敦煌:莫高窟

敦煌:敦煌は、河西回廊の西端にあり、古くから中国と西域との交通の要衝です。長安の都から西に向かうと、黄河の西側(河西)を縫うような街道(回廊)を経由し敦煌にでます。敦煌から西にむかうシルクロードは、ここから大きく三つの路があります。
第一路は、敦煌から北西方向のトルファン、そこから天山山脈の北側をウルムチへと進む「天山北路」です。
第二路は同じくトルファンで分岐し、天山山脈の南側、タクラマカン砂漠の北側を抜けカシュガルへ進む「天山南路」です。
第3路は敦煌から西方へ進み「玉門関」や「陽関」を経てタクラマカン砂漠を抜けカシュガルへ向かう「西域南道」です。
  • 莫高窟の入場券
敦煌の歴史は古く、紀元前にこの地を月氏が支配しており(敦煌はそのときの名前の音訳と言われます)、紀元前2世紀前半に匈奴が月氏を攻めて、匈奴の支配下に入りました。その後、前漢の武帝が西域の積極的遠征を行い、紀元前92年ごろ漢により敦煌郡が設置され、敦煌の西に防御拠点の玉門関と陽関が設置され、漢の西域経営の中心地となりました。西方からの汗血馬・ブドウ・ゴマなどの産物や仏教が敦煌を経由し漢に運ばれ、漢からは絹が西方へと運ばれた。漢にとっての経済・軍事に於ける重要な拠点となりました。
その後、北魏が、この地を西域に対する重要拠点として支配しました。またこの時代は仏教が中国に伝来した時代でもあり、敦煌では僧が西方よりやってくる経典の訳に励み、仏教の普及に大きく貢献しました。
唐代も引き続き、敦煌は西域への玄関口として重要拠点でした。安史の乱により唐の統制力が弱まり、781年にチベット(吐蕃)の侵攻を受けて、以後はその支配下に入った。北宋代に入り、タングートが力をつけて西夏を建てて、敦煌を占領した。敦煌文書が莫高窟に画され、入口を塗り込められたのはこの時代と考えられている。その後に西夏をモンゴル帝国が滅ぼし、引き続いて元の支配下に入る。しかしこの頃になると中国と西方を結ぶルートがシルクロードから南方の海の道へと移行し始め、敦煌、シルクロードの価値は次第に低下していきました。
  • 飛行機から見る内モンゴルの砂漠
莫高窟:敦煌市の東南25kmに位置する断崖に南北に1600mに渡って掘られた600あまりの洞窟があり、その中に2400余り仏塑像が安置され、壁には一面に壁画が描かれ、総面積は45000平方メートルといわれている。1987年に世界遺産に登録され、観光名所として栄えている。五胡十六国時代に敦煌が前秦の支配下にあった時期(355年あるいは366年)に莫高窟が作られ始めたとされる。仏教僧が彫り始めその後の元代に至るまで1000年に渡って彫り続けられました。
壁画の様式としては五胡十六国北涼、続く北魏時代には西方の影響が強く、北周・隋唐時代になると中国からの影響が強くなり、『釈迦説法図』などが描かれるようになる。唐時代に作られた窟が一番多く225の窟が唐代のものと推定され、次が隋時代の97窟である。北宋から西夏の時代は、敦煌・シルクロードの重要性も低下し、作られる窟は非常に少なくなり、次第に敦煌・莫高窟も忘れ去られていった。しかし1900年、第17窟, (後に「蔵経洞」と命名)から大量の文献が発見され、1907年にイギリスのオーレル・スタインが数千点の文書・絵画を買い込んでイギリスへと持ち帰り、翌年にフランスのポール・ペリオが同じようにフランスへ持ち帰りました。日本の大谷探検隊・アメリカ・ロシアの探検隊が少量であるが自国に持ち帰りました。
  • 莫高窟
莫高窟は、約500窟の内40-50窟が一般に公開されている。これ以外に別料金を払って見学する特別窟がある。我々を案内してくれた莫高窟の学芸員の話では、窟の保存のため今後段々公開窟を減らし、かつ特別窟の参観費も高くせざるを得ないとのことでした。下記の45窟、57窟、320窟等は特別窟に当ります。45窟や57窟などは、非常に人気がありますが、希望の窟を見たい場合は、学芸員を雇い、事前に良く打合せする必要があります。下記は、我々が見た窟の記録です。
103,104,105窟:唐時代、青・緑の山水画と文殊菩薩の画
130窟:盛唐、高さが29mもある弥勒大仏
148窟:盛唐、身長17mの涅槃佛が安置されている。壁には巨大な涅槃経変(経典の内容の絵画化)
249窟:西魏、弥勒佛、雷神・風神図、狩猟図等
259窟:北魏、交脚弥勒菩薩、衣紋はガンダーラ式
257窟:北魏、九色の鹿物語を描いている。
444窟、437窟:当時のままの庇、欄干等
17窟、16窟:16窟の北壁には、1900年に発見された敦煌文書の収められた「蔵経洞」がある  
320窟:盛唐、莫高窟のなかで最も美しいとされる飛天のある窟
23,24窟:初唐、須弥山、雪の絵、釈迦・観音菩薩図
45窟:盛唐に作られた窟、釈迦本尊を中心に2比丘、2菩薩、2天王の塑像からなる盛唐様式像
57窟:敦煌窟の随一といわれる美人菩薩窟

  • 莫高窟
  • 莫高窟北区:敦煌の石窟は、700余窟あり南区と北区に分かれています。彫像や壁画は南区にあり、北区は僧侶たちの修行や住居場となっており、竈や燭台などがあります。




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最終更新:2007年08月04日 20:18