高昌古城1

高昌国は、500年頃麹嘉が高昌国の王になり、シルクロードの天山北路の要所として交易の利益で栄え、640年に唐に滅ぼされるまで続きました。「寺院の数五十余り(大唐西域記)」もある熱心な仏教国であり、唐の玄奘三蔵は7世紀中頃、天竺への旅の途中に、高昌国を訪れ、この地で、仏典の講義をしています。高昌国への永住を強く請う王に対して、玄奘三蔵は天竺(インド)からの帰りには必ず寄るという約束をして、多額の宝と従者や馬をつけてもらって更に西に向かい旅立った。 しかし、唐の西域への進出に伴い640年に唐に滅ぼされ、玄奘三蔵は天竺から唐への帰途に高昌国の滅亡を知り、再訪は叶いませんでした。その後、「高昌」は主に歴代の中国王朝が管理する交易都市として存在し、十四世紀末の蒙古族貴族の反乱で街自体も滅びてしまいました。高昌国はタマリスクの枝や草などを混ぜた日干し煉瓦で作られており、そのため、現在は本当に廃墟しか残っていません。
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  • ロバの御者達
  • 玄奘三蔵が講義したとされる堂の跡


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最終更新:2007年09月27日 22:12