チベット

チベットの大半は約1億年前に海から隆起して作られた大地で、南はカラコルム山脈、ヒマラヤ山脈、西はカラコルム、崑崙山脈に囲まれて、北東は中国の青海省、四川省に続き、四川省の九賽溝などは九つのチベット族の村のある谷の意味で、この辺りもチベット族がくらしています。東には中国の名山と謳われる梅里雪山やシャングリラのある雲南省が続いています。チベットはアジヤの主要な河川の源流となっています。 ヤル・ツァンポ河(インドのブラマプトラ河へ、ガンジス河はヒマラヤの南麓を源流としバングラディッシュでブラマプトラ河と合流します)、マチュ河(中国の黄河へ) 、ドリチュ河(中国の揚子江へ) 、センゲ・カバブ河(インドのインダス河へ)、 ザチュ河(インドシナのメコン河へ)等です。この様にチベットはユーラシア大陸の重要な水源になっています。地球温暖化の中で、チベットの環境を如何に保全するかの重要性が理解できます。

(参考)チベット仏教:インドでは初め仏教とヒンズー教が有りましたが、段段とヒンズー教が優勢になりました。 ヒンズー教は庶民の宗教、仏教はエリートの宗教と言われ、仏教は一般庶民には難しすぎ その改善として密教がうまれた。チベットへの仏教の本格的な伝来は、8世紀の後半に国家の指導理念を仏教に求め、寺院や僧侶に手厚い保護を加えごく短期間に膨大な経典をチベット語に翻訳するなどの大きな偉業を達成しました。
チベット仏教は、大乗仏教で直接インドから伝えられ、土着の信仰と融合しながら発展しました。一方インドでは、13世紀にイスラム教徒の攻撃を受け仏教が滅んだ。この時、仏教側の最後の拠点だった大僧院の座主はヒマラヤを越えてチベットへ逃れ、経典、戒律などをチベットに伝えた。このようにして、チベット仏教は、インド仏教の流れを直接受け継ぎ、その貴重な文化的遺産を守り伝えた。 この様に、チベット仏教は理論的体系がしっかりしており、フランスなどではチベット仏教の信仰者が増えている。

チベットでは信仰がまだ生きていると強く感じられます。次の写真はセラ寺(日本人の河口慧海などが密入国しチベット仏教を学んだことで有名な寺)の僧侶の問答修行です。上級者が問い、修行者の答えの真偽を判定します。右手を拳を握り、開いた自分の左手を叩きます。この時、甲で叩けば偽、指側正面で左手を叩けば真を意味します。
  • ポタラ宮への巡礼
(参考)聖なる山:カイラス山  約5000万年前にインド大陸とユーラシア大陸が衝突しました。聖なるカイラス山から西に流れるインダス川、反対方向の東に流れるヤル・ツァンポ河(インドのブラマプトラ河へ)のラインがこの縫合帯です。ラサ、ツェタンはヤル・ツァンポ河の流域にあります。聖なるカイラス山はチベットでは世界の中心とされていますが、壮大な地球の歴史から見ても地球の中心と呼ぶにふさわしい山と思います。チベットの人々が一生に一度は訪れたいという聖なる山カイラスは、この聖なる山の周りにある約52キロの巡礼路を右回りで巡礼することで現世の罪を清め、来世も再び人間としての生まれ変りを祈ります。6,714mのカイラス山は未登頂(カイラス山は釈迦牟尼の化身であり、登山許可は下りない)です。
  • 次の写真は、ポタラ宮の屋上です。
モンゴルとチベットの関係:13世紀にモンゴル軍がチベットに侵入し、チベットの最高の聖者をモンゴル宮廷に送るように通達し、チベット仏教の聖者がモンゴル宮廷で活動しました。やがてフビライ・ハンが中国統一王朝の元王朝を作り、チベット仏教を国教とした政治を行った。また元王朝の繁栄を祈念して、大都(後の北京)にチベット式の仏塔を建てた。北京の万里長城:居庸関には、当時は3基のチベット式仏塔が建てられて、その壁面には、チベット文字・八思巴(モンゴル)文字や、漢文の6言語で書かれていて「居庸関六体石刻」がある。この様に、チベットとモンゴルの関係は深い。日本人の感覚からするとチベットとモンゴルは、中国を挟んで北と南と感じますが、青海省や敦煌でつながっているます。事実敦煌も一時期チベットの領地だったこともあります。また、現在のモンゴルの宗教もチベット仏教です。



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最終更新:2007年07月14日 19:40