鳥居龍蔵 とりい りゅうぞう
1870-1953(明治3.4.4-昭和28.1.14)
人類学者・考古学者。徳島の人。東大助教授・上智大教授などを歴任。中国・シベリア・サハリンから南アメリカでも調査を行い、人類・考古・民族学の研究を進めた。晩年は燕京大学教授として遼文化を研究。著「有史以前の日本」「考古学上より見たる遼之文化」


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)。

◇表紙の鈴は、朝鮮咸鏡かんきょう南道・咸興かんこうの巫人の持てるものであって、先端に鈴は群をなし、そのかたわらに小さな鏡が結びつけられ、柄の下端には五色の長い絹の垂れがさがっている。彼女が神前で祈り舞うとき、これを手に持って打ち鳴らすのである。(本文より)



もくじ 
日本周囲民族の原始宗教
神話・宗教の人種学的研究(四)鳥居龍蔵


※ 製作環境
 ・Macintosh iBook、Mac OS 9.2.2、T-Time 2.3.1
 ・ポメラ DM100、ソニー Reader PRS-T2
 ・ソーラーパネル GOAL ZERO NOMAD 7
  (ガイド10プラス)
※ 週刊ミルクティー*第五巻 第四四号より JIS X 0213 文字を画像埋め込み形式にしています。
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*凡例〔現代表記版〕
  • ( ):小書き。 〈 〉:割り注。
  • 〔 〕:底本の編集者もしくは、しだによる注。
  • 一、漢字、かなづかい、漢字の送り、読みは現代表記に改めました。
  •    例、云う  → いう / 言う
  •      処   → ところ / 所
  •      有つ  → 持つ
  •      這入る → 入る
  •      円い  → 丸い
  •      室《へや》 → 部屋
  •      大いさ → 大きさ
  •      たれ  → だれ
  •      週期  → 周期
  • 一、同音異義の一部のひらがなを、便宜、漢字に改めました。
  •    例、いった → 行った / 言った
  •      きいた → 聞いた / 効いた
  • 一、英語読みのカタカナ語は一部、一般的な読みに改めました。
  •    例、ホーマー  → ホメロス
  •      プトレミー → プトレマイオス
  •      ケプレル  → ケプラー
  • 一、若干の句読点を改めました。適宜、ルビや中黒や感嘆・疑問符・かぎ括弧をおぎないました。一部、改行と行頭の字下げを改めました。
  • 一、漢数字の表記を一部、改めました。
  •    例、七百二戸   → 七〇二戸
  •      二萬六千十一 → 二万六〇一一
  • 一、ひらがなに傍点は、一部カタカナに改めました。
  • 一、カタカナ漢字混用文は、ひらがな漢字混用文に改め、濁点・半濁点をおぎないました。
  • 一、和暦にはカッコ書きで西暦をおぎないました。年次のみのばあいは単純な置き換えにとどめ、月日のわかるばあいには陰暦・陽暦の補正をおこないました。
  • 一、和歌・俳句・短歌は、音節ごとに半角スペースで句切りました。
  • 一、表や図版キャプションなどの組版は、便宜、改めました。
  • 一、書名・雑誌名・映画などの作品名は『 』、論文・記事名および会話文・強調文は「 」で示しました。
  • 一、「今から○○年前」のような経過年数の表記や、時価金額の表記、郡域・国域など地域の帰属、法人・企業など組織の名称は、底本当時のままにしました。
  • 一、差別的表現・好ましくない表現はそのままとしました。

*尺貫・度量衡の一覧
  • [長さ]
  • 寸 すん  一寸=約3cm。
  • 尺 しゃく 一尺=約30cm。
  • 丈 じょう (1) 一丈=約3m。尺の10倍。(2) 周尺で、約1.7m。成人男子の身長。
  • 丈六 じょうろく 一丈六尺=4.85m。
  • 歩 ぶ   左右の足を一度ずつ前に出した長さ。6尺。
  • 間 けん  一間=約1.8m。6尺。
  • 町 ちょう (「丁」とも書く) 一町=約109m強。60間。
  • 里 り   一里=約4km(36町)。昔は300歩、今の6町。
  • 尋 ひろ (1) (「広(ひろ)」の意)両手を左右にひろげた時の両手先の間の距離。(2) 縄・水深などをはかる長さの単位。一尋は5尺(1.5m)または6尺(1.8m)で、漁業・釣りでは1.5mとしている。
  • 海里・浬 かいり 一海里=1852m。
  • [面積]
  • 坪 つぼ  一坪=約3.3平方m。歩(ぶ)。6尺四方。
  • 歩 ぶ   一歩は普通、曲尺6尺平方で、一坪に同じ。
  • 畝 せ 段・反の10分の1。一畝は三〇歩で、約0.992アール。
  • 反 たん 一段(反)は三〇〇歩(坪)で、約991.7平方メートル。太閤検地以前は三六〇歩。
  • 町 ちょう 一町=10段(約100アール=1ヘクタール)。令制では3600歩、太閤検地以後は3000歩。
  • 町歩 ちょうぶ 田畑や山林の面積を計算するのに町(ちよう)を単位としていう語。一町=一町歩=約1ヘクタール。
  • 方里 ほうり 縦横1里の面積。平方里。
  • [体積]
  • 合 ごう  一合=約180立方cm。
  • 升 しょう 一升=約1.8リットル。
  • 斗 と   一斗=約18リットル。
  • [重量]
  • 厘 りん  一厘=37.5ミリグラム。貫の10万分の1。1/100匁。
  • 匁 もんめ 一匁=3.75グラム。貫の1000分の1。
  • 銭 せん  古代から近世まで、貫の1000分の1。文(もん)。
  • 貫 かん  一貫=3.75キログラム。
  • [貨幣]
  • 厘 りん 円の1000分の1。銭の10分の1。
  • 銭 せん 円の100分の1。
  • 文 もん 一文=金貨1/4000両、銀貨0.015匁。元禄一三年(1700)のレート。1/1000貫(貫文)(Wikipedia)
  • 一文銭 いちもんせん 1個1文の価の穴明銭。明治時代、10枚を1銭とした。
  • [ヤード‐ポンド法]
  • インチ  inch 一フィートの12分の1。一インチ=2.54cm。
  • フィート feet 一フィート=12インチ=30.48cm。
  • マイル  mile 一マイル=約1.6km。
  • 平方フィート=929.03cm2
  • 平方インチ=6.4516cm2
  • 平方マイル=2.5900km2 =2.6km2
  • 平方メートル=約1,550.38平方インチ。
  • 平方メートル=約10.764平方フィート。
  • 容積トン=100立方フィート=2.832m3
  • 立方尺=0.02782m3=0.98立方フィート(歴史手帳)
  • [温度]
  • 華氏 かし 水の氷点を32度、沸点を212度とする。
  • カ氏温度F=(9/5)セ氏温度C+32
  • 0 = 32
  • 100 = 212
  • 0 = -17.78
  • 100 = 37.78


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)『歴史手帳』(吉川弘文館)『理科年表』(丸善、2012)。


*底本

底本:『日本周圍民族の原始宗教』岡書院
   1924(大正13)年9月20日発行
   1924(大正13)年12月1日3版発行
http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person1214.html

NDC 分類:163(宗教/原始宗教.宗教民族学)
http://yozora.kazumi386.org/1/6/ndc163.html





日本周囲民族の原始宗教
神話・宗教の人種学的研究(四)

鳥居龍蔵

 民族学上より見たる済州島チェジュド耽羅たんら


九州と南朝鮮との間に済州島という島がある。この島は民族学上、はた、原始宗教上どんな状態にあるか、わたしはここで調査した一斑いっぱんを話してみたい。

   一、総説


 朝鮮の南、すなわち慶尚けいしょう南北道・全羅ぜんら南道および多島海などは、大陸と日本との関係上もっとも注意すべきものであって、従来、わが国の学者にもこの点は注意されておったところである。余はかつて、主として人類学上の立場からこの地方を調査した。その調査の項目は、身体の測定・過去の民族の遺跡、ないしは現今、彼らの間におこなわれている風俗習慣などの調査であった。ここでは主として、その多島海中の済州島における部分を記すこととする。済州島は、その位置が九州と朝鮮との中間にあたっている。多島海というのは、全羅道の南のほうにあるところの無数の島々、および慶尚南道の南のほうに入り込んでいるところの島々をさすのである。

   二、済州島チェジュドの称呼


 現今、この島を済州島チェジュド〔さいしゅうとう〕というけれども、古くは耽羅たんら(Tamra)といっていた。朝鮮ではrとlの音ができないので、Tamna といったのである。これは漢字であるいは耽牟羅と書き、あるいは耽浮羅、また憺羅とも書き、なお屯羅とも書く。耽牟羅というのはシナの『北史』に見え、憺羅という字は『唐書』に、屯羅というのは『宋史』に、渉羅というのは『北史』に見える。かようにいろいろに書いているが、要するに発音はみな Tamra(Tamna)になるのであって、いずれも音に似て書いているのである。おもしろいことは、Tamra というのがの新羅の脱解王の伝説に日本の多婆那国からきたというが、この多婆那というのも音が似ている。それから肥後ひごの玉名にも発音が似ている。あるいは丹波なども発音がよく似ている。とにかく地名を Tamra といっていたのである。

   三、歴史上に現われたる済州島


 この耽羅たんらという名はいつごろから見えるかというと、『東史』によれば、宋の元熙げんき四年にはじめて百済国に貢物みつぎものつかわしたことが見えていて、これは百済の文周王の二年(四七九)である。今より一四四五年以前にあたる。『後魏書』によると後魏こうぎの正始〔五〇四〜五〇八〕のころにも見えていて、渉羅と書いている。渉羅は百済のあわすところとなったと記している。なお、くだって『北史』『隋書』『唐書』通典つてん冊府さっぷ元亀げんき』などにもこの耽羅のことが見えておったが、だんだん後になって百済の盛んな時分に百済にへいせられ、また新羅が盛んになって新羅に併せられたのである。『韓昌黎集』には「海外諸国若耿浮羅流求之属東南際天也」と記していて、流求と相対しているのはもっともおもしろい。この耽羅の国が日本でもっとも古くから知られておったのは、継体天皇の二年(五〇八か)である。『日本紀』の継体天皇の条に、「二年冬十月、南海中耽羅人、初通百済国」という文が見えている。これがいちばん古い記事である。彼とわが国とはじめて公式に交通をしたのはいつごろであるかというと、斉明天皇の七年(六六一)五月である。この時分にはじめて済州島の人が交通してきたのである。日本の発音は耿羅といって『日本紀』に出ている。彼らの日本へ来た原因は、わが遣唐大使が帰りがけに流されて、この島に行ったのである。そうしてそこの王が船をり、人をけて帰してよこした。それから天智・天武・持統の御代にいたるまで、たがいに交通往来しておった。向こうから来たほうがむしろ多く、日本から行ったのは少ない。すなわち『日本紀』に天武天皇十年(六八一)に大使犬養連手繦たすき・小使川原連加尼らを耽羅につかわした。そうして十三年に帰朝している。彼が新羅に併呑へいどんされてから後はまったく絶えてしまったのである。それは持統天皇の五年(六九一)である。これが耽羅の日本へ来た最後である。『日本紀』にこういうことを書いている。「持統天皇五年に耽羅朝貢ちょうこうし、そののち耽羅が新羅にへいせられて朝貢を絶ゆ」といっている。とにかく、日本と深い関係のあったことはこれによって知れるのである。ことに朝鮮の史料というものはごく少ない。『日本紀』に見えている記事は十五、六か所しかないが、向こうから来た役人の名前とか、あるいは名前も知れていて大切な史料である。これはまた別の話に関係するが、日本と深い関係のあったということだけは記憶しておってもらいたいと思う。
 それから、日本においても耽羅と当時関係が深かったからその記事が見えたのであって、たとえば『続日本紀』天平十二年(七四〇)十一月の条に、彼の広嗣ひろつぐの乱のときに、広嗣が船に乗って北方の島に逃れようとしたことがある。そうして船に乗っている者が、この島は耽羅の島であると言ったことが見えているのである。なお『続日本紀』の聖武天皇・天平三年(七三一)の条に「天平三年六月乙亥、定雅楽寮うたのつかさ雅楽生員、大唐楽三十人、百済楽くだらがく二十六人、高麗楽こまがく八人、新羅楽しらぎがく四人、耽羅楽六十二人」とある。これによって文化の程度も知ることができる。それから『延喜式』の中に済州島に「耽羅薄鰒らの」というのがある。これは同書に「肥後ひご耽羅鰒とらのいか」と並列している。こういうことが見える。それから『今昔物語』の三十一のところを見ると、九州のある国の人が度羅の島というのが北の方にあるが、どんな島かと思って見に行ってさんざんの態で帰ってきたことが見える。そういうふうに、日本では耽羅の島とたとえ公式の往来はなかったとしても、当時、たがいに非公式の交通のあったことが知れる。これから、かくのごとき日本に関係のあったところの耽羅のことについて述べようと思うのである。

   四、自然地理・地質学上より見たる済州島


 耽羅たんらは今日の済州島チェジュドである。同島は現今、朝鮮全羅ぜんら南道の中に入っておって、木浦モクポを去ること南方九十二海里〔およそ一七〇キロメートル〕のところにある。全羅道には多島海があって、無数の島嶼とうしょがある。海軍の水路部などの図にっておらぬ島がある。どれだけまだ小さな島があるか、ほとんどわからぬそうである。非常に島の数が多い。現今、総督府のほうでも、島に人間のいるのを近ごろ発見するくらいの状態である。その中で大きな島は、珍島ちんとう莞島かんとう巨文島きょぶんとう楸子島しゅうしとう南海島なんかいとう巨済島きょさいとうというような島である。済州島の南にはもはや島はないのである。すなわち朝鮮の極南にあるのである。東の方はちょうど壱岐いきと対馬のあいだに面している。東南の方は九州の北松浦郡および五島ごとうと相対している。西の方はシナの山東省の突端から揚子江ようすこう〔長江の通称〕の河口に面している。山東省の岬角こうかくから揚子江の河口までにいたる海岸線は、東に向かって弓状を呈して湾曲している。その弓状を呈しているところに向かって済州島が存在しているといってよいのである。そうしてこの済州島の面積は百二十二方里、広さは東西約二十里、南北約六里〔里の表記は当時の朝鮮の尺貫法によるか。『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)によれば、面積は一八四〇平方キロメートル〕、地質学上その地盤はまったくバザルト(basalt)〔玄武岩〕からできているのであって、すなわち火山岩からなっている。ここの火山がよほどおもしろい。小藤博士にしたがうと、ここの火山はまだ活きているというのである。というは、『高麗史』を見るとこの島に噴火した記事がある。それがもし事実となれば、この火山というものはまだ活きていることになる。それからバザルトからできているために、この地形は中央にすこぶる高い富士山型の円錐形を呈した山が立っておって、それからラバ流のために自然に裾野すそのができて海岸線に行っている。その中央の山の高さというものは六五五八フィート〔一九五〇メートル(広辞苑)で、この山をかんなさん漢拏山ハルラサンという。今日は頂上は噴火しておらぬが、ときどき噴火したものと見えて、山にあちらこちら噴出した跡が見える。島の地質はまったく玄武岩だけで他の地層はなく、土壌というものはごく少ない。そうして漢山の頂上には湖が自然にできていて、これを白鹿潭という。
 南朝鮮の陸地および多島海の島々の地質はグナイスやグラニット〔花崗岩〕などからできているが、済州島はこれらの地層はなく、他と異なってことごとく玄武岩からできている。すなわち火山岩である。これを地質学上からいえば、多島海および朝鮮の陸地とつながらない。時代もごく後に噴出した火山の地形である。かかる関係であるがために、人の住んでいる状態は、なお後に述べるつもりであるが、主として海岸によっている。また火山質の関係上から、裾野をなしているところにも住んでいる。すなわち、山手のほうと海岸にいる。山手のほうは比較的高いところまで住んでいる。自然地理の状態はどういうふうになっているかというと、済州島は南に偏しているために朝鮮から見るとよほど温かいのみならず、南から来るところの黒潮がこの島の西岸にぶつかる関係から、気候はいっそう温かい。温度はいちばん寒いときで三十度〔摂氏マイナス一.一度〕を下らず、いちばん暑いときで九十五度〔摂氏三五度〕のぼったことがない。なお、黒潮が南からきて西にぶつかるために、気候の関係は南と北とによって多少の相違を見られる。植物については、いったい朝鮮は元は樹木が非常に多かったのであるが、乱伐の結果だんだんこれを失ったので、済州島もまたそのとおり下のほうはりつくしてしまっている。が、この島にはなお上のほうには樹木が森林をなしている。すなわちシデとかリヤとかオモノ木というような樹が森林をなしている。それがゆえに、日本人はこの樹木を利用してシイタケの製造を盛んにやっている。
 ここによほど注意すべきことは、黒潮の関係上、済州島には南方から流れてくる物がたくさんあることである。たとえばヤシの実であるとか、フジの実であるとか、または大きな竹であるとか、動物ではオウム貝のようなものが流れてくる。魚類についてももちろんである。誰も知るごとく、台湾本島には檳榔びろうはあるが椰子ヤシはその影さえも島中には見ることができない。紅頭嶼こうとうしょにいたってはじめてこれを見ることができるのである。これによって見れば、この済州島の西海岸岬あたりに流れせるヤシは、はるかフィリピン方面より来るものに相違ない。なお、おもしろいことには、西海岸から南の海岸にかけて芭蕉ばしょうが流れてくることがある。これもたぶん南方から来るものと思われるのである。それから台湾の海岸などにおいてよく見るところのもので、海岸の砂地にあってめばハッカのような香りがする草がたくさんある。これも潮流に持ってこられたものと思われるが、この島の海岸に生えている。
 この島には大きな河はない。瀑布ばくふが少しあるくらいなことである。島の面積は前述のとおり一二二方里、広さは東西約二〇里、南北約六里、中央にハルラサンが立っていて、その周囲はラバ流のために裾野をなして延長しているが、海岸は北の方は屹立きつりつしておって良い海湾がない。南の方にはわずかにあちらこちらに海湾が見られる。人口は一〇万五七五四人、そのうち男が五万一八一七人、女は五万三九三七人、すなわち男より女のほうが二一二〇人多い。昔から女のほうが多い島である。そうしてこれに対する戸数は三万二二二八戸である。島のわりにすると戸数が多いわけになる。それがために村落のありさまなども非常にかたまって存在している。旅行してみると、部落と部落、村落と村落との距離が非常に接近しているところが多い。あるところでは村が町に変化しかかっている状態も認められる。すなわち三丁、四丁〔およそ三〇〇〜四〇〇メートル〕の長さにわたって一筋道ひとすじみちに発達してゆく傾きが見えるのである。
 以上のごとく、済州島の地形は中央に高い山があって(これは朝鮮第一の高山)、しかして周囲の海岸と裾野とに人がいると見れば間違いないのである。

   五、土俗学上より見たる済州島


 つぎに ethnographyエスノグラフィー〔民族誌〕のほうからいうと、この島の住民はおよそ二つに分けることができる。海岸に住んでいる者と山手に住んでいる者で、前者を浦村人といい、後者を山村人という。すなわちこれを日本の古代風にいうと、大山祇おおやまづみ海神わだづみというものにあたる。海岸にいる者は農業と海女あまとをいとなんでいる。朝鮮において海女のいるのは済州島だけである。山手にいる者は農業および牧畜をやっている。牧畜は裾野があるためにたいへん盛んで、またその結果、牛馬が非常に多い。近ごろの調べによると、たいがい一軒に一つの牛と馬とを持っている。とすると、まず済州島だけに馬の数は三万以上あるが、牛の数も三万以上あるわけになる。そしてこれらは放し飼いになっている。裾野のほうには牧草がたくさんあるので、牧畜としてはもっともつごうがよい。

    住居


 島民の住居は、ちょうど沖縄に似ている。沖縄諸島はサンゴ礁からできているために、石灰岩の岩が地上に露出して、家のいしずえとか周囲をめぐらすところの石垣もほとんど岩である。地盤もむろん岩で、鹿児島の人がうたっている「琉球におじゃるなら草鞋わらじはいておじゃれ、琉球は石原、小石原」というわけだが、済州島も地盤は玄武岩の岩石からなっているから、それと同じく「済州島におじゃるなら草鞋わらじはいておじゃれ、済州島は石原、小石原」といったらよろしかろうと思う。これがために、牧場なども石垣でできている。それから墓も石垣でおおうている。畑もその境界は石をもってできている。じつに石垣の島である。それゆえに家も地盤は岩であるし、そうして周囲も石でかこってある。石でかこって、また個々に石のかこいができて、またその外に石垣があるというふうである。朝鮮の家ではどこでもすべてオンドルをもちいているが、済州島にはオンドルが近年までなかったのが、郡守が命じてこしらえさせるようになったわけで近ごろのことである。朝鮮では、家とかまどは一緒になっておって、ご飯を炊き、あるいは煮物にものなどをしたところの火がオンドルを伝わって行って部屋が暖まるようになっている。けれども済州島は、日本と同じように別々のかまどになっている。これがよほど違ったところである。島民は、もとは穴居けっきょしておったものである。これはどうしてわかるかというと、『新唐書』を見ると、こういうことが書いてある。

「唐高宗龍朔りゅうさく初、有憺羅者、其王儒李都羅遣使入朝、王居新羅武州南島上、俗朴陋、衣犬豕皮、夏居草屋、冬窟室……」

 すなわち、穴にまっておったことがこれで知られるのである。なお今日、朝鮮の多島海でこの風習を見るところがある。余は楸子島しゅうしとうでこれを見た。この穴居はいわゆる竪穴である。これについておもしろいことは、『三国志』の『魏志』の中の「東夷伝」の「馬韓伝」の記述である。すなわちこういうことが書いてある。「居処作草屋土室形家、其戸在上、挙家共在中」で、馬韓人は草屋をつくり、形は塚のごとく、戸は上にある。家をあげて中にありと。これは古く堪察加カムサツカのカムチャツカダールなどがやっているところの穴居の状態とよく似ている。そうすると全羅道からかけて済州島まで、すべてエスノグラフイーの上からいうと竪穴たてあなまっておったのである。
 話が余談にわたるが、日本でも古い『風土記』などによると、土蜘蛛つちぐもなどが肥前・筑前・筑後・豊後などに穴居していたように見える。そうすると、pit-dwellers〔pit house、竪穴住居か〕 の風俗というものは朝鮮の西南方の馬韓から済州島にかけて、それから日本の九州一帯にある時期におこなわれておったように思われる。このことについてはいささか考えもあるが、ここには述べることをやめ、ただ、以上のことを参考までに記しておく。

    習俗


 山に住んでいるものは、現今でも犬の皮の帽犬の皮の着物を着ている。これは『新唐書』の記載と合っている。島の風俗は朝鮮の陸地と大差はないが、異なった点も二、三ある。朝鮮人の婦女はすべて頭の上に物を載せる風習があって、決して背にかつがない。しかるに済州島においては、決して頭に物を載せない。かならずかご背負せおうのである。ちょうど九州の肥後あたりの五家荘ごかのしょうから阿蘇あたりにかけてやっているような風習が見える。竹籠たけかごの中に一個の土器を入れて水をくんでいる。子どもを背負うときに、日本と同じような背負い方をすることや、藁をうつ風などはこれは日本からきた風習であるといっている。それから、馬の毛でんだところのかさをかぶる。これは他において見られない風習である。また、草をもって一種のかさをつくる風習、これも他において見られない風習である。物を背負せおうとき、半胴着はんどうぎのような物を着るが、この半胴着のくん裳裾もすそのところにはいろいろの幾何学的の紋様をい取りしている。これらも陸地においては見えない。なお、家のつくり方も違っている。また、前述の犬の皮の帽あるいは衣服というものを、山のほうでは今も用いていることなども違う風習である。ここに著しく違った風習がある。それは漁師の海岸の仕事場に行くと、網を入れるためにつくってある小舎しょうしゃである。これは、その四本の足場の柱を高くし、これにネズミの入らぬようにその上部に木のつばを入れて作ってある。これは日本の伊豆の八丈・沖縄・台湾・フィリピン諸島などにかけてあるところのものであって、今日決して陸地の朝鮮人はやらない。けれども、北海道・カラフト・黒龍江・ウスリー江ほとりにはこれが存在する。

    言語


 済州島の言葉はもとより朝鮮語であるが、フォネティック〔音声学〕のほうからいうと、よほど違っているようである。余がかつてこの島を訪ねたおり、通訳として最もこの島に接近する全羅南道の朝鮮人をともなったことがあるが、いっこう通じなかった。いわんや京城けいじょう〔日本支配期のソウルの称〕あたりの者では通じない。よほど発音が違う。このフォネティックの違いというものはどれだけ値打ちがあるか、これらはグラマーやボキャブラリーの研究とあいまって研究しなければならないことであると思う。このことについては、朝鮮総督府の小倉文学士小倉おぐら進平しんぺいか〕がすでに調べられて各所の雑誌に発表されている。

    生業なりわい


 食物は主として穀物・魚類・貝類などをもってしている。農作物は麦・アワ・大豆・ソバなどが主となるものである。水田は水がとぼしいところであるから、わずかに水のある場所だけでやっている。飲用水は非常に困難であって、海岸の潮のいたときに岩から噴き出る水があってそれをくんでくるのである。潮が満ちてくると最早もはや、くむことはできない。それがために潮の満ちない前に運ばなければならぬので、その時間中は済州島の奇観である。徳利とっくりのような土器に女子が水をくんでくるのであるから、何度も往来して家のうちの水瓶みずがめたすまでにはよほど時間がかかる。とにかく一種の奇観である。農業は岩の外の土壌のあるところや、岩をかきならして耕している。農具にはすきくわなどをもちいる。海岸の漁師はいかだを組んで、それに乗って沖へ出てすなどりをするのである。近ごろだいぶ船が入ったが、済州島固有のものはいかだである。そうして男は筏に乗ってこれをこぎ、女は海女あまをする。海女は頭を手ぬぐいでしばって、体には半股引ももひき様のものをつけて海中に入る。このときは、そのそばに大きなヒョウタンを上方だけ切って、中ほどから残っているものに網をつけたものを浮かしておく。そうして海底に入りアワビなどを取って上に浮き上がり、この網に入れるのである。このひさごはなかなか沈まない。このひさごが五ツ六ツあればまさしく船の代用をする。彼の新羅の伝説の瓢公がひさごに乗ってきたということも、こんな風習から出た話ではあるまいか。余の郷里の四国では、水練の稽古けいこをするときに紺のふんどしをしめるが、このばあいにヒョウタンの画を染め出す風がある。それらも何か関係があると思う。海女あまのことについてはなお詳しく記したいのであるが、長くなるからやめることにする。
 昔のわが九州の値嘉島ちかのしま海人あまをはじめとし、現今、日本内地の海女あまの風習についてもよほど比較研究して注意すべきものである。海女というものは済州島にかぎっている。他の朝鮮にはどこにもない。余はかつて同島において体格の調査を八か所ばかりでおこなったが、ことに海女を注意して調べた。これはもっとも気をつけねばならぬと思ったからである。
 そういうふうであるから、済州島は山には農業および牧畜のさちがあり、海岸には農業やまた殊に海の幸がある。すなわち、漁業・農業・牧畜というものをやっているのである。なお、その牧畜が本島におこった歴史的由来を話してみよう。
 この島が一時、高麗こうらいに属しておったときに謀反人ができた。そうして済州島のほうから高麗の朝廷に向かって、どうか謀反人を征服してもらいたいといった。高麗朝からは兵隊を出したが、反対に謀反人のためにやられた。そこでちょうどモンゴルの元がこの頃、この高麗に向かって行政権をっていたときで、なかなかその勢力があったのでモンゴルに頼んだ。モンゴル人は得たりかしこしで、モンゴル兵がきて雑作ぞうさなく賊を退治してしまった。それがためにモンゴルの関係の島になってしまった。元が元軍民総官府という官庁を設けて、モンゴルの役人がこの島を支配することになった。そのときに済州島を二つの阿幕というものに分けて支配した。阿幕というのはモンゴル語の Aimak(盟)ということで、すなわち一つの同盟であるから、この阿幕というのは東の同盟・西の同盟ということであると思う。そうしてちょうどハルラサンの中腹以下には牧草が多くて牧畜にもっともつごうがよいので、そこでモンゴル人は牧畜をやっておった。そのモンゴル人が去った後に、今いうとおり家畜が残っているのである。最初、モンゴル人が連れてきた家畜はどういう種類かというと、牛・馬・ラク・羊などであった。しかるに現今は羊・駱というものはもはや絶滅してしまって、馬と牛だけしかない。そして漢山の裾野すそののほうでぼくされている。

    宗教


 つぎに、済州島には巫人みこのするおもしろい儀式がある。この島の巫人の数は非常に多くて、ほとんど朝鮮のすべての所と比較して、ここほど多いところはあるまいと思う。余は調査のおり、総督府の方へたのんで儀式をさせてもらったのであるが、儀式の時分には一〇〇人ばかりの巫人が集まってするのである。ことに正月の元旦にする儀式がある。これを見たが、これは「春耕」という舞踏である。いわゆる黙劇であって、言葉をいわぬ一つのドラマである。まず最初に天下太平・国土安穏あんのんの文句を神様に述べて、つぎに黙劇がはじまるのである。おのおの面をかぶる。最初にまず百姓が出てきて種をまく。つぎに鳥の形をかぶったものが出てきてこれを突ッつく。そうして男女が畑に出て農業をするというように、つまり農業のありさまを男女がするのである。そのつぎに女子を奪い合う一つの芝居に移る。そうして最後に悪魔を退治して、その年は五穀豊穣になったというのである。これはよほどおもしろい。これによってみても、農業に関係しているということがわかる。そうしてかぶっている面というものはまさしく舞楽にあるものと思われる。日本の音楽史の上において耽羅たんらの楽というものはどういうものであったか、今、伝わっていない。ただ『続日本紀』に耽羅の楽人六十四人を定めたということが天平十二年〔天平三年の誤りか〕の条に見えるのであるが、ここで見るこの舞踊は、いわゆる耽羅の古い楽が残っているものではないかと思われる。これは何かの機会に発表しようと思っている。
 朝鮮の内地の男は、儒教の感化を受けた関係であろうがほとんど形式に流れているが、この島のものには天真爛漫らんまんのところが見える。たとえば女が畑に出て仕事をするとき、また漁師の妻が海女になって仕事をするときに盛んに歌をうたう。済州島固有の歌であるが、よほどロマンチックのところがある。それが風俗上において見えるのは臼搗うすつき歌である。日本でも臼搗うすつくときにうたうが、済州島でもその風習が男女間、ことに女子の間におこなわれている。臼は日本のものと同じく、きねもちょうどウサギが月の中で臼搗うすついているようなものである。これで穀物をつくとき、女子が二人三人集まってうたう。それはこういう歌である。

伊呂いろ島、伊呂島、わがの君は遠き遠き島に漁りに出でたまいしが、いまだ帰り来まさず。わがいとしの君の舟は海原うなばらにて破れ、海底うみそこ藻屑もくずとやなりたまいけん。ああとく帰りませ。とくとく帰りませ。

 かようにうたってうすくのであるが、彼らの生活というものが遺憾いかんなくこれらの歌の上に現われていて、なかなかロマンチックのところがある。なお旅行してみると、各牧場にいる者がうたっている。よほど愉快ゆかいに活発なところも見えて、日本流の気象が現われている。女子が男子に接しても恐れないのは、一つの違った点である。

    柑橘類かんきつるいと済州島


 つぎに同島の柑橘類かんきつるいについては、種々のおもしろい話があるから記してみよう。柑橘類は済州島の名物である。その種類をあげると、つぎのようなものである。

カンユウ、乳柑、金柑キンカン、洞庭橘、青橘、瓶橘、山橘、唐柚子、倭橘、橙子、大橘、唐金橘、枳橘、石金橘。

 これらは李朝にたてまつったものであるが、また民間でも使っている。薬にも用いている。なかなか各所に多い。ことにその中の瓶橘のごときは、食べてみるとネーブルに似ている。
 いったい柑橘類かんきつるいの産地は済州島・巨済島・南海島などが主なるものである。けれども、南海・巨済はおもにゆずであってきつのほうはない。済州島では、各地に果園えんというものがある。中流以上の庭園にはたいがい柑橘かんきつの樹がある。それから、古い邸などの跡に行って見るとたいがい柑橘類の樹が多く残っている。これはもとより、野生ではなく人間の栽培したものであるが、近ごろ入ったとは思えない。よほど古く入ったものである。いったい、この柑橘類かんきつるいの原産地は揚子江ようすこう以南の南部シナの浙江省温州おんしゅう・福建省あたりであろうが、ここに来たのは一〇〇年や二〇〇年のことでなく、よほど古い時分であって、ほとんど野生の状態になっている。これは、よほど注意すべきことではないかと思う。
 これについて、すこし話が余談にわたるが、前に言いたいのは、『日本紀』『古事記』の垂仁天皇の条に多遅麻毛理のことが見えている。これは垂仁天皇が多遅麻毛理に命じて常世国とこよのくに登岐士玖能迦玖能木実このみを取りにやった。そうして木実このみを取って帰った時分に、いかにせん、天皇はすでに崩御ほうぎょになっておられた。それがためにせっかく橘を持ってきたのに残念であるというのでお墓にかけて殉死した。これは名高い話であるが、この常世国というのはどこかということについて、これまで学者がよほど議論をたたかわしている。ここに卓見なのは、本居宣長先生である。『古事記伝』によると、こういうことをいわれている。

常世国とこよのくには、上巻、少名毘古那命すくみこと段に出ているごとく、皇国みくにをはるかに放離さかりて、たやすく往還ゆきかいがたき国をひろくいうなり、……ここは新羅国をさしていえるなるべし、それゆえに多遅麻毛理は新羅人の末なれば、その国に橘のありて甚美いとめでたこのみなることを伝聞居つたえききおりて天皇に語奏かたりもうせしよりこのことはおこりたるべければなり、(さらではそのかみ、外国のかよいもいまだあらざりしに、橘のあることを所知しろし看すべき由なければなり、さてこれは新羅とすべきこと、まずは右のごとくなれども、なお細にいわば橘は漢国にても南の方にありて北の方の寒き国には無きものときけば、三韓などには、いかがあらん。もし韓には無きものならば、この常世国は漢国をいえるならん、もししからば先祖のときより漢国にこの果のあることを伝え聞きおりてなるべし、これは、なお今、朝鮮国に橘ありやなしやをよく問い聞きてさだむべきなり、もし漢国ならんにても、なお新羅より伝いてぞゆけん。

 こういうように宣長先生はいわれている。もし朝鮮になければ、この多遅麻毛理の行ったのをシナの南のほうに求めるが、しからざれば朝鮮に求める。これはよほど卓見であると思う。第一、『記』『紀』の文面からみても、そう思えるのである。多遅麻毛理は『姓氏録』などを見ても三宅連みやけむらじらのおやになっている。また彼の祖先は、新羅からきた天之日矛あまのひぼこである。彼はもとより、この島に橘のあることははじめから聞き伝えておったのであろう。知っておらなければ行くわけはない。もしも済州島とこれを見れば、解釈がつきやすいであろう。わたしは済州島であろうと思う。宣長先生の裏書きをするようであるが、これは宣長先生のいわれたごとく橘は朝鮮にある。朝鮮にこれがあれば、常世国はこれに持って行ってもさしつかえない。ただ、不条理のあるのは年数である。済州島へ行くならば、彼は多くの年数を費す必要はなかろうという話であるが、ただし天武天皇のときに、日本の使者が済州島へ行って帰ってくるまでにやはり三年かかっている。これらから考えると、むこうに滞在しておったと解釈すればさしつかえないのである。そうすると済州島は常世国であって、そうして彼が行ったのは済州島である。こういうふうに解釈してもさしつかえない。なにしろ、多島海において橘のあるのはこの島だけである。ゆずのほうは海岸線の島々にあるが、橘はない。これがもしあるとすれば、どうしても温州おんしゅうからかけて福建に持って行かなければならぬ。これも必要である。済州島にすでにあるということならば、宣長先生もこの方に持って行かれたであろうと思う。常世国という名はもとより済州島ばかりではない。ほかのシナなども言ったであろうが、少なくも済州島もこの常世国の中に入っていたと思う。この点に行くと、新井白石先生はもっとも卓見である。すでにその著『東雅』の第十四巻、「果」のところで「橘」について、こんなに書いておられる。

……『日本紀』に、「昔、新羅王子天日矛あまのひぼこという者、但馬の国に来たり留まりて、その国の人の女をめとりて子をうむ。これを但馬諸助というと見えたり。また『姓氏録』には三宅連は、新羅国王子天日矛命の後なりと見えたり。さらば多遅麻毛理としるし、田道間守としるされしは、但馬の国人にして、天日矛あまのひぼこの後なり。その世次のごときは『古事記』『日本紀』などにつまびらかなり。常世国といいしは、いにしえの新羅国すなわち、今朝鮮の済州をいうなるべし。今もかの地方にしては、この島にのみ柑橘を産しぬれば、これをもて国の珍とするなり韓地の如きは、田道間守が祖先の国なりしかばかく使せしめられしことと見えたり

    神話・伝説


 つぎに神話のことである。済州島の人間の起原についてこういうふうに伝えている。これは『東文選とうもんぜん』をはじめとして、『高麗史古記』『耽羅志』などにも引かれていることであるが、余も実際にこの伝説を調べてみたが、まずその大略はつぎのようである。むかし、高乙那・良乙那・夫乙那という三人の兄弟が穴から出てきたというのである。今日でもその三人がぬけて出てきたという穴がある。そしてよほど神聖の場所としている。さてこの三人は男ばかりで、ハルラサンの上に遊んだりしておった。一日、三人が漢山に登って弓を射ておった。すると南の海岸にひかものがした――この話は各書について少しずつ違うが、ただ梗概だけをいうことにする。――光り物がするから行ってみると、箱が流れてきた。これを三人が開いてみると、中から三人の女と五穀と家畜が出てきた。そこで高が一人を取り、良が一人を取り、夫が一人を取って、ここに三夫婦ができた。そうして三か所の土地にまって、ついに今日の済州島の人ができたと、こういうのである。この女がこない以前というものは、穀物の種もなければまた家畜もなかった。主に猟をして生活をしておった。女が来たがために、持ってきたところの五穀をまき、また家畜を育った。
 その女はどこからきたかというと、日本からきたというのである。最初いたところはどこかというと、済州島の南の延婚浦の鳬桶オルトンという海岸である。小さい湾になっているところへ一つのひついたというのである。それであるから済州島の人間は、日本人に対しては他の朝鮮人とちがって非常に親密な感じを持っている。祖先が一緒であるために、なつかしい感じがする。これは老人などに聞いてみてわかったのであるが、日本の白狼国からきたといっている。白狼という国は直隷省ちょくれいしょうの北のほうにある名前であるが、それではない。この白狼というのは、これを朝鮮語になおすと pek-nang となる。この pek-nang というのはよほど注意すべき点で、わたしはこれはだいたいこうではあるまいかと思うのである。すなわち、わたしの眼をつけているのは北松浦郡五島ごとうである。どうして北松浦郡五島に眼をつけたかというと、済州島の人間もあのあたりを暗々のうちにさしていること、それからここで難破するとかならず北松浦郡五島あたりに船が着く。百中七十までそうである。
 それから天平のときに広嗣ひろつぐが行ったのは五島の値嘉島かのしまからである。そしで現今も聞いてみると、日本の漁船が北松浦郡から船出をして二日かかれば済州島に行く。なおおもしろい証拠がある。値嘉島はすなわち今日の五島で、これは『万葉集』その他で名高くなっている。たいがい日本人が唐のほうへ行くときは、値嘉島から船出をしたものである。これは『肥前風土記』にも見えている。また『万葉集』に筑前国の志賀島しかのしま海人あまが対馬へ船出をするがために、値嘉島に行ってどうか船を出してもらいたいといってたのんで、値嘉島の海人あまが船出をしていくと、まもなくして途中で沈没してしまった。この歌が『万葉集』に数首出ておって名高い歌となっている。それから『続日本紀』の天平十二年(七四〇)十一月の条にある、広嗣の船が値嘉島から船出をして済州島付近に行っている。その関係から第一注意したいのであるが、『肥前風土記』の北松浦郡の値嘉島の条を読むとこういうふうに書いてある。前のほうは略すが、ここによほどおもしろいことは、白水郎あまがある。その白水郎あま牛馬に富むと書いてある。それから、この島は停泊する場所が二か所あるが、一つは相子之停あいこのとまり、一つは川原之浦かわらのうらである。前者は二十そうばかりの船を泊めることができる。遣唐使の船はここから発して美禰良久わたりというところに行く。すなわちここは川原之浦の西にある。これから船出して西に渡って行くのである。そうしてこの島の白水郎あまは、容貌隼人に似てつねに騎射を好む。その言語俗人つねびとに異なる、隼人はやとは南人としても、騎射を好むとあれば北方的色彩があるようである)とこう書いてある。この美禰良久についておもしろいことは、mine-raku はあるいは mimi-raku ともなっている。藤井貞幹とう貞幹ていかん氏の説によると、南松浦郡に三井楽みいらくという地名がある。ここであろうと言っている。それから能因のういん法師は、ヒヒラク Hihi-raku といったのであろうと書いている(幽霊が出るという話を書いているところに)。これを多くの学者は打ち消している。このヒヒラク、ミイラク、ミネラクという発音の「ミ」「ヒ」という音は「P」の音になる。ヒヒラク、ミイラクの終わりの Ku は K である。これは日本へ来るとかならず「ク」に変わってくる。そういうふうに考えてみると Pek-nang は Mimiraku, Hihi raku と関係を有してはおるまいか。もう一つは、やはり『肥前風土記』の初めのほうに見えるのであるが、火流ひる浦というのがある。これは藤村光鎮氏は葦北あしきた日奈久ひなぐであろうというのである。するとこの Hinagu という発音もやはり Pek-nang の発音にも似ている。どちらであるか、とにかく余は、これは北松浦郡からかけて南松浦郡五島、それから九州の有明湾〔有明海か〕、肥後の玉那湾のあたりまで詮索せんさくする必要があろうと思う。なお平戸ひらどであるが、平戸の古地名は hira(庇羅)で、すなわち Pira である。これらも参考すべきであろうと思う。そうでなければ彼の『魏志』の倭人伝にあるところの奴国なこく、または狗奴国くなこくであろうか、とにかくこれらは注意すべきものである。
 済州島には神話・伝説としておもしろい話がある。その中の一つをあげてみよう。同島には玄武岩の洞穴が多く存在している。これについて神話・伝説ができている。たとえばこういう話がある。済州の城内から東五里ばかりのところに金盛山があって、ここに金寧窟という大きな穴がある。その穴の中にむかし、大蛇がおった。そして一年に一回、人身ひとみ御供ごくうとして女子を一人献じなければならない。いろいろ山海の珍味とともに一人の女子を窟前にそなえる。そうしないと、その年は雨風がおこって非常な大損害をこうむる。そこで毎年それを実行しておった。あるとき、済州島にきた若い役人がこの話を聞いて、決してそんなはずはない、自分が行って征服しようというので、そこで村のごく屈強な男十四、五人をつれて退治に行った。まず例のごとく、ごちそうと女子を供えておいた。はたせるかな、大蛇が出てきてそれを食おうとするので、はたから矢を射てたちどころにたおしてしまった。ところがその臭気というものは非常なもので、ついにえ得ずしてその人は帰ったが、自分の役所へくかいなや毒気にたおれてしまった。けれども、その人が大蛇を退治してくれたその徳によって、その後はそういう損害がなくなったという話である。この話は、朝鮮の他の方面においてはいっこう聞かないのであって、これは素戔嗚尊すさのおのみこと稲田姫いなだひめの大蛇を退治したときの話に似ている。また、日本武尊やまとたけるのみこと伊吹山いぶきやまで毒気に吹かれておかくれになったということがあるが、この素戔嗚尊や日本武尊のお薨れになった話を一緒にしたような伝説である。これらの伝説は、同島および日本の古伝説と互いに関係を持っている等しい形式の伝説である。
 もう一つの話は、済州島の西南、大静山の付近に淫祠いんしがあって、常に、馬に乗って行くものはかならず馬からおりて礼拝しなければならないということになっている。しかるに、あるとき一人の役人があってそんなはずはないというので、そこへ馬に乗って行った。はたして馬がすくんで歩かない。そこで馬からおりて礼拝し祈祷きとうして、「願わくば、神様のお姿を見せていただきたい」といった。すると、蛇体になって現われてきた。そこでこれを退治した。それから後はそういうことがなくなった。という話がある。どうも済州島には大蛇に関係する話が多い。これらも日本風の色彩をびておりはしないかと思うのである。

   六、結論


 なおこの島には、石器時代の遺跡がある。石器も土器もある。土器は明らかにわが弥生式派のものである。これらの事実は、九州のわが祖先の有史以前と関係を有するものであり、また、わが九州と朝鮮とを連絡するものである。
 この島と朝鮮陸地との関係についてはいまさらいうまでもないが、さらに南部シナ人および沖縄人などの漂流についての伝説も残っており、そのほか種々おもしろい事実もあるが、これらを総合するとよほどおもしろい結論を得られるのである。
 要するに済州島というところは、朝鮮と日本とを結着するにもっとも注意すべきところである。なお、済州島のみならず多島海においてもごくおもしろい風俗などが残っている。それゆえに余の考えでは、朝鮮と九州とを結びつけるにはどうしても済州島をもってしなければならない。また、中国の出雲系統のほうに結びつけるには江原道こうげんどうからかけて慶尚道けいしょうどうへ持ってきて、鬱陵島を足だまりにしなければならない。壱岐対馬のごときはむしろ島嶼とうしょというよりは、立派な日鮮両地に架せられたる大きな橋であるといってよい。(つづく)



底本:『日本周囲民族の原始宗教』岡書院
   1924(大正13)年9月20日発行
   1924(大正13)年12月1日3版発行
入力:しだひろし
校正:
xxxx年xx月xx日作成
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日本周圍民族の原始宗教(四)

神話宗教の人種學的研究
鳥居龍藏

 民族學上より見たる濟州島(耽羅)

[#ここからリード文]
九州と南朝鮮との間に濟州島といふ島がある。此の島は民族學上將た原始宗教上どんな状態にあるか、私は此處で調査した一斑を話して見たい。
[#リード文ここまで]

   一、總説

 朝鮮の南、即ち慶尚南北道全羅南道及多島海等は、大陸と日本との關係上最も注意すべきものであつて、從來我國の學者にも此點は注意されて居つた所である。余は嘗て主として人類學上の立場から此の地方を調査した。其の調査の項目は身體の測定、過去の民族の遺跡、乃至は現今彼等の間に行はれて居る風俗習慣等の調査であつた。茲では主として其の多島海中の濟州島に於ける部分を記す事とする。濟州島は其の位置が九州と朝鮮との中間に當つて居る。多島海と云ふのは全羅道の南の方にある所の無數の島々、及び慶尚南道の南の方に入り込んで居る所の島々を指すのである。

   二、濟州島の稱呼

 現今此の島を濟州島と云ふけれども、古くは耽羅(Tamra)と云つて居た。朝鮮ではrとlの音が出來ないので、Tamna と云つたのである。是は漢字で或は耽牟羅と書き或は耽浮羅、又憺羅とも書き、尚ほ、屯羅とも書く。耽牟羅と云ふのは支那の『北史』に見え、憺羅と云ふ字は『唐書』に、屯羅と云ふのは『宋史』に、渉羅と云ふのは『北史』に見える。斯樣にいろ/\に書いて居るが、要 る[#「要 る」は底本のまま]に發音は皆 Tamra(Tamna)になるのであつて、孰れも音に似て書いて居るのである。面白いことは Tamra と云ふのが彼の新羅の脱解王の傳説に日本の多婆那國から來たと云ふが、此の多婆那と云ふのも音が似て居る。それから肥後《ひご》の玉名にも發音が似て居る。或は丹波なども發音がよく似て居る。兎に角地名を Tamra といつて居たのである。

   三、歴史上に現はれたる濟州島

 此の耽羅と云ふ名は何時頃から見えるかと云ふと、『東史』に依れば宋の元熙四年に始めて百濟國に貢物を遺[#「遺」は底本のまま]はした事が見えて居て、これは百濟の文周王の二年である。今より一千四百四十五年以前にあたる。『後魏書』に據ると後魏の正始の頃にも見えて居て渉羅と書いて居る。渉羅は百濟の併す所となつたと記して居る。尚下つて『北史』『隋書』『唐書』『通典』『册府元龜』等にも此の耽羅のことが見えて居つたが、段々後になつて百濟の盛んな時分に百濟に併せられ、又新羅が盛んになつて新羅に併せられたのである。『韓昌黎集』には「海外諸國若耿浮羅[#「耿浮羅」に白丸傍点]流求[#「流求」に傍点]之屬東南際天也」と記して居て、流求と相對して居るのは最も面白い。此耽羅の國が日本で最も古くから知られて居つたのは繼體天皇の二年である。『日本紀』の繼體天皇の條に、「二年冬十月、南海中|耽羅《とら》人、初通[#二]百濟國[#一]」と云ふ文が見えて居る。是が一番古い記事である。彼と我が國と始めて公式に交通をしたのは何時頃であるかと云ふと、齊明天皇の七年五月である。此の時分に始めて濟州島の人が交通して來たのである。日本の發音は耿羅と云つて『日本紀』に出て居る。彼等の日本へ來た原因は我が遣唐大使が歸りがけに流されて、此の島に行つたのである。さうして其處の王が船を遣り人を附けて歸して寄來した。それから天智、天武、持統の御代に至るまで互に交通往來して居つた。向ふから來た方が寧ろ多く、日本から行つたのは少ない。即ち『日本紀』に天武天皇十年に大使犬養連|手繦《たすき》、小使川原連|加尼《かね》等を耽羅に遣はした。さうして十三年に歸朝して居る。彼が新羅に併呑されてから後は全く斷えて了つたのである。それは持統天皇の五年である。是が耽羅の日本へ來た最後である。「日本紀」に斯う云ふことを書いて居る。「持統天皇五年に[#傍点]耽羅朝貢し、其後耽羅が新羅に併せられて朝貢を絶ゆ[#傍点終わり]。」と云つて居る。兎に角日本と深い關係のの[#「のの」は底本のまま]あつたことは之に依つて知れるのである。殊に朝鮮の史料と云ふものは極く少ない。『日本紀』に見えて居る記事は十五六箇所しかないが、向ふから來た役人の名前とか、或は名前も知れて居て大切な史料である。是は又別の話に關係するが、日本と深い關係のあつたと云ふことだけは記憶して居つて貰ひたいと思ふ。
 それから日本に於ても耽羅と當時關係が深かつたから其の記事が見えたのであつて、例へば『續日本紀』天平十二年十一月の條に、彼の廣嗣の亂の時に、廣嗣が船に乘つて北方の島に遁れやうとしたことがある。さうして船に乘つて居る者が此の島は耽羅の島であると言つたことが見えてゐるのである。尚ほ『續日本紀』の聖武天皇天平三年の條に「天平三年六月乙亥、定雅樂寮雅樂生員、大唐樂三十人 [#全角あきは底本のまま]百濟樂二十六人、高麗樂八人、新羅樂四人、耽羅樂六十二人[#「耽羅樂六十二人」に白丸傍点]」とある。之に因て文化の程度も知ることが出來る。それから『延喜式』の中に濟州島に「耽羅薄鰒《とらのいか》」と云ふのがある。是は同書に「肥後《ひご》耽羅鰒《とらのいか》」と並列して居る。斯う云ふことが見える。それから『今昔物語』の三十一の所を見ると、九州の或國の人が度羅の島と云ふのが北の方にあるが、どん [#「どん 」は底本のまま]島かと思つて見に行つて散々の態で歸つて來たことが見える。さういふ風に日本では耽羅の島と假令公式の往來はなかつたとしても、當時互に非公式の交通のあつた事が知れる。是から斯くの如き日本に關係のあつた所の耽羅のことに就いて述べようと思ふのである。

   四、自然地理、地質學上より見たる濟州島

 耽羅は今日の濟州島である。同島は現今朝鮮全羅南道の中に這入つて居つて、木浦を去ること南方九十二浬 [#「浬 」は底本のまま]所に在る。全羅道には多島海があつて無數の島嶼がある。海軍の水路部などの圖に載つて居らぬ島がある。どれだけまだ少さな[#「少さな」は底本のまま]島があるか殆ど分らぬさうである。非常に島の數が多い。現今總督府の方でも島に人間の居るのを近頃發見する位の状態である。其の中で大きな島は珍島、莞島、巨文島、鍬子島[#「鍬子島」は底本のまま]、南海島、巨濟島と云ふ樣な島である。濟州島の南には最早島はないのである。即ち朝鮮の極南にあるのである。東の方は丁度壹岐と對馬の間に面して居る。東南の方は九州の北松浦郡及五島と相對して居る。西の方は支那の山東省の突端から楊子江[#「楊子江」は底本のまま]の河口に面して居る。山東省の岬角から楊子江[#「楊子江」は底本のまま]の河口までに至る海岸線は東に向つて弓状を呈して灣曲して居る。其弓状を呈して居る所に向つて濟州島が存在して居ると云つて宜いのである。さうして此の濟州島の面積は百二十二方里、廣さは東西約二十里、南北約六里、地質學上其地盤は全くバザルト(Basalt)から出來て居るのであつて、即ち火山岩からなつて居る。此處の火山が餘程面白い。小藤博士に從ふと此處の火山はまだ活て居ると云ふのである。と云ふは『高麗史』を見ると此の島に噴火した記事がある。それが若し事實となれば此 [#「此 」は底本のまま]火山と云ふものはまだ活きて居ることになる。それからバザルトから出來て居るために此地形は中央に頗る高い富士山形の圓錐形を呈した山が立つて居つて、それからラバ流の爲めに自然に裾野が出來て海岸線に行つて居る。其中央の山の高さと云ふものは六千五百五十八呎で、此の山を漢《かん》※[#「如/手」、第4水準2-13-8]山と云ふ。今日は頂上は噴火して居らぬが、時々噴火したものと見えて、山に彼方此方噴出した跡が見える。島の地質は全く玄武岩だけで他の地層はなく、土壤と云ふものは極く少ない。さうして漢※[#「如/手」、第4水準2-13-8]山の頂上には湖が自然に出來て居て之を白鹿潭と云ふ。
 南朝鮮の陸地及多島海の島々の地質はグナイスやグラニツトなどから出來て居るが、濟州島は是等の地層はなく他と異なつて悉く玄武岩から出來て居る。即ち火山岩である。是を地質學上から云へば、多島海及朝鮮の陸地と續がらない。時代も極く後に噴出した火山の地形である。かゝる關係であるが爲に、人の住んで居る状態は、なほ後に述べるつもりであるが、主として海岸によつて居る。又火山質の關係上から裾野をなして居る所にも住んで居る。即ち山手の方と海岸に居る。山手の方は比較的高い所迄住んで居る。自然地理の状態はどう云ふ風になつて居るかと云ふと、濟州島は南に偏して居る爲めに朝鮮から見ると餘程温かいのみならず、南から來る所の黒潮がこの島の西岸に打突かる關係から氣候は一層温い。温度は一番寒いときで三十度を下らず、一番暑いときで九十五度を昇つたことがない。なほ黒潮が南から來て西に打突かるために氣候の關係は南と北とに依つて多少の相違を見られる。植物については、一體朝鮮は元は樹木が非常に多かつたのであるが濫伐の結果だん/\之れを失つたので、濟州島も亦其通り下の方は伐り盡して了つて居る。がこの島には尚上の方には樹木が森林をなして居る。即ちシデとかリヤとかオモノ木と云ふ樣な樹が森林を爲して居る。それが故に日本人はこの樹木を利用して推茸[#「推茸」は底本のまま]の製造を盛んにやつて居る。
 茲に餘程注意すべきことは、黒潮の關係上、濟州島には南方から流れて來る物が澤山あることである。例へば椰子の實であるとか、フジの實であるとか、又は大きな竹であるとか、動物ではオウム貝の樣なものが流れて來る。魚類についても勿論である。誰も知る如く、臺灣本島には檳榔はあるが椰子は其影さへも島中には見る事が出來ない。紅頭嶼に至つて初めて之れを見る事が出來るのである。之れによつて見れば、この濟州島の西海岸岬邊に流れ寄せる椰子は遙か比律賓方面より來るものに相違ない。なほ面白いことには、西海岸から南の海岸にかけて芭蕉が流れて來ることがある。是も多分南方から來るものと思はれるのである。それから臺灣の海岸等に於てよく見る所 [#「所 」は底本のまま]もので、海岸の砂地にあつて踏めば薄荷の樣な香がする草が澤山ある。是も潮流に持つて來られたものと思はれるが、この島の海岸に生えて居る。
 此島には大きな河はない。瀑布が少しある位な事である。島の面積は前述の通り百二十二方里、廣さは東西約二十里、南北約六里、中央に漢※[#「如/手」、第4水準2-13-8]山が立つて居て其の周圍はラバ流の爲めに裾野をなして延長して居るが、海岸は北の方は屹立して居つて良い海灣がない。南の方には僅に彼方此方に海灣が見られる。人口は十萬五千七百五十四人、其内男が五萬千八百十七人、女は五萬三千九百三十七人、即ち男より女の方が二千百二十人多い。昔から女の方が多い島である。さうして之に對する戸數は三萬二千二百二十八戸である。島の割にすると戸數が多い譯になる。それが爲めに村落の有樣なども非常にかたまつて存在して居る。旅行して見ると部落と部落、村落と村落との距離が非常に接近して居る所が多い。或所では村が町に變化しかゝつて居る状態も認められる。即ち三丁四丁の長さに亘つて一筋道に發達して行く傾が見えるのである。
 以上の如く濟州島の地形は中央に高い山があつて(之れは朝鮮第一の高山)、而して周圍の海岸と裾野とに人が居ると見れば間違ひないのである。

   五、土俗學上より見たる濟州島

 次に Ethnography の方から云ふと、此の島の住民は凡そ二つに別ける事が出來る。海岸に住んで居る者と、山手に住んで居る者で、前者を浦村人[#「浦村人」に傍点]と云ひ、後者を山村人[#「山村人」に傍点]と云ふ。即ち之れを日本の古代風に云ふと大山祇《おほやまづみ》と海神《わだづみ》と云ふものに當る。海岸に居る者は農業と海女《あま》とを營んで居る。朝鮮に於て海女の居るのは濟州島だけである。山手に居る者は農業及び牧畜をやつて居る。牧畜は裾野がある爲に大變盛んで、又其結果牛馬が非常に多い。近頃の調べに依ると、大概一軒に一つの牛と馬とを持つて居る。とすると先づ濟州島だけに馬の數は三萬以上あるが、牛の數も三萬以上ある譯になる。そして之等は放し飼になつて居る。裾野の方には牧草が澤山あるので牧畜としては最も都合が宜い。

    住居

 島民の住居は丁度沖繩に似て居る。沖繩諸島は珊瑚礁から出來て居る爲に石灰岩の岩が地上に露出して家の礎とか、周圍を遶らす所の石垣も殆ど岩である。地盤も無論岩で、鹿兒島の人が謠つて居る「琉球におじやるなら草鞋穿いておじやれ、琉球は石原小石原」と云ふ譯だが、濟州島も地盤は玄武岩の岩石からなつて居るからそれと同じく「濟州島におじやるなら草鞋穿いておじやれ、濟州島は石原小石原」と云つたら宜からうと思ふ。これがために牧場なども石垣で出來て居る。それから墓も石垣で蔽うて居る。畑もその境界は石を以て出來て居る。實に石垣の島である。それ故に家も地盤は岩であるし、さうして周圍も石で圍つてある。石で圍つて又箇々に石の圍ひが出來て又其外に石垣があると云ふ風である。朝鮮の家では何處でも凡てオンドルを用ゐて居るが、濟州島にはオンドルが近年までなかつたのが、郡守が命じてこしらへさせる樣になつた譯で近頃の事である。朝鮮では家と竈は一所になつて居つて、御飯を炊き或は煮物などをしたところの火がオンドルを傳はつて行つて室が暖まる樣になつて居る。けれども濟州島は日本と同じやうに別々の竈になつて居る。是が餘程違つた所である。島民は元は穴居して居つたものである。之れはどうして分るかと云ふと『新唐書』を見ると、斯う云ふ事が書いてある。「唐高宗龍朔初、有憺羅[#「憺羅」に白丸傍点]者、其王儒李都羅遣使入朝、王居新羅武州南島上、俗朴陋、[#白丸傍点]衣犬豕皮、夏居草屋、冬窟室[#白丸傍点終わり]……」即ち穴に住つて居つたことが之れで知られるのである。尚ほ今日朝鮮の多島海でこの風習を見る所がある。余は鍬子島[#「鍬子島」は底本のまま]で之れを見た。この穴居は所謂竪穴[#「竪穴」に白丸傍点]である。之れに就て面白いことは『三國志』の『魏志』の中の「東夷傳」の「馬韓傳」の記述である。即ち斯う云ふことが書いてある。「居處作草屋[#「草屋」に白丸傍点]土室[#「土室」に二重丸傍点]、[#白丸傍点]形家、其戸在上、擧家共在中[#白丸傍点終わり]」で、馬韓人は草屋を造り、形は塚の如く、戸は上にある。家を擧げて中に在りと。是は古く堪察加《カムサツカ》のカムチヤツカダールなどがやつて如る[#「如る」は底本のまま]ところの穴居の状態とよく似て居る。さうすると全羅道からかけて濟州島まで、凡てエスノグラフイーの上から云ふと竪穴に住つて居つたのである。
 話が餘談にわたるが、日本でも古い『風土記』などに依ると、土蜘蛛等が肥前、筑前 [#「筑前 」は底本のまま]筑後、豐後等に穴居して居た樣に見える。さうすると Pit-dwellers の風俗と云ふものは朝鮮の西南方の馬韓から濟州島にかけて、それから日本の九州一帶に或時期に行はれて居つた樣に思はれる。此の事に就ては聊か考もあるがこゝには述べることをやめ、唯以上の事を參考までに記しておく。

    習俗

 山に住んで居るものは現今でも犬の皮の帽[#「犬の皮の帽」に傍点]、犬の皮の着物[#「犬の皮の着物」に傍点]を着て居る。之は『新唐書』の記載と合つてゐる。島の風俗は朝鮮の陸地と大差はないが異なつた點も二三ある。朝鮮人の婦女は凡て頭の上に物を載せる風習があつて、決して背に擔がない。然るに濟州島に於ては決して頭に物を載せない、必ず籠を背負ふのである。丁度九州の肥後あたりの五家の莊から阿蘇あたりにかけてやつて居る樣な風習が見える。竹籠の中に一個の土器を入れて水を汲んで居る。[#傍点]子供を背負ふ時に日本と同じやうな背負方をする[#傍点終わり]事や、藁をうつ風[#「藁をうつ風」に傍点]などは是は日本から來た風習であると云つて居る。それから馬の毛で編んだ所の笠を被ぶる。是は他に於て見られない風習である。又草を以て一種の笠を造る風習、是も他に於て見られない風習である。物を背負ふ時半胴着の樣な物を着るが、此の半胴着の裙 [#「裙 」は底本のまま]所には色々の幾何學的の紋樣を縫取して居る。是等も陸地に於ては見えない。なほ家の造り方も違つて居る。又前述の犬の皮の帽或は衣服と云ふものを山の方では今も用ゐて居る事なども違ふ風習である。こゝに著しく違つた風習がある。それは漁師の海岸の仕事場に行くと網を入れる爲に造つてある小舍である。これは其の四本の足場の柱を高くし、之れに鼠の這入らぬやうに其の上部に木の鍔を入れて作つてある。是は日本の伊豆の八丈、沖繩、臺灣、比律賓諸島等にかけてある所のものであつて、今日決して陸地の朝鮮人はやらない。けれども北海道、樺太、黒龍江、烏蘇里江畔には之が存在する。

    言語

 濟州島の言葉は固より朝鮮語であるが、フオネチックの方から云ふと餘程違つて居る樣である。余が甞てこの島を訪ねた折通譯として最もこの島に接近する全羅南道の朝鮮人を伴つたことがあるが一向通じなかつた。況んや京城あたりの者では通じない。餘程發音が違ふ。此のフオネチックの違ひと云ふものはどれだけ値打があるか、是等はグランマーやボカボラリーの研究と相待つて研究しなければならないことであると思ふ。この事に就ては朝鮮總督府の小倉文學士が既に調べられて各所の雜誌に發表されて居る。

    生業

 食物は主として穀物、魚類、貝類等を以てして居る。農作物は麥、粟、大豆、蕎麥等が主となるものである。水田は水が乏しい所であるから僅に水のある場所だけでやつて居る。飮用水は非常に困難であつて海岸の潮の干いたときに岩から噴出る水があつてそれを汲んで來るのである。潮が滿ちて來ると最早汲む事は出來ない。それがために潮の滿ちない前に運ばなければならぬので、其時間中は濟州島の奇觀である。徳利の樣な土器に女子が水を汲んで來るのであるから、何度も往來して家の内の水甕を滿たす迄には餘程時間がかゝる。兎に角一種の奇觀である。農業は岩の外の土壤のある所や、岩をかきならして耕して居る。農具には鋤、鍬などを用ゐる。海岸の漁師は筏を組んで、それに乘つて沖へ出て漁りをするのである。近頃大分船が這入たが、濟州島固有のものは筏である。さうして男は筏に乘つて之を漕ぎ、女は海女《あま》をする。海女は頭を手拭で縛つて、體には半股引樣のものをつけて海中に這入る。此の時は其傍に大きな瓢箪を上方だけ切つて中程から殘つて居るものに網をつけたものを浮して置く。さうして海底に這入り鮑などを取つて上に浮き上りこの網に入れるのである。此瓢はなか/\沈まない。此の瓢が五ツ六ツあれば正しく船の代用をする。彼の新羅の傳説の瓢公が瓢に乘つて來たと云ふ事もこんな風習から出た話ではあるまいか。余の郷里の四國では水練の稽古をする時に紺の褌を締めるが、此の場合に瓢箪の畫をそめ出す風がある。其等も何か關係があると思ふ。海女《あま》のことに就いてはなほ詳しく記したいのであるが、長くなるから止めることにする。
 昔の我が九州の値嘉島の海人《あま》を初めとし、現今日本内地の海女《あま》の風習に就ても餘程比較研究して注意すべきものである。海女と云ふものは濟州島に限つて居る。他の朝鮮には何處にもない。余は甞て同島に於て體格の調査を八ケ所ばかりで行つたが、殊に海女を注意して調べた。是は最も氣を附けねばならぬと思つたからである。
 さう云ふ風であるから濟州島は山には農業及牧畜の幸《さち》があり、海岸には農業や又殊に海の幸がある。即ち漁業農業牧畜と云ふものをやつて居るのである。尚其の牧畜が本島に起つた歴史的由來を話して見よう。
 此の島が一時高麗に屬して居つた時に謀反人が出來た。さうして濟州島の方から高麗の朝廷に向つてどうか謀反人を征服して貰ひたいと云つた。高麗朝からは兵隊を出したが、反對に謀反人の爲めにやられた。其處で丁度蒙古の元がこの頃この高麗に向つて行政權を執つて居た時で、なか/\その勢力があつたので蒙古に頼んだ。蒙古人は得たりかしこしで、蒙古兵が來て雜作なく賊を退治して了つた。それが爲めに蒙古の關係の島になつて了つた。元が元軍民總官府と云ふ官廳を設けて、蒙古の役人が此の島を支配することになつた。其の時に濟州島を二つの阿幕と云ふものに分けて支配した。阿幕と云ふのは蒙古語の Aimak(盟)と云ふ事で、即ち一つの同盟であるから此の阿幕と云ふのは東の同盟、西の同盟と云ふことであると思ふ。さうして丁度漢※[#「如/手」、第4水準2-13-8]山の中腹以下には牧草が多くて牧畜に最も都合が宜いので其所で蒙古人は牧畜をやつて居つた。其蒙古人が去つた後に今云ふ通り家畜が殘つて居るのである。最初蒙古人が伴れて來た家畜は何う云ふ種類かと云ふと、牛、馬、駱、驢、羊等であつた。然るに現今は羊、駱と云ふものは最早絶滅して了つて、馬と牛だけしかない。そして漢※[#「如/手」、第4水準2-13-8]山の裾野の方で牧されて居る。

    宗教

 次に濟州島には巫人《みこ》のする面白い儀式がある。此の島の巫人の數は非常に多くて、殆ど朝鮮の總べての所と比較して此所程多い所はあるまいと思ふ。余は調査の折總督府の方へ頼んで儀式をさせて貰つたのであるが、儀式の時分には百人ばかりの巫人が集まつてするのである。殊に正月の元旦にする儀式がある。これを見たが、これは「春耕」と云ふ舞踏である。所謂默劇[#「默劇」に傍点]であつて、言葉を云はぬ一つのドラマである。先づ最初に天下太平國土安穩の文句を神樣に述べて、次ぎに默劇が始まるのである。各々面を被ぶる、最初に先づ百姓が出て來て種を蒔く。次ぎに鳥の形を被つたものが出て來て之を突ッつく。さうして男女が畑に出て農業をすると云ふ樣に、つまり農業の有樣を男女がするのである。其次ぎに女子を奪合ふ一つの芝居に移る。さうして最後に惡魔を退治して其年は五穀豐穰になつたと云ふのである。是は餘程面白い。之れによつて見ても農業に關係して居ると云ふことが分かる。そうして被つて居る面と云ふものは正しく舞樂にあるものと思はれる。日本の音樂史の上に於て耽羅の樂と云ふものは何う云ふものでやつたか[#「やつたか」は底本のまま]今傳はつて居ない。唯『續日本紀』に耽羅の樂人六十四人を定めたと云ふことが天平十二年の條に見えるのであるが、茲で見るこの舞踊は、所謂耽羅の古い樂が遺つて居るものではないかと思はれる。是は何かの機會に發表しようと思つて居る。
 朝鮮の内地の男は儒教の感化を受けた關係であらうが、殆ど形式に流れてゐるが、この島のものには天眞爛漫の所が見える。例へば女が畑に出て仕事をするとき、又漁師の妻が海女になつて仕事をするときに盛んに歌を唄ふ。濟州島固有の歌であるが、餘程ロマンチックの所がある。それが風俗上に於て見えるのは臼搗き歌である。日本でも臼搗くときに唄ふが、濟州島でも其風習が男女間殊に女子の間に行はれて居る。臼は日本のものと同じく、杵も丁度兎が月の中で臼搗いて居る樣なものである。これで穀物を搗く時、女子が二人三人集つて唄ふ。それは斯う云ふ歌である。
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伊呂《いろ》島、伊呂島、我が夫《せ》の君は遠き遠き島に漁りに出で給ひしが、未だ歸り來まさず。我がいとしの君の舟は海原《うなばら》にて破れ、海底《うみそこ》の藻屑《もくづ》とやなり給ひけん。あゝとく歸りませ。とくとく歸りませ。
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 斯樣に唄つて臼を搗くのであるが、彼等の生活と云ふものが、遺憾なくこれ等の歌の上に現はれて居て中々ロマンチックの所がある。なほ旅行して見ると各牧場に居る者が唄つて居る。餘程愉快に活溌な所も見えて、日本流の氣象が現はれてゐる。女子が男子に接しても恐れないのは一つの違つた點である。

    柑橘類と濟州島

 次に同島の柑橘類については種々の面白い話があるから記してみよう。柑橘類は濟州島の名物である。其種類を擧げると次の樣なものである。
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柑、柚、乳柑、金柑、洞庭橘、青橘、瓶橘、山橘、唐柚子、倭橘、橙子、大橘、唐金橘、枳橘、石金橘、
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 是等は李朝に奉つたものであるが、又民間でも使つて居る。藥にも用ゐて居る。なか/\各所に多い。殊に其中の瓶橘の如きは、食べて見るとネーブルに似て居る。
 一體柑橘類の産地は濟州島、巨濟島、南海島などが主なるものである。けれども南海、巨濟は主に柚であつて橘の方はない。濟州島では各地に果園と云ふものがある。中流以上の庭園には大概柑橘の樹がある。それから古い邸などの跡に行つて見ると大概柑橘類の樹が多く遺つて居る。是は固より野生ではなく、人間の栽培したものであるが、近頃這入つたとは思へない。餘程古く這入つたものである。一體この柑橘類の原産地は楊子江[#「楊子江」は底本のまま]以南の南部支那の浙江省 温州)[#「 温州)」は底本のまま]、福建省あたりであらうが、此處に來たのは百年や二百年のことでなく、餘程古い時分であつて、殆ど野生の状態になつて居る。是は餘程注意すべきことではないかと思ふ。
 之に就て少し話が餘談に亘るが、前に云ひたいのは『日本紀』『古事記』の垂仁天皇の條に多遲麻毛理《たじまもと》[#「たじまもと」は底本のまま]の事が見えて居る。此れは垂仁天皇が多遲麻毛理に命じて常世國《とこよのくに》に登岐士玖能《ときじくの》迦玖能《かぐの》木實《このみ》を取りにやつた。さうして木實を取つて歸つた時分に、奈何にせん、天皇は既に崩御になつて居られた。それが爲めに折角橘を持つて來たのに殘念であると云ふので御墓に懸けて殉死した。是は名高い話であるが、此常世國と云ふのは何所かと云ふことに就て、此迄學者が餘程議論を鬪はして居る。茲に卓見なのは本居宣長先生である。『古事記傳』に據ると斯う云ふことを言はれて居る。
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常世國《トコヨノクニ》は、上卷、少名毘古那命《スクナヒコノミコト》段に出て居る如く、皇國《ミクニ》を遙《ハルカ》に放離《サカリ》て、たやすく往還《ユキカ》ひがたき國を泛《ヒロ》く云ふ稱《ナ》なり、……此《ココ》は新羅國を指て云へるなるべし、其故に多遲麻毛理《タジマモリ》は新羅人の末なれば、其國に橘の有て甚美《イトメデタ》き果《コノミ》なることを傳聞居《ツタヘキキオリ》て天皇に語奏《カタリマヲ》せしより此事は起りたるべければなり、(さらではそのかみ、外國の通ひもいまだあらざりしに、橘のあることを所知《シロシ》看すべき由なければなり、さて此は新羅とすべきこと、先づは右の如くなれども、なほ細にいはゞ橘 [#「橘 」は底本のまま]漢國にても南の方に在て北の方の寒き國には無き物ときけば、三韓などには、いかゞあらむ。若し韓には無き物ならば、此の常世國は漢國を云へるならむ、若し然らば先祖の時より漢國に此の果のあることを傳聞き居りてなるべし、此は、なほ今朝鮮國に橘ありや無しやをよく問ひ聞て決《サダ》むべきなり、若し漢國ならむにても、なほ新羅より傳ひてぞ往けむ。
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 斯う云ふ樣に宣長先生は言はれて居る。若し朝鮮になければ此多遲麻毛理の行つたのを支那の南の方に求めるか[#「求めるか」は底本のまま]、然らざれば朝鮮に求める。是は餘程卓見であると思ふ。第一『記』『紀』の文面から見ても、さう思へるのである。多遲麻毛理は『姓氏録』などを見ても三宅連《みやけむらじ》等《ら》之祖《のおや》になつて居る。又彼の祖先は新羅から來た天之日矛《あまのひぼこ》である。彼は固より此島に橘のある事は始めから聞き傳へて居つたのであらう。知つて居らなければ行く譯はない。若しも濟州島と之を見れば解釋が付き易いであらう。私は濟州島であらうと思ふ。宣長先生の裏書をするやうであるが、是は宣長先生の言はれた如く橘は朝鮮にある。朝鮮に此があれば常世國は之に持つて行つても差支ない。唯々不條理のあるのは年數である。濟州島へ行くならば、彼は多くの年數を費す必要はなからうと云ふ話であるが、併し天武天皇の時に、日本の使者が濟州島へ行つて歸つて來る迄にやはり三年かゝつて居る。此等から考へると向ふに滯在して居つたと解釋すれば差支ないのである。さうすると濟州島は常世國であつて、さうして彼が行つたのは濟州島である。斯う云ふ風に解釋しても差支へない。何しろ多島海に於て橘のあるのは此島だけである。柚の方は海岸線の島々にあるが、橘はない。是が若しあるとすれば何うしても温州からかけて福建に持つて行かなければならぬ。是も必要である。濟州島に既にあると云ふことならば宣長先生も此方に持つて行かれたであらうと思ふ。常世國と云ふ名は固より濟州島ばかりではない。他の支那等も言つたであらうが、少くも濟州島も此常世國の中に這入つて居たと思ふ。此の點に行くと新井白石先生は最も卓見である。既に其著『東雅』の第十四卷、『果※[#「くさかんむり/(瓜+瓜)」、第4水準2-86-59]』の所で『橘』に就て斯んなに書いて居られる。
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……日本紀に、「昔新羅王子|天日矛《アマノヒボコ》といふ者。[#句点は底本のまま]但馬の國に來り留りて、其の國の人の女を娶りて子をうむ。これを但馬諸助といふと見えたり。又姓氏録には三宅連は、新羅國王子天日矛命の後也と見えたり。さらば多遲麻毛理としるし、田道間守としるされしは、但馬の國人にして、天日矛の後なり。其世次の如きは、古事記、日本紀等に詳なり。常世國と云ひしは、古の新羅國即今朝鮮の濟州[#「濟州」に二重丸傍点][#白丸傍点]をいふなるべし。今も彼地方にしては、此島にのみ柑橘を産しぬればこれを以て國の珍とするなり[#白丸傍点終わり]。[#傍点]韓地の如きは田道間守が祖先の國なりしかばかく使せしめられし事と見えたり[#傍点終わり]。
[#ここで字下げ終わり]

    神話、傳説

 次に神話のことである。濟州島の人間の起原に就て斯う云ふ風に傳へて居る。是は『東文選《とうもんぜん》』を初めとして、『高麗史古記』『耽羅志』などにも引かれて居ることであるが、余も實際にこの傳説を調べて見たが、先づその大略は次の樣である。昔、高乙那、良乙那、夫乙那と云ふ三人の兄弟が穴から出て來たと云ふのである。今日でも其三人が拔けて出て來たと云ふ穴がある。そして餘程神聖の場所として居る。さてこの三人は男ばかりで、漢※[#「如/手」、第4水準2-13-8]山の上に遊んだりして居つた。一日、三人が漢※[#「如/手」、第4水準2-13-8]山に登つて弓を射て居つた。すると南の海岸に光り物がした※[#二重ダッシュ]此話は各書に就いて少しづゝ違ふが、唯※[#二の字点]梗概だけを云ふことにする。※[#二重ダッシュ]光り物がするから行つて見ると箱が流れて來た。之を三人が開いて見ると中から三人の女と五穀と家畜が出て來た。そこで高が一人を取り、良が一人を取り、夫が一人を取つて、此所に三夫婦が出來た。さうして三箇所の土地に住まつて、遂に今日の濟州島の人が出來たと、斯う云ふのである。此女が來ない以前と云ふものは、穀物の種もなければ又家畜もなかつた。主に獵をして生活をして居つた。女が來たが爲めに、持つて來た所の五穀を播き、又家畜を育つた。
 其女は何所から來たかと云ふと日本から來たと云ふのである。最初着いた所はどこかと云ふと、濟州島の南の延婚浦の鳬桶《オルトン》と云ふ海岸である。小さい灣になつて居る所へ一つの櫃が着いたと云ふのである。それであるから濟州島の人間は日本人に對しては他の朝鮮人と違つて非常に親密な感じを有つて居る。祖先が一緒である爲めに懷かしい感じがする。これは老人などに聞いて見て分かつたのであるが、日本の白狼國から來たと云つて居る。白狼と云ふ國は直隷省の北の方にある名前であるが、それではない。此の白狼と云ふのは之を朝鮮語に直すと 〔pe'k-nang〕 となる。此 pek-nang と云ふのは餘程注意すべき點で、私はこれは大體斯うではあるまいかと思ふのである。即ち私の眼を着けて居るのは北松浦郡五島である。どうして北松浦郡五島に眼を着けたかと云ふと、濟州島の人間もあの邊を暗々の裡に指して居ること、それから此所で、難破すると必ず北松浦郡五島あたりに船が着く。百中七十までさうである。
 それから天平の時に廣嗣が行つたのは五島の値嘉《ちか》島からである。そしで現今も聞いて見ると、日本の漁船が北松浦郡から船出をして二日かゝれば濟州島に行く。なほ面白い證據がある。値嘉島は即ち今日の五島で、是は『萬葉集』、其他で名高くなつて居る。大概日本人が唐の方へ行くときは値嘉《ちか》島から船出をしたものである。這は『肥 [#「肥 」は底本のまま]風土記』にも見えて居る。また『萬葉集』に筑前國の志賀島の海人《あま》が對馬へ船出をするが爲めに、値嘉島に往つて何うか船を出して貰ひたいと云つて頼んで、値嘉島の海人が船出をして行くと、間もなくして途中で沈沒して了つた。此歌が『萬葉集』に數首出て居つて名高い歌となつて居る。それから『續日本紀』の天平十二年十一月の條にある廣嗣の船が値嘉島から船出をして濟州島附近に往つて居る。其關係から第一注意したいのであるが、『肥前風土記』の北松浦郡の値嘉島の條を讀むと斯う云ふ風に書いてある。前の方は略すが、茲に餘程面白いことは、白水郎《あま》がある。其|白水郎《あま》は牛馬に富む[#「牛馬に富む」に白丸傍点]と書いてある。それから此島は碇泊する場所が二箇所あるが、一つは相子之停《あびこのとまり》[#「あびこ」は底本のまま]、一つは川原之浦《かわらのうら》である。前者は二十艘ばかりの船を泊めることが出來る。遣唐使の船は此所から發して美禰良久《みねらく》の渡《わたり》と云ふところに行く。即ち此處は川原之浦の西にある。これから船出して西に渡つて行くのである。さうして此島の白水郎《あま》は、容貌隼人に似て恒に[#「容貌隼人に似て恒に」に傍点]騎射を好む[#「騎射を好む」に白丸傍点]。其の言語|俗人《つねびと》に異る。(隼人は南人としても、騎射を好むとあれば北方的色彩がある樣である)と斯う書いてある。此美禰良久に就いて面白いことは mine-raku は或は mimi-raku ともなつて居る。藤井貞幹氏の説に依ると、南松浦郡に三井樂と云ふ地名がある。此處であらうと云つて居る。それから能因法師はヒヽラク Hihi-raku と云つたのであらうと書いて居る。(幽靈が出ると云ふ話を書いて居る所に)之を多くの學者は打消して居る。此のヒヽラク、ミイラク、ミネラクと云ふ發音の「ミ」「ヒ」と云ふ音は「P」の音になる。ヒヽラク、ミイラクの終の Ku は K である。是は日本へ來ると必ず「ク」に變はつて來る。さういふ風に考へて見ると 〔Pe'k-nang〕 は Mimiraku, Hihi raku と關係を有しては居るまいか、[#読点は底本のまま]もう一つは矢張『肥前風土記』の初めの方に見えるのであるが、火流《ひる》浦と云ふのがある。是は藤村光鎭氏は葦北《あしきた》、日奈久《ひなだ》[#「ひなだ」は底本のまま]であらうと云ふのである。すると此 Hinagu と云ふ發音もやはり 〔Pe'k-nang〕 の發音にも似て居る。どちらであるか、兎に角余は是は北松浦郡からかけて南松浦郡五島、それから九州の有明灣[#「有明灣」は底本のまま]、肥後の玉那灣の邊まで詮索する必要があらうと思ふ。尚平戸であるが、平戸の古地名は hira(庇羅)で即ち Pira である。此等も參考すべきであらうと思ふ。さうでなければ彼の『魏志』の矮人傳[#「矮人傳」は底本のまま]に在るところの奴國、又は狗奴國であらうか、兎に角此等は注意すべきものである。
 濟州島には神話傳説として面白い話がある。其中の一つを擧げてみやう。同島には玄武岩の洞穴が多く存在して居る。之に就いて神話傳説が出來て居る。例へば斯う云ふ話がある。濟州の城内から東五里許の所に金盛山があつて、此處に金寧窟と云ふ大きな穴がある。其穴の中に昔大蛇が居つた。そして一年に一囘人身御供として女子を一人獻じなければならない。いろ/\山海の珍味と共に一人の女子を窟前に供へる。さうしないと其年は雨風が起つて非常な大損害を蒙むる。そこで毎年それを實行して居つた。或時濟州島に來た若い役人が此話を聞いて、決してそんな筈はない。自分が行つて征服しようと云ふので、そこで村の極く屈強な男十四五人を伴れて退治に行つた。先づ例の如く御馳走と女子を供へて置いた。果せる哉、大蛇が出て來てそれを食はうとするので、傍から矢を射て立所に斃して了つた。所が其臭氣と云ふものは非常なもので、遂に堪へ得ずして其人は歸つたが、自分の役所へ着くか否や毒氣に斃れて了つた。けれども其人が大蛇を退治して呉れた其徳に依つて、其後はさういふ損害が無くなつたといふ話である。此話は朝鮮の他の方面に於ては一向聞かないのであつて、これは素盞嗚尊が稻田姫の大蛇を退治したときの話に似て居る。又日本武尊が伊吹山で毒氣に吹かれてお薨れになつたと云ふことがあるが、此の素盞嗚尊や日本武尊のお薨れになつた話を一所にした樣な傳説である。是等の傳説は同島及び日本の古傳説と互に關係を有つて居る等しい形式の傳説である。
 もう一つの話は、濟州島の西南、大靜山の附近に淫祠があつて、常に馬に乘つて行くものは必らず馬から下りて禮拜しなければならないと云ふことになつて居る。然るに或時一人の役人があつてそんな筈はないと云ふので、其所へ馬に乘つて行つた。果して馬がすくんで歩かない。そこで馬から下りて禮拜し祈祷して「願はくば神樣のお姿を見せて頂きたい」と云つた。すると蛇體になつて現はれて來た。そこで之を退治した。それから後はさういふことが無くなつた。と云ふ話がある。どうも濟州島には大蛇に關係する話が多い。此等も日本風の色彩を帶びて居りはしないかと思ふのである。

   六、結論

 尚ほ此の島には、石器時代の遺跡がある。石器も土器もある。土器は明に我が彌生式派のものである。此等の事實は九州の吾が祖先の有史以前と關係を有するものであり、又我が九州と朝鮮とを連絡するものである。
 此の島と朝鮮陸地との關係に就いては今更云ふ迄もないが、更に南部支那人及沖繩人などの漂流に就いての傳説も殘つて居り、其他種々面白い事實もあるが、此等を綜合すると餘程面白い結論を得られるのである。
 要するに濟州島と云ふ所は朝鮮と日本とを結着するに最も注意すべき所である。なほ濟州島のみならず多島海に於ても極く面白い風俗などが遺つて居る。それ故に余の考では朝鮮と九州とを結着けるにはどうしても濟州島[#「濟州島」に傍点]を以てしなければならない。又中國の出雲系統の方に結着けるには江原道からかけて慶尚道へ持つて來て、欝陵島[#「欝陵島」に傍点]を足溜りにしなければならない。壹岐[#「壹岐」に傍点]、對馬[#「對馬」に傍点]の如きは寧ろ島嶼と云ふよりは立派な日鮮兩地に架せられたる大きな橋であると云つてよい。
(つづく)



底本:『日本周圍民族の原始宗教』岡書院
   1924(大正13)年9月20日發行
   1924(大正13)年12月1日三版發行
入力:しだひろし
校正:
xxxx年xx月xx日作成
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*地名

(※ 市町村名は、平成の大合併以前の表記のまま。一般的な国名・地名などは解説省略。
  • [朝鮮]
  • 済州島 さいしゅうとう/チェジュド (Cheju-do) 朝鮮半島の南西海上にある大火山島。面積1840平方km。古くは耽羅国が成立していたが、高麗により併合。1948年、南朝鮮単独選挙に反対する武装蜂起(四‐三蜂起)の舞台となる。付近海域はアジ・サバの好漁場。観光地として有名。周辺の島嶼と共に済州道をなす。
  • 耽羅 たんら 韓国の済州島の古名および国名。耽牟羅・羅とも書き、「とむら・たむろ」ともいう。「三国志」魏書の韓伝には「言語は韓と同じからず」「船に乗りて往来し、韓中に市買す」とあり、古来韓と倭の海上交通の要衝であった。5世紀末から百済に従属し、百済滅亡後は日本に通交したが、679年新羅に降って属国となる。1105年に高麗の耽羅郡に編成され、13世紀からはモンゴルの支配をうけて、半島内部とは異なる独自の社会を形成した。(日本史)
  • 山 → 漢拏山
  • 漢拏山 ハルラサン/かんなさん (Halla-san) 韓国済州島の主峰。標高1950mで、韓国最高峰。火山活動により形成され、火口湖・寄生火山など特異な景観をなす。/かんださん/ハンラサン、ハルラサン Hanra San 韓国南部、済州道中部のアスピーテ型火山。済州島の中心部に位置。高さ1950m。360ほどの寄生火山があり、旧火口には直径約190mの白鹿潭の円形湖がある。寒・温・暖3帯の植物相が明瞭で、標高200mまでは農業、200〜600mは放牧地帯、600m以上は森林地帯となる。山麓ではミカン栽培が盛ん。山頂一帯は国立公園となる。(外国コン)
  • 白鹿潭 〓 漢拏山の頂上の湖。(本文)
  • 延婚浦
  • 鳬桶 オルトン
  • 済州の城内
  • 金盛山
  • 金寧窟
  • 大静山 済州島の西南。
  • 慶尚南道 けいしょう なんどう/キョンサン ナムド (Kyongsang-nam-do) 韓国南東部の道。慶尚北道の南にあり、東は日本海、南は朝鮮海峡に臨む。蔚山(ウルサン)・馬山(マサン)など工業都市が多い。道庁所在地は昌原(チャンウォン)。
  • 慶尚北道 けいしょう ほくどう/キョンサン プクト (Kyongsang-puk-to) 韓国南東部の道。日本海に臨む。古代、新羅の本拠地。浦項(ポハン)・亀尾(クミ)など工業都市が多い。道庁所在地は大邱(テグ)。
  • 全羅南道 ぜんら なんどう/チョルラ ナムド (Cholla-nam-do) 韓国南西部、黄海と済州海峡に面する道。道庁所在地は光州(クァンジュ)。農業が盛んで、石油化学コンビナートも立地。
  • 全羅道 ぜんらどう
  • 多島海
  • 京城 けいじょう 日本支配期のソウルの称。李朝時代の王都漢城を、1910年(明治43)の韓国併合により改称。朝鮮総督府が置かれた。
  • 度羅の島
  • 江原道 こうげんどう/カンウォンド (Kangwon-do) 朝鮮半島中部、日本海に臨む道。中央を北西から南東に太白山脈が走る。林産・鉱産資源に富む。軍事境界線によって南北に分けられ、北側の道庁所在地は元山(ウォンサン)、南側は春川(チュンチョン)。
  • 慶尚道 けいしょうどう 高麗、李氏朝鮮のころ、朝鮮半島の南東部に置かれた道。北西部に大白山脈が、西境に小白山脈が走り、洛東江が貫流する。古代の辰韓の地で、慶州には新羅の首都が置かれていた。韓国併合後に南北二つの道に分けられた。
  • 鬱陵島 うつりょうとう/ウルルンド (Ullung-do) 朝鮮半島の東岸から東方約140kmにある火山島。慶尚北道に属する。漁業の根拠地。日本では時代により磯竹島・竹島・松島など異なった名称で呼んだ。
  • 珍島 ちんとう/チントウ Jin Do 韓国南部、全羅南道南西部にある島。花源半島の南。鳴港海峡を隔てた対岸に位置。面積447km2。最高峰は尖察山485m。島の北東部および南西部は山地で、北西・南東部に平野がひらける。気候は温和で、綿花・麦・米などが栽培される。牧牛がおこなわれる。漁業はグチ・エビ・タイ漁。(外国コン)
  • 莞島 かんとう/ワンド Wan Do 韓国南西部、全羅南道南西部、莞島郡の島。朝鮮半島南西部、海南半島の南東沖に位置。面積62.6km2。中央部に二つの主峰があり、北頂は468m、南頂は466m。中心集落の莞島の前面にある港は避難港で、沿岸漁業の中心地。ノリ養殖をおこなう。新羅時代は清海鎮を設置し、海賊を防いだ。(外国コン)
  • 巨文島 きょぶんとう/コムンド Geomun Do 韓国南部、全羅南道南部、麗川郡三山面の島。朝鮮半島南部の高興半島南端から南約43kmに位置。東・西・古島の3島からなり、西島は標高234m、東島は241m。中心集落の巨文は沿岸漁業の根拠地。(外国コン)
  • 鍬子島 → 楸子群島か
  • 楸子群島 しゅうし ぐんとう/チュジャ グンド Chuja Gundo 韓国南部、全羅南道の南西に突出する海南半島と済州島との間にある群島。済州海峡の西部に位置。上楸子・下楸子島など十余の島々が約16kmの間に散在する。付近の海域は好漁場。(外国コン)
  • 南海島 なんかいとう/ナムヘド Namhae Do 韓国南東部、慶尚南道南西部の島。面積297.5km2。人口12.6万人('90)。済州島・巨済島に次ぐ大島。島は山岳が多く、平地が少ない。西部に望雲山(785m)、東部に錦山(666m)があり、北東岸にのみ耕地がひらけ、塩田が分布。農牧業を主に、漁業を従とする。北岸の南海では島内物資が集散される。南端の弥助は農業基地。(外国コン)
  • 巨済島 きょさいとう/コジェド Geoje Do 韓国南部、慶尚南道南部の島。朝鮮半島南部、鎮海湾の湾口に位置。中心集落は長承浦。長さ39km、幅22km、面積389km2。人口4.8万人('90)。最高点555m。朝鮮半島の属島中第2の大島。気候は温暖で、林産物が多い。沿岸はイワシ・ニシン・タラの好漁場。造船業が発達。同国から対馬への最短距離にあたり、対日関係の重要地であった。(外国コン)
  • 木浦 モクポ/もくほ (Mokpo) 韓国南西部、全羅南道の都市。第二次大戦前は日本に米・綿花などを移出する貿易港、現在は湖南平野の穀倉地帯と黄海上に点在する数百の島とを中継する漁港・商業都市。人口25万(2000)。
  • 百済 くだら (クダラは日本での称) 古代朝鮮の国名。三国の一つ。4〜7世紀、朝鮮半島の南西部に拠った国。4世紀半ば馬韓の1国から勢力を拡大、371年漢山城に都した。後、泗※(第3水準1-86-56)城(現、忠清南道扶余)に遷都。その王室は中国東北部から移った扶余族といわれる。高句麗・新羅に対抗するため倭・大和王朝と提携する一方、儒教・仏教を大和王朝に伝えた。唐・新羅の連合軍に破れ、660年31代で滅亡。ひゃくさい。はくさい。( 〜660)
  • 新羅 しらぎ (古くはシラキ) 古代朝鮮の国名。三国の一つ。前57年頃、慶州の地に赫居世が建てた斯盧国に始まり、4世紀、辰韓諸部を統一して新羅と号した。6世紀以降伽※(第3水準1-14-34)(加羅)諸国を滅ぼし、また唐と結んで百済・高句麗を征服、668年朝鮮全土を統一。さらに唐の勢力を半島より駆逐。935年、56代で高麗の王建に滅ぼされた。中国から取り入れた儒教・仏教・律令制などを独自に発展させ、日本への文化的・社会的影響大。しんら。(356〜935)
  • 馬韓 ばかん 古代朝鮮の三韓の一つ。五十余の部族国家から成り、朝鮮半島南西部(今の全羅・忠清二道および京畿道の一部)を占めた。4世紀半ば、その一国伯済国を中核とした百済によって統一。
  • 高麗 こうらい (1) (ア) 朝鮮の王朝の一つ。王建が918年王位につき建国、936年半島を統一。都は開城(旧名、松岳・松都)。仏教を国教とし、建築・美術も栄え、後期には元に服属、34代で李成桂に滅ぼされた。高麗。(918〜1392)(イ) 高句麗。また、一般に朝鮮の称。
  • 朝鮮総督府 ちょうせん そうとくふ 日本領有当時(1910年以降)、京城(ソウル)におかれ、朝鮮総督を長官とした朝鮮支配のための最高行政官庁。
  • 白狼国
  • 直隷省 ちょくれいしょう (3) 中国の明・清代の旧省名で、京師に直属する地区。/中国、明清代、首都に直属した省をいう。ほぼ現在の河北省にあたる。中華民国17年(1928)河北省と改称。
  • 奴国 なこく/なのくに 奴国・儺国。弥生時代の北九州にあった小国。のち儺県、また那珂郡となる。今の福岡県の筑紫郡・福岡市・糟屋郡にわたる地域。なこく。
  • 狗奴国 くなこく/くなのくに 魏志倭人伝にみえる弥生時代の倭の強国。邪馬台国の南にあって男王が支配し、女王をいただく邪馬台国と対立していた。くぬこく。くなこく。
  • 伊呂島 いろしま?
  • [ロシア]
  • カラフト 樺太。サハリンの日本語名。唐太。
  • サハリン Sakhalin 東はオホーツク海、西は間宮(タタール)海峡の間にある細長い島。1875年(明治8)ロシアと協約して日露両国人雑居の本島をロシア領北千島と交換、1905年ポーツマス条約により北緯50度以南は日本領土となり、第二次大戦後、ソ連領に編入。現ロシア連邦サハリン州の主島。北部に油田がある。面積7万6000平方km。樺太。サガレン。
  • 黒龍江 こくりゅうこう (Heilong Jiang) 中国東北地区の北境、シベリアの南東部を東流して、間宮海峡に注ぐ大河。南は内モンゴルのアルグン河、北はモンゴルのオノン河を源流とし、松花江・ウスリー江を合わせ、長さ6237km。別称アムール川。
  • ウスリー江 Ussuri ロシア・烏蘇里。中国黒竜江省とロシア沿海州との境をなす川。興凱湖(ハンカ湖)に発源、ハバロフスク付近で黒竜江に注ぐ。長さ890km。
  • 堪察加 カムサツカ → カムチャツカ半島
  • カムチャツカ半島 カムチャツカ はんとう (Kamchatka) ロシア東端の太平洋に突出した半島。東はベーリング海、西はオホーツク海に面し、千島海峡を隔てて千島列島のシュムシュ島と対する。28の活火山を含む160以上の火山がある。長さ約1200km。最高地点はクリュチェフスキー火山(標高4750m)。
  • カムチャツカダール
  • [日本]
  • 北海道
  • [伊豆] いず 旧国名。今の静岡県の東部、伊豆半島および東京都伊豆諸島。豆州。
  • 八丈 はちじょう → 八丈島
  • 八丈島 はちじょうじま 伊豆七島南部の火山島。東京の南方約300kmの海上にある。東京都に属し、面積は69.5平方km。
  • 伊吹山 いぶきやま 滋賀・岐阜両県の境にある山。標高1377m。山中薬草に富む。石灰岩の採取地。
  • [丹波] たんば (古くはタニハ) 旧国名。大部分は今の京都府、一部は兵庫県に属する。
  • [但馬国] たじまのくに 旧国名。今の兵庫県の北部。但州。
  • [中国]
  • 出雲 いずも 旧国名。今の島根県の東部。雲州。
  • [九州]
  • 肥前 ひぜん 旧国名。一部は今の佐賀県、一部は長崎県。
  • 筑前 ちくぜん 旧国名。今の福岡県の北西部。
  • 筑後 ちくご 旧国名。今の福岡県の南部。
  • 豊後 ぶんご 旧国名。今の大分県の大部分を占める。
  • [筑前国]
  • 志賀島 しかのしま → 志賀
  • 志賀 しか 筑前の地名。博多湾北側の海の中道先端部にある陸繋島で、福岡市東区に属する。かつては博多湾北部の島。倭奴国王印を出土。志賀島。
  • [長崎県]
  • 対馬 つしま (一説に、津島の意という) 旧国名。九州と朝鮮半島との間にある島。主島は上島・下島。今は長崎県の一部。中心地は厳原。対州。
  • 壱岐 いき 九州と朝鮮との間に対馬とともに飛石状をなす島。もと壱岐国。九州本土から約25km離れる。緩やかな丘陵・台地が多い。面積134平方km。壱州。
  • 北松浦郡 きたまつうらぐん 明治11年(1878)の郡区町村編成法の施行に伴い、松浦郡が東西南北に四分割されて成立。北松浦半島およびその周辺の平戸島・福島・鷹島・大島・生月島・宇久島・小値賀島からなり、旧壱岐国を除いた江戸時代の平戸藩領を郡域とする。
  • 五島 ごとう (1) 五島列島の略。(2) 長崎県西部、五島列島にある市。人口4万5千。
  • 五島列島 ごとう れっとう 長崎市の北西海上にある列島。長崎県北松浦郡・南松浦郡・五島市に属する。名は福江・奈留・若松・中通・宇久(後には宇久に代えて久賀)の5島を総称したことに由来。全島140余から成り、漁業が盛ん。近世、キリシタンの潜んだ地。
  • 値嘉島 ちかのしま 長崎県の五島列島の古称。平安前期、平戸島とともに、一時肥前国から独立した行政区画の呼称。近島。
  • 相子之停 あびこのとまり → 相子田の停か
  • 相子田の停 あいこだのとまり 合蚕田浦(あいこだのうら)。古代にみえる五島の浦名。『肥前国風土記』松浦郡値嘉郷条に「相子田の停」とみえ、値賀島の西に船を停泊させる二か所の一つで、二〇余の船を係留できる泊であるという。また遣唐使船は当停や川原浦(現岐宿町)から出航し、美弥良久の埼(現、三井楽町)に向かうと記される。『続日本紀』宝亀7年(776)閏八月六日条に「松浦郡合蚕田浦」とみえ、第14次遣唐使船が当浦からの出航を控えながら順風に恵まれず、結局は一年の延期となっている。この「合蚕田浦」を「相子田の停」とする見解があり、現上五島町相河(あいこ)に比定される。あるいはアイコタ、アイカタから青方とも考えられる。異説あり。
  • 川原之浦 かわらのうら 川原浦。古代にみえる五島の浦名。現、南松浦郡岐宿町北西部の白石浦に臨む川原に比定される。
  • 美祢良久の渡 みねらくのわたり → 美弥良久之埼か
  • 美弥良久之埼 みみらくのさき 古代にみえる五島の地名。旻楽埼などとみえ、現三井楽に比定される。『肥前国風土記』松浦郡値嘉郷条に「美弥良久之埼」とみえる。天安2(858)6月8日に唐の商人李延孝の船に乗った円珍は、同月19日に「西界肥前郡松浦県管美旻楽埼」に到着している。神亀年間(724-729)筑前国志賀の白水郎である荒雄は、対馬に食糧を送る船の梶師(船頭)となり、「松浦県美禰良久埼」から出航したが、暴風雨に遭い海中に沈んでしまった。
  • 南松浦郡 みなみまつうらぐん 明治11年(1878)の郡区町村編成法の公布に伴い、松浦郡が東西南北に四分割されて成立。五島列島の福江島・久賀島・奈留島・若松島・中通島の五島とこれらの周辺の島々からなり、郡域の西は東シナ海に臨み、東は五島灘を隔てて西彼杵郡と対する。
  • 三井楽 みいらく 村名。町名。三井楽町は現南松浦郡。五島列島の福江島の北西部に位置する。南東は岐宿町、南は玉之浦町に接し、ほかの三方は東シナ海に面する。西の沖合約5kmに嵯峨島がある。『万葉集』や『肥前国風土記』にみえる旻楽・美弥良久は当地に比定され、渡海する遣唐使船の経由地となっていた。
  • 火流浦 ひるのうら? ひながれのうら?
  • 平戸 ひらど 長崎県北部の市。平戸島・北松浦半島北西端と度島・生月島・大島などを市域とする。九州本土と平戸大橋で連絡する旧平戸町は水産業の一中心地で、もと松浦氏6万石の城下町。1550年(天文19)ポルトガル人が渡来、江戸時代にはポルトガル・イギリスと通商、オランダ商館が設けられた。人口3万8千。
  • [熊本県]
  • [肥後] ひご
  • 葦北 あしきた 郡名。熊本県南部にあり、南は水俣市で、その南は鹿児島県。東は球磨郡球磨村に接し、その北域では球磨川が境をなす。北は八代市と八代郡坂本村に接する。西は八代海(不知火海)に面し、リアス海岸をなす。郡全体はほとんどが低山地で占められる。
  • 日奈久 「ひなぐ」か。村名。現、八代市日奈久。八代の干拓新田地帯の南限に位置し、西は葦北のリアス海岸が始まる八代海に臨む。『肥前国風土記』に景行天皇が熊襲を征討し、葦北の「火流浦」から発船したとあり、日奈久の地名は火流(ひながれ)を「比奈賀」と読んだなまりともいう。葦北七浦の一つ。
  • 有明海 ありあけかい 九州北西部の、長崎・佐賀・福岡・熊本四県に囲まれた浅海域。潮汐の干満差が大きく、古くから干潟の干拓事業が進められた。筑紫潟。筑紫の海。
  • -----------------------------------
  • 有明湾 ありあけわん 志布志湾の別称。
  • 志布志湾 しぶしわん 宮崎県都井岬と鹿児島県火崎との間の湾。湾内に枇榔島があり、亜熱帯性植物が繁茂。湾岸は日南海岸国定公園。有明湾。
  • -----------------------------------
  • 玉那湾
  • 多婆那国
  • 玉名 たまな 熊本県北西部の市。菊池川下流域の中心都市。玉名温泉がある。人口7万2千。/市名。郡名。玉名郡は県の西北部に位置し、北は筑肥山地、南部は有明海に面する。郡域は南北に長く、西部の玉名市をはさんで岱明町・長洲町が位置する。菊池川が郡央を西流する。
  • 五家の荘 ごかのしょう 五家荘。熊本県八代市泉町の地名。球磨川の支流、川辺川上流の山に囲まれた集落。仁田尾・葉木・樅木・久連子・椎原の旧五カ村を総称。隠田集落の一つ。五箇荘。
  • 阿蘇 あそ 熊本県北東部、阿蘇山の北麓に位置する市。稲作と高原野菜栽培、牛の放牧が盛ん。観光資源にも富む。人口3万。
  • [鹿児島]
  • [沖縄諸島]
  • 琉球 りゅうきゅう 沖縄(琉球諸島地域)の別称。古くは「阿児奈波」または「南島」と呼んだ。15世紀統一王国が成立、日本・中国に両属の形をとり、17世紀初頭島津氏に征服され、明治維新後琉球藩を置き、1879年(明治12)沖縄県となる。
  • [モンゴル]
  • 元 げん 中国の王朝の一つ。モンゴル帝国第5代の世祖フビライが建てた国。南宋を滅ぼし、高麗・吐蕃を降し、安南・ビルマ・タイなどを服属させ、東アジアの大帝国を建設。都は大都(北京)。11代で明の朱元璋に滅ぼされた。大元。(1271〜1368)
  • [中国][シナ]
  • 山東省 さんとうしょう (Shandong) (太行山脈の東方の意)中国華北地区北東部の省。黄海と渤海湾との間に突出する山東半島と西方の泰山山脈とを含む地域。省都、済南。面積約16万平方km。別称、魯・山左。中国有数の農業地域で、石油など地下資源も豊富。
  • 揚子江 ようすこう (Yanzi Jiang) 長江の通称。本来は揚州付近の局部的名称。
  • 長江 ちょうこう (Chang Jiang)中国第一の大河。青海省南西部に発源、雲南・四川の省境を北東流し、重慶市を貫き、三峡を経て湖北省を横断、江西・安徽・江蘇3省を流れて東シナ海に注ぐ。全長約6300km。流域は古来交通・産業・文化の中心。揚子江。大江。江。
  • 浙江省 せっこうしょう (Zhejiang) 中国南東部、東シナ海に面する省。長江下流の南を占め、銭塘江によって東西に分かれる。古くから商工業が盛ん。別称、浙・越。省都は杭州。面積約10万平方km。
  • 温州 おんしゅう (Wenzhou) 中国浙江省南部の都市。温州湾に注ぐ甌江の下流の港。茶・蜜柑・軽工業製品の集散地。うんしゅう。人口191万6千(2000)。
  • 福建省 ふっけんしょう (Fujian) 中国南東部の省。台湾海峡に面する。省都は福州。面積約12万平方km。山地が9割を占める。略称は。古来、東アジア海上交通の中心地。また華僑の主要な出身地の一つ。米のほか、甘蔗・茶・果物などを産する。
  • [台湾]
  • 台湾 たいわん (Taiwan) 中国福建省と台湾海峡をへだてて東方200kmにある島。台湾本島・澎湖列島および他の付属島から成る。総面積3万6000平方km。明末・清初、鄭成功がオランダ植民者を追い出して中国領となったが、日清戦争の結果1895年日本の植民地となり、1945年日本の敗戦によって中国に復帰し、49年国民党政権がここに移った。60年代以降、経済発展が著しい。人口2288万(2006)。フォルモサ。
  • 紅頭嶼 こうとうしょ 蘭嶼(らんしょ/ランユィ)。中国、台湾省南東部の島。台湾島南端の東70kmに位置。別称、紅頭嶼。面積46km2。北部に紅頭山(604m)がある。ヤミ族が椰油・魚人などの6集落に分かれて住み、漁業やタロイモ栽培がおこなわれる。南5kmに小蘭嶼がある。(外国地名コン)
  • 蘭嶼 らんしょ/ランユィ → 紅頭嶼
  • [フィリピン]
  • フィリピン Philippines・比律賓。(スペイン国王フェリーペ2世の名に因む) アジア大陸の東方、ルソン島を主島とし、ミンダナオ・サマル・ネグロス・パナイ・パラワンなど7000余の島嶼から成る共和国。マゼランの来航を経て、16世紀以来スペイン領、米西戦争の結果1899年アメリカ領、1946年独立。古くから日本と交渉をもつ。面積30万平方km。人口8266万(2004)。言語はセブアノ語・タガログ語など八大言語を含め、八十数種にのぼる。住民の大多数はカトリック。公用語はフィリピノ語・英語。首都マニラ。
  • フィリピン諸島


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)。『コンサイス外国地名事典』第三版(三省堂、1998.4)『縮刷版 文化人類学事典』(弘文堂、1994.3)『新編東洋史辞典』(東京創元社、1980)『コンサイス・カタカナ語辞典 第四版』(三省堂編修所、2010.2)




*年表

  • 宋の元熙四(四七九) 耽羅、はじめて百済国に貢物を遣わす。百済の文周王二年。(東史)
  • 後魏の正始〔五〇四〜五〇八〕のころ 渉羅は百済の併すところとなる。(後魏書)
  • 継体天皇二(五〇八か) 継体天皇条「二年冬十月、南海中耽羅人、初通二百済国一」。日本で耽羅(済州島)に関するいちばん古い記事。(日本紀)
  • 斉明天皇七(六六一)五月 はじめて済州島(耿羅)の人が公式に交通。日本の遣唐大使が帰りがけに流されて済州島へ着く。そこの王が船を遣り、人を付けて帰してよこす。それから天智・天武・持統の御代にいたるまで、たがいに交通往来。(日本紀)
  • 天智二(六六三)八月 白村江の戦。日本・百済連合軍と唐・新羅連合軍との間に行われた海戦。日本は、660年に滅亡した百済の王子豊璋を救援するため軍を進めたが、唐の水軍に敗れ、百済は完全に滅んだ。(広辞苑)
  • 天武天皇一〇(六八一) 大使犬養連手繦、小使川原連加尼らを耽羅につかわす。一三年に帰朝。(日本紀)
  • 持統天皇五(六九一) 新羅に併呑。耽羅の日本へきた最後。
  • 天平三(七三一)条 天平三年六月乙亥、定雅楽寮雅楽生員、大唐楽三十人、百済楽二十六人、高麗楽八人。新羅楽四人、耽羅楽六十二人。(続日本紀)
  • 天平一二(七四〇)一一月条 広嗣の乱。広嗣、船に乗って北方の島にのがれる。船に乗っている者がこの島は耽羅の島であるという。(続日本紀)
  • -----------------------------------
  • 後魏 こうぎ 北魏の別称。
  • 北魏 ほくぎ 中国、南北朝時代の北朝の最初の国。鮮卑族の拓跋珪(道武帝)が386年魏王を称し、398年平城(今の山西省大同)に都し、建てた国。494年洛陽に遷都。534年東魏・西魏に分裂、東魏は550年、西魏は556年滅亡。魏。拓跋魏・後魏・元魏などとも称。
  • -----------------------------------
  • 龍朔 りゅうさく 唐の高宗李治の治世に使用された元号。661年 - 663年。(Wikipedia)
  • 李朝 りちょう 朝鮮の最後の王朝。1392年李成桂が高麗に代わって建て、対外的には朝鮮国と称す。1897年に国号を大韓帝国と改め、1910年(明治43)日本に併合されて、27代519年で滅んだ。国教は朱子学(儒学)。都は漢城(現ソウル)。朝鮮王朝。李氏朝鮮。(1392〜1910)
  • ※「天智二(六六三)八月 白村江の戦」を追加。
  • 高麗朝
  • モンゴルの元


◇参照:『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)。



*人物一覧

(人名、および組織・団体名・神名)
  • 脱解王 脱解尼師今(だっかい にしきん)か。?-80 新羅の第4代の王(在位57-80年)。姓は昔(ソク)、名は脱解。新羅の王族3姓(朴・昔・金)のうちの昔氏始祖。(Wikipedia)
  • 文周王 ぶんしゅうおう ?-477 百済の第22代の王(在位475-477年)。先代の蓋鹵王の子。(Wikipedia)
  • 天智天皇 てんじ てんのう 626-671 7世紀中頃の天皇。舒明天皇の第2皇子。名は天命開別、また葛城・中大兄。中臣鎌足と図って蘇我氏を滅ぼし、ついで皇太子として大化改新を断行。661年、母斉明天皇の没後、称制。667年、近江国滋賀の大津宮に遷り、翌年即位。庚午年籍を作り、近江令を制定して内政を整えた。(在位668〜671)
  • 天武天皇 てんむ てんのう ?-686 7世紀後半の天皇。名は天渟中原瀛真人、また大海人。舒明天皇の第3皇子。671年出家して吉野に隠棲、天智天皇の没後、壬申の乱(672年)に勝利し、翌年、飛鳥の浄御原宮に即位する。新たに八色姓を制定、位階を改定、律令を制定、また国史の編修に着手。(在位673〜686)
  • 持統天皇 じとう てんのう 645-702 7世紀末の女帝。天智天皇の第2皇女。天武天皇の皇后。名は高天原広野姫、また野讃良。天武天皇の没後、称制。草壁皇子没後、即位。皇居は大和国の藤原宮。文武天皇に譲位後、太上天皇と称す。(在位690〜697)
  • 犬養連手繦 いぬかいのむらじ たすき? 大使。
  • 川原連加尼 かわらのむらじ かね? 小使。
  • 広嗣 ひろつぐ → 藤原広嗣
  • 藤原広嗣 ふじわらの ひろつぐ ?-740 奈良時代の貴族。大宰少弐。宇合の子。不比等の4子の没後、吉備真備・僧玄を除き藤原氏の勢力を挽回しようとして、大宰府で挙兵したが敗れ、肥前で斬。
  • 海軍水路部 かいぐん すいろぶ 水路の測量、海象の観測をおこない、その成果を海図、潮汐表、水路誌、航空図などの図誌の形で公表するとともに、船舶交通の安全のため必要な事項の通報をおこなうことを主な仕事とする役所。第二次世界大戦前は海軍省に属し、昭和23年(1948)以後は海上保安庁に属する。/海上保安庁にあった部局。水路測量、海象の観測、海図・水路誌・潮汐表・航海天測表などの刊行、船舶の航行安全に関する事項および通報などを役目とした。現在は同庁海洋情報部等に改組。
  • 小藤博士
  • 大山祇 おおやまづみ 大山祇神。山をつかさどる神。伊弉諾尊の子。
  • 海神 わだづみ/わたつみ 海神・綿津見。(ワダツミとも。ツは助詞「の」と同じ、ミは神霊の意) (1) 海をつかさどる神。海神。わたつみのかみ。(2) 海。
  • 小倉文学士 → 小倉進平か
  • 小倉進平 おぐら しんぺい 1882-1944 言語学者。宮城県仙台の生まれ。京城帝国大学教授、東京帝国大学教授を歴任。朝鮮語の科学的研究に尽力し、優れた業績を挙げた。著書に「郷歌及び吏読の研究」「朝鮮語方言の研究」など。
  • 瓢公
  • 高宗 こうそう 唐の第3代、南宋の初代、清の第6代(乾隆帝)、朝鮮李朝の26代(李太王)などの皇帝の廟号。
  • 垂仁天皇 すいにん てんのう 記紀伝承上の天皇。崇神天皇の第3皇子。名は活目入彦五十狭茅。
  • 多遅麻毛理 たじまもり → 田道間守
  • 田道間守 たじまもり 記紀伝説上の人物。垂仁天皇の勅で常世国に至り、非時香菓(橘)を得て10年後に帰ったが、天皇の崩後であったので、香菓を山陵に献じ、嘆き悲しんで陵前に死んだと伝える。
  • 三宅連 みやけむらじ
  • 天之日矛 あめのひぼこ 天日槍・天之日矛。記紀説話中に新羅の王子で、垂仁朝に日本に渡来し、兵庫県の出石にとどまったという人。風土記説話では、国占拠の争いをする神。
  • 本居宣長 もとおり のりなが 1730-1801 江戸中期の国学者。国学四大人の一人。号は鈴屋など。小津定利の子。伊勢松坂の人。京に上って医学修業のかたわら源氏物語などを研究。賀茂真淵に入門して古道研究を志し、三十余年を費やして大著「古事記伝」を完成。儒仏を排して古道に帰るべきを説き、また、「もののあはれ」の文学評論を展開、「てにをは」・活用などの研究において一時期を画した。著「源氏物語玉の小櫛」「古今集遠鏡」「てにをは紐鏡」「詞の玉緒」「石上私淑言」「直毘霊」「玉勝間」「うひ山ぶみ」「馭戎慨言」「玉くしげ」など。
  • 少名毘古那命 スクナヒコノミコト/すくなびこなのかみ 少彦名神。日本神話で、高皇産霊神(古事記では神産巣日神)の子。体が小さくて敏捷、忍耐力に富み、大国主命と協力して国土の経営に当たり、医薬・禁厭などの法を創めたという。
  • 新井白石 あらい はくせき 1657-1725 江戸中期の儒学者・政治家。名は君美。字は済美。通称、勘解由。江戸生れ。木下順庵門人。6代将軍徳川家宣、7代家継の下で幕政を主導した(正徳の治)。朝鮮通信使への応対変更、幣制・外国貿易の改革、閑院宮家創立などは主な業績。公務に関する備忘録「新井白石日記」や「藩翰譜」「読史余論」「采覧異言」「西洋紀聞」「古史通」「東雅」「折たく柴の記」などの著がある。
  • 但馬諸助 → 多遅麻毛理か
  • 高乙那
  • 良乙那
  • 夫乙那
  • 藤井貞幹 → 藤貞幹か
  • 藤貞幹 とう ていかん 1732-1797 江戸後期の考証学者。京都の人。無仏斎・亀石堂・好古と号。古文書・金石文を研究、日本書紀の紀年の捏造を指摘。著「衝口発」「好古日録」など。
  • 能因 のういん 988-? 平安中期の歌人。中古三十六歌仙の一人。俗名、橘永。藤原長能に和歌を学び、これが歌道師承の先例。剃髪して摂津古曾部に住み古曾部入道と称す。奥州行脚を試みた。私撰集「玄々集」、歌学書「能因歌枕」、家集「能因集」
  • 藤村光鎮
  • 素戔嗚尊 すさのおのみこと 素戔嗚尊・須佐之男命。日本神話で、伊弉諾尊の子。天照大神の弟。凶暴で、天の岩屋戸の事件を起こした結果、高天原から追放され、出雲国で八岐大蛇を斬って天叢雲剣を得、天照大神に献じた。また新羅に渡って、船材の樹木を持ち帰り、植林の道を教えたという。
  • 稲田姫 いなだひめ → 奇稲田姫
  • 奇稲田姫 くしなだひめ 奇稲田姫・櫛名田姫。(クシイナダヒメとも) 出雲国の足名椎・手名椎の女。素戔嗚尊の妃となる。稲田姫。
  • 日本武尊 やまとたけるのみこと 日本武尊・倭建命。古代伝説上の英雄。景行天皇の皇子で、本名は小碓命。別名、日本童男。天皇の命を奉じて熊襲を討ち、のち東国を鎮定。往途、駿河で草薙剣によって野火の難を払い、走水の海では妃弟橘媛の犠牲によって海上の難を免れた。帰途、近江伊吹山の神を討とうとして病を得、伊勢の能褒野で没したという。


◇参照:『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)『岩波西洋人名辞典増補版』。



*書籍

(書名、雑誌名、論文名、映画・能・狂言・謡曲などの作品名)
  • 『北史』 ほくし 二十四史の一つ。北朝の魏・斉・周・隋の歴史を一つにまとめたもの。本紀12巻、列伝88巻。唐の李延寿撰。
  • 『唐書』 とうじょ 旧唐書・新唐書の総称。特に新唐書を指す。
  • 『宋史』 そうし 二十四史の一つ。宋代の正史。本紀47巻、志162巻、表32巻、列伝255巻。全496巻で、歴代正史中、最も膨大。元の托克托(トクト)すなわち脱脱らが勅を奉じて撰。1345年成る。
  • 新羅の脱解王の伝説
  • 『後魏書』 → 『魏書』
  • 『魏書』 ぎしょ (1) 二十四史の一つ。北斉の魏収撰。北魏の史書。554年成る。曲筆が多く穢史と非難された。本紀14巻、列伝96巻、志20巻、計130巻。北魏書。後魏書。(2) (→)魏志に同じ。
  • 『隋書』 ずいしょ 二十四史の一つ。隋代を扱った史書。本紀5巻、志30巻、列伝50巻。特に「経籍志」は魏晋南北朝時代の図書目録として貴重。唐の魏徴らが太宗の勅を奉じて撰。636年成る。志30巻は656年に成り、後に編入。
  • 『通典』 つてん (ツデンとも)中国歴代の諸制度の沿革を通観した書。唐の杜佑(735〜812)撰。200巻。801年成る。上古より唐に至り、食貨・礼など9部門から成る。
  • 『冊府元亀』 さっぷげんき 中国の類書。1000巻。北宋の王欽若・楊億らが真宗の勅を奉じて撰。1013年ころ成る。中国古来の史実を31部1115門に分けて記したもの。唐代の史実についての貴重な史料。
  • 『韓昌黎集』
  • 『日本紀』
  • 『続日本紀』 しょくにほんぎ 六国史の一つ。40巻。日本書紀の後を受け、文武天皇(697年)から桓武天皇(791年)までの編年体の史書。藤原継縄・菅野真道らが桓武天皇の勅を奉じて797年(延暦16)撰進。略称、続紀。
  • 『延喜式』 えんぎしき 弘仁式・貞観式の後をうけて編修された律令の施行細則。平安初期の禁中の年中儀式や制度などを漢文で記す。50巻。905年(延喜5)藤原時平・紀長谷雄・三善清行らが勅を受け、時平の没後、忠平が業を継ぎ、927年(延長5)撰進。967年(康保4)施行。
  • 『今昔物語』 → 『今昔物語集』
  • 『今昔物語集』 こんじゃくものがたりしゅう 日本最大の古代説話集。12世紀前半の成立と考えられるが、編者は未詳。全31巻(うち28巻現存)を、天竺(インド)5巻、震旦(中国)5巻、本朝21巻に分け、各種の資料から1000余の説話を集めている。その各説話が「今は昔」で始まるので「今昔物語集」と呼ばれ、「今昔物語」と略称する。中心は仏教説話であるが、世俗説話も全体の3分の1以上を占め、古代社会の各層の生活を生き生きと描く。文章は、漢字と片仮名による宣命書きで、訓読文体と和文体とを巧みに混用している。
  • 『高麗史』 こうらいし 高麗朝の紀伝体の史書。139巻。1451年、李朝文宗の時に、鄭麟趾らが奉勅撰。
  • 『新唐書』 しんとうじょ 二十四史の一つ。唐代の正史。旧唐書の欠を補い補修したもの。本紀10巻、志50巻、表15巻、列伝150巻。1060年、宋の仁宗の時、欧陽修・宋祁らの奉勅撰。単に「唐書」とも呼ぶ。
  • 『三国志』『魏志』「東夷伝」「馬韓伝」
  • 『三国志』 さんごくし 二十四史の一つ。魏・呉・蜀三国の史書。65巻。晋の陳寿撰。
  • 『魏志』 ぎし 中国の魏の史書。晋の陳寿撰。「三国志」の中の魏書の通称。本紀4巻、列伝26巻。
  • 『風土記』 ふどき 713年(和銅6)元明天皇の詔によって、諸国に命じて郡郷の名の由来、地形、産物、伝説などを記して撰進させた地誌。完本として伝わるものは出雲風土記のみで、常陸・播磨の両風土記は一部が欠け、豊後・肥前のものはかなり省略されていて、撰進された時期も一律ではない。文体は国文体を交えた漢文体。平安時代や江戸時代に編まれた風土記と区別するため「古風土記」という。
  • 『古事記伝』 こじきでん 古事記の注釈書。本居宣長著。44巻。1767年(明和4)頃起稿、98年(寛政10)完成。1822年(文政5)刊行終了。国学の根底を確立した労作で、今日でも古代史・古代研究の典拠。
  • 『記』 → 『古事記』
  • 『紀』 → 『日本書紀』
  • 『古事記』 こじき 現存する日本最古の歴史書。3巻。稗田阿礼が天武天皇の勅により誦習した帝紀および先代の旧辞を、太安万侶が元明天皇の勅により撰録して712年(和銅5)献上。上巻は天地開闢から鵜葺草葺不合命まで、中巻は神武天皇から応神天皇まで、下巻は仁徳天皇から推古天皇までの記事を収め、神話・伝説と多数の歌謡とを含みながら、天皇を中心とする日本の統一の由来を物語る。ふることぶみ。
  • 『日本書紀』 にほん しょき 六国史の一つ。奈良時代に完成した日本最古の勅撰の正史。神代から持統天皇までの朝廷に伝わった神話・伝説・記録などを修飾の多い漢文で記述した編年体の史書。30巻。720年(養老4)舎人親王らの撰。日本紀。
  • 『姓氏録』 しょうじろく → 『新撰姓氏録』
  • 『新撰姓氏録』 しんせん しょうじろく 古代氏族の系譜集成。京・畿内に本籍を持つ1182氏をその出自や家系によって神別・皇別・諸蕃に分類。嵯峨天皇の勅を奉じて万多親王らが編し、815年(弘仁6)完成。30巻・目録1巻。現存のものは抄本。新撰姓氏録抄。姓氏録。
  • 『東雅』 とうが (「日東の爾雅」の意)語学書。首巻とも21巻。新井白石著。1719年(享保4)成る。中国の「爾雅」などにならって、物名についてその語源的解釈を施した分類体語源辞書。
  • 『東文選』 とうもんぜん 新羅から朝鮮王朝初期までの漢詩文集。成宗の命により、1478年徐居正らが編纂し、続編として中宗の命により、1517年に申用漑らが『続東文選』を編纂した。朝鮮の漢文学・歴史研究の貴重な資料。(世界史)
  • 『高麗史古記』
  • 『耽羅志』
  • 『肥前風土記』 ひぜん ふどき 古風土記の一つ。1巻。肥前国11郡のうち10郡の地誌が抄本で残る。713年(和銅6)の詔によって奈良中期に撰進されたものと考えられる。肥前国風土記。
  • 『万葉集』 まんようしゅう (万世に伝わるべき集、また万(よろず)の葉すなわち歌の集の意とも) 現存最古の歌集。20巻。仁徳天皇皇后作といわれる歌から淳仁天皇時代の歌(759年)まで、約350年間の長歌・短歌・旋頭歌・仏足石歌体歌・連歌合わせて約4500首、漢文の詩・書翰なども収録。編集は大伴家持の手を経たものと考えられる。東歌・防人歌なども含み、豊かな人間性にもとづき現実に即した感動を率直に表す調子の高い歌が多い。
  • 「春耕」 しゅんこう? 正月元旦に、済州島の巫人が大勢集まっておこなう舞踏。黙劇。(本文)


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)。



*難字、求めよ

  • 民族学 みんぞくがく (ethnology) 民族文化の特質を他文化との比較によって研究する学問。個々の民族の起源・系統・類縁関係・影響関係などを究明する歴史民族学的な方法と、個別の民族文化の記述・分析を重視する方法とがある。
  • 併する へいする 二つ以上の物を一つにまとめる。合併する。
  • 流求 りゅうきゅう 隋書などに見える、東海中の一国。今の台湾とする説と、琉球とする説とがある。
  • 寄来した よこした
  • 併呑 へいどん あわせのむこと。一つにあわせ、従えること。
  • 朝貢 ちょうこう 外国人が来朝して貢物を奉ること。来貢。
  • 雅楽寮 うたのつかさ/ががくりょう 律令制で、治部省に属し、宮廷音楽の楽人管理・歌舞教習などをつかさどる役所。うたのつかさ。うたまいのつかさ。うたりょう。
  • 大唐楽 だいとうがく?
  • 百済楽 くだらがく 三韓楽の一つ。百済起源の楽舞。百済琴(竪琴)の使用が特徴的。
  • 三韓楽 さんかんがく 古代、日本に伝来した新羅楽・百済楽・高麗楽の総称。三者の区別は次第に失われ、平安初期以降は渤海楽をも併せて様式が固定化し、一括して高麗楽と称した。
  • 高麗楽 こまがく (1) 三韓楽の一つ。高句麗起源の楽舞。臥箜篌の使用が特徴的。(2) 雅楽の外来楽舞の2様式の一つ。三韓楽と渤海楽とを併せて平安時代に様式統一されたもので、日本で新作された曲目をも含む。演奏は舞楽形式のみで行う。楽器編成は高麗笛・篳篥・三ノ鼓・鉦鼓・太鼓の5種。右方高麗楽。右方の楽。右楽。
  • 新羅楽 しらぎがく 三韓楽の一つ。新羅起源の楽舞。新羅琴の使用が特徴的。それ以外の実態は不詳。
  • 耽羅楽 たんらがく?
  • 耽羅薄鰒 とらのいか
  • 鰒 フク/あわび (1) 巻き貝の名。あわび(=鮑)。(2) 魚の名。ふぐ(=河豚)。
  • 島嶼 とうしょ (「嶼」は小さな島) しま。島々。
  • 総督府 そうとくふ 植民地の総督が政務を統轄する役所。
  • 岬角 こうかく みさき。
  • バザルト basalt → 玄武岩
  • 玄武岩 げんぶがん (basalt) 細粒・緻密で塩基性の火山岩。斜長石・輝石・橄欖石・磁鉄鉱などから成り、暗灰色から黒色。しばしば柱状節理をなし、多くの石柱を立てたような壮観をなす。命名は兵庫県の玄武洞に由来。
  • 火山岩 かざんがん 火成岩の一種。微細粒の部分やガラスを含み、一般に斑状の岩石。地下深所にある高温のマグマが地表に流出し、冷却固結してできる。玄武岩・安山岩・デイサイト・流紋岩などの類。噴出岩。
  • ラバ 伊 lava 「流れ」の意。溶岩。特に、流動状のものをいうが、凝固したものをいうこともある。
  • グナイス 鉱物名。
  • グラニット granite 花崗岩のこと。
  • 花崗岩 かこうがん (granite) 深成岩の一種。石英・正長石・斜長石・雲母などを主成分とする大陸地殻の代表的岩石。完晶質粒状の組織をなし、堅牢・美麗なので建築・土木用材として賞用、また、分解したものは陶器製造の材料。御影石。グラニット。
  • 黒潮 くろしお 日本列島に沿って流れる暖流。藍黒色で、幅は100km、流速は毎秒1.5m程度。フィリピン群島の東岸から、台湾の東側、南西諸島の西側、日本列島の南岸を流れ、犬吠埼沖に至って陸から離れ、太平洋の中央部に向かい、亜熱帯環流の一部を形成する。太平洋最大の海流。日本海流。黒瀬川。こくちょう。
  • 打突かる ぶつかる
  • シデ 〔植〕カバノキ科シデ属の落葉高木。イヌシデ・サワシバなどの総称。早春、葉に先立って尾状の花穂を垂らし、これが神前に供する紙垂(しで)に似る。材は家具材・細工物、また薪炭材とする。
  • リヤ 植物名。
  • オモノ木 おものき → おも
  • おも 方言か。(1) ブナ。(2) クマシデ(熊四手)。(3) アカシデ(赤四手)。(4) イヌシデ(犬四手)。
  • ヤシの実 やしのみ → 椰子
  • 椰子 やし ヤシ科植物の総称。澱粉・糖・食用果実を提供し、油脂・酒などの資源とするココヤシ・アブラヤシ・サトウヤシ・ナツメヤシなど。普通にはココヤシを指す。
  • フジの実
  • オウム貝 おうむがい 鸚鵡貝。オウムガイ科の原始的な頭足類。巻貝のような殻をもち、貝殻を側面から見るとオウムの頭部に似るので、この名がある。殻内部は30個内外の小室に分けられ、動物体は最後の室(住房)に収まる。頭部には多数の短い触手がある。フィリピンからミクロネシア海域の深海に生息し、日本には死殻が流れ着くことがある。オウムガイ類は古生代後期から中生代前期にかけて繁栄した古い形の動物で、同属で現存するのはインド洋・太平洋の熱帯域に7種だけ。「生きた化石」と呼ばれる。
  • 檳榔 びろう 蒲葵。ヤシ科の一属。東南アジア・オーストラリアに約30種が分布。亜熱帯性常緑高木で、檳榔樹と混同されるが別属。ワビロウは九州南部・南西諸島に、オガサワラビロウは小笠原に自生。形はシュロに似、葉は円形で直径約1m、掌状に分裂して幹頂に叢生。雌雄異株。4〜5月頃緑色の花序を出し、黄色の核果を結ぶ。葉は笠・団扇などに用い、繊維をとって縄を作る。若芽・茎の軟部は食用。古く牛車の装飾に用いた。古名、あじまさ。びりょう。ほき。
  • 芭蕉 ばしょう (古く「はせを」とも表記) バショウ科の大形多年草。中国原産。高さ5mに達し、葉鞘は互いに抱いて直立。葉は長さ2m近くの長楕円形で、長柄を持ち、支脈に沿って裂け易い。夏秋に長大な花穂を出し、帯黄色の単性花を段階状に輪生。茎・葉を煎じて利尿・水腫・脚気などに服用。根も薬用とする。
  • ハッカ 薄荷 (1) シソ科の多年草。山地に自生するが、香料植物として北海道などで大規模に栽培。夏・秋に葉腋に淡紅紫色の唇形花を群生。茎・葉共に薄荷油の原料となり、香料および矯味矯臭薬となる。漢方で消炎・鎮痛・健胃剤とする。メグサ。ミント。(2) 広くは、(1) のほか薄荷脳を含む同属植物数種の総称。セイヨウハッカ(英語名ペパーミント)、オランダハッカ(英語名スペアミント)がある。
  • 瀑布 ばくふ たき。飛泉。
  • 屹立 きつりつ (1) 山などが高くそびえ立つこと。(2) 人が少しも動かず直立しているさま。
  • 一筋道 ひとすじみち 別れ道のないただ一筋の道路。一本道。
  • 土俗学 どぞくがく 民俗学と民族学が分化する以前の称。
  • ethnography → 民族誌
  • 民族誌 みんぞくし (ethnography) 特定の民族や集団の文化・社会に関する、フィールド‐ワークに基づいた具体的な記述。
  • 浦村人
  • 山村人
  • 海人・蜑 あま (「あまびと(海人)」の略か) (1) 海で魚や貝をとり、藻塩などを焼くことを業とする者。漁夫。(2) (「海女」「海士」と書く)海に入って貝・海藻などをとる人。
  • サンゴ礁 さんごしょう 珊瑚礁。サンゴ虫の群体の石灰質骨格と石灰藻とが堆積して生じた岩礁または島。清澄な暖海の浅い部分に生じ、その形状と位置とによって、裾礁・堡礁・環礁などの別がある。沖縄諸島・南鳥島などに発達。
  • 石灰岩 せっかいがん 堆積岩の一種。炭酸カルシウムから成る動物の殻や骨格などが水底に積もって生じる。主に方解石から成り、混在する鉱物の種類によって各種の色を呈する。建築用材または石灰およびセメント製造の原料。石灰石。
  • オンドル 温突 (朝鮮語ondol) 朝鮮の暖房装置。床下に煙道を設け、これに燃焼空気を通じて室内を暖める。
  • 穴居 けっきょ 穴の中に住むこと。あなずまい。
  • 土蜘蛛 つちぐも (1) ジグモの別称。(2) (「土雲」とも書く) 神話伝説で、大和政権に服従しなかったという辺境の民の蔑称。
  • pit-dwellers → pit-dwelling? pit house
  • pit house (主に先史・原始時代の)竪穴住居。(英和)
  • 竪穴住居 たてあな じゅうきょ 地面を掘り、その上方に屋根をかけた半地下式の住居。深さ50〜100cm前後。平面は直径3〜10m程度の円形、または隅丸の長方形を基本とする。炉やかまどを備え、柱穴を掘り、周囲に排水溝のあるものが多い。日本では縄文・弥生・古墳時代に広く行われた。
  • 朝鮮人 ちょうせんじん 朝鮮の人。朝鮮半島および周辺の島に分布する韓民族集団の総称。人種的にはモンゴロイド(蒙古人種)に属し、黒色・直毛の頭髪、高いほお骨などを特徴とする。
  • 半胴着 はんどうぎ 半胴衣。丈が腰のあたりの短めの胴着。
  • 胴着・胴衣 どうぎ 上着と襦袢(ジバン)との間に着る綿入れの防寒用の衣服。長短2種ある。胴服。
  • 裙 くん (1) もすそ。(2) 裙子(くんず)の略。
  • 裳裾 もすそ 裳のすそ。衣のすそ。裙(くん)。
  • 縫取り ぬいとり 布地の上に種々の模様を色糸で縫いつづること。また、その模様。縫刺し。刺繍。
  • 小舎 しょうしゃ 小さい家。こや。
  • 朝鮮語 ちょうせんご (Korean) 朝鮮民族の言語。膠着語で、母音調和の現象が著しい。文法は日本語とよく似ている。系統は明らかではない。大韓民国では韓国語という。
  • フォネティックス phonetics 〔言〕(→)音声学。
  • 音声学 おんせいがく 〔言〕(phonetics)言語の音声を研究する言語学の一領域。発音器官による発声を研究する調音音声学、物理的音波としての音を研究する音響音声学、耳に伝わった音の知覚効果を研究する聴覚音声学などがある。
  • 漁 すなどり (1) すなどること。いさり。りょう。(2) すなどりをする人。漁夫。
  • 海女 あま/あまめ 女の海人(あま)。(一説に、「海女」をアマと訓む)
  • 得たりかしこし えたりかしこし 得たり賢し。物事がうまくいって得意になったとき発する語。しめた、これはありがたい。
  • 元軍民総官府
  • 阿幕
  • 伴れて來る つれてくる
  • 駱 ラク (1) かわらげ。黒いたてがみをもった白馬。(3) 駱駝(ラクダ)か。
  • 驢 ロ 馬の一種。うさぎうま。/家畜の名。馬に似ているが小さく、耳が長い。耐久力がある。労役に用いる。ウサギウマ。ロバ。
  • 牧す ぼくす やしなう。特に、牛馬などを飼う。
  • 巫人 みこ → 巫女・神子
  • 巫女・神子 みこ 神に仕えて神楽・祈祷を行い、または神意をうかがって神託を告げる者。未婚の少女が多い。かんなぎ。
  • 黙劇 もくげき 無言劇。パントマイム。
  • 儒教 じゅきょう 孔子を祖とする教学。儒学の教え。四書・五経を経典とする。
  • 臼搗き唄 うすつきうた 臼を杵でつきながら唄う労働唄。
  • ネーブル navel (臍の意)ネーブル‐オレンジの略。ミカン科ダイダイ類の常緑低木で、オレンジの一品種。果実の頂部に臍状の突起ができる。果肉は甘味に富む。ブラジルで出現し、世界で広く栽培。
  • 柑 カン ミカンの一種で、やや小さなもの。コウジ。
  • ユズ 柚・柚子 ミカン科の常緑低木。高さ約3m。耐寒性がある。枝幹、葉のつけ根に刺が多く、葉は長卵形で有翼。夏、白色の小花を開き、花後、球形黄色のミカンに似た果実を結ぶ。果皮にはいぼ状突起があり、香気と酸味とを有する。果実・蕾は香味料用。スダチは同類。ゆう。ゆ。
  • 乳柑 ニュウカン?
  • キンカン 金柑 ミカン科キンカン属の常緑低木。中国から渡来、暖地で栽培。高さ約2m。葉は長楕円形、葉柄は狭い翼をもつ。夏の頃、葉腋に5弁の小白花を開く。果実は小形で冬に熟して黄金色となる。生のまま、または煮て食べる。酸味が強い。ヒメタチバナ。漢名、金橘。
  • 洞庭橘 ドウテイキツ?
  • 青橘 セイキツ?
  • 瓶橘 ビンキツ?
  • 山橘 サンキツ?
  • 唐柚子 トウユズ?
  • 倭橘 ワキツ?
  • 橙子 トウシ? だいだい。暖地に栽培されるミカン科の常緑小高木。酸味が強く、大型なもの。
  • 大橘 ダイキツ?
  • 唐金橘 トウキンキツ?
  • 枳橘  からたち? 木の名。ミカン科の落葉低木の一種。タチバナに似て、とげが多く、秋に実をつける。未熟の実は薬用にする。
  • 石金橘 セキキンキツ?
  • 金橘 キンキツ キンカンの漢名。暖地に栽培されるミカン科の常緑低木。
  • 柚 ゆず/ユ・ユウ 木の名。ミカン科の常緑低木。ユズ。柑橘(カンキツ)類の一種。実は冬に熟し、香りがよい。△今は、「ザボン」のこと。「ゆず」は、「柚子(ユズ)」が日本語になったもの。
  • 橘 きつ 果樹の名。たちばな。みかんの類。/キツ・キチ/たちばな (1) 木の名。暖地に栽培されるミカン科の常緑低木。クネンボ。秋に黄橙色の実を結ぶ。(2) たちばな。木の名。タチバナ。暖地に栽培されるミカン科の常緑低木。(3) コウジ・ミカンの類の総称。
  • 果園 かえん 果樹を植えた畑。くだものばたけ。
  • 常世国 とこよのくに (1) 古代日本民族が、はるか海の彼方にあると想定した国。常の国。(2) 不老不死の国。仙郷。蓬莱山。(3) 死人の国。よみのくに。よみじ。黄泉。
  • 登岐士玖能迦玖能木実 ときじくの かぐの このみ → 非時香菓
  • 非時香菓 ときじくの かくのこのみ (夏に実り、秋冬になっても霜に堪え、香味がかわらない木の実の意) タチバナの古名。
  • 世次
  • 櫃 ひつ (1) 什器の一つ。大形の匣の類で、上に向かって蓋の開くもの。長櫃・韓櫃・折櫃・小櫃・飯櫃などがある。(2) 特に、飯櫃。おひつ。
  • 暗々の裡 あんあんのうち 暗々裏(あんあんり)に同じ。暗々裡。
  • 暗暗裏・暗暗裡 あんあんり 人の知らないうち。ひそか。内々。
  • 白水郎 あま/はくすいろう (「白水」は中国の地名) 海人(あま)の異称。
  • 遣唐使 けんとうし 国際情勢や大陸文化を学ぶために、十数回にわたって日本から唐へ派遣された公式使節。大使・副使らふつう五、六百人が数隻の船に分乗して、2、3年がかりで往復した。630年犬上御田鍬が派遣されたのが最初。唐末の戦乱のため、894年(寛平6)菅原道真の提議により廃止。入唐使。
  • 隼人 はやと ハヤヒトの約。
  • 隼人 はやひと 古代の九州南部に住み、風俗習慣を異にして、しばしば大和の政権に反抗した人々。のち服属し、一部は宮門の守護や歌舞の演奏にあたった。はいと。はやと。
  • 俗人 つねびと 常人か。(古くは「つねひと」)世間一般の人。ふつうの人。ただびと。じょうじん。じょうにん。
  • 洞穴 どうけつ ほらあな。洞窟。
  • 人身御供 ひとみ ごくう (1) 生贄として人間を神に供えること。また、供えられる人。犠牲。(2) ある人の欲望を満たすために犠牲とされる人。
  • 薨れ かくれ?
  • 淫祠 いんし 邪神を祭ったやしろ。
  • 石器時代 せっき じだい 考古学上の時代区分の一つ。人類文化の第1段階。まだ金属の使用を知らず、石で利器を作った時代。旧石器時代・新石器時代に大別。
  • 土器 どき 釉薬を用いない素焼の器物。可塑性に富む粘土を材料とするため、器形・文様などに時代・地域の特色が反映され、考古学の重要資料。日本では出現順に縄文・弥生・土師器・須恵器を指す。かわらけ。
  • 弥生土器 やよい どき (1884年(明治17)東京、本郷弥生町の貝塚で発見されたからこう名づける) 弥生時代の土器。弥生文化の指標とされる。煮炊き・貯蔵・食事に使用。弥生式土器。
  • 南部シナ人
  • 沖縄人 おきなわじん? 考古学や言語学などの研究により、島々に居住した人々が古い日本語を話し、日本文化をおびていたことがわかっている。縄文末期からしだいに個性化を強め、弥生文化の影響は少なく、古墳文化に至ってはその痕跡さえ見いだせない。(日本史「沖縄県」)
  • 足溜り あしだまり (1) しばらく足をとどめる所。転じて、ある行動のための根拠地。(2) 足をかけるところ。あしがかり。


◇参照:『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)『日本国語大辞典 第二版』(小学館、2001.5)『縮刷版 文化人類学事典』(弘文堂、1994.3)。



*後記(工作員スリーパーズ日記)


書きかえメモ。
Basalt → basalt
富士山形 → 富士山型
Ethnography → ethnography
鍬子島 → 楸子島
一所 → 一緒
Pit-dwellers → pit-dwellers
フオネチック → フォネティック
グランマー → グラマー
ボカボラリー → ボキャブラリー

 本文中、『続日本紀』天平三年(七三一)条からの引用で、「耽羅楽六十二人」というものと「耽羅の楽人六十四人」という二つの表記がある。『続日本紀』本文にあたっていないので、どちらの数字が正確かは未確認。

 これまでも、北朝鮮と中国の国境にある白頭山(長白山)については何度か言及してきたが、そのほかに北東アジアで注意しておきたい火山はどこか、それを確認しておきたい……というのが今シリーズの裏テーマ。
 地震学や歴史学に精通している人ほど、それらサイエンスの限界にも気がついているはずで、それをおぎなうものとして口頭伝承(フォークロア、民俗学)がひとつあり、それから原始宗教の研究がある。神話や伝承、慣習のなかには、意識的/無意識的に過去の大きな出来事を記憶しているふしがある。
 学問どうしのあいだに壁をつくってしまうのも人間だし、学問と非学問とのあいだに壁をつくってしまうのも人間。じゃあ、その「壁」とは何なのかというと、じつは「ウチとソトを認識するためにつごうよく設定された、実態のないもの」
 見えない何かを恐怖するのは、どうやら現代人も古代人も大差ない。その原因を何に関連づけるか。関連づけの手続きの違いだけということか。

 さて、朝鮮周辺で主要な火山は、つぎの三か所。

 ・鬱陵島           (最終噴火、約9300年前)
 ・白頭山(長白山)      ( 〃  、10世紀)
 ・済州島、漢拏山(ハルラサン)( 〃  、11世紀初頭)

漢拏山は地質学上、第三紀に噴火した火山であり、周辺には360個の側火山が形成されており、最終噴火は11世紀初頭(高麗時代)であると見られている。(略)韓国国内には火山が少なく、主なものは漢拏山と鬱陵島のみである(北朝鮮には白頭山がある)。頂上に火口湖の白鹿潭がある。(Wikipedia「漢拏山」)

今から約9300年前に鬱陵島は大規模な噴火を起こしたことが明らかになっている。このときの噴火の火山灰は日本各地に降り積もり、広域テフラの一つ(鬱陵隠岐 (U-Oki))として年代測定の材料の一つとして使われている。(Wikipedia「鬱陵島」)

白頭山は10世紀に過去2000年間で世界最大級とも言われる巨大噴火を起こし、その火山灰は偏西風に乗って日本の東北地方にも降り注いだ(白頭山苫小牧テフラ(B-Tm))。また最近9世紀にもかなりの規模の噴火があったことが明らかになりつつあり、この噴火と渤海滅亡との因果関係が指摘されている。(Wikipedia「白頭山」)






*次週予告


第五巻 第四九号 
日本周囲民族の原始宗教(五)鳥居龍蔵


第五巻 第四九号は、
二〇一三年六月二九日(土)発行予定です。
月末最終号:無料


T-Time マガジン 週刊ミルクティー 第五巻 第四八号
日本周囲民族の原始宗教(四)鳥居龍蔵
発行:二〇一三年六月二二日(土)
編集:しだひろし / PoorBook G3'99
 http://www33.atwiki.jp/asterisk99/
出版:*99 出版
 〒994-0024 山形県天童市鎌田2丁目
 アパートメント山口A−202
販売:DL-MARKET
※ T-Timeは(株)ボイジャーの商標・製品です。