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M-Tea*3_14-倭女王卑弥呼考(二)白鳥庫吉

2010.10.30 第三巻 第一四号

倭女王卑弥呼考(二)
白鳥庫吉

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月末最終号:無料 p.154 / *99 出版
付録:別冊ミルクティー*Wikipedia(119項目)p.573
※ DRM などというやぼったいものは使っておりません。


飛び出せ! 週刊ミルクティー*


 九州の西海岸は潮汐満乾の差はなはだしきをもって有名なれば、上に記せる塩盈珠(しおみつたま)・塩乾珠(しおひるたま)の伝説は、この自然的現象に原因しておこれるものならん。ゆえに神典に見えたる彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)と火闌降命(ほのすそりのみこと)との争闘は、『魏志』によりて伝われる倭女王と狗奴(くな)男王との争闘に類せる政治的状態の反映とみなすべきものなり。
 『魏志』の記すところによれば、邪馬台国はもと男子をもって王となししが、そののち国中混乱して相攻伐し、ついに一女子を立てて王位につかしむ。これを卑弥呼となす。この女王登位の年代は詳らかならざれども、そのはじめて魏国に使者を遣わしたるは、景初二年すなわち西暦二三八年なり。しかして正始八年すなわち西暦二四七年には、女王、狗奴国の男王と戦闘して、その乱中に没したれば、女王はけだし後漢の末葉よりこの時まで九州の北部を統治せしなり。女王死してのち国中また乱れしが、その宗女壱与(いよ)なる一小女を擁立するにおよんで国乱定まりぬ。卑弥呼の仇敵狗奴国の男王卑弓弥呼(ヒコミコ)は何年に即位し何年まで在位せしか、『魏志』に伝わらざれば、またこれを知るに由なし。しかれども正始八年(二四七)にこの王は女王卑弥呼と戦って勝利を得たれば、女王の嗣者壱与(いよ)の代におよんでも、依然として九州の南部に拠りて、暴威を逞(たくま)しうせしに相違なし。

3_14.rm
(朗読:RealMedia 形式 404KB、3'15'')

白鳥庫吉 しらとり くらきち
1865-1942(元治2.2.4-昭和17.3.30)
東洋史学者。上総茂原生れ。東大教授。近代的東洋史学を確立し、北方民族および西域諸国の研究を開拓。東洋文庫研究部を創設。著「西域史研究」など。

◇参照:Wikipedia 白鳥庫吉、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)。


底本

底本:『白鳥庫吉全集 第一巻 日本上代史研究 上』岩波書店
   1969(昭和44)年12月8日 発行
初出:『東亜之光』第5巻第6・7号
   1910(明治43)年6・7月
http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person603.html

NDC 分類:210(日本史)
http://yozora.kazumi386.org/2/1/ndc210.html


難字、求めよ

『呉志』 呉国志か。呉書か。
火之戸幡姫児千々姫命 ひのとはたひめご ちちひめのみこと
万幡姫児玉依姫命 よろづはたひめこ たまよりひめのみこと
『中外経緯伝』
上宮紀 上宮記(じょうぐうき)か。
大中比弥
田宮中比弥
阿那爾比弥
布利比弥命
吉多斯比弥乃弥己等 きたしひめのみこと? 蘇我堅塩媛か。
加斯支移比弥乃弥己等
須売良美古登 すめらみこと(天皇)か。
比味呼 ひみこ(卑弥呼)か。
豊秋津師比売命 とよあきつしひめのみこと
久努 クヌ
子致 コチ
子致彦 コチヒコ
『征韓起源』
隼人国
嗣者
志貴多奈彦命
建男祖命 志貴多奈彦ノ命の子か。
松津
葛津
武諸木 多臣の祖。
兎名手 国前臣の祖。
夏花 物部君の祖。
神夏磯媛
八握剣 やつかのつるぎ?
素幡樹 しらはたのき?
貫山 つらぬきさん? 企救郡。
津媛
大屋田子 おおやたこ 陪従(みとも)。
八十女 やそめ 土蜘蛛。
神代直 かしろのあたい、か。
浮穴沫媛 うきなわひめ
夏羽 田油津媛の兄。
五馬媛 土蜘蛛。
大山田女 土蜘蛛。
狭山田女 土蜘蛛。
諾冊二神 だくさつにしん、か。
我那勢之命
神衣祭 神御衣の祭(かむみそのまつり)か。
麻績機殿神服社
于時
長えに ながえに?
憑託 ひょうたく?
崩去 ほうきょ? 崩御(ほうぎょ)か。
雄拠 ゆうきょ?
神名式 『延喜式神名帳』か。

むしとりホイホイ

之と → これを 【を、か?】
倭姫命世紀 → 倭姫命世記 【記、か】

2か所とも底本は左辺のとおり。現代表記版を右辺に変更。


スリーパーズ日記


「各處」を「各所」にした。

武市半平太 たけち はんぺいた 1829-1865
佐々木高行 ささき たかゆき 1830-1910
小松帯刀 こまつ たてわき 1835-1870
坂本龍馬 さかもと りょうま 1836-1867
谷 干城 たに たてき 1837-1911

 小松とのからみが極端に少ないが、薩長同盟、お龍との薩摩旅行、大政奉還の建白を考えると、むしろ両者は意気投合していたんじゃないだろうか。上士と下士の差が強調されているが、佐々木や谷のような理解者・協力者がいたはず。

 佐伯有清『邪馬台国論争』(岩波新書、2006.1)、森浩一『山野河海の列島史』(2004.2、朝日新聞社)、同『古代史おさらい帖』(筑摩書房、2007.10)、同『日本の深層文化』(ちくま新書、2009.7)、渡辺淳一『欲情の作法』(幻冬舎、2009)読了。『邪馬台国論争』のあとがきによれば、佐伯有清は二〇〇五年七月に亡くなっている。
 『倭人伝を読む』(中公新書、1982.10)以来、森浩一のものを連続して追いかけている。古代史の第一人者のはずだが、当時の海岸線の全体像復元には着手していないらしい。
 「倭人伝を読んで気づくのは、川の記述がないことである」「それと泉や井戸もあらわれない」(森『山野河海——』)。つけくわえれば、山の記述もない。瀚海(対馬海峡)以外、海峡や瀬戸の記述もない。山陰ルートでヤマトへ入ったとすれば、琵琶湖を記していないのは不自然。狗奴国が毛野国だとすれば、富士山とその所属を書きしるしておいてもよさそうだが、それもない。くわしい地理情報はそれだけで軍事・国防にかかわる機密。距離や方位や地名や人名・官名をあえて詳述していない(または誤読しやすくしてある)のは、辺境=夷狄の中華思想もあろうが、倭人側が故意に伏せていた可能性もないだろうか。

 一〇月二六日、赤塚長一郎氏、没。天童市貫津、七五歳。


2010.11.4:公開
不羈独立。ケイオス。
目うんこ、鼻うんこ。PoorBook G3'99
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最終更新:2010年11月04日 00:40