MT*2_16-能久親王事跡(六)森 林太郎
2009.10.24 第二巻 第一六号
能久親王事跡(六)
第六回 明治二八年(一八九五)八月~三十六年(一九〇三)一月
森 林太郎
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付録:別冊ミルクティー*Wikipedia(51項目)p.180
(略)二十八日、午前三時三十分、脈不正にして百三十五至。五時、体温三十九・六度、脈百三十六至、呼吸四十五。四肢厥冷(けつれい)して冷や汗を流させ給う。人事を省せさせ給わず。龍脳の皮下注射、COGNAC(コニャック) 酒の灌腸をなしまいらす。七時十五分、病、すみやかになりて、幾ならぬに薨ぜさせ給う。貞愛(さだなる)親王、樺山資紀、高島鞆之助、乃木希典の諸将、別を御遺骸に告げまいらせ、秘して喪を発せず。午後七時、高野盛三郎(家扶心得。)、山本喜勢治(家従心得。)御衣を更えまいらせ、同じ二人、佐本寿人、岩尾惇正(ならびに将校なり。)および中村文蔵(従卒。)御柩におさめまいらす。この時、軍医監石阪惟寛は松本三郎とともに介助す。貞愛親王も立ち会わせ給う。御衣は素絹の単衣、白き麻の襦袢、白き紋縮緬の帯、白足袋にて、紋縮緬の敷布団をしき、同じ地質の掛布団を掛けまいらせ、夏軍衣袴〔夏単衣袴?〕を添えまつりぬ。御柩は厚さ一寸五分の樟板もて、縦七尺、幅四尺、深さ二尺に作らせ、裏面に亜鉛板をはり、御遺骸の周匝には朱と石灰とを填む。御柩の覆は紺地紋緞子もて縫わせ、上覆は紺繻子もて縫わせつ。御柩の台をも樟もて作らせつ。宮の薨ぜさせ給いし家の一室をば、一切の什具を移動せしめず、行軍の間、宮を載せまつりし竹の担架をもあわせて安置し、室の周匝には注連縄を張りぬ。この日より川村景明、近衛師団長の職務を代理す。
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森 林太郎 もり りんたろう
1862-1922(文久2.1.19-大正11.7.9)
森鴎外。作家。名は林太郎。別号、観潮楼主人など。石見(島根県)津和野生れ。東大医科出身。軍医となり、ヨーロッパ留学。陸軍軍医総監・帝室博物館長。文芸に造詣深く、「しからみ草紙」を創刊。傍ら西欧文学の紹介・翻訳、創作・批評を行い、明治文壇の重鎮。主な作品は「舞姫」「雁」「阿部一族」「渋江抽斎」「高瀬舟」、翻訳は「於母影」「即興詩人」「ファウスト」など。
◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店)。
底本
難字、求めよ
捷 しょう?
塩水港汎
社斗街 地名か。
馬廠 ばしょう?
捻髪音
賻弔
木雕
スリーパーズ日記*
「生る / 生れる」は「ある / あれる」と読み、古語で、神や天皇など神聖なものが出現する、生まれることをいう(『古語辞典』旺文社、1984)。本文中に出てくる「生る / 生れる」の読みも「ある / あれる」にした。青空文庫では、芥川龍之介・北原白秋・中原中也・夢野久作・徳冨健次郎・中島敦・宮沢賢治に用例がある。
『能久親王事跡』、これにて完結!
2012.7.3:公開
目くそ鼻くそ。しだひろし/PoorBook G3'99
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- う、ソース版がとんでもないことに、、、 -- しだ (2012-07-03 14:45:29)
- 「れいけつ」言ってるし。 -- しだ (2012-07-03 14:50:51)
最終更新:2012年07月03日 14:50