MT*2_31-生物の歴史(三) 石川千代松

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MT*2_31-生物の歴史(三) 石川千代松

2010.2.20 第二巻 第三一号

生物の歴史(三)
石川千代松

 一七、進化論(しんかろん)
  キュビエー
  ライエル
  ダーウィン
  ダーウィンとウォレス
  淘汰説(とうたせつ)
  動物の体色と斑紋(はんもん)
  ミミクリー
  変異(へんい)




【週刊ミルクティー*第二巻 第三一号】
http://www.dl-market.com/product_info.php?products_id=55560
※ ダウンロードサイトへジャンプします。
(964KB)

定価:200円(税込)  p.149 / *99 出版
付録:別冊ミルクティー*Wikipedia(95項目)p.710
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※ オリジナル版に加えて、ミルクティー*現代表記版を同時収録。
※ JIS X 0213・ttz 形式。
※ この作品は青空文庫にて入力中です。翻訳・朗読・転載は自由です。
(c) Copyright is public domain.


飛び出せ! ミミクリティー*

オリジナル版 ミルクティー*現代表記版
生物の歴史(三) 生物の歴史(三)
モーゼの説が間違つてゐるのか、または自分が見たものが間違つてゐるのか。もし神が造られた動植物が萬古不變のものであるならば、かようにたくさん違つた動植物が化石となつて違つた地層から出て來るのは不思議ではあるまいか。これを説明するのにキウビエーはかう考へた。神が生物を造られたのは一回でなくて、數回または數十回であつたらう。でモーゼが聖書に書いたものはその一番終りのものである。するとノアの洪水の時に神樣が一番終りに造られた生物を殺されたので、かようなことが前に幾度もあつたのである。即ち神は初めに生物を造つて見られたが、それが増殖して來た時なにか御氣に召さなかつたので、これ等を總て殺し、第二回めに又造られたが、それもまたある時の後に殺してしまひ、第三回、第四、五、六回といふように生物を造られては又殺されたのである。であるから今日の生物はノアの洪水の時箱船の内に入れられて助かつたものゝ子孫である。これがキウビエーの破毀説といふものである。これは慈悲深い神のなされたことゝしては誠に驚くべき殘酷なようであるが、キウビエーとその一派の人達はこれを信じたのである。  モーゼの説が間違っているのか、または自分が見たものが間違っているのか。もし、神がつくられた動植物が万古不変のものであるならば、かようにたくさん違った動植物が化石となって違った地層から出てくるのは不思議ではあるまいか。これを説明するのに、キュビエーはこう考えた。神が生物をつくられたのは一回でなくて、数回または数十回であったろう。で、モーゼが聖書に書いたものは、その一番終わりのものである。すると、ノアの洪水のときに神様が一番終わりにつくられた生物を殺されたので、かようなことが前にいくどもあったのである。すなわち神は初めに生物をつくってみられたが、それが増殖してきたとき、なにかお気に召さなかったので、これらをすべて殺し、第二回めにまた造られたが、それもまたある時ののちに殺してしまい、第三回、第四、五、六回というように、生物をつくられてはまた、殺されたのである。であるから、今日の生物はノアの洪水のとき、箱船の内に入れられて助かったものの子孫である。これがキュビエーの破棄説というものである。これは慈悲深い神のなされたこととしては誠におどろくべき残酷なようであるが、キュビエーとその一派の人たちはこれを信じたのである。

2_31.rm
(朗読:RealMedia 形式 280KB、2'16'')


石川千代松 いしかわ ちよまつ
1860-1935(万延元.6.6-昭和10.1.17)
動物学者。東京出身。ドイツに留学して、日本にワイスマン流の進化論を紹介。東大教授。魚類学・細胞学を研究。日本動物学会会長。著『石川千代松全集』全10巻(興文社、1935-36)。

◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店)。


底本

底本:『地球と生物の歴史』復刻版 日本児童文庫、名著普及会
   1982(昭和57)年6月20日 発行
底本の親本:『地球と生物の歴史』日本兒童文庫、アルス
   1930(昭和5)年4月30日 発行

NDC 分類:K480(動物学)
http://yozora.kazumi386.org/4/8/ndck480.html
※ ページ未登録。


スリーパーズ日記

 鴎外「能久親王事跡」、読み合わせは先週のうちに終了。残すところ、年表の整理と台湾地図。苦戦がつづく。

「チゥビンゲン」「チウビンゲン」は「チウビンゲン」に、
「エジンバラ」「エヂンバラ」は「エジンバラ」に、
「リンナ学会」は「リンネ学会」に、それぞれ統一・変更した。

 いっぽう、「リネウス(リンネ)」「ラマーク(ラマルク)」「チャールス(チャールズ)」はそのままとした。

「捕鯨は伝統文化だ」という主張があるが、ならば日本近海猟にとどめないのはおかしい。地中海のマグロ捕獲もしかり。「鯨は捨てるところがない」ともいうが、食糧の半分を廃棄している国が主張しても説得力はない。解禁にでもなれば、大量廃棄されるのは目に見える。反捕鯨のバックに欧米豪の畜産業があるのは想像できるが、自分の庭先で好き放題されていい気持ちをしないのはどこも同じ。

 自殺率が高いこと、死刑制度が続いていること。これは「カミカゼ」の歴史にひっぱられているのではないかと、ふと思う。無意識にインプリントされている切腹・追い腹・斬首・特攻。「自分のためだけに」競技できれば、もっと悠々とできるだろうに、「応援してくれるひとのために最低限」などと、いろんなものを背負いこんで(背負いこまされて)は、実力を出しきることすら難しくても不思議はない。古代の「いえにえ」の儀式を非難することは簡単だけれども、現代に、それを求めるのと同じ精神構造や社会構造が温存されて“暗に”ひっぱられているとしても、当事者ほど気がつきにくい。



2010.2.20:公開
ミミクリ三年、スヌスムムリク/PoorBook G3'99
翻訳・朗読・転載は自由です。
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  • 「名を惜しんで生命を惜しまぬ」行為は、攘夷にも特攻にもみられ、記録としては新羅の花郎(ファラン)が古い。古代中国の墨子には、死守防衛の思想がみられる。儒教・仏教・イスラム教圏に固有かといえば疑問が残る。キリスト教の根幹に、他者への攻撃性をともなわない形での自己犠牲がある。『エイリアン3』『ターミネーター2』のエンディングに顕著。『タイタニック』しかり。『ナウシカ』でも敷衍している。山折哲雄をはじめとして、一神教の攻撃性、多神教の多様性・寛容性を指摘するものもいるが、明治維新から太平洋戦争にいたる日本は、それこそ神道メインで多宗教を包括しているのだから多神教=寛容性は安直すぎ。神々のカーニバル。肉よ、さらば。ミミクリ草食。 -- しだ (2010-02-21 14:55:56)
  • ひろさちや『キリスト教と仏教』によれば、キリスト教で自殺が罪となったのは6世紀からとのこと。Wikipedia「自殺」の項では「4世紀の聖アウグスティヌスの時代に自殺に対する否定的道徳評価が始まった」としている。ロシアでの自殺率の高さは、宗派と関係があるのだろうか。梅のつぼみはまだ固い。 -- しだ (2010-02-23 21:57:15)
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