粉川哲夫『バベルの混乱』1 情報と造反

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バベルの混乱

粉川哲夫


目次
1 情報と造反
バベルの混乱は恐くない
企業の文化戦略はもう古い
電子時代は徹底的にエキセントリック
衛星ジャックで情報の乱世が始まった

2 肉体の変貌
カウチ・ポテトは無害な麻薬か?
エレクトロニクスが終わらせ、始めるもの
肉体が脳髄のとりこになった
アンドロイドの作り方
パフォーマンスが始まる〈スペース〉

3 過激なコミュニケーション
資本主義のエアポケットで過激なことが花開く
日本のラジオが電子広場になったとき
8ミリ映画が新しくなるとき
自由ラジオとは何であったか
パソコソ通信でコミュニケーションを重層化する
メディアに統合はいらない

4 資本主義と情報技術
サイバーテクノロジーの政治
情報技術としてのユダヤ主義
エイズと〈伝染メディア〉の終焉

あとがき



1 情報と造反

バベルの混乱は恐くない
 テクノロジーの発達というものはバベルの塔の建設に似ている。それは、天まで届く一つの統一世界を作ろうとするのだが、出来上がる世界はますますバラバラのものになってしまうのである。
 しかし、バベルの神話を否定的に受けとるのはまちがいなのではないか? バベルの塔の建築者たちは、はじめから決して統一された世界など求めてはいなかったとも考えられるからである。
 エレクトロニクスに関心のある人は、ほとんど無秩序とも言えるその多様化ぶりにフラストレーションをおぽえるはずだ。実質的にちがった機能をもっているわけではないのにキャプテンがあり、パソコン通信がある。ワープロとコンピューターは一つにならないのか?コンピューターのプリンターとファックスのそれとを共有させられれぼスペースは大分節約できる。レコード、コンパクトカセット、CD・・・音楽メディアはいずれCDだけになるのだろうか? べーターかVHSかという議論が一VHSの優勢によって一おさまってきたかと思ったら、8ミリビデオが問題を再燃させた。ファミコンでコンピューター通信がでぎるというけれど、じゃあ何十万もするコンピューターを買わなくてもニューメディアの恩恵にあずかれるのか・・・等々。
 モデルチェンジの早さも利用者をとまどわせる。ワープロも半年たてば旧機になってしまう。ひところは16ドットのプリンターが標準だったのが、いまでは24ドット以上が最低条件だし、フロッピーニァィスクや通信機能の付かないワープロなんて話にならないということになった。
 新製品の出現もとどまるところを知らないから、"成熟〃するのを待つということは不可能になる。待つことは見のがすことであり、使うことをあきらめることである。だから、いまニューメディアの流行を追えば家のなかば秋葉原のラジオ・ショップのようになり、あきらめれぼ家のなかば茶室のようになってしまう。中問が存在しにくい。
 しかし、消費者にとっては腹立たしいこのような状況は、テクノロジーが可能にする表現の多様性や豊かさを前進させる点ではむしろ好ましいのである。よく、ニューメディアの未来図でさまざまなメディア装置が一つに統合されたイメージが描かれることがあるが、これは、メディアを事務処理の道具に用いるには好都合だとしても、芸術や思考の媒介にするには好ましくない、無秩序や混乱のないところには新しい表現は生まれないからである。
 それに、統合されたニューメディアの世界というものは、ジョージ・オーウェルの『一九八四年』的な世界であり、メディアが強力な管理装置になってしまうような世界である。おそらく、バベルの塔に言語的混乱が起きなかったとしたら、それは恐るべきファシズムの城砦と化しただろう。その意味では、いまの"混乱"状態はむしろ健康なことなのだ。
 この"混乱〃は、現実をどうっかまえるかという方法の"混乱〃から来ているわげだが、この"混乱"は、実は、現実を把握する仕方の自由さと多様さをあらわしてもいる。
 ニューメディアのことを論ずる場合、「ハード」と「ソフト」ということが言われるが、実際には両者は決して切り離すことができない。ニューメディアの「ハード」と「ソフト」との関係は、鉛筆と文字との関係とは異なるのである。
 ワープロの「ハード」を設計するためには、言葉一ソフト一をどうとらえるかが先行しなければ不可能だ。だから、会社によるさまざまな機種一ハード一のちがいというのは、根本的には言語をどう認識したかという「ソフト」のちがいなのである。そして、それがいま大いに「混乱」しているわけだから、言語のとらえ方がいまほど多様な時代はないということにもなる。
 要するに、ニューメディアの「新しさ」が発揮されるのは、その「ハード」のちがいの根底にある「ソフト」のちがいを極力発揮させるときだということを強調しているにすぎない、
 そう考えると、また、ワープロにせよビデオにせよ、機種の選択にあまり苦労しないで済む。むろん、これはビジネスの発想ではなくてアートや哲学の発想である。情報を効率よく整理するという発想では決してない。むしろ、情報を効率よく整理するための道具として売られているニューメディアでおもしろく遊ぶための一提案にすぎない。
 効率的な整理という点では、自動読み取り装置一スキャナー一がもっと発達しなければ話しにならないだろう。いま、データーをコンピューターにファイルする場合、人が情報を読み、キーをたたいている。この作業があってはじめてデーターべ−スが出来、さまざまな検索が可能となる。これが、もしすべて自動の読み取り装置で行なわれるとすれば、人はファイル化の苦労をせずに、完全に整理された情報をいつでも利用できることになる。
 しかし、これはあくまでも、誰がやっても同じ結果になるような均質的な情報のレベルでの話であって、人によって読み方のちがう小説やそのっど見方が変わりうる映像を自動読み取り装置にまかせるわけにはいかないのである。これは、ビジネスとアートとの分かれ目であり、ニューメディアに対する姿勢を根本的に分かつものである。
 映画『ザ.フライ』一デイヴィッド・クローネソハーグ監督一の主人公は、着るものを選択するわずらわしさから逃れるために同じ服を何者も用意している。これは、人問の体をいくらでも複製できるとする彼の理論にみあったライフスタイルだが、その理論に従って作られた物質転送装置は意外な混乱を巻き起こす。クローネンバーグのものとしてはやや単純なこの映画を見ながら、テクノロジーの二面性を考えた。



企業の文化戦略はもう古い

 先日、メルボルンのテレビ局から国際電話がかかった。最近の統計ではこれまで貯蓄に精を出してきた日本人がだんだん貯蓄をしなくなっているが、それは今後日本社会にとってどのような影響があるのかを聞きたいというのである。
 オーストラリアがこのような問題に関心を示すのは、日本人の消費傾向の変化が今後のオーストラリア経済にとって重要な意味をもっているからである。日本はオーストラリアにとって最大の輸出先であり、日本の内需が今後どのような方向に進むかは、オーストラリアの経済を左右するのである。
 近年にわかに強まった「内需拡大」の動きは、日米貿易の「不均衡」を解消することがねらいとされている。そのため、内需はアメリカの商品を買うという方向で拡大されるわけで、これは、日本企業の海外進出に恐れをなす諸外国にとっては、必ずしも問題解決の方法とはならない。というのも、自国の商品を日本に売りたいのはアメリカばかりではなく、ヨーロッパ諸国も同じであるが、いま進行中の「内需拡大」政策はアメリカ経済の枠のなかを動いているため、他国にとっては必ずしもそれが実際の輸出払太になるとは限らないからである、
 日本がいま輸入している商品のうちの三分の一が消費財であるが、一九八五年には消費財の輸入は五分の一にすぎなかった。消費財は、原料などとは違って文化の係数がつく。ある一定の文化の下地がなければ、消費財をさばくことができない。そして、この傾向は、情報化が進めば進むほど強くなり、ものを売るためにはまず一定の文化を浸透させなければならなくなる。
 日本の場合、この文化係数は圧倒的にアメリカ型であり、実際に文化はアメリカから輸入されている。早い話、「アメリカン・ウェイ・オブ・ライフ」という文化一電化、水洗トイレ、シャワー等はその基本用品一がなければ、日本の消費社会は成立しなかったであろうし、また、現在進みつつあるあたらしい消費主義は、「ヤッピー・カルチャー」一インテリア、エレクトロニクス、グルメ志向はその代表的な商品一がなければ決して拡大しないだろう。
 こうした圧倒的なアメリカ支配に対して、諸外国は危倶を感じており、オーストラリアも今後日本の「内需拡大」がどのような展開を示すかに神経をとがらせているわけである。
 統計によると、日本人の貯蓄率は、一九八六年に二十一・三%だったのが、一九八七年の八月までに早くも十七%に落ちている。これは、それだけ消費が拡大したと考えてよいが、だからといってこれは、ムダ便いの傾向が拡大しだということを必ずしも意味しない。「消費」という概念自体が、従来とは違ってきているのだ。
 少しまえの社会学事典を見ると「コマーシャリズム」の項にはっぎのような説明がある。「商業主義・営利主義。使用価値あるいは、文化的価値を無視し、市場における交換価値・金銭価値を過度に指向する行動様式をいう。資本制社会は商品生産社会であり、商品の生産と販売をつうじての利潤追求が、この社会の原則である。」
 言うまでもなく、今日このような見方で「コマーシャリズム」や「消費主義」を論ずることはできない。それは、利潤を追及する「商業」そのものの性格が変わったからではなく、「商品」の形態と機能が変わったからであり、情報による再編成が進んだからである。
 かってのコマーシャリズムが「使用価値」や「文化価値」を無視することができたのは、商品の中心が「物」であり、その恋意的な使い方の幅がそれほど大きくなかったからである。それに対して、商品の中心が「情報」に移ってくると、その使い方はほとんど無限になり、何らかの方法でそれを規制しなければ、コマーシャリズムということ自身がなりたたなくなる。情報は、使われ、流れるまではいわぼ無であり、それがどう使われたかによってその「意味」が決まるからである。
 言いかえれば、「使用価値」を考えないコマーシャリズムは存在しなくなってきたのであり、「使用価値」と「交換価値」との明確な境界線が見えなくなってきたのである。むろん、これは、商業がまえよりも「人問らしく」なったというわけではない。商売は依然として商売であり、利潤の追及をやめたわけではない。しかし、商品の情報度が高まれば高まるほど便用者が使い方の恋憲性と戯れる機会をより多く得ることは確かであり、生産者の側としては、不確定性が増えるわけである。
 一九二〇年代のアメリカで開発された大量生産の方法は、こうした不確定性をミニマムにしようとするところから生まれた。大量生産の時代の始まりを情報化時代の先触れとみなす考えもあるが、わたしはむしろ情報化以前の「工業化時代」の最終地点に大量生産と大量消費を位置づけたい。
 このことは、大量生産の典型であるインスタント食品について考えてみれぼよい。イシスタント食品には使用価値があらかじめインプットされているのであり、その使用者は、それを勝手に「使用」することはできない。インスタント食品を独自のやり方で調理することは円能だし、そうしているひともいるだろうが、肉や野菜といった原料に比べればはるかに独目の調理を行なえる度合いが薄いのである。インスタント食品は、むしろ説明通りに調理した方が平均的な味が出せる食品である。っまりあらかじめ商品にインプットされた情報を実際の「使用」情報に交換することがこの商品にはふさわしいのである。
 これは、「使用者」を商品の奴隷にし、商品にあらかじめインプットされた情報を忠実に守るだけの「消費者」を生みたすことになる。これまでの「コマーシャリズム批判」はみな概ねこうした背景に基づいて行なわれてきた。ところで、日本人の「貯蓄志向」は、しばしば、将来の生活に対する不安といった観点かb説明されることが多いが、他方でそれは、旧タイプのコマーシャリズムに対する抵抗といつ要素を秘めている。日本の大量生産・大量消費時代は、高度経済成長から始まるわけだが、H一本人は、市場に急速に出回り始めた大量生産品を買い、次第に、独自の使用法というものを失っていったが、他方では、そうしたアグレッシブな消費主義に巻き込まれまいとせっせと貯金をした面もあるのである。
 しかし、当初は消費主義への潜在的な抵抗を意味していた貯蓄も、やがて貯蓄の勧めとセットになった金融ビジネスにとりこまれていく。商売の側としては、消費の恋憲性を大きくするような形の貯蓄を許すことはできない。それは統合されなければならない。かくして、住宅ローンを初めとするさまざまな形のローンが貯蓄に導入される。いまや、貯蓄は消費者が金をためて好きなものを買うためになされるのではなく、売手があらかじめプログラムした方向の枠のなかで行なわれるようになる。これも、大量生産・大量消費時代の最終段階で起こったことだ。
 さて、一九八○年代以後、日本の産業はポスト大量生産の時代に入った。商品は大量に生産されるにしても、その作り方は以前にくらべて「多品種少量生産」的であり、インスタント食品のような大量生産品の申し子ですら「使用者」の"独自"な使い方をある程度考慮せざるをえなくなった。
 統計でも明らかなように、大量生産のやり方で市場に出回る商品一だとえば冷蔵庫、洗濯機、掃除機一は、一九七〇年代にひと通り家庭に浸透した。以後市場を延ばすためにはもはや大量生産品では不可能になった。多品種少量生産はこうした背景のなかで登場する。これは、ある意味で、生産や流通の側が消費者を思い通りにはできなくなったということである、消費者の使い方を待って初めて生産が完結する度合いが強まるということは、生産の側としては不確定な要素が増え、生産のコントロールがしにくいということにもなる。
 こうした傾向が最も熾烈な形で現われるのは〈情報商品〉の分野においてである。情報産業は「情報を売る」というが、その情報の使い方まで指定するわけにはいかない。物には物の「属性」というものがあり、その使われ方はある程度予想がつく範囲のなかを動くので、それをあらかじめコントロールすることはそれほど難しくはない。たとえば机を食べ物にする人はいないし、冷蔵庫を冷房装置として購入する人は少ない。しかし、情報は、使用されて初めてその生産が完結するのであって、その作り手が全く予想もしなかったような使い方がしばしぼなされるものである。だから、その最初の生産は、その使い方の一つの見本を提示するにすぎないのである。
 たとえば、「ミック・ジャガーが来日する」という情報があったとする。それは、最初プロモーターなり放送局なりによって"生産〃されるわけだが、この段階では、それは事実であるか、そうでないかという単一の意味しかもっていない。が、それが流通するにつれて、「ミック・ジャガーが来日する」→「パニックが起こる」といった意味を惹起することもありえる。情報操作とは、情報のこうした恋憲性に基づいてなされるわけだが、情報を操作するのは情報の「送り手」だけではなく、情報の「使い手」も同様である。
 情報化時代のコマーシャリズムは、こうした情報の操作性を考慮しなければならない。情報資本主義時代の産業が、大なり小なり文化に意を用いなければならなくなったのもこのためだ。これは、一時代まえの資本主義からすると大変やりにくいことかもしれない。が、いずれにせよ、今日の産業は、たとえそれが文化や情報の産業でなくても文化を操作するということに関心を示さないわけにはいかない。というのも、文化は、流通させた商品を消費者にどう使わせるかを規定する力をもつからである。
 こうした変化は、当然、都市の商業空間や生活空間にも及ぶ。情報という観点からすると.「仕事」と「生活」とのあいだには本質的な区別は存在しない。たとえば現在でも、文筆のようなく〈情報労働〉の場合、それを仕事場やオフィスで済ませ、そのあと「仕事」とはきっぱり区別された「生活」を楽しむということは、どこかで無理が出てくる。自宅のベッドで寝ころんでいるときにふと思いついたことが仕事の決定的な部分をなすということも少なくない。これは、肉体労働や工場労働以外のあらゆる労働にも言えることであるが、その度合いが、〈情報労働〉においては極めて大きいのである。
 いまや仕事場と生活空間との厳密な区別は成り立たなくなる。とりわけ生活空間の仕事空間化は著しいものであり、多機能電話、AV、ファクシミリ、パソコン、コピー機といった"仕事"用具が生活空間を彩ることになる。こうして、いまや、家庭は"工場"つまり情報生産・処理の"工場"となり、生活は"仕事"となる。
 そのため、従来の「生活」には存在した「くつろぎ」や「レジャー」の部分は、家庭の外に求めなけれぼならなくなる。セカンドハウスをもったり、「ヘルス・リゾート」で週末や休日を過ごすことが要求されるようになるのもこのためだ。
 他方、情報生産や情報処理の"仕事"に満たされた生活空間のなかに質的な差異を設けることによって"仕事〃と"非仕事〃とを区別しようとする傾向も現われる。つまり、どこかにルーチンワーク的な退屈さを含んでいる"仕事"としての〈情報労働〉と、もっと自発的な要素の多い"仕事〃とを区別することによって、仕事空間化した生活空間のなかに「生活世界」の要素を回復することである。
 たとえばビデオを見るということは、知覚神経の使い方としてはパソコンで画像処理をする仕事と大差のない〈情報労働〉であるが、それを何かの直接目的に結びっけなけれぼそれは「遊び」として存在する。生活空間が過剰に情報環境化するいまの状況下では、こうした差異づけを徹底させていく以外には、わたしたちが生活を取り戻す方法はなさそうでお、る。
 その意味で「インテリジェント・ビルディング」という言い方は、非常に象徴的である。「インテリジェンス」は、今日、ぽぽ「情報」一インフォメーション一と同じ意味で用いられているが、この言葉にはもともと「叡知的」「知的」といった意味がある。今日では、「知的」という意味も、単に「情報をもっている」といった意味に解されることが少なくないが.「知的」ということは単に情報に精通しているというようなことではないし、まして「叡知的」とは、もっと形而上学的な意味合いをもつ。
 つまり、今日の最先端の仕事空間が「インテリジェント・ビルディング」であるということは、それが、単に0Aの完備した空間であるということにとどまらず、それが「叡知的な」空間にならなければならないということを潜在的に含んでいるのである。
 このことは、商業空間と都市との関係についても言えることだ。商業は、もはや物だけを売買するのではなく、むしろ情報を売買するのであり、しかも情報の売買とは、情報と金とを交換するというようなことにとどまらず、情報を使う、消費するということを意味するのだとすれば、商業空間とアート・ギャラリーとの区別はほとんど消滅するだろう。商業空間は、物を売買しやすい空間であるよりも、情報を使い、「再生産」するのに適した空間であることが要求されるのだ。
 従来の商業生問は、概ね機能主義的な建築によって占められていた。一面では情報も機能主義的にとらえることが可能であり、「インテリジェント・ビルディング」などはその最たるものかもしれないが、機能主義的なだけのスペースからは創造的な情報は生まれないだろう。だから、今日の商業スペースは、アートやパフォーマンスのスペースから多くを学ばなげればならないのであり、前者と後者との本質的な差異がちちまりつつあると言ってよい。
 情報とりわけ電子化された情報による社会の再編成は、生産、労働、生活、商業等々の意味を変えた。そこでは、「叡知的なもの」が「情報的なもの」にすり替るということが起こると同時に、「情報的なもの」が何らかの意味で「叡知的なもの」を含意するという傾向が見られる。
 ポスト・コマーシャリズムの時代は、その意味で、極めて現世的であると同時に、いままでになく「形而上学的」な時代でもある。商業と、宗教、神秘主義、オカルト等々とが一見何の矛盾もなく結ひつく時代、商業生問と伽藍のスペースとが限りなく近づく時代。ここでは、コマーシャリズムと教育、文化事業、PRとの関係は切り離せないものとなり、かつて流行した----どのみち販売促進とは切り離せない----「企業の文化戦略」なるものは、ひどく時代遅れなものとなる。



電子時代は徹底的にエキセントリック

 かつて「アトミック・エイジ」とい二言葉が流行したことがあったが、二〇世紀後半は、「アトミック」よりも「エレクトロニック」一つまりは「電子時代」とい三言葉によって特徴づけられる。
 事実、「電子」を冠した言葉が増えているが、それは個人的な心情のレベルから国際政治や地球的環境のレベルにいたるまで、電子回路の介在しない問題が少なくなったからである。しかし、この「電子」問題は単に「ハード」としての電子回路・機器の問題ではない。「電子」が介在することによって、これまで一定の有効性や価値をもってきた問題が根底から再検討されることを要求されるのである。
 これは、まさに「電子」が歯車と決定的にちがうからである。歯車は単に筋肉や心臓の延長.変形でしかなかったのに対して、「電子」は脳髄や神経の延長・発展でもありえるために、人問的世界がまるごと電子的に操作可能なものとなり、分業や単独的一専門的一な考察ということが成り立たなくなる。その意味では、「電子」が何かに冠されるとき、それはトータルな検討と考察が要求されており、それはもはや従来通りの運用が不可能になっているということでもある。「電子出版」がよい例である。電子出版は、単に印刷・出版の処理技術が「電子化」されるだけにとどまらない。電子出版は、一面では、ペンをキーボードに、紙をヴィデオ・スクリーンに変える側面をもっているが、それ以上に重要なのは、これまでの出版に内属してきた特性や矛盾を極端な形で顕在化する点である。実のところ、ヴィデォ映像化した文字やそれにともなう映像処理は出版の問題ではない。それは、文字通り映像の問題であって、今後印刷文字の映像化が急速に進むとしても、それは出版の延長としてではなく、むしろ映像事業の延長として考えられるべきである。
 もし、紙がヴィデォ・スクリーンに替わるだろうということだけを出版界が懸念するのならば、早急に映像業に転ずる方がよいだろう。そうした傾向はかなりの程度進むはずだ。活字印刷の書物がこれまでのような力をふるうことはできなくなる。
 しかし、電子出版の問題は、紙の上の文字が存在することを前提としたうえでの問題であり、グーテンベルク以来続いてきた書物の最終的な展開の問題である。ここには、独占的な力を誇ってきた本の終末があるとともに、本というメディアの可能性が最終的に開花する終末論的な事態が横たわってもいる。
 それゆえ、電子出版の可能性を論ずるためには、書物と他のメディア  とりわけ映像メディアーとの根本的な相違を考えなければならない。それは何か?
 それは、決して印字技術的な相違ではありえない。電子出版には、映像メディアと同種の電子回路が介在するのだから、その根本的な相異は読者のレベルに帰結する。当面、電子出版は、現在の執筆→編集→印刷・製本→配本→読書の過程を電子的に合理化する段階にとどまっているが、電子出版の究極には、個人の家や店舗に置かれたプリントアウトと製本の統合装置で「印刷物」を受け取るというところまで行くだろう。これは、技術的には、コンピューター通信におけるプリントアウトのプロセスと大差ない。とすれば、出版とコンピューター通信とはどこで差異づけをしたらよいのか?
 すでに日本でも、データーべースやネットワークと契約して、必要情報をそのつど自分のプリンターでプリントアウトしている人はかなりいる。それをファイルして自分用の「本」を作っている人もいる。アメリカでは、最初からそうした自主的編集一正しくは編集・印刷.製本)を目的として情報を流しているコンピューター・ネットワークがある。このような形態の「出版」が日本でも活発になることは充分に予想できる。
 こうしたフリー.パブリッシング(あるいはフリー・リーディング)に対して電子出版が依然として独自性を発揮できるとしたら、それは、われわれが最初からパッケージされたものに対していだく欲求とは何かを考えなければなるまい。いつでも消すことのできるヴィデォ.スクリーン上の文字を見て、好きな部分だけプリントアウトするフリー・リーディングと、必ずしも読みたいものだけで構成されているわけではない本を読むのとでは、読者の姿勢は全く異なるのであり、出版はこの点を顧慮せずに電子出版を行うことはできないだろう、その点が明確でなければ、電子出版は早晩、コンピューター通信業と区別できなくなる。
 実際には、今後、伝統的な出版.印刷業は新しい情報処理業に浸食されるにちがいない。現在でも、データーべース事業はすでに事実上の「出版」業である。また、統合印刷システムを使い、出版杜が印刷もやってしまうとか、その逆に印刷会社がコンピューター回線を通じて執筆者やデザイナー一またフリーの編集者とも一結びついて、出版杜を介さずに「出版 を行なうという傾向も出てくるだろう。
 しかしながら、このような傾向が光進するなかには、本というメディアに内属するパッケージ性とプログラム性が最高度の可能性を発揮する機会があるのだということを強調しておきたいと思う。これまで、本がもっているこうした性格は、本というメディアの限界と考えられることが多かった。出版社側が読者の欲求を予測するプログラム性と、一旦詰めこんだら自由な組み替えが難かしいパッケージ性一これらの限界は、パソコン通信によっていとも簡単に越えられてしまうだろう。
 だから、出版は限界と思われてきたことを逆手に取って可能性に転じるしかないのである、この状況は、速報性という点ではラジオやテレビに劣る新聞がその「電子化」において迫られているものとよく似ている。
 コンピューター化されたデーターの場合、それを検索するスピードや規模は、詳細な索引や目次のついた本の比ではない。コンピューター情報は、検索技術が進めば進むほど、拾い読みすら必要ではなくなるのであり、最終的に必要なものだけを瞬時に呼び出すことができる。そのため、コンピューターを散漫に「読む」ということは無意味であり、それはコンピューターの機能に反することになる。
 本は、これとは逆に、なんとなく読むうちに何かを発見することに適したメディアである、本は、ランダム・アクセスが可能だとしても、本来、リニァー・アクセスに向いたメディアであり、べージごとに読んで行く読書過程のなかで生ずるハプニングにおいて最も有力な機能を発揮する。このことは、映画とヴィデォ、LPとCDとの相異にもあてはまる。
 いずれにしても、本は、検索の「不自由さ」とリニアー・アクセスの「冗長な」持続性を強調するような内容と流通方法を顧慮しなければ意味がない。今後生き残れる本は、どちらかと言うと硬い本や内容の濃い本である。全部読み通して見なければわからないような難解な本もよいだろう。
 ただし、本の生ぎ残りのために導入される電子出版がこうした方向に向かうとは必ずしも考えられないのは皮肉である。というのも、日本で言うところの「デスクトップ・パブリッシング」のような電子出版のシステムは、現在の執筆・編集・印刷・製本・流通を合理化するシステムであり、大量の部数の本を限られたスタッフで出版するのに向いているからである。むろん、少部数の出版も可能だが、この装置のために要する億単位の投資を償却するためには、その合理的機能をフル回転せざるをえず、たかだか初版三〜五〇〇〇部の「硬派」出版物には当分ぜいたくすぎるのである。
 そのため、電子出版は、本の体裁をとりながらも、結局、ビデオ映像のようにどんどん読み捨てられる出版物−雑誌、文庫本、実用書等々1の分野で普及することになるだろう.これは、本の内容をも変えてしまう潜勢力をもつ電子出版の可能性としては不十分であるが.この結果、最もドラスティックな変化をこうむるのは流通分野である。その度合は、出版杜が印刷業や電子産業に併合されるよりもはるかに大規模でドラスティックであり、東・日販の独占体制は根底からゆさぶりを受けることになるだろう。
 コンピューターの技術者たちは、電子テクノロジーのもつリゾーム状の流通機能にもかかわらず、日本社会に根強く残っているツリー状の流通性格にフラストレーションを感じることが多いようだが、電子メディアの浸透とともにそうした性格は急速に薄まって行くはずだ、これまで支配的だった中央集権的なシステムを、今日の支配的なシステム  電子システム
  のなかにいる人々が批判し、解体して行く現象。これは、電子出版の分野だけでなく、今日の社会の全域で浮上しつつある逆説現象である。


衛星ジャックで情報の乱世が始まった

1
 その映像は黄、青、赤の太いタテ縞を主にしたテストパターンのうえに白文字をのせた静止画像で、そこには次のような言葉が記されていた。「こんぼんわ、HB0。キャプテン・ミッドナイトより。ひと月一二・九五ドルだって?ばかいうな。「ショー番組や映画のチャンネルはご用心]」
 一九八六年四月二七日午前零時三二分、東部一帯のHBO(HOME BOX OFFICE)の有線テレビ画面に突然この画像が現れたとき、HB0はジョン・シュレシンジャーの『コードネームはファルコン』をテレビ上映していたが、その画像は映画の画面のうえにすっぽりとかぶさった形で現れた。このようなことをするためには、HB0の入力系統に介入するか、あるいはHB0がその放送を全米に流すために使っている通信衛星による中継系統に介入するしかない。前者は、HB0の内部の者ならば可能である。後者は、よほど高度な技術がなければ不可能だ。
 事件の翌日の新聞一だとえば『ニューヨーク・タイムズ』一は、このことをさほど大きくはとり上げなかったが、日がたつにつれて、この事件は話題を呼び始めた。これは衛星通信をジャックした初めての事件であるだけでなく、CATVと衛星放送との問ですでにくすぶりはじめていた諸問題を一挙に公衆の場にさらすことにもなったからである。
 事件当時たまたまニューヨークにいたわたしは、通信技術に関心のある友人や知人がみなこの事件を一つの"快挙"とみなしていることを発見するとともに、彼らがこのような事態を以前から予期していたことを知った。
 小説家のソル・エーリックは、「わたしが小説で示唆したことがついに起こった」と言って満足げだったが、彼は『リチャードA』一邦訳『狙われた盗聴者』集英杜一という小説で、電話から衛星通信にいたる情報技術に精通した一人の主人公を登場させながら、今日の情報政治の逆説に鋭い光を当てていた。
 HB0は、もともとペンシルベニア州とニューヨーク市をサービス・エリアとするローカルなCATV局だったが、一九七三年にタイムニワイフ社によって買収されたのち、一九七五年にはCATVの業界では初めて、通信衛星を通じてアメリカ全十のCATV局をネットする方法を採用した。
 CATVは閉回路だから、それを有料にすることはできる。しかし、有料の回路はどうしても地域的なものとなり、"より多く"という資本の論理とはそりが合わない。そこで、こうした地域的な閉回路を全米に開く方法として、衛星中継という手段が採用された。この方法は、CATVの限られたサービス・エリアを一挙に拡大するもので、やがてCNN(Cab-le News Network)やMTVが採用し、CATVの一つの延命策となっていった。
 しかし、問題は、CATVの回線から衛星回線に流された信号は、衛星の電波を受信する装置さえそろえれぼ、CATVの場合のようなケーブル契約をしなくてもタダで受信できてしまうことである。
 通常、HB0の番組一最新映画の放映が多い一を地方に放映する場合、HBOと契約したCATV局が自局のパラボラ・アンテナでHB0の衛星電波を受信し、それを地域の視聴者に有線で流すという方法をとる。この場合、視聴者は、月一二・九五ドルの受信契約料を払わなければならず、さもなければ、たとえケーブルが通っていても、HB0の番組は映らない。
 ところが、この一〇年間に衛星放送の受信技術は飛躍的に進み、一般家庭でパラボラ・アンテナを設置し、通信衛星からの電波を直接受信する装置のコストも極度に安くなった。最近の新聞の広告欄には、アンテナを含めて一セット九〇〇ドルなどという安い製品も出はじめており、これをテレビ受像機かビデオ・モニターに接続すれば、HB0の衛星回線はもとより、現在、米大陸の上空に上がっている三五個あまりの通信衛星から地上に放射されるさまざまな放送や通信画像を見ることができるのである。これでは、とてもわざわざ金を払って見る気になれなくなるのも無理はない。


 実際、衛星テレビの普及はめざましく、日本でも受信用パラボラ・アンテナとコンバーターは、電子産業界の目玉商品になりつつある。また、一時は明日のニューメディアとしてCATVに期待をかけていた業界も、このごろでは、商業放送の未来は衛星テレビにしかないといった判断すら下している。
 しかし、通信衛星がこれだけ身近なものになりつつあるにもかかわらず、とりわけ日本では通信衛星を「地上三万六〇〇〇メートルに打上げられたアンテナ」としかとらえていない貧しい現実がある。
 たしかに通信衛星には、テレビ塔の高さを大気圏まで引き延ばしたような面はあるだろう。そして、現状では通信衛星はそういう面で使われていることが多い。とくに日本の場合はそうだ。
 しかし、通信衛星にはもっとラディカルな機能があるわけで、それを徹底的に発展させなければ、ニューメディアはひとつも「ニュー」ではないとわたしは思うのである。
 たとえば、東京タワーから発射されるTV電波は、各家の屋根に付けられた八木アンテナで受信されているが、東京タワーと八木アンテナとの関係は一方的であって、これを相方向にするのはそう簡単ではない。
 これに対して衛星テレビの場合には、送信機さえ用意すれば受信用のパラボラ・アンテナがそのまま送信アンテナに使え、各家から電波を衛星に送り、それを衛星の中継装置を介しでふたたび地上に降ろし、日本列島のどの地域にでも送付するということが可能なのである、これは、テレビ塔の放送技術とは根本的にちがうテクノロジーであり、こうした側面を延ばすために衛星を使うのでなげればおもしろくないと思うのである。
 そのとき、テレビ塔や放送塔のもっている中央集権的な機能は、多様で分散的な機能によってのりこえられるだろう。現在のところ、通信衛星は地上のアンテナで送信するよりも広範囲のエリアをカバーできる点で評価されているが、むしろ、地球上に分散した個人がいかなる相手とも結びつけるという側面を発展させるのでなければ、衛星はそのポテンシャルの半分以上を捨てることになる。

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(オリジナルソース:http://cinema.translocal.jp/books/baberunokonran/baberunokonran.html



2010.4.3:転載
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しだひろし/PoorBook G3'99
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  • 片岡さんの「丸にCの字を書きたくて」を読んで、ひさしぶりに粉川哲夫を読みたくなった。 -- しだ (2010-04-03 06:13:21)
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