西安

西安は、陝西省の省都です。秦滅亡後の漢代に、破壊された秦の都だった咸陽の郊外に新たに首都を建設し、長安と名付けた。長安とその近郊は、紀元前11世紀から9世紀にかけて漢、秦、隋、唐などの都とし中国の政治、経済、文化の中心として栄えました。
長安は、最盛期に人口100万人とも言われる大都市に発展し、この大都市の食料を支えるため、江南から大運河を通じて大量輸送を行う必要が有りました。唐末期の安史の乱(*)以後は大運河の管理が次第に困難となり、長安での食糧問題が発生するようになり、都が洛陽に移されました。
長安は碁盤の目状の道路、南北を貫く大通り、北の政庁の位置、河川の配置といった特徴を持っている。南京・北京などでは感じませんが、京都(平安京)が長安の影響を多きく受けていることを感じます。昔、日本の平安京の西(右京)を長安、東(左京)を洛陽と言われたが、右京が衰え左京が発展したため、京都を洛に準え、洛中洛外・洛北と呼ぶようになりました。長安には、日本からも阿倍仲麻呂、空海、最澄たちが遣唐使として東シナ海を渡り、国際都市長安を目指し種々の文化を日本に持ち帰りました。

  • 華清池:近くで温泉が湧いており、唐の玄宗皇帝と楊貴妃が冬の別荘として利用た場所です。楊貴妃が使ったと言われるお風呂が残っています。
安史の乱(*):唐時代の755年、安史の乱が起こります。反乱軍のリーダー安禄山と史思明の二人の名前をつないで安史の乱とよばれます。 安禄山は父親がソグド人(中央アジアを中心に活躍していたイラン系の商業民族)です。安禄山は、出世するため楊貴妃に取り入り、やがて玄宗皇帝に取り立てもらい、辺境防衛の軍団になりました。玄宗により取立てられた楊貴妃の従兄の楊国忠と安禄山との対立から、安禄山は反乱を起こし、すぐに洛陽を占領、翌年には長安も占領しました。玄宗は楊貴妃を引き連れて長安から逃れます。逃亡の途中に自軍の兵士達から「安禄山の反乱は楊貴妃のせいだ」迫られ、仕方なく、楊貴妃を殺させたといわれています。この乱を鎮めるため唐は、 唐政府は安史の乱を鎮圧するためウイグル族の力を借ります。これ以降唐におけるウイグルの力が大きくなります。


安史の乱で杜甫は長安から脱出の時に幽閉されます。戦乱で荒れ果てた長安の風景を嘆いている有名な「春望」の詩があります。
「国破れて山河あり、城春にして草木深し、時に感じては花にも涙をそそぎ、別れを恨んでは鳥にも心を驚かす、烽火三月に連なり、家書万金に抵(あた)る、白頭掻(か)けば更に短く、渾(すべ)て簪(しん)に勝(た)えざらんと欲す」
ここで、城とは長安の都のことで、荒れ果てた様子を嘆き悲しんでいます。


  • 漢陽稜:前漢時代の皇帝の墓、大変立派な副葬品ですが兵馬俑と比べると規模が小さいです




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最終更新:2007年07月31日 21:56