結合したということである。
 コールの「完成」は一八五九年というから、イギリス系統とアメリカ系統の結合の一八四五年から十五年目ということになるが、具体的には何をさすか? 手紙にあるように、電胎法でんたいほう字母はまだこの後であるから、彫刻による字母、大小ともにフォントのそろった、そして少なくともダイアの「支那語のうちもっとも重要な三千の文字の選集」が示す漢字の種類を完成したことをいうのだろう。そして、それをそうさせた力は、支那少年ア・ヨークに見るような支那人と、マラッカの英華学堂以来、記録のはしばしに見る日本人漂民の、つまり漢字人種印刷工の参加と、たまたまここへ現われたような「パリで作られた漢字の字母」のようなヨーロッパやアメリカ本国の科学技術の授助であった。ダイアの作った漢字々母と、パリ産の漢字々母のいずれがすぐれていたか私に知るよしもないけれど、ヨーロッパの印刷技術がアジアの文字を消化しようとしていたことは、前巻で見たように、嘉永末年ごろ、一八五一、二年ごろ、本木昌造が日本長崎からはるばるオランダへ日本文字(漢字および仮名)の種書を送っている例でもわかる。つまり電胎法なしには、ほとんど不可能な日本では、江戸の嘉平かへいも長崎の昌造もさじを投げた。彫刻字母・パンチによる漢字活字が、ここではヨーロッパや、前巻で見たようなフランクリン以来の世界印刷術中興の祖というべきアメリカの技術に支えられて一応の成功をなしとげたのであった。寧波ニンポー版『中外新報』に見るような活字、字づらの不ぞろい、線の素朴そぼくさは一目ひとめでわかるほどながら、それは木版や木活字とくらべるとき、格段の金属的鮮明さと近代的強度を持つものとして成功したのであった。
 第四は、日本の活字にとってもっとも歴史的な美華書館の歴史とアメリカ人宣教師ウィリアム・ギャンブルの素性があきらかになったことであった。さらに第五は、一八六〇年に“Electrotype, Founding of Matrices”つまり、電胎字母を採用したことと、一八六二年にアジアではじめてシリンダー・プレスを採用したことであった。電気分解による字母製法は、漢字活字製法にいっさいの解決を与えた歴史的なものであるけれど、シリンダー・プレスの採用も印刷歴史にとって革命的なものであった。回転動力は人間の手、ガス、石炭などをへて電動機となるまでは、日本でも、この以後、半世紀を費やしているけれど、回転胴による印刷法はアジアではバレンでこする式、西洋では葡萄ぶどうしぼりの圧搾あっさく式から、完全に機械的に解放されたものであった。つまり一八三九年完成したファラデーの法則は一八六〇年に、一八二〇年ごろドイツ人フリードリッヒ・ケーニッヒの発明したシリンダー・プレスは一八六二年に漢字印刷の歴史に登場したのであった。
 そして最後に第六は、ダイア活字がアメリカ系統と結合して香港から寧波ニンポーへ、寧波から上海へと、東へ東へと進んで行った足どりが、とにもかく明らかとなったことであった。ペナンで生まれたダイア活字は上海の美華書館へとつながっている。文久二年・一八六二年の上海版、中牟田なかむた倉之助の『上海新報』はあきらかに電胎活字であることができ、そこにはダイアの「支那語のうちもっとも重要な三千の文字の選集」が生きているのであった。
 そこで当然、私はリチャード・コールという人物について述べねばなるまい。いまや私の頭には、P・P・トムスや、ウォーター・ローリィをのぞいても、ダイア――コール――ギャンブル――昌造―富二とみじと不連続線ができあがってしまっている。時間的には一八一五年・文化十二年から、一八七一年・明治四年にいたる、空間的にはペナンから東京にいたる日本近代活字のコースである。ところがコールなる人物について私は何も知らない。たぶんアメリカ人で、イギリス系だとしてもアメリカ伝道協会に属する人物にはちがいない、くらいしかわからない。私は百科辞典にも出ていないコールについて何によって知ればよいか、また、支那少年ア・ヨークをアメリカへつれて行ったという、発音のわからない“Onr”という人物について教えてもらいたいと『上海史話』の著者に、また手紙を書かねばならなかった。そして、さいわいに二度目の手紙がつつがなく先方について、『上海史話』の著者の好意がふたたび私のところへもどってくる日、あらためて読者への責をはたそうと思うのであるが、飛行便にすることのできなかった二度目の手紙の返事は、一年たってもまだ返事がこない。これを下書きしている現在は昭和十九年(一九四四)十月である。すでに東シナ海もアメリカ潜航艇の手の中にあるし、B29が日本々土の上空をしばしば訪れる今日この頃、手紙ばかりか『上海史話』の著者も私自身も、無事であることができるだろうか?
 さてしかし、ここまでくれば誰しも気がつくことであろうと思うが、ペナンで生まれて広東、香港までせりあがったダイア活字がこんどは一挙に、寧波ニンポー、上海へとせきをやぶったように進出したのは、アヘン戦争によるイギリスの勝利の直接影響ということであった。英華学堂の香港移転が一八四二年、美華書館の寧波ニンポー移転が一八四五年、そして上海の入口、舟山島しゅうざんとうで待機していたW・ロカートの上海入りが一八四二年、上海開港の第一日であったことを思えばたりよう。支那政府のアヘン密輸への抵抗が一八三九年、以来、イギリス艦隊の舟山しゅうざん列島占拠となり、上海城攻略となって、一八四二年、南京ナンキン条約成立までの「アヘン戦争」とあだ名される支那とイギリスの戦争がどんな性質のものであったかは、読者周知のところであろう。南京条約の中味なかみは香港の割譲であり、上海・寧波ニンポー以下三港のアルファベット人への解放であった。
 アヘン戦争は、「竹の大砲」が「鋼鉄の大砲」にうちやぶられねばならぬ戦争であった。同時に「アヘン」と「大砲」を懐中に入れた「平等主義」の布告文さえ、支那民衆にとっては新しい思想をもたらした戦争であった。岩塊と熱病ばいきんの巣でしかなかった香港島に近代的な砲台と港が築かれ、有史以来の鎖港さこうであった上海は、「欧羅波諸邦之商船、軍艦数千そう停泊」うんぬんと高杉晋作が感嘆したところの東洋第一の開港場となった。アルファベットといっしょに懐中時計が、写真機が、ピストルが、「テレガラフ〔電信。電報。」が、汽車が流れこんできた。揚子江ようすこうの上流には四億の支那庶民が住んでおり、海上七〇〇キロのむこうには、まだ開かれざる「処女日本」があった。「新しい不断ふだんに拡大される市場」を求めてやまぬヨーロッパの「不断ふだんに増大する生産の欲望と力」とはうなりをあげて殺到してきたのであったが、そのもっとも先頭を進んだのが「神の前には万人平等なり」という新教プロテスタント宣教師と、アルファベットおよび漢字の活字だったのである。

   十七

 アヘン戦争によって割譲された香港とヴェールがはぎとられた上海とが、一八四二年以後をどう変化していったか?
「――香港島そのものの地勢を見まわして見たまえ。諸君の眼は、点々と緑草の入った代赭色たいしゃいろの山にひきつけられるだろう、ちょうど絵のかかった壁を見るように。この山のふもとの海岸には家がむらがって、人家の間からはまるで見せかけのように芭蕉の葉のくさむらがのぞいている。――そのかわりに砂と石とはまったくおびただしいものである。イギリス人たちはこの材料を使いこなしたのだ。山の頂上にも、石造りの独立家屋や地ならしのすんだ敷地が見えるだろう。人間の労力と技術は、絶壁の上までのびているのだ。海岸通りの壮麗な邸宅をながめていると、この山の未来の姿が自然と想像に浮かんでくる。支那人たちは一八四二年の南京条約によって、花かおる舟山しゅうざん列島のかわりに、この不毛の岩石をイギリス人に譲渡したときには、紅毛こうもう夷狄いてきどもがこの岩石をどうするのか夢にも考えなかった。いわんや彼ら支那人みずから自分の手でこの岩石を切り出して、自分の首にかついで壁や胸墻きょうしょうに組み上げ、大砲をすえつけようなどとはまったく夢にも考えなかったのである……」
 ロシアの作家ゴンチャロフが『日本渡航記』にこう書いたのは一八五三年の六月だから、アヘン戦争後ちょうど十年目だ。曽我祐準すけのりが砲台を見上げて「うたた感慨にたえず」と日記に書いた慶応二年からは十三年前である。アヘン戦争の前年一八四一年にスエズ運河が開通して、地中海を近まわりしてくるイギリスの手は、この岩塊をだんごのようにこねあげて都市にしてしまった。最初の二年間に港が築かれ軍艦と商船が停泊した。英国政府が支出する一八五五年までの毎年の行政費は二万ポンドであったが、軍事費はその十倍の二十万ポンドであったという。
 しかし、この熱病の巣である岩塊が「極東における商業上の重鎮」となるためには、「一八四二年には、香港停泊中の軍艦アギンコートの乗組員が半数まで死亡」し、「一八四三年には、駐屯軍一五二六名の一年内入院度数七八九二回、すなわち平均一人入院各五回以上におよび、一隊の兵士約七、八百名中、二十一か月内に死亡者二五七名を算」(『上海史話』二七六ページ)えねばならなかったし、物貨の貿易が不振なときは、かわって「人間の貿易」をもしなければならなかったのである。カリフォルニアとオーストラリアで金鉱が発見されて海外移民の需要がさかんになったとき、「支那の法律のおよばぬ地点で募集して、ここから積み送ることはでき」たところの香港からの「一八五三年の移民総数は一万三五〇九人」にのぼり、「ハバナへ向かった二万四〇〇〇人のうち、五五〇〇人すなわち総数の二二%以上が、中途で病死」(同二八二ページ)しなければならなかったのである。
 そして一八六六年には香港住民の死亡率が二%にくだり、一八四五年に香港へ入港した商船の数一六八隻が、一八六八年には二万七五〇〇隻に上昇し、「香港の発展はじつに地勢の関係による。その港湾はあまたの船隻を停泊せしむることができ、同時に商業はすこぶる安全自由であり、かつ、いかなる関税も課せられず、汽船による運輸は香港をその枢軸すうじくとしている。気候の方面も人工的改良によって、すこぶるよくなった。これら種々のものが香港をして商業の中心地たらしめ、欧米・インドおよび支那の貨物をすべてここに集中せしめるのである。(同二八五ページ)と、一八六三年にイギリスの一商務官が報告中に香港の繁栄を謳歌おうかするにいたったが、「香港の発展はじつに地勢の関係による」というとき、イギリス人の頭には、石塊と熱病の巣そのものが眼中にあるのではなくて、シナ海の咽喉のどくびをしめているアジアの国々・島々にむかって開かれた、巨大な砲台と港の位置をいうのであったろう。
 そこで、イギリス自身は決してしゃべらない一八五三年当時の香港島を、いま一度、ゴンチャロフに語らせてみよう。「――ヴィクトリア市はなるほど一本の通りしかない。しかしこの通りには家らしいものはほとんど一軒もないのだ。前に「家」といったがそれは誤りで、ここにあるのはどれもこれも宮殿で、その台石は海の水にひたっているのだ。これらの宮殿のバルコニーやヴェランダは海に面し」ているのだったが、「二つの住宅地からでき」ている支那街の方は「その一つは小舟を住み家とし、いま一つは小さなみ家である。その家はぎっしりとかたまって、海岸いっぱいにへばりつき、なかには海に打ちこんだくいの上に建て」たものであった。そして、この山の未来を誤りなく想像することのできたロシアの作家は、当時の支那人がどう働いていたかをも見逃さなかったのである。「支那町をひとわたり――歩いて、私たちは丘にのぼった。丘はちょうどこの辺で人工的に切り抜いてなめらかな絶壁となっていた。ここには新道ができることになっていた。そこには一連隊ほどの労働者が集まって、土を掘ったり石を切ったり、塵芥じんかいを運んだりしていた。それは全部ポルトガルの植民地たるマカオから来た移民である。イギリス人たちがここで植民をもくろんで、一声呼び声をあげたかと思うと、マカオはほとんどガラきになってしまった。仕事が、つまり食と金が三万人からの支那人をここへ誘ったのである。彼らはマカオで貧乏しているよりも、ここで無限の労働と無尽蔵の賃金を取った方がよいと思ったのだ。彼らは、最初のあいだ猖獗しょうけつをきわめた伝染性の熱病にもおどろかなかった。彼らはイギリスの指導を受けて、土地を整理し乾燥させた。――」(前掲『日本渡航記』井上いのうえみつる訳)
 それでは一つ、開港後の上海はどうであったろう? 南京条約成立の最初の年に、イギリス人は二十五人しかいなかった。彼らはみな上海城内に住んでいたが、将来の発展をみこして城外の土地を買いつけた。その値段が一あたり五十銭から八十銭であった。
 一八四五年になって上海道台と初代英領事との間に土地章程しょうていが決められて、上海最初の外人租借地そしゃくちができた。当時の面積は八三〇であったが、一八四八年には一躍いちやく二八二〇となり、この拡張要求を貫徹したのが、二代目領事であり、のち日本へきて初代駐日公使となった「吾人ごじん不断ふだんに新しく拡大される市場を――」云々うんぬんの主、オールコックであった。
 一八四六年にはアメリカが、一八四八年にはフランスが、というふうに、上海はたちまちアルファベットの声におおわれていった。開港翌年八五八四トンが、五年後には五万二四七四トンのヨーロッパ船が入港するようになり、そして輸入品の五分の三までが、あいかわらずアヘンであった。「イギリス人に開かれた五港の一つである上海――が、現在いかに輝かしい役割を演じているか、また将来演ずるであろうかということを結論することはできない。現在でも上海はその巨大な貿易高においてカルカッタについでこの界隈かいわい第一位を占め、香港・広東・シドニーの名声をおおうている。それがまったくアヘンのためだ! 支那人はアヘンのかわりに茶も絹も――汗も、血も、エネルギーも、知識も、全生命もはらっているのだ。イギリス人とアメリカ人はそれを全部平然として取り上げて――顔もあからめずにこの非難を甘受している。――上海に着く十六海里手前の呉淞ごしょうには――アヘン船が一艦隊となって停泊している。――このアヘン船は荷物をおろすばかりである。――この商売は支那政府によって禁止されており、のろわれてさえいるのだが、力をともなわぬ呪咀じゅそなど問題にならぬのだ。――」と、同じヨーロッパ人のゴンチャロフが痛烈に書いた。
 この偉大なる作家が上海に上陸したのは一八五三年の十一月で、香港を訪れてから五か月目である。上海に関する外国人の紀行文がどれくらいあるか私にわからぬけれど、『オブロモフ』の著者であるゴンチャロフの名誉にかけて、私は『日本渡航記』の一部「上海」を信用するのであるが、このロシア作家のうしろについてしばらく当時の上海風景を見てゆこう。「上海に近づくにしたがって、河は目立って活気を呈してきた。木の繊維や皮で作った例の赤紫の帆をかけた戎克ジャンクえまなく行き違った。支那の戎克ジャンクは構造はいくらか日本の小舟に似ているが、あのの切り込みがないだけだ。」前巻で見たように、この作家は長崎で伝馬船てんまぶねの構造をひと見て、当時の日本の封建的性格を指摘したのであった。「そら上海が見え出した。――立派なヨーロッパ風の建築物、金色燦爛さんらんたる礼拝堂、プロテスタント派の教会、公園――そういったものが全部まだぼんやりしたかたまりになって、まるで教会が水の上に建っていて、船が街路の上に浮かんでいるように見え」る朝方の風景の中を上陸して、「私は眼を皿のようにして支那を探し」ながら、やがて市内に入った。そして市内を一巡したとき、もうこの作家ははっきりと当時の支那人の生活ぶりから、この民族の特徴的性格が新しいヨーロッパ人たちとどうれあってるかを描写してしまったのである。―
「支那人は活動的な民族である。仕事をしてない人間はほとんどない。その騒音、混雑、動き、さけび、話し声。一歩ごとにかつき人夫に出会う。彼らは規則正しいさけびをあげて調子を取りながら、大股に走るように荷物をはこんでいる。――従順で謙遜けんそんで非常に身綺麗れいである。こんな人夫となら出会ってもおそろしくはない。例の規則正しいさけび声をたてて警告を発する。――もし相手が聴き入れなかったり、道をゆずろうとしないなら、こちらで立ちどまって道をゆずるのである。」そして「数名の支那人が家の戸口のところで夕食をってい」る上海郊外では「二本のはしを使って敏捷びんしょう茶碗ちゃわんから口の中へ飯をかきこんで、いつまでもつめこんでいたものだから、私たちが『請々チンチン(こんにちは)!』とあいさつしても返事ができないで、愛想よく頭をさげるばかりであった。」という支那農民について「だがこの悪臭や、あわれな窮乏きゅうぼうぶりや、泥濘でいねいがあるにもかかわらず、農業上、村内経営上の些細な点にいたるまで、支那人の知識と秩序と几帳面さを認めざるを得なかった。――どんな物でも投げやりにしないで、十分考えて用に使ってある。すべてが仕上げ済みであり完成されている。無雑作むぞうさに所かまわずに捨てられたものはわらの小束一つ見えないのだ。倒れたままの垣根とか、畑の中をうろついている羊や牛というようなものもない。――ここではどんな木片でも小石でもあくたでも、かならずそれぞれの使途があり、用に供せられるように思われる。――」と。
 ゴンチャロフのこの観察は、アジア人である私らが見るとき、逆にいえばそれは当時のロシア人気質を裏写しにしているようなものだけれど、これ以上のすぐれた観察は、おそらく一世紀後の今日にもないであろう。そして勤勉で、従順で、几帳面きちょうめんで、しかも「あわれな窮乏ぶり」の当時の支那人はヨーロッパの新しい主人たちをどういう眼で見たか?「私たちは部落と離れて遊歩道に出た。これは乗馬用として、また散歩道としてヨーロッパ人のためにいた郊外の一地帯である。――私たちは競馬場に出た。上海の男女ヨーロッパ人がそこで行ったり来たり馬を乗りまわしていた。イギリスから輸入した優秀なアングロ種の馬を飛ばす者もあれば、小さな支那馬に乗る者もある。無蓋むがい馬車に乗って一家族が来るかと思うと、牧師の細君と思われるレディを二本の竹竿たけざおに鉄製のイスを置いて四人の支那人がかついでいるのもあった。数名の歩行者、船の士官、それに私たちが観客を作っていた。いや、皆が登場人物となっていたのだ。本当の観客は都市・農村の平和な住人であり、一日の仕事を終わった支那の商人や農民であった。そこにはいろいろな服装ふくそうが入りじっていた。商人の絹の上衣うわぎや広幅のズボン、農夫の青い長着や――この群衆が文字どおり手をこまぬいて、しかも好奇心をもって外国人を見守っていた。その外国人は力づくで彼らの領土に闖入ちんにゅうしたばかりでなく、自分は勝手に畑の中を歩きまわるくせに、主人たる支那人がこの道路上を通行することを禁ずるという文句を書いた立札まで立てたのである。支那人たちは苦々にがにがしげに一人一人の通行人を送迎していた。ことに乗馬の婦人は彼らの注意をひいていた。これは彼らの国では未曽有の現象だ! 支那の婦人はまだ家政上の付属品のようなもので、獅子となるのは前途遼遠りょうえんなのだ。――」
 おのれ自身をさえ「登場人物」とすることのできる眼で見たこの数行によって、はじめて当時の上海風景が、一世紀後の私らに遺憾なく伝えられたのだといえよう。竹竿たけざおにつるしたかごをかついでいる四人の支那人と、それに乗っている髪の毛の赤いヨーロッパ婦人と、アングロ種の馬を乗りまわすレディと「手をこまぬいて」、眼をみはっている支那人群衆と。そこにアヘンや艦隊を含めても、なお「不断ふだんに増大する生産」力にりたてられて際限なくおしよせてくるアルファベット人種の新しい相貌そうぼうがある。しかも一方では、支那の婦人はまだ家政上の付属品」でしかなく、インド産のケシの実がそっくり吸いこまれるような古い支那への、ゴンチャロフ自身のおどろきと風刺があった。――「アメリカ領事カニングハム氏は、有名なアメリカのロッセル商事会社の上海代表者を兼任しているが、その邸宅は上海でもっとも立派な邸宅の一つである。この邸宅の建築費は五万ドルをこえた。邸宅の周囲は公園だ。いや正しくいえば樹を植えた庭だ。広々としたヴェランダは美しい柱廊ちゅうろうの上に乗っている。夏はすずしいことであろう。太陽は日覆ひおおいのかかった窓をおそうことはないのだ。バルコニーの下にあたる車寄せには、街頭に向かって大きな大砲が一門すえてあった。――」(前掲『日本渡航記』
 私らは、これ以上ロシア作家をわずらわさなくてもよいだろう。まさに一八五三年代の上海は、このとおりであった。香港をだんごのようにこねあげた同じ力は、上海を開港十年目にすでにアジアにおける最大の国際都市にしてしまったのであった。マンチェスターの、ニューヨークの、リオンの「不断ふだんに増大する生産の欲望と力」はこういう形で噴出していたのである。アヘンと大砲はその花束の一つにすぎない。ヨーロッパの船は、絹や茶を運び去ってゆき、綿製品や毛製品をはこんできた。呉淞河呉淞江ごしょうこうか。にかけられた、まん中から二つにれる鉄の橋は支那人から橋銭を取り上げたし、汽車は高価な賃銭を請求した。しかし橋は渡らねばならぬし、レールにそむいて歩くわけにはゆかない。たとえばカニングハム氏の邸宅にすえられた大砲が、どこにむかって砲口を開いているか、それはゴンチャロフよりも支那人自身が一等よく知っているところだけれど、しかし同時に大切なことは「新しい支那」にとっては、それは恐怖である以上に、驚異であり発見でもあるということだった。
 最初の呉淞ごしょう鉄道が開通したとき、最後まで反対したのは支那政府であったが、乗客は連日超満員であった。延長四分の三マイルのレールの上を時速十五マイルで「中華帝国号」が走ったとき、線路の両側にむらがった支那民衆と、同じ支那人乗客は歓呼してよろこんだといわれる。もっとも最初の呉淞ごしょう鉄道は、ある日、金に買われた兵士風の男が線路の上をまっすぐに歩いてきて汽罐車きかんしゃ〔機関車。の下敷になったということから、支那政府とイギリス領事との政治的接渉となって、あげくは数十万両で買い取った支那政府の手で、レールも汽罐車もわざわざ台湾の海辺へはこんで遺棄される始末となり、その後十余年間は支那大陸に汽車は見られなくなったけれど、一度発見された汽車は、やはり「新しい支那」にとっては限りなき将来を持つものであったろう。それはあかの鉄道経営者がいくらもうけたかとか、または「民衆の興味をおそれた」支那政府の謀略がどれほど成功したかとか、そういうことからはまったく独立の支那民衆の驚異であり発見であったのだ。
「――彼らには狂信ということがない。彼らは仏教徒の狂信にさえ感染しなかったのである。孔子教こうしきょうは宗教ではなくて単なる通俗倫理であり、実践じっせん哲学であって、いかなる宗教をも妨害するものではない。――支那人の実際的・工業的精神には、カトリック教よりも新教の精神の方がピッタリするようである。新教徒は通商を開始し、最後に宗教を持ってきた。支那人は通商の方は大よろこびで取り入れ、宗教のほうは何も邪魔じゃまにもならぬので、目立たぬように取り入れている。――」と、これはゴンチャロフの見た支那民衆のあざやかな特質であるけれど、しかしこの特質は同時に一方ではヨーロッパ文明を充分に吸収・消化するばかりか、アジア的特徴をも加えてプラスにしうるところまで成長した時代的素質ででもあったろう。―
「上海で私は支那語の本を三冊買った。『新約聖書』と『地理』と『イソップ物語』だ。これは新教宣教師の好意であった。――もっとも活躍かつやくしている宣教師の一人であるメドハースト氏は支那に三十年も生活し、休むひまもなくキリスト教の伝道に活躍し、ヨーロッパの本を支那語に訳し、各地を巡回している。この人は現在は上海に住んでいる。」と、ゆくりなくも晩年のメドハーストの消息をゴンチャロフは伝えている。
 前巻で見たように、江戸と長崎と函館とを開かせたプーチャチンの艦隊について日本にやってきた、この帝政ロシアの九等官は、長崎でカタカナの流しこみ活字など作っていた、まだ若い小通詞の「昌造」にたびたびっているが、上海でペリーの艦隊を待ちあわせているうちに、もとイギリスの印刷工、いわばダイア活字の協力者、もう老人のメドハーストにっているのであった。ここでいう「支那語の本三冊」とは、もちろん漢字活字による印刷物であることがわかるが、もうそのころ「華字版の印刷物」は『新約聖書』や『イソップ物語』や『地理』やの「三冊」ばかりではなかった。ダイア以来、コール以来のアルファベット人によって作られた、パンチによる漢字活字の、なまりの活字の、近代的印刷術が花開いていたのであった。中牟田なか倉之助みやげに見るような『重学浅説』や『代数学』などがあったように、日本に渡って近代医術の手がかりともなった上海伝道病院々長、そしてアメリカ外国伝道協会々員A・ホブソンの『西医略説』や『内科新説』や、または『博物新編』などいったものが、ひろく支那人のあいだに人類にとって新しく有益なたくさんの知識をふりまいていたのであって、そして、こんなアルファベット人種のき知恵と理想とこそが、じつは彼らの大砲やアヘンにおとらず、支那を、アジアをとりこにしたにちがいないと私は考える。

   十八

 ほんとに、活字は活字だけで独立に成長することはできなかった。ダイア――コール――ギャンブルと、ペナンから上海までのぼってきた近代漢字活字も、それから日本に渡るまで二十年も、電胎字母活字になってからでさえ十年もそこで足ぶみしているのであった。
 活字が日本に渡るには、他の条件が必要であった。そして、その他の条件のうちもっとも大きなものは、やはり文久二年・一八六二年の日本幕府がはじめてやった貿易船千歳丸の上海入港であったろう。開港後からは二十年目、ゴンチャロフの上海からは九年目にあたるが、長崎からは海上七〇〇キロそこらの地点で、日ごとに成長しつつあった近代文明から、ふたむかしの間も隔離かくりしていることのできた鎖国の力は、幕府おとろえたりとはいうものの、おどろくべきものがあったといえる。しかしまた一方からいうと、この二十年こそが、家光以来二百余年の鎖国伝統を打ち破ったのでもあった。「上海」で支那の領土に立札をたてたアルファベット人種を痛烈に批難したゴンチャロフ自身が、じつはプーチャチンの秘書であり、「六十斤砲を撫しながら」長崎や大阪や江戸をおとずれて日本の土台石をゆすぶった役者の一人だったではないか。
「日本はこのたび、日進月歩の今の時勢にまったく応わしく、一つの興味ある観物を商界に展示した。日本国旗をかかげた英国製帆船の過日の上海入港は、それだけでもはなはだ注目に値する事件である。ところがさらにこの船は、同国政府の手で買上げられた官有船であるばかりでなく、海外貿易の目的の下に、同国の特産物や製造品を積んできているということがわかった。これは、この特異な国民の排外国策の上に、まったく新しい光を投げかけるものである。――」
 という文句は、千歳丸の上海到着後五日目、一八六二年六月七日付の『字林西報』(ノース・チャイナ・ヘラルド)紙がトップにかかげた社説の書き出し(前掲『上海史話』一二七ページより孫引)だそうであるが、まったくこの三本マスト三五八トンの、前檣ぜんしょうにオランダ国旗、中檣にイギリス国旗、そして後檣こうしょうに日本国旗をかかげた奇妙な船こそが、そのまま江戸期開国のシンボルとなっているといえる。
 しかし、この最初の貿易船千歳丸上海入港がどんなに大きな意味を持つかは、明治維新史の研究が深まるにつれてますます史家の強調するところだ。経済的にいえばこの貿易は失敗したけれど、不馴ふなれな幕府の役人たちは積荷をそのまま持ち戻るはめにもなったけれど、オランダの役人につれられて各国の領事たちにあったり、諸外国人の活動ぶりを見てびっくりした。たとえばこれを便乗者・高杉一人の場合に見てもあきらかである。
「五月二十日、朝、中牟田なかむたとアメリカ商館に至る。商人の名はチャールス、もっぱら二人を通して、その居室に至る。(中略)中牟田なかむた英語を解し、談話分明す。奇問を聞きて、益を得ること少なからず、予チャールスにっていわく、弟近日英書を読めるも、いまだ人と談ずるを得ず。日夜勉強し、他日再逢のとき兄とよく談ずるを得んとほっす。チャールスいわく、再逢の日、弟また兄とよくその邦語を解せんと欲す。すなわち礼をつげて去り」云々うんぬんと『游清ゆうしん五録ごろく』の一節に自分で記したのを、決して単純な外国人同志のお世辞とだけ解してはならない。「五月二十一日(中略)支那はことごとく外国人の便役たり。英仏の人街市を歩行すれば、清人皆かたわらに避け、道をゆずる。じつに上海の地は支那に属すといえども、英仏の属地というもまた可なり。(中略)わが邦人といえども心をもちいざるべけんや。支那のことにはあらざるなり。」と、すぐその翌日に記したとき、アルファベット人種の文明に驚けば驚くほど、「中華帝国号」がレールの上を走るのを見て、手をたたいてよろこんだ支那民衆とはちがった日本の支配者武士的・領主的な感情で受け取られているのがわかる。その後二年あまりで、攘夷の中心長州藩が領民に洋品使用の禁を解き、薩摩や佐賀と前後して海外貿易をいとなんだ急角度の転回も、したがって「薩長締盟ていめい」を可能にした思想的背景も、このときの千歳丸便乗によって彼が上海で感得したものによるところ、はなはだ多いといわれている。
 一八六〇年代の上海は、アジアにおける近代文明の中心地であった。「日本の幕末文化は上海から吸収したといわれますほどで、当時は上海が主、日本・長崎は従の位置にあったのであります。」とさえ『滬上史談』の著者沖田一氏は書いている。福沢諭吉などごく少数の人間が、いたって窮迫きゅうはくした政治的性質の万延元年(一八六〇)の遣米使節、または文久元年(一八六一)の遣欧使節などに随行して、産業資本主義時代のはなやかなヨーロッパ文化にじかに触れ得たような機会を除けば、上海はその唯一のものであった。第一回の千歳丸のときは高杉のほかに中牟田なかむたや五代〔五代友厚か。や浜松藩の名倉なぐら予可人などあったが、第二回の健順丸のときは、前巻でなじみの昌造の同僚で長崎通詞、安政開港に功労のあった森山多吉郎たきちろう、先の栄之助がいまは外国奉行支配調役しらべやくとして乗り組んでいたし、第三回目、慶応三年(一八六七)の同じく幕府船ガンジス号のときは、佐倉藩士高橋作之助〔猪之助か。(のちの由一ゆいちら多数があり、たびかさなるにつれて上海渡航者の数は急速に増えていった。ことに第三回目のときは、同じ日に横浜を出帆したフランス船アルヘー号に、パリの万国博覧会へ派遣される幕府代表者徳川とくがわ昭武あきたけの一行、箕作貞一郎〔貞一、箕作阮甫か。や渋沢栄一、博覧会出品人日本代表清水しみず卯三郎うさぶろうなど多数が寄港したために、上海の街には開港以来はじめてたくさんの日本人が見られたという。
 また、官船以外の密航者、あるいは藩所有の船修理と称して渡航する者もたくさんあった。たとえば長州藩の伊藤俊助〔俊輔、伊藤博文か。柳川藩やながわはん〔柳河藩。曽我祐準すけのり、熊本藩の竹添たけぞえ進一郎しんいちろう、芸州藩の小林六郎や長尾治策、薩藩の上野うえの景範かげのり、さては中浜なかはま万次郎まんじろうを案内に立てて汽船を買いに来た土佐藩の後藤ごとう象次郎しょうじろうなどと、千歳丸以後は「きびすあいついで」いるが、これを千歳丸からガンジス号までの乗り組んだ顔ぶれに見てゆけば、最初は薩摩・長州・佐賀などの大藩の武士であったものが、しだいに中小の藩士にもおよんできているのがわかる。もちろん、渡航に便利な長崎に近いという地理的事情も影響しているようだが、それよりは「明治維新」の大きな動力となった大藩ほど、より先んじていることはいうまでもない。
 そして藩の大小にかかわらず、彼らの多くが武器の買い入れにきたのも、もちろんであった。幕末艦船・銃砲などの輸入港は、おもに長崎・横浜・兵庫などになっているけれど、幕府を先頭として各藩競争の勢いであったから、しぜん上海まで押し出したのだともいわれる。山口やまぐち和雄かずお氏の『幕末貿易史』によると、たとえば艦船だけを見ても、安政元年(一八五五)から慶応三年(一八六七)までの購入一一一隻、そのうちの三分の一が幕府で、三分の二が薩・長・土を先頭とする各藩の買い入れであった。日本で最初のものといわれる、土佐侯の命令で本木昌造がつくった蒸汽船模型も軍艦であったように、近代日本の貿易のはじまりは武器ばかり買っている。それでも千歳丸以来、元治・慶応と、上海往来も四、五年も経過してくるといくらか毛色が変わってきた。たとえば、元治元年(一八六四)に上海へきた美濃の人で安田やすだ老山ろうざんという画家や、画家で英語に堪能、のち香港に移って日本漂民の世話をした八戸喜三郎、越後の画家で長井ながい雲坪うんぺいなど『上海史話』や『滬上史談』にあげてあるが、美作みまさかの人で日本新聞史上に元祖として知られる岸田きしだ吟香ぎんこうや、前巻で見た「サツマ辞書」編纂者の一人、薩摩の前田まえだ正名まさななども幕末いわゆる「上海へ洋行」した人々であって、前者は慶応二年の一八六六年、後者は慶応四年の一八六八年であった。
 そして吟香と正名の上海渡航が、ダイア活字の後身であるガムブルの電胎活字が上海から長崎へ渡来するため水先案内として歴史的な意味を持つものであった。吟香も正名もそれぞれに独立に行動しているし、ギャンブルと昌造を結びつける直接の機縁とはなっていないのだけれど、それは上海にあってはじめて日本文字、つまりこの場合カタカナの電胎活字を作らせ、日本人自身の意志によって使用したというほどの事実だけれども、日本印刷史上じゅうぶんにページを占めるほどの事柄であった。同時にまた文久二年(一八六二)以来日本人の上海往来として見れば、その多くが大小藩の直接・間接の政治的・経済的使命をおびて渡航する者であったり、個人的な場合にも、それがいたってロマンチックな画家文人の漂泊であったのにくらべると、これはだいぶ毛色が変わって文化的な性質を持っていた。吟香は武士でもなければ、いわゆる文人墨客でもなかった。前田は薩摩の藩士であったが、脱藩以後は扶知をはなれた一青年でしかなく、しかもいわゆる「志士」とちがって何の背景も持っていなかった。周知のように、前者はヘボン博士の助手として「ヘボン辞書」『和英語林集成』か。印刷のためであり、後者は同じ和英対訳「サツマ辞書」印刷のためであって、こと前巻で見たように後者の方は、浪々ろうろうの青年らが菊判一千ページに近い大辞書を、その発刊の理想から本の出来ばえ、経済上の損得一切を自己の一身にかけて、とにかく成就させたということが、いにしえの陀羅尼経以来に見る破天荒の大仕事だったのである。
 つまり、幕末の上海渡航も、吟香・正名らにいたって、高杉らのそれとくらべるときは、わずか四、五年の差でありながら、急速な質的変化があるわけであったが、しかしいずれにもしろ、記録にみる当時の上海在住の日本人は少数で、たとえば次のような岸田の上海日記に見ても様子がわかる。
「二十一日(慶応三年三月)、ひるから、きんきへいて見るに、弘光、明日、香港へいくとて、したくしている。曽我弥一という人がきている。きのう逢うた。処々あるいてきたそうだが、香港で日本の三味線をひいているのを見たという。(以下略)
「二十四日、てんき、おおよし、よつじぶんにぶらりと出て、どこへいこうかとおもいながら、河岸を南へすたすたあるくに、ふと軋位仏の招牌しょうはいを見て、この間、弘光のいうた事をおもい出して、このうちへたちよって、日本人がいるかといえばいますとて、支那奴が案内してくれて、はじめて曽我準造にあう。いろいろはなしをしておもしろし。梁川〔柳川か。の藩中の人なり。――」
 弘光は八戸善三郎のことで、「準造」は曽我祐準すけのりのこと、前記したように祐準はイギリス商船に乗り組んでカルカッタまで行ったが、海軍志願の彼には商船ではおもしろくなく、ふたたび上海へ引き返したときのことであった。もともと幕府は、みずからは千歳丸などを仕立てて最初の上海貿易をやったが、一般に海外渡航を免許したのは慶応二年(一八六六)のことであった。高杉や五代やが幕府役人の従者や人夫にけたりして千歳丸に便乗したのは有名な話だけれど、慶応になってからでも曽我祐準が英商ガラバ〔グラバーか。斡旋あっせんで商船に乗り込むためには、柳河藩から扶知離れした形式をとらねばならなかったし、熊本藩の竹添たけぞえ進一郎しんいちろうなど表向きには「漂流」ということになっていた。
 しかしここで大切なことは、上海の文化を日本の長崎や横浜に導いた人々が、記録にもあきらかな以上の人たちだけではなかったということである。それは、長崎にもどれば奉行の手によって暗い所に入れられねばならぬたくさんの漂流民、それから外人や支那人に買われた多くの男女、あるいは密航者たちであって、表向きにも裏向きにも藩とか幕府とかの庇護も何もない人々が、記録に残るよすがもないままに、文化の歴史を進める大きな土台石になっていただろうということである。そういう人々は、きっと吟香の日記に見るような、何の某がどこそこの旅館にいるという存り方ではなかったであろうし、記録にないものは叙述のしようもないけれど、たとえば明治元年、つまり慶応四年・一八六八年の上海に「田代屋」という長崎出の日本商人があって、日本婦女子のための小間物を売っていたと『滬上史談』(九二ページ)は書いているから、その買い手たるべき日本婦人が何人か何十人か、少なくとも慶応四年以前から在住していたことはたしかである。また工部局墓地にはたくさんの日本人墓碑があって、それらの内にはアメリカ飛脚船乗組員茂助・利七ほか三人によって「江戸浅草材木町徳助、相州小田原在天坪村雨坪村あまつぼむらか。七之丞」二人の霊のために「明治四辛未(一八七一)六月建之」というのもあるし、外人墓地にもたくさんの日本女性の墓石が混じっている。たとえば「マリア・ハシモトの霊に献ぐ、一九一一年十月九日没、行年七十三歳と英文でしたためて、下方に漢字で「麦理海細麦多」和歌山県日高郡御坊東町橋本仕没明治四十四年(一九一一)十月九日」というのがあり、「やすらかに眠りたまえ、セレッザ・マリア・ド・ジーサスの霊に献ぐ、一九〇九年六月二十五日没とポルトガル語でしたため、主のつかさどる幸福なる死、とラテン語で書き加えてある。下方には漢字で、明治四十二年(一九〇九)、島谷カネ長崎人第六月二十五日死ス」というのがあり「カキガワ・パリサーの霊に献ぐ、一八九六年三月二日没、行年四十七歳、われらの愛する唯一の母は永遠に眠れり、怖れを知らぬ天にのぼりて永遠に祝福されぬ、けど忘るあたわず、と全部英文でつづっ」(前掲八七ページ)」たのやがあるという。カキガワ・パリサーの碑は、彼女の毛色・眼色のちがった愛児たちによって建立されたのだろうか。セレッザ・マリア・ド・ジーサスは死没年齢があきらかでないけれどマリア・ハシモトは行年七十三歳というのだから、明治四十四年としても、彼女がかつて若く美しかった日に外国人に伴われて海を渡ったのだとするならば、あるいは幕府の千歳丸よりはるかに以前だったか知れない。さらにまた一八七〇年・明治三年の工部局人口統計では、当時の上海在住日本人合計二十九名、そのうち二十二名までが「船員」となっているそうで、女性は一名もないという。これは上海における日本女性のありかたが特殊だったろうことを示すと同時に、男性でもその大部分が「船員」だったということは、この統計の正確さ・不正確さは一応別として、吟香の日記に見るような日本人のあり方でないところの日本人が、相当多数だったことを物語るものだと考えられる。
 浅草材木町の徳助、小田原在天坪村の七之丞が船乗りだったろうことは、その建立者たちによっても想像できるところだが、記録に残っている漂流民、尾張の音吉そのほかも当時の上海に生存しているはずであった。彼らがたまたま記録に残った機縁は、たとえば天保六年・一八三五年、前巻で見たように「モリソン号」で送還されようとしたからで、尾張の船乗り音吉・久吉・岩吉ほか数人、また肥後の漁民庄蔵・寿三郎・力松など、「モリソン号」にからまる政治的焦点の余映よえいに照らし出されたからにすぎない。ことに音吉は一八五四年・安政元年、イギリス軍艦に通弁として乗り組み長崎に来て、当時の蘭学書生・福沢諭吉と対面していたり、肥後の力松は一八五五年・安政二年、露土戦争の余波で、プーチャチンの艦隊を追撃してきたイギリス軍艦が函館へ侵入したとき、艦付き通弁として幕府役人との通弁にあたっていることが『大日本古文書』巻十に記録されたりしている。九州天草生まれ、十三歳のとき漂流、カタカナの日本語を示して通弁した日本人「通弁リキ」と書かれている。
 漂流民の多くが故国に帰れなかったことは「じゃがたら文章」以来有名なところであった。肥後の力松連中も尾張の音吉の連中も、ついに恋しい日本へもどされた形跡はない。モリソン号で追いもどされた音吉は安政元年、再度長崎へ来たとき「その中の一人は、同じく日本語にてさかな買いたし、金はたくさんありといいしかば、売るさかなはなしと答えしに、私は日本尾張国の御米船に乗り組みたる者にて十六歳のとき漂流し、ようやく七年前、薩摩まで連れ渡されたれど、命にかかわると申し聞かされて、よんどころなくイギリス国へ帰れり。宗門所詰の妻の十八歳なるがあるほか、島原にもねんごろなる者一人ありしとはなし」(『滬上史談』九八ページ)たという。この音吉はのちに外国人を妻とし上海に住んでいて、文久二年・一八六二年、中牟田なかむた倉之助が人づてに聞いて訪ねて行ったが、あいにく会うことができなかったと『中牟田なかむた倉之助伝』は伝えている。
 漂流民についての研究は、史学の間でもまだ未開拓の分野だとされているそうだが、田保橋たぼはしきよし氏の『幕末海外関係史』には、たとえば岩吉・音吉の一行は太平洋上にただようこと十四か月、カナダ、コロンビア州の沿岸クインシャイロット島に漂着してアメリカ・インディアンの手に落ちていたが、アメリカ商船によって救出された。この頃イギリスおよびアメリカは、その他フィリピンや南洋諸島に漂着した日本人を収容し、新教宣教師の手にあずけてマカオや香港あたり転々させたという様子が記してある。これらの漂流民がみんなでどれほどの数であり、どんか名前だったかもちろんわかりようもないが、私はここでフッと思い出す。前に述べた新教宣教師で、のち上海で活動していることを『オブロモフ』の著者によって消息されたメドハーストの世界最初の『和英語彙』が、当時マラッカにあった英華学堂内の日本人労働者二人の協力によってできたということである。
 もちろん「二人の日本人労働者」が音吉たちであるかどうかはわからない。音吉たちの漂流は天保二年・一八三一年で、『和英語彙』が一八三三年の発行であるから、そして『和英語彙』が『支那叢報』のブックレビューに見るような素朴そぼくな単語集にすぎないとすれば時間的には無理がないけれど、よし、それが音吉らであろうと他の日本漂民であろうと、事の本質の重要さに変わりはないわけだ。メドハーストより二、三年おくれて、支那へまたドイツ人ギュッツラフも「日本語はマカオで漂流民からギュッツラフがまず学び、後にウィリアムスも習った。ウィリアムスの広東『支那叢報』印刷所には日本人が二名いたらしく思われます。」と前掲『上海史話』の著者からの手紙の一節にあるし、また他にもギュッツラフに日本語を教えたのは音吉・久吉の二人だという説がある。しかしいずれにもしろ、日本を訪れて渡辺華山や高野長英に命がけの文章を書かせ、鎖国日本を押しゆすぶった「平和の使節」といわれる「モリソン号」の導きとなったのがギュッツラフの「日本語」であり、「ペリーの艦隊」「嘉永の黒船」の通訳がウィリアムスの「日本語」であったのを見るとき、それが誰だったにもしろ、日本漂流民の功績が歴史の大きな歯車の一つとなっていることをいなむことはできないだろう。
 広東の『支那叢報』印刷所にいた日本人が、マラッカの英華学堂印刷所にいた「二人の日本人労働者」と同一かどうか私にはわからない。またメドハーストの『和英語彙』の日本文字がどんなものであったか、木彫か金属彫刻か知るよしもない。しかし前掲『上海史話』の著者は手紙の一節で、コールの後任ギャンブルが来任してから、「――一八六〇年十二月、印刷所を上海に移転して拡充し」たとき「二種の新漢字活字を有し、日本文の活字(小型)も有していました。日本文字というのは四十八文字の仮名活字のことと思われます。」と書いているとき、私はそれを自然に肯定することができるのである。岸田吟香が「ヘボン辞書」の印刷にあたって日本文字の種字を書いて、金属活字を作らせたという事実は日本印刷史上有名で、たとえば、後年吟香は追憶して「岸田吟香氏の朝野朝野ちょうや新聞か。記者に語りし新聞実歴談」石井いしい研堂けんどう著『明治事物起原』の一節はいっている。「当時、上海に美華墨海ぼっかいの二活版所あり、ともに耶蘇やそ宣教師が漢文聖書を印刷して布教に資するものなり、さて印刷せんとするにあたりて、この活版所に、日本かな字の無き不都合にあい、予自ら平かな片かなの細字(五号)版下を書き、これを黄楊つげに刻ませて字母を作り、活字を鋳造せしめたるが、我邦の仮名字をもってなまり活字となせるは、けだしこれが嚆矢こうしならんか。」ところがこれは吟香が知らないので、黄楊つげに木彫したことは電胎法字母を作ることができた証拠であるし、かなの鉛活字の伝統は、前巻以来見たところ、すでに昌造の『蘭話通弁』があるし、英華学堂で作られた「日本労働者」のそれによるものはもっと古い。しかし、私が岩崎克己氏の家で見た「サツマ辞書」のカタカナ活字の字形はなるほど立派であった。「ヘボン辞書」と同一のものを使ったというこのカタカナは、しょせん「尾張の音吉」や「通弁リキ」などに書ける文字ではないけれど、それにしてもかなくぎりゅうの文字で、たぶんは滅多めったに使われることもないままに不揃ふぞろいにもなった何本か何十本かのカタカナ活字が、マラッカ以来、広東・香港・寧波ニンポー・上海と転々しつつ、工場のすみっこにほこりをあびていただろう、その歴史こそ貴重であったと思うのである。

   十九

 しかしまた上海で、岸田吟香がカタカナの種字を作って、日本文字活字をふたたび誕生させたということは、一方から見ると、決して偶然ではなかった。周知のように吟香は元治元年(一八六四)にジョゼフ彦(浜田彦太郎)らと“新聞紙”を発行した。「新聞」と名づけたものには、これよりさき文久二年(一八六二)に開成所教授、先にペリー来航当時通詞として活動した昌造の同僚ほり達之助たつのすけらによって編集されていた『官板かんぱんバタビヤ新聞』や『海外かいがい新聞』などがあったけれど、これはそれぞれに一冊の書物であり、外国の新聞から抄訳したものを時間の制限なしに刊行され、書店から発売されたものであった。しかし吟香の“新聞紙”はリーフレットである。月に「三、四回」ずつ発行されて、もちろん日刊でも週刊でもなかったが、それはあたうかぎり早く、しかも講読者を予約して配達されたものであったという点で、日本で一番最初に新聞の性質に近づいた新聞であった。
「予が“新聞紙”を刊行したるは元治元年(一八六四)にして、これを刊行せんとくわだてたるは、かつて横浜にありてドクトル・ヘボン氏とともに和英対訳辞書を編纂するころ、ジョゼフ彦という者と相往来したる時にあり。――一日彦蔵ひこぞう予らと語りていわく、米国には新聞紙という者あり。もっぱら世間の珍しきことおよび日々の出来事などを書き集め、これを世間に公布するにありと。――すなわち彦蔵は西洋新聞を翻訳し、予と本間氏とはこれをひらかな交じりの日本文につづりたり。さればそのころは活字などいっさいなければ、予らみずから版下を書きて木版に刻し、半紙五、六枚にて、単に「新聞紙」と名づけ、月に三、四回ずつ刊行して、みずから横浜市中に配達したり云々うんぬん」と吟香は『明治事物起原』所載「朝野記者に語りし新聞実歴談」の一節に語っている。
 いわば漂流民ジョゼフ彦の知識を通じた模倣もほうであるが、こういう社会的要素はすでに当時の日本に醸成じょうせいしつつあったのであろう。ことに文中「これをひらかな交じりの日本文につづり」と云々うんぬんは、吟香の新しい平民的思想を示すものであり、新聞を創ろうとする思想とつながるものにちがいない。私はいまだに“新聞紙”を見たことがないけれど、吟香が明治元年(一八六八)二度目に起こした『横浜新報もしほ草』の文章は(後で見るところだが)当時の他の新聞にくらべても、図ぬけて仮名の多い文章であるが、それは吟香がアルファベットに親しんだところから生まれた観念というよりは、もっと新聞がその対象とするような大衆的なもの、平民的なものが彼の身内に思想として成長していたからであろう。逆にいえば、そういう彼の観念こそが“新聞紙”を模倣させたかもしれない。そしてそういう彼が「そのころは活字などいっさいなければ」「みずから版下を書きて木版に刻」さねばならなかったし「みずから横演市中を配達」せねばならなかったということは、当然「新聞」が持つ時間的制約とまだ機械化されない当時の日本印刷術との矛盾につきあたったことであった。「新聞」を印刷するに適当な紙製法が発達していたならば「半紙五、六枚」をとじあわせないで、大判の一枚刷りとしたであろう。金属活字や印刷機ができていたらば「版下を書」いたり「木版に刻」んだりしないで、フランクリンのごとく、しかも日刊ができたであろう。したがって吟香らの「月に三、四回」の“新聞紙”は当時にあっては最大限度のものであったといえる。
 したがって「姜先生と申す人はあめりか人にてぎやんぶると申しますが、この人美華書館の主人(七、八字不明)至りてこころやすくいたしますが、活字版屋の事故もとよりそればかりが(六、七字不明)至りて(二、三字不明)い人なり。日本へいてカタカナひらがな活字板をすることをしたいと(十五、六字不明)開成所(十字ほど不明)おたのみになりますれば(十六字ほど不明)ますがいかがでございましょう。ヘボンこちらにいるうちに相談になりますれば熟談(五、六字不明)ございますから、よくお考えなされてくださいまし。土方ひじかた定一ていいち『近代日本洋画史』二一〜二二ページ)というのは、吟香が慶応三年(一八六七)正月、上海から日本の川上かわかみ冬崖とうがいあてに書き送った書簡の一節であって、彼の金属や活字や印刷術に対する関心がここにあらわれているのも自然であった。
 書簡の文章は残念にも“不明”が多いが、大意を判ずるには充分だ。「ぎやんぶる」はギャンブルであり、「日本へいてカタカナひらがな活字板をつくることをおしえたい」というとき、それは前章から見てきたところでもあきらかなように、電胎字母を含む活字の製法であった。周知のように川上冬崖は明治洋画の開拓者であり、「開成所」が「蕃書ばんしょ調所しらべしょ」といった頃からの役人であったから、吟香は友人の冬崖を通じて、官板ものなど主として出版している開成所へ日本活字の製法伝授を斡旋あっせんしたわけである。元治元年(一八六四)に改正された「開成所稽古けいこ規則覚え書き」によると「オランダ学、イギリス学、フランス学、ドイツ学、ロシア学、天文学、地理学、窮理学きゅうりがく、数学、物産学、精錬学、器械学、画学、活字」(文部省編『維新史』第四巻、三三三〜三三四ページ)という科目の列挙があって、活字もその一科目となっていたのだから至極当然であるが、しかし吟香のこの斡旋あっせんがどう経過したかは今日もあきらかではない。前巻で見たように開成所には万延元年(一八六〇)大鳥おおとり圭介けいすけによって発行された『斯氏築城典刑』の彫刻鉛活字などの印刷伝統があったはずであるが、おそらく、このころ慶応三年から明治元年へかけての国内的変革期にあっては、幕府役人であった書簡の受け取り人も、また開成所自身も平和的な事業に手をつける余裕がなかったのであろうか。
 さて岸田吟香がヘボン博士夫妻に伴われて上海にきた一八六六年十月ごろの美華書館はどんな所で、どれほどの印刷能力を有したか、またどういうふうに整版され、吟香自身どういうふうに働いたろうか? 残念ながら私は、吟香の上海日記全体を見る機会をいまだに持つことができない。

「なにさま、印刷場は寺の下にあったということだ。吟香らは二階に住んでな、うむ」
 昭和十八年(一九四三)の二月、ある寒い日の午後、まだ在世中だった『明治事物起原』の著者を下谷したやに訪ねていったことがある。ひどく無人な家であるが、うす暗い二階で、研堂けんどう老人は私にいった。
「――ひどく切りつめた生活でな、言語は通ぜんし、不便だったという話だった」
 コタツに背をまるくしながら、抑揚よくようのない低い声で、こんなふうに語る。この人には、私のたずねる岸田吟香のことが、まだ「歴史」ではないのだった。私が上野の図書館で読んでいる『明治事物起原』は、手あかでよごれた革表紙の、カード番号も2とか3とかいう、もう古い本なのに、この人はその時代を今日に生きているのであった。人間にとって、なんとそのりつけられた「歴史」は重いものであろう。
「うむ、まあ、どうやら、この冬もせるか、と思っている――」
「ヘボン辞書」から「サツマ辞書」の話もしてくれながらそんなこともいった。前田まえだ正名まさなのことでは、このあとに紹介するような文章の載っている雑誌を、へやいっぱいに積み上げてある書物のうちから探してくれるために、まがった腰を起こして、丹念たんねんにかたづけ始めた。それはひと閉じの雑誌類を持ち上げるのでもたいへんな努力であったが、私がそばから手伝うのも許さないようないっこくさがあった。
「ああ、きみは『太陽のない街』を書いたんだね」
 コタツにもどってまだ呼吸をはずませていたが、もう帰るころになってから研堂けんどう老人がいった。私はうれしくなって相手を見ると、こんどはせきこんで、老人はコタツ布団ぶとんに顔をふせているのだった。
「どうりで、聞いたような、名だと思った――」
 しかし、石井研堂氏はとうとう、その「冬がせ」なかった。岸田吟香のことをじかに話せる人は亡くなった。―
「寺」というのは教会のことで、「寺の下」というのは、あるいは地下室のことかもしれない。教会のことを「寺」とは高杉も日記にそう書いてるし、前田正名の日記にもあり、「寺」でキリスト教徒たちが祈祷きとうをするさまも書いてあるから、疑いなかろう。また『上海史話』の口絵にある安田老山筆の当時の上海風景には、河岸に沿うて林立する数階建ての西洋家屋があるから、きっと礼拝堂につながる洋家屋の一部分に印刷工場があったと想像できるし、その場所は「当時の小東門外にあ」ったと『滬上史談』の著者は書いている。
 次に日本文字まじりの「ヘボン辞書」が毎日どれくらい整版されたか? 吟香はどんなふうに働いたか? を知るためには『滬上史談』におもしろい記事がある。それはこの著者が一八七三年三月二十日(明治六年)のノース・チャイナ・ヘラルド紙から、ブラムゼンという人が「ヘボン辞書」に誤植や見落としが非常に多いという批評を加えたについて当時の美華書館主マティーア(ギャンブルの後任)という人が、印刷者としての責任上から答えている、その文章を翻訳したものだ。
「本紙十三日号に『和英語林集成』に対する批評が出た以上、同書印刷当時の事情を発表するのが正しいと思う。著者ヘボン博士はみずから全部の校正を見られた。したがって印刷上の間違いでも、その他どのような間違いでも、その責任はヘボン博士にあって美華書館にはない。ヘボン博士の校正は次のような事情でなされた。この校正を開始するとすぐ博士の日本語教師は去ってしまった。そしてその代理の者は辞書が完成するまで働いたが、ほんの小僧程度で、したがってはなはだ正確とは申しがたい。博士はこの印刷中ずっと病気で、非常に悪いために事務所にくることができず、校正刷りを博士の部屋に送ったことが数回あった。ヘボン夫人の校正につくした功は貴重なものであるが、夫人もまた病気で香港へ静養旅行に行かねばならなかった。この本は一日八ページの割で上梓じょうしされたので、もし博士が完全に健康であり、あらゆる便宜を持っておられたなら、この不完全な書を完全にするのに大繁忙であったろうと思う。このような不利益な点を考慮すれば、本紙に現われた批評中に指摘された以上にひどい誤りがなければ結構けっこうだとしなければならぬ。ゼイ・エル・マティーア」(前掲二七ページ)
 この文章は全体として印刷者が責任から逃れるために強弁しているの傾きがあり、罪の多くを「小僧」吟香に押しつけすぎているきらいもあるが、何にしても一日八ページの割合で校了にまでしたとすれば、ヘボン博士夫妻が病気だとすると、一人の校正者ではあきらかに無理であった。「サツマ辞書」から察しても活字は大きいが、菊判の辞書ものとなれば今日でも大変だ。沖田氏も書いている。
「右のようにヘボン夫妻とも病気であったので、仕事の大部分は吟香にかかってきた。なべまでしなければならぬほど忙しかった。」そして「小僧」とあしらわれた吟香は「どれほどヘボンから月給をもらっておったかというと、月わずかに十ドルであった。五十セント出せば鶏卵が百個あり、牛肉一ポンド五セント半、魚一ポンド七セントというような物価安の時ではあったが、月給の半分は食べるものにってしまい、残金ではどうすることもできなかった。(前掲二七ページ)というのである。
 吟香が「小僧」であったか、なかったか? 吟香はこのとき三十五歳であるが、四十前後と思われるころの彼の洋服姿の写真を見ると、頬骨ほおぼねのはった太りじしで、まゆのけわしい、毛むくじゃらの顔であった。しかも、この日本最初の完全な形を持った、日本にはじめて英語というものの大衆的伝統を作った和英辞書が、吟香の協力なしにはできあがらなかったのだという事実一つで充分な答えになるだろうと私は考えるが、とにかく、当時の美華書館印刷所は、本業の伝道書印刷のかたわらに菊判の辞書八ページを一日平均に生産する能力があり、そのうち半分のスペースをうずめるだけの日本文字活字があったことがわかる。
 さらにこれより一年後に「サツマ辞書」を印刷した、当時の前田正名の日記(前田三介『社会および国家』昭和十二年(一九三七)四月号所載「上海日記」)に見ると、

 閏四月三日
(前略)夫より下船いたしガアンボル(ギャンブルのこと)のところへようやくにたずね行き候ところ、ソンデイにて客人これあり、一刻相はなし候て、夕刻七ツ時分まで寛談いたし、じつに丁寧ていねいなることにて、明日林方へ書状為持候様可致段うけたまわり候。西洋料理にわれわれ上席にて馳走これあり候。そののち寺へ友朋と差し越し候、われわれどもは亭主はボイを連越六ツ過まで町など見物いたし、じつに聞きしにまさり手広てびろにこれあり候。もっとも異人の宅は長崎より比較すれば、大変これあり、異国に差し越し候おもいをなし、立派に作りたり。少々の用事はボイに漢文をもって筆談いたし候(略)

 というのが正名の上海上陸第一日の印象であるが、閏四月三日はまだ改元前の慶応四年である。林というのは何人かあきらかにしないが、後続するところから見ると支那人で、印刷工場の支配人か職長かと思われる。「われわれども」というのは、たぶん協力者である正名の兄献吉けんきちと高橋新吉の二人を含んでいるのであろうが、当時ようやく二十三歳の青年正名の日記は、三十五歳の吟香のそれとくらべるとき、西洋文化に対するおどろきがもっと率直でもあり、強くもあった。

 閏四月四日
(前略)一、書籍出版のありさま致談判候ところ、本書はなはだ誤謬ごびゅうこれあり、かつ英字にてこれなき字過分これあり候につき、自分誤りをわれわれどもに致相談しても可然そうらえども、なかなか閑暇かんかこれなきにつき、ウリヤムスと申す者当地にまかりおり候につき、われわれどもを連れ越しよく談判いたし候て可然候半と存じ候。この人は和語にも通じ候につき、旁々以都合宜敷よろしくと申すことに候。明日林も同道、ウリヤムス処へ差し越し筋に取究置候。

 正名らの辞書出版の目的が、海外留学の費用を得ようためであったことも前巻で見たとおりであるが、『前田正名自叙伝』中の一節に「――三人はいよいよ辞書の編纂に従事することとなりしも、いずれもそれだけの学力なければ、行徳(三字欠)という二人の学者をたのみ、かつて幕府の編纂になりしオランダ・イギリスの二つの辞書を骨子として」(『社会および国家』昭和十二年(一九三七)二月号、前田三介編)云々うんぬんとあるように、それは開成所版・堀達之助編の『英和対訳袖珍しゅうちん辞書』を改良したほどの原稿であった。三人のうち薩藩の洋学教授であった高橋新吉など、当時長崎在住のフェルベッキにも親しく英語に堪能といわれているし、正名なども九歳のときからオランダ語を学んでいたのであるけれど、ヘボンの弟子であった吟香校正の「ヘボン辞書」にミスプリントが多かったように、「辞書の編纂」ともなると「それだけの学力な」かったというのは英語草創の時期として当然のことであったろうか。また、文中にいう、つまりギャンブルが自分は忙しくて原稿の誤りを正しておられぬから、「ウリヤムスと申す者当地にまかりおり」「この人は和語にも通」じているから紹介しようという「ウリヤムス」こそモリソン博士の息子、ペリーの黒船の通訳となったロバート・ウィリアムスであった。
 そして、

「一、何千部出来可致哉と相尋につき、二四〇〇部こしらえ度段申し述べ候ところ、可致段うけたまわり相当。
 一、一部何ドルばかりの賦に候哉と尋ね候ところ、六ドルくらいと返答いたし候。何か月ばかりにて可致成就相考候哉と尋ね候ところ、四、五か月くらいにてぜひ仕度したく段申通候につき、その内には随分成就可致段うけたまわり候、もっとも何分軽目にあいなり候可致につき算当のところは近日ひとまず出版いたし候上、明白に可申通段うけたまわり候。右今日の談判にて候。(前掲四月号所載)

 と、閏四月四日の日記が続いていて、すぐ四月五日に、「一、今日試みに書籍活字植付方いたし候事」というのが見える。つまり、見本組みをしてみないと正確な値段も返事できないというのであるが、五月五日に「大概枚数は七〇〇枚くらいにて可相成候わんとガアンボル申し候」とあり、ここでいう「枚」は「ページ」のことらしいから、七〇〇ページの辞書を四、五か月うちにはじゅうぶん本にまでできると答えているわけであった。四月五日に「試組み」にかかったものの、翌六日には「一、今日より小の仮名文字不足ゆえ活字こしらえ方につき三七日相待候様うけたまわり候事」とあって、小の仮名文字が不足で新鋳しんちゅうする間、三週間待ってくれというので、五月の朔日ついたちに「一、今日者一昨日活字植付方に相かかり候、少し悪敷(一字不明)然候ゆえ(一字不明)方などいたし候事(三字不明)日本紙一枚だけ相済候、いまだ出版これなく」(前同)と、月末になって整版がはじまっている。今日でも六冊ものの印刷となれば、若干の日数は準備に要するのが普通だから不思議はないが、正名たちはもはや日本文字の種字を書く必要はなかったのだった。「日本紙一枚だけ」というのは、二ページだけ組めたものと考えられるが、「いまだ出版これなく」と書いた青年正名は洋式印刷術にもいちいちおどろいて、すぐ続けて「一、仕掛八枚だけこれなく候得ば、出版難成候事」とも書いている。これで当時の美華書館は八ページがけのシリンダー・プレスを使用していたこともあきらかになるし、八ページそろわねばゲラ刷りはできぬもんだと、正名は首を長くしているのだった。
 吟香におとらず正名たちも苦労しなければならなかった。ウィリアムスが「サツマ辞書」に手伝ったかどうか? 四月七日に「一、今朝けさガアンボルのすすめによって英人の漢学に通達した者の方へ同道差し越し候事」といい、以後はその漢学に通じたる英人ホエレーという名前ばかりが出てくるから、ウィリアムスは都合悪かったと思われる「一、三字前よりホエレーと申す者漢学に達せし先生へまいり、字引き改正いたし候事、もっとも明日よりその仁の宅へ差し越し、ウェブストルになき語たびたび日記に書(き)相尋、もっとも調音を正す筋に約束いたし候事」とか、「一、今日より別法を仕立て書籍取りしらべいたし候事、朝八字より十二字まで。二字半より五字半まで、夜七字より十字まで」(前同)などというのがある。正名たちの「サツマ辞書」印刷のための上海渡航は、一方で自身「サツマ辞書」を学ぶことでもあった。「字」は「時」であって昼夜兼行、しかも二十三才の青年はむことを知らず、五月二日の「ソンデイ」に「一、今七つ過ぎより夕刻までガアムボルの誘引により西洋の寺にまいり候事、男ともに百七、八十人に候か、はなはだ盛んなることに候」(前同)などと無邪気むじゃきな印象もある。
「サツマ辞書」も「ヘボン辞書」とほぼ同じく、約九か月でできあがった。慶応四年(一八六八)閏四月三日に上海へ上陸した彼らは、大福帳型の和紙に木版で印刷した『英和対訳袖珍辞書』のかわりにハイカラな皮表紙の「サツマ辞書」をかかえて、明治二年(一八六九)二月、神戸に上陸したのである。しかしその間、彼ら薩摩の脱藩青年たちも上海に上陸してまもない四月二十一日に、故国では置県制がしかれ、二年一月には薩長土肥が先んじて藩籍奉還するに至って、とにかく身の始末をつけるために、五月の五日に「十枚だけ土産みやげとして差遣候事」と、十ページのゲラ刷をもらって中途帰国しており、十月に再渡するまで約五か月間の不在もあるから、正味は「ヘボン辞書」よりずっと短期間であったわけで、それだけ上海美華書館の印刷能力も発展していたのであろう。
 このように、日本文字の電胎活字は上海で基礎を作りつつあった。すでにそれによる書物は日本に上陸していて、こころざしある当時の人々によって重要な存在となっており、たとえば「ヘボン辞書」初版はたちまち売り切れ、定価の三、四倍が市価となっていた。慶応四年(一八六八)閏四月創刊の『美国新聞紙』第六集(東京)は次のように書いている。「亜国ヘボンの『英和対訳辞書』成就せり、簡便確実にしてかつ鮮明なり。英学に志ある諸君は座右に置かずんばあるべからず、しかれども多分にあらざれば速やかに買わずんばおよばざるべし、横浜三十八番にて売り出せり――。」木版で発行していた『美国新聞紙』の記者にも、洋式印刷のことはわからなくても「かつ鮮明なり」という文句は忘れることができなかったのであろう。
 考えてみると、吟香の場合も正名の場合も、英和字引きであるということだった。つまり日本の仮名文字の電胎活字を作らせた動機というものが、日本語とイギリス語の接触から始まったということだ。このことはまったく意味深い。「江戸の活字」は斉彬なりあきらの意志によってオランダ語との接触に始まっていること、前に見たとおりである。木村嘉平はおどろくべき努力によってまったく独創的に電胎字母の漢字活字まで作り出しながら、ついに日本の活字の伝統となることができなかったことの意味の一面がここにある。嘉平の遺品には、前に見たように仮名文字がなかった。斉彬が死んでから、斉彬の意志をこえてイギリス語と結びつくことがなかった事実を、「長崎の活字」の昌造とくらべてみればわかる。昌造もオランダ語との接触から始まったのだけれど、安政の開港前後からイギリス語に結びつき、しかも彼が最初に作った鉛活字は、四十八のカタカナ活字であったということだ。オランダ語は徳川期を通じて唯一ともいっていいほど、日本とヨーロッパをつなぐ外国語であったけれど、それは弘化四年・一八四七年の「開国勧告使節」オランダ軍艦の来訪までであったといえよう。ヨーロッパからアジアへおしよせてくる新しい波の主人は、すでに変わっていた。幕府の貿易船千歳丸がそのセンター・マストをイギリス国旗で飾っていたことは、決して気まぐれではなかったのだ。
 しかし、吟香も正名も長いこと洋式印刷工場に近く起きししながら、電胎字母製法などを学び取ることはしなかった。吟香はのち、いわゆる「支那浪人の元祖」みたいになった人だが、眼は「毛唐人けとうじん」をこえて支那四百余州ばかりにそそいでいたし、正名はのち弘安となり、ヨーロッパの科学的農法を取り入れて日本農業に功労ある人となったが、当時はひたすらに「サツマ辞書」を作ってもうけた金で洋行することばかり考えていた。しかも、このころ長崎の昌造は、いろいろと苦心してその電胎法を学び取ろうと試みながら、いまだにそれができないでいたのである。
「――年来くわだてたりし活版製造の業を成就せしめん」と「資金五万円を出して、その業に従事し、日夜、心をくだかれしかど、容易の業にあらざれば月日とついえを失うのみにて、進退きわまり」三谷みたに幸吉こうきち『本木・平野詳伝』)というのは、安政五年・一八五八年以後、慶応末年・一八六七年までのことで、前巻で見たように、昌造が安政開港の談判に奔走ほんそうしたあげく、その「痛烈な開国論者」であったため、安政二年から五年へかけて入獄したといわるる、その後のことである。またある時、「薩藩の儒者、重野鉱之丞氏(安釈)重野しげの安繹やすつぐ、厚之丞か。上海より活字を取りよせ、印刷を試みたれど、その技に熟せず、庫中に積みおけり」というのを聞いて「その機械および活字を買い受けたり。機械はワシントン・プレスにて、活字は和洋二種一組ずつなりという。これを先生の宅に運び、門生陽其二と、日夜を分たす」「先生毎夜眠らず午餐ごさんを喫したる後、座睡ざすいに止まるのみ」で、活字製法と印刷技法の習得に苦労したが、なかなか成功せず「たまたま米国の宣教師某、清国上海の地に美華書院というを建て、ガラハニにて字型を製す」ると聞きこんで、さっそく門人を「上海につかわし、その術を視察せしめしが、彼深くその術を秘し」ているので「むなしく帰国すること幾回なるを知らず」(前掲四九〜五〇ページ)というのであった。残念ながら重野安釈が上海から活字を買ったのはいつか、また門人を上海にやったのはいつか、この文章は、その辺をすこしもあきらかにしていないけれど、薩藩の重野安釈が上海から買い取った印刷機具は、「ワシントン・プレス」はアメリカものだし、「和洋二種の活字」というのを含めて、少なくとも美華書館印刷所が電胎字母製法をはじめた一八六一年・安政元年〔「一八六一年・安政元年」は底本のまま。一八六一年は文久元年。安政元年は一八五四年。以後のことでなければなるまい。
「――記録が残っていないけれど、昌造翁が門人を上海にやったというのは、ほんとか知れませんね」
 ある日、芝白金しろかね三光町さんこうちょう平野ひらの義太郎よしたろう氏をたずねてゆくと、そう言った。おだやかなこの学者は、昌造の門人でその後継者であった平野ひらの富二とみじの孫にあたるのである。
「そのころになると長崎と上海の往来は、いま記録に残ってるよりも何倍も頻繁ひんぱんだったらしいですからね」
 卓の上には、私のために祖父富二翁の残した当時の日記や短冊やいろんなものがひろげてある。大福帳型に克明こくめいに記された筆文字をめくって見ても、そこから昌造の門人のうち、だれが、いつ、どういうふうにして美華書館へ近づいていったかはわからない。わからないけれど、強い筆勢の、ところどころカタカナまじりの日記を見ていると、古風なうちに強いハイカラさがあふれていて、当時の長崎と上海が間近にうかんでくる気がする。―
 一八六六年までは、まだ鎖国であった。しかも、記録に残らぬような形で上海・長崎の往来は頻繁ひんぱんであった。表向き・裏向きの形でも、藩を背景にした武士たちか、それでなければ買われた女性、船の労働者として名もない人々が往来していたが、昌造はそのどっちでもないのだった。彼は徳川期を通じて由緒ゆいしょある「長崎通詞」の家柄でありながら、身分的には足軽武士にも呼びすてられる「町方小者」にすぎない。さらに、同じ安政開港に奔走ほんそうした同僚たち、たとえば森山多吉郎は外国奉行支配調役に、堀達之助は開成所教授に出世しているときに、彼は「がり屋入り」をしなければならなかったような事情が、自分みずからは、なかなか上海密航など思いもよらぬ環境におかれて、ひとり身をもだえていたのであろう。


底本:『世界文化』4月号 第4巻第4号、世界文化社
   1949(昭和24)年4月1日発行
入力:uakira
校正:しだひろし
xxxx年xx月xx日公開
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光をかかぐる人々[続]
『世界文化』連載分(六)

徳永直


世界文化連載分、十六

 アジアの、近代的な鑄造の漢字活字は、ペナンでうまれた。うんだ背景は、ヨーロッパの産業革命であり、うみだしたのは、新教プロテスタントの宣教師たちであつた。私は、「上海行日記」で、中牟田倉之助のハイカラなみやげもの、文久二年の上海版「上海新報」という新聞が、どんな活字であつたかを知ろうとして、安政五年の寧波版「中外新報」や、嘉永三年の香港版「遐邇貫珍」などに、ぶつつかり、かえつて途方にくれてしまつたけれど、ダイア活字の發見によつて、香港よりも、もつと南方で、しかも天保三年に、その源の、發生していることがわかつた。
 それで、それなら、ペナンの漢字活字は、その後、どういう風にして、南方から、支那本土へ、東漸していつたろうか? まず、ペナンから、マラツカ、廣東までいつた事情は、讀者も、前章のうちで理解できたと思う。ダイア自身が、ペナンからでて、英華學堂の印刷所を、監督經營することになつたからである。そして、その英華學堂が、こんどは、香港にひつこしたのである。溝口靖夫は「東洋文化史上における基督教」(三三五頁)で、いつている。「一八二二年六月二日、ミルンの歿後、その學院は、他の後繼者により、うけつがれたが、一八四二年、香港に移轉した。」――「學院」というのは「學堂」のことで、ミルンは、モリソンの協力者であり、「學堂」の經營責任者であつた。まだこの頃、學長ロバート・モリソンは生きているが、多くは布教にあたつていたのである。廣東での、モリソンの後繼者は、もと印刷工のメドハーストということになつているから、こゝにある「他の後繼者」というのが、私にはわからないけれど、上海時代まで活動しているメドハーストが、移轉した香港時代も、とにかく學長だか「經營責任者」だか、そのいずれかであつただろうし、英華學堂とともに、ダイア監督の印刷工場が、ともに香港へ、ひつこしただろうことは、うたがいない。
 つまり、一八四二年には、ペナンから香港まで、ダイア活字は、のぼつてきたが、大事なことが、廣東時代にある。アメリカ人ブリツヂマンが、一八三〇年、廣東へきて、「支那叢報」を創刊したことと、同じ一八三〇年に、ロバート・ウイリヤムスが、廣東へきたことである。ウイリヤムスは、モリソンの息子で、父親の意志により、「支那傳道の印刷者」になれるよう、幼いころから、ロンドンの印刷工場で、印刷術の修業をしていたのであつた。父親は、一人前の修業をつんだ忰をみてから、三年ばかりのち、死んでいるが、モリソンたちが、印刷術をどんなに重くみていたかがわかろう。モリソン及びウイリヤムス親子は、周知のように、日本の歴史にとつても、大事な人々であつた。ウイリヤムスは、のち、澳門の東印度會社經營の印刷工場も、監督しているが、「支那叢報」の創刊には、父親とともに、ブリツヂマンにとつて、大事な協力者であつた、と「東洋文化史上における基督教」は、かんたんだが、のべている。「支那叢報」は、もちろん、アルハベツトだから、ダイア活字が、直接には、どう關係したかわからぬけれど、メドハーストが、一八三五年、モリソンの歿後をうけて、廣東にきたときは、廣東の印刷所では、ちやんとした漢字の印刷物が、つくられていたことが、明らかになつている。たとえば、メドハーストが後年、思いでをのべた、前に引用した文章で、「阿片と宣教師の關係」は、「第五の困難」であつたが、「第三の困難」というのは、「漢字印刷物にたいする、支那官憲のあつぱくであつた。」(東洋文化史上における――三五九頁)といつていることでもわかる。そのころ、阿片戰爭がはじまるまえで、アルハベツト人種と、支那政府とのあいだは緊迫していた。廣東で出版する宣教師たちの、雜誌や本は、アルハベツトのものは許されても、漢字印刷物は、直接に支那人へ影響をあたえるとして、支那官憲は、きびしく取締つた。そのために、辛苦の末、やつと出來あがつている漢字の組版が、工場にふみこんできた、支那刑吏たちによつて、幾度も破かいされたり、不足の漢字活字を、木活字でうめようとして、街にもとめにゆくメドハーストらが、たびたび危害を加えられた、というのであるから、たとえ、不足の文字は、木活字でまにあわせたとしても、實際に、ダイア活字が、印刷物となつて、活動していた證據にはなる。
 そこで、ダイア活字が、廣東、香港へときて、しだいに發展、實用化されてきたが、さて、それからが私にわからない。ダイアは、一八四二年のこの年に、死んでいるが、上海へはどうしてのびていつたか? また、ダイア活字が、そのまま、未完成の形で、上海へ流れこんでいつたのか、どうか? もつとも、これを人間のうごき、宣教師たちのうごきだけでみれば、たとえば、前にみた宣教師であり、醫者であつた、ロンドン・ミツシヨナリー・ソサエテイ所屬のW・ロカートは、一八三八年、廣東にきて、一八四〇年には、英軍が占領していた舟山島に入り、翌々年、開港の第一日に、上海へ入つて、布教と醫療の活動をはじめている。おなじく醫者で宣教師のA・ホブソンも、一八三九年に澳門に着、まもなく廣東へきて、「支那叢報」創刊者のブリツヂマンと同居、上海へいつた年が、私にわからぬが、一八五六年にはW・ロカートの病院の後繼者となつて、「西醫略説」以下、二種の、鉛の漢字活字による書物を上海で發行している。つまり、人間のうごきでだけなら、印度・ペナン・マラツカ・シンガポール・澳門・廣東・香港・上海と、ずツとまえからみてきたところで、明らかになるけれど、活字という、物の形ではわからない。一八五六年の、上海版「西醫略説」が、ダイア活字、そのままの發展か、どうか、わからぬのである。「支那叢報」の解説版も、九卷、十卷となつてくると、ほとんど阿片戰爭の記事ばかりで、ダイア活字の行衞は、わからなくなつている。
 私は、また、この關所にひつかかつたまま、昭和十八年の前半をすごしてしまわなければならなかつたが、ある日、思いがけなく、上海から手紙がきた。昭和十七年のくれにだした私の手紙、讀者からの質間にこたえて、「上海史話」の著者は、しんせつに回答してくれたばかりか、「滬上史談」という本を、一册そえて、おくつてくれたのであつた。「滬上史談」については、あとでのべるが、私はまず、手紙のあらましを、讀者に紹介しようと思う。手紙という形は、私的だけれど、中味は、著者から讀者へという性質であるから、「上海史話」の著者も、許してくれるだろう。――
[#ここから1字下げ]
――漢字の金屬活字――外人による漢字の金屬活字の發明は、一八一五年、澳門の東印度會社事務所において、トムス(P.P.Thoms)が、モリソンの辭書印刷のため、成し遂げました。この辭書第一卷は、一八一七年出版。このための金屬活字は、その後澳門・マラツカ及びセラムポールの、三ケ所で使用されましたが、「支那叢報」記事にある通り、一八二七年、ペナンへきたダイア(Samuel, Dyer)の六ケ年の苦心、改良研究により一八三三年には、一萬四千字の字母が出來、小型のものも製造されはじめ、のち一八五九年コール(Richard, Cole)により、完成されました。
美華書館――(American[#「American」は底本では「Ameican」], Pressytesion, Mission, Press)は、一八四四年、アメリカのミツシヨンのローリイ(Water, Rowrie)が、パリでつくられた、漢字の字母をとりよせ、支那へむけて發送し、同年、コールを主任として、澳門に印刷所をおこさせたのに始まる。當所、Onr(?)がアメリカへ、つれてもどつた支那少年(A. yuk)に、印刷技術を教えこみ、この少年を、また澳門につれもどして、三百二十三個の字母で、作業を開始しました。印刷工二名、組版工一名の、小規模でしたが、翌年一八四五年には、寧波へ移轉して、擴張し、ダイアの活字をも採用。一八四八年には、一日平均一三・三一四1/2頁を、印刷するくらいになりました。一八五五年には、職工九名。
ギヤンブル――(William, Gamble)一八五九年に、來任して、改良型の字母や、印刷機をもたらし、翌年一八六〇年十二月、印刷所を上海に移轉して、擴充しました。當時“Electrotype, Faunding[#「Faunding」は底本のまま] of Matrics”を採用し、二種の新漢字活字をもち、日本文字の活字(小型)も、有していました。日本文字というのは、四十八の假名文字のことと思われます。
ギヤンブルは、アイルランド生れの米國移民、一八六九年、日本へきて、本木昌造に協力しました。其後、Sheffield, Scientibis, School 及び Yale callege から、A・Mの學位をおくられ、藥學の研究にも、從事したことがあり、パリでしばらく暮したこともあり、一八八六年頃、ペンシルバニアの某地で、死亡いたしました。
上海美華書館は、一八六二年、擴張移轉、シリンダープレスを採用、一年後、年産一千四百萬頁。ヘボン、吟香等は、一八六六年、上海に來り、美華書館で辭書を印刷。(別送「滬上史談」參照)印刷當時の動靜は、吟香の手紙(慶應三年正月廿三日附、川上冬崖宛)で、判ります。これは土方定一著「近代日本洋畫史」(昭和十六年)に全文あり(中略)
上海新報、文久二年、中牟田が買つてもどつた新聞は、字林洋行(ノース・チャイナ・ヘラルド社)發行の華文版で、これは一八六一年に創刊されました。主筆は林楽知(Young, L, Allen)一八七二年「申報」創刊、「上海新報」廢刊。(中畧)
美華書館史には(The Mission Press In China l895)という、小册子があります。日本文字についての記述は、きわめて僅少です(以下畧)――
[#ここで字下げ終わり]
 以上、「上海史話」の著者からもらつた手紙のあらましが、私にとつて、どんなに有難いものであつたかは、讀者にも同感できるところだと思う。これで、私は最後の關所を、通ることができるのである。もつとも、この關所の通り方は、他人のうしろから、頬かむりして、すりぬけるようなもので、大手をふつて通る、通り方ではない。この手紙が明示し、或は暗示している、澤山のことがらの、枝葉まできわめるためには、おそらく、また相當の月日をついやさねばならないだろうけれど、しかし、現在の私にも、およそ、つぎの程度には、この手紙を消化できるというものだ。
 手紙のうちの、第一のこと、澳門、マラツカ及びセラムポールの三ケ所で使用せられた彫刻活字のことは、まえにたびたびのべたように、讀者もすぐわかるところのものだが、これがP・P・トムスという人によつてつくられたということが、新たに記憶さるべきことであつた。第二のダイアの活字が「一八三三年には、一萬四千の字母が出來、小型のものも製造されはじめ」云々は、まえにみた通り、「支那叢報」の記事が過大で、手紙も同樣である。第三は、非常に大きなことがらで、リチヤード・コールと、ウオーター・ローリイという人物の出現である。とりわけ、リチヤード・コールであると考えられるが、これが、いわば、ダイア活字との、つぎめであろう。「後、一八五九年、コールにより完成されました」という文句は、私にとつて、かんじんかなめのところだけれど、かんたん過ぎて、上海まで、大聲でどなりたい氣がするのである。
 しかし、あとにつずく文章で、まるでわからないことはない。一八四四年に、パリでつくつた漢字々母で、澳門に印刷所をおこし、三百二十三個の漢字で、仕事をはじめたが、翌年には、ダイア活字を採用している。パリ産の漢字々母と、ア・ヨークという、アメリカ名前しかわからない支那少年印刷工と、その何年以前かに、この支那少年を、アメリカへつれていつた Onr という、手紙の字をいくらみても、Oとnとrとしかよめない、私にわからぬ、たぶんアメリカ人らしい人物などの、つまり、ダイアをイギリス系統とすれば、これはアメリカ系統の、漢字印刷努力の集積が、ここで結合したということである。
 コールの「完成」は一八五九年というから、イギリス系統とアメリカ系統の結合の、一八四五年から十五年めということになるが、具體的には、何を指すか? 手紙にあるように、電胎法字母は、まだこの後であるから、彫刻による字母、大小ともに、フオントのそろつた、そして少くとも、ダイアの「支那語のうち最も重要な三千の文字の選集」が示す、漢字の種類を完成したことをいうのだろう。そして、それをそうさせた力は、支那少年ア・ヨークにみるような、支那人と、マラツカの英華學堂以來、記録のはしばしにみる日本人漂民の、つまり漢字人種印刷工の參加と、たまたま、ここへあらわれたような「パリで作られた漢字の字母」のような、ヨーロツパや、アメリカ本國の、科學技術の授助であつた。ダイアのつくつた漢字々母と、パリ産の漢字々母のいずれが、すぐれていたか、私に知る由もないけれど、ヨーロツパの印刷技術が、アジアの文字を消化しようとしていたことは、前卷でみたように、嘉永末年頃、一八五一、二年頃、本木昌造が、日本長崎から、はるばるオランダへ、日本文字(漢字および假名)の種書をおくつている例でもわかる。つまり、電胎法なしには、ほとんど不可能な、日本では、江戸の嘉平も、長崎の昌造も、さじを投げた。彫刻字母、パンチによる漢字活字が、ここではヨーロツパや、前卷でみたような、フランクリン以來の、世界印刷術中興の祖というべき、アメリカの技術にささえられて、一應の成功をなしとげたのであつた。寧波版「中外新報」にみるような活字、字ずらの不ぞろい、線のそぼくさは、一とめでわかるほどながら、それは木版や、木活字とくらべるとき、格段の、金屬的鮮明さと、近代的強度をもつものとして、成功したのであつた。
 第四は、日本の活字にとつて、最も歴史的な美華書館の歴史と、アメリカ人宣教師ウイリヤム・ギヤムブルの素性が明らかになつたことであつた。さらに第五は、一八六〇年に、“Electrhotype[#「Electrhotype」は底本のまま], Founding of Matrices”つまり、電胎字母を採用したことと、一八六二年に、アジアではじめて、シリンダー・プレスを採用したことであつた。電氣分解による字母製法は、漢字活字製法に、一切の解決を與えた、歴史的なものであるけれど、シリンダー・プレスの採用も、印刷歴史にとつて、革命的なものであつた。廻轉動力は、人間の手、ガス、石炭などを經て、電動機となるまでは、日本でも、この以後、半世紀をついやしているけれど、廻轉胴による印刷法は、アジアでは「ばれん」でこする式、西洋では葡萄しぼりのあつさく式から、完全に、機械的に解放されたものであつた。つまり、一八三九年完成したフアラデーの法則は、一八六〇年に、一八二〇年ごろ、ドイツ人フリードリツヒ・ケーニツヒの發明したシリンダー・プレスは、一八六二年に、漢字印刷の歴史に登場したのであつた。
 そして最後に、第六は、ダイア活字が、アメリカ系統と結合して、香港から寧波へ、寧波から上海へと、東へ、東へと、すすんでいつた足どりが、とにもかく、明らかとなつたことであつた。ペナンでうまれたダイア活字は、上海の美華書館へ、とつながつている。文久二年、一八六二年の上海版、中牟田倉之助の「上海新報」は、あきらかに電胎活字であることが出來、そこにはダイアの「支那語のうち最も重要な三千の文字の選集」が、生きているのであつた。
 そこで、當然、私はリチヤード・コールという人物について、述べねばなるまい。いまや、私の頭には、P・P・トムスや、ウオータア・ローリイをのぞいても、ダイア――コール――ギヤンブル――昌造――富二と、不連續線が、できあがつてしまつている。時間的には、一八一五年、文化十二年から、一八七一年、明治四年にいたる、空間的には、ペナンから、東京にいたる、日本近代活字のコースである。ところが、コールなる人物について、私は何も知らない。たぶん、アメリカ人で、イギリス系だとしても、アメリカ傳道協會にぞくする人物には、ちがいない、くらいしかわからない。私は、百科辭典にもでていないコールについて、何によつて知ればよいか、また、支那少年ア・ヨークを、アメリカへつれていつたという、發音のわからない“Onr”という人物について、教えてもらいたいと、「上海史話」の著者に、また手紙をかかねばならなかつた。そして、さいわいに、二度めの手紙が、つゝがなく先方について、「上海史話」の著者の好意が、再び、私のところへもどつてくる日、あらためて、讀者への責を果たそうと、思うのであるが、飛行便にすることのできなかつた、二度めの手紙の返事は、一年たつても、まだ返事がこない。これを下書きしている現在は、昭和十九年十月である。すでに東支那海も、アメリカ潜航艇の手の中にあるし、B29が日本々土の上空を、しばしばおとずれる、きようこのごろ、手紙ばかりか、「上海史話」の著者も、私自身も、無事であることが出來るだろうか?
 さて、しかし、ここまでくれば、誰しも氣がつくことであろうと思うが、ペナンでうまれて、廣東、香港までせりあがつたダイア活字がこんどは一擧に、寧波、上海へと、せきをやぶつたように進出したのは、阿片戰爭によるイギリスの勝利の、直接影響ということであつた。英華學堂の香港移轉が、一八四二年、美華書館の寧波移轉が、一八四五年、そして上海の入口、舟山島で待機していたW・ロカートの上海入りが、一八四二年、上海開港の第一日であつた、ことを思えば足りよう。支那政府の、阿片密輸への抵抗が、一八三九年、以來、イギリス艦隊の舟山列島占據となり、上海城攻畧となつて、一八四二年、南京條約成立までの「阿片戰爭」とあだ名される支那とイギリスの戰爭が、どんな性質のものであつたかは、讀者周知のところであろう。南京條約の中味は、香港の割讓であり、上海、寧波以下、三港の、アルハベツト人への解放であつた。
 阿片戰爭は、「竹の大砲」が、「鋼鐵の大砲」にうちやぶられねばならぬ戰爭であつた。同時に、「阿片」と「大砲」を懷中にいれた「平等主義」の布告文さえ、支那民衆にとつては、新らしい思想をもたらした戰爭であつた。岩塊と熱病ばいきんの巣でしかなかつた香港島に、近代的な砲臺と港がきずかれ、有史以來の鎖港であつた上海は、「歐羅波諸邦之商船、軍艦數千艘碇泊」うんぬんと、高杉晋作が感嘆したところの、東洋第一の開港場となつた。アルハベツトと一緒に、懷中時計が、寫眞機が、ピストルが、「テレガラフ」が、汽車が、ながれこんできた。楊子江[#「楊子江」は底本のまま]の上流には、四億の支那庶民が住んでおり、海上七百キロのむこうには、まだ開かれざる「處女日本」があつた。「新しい不斷に擴大される市場」を、もとめてやまぬヨーロツパの「不斷に増大する生産の慾望と力」とは、うなりをあげて殺到してきたのであつたが、その最も先頭をすすんだのが、「神の前には萬人平等なり」という、新教プロテスタント宣教師と、アルハベツトおよび漢字の活字だつたのである。



世界文化連載分、十七

 阿片戰爭によつて割讓された香港と、ヴエールが剥ぎとられた上海とが、一八四二年以後を、どう變化していつたか?
「――香港島そのものの地勢を見廻して見給へ。諸君の眼は、點々と緑草の入つた代赭色の山に惹きつけられるだらう、丁度繪の懸つた壁を見るやうに。この山の麓の海岸には家が群がつて、人家の間からはまるで見せかけのやうに芭蕉の葉の叢が覗いてゐる。――その代りに砂と石とは全く夥しいものである。イギリス人達はこの材料を使ひこなしたのだ。山の頂上にも、石造の獨立家屋や、地均らしのすんだ敷地が見えるだらう。人間の勞力と技術は、絶壁の上まで伸びてゐるのだ。海岸通りの壯麗な邸宅を眺めてゐると、この山の未來の姿が自然と想像に浮んで來る。支那人たちは一八四二年の南京條約によつて、花かをる舟山列島の代りに、この不毛の岩石をイギリス人に讓渡したときには、紅毛の夷狄共が、この岩石をどうするのか夢にも考へなかつた。況んや彼等支那人自ら自分の手でこの岩石を切り出して、自分の首にかついで壁や胸墻に組み上げ、大砲を据ゑつけようなどとは全く夢にも考へなかつたのである……」
 ロシヤの作家ゴンチヤロフが「日本渡航記」にこう書いたのは一八五三年の六月だから、阿片戰爭後ちようど十年めだ。曽我祐準が、砲台をみあげて「轉た感慨に堪へず」と日記に書いた慶應二年からは、十三年前である。阿片戰爭の前年、一八四一年に、スエズ運河が開通して、地中海を近廻りしてくるイギリスの手は、この岩塊を團子のように捏ねあげて、都市にしてしまつた。最初の二年間に、港が築かれ軍艦と商船が碇泊した。英國政府が支出する、一八五五年までの、毎年の行政費は、二萬磅であつたが、軍事費は、その十倍の二十萬磅であつたという。
 しかし、この熱病の巣である岩塊が「極東に於ける商業上の重鎮」となるためには、「一八四二年には、香港停泊中の軍艦アギンコートの乘組員が、半數まで死亡」し、「一八四三年には、駐屯軍一千五百二十六名の、一年内入院度數七千八百九十二回、即ち平均一人入院各五回以上に及び、一隊の兵士約七、八百名中、二十一ケ月内に死亡者二百五十七名を算」(「上海史話」二七六頁)えねばならなかつたし、物貨の貿易が不振なときは、代つて「人間の貿易」をもしなければならなかつたのである。カリフオルニヤと濠洲で、金鑛が發見されて、海外移民の需要がさかんになつたとき、「支那の法律の及ばぬ地點で募集して、ここから積み送ることは出來」たところの香港からの「一八五三年の移民總數は、一萬三千五百九人」にのぼり、「ハバナへ向つた二萬四千人のうち、五千五百人すなはち總數の二二%以上が、中途で病死」(同、二八二頁)しなければならなかつたのである。
 そして一八六六年には、香港住民の死亡率が二%にくだり、一八四五年に、香港へ入港した商船の數一六八隻が、一八六八年には、二七、五〇〇隻に上昇し、「香港の發展は、實に地勢の關係による。その港灣は許多の船隻を停泊せしむることが出來、同時に商業は頻る[#「頻る」は底本のまま]安全自由であり、且つ如何なる關税も課せられず、汽船による運輸は、香港をその樞軸としてゐる。氣候の方面も、人工的改良によつて、頻る[#「頻る」は底本のまま]よくなつた。これら種々のものが、香港をして商業の中心地たらしめ、歐米、印度及び支那の貨物を、すべてここに集中せしめるのである。」(同、二八五頁)と、一八六三年に、イギリスの一商務官が、報告中に香港の繁榮を謳歌するに至つたが、「香港の發展は、實に地勢の關係による」というとき、イギリス人の頭には、石塊と熱病の巣そのものが眼中にあるのではなくて、支那海の咽喉くびをしめている、アジアの國々、島々にむかつてひらかれた、巨大な砲台と、港の位置をいうのであつたろう。
 そこで、イギリス自身は決してしやべらない一八五三年當時の香港島を、いま一度、ゴンチヤロフに語らせてみよう。「――ヴイクトリア市はなるほど一本の通りしかない。然しこの通りには家らしいものは殆んど一軒もないのだ。前に「家」といつたが、それは誤りで、ここにあるのはどれもこれも宮殿で、その台石は海の水に浸つているのだ。これらの宮殿のバルコニーやヴヱランダは海に面し」てゐるのだつたが、「二つの住宅地から出來」てゐる支那街の方は「その一つは小舟を住み家とし、今一つは小さな棲み家である。その家はぎつしりとかたまつて、海岸一杯にへばりつき、中には海に打ちこんだ杭の上に建て」たものであつた。そして、この山の未來を誤りなく想像することの出來たロシアの作家は、當時の支那人がどう働いていたかをも見のがさなかつたのである。「支那町を一渡り――歩いて、私達は丘に登つた。丘は丁度この邊で人工的に切り拔いて滑らかな絶壁となつてゐた。ここには新道が出來ることになつてゐた。そこには一聯隊程の勞働者が集つて、土を掘つたり、石を切つたり、塵芥を運んだりしてゐた。それは全部ポルトガルの植民地たる澳門から來た移民である。イギリス人達がここで植民を目論んで、一聲呼聲をあげたかと思ふと、澳門は殆んどがら空きになつてしまつた。仕事が、つまり食と金が、三萬人からの支那人を此處へ誘つたのである。彼等は澳門で貧乏しているよりも、此處で無限の勞働と無盡藏の賃銀を取つた方がよいと思つたのだ。彼らは、最初の間猖獗を極めた傳染性の熱病にもおどろかなかつた。彼らはイギリスの指導を受けて、土地を整理し乾燥させた。――」(前掲「日本渡航記」井上滿譯)
 それでは一つ、開港後の上海はどうであつたろう? 南京條約成立の最初の年に、イギリス人は二十五人しかいなかつた。彼らはみな上海城内に住んでいたが、將來の發展をみこして、城外の土地を買いつけた。その値段が一畝あたり五十錢から八十錢であつた。
 一八四五年になつて、上海道台と初代英領事との間に、土地章程がきめられて、上海最初の外人租借地が出來た。當時の面積は八百三十畝であつたが、一八四八年には、一躍二千八百二十畝となり、この擴張要求を貫徹したのが、二代目領事であり、のち、日本へきて初代駐日公使となつた、「吾人は不斷に新しく擴大される市場を――」云々のぬし、オールコツクであつた。
 一八四六年には、アメリカが、一八四八年には、フランスが、というふうに、上海は、たちまちアルハベツトの聲におゝわれていつた。開港翌年、八、五八四噸が、五年後には、五二、四七四噸の、ヨーロツパ船が入港するようになり、そして輸入品の五分の三までが、あいかわらず阿片であつた。「イギリス人に開かれた五港の一つである上海――が、現在如何に輝かしい役割を演じてゐるか、又將來演ずるであらうかといふことを結論することは出來ない。現在でも上海はその巨大な貿易高において、カルカツタに次いで、この界隈第一位を占め、香港、廣東、シドニーの名聲を蔽うてゐる。それが全く阿片のためだ! 支那人は阿片の代りに茶も、絹も――汗も、血も、エネルギーも、知識も、全生命も拂つてゐるのだ。イギリス人とアメリカ人はそれを全部平然として取り上げて――顏も赧らめずにこの非難を甘受してゐる。――上海に着く十六浬手前の呉淞には――阿片船が一艦隊となつて碇泊してゐる。――この阿片船は荷物を卸すばかりである。――この商賣は支那政府によつて禁止されてをり、呪はれてさへゐるのだが、力を伴はぬ呪咀など問題にならぬのだ。――」と、同じヨーロツパ人のゴンチヤロフが痛烈に書いた。
 この偉大なる作家が、上海に上陸したのは、一八五三年の十一月で、香港を訪れてから五カ月めである。上海に關する外國人の紀行文が、どれくらいあるか、私にわからぬけれど、「オブロモフ」の著者であるゴンチヤロフの名譽にかけて、私は、「日本渡航記」の一部「上海」を信用するのであるが、このロシヤ作家のうしろについて、しばらく當時の上海風景をみてゆこう。「上海に近づくに從つて、河は目立つて活氣を呈して來た。木の繊維や皮で作つた例の赤紫の帆をかけた戎克が絶え間なく行違つた。支那の戎克は構造はいくらか日本の小舟に似てゐるが、あの艪の切込みがないだけだ。」前卷でみたように、この作家は、長崎で、傳馬船の艪の構造を一と眼みて、當時の日本の封建的性格を指摘したのであつた。「そら上海が見え出した。――立派なヨーロツパ風の建築物、金色燦爛たる禮拜堂、プロテスタント派の教會、公園――さう云つたものが全部まだぼんやりした塊になつて、まるで教會が水の上に建つてゐて、船が街路の上に浮んでゐる樣に見え」る朝方の風景のなかを上陸して、「私は眼を皿のやうにして支那を探し」ながら、やがて市内に入つた。そして、市内を一巡したとき、もうこの作家は、はつきりと、當時の支那人の生活ぶりから、この民族の特徴的性格が、新らしいヨーロツパ人たちと、どう觸れあつてるかを描寫してしまつたのである。――
「支那人は活動的な民族である。仕事をしてない人間は殆んどない。その騒音、混雜、動き、叫び、話聲。一歩毎に擔き人夫に出合ふ。彼等は規則正しい叫びをあげて調子を取りながら、大股に走るやうに荷物を搬んでゐる。――從順で謙遜で非常に身綺麗である。こんな人夫となら出會つても恐ろしくはない。例の規則正しい叫び聲をたてて警告を發する。――もし相手が聽き入れなかつたり、道を讓らうとしないなら、こちらで立停つて道を讓るのである。」そして「數名の支那人が家の戸口のところで夕食を食つてゐ」る上海郊外では「二本の箸を使つて敏捷に茶碗から口の中へ飯をかきこんで、いつまでも詰めこんでゐたものだから、私達が『請々《チンチン》!』(今日は)と挨拶しても、返事が出來ないで、愛想よく頭を下げるばかりであつた。」という支那農民について「だがこの惡臭や、哀れな窮乏ぶりや、泥濘があるにもかかはらず、農業上、村内經營上の些細な點に至るまで、支那人の知識と、秩序と、几張面[#「几張面」は底本のまま]さを認めざるを得なかつた。――どんな物でも投げやりにしないで、十分考へて用に使つてある。すべてが仕上げ濟みであり、完成されてゐる。無雜作に、所構はずに捨てられたものは藁の小束一つ見えないのだ。倒れたままの垣根とか、畑の中をうろついてゐる羊や牛といふやうなものもない。――ここではどんな木片でも、小石でも、芥でも、必らずそれぞれの使途があり、用に供せられるやうに思はれる。――」と。
 ゴンチヤロフのこの觀察は、アジア人である私らがみるとき、逆にいえば、それは當時のロシヤ人氣質を裏寫しにしているようなものだけれど、これ以上のすぐれた觀察は、恐らく一世紀後の今日にも無いであろう。そして勤勉で、從順で、几帳面で、しかも「哀れな窮乏ぶり」の、當時の支那人はヨーロツパの新らしい主人たちをどういう眼でみたか?「私達は部落と離れて遊歩道に出た。これは乘馬用として、又散歩道として、ヨーロツパ人のために割いた郊外の一地帶である。――私達は競馬場に出た。上海の男女ヨーロツパ人がそこで行つたり來たり馬を乘り廻してゐた。イギリスから輸入した優秀なアングロ種の馬を飛ばす者もあれば、小さな支那馬に乘る者もある。無蓋馬車に乘つて一家族が來るかと思ふと、牧師の細君と思はれるレデイを、二本の竹竿に鐵製の椅子を置いて四人の支那人が擔いでゐるのもあつた。數名の歩行者、船の士官、それに私達が觀客を作つてゐた。いや皆が登場人物となつてゐたのだ。本當の觀客は都市、農村の平和な住人であり、一日の仕事を終つた支那の商人や農民であつた。そこにはいろいろな服裝が入りまじつてゐた。商人の絹の上衣や廣幅のズボン、農夫の青い長着や――この群衆が文字通り手をこまぬいて、しかも好奇心をもつて、外國人を見まもつてゐた。その外國人は力づくで彼等の領土に闖入したばかりでなく、自分は勝手に畑の中を歩き廻るくせに、主人たる支那人がこの道路上を通行することを禁ずるといふ文句を書いた立札まで立てたのである。支那人たちは苦々しげに一人一人の通行人を送迎してゐた。ことに乘馬の婦人は彼等の注意を惹いてゐた。これは彼等の國では未曾有の現象だ! 支那の婦人はまだ家政上の附屬品の樣なもので、牝獅子となるのは前途遼遠なのだ。――」
 己れ自身をさえ「登場人物」とすることのできる眼でみた、この數行によつて、はじめて當時の上海風景が、一世紀後の私らに遺憾なく傳えられたのだといえよう。竹竿につるした轎(かご)をかついでいる四人の支那人と、それに乘つている髮の毛の赤いヨーロツパ婦人と、アングロ種の馬を乘り廻すレデイと「手をこまぬいて」、眼をみはつている支那人群衆と。そこに阿片や艦隊をふくめても、なお「不斷に増大する生産」力に驅りたてられて、際限なくおしよせてくるアルハベット人種の、新らしい相貌がある。しかも一方では、支那の婦人はまだ家政上の附屬品」でしかなく、印度産の罌粟の實が、そつくり吸いこまれるような古い支那への、ゴンチヤロフ自身の、おどろきと諷刺があつた。――「アメリカ領事カニングハム氏は、有名なアメリカのロツセル商事會社の上海代表者を兼任してゐるが、その邸宅は上海で最も立派な邸宅の一つである。この邸宅の建築費は五萬ドルを越えた。邸宅の周圍は公園だ。いや正しく云へば樹を植えた庭だ。廣々としたヴエランダは美しい柱廊の上に乘つてゐる。夏は涼しいことであらう。太陽は日覆のかかつた窓を襲ふことはないのだ。バルコニーの下に當る車寄せには、街頭に向つて大きな大砲が一門据えてあつた。――」(前掲「日本渡航記」)
 私らはこれ以上、ロシア作家をわずらわさなくてもよいだろう。まさに、一八五三年代の上海は、このとおりであつた。香港を團子のように捏ねあげたおなじ力は、上海を、開港十年めにすでにアジアにおける最大の國際都市にしてしまつたのであつた。マンチエスターの、ニユーヨークの、リオンの「不斷に増大する生産の欲望と力」は、こういう形で噴出していたのである。阿片と大砲はその花束の一つに過ぎない。ヨーロツパの船は、絹や茶を搬び去つてゆき、綿製品や毛製品を搬んで來た。呉淞河に懸けられた、眞ン中から二つに割れる鐵の橋は、支那人から橋錢をとりあげたし、汽車は高價な賃錢を請求した。しかし橋は渡らねばならぬし、レールにそむいて歩くわけにはゆかない。たとえばカニングハム氏の邸宅に据えられた大砲が、どこにむかつて砲口をひらいているか、それはゴンチヤロフよりも支那人自身が一等よく知つているところだけれど、しかし同時に、大切なことは「新しい支那」にとつては、それは恐怖である以上に、驚異であり發見でもあるということだつた。
 最初の呉淞鐵道が開通したとき、最後まで反對したのは支那政府であつたが、乘客は連日超滿員であつた。延長四分の三哩のレールの上を、時速十五哩で「中華帝國號」がはしつたとき、線路の兩側にむらがつた支那民衆と、同じ支那人乘客は歓呼して喜んだといわれる。もつとも最初の呉淞鐵道は、ある日、金に買われた兵士風の男が、線路の上を眞ツすぐにあるいてきて、汽罐車の下敷になつたということから、支那政府とイギリス領事との政治的接渉となつて、揚句は數十萬兩で買ひとつた支那政府の手で、レールも汽罐車も、わざわざ臺灣の海邊へはこんで遺棄される始末となり、その後十餘年間は、支那大陸に汽車は見られなくなつたけれど、一度發見された汽車は、やはり「新しい支那」にとつては限りなき將來をもつものであつたろう。それは紅ツ毛の鐵道經營者がいくら儲けたかとか、または「民衆の興味を惧れた」支那政府の謀略が、どれほど成功したかとか、そういうことからはまつたく獨立の、支那民衆の驚異であり發見であつたのだ。
「――彼等には狂信といふことがない。彼等は佛教徒の狂信にさへ感染しなかつたのである。孔子教は宗教ではなくて、單なる通俗倫理であり、實踐哲學であつて、如何なる宗教をも妨碍するものではない。――支那人の實際的、工業的精神には、カトリツク教よりも、新教の精神の方がぴつたりするやうである。新教徒は通商を開始し、最後に宗教を持つて來た。支那人は通商の方は大喜びで取入れ、宗教の方は何も邪魔にもならぬので、目立たぬやうに取入れてゐる。――」と、これはゴンチヤロフのみた支那民衆のあざやかな特質であるけれど、しかしこの特質は同時に、一方ではヨーロツパ文明を充分に吸收消化するばかりか、アジア的特徴をも加えて、プラスにしうるところまで成長した時代的素質ででもあつたろう。――
「上海で私は支那語の本を三册買つた。新約聖書と地理とイソツプ物語だ。これは新教宣教師の好意であつた。――最も活躍してゐる宣教師の一人であるメドハースト氏は支那に三十年も生活し、休む暇もなくキリスト教の傳道に活躍し、ヨーロツパの本を支那語に譯し、各地を巡回してゐる。この人は現在は上海に住んでゐる。」と、ゆくりなくも、晩年のメドハーストの消息を、ゴンチヤロフはつたえている。
 前卷でみたように、江戸と長崎と凾館とをひらかせたプーチヤチンの艦隊について、日本にやつてきた、この帝政ロシアの九等官は、長崎で、片假名の流しこみ活字などつくつていた。まだ若い小通詞の「昌造」に、たびたび逢つているが、上海で、ペルリの艦隊をまちあわせているうちに、もと、イギリスの印刷工、いわばダイア活字の協力者、もう老人のメドハーストに逢つているのであつた。ここでいう「支那語の本三册」とは、もちろん、漢字活字による印刷物であることがわかるが、もうそのころ「華字版の印刷物」は、新約聖書や、イソツプ物語や、地理やの「三册」ばかりではなかつた。ダイア以來、コール以來の、アルハベット人によつてつくられた、パンチによる漢字活字の、鉛の活字の、近代的印刷術が花ひらいていたのであつた。中牟田倉之助みやげにみるような「重學淺説」や「代數學」などがあつたように、日本に渡つて、近代醫術の手がかりともなつた、上海傳道病院々長、そしてアメリカ外國傳道協會々員A・ホブソンの「西醫略説」や、「内科新説」や、または「博物新篇」などいつたものが、ひろく支那人のあいだに、人類にとつて新らしく有益な、澤山の知識をふりまいていたのであつて、そして、こんなアルハベツト人種の、善き知惠と理想とこそが、じつは彼らの大砲や阿片におとらず、支那を、アジアを、虜にしたにちがいないと、私は考える。



世界文化連載分、十八

 ほんとに、活字は活字だけで、獨立に成長することはできなかつた。ダイア――コール――ギヤムブルと、ペナンから上海まで、のぼつてきた近代漢字活字も、それから、日本に渡るまで二十年も、電胎字母活字になつてからでさえ十年も、そこで足ぶみしているのであつた。
 活字が日本に渡るには、ほかの條件が必要であつた。そして、そのほかの條件のうち、もつとも大きなものは、やはり文久二年、一八六二年の、日本幕府が、はじめてやつた貿易船千歳丸の、上海入港であつたろう。開港後からは二十年め、ゴンチヤロフの上海からは、九年めにあたるが、長崎からは海上七百キロそこらの地點で、日ごとに成長しつつあつた近代文明から、二たむかしの間も、かく離していることのできた鎖國の力は、幕府おとろえたりとはいうものの、おどろくべきものがあつたといえる。しかしまた、一方からいうと、この二十年こそが、家光以來、二百餘年の鎖國傳統をうちやぶつたのでもあつた。「上海」で、支那の領土に立札をたてたアルハベツト人種を、痛烈に批難したゴンチヤロフ自身が、じつはプーチヤチンの祕書であり、「六十斤砲を撫しながら」長崎や、大阪や、江戸をおとづれて、日本の土臺石をゆすぶつた、役者の一人だつたではないか。
「日本はこのたび、日進月歩の今の時勢に全く應はしく、一の興味ある觀物を商界に展示した。日本國旗を掲げた英國製帆船の、過日の上海入港は、それだけでも甚だ注目に値する事件である。ところが更に、この船は、同國政府の手で買上げられた官有船であるばかりでなく、海外貿易の目的の下に、同國の特産物や製造品を積んで來てゐるといふことが判つた。これは、この特異な國民の排外國策の上に、全く新しい光りを投げかけるものである。――」
 と、いう文句は、千歳丸の上海到着後五日め、一八六二年六月七日付の「字林西報」(ノース・チヤイナ・ヘラルド)紙が、トツプにかかげた社説の書き出し(前掲「上海史話」一二七頁より孫引)だそうであるが、まつたくこの三本マスト三五八噸の、前檣にオランダ國旗、中檣にイギリス國旗、そして、後檣に日本國旗をかかげた奇妙な船こそが、そのまま江戸期開國のシンボルとなつているといえる。
 しかし、この最初の貿易船千歳丸上海入港がどんなに大きな意味をもつかは、明治維新史の研究が深まるにつれて、益々史家の強調するところだ。經濟的にいえばこの貿易は失敗したけれど、不馴れな幕府の役人たちは、積荷をそのまま持ち戻る羽目にもなつたけれど、オランダの役人につれられて、各國の領事たちに逢つたり、諸外國人の活動ぶりを見てびつくりした。たとえばこれを便乘者高杉一人の場合にみても明らかである。
「五月廿日、朝中牟田と亞米利加商館に至る。商人の名はチヤルス、專ら二人を通して、その居室に至る。(中略)中牟田英語を解し、談話分明す。奇問を聞きて、益を得ること少からず、予チヤルスに謂つて曰く、弟近日英書を讀めるも、未だ人と談ずるを得ず。日夜勉強し、他日再逢のとき兄と能く談ずるを得んと欲す。チヤルス曰く、再逢の日、弟また兄と能く其邦語を解せんと欲す。乃ち禮を告げて去り」云々と「游清五録」の一節に自分で記したのを、決して單純な外國人同志のお世辭とだけ解してはならない。「五月廿一日(中略)支那は盡く外國人の便役たり。英佛の人街市を歩行すれば、清人皆傍らに避け、道を讓る。實に上海の地は、支那に屬すと雖も、英佛の屬地と謂ふも、また可なり。(中略)我が邦人と雖も心を須ひざるべけんや。支那のことにはあらざるなり。」と、すぐその翌日に記したとき、アルハベツト人種の文明におどろけば、おどろくほど、「中華帝國號」がレールのうえをはしるのをみて、手をたたいてよろこんだ支那民衆とはちがつた、日本の支配者武士的、領主的な感情でうけとられているのがわかる。その後二年あまりで、攘夷の中心長州藩が、領民に洋品使用の禁を解き、薩摩や佐賀と前後して、海外貿易を營なんだ急角度の轉回も、從つて「薩長締盟」を可能にした思想的背景も、この時の千歳丸便乘によつて、彼が、上海で感得したものによるところ、甚だ多いといわれている。
 一八六〇年代の上海は、アジアにおける近代文明の中心地であつた。「日本の幕末文化は上海から吸收したと云はれます程で、當時は上海が主、日本、長崎は從の位置にあつたのであります。」とさえ「滬上史談」の著者沖田一氏は書いてゐる。福澤諭吉など、ごく少數の人間が、いたつて窮迫した政治的性質の、萬延元年の遣米使節、または文久元年の遣歐使節などに随行して、産業資本主義時代の華やかなヨーロツパ文化に、じかに觸れえたような機會をのぞけば、上海はその唯一のものであつた。第一回の千歳丸のときは高杉のほかに中牟田や、五代や、濱松藩の名倉豫可人などあつたが、第二回の健順丸のときは、前卷でなじみの昌造の同僚で、長崎通詞安政開港に功勞のあつた森山多吉郎、さきの榮之助がいまは外國奉行支配調役として乘り組んでいたし、第三回め、慶應三年の同じく幕府船ガンヂス號のときは、佐倉藩士高橋作之助(のちの由一)ら、多數があり、たび重なるにつれて、上海渡航者の數は急速に増えていつた。ことに第三回めのときは、同じ日に横濱を出帆したフランス船アルヘー號に、パリの萬國博覽會へ派遣される幕府代表者徳川昭武の一行、箕作貞一郎や澁澤榮一、博覽會出品人日本代表清水卯三郎など、多數が寄港したために、上海の街には、開港以來、はじめて澤山の日本人が見られたという。
 また、官船以外の密航者、或いは藩所有の船修理と稱して渡航する者もたくさんあつた。たとえば長州藩の伊藤俊助、柳川藩の曾我祐準、熊本藩の竹添進一郎、藝州藩の小林六郎や長尾治策、薩藩の上野景範、さては中濱萬次郎を案内にたてて、汽船を買に來た土佐藩の後藤象次郎などと、千歳丸以後は、「きびす相ついで」いるが、これを千歳丸からガンヂズ號までの、乘くんだ顏ぶれにみてゆけば、最初は薩摩、長州、佐賀などの大藩の武士であつたものが、しだいに中小の藩士にも及んできているのがわかる。もちろん、渡航に便利な長崎に近いという地理的事情も影響しているようだが、それよりは「明治維新」の大きな動力となつた大藩ほど、より先んじていることはいうまでもない。
 そして、藩の大小にかかわらず、彼らの多くが武器の買い入れにきたのも、もちろんであつた。幕末艦船、銃砲などの輸入港は、おもに長崎、横濱、兵庫などになつているけれど、幕府を先頭として各藩競爭の勢いであつたから、しぜん上海まで押しだしたのだともいわれる。山口和雄氏の「幕末貿易史」によると、たとえば艦船だけをみても、安政元年から慶應三年までの購入百十一隻、そのうちの三分の一が幕府で、三分の二が薩、長、土を先頭とする各藩の買入れであつた。日本で最初のものといわれる、土佐侯の命令で、本木昌造がつくつた蒸汽船模型も軍艦であつたように、近代日本の貿易のはじまりは武器ばかり買つている。それでも千歳丸以來、元治、慶應と、上海往來も、四五年も經過してくると、いくらか毛色が變つてきた。たとえば、元治元年に上海へ來た美濃の人で安田老山という畫家や、畫家で英語に堪能、のち香港に移つて日本漂民の世話をした八戸喜三郎、越後の畫家で長井雲坪など、「上海史話」や「滬上史談」にあげてあるが、美作の人で日本新聞史上に元祖として知られる岸田吟香や、前卷でみた「サツマ辭書」編纂者の一人、薩摩の前田正名なども、幕末いわゆる「上海へ洋行」した人々であつて、前者は慶應二年の一八六六年、後者は慶應四年の一八六八年であつた。
 そして吟香と、正名の上海渡航が、ダイア活字の後身であるガムブルの電胎活字が、上海から長崎へ渡來するため水先案内として、歴史的な意味をもつものであつた。吟香も正名も、それぞれに獨立に行動しているし、ギヤムブルと昌造を結びつける、直接の機縁とはなつていないのだけれど、それは上海にあつてはじめて日本文字、つまりこの場合片假名の電胎活字を作らせ、日本人自身の意志によつて使用したというほどの事實だけれども、日本印刷史上、充分に頁を占めるほどの事柄であつた。同時にまた、文久二年以來日本人の上海往來としてみれば、その多くが大小藩の直接間接の政治的經濟的使命をおびて渡航する者であつたり、個人的な場合にも、それが至つてロマンチツクな畫家文人の漂泊であつたのにくらべると、これはだいぶ毛色が變つて、文化的な性質をもつていた。吟香は武士でもなければ、いわゆる文人墨客でもなかつた。前田は薩摩の藩士であつたが、脱藩以後は扶知をはなれた一青年でしかなく、しかもいわゆる「志士」とちがつて、なんの背景ももつていなかつた。周知のように、前者はヘボン博士の助手として、「ヘボン辭書」印刷のためであり、後者は同じ和英對譯「サツマ辭書」印刷のためであつて、こと前卷でみたように後者の方は、浪々の青年らが菊判一千頁にちかい大辭書を、その發刊の理想から本の出來ばえ、經濟上の損得一切を自己の一身にかけて、とにかく成就させたということが、古えの陀羅尼經以來にみる破天荒の大仕事だつたのである。
 つまり、幕末の上海渡航も、吟香、正名らに至つて、高杉らのそれと比べるときは、わずか四五年の差でありながら、急速な質的變化があるわけであつたが、しかしいずれにもしろ、記録にみる當時の上海在住の日本人は少數で、たとえば次のような岸田の上海日記にみても容子がわかる。
「廿一日(慶應三年三月)、ひるから、きんきへいて見るに、弘光、明日、香港へいくとて、したくしてゐる。曾我彌一といふ人がきてゐる。きのふ逢た。處々あるいてきたさうだが、香港で日本の三味線をひいてゐるのを見たといふ。(以下略)」
「廿四日、てんき、おほよし、よつじぶんにぶらりと出て、どこへいかうかとおもひながら、河岸を南へすた/\あるくに、ふと軋位佛の招牌を見て、此間、弘光のいふた事をおもひ出して、このうちへたちよつて、日本人がゐるかといへばゐますとて、支那奴が案内してくれて、はじめて曾我準造にあふ。いろ/\はなしをしておもしろし。梁川の藩中の人なり。――」
 弘光は八戸善三郎のことで、「準造」は曽我祐準のこと、前記したように祐準は、イギリス商船に乘りくんでカルカツタまでいつたが、海軍志願の彼には商船では面白くなく、ふたたび上海へ引返したときのことであつた。もともと幕府は、自らは千歳丸などを仕たてて、最初の上海貿易をやつたが、一般に海外渡航を免許したのは慶應二年のことであつた。高杉や五代やが幕府役人の從者や人夫に化けたりして、千歳丸に便乘したのは有名な話だけれど、慶應になつてからでも、曾我祐準が、英商ガラバの斡旋で商船に乘りこむためには、柳河藩から扶知離れした形式をとらねばならなかつたし、熊本藩の竹添進一郎など、表向きには「漂流」といふことになつていた。
 しかし、ここで大切なことは、上海の文化を日本の長崎や横濱に導びいた人々が、記録にも明らかな以上の人たちだけではなかつたということである。それは、長崎にもどれば奉行の手によつて、暗らい所に入れられねばならぬ、たくさんの漂流民、それから外人や支那人に買われた多くの男女、或いは密航者たちであつて、表向きにも裏向きにも、藩とか幕府とかの庇護も何にもない人々が、記録にのこるよすがもないままに、文化の歴史をすすめる大きな土臺石になつていただろうということである。そういう人々は、きつと吟香の日記にみるような、何の某がどこそこの旅館にいるという存り方ではなかつたであろうし、記録にないものは叙述のしようもないけれど、たとえば明治元年、つまり慶應四年、一八六八年の上海に「田代屋」という長崎出の日本商人があつて、日本婦女子のための小間物を賣つていたと「滬上史談」(九二頁)は書いているから、その買手たるべき日本婦人が何人か何十人か、少くとも慶應四年以前から在住していたことは確かである。また工部局墓地にはたくさんの日本人墓碑があつて、それらのうちには、アメリカ飛脚船乘組員茂助、利七外三人によつて「江戸淺草材木町徳助、相州小田原在天坪村七之丞」二人の靈のために「明治四辛未六月建之」というのもあるし、外人墓地にも澤山の日本女性の墓石が混つている。たとえば「マリヤ・ハシモトの靈に獻ぐ、一九一一年十月九日歿、行年七十三歳と英文で認めて、下方に漢字で「麥理海細麥多」和歌山縣日高郡御坊東町橋本仕歿明治四十四年十月九日」というのがあり、「安らかに眠り給へ、セレツザ・マリヤ・ド・ジーサスの靈に獻ぐ、一九〇九年六月廿五日歿とポルトガル語で認め、主の司る幸福なる死、とラテン語で書加へてある。下方には漢字で、明治肆十貳年、島谷カネ長崎人第陸月念伍日死ス」というのがあり「カキガワ・パリサーの靈に獻ぐ、一八九六年三月二日歿、行年四十七歳、我らの愛する唯一の母は永遠に眠れり、怖れを知らぬ天に登りて永遠に祝福されぬ、逝けど忘る能はず、と全部英文で綴つ」(前掲八七頁)」たのやがあるという。カキガワ・パリサーの碑は、彼女の毛色眼色のちがつた愛兒たちによつて建立されたのだろうか。セレツザ・マリヤ・ド・ジーサスは死歿年齢が明らかでないけれどマリヤ・ハシモトは行年七十三歳というのだから、明治四十四年としても、彼女がかつて若く美しかつた日に、外國人に伴われて海を渡つたのだとするならば、或は幕府の千歳丸よりはるかに以前だつたか知れない。さらにまた一八七〇年明治三年の工部局人口統計では、當時の上海在住日本人合計二十九名、そのうち二十二名までが「船員」となつているそうで、女性は一名もないという。これは上海における日本女性のありかたか[#「ありかたか」は底本のまま]特殊だつたろうことを示すと同時に、男性でもその大部分が「船員」だつたということは、この統計の正確さ不正確さは一應べつとして、吟香の日記にみるような日本人のあり方でないところの日本人が、相當多數だつたことを物語るものだと考えられる。
 淺草材木町の徳助、小田原在天坪村の七之丞が船乘りだつたろうことは、その建立者たちによつても想像できるところだが、記録に殘つている漂流民、屋張[#「屋張」は底本のまま]の音吉そのほかも當時の上海に生存している筈であつた。彼らがたまたま記録にのこつた機縁は、たとえば天保六年、一八三五年、前卷でみたように「モリソン號」で送還されようとしたからで、屋張[#「屋張」は底本のまま]の船乘り音吉、久吉、岩吉ほか數人、また肥後の漁民庄藏、壽三郎、力松など、「モリソン號」にからまる政治的焦點の、餘映に照らしだされたからに過ぎない。ことに音吉は一八五四年、安政元年、イギリス軍艦に通辯として乘くみ長崎に來て、當時の蘭學書生福澤諭吉と對面していたり、肥後の力松は一八五五年、安政二年、露土戰爭の餘波で、プーチヤチンの艦隊を追撃してきたイギリス軍艦が、凾館へ侵入したとき、艦付き通辯として幕府役人との通辯に當つていることが「大日本古文書卷十」に記録されたりしている。九州天草生れ、十三歳のとき漂流、片假名の日本語を示して通辯した日本人「通辯リキ」と書かれている。
 漂流民の多くが故國に歸れなかつたことは「じやがたら文章」以來有名なところであつた。肥後の力松連中も、尾張の音吉の連中も、遂に戀しい日本へ戻された形跡はない。モリソン號で追い戻された音吉は、安政元年、再度長崎へきたとき、「其中の一人は、同じく日本語にて肴買ひたし、金は澤山ありといひしかば、賣る肴はなしと答へしに、私は日本尾張國の御米船に乘り組みたる者にて、十六歳のとき漂流し、漸く七年前、薩摩まで連れ渡されたれど、命に係はると申し聞かされて、據ろなく、イギリス國へ歸れり。宗門所詰の妻の十八歳なるがある外、島原にも懇ろなる者一人ありしと咄し」(「滬上史談」九八頁)たという。この音吉は、のちに外國人を妻とし、上海に住んでいて、文久二年、一八六二年、中牟田倉五助[#「倉五助」は底本のまま]が人ずてにきいて訪ねていつたが、あいにく會うことが出來なかつたと、「中牟田倉之助傳」は傳えている。
 漂流民についての研究は、史學の間でもまだ未開拓の分野だとされているそうだが、田保橋潔氏の「幕末海外關係史」には、たとえば岩吉、音吉の一行は太平洋上に漂ようこと十四ケ月、カナダ、コロンビア州の沿岸クインシヤイロツト島に漂着して、アメリカインデヤンの手に落ちていたが、アメリカ商船によつて救出された。この頃イギリス及びアメリカは、そのほかフイリツピンや、南洋諸島に漂着した日本人を收容し、新教宣教師の手にあずけて、マカオや香港あたり轉々させたという容子が記してある。これらの漂流民が、みんなでどれほどの數であり、どんか名前だつたか、もちろんわかりようもないが、私はここでフツとおもいだす。前に述べた新教宣教師で、のち上海で活動していることを「オブロモフ」の著者によつて消息されたメドハーストの世界最初の「和英語彙」が、當時マラツカにあつた英華學堂内の、日本人勞働者二人の協力によつて出來たということである。
 もちろん「二人の日本人勞働者」が音吉たちであるかどうかはわからない。音吉たちの漂流は天保二年、一八三一年で、「和英語彙」が一八三三年の發行であるから、そして「和英語彙」が「支那叢報」のブツクレビユにみるような素朴な單語集にすぎないとすれば、時間的には無理がないけれど、よし、それが音吉らであろうと、ほかの日本漂民であろうと、事の本質の重要さに變りはないわけだ。メドハーストより二三年遲れて、支那へまたドイツ人ギユツツラフも「日本語はマカオで漂流民からギユツツラフが先づ學び、後にウイリアムスも習つた。ウイリアムスの廣東『支那叢報』印刷所には日本人が二名ゐたらしく思はれます。」と、前掲「上海史話」の著者からの手紙の一節にあるし、またほかにも、ギユツツラフに日本語を教えたのは音吉、久吉の二人だという説がある。しかしいずれにもしろ、日本をおとずれて、渡邊華山や高野長英に、命がけの文章をかかせ、鎖國日本をおしゆすぶつた「平和の使節」といわれる「モリソン號」の、導びきとなつたのがギユツツラフの「日本語」であり、「ペルリの艦隊」「嘉永の黒船」の通譯が、ウイリアムスの「日本語」であつたのをみるとき、それが誰だつたにもしろ、日本漂流民の功績が、歴史の大きな齒車の一つとなつていることを否むことは出來ないだろう。
 廣東の「支那叢報」印刷所にいた日本人が、マラツカの英華學堂印刷所にいた「二人の日本人勞働者」と同一かどうか、私にはわからない。またメドハーストの「和英語彙」の日本文字がどんなものであつたか、木彫か、金屬彫刻か知るよしもない。しかし前掲「上海史話」の著者は手紙の一節で、コールの後任ギヤンブルが來任してから、「――一八六〇年十二月印刷所を上海に移轉して擴充し」たとき「二種の新漢字活字を有し、日本文の活字(小型)も有してゐました。日本文字といふのは四十八文字の假名活字のことと思はれます。」と書いているとき、私はそれを自然に肯定することが出來るのである。岸田吟香が「ヘボン辭書」の印刷に當つて日本文字の種字を書いて、金屬活字を作らせたという事實は日本印刷史上有名で、たとえば、後年吟香は追憶して「岸田吟香氏の朝野記者に語りし新聞實歴談」(石井研堂著「明治事物起原」)の一節はいつている。「當時上海に美華、墨海の二活版所あり、共に耶蘇宣教師が漢文聖書を印刷して布教に資するものなり、さて印刷せんとするに方りて、この活版所に、日本かな字の無き不都合に逢ひ、予自ら平かな片かなの細字(五號)版下を書き、之を黄楊に刻ませて、字母を作り、活字を鑄造せしめたるが、我邦の假名字を以て、鉛活字となせるは、蓋しこれが嚆矢ならんか。」ところが、これは吟香が知らないので、黄楊に木彫したことは、電胎法字母をつくることができた證據であるし、かなの鉛活字の傳統は、前卷以來みたところ、すでに昌造の「蘭話通辯」があるし、英華學堂でつくられた「日本勞働者」のそれによるものはもつと古い。しかし、私が岩崎克己氏の家でみた「サツマ辭書」の片假名活字の字形はなるほどりつぱであつた。「ヘボン辭書」と同一のものを使つたという、この片假名は、しよせん「尾張の音[#「音」は底本のまま]」や「通辯リキ」などに書ける文字ではないけれど、それにしても、金くぎ流の文字で、たぶんは、めつたに使われることもないままに、不揃ひにもなつた何本か、何十本かの片假名活字が、マラツカ以來、廣東、香港、寧波、上海と、轉々しつつ、工場のすみつこに埃りをあびていただろう、その歴史こそ貴重であつたと思うのである。



世界文化連載分、十九

 しかしまた、上海で、岸田吟香が片假名の種字をつくつて、日本文字活字をふたたび誕生させたということは、一方からみると、けつして偶然ではなかつた。周知のように、吟香は元治元年にジヨゼフ彦(濱田彦太郎)らと“新聞紙”を發行した。「新聞」と名ずけたものには、これよりさき文久二年に開成所教授、さきにペルリ來航當時通詞として活動した昌造の同僚堀達之助らによつて編輯されていた「官板バタビヤ新聞」や「海外新聞」などがあつたけれど、これはそれぞれに一册の書物であり、外國の新聞から抄譯したものを、時間の制限なしに、刊行され書店から發賣されたものであつた。しかし吟香の“新聞紙”はリーフレットである。月に「三四回」ずつ發行されて勿論日刊でも週刊でもなかつたが、それは能うかぎり早く、しかも講讀者を予約して配達されたものであつたという點で、日本で一番最初に、新聞の性質に近ずいた新聞であつた。
「予が“新聞紙”を刊行したるは元治元年にして、之を刊行せんと企てたるは、曾て横濱に在てドクトル・ヘボン氏と共に和英對譯辭書を編纂する頃、ジヨゼフ彦といふ者と相往來したる時にあり。――一日彦藏予等と語りて曰く、米國には新聞紙といふ者あり。專ら世間の珍しき事及び日日の出來事などを書き集め、之を世間に公布するにありと。――即ち彦藏は西洋新聞を飜譯し、予と本間氏とはこれを平かな交りの日本文に綴りたり。さればその頃は活字等一切なければ、予ら自ら版下をかきて木版に刻し、半紙五六枚にて、單に「新聞紙」と名づけ、月に三四回づつ刊行して、自ら横濱市中に配達したり云々。」と、吟香は「明治事物起原」所載「朝野記者に語りし新聞實歴談」の一節に語つている。
 いわば漂流民ジヨゼフ彦の知識を通じた摸倣であるが、こういう社會的要素は、すでに當時の日本に醸成しつつあつたのであろう。ことに文中「これを平かな交りの日本文に綴り」と云々は、吟香の新らしい平民的思想を示すものであり、新聞を創ろうとする思想とつながるものにちがいない。私は未だに“新聞紙”を見たことがないけれど、吟香が明治元年二度めに起した「横濱新報もしほ草」の文章は(後でみるところだが)當時の他の新聞に比べても、圖ぬけて假名の多い文章であるが、それは吟香がアルハベツトに親しんだところから生れた觀念というよりは、もつと新聞がその對象とするような大衆的なもの、平民的なものが、彼の身うちに思想として成長していたからであろう。逆にいえば、そういう彼の觀念こそが“新聞紙”を摸倣させたかも知れない。そしてそういう彼が「その頃は活字など一切なければ」「自ら版下をかきて木版に刻」さねばならなかつたし「自ら横演市中を配達」せねばならなかつたということは、當然「新聞」がもつ時間的制約とまだ機械化されない當時の日本印刷術との矛盾に突き當つたことであつた。「新聞」を印刷するに適當な紙製法が發達していたならば「半紙五六枚」を綴じあわせないで、大判の一枚刷りとしたであろう。金屬活字や印刷機が出來ていたらば「版下を書」いたり「木版に刻」んだりしないで、フランクリンの如く、しかも日刊が出來たであろう。したがつて吟香らの「月に三四回」の“新聞紙”は、當時にあつては最大限度のものであつたといえる。
 したがつて「姜先生と申人はあめりか人にてぎやんぶると申しますが、此人美華書館の主人(七八字不明)至てこころやすくいたしますが、活字版屋の事故もとよりそればかりが(六七字不明)至て(二三字不明)い人なり。日本へいて片カナ平がな活字板をすることをしたいと(十五六字不明)開成所(十字程不明)おたのみになりますれば(十六字程不明)ますがいかがでございましよう。ヘボンこちらにゐるうちに相談になりますれば熟談(五六字不明)ございますから、よくお考へなされて下さいまし。」(土方定一「近代日本洋畫史」二一――二二頁)というのは、吟香が慶應三年正月、上海から日本の川上冬崖あてに書き送つた書翰の一節であつて、彼の金屬や活字や印刷術に對する關心がここにあらわれているのも自然であつた。
 書簡の文章は殘念にも(不明)が多いが、大意を判ずるには充分だ。「ぎやんぶる」はギヤムブルであり、「日本へいて片カナ平がな活字板をつくることををしへたい」というとき、それは前章からみてきたところでも明らかなように、電胎字母をふくむ活字の製法であつた。周知のように川上冬崖は明治洋畫の開拓者であり、「開成所」が「蕃書調所」といつた頃からの役人であつたから、吟香は友人の冬崖を通じて、官板ものなど主として出版している開成所へ、日本活字の製法傳授を斡旋したわけである。元治元年に改正された「開成所稽古規則覺書」によると「和蘭學、英吉利學、佛蘭西學、獨乙學、魯西亞學、天文學、地理學、窮理學、數學、物産學、精錬學、器械學、畫學、活字」(文部省編「維新史」第四卷三三三――三三四頁)という科目の列擧があつて、活字もその一科目となつていたのだから、至極當然であるが、しかし吟香の、この斡旋がどう經過したかは、今日も明らかではない。前卷でみたように開成所には萬延元年大鳥圭介によつて發行された「斯氏築城典刑」の彫刻鉛活字などの印刷傳統があつた筈であるが、おそらく、この頃慶應三年から明治元年へかけての、國内的變革期にあつては、幕府役人であつた書翰の受取人も、また開成所自身も平和的な事業に手をつける餘裕がなかつたのであろうか。
 さて岸田吟香が、ヘボン博士夫妻に伴われて上海にきた一八六六年十月頃の美華書館はどんなところで、どれほどの印刷能力を有したか、またどういうふうに整版され、吟香自身どういうふうにはたらいたろうか? 殘念ながら、私は吟香の上海日記ぜんたいをみる機會を末だに[#「末だに」は底本のまま]もつことが出來ない。
「なにさま、印刷場は寺の下にあつたということだ。吟香らは二階に住んでな、うむ」
 昭和十八年の二月、ある寒い日の午後、まだ在世中だつた「明治事物起原」の著者を、下谷にたずねていつたことがある。ひどく無人な家であるが、うすくらい二階で、研堂老人は私にいつた。
「――ひどくきりつめた生活でな、言語は通ぜんし、不便だつたという話だつた」
 こたつに背をまるくしながら、抑揚のない、ひくい聲で、こんなふうにかたる。この人には、私のたずねる岸田吟香のことが、まだ「歴史」ではないのだつた。私が上野の圖書館で讀んでいる「明治事物起原」は、手あかでよごれた革表紙の、カード番號も、2とか3とかいう、もう古い本なのに、この人は、その時代を、今日に生きているのであつた。人間にとつて、なんと、その鑄りつけられた「歴史」はおもいものであろう。
「うむ、まあ、どうやら、この冬も越せるか、と思つている――」
「ヘボン辭書」から「サツマ辭書」の話もしてくれながら、そんなこともいつた。前田正名のことでは、このあとに紹介するような文章ののつている雜誌を、室いつぱいにつみあげてある書物のうちから、さがしてくれるために、まがつた腰をおこして、たんねんにかたずけはじめた。それは一ととぢの雜誌類をもちあげるのでも、たいへんな努力であつたが、私がそばから手傳うのも許さないような、いつこくさがあつた。
「ああ、きみは『太陽のない街』を、かいたんだね」
 こたつにもどつて、まだ呼吸をはずませていたが、もう皈るころになつてから、研堂老人がいつた。私はうれしくなつて、あいてをみると、こんどは咳きこんで、老人はこたつぶとんに顏をふせているのだつた。
「どうれで[#「どうれで」は底本のまま]、きいたような、名だとおもつた――」
 しかし、石井研堂氏は、とうとう、その「冬が越せ」なかつた。岸田吟香のことを、じかに話せる人は亡くなつた。――
「寺」というのは教會のことで、「寺の下」というのは、或は地下室のことかも知れない。教會のことを「寺」とは高杉も日記にそう書いているし、前田正名の日記にもあり、「寺」でキリスト教徒たちが祈祷をするさまも書いてあるから、疑がいなかろう。また「上海史話」の口繪にある安田老山筆の當時の上海風景には、河岸に沿うて林立する、數階建の西洋家屋があるから、きつと禮拜堂につながる洋家屋の一部分に印刷工場があつたと想像出來るし、その場所は「當時の小東門外にあ」つたと「滬上史談」の著者は書いている。
 次に日本文字混じりの「ヘボン辭書」が、毎日どれくらい整版されたか?、吟香はどんな風にはたらいたか? を知るためには「滬上史談」に面白い記事がある。それはこの著者が一八七三年三月二十日(明治六年)のノース・チャイナ・ヘラルド紙から、ブラムゼンという人が「ヘボン辭書」に誤植や見落しが非常に多いという批評を加えたについて當時の美華書館主マテイーア(ギャムブルの後任)という人が、印刷者としての責任上から答えている、その文章を飜譯したものだ。
「本紙十三日號に和英語林集成に對する批評が出た以上、同書印刷當時の事情を發表するのが正しいと思ふ。著者ヘボン博士は自ら全部の校正を見られた。從つて印刷上の間違ひでも、その他どのやうな間違ひでも、その責任はヘボン博士にあつて美華書館にはない。ヘボン博士の校正は次のやうな事情でなされた。この校正を開始するとすぐ博士の日本語教師は去つて了つた。そしてその代理の者は辭書が完成するまで働いたが、ほんの小僧程度で、從つて甚だ正確とは申し難い。博士はこの印刷中ずツと病氣で、非常に惡いために事務所に來る事が出來ず、校正刷を博士の部屋に送つた事が數回あつた。ヘボン夫人の校正に盡した功は貴重なものであるが、夫人も亦病氣で香港へ靜養旅行に行かねばならなかつた。この本は一日八頁の割で上梓されたので、若し博士が完全に健康であり、あらゆる便宜を持つて居られたなら、この不完全な書を完全にするのに、大繁忙であつたらうと思ふ。このやうな不利益な點を考慮すれば、本紙に現れた批評中に指摘された以上にひどい誤がなければ結構だとしなければならぬ。ゼイ・エル・マテイーア」(前掲二七頁)
 この文章は全體として印刷者が責任からのがれる爲に強辯しているの傾きがあり、罪の多くを「小僧」吟香に押しつけ過ぎている嫌いもあるが、何にしても一日八頁の割合で校了にまでしたとすれば、ヘボン博士夫妻が病氣だとすると、一人の校正者では、明らかに無理であつた。「サツマ辭書」から察しても活字は大きいが、菊判の辭書ものとなれば今日でも大變だ。沖田氏も書いている。
「右のやうにヘボン夫妻共病氣であつたので、仕事の大部分は吟香に掛つて來た。よなべまでしなければならぬ程忙しかつた。」そして「小僧」とあしらわれた吟香は「どれほどヘボンから月給を貰つて居つたかと云ふと、月僅に十弗であつた。五十仙出せば鶏卵が百個あり、牛肉一封度五仙半、魚一封度七仙と云ふやうな物價安の時ではあつたが、月給の半分は食べるものに要つて了ひ、殘金ではどうすることも出來なかつた。」(前掲二七頁)というのである。
 吟香が「小僧」であつたかなかつたか?、吟香はこのとき卅五歳であるが、四十前後とおもわれる頃の、彼の洋服姿の寫眞をみると、頬骨の張つたふとりじしで、眉根のけわしい、毛むくじやらの顏であつた。しかも、この日本最初の完全な形をもつた、日本にはじめて英語というものの大衆的傳統をつくつた和英辭書が、吟香の協力なしには出來上らなかつたのだ、という事實一つで充分な答になるだろうと、私は考えるが、とにかく、當時の美華書館印刷所は、本業の傳道書印刷のかたわらに、菊判の辭書八頁を一日平均に生産する能力があり、そのうち半分のスペースをうずめるだけの日本文字活字があつたことがわかる。
 さらにこれより一年後に「サツマ辭書」を印刷した、當時の前田正名の日記(前田三介「社會及國家」昭和十二年四月號所載「上海日記」)にみると、
 閏四月三日
(前略)夫より下船いたしガアンボル(ギヤンブルのこと)の處へ漸くに尋ね行候處、ソンデイにて客人有之、一刻相咄候て、夕刻七ツ時分迄寛談いたし、實に丁寧なる事にて、明日林方へ書状爲持候樣可致段承り候。西洋料理に我々上席にて馳走有之候。其後寺へ友朋と差越候、我々共は亭主はボイを連越六ツ過まで町など見物いたし、實に聞きしにまさり手廣に有之候。尤も異人の宅は長崎より比較すれば、大變有之、異國に差越候おもひをなし、立派に作りたり。少々の用事はボイに漢文を以て筆談いたし候(略)」
 というのが正名の上海上陸第一日の印象であるが、閏四月三日はまだ改元前の慶應四年である。林というのは何人か明らかにしないが、後續するところからみると、支那人で印刷工場の支配人か職長かとおもわれる。「我々共」というのは、たぶん協力者である正名の兄獻吉と高橋新吉の二人をふくんでいるのであろうが、當時ようやく廿三歳の青年正名の日記は、卅五歳の吟香のそれと比べるとき、西洋文化に對するおどろきがもつと率直でもありつよくもあつた。
 閏四月四日
(前略)一、書籍出版の有樣致談判候處、本書甚誤謬有之、且英字にて無之字過分有之候に付、自分誤を我々共に致相談しても可然候得共、中々閑暇無之に付、ウリヤムスと申者當地に罷居候に付、我々共を連越よく談判いたし候て可然候半と存候。此人は和語にも通じ候に付、旁々以都合宜敷と申事に候。明日林も同道、ウリヤムス處へ差越筋に取究置候。」
 正名らの辭書出版の目的が、海外留學の費用を得ようためであつたことも、前卷でみたとおりであるが、「前田正名自叙傳」中の一節に「――三人はいよいよ辭書の編纂に從事することとなりしも、何れもそれ丈の學力なければ、行徳(三字缺)といふ二人の學者を頼み、曾て幕府の編纂に成りし和蘭、英吉利の二つの辭書を骨子として」(「社會及國家」昭和十二年二月號、前田三介編)云々とあるように、それは開成所版堀達之助編の「英和對譯袖珍辭書」を改良したほどの原稿であつた。三人のうち、薩藩の洋學教授であつた高橋新吉など、當時長崎在住のフエルベツキにも親しく、英語に堪能と謂われているし、正名なども、九歳のときから和蘭語を學んでいたのであるけれど、ヘボンの弟子であつた吟香校正の「ヘボン辭書」にミスプリントが多かつたように、「辭書の編纂」ともなると「それ丈の學力な」かつたというのは、英語草創の時期として當然のことであつたろうか。また、文中にいう、つまりギヤンブルが、自分は忙しくて原稿の誤りを正しておられぬから、「ウリヤムスと申者當地に罷居」「此人は和語にも通」じているから紹介しようという「ウリヤムス」こそ、モリソン博士の息子、ペルリの黒船の通譯となつたロバート・ウイリヤムスであつた。
 そして、
「一、何千部出來可致哉と相尋に付、貳千四百部拵度段申述候處、可致段承り相當。
 一、壹部何ドル計の賦に候哉と尋候所、六ドル位と返答致候。何ケ月計にて可致成就相考候哉と尋候所、四五ケ月位にて是非仕度段申通候に付、其内には隨分成就可致段承り候、尤何分輕目に相成候可致に付算當の處は近日一先出版いたし候上、明白に可申通段承り候。右今日の談判にて候。」(前掲四月號所載)
 と、閏四月四日の日記がつずいていて、すぐ四月五日に、
「一、今日試に書籍活字植付方いたし候事」というのがみえる。つまり、見本ぐみをしてみないと、正確な値段も返辭出來ないというのであるが、五月五日に「大概枚數は七百枚位にて可相成候はんとガアンボル申候」とあり、ここでいう「枚」は「頁」のことらしいから、七百頁の辭書を、四五ケ月うちには充分本にまで出來ると、答えているわけであつた。四月五日に「試組み」にかかつたものの、翌六日には「一、今日より小の假名文字不足故活字拵方に付三七日相待候樣承り候事」とあつて、小の假名文字が不足で新鑄する間、三週間まつてくれというので、五月の朔日に「一、今日者一昨日活字植付方に相掛り候、少し惡敷(一字不明)然候故(一字不明)方抔いたし候事(三字不明)日本紙一枚丈相濟候、未だ出版無之」(前同)と、月末になつて整版がはじまつている。今日でも六册ものの印刷となれば、若干の日數は準備に要するのが普通だから、不思議はないが、正名たちはもはや日本文字の種字を書く必要はなかつたのだつた。「日本紙一枚丈」というのは、二頁だけ組めたものと考えられるが、「未だ出版無之」と書いた青年正名は洋式印刷術にも一々おどろいて、すぐつずけて「一、仕掛八枚丈無之候得ば、出版難成候事」とも書いている。これで當時の美華書館は八頁掛のシリンダー・プレスを使用していたこともあきらかになるし、八頁そろわねばゲラ刷りは出來ぬもんだと、正名は首を長くしているのだつた。
 吟香に劣らず正名たちも苦勞しなければならなかつた。ウイリアムスが「サツマ辭書」に手傳つたかどうか? 四月七日に「一、今朝ガアンボルのすすめによつて英人の漢學に通達した者の方へ同道差越候事」といい、以後はその漢學に通じたる英人ホエレーという名前ばかりが出てくるから、ウイリヤムスは都合惡かつたと思われる「一、三字前よりホエレーと申者漢學に達せし先生へ參り、字引改正いたし候事、尤も明日より其仁の宅へ差越、ウヱブストルになき語度々日記に書(き)相尋、尤も調音を正す筋に約束致候事」とか、「一、今日より別法を仕立書籍取しらべいたし候事、朝八字より十二字迄。二字半より五字半迄、夜七字より十字まで」(前同)などというのがある。正名たちの「サツマ辭書」印刷のための上海渡航は、一方で自身「サツマ辭書」を學ぶことでもあつた。「字」は「時」であつて晝夜兼行、しかも二十三才の青年は倦むことを知らず、五月二日の「ソンデイ」に「一、今七つ過より夕刻までガアムボルの誘引により西洋の寺に參り候事、男ともに百七八拾人に候乎、甚盛成事に候」(前同)などと無邪氣な印象もある。
「サツマ辭書」も「ヘボン辭書」と略ぼ同じく、約九ケ月で出來上つた。慶應四年閏四月三日に上海へ上陸した彼らは、大福帳型の和紙に木版で印刷した「英和對譯袖珍辭書」のかわりにハイカラな皮表紙の「サツマ辭書」をかかえて、明治二年二月神戸に上陸したのである。しかしその間、彼ら薩摩の脱藩青年たちも、上海に上陸してまもない四月廿一日に、故國では置縣制が布かれ、二年一月には薩長土肥が先んじて藩籍奉還するに至つて、とにかく身の始末をつけるために、五月の五日に「拾枚丈土産として差遣候事」と、拾頁のゲラ刷をもらつて中途歸國しており、十月に再渡するまで、約五ケ月間の不在もあるから、正味は「ヘボン辭書」よりずツと短期間であつたわけで、それだけ、上海美華書館の印刷能力も發展していたのであろう。
 このように、日本文字の電胎活字は上海で基礎をつくりつつあつた。すでにそれによる書物は日本に上陸していて、こころざしある當時の人々によつて重要な存在となつており、たとえば「ヘボン辭書」初版は忽ち賣切れ、定價の三四倍が市價となつていた。慶應四年閏四月創刊の「美國新聞紙」第六集(東京)は次のように書いている。「亞國ヘボンの英和對譯辭書成就せり、簡便確實にして且つ鮮明なり。英學に志ある諸君ハ坐右に置かずんばあるべからず、然れども多分にあらざれハ速に買はずんハ及はさるべし、横濱三十八番にて賣り出せり――。」木版で發行していた「美國新聞紙」の記者にも、洋式印刷のことはわからなくても「且つ鮮明なり」という文句は忘れることができなかつたのであろう。
 考えてみると、吟香の場合も、正名の場合も、英和字引であるということだつた。つまり日本の假名文字の電胎活字をつくらせた動機というものが、日本語とイギリス語の接しよくからはじまつたということだ。このことはまつたく意味ふかい。「江戸の活字」は、齊彬の意志によつて、オランダ語との接しよくにはじまつていること、前にみたとおりである。木村嘉平は、おどろくべき努力によつて、まつたく獨創的に電胎字母の漢字活字までつくりだしながら、ついに日本の活字の傳統となることができなかつたことの、意味の一面がここにある。嘉平の遺品には、前にみたように假名文字がなかつた。齊彬が死んでから、齊彬の意志をこえて、イギリス語とむすびつくことがなかつた事實を、「長崎の活字」の昌造と、くらべてみればわかる。昌造もオランダ語との接しよくから、はじまつたのだけれど、安政の開港前後からイギリス語にむすびつき、しかも彼が最初につくつた鉛活字は、四十八の片假名活字であつたということだ。オランダ語は、徳川期を通じて、唯一ともいつていいほど、日本とヨーロツパをつなぐ外國語であつたけれど、それは弘化四年、一八四七年の「開國勸告使節」オランダ軍艦の來訪までであつたといえよう。ヨーロツパからアジアへおしよせてくる新しい波の主人は、すでに變つていた。幕府の貿易船千歳丸が、そのセンター・マストをイギリス國旗でかざつていたことは、けつして氣まぐれではなかつたのだ。
 しかし、吟香も、正名も、永いこと、洋式印刷工場にちかく起きふししながら、電胎字母製法などを、まなびとることはしなかつた。吟香は、のち、いわゆる「支那浪人の元祖」みたいになつた人だが、眼は「毛唐人」をこえて、支那四百餘州ばかりにそそいでいたし、正名は、のち弘安となり、ヨーロツパの科學的農法をとりいれて、日本農業に功勞ある人となつたが、當時はひたすらに、「サツマ辭書」をつくつてもうけた金で、洋行することばかり考えていた。しかも、この頃長崎の昌造は、いろいろと苦心して、その電胎法をまなびとろうと試みながら、いまだにそれが出來ないでいたのである。
「――年來くわだてたりし活版製造の業を成就せしめん」と「資金五萬圓を出して、其の業に從事し、日夜、心を砕かれしかど、容易の業にあらざれば月日と費えを失ふのみにて、進退谷まり」(三谷幸吉、本木、平野詳傳)というのは、安政五年、一八五八年以後、慶應末年、一八六七年までのことで、前卷でみたように、昌造が、安政開港の談判に奔走したあげく、その「痛烈な開國論者」であつたため、安政二年から五年へかけて入獄したといわるる、その後のことである。またある時、「薩藩の儒者、重野鑛之丞氏(安釋)上海より活字を取よせ、印刷を試みたれど、その技に熟せず、庫中に積みおけり」というのをきいて「その機械及び活字を買受けたり。機械はワシントン・プレスにて、活字は和洋二種一組宛なりと云ふ。此を先生の宅に運び、門生陽其二と、日夜を分たす」「先生毎夜眠らず午餐を喫したる後、坐睡に止まるのみ」で、活字製法と印刷技法の習得に苦勞したが、なかなか成功せず「偶々米國の宣教師某、清國上海の地に美華書院と云ふを建て、ガラハニにて字型を製す」るとききこんで、早速、門人を「上海に遣わし、其術を視察せしめしが、彼れ深く其術を祕し」ているので「空しく歸國すること幾回なるを知らず」(前掲四九――五〇頁)というのであつた。殘念ながら、重野安釋が上海から活字を買つたのは何時か、また門人を上海にやつたのは何時か、この文章は、そのへんを少しも明らかにしていないけれど、薩藩の重野安釋が、上海から買いとつた印刷機具は、「ワシントン・プレス」はアメリカものだし、「和洋二種の活字」というのをふくめて、少なくとも美華書館印刷所が、電胎字母製法をはじめた、一八六一年、安政元年[#「一八六一年、安政元年」は底本のまま]以後のことでなければなるまい。
「――記録がのこつていないけれど、昌造翁が、門人を上海にやつたというのは、ほんとか知れませんね」
 ある日、芝白金三光町に、平野義太郎氏をたずねてゆくと、そういつた。おだやかなこの學者は、昌造の門人で、その後繼者であつた平野富二の孫にあたるのである。
「その頃になると、長崎と上海の往來は、いま記録にのこつてるよりも、何倍もひんぱんだつたらしいですからね」
 卓のうえには、私のために、祖父富二翁ののこした當時の日記や、短册や、いろんなものがひろげてある。大福帳型に、こくめいにしるされた筆文字をめくつてみても、そこから昌造の門人のうち、だれが、いつ、どういう風にして、美華書館へちかずいていつたかはわからない。わからなけれど[#「わからなけれど」は底本のまま]、つよい筆勢の、ところどころ片假名まじりの日記をみていると、古風なうちに、つよいハイカラさがあふれていて、當時の長崎と上海が、まじかにうかんでくる氣がする。――
 一八六六年までは、まだ鎖國であつた。しかも、記録にのこらぬような形で、上海、長崎の往來はひんぱんであつた。表むき、裏むきの形でも、藩を背景にした武士たちか、それでなければ、買われた女性、船の勞働者として名もない人々が、往來していたが、昌造はそのどつちでもないのだつた。彼は徳川期を通じて由緒ある「長崎通詞」の家柄でありながら、身分的には、足軽武士にも呼びすてられる「町方小者」に過ぎない。さらに、同じ、安政開港に奔走した同僚たち、たとえば森山多吉郎は外國奉行支配調役に、堀達之助は開成所教授に出世しているときに、彼は「揚り屋入り」をしなければならなかつたような事情が、自分みずからは、なかなか上海密航など、思いもよらぬ環境におかれて、ひとり身をもだえていたのであろう。



底本:『世界文化』4月号 第4巻第4号、世界文化社
   1949(昭和24)年4月1日発行
入力:uakira
校正:しだひろし
xxxx年xx月xx日公開
青空文庫作成ファイル:
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*地名


[マレーシア]
ペナン Penang・彼南 マレー半島の西側、マラッカ海峡北口にある小島。1786年イギリス植民地となる。現在マレーシアに属する。檳榔嶼・檳城。
マラッカ Malacca マレーシアの一州。マレー半島の南西部に位置する。同名の市はマラッカ川河口にまたがる港。中継貿易により栄え、15世紀にイスラム化したが、1511年ポルトガルの、1641年オランダの、1795年からイギリスの支配下に入った。1957年マラヤ連邦に加わり、1963年マレーシアの州となる。ムラカ。
[中国]
上海 シャンハイ (Shanghai)中国長江の河口近く、黄浦江下流部にある中央政府直轄の大都市。1842年南京条約によって開港して以来、外国資本の中国進出の拠点で、金融・貿易・商工業の中心地。
香港 ホンコン (Xianggang; Hong Kong)中国本土の南にある特別行政区。香港島・九竜半島・付属諸島から成る。アヘン戦争の後、1842年香港島、60年に九竜半島南端部がイギリスに割譲され、98年九竜半島の大部分と付属諸島とから成る新界が租借地となった。深水の良港で、自由貿易地域として繁栄。1997年中国に返還。
広東 カントン (1) (Guangdong)中国南部の省。省都は広州。面積約18万平方キロメートル。別称、粤(えつ)。華僑の出身地として古くから知られ、海外との経済交流が盛ん。民国時代には孫文ら革命派の根拠地として、北方軍閥に対立する革命勢力の拠点となった。(2) (Canton)広州の別称。
英華学堂 えいか がくどう? 一八一八年、モリソンによってマラッカに創立された学校と印刷所。サミュエル・ダイアが関係。
マカオ 澳門 (Aomen; Macao)中国南部、広東湾口にあるマカオ半島と2島から成る特別行政区。古くは濠鏡澳・阿媽港とも書き、日本では天川(あまかわ)と称した。1557年以来ポルトガル人の居住を許し、1887年割譲。中華人民共和国成立後もイギリス領香港と並んで特殊な地位を占めたが、1999年中国へ返還。
舟山島 しゅうざんとう 中国浙江省の北東部の杭州湾沖にある舟山群島のうちの最大の島。島々はいずれも険阻で、山頂は鋭くとがっている。潮流が強い。東シナ海を航行する船舶の中継・避難所として重要(外国コ)。
美華書館 びか しょかん The American Presbyterian Mission Press アメリカ長老会が中国に設立。出版・印刷機構。1844年、マカオに花華聖経書房を設立。リチャード・コール(谷立)が責任者となり、2名の印刷工と1名の植字工がいた。1854年、花華聖経書房は浙江省寧波に移転。1858年、アメリカ長老会は印刷技術に詳しい宣教師ウィリアム・ギャンブル(姜別利)を派遣して、花華聖経書房を担当させた。花華聖経書房は美華書館と改名し、1860年12月に寧波から上海小東門に移転。さらに1874年には小東門から北京路に移転。
寧波 ニンポー/ねいは (Ningbo)中国浙江省北東部の沿海港湾都市。1842年南京条約により開港。遣唐使派遣時より日中交通の要地として知られた。人口156万7千(2000)。
揚子江 ようすこう (Yanzi Jiang)長江の通称。本来は揚州付近の局部的名称。
ヴィクトリア市 香港が1842年にイギリスの植民地となったのち、最初に都市化した居住地の1つである。当初はクイーンズタウン (Queenstown) と呼ばれたが、すぐにヴィクトリア・シティの名で知られるようになった。ほとんどすべての政府機関の本部が置かれているため、イギリスの植民地時代には、しばしば香港の首都とも呼ばれた。
上海道台
呉淞 ごしょう 上海市北部、揚浦区の臨海工業地区。上海の中心より北20km、黄浦江河口左岸に位置。上海事変・日中戦争での激戦地で、呉淞砲台がある(外国コ)。
呉淞河 → 呉淞江か
呉淞江 ごしょうこう 中国、華東地区東部の川。江蘇省南部の太湖に源を発し、東流して上海に至り、黄浦江と合して長江に注ぐ。別称、蘇州河。長さ58.5km。
上海伝道病院
墨海書館 ぼっかい しょかん 墨海活版所。上海。1864年ごろ印刷部門を閉鎖。印刷機の動力に牛を使う。(タイポ p.33)
上海工部局墓地
工部局 こうぶきょく 清末以降、上海・天津などの外国租界にあった行政機関。居留各国人および中国人の代表によって組織する市参事会の事務機構。その成立当時は特に租界設定の土木事業に重点を置いた。
東インド会社 アジア地域との貿易独占権を与えられた特許会社。重商主義帝国下、特に貿易差額主義に基づく経済活動に極めて大きな役割を果たした。なお、ここで言う「インド」とはヨーロッパ、地中海沿岸地方以外の地域をさす。同様の特許会社に新世界との交易を行った西インド会社がある。各国ごとに設立され、オランダ東インド会社は世界初の株式会社としても有名。
イギリス東インド会社  1600-1874 1600年に設立された合本会社。貿易商人の組合に近い性格を持っていたレヴァント会社、モスコー会社などの制規会社とは異なり、自前の従業員を持ち、貿易を行った。ロンドンに本社を置く。
オランダ東インド会社 1602年3月オランダで設立され、世界初の株式会社といわれる。会社といっても商業活動のみでなく、条約の締結権・軍隊の交戦権・植民地経営権など喜望峰以東における諸種の特権を与えられ、アジアでの交易や植民に従事し、一大海上帝国を築いた。本社はアムステルダムに設置。18世紀末に政府により解散させられた。
ロンドン・ミッショナリー・ソサエティ London Missionary Society ロンドン伝道協会。海外の非キリスト教徒に福音をもたらすことを目的に、1795年ロンドンで設立された組織。おもな後援者は会衆派教会であった。J. クックの太平洋探険を契機に太平洋地区を最初の宣教の場に選ぶ(『世界大百科事典』平凡社、2007)。
[インド]
セラムポール → セランポールか
セランポール Serampore インド東部、西ベンガル州中部の町。カルカッタの北19km。フーグリ川下流右岸に位置。旧称、スリランプール Srirampore。
[シンガポール] Singapore・新嘉坡 (梵語で「獅子の都」の意) (1) マレー半島の最南端の島。その属島と共に構成する共和国。1819年イギリス植民地、1963年イギリスから独立し、マレーシア連邦の一州になったが、65年分離独立。住民の約4分の3が華人。面積618平方キロメートル。人口424万(2004)。(2) (1) の首都。シンガポール島南岸にあり、交通・軍事上の要地。また工業・金融の中心。東南アジアの貿易上の拠点として発展。もとイギリスの極東における根拠地。星港。
[イギリス]
ロンドン London イギリス連合王国の首都。イングランド南東部、テムズ川にまたがる大都市。
Sheffield, Scientibis〓, School
シェフィールド Sheffield イギリス、イングランド北部の都市。ヨークシャー地方南部に位置し、鉄鋼業のほか刃物製造が盛ん。人口53万(1996)。
Yale callege → イェール大学
イェール大学 Yale University アメリカのコネチカット州にある私立大学。1701年創立。18年後援者イェール(Elihu Yale1649〜1721)の名を記念してイェール‐カレッジに改称。1887年大学となる。エール大学。
マンチェスター Manchester イギリス、イングランド北西部のランカシャー地方にある商工業都市。産業革命の発祥地で、かつては綿工業の中心地。人口43万1千(1996)。
[フランス]
リオン → リヨンか
リヨン Lyon フランス南東部、ローヌ・ソーヌ両川合流点にある都市。ローマ時代に起こり、史跡は世界遺産。大聖堂・大司教館・大学などがある。繊維・機械などの工業が発達。人口44万5千(1999)。
[アメリカ]
ペンシルバニア Pennsylvania ペンシルヴァニア。アメリカ合衆国北東部、大西洋岸から内陸にのびる州。独立13州の一つ。州西部は19世紀以来、石炭や製鉄産業の中心。州都ハリスバーグ。
カリフォルニア California アメリカ合衆国太平洋岸の州。州都サクラメント。経済規模は合衆国の州のうち最大。農業のほか電子工業・航空宇宙産業が盛ん。加州。
ニューヨーク New York・紐育 (1) アメリカ合衆国北東部、大西洋岸の州。独立13州の一つ。州都オルバニー。(2) ニューヨーク州の都市。ハドソン河口に位置する世界屈指の大都市。また、世界経済上の大中心地で、エンパイア‐ステート‐ビルディング・国連本部など多くの高層建築(摩天楼)がそびえる。オランダ人の入植が起源。人口800万8千(2000)。
[カナダ]
コロンビア州 → ブリティッシュ‐コロンビア
ブリティッシュ‐コロンビア British Columbia カナダ太平洋岸の州。山岳地帯で、針葉樹林が広がり林業が産業の中心。国立公園が多く観光業も盛ん。州都ヴィクトリア。
クインシャイロット島 → クイーンシャーロット諸島
クイーンシャーロット諸島 The Queen Charlotte Islands カナダ、ブリティッシュコロンビア州の太平洋岸沖の群島。鋭い逆三角形をなしていて、北のグレアム島、南のモレスビー島の2つの大きな島をはじめとして、大小約150の島々からなる。ほぼ北緯52度から54度、西経131度から133度に位置しており、北端は州本土よりアラスカ州の方に近い。イギリス国王ジョージ3世の王妃シャーロットにちなんで名付けられた。先住民からはハイダ・グワイ(Haida Gwaii)と呼ばれる。行政上はブリティッシュコロンビア州スキーナ・クイーンシャーロット地域に属する。
[キューバ]
ハバナ Havana キューバ共和国の首都。キューバ島北西部、メキシコ湾の良港。砂糖・タバコ産業の発展とともに繁栄し、植民地期の白い街並が残る美しい都市。旧市街などが世界遺産。人口220万2千(2003)。
[オーストラリア]
シドニー Sydney オーストラリア最大の都市。同国の南東部にある貿易港。ニュー‐サウス‐ウェールズ州の州都。人口371万3千(1993)。
字林洋行 ノース・チャイナ・ヘラルド社。
アメリカ伝道協会
伝道協会 でんどう きょうかい キリスト教伝道のため、宣教師派遣の目的で設立された団体。
ロッセル商事会社
軍艦アギンコート
貿易船千歳丸
健順丸
幕府船ガンジス号
フランス船アルヘー号
モリソン号
浜松藩 はままつはん 遠江国の浜松宿(現在の静岡県浜松市)の浜松城を居城とした。
長州藩 ちょうしゅうはん 江戸時代に周防国と長門国を領国とした外様大名・毛利氏を藩主とする藩。家格は国主・大広間詰。
柳川藩 やながわはん 柳河藩。筑後国に存在した藩。藩庁は柳川城(現福岡県柳川市)。当初は筑後一国を支配する大藩であったが、のち、筑後南部のみを領有する中藩となった。
熊本藩 くまもとはん 肥後国(熊本県)の球磨郡・天草郡を除く地域と豊後国(大分県)の一部(鶴崎・佐賀関等)を領有した藩。肥後藩とも呼ばれる。藩庁は熊本城(熊本市)に置かれた。
芸州藩 → 広島藩
広島藩 ひろしまはん 安芸国一国と備後国の半分を領有した藩で、現在の広島県の大部分にあたる。藩庁は広島城(広島市)に置かれた。芸州藩(または安芸藩)と呼ばれることも多い。
薩藩 → 薩摩藩
薩摩藩 さつまはん 江戸時代に薩摩・大隅の2ヶ国、日向国諸県郡、南西諸島(大東諸島及び尖閣諸島を除く)を領有した藩。現在の鹿児島県全域と宮崎県の南西部を領有したほか、沖縄県の大部分を服属させた。
土佐藩 とさはん 土佐国(現在の高知県)一円を領有した外様藩の通称。正称は高知藩。藩庁は高知城(高知市)にあった。江戸城内控えは大広間詰。
梁川藩 やながわはん 江戸時代の一時期、陸奥国(後の岩代国)伊達郡に存した藩。現在の福島県伊達市梁川町鶴ヶ岡の梁川城跡に陣屋を置いた。当初は尾張藩徳川家の支藩。後には一時、松前氏が入封した。
[江戸、東京]
浅草材木町
開成所 かいせいじょ 江戸幕府が設立したオランダ・イギリス・フランス・ドイツ・ロシアなどの洋学の研究・教育機関。1863年(文久3)洋書調所を改称したもの。68年(明治1)新政府により開成学校として再興され、69年大学南校、71年南校と改称、73年再び開成学校と称。77年東京大学の一部となる。
蕃書調所 ばんしょ しらべしょ 1856年(安政3)江戸幕府が九段坂下に創立した洋学の教育研究機関。洋学の教授・統制、洋書の翻訳に当たる。翌年開校、62年(文久2)一橋門外に移転、洋書調所と改称、63年さらに開成所と改称。
下谷 したや 東京都台東区の一地区。もと東京市35区の一つ。
芝 しば 東京都港区の一地区。もと東京市35区の一つ。古くは品川沖を望む東海道の景勝の地。
白金 しろかね 東京都港区の地名。狭義には現在の住居表示の町名(白金一〜六丁目)を指す。広義には現在の港区白金に白金台・高輪の一部を含めた旧芝白金地区全域を指すことがある。
三光町 さんこうちょう 現、港区白金。
[相州] そうしゅう 相模国の別称。
小田原 おだわら 神奈川県南西部の市。古来箱根越え東麓の要駅。戦国時代は北条氏の本拠地として栄えた。もと大久保氏11万石の城下町。かまぼこなどの水産加工、木工業が盛ん。人口19万9千。
天坪村 → 雨坪村か
雨坪村 あまつぼむら 現、神奈川県南足柄市。
[和歌山県]
日高郡 ひだかぐん 廃藩置県以前に成立した和歌山県の郡。
御坊東町 ごぼうひがしちょう?


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)、『コンサイス外国地名事典』第三版(三省堂、1998.4)、『世界大百科事典』(平凡社、2007)。




*年表


一八一五 トムス、マカオの東インド会社事務所においてモリソンの辞書印刷のため漢字の金属活字を発明。
一八一七 辞書第一巻が出版。
一八二〇ごろ フリードリッヒ・ケーニッヒ、シリンダー・プレスを発明。
一八二二 六月二日 ミルン、没。
一八二七 ダイア、ペナンへ来る。
一八三〇 ブリッジマン、広東へ来て『支那叢報』を創刊。
一八三〇 ロバート・ウィリアムス、広東へ来る。
一八三一(天保二) 音吉たち漂流。
一八三二(天保三) ペナン漢字活字の誕生。
一八三三 ダイア、一万四千字の字母を作り、小型のものも製造。
一八三三 『和英語彙』発行。
一八三五 メドハースト、モリソンの没後を受けて広東に来る。
一八三五(天保六) 漂流民、尾張の船乗り音吉・久吉・岩吉ほか数人、また肥後の漁民庄蔵・寿三郎・力松ら「モリソン号」で送還されるも追いもどされる。
一八三八 W・ロカート、広東にくる。
一八三九 医者で宣教師のA・ホブソン、マカオに着き、まもなく広東へきてブリッジマンと同居。
一八三九 ファラデーの法則、完成。
一八三九 支那政府、アヘン密輸へ抵抗。以来、イギリス艦隊の舟山列島占拠となり、上海城攻略。
一八四〇 ロカート、英軍が占領していた舟山島に入る。
一八四一 スエズ運河が開通。
一八四二 英華学堂、香港に移転。
一八四二 ダイア、没。
一八四二 舟山島で待機していたロカート、開港の第一日に上海へ入って布教と医療の活動をはじめる。
一八四二 南京条約、成立。イギリス人二十五人、みな上海城内に住む。
一八四二 香港停泊中の軍艦アギンコートの乗組員が半数まで死亡。
一八四三 香港駐屯軍一五二六名の一年内入院度数七八九二回。
一八四四 ローリィ、パリで作られた漢字字母を取り寄せ、支那へ向けて発送。コールを主任としてマカオに印刷所を起こす。美華書館、始まる。
一八四五 美華書館、寧波へ移転拡張。ダイアの活字を採用。
一八四五 香港へ入港した商船の数一六八隻。
一八四五 上海道台と初代英領事との間に土地章程が決められて、上海最初の外人租借地ができる。当時の面積は八三〇畝。
一八四六 上海にアメリカ船入港。
一八四七(弘化四) 「開国勧告使節」オランダ軍艦、来訪。
一八四八 美華書館、一日平均一三・三一四1/2ページを印刷。
一八四八 上海の外人租借地、二八二〇畝。二代目領事オールコック、拡張要求を貫徹。
一八四八 上海にフランス船入港。
一八五〇(嘉永三) 香港版『遐迩貫珍』。
一八五一、二年ごろ(嘉永末年ごろ) 本木昌造、日本長崎からオランダへ日本文字(漢字および仮名)の種書を送る。
一八五三 六月 ゴンチャロフ『日本渡航記』に香港と上海を記録。
一八五三 香港からカリフォルニア、オーストラリア等への移民総数は一万三五〇九人。
一八五三 一一月 ゴンチャロフ、上海に上陸。
一八五四(安政元) 音吉、イギリス軍艦に通弁として乗り組み長崎に来て、当時の蘭学書生・福沢諭吉と対面。
一八五五 美華書館、職工九名。
一八五五 この年まで英国政府が支出する毎年の行政費は二万ポンド。軍事費は二十万ポンド。
一八五五(安政二) 肥後の力松、露土戦争の余波で、プーチャチンの艦隊を追撃してきたイギリス軍艦が函館へ侵入したとき、艦付き通弁として幕府役人との通弁にあたる。
一八五六 ホブソン、ロカートの病院の後継者となって『西医略説』以下二種の鉛の漢字活字による書物を上海で発行。
一八五五〜一八五八(安政二〜五) 昌造、安政開港の談判に奔走したあげく、その「痛烈な開国論者」であったため入獄か。
一八五八(安政五) 寧波版『中外新報』。
一八五九 コール、ダイアのあと一万四千字を完成。
一八五九 ギャンブル、来任して改良型の字母や印刷機をもたらす。
一八六〇 一二月 ギャンブル、印刷所を上海に移転して拡充。漢字活字に電胎字母を採用。
一八六〇(万延元) 遣米使節。
一八六〇(万延元) 大鳥圭介、開成所にて『斯氏築城典刑』発行。
一八六一(文久元) 遣欧使節。
一八六一 字林洋行(ノース・チャイナ・ヘラルド社)『上海新報』を創刊。主筆、林楽知。
一八六二 上海美華書館、拡張移転。ギャンブル、アジアではじめてシリンダープレスを採用。
一八六二(文久二) 中牟田、『上海新報』を買ってもどる。
一八六二(文久二) 日本幕府、はじめて貿易船千歳丸を上海へ入港。高杉、中牟田、五代、名倉予可人など乗船。
一八六二 五月二〇日 高杉日記。
一八六二 五月二一日 高杉日記。
一八六二 六月七日付 『字林西報』。千歳丸、上海到着後五日目。
一八六二(文久二) 音吉はのちに外国人を妻とし上海に住んでいて、中牟田倉之助が人づてに聞いて訪ねて行ったが、あいにく会うことができず。
一八六二(文久二) 堀達之助、先にペリー来航当時通詞として活動。
一八六三 美華書館、年産一四〇〇万ページ。
一八六三 イギリスの一商務官が報告中に香港の繁栄を謳歌。
一八六四(元治元) 安田老山、八戸喜三郎、長井雲坪ら上海へ渡航。
一八六四(元治元) 吟香、ジョゼフ彦(浜田彦太郎)らと“新聞紙”を発行。
一八六四(元治元) 「開成所稽古規則覚え書き」改正。
一八六六 吟香ら上海に来たり、美華書館で辞書を印刷。
一八六六 香港住民の死亡率が二%。
一八六六(慶応二) 幕府、一般に海外渡航を免許。
一八六六(慶応二) 曽我祐準、砲台を見上げて「転た感慨にたえず」と日記に記録。
一八六六(慶応二)一〇月ごろ 岸田吟香、ヘボン博士夫妻に伴われて上海の美華書館に来る。
一八六七(慶応三)一月二三日付 吟香、上海から日本の川上冬崖あてに手紙。
一八六七(慶応三) 第三回目幕府船ガンジス号、上海へ渡航。高橋由一ら多数乗船。同日、横浜を出帆したフランス船アルヘー号に、パリの万国博覧会へ派遣される幕府代表者徳川昭武の一行、箕作貞一郎や渋沢栄一、博覧会出品人日本代表清水卯三郎など多数が寄港
一八六七(慶応三) 三月二一日 吟香、上海日記。
一八六七(慶応三) 三月二四日 吟香、日記。
一八六八 香港へ入港した商船の数二万七五〇〇隻。
一八六八(慶応四)閏四月三日 前田正名、上海へ上陸。
一八六八(慶応四)閏四月 『美国新聞紙』創刊。第六集(東京)。
一八六八(慶応四/明治元) 上海に「田代屋」という長崎出の日本商人があって、日本婦女子のための小間物を売る。
一八六八(明治元) 吟香、二度目に『横浜新報もしほ草』を起こす。
一八六九 ギャンブル、日本へ来て本木昌造に協力。
一八六九(明治二)二月 前田正名ら「サツマ辞書」をかかえて神戸に上陸。
一八六九 一月 薩長土肥が先んじて藩籍奉還。
一八六九 四月二一日 故国では置県制がしかれる。
一八六九 五月五日 前田正名「十枚だけ土産として差遣候事」と、十ページのゲラ刷をもらって中途帰国。
一八六九 一〇月 前田正名、再渡。
一八七〇(明治三) 工部局人口統計、当時の上海在住日本人合計二十九名、そのうち二十二名までが「船員」。女性は一名もない。
一八七二 『申報』創刊、『上海新報』廃刊。
一八七三(明治六) 三月二〇日 ブラムゼン、ヘボン辞書を批評。美華書館主マティーア、それに返答。
一八八六ころ ギャンブル、ペンシルバニア某地で死去。
一八九六 三月二日 カキガワ・パリサー没、行年四十七。
一九〇九 六月二五日 島谷カネ没。
一九一一 一〇月九日 マリア・ハシモト没、行年七十三。
一九三七(昭和一二)二月号 前田三介編『社会および国家』。
一九三七(昭和一二)四月号 前田正名「上海日記」(前田三介『社会および国家』所載)。
一九四一(昭和一六) 土方定一、著『近代日本洋画史』。
昭和十七年暮れ 徳永、米沢秀夫あてに手紙を出す。
一九四三(昭和一八)二月 徳永、下谷の石井研堂を訪ねる。研堂、この冬に没する。
一九四三(昭和一八) 徳永あて上海の米沢から手紙。
一九四四(昭和一九)一〇月 徳永、本稿を下書き。


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)。



*人物一覧

(人名、および組織・団体名・神名)

中牟田倉之助 なかむた くらのすけ 1837-1916 海軍軍人。海軍大学校長、枢密顧問官、子爵。金丸孫七郎の次男。中牟田家の養子となる。藩主鍋島直正の推薦で安政3年(1856)、20歳で長崎海軍伝習所へ入所し、卒業後には佐賀藩海軍方助役を務めて海軍力の発展を促す。著『上海行日記』。
ダイア → サミュエル・ダイア
サミュエル・ダイア Dyer, Samuel 1804-1843 ダイアー。イギリスの宣教師。ロンドン伝道会よりマラッカに派遣され、印刷活字鋳造に従事。マカオで客死(西レ)。
溝口靖夫 〓 著『東洋文化史上におけるキリスト教』。
ミルン
ジョン・ミルン John Milne 1850-1913 イギリス、リバプール出身の鉱山技師、地震学者、人類学者、考古学者。東京帝国大学名誉教授。明治9年(1876年)工部省工学寮教師に招かれて来日。明治28年(1895年)トネ夫人と共にイギリスに帰国。
ミルン (1) Milne, William 1785-1822 イギリスのロンドン伝道会宣教師。マラッカに英華学院を設立し(1820)、その校長となる(同〜1822)。伝道のかたわら、モリソンと分担して旧約聖書の中国語訳を完成(1819)(西レ)。
ミルン (2) Milne, William Charles 1815-1863 イギリスのロンドン伝道会宣教師。中国に派遣され(1837-1843)、再び中国に渡り(1846〜1852)、新旧約聖書翻訳に従事(西レ)。
モリソン → ロバート・モリソン
ロバート・モリソン Morrison, Robert 1782-1834 イギリス人。博士。一八一八年マラッカに英華学堂を創立。中国人にキリスト教と科学知識を普及する学校で、キリスト新教徒が東洋で最初につくった印刷工場が付属する。学長。/イギリスの宣教師。中国学者。プロスタンティズムの中国宣教の基礎を作った。著『シナ語文法』(西レ)。
W・H・メドハースト Medhurst, Walter Henry 1796-1857 イギリスの組合教会伝道師。中国におもむき聖書の中国語現行版への改訳に助力した(西レ)。/イギリス人。印刷工。作『和英語彙』。
ブリッジマン Bridgman, Elijah Coleman 1801-1861 プロテスタント会衆派宣教師。広東で布教(西レ)。/アメリカ人。1832年、広東で『支那叢報』を発刊し、これを二十年間継続。
ロバート・ウィリアムス → ロバート・ウィリアムズ
ロバート・ウィリアムズ → Williams, Samuel Wells か
Williams, Samuel Wells 1812-1884 アメリカの宣教師。シナ学者。広東で宣教活動を行う。ペリーの通訳として来日(西レ)。/モリソンの息子。広東の『支那叢報』印刷所の監督となり、のち、マカオの東インド会社印刷所の監督者。ペリーが江戸湾へやってきたとき、通訳官として日本へ上陸。
W・ロカート 〓 医師。ロンドン・ミッショナリー・ソサエティ所属。マカオに伝道病院を開く。
A・ホブソン → Hobson, Benjamin か
Hobson, Benjamin 1816-1873 イギリスの医療宣教師。主著『全体新論』(1851)は、初めて中国に解剖学を伝えたといわれる。/著『全体新論』『博物新編』(以上広東で発行)『西医略説』『婦嬰新説』『内科新説』(以上上海で発行)。
米沢秀夫 よねざわ ひでお 1905-? 昭和期の中国経済研究家(人レ)。著『上海史話』。
トムス P. P. Thoms マカオの東インド会社事務所。
リチャード・コール Richard, Cole 北米長老会印刷所からロンドン伝道会印刷所英華書院に転じ、ダイア没後、一号活字の改刻と新刻を進め、1851年には本を組むのに必要な約4700字にする(タイポ p.32、小宮山)
ウォーター・ローリィ Water, Rowrie アメリカのミッション。パリで作られた漢字の字母を取り寄せ支那へ向けて発送し、同年、コールを主任としてマカオに印刷所を起こさせる。 → ウォルター・ローリーか
ウォルター・ローリー Lowrie, Walter Macon 1819-1847 アメリカの長老教会宣教師。マカオに到着し、中国各地に伝道して同地に没(西レ)。
Onr(?)
ア・ヨーク A. yuk 支那少年。
ギャンブル William, Gamble → ガンブル
ガンブル William Gamble ?-1886 アメリカ人技師。1869(明治二)上海から帰国の途次、長崎に寄港。/アメリカの宣教師。長老会の海外伝道局経営の印刷所監督として寧波(ニンポー)に渡り(1858)、華花聖経書房に赴任し、電胎法による漢字活字の製作改良に成功。ついで上海に移って美華書館と称し(61)S.R.ブラウンの《日本口語対話篇》とヘボンの《和英語林集成》=薩摩辞書とよばれる和訳英辞書等を印刷した。帰国(69)の途中長崎に立寄り、フルベッキの紹介で本木昌造およびその社中の人々に活版技術を指導し、日本の活版印刷発達の基を築いた(岩波西洋人名、西レ)。
本木昌造 もとき しょうぞう 1824-1875 幕末・明治の蘭学者。日本の活版印刷の創始者。長崎に生まれ、母方の本木家を継ぐ。蘭学を修め、造船術・活版印刷術を研究。維新後、アメリカ人ガンブルについて字母鋳造を習得、長崎に活版所を起こした。
ヘボン James Curtis Hepburn 1815-1911 アメリカ長老派教会宣教師・医師。1859年(安政6)来日、医療・伝道のかたわら、最初の和英・英和辞典(和英語林集成)を完成、ヘボン式ローマ字を創始。明治学院を創立。92年(明治25)帰国。日本名、平文。ヘプバーン。
吟香 → 岸田吟香
岸田吟香 きしだ ぎんこう 1833-1905 新聞記者・事業家。名は銀次。美作出身。ヘボンの「和英語林集成」編纂に協力。後に東京日日新聞編集に従事し、また、目薬「精�V水」を販売。訓盲院を開設。東亜同文会などの創設に尽力。
川上冬崖 かわかみ とうがい 1827-1881 幕末・明治初期の洋画家。信州松代藩生れ。名は寛。初め南画を学び、のち蕃書調所の画学局で洋画を研究。明治初期、私塾の聴香読画館を起こす。また製図法の先駆者。
土方定一 ひじかた ていいち 1904-1980 美術評論家・美術史家。大垣市生れ。東大卒。神奈川県立近代美術館館長。著「近代日本洋画史」「ブリューゲル」など。
林楽知 Young, L, Allen
嘉平 → 木村嘉平
木村嘉平 きむら かへい 1823-1886 江戸神田小柳町に住む。代々彫刻師。安政年間に島津斉彬に頼まれて電胎法による活字字母の製作をおこなう。/木版印刷師。欧文活字を作製(人物レ)。
フランクリン Benjamin Franklin 1706-1790 アメリカの政治家・文筆家・科学者。印刷事業を営み、公共事業に尽くした。理化学に興味を持ち、雷と電気とが同一であることを立証し、避雷針を発明。また、独立宣言起草委員の一人で、合衆国憲法制定会議にも参与。自叙伝は有名。
フリードリッヒ・ケーニッヒ Friedrich Konig 1774-1833 シリンダー式印刷機を完成。ドイツの印刷技術者。1811年、蒸気機関を動力とする輪転式印刷機を発明。印刷技術に大きな革新をもたらした。
富二 → 平野富二
平野富二 ひらの とみじ 1846-1892 長崎生まれ。本木の協力者。文久元年飽の浦にあった幕府の長崎製鉄所機関手見習を仰せ付けられ、本木昌造に師事してチャーチル号機関手となる。明治2、長崎小菅造船所所長。翌年長崎製鉄所所長。明治5年築地活版所を創立。明治9、石川島に民間造船所を創設。演説中に倒れ、没する。享年47。(幕末維新・日本史広辞典・日本人名)
高杉晋作 たかすぎ しんさく 1839-1867 幕末の志士。長州藩士。名は春風、字は暢夫、号は東行。変名、谷梅之助。久坂玄瑞とともに松下村塾の双璧。江戸に遊学。藩校明倫館都講。藩命で上海を視察。この頃より攘夷論の急先鋒。帰藩後、奇兵隊を組織。四国艦隊下関砲撃事件では和議の交渉に当たる。のち保守派(俗論党)に藩政を握られたが、これを破って藩論を倒幕に統一。1866年(慶応2)第2次長州征討の幕府軍を潰敗させた。著『游清五録』。
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ゴンチャロフ Ivan A. Goncharov 1812-1891 ゴンチャローフ。ロシア遣日使節の秘書。著『日本渡航記』。ロシアの小説家。地主貴族の生活と心理を克明に描写。1853年(嘉永6)プチャーチン提督に随行して日本に来航。小説「オブローモフ」「断崖」、紀行「フリゲート艦パルラダ号」(「日本渡航記」はその一部分)など。
曽我祐準 そが すけのり 1844-1935 陸軍軍人、華族、政治家。陸軍中将、子爵。柳河藩士・曾我祐興の次男。長崎で砲術を学び、イギリス商人のトーマス・ブレーク・グラバーの援助で上海・香港・シンガポールを航海し、航海術を学んだ。著『曽我祐準自叙伝』。
井上満 いのうえ みつる 1900-1959 ロシア文学者、翻訳家。福岡県久留米市生まれ。1924年ハルピン日露協会学校卒、翌年上京し文筆活動に入り、社会科学文献を翻訳。1930年ソ連大使館に勤務、ロシア事情の紹介などを行う。訳『日本渡航記』『日本幽囚記』など。
オールコック → オルコック
オルコック Rutherford Alcock 1809-1897 イギリスの外交官。中国各地の領事を経て、日本駐在の総領事・初代公使となり、幕末の混乱した時代に活躍。著「大君の都」。オールコック。
カニングハム 〓 アメリカ領事。ロッセル商事会社の上海代表者。
プーチャチン → プチャーチン
プチャーチン Evfimii Vasil'evich Putyatin 1804-1883 ロシアの提督。1853年(嘉永6)長崎に来航。55年2月(安政元年12月)日露和親条約、58年日露修好通商条約を締結。また、伊豆戸田で帆船を建造、洋式造船技術を初めて日本に伝えた。
ペリー Matthew Calbraith Perry 1794-1858 アメリカの海軍軍人。1853年7月(嘉永6年6月)日本を開港させるため東インド艦隊を率いて浦賀に来航、大統領の親書を幕府に提出。翌年江戸湾に再航、横浜で日米和親条約を結ぶ。後に下田・箱館に回航。帰国後「日本遠征記」3巻を刊行。ペルリ。漢字名、彼理。
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沖田一 〓 著『滬上史談』。
福沢諭吉 ふくざわ ゆきち 1834-1901 思想家・教育家。豊前中津藩士の子。緒方洪庵に蘭学を学び、江戸に洋学塾を開く。幕府に用いられ、その使節に随行して3回欧米に渡る。維新後は、政府に仕えず民間で活動、1868年(慶応4)塾を慶応義塾と改名。明六社にも参加。82年(明治15)「時事新報」を創刊。独立自尊と実学を鼓吹。のち脱亜入欧・官民調和を唱える。著「西洋事情」「世界国尽」「学問のすゝめ」「文明論之概略」「脱亜論」「福翁自伝」など。
五代 → 五代友厚か
五代友厚 ごだい ともあつ 1835-1885 明治初期の実業家。薩摩藩士。維新後、外国事務局判事などののち、財界に入り政商として活躍。大阪で造船・紡績・鉱山・製藍・製銅などの業を興し、大阪株式取引所・大阪商法会議所(のち大阪商工会議所)などの創立に尽力。
名倉予可人 なぐら あなと 1822-1901 兵学者。著書に『海外日録』などの海外渡航記や『遠江紀行』などの紀行文がある(人レ)。/浜松藩。
森山多吉郎 もりやま たきちろう → 森山栄之助
森山栄之助 もりやま えいのすけ 1820-1871 多吉郎。大通詞。外国通弁頭取。次席大通詞過人。長崎生まれ。
高橋作之助 → 高橋由一
高橋由一 たかはし ゆいち 1828-1894 明治初期の代表的洋画家。江戸生れ。川上冬崖に師事、ワーグマンの指導を受け、私塾の天絵楼を創立。独自のリアリズムを確立。作「花魁」「鮭」など。
徳川昭武 とくがわ あきたけ 1853-1910 最後の水戸藩主。徳川斉昭の18男。三卿の清水家を相続し、1867年(慶応3)パリの万国博覧会に将軍慶喜の名代として参加。帰国後、生家を相続。
箕作貞一郎 → 箕作阮甫か
箕作阮甫 みつくり げんぽ 1799-1863 幕末の蘭学者。津山藩医。江戸に出て宇田川榛斎に師事。幕府天文方の翻訳掛(蕃書和解御用)。蕃書調所教授。安政五カ国条約締結に尽力。著訳「和蘭文典」「外科必読」「八紘通誌」「水蒸船説略」など。
渋沢栄一 しぶさわ えいいち 1840-1931 実業家。青淵と号。武州血洗島村(埼玉県深谷市)の豪農の子。初め幕府に仕え、明治維新後、大蔵省に出仕。辞職後、第一国立銀行を経営、製紙・紡績・保険・運輸・鉄道など多くの企業設立に関与、財界の大御所として活躍。引退後は社会事業・教育に尽力。
清水卯三郎 しみず うさぶろう 1829-1910 武蔵国埼玉郡羽生村(現在の羽生市)出身の実業家。母は根岸友山の妹。芳川波山に漢学を学んだ後、箕作阮甫に蘭学を学んだ。1854年(嘉永7年)には筒井政憲の供人として下田でロシア全権のプチャーチンに会いロシア語を学んだ。博覧会出品人日本代表。
伊藤俊助 → 俊輔? 伊藤博文か
伊藤博文 いとう ひろぶみ 1841-1909 明治の政治家。初名は利助、のち俊輔。号、春畝。長州藩士。松下村塾に学ぶ。討幕運動に参加。維新後、藩閥政権内で力を伸ばし、憲法制定の中心となる。首相・枢密院議長・貴族院議長(いずれも初代)を歴任、4度組閣し、日清戦争などにあたる。政友会を創設。1905年(明治38)韓国統監。ハルビンで朝鮮の独立運動家安重根に暗殺された。元老。公爵。
竹添進一郎 たけぞえ しんいちろう 1842-1917 外交官・漢学者。号、井井。肥後天草生れ。朝鮮での壬午軍乱後、弁理公使となり、甲申政変に参画、その敗北後に罷免。のち東大で経書を講じた。著「左氏会箋」。
小林六郎
長尾治策
上野景範 うえの かげのり 1845-1888 外交官。鹿児島県出身。英学に明るく、明治維新後に、ハワイの元年者移民問題などに当たり、駐米・英・墺などの全権公使を歴任。後に元老院議官となった。趣味は油絵。1873年(明治6年)5月、内閣に提議した李氏朝鮮との修好条約締結問題における意見書は、征韓論の端緒となり、明治六年政変を引き起こすこととなる。
中浜万次郎 なかはま まんじろう 1827-1898 ジョン万次郎。幕末・明治の語学者。土佐国の漁夫の次男。1841年(天保12)出漁中に漂流、アメリカ船に救われ米国で教育を受け、51年(嘉永4)帰国。土佐藩、ついで幕府に仕え、翻訳・航海・測量・英語の教授に当たる。のち開成学校教授。
後藤象次郎 → 後藤象二郎
後藤象二郎 ごとう しょうじろう 1838-1897 政治家。土佐藩士。大政奉還運動を起こし、明治維新後、参議。征韓論政変で下野。板垣退助・副島種臣・江藤新平らと民撰議院設立を建白。自由党に参加。大同団結を提唱。のち逓相・農商務相。伯爵。
山口和雄 やまぐち かずお 1907-2000 経済学者。東京大学教授。三井文庫館長。著『幕末貿易史』『日本漁業史』など多数(人レ)。
土佐侯 → 山内容堂か
山内容堂 やまのうち ようどう 1827-1872 幕末の土佐藩主。名は豊信。分家の出。藩政を改革。公武合体に尽力、後藤象二郎の建策を容れて将軍徳川慶喜に大政奉還を建白。維新後、議定。酒を好み、鯨海酔侯と自称。
安田老山 やすだ ろうざん 1830-1883 日本画家。明治初期の日本画の領袖。作品に「山水画」など(人レ)。/美濃。
八戸喜三郎 〓 画家で英語に堪能、のち香港にうつって日本漂民の世話をした。
長井雲坪 ながい うんぺい 1833-1899 文人画家。名は元。通称、元次郎。越後の人。長崎に遊学。1867年(慶応3)密かに上海に渡り、のち信濃に隠棲した。
前田正名 まえだ まさな 1850-1921 鹿児島生まれ。明治の官僚。北海道阿寒町に財団法人前田一歩園の基を設立し、阿寒湖周辺の森林を購入し保護を図る。父は薩摩藩医前田善安の6男。兄に前田正穀(献吉)がいる。明治期における殖産興業政策の実践者としてしられ、「布衣の農相」とも呼ばれた。妻は大久保利通の姪・いち。
弘光 → 八戸善三郎? 八戸喜三郎?
曽我弥一
曽我準造 → 曽我祐準
ガラバ → グラバーか
トーマス・ブレーク・グラバー Thomas Blake Glover 1838-1911 スコットランド・アバディーンシャイア生まれ。商人。明治以降は高島炭鉱の経営に当たる。もともと武器商人であるが、蒸気機関車の試走、ドック建設、炭鉱開発など日本の近代化に果たした役割は大きい。造船の街・長崎の基礎をつくった。
田代屋 長崎出の日本商人。
茂助、利七 アメリカ飛脚船乗組員。
徳助 江戸浅草材木町。
七之丞 相州小田原在天坪村。
マリア・ハシモト
橋本仕 和歌山県日高郡御坊東町。
島谷カネ 長崎人。
カキガワ・パリサー
肥後の力松 通弁リキ。
尾張の音吉
田保橋潔 たぼはし/たほばし きよし 1897-1945 歴史学者。京城帝国大学教授。朝鮮近現代史および日本近代外交史を研究(人レ)。
ギュッツラフ → ギュツラフ
ギュツラフ Gutzlaff, Karl Friedrich August 1803-1851 ドイツのルター派の牧師。中国で布教活動。初の日本語訳ヨハネ福音書『約翰福音之伝』を刊行(39-40頃)。主著 "Bericht einer Reise von China nach England"(1851)。(西レ)/アーモスト卿の案内人。
渡辺華山 → 渡辺崋山
渡辺崋山 わたなべ かざん 1793-1841 幕末の文人画家・洋学者。名は定静。通称、登。別号、全楽堂。三河田原藩の家老。儒学を佐藤一斎に学び、蘭学にも通じた。谷文晁の門下に学び、西洋画法を取り入れて独自の様式を完成。鋭い筆致で写実的な肖像画に優れた作品を遺す。高野長英・小関三英らと尚歯会を結成。幕府の攘夷策を責めた「慎機論」を著し、蛮社の獄に連座、郷国に蟄居中に自刃。作「鷹見泉石像」「千山万水図」など。
高野長英 たかの ちょうえい 1804-1850 江戸後期の蘭学者。名は譲、のち長英。陸奥水沢の人。長崎でシーボルトに蘭学を学び、江戸で町医者を開業。渡辺崋山の蘭学研究を助け、「夢物語」を著し幕府の対外政策を批判、1839年(天保10)永牢。獄舎に放火させ脱獄、沢三伯と変名して諸国に潜伏。江戸で自刃。医学・理化学・兵書を多く訳述。
石井研堂 いしい けんどう 1865-1943 明治文化研究家。ジャーナリスト。ライフワークに『明治事物起原』があり、『明治文化全集』の編纂に尽力(人レ)。
岩崎克己 著『前野蘭化』。
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ジョゼフ彦 浜田彦太郎。 → 浜田彦蔵
浜田彦蔵 はまだ ひこぞう 1837-1897 幕末・明治の通訳・貿易商。播州出身。1850年(嘉永3)暴風にあい、漂流して米商船に救助され、米国の市民権を得、ジョセフ=ヒコと改名。幕末の日米外交に活躍、その後、貿易商を営み、また、64年(元治1)横浜で「海外新聞」を発行。アメリカ彦蔵。
堀達之助 ほり たつのすけ 1823-1894 蕃書調所教授。オランダ通詞のち英学者。諱は政徳。長崎生まれ。のち堀儀左衛門政信の養子となる。日米和親条約の翻訳に加わる。安政2年より入牢5年。同6年蕃書調所翻訳方、文久2年洋書調所教授方となる。開成所教授職・函館奉行通詞。明治、函館裁判所参事席文武学校掛、開拓使大主典。5年退職。長崎に帰り、のち大阪に移住。病没72才(国史)。
彦蔵 ひこぞう → 浜田彦蔵か
本間氏
姜先生 きょう? → ギャンブル
大鳥圭介 おおとり けいすけ 1833-1911 幕末・明治期の政治家。播磨出身。蘭学・兵学を学び、幕府に用いられ、歩兵奉行。戊辰戦争では榎本武揚らと箱館五稜郭に拠ったが敗れて帰順。日清戦争勃発の際、清国兼朝鮮公使。男爵。
ブラムゼン
ゼイ・エル・マティーア ギャムブルの後任の美華書館主。 → Mateer, Calvin Wilson か
マティーア Mateer, Calvin Wilson 1836-1908 アメリカの長老教会宣教師。中国に渡り(1863)、芝罘大学を創立(西レ)。
前田三介 〓 著「上海日記」『社会および国家』昭和十二年四月号所載。
前田献吉 まえだ けんきち 1835-1894 正名の兄。前田正穀。/官吏。元老院議官。アメリカに留学。「和訳英辞書」を編纂(人レ)。
高橋新吉 たかはし しんきち 1843-1918 薩摩藩出身。良昭。長崎に遊学して何礼之の元で英学を学ぶ。慶応2年(1866年)に江戸開成所から出された「英和対訳袖珍辞書」を底本として辞書編纂を開始。途中、藩の財政支援とグイド・フルベッキの助力によって明治元年(1868年)に完成。翌年、上海にあった米国長老派教会系の出版社の印刷で「和訳英辞林」の名で刊行。
フェルベッキ → フルベッキ
フルベッキ Guido Herman Fridolin Verbeck 1830-1898 アメリカのオランダ改革派教会宣教師・教育家。オランダ生れ。1859年(安政6)長崎に渡来。維新後政府の顧問をつとめ、ドイツ医学の採用などを建議。明治学院神学教授。ヴァーベック。
英人ホエレー
斉彬 → 島津斉彬
島津斉彬 しまづ なりあきら 1809-1858 江戸末期の薩摩藩主。斉興の子。早くから開国の意見を抱き、殖産興業に力を入れ、藩営工場集成館を設立、洋式の造船・造兵・紡織などの業を興す。
三谷幸吉 みたに こうきち 1886-1941 明治期の植字工。神戸印刷工組合メンバー(社史、人レ)。著『本木・平野詳伝』。
重野鉱之丞 〓 安釈。薩藩の儒者。 → 重野安繹か
重野安繹 しげの やすつぐ 1827-1910 歴史学者。通称、厚之丞。成斎と号。薩摩藩士。昌平黌に学ぶ。維新後、政府の修史事業にあたる。また、東大教授として国史科を設置。星野恒・久米邦武らと近代史学の基礎を作る。
平野義太郎 ひらの よしたろう 1897-1980 マルクス主義法学者、平和運動家。20年間にわたって日本平和委員会会長を務める。平野富二の孫。


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)、『タイポグラフィの基礎』小宮山博史(編)(誠文堂新光社、2010.8)、『人物レファレンス事典』(日外アソシエーツ、2000.7)、『西洋人物レファレンス事典』(日外アソシエーツ)。



*書籍

(書名、雑誌名、論文名、能・狂言・謡曲などの作品名)

『上海行日記』 中牟田倉之助の著。
『上海新報』 一八七二(同治壬申)の刊。
『中外新報』ちゅうがい しんぽう 咸豊4(1854)米国人医師マクワゴンが、キリスト教普及のため寧波で発行した華字新聞。同8年末から米国人伝道士インスリーが編集にあたった。江戸幕府では洋書調所をして同8年11月から同11年1月までの版から宗教記事を削除のうえ翻刻・発売。
『遐迩貫珍』 かじ?
『東洋文化史上におけるキリスト教』 溝口靖夫の著。
『支那叢報』 一八三二年、ブリッジマンにより広東で発刊。二十年間継続。
『西医略説』 ホブソンによる発行。
『上海史話』 米沢秀夫の著。
『滬上史談』 こじょう しだん? 沖田一の著。
『近代日本洋画史』 土方定一の著。昭和十六年刊。
『申報』 しんぽう (Shenbao)1872年イギリス人によって上海で創刊された中国最初の商業新聞。のち中国人が経営、有力紙の一つとなる。1949年共産党に接収され、廃刊。
The Mission Press In China l895 美華書館史の小冊子。
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『日本渡航記』 にほん とこうき ゴンチャロフ著。紀行「フリゲート艦パルラダ号」の一部分。1853年8月から翌1月までの長崎における記録(国史)。
『オブロモフ』 → オブローモフ
オブローモフ Oblomov ゴンチャローフの長編小説。1859年刊。進歩や改革を求める活動家シュトルツと、善意と才能を持ちながらも無気力な生活を送る地主オブローモフとの対比を描く。「オブローモフ気質」は無為徒食の代名詞となった。
『新約聖書』 しんやく せいしょ (The New Testament)キリスト教の経典。旧約聖書とともに聖書(バイブル)と称す。全27巻。キリストの言行を記した福音書、初代教会の発展を記した使徒言行録、使徒たちの書簡およびヨハネの黙示録を含む。新約全書。
『地理』 → 地理全志か
『地理全志』 ちり ぜんし 幕末の漢籍世界地理書。英国人中国伝道師ウイリアム=ミュアヘッド(慕維廉)著。1853、54年上海刊。上下編各5冊(国史)。
『イソップ物語』 イソップ寓話。イソップが物語ったと伝えられる寓話集。前3世紀ごろ散文で編集、以後次々に増補された。1593年(文禄2)九州天草から刊行した邦訳がある。イソップ物語。
『重学浅説』 ヨーロッパ科学書。
『代数学』 だいすうがく
『内科新説』
『博物新編』
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『字林西報』 ノース・チャイナ・ヘラルド紙。
『游清五録』ゆうしん ごろく 遊清五録。高杉晋作の著。文久2(1862)5月から7月にかけて上海に滞在し五代才助・中牟田倉之助らと交友、まとめた記録。帰国後、藩主に報告した。
『幕末貿易史』 山口和雄の著。
『サツマ辞書』 薩摩辞書。英和辞書。1冊。日本で出来た最初の活字本英語辞書「英和対訳袖珍辞書」(1862年開成所刊)を、薩摩学生、高橋新吉(1842〜1918)・前田正穀らが増訂して、1869年(明治2)上海で印刷・刊行したもの。「改正増補和訳英辞書」という。
ヘボン辞書 → 和英語林集成か
和英語林集成 わえいごりんしゅうせい ヘボンの編纂した日本で最初の和英辞典。巻末に英和辞典を付す。1867年(慶応3)刊。収録語数は初版和英2万772語、英和1万30語、2版(72年)和英2万2949語、英和1万4266語、3版(86年)和英3万5618語、英和1万5697語。ヘボン式ローマ字綴りは3版に使用。
『大日本古文書』巻十 だいにほん こもんじょ 東京大学史料編纂所編の古文書集。正倉院文書を主とした編年文書、寺社・諸家の家分け文書、幕末外国関係文書を収める。1901年(明治34)刊行開始。
『幕末海外関係史』 田保橋潔氏の著。
『和英語彙』 メドハーストの作。
『明治事物起原』 石井研堂の著。
『蘭話通弁』 らんわ つうべん? 本木昌造の著訳書。嘉永4(1851)輸入印刷機・自製の鉛活字により印刷(国史)。
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朝野 → 朝野新聞か
『朝野新聞』 ちょうや しんぶん 明治前期、自由民権派の政論新聞。1872年(明治5)創刊の「公文通誌」を74年に改題して発刊。社長成島柳北、主筆末広鉄腸。93年廃刊。
『官板バタビヤ新聞』 かんぱん- 1862年(文久2)発行の新聞。幕府の蕃書調所でバタヴィアのオランダ政庁の機関紙を抄訳し、木活字版で発行。23巻まで発行して「官板海外新聞」と改称。「文久新聞」ともいう。日本最古の新聞の一つ。
『海外新聞』 かいがい しんぶん 「官板(かんぱん)バタビヤ新聞」の改題名。文久(1861〜1864)年間発行。官板海外新聞。
『横浜新報もしほ草』 1868年、岸田吟香とヴァン・リードの創刊。柳河春三が創刊した「中外新聞」と発行数を争う人気新聞となったが、後続に次第に振るわなくなり、42号で廃刊となった。
「開成所稽古規則覚え書き」
『維新史』第四巻 いしんし 明治維新に関する概説書。文部省維新史料編纂事務局の編。本篇5巻、付録1巻。昭和14(1939)3月〜昭和16年12月発行。全体として王政復古史観的色彩が強い(国史)。
『斯氏築城典刑』 大鳥圭介の発行。
『太陽のない街』 たいようのないまち (1) 小説。徳永直(すなお)作。1929年「戦旗」に発表。共同印刷争議の体験に基づく。プロレタリア文学の記念碑的作品。(2) (1) の劇化作品。小野宮吉・藤田満雄が脚色。1930年初演。プロレタリア演劇の代表作の一つ。
『社会および国家』
「上海日記」 前田三介の著。『社会および国家』昭和十二年四月号所載。
『前田正名自叙伝』
『英和対訳袖珍辞書』 開成所版・堀達之助編。
『美国新聞紙』 慶応四年閏四月創刊。
『本木・平野詳伝』 『本木昌造・平野富二詳伝』。三谷幸吉の著。詳伝頒布刊行会、1933。


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)、『国史大辞典』(吉川弘文館)。



*難字、求めよ


刑吏 けいり 刑、特に、死刑の執行にあたる官吏。
電胎法 でんたいほう 木に逆字で凸刻した文字(木彫種字という)を蜜蝋・松脂・黒鉛の混合物を加熱して軟らかくした上におしつけて凹型を作り(蝋型)、そこに黒鉛を塗って電導性を与えてからダニエル電池を応用した電槽(硫酸銅液)につけ銅を集積(凸型)し、それに再び銅を集積する(凹型で、シェルまたはガラハと呼ばれる)。シェルは薄いので、裏側に亜鉛を溶かし込み補強、それを銅の母型材にはめ込んだのが電胎母型で、それを鋳型として活字合金を流し込んで活字を作るのが蝋型電胎母型法と言われるもの(タイポ p.30)。
シリンダー・プレス
テレガラフ telegraph テレグラフ。電信。電報。
-----------------------------------
頻る 頗(すこぶ)る?
代赭色 たいしゃいろ 代赭に似た色。帯褐黄色。
胸墻 きょうしょう 敵の射弾を防ぐ目的で、人の胸の高さほどに築いた堆土。
猖獗 しょうけつ (1) たけくあらあらしいこと。わるいものの勢いの盛んなこと。(2) [三国志蜀志、諸葛亮伝]傾きくつがえること。失敗すること。猖蹶。
章程 しょうてい (「程」は法式の意) (1) おきて。のり。法度・規程の箇条書。(2) 事務執行の細則。
畝 ほ 中国で地積の単位。6尺四方を1歩(ぶ)とし、古くは100歩、後には240歩を1畝とした。現行の1畝(ムー)は15分の1ヘクタール(6.7アール)。日本の畝(せ)とは別。
呪咀 じゅそ → 呪詛か
呪詛 じゅそ (シュソ・ズソとも)うらみに思う相手に災いが起こるよう神仏に祈願すること。まじない。のろい。
こまぬいて こまねく。
汽罐車 きかんしゃ 機関車。
ジャンク junk・戎克 中国およびその周辺特有の船の総称。特定の型式の船ではない。小形船はサンパン。
伝馬船 てんまぶね 荷物などを運送するはしけぶね。無甲板木製の小船で、幅広く、船尾は扁平。普通、艪または櫂で漕ぐ。伝馬。はしけ。
柱廊 ちゅうろう 柱を並べ、梁をわたして屋根をかけ、吹き放ちとした廊下。コロネード。
紅ッ毛 あかっけ 赤っ毛。
孔子教 こうしきょう 孔子を祖とする教え。儒教。
ゆくりなく 思いがけず。偶然に。
-----------------------------------
応わしく ふさわしく?
前檣 ぜんしょう 船首の方にあるほばしら。
中檣
後檣 こうしょう 洋式帆船で、船尾にある帆柱。
便役 鞭役(べんえき)か。むち打たれながら仕事にあたること。他人に追いまくられながら、つらい仕事をすること。
扶知 扶持(ふち)か。
菊判 きくばん (初めて輸入された時、菊花の商標があったからいう) (1) ジス(JIS)による紙の標準原紙寸法の一つ。636ミリメートル×939ミリメートルで、A列本判よりやや大きい。菊全判。(2) 書籍の寸法の一つ。152ミリメートル×218ミリメートルで、A5判よりやや大きい。菊全判を16折にして化粧裁ちした大きさ。
軋位仏
招牌 しょうはい 看板のこと。
露土戦争 ろと せんそう 1877〜78年、バルカン進出を企図したロシアがギリシア正教徒保護を名目として開戦し、オスマン帝国(トルコ)を破った戦争。
じゃがたら文章 → ジャガタラ文か
ジャガタラ文 ジャガタラ ぶみ 江戸初期、鎖国政策によってオランダ人などの外国人を国外に退去させた際、一緒にジャガタラに追放されたその日本人妻や混血児たちが、故国の親戚・知人に送った手紙。懐郷の情の切々たるものがあったところから「お春」の物語などに脚色された。
宗門所詰
金くぎ流 かなくぎりゅう 金釘流。筆跡のへたなのを流派のように言ってあざける語。かなくぎ。
-----------------------------------
窮理学 きゅうりがく 事理をきわめる学問。江戸後期、西洋物理学の呼称。明治初年、哲学の意にも用いた。究理学。
鋳りつけ いりつけ
ウェブストル → ウェブスター大辞典か
ウェブスター大辞典 
ウェブスター Noah Webster 1758-1843 アメリカの語学者。1828年「ウェブスター大辞典」を公刊。
倦む うむ いやになる。あきる。退屈する。あきて疲れる。
毛唐人 けとうじん 中国人・欧米人などを卑しめて呼ぶ語。毛唐。
ガラハニ ガラハン。電気版を意味する galvanograph からきたものか。shell(殻)ともいう(タイポ p.93)
整版 せいはん (1) 活字版に対し、一枚の板に彫って作った版。また、その版で印刷したもの。槧本(ざんぽん)。(2) 製版の旧称。


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)、『タイポグラフィの基礎』小宮山博史(編)(誠文堂新光社、2010.8)。



*後記(工作員スリーパーズ日記)


ガムブル、ギャンブル
八戸喜三郎、八戸善三郎
活字板をすることをしたい、活字板をつくることをおしえたい

 以上三件の混用はそのままにした。

 ソーステキスト(html)の公開を試みる。大きな修正点は、(1) スタイルシート記述の追加、(2) t-font タグを font タグへ変更、(3) 字下げ用の divタグを追加、以上三点。Internet Explorer、Netscape、Safari にて確認。
 (3) の字下げ divタグは T-Time 組版には不要な記述で、この点、html よりも T-Time のほうがスマート。ソーステキストを直接修正したいときに divタグの乱立は邪魔くさい。html 5 は未確認。

 安田喜憲『龍の文明 太陽の文明』(PHP新書、2001.9)。東洋文明をこんなにあっさり二分していいのだろうかと不安になるくらいの読後感。安田論、その反論ともに未見なので真偽の評価は保留。期待していた自然環境変化、とくに海進・海退に関するに関する記述がものたりない。温暖期に水没していた地帯が、寒冷期の海退で各地に出現。そのくりかえしが動力ポンプとなって人口の分散と集中をうながした……とするならば、まっさきに安田に求められるのは、各時代ごとのアジア海岸線の想像復元のはず。
 津野海太郎『電子本をバカにするなかれ』(国書刊行会、2010)読了。ベストオブベスト。ページの英訳・コリアン訳は早々に試みたい。チャールズ・パースのマチガイ主義(falliblism)を紹介。対になるのが元旦朝生で片山さつきちゃんが口にした「無謬の原則」だろう。

 拡充版CSV を見る。著者情報と書誌情報を二分して、処理側でマッチさせるなりソートさせるなりできないものか。
 著者の国籍、生没年の情報ソースが不明で、追確認の手だてが絶たれている。とくに著名でない作者・郷土史家は、ネットで確認できるともいえない。ソース非公開の根拠は何かしらあるのだろうか。




*次週予告


第三巻 第二七号 
村で見た黒川能
黒川能・観点の置き所 折口信夫


第三巻 第二七号は、
二〇一一年一月二九日(土)発行予定です。
月末最終号:無料


T-Time マガジン 週刊ミルクティー 第三巻 第二六号
光をかかぐる人々[続]
『世界文化』連載分(六) 徳永 直

発行:二〇一一年一月二二日(土)
編集:しだひろし/PoorBook G3'99
 http://www33.atwiki.jp/asterisk99/
出版:*99 出版
 〒994-0024 山形県天童市鎌田2丁目1−21
 アパートメント山口A−202
販売:DL-MARKET
※ T-Timeは(株)ボイジャーの商標・製品です。

T-Time マガジン 週刊ミルクティー*99 出版

第二巻 第一号 奇巌城(一)モーリス・ルブラン 月末最終号:無料
第二巻 第二号 奇巌城(二)モーリス・ルブラン 定価:200円

第二巻 第三号 美し姫と怪獣 / 長ぐつをはいた猫 定価:200円

第二巻 第四号 毒と迷信 / 若水の話 / 麻薬・自殺・宗教
定価:200円

第二巻 第五号 空襲警報 / 水の女 / 支流 定価:200円

第二巻 第六号 新羅人の武士的精神について 池内宏
月末最終号:無料

第二巻 第七号 新羅の花郎について 池内宏 定価:200円

第二巻 第八号 震災日誌 / 震災後記 喜田貞吉 定価:200円

第二巻 第九号 セロ弾きのゴーシュ / なめとこ山の熊 宮沢賢治
定価:200円

第二巻 第十号 風の又三郎 宮沢賢治 月末最終号:無料

第二巻 第一一号 能久親王事跡(一)森 林太郎 定価:200円

第二巻 第一二号 能久親王事跡(二)森 林太郎 定価:200円

第二巻 第一三号 能久親王事跡(三)森 林太郎 定価:200円

第二巻 第一四号 能久親王事跡(四)森 林太郎 定価:200円

第二巻 第一七号 赤毛連盟 コナン・ドイル 定価:200円

第二巻 第一八号 ボヘミアの醜聞 コナン・ドイル 定価:200円

第二巻 第一九号 グロリア・スコット号 コナン・ドイル
月末最終号:無料

第二巻 第二〇号 暗号舞踏人の謎 コナン・ドイル 定価:200円

第二巻 第二一号 蝦夷とコロボックルとの異同を論ず 喜田貞吉
定価:200円

第二巻 第二二号 コロポックル説の誤謬を論ず 上・下 河野常吉
定価:200円
   一 アイヌに三派あり
   二 コロポックルに関する諸説
   三 三派のアイヌみな竪穴に住せり
   四 三派のアイヌみな石器・土器を使用せり
   五 コロポックルは実在せる人種にあらず

第二巻 第二三号 慶長年間の朝日連峰通路について 佐藤栄太
月末最終号:無料
  一、序
  二、開削年代と当時の状勢
  三、朝日山道の経路
  四、慶長の役と朝日間道
  五、志駄義秀の朝日越考

第二巻 第二四号 まれびとの歴史/「とこよ」と「まれびと」と 折口信夫  定価:200円

第二巻 第二五号 払田柵跡について二、三の考察/山形県本楯発見の柵跡について 喜田貞吉  定価:200円
払田柵跡について二、三の考察
山形県本楯発見の柵跡について ――出羽柵跡か国分寺跡か―
 一 緒言
 二 本楯柵跡の型式と規模
 三 出羽柵跡はこれを河南に求むべく、
    本楯柵跡は出羽柵の廃虚にあらず
 四 本楯柵跡は出羽柵としては狭小に過ぐ
 五 本楯柵跡は出羽柵としては型式的にして、防御設備薄弱に過ぐ
 六 本楯柵跡は国分寺の外郭の廃虚なるべし
 七 結語

第二巻 第二六号 日本天変地異記 田中貢太郎 定価:200円
  序記 国土成生の伝説
  一 斉衡元暦(八五四)の地震、安元の火事
  二 地震・海嘯の呪いある鎌倉
  三 天正の災変、慶長の地震
  四 元禄大地震、振袖火事、安政大地震
  五 維新以後の災変

第二巻 第二七号 種山ヶ原/イギリス海岸 宮沢賢治
定価:200円

第二巻 第二八号 翁の発生/鬼の話 折口信夫  月末最終号:無料

第二巻 第二九号 生物の歴史(一)石川千代松  定価:200円
  一、ノアの船
  二、ハンザキ
  三、魚
  四、ヘビ
  五、鳥
  六、獣類
  七、ナメクジウオ
  八、ホヤ

第二巻 第三〇号 生物の歴史(二)石川千代松  定価:200円
  九、軟体動物
 一〇、節肢動物
 一一、環節動物
 一二、棘皮(きょくひ)動物
 一三、円形動物と扁形動物
 一四、腔腸(こうちょう)動物
 一五、原生動物
 一六、動物の分類

第二巻 第三一号 生物の歴史(三)石川千代松  定価:200円
 一七、進化論
キュビエー / ライエル / ダーウィン / ダーウィンとウォレス / 淘汰説 / 動物の体色と斑紋 / ミミクリー / 変異

第二巻 第三二号 生物の歴史(四)石川千代松  月末最終号:無料
 一七、進化論
細胞 / 生殖細胞と身体細胞 / メンデルの法則 / 人間の進化 / 類人猿 / 言語

第二巻 第三三号 特集 ひなまつり  定価:200円
 雛 芥川龍之介
 雛がたり 泉鏡花
 ひなまつりの話 折口信夫
  一 淡島様
  二 ひな人形と女神と
  三 奥州のオシラサマ

第二巻 第三四号 特集 ひなまつり  定価:200円
 人形の話 折口信夫
 偶人信仰の民俗化並びに伝説化せる道 折口信夫
   一 祝言の演劇化
   二 八幡神の伴神
   三 才の男・細男・青農
   四 クグツと人形との関係
   五 淡路・西の宮と人形との関係
   六 虫送り人形
   七 草人形の信仰
   八 ひなまつりと淡島伝説
   九 少女のものいみ
   一〇 神送りと祓除との結合
   一一 箱の中の人形
   一二 念仏聖と人形舞わしと
   一三 オヒラ様と熊野神明の巫女
   一四 オヒラ様と大宮の�@祭りと
   十五 オヒラ様の正体

第二巻 第三五号 右大臣実朝(一)太宰治  定価:200円
第二巻 第三六号 右大臣実朝(二)太宰治  月末最終号:無料

第二巻 第三七号 右大臣実朝(三)太宰治  定価:200円

第二巻 第三八号 清河八郎(一)大川周明  定価:200円

第二巻 第三九号 清河八郎(二)大川周明  定価:200円
 第三章 東挙蹉跌と潜匿
    一 水戸天狗党視察
    二 夷人館焼き打ちの計画
    三 無礼人斬殺と計画の蹉跌
    四 江戸脱走
    五 越後路の彷徨と江戸潜入
    六 水戸より仙台にはしる
    七 奥州潜行
    八 西上の決行

第二巻 第四〇号 清河八郎(三)大川周明  月末最終号:無料
 第四章 関西における清河八郎の活動
    一 義挙の決意
    二 肥後の松村家による
    三 真木和泉との会見
    四 平野・伊牟田の入薩
    五 八郎の帰洛
    六 大阪薩邸に入る
    七 同志の反目
    八 寺田屋の変

第二巻 第四一号 清河八郎(四)大川周明  定価:200円
 第五章 関東における八郎の活動
    一 関西の勤王と関東の攘夷
    二 東北有志の糾合
    三 大赦運動
    四 浪士組の成立
    五 京都における浪士組
    六 帰府後の浪士組

第二巻 第四二号 清河八郎(五)大川周明  定価:200円
 第六章 清河八郎の最期
    一 遭難直前の八郎
    二 遭難の刹那
    三 首級および遺骸のゆくえ
    四 八郎は何故に暗殺されしか
    五 八郎暗殺と金子与三郎
    六 八郎死後の浪士組

第二巻 第四三号 清河八郎(六)大川周明  定価:200円
 第七章 清河八郎はいかなる人ぞ
    一 彼をしてみずから語らしめよ
    二 学者としての八郎
    三 子としての八郎
    四 友人としての八郎
    五 英雄みな有情
    六 八郎、最後の精神
 第八章 清河八郎正明年譜

第二巻 第四四号 道鏡皇胤論について 喜田貞吉  定価:200円
    一 序言
    二 道鏡問題に関する幾多の疑問
    三 右の疑問の解決と皇統の尊厳
    四 道鏡の暴悪と清麻呂の正義
    五 事実の真相
    六 結語

第二巻 第四五号 火葬と大蔵/人身御供と人柱 喜田貞吉  月末最終号:無料
 火葬と大蔵 喜田貞吉
   一 火葬のはじめということ
   二 洗骨の風
   三 大蔵(死体処理の一方法)
 人身御供と人柱 喜田貞吉

第二巻 第四六号 手長と足長/くぐつ名義考 喜田貞吉  定価:200円
 手長と足長 土蜘蛛研究 喜田貞吉
 くぐつ名義考 古代社会組織の研究 喜田貞吉
   一 緒言
   二 クグツの名義に関する諸説(その一)
   三 クグツの名義に関する諸説(その二)
   四 久久都彦と久久都媛と
   五 多爾具久(たにぐく)とクグツ
   六 ヒキガエルあるいは蝦蟆(ガマ)とタニグク
   七 莎草(くぐ)とクグツ
   八 結論

第二巻 第四七号 「日本民族」とは何ぞや/本州における蝦夷の末路 喜田貞吉  定価:200円
「日本民族」とは何ぞや 喜田貞吉
本州における蝦夷の末路 喜田貞吉
   一 緒言
   二 蝦夷馴服(じゅんぷく)の歴史
   三 遺物・遺跡より見たる蝦夷
   四 北海道のアイヌ民族
   五 近世まで保存せられた本州の蝦夷
   六 蝦夷と日本民族
   七 日の本将軍
   八 蝦夷と武士道
   九 東人(あずまびと)
   十 武士の起原と蝦夷
   十一 結語

第二巻 第四八号 若草物語(一)L. M. オルコット  定価:200円
   作者について
   第一 巡礼あそび
   第二 たのしいクリスマス
   第三 ローレンスのぼっちゃん
   第四 重い荷をかついで

第二巻 第四九号 若草物語(二)L. M. オルコット  月末最終号:無料
   第五 おとなりどうし
   第六 美しい宮殿
   第七 はずかしめの谷
   第八 ジョウの原稿
   第九 虚栄の市

第二巻 第五〇号 若草物語(三)L. M. オルコット  定価:200円
   第十 ピクイック・クラブと郵便局
   第十一 経験が教える
   第十二 ローレンスのキャンプ
   第十三 美しい空中楼閣
   第十四 秘密

第二巻 第五一号 若草物語(四)L. M. オルコット  定価:200円
   第十五 雲のかげの光
   第十六 手紙の花束
   第十七 小さな真心
   第十八 つづく暗い日
   第十九 エミィの遺言状

第二巻 第五二号 若草物語(五)L. M. オルコット  定価:200円
   第二十 うちあけ話
   第二十一 ローリィのいたずら
   第二十二 たのしい野辺
   第二十三 マーチおばさん

第二巻 第五三号 二人の女歌人/東北の家 片山広子  定価:200円

第三巻 第一号 星と空の話(一)山本一清  月末最終号:無料
  一、星座(せいざ)の星
  二、月(つき)
(略)殊にこの「ベガ」は、わが日本や支那では「七夕」の祭りにちなむ「織(お)り女(ひめ)」ですから、誰でも皆、幼い時からおなじみの星です。「七夕」の祭りとは、毎年旧暦七月七日の夜に「織り女」と「牽牛(ひこぼし)〔彦星〕」とが「天の川」を渡って会合するという伝説の祭りですが、その「天の川」は「こと」星座のすぐ東側を南北に流れていますし、また、「牽牛」は「天の川」の向かい岸(東岸)に白く輝いています。「牽牛」とその周囲の星々を、星座では「わし」の星座といい、「牽牛」を昔のアラビア人たちは、「アルタイル」と呼びました。「アルタイル」の南と北とに一つずつ小さい星が光っています。あれは「わし」の両翼を拡げている姿なのです。ところが「ベガ」の付近を見ますと、その東側に小さい星が二つ集まっています。昔の人はこれを見て、一羽の鳥が両翼をたたんで地に舞いくだる姿だと思いました。それで、「こと」をまた「舞いくだる鳥」と呼びました。

 「こと」の東隣り「天の川」の中に、「はくちょう」という星座があります。このあたりは大星や小星が非常に多くて、天が白い布のように光に満ちています。

第三巻 第二号 星と空の話(二)山本一清  定価:200円
  三、太陽
  四、日食と月食
  五、水星
  六、金星
  七、火星
  八、木星
 太陽の黒点というものは誠におもしろいものです。黒点の一つ一つは、太陽の大きさにくらべると小さい点々のように見えますが、じつはみな、いずれもなかなか大きいものであって、(略)最も大きいのは地球の十倍以上のものがときどき現われます。そして同じ黒点を毎日見ていますと、毎日すこしずつ西の方へ流れていって、ついに太陽の西の端(はし)でかくれてしまいますが、二週間ばかりすると、こんどは東の端から現われてきます。こんなにして、黒点の位置が規則正しく変わるのは、太陽全体が、黒点を乗せたまま、自転しているからなのです。太陽は、こうして、約二十五日間に一回、自転をします。(略)
 太陽の黒点からは、あらゆる気体の熱風とともに、いろいろなものを四方へ散らしますが、そのうちで最も強く地球に影響をあたえるものは電子が放射されることです。あらゆる電流の原因である電子が太陽黒点から放射されて、わが地球に達しますと、地球では、北極や南極付近に、美しいオーロラ(極光(きょっこう))が現われたり、「磁気嵐(じきあらし)」といって、磁石の針が狂い出して盛んに左右にふれたりします。また、この太陽黒点からやってくる電波や熱波や電子などのために、地球上では、気温や気圧の変動がおこったり、天気が狂ったりすることもあります。(略)
 太陽の表面に、いつも同じ黒点が長い間見えているのではありません。一つ一つの黒点はずいぶん短命なものです。なかには一日か二日ぐらいで消えるのがありますし、普通のものは一、二週間ぐらいの寿命のものです。特に大きいものは二、三か月も、七、八か月も長く見えるのがありますけれど、一年以上長く見えるということはほとんどありません。
 しかし、黒点は、一つのものがまったく消えない前に、他の黒点が二つも三つも現われてきたりして、ついには一時に三十も四十も、たくさんの黒点が同じ太陽面に見えることがあります。
 こうした黒点の数は、毎年、毎日、まったく無茶苦茶というわけではありません。だいたいにおいて十一年ごとに増したり減ったりします。

第三巻 第三号 星と空の話(三)山本一清  定価:200円
   九、土星
  一〇、天王星
  一一、海王星
  一二、小遊星
  一三、彗星
  一四、流星
  一五、太陽系
  一六、恒星と宇宙
 晴れた美しい夜の空を、しばらく家の外に出てながめてごらんなさい。ときどき三分間に一つか、五分間に一つぐらい星が飛ぶように見えるものがあります。あれが流星です。流星は、平常、天に輝いている多くの星のうちの一つ二つが飛ぶのだと思っている人もありますが、そうではありません。流星はみな、今までまったく見えなかった星が、急に光り出して、そしてすぐまた消えてしまうものなのです。(略)
 しかし、流星のうちには、はじめから稀(まれ)によほど形の大きいものもあります。そんなものは空気中を何百キロメートルも飛んでいるうちに、燃えつきてしまわず、熱したまま、地上まで落下してきます。これが隕石というものです。隕石のうちには、ほとんど全部が鉄のものもあります。これを隕鉄(いんてつ)といいます。(略)
 流星は一年じゅう、たいていの夜に見えますが、しかし、全体からいえば、冬や春よりは、夏や秋の夜にたくさん見えます。ことに七、八月ごろや十月、十一月ごろは、一時間に百以上も流星が飛ぶことがあります。
 八月十二、三日ごろの夜明け前、午前二時ごろ、多くの流星がペルセウス星座から四方八方へ放射的に飛びます。これらは、みな、ペルセウス星座の方向から、地球の方向へ、列を作ってぶっつかってくるものでありまして、これを「ペルセウス流星群」と呼びます。
 十一月十四、五日ごろにも、夜明け前の二時、三時ごろ、しし星座から飛び出してくるように見える一群の流星があります。これは「しし座流星群」と呼ばれます。
 この二つがもっとも有名な流星群ですが、なおこの他には、一月のはじめにカドラント流星群、四月二十日ごろに、こと座流星群、十月にはオリオン流星群などあります。

第三巻 第四号 獅子舞雑考/穀神としての牛に関する民俗 中山太郎  定価:200円
獅子舞雑考
  一、枯(か)れ木も山の賑(にぎ)やかし
  二、獅子舞に関する先輩の研究
  三、獅子頭に角(つの)のある理由
  四、獅子頭と狛犬(こまいぬ)との関係
  五、鹿踊(ししおど)りと獅子舞との区別は何か
  六、獅子舞は寺院から神社へ
  七、仏事にもちいた獅子舞の源流
  八、獅子舞について関心すべき点
  九、獅子頭の鼻毛と馬の尻尾(しっぽ)

穀神としての牛に関する民俗
  牛を穀神とするは世界共通の信仰
  土牛(どぎゅう)を立て寒気を送る信仰と追儺(ついな)
  わが国の家畜の分布と牛飼神の地位
  牛をもって神をまつるは、わが国の古俗
  田遊(たあそ)びの牛の役と雨乞いの牛の首

 全体、わが国の獅子舞については、従来これに関する発生、目的、変遷など、かなり詳細なる研究が発表されている。(略)喜多村翁の所説は、獅子舞は西域の亀茲(きじ)国の舞楽が、支那の文化とともに、わが国に渡来したのであるという、純乎たる輸入説である。柳田先生の所論は、わが国には古く鹿舞(ししまい)というものがあって、しかもそれが広くおこなわれていたところへ、後に支那から渡来した獅子舞が、国音の相通から付会(ふかい)したものである。その証拠には、わが国の各地において、古風を伝えているものに、角(つの)のある獅子頭があり、これに加うるのに鹿を歌ったものを、獅子舞にもちいているという、いわば固有説とも見るべき考証である。さらに小寺氏の観察は、だいたいにおいて柳田先生の固有説をうけ、別にこれに対して、わが国の鹿舞の起こったのは、トーテム崇拝に由来するのであると、付け加えている。
 そこで、今度は管見を記すべき順序となったが、これは私も小寺氏と同じく、柳田先生のご説をそのまま拝借する者であって、べつだんに奇説も異論も有しているわけではない。ただ、しいて言えば、わが国の鹿舞と支那からきた獅子舞とは、その目的において全然別個のものがあったという点が、相違しているのである。ことに小寺氏のトーテム説にいたっては、あれだけの研究では、にわかに左袒(さたん)することのできぬのはもちろんである。

 こういうと、なんだか柳田先生のご説に、反対するように聞こえるが、角(つの)の有無をもって鹿と獅子の区別をすることは、再考の余地があるように思われる。

第三巻 第五号 鹿踊りのはじまり 宮沢賢治/奥羽地方のシシ踊りと鹿供養 喜田貞吉  月末最終号:無料
鹿踊りのはじまり 宮沢賢治
奥羽地方のシシ踊りと鹿供養 喜田貞吉
  一 緒言
  二 シシ踊りは鹿踊り
  三 伊予宇和島地方の鹿の子踊り
  四 アイヌのクマ祭りと捕獲物供養
  五 付記

 奥羽地方には各地にシシ踊りと呼ばるる一種の民間舞踊がある。地方によって多少の相違はあるが、だいたいにおいて獅子頭を頭につけた青年が、数人立ちまじって古めかしい歌謡を歌いつつ、太鼓の音に和して勇壮なる舞踊を演ずるという点において一致している。したがって普通には獅子舞あるいは越後獅子などのたぐいで、獅子奮迅・踊躍の状を表象したものとして解せられているが、奇態なことにはその旧仙台領地方におこなわるるものが、その獅子頭に鹿の角(つの)を有し、他の地方のものにも、またそれぞれ短い二本の角がはえているのである。
 楽舞用具の一種として獅子頭のわが国に伝わったことは、すでに奈良朝のころからであった。くだって鎌倉時代以後には、民間舞踊の一つとして獅子舞の各地におこなわれたことが少なからず文献に見えている。そしてかの越後獅子のごときは、その名残りの地方的に発達・保存されたものであろう。獅子頭はいうまでもなくライオンをあらわしたもので、本来、角があってはならぬはずである。もちろんそれが理想化し、霊獣化して、彫刻家の意匠により、ことさらにそれに角を付加するということは考えられぬでもない。武蔵南多摩郡元八王子村なる諏訪神社の獅子頭は、古来、龍頭とよばれて二本の長い角が斜めにはえているので有名である。しかしながら、仙台領において特にそれが鹿の角であるということは、これを霊獣化したとだけでは解釈されない。けだし、もと鹿供養の意味からおこった一種の田楽的舞踊で、それがシシ踊りと呼ばるることからついに獅子頭とまで転訛するに至り、しかもなお原始の鹿角を保存して、今日におよんでいるものであろう。

第三巻 第六号 魏志倭人伝/後漢書倭伝/宋書倭国伝/隋書倭国伝  定価:200円
魏志倭人伝/後漢書倭伝/宋書倭国伝/隋書倭国伝

倭人在帯方東南大海之中、依山島為国邑。旧百余国。漢時有朝見者、今使訳所通三十国。従郡至倭、循海岸水行、歴韓国、乍南乍東、到其北岸狗邪韓国七千余里。始度一海千余里、至対馬国、其大官曰卑狗、副曰卑奴母離、所居絶島、方可四百余里(略)。又南渡一海千余里、名曰瀚海、至一大国〔一支国か〕(略)。又渡一海千余里、至末盧国(略)。東南陸行五百里、到伊都国(略)。東南至奴国百里(略)。東行至不弥国百里(略)。南至投馬国水行二十日、官曰弥弥、副曰弥弥那利、可五万余戸。南至邪馬壱国〔邪馬台国〕、女王之所都、水行十日・陸行一月、官有伊支馬、次曰弥馬升、次曰弥馬獲支、次曰奴佳�、可七万余戸。(略)其国本亦以男子為王、住七八十年、倭国乱、相攻伐歴年、乃共立一女子為王、名曰卑弥呼、事鬼道、能惑衆、年已長大、無夫壻、有男弟、佐治国、自為王以来、少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人、給飲食、伝辞出入居処。宮室・楼観・城柵厳設、常有人持兵守衛。

第三巻 第七号 卑弥呼考(一)内藤湖南  定価:200円
  一、本文の選択
  二、本文の記事に関するわが邦(くに)最旧の見解
  三、旧説に対する異論
 『後漢書』『三国志』『晋書』『北史』などに出でたる倭国女王卑弥呼のことに関しては、従来、史家の考証はなはだ繁く、あるいはこれをもってわが神功皇后とし、あるいはもって筑紫の一女酋とし、紛々として帰一するところなきが如くなるも、近時においてはたいてい後説を取る者多きに似たり。(略)
 卑弥呼の記事を載せたる支那史書のうち、『晋書』『北史』のごときは、もとより『後漢書』『三国志』に拠りたること疑いなければ、これは論を費やすことをもちいざれども、『後漢書』と『三国志』との間に存する�異(きい)の点に関しては、史家の疑惑をひく者なくばあらず。『三国志』は晋代になりて、今の范曄の『後漢書』は、劉宋の代になれる晩出の書なれども、両書が同一事を記するにあたりて、『後漢書』の取れる史料が、『三国志』の所載以外におよぶこと、東夷伝中にすら一、二にして止まらざれば、その倭国伝の記事もしかる者あるにあらずやとは、史家のどうもすれば疑惑をはさみしところなりき。この疑惑を決せんことは、すなわち本文選択の第一要件なり。
 次には本文のうち、各本に字句の異同あることを考えざるべからず。『三国志』について言わんに、余はいまだ宋板本を見ざるも、元槧明修本、明南監本、乾隆殿板本、汲古閣本などを対照し、さらに『北史』『通典』『太平御覧』『冊府元亀』など、この記事を引用せる諸書を参考してその異同の少なからざるに驚きたり。その�異を決せんことは、すなわち本文選択の第二要件なり。

第三巻 第八号 卑弥呼考(二)内藤湖南  定価:200円
  四、本文の考証
帯方 / 旧百余国。漢時有朝見者。今使訳所通三十国。 / 到其北岸狗邪韓国 / 対馬国、一大国、末盧国、伊都国、奴国、不弥国 / 南至投馬國。水行二十日。/ 南至邪馬壹國。水行十日。陸行一月。/ 斯馬国 / 已百支国 / 伊邪国 / 郡支国 / 弥奴国 / 好古都国 / 不呼国 / 姐奴国 / 対蘇国 / 蘇奴国 / 呼邑国 / 華奴蘇奴国 / 鬼国 / 為吾国 / 鬼奴国 / 邪馬国 / 躬臣国 / 巴利国 / 支惟国 / 烏奴国 / 奴国 / 此女王境界所盡。其南有狗奴國 / 会稽東治
南至投馬國。水行二十日。  これには数説あり、本居氏は日向国児湯郡に都万神社ありて、『続日本後紀』『三代実録』『延喜式』などに見ゆ、此所にてもあらんかといえり。鶴峰氏は『和名鈔』に筑後国上妻郡、加牟豆万、下妻郡、准上とある妻なるべしといえり。ただし、その水行二十日を投馬より邪馬台に至る日程と解したるは著しき誤謬なり。黒川氏は三説をあげ、一つは鶴峰説に同じく、二つは「投」を「殺」の譌りとみて、薩摩国とし、三つは『和名鈔』、薩摩国麑島郡に都万郷ありて、声近しとし、さらに「投」を「敏」の譌りとしてミヌマと訓み、三潴郡とする説をもあげたるが、いずれも穏当ならずといえり。『国史眼』は設馬の譌りとして、すなわち薩摩なりとし、吉田氏はこれを取りて、さらに『和名鈔』の高城郡托摩郷をもあげ、菅氏は本居氏に従えり。これを要するに、みな邪馬台を筑紫に求むる先入の見に出で、「南至」といえる方向に拘束せられたり。しかれども支那の古書が方向をいう時、東と南と相兼ね、西と北と相兼ぬるは、その常例ともいうべく、またその発程のはじめ、もしくは途中のいちじるしき土地の位置などより、方向の混雑を生ずることも珍しからず。『後魏書』勿吉伝に太魯水、すなわち今の�児河より勿吉、すなわち今の松花江上流に至るによろしく東南行すべきを東北行十八日とせるがごとき、陸上におけるすらかくのごとくなれば海上の方向はなおさら誤り易かるべし。ゆえに余はこの南を東と解して投馬国を『和名鈔』の周防国佐婆郡〔佐波郡か。〕玉祖郷〈多萬乃於也〉にあてんとす。この地は玉祖宿祢の祖たる玉祖命、またの名、天明玉命、天櫛明玉命をまつれるところにして周防の一宮と称せられ、今の三田尻の海港をひかえ、内海の衝要にあたれり。その古代において、玉作を職とせる名族に拠有せられて、五万余戸の集落をなせしことも想像し得べし。日向・薩摩のごとき僻陬とも異なり、また筑後のごとく、路程の合いがたき地にもあらず、これ、余がかく定めたる理由なり。

第三巻 第九号 卑弥呼考(三)内藤湖南  月末最終号:無料
  四、本文の考証(つづき)
爾支 / 泄謨觚、柄渠觚、�馬觚 / 多模 / 弥弥、弥弥那利 / 伊支馬、弥馬升、弥馬獲支、奴佳� / 狗古智卑狗
卑弥呼 / 難升米 / 伊声耆掖邪狗 / 都市牛利 / 載斯烏越 / 卑弥弓呼素 / 壱与
  五、結論
    付記
 次に人名を考証せんに、その主なる者はすなわち、「卑弥呼」なり。余はこれをもって倭姫命に擬定す。その故は前にあげたる官名に「伊支馬」「弥馬獲支」あるによりて、その崇神・垂仁二朝を去ること遠からざるべきことを知る、一つなり。「事二鬼道一、能惑レ衆」といえるは、垂仁紀二十五年の記事ならびにその細注、『延暦儀式帳』『倭姫命世記』などの所伝を総合して、もっともこの命(みこと)の行事に適当せるを見る。その天照大神の教えにしたがいて、大和より近江・美濃・伊勢諸国を遍歴し、〈『倭姫世記』によれば尾張・丹波・紀伊・吉備にもおよびしが如し〉いたるところにその土豪より神戸・神田・神地を徴して神領とせるは、神道設教の上古を離るること久しき魏人より鬼道をもって衆を惑わすと見えしも怪しむに足らざるべし、二つなり。余が邪馬台の旁国の地名を擬定せるは、もとより務めて大和の付近にして、倭姫命が遍歴せる地方より選び出したれども、その多数がはなはだしき付会におちいらずして、伊勢を基点とせる地方に限定することを得たるは、また一証とすべし、三つなり。(略)「卑弥呼」の語解は本居氏がヒメコの義とするは可なれども、神代巻に火之戸幡姫児千々姫ノ命、また万幡姫児玉依姫ノ命などある「姫児(ヒメコ)」に同じとあるは非にして、この二つの「姫児」は平田篤胤のいえるごとく姫の子の義なり。「弥」を「メ」と訓(よ)む例は黒川氏の『北史国号考』に「上宮聖徳法王帝説、繍張文の吉多斯比弥乃弥己等(キタシヒメノミコト)、また等已弥居加斯支移比弥乃弥己等(トヨミケカシキヤヒメノミコト)、注云 弥字或当二売音一也」とあるを引けるなどに従うべし。
付記 余がこの編を出せる直後、すでに自説の欠陥を発見せしものあり、すなわち「卑弥呼」の名を考証せる条中に『古事記』神代巻にある火之戸幡姫児(ヒノトバタヒメコ)、および万幡姫児(ヨロヅハタヒメコ)の二つの「姫児」の字を本居氏にしたがいて、ヒメコと読みしは誤りにして、平田氏のヒメノコと読みしが正しきことを認めたれば、今の版にはこれを改めたり。

第三巻 第一〇号 最古日本の女性生活の根底/稲むらの陰にて 折口信夫  定価:200円
最古日本の女性生活の根底
  一 万葉びと――琉球人
  二 君主――巫女
  三 女軍(めいくさ)
  四 結婚――女の名
  五 女の家
稲むらの陰にて
 古代の歴史は、事実の記憶から編み出されたものではない。神人(かみびと)に神憑(がか)りした神の、物語った叙事詩から生まれてきたのである。いわば夢語りともいうべき部分の多い伝えの、世をへて後、筆録せられたものにすぎない。(略)神々の色彩を持たない事実などの、後世に伝わりようはあるべきはずがないのだ。(略)女として神事にあずからなかった者はなく、神事に関係せなかった女の身の上が、物語の上に伝誦せられるわけがなかったのである。
(略)村々の君主の下になった巫女が、かつては村々の君主自身であったこともあるのである。『魏志』倭人伝の邪馬台(ヤマト)国の君主卑弥呼は女性であり、彼の後継者も女児であった。巫女として、呪術をもって、村人の上に臨んでいたのである。が、こうした女君制度は、九州の辺土には限らなかった。卑弥呼と混同せられていた神功皇后も、最高巫女としての教権をもって、民を統べていられた様子は、『日本紀』を見れば知られることである。(略)
 沖縄では、明治の前までは国王の下に、王族の女子あるいは寡婦が斎女王(いつきのみこ)同様の仕事をして、聞得大君(きこえうふきみ)(ちふいぢん)と言うた。尚家の中途で、皇后の下に位どられることになったが、以前は沖縄最高の女性であった。その下に三十三君というて、神事関係の女性がある。それは地方地方の神職の元締めのような位置にいる者であった。その下にあたるノロ(祝女)という、地方の神事官吏なる女性は今もいる。そのまた下にその地方の家々の神につかえる女の神人がいる。この様子は、内地の昔を髣髴(ほうふつ)させるではないか。沖縄本島では聞得大君を君主と同格に見た史実がない。が、島々の旧記にはその痕跡が残っている。(「最古日本の女性生活の根底」より)

第三巻 第一一号 瀬戸内海の潮と潮流(他三編)寺田寅彦  定価:200円
瀬戸内海の潮と潮流
コーヒー哲学序説
神話と地球物理学
ウジの効用
 一体、海の面はどこでも一昼夜に二度ずつ上がり下がりをするもので、それを潮の満干(みちひ)といいます。これは月と太陽との引力のためにおこるもので、月や太陽がたえず東から西へまわるにつれて、地球上の海面の高くふくれた満潮(みちしお)の部分と低くなった干潮(ひきしお)の部分もまた、だいたいにおいて東から西へ向かって大洋(おおうみ)の上を進んで行きます。このような潮の波が内海のようなところへ入って行きますと、いろいろに変わったことがおこります。ことに瀬戸内海のように外洋(そとうみ)との通路がいくつもあり、内海の中にもまた瀬戸がたくさんあって、いくつもの灘(なだ)に分かれているところでは、潮の満干もなかなか込み入ってきて、これをくわしく調べるのはなかなか難しいのです。しかし、航海の頻繁なところであるから潮の調査は非常に必要なので、海軍の水路部などではたくさんな費用と時日を費やしてこれを調べておられます。東京あたりと四国の南側の海岸とでは満潮の時刻は一時間くらいしか違わないし、満干の高さもそんなに違いませんが、四国の南側とその北側とでは満潮の時刻はたいへんに違って、ところによっては六時間も違い、一方の満潮の時に他のほうは干潮になることもあります。また、内海では満干の高さが外海の倍にもなるところがあります。このように、あるところでは満潮であるのに他のところでは干潮になったり、内海の満干の高さが外海の満干の高さの倍になるところのあるのは、潮の流れがせまい海峡を入るためにおくれ、また、方々の入口から入り乱れ、重なり合うためであります。(「瀬戸内海の潮と潮流」より)

第三巻 第一二号 日本人の自然観/天文と俳句 寺田寅彦  定価:200円
日本人の自然観
 緒言
 日本の自然
 日本人の日常生活
 日本人の精神生活
 結語
天文と俳句
 もしも自然というものが、地球上どこでも同じ相貌(そうぼう)をあらわしているものとしたら、日本の自然も外国の自然も同じであるはずであって、したがって上記のごとき問題の内容吟味は不必要であるが、しかし実際には、自然の相貌がいたるところむしろ驚くべき多様多彩の変化を示していて、ひと口に自然と言ってしまうにはあまりに複雑な変化を見せているのである。こういう意味からすると、同じように、「日本の自然」という言葉ですらも、じつはあまりに漠然としすぎた言葉である。(略)
 こう考えてくると、今度はまた「日本人」という言葉の内容が、かなり空疎な散漫なものに思われてくる。九州人と東北人とくらべると各個人の個性を超越するとしても、その上にそれぞれの地方的特性の支配が歴然と認められる。それで九州人の自然観や、東北人の自然観といったようなものもそれぞれ立派に存立しうるわけである。(略)
 われわれは通例、便宜上、自然と人間とを対立させ、両方別々の存在のように考える。これが現代の科学的方法の長所であると同時に短所である。この両者は、じつは合わして一つの有機体を構成しているのであって、究極的には独立に切り離して考えることのできないものである。(略)
 日本人の先祖がどこに生まれ、どこから渡ってきたかは別問題として、有史以来二千有余年、この土地に土着してしまった日本人が、たとえいかなる遺伝的記憶をもっているとしても、その上層を大部分掩蔽(えんぺい)するだけの経験の収穫をこの日本の環境から受け取り、それにできるだけしっくり適応するように努力し、また少なくも、部分的にはそれに成効してきたものであることには疑いがないであろうと思われる。(「日本人の自然観」より)

第三巻 第一三号 倭女王卑弥呼考(一)白鳥庫吉  定価:200円
 倭人の名は『山海経』『漢書』『論衡』などの古書に散見すれども、その記事いずれも簡単にして、これによりては、いまだ上代における倭国の状態をうかがうに足(た)らず。しかるにひとり『魏志』の「倭人伝」に至りては、倭国のことを叙することすこぶる詳密にして、しかも伝中の主人公たる卑弥呼女王の人物は、赫灼(かくしゃく)として紙上に輝き、読者をしてあたかも暗黒の裡に光明を認むるがごとき感あらしむ。(略)
 それすでに里数をもってこれを測るも、また日数をもってこれを稽(かんが)うるも、女王国の位置を的確に知ることあたわずとせば、はたしていかなる事実をかとらえてこの問題を解決すべき。余輩は幾度か『魏志』の文面を通読玩索(がんさく)し、しかして後、ようやくここに確乎動かすべからざる三個の目標を認め得たり。しからばすなわち、いわゆる三個の目標とは何ぞや。いわく邪馬台国は不弥国より南方に位すること、いわく不弥国より女王国に至るには有明の内海を航行せしこと、いわく女王国の南に狗奴国と称する大国の存在せしこと、すなわちこれなり。さて、このうち第一・第二の二点は『魏志』の文面を精読して、たちまち了解せらるるのみならず、先輩すでにこれを説明したれば、しばらくこれを措(お)かん。しかれども第三点にいたりては、『魏志』の文中明瞭の記載あるにもかかわらず、余輩が日本学会においてこれを述べたる時までは、何人もかつてここに思い至らざりしがゆえに、また、この点は本論起草の主眼なるがゆえに、余輩は狗奴国の所在をもって、この問題解決の端緒を開かんとす。

第三巻 第一四号 倭女王卑弥呼考(二)白鳥庫吉  月末最終号:無料
 九州の西海岸は潮汐満乾の差はなはだしきをもって有名なれば、上に記せる塩盈珠(しおみつたま)・塩乾珠(しおひるたま)の伝説は、この自然的現象に原因しておこれるものならん。ゆえに神典に見えたる彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)と火闌降命(ほのすそりのみこと)との争闘は、『魏志』によりて伝われる倭女王と狗奴(くな)男王との争闘に類せる政治的状態の反映とみなすべきものなり。
 『魏志』の記すところによれば、邪馬台国はもと男子をもって王となししが、そののち国中混乱して相攻伐し、ついに一女子を立てて王位につかしむ。これを卑弥呼となす。この女王登位の年代は詳らかならざれども、そのはじめて魏国に使者を遣わしたるは、景初二年すなわち西暦二三八年なり。しかして正始八年すなわち西暦二四七年には、女王、狗奴国の男王と戦闘して、その乱中に没したれば、女王はけだし後漢の末葉よりこの時まで九州の北部を統治せしなり。女王死してのち国中また乱れしが、その宗女壱与(いよ)なる一小女を擁立するにおよんで国乱定まりぬ。卑弥呼の仇敵狗奴国の男王卑弓弥呼(ヒコミコ)は何年に即位し何年まで在位せしか、『魏志』に伝わらざれば、またこれを知るに由なし。しかれども正始八年(二四七)にこの王は女王卑弥呼と戦って勝利を得たれば、女王の嗣者壱与(いよ)の代におよんでも、依然として九州の南部に拠りて、暴威を逞(たくま)しうせしに相違なし。

第三巻 第一五号 倭奴国および邪馬台国に関する誤解 他 喜田貞吉  定価:200円
倭奴国と倭面土国および倭国とについて稲葉君の反問に答う
倭奴国および邪馬台国に関する誤解
 考古界の重鎮高橋健自君逝(い)かれて、考古学会長三宅先生〔三宅米吉。〕の名をもって追悼の文をもとめられた。しかもまだ自分がその文に筆を染めぬ間にその三宅先生がまた突然逝かれた。本当に突然逝かれたのだった。青天の霹靂というのはまさにこれで、茫然自失これを久しうすということは、自分がこの訃報に接した時にまことに体験したところであった。
 自分が三宅先生とご懇意を願うようになったのは、明治三十七、八年(一九〇四・一九〇五)戦役のさい、一緒に戦地見学に出かけた時であった。十数日間いわゆる同舟の好みを結び、あるいは冷たいアンペラの上に御同様南京虫を恐がらされたのであったが、その間にもあの沈黙そのもののごときお口から、ポツリポツリと識見の高邁なところをうけたまわるの機会を得て、その博覧強記と卓見とは心から敬服したことであった。今度考古学会から、先生のご研究を記念すべき論文を募集せられるというので、倭奴国および邪馬台国に関する小篇をあらわして、もって先生の学界における功績を追懐するの料とする。
 史学界、考古学界における先生の遺された功績はすこぶる多い。しかしその中において、直接自分の研究にピンときたのは漢委奴国王の問題の解決であった。うけたまわってみればなんの不思議もないことで、それを心づかなかった方がかえって不思議なくらいであるが、そこがいわゆるコロンブスの卵で、それまで普通にそれを怡土国王のことと解して不思議としなかったのであった。さらに唐人らの輩にいたっては、それをもって邪馬台国のことなりとし、あるいはただちに倭国全体の称呼であるとまで誤解していたのだった。

第三巻 第一六号 初雪 モーパッサン 秋田 滋(訳)  定価:200円
 長いクロワゼットの散歩路が、あおあおとした海に沿うて、ゆるやかな弧を描いている。はるか右のほうにあたって、エストゥレルの山塊がながく海のなかに突き出て眼界をさえぎり、一望千里のながめはないが、奇々妙々を極めた嶺岑《みね》をいくつとなく擁するその山姿は、いかにも南国へ来たことを思わせる、うつくしいながめであった。
 頭をめぐらして右のほうを望むと、サント・マルグリット島とサント・オノラ島が、波のうえにぽっかり浮かび、樅《もみ》の木におおわれたその島の背を二つ見せている。
 この広い入江のほとりや、カンヌの町を三方から囲んで屹立《きつりつ》している高い山々に沿うて、数知れず建っている白亜の別荘は、おりからの陽ざしをさんさんと浴びて、うつらうつら眠っているように見えた。そしてはるか彼方には、明るい家々が深緑の山肌を、その頂から麓のあたりまで、はだれ雪のように、まだらに点綴《てんてい》しているのが望まれた。
 海岸通りにたちならんでいる家では、その柵のところに鉄の格子戸がひろい散歩路のほうに開くようにつけてある。その路のはしには、もう静かな波がうちよせてきて、ザ、ザアッとそれを洗っていた。――うらうらと晴れわたった、暖かい日だった。冬とは思われない陽ざしの降りそそぐ、なまあたたかい小春日和である。輪を回して遊んでいる子供を連れたり、男となにやら語らいながら、足どりもゆるやかに散歩路の砂のうえを歩いてゆく女の姿が、そこにもここにも見えた。

第三巻 第一七号 高山の雪 小島烏水  定価:200円
 古い雪の上に新雪が加わると、その翌る朝などは、新雪が一段と光輝を放ってまばゆく見える。雪は古くなるほど、結晶形を失って、粒形に変化するもので、粒形になると、純白ではなくなる。また粒形にならないまでも、古い雪に白い輝きがなくなるのは、一部は空気を含むことが少ないからで、一部は鉱物の分子だの、塵芥(じんかい)泥土だのが加わって、黄色、灰色、またはトビ色に変わってしまうからだ。ことに日本北アルプスの飛騨山脈南部などでは、硫黄岳という活火山の降灰のために、雪のおもてが、瀝青(チャン)を塗ったように黒くなることがある。「黒い雪」というものは、私ははじめて、その硫黄岳のとなりの、穂高岳で見た。黒い雪ばかりじゃない、「赤い雪」も槍ヶ岳で私の実見したところである。私は『日本アルプス』第二巻で、それを「色が桃紅なので、水晶のような氷の脈にも血管が通っているようだ」と書いて、原因を花崗岩の※爛(ばいらん)した砂に帰したが、これは誤っている。赤い雪は南方熊楠氏の示教せられたところによれば、スファエレラ・ニヴァリス Sphaerella Nivalis という単細胞の藻で、二本のひげがある。水中を泳ぎまわっているが、またひげを失ってまるい顆粒となり、静止してしまう。それが紅色を呈するため、雪が紅になるので、あまり珍しいものではないそうである。ただし槍ヶ岳で見たのも、同種のものであるや否やは、断言できないが、要するに細胞の藻類であることは、たしかであろうと信ずる。ラボックの『スイス風景論』中、アルプス地方に見る紅雪として、あげてあるのも、やはり同一な細胞藻であった。このほかにアンシロネマ Ancylonema という藻がはえて、雪を青色またはスミレ色に染めることもあるそうであるが、日本アルプス地方では、私はいまだそういう雪を見たことはない。

第三巻 第一八号 光をかかぐる人々[続]『世界文化』連載分(一)徳永 直  月末最終号:無料
 昭和十八年(一九四三)三月のある日、私は“嘉平の活字”をさがすため、東京発鹿児島行きの急行に乗っていた。伴(つ)れがあって、七歳になる甥と、その母親の弟嫁とが、むかいあってこしかけているが、厚狭、小月あたりから、海岸線の防備を見せまいためか、窓をおろしてある車内も、ようやく白んできた。戦備で、すっかり形相のかわった下関構内にはいったころは、乗客たちも洗面の水もない不自由さながら、それぞれに身づくろいして、朝らしく生きかえった顔色になっている……。
 と、私はこの小説だか何だかわからない文章の冒頭をはじめるが、これを書いているのは昭和二十三年(一九四八)夏である。読者のうちには、昭和十八年に出版した同題の、これの上巻を読まれた方もあるかと思うが、私が「日本の活字」の歴史をさがしはじめたのは昭和十四年(一九三九)からだから、まもなくひと昔になろうとしているわけだ。歴史などいう仕事にとっては、十年という月日はちょっとも永くないものだと、素人の私にもちかごろわかってきているが、それでも、鉄カブトに巻ゲートルで、サイレンが鳴っても空襲サイレンにならないうちは、これのノートや下書きをとる仕事をつづけていたころとくらべると、いまは現実の角度がずいぶん変わってきている。弱い歴史の書物など、この変化の関所で、どっかへふっとんだ。いまの私は半そでシャツにサルマタで机のまえにあぐらでいるけれど、上巻を読みかえしてみると、やはり天皇と軍閥におされた多くのひずみを見出さないわけにはゆかない。歴史の真実をえがくということも、階級のある社会では、つねにはげしい抵抗をうける。変わったとはいえ、戦後三年たって、ちがった黒雲がますます大きくなってきているし、新しい抵抗を最初の数行から感じずにいられぬが、はたして、私の努力がどれくらい、歴史の真実をえがき得るだろうか?

第三巻 第一九号 光をかかぐる人々[続]『世界文化』連載分(二)徳永 直  定価:200円
 「江戸期の印刷工場」が近代的な印刷工場に飛躍するためには、活字のほかにいくつかの条件が必要である。第一にはバレンでこするかわりに、鉄のハンドでしめつけるプレスである。第二に、速度のある鋳造機である。第三に、バレン刷りにはふさわしくても金属活字に不向きな「和紙」の改良である。そして第四は、もっともっと重要だが、近代印刷術による印刷物の大衆化を見とおし、これを開拓してゆくところのイデオロギーである。特定の顧客であった大名や貴族、文人や墨客から離脱して、開国以後の新空気に胎動する平民のなかへゆこうとする思想であった。
 苦心の電胎字母による日本の活字がつくれても、それが容易に大衆化されたわけではない。のちに見るように「長崎の活字」は、はるばる「東京」にのぼってきても買い手がなくて、昌造の後継者平野富二は大童(おおわらわ)になって、その使用法や効能を宣伝しなければならなかったし、和製のプレスをつくって売り広めなければならなかったのである。つまり日本の近代的印刷工場が誕生するためには、総合的な科学の力と、それにもまして新しい印刷物を印刷したい、印刷することで大衆的におのれの意志を表現しようとする中味が必要であった。たとえばこれを昌造の例に見ると、彼は蒸汽船をつくり、これを運転し、また鉄を製煉し、石鹸をつくり、はやり眼を治し、痘瘡をうえた。活字をつくると同時に活字のボディに化合すべきアンチモンを求めて、日本の鉱山の半分くらいは探しまわったし、失敗に終わったけれど、いくたびか舶来のプレスを手にいれて、これの操作に熟練しようとした。これらの事実は、ガンブルがくる以前、嘉永から慶応までのことであるが、同時に、昌造が活字をつくったとき最初の目的が、まずおのれの欲する中味の本を印刷刊行したいことであった。印刷して、大名や貴族、文人や墨客ではない大衆に読ませたいということであった。それは前編で見たように、彼が幕府から捕らわれる原因ともなった流し込み活字で印刷した『蘭語通弁』〔蘭和通弁か〕や、電胎活字で印刷した『新塾余談』によっても明らかである。

第三巻 第二〇号 光をかかぐる人々[続]『世界文化』連載分(三)徳永 直  定価:200円
 第一に、ダイアはアルファベット活字製法の流儀にしたがって鋼鉄パンチをつくった。凹型銅字母から凸型活字の再生まで嘉平や昌造と同様であるが、字画の複雑な漢字を「流しこみ」による鋳造では、やさしくないということを自覚していること。自覚していること自体が、アルファベット活字製法の伝統でそれがすぐわかるほど、逆にいえば自信がある。
 第二は、ダイアはたとえば嘉平などにくらべると、後に見るように活字製法では「素人」である。嘉平も昌造も自分でパンチを彫ったが、そのダイアは「労働者を使用し」た。(略)
 第三に、ダイアの苦心は活字つくりの実際にもあるが、もっと大きなことは、漢字の世界を分析し、システムをつくろうとしていることである。アルファベット人のダイアは、漢字活字をつくる前に漢字を習得しなければならなかった。(略)
 さて、ペナンで発生したダイア活字は、これから先、どう発展し成功していったかは、のちに見るところだけれど、いまやパンチによる漢字活字が実際的に誕生したことはあきらかであった。そして、嘉平や昌造よりも三十年早く。日本では昌造・嘉平の苦心にかかわらず、パンチでは成功しなかった漢字活字が、ダイアによっては成功したということ。それが、アルファベット人におけるアルファベット活字製法の伝統と技術とが成功させたものであるということもあきらかであった。そして、それなら、この眼玉の青い連中は、なんで世界でいちばん難しい漢字をおぼえ、活字までつくろうとするのか? いったい、サミュエル・ダイアなる人物は何者か? 世界の同志によびかけて拠金をつのり、世界三分の一の人類の幸福のために、と、彼らは、なんでさけぶのか? 私はそれを知らねばならない。それを知らねば、ダイア活字の、世界で最初の漢字鉛活字の誕生したその根拠がわからぬ、と考えた。

第三巻 第二一号 光をかかぐる人々[続]『世界文化』連載分(四)徳永 直  定価:200円
 アジアには十六世紀を前後して銅活字の時代があり、朝鮮でも日本でもおこなわれている。秀吉の朝鮮侵略のみやげものに端を発している家康・家光時代の銅活字印刷があるけれど、それにくらべると、このさし絵に見る康熙帝の印刷局ははるかに大規模で組織的であることがわかる。しかし、日本でも『お湯殿日記』に見るような最初の文選工は「お公卿たち」であったが、支那でもあごひげの長い官人たちであった。明治になって印刷術が近代化されてからでも、印刷工業をおこした人々の多くが、武家など文字になじみのある階級だったように、私の徒弟だったころの先輩の印刷工の多くが、やはり士族くずれだったことを思い出す。(略)
 武英殿の銅活字は康熙帝の孫、高宗〔乾隆帝〕の代になるとつぶされて銅貨となった。日本でも家康時代の銅活字は同じ運命をたどっているけれど、支那のばあいは銅貨の不足が原因といわれている。しかし、もっと大きな原因は金属活字にあって、漢字組織ができないならば、またプレス式の印刷機もないとするならば、むしろ手わざの発達による木版の方が容易であり便利であった。ボディが銅であれ鉛であれ、それが彫刻に過ぎないならば、むしろ木版にしくはない。銅活字がほろびて再び木版術が栄え、極彩色の芸術的な印刷物もできるようになった。康熙・乾隆の時代に見られるこの傾向は、十七世紀の終わりから十八世紀のなかほどまでであるが、江戸中期から木版術が再興し、世界にたぐいない木版印刷術を生み出した日本と時間的にもほぼ一致している――ということも、漢字が持つ共通の宿命がするわざであったろう。

第三巻 第二二号 光をかかぐる人々[続]『世界文化』連載分(五)徳永 直  月末最終号:無料
 『東洋文化史上におけるキリスト教』(三六二ページ)で溝口靖夫氏は、前に述べたメドハーストが(Ibid, P.366)自分の当時の経験を追懐した文章を根拠にして、つぎのように述べているところがある。――第五の困難は、アヘン問題と宣教師の関係であった。メドハーストが広東に着いた一八三五年は、アヘン戦争の直前であり、支那と英国のあいだに険悪な空気がみなぎっていた。このときにあたって宣教師たちは、きわめて困難なる立場に置かれた。宣教師たちは、しばしばアヘンを積んだ船に乗ってきた。しかも、メドハーストらは切符は買っているが、積荷について容嘴(ようし)する権利はなかった。……宣教師は、英国人と支那人との間に立って、しばしば通訳の労をとらねばならなかったが、こんなとき支那人はアヘン貿易は正義にかなえるものなりや否や? をただすのであった。……ゆえに当時、宣教師たちのこいねがったのは、一艘の伝道用船を得ることであった。これによりアヘンの罪悪からまぬがるることであった。――一艘の伝道船で、アヘンから逃れることはできないけれど、一口にいって「インドからの手紙」は、英国議会をして宣教師らの活動を保証させる決議案をパスさせながら、こんどは「信教の自由憲章」を勝ち取らねばならぬほどそれが首かせになったことを示している。つまり、産業革命が生み出したアルファベット人種の革命的進歩性は、おなじ産業革命が生み出した「アヘンの罪悪」と衝突しなければならなかったが、この矛盾こそ資本主義の矛盾の中味であり、限界であった。

第三巻 第二三号 銀河鉄道の夜(一)宮沢賢治  定価:200円
「ですから、もしもこの天の川がほんとうに川だと考えるなら、その一つ一つの小さな星はみんなその川のそこの砂や砂利の粒にもあたるわけです。またこれを大きな乳の流れと考えるなら、もっと天の川とよく似ています。つまりその星はみな、乳のなかにまるで細かにうかんでいる脂油(あぶら)の球にもあたるのです。(略)」
 先生は中にたくさん光る砂のつぶの入った大きな両面の凸レンズをさしました。
「天の川の形はちょうどこんななのです。このいちいちの光るつぶが、みんな私どもの太陽と同じようにじぶんで光っている星だと考えます。私どもの太陽がこのほぼ中ごろにあって地球がそのすぐ近くにあるとします。みなさんは夜にこのまん中に立ってこのレンズの中を見まわすとしてごらんなさい。こっちの方はレンズが薄いので、わずかの光る粒、すなわち星しか見えないのでしょう。こっちやこっちの方はガラスが厚いので、光る粒すなわち星がたくさん見え、その遠いのはボウッと白く見えるという、これがつまり今日の銀河の説なのです。そんならこのレンズの大きさがどれくらいあるか、また、その中のさまざまの星についてはもう時間ですから、この次の理科の時間にお話しします。では今日はその銀河のお祭りなのですから、みなさんは外へ出て、よく空をごらんなさい。ではここまでです。本やノートをおしまいなさい。
 そして教室じゅうはしばらく机のふたをあけたりしめたり本をかさねたりする音がいっぱいでしたが、まもなく、みんなはきちんと立って礼をすると教室を出ました。 

第三巻 第二四号 銀河鉄道の夜(二)宮沢賢治  定価:200円
 そのとき汽車はだんだんしずかになって、いくつかのシグナルと転轍器(てんてつき)の灯をすぎ、小さな停車場に止まりました。
 その正面の青じろい時計はかっきり第二時を示し、その振子は、風もなくなり汽車も動かずしずかなしずかな野原のなかに、カチッカチッと正しく時をきざんで行くのでした。
 そしてまったくその振子の音の間から遠くの遠くの野原のはてから、かすかなかすかな旋律が糸のように流れてくるのでした。「新世界交響楽だわ。」むこうの席の姉がひとりごとのようにこっちを見ながらそっと言いました。まったくもう車の中ではあの黒服の丈高い青年も誰もみんなやさしい夢を見ているのでした。
(こんなしずかないいところで僕はどうしてもっと愉快になれないだろう。どうしてこんなにひとりさびしいのだろう。けれどもカムパネルラなんかあんまりひどい。僕といっしょに汽車に乗っていながら、まるであんな女の子とばかり話しているんだもの。僕はほんとうにつらい。)
 ジョバンニはまた両手で顔を半分かくすようにして、むこうの窓の外を見つめていました。
 透きとおったガラスのような笛が鳴って、汽車はしずかに動き出し、カムパネルラもさびしそうに星めぐりの口笛をふきました。

第三巻 第二五号 ドングリと山猫/雪渡り 宮沢賢治  定価:200円
 空が青くすみわたり、ドングリはピカピカしてじつにきれいでした。
「裁判ももう今日で三日目だぞ、いい加減になかなおりをしたらどうだ。」山ねこが、すこし心配そうに、それでもむりに威張(いば)って言いますと、ドングリどもは口々にさけびました。
「いえいえ、だめです、なんといったって頭のとがってるのがいちばんえらいんです。そしてわたしがいちばんとがっています。
「いいえ、ちがいます。まるいのがえらいのです。いちばんまるいのはわたしです。
「大きなことだよ。大きなのがいちばんえらいんだよ。わたしがいちばん大きいからわたしがえらいんだよ。
「そうでないよ。わたしのほうがよほど大きいと、きのうも判事さんがおっしゃったじゃないか。
「だめだい、そんなこと。せいの高いのだよ。せいの高いことなんだよ。
「押しっこのえらいひとだよ。押しっこをしてきめるんだよ。」もうみんな、ガヤガヤガヤガヤ言って、なにがなんだか、まるで蜂の巣をつっついたようで、わけがわからなくなりました。そこで山猫がさけびました。
「やかましい! ここをなんとこころえる。しずまれ、しずまれ!」

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