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*M-Tea*3_19-光をかかぐる人々 続『世界文化』連載分 二 徳永 直 *2010.12.4 第三巻 第一九号 光をかかぐる人々[続] 『世界文化』連載分(二) 徳永 直     &image(http://www.dlmarket.jp/images/uploader/620/3_19-1.png,http://www.dlmarket.jp/product_info.php/products_id/106303)   [[【週刊ミルクティー*第三巻 第一九号】>http://www.dlmarket.jp/product_info.php/products_id/106303]] (http://www.dlmarket.jp/product_info.php/products_id/106303) ※ クリックするとダウンロードサイトへジャンプします。 (552KB) &color(red){定価:200円} p.157 / *99 出版 付録:別冊ミルクティー*Wikipedia(29項目)p.94 ※ DRM などというやぼったいものは使っておりません。 ※ オリジナル版に加えて、ミルクティー*現代表記版を同時収録。 ※ JIS X 0213・ttz 形式。 ※ この作品は 徳永直『光をかかぐる人々』入力中(http://d.hatena.ne.jp/HikariwokakaguruHitobito/)(uakira)にて公開中です。転載・印刷・翻訳は自由です。 (c) Copyright is public domain. *飛び出せ! 週刊ミルクティー*  「江戸期の印刷工場」が近代的な印刷工場に飛躍するためには、活字のほかにいくつかの条件が必要である。第一にはバレンでこするかわりに、鉄のハンドでしめつけるプレスである。第二に、速度のある鋳造機である。第三に、バレン刷りにはふさわしくても金属活字に不向きな「和紙」の改良である。そして第四は、もっともっと重要だが、近代印刷術による印刷物の大衆化を見とおし、これを開拓してゆくところのイデオロギーである。特定の顧客であった大名や貴族、文人や墨客から離脱して、開国以後の新空気に胎動する平民のなかへゆこうとする思想であった。  苦心の電胎字母による日本の活字がつくれても、それが容易に大衆化されたわけではない。のちに見るように「長崎の活字」は、はるばる「東京」にのぼってきても買い手がなくて、昌造の後継者平野富二は大童(おおわらわ)になって、その使用法や効能を宣伝しなければならなかったし、和製のプレスをつくって売り広めなければならなかったのである。つまり日本の近代的印刷工場が誕生するためには、総合的な科学の力と、それにもまして新しい印刷物を印刷したい、印刷することで大衆的におのれの意志を表現しようとする中味が必要であった。たとえばこれを昌造の例に見ると、彼は蒸汽船をつくり、これを運転し、また鉄を製煉し、石鹸をつくり、はやり眼を治し、痘瘡をうえた。活字をつくると同時に活字のボディに化合すべきアンチモンを求めて、日本の鉱山の半分くらいは探しまわったし、失敗に終わったけれど、いくたびか舶来のプレスを手にいれて、これの操作に熟練しようとした。これらの事実は、ガンブルがくる以前、嘉永から慶応までのことであるが、同時に、昌造が活字をつくったとき最初の目的が、まずおのれの欲する中味の本を印刷刊行したいことであった。印刷して、大名や貴族、文人や墨客ではない大衆に読ませたいということであった。それは前編で見たように、彼が幕府から捕らわれる原因ともなった流し込み活字で印刷した『蘭語通弁』〔蘭和通弁か〕や、電胎活字で印刷した『新塾余談』によっても明らかである。   #ref(3_19.rm) (朗読:RealMedia 形式 524KB、4'15'') 徳永 直 とくなが すなお 1899-1958(明治32.1.20-昭和33.2.15) 熊本県飽託郡(現熊本市)生まれ。1922年上京、博文館印刷所(後の共同印刷所)に植字工として勤務。1925年に「無産者の恋」「馬」などを発表。翌年共同印刷争議に敗れ、同僚1700人とともに解雇。1929年この時の体験を基にした長編「太陽のない街」を『戦旗』に連載。『新日本文学』に長編「一つの歴史」を完結させないまま世田谷の自宅で病没。享年59。 ◇参照:Wikipedia &link_wikipedia(徳永直){徳永直}、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)。 *底本 底本:『世界文化』12月号 第3巻第12号、世界文化社    1948(昭和23)年12月1日発行 http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person1308.html NDC 分類:022(図書.書誌学/写本.刊本.造本) http://yozora.kazumi386.org/0/2/ndc022.html NDC 分類:210(日本史) http://yozora.kazumi386.org/2/1/ndc210.html NDC 分類:914(日本文学/評論.エッセイ.随筆) http://yozora.kazumi386.org/9/1/ndc914.html *難字、求めよ 木村嘉次 『本邦昔時"活字"創製略伝』 =『本邦昔時"鉛活字"創製略伝』? =『"昔時"本邦"鉛活字"創製略伝』? 上巻の表記。 懸座 けざ? 鎔鉛 『横文字錺方』 よこもじ かざりかた? 筆意彫り 河三亥 人名か。『江戸名所図絵』の序文。 善龍寺 浅草門跡。善龍院か。 打田霞山 〓 1855?-〓 通称新太郎、江戸本郷の生まれ。少年時から嘉平の弟子となって木版彫刻をならう。明治元年ごろから翠山に銅彫をまなぶ。嘉平の娘しげを妻とした。 本木道平 〓 本岐道平か。理化学を長英・小関三英について研究し、蕃社の獄に連座し、洋式銃の修理、鋳造の廉で押込に遭う。エウスタキオの原図から「神経血絡開現図」10枚の人体解剖図の銅版画をつくる(国史)。 中川耕山 〓 『欧米回覧実記』の挿入銅版画を彫る。中川昇、良考、通称長次郎か(国史)。 牧墨遷 〓 牧墨僊か。尾張徳川藩士。喜多川歌麿・葛飾北斎に師事し、多くの画名を持つ。銅版画に寛政末年のものもあるが、文政3(1820)刊『瘍科精選図解』の2枚の和風な模刻が知られている。「ロウレンス・ヘイステル」の蘭本訳の銅版画が原図(国史)。 オットマン・スモリック 彫刻師、オーストリア人。 シ・ゼー・ポーラード 印刷工アメリカ人。 多湖実敏 稲垣太郎 小柴英 申亥 人名か。 梅川夏北 小室誠一 バルトン教授 写真技術。当時工部大学に来る。 宮島大八 田中亥太郎 明治中期の日本で写真版術を開拓。 世に率ち さきだち? 数四 数子(すうし)か。 *むしとりホイホイ 引れ札 → 引き札 【き、か?】 複刻 → 復刻 【復】 さん膽 → 惨憺 【憺】 死んだ、という → 死んだ」という 【」】 底本は左辺のとおり。 *スリーパーズ日記    七日(火)大雪……タイセツ。イキのよさそうなハタハタを二尾、一八〇円也。ゆでて醤油と酢をたらし、こしょうをふるのみ。初めて口にする。藤沢周平の作中にしばしば登場するらしい。味、食感、骨ばったところ、とろみ、淡泊な肉質……ふとドジョウ汁を思い出す。ふしぎだ。  『復刻版ラピュタ・ガイドブック』購入。  一一日(土)晴れのち雨。市営バスで寒河江へ。三月にひきつづき慈恩寺シンポジウム。麻木脩平氏による彫刻仏師の推定と、長岡龍作氏による東北仏教の比較概論。平安後期から鎌倉初期における仏師は、院派・円派(京都)と奈良仏師の三派に大別。麻木氏は寺伝『伽藍記』を主な資料として、本堂法華彫像群は仁平元年(1151)を中心とした前後に、藤原忠実の命により奈良仏師・康助が作製と推理。  藤原忠実(1078-1162)、摂関・太政大臣。同時代に、奥州藤原氏第二代当主の藤原基衡、平清盛の父・忠盛、大江匡房、鳥獣戯画の鳥羽僧正、そして後白河天皇がいる。仏師康助の四代あとに運慶・快慶が出る。マッチョな油ぎった時代がはじまるころで苦手だが、しいてあげれば『源氏物語絵巻』が制作され『今昔物語集』『堤中納言物語』が編み始められたころ。  市内にあった中古パソコンショップがなくなったことを知る。バスを一本逃す。    おぼえがき。2004年に坂本竜馬「船中八策」『日本の思想20・幕末思想集』(筑摩書房、1975)の入力を担当。当時、宮地『龍馬の手紙』の存在は知っていたものの手を出さなかった。「船中八策」『幕末思想集』のばあい、親本に『坂本竜馬関係文書』を用いていることが記さている。後日、富田さんから『関係文書』は岩崎鏡川の編集であることを教えてもらうのだが、龍馬・岩崎(=岩崎英重、1874-1926)ともに保護期間を経過しているので、「船中八策」の翻刻テキストはパブリック・ドメインと考えられる。  では、宮地『龍馬の手紙』の翻刻テキストは同様か。2010年夏に入力と公開が進むのを見て疑問をいだいたのだけれど、著作権のことを最もよく知っているはずの富田さんとレセプション・世話役のひとたちが決めたのだから……と楽観視した。が、それから数か月たっても当初いだいた懸念が消えない。11月に富田さんとレセプションへメール。同時に、岡島さんとうちださんへも意見を聞く。「翻刻者としての宮地に著作権を認めなくていい」という富田さんたちの主張には疑問をいだく。  悲観視するならば、青空は宮地氏と出版社からうったえられて敗訴。最悪、全活動の停止になりはしないかということを危惧。 2010.12.13:公開 2010.12.14:更新 一スジ、二ヌケ、三役者。げげげのじょんて。 スローな近江屋にしてくれ。 目くそ鼻くそ。PoorBook G3'99 転載・印刷・翻訳は自由です。 カウンタ:&counter() ---- - う、長文メールをはねられた。ので、日記のほうへ。記憶力が持続しないもので……。 -- しだ (2010-12-14 01:14:40) #comment
*M-Tea*3_19-光をかかぐる人々 続『世界文化』連載分 二 徳永 直 *2010.12.4 第三巻 第一九号 光をかかぐる人々[続] 『世界文化』連載分(二) 徳永 直     &image(http://www.dlmarket.jp/images/uploader/620/3_19-1.png,http://www.dlmarket.jp/product_info.php/products_id/106303)   [[【週刊ミルクティー*第三巻 第一九号】>http://www.dlmarket.jp/product_info.php/products_id/106303]] (http://www.dlmarket.jp/product_info.php/products_id/106303) ※ クリックするとダウンロードサイトへジャンプします。 (552KB) &color(red){定価:200円} p.157 / *99 出版 付録:別冊ミルクティー*Wikipedia(29項目)p.94 ※ DRM などというやぼったいものは使っておりません。 ※ オリジナル版に加えて、ミルクティー*現代表記版を同時収録。 ※ JIS X 0213・ttz 形式。 ※ この作品は 徳永直『光をかかぐる人々』入力中(http://d.hatena.ne.jp/HikariwokakaguruHitobito/)(uakira)にて公開中です。転載・印刷・翻訳は自由です。 (c) Copyright is public domain. *飛び出せ! 週刊ミルクティー*  「江戸期の印刷工場」が近代的な印刷工場に飛躍するためには、&link_wikipedia(活字){活字}のほかにいくつかの条件が必要である。第一にはバレンでこするかわりに、鉄のハンドでしめつける&link_wikipedia(プレス){プレス}である。第二に、速度のある&link_wikipedia(鋳造機){鋳造機}である。第三に、バレン刷りにはふさわしくても金属活字に不向きな「&link_wikipedia(和紙){和紙}」の改良である。そして第四は、もっともっと重要だが、近代印刷術による印刷物の大衆化を見とおし、これを開拓してゆくところのイデオロギーである。特定の顧客であった大名や貴族、文人や墨客から離脱して、開国以後の新空気に胎動する平民のなかへゆこうとする思想であった。  苦心の&link_wikipedia(電胎){電胎}&link_wikipedia(字母){字母}による日本の活字がつくれても、それが容易に大衆化されたわけではない。のちに見るように「長崎の活字」は、はるばる「東京」にのぼってきても買い手がなくて、昌造の後継者&link_wikipedia(平野富二){平野富二}は大童(おおわらわ)になって、その使用法や効能を宣伝しなければならなかったし、和製のプレスをつくって売り広めなければならなかったのである。つまり日本の近代的印刷工場が誕生するためには、総合的な科学の力と、それにもまして新しい印刷物を印刷したい、印刷することで大衆的におのれの意志を表現しようとする中味が必要であった。たとえばこれを昌造の例に見ると、彼は蒸汽船をつくり、これを運転し、また鉄を製煉し、石鹸をつくり、はやり眼を治し、&link_wikipedia(痘瘡){痘瘡}をうえた。活字をつくると同時に活字のボディに化合すべき&link_wikipedia(アンチモン){アンチモン}を求めて、日本の鉱山の半分くらいは探しまわったし、失敗に終わったけれど、いくたびか舶来のプレスを手にいれて、これの操作に熟練しようとした。これらの事実は、ガンブルがくる以前、嘉永から慶応までのことであるが、同時に、昌造が活字をつくったとき最初の目的が、まずおのれの欲する中味の本を印刷刊行したいことであった。印刷して、大名や貴族、文人や墨客ではない大衆に読ませたいということであった。それは前編で見たように、彼が幕府から捕らわれる原因ともなった流し込み活字で印刷した『蘭語通弁』〔&link_wikipedia(蘭和通弁){蘭和通弁}か〕や、電胎活字で印刷した『&link_wikipedia(新塾余談){新塾余談}』によっても明らかである。   #ref(3_19.rm) (朗読:RealMedia 形式 524KB、4'15'') 徳永 直 とくなが すなお 1899-1958(明治32.1.20-昭和33.2.15) 熊本県飽託郡(現熊本市)生まれ。1922年上京、博文館印刷所(後の共同印刷所)に植字工として勤務。1925年に「無産者の恋」「馬」などを発表。翌年共同印刷争議に敗れ、同僚1700人とともに解雇。1929年この時の体験を基にした長編「太陽のない街」を『戦旗』に連載。『新日本文学』に長編「一つの歴史」を完結させないまま世田谷の自宅で病没。享年59。 ◇参照:Wikipedia &link_wikipedia(徳永直){徳永直}、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)。 *底本 底本:『世界文化』12月号 第3巻第12号、世界文化社    1948(昭和23)年12月1日発行 http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person1308.html NDC 分類:022(図書.書誌学/写本.刊本.造本) http://yozora.kazumi386.org/0/2/ndc022.html NDC 分類:210(日本史) http://yozora.kazumi386.org/2/1/ndc210.html NDC 分類:914(日本文学/評論.エッセイ.随筆) http://yozora.kazumi386.org/9/1/ndc914.html *年表 一八二三(文政六) 三代嘉平、生まれる。 一八三一(天保元)ごろ イギリス人、南方マライでパンチによる漢字活字の創作に成功。 一八三八(文政九〔天保九か〕) アメリカ人デヴィッド・ブルースの「ブルース式カスチング」登場。世界じゅうの鋳造機がまだ流し込み式。 一八三九(天保一〇)一一月一日 梅村翠山、生まれる。 一八四七〜一八六四(弘化四〜元治元)ごろ 嘉平、「家業の敵」を完成するために辛苦。 一八五五(安政元) 霞山、生まれる。 一八五七(安政四)正月 『横文字錺方』嘉平唯一の遺墨である帳面。 一八五八(安政五) 斉彬、亡くなる。 一八六〇(万延元) パンチ活字、最初の成功。 一八六一(文久元)以来 翠山、名所図絵などを手がける。 一八六〇〜一八六四(万延元〜元治元) 嘉平、パンチ技術に不便を感じて電胎法習得に苦心。 一八六三(文久三) 翠山、銅版作品を発表。 一八六四(元治元) 嘉平、斉彬の命によるアルファベット活字が成功。最初につくった活字。以後 嘉平、活字製作。 一八六八(明治元)ごろ〜 打田霞山、翠山に銅彫を学ぶ。 一八六九(明治二) パンチの漢字活字、上海から長崎へ到着。 一八七一(明治四) 梅村翠山、嘉平の家を去って神田福田町に独立開業。この年までにいくつかの銅版作品を発表。『官版普仏戦争誌略』の口絵を銅彫。 一八七一(明治四)夏の終わり 「長崎の活字」が上京。 一八七一(明治四) 翠山・霞山、海軍水路局に出仕して『輿地航海図』などを彫る。 一八七二(明治五) 翠山、『輿地航海図』を銅彫。 一八七二(明治五) 『官許新刻詩韻大成』刊。 一八七三(明治六) 翠山、官札を銅彫。 一八七四(明治七) 『重訂草木図説』刊。 一八七四(明治七)三月 梅村翠山、銅版技術改良の志をたてて門人の霞山と中川耕山をアメリカへおくる。耕山、事情を報告するため霞山を残して日本へもどる。霞山、オーストリア人スモリックと印刷工アメリカ人ポーラードをともなって帰国。 一八七四(明治七)秋 翠山、彫刻会社創立。引札をくばる。 一八七四(明治七) 平野富二、「長崎の活字」を売って歩く。 一八七七(明治一〇)ごろ 三代嘉平の写真。晩年のもの。おそらく六十歳前後。 一八七七(明治一〇) 第一回勧業博覧会。木村嘉平、都下の木版彫刻師九十余人をあつめて『烈祖成績』二十巻七一二丁を出品。 一八七九(明治一二)〜 嘉平の長男庄太郎、宮内省の梅のお茶屋に通勤。『孝経』刻版。 一八八〇(明治一三) 嘉平、上野の博物館の門標を彫る。 一八八四(明治一七) 庄太郎、『孝経』復刻完成から一週間後、亡くなる。享年二十九。 一八八七(明治二〇)前後か 少青年時代の赤次郎、ノートを書き記す。 一九〇六(明治三九) 翠山、亡くなる。享年六十八。 一九〇七(明治四〇) 嘉平の末っ子である赤次郎、島津家へ遺作の一部を献納。 一九四三(昭和一八) 木村嘉次「安政年間における鉛活字の鋳造者、木版彫刻師木村嘉平」『明治文化』十一月号。徳永、蒲田区に木村嘉次を訪ねる。 *人物一覧(人名・組織名) &link_wikipedia(徳永直){徳永直} とくなが すなお 1899-1958 小説家。熊本県生れ。 A・M氏 東京都中野区鷺ノ宮に住む。 &link_wikipedia(木村嘉平){木村嘉平} きむら かへい 1823-1886 神田小柳町。代々彫刻師。 &link_wikipedia(木村嘉次){木村嘉次} きむら 〓 蒲田区。赤次郎の子。三代嘉平の孫。 &link_wikipedia(木村庄太郎){木村庄太郎} きむら 〓 ?-1884 号は春海。嘉平の長男。享年二十九。 &link_wikipedia(木村赤次郎){木村赤次郎} きむら 〓 嘉平の次男。写真製版に取りかかる。享年五十九。 K・H氏 牛込に住む。 &link_wikipedia(リンドレー・マレー){リンドレー・マレー} Murray, Lindley 1745-1826 アメリカの文法家。「英文法の父」と称される(西洋人物レ)。 &link_wikipedia(江崎礼二){江崎礼二} えざき れいじ 1845-1910 浅草公園の早取写真師。旧来の湿式写真から乾式写真に転じ、早撮り写真で名声を博す(人物レ)。 &link_wikipedia(本木昌造){本木昌造} もとき しょうぞう 1824-1875 蘭学者。日本の活版印刷の創始者。長崎生まれ。 &link_wikipedia(デヴィッド・ブルース){デヴィッド・ブルース} アメリカ人。1834年、ブルース式カスチングを発明。 ----------------------------------- &link_wikipedia(大沼枕山){大沼枕山} おおぬま ちんざん 1818-1891 漢詩人。江戸。 &link_wikipedia(飯沼慾斎){飯沼慾斎} いいぬま よくさい 1782-1865 本草学者・蘭医。伊勢亀山。主著「草木図説」。 &link_wikipedia(安積澹泊){安積澹泊} あさか たんぱく 1656-1737 儒学者。水戸藩士。「大日本史」編纂に従う。著「西山遺事」「大日本史賛藪」など。 &link_wikipedia(島津斉彬){島津斉彬} しまづ なりあきら 1809-1858 薩摩藩主。斉興の子。 &link_wikipedia(川本幸民){川本幸民} かわもと こうみん 1810-1871 蘭学者。摂津三田藩医の子。薩摩藩校学頭・蕃書調所教授。著「気海観瀾広義」など。 &link_wikipedia(島津久光){島津久光} しまづ ひさみつ 1817-1887 薩摩藩主斉彬の異母弟。 &link_wikipedia(平野富二){平野富二} ひらの とみじ 1846-1892 長崎生まれ。本木の協力者。 &link_wikipedia(ガンブル){ガンブル} William Gamble ?-1886 アメリカの宣教師。1869(明治二)上海から帰国の途次、長崎に寄港。 &link_wikipedia(梅村翠山){梅村翠山} うめむら すいざん 1839-1906 銅版画家。日本最初の銅石版印刷会社をおこして、近代精密印刷術の端緒を拓く。 &link_wikipedia(打田霞山){打田霞山} 〓 1855?-〓 江戸本郷生まれ。少年時から嘉平の弟子となって木版彫刻をならう。明治元年ごろから翠山に銅彫をまなぶ。嘉平の娘しげを妻とした。 &link_wikipedia(西村貞){西村貞} にしむら てい 1893-1961 美術史家。大阪生まれ。著『日本銅版画史』『民家の庭』『日本初期洋風画の研究』『キリシタンと茶道』など。 &link_wikipedia(司馬江漢){司馬江漢} しば こうかん 1747-1818 洋風画家。江戸。著「西洋画談」「春波楼筆記」「西遊日記」など。 安田雷州 → 安田雷洲 &link_wikipedia(安田雷洲){安田雷洲} やすだ らいしゅう ?-? 洋風画家・版画家。江戸の人。葛飾北斎に学び、銅版画に主力を注いだ。作「東海道五十三駅図」。/雷州(人物レ)。 &link_wikipedia(高野長英){高野長英} たかの ちょうえい 1804-1850 蘭学者。陸奥水沢の人。長崎でシーボルトに蘭学を学び、江戸で町医者を開業。医学・理化学・兵書を多く訳述。 本木道平 〓 本岐道平か。理化学を長英・小関三英について研究し、蕃社の獄に連座し、洋式銃の修理、鋳造の廉で押込に遭う。エウスタキオの原図から「神経血絡開現図」10枚の人体解剖図の銅版画をつくる(国史)。 &link_wikipedia(大久保利通){大久保利通} おおくぼ としみち 1830-1878 薩摩藩士。旧名、一蔵。 しげ 嘉平の娘。 &link_wikipedia(中川耕山){中川耕山} 〓 『欧米回覧実記』の挿入銅版画を彫る。中川昇、良考、通称長次郎か(国史)。 &link_wikipedia(オットマン・スモリック){オットマン・スモリック} オーストリア人。彫刻師。 &link_wikipedia(シ・ゼー・ポーラード){シ・ゼー・ポーラード} アメリカ人。印刷工。ポラード。 下岡蓮丈 → 下岡蓮杖か &link_wikipedia(下岡蓮杖){下岡蓮杖} しもおか れんじょう 1823-1914 日本の写真術の先駆者の一人。静岡県下田の人。 &link_wikipedia(金子政次郎){金子政次郎} 〓 石版工。織田一磨に石版を教える(国史)。 多湖実敏 稲垣太郎 小柴英 &link_wikipedia(亜欧堂田善){亜欧堂田善} あおうどう でんぜん 1748-1822 洋風画家。陸奥須賀川の人。 &link_wikipedia(牧墨遷){牧墨遷} 〓 牧墨僊か。尾張徳川藩士。喜多川歌麿・葛飾北斎に師事し、多くの画名を持つ。 申亥 松本安居 〓 松本保居か。京都。初代玄々堂。伊三郎風といわれ、微塵銅版・細密精緻の特徴が実用化。銅版図が流行するが用途が限られていた(国史)。 梅川夏北 &link_wikipedia(フランクリン){フランクリン} Benjamin Franklin 1706-1790 アメリカの政治家・文筆家・科学者。印刷事業を営み、公共事業に尽くした。 &link_wikipedia(小室誠一){小室誠一} 〓 明治7年、梅村翠山とともに銀座に彫刻会社を創立。 鳴鶴 → 日下部鳴鶴か &link_wikipedia(日下部鳴鶴){日下部鳴鶴} くさかべ めいかく 1838-1922 書家。彦根の人。 春洞 → 西川春洞か &link_wikipedia(西川春洞){西川春洞} にしかわ しゅんどう 1847-1915 江戸生まれの書家。 一六 → 巌谷一六か &link_wikipedia(巌谷一六){巌谷一六} いわや いちろく 1834-1905 書家。号は迂堂。近江水口藩士。小波の父。 雪柯 → 松田雪柯か &link_wikipedia(松田雪柯){松田雪柯} まつだ せっか 1823-1881 伊勢山田生まれの書家。 枕山 → 大沼枕山か &link_wikipedia(楊守敬){楊守敬} よう しゅけい 1839-1915 清末の学者。湖北省宜都出身。駐日公使の何如璋の随員となって来日。日本では中国国内ですでに散逸した古典籍を収集。 五世田芳柳 → 五姓田芳柳か &link_wikipedia(五姓田芳柳){五姓田芳柳} ごせだ ほうりゅう 1827-1892 画家。江戸生れ。 バルトン教授 写真術。当時工部大学に来日。 &link_wikipedia(田中光顕){田中光顕} たなか みつあき 1843-1939 土佐藩家老深尾氏家臣。 &link_wikipedia(杉孫七郎){杉孫七郎} すぎ まごしちろう 1835-1920 長州藩士。四境戦争では長州軍の参謀。明治維新後には山口藩副大参事となる。 &link_wikipedia(郷純造){郷純造} ごう じゅんぞう 1825-1910 幕臣、大蔵官僚。美濃国黒野の豪農の3男。 宮島大八 田中亥太郎 &link_wikipedia(小川一真){小川一真} おがわ いっしん/かずまさ 1860-1929 写真家。武蔵国忍藩士の子。単身渡米留学、アメリカでは当時最新の写真術を学び、明治18年(1885)帰国。 岩谷天狗 → 岩谷松平か &link_wikipedia(岩谷松平){岩谷松平} いわや まつへい 1850?-1920 薩摩。岩谷商会会長。別名、岩谷天狗。 *難字、求めよ 木村嘉次 『本邦昔時活字創製略伝』 =『本邦昔時鉛活字創製略伝』? =『昔時本邦鉛活字創製略伝』? 上巻の表記。 懸座 けざ? 鎔鉛 『横文字錺方』 よこもじ かざりかた? 筆意彫り 河三亥 人名か。『江戸名所図絵』の序文。 善龍寺 浅草門跡。善龍院か。 打田霞山 〓 1855?-〓 江戸本郷生まれ。嘉平の弟子。明治元年ごろから翠山に銅彫をまなぶ。嘉平の娘しげを妻とした。 本木道平 〓 本岐道平か。理化学を長英・小関三英について研究し、蕃社の獄に連座し、洋式銃の修理、鋳造の廉で押込に遭う。エウスタキオの原図から「神経血絡開現図」10枚の人体解剖図の銅版画をつくる(国史)。 中川耕山 〓 『欧米回覧実記』の挿入銅版画を彫る。中川昇、良考、通称長次郎か(国史)。 牧墨遷 〓 牧墨僊か。尾張徳川藩士。喜多川歌麿・葛飾北斎に師事し、多くの画名を持つ。銅版画に寛政末年のものもあるが、文政3(1820)刊『瘍科精選図解』の2枚の和風な模刻が知られている。「ロウレンス・ヘイステル」の蘭本訳の銅版画が原図(国史)。 オットマン・スモリック 彫刻師、オーストリア人。 シ・ゼー・ポーラード 印刷工アメリカ人。 多湖実敏 稲垣太郎 小柴英 申亥 人名か。 梅川夏北 小室誠一 バルトン教授 写真技術。当時工部大学に来る。 宮島大八 田中亥太郎 明治中期の日本で写真版術を開拓。 世に率ち さきだち? 数四 数子(すうし)か。 *むしとりホイホイ 引れ札 → 引き札 【き、か?】 複刻 → 復刻 【復】 さん膽 → 惨憺 【憺】 死んだ、という → 死んだ」という 【」】 底本は左辺のとおり。 *スリーパーズ日記    七日(火)大雪……タイセツ。イキのよさそうなハタハタを二尾、一八〇円也。ゆでて醤油と酢をたらし、こしょうをふるのみ。初めて口にする。藤沢周平の作中にしばしば登場するらしい。味、食感、骨ばったところ、とろみ、淡泊な肉質……ふとドジョウ汁を思い出す。ふしぎだ。  『復刻版ラピュタ・ガイドブック』購入。  一一日(土)晴れのち雨。市営バスで寒河江へ。三月にひきつづき慈恩寺シンポジウム。麻木脩平氏による彫刻仏師の推定と、長岡龍作氏による東北仏教の比較概論。平安後期から鎌倉初期における仏師は、院派・円派(京都)と奈良仏師の三派に大別。麻木氏は寺伝『伽藍記』を主な資料として、本堂法華彫像群は仁平元年(1151)を中心とした前後に、藤原忠実の命により奈良仏師・康助が作製と推理。  藤原忠実(1078-1162)、摂関・太政大臣。同時代に、奥州藤原氏第二代当主の藤原基衡、平清盛の父・忠盛、大江匡房、鳥獣戯画の鳥羽僧正、そして後白河天皇がいる。仏師康助の四代あとに運慶・快慶が出る。マッチョな油ぎった時代がはじまるころで苦手だが、しいてあげれば『源氏物語絵巻』が制作され『今昔物語集』『堤中納言物語』が編み始められたころ。  市内にあった中古パソコンショップがなくなったことを知る。バスを一本逃す。    おぼえがき。2004年に坂本竜馬「船中八策」『日本の思想20・幕末思想集』(筑摩書房、1975)の入力を担当。当時、宮地『龍馬の手紙』の存在は知っていたものの手を出さなかった。「船中八策」『幕末思想集』のばあい、親本に『坂本竜馬関係文書』を用いていることが記さている。後日、富田さんから『関係文書』は岩崎鏡川の編集であることを教えてもらうのだが、龍馬・岩崎(=岩崎英重、1874-1926)ともに保護期間を経過しているので、「船中八策」の翻刻テキストはパブリック・ドメインと考えられる。  では、宮地『龍馬の手紙』の翻刻テキストは同様か。2010年夏に入力と公開が進むのを見て疑問をいだいたのだけれど、著作権のことを最もよく知っているはずの富田さんとレセプション・世話役のひとたちが決めたのだから……と楽観視した。が、それから数か月たっても当初いだいた懸念が消えない。11月に富田さんとレセプションへメール。同時に、岡島さんとうちださんへも意見を聞く。「翻刻者としての宮地に著作権を認めなくていい」という富田さんたちの主張には疑問をいだく。  悲観視するならば、青空は宮地氏と出版社からうったえられて敗訴。最悪、全活動の停止になりはしないかということを危惧。 2010.12.13:公開 2010.12.14:更新 一スジ、二ヌケ、三役者。げげげのじょんて。 スローな近江屋にしてくれ。 目くそ鼻くそ。PoorBook G3'99 転載・印刷・翻訳は自由です。 カウンタ:&counter() ---- - う、長文メールをはねられた。ので、日記のほうへ。記憶力が持続しないもので……。 -- しだ (2010-12-14 01:14:40) #comment

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