M-Tea*5_40-電気物語(三)石原 純
2013.4.27 第五巻 第四〇号
電気物語(三)
石原 純
一一、磁気および電気の場、地球磁気
一二、媒質論の発展
一三、感応電流
一四、電流の自己感応および交流
一五、放電
一六、電気振動、電波
一七、真空放電、陰極線
一八、陽放射線
imageプラグインエラー : 画像を取得できませんでした。しばらく時間を置いてから再度お試しください。
月末最終号:無料 p.211 / *99 出版
付録:別冊ミルクティー*Wikipedia(114項目)p.488
※ DRM などというやぼったいものは使っておりません。
※ 現代表記版に加えてオリジナル版を同時収録。
※ JIS X 0213・ttz 形式。
※ この作品は青空文庫にて入力中です。著作権保護期間を経過したパブリック・ドメイン作品につき、引用・印刷および転載・翻訳・翻案・朗読などの二次利用は自由です。
(c) Copyright this work is public domain.
絶望しあってるかーい、週刊雨上がりのコペルニクス。
ライデン瓶の放電やそのほかの火花放電を肉眼で見ると、一瞬時のあいだしか続かないで、その短い時間に電気がひと飛びに中和してしまうように思われるけれども、これを非常に早く回転する回転鏡に映してみると、両極のあいだに多くの往復振動をなして漸次に減衰するものであることがわかる。
この事実は、一八四二年にアメリカのジョセフ・ヘンリーがはじめて鋼鉄針の不規則な磁化によってあきらかにしたのであり、その後、一八五三年イギリスのケルビン卿〔ウィリアム・トムソン〕によって理論的に研究せられ、一八五八年ドイツのフェツ・ダーセンによって回転鏡による実験が工夫せられたのであった。これはちょうど、振子の球を鉛直からはずして離すばあいに直接に静止の位置に達することなく、かえって数回の往復振動をくり返して漸次に止まるのとまったく同様の現象であり、振子の球と等しく電気の運動に対しても一種の惰性の存在するためであることが確かめられる。電流の自己感応もまた、かような惰性のためにおこることはすでに述べたところであるが、交流を断絶したさいに電流が同様の減衰振動をなして後に〇(ゼロ)に達することも実験的に示される。(「一六、電気振動、電波」より)
5_40.rm
石原 純 いしわら じゅん
1881-1947(1881.1.15-1947.1.19)
理論物理学者・歌人。東京生れ。東大卒。東北大教授。相対性理論および古典量子論の研究、自然科学知識の普及啓蒙に努める。著「自然科学概論」、歌集「靉日」など。
◇参照:Wikipedia
石原純、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)。
底本
難字、求めよ
ハンス・デュッヘル
フェツ・ダーセン ドイツ。
ペテノー フランス。
ラツール
リュンコルフ フランス。
ウィリ・ウィーン ドイツ。ウィルヘルム・ウィーン?
磁気の感応現象
静電気感応
電気指力線
等位面
力管
単位電気量
指力管
磁気指力線
自由荷電
外観荷電
真荷電
電媒質
媒質電流
地球磁気感応
感応電流
直巻 ちょくまき? → モーター
分巻 ぶんまき?
混合巻
白熱電灯
感応動電力
多極発電機
振動位相
感応起電機
外箔
放電叉
感応電気
継続装置
高圧感応電流
感応起電力
滑走火花
根状
滑走放電
レントゲン管
電気通路
紅亜鉛鉱
真空球検波器
レナード線
振動図示器
カナル線
カナル線管
陽放射線分析
同性体
むしとりホイホイ
設けれらた → 設けられた 【られ】
がような → かような 【か?】
蜜度 → 密度 【密】
始好つて → 始まつて 【ま?】
聞ので → 聞くので 【く?】
アンキサンダーソン → アレキサンダーソン 【レ】
8,3 → 8.3 【.?】
ブリュッカー → プリュッカー 【プ】
見出たした → 見出だした 【だ】
百三十七圖 → 百二十七圖 【二】
左方に出る → 左方に出る。 【句点?】
關係するところが → 關係する。ところが 【句点?】
きでる。 → できる。 【でき?】
分折 → 分析 【析】
以上、14件。底本は左辺のとおり。
スリーパーズ日記*
司馬さんの著作に佐々木只三郎・手代木作右衛門兄弟ものがあるはず。そう思って書店の文庫本を手あたり次第さぐっていくと、新潮文庫の『歴史と視点』の中に「見廻組について」という随筆を見つける。同じ作品が中公文庫『歴史との邂逅』シリーズにも入っている。初出は『小説新潮』一九七二年二月。
- 渡辺一郎 見廻組。京都の剣術道場「柳心館」を営む。大正四年死去。
- 相模守=蒔田廣孝(まいた ひろたか)。備中浅尾藩主。
- 渡辺吉太郎 見廻組肝煎。渡辺一郎と同一人物か。
- 竜馬殺害に関しては勝海舟が後年、「命令者は幕府の目付榎本対馬守道章ではないか」と推測。
- 見廻組の隊員「四百名」という記録に関して、司馬は懐疑。
- 文久三年四月、清河八郎殺害。一説には老中板倉勝静の命令とも。
- 速見又四郎 講武所の剣術指南方。浪士組取締。佐々木も速見も清河の旧知。
- 浪士組 山岡鉄太郎、松岡萬、速見又四郎が浪士組取締。取締並出役が佐々木唯三郎。
【佐々木唯(只)三郎】
- 直参。千石の旗本。浪士組取締並出役。見廻組相模守組与頭。
- 会津藩士の出。藩で与力の家柄だった佐々木家(父は源八)の三男にうまれ、会津若松にそだつ。
- 江戸へ出て二十七、八のとき旗本の佐々木矢太夫の養子になる。会津の佐々木家とこの幕臣の佐々木家とは縁戚関係にあったらしい。
- 講武所の剣術教授方。精武流。
- 歌が幾首か残る。「先がけて折れし忠義のふた柱くづれんとせし軒を支へて」。国学を鈴木重嶺〔重胤?〕に学んだという。長野主膳(国学者。井伊直弼の懐ろ刀)とも親しかったらしい。
- 手代木直右衛門の娘元枝(唯三郎の姪)の談「かれの兄弟はみな大男だったが、かれだけは中肉中背で、笑うと可愛らしいえくぼができたという。仕事のほかは和歌程度が趣味で、あとのことは、たとえば京都時代、兄の手代木家にきても甥や姪たちの名前さえおぼえなかったという。羽振りは相当よかったらしく、手代木家にくるときは騎馬で、馬丁や下僕を数人つれていた。」
- 鳥羽・伏見の戦で銃弾による負傷をし、二十人ばかりの従者をひきつれて紀州まで退去し、慶応四年(明治元年)正月十二日、紀三井寺の滝之坊で療養中に死去。滝之坊の位牌には唯三郎となっているが、墓のほうは只三郎。行年三十六歳。
【手代木直右衛門】
- 佐々木家の長男。父源八の実家だった手代木家を継ぐ。佐々木家は次男の主馬が継ぐ。
- 会津藩京都守護職公用方の主任格。
- 直右衛門は教養もあり性格も重厚で、体も大きく、人に重んぜられるようなところがある。江戸留守居役もつとめた経験がある。
- 子は幾人もいる。娘に幕末当時幼女だった元枝。
- 死ぬ直前に、「あれ(龍馬・慎太郎暗殺)は唯三郎がやったもので、命令は某諸侯から出た」と語ったという。
- 明治三十六年没。
◇ 典拠:大正四年八月五日付『朝日新聞』第十一面。大泉荘客『手代木直右衛門伝』。
ちなみに『街道をゆく』総索引には、佐々木只三郎・手代木作右衛門ともになし。
以下は、『幕末維新人名事典』奈良本辰也(監修)(学芸書林、昭和53.4)より。
p.293
佐々木只三郎 ささき たださぶろう 天保4-慶応4(1833-1868)
幕臣。清河八郎を斬った。名は泰昌、また高城という。講武所の剣術師範をしていたが、文久三年(1863)三月、幕府浪士組が京都から江戸に帰るとき、速見又四郎、高久保二郎らの同役とともに浪士組取締出役となった。頭取は高橋泥舟。清河八郎は浪士組を幕府から独立の尊攘行動隊にしようとする計画を持ち、それを察知した幕府は佐々木と速見に清河の抹殺を指示。二人は文久三年四月十三日、麻布一ノ橋で清河を斬り殺した。翌元治元年四月、京都見廻組の隊長に転じ、新撰組とともに反幕勢力の弾圧にあたった。鳥羽・伏見の戦いで負傷、紀州に逃れたが三井寺で死んだ。手代木直右衛門の実弟。
p.434
手代木直右衛門 てしろぎ すぐえもん 文政9-明治36(1826-1903)
会津藩士。京都守護職の藩主を助け、反幕志士の弾圧検挙にあたった。名は勝任という。嘉永六年(1853)はじめて江戸にのぼり、藩主に仕えた。安政六年(1859)監察となり、文久三年(1863)江戸詰めとなり、同年、松平容保の守護職就任に伴って上京した。参事奉行職副役を経て若年寄になり、京都における反幕運動抑圧の第一線に立った。土佐の後藤象二郎から大政奉還建白について相談を受けたこともある。大政奉還後は、事態を以前に戻そうと佐幕諸藩の間に説いてまわった。王政復古後は若松城で戦っていたが、明治元年(1868)九月十六日、米沢藩に対して降伏交渉の使節になった。降伏後は鳥取、高須、名古屋藩に幽閉。明治五年に赦されてからは左院少議生、香川、高知の権参事、岡山県の区長をつとめ、岡山で没した。
りっちんたー、ちんらんしぇー。ちっけったー、ちんじゃんほい。
わんてかほい。
大島渚にて。
2013.4.27:公開 玲瓏おきゅぱい迷人。
目くそ鼻くそ、しだひろし/PoorBook G3'99
転載・印刷・翻訳は自由です。
カウンタ: -
- 訂正:『歴史との邂逅』→『歴史のなかの邂逅』 -- しだ (2013-05-04 18:06:18)
- 訂正:『小説新潮』一九七二年二月→『小説新潮』一九七三年一月号 -- しだ (2013-05-04 18:07:44)
- 訂正:作右衛門 → 直右衛門 -- しだ (2013-06-01 17:33:06)
最終更新:2013年06月01日 17:33