鳥居龍蔵 とりい りゅうぞう
1870-1953(明治3.4.4-昭和28.1.14)
人類学者・考古学者。徳島の人。東大助教授・上智大教授などを歴任。中国・シベリア・サハリンから南アメリカでも調査を行い、人類・考古・民族学の研究を進めた。晩年は燕京大学教授として遼文化を研究。著「有史以前の日本」「考古学上より見たる遼之文化」


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)。

◇表紙の鈴は、朝鮮咸鏡かんきょう南道・咸興かんこうの巫人の持てるものであって、先端に鈴は群をなし、そのかたわらに小さな鏡が結びつけられ、柄の下端には五色の長い絹の垂れがさがっている。彼女が神前で祈り舞うとき、これを手に持って打ち鳴らすのである。(本文より)



もくじ 
日本周囲民族の原始宗教
神話・宗教の人種学的研究(六)鳥居龍蔵


※ 製作環境
 ・Macintosh iBook、Mac OS 9.2.2、T-Time 2.3.1
 ・ポメラ DM100、ソニー Reader PRS-T2
 ・ソーラーパネル GOAL ZERO NOMAD 7
  (ガイド10プラス)
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*凡例〔現代表記版〕
  • ( ):小書き。 〈 〉:割り注。
  • 〔 〕:底本の編集者もしくは、しだによる注。
  • 一、漢字、かなづかい、漢字の送り、読みは現代表記に改めました。
  •    例、云う  → いう / 言う
  •      処   → ところ / 所
  •      有つ  → 持つ
  •      這入る → 入る
  •      円い  → 丸い
  •      室《へや》 → 部屋
  •      大いさ → 大きさ
  •      たれ  → だれ
  •      週期  → 周期
  • 一、同音異義の一部のひらがなを、便宜、漢字に改めました。
  •    例、いった → 行った / 言った
  •      きいた → 聞いた / 効いた
  • 一、英語読みのカタカナ語は一部、一般的な読みに改めました。
  •    例、ホーマー  → ホメロス
  •      プトレミー → プトレマイオス
  •      ケプレル  → ケプラー
  • 一、若干の句読点を改めました。適宜、ルビや中黒や感嘆・疑問符・かぎ括弧をおぎないました。一部、改行と行頭の字下げを改めました。
  • 一、漢数字の表記を一部、改めました。
  •    例、七百二戸   → 七〇二戸
  •      二萬六千十一 → 二万六〇一一
  • 一、ひらがなに傍点は、一部カタカナに改めました。
  • 一、カタカナ漢字混用文は、ひらがな漢字混用文に改め、濁点・半濁点をおぎないました。
  • 一、和暦にはカッコ書きで西暦をおぎないました。年次のみのばあいは単純な置き換えにとどめ、月日のわかるばあいには陰暦・陽暦の補正をおこないました。
  • 一、和歌・俳句・短歌は、音節ごとに半角スペースで句切りました。
  • 一、表や図版キャプションなどの組版は、便宜、改めました。
  • 一、書名・雑誌名・映画などの作品名は『 』、論文・記事名および会話文・強調文は「 」で示しました。
  • 一、「今から○○年前」のような経過年数の表記や、時価金額の表記、郡域・国域など地域の帰属、法人・企業など組織の名称は、底本当時のままにしました。
  • 一、差別的表現・好ましくない表現はそのままとしました。

*尺貫・度量衡の一覧
  • [長さ]
  • 寸 すん  一寸=約三センチメートル。
  • 尺 しゃく 一尺=約三〇センチメートル。
  • 丈 じょう (1) 一丈=約三メートル。尺の10倍。(2) 周尺で、約一.七メートル。成人男子の身長。
  • 丈六 じょうろく 一丈六尺=四.八五メートル。
  • 歩 ぶ   左右の足を一度ずつ前に出した長さ。六尺。
  • 間 けん  一間=約一.八メートル。六尺。
  • 町 ちょう (「丁」とも書く) 一町=約一〇九メートル強。六〇間。
  • 里 り   一里=約四キロメートル(三六町)。昔は三〇〇歩、今の六町。
  • 尋 ひろ (1) (「広(ひろ)」の意)両手を左右にひろげた時の両手先の間の距離。(2) 縄・水深などをはかる長さの単位。一尋は五尺(一.五メートル)または六尺(一.八メートル)で、漁業・釣りでは一.五メートルとしている。
  • 海里・浬 かいり 一海里=一八五二メートル。
  • [面積]
  • 坪 つぼ  一坪=約三.三平方メートル。歩(ぶ)。六尺四方。
  • 歩 ぶ   一歩は普通、曲尺六尺平方で、一坪に同じ。
  • 畝 せ 段・反の10分の1。一畝は三〇歩で、約0.992アール。
  • 反 たん 一段(反)は三〇〇歩(坪)で、約991.7平方メートル。太閤検地以前は三六〇歩。
  • 町 ちょう 一町=一〇段(約一〇〇アール=一ヘクタール)。令制では3600歩、太閤検地以後は3000歩。
  • 町歩 ちょうぶ 田畑や山林の面積を計算するのに町(ちよう)を単位としていう語。一町=一町歩=約一ヘクタール。
  • 方里 ほうり 縦横一里の面積。平方里。
  • [体積]
  • 合 ごう  一合=約一八〇立方センチメートル。
  • 升 しょう 一升=約一.八リットル。
  • 斗 と   一斗=約一八リットル。
  • [重量]
  • 厘 りん  一厘=37.5ミリグラム。貫の10万分の1。1/100匁。
  • 匁 もんめ 一匁=3.75グラム。貫の1000分の1。
  • 銭 せん  古代から近世まで、貫の1000分の1。文(もん)。
  • 貫 かん  一貫=3.75キログラム。
  • [貨幣]
  • 厘 りん 円の1000分の1。銭の10分の1。
  • 銭 せん 円の100分の1。
  • 文 もん 一文=金貨1/4000両、銀貨0.015匁。元禄一三年(1700)のレート。1/1000貫(貫文)(Wikipedia)
  • 一文銭 いちもんせん 1個1文の価の穴明銭。明治時代、10枚を1銭とした。
  • [ヤード‐ポンド法]
  • インチ  inch 一フィートの12分の1。一インチ=2.54cm。
  • フィート feet 一フィート=12インチ=30.48cm。
  • マイル  mile 一マイル=約1.6km。
  • 平方フィート=929.03cm2
  • 平方インチ=6.4516cm2
  • 平方マイル=2.5900km2 =2.6km2
  • 平方メートル=約1,550.38平方インチ。
  • 平方メートル=約10.764平方フィート。
  • 容積トン=100立方フィート=2.832m3
  • 立方尺=0.02782m3=0.98立方フィート(歴史手帳)
  • [温度]
  • 華氏 かし 水の氷点を32度、沸点を212度とする。
  • カ氏温度F=(9/5)セ氏温度C+32
  • 0 = 32
  • 100 = 212
  • 0 = -17.78
  • 100 = 37.78


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)『歴史手帳』(吉川弘文館)『理科年表』(丸善、2012)。


*底本

底本:『日本周圍民族の原始宗教』岡書院
   1924(大正13)年9月20日発行
   1924(大正13)年12月1日3版発行
http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person1214.html

NDC 分類:163(宗教/原始宗教.宗教民族学)
http://yozora.kazumi386.org/1/6/ndc163.html





日本周囲民族の原始宗教
神話・宗教の人種学的研究(六)

鳥居龍蔵

 南シナ蛮族とその文化および宗教


わが国と一衣帯いちいたいすいの呉楚越およびその以西は、斯学しがく上いかなる色彩を持っているか。殊にその文化・宗教・神話は如何いかん。参考としてこれを述べてみたい。

   一、緒言しょげん


 これまでおよび今日でも、東洋方面の研究家というものは、北方に偏した気味があるが、これは日本の言語および歴史学者、その他のオーソリティーが、北方を主としている結果であろうと余は思うのである。余も近ごろは北方ばかりをやっているから、その内に入る一人であるが、本章において述べようとするところは、南シナにおけるシナ人(漢族)以外の蛮族についてである。
 ここで南シナというけれども、正確にいえば西南シナ――四川省が入っているから、どうしても西南シナといわなければならない。すなわちシナのプロビンス〔province、行政区画〕でいうと、揚子江〔長江〕の南の江蘇こうそ浙江せっこう江西こうせい湖南こなん湖北こほく、それから福建ふっけん広東カントン広西こうせい〔現、チワン族自治区〕雲南うんなん貴州きしゅう四川しせん、これらを含んだところの各プロビンスにおける話をしてみたいと思うのである。
 一般に地理書や旅行記などを見ても、南シナというとごく華奢きゃしゃな繁華な土地のように考える人が多い。また近ごろ揚子江の下流を歩いてきた人の話を聞くに、上海シャンハイがどうだとか、漢江かんこうがどうであるとか、広東カントンがどうしたとか、交通便利な所のにぎやかな話がたいがい多いように思う。近ごろ日本に、シナのクラシックをてて新しいシナを学べという人が出てきている。要するに、南シナの古典的研究はだんだん消えかかりつつあるのである。これから述ぶるところは、南シナおよび西シナの一部分における民族の話である。これらについては、いろいろ考古学上から見なければならぬとか、あるいは言語学上から見なければならぬとか、なおまた人種学・人類学・土俗学・歴史などいろいろこの方面からの見ようもあるが、これをいちいち述べるのはページ数を非常にとることであるから、そのうちの概論的のことを記してみたいのである。

   二、漢民族と南蛮との関係


 いったい南シナは、シナの『書経』などにも見えているように、三苗有苗の国と称して、ごく古い以前から漢民族とのあいだに関係があるのである。すなわち〔びょう、ミャオ〕である。それは古いときから見える。それから、南のほうの蛮人を漢民族はいつもとよび、南の蛮であるから南蛮という。その音は Man をもって呼んでいる。日本の言葉でいうと「バン」である。まず歴史のほうからいえば、これは今いったように古いところでは三苗さんびょう有苗ゆうびょうである。それから後になると、の国であるとか、えつびんしょくなどというような国が見える。けれども漢民族というものを主として見ると、いわゆる南蛮の国であって、たとえ漢族の冠をかぶり、束帯そくたいをつけて彼らの風俗習慣になっても、これはいわゆるコウ〔さる〕が冠をつけるようなたぐいで、北方の漢民族から見るとやはり蛮たることはまぬがれない。南シナの見方というものは、日本では一様に呉とか越とかとか楚とかいうように見えるけれども――これはシナの学者もそうであるけれど、―われわれ人類学・人種学の立場から見ると、民族的色彩においても違うのである。これは有名なる歴史家の司馬しばせんが、その『史記』の内によく書いてある。まず民族のことを記する前に、このことを一言ひとことしなければならない。
 さて、周が諸侯を各地にほうじたうちに、とかえいとかしんとかいろいろのものがあるが、またそうでないものもある。これについてはだいぶ歴史家のほうで意見もあるようであるが、その中でことに余は最初に、楚だとか越だとか呉だとか、だとか、こういうような方面によほど注意しなければならないと思う。じつは楚・呉・越・というような国は、その主脳部にいる人とか、または役人のようなものはあるいは漢民族であったかもしれないが、土台になり基礎になっている民衆は彼らでなく、まったくノンチャイニーズである。漢族以外の南蛮である。これは注意しなければならないことである。これについてくわしく記することはよほどページ数を要することであるが、たとえば呉の祖――呉は今日の浙江省であるが、呉の祖先について司馬遷は、すでに『史記』においてこう書いている。すなわち太伯たいはくである。
 太伯は周の王族であったが、これがある関係で太伯とその弟仲雍の二人が荊蛮けいばんに走ってしまった。しかして文身ぶんしん断髪、よほど中華の風俗と違ったものとなり、もってもちうべからざることを示して、ついに蛮族の中に同化し、後にされてその君となった。これは司馬遷が『史記』の中に書いている。これにちゅうしたものを見ると、句呉くご」というのは古い名で、太伯の以後になって「呉」というものがはじめておこった。句呉という名も荊蛮の言葉である。太伯は彼ら荊蛮の長となったのである。これらを考えても、もと蛮族の中に北方から――これがはたして歴史上の事実であるか、伝説上の事実であるか、それはしばらくおいて――北方黄河の流域にいるある漢族が個人としてこれに投じ、ついにこれを統一して呉の国の基礎をつくった、というふうに書いてある。それから越もそうである。これも『史記』に、越王勾践こうせん夏后かこう小康しょうこうの庶人である、会稽かいけいに封ぜられ、文身ぶんしん断髪、披草莱而邑焉。」と記してある。かくして越の基礎をこしらえた。これも呉の太伯と同じで、やはり北方の黄河流域に住んでおった漢族が蛮の中に投じたのである。これらの二つの例によって、個人として漢族がしばしば揚子江をこえて南蛮に投じたということが十分にわかるのである。要するに呉だとか越だとかだとか楚だとかいうものは、土台は蛮族であるけれども、その蛮族の上に北方の漢人が入って統一して、ついに国家的基礎をつくったということになる。楚・呉・越・、みなそうである。こういうふうの色彩を持っているから、一般の歴史家や旅行家などは、南シナをもって単に北方・中央部のシナと同一に古来、漢族の国と見ているけれども、われわれの人類学・人種学から見ると、よほど色彩が違ったものに見えるのである。
 とにかく漢族は南方の蛮族を統一して、それにいろいろの知識をあたえて、ついに国家的組織というものがここにできることになった。しかしてこれが後になって、周の春秋・戦国の時代において北方の諸侯と覇をあらそうことになり、ついに楚の国にいたっては、五覇の一つとして一時シナの覇権をにぎるようになったのである。これは歴史において明白であるからくわしくはいわない。こういうようなふうに国家というものが揚子江の以南にできた。しかして、北方の漢族の国と互いに政治上の権力を争っていた。けれども土台になっている民衆というものは漢族ではない。みな蛮族である。
 以上はどの地方であるかというと、江蘇・浙江・江西・湖北・湖南、まずこのあたりが主になって、呉・楚・越というものがあったのである。それから福建省からかけて浙江の一部分、これがの国であった。これらの地方は北方の漢族と接触する機会が多い関係で、比較的漢族の文化を受けてもおり、かつまた漢族の不平分子がこれに投じて、いろいろのものを完成したのである。かかる例は今日においても見られるのであって、漢族が北方夷狄いてきらの地にあって、物を書く役、あるいは王家の顧問になるというようなことをして、そこで常に文化事業に従事し、シナ化をやっているのと同じ意味と見て間違いはないのである。そうであるがゆえに、ある程度においては、南シナというものは北方の不平連とか、そのほかいろいろの人々が個人として投入してきて、国家組織というものがもはや出来できかけてきたのである。

   三、南蛮の地域と歴史


 しからば南方の蛮族は元来未開であったかというと、決してそうではない。土地は黄河流域よりも非常に富んでいる。黄河流域にいる漢族は文化においてはいかにも進んでおって、中華をもってほこることができる。これを北方のモンゴル民族・トルコ民族、あるいはツングース民族と比較すると、とうていくらべものにならない。けれども彼らの住む黄河流域は、南方に比較すると気候・土地の関係やその他いろいろの関係で富んでいない。南方はどうであるかというと、気候・地質・地勢などのうえから見ると、土地は南山山脈を南にひかえ、揚子江の沖積した土壌はきわめて膏沃こうよく、加うるに河川縦横、いずれも交通の便を有し、気候もよほど暖かい。そういうふうであるから、文化を形成すべき素因は自然にそなわっている。すべての条件が非常によい。そうであるから漢族が来なくとも、生活上の余裕はじゅうぶんあるのである。たとえば銅鼓どうこをつくるとか、農業をするとかいうような風は、北方の夷狄とははるかに違っている。農業というものは、漢族と接触する前からやっておったのである。これを考えてみてもわかるが、余の言葉をもっていわしむれば、北方の漢族はアワをもって食としている国であり、南方の蛮族は米をもって生活している。これがたいへん違う。古いものを見ても、北方はみなアワをっている。今もアワを食っている。南方は米である。水田でも作り、また陸稲りくとうも作る。この点を見ても南方は米の文化で、北方はアワの文化である。こういうような相違ができている。しかしてとにかく、楚だとか呉だとか越などがここに発達しておったが、これが互いに軋轢あつれきして、ついに楚の国ばかりが残ってしまうことになったのである。これはどこであるかというと、揚子江の流域の南のほうである。けれども南シナの地形はどうであるかというと、西北の方から東の方に走っている山脈がある。これはいわゆる南嶺なんれい、もしくは南山山脈と称するところの山脈である。雲南から貴州、それから湖南にきて広西・広東との境をなし、それから江西にきて福建省との境をなし、さらに浙江にまでびている。この蜿蜒えんえんたる一帯の山脈というものは、よほど文化史上・人類学上注意すべき点である。
 じつは南シナのことをちょっと考えると、揚子江の流域を考えるけれども、その南に南山山脈があるということを注意しなければならぬ。北方の漢族が最初に投じておったところの南方の土地は、呉・楚というような土地が多いのである。すなわち南山山脈の北の方面で、揚子江の流域になっている。南山の南のほう、いわゆる嶺南方面には、まだ漢族の感化はおよんではいない。すなわち今日の福建・広東・広西というような方面には、まだシナの感化がおよんでいない。昔から南の土地には非常におそろしい動物がいるとか、かの有名なかん退之たいし韓愈かんゆ鰐魚がくぎょをまつるの文という文章さえもあり、また唐あたりでは、南〔一字不明〕蛮族のいる土地としてある。そういうふうで南嶺山脈の北の方が、まず漢族がいくらか手をつけていたのである。それから東の方、いわゆる東海の浜、浙江からかけて山東にいたる東海岸、この方面は前から彼らが手をつけておった。けれどもこれとても個人としてであって、中央の政治的大威力・大圧迫をもってしたのでは決してない。秦の始皇帝が天下を統一して、はじめて南方に手がついたのである。それからなお漢が受けついだ以後、嶺南れいなんのある部分に手がつくようになった。これがまず漢民族が入ってきたところの注意すべきことである。すなわち秦は、・越の地に中というものを置くとか、それから今日の広西省の桂林けいりん郡、広東省の南海郡、アンナン〔ベトナムの旧称〕象郡ぞうぐん、この三郡を置くとか、よほど南方に手をつけた。漢にいたってはなお盛んである。たとえば・越の一郡の東越というところにいる蛮族を北方に移住させるとか、なおいろいろアンナン・広東などの海岸線に郡を置いて、新たに九郡を設けた。すなわち南海・蒼梧そうご鬱林うつりん合浦ごうほ交趾コーチ九真きゅうしん日南にちなん珠崖しゅがい耳というのがこれである。しかしてなお南嶺の北における湖南の長沙ちょうさなどに、はじめて漢民族の絶対勢力が扶殖ふしょくされることになった。ただしその南嶺の北のすそあたりには、まだ漢民族の勢力はおよばなかったのである。そういうふうに漢族の勢力というものが、ぼつぼつ南方に入りかけてきた。けれども『漢書』を見ると、当時、漢の嶺南に立てたところの郡の人口戸数は、今日の南満州、当時の遼東郡の戸数人口よりも少ない。これによっていかに彼らの殖民というものが、秩序的に徐々として時間のよほどかかっているものであるかということが考えられるのである。
 嶺南れいなんのほうはこうであるが、しからば西の方はどうかというと、まだ貴州省の方面――湖南省の西の方面へは漢族が容易に入ることができない。湖南には二つの河が流れていて、一方は南嶺のほうから流れてくる湘江しょうこうであって、その岸に有名なる長沙がある。また一方の河はげんこうで貴州省から流れてきて、その岸に湘江の長沙に対する常徳じょうとくというところがある。ここは今もあるが、常徳を少しさかのぼると有名なる武陵ぶりょう桃源とうげんがある。の南方に銅柱を建てたという有名なるえん将軍のごときさえも、非常に困難してここまではようやく苗族ミャオぞく征伐にきたけれども、武陵桃源まではどうしても行けなかった。そうしてここの五渓蛮に糧食りょうしょくを絶たれて、将軍はこの地で死んでいる。そうすると馬援のときまでは常徳より少し上流になると、もう彼らは入ることができなかったのである。これはよほど注意しなければならない。それから、貴州省は無論入ることができない。彼のマルコ・ポーロの旅行記『東方見聞録』を見ても、雲南から四川へは自由に通じておって、元朝の施政がおこなわれているありさまを書いている。けれども一方の貴州省へはマルコ・ポーロも入ることができなかった。元の盛んなときであっても貴州省へ入ることができなかった。しかるに四川と雲南両省はどうかというと、四川省は揚子江の関係および北方の洛陽・長安などの関係、その他の方面から入る便があったので、揚子江の上流をさかのぼり、あるいは有名な蜀の桟道さんどうをへて、昔から漢族は成都せいと重慶じゅうけいの方面、すなわち蜀や巴の地に入りこんでおったのである。この関係から後漢時代の色彩がよくわかる。後漢あたりの横穴あるいは碑文というようなものがたいへん残っている。けれども蜀とか巴とかいうのは、もとこれは蛮人の名前である。周の武王が殷をほろぼしたときに、黄河流域の孟津もうしんに矛を立ててちかったことがある。これは『書経』などに出ている名高い事実であって、そのときに各地方の勇士が孟津に集まったのであるが、これは漢族ではなくして多くは蛮族である。そのうちに四川から今日のチベットの境にいる蛮族があって、その中の名前が残っている。すなわちこれは種族名である。今日、四川に巴という名前が残っているが、もとは種族名で、蜀もまた同じことである。けれども漢族はよほど早くから入り込んでいる。それゆえに司馬遷の『史記』あるいは『後漢書』などを見てもわかるが、漢の王族が続いて蜀の王となり、諸葛孔明などもここに来ている。漢族は、重慶からかけて岷江みんこうの流域に繁殖はんしょくし、成都を中心として峨眉山がびさんのあたりにもおよんでいる。李白りはくの有名な「峨眉山月半輪秋、影入江水流」という詩は、すなわち岷江を下るときの作である。岷江と揚子江合流する地点、あれから成都のほうは、漢族の一つの殖民地の中心地である。
 こういうふうに、四川のほうには早くからの彼らが入ったが、貴州省には入ることができない。彼の李太白の流された夜郎やろうは四川に近い貴州の口であるが、あの時までも入ることができずにいる。そしてようやくそのあたりが当時、罪人の配流はいる地になっておったくらいである。それから雲南省のほうはよほどおもしろいのであって、蜀が文化の中心点になって、しかしてその勢力が雲南のほうに扶殖ふしょくされたのである。どの道から交通したかというと、揚子江と岷江との合する西のほうに叙州というところがあるが、このあたりからずっと雲南に入ったのである。マルコ・ポーロの歩いた道もこの道である。この道を漢族が歩いて雲南と往来するのである。けれども、この道を開くためには幾多の苦心をついやしている。このことは『後漢書』の「西南夷列伝」や『史記』などを見るとよくわかる。彼らはしだいに雲南の道路を開いて行ったのである。雲南のほうに彼らの入ったのは漢の半ばごろである。ここに行くと有名なマタタビの実がある。蜀からこれを中国のほうにおくったものである。これはちょうど満州が人蔘ニンジンによって発達したと同様に、蜀もマタタビによって発達したのである。これからインドへ出る道筋のあるということは、彼らも知っておったのである。雲南の発達交通は非常におもしろい。それが接触し始めてから、広東河の上流や広西省方面の事情がよほど彼らにわかってきたのである。そういうようなふうに、雲南というものは比較的早くから彼らに知られておった。けれども残っているのは貴州省である。貴州省は明末にいたってようやく征服され、清朝にいたって完全に統治されたのである。それであるから、漢民族の入ったのはごく遅い。
 なお四川の峨眉がびの西のほうから、今日の雲南の大理だいり府までかけたところの一帯の地方に、有名なる南詔なんしょう王国という一つの王国があった。これはすなわち一つの蛮族の王国である。これが唐にいたってほろぼされている。この王国が存在しておったときに、今日のインドシナの各地にも王様があった。雲南の方はそういうふうであるが、貴州省は前に述べたように明にいたって漢民族が入りこんできて、清朝の康熙帝こうきていあたり以後においてまったく統治されたのである。広西・広東この二省もまったく清朝に帰服したのである。この帰服したとき、すなわち清朝の黄金時代にできたのが『皇清職貢図』である。雲南・貴州などの蛮族は、男女ともに描かれている。これには単に南北シナばかりではなくて、甘粛およびその西、あるいは吉林・黒竜江両省から黒竜江方面、カラフト島までの立派なエスノグラフィー〔民族誌〕である。乾隆の時代にすでにこういう人種の本ができている。これは当時から見れば、たしかにヨーロッパよりもシナのほうが進んでいる。

   四、南シナの蛮族概観


 以上はだいたい歴史上から記述したのであるが、しからばこの土地はどういうふうな状態であるか、つぎに記してみよう。
 昔はいかにも三苗もおったのであろう。荊蛮けいばんもおったであろう。漢のときにも蛮人がおったであろう。けれども、現今はまったくこれらの土地―豊穣ほうじょうなる南シナの土地は漢民族ばかりであって、蛮人はほとんどいないと思われようけれども、決してそうではない。すなわち、これらの土地は漢人ばかりでない。――ノンチャイニーズのアボリジンス〔先住民〕を持っている。すなわち昔でいうところの蛮が、なおここに住んでいる。ことに貴州省に行くと、漢人と蛮人とは五分五分ぐらいの人口を持っている。なお雲南省にいたればシナ人の数よりも、だいたいからいうと蛮人の数が多い。それから広東・広西の山の中にもやはり蛮族が住んでいる。海南かいなんという島、ここにもリーという蛮族が住んでいる。それから四川省はどうかというと、峨眉がびから岷江みんこうに――峨眉山や岷江は人の知るごとく、よく詩に歌われるところで、『唐詩選』を見ても非常に風流の土地のようになっているけれども、この岷江の西に走っている峨眉山脈の西のほうに行くともはやここは蛮地であって、蛮人が勢力をって、かえって漢人を奴隷として使っているところがあるのである。すなわち寧越と会理かいりなど、峨眉がびの西南のほうであるが、ここには彝族イぞくという人間がまっている。それからここをしばらく行くと、有名な打箭炉だせんろで、もうチベット人が住まっている。彼らはすでに打箭炉の東方にもいる。余はこのチベット人やのいる地方を歩いてみたが、このあたりがその中心地で、ターリヤン山などという山の中である。この山の中へ漢人を連れてきて奴隷にしている。奴隷の額に刺青いれずみをしてその印としている。しかして奴隷同士を結婚させて、子どもができると、さらに互いに結婚させてますます奴隷を作っている。
 のいる西から雲南省の金沙江きんさこうの北岸にはチベット族がおり、南のほうには南蛮がいる。いったい雲南省というところは、東京トンキンに流れる仏領東京のいわゆるレッド・リバー、紅河こうが〔ソンコイ川〕の上流になる。それからシャム〔タイ国の旧称〕に流れる媚公河、ビルマ〔ミャンマー連邦の旧称〕に流れるサルウィン川など、みな雲南のほうから流れ出てくるのである。であるからシャム、ビルマ、ラオス、東京トンキン、各方面にいる蛮族は、みなこれらの河岸をつたって雲南と関係がある。そういうふうであるからわれわれからいうと、雲南は人類学上の博物館のようなものである。広西省こうせいしょう〔現、広西チワン族自治区〕に入ると広東河、これも雲南から流れて広西をへて広東で海に入るのであるが、この流域にある西方の山々には蛮族がずっといる。広東は開けているけれども、広東と湖南との界をなす山脈にはやはり蛮族が残っている。福建省はというと、福建省にもまだ羅源らげん古田こでんというところに蛮族が残っている。浙江省もまたたいへん開けているようであるけれども、日本で有名な温州うんしゅうミカンの出るところの温州おんしゅう、そこの甌江おうこうの上流地方には蛮族が残っている。湖南もその南方の山の中にまだ蛮族が残っている。そうすると南シナというものは、よほど状態が変わっているのである。
 ちょっとシナ北方の吉林省や黒竜江省または東部シベリア地方などを歩くとツングース民族に出会しゅっかいするが、それからモンゴルの方にまわるとモンゴル民族、甘粛省に行くとトルコ民族に出会う。チベットのほうに行けば昔からいうところのキャン――チベット民族がいる。しかして南方は、前述のありようである。これによって見ると、シナというものは今日といえども一種の人類学上の博物館のようなもので、漢族がいろいろの民族にかこまれてなかに住んでいるのである。こういうふうであるから、まだ南シナというところは蛮族くさいところがある。またにおいがある。まだ絶体に純然たる漢族の地ということができない。これを通常の地理書には、揚子江の流域あるいは福建・広東あたりは非常に繁華で、商業の盛んな土地であるように書いてあって、こういう蛮族のおるということを書いているものが少ない。これは要するに、シナ通という人でも彼らについて知らないからである。これは単に日本の書物のみならず、欧米の人類学者の書物でもこの苗族が南シナに居住することを書いているものがきわめて少ない。であるから、多くの人が単に漢族の文化地方とのみ見ているのは、あえて不可思議ではないのである。かくのごときは、東方研究上もっとも遺憾いかんなることであるといわねばならぬ。すなわち南シナは、今いったようなありさまで諸蛮族が雑然としているのである。こういうふうに見ると、むかしの呉の国・楚・越・というような土地は、よほど蛮族くさくなってくる。日本と呉と交際したといっても、呉の民衆というものは一種の蛮族であったかもしれない。これは第一に承知していなければならない。であるから、われわれがシナの歴史を見ても、南の歴史と北の歴史とはよほど違えて見ているのである。そういうふうに見ないと、たいへん違うからである。今日シナが南北に分かれるということは、実際、人類学上からきているかもしれない。シナの南北では、漢族といえどもその体質上違っていて、北方の漢族は身長高く、南方の漢族は身長短く、頭形・顔形その他にも多少相違がある。

   五、三派の蛮族


 ここにいるところの蛮族のことを、これから具体的に述べてみたい。これらの蛮族はどういうふうに生活しているかというと、ちょうど日本の特種部落のような状態である。けれどもまったく漢族に圧せられてしまったかというと、そうではない。彼らの固有の言葉、固有の風俗習慣、固有の体質を保っているのがあちこちに残っている。まず南シナの蛮族を区別すると、三つに分かれるのである。一つは苗族ミャオぞく、苗の中にヨウというものも入っている。それからまだトウとかいろいろのものが入っている。つぎの一つは、もう一つはチベット族―きょう。この三つの区別がある。チベット族は、四川省および雲南省の北部から分布している。
 このミャオというのは何かというと、これはラクーペリー氏も『漢族以前の非漢族』というものを書いて、それにも言っているが、苗族のほうは民族からいうとタイシャンである。タイシャンはアンナン〔ベトナムの旧称〕、シャム、あのあたりの人間と類似している。これは言語の点からそう見えるのである。はどちらかというと、これはビルマのほうの系統に属するのである。この二つの民族は、要するにインドシナ民族系統である。すると、漢族が入らないときの南シナというものは――揚子江の南・北もそうであるが、今日のシャム、ビルマ、アンナン、ラオス、東京、あの地方と連続する土地と見なければならぬ。それであるから漢族の入らない時分の、インドから東、東海の浜まではことごとくインドシナ民族がおったのである。そののち漢族は最初は個人として、後には国家として入って全然征服したのである。彼らの話すところの言葉はモノシラビック――単綴音で、アンナン、シャム、ビルマの言葉と変わらない。風俗習慣も変わらない。こういうことを見ると、これが日本とどういう関係があるだろうかということなども考えなければならぬ。しかるに日本の学者の中には、これをマレーと見る人があるが、マレーとはまったく別で、すなわちインドシナ民族である。米を作って草鞋わらじをはく風は日本と変わらない。これはよほど関係がある。この点において漢族的でなくして、シャム、ビルマ、アンナンと同じである。この土地が漢族と最初にぶっつかって、そういうことになったのである。余はそのようにこれを見る。しかるに台湾はどうかというと、台湾はフィリピンと同じくインドネシアン族、すなわちマレーである。これは人類学上ちがう。彼らはインドシナ民族である。そうすると、もしも仮に日本に南方の形跡があると見ると、それはインドシナ民族の色彩が多いように思う。これはよほど研究しなければならぬ。米は日本にはどこから入ってきたかという問題があるが、決して黄河のほうから入ってくるわけはない。揚子江から入ってきたとすれば、米を食って草鞋わらじを作るという文化とつながる。それから四川省の西南からかけて、雲南の金沙江きんさこうの北のほうにはチベット人がいる。これからチベットの国である。ネパール、ブータン、これからチベットの線がずっと来ている。ここの文化はインド的やシナ的のところがあり、すこぶる混雑して学術上むつかしい地方であるけれども、今日、東洋史の教科書などはこの方面を言わないで、北方のことばかり言っている。これは日本のオーソリティーが北のほうの研究ばかりをやっておらるるためであるが、今後はこの方面にも注意せられたい。

   六、苗族の神話・伝説と土俗


 苗族ミャオぞくというと、これを広義に解釈して南蛮と見るのと、単に小さく苗族と見るのとの二つがある。余は苗族を小さく見たい。これにはミャオというものもあればヨウというものもある。またはリーとかトウとかいろいろのものがこれに属している。たいがいけものへんである。彼らはいわゆるタイシャン族であるが、これを漢族は蛮(Man)という。けれども不思識なことには、タイシャン族はみな自分の名を持っている。たとえば苗族は自分のことを何というかというと、ムンといっている。それから今日東京トンキンにいる民族はマンという。これがまたフウンといっているのもある。みな変わってくるが、要するにみなM音から来ている。そうすると、昔から漢族が南蛮をマンといったのは、山海経せんがいきょう』を見ると、三苗さんびょうの国また三毛の国」というとあって、みなMである。であるから苗族の系統はすべてムンという名前をもってよばれている。すなわちムン族である。昔、漢族のいうところの蛮族になるのである。これは漢族が南方の民族をマンと称したのは、字から出たのでなくして、この発音を認めて書き換えたにほかならないのである。
 この苗族について、まずフィジカルのほうからいうと、身長が非常に小さい。それで西洋人などは小人といっている。漢族とはくらべものにならない。五尺〔一五〇センチメートル〕以下の身長がある。頭髪は真っ黒で直毛、皮膚ひふの色は黄色である。まったくモンゴロイドに違いないインドシナ民族である。この蛮族はどこに住んでいるかというと、今日、貴州からかけて雲南省の東方、それからなお広西省・広東省・福建・浙江の奥・湖南の南・海南島かいなんとう東京トンキンの東のほう、この部分に分布しているのがすなわち苗族である。これはどういう風俗であるかというと、髪はいわゆる漢人の昔からいう椎髻ついけいの髪である。司馬遷が南蛮一名「椎髻の民」といっているのは、この形容からきたのである。男も女もそういう髪である。額の上でこぶのように巻いている。それから服は長い筒袖つつそでで、右前にして合わせる。腰にはくんをはいている。いわゆるはかまである。それから草鞋わらじをはいている。これはよほど日本と似ている。漢族および北方の民族はくつをはいている。長靴および短靴たんぐつをはく。この草鞋わらじは麻でこしらえてはくから、ちょうど日本の草鞋である。それから下駄げたをはく。日本の古墳あたりから出る下駄と同じである。あまり上等でないが、草鞋と下駄がおこなわれている。これは北シナにはない。北方民族にもない。すなわち南シナおよび日本におこなわれている。よほどこの風俗が似ている。衣服は色で区別している。白い着物を着ているのが白苗で、赤い着物が紅苗、青い着物が青苗、黒いのが黒苗、それからたいへんい取り模様のきれいなのが花苗、こういうふうに色で区別する。この色の区別の観念というものは、『後漢書』の南蛮伝を見てもわかるが、木の皮の織り物に草の実などをもって染めた五色の衣服を好むということを書いている。これらはやはり今日のものと似ている。これはみな苗族である。
 これらの生活はみな農である。水田に米を作ってもはやくわすきをもちいている。それから水中で田をたがやしている。なお、穀物としてトウモロコシなど、そういうような物を作っている。とにかく農業が主になっている。であるから、日本にもし米が入ってきたとすると、どうしてもこのあたりからでなければならぬ。彼らは米およびトウモロコシなどを常食としている。住居はどういうところかというと、貴州省方面は高殿たかどのの二階屋で、屋根の上に草をふいている。しかして千木ちぎのようなものを上に置いている。貴州省でミャオまっている土地には、木がほとんど伐られてしまっているから、壁は石をもって積み重ねている。けれども雲南に行くと木が多いから、校倉あぜくら式の家をつくっている。ここでは昔、相当に盛んであったものと見えて、い取り模様が非常にたくみである。呉のあや、蜀のにしきと対照すべきものである。これは彼らの芸術として見るべきものであろう。なお注意すべきは、日本の奈良の正倉院にあるような蝋纈ろうけつを染めている。
 男の風はどうかというと、長い筒袖つつそでの着物を前に合わせて、まき脚半きゃはんをつけ、足には草鞋わらじをはき、麻織の帯をしめている。帯の結び方は、先端をたらして後ろにさげ、それに幾何学的のいをしている。後漢時代のもので、現今、山東省に残っている石壁に彫刻している兵隊の風によほどよく似ている。それは偶然の符合であるか、漢の風俗が苗に入ったかである。とにかく山東省の石壁の絵によく似ている。ここにはしょうなどをもって舞踊が盛んにおこなわれている。笙は非常に大きなものである。シナのほうでは伝説によると、黄帝が洞庭どうていの竹をもってしょうをはじめて作ったということを伝えているが、これはおもしろい暗示をあたえているのであって、すなわち南方の民族が笙を持っていることがわかる。北のほうには笙がない。笙の地理学的分布は、苗族からかけて東京トンキン、アンナン、シャム、ビルマ。この地方一帯にこれがおこなわれている。
 苗についてどういう神話があるかというと、まず、古くは漢時代の伝説によると、―いわゆる南蛮の伝説は『後漢書』にだいぶ書いてある―桃太郎に似たような話がある。「女が川で洗濯していると、桃が流れてきた。それをひろって割ってみると、中から男の子が出てきた。これが南蛮の祖先である。ゆえにこれが桃姓を名乗なのっている」ということである。日本の桃太郎はどこから出たか知らないが、ここではとにかくこういうふうに桃を尊んでいる。南方の揚子江流域に桃を尊んでいる風習のあるのは、あれは漢人の風俗ではなく、苗族の信仰が移ってきているのかもしれない。それから、日本の童話のタヌキが泥舟をつくったというその泥舟の話も、『後漢書』によると、巴すなわち重慶じゅうけいの蛮族の中にある。苗の伝説はいわゆる植物伝説である。日本の神話のうちにおいては、人間が木を生んだ話もあるが、苗の伝説にも、また人間が木を生む伝説がある。当時、漢族が以上のごとく蛮族に接触して好奇心にかられ、いろいろその風俗習慣を書いたもの、すなわち『後漢書』の南蛮伝のごとき、これに彼らの聞いた蛮人の伝説がだいぶ書いてある。現今でもこういう伝説が残っている。今、花苗の伝えている伝説と青苗の伝えている伝説ととを総合してみると、昔、男と女と夫婦になって、高い山の上に深い谷をへだてて両方の高峰に分かれて住み、始終相対しておった。しかるにどうしたはずみか二人が誤って谷の底に落ち込んでしまった。そうすると、天から霊鳥がくだってきて―たかである――これを引き上げてまた元のとおりにした。そこで夫帰の間にだんだん子どもができて、それが繁殖はんしょくしてきたのがすなわち今日、苗のムン族である。ゆえに鷹を霊鳥として今でも尊拝している。しかして出来たところの人間が、六つの数からなっている。このうち一番先に生まれたのが桃と柳の氏であって、それからつぎつぎと彼ら子孫ができたということを言っている。彼らの神話の形式はいわゆる植物伝説で、『竹取物語』や桃太郎のような話は『後漢書』に出ているのである。犬から生まれた槃瓠ばんこの伝説もそうである。こういうような風の伝説がある。しかしてそれらがついに瓠の祖先となった、桃や柳はみな祖先の一つである。しかして後にここに生活していると、北から漢族がせまってきて、ついにわれわれを征服したために、われわれのある者は南に移り、ある者は雲南に入り、ある者は広東に入ったというような伝説を持っている。それであるからこれらの苗は一つの系統であって、言葉はたいていシャム、アンナンにおこなわれおる言葉に似ている。いわゆる単綴語系のインドシナ語である。漢族が南下してきて最初に接触した南方の民族はすなわち、この南蛮の一つたる苗族である。

   七、の体格・文字・神話


 しからばビルマ語系に属しているところのはどうであるかというと、は四川からかけて峨眉がびの西方の裏手うらてのほう、金沙江の上流一帯の山の中に分布している。峨眉山の東のほうには、成都せいとから流れてくるところの岷江みんこうという河があって、ここは非常に景色けしきのいい所で、李白が「峨眉山月半輪秋」という有名な詩を作ったのはここである。この西のほうからが分布しはじめて、雲南のほうにもチベットの入口のほうにも拡がっている。この中心点はどこかというと、四川省の寧越すなわち、峨眉山の西方にあたっているのである。これをロロと呼ぶのにはだいぶ説がある。の研究で有名なビヤール氏の著書『』という有名な書物があるが、この中にいうには、「ロロ」というのはもと「ナナ」といったのであろう、一体Lの音とNの音とは似通うものであるから、「ナナ」といったのがいつか「ノノ」となり、「ノノ」がついに「ロロ」となったのであろうといっている。この蛮族のことについては、マルコ・ポーロの旅行記にも書いてあって、それにはコロマンの地方、カイジュの地方とのことを記されている。マルコ・ポーロの書いているの体格と、今日のの体格とは変わらない。身体が大きくて兵隊にするとたいへん都合がいい。まず文献としてのエスノグラフィーを書いたものは、このマルコ・ポーロの旅行記が古くてくわしいものであろう。このの身長の非常に大きいことについては、ベーバー氏が、「われわれ英国人中の大きい者よりも、大きくまたスコットランドの人間よりも大きい」といっている。不思議なことには南シナの人間で苗族がいちばん小さく、いわゆる小人であるが、は長身である。この二つの民族が同じく南シナの地におって、アンナン、シャム系統のものは身体が小さく、小人といわれている。一方には世界的に大きな人間である。皮膚ひふの色はいくらかブロンズをおびている。顔は長く、頭髪は非常に濃くかつ黒くて直毛、ヒゲはとぼしい。――苗族もヒゲはとぼしい――しかして物を考えるときに額にシワをよせる風がある。頭は中頭ちゅうとうである。風俗はというと、頭髪は椎髻ついけいで、男は筒袖つつそでをつけ、足には草鞋わらじ、あるいは草でこしらえた草履ぞうりのような物をはいている。女も髪は椎髻で、黒布をターバンのようにきつけている。しかしてやはり筒袖つつそでを着て、その下に大きなくんをはき、上に長いシナ服をつけている。足は跣足せんそく〔はだし〕もしくは草鞋わらじをはいて、上に羊の毛で織った外套がいとうを着ている。ここもやはり農業もやれば牧畜も盛んである。チベットは羊の毛織物を製し、それにいろいろの模様を折り込むのがたくみで、一種のペーザント・アート〔peasant art、農民芸術〕であるが、ここもやはり羊の毛織物が得意である。苗族は麻の織り物を得意とする。これはちょうど蜀江しょっこうの錦のもとになっているかもしれぬが、とにかく一種の郷土芸術で、揚子江下流の呉の綾のようにここでは毛織物が盛んである。
 家屋はたいがい草小屋である。これは苗族とちがって一軒建ての平家で、二階はない。屋根はかやでふいて、木の壁を作っている。それからところによると、チベット風に石を組んで高く積み上げるのもある。食物はやはりトウモロコシというようなものである。羊・豚なども食っている。気風は非常に殺伐で、わたしもこの地方を歩いたが、の間をぬけて行くには非常に危険であった。漢人は町の周囲に城壁を築き、夜分には外出せぬようにしている。がその住所たる山には、き身の槍や弓などを持っている。
 彼らおよびその土地の研究には、なおよほど余地がある。けれども、ここのある所にはフランスの宣教師たちが入って手をつけている。ここは一般に漢人のほうよりも、宣教師たちの勢力がおこなわれているわけである。ここの武器などは昔から名高いものであって、刀と称して刀が名物である。この方面の蛮族は一般に小刀子とうすを使っているが、大刀たちを横たえている。これはよほど違ったところがある。なお馬を飼育し、外出の際には武装してこれに乗り、シナ町に出てくる。要するに彼らは慓悍ひょうかんである。
 彼らについては、すこぶるおもしろい伝説がある。その伝説というのは洪水の伝説であるが、これについて一言ひとことしなければならないのは、彼らにも一種の文字があったことである。これは一つの文化といってもよい。言葉はモノシラビック――単綴語で、北方のような多綴音ではない。この点は漢族の言葉に似ている。それから文字は一音一義になっている。北方のようにつづりが多くない。シャム、アンナンなどの言葉もやはりみな単綴音である。ただマレーになると多綴音になる。の文字は一種特別な音文学であって、一見シナの象形文字に相対して、は線・点などからできている。これはむしろシナの発達した文字よりもで、理想的である。ことにおもしろいのは、この文字はいつごろから用いたかというと、今日まで知られているところでは、明の嘉靖かせい〔一五二二〜一五六六〕あたりの碑文に文字の用いられているのがわかっているのである。文字があると共におもしろいのは神話である。神話がこの文字で書かれている。
 そこで神話のはなしに移るが、これは彼らの創世記であって、第一が天地の創造時代、それから旱魃かんばつ時代がきて、つぎに洪水時代となるのである。人はどうしてつくられたか、土で人形をこねて神が生気を吹き込んで男女二人をつくった。これからだんだん人間が生まれて、耕作や衣服を織ることを覚えた。そのうちに旱魃かんばつ時代がきて、それがはなはだしくなると、ついに洪水時代がきた。洪水のときに男三人・女一人の一家四人の兄弟がうちそろって畑をたがやしていると、そこへ神が現われていうには、なんじらは洪水がくるゆえに用意をせよ。そこで一番の兄は鉄の舟をつくった。次男は銅の舟をつくった。三男と末の妹は木の舟をつくった。水がくると、鉄の舟や銅の舟はすっかりしずんでしまったが、木の舟はだんだん浮き上がって、ついにある山の中腹にかかった。だんだん水がひいてしまうと、にっちもさっちも行かない。さいわいにその上に竹があったので、その竹の枝にすがりついて舟から出ることができた。しかして二人が結婚して多くの子孫を繁殖せしめた。これがすなわち今日のの祖先である、とこういうことを伝えている。
 これについて学者の間にいろいろの議論がある。の祖先が人間であって洪水の伝説を持っている。しかしてには天をまつり香をたく風習がある。それから、七日をもってかならず休日としている。これはどうしたのであるか。それである人は、ネストリアン〔ネストリウス派〕が入ってきた影響ではないかといっている。もとより雲南・四川にかけてネストリアンの宣教師が当時あちこちにおったから、この影響を受けたものであるか、とにかく疑問である。しかし疑問であるけれども、まずこれはネストリアンの入ってきたためとのみいえないことがある。なぜかというと、隣のシナにすでに洪水の話がある。が水をおさめたというような洪水伝説がある。

 アンナン洪水の伝説

 それからアンナン〔ベトナムの旧称〕にも洪水伝説がある。これは『大越だいえつ史記しき』に載っている。同書はアンナンの歴史である。これは歴史として書いてあるが、もとよりこれは神話であって、ちょうど日本の歴史などでも、ある編年史に書いてあると歴史上の事実のように見えると同じように編年史に書いている事柄である。これは周の成王せいおう〔伝、在位紀元前一〇〇〇年ごろ〕のときということになっているが、もとより付け加えたものにちがいない。そのときの話は、王様の娘に一人のお姫様があって、たいへん艶麗えんれいの女性であった。これに向かって結婚を申し込んだ人が多かった。たとえば蜀の王様のごときもそれである。で、この王に姫をあたえようとしたけれども、家来が止めてやらなかった。あるとき王のもとに二人の者が現われてきた。一人は誰かというと山の精、すなわち山の神である。一人は水の精、すなわち水の神である。山の神は、どうかわたしがお姫様をもらいたい。水の神も、どうかわたしにお姫様をくだされたい。こういっている間に、山神が先に王様と約束した。わたしにくださるならばたいへんな贈り物をしましょう。そのときにどういう物を贈ったかというと、山にあるところの珍宝・金銀・山にある果物・野獣などことごとく王様に献じて、しかしてこの姫を自分の家内にしようとした。そのときに水神もあらゆる珍宝をささげて、どうかお願いしたいといった。王様は、もう山神と約束したから、やるわけにいかないと断わった。これにおいて水神は大いに王様をうらんで、急に雲をおこし雨を降らし、川からは水族を呼び上げて陸上の王様に迫った。王様はおどろいて鉄の網を張って防いだ。しかして一方には水と陸とが非常に戦ったが、とうとう終いに山神が勝った。しかして山神がだんだん勢力をはって、ついに南蛮の祖先になった。こういう話がある。これらの神話は、黄河ほとりに伝わっている漢民族の洪水伝説と多少似ている。
 この洪水の伝説は、人種上の関係はないのであろうけれども、偶然にも日本の火照命ほでりのみこと火遠理命ほおりのみこととが海の幸・山の幸の交換――釣りばりを失って、海に入って取り戻してきて、のちに潮満球しおみちのたま潮干球しおひのたまで攻めたりたすけたりした伝説があるが、ちょうどアンナンの話と似ている。それであるからこういう神話をだんだんたどって行くと、この日本の話というものも洪水伝説の一派のものと見られないこともない。いな、やはり洪水伝説であって、洪水伝説がこういうふうに変わってきたものかもしれない。
 そうしてみると、このの話や漢民族の禹の洪水の話などは、系統のもと同じであったものが分かれたのかもわからないが、アンナンの洪水伝説も両方関係があるように思われる。とすると、別にネストリアンの関係から入った創世記ノア洪水の話でなく、東方にも南方にも、こういう話がずっと以前から伝説として存在しておったものではなかろうか。こういうふうな考えもおこってくるのである。
 それからもう一つ、チベットのほうに行くと、そのいちばん東のほうに昔のいわゆるきょうがいるが、これについては他で述べることにする。要するにビルマ系の代表者として、タイシャン系の代表者としてのミャオであって、その状態は右のようなありさまである。
 日本すなわち「倭人伝」にあるような被髪ひはつ文身ぶんしんの風習は、呉の太伯の伝説とすこぶる関係があるとして、日本でも藤井貞幹とう貞幹ていかんか〕などがこのことを説いたのであるが、これはぜんぜん非難することができないと思う。これはまず、地形が東海をはさんで互いに関係あると思う。余はマレーとはいわぬが、南蛮の後胤こういん・呉・楚・越、このあたりの関係というものは、古代にさかのぼればさかのぼるほど日本の関係がありはしないか。シナ南方の民族と日本の民族とのあいだに、何らか人種上の関係はなかったとしても、交通上の関係は見なければならぬと思う。古くなれば古くなるほど、漢民族は南方に入ってくることができない。彼らの色彩がなくなる。彼らは、たとえば湖南省付近に中心地ができたところで、南嶺なんれいをこえて進むことは容易にできない……しかして北方には、ツングースやモンゴル族・トルコ族などがいる。純粋の漢族のある者は、南北においてこれら南北の諸民族と混雑しているのである。そうでないにしても、彼らと互いに関係がある。これらの点から見ると、シナの研究というものは体質・文化・宗教などにおいて、よほど人類学上おもしろい感じがするのである。

   八、蛮族の文化について


 ここになお注意すべきものは、文化の問題である。ドイツの東洋学者のヒルト〔Friedrich Hirth、1845-1927〕が『古代シナ史』を書いて、そのうちに北方黄河流域の文化というものは青銅器の文化である、すなわちかなえのようなもの……。つぎに揚子江の流域およびその南の文化は銅鼓どうこの文化であるといっているが、シナの歴史も文化史の上から見ると、氏のいわるるごとくこういうことができる。すなわち、銅鼓のおこなわれた区域は揚子江以南で、揚子江より北のほうに銅鼓の出たことがない。これは南シナ、それから東京トンキン、シャム、マレー諸島にまで出る。しかるに青銅器―かなえの種類の出るのは、黄河の流域にかぎる。そうすると銅鼓の文化から見ても、南シナの蛮族は結局、野蛮でないことがわかる。――すなわち、こういう文化を持っていることがわかる。してみると、彼らが越・・呉・楚というような国をこしらえたことも、もとより漢民族との関係はあるが、また彼らの土地の富や、彼らの文化として見なければならぬ。彼の比較的後まで四川・雲南にわたって残っておった南詔なんしょう王国のごときも、政治上、立派な王国の形を持っている。それからシャム、アンナン、ビルマなども古来、王国政治上の知識を持っている。そういうふうなところから見ると、南シナの民族というものは、北方の民族のようなふうにいわゆる水草すいそうを追うているものではなく、土着性を持っておって、部落もあり、農業も持っており、米穀も持っている。そういう点においてよほどおもしろいと思う。

   九、結論


 以上は、南シナの民族研究の概論のようなものにすぎぬのであるが、今日の東洋学者その他の学者は、北方の研究ばかりやって、南の研究をおこたっているように思われる。これはどうしても盛んにしなければならぬ。そうでなければ南方の解釈がつかない。『書経』にはいちばん最初に三苗さんびょうの話があるが、今日どういうわけか、学者からかえりみられない。けれどもシナ研究はこの三苗から出発しなければ、シナの西南の意味がわからなくなるであろうと思う。余は今から二十年ほど以前に、南シナ民族の研究をやりはじめましたが、そのときはどうしたものか世の学界からかえりみられなかったが、この状態は今も同じで、いっこうこの方面のことをいう人がない。南シナの民族、シナの研究は北方の研究に比して少しもまとまっていない。それには、北方についてはよほどまとまった本が比較的多い。けれども、南方についてはあまり完全にまとまった本がない。しかしてフランスの本が多い。そういう関係から日本の学者は、南シナの研究を面倒くさがってついに手を出さない状態になっているものと思う。けれども日本の学者の立場として、南方も北方もみな貴いのである。この点において日本の学術の権威を発揮して、日本の学界において南シナの研究、つづいてインドシナの研究を、シベリア・満蒙まんもう・北シナの研究と同じく進めるということは、日本の学者の義務であろうと思う。(つづく)



底本:『日本周囲民族の原始宗教』岡書院
   1924(大正13)年9月20日発行
   1924(大正13)年12月1日3版発行
入力:しだひろし
校正:
xxxx年xx月xx日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。




日本周圍民族の原始宗教(六)

神話宗教の人種學的研究
鳥居龍藏

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)山《やま》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28]

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)人々《ひと/″\》
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」

〈〉:割り注
(例)彼等の心〈彼等の考へ〉
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 南支那蠻族と其の文化及宗教

[#ここからリード文]
我國と一衣帶水の呉楚越及其以西は、斯學上如何なる色彩を有つて居るか。殊に其の文化、宗教、神話は如何。參考として之れを述べて見たい。
[#リード文ここまで]

   一 緒言

 これまで及び今日でも、東洋方面の研究家といふものは、北方に偏した氣味があるが、これは日本の言語及び歴史學者、その他のオーソリチーが、北方を主として居る結果であらうと余は思ふのである。余も近頃は北方許りをやつて居るから、其の内に這入る一人であるが、本章に於いて述べようとする所は、南支那に於ける支那人(漢族)以外の蠻族に就いてゞある。
 茲で南支那といふけれども、正確に云へば西南支那――四川省が這入つて居るから、どうしても西南支那と謂はなければならない。即ち支那のプロビンスでいふと、楊子江の南の江蘇、浙江、江西、湖南、湖北、それから福建、廣東、廣西、雲南、貴州、四川、此等を含んだ所の各プロビンスに於ける話をして見たいと思ふのである。
 一般に地理書や旅行記などを見ても、南支那といふと極く華奢な繁華な土地のや に[#「や に」は底本のまま]考へる人が多い。又近頃楊子江の下流を歩いて來た人の話を聞くに、上海がどうだとか、漢江がどうであるとか、廣東がどうしたとか、交通便利な所の賑かな話が大概多い樣に思ふ。近頃日本に支那のクラシツクを棄てゝ新しい支那を學べと云ふ人が出て來て居る。要するに南支那の古典的研究は段々消えかゝりつゝあるのである。これから述ぶる所は南支那及び西支那の一部分に於ける民族の話である。是等に就いては、色々考古學上から見なければならぬとか、或は言語學上から見なければならぬとか、尚又人種學、人類學、土俗學、歴史等色々この方面からの見やうもあるが、之を一々述べるのは頁數を非常にとることであるから、其内の概論的の事を記して見たいのである。

   二 漢民族と南蠻との關係

 一體南支那は、支那の『書經』などにも見えてゐる樣に、三苗[#「三苗」に傍点]、有苗の國[#「有苗の國」に傍点]と稱して、極く古い以前から漢民族との間に關係があるのである。即ち苗[#「苗」に傍点]である。それは古い時から見える。それから南の方の蠻人を漢民族は何時も、蠻[#「蠻」に傍点]と呼び、南の蠻であるから南蠻[#「南蠻」に傍点]といふ。其音は Man を以て呼んで居る。日本の言葉で云ふと「バン」である。先づ歴史の方から云へば、これは今云つたやうに古い所では三苗、有苗である。それから後になると、楚の國であるとか、越、呉、※[#「門<虫」、第3水準1-93-49](蜀、巴)などといふやうな國が見える。けれども漢民族といふものを主として見ると、所謂南蠻の國であつて、たとへ漢族の冠を被り、束帶を着けて、彼等の風俗習慣になつても、これは所謂猴が冠を着けるやうな類で、北方の漢民族から見ると矢張り蠻たることは免れない。南支那の見方といふものは、日本では一樣に呉とか越とか※[#「門<虫」、第3水準1-93-49]とか、楚とかいふやうに見えるけれども――これは支那の學者もさうであるけれど、――我々人類學人種學の立場から見ると、民族的色彩に於ても違ふのである。これは有名なる歴史家の司馬遷が其の『史記』の内に良く書いてある。先づ民族のことを記する前に、此の事を一言しなければならない。
 さて周が諸侯を各地に封じた内に、魯とか衞とか晋とか色々のものがあるが、又さうでないものもある。これに就いては大分歴史家の方で意見もあるやうであるが、其の中で殊に余は最初に楚だとか越だとか呉だとか、※[#「門<虫」、第3水準1-93-49]だとか、斯ういふ樣な方而[#「方而」は底本のまま]に餘程注意しなければならないと思ふ。實は楚、呉、越、※[#「門<虫」、第3水準1-93-49]、といふやうな國は、其主腦部に居る人とか、又は役人のやうなものは、或は漢民族であつたかも知れないが、土臺になり基礎になつて居る民衆は、彼等でなく、全くノンチヤイニースである。漢族以外の南蠻である。これは注意しなければならないことである。これについて精しく記することは餘程頁數を要することであるが、例へば呉の祖――呉は今日の浙江省であるが、呉の祖先に就て司馬遷は、既に『史記』に於て斯う書いて居る。即ち呉の太伯である。
 太伯は周の王族であつたが、これが或關係で太伯と其の弟仲雍の二人が荊蠻に走つて仕まつた。而して文身斷髮、餘程中華の風俗と違つたものとなり、以て用うべからざることを示して、遂に蠻族の中に同化し、後に推されて其の君となつた。これは司馬遷が『史記』の中に書いて居る。これに註したものを見ると、「句呉」といふのは古い名で、太伯の以後になつて「呉」といふものが始めて起つた。句呉と云ふ名も荊蠻の言葉である。太伯は彼等荊蠻の長となつたのである。此等を考へても元と蠻族の中に北方から――これが果して歴史上の事實であるか、傳説上の事實であるか、それは暫く措いて――北方黄河の流域に居る或漢族が個人として之に投じ、遂に之を統一して呉の國[#「呉の國」に傍点]の基礎を造つた。と云ふ風に書いてある。それから越もさうである。これも『史記』に越王勾踐は夏后の小康の庶人である。[#句点は底本のまま]會稽に封ぜられ、文身斷髮、披草莱而邑焉。と記してある。斯くして越の基礎を拵へた。是も呉の太伯と同じで、矢張北方の黄河流域に住んで居つた漢族が蠻の中に投じたのである。此等の二つの例に據つて、個人として漢族が屡※[#二の字点]楊子江を越えて南蠻に投じたと云ふことが十分に分るのである。要するに呉だとか越だとか※[#「門<虫」、第3水準1-93-49]だとか楚だとかいふものは、土臺は蠻族であるけれども、其の蠻族の上に北方の漢人が這入つて、統一して、遂に國家的基礎を造つたといふことになる。楚、呉、越、※[#「門<虫」、第3水準1-93-49]、皆さうである。斯ういふ風の色彩を有つて居るから、一般の歴史家や旅行家等は、南支那を以て單に北方、中央部の支那と同一に古來漢族の國と見て居るけれども、我々の人類學人種學から見ると、餘程色彩が違つたものに見えるのである。
 兎に角漢族は南方の蠻族を統一して、それに色々の知識を與へて、遂に國家的組織といふものが此所に出來る事になつた。而してこれが後になつて、周の春秋戰國の時代に於て北方の諸侯と覇を爭ふことになり、遂に楚の國に至つては、五覇の一として一時支那の覇權を握るやうになつたのである。これは歴史に於て明白であるから詳しくは云はない。斯ういふやうな風に國家といふものが楊子江の以南に出來た。而して北方の漢族の國と互に政治上の權力を爭つて居た。けれども土臺になつて居る民衆といふものは漢族ではない、皆蠻族である。
 以上はどの地方であるかといふと、江蘇、浙江、江西、湖北、湖南、先づ此あたりが主になつて、呉、楚、越、といふものがあつたのである、[#読点は底本のまま]それから福建省から掛けて浙江の一部分、これが※[#「門<虫」、第3水準1-93-49]の國であつた。此等の地方は北方の漢族と接觸する機會が多い關係で、比較的漢族の文化を受けても居り、且つ又漢族の不平分子がこれに投じて、色々のものを完成したのである。かゝる例は今日に於ても見られるのであつて、漢族が北方夷狄等の地にあつて、物を書く役、或は王家の顧問になるといふやうな事をして、其處で常に文化事業に從事し、支那化をやつて居るのと同じ意味と見て間違はないのである。さうであるが故に、或程度に於ては、南支那といふものは北方の不平連とか、其外色々の人々が個人として投入して來て、國家組織といふものが最早出來掛けて來たのである。

   三 南蠻の地域と歴史

 然らば南方の蠻族は、元來未開であつたかと云ふと、決してさうではない。土地は黄河流域よりも非常に富んで居る。黄河流域に居る漢族は、文化に於ては如何にも進んで居つて、中華を以て誇ることが出來る。之を北方の蒙古民族、土耳古民族、或はツングース民族と比較すると、到底較べものにならない。けれども彼等の住む黄河流域は、南方に比較すると、氣候、土地の關係や其の他色々の關係で富んで居ない。南方はどうであるかといふと、氣候、地質、地勢等の上から見ると、土地は南山々脈を南に控へ、楊子江の沖積した土壤は極めて膏沃、加ふるに河川縱横、何れも交通の便を有し、氣候も餘程暖い。さういふ風であるから文化を形成すべき素因は自然に具はつて居る。凡べての條件が非常に宜い。さうであるから漢族が來なくとも、生活上の餘裕は充分あるのである。例へば銅鼓を造るとか、農業をするとかいふやうな風は、北方の夷狄とは遙かに違つて居る。農業といふものは、漢族と接觸する前からやつて居つたのである。これを考へて見ても分るが、余の言葉を以て云はしむれば、北方の漢族は粟を以て食として居る國であり、南方の蠻族は米を以て生活して居る。これが大變違ふ。古いものを見ても北方は皆粟を食つて居る。今も粟を食つて居る。南方は米である。水田でも作り、又陸稻も作る。此點を見ても[#傍点]南方は米の文化で北方は粟の文化[#傍点ここまで]である。斯ういふやうな相違が出來て居る。而して兎に角楚だとか呉だとか越などが此處に發達して居つたが、これが互に軋轢して、遂に楚の國許りが殘つて仕まふことになつたのである。これは何處であるかといふと、楊子江の流域の南の方である。けれども南支那の地形はどうであるかといふと、西北の方から東の方に走つて居る山脈がある。これは所謂南嶺、若くは南山々脈と稱する所の山脈である。雲南から貴州、それから湖南に來て廣西廣東との境をなし、それから江西に來て福建省との境をなし、更に浙江にまで延びて居る。此蜿蜒たる一帶の山脈といふものは、餘程文化史上、人類學上注意すべき點である。
 實は南支那のことを一寸考へると、楊子江の流域を考へるけれども、其南に南山山脈があるといふ事を注意しなければならぬ。北方の漢族が最初に投じて居つた所の南方の土地は呉、楚、といふやうな土地が多いのである。即ち南山々脈の北の方面で楊子江の流域になつて居る。南山の南の方、所謂嶺南[#「嶺南」に傍点]方面には、まだ漢族の感化は及んでは居ない。即ち今日の福建、廣東、廣西といふやうな方面には、まだ支那の感化が及んで居ない。昔から南の土地には非常に恐ろしい動物が居るとか、彼の有名な韓退之の鰐魚を祭るの文といふ文章さへもあり、また唐あたりでは南 [#「南 」は底本のまま]蠻族の居る土地としてある。さういふ風で南嶺山脈の北の方が、先づ漢族が幾らか手を着けて居たのである。其れから東の方、所謂東海の濱、浙江から掛けて山東に至る東海岸、此方面は前から彼等が手を着けて居つた。けれどもこれとても個人としてゞあつて、中央の政治的大威力大壓迫を以てしたのでは決してない。秦の始皇帝が天下を統一して、始めて南方に手が着いたのである。それから尚ほ漢が承け繼いだ以後、嶺南の或部分に手が着くやうになつた。これが先づ漢民族が這入つて來た所の注意すべきことである。即ち秦は、※[#「門<虫」、第3水準1-93-49]越の地に※[#「門<虫」、第3水準1-93-49]中といふものを置くとか、それから今日の廣西省の桂林郡、廣東省の南海郡、安南の象郡、此三郡を置くとか、餘程南方に手を着けた。漢に至つては尚盛んである。例へば※[#「門<虫」、第3水準1-93-49]越の一郡の東越といふ處に居る蠻族を北方に移住させるとか、尚色々安南廣東等の海岸線に郡を置いて、新に九郡を設けた。即ち南海、蒼梧、欝林、合浦、交趾、九眞、日南、珠崖、※[#「にんべん+擔のつくり」、第3水準1-14-44]耳、といふのが是れである。而して尚ほ南嶺の北に於ける湖南の長沙などに、始めて漢民族の絶對勢力が扶殖されることになつた。併し其の南嶺の北の裾あたりには、まだ漢民族の勢力は及ばなかつたのである。さういふ風に漢族の勢力といふものが、ぼつ/\南方に這入り掛けて來た。けれども『漢書』を見ると、當時漢の嶺南に立てた所の郡の人口戸數は、今日の南滿洲、當時の遼東郡の戸數人口よりも少い。これによつて如何に彼等の殖民といふものが秩序的に徐々として時間の餘程掛かつて居るものであるかといふことが考へられるのである。
 嶺南の方は斯うであるが、然らば西の方はどうかといふと、まだ貴州省の方面――湖南省の西の方面へは漢族が容易に這入ることが出來ない。湖南には二つの河が流れて居て、一方は南嶺の方から流れて來る湘江であつて、其岸に有名なる長沙がある。又一方の河は※[#「さんずい+元」、第3水準1-86-54]江で貴州省から流れて來て、其岸に湘江の長沙に對する常徳といふ所がある。此處は今もあるが、常徳を少し溯ると有名なる武陵桃源がある。彼の南方に銅柱を建てたと云ふ有名なる馬援將軍の如きさへも、非常に困難して此處迄はやうやく苗族征伐に來たけれども、武陵桃源までは何うしても行けなかつた。さうして此處の五溪蠻に糧食を絶たれて、將軍は此の地で死んで居る。さうすると馬援の時までは常徳より少し上流になると、もう彼等は這入る事が出來なかつたのである。これは餘程注意しなければならない。それから貴州省は無論這入ることが出來ない。彼のマルコポロの旅行記を見ても、雲南から四川へは自由に通じて居つて、元朝の施政が行はれて居る有樣を書いて居る。けれども一方の貴州省へはマルコポロも這入ることが出來なかつた。元の盛な時であつても貴州省へ這入ることが出來なかつた。然るに四川と雲南兩省はどうかといふと、四川省は楊子江の關係及び北方の洛陽長安等の關係、其他の方面から入る便があつたので、楊子江の上流を溯り、或は有名な蜀の棧道を經て、昔から漢族は成都、重慶の方面、即ち蜀や巴の地に這入り込んで居つたのである。此關係から後漢時代の色彩が良く判る。後漢あたりの横穴[#「横穴」に傍点]或は碑文[#「碑文」に傍点]といふやうなものが大變殘つて居る。けれども蜀とか巴とかいふのは、もとこれは蠻人の名前である。周の武王が殷を滅ぼした時に、黄河流域の孟津に矛を立てゝ誓つたことがある。これは『書經』などに出て居る名高い事實であつて、其の時に各地方の勇土[#「勇土」は底本のまま]が孟津に集まつたのであるが、これは漢族ではなくして多くは蠻族である。其内に四川から今日の西藏の境に居 [#「居 」は底本のまま]蠻族があつて、其中の名前が殘つて居る。即ちこれは種族名である。今日四川に巴といふ名前が殘つて居るが、元は種族名で、蜀も亦同じことである。けれども漢族は餘程早くから入り込んで居る。それ故に司馬遷の『史記』或は『後漢書』などを見ても分るが、漢の王族が續いて蜀の王となり、諸葛孔明なども此處に來て居る。漢族は、重慶から掛けて岷江の流域に蕃殖し、成都を中心として峨眉山のあたりにも及んで居る。李白の有名な「峨眉山月半輪秋、影入※[#「羌<ム」、第3水準1-90-28]江水流」と云ふ詩は即ち岷江を下る時の作である。岷江と楊子江合流する地點、あれから成都の方は、漢族の一つの殖民地の中心地である。
 斯ういふ風に四川の方には早くからの彼等が這入つたが、貴州省には這入ることが出來ない。彼の李太白の流された夜郎は四川に近い貴州の口であるが、あの時迄も入る事が出來ずに居る、[#読点は底本のまま]そして漸く其あたりが當時罪人の配流地になつて居つた位である。それから雲南省の方は餘程面白いのであつて、蜀が文化の中心點になつて、而して其勢力が雲南の方に扶殖されたのである。どの道から交通したかといふと、楊子江と岷江との合する西の方に叙州といふ所があるが、此あたりからずつと雲南に這入つたのである。マルコポロの歩いた道も此の道である。此道を漢族が歩いて雲南と往來するのである。けれども此の道を開く爲めには幾多の苦心を費して居る。この事は『後漢書』の「西南夷列傳」や『史記』などを見るとよく分る。彼等は次第に雲南の道路を開いて行つたのである。雲南の方に彼等の這入つたのは漢の半頃である。此處に行くと有名なマタヽビの實がある。蜀からこれを中國の方に贈つたものである。これは丁度滿洲が人蔘に因つて發達したと同樣に、蜀もマタヽビに依つて發達したのである、[#読点は底本のまま]これから印度へ出る道筋のあるといふことは、彼等も知つて居つたのである。雲南の發達交通は非常に面白い。それが接觸し始めてから廣東河の上流や廣西省方面の事情が餘程彼等に分つて來たのである。さういふやうな風に、雲南といふものは比較的早くから彼等に知られて居つた。けれども殘つて居るのは貴州省である。貴州省は明末に至つて漸く征服され清朝に至つて完全に統治されたのである。それであるから漢民族の這入つたのは極く遲い。
 尚ほ四川の峨眉の西の方から、今日の雲南の大理府まで掛けた所の一帶の地方に、有名なる南詔王國といふ一つの王國があつた。これは即ち一つの蠻族の王國である。これが唐に至つて滅ぼされて居る。此の王國が存在して居つた時に今日の印度支那の各地にも王樣があつた。雲南の方はさういふ風であるが、貴州省は前に述べた樣に明に至つて漢民族が這入り込んで來て、清朝の康熙帝あたり以後に於て全く統治されたのである。廣西廣東この二省も全く清朝に歸服したのである。此歸服した時即ち清朝の黄金時代に出來たのが『皇清職貢圖』である。雲南貴州等の蠻族は、男女共に畫かれて居る。これには單に南北支那許りではなくて、甘肅及び其西、或は吉林黒龍江兩省から黒龍江方面樺太島まの[#「まの」は底本のまま]立派なエスノグラフイーである。乾隆の時代に既に斯ういふ人種の本が出來て居る。これは當時から見れば確に歐羅巴よりも支那の方が進んで居る。

   四 南支那の蠻族概觀

 以上は大體歴史上から記述したのであるが、然らば此土地はどう云ふ風な状態であるか、次に記してみよう。
 昔は如何にも三苗も居つたのであらう。荊蠻も居つたであらう。漢の時にも蠻人が居つたであらう。けれども、現今は全く此等の土地――豐穰なる南支那の土地は漢民族許りであつて、蠻人は殆んど居ないと思はれようけれども、決してさうではない。即ち此等の土地は漢人ばかりでない。――ノンチヤイニースのアボリジンスを有つて居る。即ち昔でいふ所の蠻が、尚此處に住んで居る。殊に貴州省に行くと、漢人と蠻人とは五分五分位の人口を有つて居る。なほ雲南省に至れば支那人の數よりも、大體からいふと蠻人の數が多い。それから廣東廣西の山の中にも矢張り蠻族が住んで居る。海南といふ島、此處にも黎といふ蠻族が住んで居る。それから四川省はどうかといふと、峨眉から岷江に――峨眉山や岷江は人の知る如く、よく詩に歌はれる所で、『唐詩選』を見ても、非常に風流の土地のやうになつて居るけれども、此岷江の西に走つて居る峨眉山脈の西の方に行くと最早此處は蠻地であつて、蠻人が勢力を振つて、却て漢人を奴隷として使つて居る所があるのである。即ち寧越と會理等、峨眉の西南の方であるが、此處には※[#「けものへん+果」、U+7313]※[#「けものへん+羅」、U+7380]と云ふ人間が住つて居る。其れから此處を暫く行くと、有名な打箭爐で、もう西藏人が住つて居る。彼等は既に打箭爐の東方にも居る。余は此の西藏人や※[#「けものへん+果」、U+7313]※[#「けものへん+羅」、U+7380]の居る地方を歩いて見たが、此邊が其の中心地でターリヤン山などゝいふ山の中である。此の山の中へ漢人を連れて來て奴隷にして居る。奴隷の額に刺青をして其の印しとして居る。而して奴隷同士を結婚させて、子供が出來ると、更に互に結婚させて益々奴隷を作つて居る。
 ※[#「けものへん+果」、U+7313]※[#「けものへん+羅」、U+7380]の居る西から雲南省の金沙江の北岸には西藏族が居り、南の方には南蠻が居る。一體雲南省といふ處は、東京に流れる佛領東京の所謂レツド、リバア紅河の上流になる。それから暹羅に流れる媚公河、緬甸に流れるサルウイン河など、皆雲南の方から流れ出て來るのである。であるから暹羅、緬甸、老※[#「木+二点しんにょうの過」、U+6A9B]、東京、各方面に居る蠻族は、皆此等の河岸を傳つて雲南と關係がある。さういふ風であるから我々からいふと、雲南は人類學上の博物館のやうなものである。廣西省に入ると、廣東河、これも雲南から流れて廣西を經て廣東で海に入るのであるが、此の流域にある西方の山々には蠻族がずつと居る。廣東は開けて居るけれども、廣東と湖南との界をなす山脈には矢張り蠻族が殘つて居る。福建省はといふと、福建省にもまだ羅源や古田といふ所に蠻族が殘つて居る。浙江省も亦大變開けて居る樣であるけれども、日本で有名な温州蜜柑の出る所の温州、其處の甌江の上流地方には蠻族が殘つて居る。湖南も、其の南方の山の中にまだ蠻族が殘つて居る。さうすると南支那といふものは、餘程状態が變つて居るのである。
 一寸支那北方の吉林省や黒龍江省又は東部西比利亞地方などを歩くと、ツングース民族に出會するが、それから蒙古の方に廻ると蒙古民族、甘肅省に往くと土耳古民族に出會ふ。西藏の方に行けば昔からいふ所のキヤン――西藏民族が居る。而して南方は前述の有樣である。これに據て見ると支那といふものは、今日と雖も一種の人類學上の博物館の樣なもので、漢族が色々の民族に圍まれて眞中に住んで居るのである。斯ういふ風であるから、まだ南支那といふ所は蠻族臭い所がある。また匂ひがある。まだ絶體に純然たる漢族の地といふ事が出來ない。之を通常の地理書には楊子江の流域、或は福建廣東あたりは非常に繁華で、商業の盛んな土地であるやうに書いてあつて、斯ういふ蠻族の居るといふ事を書いて居るものが少い。これは要するに支那通と云ふ人でも彼等に就て知らないからである。這は單に日本の書物のみならず、歐米の人類學者の書物でも此の苗族が南支那に居住することを書いて居るものが極めて少い。であるから多くの人が單に漢族の文化地方とのみ見て居るのは、敢へて不可思議ではないのである。斯くの如きは、東方研究上最も遺憾なる事であると云はねばならぬ。即ち南支那は今云つた樣な有樣で諸蠻族が雜然として居るのである。斯ういふ風に見ると、昔の呉の國、楚、越、※[#「門<虫」、第3水準1-93-49]といふ樣な土地は、餘種[#「餘種」は底本のまま]蠻族臭くなつて來る。日本と呉と交際したといつても、呉の民衆といふものは一種の蠻族であつたかも知れない。これは第一に承知してゐなければならない。であるから我々が支那の歴史を見ても、南の歴史と北の歴史とは餘程違へて見て居るので る[#「で る」は底本のまま]。さういふ風に見ないと大變違ふからである。今日支那が南北に分れるといふことは、實際人類學上から來て居るかも知れない。支那の南北では、漢族と雖も其の體質上違つて居て、北方の漢族は身長高く、南方の漢族は身長短く、頭形、顏形其他にも多少相違がある。

   五 三派の蠻族

 此處に居る所の蠻族のことを、これから具體的に述べて見たい。此等の蠻族はどういふ風に生活して居るかといふと、丁度日本の特種部落のやうな状態である。けれども全く漢族に壓せられてしまつたかといふと、さうではない。彼等の固有の言葉、固有の風俗習慣、固有の體質を保つて居るのが彼處此處に殘つて居る。先づ南支那の蠻族を區別すると、三つに別れるのである。一つは苗族、苗の中に※[#「けものへん+搖のつくり」、U+733A]といふものも這入つて居る。それからまだ※[#「けものへん+童」、U+735E]とか色々のものが這入つて居る。次の一つは※[#「けものへん+果」、U+7313]※[#「けものへん+羅」、U+7380]、もう一つは西藏族――※[#「羌<ム」、第3水準1-90-28]。此三つの區別がある。西藏族は四州省[#「四州省」は底本のまま]及び雲南省の北部から分布して居る。
 此の苗といふのは何かといふと、これはラクーペリー氏も『漢族以前の非漢族』といふものを書いて、それにも云つて居るが、苗族の方は民族から云ふとタイシヤンである。タイシヤンは安南、暹羅、あの邊の人間と類似して居る。これは言語の點からさう見えるのである。※[#「けものへん+果」、U+7313]※[#「けものへん+羅」、U+7380]はどちらかといふと、これは緬甸の方の系統に屬するのである。此の二つの民族は、要するに印度支那民族系統である。すると漢族が這入らない時の南支那といふものは――楊子江の南、北もさうであるが、今日の暹羅、緬甸、安南、老※[#「木+二点しんにょうの過」、U+6A9B]、東京、あの地方と連續する土地と見なければならぬ。それであるから漢族の這入らない時分の、印度から東、東海の濱までは悉く印度支那民族が居つたのである。其後漢族は、最初は個人として後には國家として這入て全然征服したのである。彼等の話す所の言葉はモノシラビツク――單綴音で、安南、暹羅、緬甸の言葉と變らない、風俗習慣も變らない。斯ういふことを見ると、これが日本とどういふ關係があるだらうかといふことなども考へなければならぬ。然るに日本の學者の中には、之をマレーと見る人があるが、マレーとは全く別で、即ち印度支那民族である。米を作つて草鞋を穿く風は日本と變らない。これは餘程關係がある。此の點に於て漢族的でなくして、暹羅、緬甸、安南と同じである。此土地が漢族と最初にぶつ突かつて、さういふことになつたのである。余は其の樣に之れを見る。然るに臺灣はどうかといふと、臺灣は比律賓と同じくインドネジアン族、即ちマレーである。これは人類學上違ふ。彼等は印度支那民族である。さうすると若しも假りに日本に南方の形跡があると見ると、それは印度支那民族の色彩が多い樣に思ふ。これは餘程研究しなければならぬ。米は日本には何處から這入つて來たかといふ問題があるが、決して黄河の方から這入つて來る譯はない。楊子江から這入つて來たとすれば、米を食つて草鞋を作るといふ文化と繋がる。それから四川省の西南から掛けて、雲南の金沙江の北の方には西藏人が居る。これから西藏の國である、[#読点は底本のまま]ネポール、ブーダン、これから西藏の線がずつと來て居る。此處の文化は印度的や支那的の所があり、頗る混雜して學術上六かしい地方であるけれども、今日東洋史の教科書などは此方面を云はないで、北方のこと許り云つて居る。これは日本のオーソリチーが北の方の研究許りをやつて居らるゝ爲めであるが、今後は此の方面にも注意せられたい。

   六 苗族の神話傳説と土俗

 苗族と云ふと、之を廣義に解釋して南蠻と見るのと、單に小さく苗族と見るのとの二つがある。余は苗族を小さく見たい。これには苗といふものもあれば※[#「けものへん+搖のつくり」、U+733A]といふものもある。又は黎とか※[#「けものへん+童」、U+735E]とか色々のものが之に屬して居る。大概※[#「けものへん」、第4水準2-80-26]扁である。彼等は所謂タイシヤン族であるが、之を漢族は、蠻(Man)といふ。けれども不思識な事には、タイシヤン族は皆自分の名を有つて居る。例へば苗族は自分のことを何といふかといふと、ムンと云つて居る。それから今日|東京《とんきん》に居る民族はマンといふ。之が又フウンといつて居るのもある。皆變つて來るが、要するに皆M音から來て居る。さうすると昔から漢族が南蠻をマンといつたのは、『山海經』を見ると、「三苗の國又三毛の國」といふとあつて、皆Mである。であるから苗族の系統は、總てムンといふ名前を以て呼ばれて居る。即ちムン族である。昔漢族のいふ所の蠻族になるのである。これは漢族が南方の民族をマンと稱したのは、字から出たのでなくして、此發音を認めて書き換へたに外ならないのである。
 此苗族について、先づフイジカルの方から云ふと、身長が非常に小さい。それで西洋人などは小人といつて居る。漢族とは較べ物にならない。五尺以下の身長がある。頭髮は眞黒で直毛、皮膚の色は黄色である。全くモンゴロイドに違ひない印度支那民族である。此蠻族は何處に住んで居るかといふと、今日貴州から掛けて雲南省の東方、それから尚廣西省、廣東省、福建、浙江の奧、湖南の南、海南島、東京の東の方、此部分に分布して居るのが即ち苗族である。これはどういふ風俗であるかといふと、髮は所謂漢人の昔からいふ推髻の髮である。司馬遷が、南蠻一名「推髻の民」といつて居るのは、此の形容から來たのである。男も女もさういふ髮である。額の上で瘤のやうに卷いて居る。それから服は長い筒袖で右前にして合せる。腰には裙を穿いて居る。所謂袴である。それから草鞋を穿いて居る。これは餘程日本と似て居る。漢族及び北方の民族は靴を穿いて居る。長靴及び短靴を穿く。此草鞋は麻で拵へて穿くから、丁度日本の草鞋である。それから下駄を穿く。日本の古墳あたりから出る下駄と同じである。餘り上等でないが、草鞋と下駄が行はれて居る。これは北支那には無い、北方民族にも無い。即ち南支那及び日本に行はれて居る。餘程此の風俗が似て居る。衣服は色で區別して居る。白い着物を着て居るのが白苗で、赤い着物が紅苗、青い着物が青苗、黒いのが黒苗、それから大變縫ひ取り模樣の綺麗なのが花苗、斯ういふ風に色で區別する。此の色の區別の觀念といふものは、『後漢書』の南蠻傳を見ても分るが、木の皮の織物に草の實等を以て染めた五色の衣服を好むといふことを書いて居る。此等は矢張り今日の考[#「考」は底本のまま]と似て居る。これは皆苗族である。
 此等の生活は皆農である。水田に米を作つて最早鍬や鋤を用ひて居る。それから水中で田を耕して居る。尚ほ穀物として玉蜀黍など、さういふやうな物を作つて居る。兎に角農業が主になつて居る。であるから日本に若し米が這入つて來たとすると、どうしても此あたりからでなければならぬ。彼等は米及び玉蜀黍などを常食として居る。住居はどういふ所かといふと、貴州省方面は高殿の二階屋で、屋根の上に草を葺いて居る。而して千木の樣なものを上に置いて居る。貴州省で苗の住まつて居る土地には、木が殆んど伐られて仕まつて居るから壁は石を以て積み重ねて居る。けれども雲南に行くと木が多いから、校倉式の家を造つて居る。此處では昔相當に盛んであつたものと見えて、縫取り模樣が非常に巧みである。呉の綾、蜀の錦と對照すべきものである。這は彼等の藝術として見るべきものであらう。尚ほ注意すべきは、日本の奈良の正倉院にあるやうな蝋纈を染めて居る。
 男の風はどうかといふと、長い筒袖の着物を前に合せて、卷脚半をつけ、足には草鞋を穿き、麻織の帶を締めて居る。帶の結び方は先端を垂して後に下げ、それに幾 [#「幾 」は底本のまま]學的の縫ひをして居る。後漢時代の物で現今山東省に殘つて居る石壁に彫刻して居る兵隊の風に餘程よく似て居る。それは偶然の符合であるか、漢の風俗が苗に這入つたかである。兎に角山東省の石壁の繪に能く似て居る。此處には笙などを以て舞踊が盛に行はれて居る。笙は非常に大きなものである。支那の方では傳説によると、黄帝が洞庭の竹を以て笙を初めて作つたといふことを傳へて居るが、これは面白い暗示を與へて居るのであつて、即ち南方の民族が笙を持つて居ることが分かる。北の方には笙がない。笙の地理學的分布は、苗族から掛けて東京《とんきん》、安南、暹羅、緬甸。此地方一帶にこれが行はれて居る。
 苗に就いてどういふ神話があるかといふと、先づ古くは漢時代の傳説によると、――所謂南蠻の傳説は『後漢書』に大分書いてある――桃太郎[#「桃太郎」に傍点]に似たやうな話がある。「女が川で洗濯して居ると、桃が流れて來た。それを拾つて割つて見ると、中から男の子が出て來た。これが南蠻の祖先である。故にこれが桃姓を名乘つて居る」といふことである。日本の桃太郎は何處から出たか知らないが、こゝでは兎に角斯ういふ風に桃を尊んで居る。南方の楊子江流域に、桃を尊んで居る風習のあるのは、あれは漢人の風俗ではなく、苗族の信仰が移つて來て居るのかも知れない。それから日本の童話の狸が泥舟[#「狸が泥舟」に傍点]を造つたと云ふ其泥舟の話も、『後漢書』によると、巴即ち重慶の蠻族の中にある。苗の傳説は所謂植物傳説である。日本の神話の内に於ては、人間が木を生んだ話もあるが、苗の傳説にも、亦人間が木を生む傳説がある。當時漢族が以上の如く蠻族に接觸して好奇心に驅られ、色々其風俗習慣を書いたもの、即ち『後漢書』の南蠻傳の如き、之に彼等の聞いた蠻人の傳説が大分書いてある。現今でも斯ういふ傳説が殘つて居る。今花苗の傳へて居る傳説と青苗の傳へて居る傳説ととを綜合して見ると、昔男と女と夫婦になつて、高い山の上に深い谷を隔てゝ兩方の高峯に分れて住み、始終相對して居つた。然るにどうした機みか二人が誤つて谷の底に落ち込んで仕まつた。さうすると天から靈鳥が下つて來て――鷹である――之を引上げて又元の通りにした。そこで夫歸の間に段々子供が出來て、それが蕃殖して來たのが即ち今日苗のムン族である。故に鷹を靈鳥として今でも尊拜して居る。而して出來た所の人間が六つの數から成つて居る。此内一番先に生れたのが桃と柳の氏であつて、それから次々と彼等子孫が出來たといふことを云つて居る。彼等の神話の形式は所謂植物傳説で、『竹取物語』や桃太郎の樣な話は『後漢書』に出て居るのである。犬から生れた槃瓠の傳説もさうである。斯ういふ樣な風の傳説がある。而してそれ等が遂に瓠の祖先となつた、桃や柳は皆祖先の一つである。而して後に此處に生活して居ると、北から漢族が逼つて來て、遂に我々を征服した爲めに、我々の或者は南に移り、或者は雲南に入り、或者は廣東に入つたといふやうな傳説を有つて居る。それであるから此等の苗は一つの系統であつて、言葉は大抵暹羅、安南に行はれ居る言葉に似て居る。所謂單綴語系の印度支那語である。漢族が南下して來て最初に接觸した南方の民族は即ち此南蠻の一たる苗族である。

   七 ※[#「けものへん+果」、U+7313]※[#「けものへん+羅」、U+7380]の體格、文字、神話

 然らば緬甸語系に屬して居る所の※[#「けものへん+果」、U+7313]※[#「けものへん+羅」、U+7380]はどうであるかといふと、※[#「けものへん+果」、U+7313]※[#「けものへん+羅」、U+7380]は四川から掛けて峨眉の西方の裏手の方、金沙江の上流一帶の山の中に分布して居る。峨眉山の東の方には、成都から流れて來る所の岷江といふ河があつて、此處は非常に景色の好い所で、李白が峨眉山月半輪秋と云ふ有名な詩を作つたのは此處である。此の西の方から※[#「けものへん+果」、U+7313]※[#「けものへん+羅」、U+7380]が分布し始めて、雲南の方にも西藏の入口の方にも擴がつて居る。此中心點は何處かといふと、四川省の寧越即ち、峨眉山の西方に當つて居るのである。之をロロと呼ぶのには大分説がある。※[#「けものへん+果」、U+7313]※[#「けものへん+羅」、U+7380]の研究で有名なビヤール氏の著書『※[#「けものへん+果」、U+7313]※[#「けものへん+羅」、U+7380]』といふ有名な書物があるが、此中にいふには、「ロロ」といふのは元と「ナナ」といつたのであらう。一體Lの音とNの音とは似通ふものであるから、「ナナ」といつたのが何時か「ノノ」となり、「ノノ」が遂に「ロロ」となつたのであらうといつて居る。此蠻族のことに就ては、マルコポーロの旅行記にも書いてあつて、其れにはコロマンの地方、カイジユの地方と※[#「けものへん+果」、U+7313]※[#「けものへん+羅」、U+7380]のことを記されて居る。マルコポーロの書いて居る※[#「けものへん+果」、U+7313]※[#「けものへん+羅」、U+7380]の體格と、今日の※[#「けものへん+果」、U+7313]※[#「けものへん+羅」、U+7380]の體格とは變らない。身體が大きくて兵隊にすると大變都合が好い。先づ文獻として※[#「けものへん+果」、U+7313]※[#「けものへん+羅」、U+7380]のエスノグラフイーを書いたものは、此マルコポーロの旅行記が古くて精しいものであらう。此の※[#「けものへん+果」、U+7313]※[#「けものへん+羅」、U+7380]の身長の非常に大きい事については、ベーバー氏が、「我々英國人中の大きい者よりも、大きく又蘇格蘭の人間よりも大きい」と云つて居る。不思議な事には南支那の人間で苗族が一番小さく、所謂小人であるが、※[#「けものへん+果」、U+7313]※[#「けものへん+羅」、U+7380]は長身である。此二つの民族が同じく南支那の地に居つて、安南、暹羅系統のものは身體が小さく、小人と云はれて居る。一方に※[#「けものへん+果」、U+7313]※[#「けものへん+羅」、U+7380]は世界的に大きな人間である。※[#「けものへん+果」、U+7313]※[#「けものへん+羅」、U+7380]の皮膚の色は幾らかプロンヅ[#「プロンヅ」は底本のまま]を帶びて居る。顏は長く、頭髮は非常に濃く且つ黒くて直毛、髯は乏しい。――苗族も髯は乏しい――而して物を考へる時に額に皺を寄せる風がある。頭は中頭である。風俗はといふと、頭髮は推髻で、男は筒袖を着け、足には草鞋、或は草で拵へた草履の樣な物を穿いて居る。女も髮は推髻で、黒布をタルバンの樣に捲きつけて居る。而して矢張り筒袖を着て、其下に大きな裙を穿き、上に長い支那服を着けて居る。足は跣足若しくは草鞋を穿いて、上に羊の毛で織つた外套を着て居る。此處も矢張り農業もやれば牧畜も盛んである。西藏は羊の毛織物を製し、其れに色々の模樣を織込むのが巧みで、一種のペーザントアートであるが、此處も矢張り羊の毛織物が得意である。苗族は麻の織物を得意とする。これは丁度蜀江の錦の本になつて居るかも知れぬが、兎に角一種の郷土藝術で、楊子江下流の呉の綾のやうに此處では毛織物が盛んである。
 家屋は大概草小屋である。これは苗族と違つて一軒建の平家で、二階はない。屋根は萱で葺いて、木の壁を作つて居る、[#読点は底本のまま]それから處によると西藏風に石を組んで高く積み上げるのもある。食物は矢張り玉蜀黍といふやうなものである。羊、豚なども食つて居る。氣風は非常に殺伐で、私も此の地方を歩いたが、※[#「けものへん+果」、U+7313]※[#「けものへん+羅」、U+7380]の間を拔けて行くには非常に危險であつた。漢人は町の周圍に域壁[#「域壁」は底本のまま]を築き夜分には外出せぬやうにして居る。※[#「けものへん+果」、U+7313]※[#「けものへん+羅」、U+7380]が其の住所たる山には拔身の槍や弓などを持つて居る。
 彼等及び其の土地の研究には尚餘程餘地がある。けれども此處の或所には佛蘭西の宣教師達が這入つて手を着けて居る。此處は一般に漢人の方よりも宣教師達の勢力が行はれて居る譯である。此處 [#「此處 」は底本のまま]武器などは昔から名高いものであつて、※[#「けものへん+果」、U+7313]※[#「けものへん+羅」、U+7380]刀と稱して刀が名物である。此方面の蠻族は一般に小刀子を使つて居るが、※[#「けものへん+果」、U+7313]※[#「けものへん+羅」、U+7380]は大刀を横たへて居る。これは餘程違つた所がある。尚ほ馬を飼育し、外出の際には武裝して之れに乘り、支那町に出て來る。要するに彼等は慓悍である。
 彼等に就いては、頗る面白い傳説がある。其の傳説といふのは、洪水の傳説であるが、これに就いて一言しなければならないのは、彼等にも一種の文字があつたことである。之れは一つの文化と云つても可い。言葉は、モノシラビツク――單綴語で、北方のやうな多綴音ではない。此點は漢族の言葉に似て居る。それから文字は一音一義になつて居る。北方のやうに綴りが多くない。暹羅、安南、等の言葉も矢張皆單綴音である。唯マレーになると多綴音になる。※[#「けものへん+果」、U+7313]※[#「けものへん+羅」、U+7380]の文字は一種特別な音文學であつて、一見支那の象形文字に相對して、※[#「けものへん+果」、U+7313]※[#「けものへん+羅」、U+7380]は線、點等から出來て居る。これは寧ろ支那の發達した文字よりもで、理想的である。殊に面白いのは此文字は何時頃から用ひたかといふと、今日まで知られて居る所では、明の嘉靖あたりの碑文に※[#「けものへん+果」、U+7313]※[#「けものへん+羅」、U+7380]文字の用ひられて居るのが分つて居るのである。文字があると共に面白いのは神話である。神話が此文字で書かれて居る。
 そこで神話の話に移るが、これは彼等の創生記[#「創生記」は底本のまま]であつて、第一が天地の創造時代、それから旱魃時代が來て、次に洪水時代となるのである。人はどうして造られたか、土で人形を※[#「てへん+臼/工」、U+63D1]ねて神が生氣を吹き込んで男女二人を造つた。これから段々人間が生れて耕作や衣服を織ることを覺えた。其の中に旱魃時代が來て、其れが甚しくなると遂に洪水時代が來た。洪水の時に男三人女一人の一家四人の兄弟が打ち揃つて畑を耕して居ると、其處へ神が現はれていふには、汝等は洪水が來る故に用意をせよ。そこで一番の兄は鐵の舟を造つた、次男は銅の舟を造つた。三男と末の妹は木の舟を造つた。水が來ると、鐵の舟や銅の舟はすつかり沈んで仕まつたが、木の舟は段々浮き上つて、遂に或山の中腹に掛つた。段々水が引いて仕まふと二進も三進も行かない。幸に其上に竹があつたので、其竹の枝にすがりついて舟から出ることが出來た。而して二人が結婚して多くの子孫を繁殖せしめた。これが即ち今日の※[#「けものへん+果」、U+7313]※[#「けものへん+羅」、U+7380]の祖先である。と斯ういふことを傳へて居る。
 これに就いて學者の間に色々の議論がある。※[#「けものへん+果」、U+7313]※[#「けものへん+羅」、U+7380]の祖先が人間であつて洪水の傳説を有つて居る。而して※[#「けものへん+果」、U+7313]※[#「けものへん+羅」、U+7380]には天を祭り香を焚く風習がある。それから七日を以て必ず休日として居る。これはどうしたのであるか、それで或人はネストリアンが這入つて來た影響ではないかといつて居る。固より雲南、四川に掛けてネストリアンの宣教師が當時彼處此處に居つたから、此の影響を受けたものであるか、兎に角疑問である。然し疑問であるけれども、先づこれはネストリアンの這入つて來た爲めとのみ云へないことがある。何故かといふと。[#句點は底本のまま]隣りの支那に既に洪水の話がある。禹が水を治めたといふやうな洪水傳説がある。
 安南洪水の傳説
 それから安南にも洪水傳説がある。これは『大越史記』に載つてゐる。同書は安南の歴史である。これは歴史として書いてあるが、固よりこれは神話であつて、丁度日本の歴史などでも、或編年史に書いてあると歴史上の事實のやうに見えると同じ樣に編年史に書いて居る事柄である。これは周の成王の時といふことになつて居るが、固より附加へたものに違ひない。其時の話は、王樣の娘に一人のお姫樣があつて、大變艶麗の女性であつた。之に向つて結婚を申込んだ人が多かつた。例へば蜀の王樣の如きもそれである。で此の王に姫を與へようとしたけれども、家來が止めてやらなかつた。或時王の許に二人の者が現れて來た。一人は誰かと云ふと、山の精即ち山の神である。一人は水の精即ち水の神である。山の神は、どうか私がお姫樣を貰ひたい。水の神も、どうか私にお姫樣を下されたい。斯ういつて居る間に、山神が先に王樣と約束した。私に下さるならば大變な贈り物をしませう。其時にどういふ物を贈つたかといふと、山にある所の珍寶、金銀、山にある果物、野獸等悉く王樣に獻じて、而して此の姫を自分の家内にしようとした。其時に水神も有らゆる珍寶を捧げて、どうかお願ひしたいといつた。王樣はもう山神と約束したから、やる譯に行かないと斷はつた。是に於て水神は大に王樣を怨んで、急に雲を起し雨を降らし、川からは水族を呼び上げて陸上の王樣に迫つた。王樣は驚いて鐵の網を張つて防いだ。而して一方には水と陸とが非常に戰つたが、到頭終に、山神が勝つた。而して山神が段々勢力を張つて、遂に南蠻の祖先になつた。斯ういふ話がある。此等の神話は、黄河畔に傳はつて居る漢民族の洪水傳説と多少似て居る。
 此の洪水の傳説は、人種上の關係は無いのであらうけれども、偶然にも、日本の火照命と火遠理命とが海の幸、山の幸の交換――釣鈎を失つて、海に入つて取り戻して來て、後に潮滿球と潮干球で攻めたり援けたりした傳説があるが、丁度安南の話と似て居る。それであるから斯ういふ神話を段々辿つて行くと、此日本の話といふものも、洪水傳説の一派のものと見られないこともない。否矢張洪水傳説であつて、洪水傳説が斯ういふ風に變つて來たものかも知れない。
 さうして見ると、此の※[#「けものへん+果」、U+7313]※[#「けものへん+羅」、U+7380]の話や漢民族の禹の洪水の話などは、系統のもと同じであつたものが分れたのかも分らないが、安南の洪水傳説も兩方關係がある樣に思はれる。とすると別にネストリアンの關係から這入つた創世紀[#「創世紀」は底本のまま]ノア洪水の話でなく、東方にも南方にも、斯ういふ話がずつと以前から傳説として存在して居つたものではなからうか。斯ういふ風な考へも起つて來るのである。
 それからもう一つ、西藏の方に行くと其の一番東の方に昔の所謂※[#「羌<ム」、第3水準1-90-28]が居るか[#「居るか」は底本のまま]、これに就いては他で述べることにする。要するに緬甸系の代表者として※[#「けものへん+果」、U+7313]※[#「けものへん+羅」、U+7380]、タイシヤン系の代表者としての苗であつて、その状態は右の樣な有樣である。
 日本即ち「倭人傳」にある樣な、被髮文身の風習は、呉の太伯の傳説と頗る關係があるとして、日本でも藤井貞幹等が此の事を説いたのであるが、これは全然非難する事が出來ないと思ふ。これは先づ地形が東海を※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28]んで互に關係あると思ふ。余はマレーとは云はぬが、南蠻の後胤の※[#「門<虫」、第3水準1-93-49]、呉、楚、越、此のあたりの關係といふものは、古代に溯れば溯る程日本の關係がありはしないか、支那南方の民族と日本の民族との間に、何等か人種上の關係は無かつたとしても、交通上の關係は見なければならぬと思ふ。古くなれば古くなるほど、漢民族は南方に這入つて來ることが出來ない。彼等の色彩が無くなる。彼等は假令ば湖南省附近に中心地が出來た所で、南嶺を越えて進むことは容易に出來ない……而して北方にはツングースや蒙古族土耳古族等が居る。純粹の漢族の或者は南北に於て是等南北の諸民族と混雜して居るのである。さうで無いにしても彼等と互に關係がある、[#読点は底本のまま]これ等の點から見ると、支那の研究といふものは、體質、文化、宗教等に於て、餘程人類學上面白い感じがするのである。

   八 蠻族の文化に就いて

 こゝに尚ほ注意すべきものは文化の問題である。獨逸の東洋學者のヒルトが『古代支那史』を書いて、其内に北方黄河流域の文化といふものは、青銅器の文化である。即ち鼎の樣なもの……。次に楊子江の流域及び其南の文化は銅鼓の文化であると云つて居るが、支那の歴史も文化史の上から見ると、氏の云はるゝ如く斯ういふことが出來る。即ち銅鼓の行はれた區域は楊子江以南で、楊子江より北の方に銅鼓の出たことがない。これは南支那、それから東京、暹羅、マレー諸島にまで出る。然るに青銅器――鼎の種類の出るのは黄河の流域に限る。さうすると銅皷の文化から見ても、南支那の蠻族は結局野蠻でないことが分る。――即ちかういふ文化を有つて居ることが分る。して見ると、彼等が越、※[#「門<虫」、第3水準1-93-49]、呉、楚といふ樣な國を拵らへたことも固より漢民族との關係はあるが、又彼等の土地の富や、彼等の文化として見なければならぬ。彼の比較的後まで四川雲南に渉つて殘つて居つた南詔王國の如きも、政治上、立派な王國の形を有つて居る。それから暹羅、安南、緬甸等も、古來王國政治上の知識を有つて居る。さういふ風な所から見ると、南支那の民族といふものは北方の民族のやうな風に所謂水草を追うて居るものではなく、土着性を有つて居つて、部落もあり。[#句点は底本のまま]農業も有つて居り、米穀も有つて居る。さういふ點に於て餘程面白いと思ふ。

   九 結論

 以上は南支那の民族研究の概論の樣なものに過ぎぬのであるが、今日の東洋學者其の他の學者は、北方の研究許りやつて、南の研究を怠つて居る樣に思はれる。これはどうしても盛んにしなければならぬ。さうでなければ南方の解釋がつかない。『書經』には一番最初に三苗の話があるが、今日どう云ふわけか學者からかへり見られない。けれども支那研究は此の三苗から出發しなければ、支那の西南の意味が分らなくなるであらうと思ふ。余は今から二十年程以前に、南支那民族の研究をやり始めましたが、其の時はどうしたものか世の學界からかへり見られなかつたが、此の状態は今も同じで一向此の方面の事を云ふ人がない。南支那の民族、支那の研究は北方の研究に比して少しも纒つて居ない。それには北方に就いては餘程纒つた本が比較的多い。けれども、南方に就いては餘り完全に纒つた本がない。而して佛蘭西の本が多い。さういふ關係から日本の學者は、南支那の研究を面倒臭がつて遂に手を出さない状態になつて居るものと思ふ。けれども日本の學者の立場として、南方も北方も皆貴いのである。此の點に於て日本の學術の權威を發揮して、日本の學界に於て南支那の研究、續いて印度支那の研究を、西伯利、滿蒙、北支那の研究と同じく進めるといふことは日本の學者の義務であらうと思ふ。
(つづく)



底本:『日本周圍民族の原始宗教』岡書院
   1924(大正13)年9月20日發行
   1924(大正13)年12月1日三版發行
入力:しだひろし
校正:
xxxx年xx月xx日作成
青空文庫作成ファイル:
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*地名

(※ 市町村名は、平成の大合併以前の表記のまま。一般的な国名・地名などは解説省略。
  • 東部シベリア
  • シベリア Siberia・西比利亜 アジア北部、ウラル山脈からベーリング海にわたる広大な地域。ロシア連邦の一地方でシベリア連邦管区を構成。西シベリア平原・中央シベリア高原・東シベリアに三分される。面積約1000万平方km。十月革命までは極東も含めてシベリアと称した。ロシア語名シビーリ。
  • カラフト島
  • カラフト 樺太 サハリンの日本語名。唐太。
  • サハリン Sakhalin 東はオホーツク海、西は間宮(タタール)海峡の間にある細長い島。1875年(明治8)ロシアと協約して日露両国人雑居の本島をロシア領北千島と交換、1905年ポーツマス条約により北緯50度以南は日本領土となり、第二次大戦後、ソ連領に編入。現ロシア連邦サハリン州の主島。北部に油田がある。面積7万6000平方km。樺太。サガレン。
  • モンゴル Mongol 中国の北辺にあって、シベリアの南、新疆の東に位置する高原地帯。また、その地に住む民族。13世紀にジンギス汗が出て大帝国を建設し、その孫フビライは中国を平定して国号を元と称し、日本にも出兵した(元寇)。1368年、明に滅ぼされ、その後は中国の勢力下に入る。ゴビ砂漠以北のいわゆる外モンゴルには清末にロシアが進出し、1924年独立してモンゴル人民共和国が成立、92年モンゴル国と改称。内モンゴルは中華人民共和国成立により内モンゴル自治区となり、西モンゴルは甘粛・新疆の一部をなす。蒙古。
  • 南満州 みなみ まんしゅう 満州南部、かつて満州国があった地域(現在の中国東北部)を指す地域呼称である。内満洲とも言う。ただし、文脈によっては内満洲の南部(ポーツマス条約により日本の勢力圏となった地域)を指す場合もある。「南満洲」と言う地名を冠した企業としては、南満州鉄道が有名。
  • 遼東郡
  • 満蒙 まんもう 満州と蒙古(内蒙古)との併称。
  • 北シナ
  • [遼寧省]
  • 遼東 りょうとう (Liaodong) (遼河の東の意)中国遼寧省南東部一帯の地。
  • [吉林省]
  • 吉林省 きつりんしょう (Jilin) 中国東北地方中部の省。省都は長春。面積約19万平方km。漢族のほか、朝鮮族・満州族・回族・モンゴル族などが住む。
  • 吉林 きつりんしょう 吉林省中部の都市。第二松花江西岸の工業都市。交通の要地。化学・電力のほか、製材・製紙などの工業が盛ん。人口195万3千(2000)。旧称、吉林烏拉・船廠。
  • [黒竜江省]
  • 黒竜江省 こくりゅうこうしょう 中国東北部最北の省。面積約45万平方km。省都は哈爾浜(ハルビン)。肥沃な松※(第4水準2-5-78)平原・三江平原をもつ。略称、黒。
  • [甘粛省]
  • 甘粛 かんしゅく (Gansu) 中国北西部の省。省都は蘭州。面積約45万平方km。明代まで陝西省に属したが、清初に分離。古来、天山南北路に連なる東西交通路に当たり、西域文化が栄えた。略称、甘。別称、隴。
  • [河南省]
  • 洛陽 らくよう (Luoyang)(洛河の北に位置するからいう)中国河南省の都市。北に※(第3水準1-92-61)山を負い、南に洛河を控えた形勝の地。周代の洛邑で、後漢・晋・北魏・隋・後唐の都となり、今日も白馬寺・竜門石窟など旧跡が多い。機械工業が盛ん。人口149万2千(2000)。
  • 孟津 もうしん/モンチン 華北地区南部、河南省北西部の県。洛陽の北20km、黄河下流右岸に位置。別称、明津。黄河の形成する扇状地の扇頂部にあたり、古くから渡河点として知られる。周の武王が諸侯と会し、殷の紂王を襲撃するために渡河した。(外国コン)
  • [陝西省]
  • 長安 ちょうあん 中国陝西省西安市の古称。洛陽と並んで中国史上最も著名な旧都。漢代から唐代にかけて最も繁栄。西京。
  • 黄河 こうが (Huang He) (水が黄土を含んで黄濁しているからいう)中国第2の大河。青海省の約古宗列盆地の南縁に発源し、四川・甘粛省を経て陝西・山西省境を南下、汾河・渭河など大支流を合わせて東に転じ、華北平原を流れて渤海湾に注ぐ。しばしば氾濫し、人民共和国建国後に大規模な水利工事が行われた。近年下流部で水量の減少が著しい。全長5464km余。流域は中国古代文明の発祥地の一つ。河。
  • 南シナ
  • 呉 ご (1) 中国古代、春秋時代の列国の一つ。周の文王の伯父太伯の建国と称する。長江河口地方を領有。楚を破り勢を張ったが、夫差の時、越王勾践に滅ぼされた。( 〜前473)(4) 中国江蘇省の別称。
  • 楚 そ (1) 中国古代、春秋戦国時代の国。戦国七雄の一つ。長江中下流域を領有。戦国時代には、帝※(第3水準1-93-93)※(第3水準1-93-87)の子孫を自称。春秋の初め王号を称する。郢に都し、強大を誇ったが、秦のために滅ぼされた。中原諸国とは風俗言語も異なり、蛮夷の国と見なされた。( 〜前223)
  • 越 えつ (1) 春秋戦国時代、列国の一つ。はじめ中国東南の少数民族から出たと考えられる。隣国呉と抗争、前473年、勾践は呉王夫差を破り、会稽に都し、浙江・江蘇・山東に覇を唱えたが、楚の威王に滅ぼされた。( 〜前257頃)(2) 浙江省の別称。
  •  びん (1) 中国、五代十国の一つ。後梁から王に封ぜられた王審知が福州を都として建てた国。6世で南唐に滅ぼされた。(909〜945)(2) 中国福建省の別称。
  • 蜀 しょく (1) 中国の地名。今の四川省の別称。古くから富饒の地として知られ、劉備が蜀漢を建国したのをはじめ、この地に割拠した支配者は少なくない。
  • 巴 は 中国四川省重慶地方の別名。
  • 揚子江 ようすこう (Yanzi Jiang) 長江の通称。本来は揚州付近の局部的名称。
  • 長江 ちょうこう (Chang Jiang)中国第一の大河。青海省南西部に発源、雲南・四川の省境を北東流し、重慶市を貫き、三峡を経て湖北省を横断、江西・安徽・江蘇3省を流れて東シナ海に注ぐ。全長約6300km。流域は古来交通・産業・文化の中心。揚子江。大江。江。
  • 四川 しせん (Sichuan) 中国の南西部にある省。長江上流の諸支流にまたがる地。省都は成都。面積約49万平方km。別称、蜀・巴蜀。略称は川。漢族のほか、苗(ミャオ)族・チベット族などの少数民族が居住。古来「天府の国」と呼ばれ、地味肥え、天然資源に富む。
  • 江蘇 こうそ (Jiangsu) 中国東部、長江下流の沿海の省。面積約10万平方km。省南部の長江デルタ地帯には上海と南京を結ぶ交通線上に新興工業都市が林立。稲作灌漑のため全省に運河・クリークが発達し、全国有数の穀倉地帯。省都は南京。略称、蘇。
  • 浙江 せっこう (Zhejiang) 中国南東部、東シナ海に面する省。長江下流の南を占め、銭塘江によって東西に分かれる。古くから商工業が盛ん。別称、浙・越。省都は杭州。面積約10万平方km。
  • 江西 こうせい (Jiangxi) 中国長江中流の南にある省。面積約17万平方km。省都は南昌。別称、※(第3水準1-92-31)。東・南・西の3方を山に囲まれ、北部に※(第3水準1-92-82)陽平原を擁する。地下資源が豊富。米・麦・綿花・茶などを産する。
  • 湖南 こなん (Hunan) 中国中部の省。長江中流の南部を占める。省都は長沙。面積約21万平方km。洞庭湖があり湘江が流れる。灌漑・水運が発達し、稲作を中心とした農業地帯が多い。別称、湘・楚南。
  • 湖北 こほく (Hubei) 中国中部の省。長江の中流域に位置する。省都は武漢。面積約19万平方km。別称は鄂・楚北。春秋戦国時代の楚の地。長江流域の内陸地域では最も早く近代工業が発展した。
  • 福建 ふっけん (Fujian) 中国南東部の省。台湾海峡に面する。省都は福州。面積約12万平方km。山地が9割を占める。略称は。古来、東アジア海上交通の中心地。また華僑の主要な出身地の一つ。米のほか、甘蔗・茶・果物などを産する。
  • 広東 カントン (Guangdong) 中国南部の省。省都は広州。面積約18万平方km。別称、粤。華僑の出身地として古くから知られ、海外との経済交流が盛ん。民国時代には孫文ら革命派の根拠地として、北方軍閥に対立する革命勢力の拠点となった。
  • 広西 こうせい (Guangxi) 中国南部にあるチワン(壮)族自治区。もと広西省、1958年改称。南西はベトナムに接する。区都は南寧。面積約24万平方km。別称、桂・粤西。
  • 雲南 うんなん (Yunnan) 中国南西部の省。貴州・広西の西、四川の南に位置する高原地帯で、ミャンマー・ラオス・ベトナムと国境を接する。省都は昆明。20余の少数民族が住み、中国で民族の種類が最も多い省。面積39万平方km。略称、雲。別称、
  • 貴州 きしゅう (Guizhou) 中国南西部の省。四川省の南にある高原地帯。省都、貴陽。面積約18万平方km。略称、貴。別称、黔。苗(ミャオ)族・布依族・(トン)族・彝(イ)族などの少数民族が多く居住。
  • 西南シナ
  • 上海 シャンハイ (Shanghai) 中国長江の河口近く、黄浦江下流部にある中央政府直轄の大都市。1842年南京条約によって開港して以来、外国資本の中国進出の拠点で、金融・貿易・商工業の中心地。面積約6300平方km。人口1434万9千(2000)。別称、滬・申。
  • 漢江 かんこう (1) (Han-gang) 朝鮮半島屈指の大河。太白山脈中の五台山に発源、春川江・臨津江などの支流を合わせ、ソウルの中央を流れて京畿湾に注ぐ。流域は工業地帯として発展し、1970年代の韓国の経済急成長を「漢江の奇跡」と呼ぶ。長さ514km。漢水。ハンガン。(2) (Han Jiang) 中国の漢水の別称。
  • [浙江省]
  • 会稽 かいけい 会稽山の略。
  • 会稽山 かいけいざん 中国浙江省紹興市の南東にある山。呉王夫差が越王勾践を降した地。夏の禹が諸侯と会した所と伝える。
  • [湖南省]
  • 長沙 ちょうさ (Changsha) 中国湖南省の省都。洞庭湖の南、湘水下流東岸にある工業都市。古来、広東地方と中原とを結ぶ交通の要地。人口212万3千(2000)。
  • 湘江 しょうこう (Xiang Jiang) 中国湖南省東部を流れる川。広西チワン族自治区北東部に発源し、衡陽・長沙を経て洞庭湖に注ぐ。全長817km。湘水。
  • 江 げんこう/ユィアン チィアン 華中地区南西部、湖南省西部の川。貴州省中部の山地に源を発する〓水と清水江とが湖南省の洪江付近で合流して江となり、陵・常徳などを経て洞庭湖に注ぐ。別称、水・※(第3水準1-90-68)江(しこう)。長さ1060km。流域面積88,815km2。貴州・四川省の大動脈として、商業・交通上の価値が大きい。別称の※(第3水準1-90-68)江は香りのよい水草の※(第3水準1-90-68)蘭(ヨロイグサ)が生えていることによる。(外国コン)
  • 常徳 じょうとく (Changde) 中国湖南省北西部、江下流にある都市。水陸交通の要地。人口134万7千(2000)。
  • 武陵源 ぶりょうげん (Wulingyuan) 中国湖南省北西部の景勝地。張家界(国家森林公園)・索渓峪・天子山・楊家界からなる世界遺産。奇峰奇石がそびえる。
  • 洞庭 どうてい 湖南省北部にある中国第二の淡水湖。洞庭湖。湘水・水などが流入し、長江にそそぐ。雨期には長江の水が逆流して水量を増す。沿岸の風景は瀟湘八景として古来、名勝とされている。(漢和)
  • 洞庭湖 どうていこ (Dongting Hu) 中国湖南省の北部にある大湖。かつては「八百里の洞庭」と呼ばれたが、泥砂の堆積により今は多くの湖沼に分かれる。付近に瀟湘八景がある。
  • 南シナ
  • 西シナ
  • 句呉 こうご・くご 中国の周王朝の時代に、太伯(泰伯とも)が、弟の虞仲と千余家の人々と共に建てた国。後に寿夢が国名を呉と改名する。(Wikipedia)/(1) 周の太伯の号。(2) 太伯のたてた呉の国のこと。(漢和)
  • 南嶺 なんれい/ナンリン 中国南部の山地。広義には五嶺山脈・武夷山脈・仙霞嶺山脈・天台山山脈などを総称。狭義には華中地区と華南地区とを分ける自然の境界であり、長江水系と珠江水系との分水嶺をなす五嶺山脈をさす。この山地以南を嶺南と呼び、漢民族の文化が本格的に及んだのは唐・宋以後といわれる。(外国コン)
  • 南嶺山脈 なんれい さんみゃく (Nanling Shanmai) 中国南部、広東・広西・湖南・江西にまたがる、標高1000m前後の五つの山地の総称。長江水系と珠江水系との分水嶺で、華中と華南の境界をなす。/なんれい さんみゃく/-シァンマイ 華南地区の広西チュワン族自治区・広東省の北部と華中地区の湖南省・江西省の南部とにまたがる山脈群。長さ約700km。高さ1300〜1800m。長江と珠江の分水嶺をなす。主脈を大※(第3水準1-84-13)嶺(だいゆれい)といい、これに並行して騎田嶺・萌渚嶺・都※(第3水準1-94-86)嶺・越城嶺が連なる。これを合して五嶺ともいう。(外国コン)
  • 南山山脈
  • 嶺南 れいなん 中国の華中と華南を分ける五嶺の南の地。現在の広東省と広西壮族自治区をいう。嶺表。
  • 東海 とうかい (4) 中国で、東シナ海の称。
  • 東海の浜
  • [広西省]
  • 桂林 けいりん (Guilin) 中国広西チワン族自治区北東部の都市。西江の支流桂江の西岸に沿い、湖南省との交通の要地。リ江沿いに石灰岩の奇峰が並び、山水の美で名高い。人口80万5千(2000)。
  • 広東河
  • 蒼梧 そうご 舜の崩じたと伝える土地。今の中国広西チワン族自治区梧州。
  • 鬱林 うつりん → 玉林
  • 玉林 ぎょくりん/ユイリン 華南地区西部、広西チュワン族自治区南東部の都市。貴港の南東約70km、南流江上流域に位置。別称、鬱林。黎湛鉄道沿線にある。穀倉地帯で、米の二期作のほか、小麦・サツマイモ・ジュート・落花生・タバコなどを産する。製鉄・食品工業が立地。(外国コン)
  • 合浦 ごうほ/ホォプゥ 華南地区西部、広西チュワン族自治区南部の県。トンキン湾に注ぐ南流江左岸に位置。旧称、廉州。港は水深が大きい良港で、清の光緒の初め開港。農産物・工芸品の集散地。沿海は古くより真珠を産する。(外国コン)
  • [広東省]
  • 南海 なんかい (1) 南方の海。(2) 広東省の沿海地方。(漢和)
  • 南海郡 秦朝から唐朝にかけての郡。現在の広東省広州市周辺。(Wikipedia)
  • 海南島 かいなんとう (Hainan Dao) 中国広東省の南にある島。面積は3万4000平方km余で台湾よりやや小さい。漢代に珠崖・耳2郡がおかれ中国領となる。良質の鉄鉱石を産。サトウキビ・ゴム・ヤシ栽培が盛ん。観光地としても発展。1988年、海南省に昇格すると同時に、島全体が経済特区となる。華僑の出身地としても有名。
  • 東越
  • 珠崖郡 しゅがいぐん 海南島にかつて設けられた郡。前111年(元鼎6)武帝は南越国をほろぼして海南島に郡県制をしき、北西岸の(たん)県に耳県をおいた。しかし中国官吏の収奪がはげしかったために土着民の反乱がたえず、まず耳郡が廃止され(前82)、珠崖郡も前46年には放棄せざるをえなくなった。その後三国の呉から唐までの間にも断続しながら珠崖郡がおかれたが、その郡治は転々と移動した。(東洋史)
  • 耳 たんじ?
  • [四川省]
  • 四川省 しせんしょう (Sichuan) 中国の南西部にある省。長江上流の諸支流にまたがる地。省都は成都。面積約49万平方km。別称、蜀・巴蜀。略称は川。漢族のほか、苗(ミャオ)族・チベット族などの少数民族が居住。古来「天府の国」と呼ばれ、地味肥え、天然資源に富む。
  • 蜀 しょく (1) 中国の地名。今の四川省の別称。古くから富饒の地として知られ、劉備が蜀漢を建国したのをはじめ、この地に割拠した支配者は少なくない。
  • 巴 は 中国四川省重慶地方の別名。
  • 成都 せいと (Chengdu) 中国四川省の省都。三国の蜀の都。成都平原の中央にあり、岷江支流の錦水に沿う。政治・交通・経済の要衝。別称、蓉・錦官城・錦城。人口433万4千(2000)。
  • 重慶 じゅうけい (Chongqing) 中国四川省東隣の中央政府直轄市。長江と嘉陵江の合流点にある市街地は西南地域最大の商工業の中心で、周の巴子国の都、日中戦争時は国民政府の臨時首都。面積8万2000平方km。人口3114万(2004)。別称、渝。
  • 岷江 みんこう (Min Jiang) 中国四川省の大河。岷山山脈に発源、南流して成都平野に入り、宜賓で長江に合流する。全長735km。※(第3水準1-86-53)江。都江。びんこう。
  • 峨眉山 がびさん 中国四川省の中部、峨眉山市の南西にある山。主峰万仏頂は標高3099m。天台山・五台山と共に中国仏教三大霊場の一つで、奇勝に富む。世界遺産。蛾眉山。
  • 峨眉山脈
  • 寧越
  • 会理県 かいりけん 中華人民共和国四川省涼山イ族自治州西南部に位置する県。(Wikipedia)
  • 打箭炉 だせんろ → 康定
  • 康定 こうてい 中国、西南地区北部、四川省西部の県。成都の南西200km、大雪山中の峡谷に位置。旧称、打箭炉。人口10.1万('94)。チベット自治区へ至る門戸をなす。茶・薬材・毛皮などを産する。漢族・チベット族がほぼ半数ずつ居住する。(外国コン)
  • 蜀江 しょっこう (1) 中国四川省の成都付近を流れる川。長江上流の一部。(2) 「蜀江の錦」の略。
  • [貴州省]
  • [雲南省]
  • 叙州 じょしゅう? 揚子江と岷江との合する西のほう。雲南省か。(本文)
  • 大理 だいり (Dali) 中国、雲南省北西部にある都市。大理石の産地。人口52万1千(2000)。
  • 南詔 なんしょう (詔は王の意) 中国、唐代にチベット‐ビルマ系の蒙氏が雲南に建てた国。六詔国の一つ。10世紀初頭、権臣が簒奪。(649頃〜902)
  • 金沙江 きんさこう/チンシァ チィアン 中国中南部、長江上流部の称。青海省西部の崑崙山脈に源を発し、北東流ののち南東に転じる。さらにチベット自治区と四川省の境を南流、雲南省と四川省との境を流れて雲南省に入り、大きく屈曲して再び四川省との境を北東流し、四川省の宜賓で岷江と合して長江となる。長さ2308km。青海省のうちを通天河と呼び、チベット自治区と四川省との境を流れる付近から金沙江となる。上流はチベット高原、中流からは横断山脈中を深い峡谷をつくって流れる。(外国コン)
  • [福建省]
  • 羅源 らげん 中華人民共和国福建省福州市に位置する県。(Wikipedia)
  • 古田 古田県は中華人民共和国福建省寧徳市に位置する県。(Wikipedia)
  • 台湾 たいわん (Taiwan) 中国福建省と台湾海峡をへだてて東方200kmにある島。台湾本島・澎湖列島および他の付属島から成る。総面積3万6000平方km。明末・清初、鄭成功がオランダ植民者を追い出して中国領となったが、日清戦争の結果1895年日本の植民地となり、1945年日本の敗戦によって中国に復帰し、49年国民党政権がここに移った。60年代以降、経済発展が著しい。人口2288万(2006)。フォルモサ。
  • [浙江省]
  • 温州 おんしゅう (Wenzhou) 中国浙江省南部の都市。温州湾に注ぐ甌江の下流の港。茶・蜜柑・軽工業製品の集散地。うんしゅう。人口191万6千(2000)。
  • 甌江 おうこう/オウチィアン 華東地区南部、浙江省南東部の川。洞宮山に源を発して北東流し、松陰渓・好渓を合して雨水付近で南東流に転じて温州湾に注ぐ。別称、永嘉江・永寧江・蜃江・温江。長さ376km。流域面積17,958km2(外国コン)
  • インドシナ 印度支那 (Indo-China) アジア大陸の南東部、太平洋とインド洋の間に突出する大半島。インドと中国の中間に位置するからいう。普通ベトナム・ラオス・カンボジア3国(旧仏領)を指し、広義にはタイ・ミャンマーをも含む。
  • [ベトナム][アンナン]
  • 象郡 ぞうぐん 秦、漢の郡名。前214年(始皇33)の南征で、嶺南の地がはじめて漢族の政権の版図に加えられ、南海郡・桂林郡とともに置かれた3郡の一。普通中国の広西西南部からヴェトナムの東北部にかけての地方とされる。秦末南海の趙佗が3郡をとって南越の武王と称し、番禺に都したが、前漢武帝の南征でふたたび漢の領土に復し、前111年(元鼎6)9郡が置かれた。秦の象郡の南部、ハノイの地方に交趾郡、その南方には九真郡、順化(ユエ)地方には日南郡が置かれ、ついで前76年(元鳳5)象郡は廃され、その地は鬱林・※(第4水準2-80-15)柯2郡に分属された。漢の日南郡は秦の象郡の故地と記録にあり、かつ象林県が漢の日南郡の南端をなすことから、秦の象郡の南端をヴェトナムの中部以南におく説、反対に象郡の南端をもっと北の位置に比定し、その中心を今の桂平、賓陽付近とみる説もある。(東洋史)
  • アンナン Annam・安南 中国人・フランス人などがかつてベトナムを呼んだ称。また、ベトナム人がこの地に建てた国家をもいう。唐がこの地に設けた安南都護府に由来。狭義には、北のトンキン、南のコーチシナとともに旧仏領インドシナの一行政区画の称。
  • 交趾 コーチ 交趾・交阯。(1) 現在のベトナム北部トンキン・ハノイ地方の古称。前漢の武帝が南越を滅ぼして交趾郡を設置した。こうし。(2) 12世紀頃までの中国で、ベトナム人居住地域を漠然と呼んだ称。
  • 九真 きゅうしん 漢から唐にかけてベトナムにおかれた中国の郡。今のハノイ以南、フエ以北の地。
  • 日南 にちなん 日南郡。前漢武帝による南越国滅亡後に置かれた郡。現在のヴェトナム・フエ付近とされる。(Wikipedia)
  • 東京 トンキン Tonkin; Tongking ハノイを中心とするベトナム北部の古称。また、ハノイの旧称。
  • レッド・リバー
  • 紅河 こうが ソンコイ川の中国名。
  • ソンコイ Songkoi インドシナ半島北東部の川。中国雲南省に発源し、トンキン湾に注ぐ。トンキン‐デルタを形成。全長約1200km。中国名、紅河。ホン川。
  • [タイ]
  • シャム Siam・暹羅 タイ国の旧称。
  • 暹羅 シャムロ (暹はシャムの音訳。初め暹・羅が合して一国を成したが、後に暹が強大となり、暹羅の2字でシャムを表すに至った)(→)シャムに同じ。
  • 媚公河
  • [ミャンマー]
  • ビルマ Burma・緬甸 東南アジア大陸部西部の国。ミャンマー連邦の旧称。
  • サルウィン川 Salween(Salwin) 中国とミャンマーとを流れる川。チベット自治区と青海省との境のタンクゥラァ山脈に源を発する怒江が東流、南流してミャンマーに入り、サルウィン川となってミャンマー・タイの国境を形成し、のちミャンマーのモウタマ湾に注ぐ。正称、タンルウィン Thanlwin 川。長さ2414km。滝・早瀬などが多く、航行に適さない。流域の大部分は非居住地域でモーラミャインが唯一の都市。乾季には巨大な岩塊と砂礫が河床に露出する降水があると奔流をなす。河口付近の氾濫原は米作地帯。(外国コン)
  • [ラオス]
  •  ラオス Laos (ス(s)はフランス植民地になって以後に付加された文字か) インドシナ半島中央部、メコン川中流域を占める人民民主共和国。1353年にランサン王朝が興起。1893年以来フランスの保護領。1945年独立。主要民族はラオ人で仏教徒。山岳・高原地帯には多くの少数民族が住む。言語はラオ語。面積23万6000平方km。人口583万6千(2004)。首都ヴィエンチャン。ラオ。
  • マレー
  • マレー諸島 マレー しょとう 東南アジア、アジア大陸とオーストラリア大陸との間の海域にある諸島群。大・小スンダ列島、フィリピン諸島、ボルネオ島、スラウェシ(セレベス)島、モルッカ諸島などを含む。広くはニューギニアを含む場合もある。マライ諸島。
  • チベット Tibet・西蔵 中国四川省の西、インドの北、パミール高原の東に位置する高原地帯。7世紀には吐蕃が建国、18世紀以来、中国の宗主権下にあったが、20世紀に入りイギリスの実力による支配を受け、その保護下のダライ=ラマ自治国の観を呈した。第二次大戦後中華人民共和国が掌握、1965年チベット自治区となる。住民の約90%はチベット族で、チベット語を用い、チベット仏教を信仰する。平均標高約4000mで、東部・南部の谷間では麦などの栽培、羊・ヤクなどの牧畜が行われる。面積約123万平方km。人口263万(2005)。区都ラサ(拉薩)。
  • ターリヤン山
  • ネパール Nepal インドの北に接する王国。ヒマラヤ山脈の中央部南斜面にあり、エヴェレストなど高峰がそびえる。インド系・チベット系・ビルマ系などの多民族国家。ヒンドゥー教・仏教を信奉。18世紀後半よりグルカ王朝が続き、1990年より立憲君主制。面積14万7000平方km。人口2191万(1995)。首都カトマンズ。
  • ブータン Bhutan インド亜大陸北東部、ヒマラヤ山脈中の王国。住民は主としてチベット系およびネパール系、過半数がチベット仏教を信仰。1907年王制、10年以後イギリスの保護国。49年外交権をインドが受け継ぐ。面積4万7000平方km。人口71万6千(2002)。首都ティンプー。
  • コロマン
  • カイジュ
  • [奈良]
  • 正倉院 しょうそういん 奈良東大寺大仏殿の北西にある木造大倉庫。宝庫や経巻を収納した聖語蔵などがある。宝庫は、校倉を二つ南北に並べ、中間を板倉でつなぎ、寄棟造瓦葺きの大屋根をかける。南北32.7m、東西9m、高さ14m、床下2.5mで、内部は北・中・南の3倉に分かれる。聖武天皇の遺愛品、東大寺の寺宝・文書など7〜8世紀の東洋文化の粋9000点余を納める。古くは庁院西双倉・三倉とも称した。
  • [スコットランド]
  • [フランス]


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)。『コンサイス外国地名事典』第三版(三省堂、1998.4)。




*年表

  • 周の春秋・戦国の時代
  • 周の成王 せいおう 周の第2代の王。武王の子。名は誦。幼時、叔父周公旦が摂政、7年後親政。洛陽に東都成周を営む。
  • 周 しゅう (1) 中国の古代王朝の一つ。姓は姫。殷に服属していたが、西伯(文王)の子発(武王)がこれを滅ぼして建てた。幽王の子の携王までは鎬京に都したが、前770年平王が成周(今の洛陽付近)に即位し、いったん周は東西に分裂。西の周はまもなく滅亡。以上を東遷といい、東遷以前を西周、それ以後を東周(春秋戦国時代にあたる)という。(前1023〜前255)
  • 魯 ろ (1) 中国古代、西周・春秋時代の列国の一つ。周公旦の長子伯禽が封ぜられる。のち分家の三桓氏が実権を握り、頃公のとき楚に滅ぼされた。孔子の生国。( 〜前257)(2) 山東省の別称。
  • 衛 えい 春秋時代、列国の一つ。周の武王の弟康叔を祖とする。今の河北省西南部から河南省北部にわたる地。初め朝歌(河南省)に都し、後しばしば遷都。君角の時、秦の始皇帝に滅ぼされた。( 〜前221)
  • 晋 しん (1) 中国古代、春秋時代の十二諸侯の一つ。姫姓。周の成王の弟叔虞の後裔という。都は絳(現、山西省侯馬市)。文公に至って楚を破り周を助けて国力大いに振るい、領土は河北の南部、河南の北部に及んだ。前403年、韓・魏・趙(三晋)の独立により名目的な存在となった。
  • 秦 しん 中国古代、春秋戦国時代の大国。始祖非子の時、周の孝王に秦(甘粛)を与えられ、前771年、襄公の時、初めて諸侯に列せられ、秦王政(始皇帝)に至って六国を滅ぼして天下を統一(前221年)。中国史上最初の中央集権国家。3世16年で漢の高祖に滅ぼされた。( 〜前206)
  • 唐 とう 中国の王朝。李唐。唐国公の李淵(高祖)が隋の3世恭帝の禅譲を受けて建てた統一王朝。都は長安。均田制・租庸調・府兵制に基礎を置く律令制度が整備され、政治・文化が一大発展を遂げ、世界的な文明国となった。20世哀帝の時、朱全忠に滅ぼされた。(618〜907)
  • 後漢 ごかん 中国の王朝の一つ。前漢の景帝の6世の孫劉秀が王莽(おうもう)の新朝を滅ぼして漢室を再興、洛陽に都して光武帝と称してから、献帝に至るまで14世。前漢を西漢というのに対して東漢ともいう。(25〜220)
  • 元 げん 中国の王朝の一つ。モンゴル帝国第5代の世祖フビライが建てた国。南宋を滅ぼし、高麗・吐蕃(とばん)を降し、安南・ビルマ・タイなどを服属させ、東アジアの大帝国を建設。都は大都(北京)。11代で明の朱元璋に滅ぼされた。大元。(1271〜1368)
  • 殷 いん 中国の古代王朝の一つ。「商」と自称。前16世紀から前1023年まで続く。史記の殷本紀によれば、湯王が夏(か)を滅ぼして始めた。30代、紂(ちゅう)王に至って周の武王に滅ぼされた。高度の青銅器と文字(甲骨文字)を持つ。
  • 明の嘉靖 かせい 1522-1566 世宗の時代。(東洋史)
  • 明 みん 中国の王朝の一つ。朱元璋(太祖)が他の群雄を倒し、元を北に追い払って建国。成祖の時、国都を南京から北京に遷し、南海諸国を経略、その勢威はアフリカ東岸にまで及んだ。中期以後、宦官の権力増大、北虜南倭(ほくりょなんわ)に悩まされ、農民反乱が続発し、李自成に北京を占領され、17世で滅亡。(1368〜1644)
  • 清 しん 中国の王朝の一つ。女直(じょちょく)族のヌルハチが、1616年帝位(太祖)について国号を後金と称し、瀋陽に都した。その子太宗は36年国号を清と改め、孫の世祖の時に中国に入って北京を都とした。康*・雍正・乾隆3帝の頃全盛。辛亥革命によって12世で滅亡。(1616〜1912)
  • 乾隆の時代 けんりゅう 中国、清の高宗朝の年号。(1736〜1795)


◇参照:『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)、『新編東洋史辞典』(東京創元社、1980)



*人物一覧

(人名、および組織・団体名・神名)
  • 南シナ蛮族
  • シナ人
  • 漢族 かんぞく 中国文化と中国国家を形成してきた主要民族。現在中国全人口の約9割を占める。その祖は人種的には新石器時代にさかのぼるが、共通の民族意識が成立するのは、春秋時代に自らを諸夏・華夏とよぶようになって以降。それらを漢人・漢族と称するのは、漢王朝成立以後。その後も漢化政策により多くの非漢族が漢族に同化した。
  • 三苗 さんびょう 中国古代の異民族で、三つの苗族。湖南・湖北地方を根拠地とし、漢族の統治に対し、しばしば反乱を起こした。後世の苗(ミャオ)族の祖ともいわれるが、はっきりしない。
  • 有苗 ゆうびょう 古代、中国中南部にいた民族の名。「三苗」ともいう。△「有」は助辞。
  • 苗 びょう (呉音はミョウ)ミャオ(苗)族のこと。
  • 紅苗 Hong Miao
  • 青苗 Tsing Miao
  • 白苗 Peh Miao
  • 黒苗 Heh Miao
  • 花苗 Hwa Miao 以上、田畑久夫『民族学者 鳥居龍蔵』(古今書院、1997.5)p.234より。
  • 司馬遷 しば せん 前145頃-前86頃 前漢の歴史家。字は子長。陝西夏陽の人。武帝の時、父談の職を継いで太史令となり、自ら太史公と称した。李陵が匈奴に降ったのを弁護して宮刑に処せられたため発憤したと伝え、父の志をついで「史記」130巻を完成した。
  • 呉の太伯 たいはく 周の王族。/泰伯。周代、呉の始祖とされる伝説的な人物。周の太王古公亶父(ココウタンポ)の長子。太王が弟の季歴に望みをかけているのを察して他の弟と荊蛮(呉の地方)へ逃げ、呉国をたてたといわれる。呉太伯とも。(漢和)
  • 仲雍 ちゅうよう? 太伯の弟。
  • 荊蛮 けいばん 春秋時代の楚の住民。今の湖北・湖南地方を住地とした。
  • 勾践 こうせん ?-前465 勾践・句践。春秋時代の越の王。父王の頃から呉と争い、父の没後、呉王闔閭を敗死させたが、前494年闔閭の子夫差に囚われ、ようやく赦されて帰り、のち范蠡と謀って前477年遂に呉を討滅。
  • 夏后 かこう 夏(か)王朝のこと。(漢和)
  • 中華 ちゅうか 中国で、漢族が、周囲の文化的におくれた各民族(東夷・西戎・南蛮・北狄と呼ぶ)に対して、自らを世界の中央に位置する文化国家であるという意識をもって呼んだ自称。中夏。
  • モンゴル族 Mongol 中国の北辺にあって、シベリアの南、新疆の東に位置する高原地帯。また、その地に住む民族。13世紀にジンギス汗が出て大帝国を建設し、その孫フビライは中国を平定して国号を元と称し、日本にも出兵した(元寇)。1368年、明に滅ぼされ、その後は中国の勢力下に入る。ゴビ砂漠以北のいわゆる外モンゴルには清末にロシアが進出し、1924年独立してモンゴル人民共和国が成立、92年モンゴル国と改称。内モンゴルは中華人民共和国成立により内モンゴル自治区となり、西モンゴルは甘粛・新疆の一部をなす。蒙古。
  • トルコ族 ヨーロッパの一部、シベリア、中央アジアに居住する民族。古く北蒙古にあったものは丁零、高車と呼ばれた。6世紀にはアルタイ山脈西南に突厥がおこり、その東部をウイグルが受け継いだ。西部では11世紀にセルジュク・トルコが帝国を建て、イラン、小アジア、シリアを支配。その滅亡後オスマン・トルコがこれに代わり、さらにケマル=アタチュクルの革命後トルコ共和国となった。
  • ツングース民族 Tungus・通古斯 シベリアのエニセイ川からレナ川・アムール川流域やサハリン島、中国東北部にかけて広く分布するツングース諸語を話す民族の総称。漢代以降の鮮卑、唐代の靺鞨・契丹、宋代の女真、満州族などを含む。狭義にはそのうち北部のエヴェンキ人を指し、生業は狩猟・漁労・採集、トナカイ・馬・牛の飼育等を主とする。
  • 韓退之 かん たいし 韓愈の別名。
  • 韓愈 かん ゆ 768-824 唐の文章家・詩人。唐宋八家の一人。字は退之。号は昌黎。諡は文公。河南南陽の人。儒教を尊び、特に孟子の功を賞賛。柳宗元とともに古文の復興を唱え、韓柳と並称される。詩は白居易の平易な作風に反発し、晦渋・険峻な作を多く残した。憲宗のとき「論仏骨表」を奉って帝の仏教信仰を批判したため、潮州に左遷された。「昌黎先生集」がある。
  • 始皇帝 しこうてい 前259-前210 秦の第1世皇帝。名は政。荘襄王の子。一説に実父は呂不韋。第31代秦王。列国を滅ぼして、前221年中国史上最初の統一国家を築き、自ら皇帝と称した。法治主義をとり諸制を一新、郡県制度を施行、匈奴を討って黄河以北に逐い、万里の長城を増築し、焚書坑儒を行い、阿房宮や驪山の陵を築造。(在位前247〜前221・前221〜前210)
  • 馬援 ば えん BC14-49 後漢の名将。茂陵(陝西)の人。字は文淵。12歳で孤児となり、北地に逃れ、王莽のとき官につき、ついで隗囂(ごう)に、さらに光武帝に仕えた。33年(建武9)羌討伐に従い、35年隴右を平定。ついで交趾の徴側が反すると、41年には伏波将軍を拝し、これを討伐。徴側を斬り、43年には鎮定、功によって新息侯に封じられ、さらに匈奴や烏桓を討ち、また48年には武陵五渓蛮の討伐に従ったが翌年63歳で軍中に没す。(東洋史)
  • 苗族 ミャオぞく (Miao)中国南部からタイ北部・ミャンマー・ラオス・ベトナムの山地に住む民族の中国における名称。焼畑耕作による陸稲・トウモロコシ・イモ類・雑穀の栽培を主とする。言語はシナ‐チベット語族のミャオ‐ヤオ語派に属する。モンと自称。メオ族。
  • 五渓蛮 ごけいばん? 瑤(ヤオ)族(※(第4水準2-1-78))は、武陵蛮、五渓蛮と称された古代湖南の山地住民の子孫とする説が有力。(文化、p.785c)
  • マルコ・ポーロ Marco Polo 1254-1324 イタリアの商人・旅行家。ヴェネツィアの人。1270年末、再度元へ行く宝石商の父・叔父に伴われて出発、74年フビライに謁して任官、中国各地を見聞、海路インド洋・黒海を経て95年帰国。ジェノヴァとの海戦に敗れて捕らえられ、その獄中で「東方見聞録」を口述し、ヨーロッパ人の東洋観に大きな影響を与えた。
  • 周の武王 ぶおう 周王朝の祖。姓は姫。名は発。文王の長子。弟周公旦を補佐とし、太公望を師とし、殷の紂王を討ち天下を統一、鎬京を都とした。在位10年余。
  • 諸葛孔明 しょかつ こうめい → 諸葛亮
  • 諸葛亮 しょかつ りょう 181-234 三国時代、蜀漢の丞相。字は孔明。山東琅邪の人。劉備の三顧の知遇に感激、臣事して蜀漢を確立した。劉備没後、その子劉禅をよく補佐し、有名な出師表を奉った。五丈原で、魏軍と対陣中に病死。
  • 李白 り はく 701-762 盛唐の詩人。四川の人、また砕葉(キルギス共和国のトクマク付近)の生れともいう。母が太白星(金星)を夢みて生んだので太白を字としたと伝える。号は青蓮(居士)。謫仙人とも称された。酒を好み奇行多く、玄宗の宮廷詩人に招かれたが、高力士らに嫌われて追放される。晩年、王子の反乱に座して流罪となったが途中で恩赦。最後は酔って水中の月を捕らえようとして溺死したという。その詩は天馬行空と称され、絶句と長編古詩を得意とした。杜甫と共に李杜と併称され、詩仙とも呼ばれる。詩文集「李太白集」30巻がある。
  • 李太白 り たいはく 李白の別名。
  • 康熙帝 こうきてい 1654-1722 清朝第4代の皇帝聖祖の称。諱は玄※(第3水準1-87-62)。世祖(順治帝)の第3子。中国歴代王朝を通じて最長の61年間の治政に文武の功業を挙げ、清帝国の地盤を確立、学術を振興。「康熙字典」「佩文韻府」などは当代の撰。(在位1661〜1722)
  • 乾隆帝 けんりゅうてい 1711-1799 清朝第6代の皇帝高宗の称。諱は弘暦。世宗(雍正帝)の第4子。大いに学術を奨励し、天下の碩学を招いて「大清一統志」「明史」「四庫全書」を編纂させ、また、天山南北路・四川・安南・ビルマなどを討ち、十大武功ありとして自ら「十全老人」と称。(在位1735〜1795)
  • アボリジンズ、アボリジニズ Aborigines (1) [差別的](オーストラリアの)原住民。アボリジニ。(2) 原住民。土着民。(英和、『カレッジ ライトハウス英和辞典』研究社、1995.11)黎 レイ → 黎族
  • 黎族 リーぞく (Li) 中国南部、海南島に居住する民族。言語はシナ‐チベット語族のカム‐タイ諸語に属する。水稲・陸稲栽培と焼畑耕作を行う。/れいぞく 海南島の中部以南の山地に住む民族。雷州半島はその先住地であろう。何種に属する民族か不明であるが、外形・文身の習俗、銅鼓の遺物、言語の構造など、広く中国南部よりインドシナ半島にかけて分布したタイ族または越族に共通したとろがある。おそらく銅器時代に大陸から雷州半島を経てここに移住したものであろう。(東洋史)
  •  ロロ → 彝族
  • 彝族 いぞく 主に中国南西部の雲南・四川・貴州の各省、広西チワン(壮)族自治区などの高地に住む少数民族。言語はチベット‐ビルマ語派に属し、独特の文字を有する。
  • 夜郎 やろう 中国の南西、今の貴州の西境にいた少数民族。漢代の西南夷の一つ。/漢代に、現在の貴州省北西部に国を建てていたと考えられる民族。伝説によれば遯水で一人の女が洗濯をしていると3節の大竹が流されてきた。その節間から嬰児が生まれ、それが始祖になったという。民族系統はよくわからないが、農耕集落を作っていた。漢の武帝が東越を征伐するとき、その隣国南越にも四川方面から圧力を加えようとし、※(第3水準1-87-71)為(けんい)郡を置き、唐蒙を夜郎に派遣した。この時夜郎王が、「漢と夜郎とどちらが大きいか」と尋ね、「夜郎自大」の諺が生まれたという。前111年(元鼎6)漢は夜郎を平定し※(第4水準2-80-15)柯郡を置いたが、その後も前漢の末まで反服常なかった。(東洋史)
  • チベット人 Tibetan 中国の一自治区に住む。面積122万km2、人口135万人。中国の青海省、甘粛省南部、四川省西部、雲南省西北部、ブータン、シッキム、ネパール北部、インド西北部、パキスタン東北部にまで及び、人口も300万人弱と推定される。その居住域の気候はきわめて乾燥している。形質的にはモンゴロイドだと言われるが、短頭型と長頭型の両種があり、短頭型の方がより本来的と考えられる。長頭型には緑眼の人々も多く、内陸アジア西部との接触を思わしめる。こうした様々の形質的特徴を持つ人々がチベット人として結びついているのは、チベット語とチベット仏教、またはボン教の故である。(文化、p.473c)
  • キャン チベット民族
  •  ヨウ 民族の名。広東・広西・湖南・雲南・貴州の諸地方に住む。△今名は瑶(ヨウ)族。
  •  トウ・ズウ・ドウ 広西・広東・雲南に住むタイ系の民族。広西壮(チワン)族自治区を構成する。△中華人民共和国では、はじめこれを「僮」と改めたが差別語の感じが残るので、現在では「壮」と書く。(漢和)
  •  きょう 「」は「羌」の異体字。
  • 羌 きょう (1) 殷代、異民族の総称。(2) チベット系の遊牧民族。中国の西北辺、今の甘粛・青海・西蔵方面に拠り、漢代には西羌と呼ばれ、匈奴と連合して西境を侵す。五胡時代に後秦を建国。唐代には党項(タングート)の名であらわれ、11世紀には西夏を建てた。/チベット系遊牧民。青海を中心に中国西北辺に活躍した。漢代には政治的に統合されて西羌とよばれ、五胡十六国時代にははじめて羌族国家が出現し、羌出身の姚(よう)氏は後秦国をたてた。南北朝には宕昌羌・※(第3水準1-92-80)至(とうし)羌が甘粛南部に拠り、隋・唐代には一族のタングート(党項)がかわって強力な存在となった。のち一部は北東に移住して西夏をたてた。現在、タングート(唐古特)または蔵人・番子とよばれる。(東洋史)
  • ラクーペリー → ラクペリ
  • ラクペリ Lacouperi, Albert Etienne Jean Baptiste Terrien de 1845-1894 イギリス(フランス生まれ)の東洋学者。初め実業界に入り、のちロンドンに赴いて大英博物館所蔵の中国貨幣の目録作製を依嘱され、ついでロンドン大学の中国語教授となる。月刊誌〈Babylonian and Oriental Record〉の編集者。その著《中国古文明西方起源論,1892》で、中国の上代文明がバビロニア方面に起源することを論じ、学界に大きな問題を起した。(岩波西洋人名)
  • タイシャン族
  • インドシナ民族 インドシナの民族分布は複雑であり、かつその種類も多いが、現在もっとも優勢なのは、ビルマ・タイ・ラオス・カンボディア・ヴェトナムの国々をたてたビルマ族・タイ族・ヴェトナム族などである。カンボディアをたてたクメール族は、過去において政治的に大発展をとげ、またすぐれた文化を創造したが、今日ではあまりふるわない。ふつう、インドシナのなかにはマライ半島は含まれない。(東洋史)
  • インドシナ人 印度支那人。ベトナム、カンボジア、ラオスを含む領域の住民。民族構成は複雑で、人口の最大多数を占めているベトナム人(アンナン人)、カンボジ平原を中心に居住するクメール人、カンボジア方面の山地のチャム人、ラオ人、その他ミャオ、ヤオ、ロロなどの少数民族がいる。
  • マレー人 マレーじん (Malay) マレー半島・インドネシア・フィリピンに広く分布し、オーストロネシア語族のマレー語を話す人々の総称。その多くはインド・中国・イスラム文化の影響を受け、人種的にも混交。水稲耕作・水牛飼育・漁労などを主な生業とし、交易にも活躍。
  • ビルマ語系
  • ビルマ語 ビルマご (Burmese) ミャンマー連邦などで用いられる言語。シナ‐チベット語族中のチベット‐ビルマ語派に属する。基本的に単音節語から成り、孤立語的特徴をもつ。
  • ビルマ系
  • モンゴロイド Mongoloid 類モンゴル人種群。三大人種区分の一つ。黄色ないし黄褐色の皮膚と、黒ないし黒褐色の直毛状の頭髪とを主な特徴として分類され、眼瞼の皮下脂肪の厚いこと、蒙古襞、乳児に蒙古斑の頻度がきわめて高いことなども特徴。日本人・朝鮮人・中国人を含むアジア‐モンゴロイドのほか、インドネシア‐マレー人・ポリネシア人・アメリカ先住民が含まれる。
  • 黄帝 こうてい 中国古代伝説上の帝王。三皇五帝の一人。姓は姫、号は軒轅氏。炎帝の子孫を破り、蚩尤を倒して天下を統一、養蚕・舟車・文字・音律・医学・算数などを制定したという。陝西省の黄帝陵に祭られ、漢民族の始祖として尊ばれる。
  • 桃と柳の氏
  • ビヤール氏 → ビールか
  • ビール Beal, Samuel 1825-1889 イギリスの宣教師、仏教学者。海軍布教師となり(1852)、中国に赴いて中国語を習得、アロー号事件の際は海軍通訳官として活躍した(56-58)。中国仏教の研究に従い、漢訳仏典を読破し、この方面における開拓者として名声を博した。のちロンドン大学中国語教授となる(77)。(岩波西洋人名)
  • ベーバー氏
  • 火照命 ほでりのみこと 瓊瓊杵尊の子。母は木花之開耶姫。弟の山幸彦(彦火火出見尊)と幸をかえ、屈服して俳人として宮門を守護。隼人の始祖と称される。火闌降命。海幸彦。
  • 火遠理命 ほおりのみこと (書紀の古訓ではホノヲリノミコト)(→)彦火火出見尊の別名。
  • 禹 う 中国古代伝説上の聖王。夏の始祖。鯀の子で、舜の時、治水に功をおさめ、天下を九州に分けて、貢賦を定めた。舜の禅譲を受けて位につき、安邑(山西省)に都し、国を夏と号し、禹の死後、世襲王朝となったという。大禹。夏禹。夏伯。
  • ノア Noah 旧約聖書創世記6章以下の洪水伝説中の主人公。人類の堕落がもとで起きた大洪水に、方舟に乗って難を免れるよう神に命ぜられ、新しい契約を授かって、アダムにつぐ人類の第2の祖先になったという。
  • 藤井貞幹 → 藤貞幹か
  • 藤貞幹 とう ていかん 1732-1797 江戸後期の考証学者。京都の人。無仏斎・亀石堂・好古と号。古文書・金石文を研究、日本書紀の紀年の捏造を指摘。著「衝口発」「好古日録」など。
  • ヒルト Friedrich Hirth 1845-1927 ドイツの中国学者。1870〜97年税関員として清に滞在。東西文化交渉・中国美術を中心に広範な研究を発表。著「中国古代史」「中国美術に及ぼせる外国の影響」など。/著『古代シナ史』。(本文)


◇参照:『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)『新編東洋史辞典』(東京創元社、1980)『縮刷版 文化人類学事典』(弘文堂、1994.3)、『学研新漢和大字典』(2005.5)、『岩波西洋人名辞典増補版』。



*書籍

(書名、雑誌名、論文名、映画・能・狂言・謡曲などの作品名)
  • 『書経』 しょきょう 五経の一つ。尭舜から秦の穆公に至る政治史・教戒を記した中国最古の経典。20巻、58編(33編は今文尚書、25編は古文尚書にのみあるもの)。孔子の編と称する。成立年代は一定せず、殊に古文は魏・晋代の偽作とされている。初め書、漢代には尚書、宋代に書経といった。
  • 『史記』 しき 二十四史の一つ。黄帝から前漢の武帝までのことを記した紀伝体の史書。本紀12巻、世家30巻、列伝70巻、表10巻、書8巻、合計130巻。前漢の司馬遷の撰。紀元前91年頃に完成。ただし「三皇本紀」1巻は唐の司馬貞により付加。注釈書に、南朝宋の裴※(第4水準2-92-87)の「史記集解」、司馬貞の「史記索隠」、唐の張守節の「史記正義」、明の凌稚隆の「史記評林」などがある。太史公書。
  • 『漢書』 かんじょ 二十四史の一つ。前漢の歴史を記した紀伝体の書。後漢の班固の撰。本紀12巻、表8巻、志10巻、列伝70巻。計100巻(現行120巻)。82年頃成立。妹班昭が兄の死後、表および天文志を補う。紀伝体の断代史という形式は後世史家の範となる。前漢書。西漢書。
  • 『東方見聞録』 とうほう けんぶんろく (Il Milione イタリア)マルコ=ポーロの作とされる旅行記。1271〜95年中央アジア・中国の紀行で、ジパング(日本)に関する記述もあり、ヨーロッパ人の東洋への関心を高めた。
  • 『後漢書』 ごかんじょ 二十四史の一つ。後漢の事跡を記した史書。本紀10巻、列伝80巻は南朝の宋の范曄(398〜445)の撰。432年頃成立。志30巻は晋の司馬彪の「続漢書」の志をそのまま採用した。その「東夷伝」には倭に関する記事がある。
  • 『後漢書』「西南夷列伝」
  • 『皇清職貢図』
  • 『唐詩選』 とうしせん 唐代詩人128人の詩選集。7巻。選者は明の李攀竜というが疑う説もある。五言古詩・七言古詩・五言律・五言排律・七言律・五言絶句・七言絶句、総計465首を収録。初唐・盛唐に傾き、中唐・晩唐の詩をほとんど収めない。日本には江戸初期に渡来し、漢詩の入門書として盛行。
  • 『漢族以前の非漢族』 ラクーペリーの著。
  • 『山海経』 せんがいきょう 中国古代の神話と地理の書。山や海の動植物や金石草木、また怪談を記す。18巻。禹の治水を助けた伯益の著というが、戦国時代〜秦・漢代の作。さんかいけい。
  • 『後漢書』南蛮伝
  • 『竹取物語』 たけとりものがたり 平安初期にできた最古の作り物語。1巻。作者未詳。竹取翁が竹の中から得て育てた美女かぐや姫が、5人の貴公子の熱心な求婚を難題を出して退け、時の帝の召にも応ぜず、遂に八月十五夜、月の世界に帰る。竹取翁の物語。かぐや姫の物語。
  • 「桃太郎」 ももたろう 昔話の一つ。桃の中から生まれた桃太郎が、犬・猿・雉を連れて鬼ヶ島の鬼を退治するという話。室町時代の成立で、時代色を濃く反映し、忠孝勇武の徳を謳歌する。
  • 槃瓠
  • 盤[瓠] 戦功をたてた霊犬。※(第4水準2-81-30)(ショオ)族には、盤[瓠]と漢族の王女との間に3男1女が生まれ、※(第4水準2-81-30)族の4姓(盤・藍・雷・鍾)の祖となったという、ヤオ族と同様の犬祖神話があり、この神話をテーマとした「祖図」「高皇歌」「麟豹王歌」「狗皇歌」などを伝える。(文化、p.367c)/槃瓠 ばんこ 瑶(ヤオ)族には、討敵に功を立てた槃瓠という犬と漢族の皇帝の娘との間に六男六女が生まれ、ヤオ族の十二姓の祖となったとする槃瓠神話(犬祖神話)を伝える。(文化、p.785c)
  • 』 ビアールの著。
  • 『大越史記』 だいえつしき → 参照、『大越史記全書』
  • 『大越史記全書』 だいえつしき ぜんしょ 24巻。ヴェトナム呉士連等撰。ヴェトナムでは陳の太宗のとき、黎文休が帝の命をうけて趙武帝(趙佗)より李昭皇までの歴史を書いた『大越史記』をあらわし、ついで黎朝仁宗時代には潘孚先が同じく帝の命をうけて、前書につづき陳の太宗より明の支配の終わりまでを扱った同名の『大越史記』をあらわした。この両書は現在伝わっていない。つぎの聖宗は以上の書が不十分であるとして、呉士連に改訂を命じ、彼は諸種の史料を集め、黎・潘の書を一新して『大越史記全書』(15巻)をあらわし、1479年(洪徳10)帝に献上した。この書は中国の『資治通鑑』にならい編年体で、外紀全書・本紀全書の2部に分かれ、前者は神話時代の鴻厖氏より十二使君まで、後者は丁の先皇より明の支配の終わりまでを記した。その後范公著がこれに神宗までの黎朝の歴史を書いた本紀実録・本紀続編を加えて計23巻となし、1665年(景治3)玄宗に献上した。ところが黎僖はのちさらに玄宗・嘉宗の歴史を書き、以上に追加し、97年(正和18)現在の形の『大越史記全書』24巻が完成した。この中のはじめの外紀全書・本紀全書の部分は呉士連のものをほとんどそのままうけついでいるものと見られる。本書はヴェトナムの歴史書中最重要のものである。わが国では引田利章の覆刻本(1884)が一般に用いられている。(東洋史)
  • 「倭人伝」 わじんでん 魏志倭人伝のこと。
  • 『魏志倭人伝』 ぎし わじんでん 中国の魏の史書「魏志」の東夷伝倭人の条に収められている、日本古代史に関する最古の史料。
  • 『古代シナ史』 ヒルトの著。


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)、『縮刷版 文化人類学事典』(弘文堂、1994.3)、『新編東洋史辞典』(東京創元社、1980)。



*難字、求めよ

  • 人種学 じんしゅがく (Rassenkunde ドイツ) 人類学の一部門。人種の分類・起原などを研究する。
  • 一衣帯水 いちいたいすい [陳書後主紀]一筋の帯のような狭い川・海。その狭い川や海峡をへだてて近接していることをいう。
  • 斯学 しがく この学問。
  • 蛮族 ばんぞく 蛮族・蕃族。野蛮な民族。未開の民族。
  • プロビンス province (1) 行政区画の1。国により、州、省、県など。(2) 地方。田舎。(3) 学問の範囲。分野。(カタカナコン)
  • 土俗学 どぞくがく 民俗学と民族学が分化する以前の称。
  • 蛮・蕃 ばん 四夷の一つ。南方のえびす。一般に、文化未開の民族。
  • 南蛮 なんばん (南方の野蛮人の意) (1) 古く中国で、インドシナをはじめとする南海の諸国の称。←→北狄。
  • 束帯 そくたい [論語公冶長「赤や、束帯にして朝に立つ」](1) 礼服を着、大帯をつけること。(2) 平安時代以降の朝服の名。天皇以下文武百官が朝廷の公事に着用する正服。衣冠・直衣を宿直装束というのに対して、昼の装束という。冠・袍(縫腋・闕腋)・半臂・忘緒・下襲・衵(または引倍木)・単・表袴・大口・石帯・魚袋・襪・靴(または浅沓・深沓・半靴)・笏・帖紙・桧扇などを具備し、武官および勅許を得た文官は別に平緒によって太刀を佩く。物具。
  • 猴 コウ/さる 獣の名。さる。
  • 封ずる ほうずる (1) 土を高く盛る。また、土を盛って境とする。(2) 領地を与えてその支配者にとり立てる。(3) 封をする。とじる。ふうじる。
  • ノンチャイニーズ
  • 荊蛮 けいばん 春秋時代の楚の住民。今の湖北・湖南地方を住地とした。
  • 文身 ぶんしん (「文」は模様の意) 身体に彫りものをすること。また、その彫りもの。いれずみ
  • 断髪 だんぱつ (1) 毛髪を短く切ること。
  • 植物伝説
  • 中華 ちゅうか 中国で、漢族が、周囲の文化的におくれた各民族(東夷・西戎・南蛮・北狄と呼ぶ)に対して、自らを世界の中央に位置する文化国家であるという意識をもって呼んだ自称。中夏。
  • 小康 しょうこう (1) 理想の世とはいえないが、身分や秩序が保たれて世の中がしばらく穏やかにおさまっていること。△「康」はがっちりとおさまっているさま。((2) (国)病気で、危ない状態が去って少しよくなること。)(漢和)
  • 庶人 しょじん (1) もろもろの人。庶民。人民。(2) 身分の低い民。平民。/(1) 官位のない、一般の人びと。庶民。(2) 多くの人々。(漢和)
  • 五覇 ごは 春秋時代の5人の覇者。(1) [孟子告子下]斉の桓公、晋の文公、秦の穆公、宋の襄公、楚の荘王の総称。(2) [荀子王覇]斉の桓公、晋の文公、楚の荘王、呉王闔閭、越王勾践の総称。
  • 夷狄 いてき 野蛮な異民族。えびす。えみし。
  • 沖積 ちゅうせき 流水のために土砂などが積み重なること。
  • 銅鼓 どうこ 古くより雲南・広西など中国南部や東南アジアで用いられる太鼓の型の青銅製のゴング。壺形で、上面を棒で打って鳴らす。諸葛孔明が軍中に用いたと伝え、諸葛鼓ともいう。考古学的遺物も多い。ミャンマーやベトナムなどでは現在も使用。
  • アワ 粟 イネ科の一年生作物。五穀の一つ。原産地は東アジア。日本では畑地で重要な食用作物だったが、今ではほとんど栽培しない。果実は小粒で黄色。米と混ぜて飯とし、飴・酒の原料、また小鳥の飼料。「もちあわ」は餅とする。
  • 米 こめ 稲の果実。籾殻を取り去ったままのものを玄米、精白したものを白米または精米という。五穀の一つとされ、小麦とともに世界で最も重要な食糧穀物。粳は炊いて飯とし、糯は蒸して餅とする。また、菓子・酒・味噌・醤油などの原料。
  • 陸稲 りくとう (→)「おかぼ」に同じ。
  • 陸稲 おかぼ 畑地に栽培する稲。生育中、水稲ほど多量の水を要しないが、水稲より収量が少なく品質も劣る。りくとう。かが稲。
  • 軋轢 あつれき (車輪のきしる意から) 人の仲が悪くなること。不和。
  • 蜿蜒 えんえん 蛇などのうねうねと曲がり行くさま。そのように長くつづくさま。蜒蜒。蜿蜿。
  • 感化 かんか 人に影響を与えて心を変えさせること。
  • 鰐魚 がくぎょ わに。
  • 武陵桃源 ぶりょう とうげん [陶淵明、桃花源記]世間とかけはなれた別天地。理想郷。桃源郷。
  • 糧食 りょうしょく 食糧。糧米。かて。特に、貯蔵したり携行したりするもの。
  • 桟道 さんどう きりたった崖などに棚のように設けた道。絶壁から絶壁にかけ渡した橋の道。かけはし。かけじ。
  • 配流地
  • 扶殖 ふしょく 扶植。(1) うえつけること。(2) たすけたてること。扶持すること。
  • マタタビ 木天蓼。マタタビ科の蔓性落葉低木。山地に自生し、葉は円形、夏には葉面の半分が白変する。初夏、白色5弁の花を開き、液果を黄熟する。熱湯に浸して乾燥した果実は中風・リウマチ、また強壮に効があり、名の由来は食べるとまた旅ができるからとする俗説もある。若芽も食用。猫類が好む。ナツウメ。
  • エスノグラフィー ethnography 民族誌。
  • 民族誌 みんぞくし (ethnography) 特定の民族や集団の文化・社会に関する、フィールド‐ワークに基づいた具体的な記述。
  • 出会 しゅっかい であうこと。でくわすこと。邂逅。
  • 特種部落 → 特殊部落
  • 特殊部落 とくしゅ ぶらく 明治期に行政用語として生まれた被差別部落の差別的呼称。
  • 部落 ぶらく (1) 比較的少数の家を構成要素とする地縁団体。共同体としてまとまりをもった民家の一群。村の一部。(2) 身分的・社会的に強い差別待遇を受けてきた人々が集団的に住む地域。江戸時代に形成され、その住民は1871年(明治4)法制上は身分を解放されたが、社会的差別は現在なお完全には根絶されていない。未解放部落。被差別部落。
  • モノシラビック
  • シラビック -syllabic (特定の種類[数]の)音節を有する」の意。(英和)
  • 単綴音
  • 単音節語?
  • オーソリティー authority 権威。その道の大家。
  • フィジカル physical (3) 肉体的。身体的。
  • 推髻 → 椎髻か
  • 椎髻 ついけい 椎結。髪を後ろにたれ、たばねたまげ。
  • もとどり 髻 (「本取」の意) 髪を頭の頂に束ねた所。また、その髪。たぶさ。
  • 裙 くん (1) もすそ。
  • 裳裾 もすそ 裳のすそ。衣のすそ。裙(くん)。
  • 短靴 たんぐつ 足のくるぶしから下しか入らない、浅い靴。←→長靴
  • 人蔘 ニンジン 人参。(1) セリ科の一年生または二年生根菜。葉は羽状に細裂、初夏、茎頂に大きな白色の散形花序をつける。原産地は西アジア。日本には16世紀頃に中国から渡来。根は長円錐形または紡錘形で赤色だが、白色・黄色・褐色のものもあり、カロテンに富む。栽培品種には東洋系とヨーロッパ系とがある。根と若葉とは食用。セリニンジン。ハタニンジン。漢名、胡蘿蔔(2) チョウセンニンジンのこと。
  • 玉蜀黍 とうもろこし (「唐もろこし」の意) イネ科の一年生作物。中南米の原産とされる。世界各地に栽培され、小麦・稲に次ぎ食用作物で3位。日本には16世紀に渡来。茎は1〜3mで、直立。葉は互生し幅5〜10cm、長さ約1m。雄花穂は茎頂に、雌花穂は葉腋に付く。粒は澱粉に富み、食用、工業原料。茎葉は青刈り飼料・サイレージとし、飼料作物として最も重要。変種にデント・フリント・ポップ・スイート・ハニーバンタムなどがある。トウキビ。ナンバンキビ。トウマメ。コウライ。ツトキビ。マキビ。アメリカ名、コーン。英語名、インディアン‐コーン。
  • 高殿 たかどの 高く造った殿舎。高楼。
  • 千木・知木・鎮木 ちぎ 社殿の屋上、破風の先端が延びて交叉した2本の木。後世、破風と千木とは切り離されて、ただ棟上に取り付けた一種の装飾(置千木)となる。氷木。
  • 校倉 あぜくら 部材を横に組んで壁を作った倉。部材の断面は三角・四角・円など。甲倉。叉倉。あぜり。
  • 校倉造 あぜくらづくり 校倉風の建築様式。古代に多い。正倉院のほか、東大寺・唐招提寺・東寺などに遺構が存する。
  • 蝋纈 ろうけつ/ろうけち 臈纈・蝋纈。文様染の一つ。木版に蜜蝋をつけて文様を写し、染液に浸して防染した後、熱で蝋を除いたもの。古くインドに起こり、中国を経て日本にも伝えられ、飛鳥・奈良時代に盛行。現在は筆などに蝋をつけて文様を描き、帯・ネクタイ・のれん・カーテンなどに応用。臈摺。ろうぞめ。ろうけつ。
  • 巻脚半 まき きゃはん 巻脚絆。脚絆の一種で、小幅の長い布を足に巻きしめて用いるもの。巻きゲートル。
  • 麻織物 あさおりもの 苧麻・大麻・亜麻などの繊維で織った織物。夏の衣服用。
  • 笙 しょう 雅楽の管楽器。奈良時代に中国から伝来。木製椀型の頭の周縁に、長短17本の竹管を環状に立て、うち2本は無音、他の15本それぞれの管の外側または内側に指孔、管の脚端に金属製の簧がある。頭にある吹口から吹き、または吸って鳴らす。単音で奏する一本吹の法(催馬楽や朗詠の伴奏などに用いる)と、6音または5音ずつ同時に鳴らす合竹の法(唐楽の楽曲に用いる)とがある。笙の笛。鳳笙。そうのふえ。そう。
  • 桃氏
  • 柳氏
  • 瓠氏 こ?
  • インドシナ語
  • 中頭 ちゅうとう 長頭と短頭との中間に相当する頭形。
  • ターバン turban (1) 長い布でできた被り物。インド人やイスラム教徒などの男性が用いる。(2) (1) に似た婦人帽。
  • 草鞋 わらじ (ワラグツの転ワランジの約) 藁で足形に編み、爪先にある2本の藁緒を左右の縁にある乳に通し、足に結びつける履物。わらんじ。わらんず。
  • 草履 ぞうり 藁・竹皮・藺などを編んでつくり、緒をすげた履物。材料・製法・用途などにより種類も多い。じょうり。
  • 跣足 せんそく はだし。すあし。
  • ペーザント・アート peasant art ペザント・アート。農民芸術。田舎風芸術。(カタカナコン)
  • 蜀江の錦 しょっこうのにしき (1) 中国の蜀(現在の四川省)から産出した錦。蜀は漢代から蜀錦の名で知られた錦の特産地で、その伝統は近世まで続き著名であった。蜀紅の錦。(2) 明代の蜀錦の一つ。八稜形を基本としてその4稜から柱を出し、その1辺から八稜形をそれぞれ形成しながら連続文様としたものを指す。このような形式の文様や趣の似ている文様を通常蜀江文あるいは蜀江文様と呼ぶ。
  • 文・綾 あや (1) (1) 物の面に表れたさまざまの線や形の模様。特に、斜めに交差した模様。(2) 入り組んだ仕組。ものの筋道や区別。(3) 文章などの表現上の技巧。いいまわし。ふしまわし。(2) (1) 経糸に緯糸を斜めにかけて模様を織り出した絹。(2) 斜線模様の織物。あやじ。(3) 曲芸の綾織の略。
  • 綾織 あやおり (1) 経糸と緯糸が交差する点が斜めになる織り方。また、その技法で織った織物。綾織物。また、綾を織る人。(2) (→)斜文織に同じ。
  • 斜文織 しゃもんおり 織物組織の基本形の一つ。経糸・緯糸の交差する部分が斜めの方向に連続して斜線状を表すもの。あやおり。
  • 刀 ロロとう?
  • 小刀子
  • 刀子 とうす 古代の小型の刀。携帯して食事・皮はぎなどのほか、木簡を削るのに用いた。中央アジア・中国で発達、青銅・鉄製などがある。日本にも入り、紐小刀のほか、正倉院には装飾の華麗なものや数本の刀子を一つの鞘に収めたものが残る。
  • シナ町
  • 慓悍 ひょうかん 剽悍。すばやくて強いこと。荒々しく強いこと。
  • 洪水伝説 こうずい でんせつ → 洪水説話
  • 洪水説話 こうずい せつわ 大洪水によって人類のほとんどが滅び、生き残った人間から現存の人類が生まれたという神話、伝説。古代オリエント地域から、古代インド、東南アジア、中国、朝鮮、日本、南アメリカまで広く分布し、それぞれ地域的特徴をもつ。
  • 多綴音
  • 象形文字 しょうけい もじ (hieroglyph) 物の形を抽象化し、文字化したもの。エジプト文字・漢字など。形象文字。
  • 創世記 そうせいき (Genesis ラテン) 旧約聖書開巻第一の書。世界創造の物語からヨセフの死に至るまでのヘブライ人の神話と歴史物語を記したもの。
  • 創生 そうせい 新たに作り出すこと。
  • ネストリアン → 参照、ネストリウス派
  • ネストリウス派 -は Nestorianism 5世紀のキリスト論争が生んだ教派の呼称。ネストリウスの説を発展させてキリストにおける神性と人性の独立性を強調したが、ネストリウス自身が創始した分派ではない。カルケドン派からは異端とされたが、ペルシアを中心にインドや中国まで拡大した。
  • 編年史 へんねんし 編年体の歴史。
  • 艶麗 えんれい あでやかで美しいこと。また、そのさま。
  • 海の幸・山の幸 → 海幸山幸
  • 海幸山幸 うみさち やまさち 日本神話の一つ。彦火火出見尊(山幸彦)が兄の火照命(海幸彦)と猟具をとりかえて魚を釣りに出たが、釣針を失い、探し求めるため塩椎神の教えにより海宮に赴き、海神の女と結婚、釣針と潮盈珠・潮乾珠を得て兄を降伏させたという話。天孫民族と隼人族との闘争の神話化とも見られる。また仙郷滞留説話・神婚説話・浦島伝説の先駆をなすもの。
  • 釣鈎 つりばり
  • 潮満珠・潮盈珠 しおみちのたま 海水につければ潮水を満ちさせる呪力があるという珠。しおみつたま。満珠。←→潮干珠
  • 潮干珠・潮乾珠 しおひのたま 海水につければ潮水を引かせる呪力があるという珠。しおふるたま。干珠。←→潮満珠。
  • 被髪 ひはつ 髪を結ばずに解き乱してあるもの。
  • 後胤 こういん 子孫。末裔。
  • 青銅器 せいどうき 青銅で製作した利器・器具。
  • 鼎 かなえ (金瓮の意) 食物を煮るのに用いる金属製または土製の容器。普通は三足。
  • 水草を追う すいそうを おう 一定の住所を定めないで、水や草のある所を求めて移り住む。
  • 米穀 べいこく こめ。その他の穀物を含めてもいう。
  • 東洋学 とうようがく 東洋について研究する学問。宣教師が現地の事情を本国に報告したことから、ヨーロッパに始まる。
  • 小人 → 参照、人種
  • 人種 じんしゅ (略)一般に、哺乳動物の種内では、寒地の亜種ほど大型であり(ベルクマンの法則)、また身体の突出部分(鼻先、耳、四肢、尾)の小さい、全体としてまるい体型となる傾向(アレンの法則)が知られている。これは、体熱の保持に関する適応進化の結果と解釈される。(略)また、アフリカのピグミー(ネグリロ)と東南アジアのネグリトは、これらの特徴のほかいちじるしい低身長のため、かつては共通の人種に分類された。しかし、最近の研究によれば、両者の遺伝的相違は大きく、外観的形質(表現型)の類似はおそらく熱帯降雨林という共通の環境への適応による平行現象と考えられる。ピグミーやネグリトにみられる身体の小型化はベルクマンの法則により説明されるようにみえる。しかし、熱帯地方でも、乾燥したサバンナの住民は高身長であるので、単純にこの法則をあてはめることはできない。(文化)


◇参照:『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)『日本国語大辞典 第二版』(小学館、2001.5)、『コンサイス・カタカナ語辞典 第四版』(三省堂編修所、2010.2)、『縮刷版 文化人類学事典』(弘文堂、1994.3)。



*後記(工作員スリーパーズ日記)


書きかえメモ。
楊子江 → 揚子江
マルコポーロ → マルコ・ポーロ
チヤイニース → チャイニーズ
インドネジアン → インドネシアン
ネポール → ネパール
ブーダン → ブータン
推髻 → 椎髻
畫かれて → 描かれて
サルウイン河 → サルウィン川
プロンヅ → ブロンズ
タルバン → ターバン
創生記 → 創世記
創世紀 → 創世記
※[#「羌<ム」、第3水準1-90-28] → 羌

※ 各章題に読点をおぎなった。


瓠公 ここう 生没年不詳 新羅の建国時(紀元前後)に諸王に仕えた重臣。もとは倭人 (『三国史記』卷一・新羅本紀第一・始祖赫居世三十八年(紀元前20年)条 : 瓠公者、未詳其族姓。本倭人。初以瓠繋腰、度海而来。故称瓠公。) とされる。新羅の3王統の始祖の全てに関わる、新羅の建国時代の重要人物である。瓠(ひさご)を腰に下げて海を渡ってきたことからその名がついたと『三国史記』は伝えている。(Wikipedia)

 蛇足。本文中に「日本の童話のタヌキが泥舟をつくったというその泥舟の話」という文があるが、カチカチ山の話のことだとすれば、泥舟をつくったのはたしかウサギで、泥舟に乗って溺れたのがタヌキのはず。
 同じく本文中に「日本の神話のうちにおいては、人間が木を生んだ話もあるが、苗の伝説にも、また人間が木を生む伝説がある」とあるが、「人間が木を生んだ話」の例を思い出せない。ここは「木が人間を生んだ話」、たとえば竹取物語、宇津保物語のことか。

【第一群】
芋 いも/ウ
豆 まめ/トウ・ズ
麻 あさ/マ
舟 ふね/シュウ 船(セン)

【第二群】
米 こめ/マイ
馬 うま/マ
胡麻 ゴマ

【第三群】
桃 もも/トウ
虎 とら/コ
鰐 わに/ガク
羊 ひつじ/ヨウ

【その他】
竹 たけ/チク
紙 かみ/シ 簡(カン)→かみ

 仮説:訓読み/音読みの差異と日本列島への渡来時期は相関する。

 第一群にあげたのは、原日本人(現日本語に通じる原日本語を用いていた現日本人の祖と考えられる民族。かならずしも現日本列島に存在していたとはかぎらない)とのつきあいが最も古いと思われる群。訓読みと音読みに大きな差異が生じている。
 第二群にあげたのは、逆につきあいが比較的新しいと考えられる群。対応するコトバが原日本語になかったので、物が渡ってきた当時、音読みの名称をほぼそのまま訓読みとして流用したと考えられる例。
 問題は第三群で、訓読みと音読みが異なる点では第一群に通じる。では、第一群と同様に原日本人とのつきあいが古かったのかと考えると、保留せざるをえない群。もし仮説が正しいならば、原日本人はこれらのものと比較的古いつきあいがあった可能性が生じる。原日本人が大陸へ居住していた当時からのつきあいで、その後、原日本人がそれを(もしくはその記憶を)かかえながら原日本列島へわたってきた。もしくは、原日本人がわたってくる以前から原日本列島に存在していた、ということになるか。
 「その他」に分類した竹は、当初、訓読みと音読みに差がある第一群と考えたが、訓読み「take」と音読み「tiku」は、母音は二つとも異なるが、子音は二つとも共通している。仮説にしたがえば、比較的新しいつきあい(第二群)ということになる。
 同じく「その他」に分類した紙は、訓読み「kami」と音読み「shi」であきらかに異なり、一見すると第一群に分類されそうだが、木簡や竹簡の「kan」が先に伝来して、その後、代用品としての紙が渡来。「kan」が「kami」に転じたのであろうという説を聞いたことがある。それにしたがえば、紙もまた第二群に準じるということになるか。




*次週予告


第五巻 第五一号 
日本周囲民族の原始宗教(七)鳥居龍蔵


第五巻 第五一号は、
二〇一三年七月一三日(土)発行予定です。
定価:100円(税込)


T-Time マガジン 週刊ミルクティー 第五巻 第五〇号
日本周囲民族の原始宗教(六)鳥居龍蔵
発行:二〇一三年七月六日(土)
編集:しだひろし / PoorBook G3'99
 http://www33.atwiki.jp/asterisk99/
出版:*99 出版
 〒994-0024 山形県天童市鎌田2丁目
 アパートメント山口A−202
販売:DL-MARKET
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