MT*2_43-清河八郎(六)大川周明

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MT*2_43-清河八郎(六)大川周明

2010.5.15 第二巻 第四三号

清河八郎(六)
大川周明
 第七章 清河八郎はいかなる人ぞ
    一 彼をしてみずから語らしめよ
    二 学者としての八郎
    三 子としての八郎
    四 友人としての八郎
    五 英雄みな有情
    六 八郎、最後の精神
 第八章 清河八郎正明年譜




【週刊ミルクティー*第二巻 第四三号】
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※ オリジナル版に加えて、ミルクティー*現代表記版を同時収録。
※ JIS X 0213・ttz 形式。
※ この作品は青空文庫にて入力中です。翻訳・朗読・転載は自由です。
(c) Copyright is public domain.

定価:200円(税込)  p.207 / *99 出版
付録:別冊ミルクティー*Wikipedia(77項目)p.415
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飛び出せ! 週刊ミルクティー*


 間崎哲馬は高知第一の秀才として、藩主より江戸留学を命ぜられ、安積艮斎の塾に入って八郎と知ったのであるが、下の書簡を見ればいかに彼が八郎に傾倒していたかを知りうる——「……古の君子、一時に相集まるを見候に、気質人々おのおの異なり、ただその古人の道をこころざすは、すなわち同じ。古の君子これをもって金蘭の交をなすは、必ずしもその気質同じきにあらざるなり。今、わが兄と僕ともまたかくのごとし。僕の不肖なるもとより、わが兄の一顧をこいねがうにたらず、しかもわが兄、憐れんでこれを棄てずば、請う驥尾(きび)に付してもって千里を致さん(略)」。
 彼が一面において眼中人なき自負の態度あり、感情の激するや往々にして暴怒にいたることありしにかかわらず、同志のこれに背かざりし所以のものは、その純一にして深厚なる友情によるものである。無礼人斬殺によって彼は諸友にひとかたならぬ迷惑を負わせた。しかも一人として彼を恨む者なかった。その潜行中には、各地の同志みな満輻の好意をもって彼を待った(略)。
 今日のいわゆる志士または国士と称するものの交わりを見るに、離合集散ほとんど測り難きものがある。昨日まで死生を契れる仲と思っていた同士が、今日は分かれて互いに悪声を放っている。しかしてその乖離の原因は、たとえいかに立派なる修辞をもって紛飾しても、結局は利害の衝突かまたは嫉妬・排擠(はいせい)にすぎない。いずれにしても死生あい結べる羈(きずな)を絶つ理由とはなりがたいものである(略)。


2_43.rm
(朗読:RealMedia 形式 396KB、3'12'')

間崎哲馬 まさき てつま 1834-1863 土佐藩士。哲馬は通称で、名を則弘という。号は滄浪。高知へ戻ってからは、土佐藩が設営した田野学館や私塾で教鞭をとる。その後土佐勤王党に参加。切腹。
金蘭の契り きんらんのちぎり 心の通い合う、親友の固い交わり。親密な友情。断金の契り。
驥尾 きび 駿馬(しゅんめ)の尾。または駿馬の後方。
排擠 はいせい 人をおしのけおとしいれること。排陥。排斥。


大川周明 おおかわ しゅうめい
1886-1957(明治19.12.6-昭和32.12.24)
国家主義者。山形県生れ。東大卒。満鉄入社後、猶存(ゆうぞん)社・行地社・神武会を結成。軍部に接近、三月事件・五‐一五事件などに関与。第二次大戦後、A級戦犯。著「近世欧羅巴植民史」など。

◇参照:Wikipedia 大川周明、『広辞苑 第六版』(岩波書店)。


底本

底本:『清河八郎』行地社出版部
   1927(昭和2)年2月11日 発行

NDC 分類:289(伝記:個人伝記)
http://yozora.kazumi386.org/2/8/ndc289.html


年表

天保元(一八三〇) 一歳
一〇月一〇日 今の山形県東田川郡清川村にいたる。幼名は元司、父は斎藤豪寿、治兵衛と称し雷山と号す。母は三井氏にして亀代という。

天保二(一八三一) 二歳

天保三(一八三二) 三歳
妹辰生まれる。

天保四(一八三三) 四歳
諸国凶荒、奥羽、特にはなはだし。

天保五(一八三四) 五歳
妹家生まれる。

天保六(一八三五) 六歳
祖父昌義、八郎およびその母をともないて山形に遊び、山寺の勝を観て帰る。

天保七(一八三六) 七歳
はじめて孝経の句読を父に受く。弟熊次郎生まれる。この年、奥羽また飢饉、民多く流亡す。

天保八(一八三七) 八歳
『論語』の句読を受く。
二月 大塩平八郎の乱あり。
八月 徳川家慶、征夷大将軍に任ず。

天保九(一八三八) 九歳
弟熊三郎生まれる。

天保十(一八三九) 十歳
十月、鶴岡に出で、伯父金治に依り、四書を伊達鴨蔵に受け、書を清水群治〔郡治か〕に学ぶ。

天保一一(一八四〇) 十一歳
鶴岡にあり。

天保一二(一八四一) 十二歳
鶴岡にあり。詩経の句読を受く。

天保一三(一八四二) 十三歳
一二月 鶴岡より帰る。

天保一四(一八四三) 十四歳
三月 関吏・畑田安右衛門について五経を学ぶ。

弘化元(一八四四) 十五歳
一月 発憤して志を立つ。九月、父母に従って弟妹とともに仙台に遊び、塩釜・松島の諸勝を歴観し、浩然として四方の志あり。

弘化二(一八四五) 十六歳
二月一日 元服を加わう。

弘化三(一八四六) 十七歳
一月 仁孝天皇崩御し、皇太子践祚す。これを孝明天皇となす。
四月 藤本鉄石、父豪寿を訪うて来たり宿す。ついて上国のことを聞き、おおいに感憤するところあり。

弘化四(一八四七) 十八歳
五月 書を遺して亡命し、江戸に出でて米商某に依る。
八月 質を東条一堂に委し、古学を受く。

嘉永元(一八四八) 十九歳
一月 伯父金治および弥右衛門、江戸に来たり、八郎をさそいて西上国に遊ぶ。八郎、京都にいたりてはるかに禁闕を拝し、その規模の千代田城に比してはなはだ狭隘なるを見、慨然として勤王の志を起す。ついに西して広島に行き、めぐって畿内の名勝を探る。
五月 江戸にかえる。
七月 熊次郎病死し、八郎、喪に郷里に帰る。

嘉永二(一八四九) 二十歳
二月 父豪寿、八郎を留めて家を守らしめ、上国に遊び半歳を閲して帰る。英艦浦賀に入り、下田近海を測量して去る。

嘉永三(一八五〇) 二十一歳
一月 策を決して家を出て、鶴岡に至り伯父金治に依り、遊学の命を父に請う。父、これをゆるし給するに旅費をもってす。
三月一一日 北越より中仙道をへて京都に入る。
三月一七日 質を岡田六蔵に委す。
六月一一日 海にうかんで九州に遊ぶ。
八月八日 京都に返り、『西遊紀事』一巻をしるす。
九月二一日 東して江戸に至り、墨陀の松荘に寓す。

嘉永四(一八五一) 二十二歳
一月 ふたたび東条一堂の塾に入る。
二月 はじめて剣法を千葉周作に受く。
一〇月 一堂、八郎をもって塾頭となさんとせしも固辞してつかず。

嘉永五(一八五二) 二十三歳
一月 安積艮斎の塾に入る。

嘉永六(一八五三) 二十四歳
三月 帰省す。
四月 北游して松前に航し、虜情を探る。
六月 米使ペリー、浦賀に来たり通交を求む。徳川家慶薨じ、家定、征夷大将軍に任ず。

安改元(一八五四) 二十五歳
二月 また江戸にあそび昌平黌に入る。
一一月 帷を三河町に下して文武の子弟を集む。諸国地震あり海水横溢す。
一二月 元を安政と改む。八郎またまたみずから改めて清河八郎という。書を本藩太夫・石原某および郡代・辻某にあたえて当今の急務二事を論ず。家塾火災にかかる。

安政二(一八五五) 二十六歳
一月 郷里に帰省す。
長藩士・吉田寅次郎、米艦に投せんことを謀りて果たさず。
三月 母・三井氏を奉じて上国にあそぶ。
七月 めぐって江戸に至り、ふたたび帷を薬研堀に下す。
九月 安積五郎をともない、母を送りて郷に帰る。『西遊草』八巻・『奉母紀行』四巻をしるす。
一〇月 江戸の大いに震う。水戸藩の重臣・藤田彪、圧死す。八郎、五郎とともに馳せて江戸におもむき、屋を撤し返って瀬見温泉に浴す。
一一月 堀田正篤、幕府の老中となり、もっぱら外交をつかさどる。

安政三(一八五六) 二十七歳
一月 瀬見より帰る。
四月 弟熊三郎を提け仙台におもむき、これを桜田良佐に托して帰り、楽水楼に隠れ経史を研鑚し著述に従事す。
七月 米使ハリス、下田に来る。
九月 仙台におもむき糠倉町に寓す。

安政四(一八五七) 二十八歳
一月 『大学贅言』一巻稿を卒える。
二月 『中庸贅言』一巻稿を卒う。
四月 弟熊三郎をともないて江戸に至り、これを千葉周作に托して剣法を学ばしめ、みずから下谷新屋敷に寓す。
六月 転じて組屋敷に寓す。
六月二九日 江戸から郷里の妹辰代にあてた手紙。
八月 三たび帷を駿河台淡路坂に下す。
一〇月 米使ハリス、江戸に入り、老中堀田正篤を見て海外の情勢を説く。
一一月二六日付 母にあてたる書簡。

安政五(一八五八) 二十九歳
三月 天皇、幕府に勅して攘夷の典を挙げしむ。
四月 彦根侯・井伊直弼、幕府の大老となる。
六月 幕府、英仏米の三国要求するところの貿易条約に調印す。
七月 征夷大将軍・徳川家定薨ず。直弼、衆議をしりぞけ紀州侯・徳川慶福を擁立して儲弐となし、ついに徳川斉昭および異議を持するの諸侯をしりぞく。天皇、内勅を斉昭に下す。
八月 八郎、伊香保温泉に浴す。
九月 幕府の老中間部詮勝、京師に入り、志士数十名を捕らえ、ついに関白にせまりて粟田宮および異議を持するの公卿を幽す。
一〇月 徳川家茂、征夷大将軍に任ず。

安政六(一八五九) 三十歳
一月 弟子小栗篤三郎を率い、文武を諸藩に試む。
三月 北して天童にいたり、たまたま家塾火災にかかるを聞く。
四月 郷里に帰省す。
五月 文武を北越に試む。
六月 江戸に入り、災迹を治めて花川戸に寓す。
八月 四たび帷を神田於瑶ヶ池に下す。『論話贅言』三巻稿を卒う。大老井伊直弼、大獄を起して徳川斉昭を水戸に錮し、ならびに異議の士庶数十百名を廃黜斬流す。
九月 『文道篇』二巻・『武道篇』一巻稿を卒う。

万延元(一八六〇) 三十一歳
一月 安藤信正、幕府の老中となる。
三月三日 水戸の浪士・佐野竹之助ら十七名結束して井伊直弼登城の途を桜田門外に要撃してその首を斬る。
閏三月 弟熊三郎と郷里に帰り、祖父昌義の病をみる。幾くもなく南上す。
四月八日 昌義病死す。
五月 正明喪にはしり、幾もなく南上す。浪士、米人を三田に斬る。八郎、同志を集めて窃に尊攘の義挙を策す。

文久元(一八六一) 三十二歳
一月 水戸の壮士、各地に屯するを聞き、みずから一奴を率い往いて総常の動静を察し、そのなす有るにたらざるを見て還る。
二月 おおいに尊攘党を於瑶ヶ池に会して回天の大事を企画す。
五月二〇日 同志数名と水戸の壮士に両国万八楼に会飲す。帰路、暴人ありことさらに衝突し、杖をあげて八郎を撃つ。八郎、怒りてこれを斬る。逋卒の追跡するところとなる。
五月二一日 同志安積五郎・伊牟田尚平・村上俊五郎らとともに吏目を奥富村に避く。弟熊三郎・妾蓮および同志池田徳太郎・門人笠井伊蔵、連座逮繋せらる。
五月二四日 同志石坂周造、逮繋せらる。同志北有馬太郎・西川練造また逮繋せらる。八郎、江戸に潜入し故人嵩春斎による。春斎、薩士樋渡八兵衛・神田橋直助とともに営救はなはだ力む。
五月二八日 五郎と姓名を偽り、商估に擬して逋亡す。この夜、浪士、東禅寺の夷館を襲う。幕吏もって清河党の手に出づるとなし、所在譏察を設けて物色はなはだ厳なり。
六月 五郎と会津より間行して北越に走り松の山温泉に潜む。幕吏、嵩春斎を捕らえてこれを錮す。
七月 五郎と信・毛に間関し、ひそかに江戸に入り山岡鉄太郎を訪う。窃に薩士を見て後図をなさんとせしも意を得ず、逃れて水戸に入り、しばらく故人菊池某の家にかくれ、また北して仙台にはしり、故人・桜田敬助に依る。敬助、その友・戸津宗之進とともに百方庇保す。
八月 蒲生村にひそみ、五郎、石巻にひそむ。尋いて八郎ひとり間行して父母の消息を問わんとして天童にいたり、山口村旧知の家を過り、略々郷情を得て還り、転じて仙台北山にひそむ。たまたま伊牟田尚平、八郎を跡ねてくる。すなわち尚平・五郎・敬助・宗之進と塩釜に会議し、回天の義挙を約して散ず。尚平、水戸におもむき江戸の情勢を探り、八郎は敬助にともなわれて小船越の名族高城氏による。尋いて五郎とともに北して遠野におもむき、故人・江田大之進に依り同盟をつのり、また物色を海浜の漁村に避く。
一〇月七日 間行して仙台にかえる。尚平、まず来たってあり、つぶさに報ずるに幕吏廃立をはかるをもってす。八郎おおいに怒る。
一〇月九日 策を決し、五郎・尚平と容を変じて西行す。途に伊勢神宮を拝して回天の成業を祈る。祝人山田大路、八郎に貽るに古鏡一面をもってす。
一一月九日 京師に至り田中河内介の家に宿り、共に議して回天の策を定め、河内介の先容をもって中将・中山忠愛に謁し、説くに時事の危急、尊攘の義挙をもってす。すなわち忠愛をして九州の義徒を募るの手書をおさめしめ、また矯めて粟田宮の密旨をする。
一一月二五日 五郎・尚平と航して九州におもむく。船中「回天封事」を草す。この月、皇妹和宮、将軍徳川家茂に降嫁す。
一二月二日 肥後の安楽寺村にいたり、松村大成の家に宿り、密旨を伝えて義士をつのる。平野国臣・真木保臣、慨然死をゆるす。
一二月七日 国臣・尚平をして薩藩に説かしめ、五郎とともに肥・筑・豊の間に馳駆して勤王の士気を鼓動す。
一二月二四日 国臣・尚平二人、薩よりかえり、八郎に報していわく、薩藩すでに動くと。すなわち五郎を留め、尚平をたずさえて豊後の岡におもむき、小河一敏の家に宿り同盟の士をつのる。

文久二(一八六二) 三十三歳
一月二日 八郎、尚平と岡を発して東す。
一月一二日 京都にいたり、田中河内介の家にいる。肥士宮部鼎蔵・松村深蔵、来たりて八郎によりて中山忠愛に見え、手書を得て西に帰る。
一月一五日 浪士、幕府の老中安藤信正を坂下門に狙撃してこれを傷つく。
二月 薩士柴山愛次郎・橋口壮助来たり、八郎に報していわく、薩侯の大伝〔太傅か〕島津久光、不日東勤の途にのぼる、諸君とともに事に尊攘に従わんと欲すと。八郎すなわち和泉の駕を伏見に要するの策をなし、檄を飛ばして諸豪傑を招く。
三月 藤本真金を訪い、これをして同盟に加わらしむ。安積五郎、九州よりかえる。
三月二五日 八郎、吏目をさけて河内介・真金・五郎・尚平以下十余名と大阪の薩邸に投ず。みずから仮称大谷雄蔵を改めて日下部達三と称し、また名を震と改む。小河一敏・平野国臣、その徒をひきいて前後九州より来る。
四月 八郎、書を本藩酒井侯にたてまつり天下の大勢を論じ、侯をして早くみずからその方向を定めしめ、かつ、もってみずから明にす。また書を父母に贈り、つぶさに素志の報効にあるを告げ、もってその意を安ぜしむ。
四月九日 薩侯大伝・島津久光、大阪に達す。
四月一二日 久光、大阪を発して京都に朝す。たまたま、福岡侯・黒田斎博〔斉溥か〕、東勤せんとして関を出づ。国臣、尚平をさそい、往いて斎博の駕を姫路に阻し論陳するところあり、斎博おおいに驚き、病と称して西にかえる。
四月一三日 八郎、薩邸を去りて京都におもむき、飯居簡平の家にひそむ。幕府、越侯松平慶永、一橋侯徳川慶喜を起して機議に参せしめ、奏して粟田宮および近衛忠煕・鷹司輔煕・故三条実万の幽屏を解く。
四月二三日 薩士有馬新七以下の壮士六十余名、戎装して邸を出て、伏見の逆旅寺田屋に会食し、まさに京都にせまり九条関白・酒井所司代の第を襲うてこれを屠り、闕下に伏奏して掃攘の勅を請い、錦旗を擁して回天の大事を決行せんとす。久光これを聞きおおいに驚き、奈良原喜八郎以下八名に命じてこれを遏めしむ。格闘たがいに死傷あり。八郎画策するところの尊王討幕の大挙これにおいて一敗振わず。しかれどもこのこと一伝するや、近畿震駭し朝臣・幕吏とみに面目を革む。
四月二五日 議奏三条実愛によりて回天封事をたてまつり、乙夜の覧に入る。
五月初旬 真金・五郎と相たずさえて畿甸のあいだを馳騁し再挙を図る。天皇勅書を廷臣に下す。中に忠士密奏の語あり。けだし八郎の封事を指すなり。
五月二一日 大原重徳、勅を奉じて東下す。島津久光、護衛してこれに従う。
六月六日 義気を関東に振わんと欲し、五郎を留めて後事を処せしめ、東下の途にのぼる。村上俊五郎の来たるに遇い、すなわちたずさえて京都に返り、ともに九条の家令・島田左近の宅を襲う。去って紀伊・大和をめぐり伊勢に出て、神宮を拝し、金を献して神風社灯を建て、勤王諸士の姓名を刻す。幕府、勅を奉じ徳川慶喜をもって将軍を補佐し、松平慶永をもって政事を総裁せしむ。薩士英人を生麦に殺す。
六月二四日 八郎・俊五郎と江戸に入る。
六月二七日 去りて水戸におもむき義故を糾合す。
閏八月七日 妾蓮獄中に痩死す。八郎、水戸より間崎哲馬・山岡鉄太郎に托して書を慶永にたてまつり、大赦の令を下すを勧む。けだし同志の囚を解かんことを欲するなり。
九月七日 仙台に抵り志士と再挙を約す。また北して川渡温泉におもむき、家書を通じ家信を得たり。ついに松島に寓して『潜中紀事』を草す。
九月二一日 仙台にありて母にあててしたためたる書簡。蓮の牢死を聞き、その供養を懇願。
一〇月 俊五郎を遠野に遣り、ひとり仙台を発し、相馬・水戸をへて江戸にいたる。
一二月 幕府、松平主税介をあげて浪人取扱い役となす。勅使中納言三条実美・少将姉小路公知、登営して速やかに攘夷の期を刻せしむ。幕府大赦の令を下し、ことごとく志士の囚をゆるす。幾くもなく両使西に発し、慶喜もまた尋いて西にのぼる。

文久三(一八六三) 三十四歳
一月 幕府、山岡鉄太郎・松岡万を浪人取扱いとなし、諸国の志士を徴す。八郎また四方に飛檄し、池田徳太郎・石坂周造をしてもっぱら徴募に従事せしむ。
二月四日、徴募に応ずる者二百三十四名を伝通院に会す。この日、主税介職を辞し、鵜殿鳩翁これにかわる。
二月六日 浪士組の団結なる。
二月八日 鳩翁これを統率して中山道より西にのぼる。
二月一三日 征夷大将軍徳川家茂、親藩以下を率い東海道より西にのぼる。
二月二二日 浪士ら持院に入り、足利尊氏の木像の首を斬り、これを三条磧に梟す。
二月二三日 浪士組、京都に抵り、洛外壬生村新徳寺に館す。
二月二四日 八郎、書を裁して学老院〔学習院か〕国事掛にたてまつる。
二月二九日 国事掛、浪士を召し、ただちに勅書および朝旨を賜わり、かつ時事を下問す。
三月四日 家茂上洛、二条の城に入る。
三月五日 八郎、書を国事掛にたてまつり、目下の急務を条陳し、すみやかに浪士をして東に帰りて掃攘の戦備をおさめしめんことを請う。朝議旨を幕老に伝えて浪士組の東帰を許さしむ。幕老ついに高橋精一郎を浪人取扱いとなす。近藤勇ら異議を発して浪士組を脱す。
三月七日 家茂、親藩以下をひきいて入勤す。
三月一一日 天皇、三百年の廃典を復して上下加茂に幸し、掃攘の成功を祈る。
三月一三日 精一郎、鳩翁とともに浪士組を統率し、道を木曽に取る。
三月二八日 江戸にかえり、これを本所三笠町小笠原氏の邸に置く。八郎、幕吏の耳目をさけて山岡鉄太郎の家に寓す。
四月一二日 書を父母に贈り、兄弟ともに命を国事になげうち、皇威を海外にあげて父母の名を顕すを期するの意を詳述す。
四月一三日 上の山藩士・金子与三郎の招きに応じ、麻布の邸におもむき、黄昏、酒をこうむりて帰り、一の橋をすぎ、刺客の暗撃するところとなりて斃る。石坂周造、変を聞き馳せいたり、八郎の首をうばい、これを鉄太郎に致す。鉄太郎、仮にこれを邸内にうめ、後、僧琳瑞に托して所静院〔処静院か〕の境内に葬る。この夜、幕府にわかに鳩翁の職を免じてふたたび松平主税介に委す。
四月一四日 幕府命じて精一郎および鉄太郎の職を免じその家に幽す。主税介、六藩の兵を発して小笠原氏の邸をかこみ、浪士組の領袖を捕らえてこれを各藩に錮す。熊三郎、また本藩に錮せらる。
五月一七日 幕府、浪士組を改めて新徴組と称し、これを庄内侯に属せしむ。

明治二(一八六九) 没後六年
五月 八郎の髑髏を郷里清川村歓喜寺の先塋に改葬す。仏号を清秀院殿忠正明義居士という。
一一月 坊城按察使、その家にのぞみ朝命を父豪寿に伝え、祭粢料金二千匹を賜う。

明治二四(一八九一) 没後二八年
一一月 朝命あり、八郎の霊を靖国神社に合祀す。

明治四一(一九〇八) 没後四五年
九月 特旨をもって正四位を贈らる。

大正一五(一九二六) 没後六三年
九月 清河神社創建を許可せらる。


難字、求めよ。

豪果
優傑
異墨 遺墨か。
花法虚容
矯払
陋読
範らざる
柳氏
剛簡
誠偽 正偽か。
足踏目視の想
晦昧
満輻 満幅か。
野妾
賢貞
噂高 うわさだか?
讒議
墨陀 墨田か。
虜情
災迹
於瑶ヶ池 お玉ヶ池か。
逋卒
吏目
略々
大伝 太傅か。
機議
神風社灯
学老院 学習院か。


スリーパーズ日記

 宅録中に、頭上をオスプレイがしきりに行き交う。やかましーい! 気が散るー! 5.15。365分の1だから、宝くじよりもよほどあたる確率は高い。

 ついつい饒舌に書いてしまいそう。こらえて、連載のしめくくりにあたって、短く「清河八郎」という名前について。
 本名、斎藤元司。正明。みずからを清河八郎と名乗るのは二十五才のときから。「清河」という姓が、出身の清川村に由来し、小さな川ではなく大河をめざす意味をこめて「河」の字を選んだことは、いくつかの書籍にも紹介されている。では「八郎」という名前のほうは何を意味するのか。

 この問題、かつて、いままで誰かが検討した記述を目にしたことがない。小山松『清河八郎』によれば、幕末四八郎に、井上八郎・清河八郎・天野八郎・伊庭八郎がいる。幕末のさきがけとして大塩平八郎という線も頭をよぎるが可能性は薄い。
 今回、入力作業中に思いあたったのは「鎮西八郎」為朝。本文中もしくは八郎の書き残した文中に「鎮西」の文字が頻出することにヒントを得た。『椿説弓張月』曲亭馬琴作、葛飾北斎画、1807〜11年(文化4〜8)刊の主人公。『八犬伝』はそれに続く1814〜42年刊。自分を鎮西八郎・源為朝になぞらえていたのではないだろうか。清河の鎮西八郎。



2010.5.17:公開
2010.5.20:更新
目くそ鼻くそ/PoorBook G3'99
翻訳・朗読・転載は自由です。
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  • 鎮西八郎、どうやらビンゴ。「鎮西八郎為朝を尊敬していたので、八郎を名乗った」とブログに記す人あり(久恒啓一『今日も生涯の一日なり』http://plaza.rakuten.co.jp/hisatune/diary/200705080000/)。また、佐藤垢石の随筆「姫柚子の讃」のなかに「八郎と名がついているからには、鎮西八郎ぐらいにはなるだろう。と言って大笑いした」との記述を見つける(http://www.aozora.gr.jp/cards/001248/files/46808_26510.html)。 -- しだ (2010-05-18 05:10:37)
  • なるほど。やはり八郎も、サムライっていうのはフィクションなんだっていうことをわかってたんだと思う。 -- しだ (2010-05-18 05:19:15)
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