鳥居龍蔵 とりい りゅうぞう
1870-1953(明治3.4.4-昭和28.1.14)
人類学者・考古学者。徳島の人。東大助教授・上智大教授などを歴任。中国・シベリア・サハリンから南アメリカでも調査を行い、人類・考古・民族学の研究を進めた。晩年は燕京大学教授として遼文化を研究。著「有史以前の日本」「考古学上より見たる遼之文化」


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)。

◇表紙の鈴は、朝鮮咸鏡かんきょう南道・咸興かんこうの巫人の持てるものであって、先端に鈴は群をなし、そのかたわらに小さな鏡が結びつけられ、柄の下端には五色の長い絹の垂れがさがっている。彼女が神前で祈り舞うとき、これを手に持って打ち鳴らすのである。(本文より)



もくじ 
日本周囲民族の原始宗教
神話・宗教の人種学的研究(二)鳥居龍蔵

  • ミルクティー*現代表記版
  •   日本周囲民族の原始宗教(二)
  •     日本周囲民族の原始宗教
  •      三、中部、南シナ民族の宗教
  •       中部南シナ
  •        漢族、ミャオ族、ロロ
  •      四、南東アジア諸島民族の宗教
  •       フィリピン――北部ルソン
  •        イゴロ人
  •       台湾 付 紅頭嶼こうとうしょ
  •        インドネジアン――生蕃、熟蕃
  •       太平洋諸島 付、ニュージーランド
  •        マレー・ポリネシア族、マオリー人
  •      五、結論
  •      
  •     朝鮮の巫覡ふげき
  •      一、緒言――朝鮮の宗教
  •      二、巫人――巫覡
  •       巫人の社会的地位
  •       巫の呼び方
  •       巫・覡の区別
  •      三、女巫おんなみこ
  •       祈祷きとう
  •      四、げき―男覡
  •       祈祷
  •      五、結論
  • オリジナル版
  •   日本周圍民族の原始宗教(二)
  • 地名年表人物一覧書籍
  • 難字、求めよ
  • 後記次週予告

※ 製作環境
 ・Macintosh iBook、Mac OS 9.2.2、T-Time 2.3.1
 ・ポメラ DM100、ソニー Reader PRS-T2
 ・ソーラーパネル GOAL ZERO NOMAD 7
  (ガイド10プラス)
※ 週刊ミルクティー*第五巻 第四四号より JIS X 0213 文字を画像埋め込み形式にしています。
※ この作品は青空文庫にて入力中です。著作権保護期間を経過したパブリック・ドメイン作品につき、引用・印刷および転載・翻訳・翻案・朗読などの二次利用は自由です。
(c) Copyright this work is public domain.

*凡例〔現代表記版〕
  • ( ):小書き。 〈 〉:割り注。
  • 〔 〕:底本の編集者もしくは、しだによる注。
  • 一、漢字、かなづかい、漢字の送り、読みは現代表記に改めました。
  •    例、云う  → いう / 言う
  •      処   → ところ / 所
  •      有つ  → 持つ
  •      這入る → 入る
  •      円い  → 丸い
  •      室《へや》 → 部屋
  •      大いさ → 大きさ
  •      たれ  → だれ
  •      週期  → 周期
  • 一、同音異義の一部のひらがなを、便宜、漢字に改めました。
  •    例、いった → 行った / 言った
  •      きいた → 聞いた / 効いた
  • 一、英語読みのカタカナ語は一部、一般的な読みに改めました。
  •    例、ホーマー  → ホメロス
  •      プトレミー → プトレマイオス
  •      ケプレル  → ケプラー
  • 一、若干の句読点を改めました。適宜、ルビや中黒や感嘆・疑問符・かぎ括弧をおぎないました。一部、改行と行頭の字下げを改めました。
  • 一、漢数字の表記を一部、改めました。
  •    例、七百二戸   → 七〇二戸
  •      二萬六千十一 → 二万六〇一一
  • 一、ひらがなに傍点は、一部カタカナに改めました。
  • 一、カタカナ漢字混用文は、ひらがな漢字混用文に改め、濁点・半濁点をおぎないました。
  • 一、和暦にはカッコ書きで西暦をおぎないました。年次のみのばあいは単純な置き換えにとどめ、月日のわかるばあいには陰暦・陽暦の補正をおこないました。
  • 一、和歌・俳句・短歌は、音節ごとに半角スペースで句切りました。
  • 一、表や図版キャプションなどの組版は、便宜、改めました。
  • 一、書名・雑誌名・映画などの作品名は『 』、論文・記事名および会話文・強調文は「 」で示しました。
  • 一、「今から○○年前」のような経過年数の表記や、時価金額の表記、郡域・国域など地域の帰属、法人・企業など組織の名称は、底本当時のままにしました。
  • 一、差別的表現・好ましくない表現はそのままとしました。

*尺貫・度量衡の一覧
  • [長さ]
  • 寸 すん  一寸=約3cm。
  • 尺 しゃく 一尺=約30cm。
  • 丈 じょう (1) 一丈=約3m。尺の10倍。(2) 周尺で、約1.7m。成人男子の身長。
  • 丈六 じょうろく 一丈六尺=4.85m。
  • 歩 ぶ   左右の足を一度ずつ前に出した長さ。6尺。
  • 間 けん  一間=約1.8m。6尺。
  • 町 ちょう (「丁」とも書く) 一町=約109m強。60間。
  • 里 り   一里=約4km(36町)。昔は300歩、今の6町。
  • 尋 ひろ (1) (「広(ひろ)」の意)両手を左右にひろげた時の両手先の間の距離。(2) 縄・水深などをはかる長さの単位。一尋は5尺(1.5m)または6尺(1.8m)で、漁業・釣りでは1.5mとしている。
  • 海里・浬 かいり 一海里=1852m。
  • [面積]
  • 坪 つぼ  一坪=約3.3平方m。歩(ぶ)。6尺四方。
  • 歩 ぶ   一歩は普通、曲尺6尺平方で、一坪に同じ。
  • 畝 せ 段・反の10分の1。一畝は三〇歩で、約0.992アール。
  • 反 たん 一段(反)は三〇〇歩(坪)で、約991.7平方メートル。太閤検地以前は三六〇歩。
  • 町 ちょう 一町=10段(約100アール=1ヘクタール)。令制では3600歩、太閤検地以後は3000歩。
  • 町歩 ちょうぶ 田畑や山林の面積を計算するのに町(ちよう)を単位としていう語。一町=一町歩=約1ヘクタール。
  • [体積]
  • 合 ごう  一合=約180立方cm。
  • 升 しょう 一升=約1.8リットル。
  • 斗 と   一斗=約18リットル。
  • [重量]
  • 厘 りん  一厘=37.5ミリグラム。貫の10万分の1。1/100匁。
  • 匁 もんめ 一匁=3.75グラム。貫の1000分の1。
  • 銭 せん  古代から近世まで、貫の1000分の1。文(もん)。
  • 貫 かん  一貫=3.75キログラム。
  • [貨幣]
  • 厘 りん 円の1000分の1。銭の10分の1。
  • 銭 せん 円の100分の1。
  • 文 もん 一文=金貨1/4000両、銀貨0.015匁。元禄一三年(1700)のレート。1/1000貫(貫文)(Wikipedia)
  • 一文銭 いちもんせん 1個1文の価の穴明銭。明治時代、10枚を1銭とした。
  • [ヤード‐ポンド法]
  • インチ  inch 一フィートの12分の1。一インチ=2.54cm。
  • フィート feet 一フィート=12インチ=30.48cm。
  • マイル  mile 一マイル=約1.6km。
  • 平方フィート=929.03cm2
  • 平方インチ=6.4516cm2
  • 平方マイル=2.5900km2 =2.6km2
  • 平方メートル=約1,550.38平方インチ。
  • 平方メートル=約10.764平方フィート。
  • 容積トン=100立方フィート=2.832m3
  • 立方尺=0.02782m3=0.98立方フィート(歴史手帳)
  • [温度]
  • 華氏 かし 水の氷点を32度、沸点を212度とする。
  • カ氏温度F=(9/5)セ氏温度C+32
  • 0 = 32
  • 100 = 212
  • 0 = -17.78
  • 100 = 37.78


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)『歴史手帳』(吉川弘文館)『理科年表』(丸善、2012)。


*底本

底本:『日本周圍民族の原始宗教』岡書院
   1924(大正13)年9月20日発行
   1924(大正13)年12月1日3版発行
http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person1214.html

NDC 分類:163(宗教/原始宗教.宗教民族学)
http://yozora.kazumi386.org/1/6/ndc163.html





日本周囲民族の原始宗教
神話・宗教の人種学的研究(二)

鳥居龍蔵

   三、中部、南シナ民族の宗教

    中部南シナ
       漢族、ミャオ族、ロロ


 以上は東北方アジア民族であるが、なお注意すべきは南部シナはいかがかという問題である。漢民族それ自身はしばらくおいて、南シナというに意味があって、これは人類学上・言語学上、要するに南蛮の国である。漢民族は黄河の流域から南方揚子江ようすこう〔長江〕、のちに南嶺なんれい山脈の南、いわゆる瘴癘しょうれいの気深き、広東・広西・福建などに移住してきて殖民したのであって、古くからいたのは南蛮である。『書経』以来これが接触について記しておって、呉楚越というものも、要するにその土台の民衆はこの南蛮である。ゆえに南方シナを見るには、北方の黄河流域と同一に見ることはできない。南蛮というのはミャオ族のことで、南シナに住んでいたのは昔のみではない。今日でも雲南・貴州全体・広西・広東・福建あるいは浙江省の一部、湖南の南方の山地、四川省などに苗族が住して、固有の言語・風俗・習慣を持っている。これは漢民族とはちがって、人種学上、東京トンキン・アンナン・シャム・ビルマなどにいるインドシナ民族と同じであって、インドシナの連続である。彼らには固有の宗教があって、神を信じ、特有の創世記がある。たとえば、人間の祖先が竹あるいは桃から生まれたと信じているのであって、植物尊拝・桃尊拝・竹尊拝の思想はなかなか盛んであることは特に注意すべきである。クラン〔氏族〕が桃の姓、柳の姓などからできておって、樹木尊拝の風がひろくおこなわれている。アジアのチュクチ、コリヤークあるいはベーリング海峡の前岸の北アメリカのツリンキット人・ハイダ人らには動物のトーテムが盛んであるが、ここでは植物尊拝である。桃太郎の話で、川で洗濯していた女が流れてきた桃をひろってそれを割ると男子が生まれたということは、ミャオ族のあるものにも伝えられておって、『後漢書』西南夷列伝に載せられてある。洪水の話もあって、これはシナの黄河・の治水の説と何らかの関係がありはしまいかと思う。これは特に注意すべきことである。
 しからば、これら南北の中間に位する漢民族みずからはいかがであるかというに、儒教は一小部分で、一つの実践じっせん哲学を祖述するのみであり、帝政時代には儒教が国家観念と結びついたのであるが、民間では道教がおこなわれておった。それも彼の哲学化した道教ではなく、一つの信仰として原始的道教が民間に存在しているのである。すなわち、関帝廟・娘々宮・山神廟・龍王廟・財神廟などに祈祷をささげるのである。山・海・川などにもみな神があって、香をいて礼拝する。占い・その他の迷信が盛んであり、鬼門の考えもある。石敢当いしがんとうを建て、泰山たいざん府君ふくんをまつる。仏教の思想と結びついて、人が死ねば陰府いんぷへ行くという。町の中心には城隍廟じょうこうびょうというのがあって、ここには地獄・極楽の泥像がある。
 要するに、漢民族の文化は進んでいるにかかわらず迷信がおこなわれ、祈祷を好み、儒教は単に表面におこなわれるに止まるのである。
 朝鮮の上流社会では儒教を信じ、これを政治道徳の中心としているが、それは単に表面のみのことで、民間には固有の信仰が存すると同じく、漢人にもそれがある。道教もシナ南北で多少色彩を異にし、揚子江ようすこう以南にあっては北方のものにくらべて多少変化しているが、いずれにしても両者の関係が深い。余が大正十二年(一九二三)吉林省の山中を夜中馬車で通行したとき、ちょうど物さびしく気味の悪いような場所にくると、御者ぎょしゃが馬車からおりて、箱から一つの鈴を取り出して馬の胸にかけた。それは虎頭鈴というものである。なにゆえにそうするのかと問うたが、ただ色を失って恐怖するばかりで、さらに答えない。宿についてからはじめて語るところによると、これは悪魔よけの鈴であって、かかるさびしい場所を通る際にこれをもちいると、鈴の神霊とその音に恐れて悪魔は近寄り得ないと信じているのである。ことにトラは獣の王である。日本の古墳からもトラの顔を付した鈴が出る。これは些細のことではあるが、彼らの間に迷信の深いことが察せられる。
 道教も民間には信仰となって現われるのであって、日本の神道が儒仏二教と合して学者風の神道となったと同じく学者的の道教となったが、シナの真の道教は、今日現に見るがごとく信仰を主としたものであったろうと思う。シナの道教については、なお原始的研究の余地がある。今日の学者の研究は哲学的のみであるが、原始神道のごとくにさかのぼって研究を試みたい。
 ここで考うべきはシナの位置であって、古来、南蛮・北狄・東夷・西戎といわれていて、南にはインドシナ民族・南蛮があり、北にはトルコ・ツングース・モンゴルの三民族がある。前者には植物尊拝などがおこなわれて、後者にはシャーマンがおこなわれる。シナの固有の道教には両民族の思想が混入しているが、どこまでが漢族のものであるか、南北いずれがどこまで入ったのであるかを学者は注意せねばならぬ。桃の伝説、悪魔・悪霊をはらうことなどは、南方の思想が漢族のあいだに入ったのであるらしい。加持・祈祷のばあいには、北方シャーマンの風がある。古代に漢族には一種の巫覡ふげきが存在しておったことが古い書物に見える。要するにシナ固有の道教が、シャーマンおよび南方の宗教と結びついて、道教の中にもシャーマンが入り、シャーマンの中にも道教が入りて両者の雑合を見るにいたったのである。
 シナ民間の宗教については、研究上、予は特別の注意をはらいたい。日本の古い宗教にこの分子が加わっていることは神代においてすでにそれが見え、さらに平安朝の陰陽道おんみょうどうはいうまでもなく道教である。道教とシャーマンとの区別がはなはだ困難であって、日本の神道にシャーマン的のところがあり、シナの民間信仰に道教があって、道教とシャーマンとはその性質は違っていない。仏教にあっても密教の加持・祈祷はシャーマンになりやすい。平安朝時代の事実に徴してもこれを知り得べく、ものをはらうことなどみなシャーマンである。平安朝の仏教は大乗教であるがシャーマン式であって、ラマ教がモンゴルに入ってシャーマン式であるのと相似ている。密教のわがくにに入ったのは平安朝時代であるが、契丹きったんにもシャーマンがあってこれと密教との関係も研究に値するのである。チベット人も固有のボン教を持っているが、これもシャーマンの一種である。のちに入ったラマ信教にも影響している。ゆえに東亜宗教史の研究は、仏教・道教とその国固有の宗教とが渾合していることを研究することで、これらはわれわれ人類学者にとって大いに興味を覚ゆることである。

   四、南東アジア諸島民族の宗教

    フィリピン――北部ルソン
       イゴロ人


 つぎに、日本から南の諸島における例をあげたい。まずフィリピン諸島の土人の宗教観を話そうと思うが、フィリピンのうちでも予は殊にルソン島にいるイゴロ人のことについてすこしくわしく述べよう。
 イゴロ人は、霊魂のことについて大なる恐怖を持っている。霊魂に種々の別を立てているが、一般にこれをアニト(Anito)の信仰と呼ぶことができる。アニトの信仰はフィリピン諸島はいうにおよばず、台湾の生蕃せいばん、南方諸島のマレー、ポリネシアなど一般にあまねくおよんでいるが、その一例をフィリピンのイゴロ人について話すと、イゴロは霊魂をさまざまに分類しているが、実際に生活している人間の霊魂をタコーという。イゴロ人は人間を二方面に分けて考え、肉体の内に霊魂が宿やどっているものと信じ、タコーは元来宿やどっているものであるから、肉体の外へ出ることのできるものであって、人間が眠っているときは往々、体外に離出することがある。これはすなわち文化人の夢である。人間が死ねば、この肉体は消滅するが霊のみは残るのであって、これをアニトという(このアニトは南方諸島ではアンツ(Antu)とかアン(An)とかさまざまの方言になるが、いずれもアニトからきたのである。。前にも言ったとおり、イゴロは霊魂を種々に分類する。たとえば、ここでは首狩りが盛んにおこなわれるが、首狩り人によって首を斬られたものの霊魂をピンテン(Pin-teng)という。また同じ人間であっても、聾唖ろうあ者の霊をウルウル(Wul-wul)といい、精神病者の霊をウォングオング(Wong-ong)という。アニトのうちにも社会から排斥はいせきせられる悪い霊があって、これをフターツ(Futa-tu)という。日本の神話中にみたまがさまざまの名で呼ばれているが、このイゴロが霊を種々に分けると同じようであったろうかと思う。人間の身体は死ねばその存在を失うのであるが、また、存在するがごとくに考えることもある。たとえば彼らの方でリムン(Li-mun)というのは霊的の名であって、幽霊などはこのリムンである。人が死すれば霊のみであって、その形は他の人間の目に見えないはずであるが、これが霊体・みたまとなって現われ、リムンが元の形にて人の目に見えるのであるという。要するに日本の幽霊であって、おもしろい考えである。リムンを盛んに信ずるのは、イゴロ中のプエブロ地方であって、これが実に見えるものと信じている。ときには、死者自身の住んでいた家またはその他の家に、リムンが来ることを信じている。
 またイゴロでは、タコ(Ta-ko)すなわち生きた人間の霊は、時としては身体を離れて他へ行くことがある。けれども、まったく置き去りにしてしまうのではなく、離れて行った霊が身体へ帰ると、また元の形になってふたたび活動するのであるが、出て行っている間はまったく活動しない。ことに老人は非常に多く夢を見るが、そのばあいには、自分のかつて知っている人や兄弟・姉妹・両親などを見るのであるといって、かかることは霊の存在せること、アニトが生活していることのあかしと考えている。
 彼らの信仰中に、追放されたアニトの家庭がある。これらの住所は山上にあって、かつて所有していた豚・雛鳥ひなどりなどの家畜が、すべて霊の形にて山の上に存在する。ここでアニトの生活がおこなわれるのであって、山上に住むアニトは霊の形で、実際に生活を営んでいる。しかして彼らはそこにつくった家の内に住み、開耕もすれば結婚もしてアニトの間に子どもが生まれ、ついに彼らはふたたび死んでまた変化するのである。
 かくのごとくに、死んだ霊がその所有物・家畜などを山上に持ち行きて前のごとく生活して、一時をすぎるとふたたび死んで形が変わることとなるのである。ただしアニトは、かくして一時期を経て他へ行ってしまうのではなくて、たびたびの生活を続けるのである。ここで疑いのおこるのは、アニトの霊の生活は、いつごろまで続くものであるかということであるが、これをイゴロに問うても知らない。イゴロの考えによると、一家族が魂祭たままつりを営んで種々の供物くもつをそなえると、先祖代々のアニトがその家に帰ってくるというのであって、日本におこなわれる盆の精霊祭しょうりょうまつりとよほどよく似ている。先祖代々の霊は、平素はその家と遠ざかっているが、この魂祭のときには帰ってくる。してみれば、霊の生活は決して消滅せぬものと彼らが信じていることが推知される。日本の神社における神々の御霊ごりょう鎮魂祭ちんこんさいなどもかかる意味のものでなかったであろうか。なおアニトがその形を変じ、またそれがなくなった時は、いかなるふうに変化するかというに、それは蛇になると考えている。ゆえにイゴロは、蛇はアニトの変化したものと信じて、家に害をする蛇のほかは決してこれを殺さない。あるものはまた、人が死ねば岩になると考えている。これらの岩は、ボントック地方の北にあたる山上にあると信じられておって、これをミタマ岩と呼ぶ。ただし、死んだアニトの一般の形はいかなるものであるかというに、リファ(Li-fa)と称してすなわち鬼火おにびである。彼らは鬼火を見ると死んだ霊魂の現われたものだと考える。山上の樹木のあいだに青い火の燃えるのを見ると、それは霊魂がさまようているのであるという。
 人が夢を見ると、あきらかにかつ細かにアニトの国を見ることができる。夢のうちに現われるアニトの国には分限者ぶげんしゃ・貧乏人・老若などの差別がある。また結婚もするし、子どもをも生み、かくて老いて死にいたるのである。ゆえにアニトは実際、われわれ人間と同じふうの生活をしていると考えている。また、先祖の霊がある場所に住んでおって、そのつぎの代々の霊はその先祖といっしょに住むために、人が死ぬとその霊が旅立つのである。それから、歯の痛むこと、死ぬばあい以外の病気、不行跡ふぎょうせきなども多少アニトに関係を持っている。ある儀式をおこなえば、先祖のアニトが現われて子孫に向かい、よく注意をうながすことがある。先祖の霊は、生きている子孫に害を与えようとするアニトがあると、子孫の上に保護を加える。たとえば山上・その他の場所にいるアニトは、つねに害を加えさせぬように他のアニトがそれを取り巻いている。山上の樹木あるあたりには、アニトがさまよっているゆえ、山を歩くときは、これらのアニトに触れぬように注意する。山中を歩いている際、頭髪のゆるく動くのを感ずるときは、その人の付近にアニトが来ているのだという。ゆえに通行人は魔除まよけの槍を持参する。この槍をシナラウィタン(Sinalawitan)と呼んで、アニトのもっともおそるるものであるから、彼らは山に行くには必ずこれをたずさえて行く。そうすればアニトはおそけて決して害を加えないから安全であると信じられている。かかることを考えると、彼らの間にアニトの信仰が盛んであり、これをおそるる念のはなはだしいことがわかる。
 以上は霊魂の話であるが、神様についていうとルマウィグ(Lu-ma-wig)という神がある。イゴロは自然の力を自然そのものと見ず、これを人格化し、人の形として考えている。これがついに偉大なる一つの神となるのであって、これをルマウィグという。これは彼らの信ずる最上・永久の神で、すべてのものを造り、すべての部分の創造者たるの勢力を持つ神である。この神はボントックにいるイゴロの祖先および子孫を守護するためこの土に来たり、また蒼人草あおひとくさに種々のことを教え、またそれからの人々に注意警戒させるためにここに降り来たのである。
 この神は偉大なる御霊で、つねに天空(Chauy-ya)の上に住んでおられる。イゴロは収穫の豊かならんことを、自分の家畜の繁殖、狩猟の獲物えものたる動物の多いこと、その他自分たち人間の幸福をこの神に祈り、また、この宇宙にいるあらゆる悪い霊の害を防ぐために、神の助力をい、これがために隔月ごとに儀式をおこない、祭りをいとなみ、自分たちの健康と果物の豊熟ほうじゅくを祈るのである。プエブロー地方の彼ら住民のうちには、ある世襲の階級の家(男)があってこの祈祷をおこなうのである。これをパタイ(Pa-tay)という。パタイは男の覡子のことであって、ここにも覡子が神と人間とのあいだを取り次ぐのである。以上述べたところは、最上神たるルマウィグについてであるが、つぎにフニ(Fu-ni)・カンブニヤン(Kan-buniyan)と呼ぶ神がある。けれども、すべての物の最初の創造は前述のルマウィグに関係ないものはなく、この土地はこの神の性格によって造られたものといわれている。
 水によって、人間をはじめすべての動物・植物が造られたのであって、太古ボントックの低地は水でおおわれていたのであるという。そのときルマウィグは、その北方にあるポキス山の頂上で二人の若い人間を見たのであるが、この二人はファータンガとその妹のフーカンとであった。そのころ人間はいまだ火を用いなかったが、ルマウィグは早くボントックの南方にあるカロウイタンにいたりて火を取ってくるように彼らにすすめた。そこで兄のファータンガは教えられた場所へ火を取りに行ったが、帰って見るとその妹は、子どもが生まれそうになって身体が重くなっておった。ルマウィグはこれに、鳥の飛ぶごとくに走ることを教えた。そこで彼の女を介抱して子どもが生まれたのであるが、くしているうちに地上をおおうておった水がたちまち引き退いた。兄妹と赤児との三人はプエブローに帰った。爾後じご漸々ぜんぜん子どもがふえて、一つの大なる家族ができた。数代を経る間に驚くべき多数の人となり、かくてしばらくすぎたのちルマウィグは、彼らを助けてよいことを教えようとてその住処すみかに来た。はじめに彼は、カロウイタンの山にとどまって妻とすべき女を求め探し、自分のもっとも好きな女があろうかとて、山上からサバンガンという地方の若い女をくまなくのぞみ見た。ただし、この地方に彼の気に入る女はなかった。なぜかというに、この地方の女は頭髪を短くしているからであった。ゆえに、そこからさらにまた彼はアルプに来て瞰下かんかして探したが、ここの女は身体が虚弱であるために気に入らなかった。彼はツルビンに来たが、ここの女性で結婚期に近い娘はほとんど甲状腺腫こうじょうせんしゅであったため、大いに驚いてすぐにここを立ち去った。最後に彼はボントックにきた。ある日、彼は花園にてある姉妹を見て、それに近づいてしばらくそこにすわっておった。そのとき神は、「なぜ貴女あなたらは自分の家に帰らないのか」と彼女らに問うた。「われらは今、豆をる仕事をしている」と答えたのを聞いて、神はそれを非常に楽しくおもしろいことに思って、彼女らと共に豆をとり、かごに入れるのを手伝った。やがて豆はかごに満ちた。ついに彼は妹のフカと結婚した。のちにチャオウイという今日のボントック、プエブローの中央の地に住んでおった。そこには丸い扁平へんぺいな石を垣のように並べたのが今日に残っている。ここが神とイゴロの妹との結婚後の住家すみかであると言い伝えられている。
 ルマウィグは、驚くほどの力を持っている。それは、はじめ小さな雛鳥ひなどりが来たのをわずかな米つぶをあたえてやしなっておくと、一時間ほどたつうちに非常に大きくなった。この大きくなった雛鳥ひなどり米穀べいこくとともにかごの内に入れてそれいっぱいにたすことができた。山上の樹木にてつえを作り、それにてこの大籠おおかごになって自分の家に帰ることがあった。彼はあるとき、ボントック地方の北にあるイシル山に行ったおりにファータンガがいうには、「あなたはじつにつまらない人だ。この山には飲む水さえもないではないか。はたしてえらい神ならば、なぜわれわれに水を与えないのか?」と。ルマウィグはこれを聞いて何をも答えず、無言のままでやりを取って、山の側面を突き刺した。そこから泉が滾々こんこんとしてでた。水のないのに困っていたファータンガは、うれしさのあまり飛び立ってすぐに水を飲もうとした。そのとき、ルマウィグはこれを制して、「まず他のものが飲んでのちに、なんじが飲め」といった。そこで他のものがまずこの水を飲み終わり、やがてファータンガの番となったので飲もうとすると、ルマウィグは固くその手をにぎって止めた。そうしてかえって彼を外へ突き出したので、すなわち岩となって水は岩を通して流れることになった。この岩は今も残っていて、老人たちの中には、これを実見したというものもある。
 アトチャコンにあるフィルランという花園でルマウィグは農業を教え、樹を植えること、作物を取り入れて穀倉にしまっておくことなどをよく教えた。また彼の神は、建築やその他いろいろのことを教えた。なお彼は民衆の使用している物に名のあることを教え、一つ一つの物にそれぞれの名を与えた。彼らにプエブローという名を与え、本来の道徳心をも教え、ただ一人の妻を持つことの正しいことをも教えた。ルマウィグは彼らの元で、大切な神であった。……彼らイゴロ人はかかるふうに考えているのであって、アニトの思想はかなり広く分布している。

    台湾 付 紅頭嶼こうとうしょ
      インドネジアン――生蕃、熟蕃


 このつぎには、日本内地の近いところとして台湾について話してみたい。台湾では、領台後のわが同胞を除いて二つの民族がある。一つは漢族で、一つはインドネジアンである。インドネジアンはマレー族のことである。
 インドネジアンは古くからここに住んでおったが、漢族のほうは、明末から清朝の康熙こうき乾隆けんりゅう〔一六六二〜一七九五〕にかけて盛んにここへ入ったので、これを二つに分ける。一つは福建省から来たもの、一つは広東省から来たものである。これらはごく新しく入り来たったもので、元からいるのはインドネジアンすなわちマレー族である。このマレー族は、もと台湾の平地に住んでおったのが、のちに漢族に追われて山奥へ移ったので、彼らが山の生活をするようになったのは近ごろのことであると一般にいわれているが、そうは思えない。もとから平地に住んでおったインドネジアンは漢族に征服され、土地を奪われて熟蕃じゅくばんとなったけれども、山にいる蕃人ばんじんが漢人と接触したのは近ごろであって、昔はなんの関係がなかった。山にいる生蕃せいばんは、自分たちは先祖からここに住んでおったと考え、種々の伝説も付随している。彼らも元来、平地から山上へ登ってきたのには違いないが、それは遠い昔のことであって、近ごろになって山へ移って行ったものではない。彼らの間の伝説と山上生活とが合しているのを見ても、彼らがいかに古くからこの山におったかがわかる。
 台湾生蕃は、ほとんど一口ひとくちにインドネジアンすなわちマレー族であるというが、彼らの内には群族グループとして種々のものがまじっている。北の方からいうと、北方の山上にタイヤル群があり、そのつぎの濁水渓だくすいけい方面にはブヌン群があり、阿里山ありさんの山上にはツォー群があり、なおその南にはツァリセン群あり、さらに南方の山上から恒春こうしゅんへいたる方面にはパイワン群がある。また東海岸花蓮港かれんこうから卑南ひなんまでのあいだの平地にはアミ群あり、なお台湾の東南にある離れ島である紅頭嶼こうとうしょにはヤミ群がいる。
 かように種々わかれている数群も、学者から見れば等しくインドネジアンとかマレー語系の民族とかの名のもとに入れるのであるが、彼ら自身はそれぞれに神話・伝説を有し、相互に何らの関係なく、言語さえ相通ぜず、彼ら自身もおのおの違った祖先を持っているものと考えている。であるから、学者はこれを等しくマレー語系の民族であるといっても、神話・伝説のおのおの相違しているのを見ると、台湾の生蕃はかならずしも歴史的に同一なる祖先から出たものとは考えられないのである。生蕃中には、早くからこの台湾に来たものもあろうし、遅く来たものもあろう。そしていずれもフィリピンやその他の島々から移ったのであろうが、これらもまたその来た地方の違っていることがわかる。かくしてこれらの大群が、この島のあちらこちらに来たり、前後してできたものが今日の生蕃であると言いうる。
 西海岸の平地に住む一族は、とうに漢族に征服せられて自分固有の風習を忘れ、熟蕃じゅくばんの状態となって残っているのであるが、もしこれらを漢族の入る前の状態にかえせば、なお幾多の異なった群族をかぞえ得るのである。さて生蕃のうちでもっとも早く台湾に入ってきたのはタイヤルであろうと予は考える。そしてブヌン、ツォーもまた相当に古く、つぎにパイワン、ツァリセンが来たり、アミはもっとも新しく入ってきたというふうに説明できる。
 かようなふうであるから、その宗教を考えるにも一つに取り扱うことはできない。各群によってそれぞれ特有の信仰習慣を持っている。たとえば死者に対する考えも、タイヤルは人が死ねばこれを自分の住んでおった所の下に葬るのであって、すなわち自分らの寝床ねどこの下、あるいは食事をする部屋の床下には、自分の祖父・祖母・両親・その他の人々が葬られているのである。これはいかなる考えであるかというに、同じファミリーの者を他へやるにしのびないという友愛の情からきたことで、祖先に対して懐しみを持ち、死者とともに住んでいるという考えであるがゆえに、彼らの村落の荒廃した場所に土工作業をなした場合など、人家の跡から死体を掘り出すことが多い。
 それから東海岸に住むアミはいかがかというと、タイヤルと似ているが、これは家の軒下に葬るのであって、上に檳榔樹びんろうじゅなどを植える。これは前のものと多少似た考えで、自分の両親や一族の霊が自家の軒下に休んでいるという意味である。
 ところでこれがパイワン・ツァリセンのほうになると大いに意味が違って、ここでは人が死ぬと家を転ずる。なかには家の内に葬っているのもある。そこにはすなわち死者と接触関係するのを好まず、これから遠ざかろうとする考えを持っているのであって、日本の昔の奥津おきつ捨家すてやの考えと似ている。自分の一族が死んだ家には近寄らず、ある場所では、かつて住んでおった家が死者を葬ったままでてられて、家そのものがそのままで一つの墓場となっているのがある。
 これから考えても、同じインドネジアンでありながら、宗教上、死者に対する考えはこれだけ違っているのである。されば、台湾生蕃の死者に対する考えを云々うんぬんするばあいに、もしタイヤルのことのみが伝説として残ったとしたならば、台湾の蛮族はすべて死者を床下に葬りこれと同じ家に住んで親しみを持っているということになるのであるが、じつは前に述べたとおり、他に著しく違った風習のもののあることを考えねばならぬ。
 なお、台湾の離れ島である紅頭嶼こうとうしょのヤミの方ではいかがかというに、そこでは死者を恐れることがはなはだしい。彼らは生蕃中でもっとも原始的状態にあるもので、この点はわれわれは大いに参考となるのである。予は二か月ほどこの地におって調べたが、人が死ぬと立てひざにしたままで布にてき、それを墓場へ持っていくのであるが、その際には二人で死体をかつぎ、他の数人これにしたがい、あるものは刀をぬいて前に進み、あるものは長いやりをたずさえてこれを守って行く。そして海岸パンダナスの林の中にある墓場にめる。この途中で、死者が生前の食事にもちいた茶碗ちゃわん・その他の品を路傍ろぼうに捨て、これに触れぬようにする。死者を埋めて土をかぶせ、その上に一つの石を置き終わると、武装した五、六の会葬人かいそうにんが刀を振りまわしたり、やりをもって突く真似まねをしたり、不自然な態度で狂気のごとくに踊り狂う。これは霊魂に対する威嚇いかくであって、これによって生きている人間が霊魂の害を防ぐのであるとしている。かくて一種のさけび声をはなちつつ、自分の家に帰るのである。死者のあった家の軒先にはかならず一本のやり(Shishikud)を立てておく。やりに対する神秘的の考えは、前にフィリピン島のイゴロ人のところで述べた、やり魔除まよけにするということと同じ思想である。
 紅頭嶼こうとうしょのヤミは、フィリピンの北方の土人と似ている。伝説によれば、彼らはルソン島の東〔北か〕にあるバブヤン島から渡って来たといっており、風俗習慣は両者同じである。彼らは移住後、なおそれゆえ島の風を残しているのである。北方アジアでは弓が威力あるものと考うるが、南方ではやりをもって威力あるものと考えている。
 紅頭嶼では葬送を夜間におこなうのであるが、太陽が没してから死者を葬るのは、他のものと似ている。彼らの間にもまたフィリピン島のごとくにアニトが信じられ、アニトは恐ろしいものと思っている。霊を呼ぶにアニトの称をもちうるなど、ここにもアニト系式の宗教のおこなわれていることが考え得られる。
 なお紅頭嶼では、人が死ぬと天に一つの星が現われるという。星は死んだ人の霊であるといい、星をマタノアニトと称する。マタは眼という義で、あのピカピカした星の輝きはアニトが下界をながめているのであるという。かようにアニトの信仰が盛んであり、アニトを恐れ、それに犠牲を供し種々の儀式をおこなうことなどは、とくに注意すべきである。ここは生蕃中もっとも原始的状態を保っていることと一方に、フィリピンとの連鎖に大なる興味がある。
 台湾の生蕃では、五穀のみのるときに祭りをおこなう風がある。米よりもあわの祭りのほうが多い。朝はやくおこなうのであって、酋長がその儀式をする。北方のシベリアほどにシャーマンが盛んでないが巫子いちこもあり、祈祷・禁厭きんえんなどがおこなわれ、病気はアニトに関係ありとしている。また、火はきよめるものとして、村へ入るに火をまたいで行く風がある。その他、彼らの神祭祀などでおもしろいものがなかなか多い。
 台湾生蕃の風習中、もっとも著しいのは首狩りである。これは漢人に首を取られたその報復のためだという説もあるが、そうではない。これはインドネジアンに特有のことであってフィリピン・ボルネオなどにも盛んにおこなわれる。首狩りについては種々の風俗習慣がある。子が青年期に達すると、父がそれを初陣として首狩りにともなって行く。首を取るためには、草の中、樹のあいだに幾日もかくれてその機会をうかがっている。取った首をおのが村落に持ち帰り、これをある場所にすえて酒を献じ、供物をささげ、周囲を踊りまわる。後にはこれを首棚に置くのである。これらも宗教上の儀式としてもっとも注意すべき点である。
 台湾にも天地開闢かいびゃくの話があって、タイヤルにはピンサバカンとて太古山上にある大岩石が分裂して生まれたものは彼らの子孫だといっている。ツォーの伝説によると、彼らの祖先は今の新高山にいたかやま玉山ぎょくざんのごとき高地に住んでおったのであるが、たがいに仲間の者どもが仲違なかたがいして一致しなかったため、一族中から離れそこを退却して、あるものはマヤへ行った。彼らは別れるとき、とどまる者と立ち退く者とが後に会ったときの証拠にとて矢を取りわし、これを二つに折り、たがいに一方を所持して別れた。他日、同じのを互いに持っているものが祖先を同じくしているということを知る手段とした。われらと同じ祖先から出たこのマヤというのはいずれにおるか探しているがわからぬと、彼らの間には伝えられている。
 アミの花蓮港に住むものは莱派であって、彼らは、その祖先は丸木船にてここにき、もといた人間を征服して住み、種々の果物を持ちたったと称していて、台湾にブレッド・フルーツ〔breadfruit、パンの樹〕の残っているのはここのみである。古い丸木舟を模した物が今も残っている。彼らの祖先が沖合いからここに来て他種族を征服するありさまを、劇的に仕組んで祭りとして演じることがおこなわれる。彼らの頭形・身長その他の点からカロリン島とよほど深い関係があるように思われる。
 台南たいなん平地に住むある熟蕃じゅくばんでは、一年じゅうのある時期に、関係ある村々から集まって盛んな踊りをおこなう。ヤシのひしゃくをもちいて踊る者に酒を飲ませる。このひしゃくはヤシの枝に葉のついた形に擬して鳥の羽をつけたもので、これは彼らがヤシのはえた土地から来たということを示するもので、多くの人が集まるのである。
 かかる風習によれば、おのおの祖先を異にしていることがわかるが、しかしその共通点としてはいずれもアニトの信仰を持ち、神と称するものが多くは人格的の人間であり、祖先の御霊みたまであることなどは一致しておって、一方からいえば祖先教である。パイワン・ツァリセンでは、家の柱・軒・棟木などに人の顔を彫刻するが、これをボボまたはタウという。これは何であるかというと祖先の形を現わしたもので、一種の祖先礼拝の風を示すシンボルである。彼らの祖先の形は裸体であって、両手を屈し、足をまげている形を模様化してえがいている。これは絵または模様・織物などにも現わされていて、かかるシンボルをしているものは自分らの一族であると彼らは言っている。このボボまたはタウと称せらるるものは、紅頭嶼こうとうしょのヤミにはタウタウとよばれシンボルとして用い、フィリピン・ボルネオにもおこなわれ、祖先尊拝・アニト信仰・タウタウのことなど、一般にインドネジアンに広くおこなわれる宗教的色彩のものと見るべきである。
 くわしくいえば長いことであるが、台湾の生蕃についてもかかる宗教上の考えや儀式があって、これらは日本の宗教研究上、考えのうちに入れておかねばならぬことである。

    太平洋諸島 付、ニュージーランド
      マレー・ポリネシア族、マオリー人


 つぎに南洋諸島のポリネシア、日本の占領に帰したミクロネシアの土人はいわゆるマレー語系に属するマレー・ポリネシア族である。これらの土人の宗教もまた注意せねばならぬ。
 ミクロネシア、ポリネシアについて注意すべきはアニトの信仰が盛んなことであって、ほとんどアニト的宗教の名のもとに入れてよいくらいである。アニトの関係・先祖尊拝・アニトの支配を受ける風習あり、台湾にて死者の霊に親しむものとこれに遠ざかろうとするものとの二つがあるか、ここでもこの傾向を持っている。
 ニュージーランドにいるマオリーのごときは、祖先に対して非常の親しみを持ち、死んだ祖先・祖父・親などについて話すのを自慢にしている。彼らの神話・伝説は祖先と結びついていて、わがとおみおやはかかる戦いをしてこういう手柄があったとかいうことが子孫に伝えられている。これが文字に現われると、たとえば日本の『古事記』『日本書紀』となるのである。ここでは文字がない。口に伝えるのみであるが、アイヌの『ユーカラ』のごとく、ホメロスの『イリアス』のように口語詩として残っている。
 かかる土地であると祖先尊拝と結びつくのであるが、わが占領に帰したミクロネシアのたとえばカロリン島のごときでは、アニトの信仰が盛んにおこなわれるが、人が死ねばその名をも口にせず、その人の生前の仕事についてもさらに話さず、その人を忘れるようにするので、これはアニトを恐れる考えからきたことである。台湾の方からいうと紅頭嶼こうとうしょのヤミがその例で、死んだ人のことを言わぬゆえに祖先に遠ざかるのである。祖先尊拝はマオリー人から見ると、これがますます存立してゆくが、カロリン人のほうから見ると祖先尊拝は成立しないこととなる。ちなみにいうが、カロリン人は人が死ぬと海底の国へ行くのであって、死者が遠い道を歩いて行くと大きい門がある。その内はまっくらであって、門には二つの女神が両側に立って炬火たいまつをつけているといっている。
 かかる点から考えると、台湾・フィリピン・マレー諸島・太平洋諸島など日本付近の地の宗教は、すべてアニト形式の宗教であり、御霊ごりょうに善悪があるのを説いている。

   五、結論


 以上は、日本の周囲における原始民族とその古い原始状態を伝うる宗教思想とである。祖先以来、周囲にかような宗教思想を持っていた日本の原始神道は、その固有の宗教心といかなる関係があったか、これは日本宗教研究家の注意しなければならぬ点である。従来の研究は単に『記』『紀』に見ゆる事実のみによって考える学派と、あるいは単にヨーロッパの進んだ宗教のみについて比較している学派とによってなされたのであるが、今後のわが固有宗教研究は、かくのごとく周囲との比較研究によってなされねばならぬ。さらに進んで、まず道教・儒教・仏教などの色彩や衣装を取り去って見ねばならぬ。これらを取り去った赤裸々のところに純粋な吾人祖先の宗教心が存在し、われら祖先の信仰心・神々・祭祀さいし巫覡ふげきがどんなものであったかは、以上のごとき日本周囲の民族のそれと比較することによって闡明せんめいされるのである。
 最後に、余のるところを記してこの稿を結ぶこととする。余すでに記したるシャーマン巫覡・祭祀・霊などの諸点からしてわが古代の宗教的色彩は、わが国もまたシャーマンの分布区域に属するものであることを明らかに物語っているように思われるのである。

 朝鮮の巫覡ふげき


朝鮮には、いまなお彼らの固有宗教たるシャーマン教が残っておって、しかもその巫覡ふげきの勢力はなかなか盛んである。余はここでその一斑いっぱんを話してみよう。

   一、緒言――朝鮮の宗教


 朝鮮は一般に儒教国であるといわれている。また、高麗こうらいがつねに仏教を信じておったので、その反動として李朝りちょうになって儒教を根本主義にした関係から、朝鮮人はまったく儒教のもとに存在しているとこういう人が多いのである。もっとも朝鮮でも学問をした両班ヤンバンであるとか、儒生じゅせいであるとかいう人々は漢学の素養の上から儒教というものを知っているが、一般の人民はまだそうとはいえないのである。もとより朝鮮は古いときからシナとの関係が非常に深かったために、知らずらずの間に風俗習慣のうえに漢民族の影響を少なからず受けて、種々の点にその事実が見えるのである。たとえば朝鮮の言語、すなわち朝鮮語には漢語の混入が多く、今日ではほんとうの朝鮮語は比較的少なくなった。その点にいたっては、モンゴル語とか満州語などを比較するとその状態が大いに異なっている。殊にモンゴルは漢語の影響はきわめて少ない。この言葉の上から見ても、いかに朝鮮人というものが古くから漢族との関係を有しているかということがわかる。ゆえに朝鮮の風俗習慣というものは人類学の上から研究するには、最初にまずこれらを注意してかからなければならぬのである。
 しかるに、ここに述べんとするところの巫覡ふげきの風俗習慣は、一見道教、一見仏教のごときものであるが、深く調べるときは、彼らの祖先から今日に伝わっているところの古い風習の遺物というてよい。朝鮮の風俗習慣において、この風習がいちばん古いものである。必竟、古い彼らの固有宗教の骨組みに道教の衣装をけ、仏教の彩色をほどこしたもので、これらをことごとく取り去ればまったく昔の面影おもかげをしのぶことができる。それゆえに、これを人類学の上より見ると非常におもしろい事実であって、彼らの祖先のおもかげが多少見えるのである。これらは原始宗教や民族心理を研究する人から見るとなかなかおもしろかろうと思う。以下、その概略の事実を記してみよう。

   二、巫人―巫覡ふげき

    巫人の社会的地位


 朝鮮には巫人というのがある。これは各所に存在して、ほとんど民間信仰上の勢力というものは彼らが占めているというてよいくらいである。彼のびん王妃のごときすらこれをたいへん信仰しておられて、王城の前の南山には巫堂ムータンがあるくらいである。大院君たいいんくんがかつて巫人の弊害ということをさとって、巫人を京城けいじょう〔日本支配期のソウルの称〕から追い出したこともあった。彼らはここまで宮中においても盛んな勢力を有していたのである。けれども巫人はあまり階級のよいところにはいないのである。朝鮮には李朝時代(一三九二〜一九一〇)に八賤というものがある。八賤とは、(一)中人、(二)常民、(三)宦官かんがん(四)妓女ぎじょ(五)商人、(六)農民、(七)巫卜(風水とか地師という者もこの中に入っている)(八)白丁ペクチョン(日本の旧特種部落民のごとし)の八つである。かくのごとく、とにかく巫人の種類はちょうど日本の旧特種部落民より一つ上の階級にあるものであって、いかにいやしまれているかということがわかるのである。けれどもこれは表面のことであって、彼らの実際の権力というものはなかなか盛んである。

    巫の呼び方


 かんなぎのことを、朝鮮の言葉でムータン Mu-tang)またはムー Mu)という。漢文字では「巫党」などと書いている。
 『韓仏字典』(Dictionnaire coreen-francais. par les missionnaires de coree 1880, p,259)によるとこう書いてある。

巫党 、Mou-tirer 巫、Esp. de so ciere qui court les villages pour tirer la bonne aventure, jsder des sorts, change les maladies, ets. (c'est de la derniere classe des hommes)

 なおゲール氏の『韓英字典』(James S. Gale : Korean-English Dictionary 1897, p.353)によると、

 A witch ; a sorcess ; a female fortune-teller.

    げきの区別


 朝鮮の巫人の中にはげき(男のかんなぎ(女のかんなぎとの両方がある。これはよほど注意すべき点であると思う。すなわち両者はともにムータンとよばれているが、これを地理学的に分けることができるのである。南方の巫人と北方の巫人とがすなわちこれである。南方の巫人というのは、咸鏡かんきょう南道の北青プクチョンの南から一方は平安へいあん北道ほくどう全体に通じ、さらにそれ以南のすべての朝鮮各道を含んでいる。それから北青から北のほう咸鏡かんきょう北道・豆満江とまんこうほとりにいたるまでが北方の巫人である。けれどもこの間に余は中間地帯をおきたい。それはどこであるかというと、咸鏡南道の北青プクチョンである。南北のいずれにもつかないところの中間になっている場所である。かように三つにも分けうるが、大別すれば二つに区別することができようと思う。そうすると朝鮮のほとんどすべては南方派(北青もむしろ南方系に入れるもの)で、その巫人はことごとく女子すなわちである。北方の巫人はことごとく男で、すなわちげきである。もっとも、北方派の中にも女巫おんなみこは少しもないとはいえぬけれども、それは近ごろ南から移住したもので、咸鏡道かんきょうどう土着の人は北青から北の方はことごとく男である。しかして北方の男覡はその中心は吉州きっしゅうにあるが、南方の女巫はすべて朝鮮全体にわたっているものといって間違いない。

   三、女巫おんなみこ


 まず、南方の女巫おんなみこは前述のごとく北青プクチョン以南であるが、これはまたほとんど朝鮮全体に分布しているというてよいものである。すなわち、これが日本の古い女巫にあたるのである。もっとも、あるところでは男子も混じっているがそれはむしろ男子が手伝いしているのであって、本来の斎主となる巫というものはことごとく女である。男子の混じっている場合には、単に音楽を助けて太鼓を打つとかいうようなことをするだけであって、その他はほとんど女子がやっているといってよいのである。
 女巫おんなみことなるには母親から譲り受けてなるものもあるが、また他の女がなるのもある。その譲り受けずに他の者が突然巫になるのはどんな場合かというと、たいがい病気をなおされたとかあるいはさとるところがあったとか、あるいは神秘的の霊感を受けたとかいうような場合である。それから咸鏡南道に永興えいこうというところがあるが、余がここで彼らを調べたときに、よほどおもしろいことを見聞した。すなわち、巫になるには鏡が必要である。それゆえ女巫になろうとする者は、山に入ってどこか鏡のあるところを発見してこなければならぬ。この鏡を得てはじめて巫になるというのである。巫になった者が肌身離さず一つの鏡を持っているというのは斯様かようなわけである。余はかつてある所で「モンゴルの固有宗教」を講演したことがある。そのとき、「モンゴルの女巫が懐中ふところに鏡を持っている」ということをいうたが、朝鮮の女巫にもやはりそういうことがある。一度女巫になったばあいには、通常の人間よりもいっそう高い神秘的な一種の神的作用がその身体に受けらるることとなり、一種の神力――何か通常の人よりも変わった者になる。これがために人にもとうとび恐れられ、また自分もそういう心持ちになってくる。これが第一に注意すべき状態である。であるから、彼らは八賤のうちのいやしい階級に属しているけれども、やはり民間からの尊敬が非常にあるのである。南方の女巫は、べつに文字で書いた祝詞のりとというものを持っておらぬ。京城けいじょう付近は別として)多くは口伝をもって教えられるか、または弟子となって不知しらず不識しらずの間に覚えるのである。

    祈祷きとう


 彼らは女巫おんなみこをしていても、地方では一般に平生は何か商売をしている。そうして彼らが女巫としてまねかれたときにはじめて女巫になって行く。都会付近においてはまったく他のことをせずに巫専門の者もあるが田舎では少ない。巫に御堂とかお寺というものがあるかというと、田舎の巫にはまったくないが、京城付近になると南山とか鷺梁津ノリャンジンとかには立派な巫の祈祷所ができている。しかし、たいがいは病人があれば病家から招かれる。そのときに彼らがその家に行って祈祷をするというふうなことが通例になっている。けれども巫は決して病人ばかりではない。たとえば天下泰平・国家安穏あんのん・五穀豊穣の祈祷もする。たとえば、今はもはやそういうことはやらないが、近年まで郡守あたりから頼まれて天下国家泰平を祈ったのである。また漁人らが大漁を祈るとき、たとえば、北青プクチョン付近の海岸には朝鮮人のなくてはならぬ明太魚という魚がたくさん取れるが、そういうところでは始終、女巫をよんで祈祷させる。そのほか新築・ふなおろしなどにも巫女を招く。しかし一般にいうと、やはり病人のために祈祷するというてよいのである。
 女巫を呼んだ場合にはどういうふうにするかというと、女巫は一組が必ず三人に決まっていて、一人は斎主となって舞い、一人は太鼓を打ち、一人は鐃鉢にょうはち(あるいは銅鑼ドラを打つ、というふうになっている。三人のうち斎主となる者が真の巫である。時間は通例数時間かかるが、なおはなはだしいのにいたっては二昼夜、三昼夜、なお数昼夜打ち通しでやることもある。これは病気がなおらぬばあいである。女巫の報酬はもとより金銭をもってするのであるが、ときによっては衣類・穀物をもってすることもある。また病人の死んだばあいなどには、病人の衣服などは女巫がもらって金銭に替えることもある。祈祷のさいに供えたところの供物もつとか米とか麻布あさふなどはみな女巫がもらって帰る。これがために病人ができると非常な金がかかって、一家が破産することさえもある。
 つぎに朝鮮人は、病気に対して大体こんな考えを持っている。すなわち、ある悪い霊魂がその人の体内に入るために病気になる。であるから、体内からその霊魂が除かれたばあいには病気がすぐになおるというのである。その霊魂を除き去るのがムータンすなわち巫の仕事になっているのである。それゆえに巫というものは非常に必要になっている。病気になっても薬を服まぬということは、この原則からきているのである。それゆえに「巫」は言葉をかえていえば「体内の霊魂を除き去って病気をなおす人」ということになる。祈祷は畢竟ひっきょう、体内の霊魂を外にさそい出す一つの方法にすぎない。この誘い出すにはすなわち祈祷にはいろいろの方法がある。言いかえれば、この儀式にはいろいろの種類がある。霊魂が体内に入るのは、たとえば、ある霊魂がたいへんその人に対してうらみを抱いているがためにうらみをはらそうとしてその人の体内に入り、あるいはまた食物にえた霊魂すなわち餓鬼が、誰か人間の体内に入ってこれをいやそうという考えで入ってくる……これらがすなわち病気の原因となるというのである。しかして霊魂は一家親類の者の来るのもあれば、また、まったく関係ない者の来るのもある。そこで通常の祈祷で体内の霊魂が出てこないばあいには、女巫はましすかして、いろいろの方法で引き出すこともするが、またあるときには、大いなる力を示して霊魂を驚かして引き出す方法もとる。またあるときには、戦う真似まねして霊魂を恐れしめて引き出すこともある。要するに祈祷の種類というものは、霊魂の出し方についての方法からきているのである。しかし一般に通じているところの儀式、すなわち仕方しかたというものは、舞踏が根本のものになっている。これは一人の斎主たる者が舞って、二人が楽器を奏するのである。すなわちそれがまず通常の方法である。
 前述のごとく通常の祈祷はすなわち舞踏であって、これは三人でおこなうのである。この方法はまず病人の寝ているところに屏風びょうぶを立て、机を置き、米・餅・麻布・その他の物を供えて神棚かみだなをこしらえる。こうして重くない病人ならば座らせ、また、重病人であればそのまま寝かしておく。神棚の左右には一方に太鼓を打つ者、一方に銅鑼ドラ(または鐃鉢にょうはちを打つ者がおって、中央には斎主の舞う者が立つ。最初にまず神棚を拝して、つぎには四方の諸々もろもろの神様を拝する。そうして東西南北四方いっさいの神々・霊魂、いろいろな神霊を呼び出す。この呼び出す声というものは不自然ではない、一定の言い方で呼び出しにくる。むしろ音楽的になっているくらいである。あらゆる神々・神霊を呼び出す。ただ天地の神々のみならず、いろいろの災難で死んだ霊魂をも呼び集める。そうして祈祷をはじめる。そのときにあたってもっとも重いのは、なかに立っている舞いをする―女巫おんなみこである。彼らの当日の服装は、太鼓を打つもの、あるいは銅鑼ドラ鐃鉢にょうはちを打つものは通常の衣服であるが、真ん中におって舞踏するものは、頭には男子の帽子をかぶり、腰には赤のをはき、そうしてうすぎぬでつくったごくやわらかいそでなしの陣羽織じんばおり様のものを上に着る。これはすそはほとんど足に達するもので、モンゴル婦女の着るオーチと同じ物である。その舞方はなかなかおもしろい。主として太鼓が拍子のもととなる。その拍子の取り方はドドン、ドン、ドン。いくらやっててもドドン、ドン、ドンで、そのほかに少しの変化もないのである。太鼓が非常に速くなったり遅くなったりするが、これに足拍子をあわせる。その舞い方が非常におもしろい。モンゴルのシャーマンの太鼓の打ち方もこれと同じくドドン、ドン、ドンになっている。日本神道の神前神楽かぐらの太鼓の打ち方なども、これらと将来、比較研究するとおもしろいことがあろうと思う。さて舞うときには、前述の上に着ている軽い細長い、腰の部分に割れ目のあるオーチのようなもののすそを肩の上に載せて、一方のはしと一方の端とをやわらかく指でにぎって、静かに動かす。すなわち、南洋のジャワ島人の舞踊と同じやり方のように振るのである。わが国古代のヒレを振るというのも、必竟この仕方であろう。とにかくこの舞踏は足拍子が主となっていて、ドドン、ドン、ドンというので足拍子を静かにやる。いったい日本の舞楽も足拍子で舞っているのであるが、これも拍子は太鼓が主になっている。モンゴルやチベットラマの伎楽ぎがく(面をかぶって舞う)も太鼓が主である。これは極東舞踊史などの上によほどおもしろいことであろうと思う(シベリア・満州などのシャーマン巫人の太鼓も注意すべきもの)
 彼らはこうして舞うので、最初はドドン、ドン、ドンの方でゆるやかに舞っておって、しだいに激しくなって倒れるまで舞う。その倒れるときは精神状態が非常に変わってきて狂人のようになる。それが病人に対して必要なときである。すなわち巫女は、そのとき体内にいる霊魂とだんだん接近しはじめるありさまになってくる。こういう状態になると、女巫はすでに一種の神的状態で神霊にりかかっているという意味に自分も考え、また他の者も考えるのである。かくのごとくにして霊魂の体内にひそんでいるのをさそい出す。いろいろの神霊の力を女巫にかけて舞踊で誘い出すこの仕方がたいへん妙である。単にそういう舞いをして、おもしろいとかおかしいとかいうようなことで霊魂を難なく誘い出すことができればいたって楽であるが、なお執念強い霊魂になるとなかなかそのくらいのことでは出てこない場合がある。そういう場合には、また別の女巫が神前に供えた非常に長い麻布を所嫌ところきらわず巻きつける。そうして病人の親族や女巫が合掌がっしょうして霊魂をその麻布に付着せしめるのである。すなわち、ある意味からいえば古語のオハスというようなものである。日本の神道でもちいるところの幣束へいそくをはじめ、北方のギリヤーク・アイヌ・満州人・モンゴル人・ツングース諸族などのもちいる幣束なども比較すべきものである。すなわち、これに付着させて出してしまうというような方法であろう。もう一つ、なお霊魂が執念強いときには、小さい刀を二本座敷に置いてそうして舞っているうちに、女巫が知らずにその刀を取って舞う。すなわち霊魂を殺すという意味である。これは非常にむずかしい病人に対してするので、おどして出すという方法である。あるいは草刈くさかり台とか分銅とかいうようなすこぶる重いものをもちいる。女巫が舞ってすでに狂人のようになり、一種の神霊の威力があるというようになると、か弱い女が草刈り台を歯でくわえて座敷じゅうをまわるとか、あるいは重い分銅を歯でみしめて、あたかも軽いものを持ちまわるというようなふうをして霊魂をおどす方法もある。そうして出る時分にはどうするかというと、舞踊して呪文をとなえながら一歩一歩ずつ退すさって、しだいに家の外に出て霊魂を出してしまうのである。そのときに供えた餅を小さく切って投げる。これはえている霊魂にそなえるという意味だそうである。余が咸鏡道かんきょうどう江原道こうげんどうとのあいだで見たところでは、巫が入ってくるときに、ある樹の小枝をって持ってきてこれを神前に供えた。南方では、笹に紙の幣束様のものをかけて供えるところもある。これは昔の話であるが、昔は病人の胸を切って血を出し、そうして体内から霊魂の悪鬼を追い退けるというような方法もやったそうである。なお南方系の女巫にはもう一つの方法がある。これは、舞手が頭には紙袋のような頭巾ずきん粗麻あらそ製)をかぶって、下に赤いをつけ、そうして通常の衣服の上に白いあさでこしらえたところの大きなそですその長い服を着て、その上から赤いたすき様のものをかける。そうしてたすきには小さな巾着きんちゃくのような物をいろいろつける(その中には金銭を入れる)。これは昔は宝物をつけたものであろうと思うが、今ではただただ、そういうものが残っているだけである。その舞うときには必ず右の手には鈴を持ち(日本の三番叟さんばそうあるいは神道の女巫の持っている鈴と変わりはない)、左には大きな扇を持つ。この舞踊で霊魂を誘い出すのである。これについて注意すべきは、鈴が日本の鈴とすこしも違わないということ、それから鈴の使い方・扇の使い方・舞踊のぐあいなどが日本の三番叟と違わぬということである。これらは、日本の能楽の前身たる猿楽やそれ以前のものとよほど比較研究すべきものではなかろうかと思う。それから舞方は、日本との関係を見るによほどおもしろいのである。鈴を持って舞うことは南方の女巫にかぎっていて、北方の男覡にはない。これも注意すべきことで、将来、比較宗教学やいろいろのことから研究するとよほどおもしろいだろうと思う。鈴は多く集合し、その下ににぎるくらいの長さの柄がついておって、その柄には五色の細長い絹のれがつけられている。このでたちで舞うところは、日本の神社の女巫とすこしも異なったところがない。まったく同一である。朝鮮の南方系の女巫と日本との風俗がかように同一なのは、もっとも注目すべきことである。女巫のかけている赤いたすきは、日本古代におこなわれた儀式のタスキと同じものであろう。

   四、げき―男覡


 つぎに、北方はむしろのほうでなくしてげきのほうである。男が主になっている。女があるように見えてもこれは南から移住した巫がいるためにそう見えるのであって、じつは北方は男ばかりである。北方の男覡はどこにいるかというと、すなわち前に述べた北青プクチョンから北のほうで、すべて満州との境―豆満江とまんこう流域までである。ことにその中心は吉州きっしゅうである。吉州には有名な男覡がいる。北方の男覡は文字を知らずにやっているのもあるが、やはり書物もあって、それを習ってやっている者もある。そうして北方は、多少「えき」とか「ぼく」とかのほうに混同してきているように思われる。これらもよほど注意すべきことであろう。これはどうであるかというと、最初、病人はその病気がどういうわけでおこったかということを知るために、男覡のところに行かずして、まず売卜者ばいぼくしゃのほうに行く。売卜者は、これはこうこういうふうの病いであるからこういう神様にいのれ、またなにがしのげきに依頼せよと話す。それから今度はその男覡のところへ行って、なにがしの売卜者に聞いたらこういう神様に祈ったらよいといったという。それによって男覡が、その神様を主としていのって病いをなおす。というやり方である。売卜者は銭でうらなうのと筮竹ぜいちくうらなうのとの両方がある。筮竹というようなものも、もっとも簡単なものである時代のものが残っているかもしれない。またうらないをするときの銭は一定した銭である。

    祈祷きとう


 男巫のほうも三人が一組であって、一人が舞い、他の二人は太鼓―鐃鉢にょうはちとを打つ。男覡の舞方は、通常の衣服の上にそでの長い大きな赤いのをつけて、そうしてそでに手を入れて舞う。その調子は前にいったのと少しも変わらない。
 北方の男覡についてこういう伝説がある。
 昔ある人が、吉州きっしゅうに役人をしておった。任期満ちて都に帰っていく途中で、ちょうど吉州から明川ミョンチョンの峠にさしかかったときに太鼓の音がした。これは天から化物ばけものでも降りてきて楽しんでいるのであろうかと近づいて見ると、男覡が祈祷きとうしている。この男覡はたいへんな老人であった。そこでその役人は男覡に向かって、御身おんみにはたしてしき霊験があるならば、ちょうどここに天下大将軍(木で作った人の形をしたもので、朝鮮では各所に建っている)が朽ちて今にもくずれようとしているが、これを新たなるものとして建てることができるかというと、「それはできるけれども、それだけの謝礼をもらったらする」と男覡が言うから謝礼を与えた。そこで祈ったところはたして新しいものになったので、たいへん不思議なことだと考えた。そうすると老覡が「ごらんなさい、天の一方に星が現われた。これを見ると、都に何か事変があるような星である」というので、役人は老覡を同道して帰ってみると、はたしてそうであった。それは十二の倉に鍵がかかっておって開かないので、多数の巫人に命じて祈祷せしめているが、いっこうダメでこまっているときであった。そこへちょうど吉州の老覡が行ってこれを自分が開けてみようと言った。「なに、貴様きさまにはできまいけれども、やってみよ」というので、神様に祈ったところがはじめて倉が開いた。それでたいへんな名誉を得た。そして南方の巫より北方の巫がたいへん尊いものということになった。こういうことを彼らのほうで言っているのである。これらを見ると、あるいはある時代に、南方のと北方のげきとの間には争いのようなことがあったかもしれぬ。ちょうどシナへ仏教が入ってきた時分に、最初に道教と争いをして仏教が勝ったというようなことに似ているのである。
 北方の男覡は、祈祷のときに最初にまず東西南北と中との五つの神霊を五方に向かって拝する。そうして東の方には大きな神様が二十四、小さな神様が二十七あり、西の方には大きな神様が三十六、小さな神様が三十六、南の方には大きな神様が十四、小さな神様が十四、北方には大神が六、小神が六、中央には大神が五、小神が一ある。ここではもはや五行説ごぎょうせつになっているのである。東は木で青、西は金で白、南は火で赤、北は水で黒、中央は土で黄というようなことをとなえている。そうして神様には山の神と海の神とがある。山の神は、山で死んだ者がなっており、海の神は、海で死んだものがなっていると言い伝えている。北方系のシャーマンには道教の影響がじゅうぶんあることがわかる。
 巫覡ふげきは、地理学的に見れば以上のごとく南方系と北方系との二つに分かたれる。なお豆満江とまんこう付近を見ると、江をわたった露領の沿海州えんかいしゅうに近いところの琿春こんしゅんには満州人が住んでいる。一般に今日の満州人というものは、もはやシナ化されて固有の彼らのことを知るに不便であるが、豆満江の向こうの満州人にはいまだ古い面影おもかげが残っている。たとえば満州語を不完全ながら単語ぐらい知っている。また、彼らの固有宗教も残っている。すなわちシャーマン教(薩瑪跳神)で、これは満州の最古の風俗として残っているのであるから、余は今のうちに研究しておかなければならぬことと思い、種々調査した。その結果、このシャーマンが咸鏡かんきょう北道の北方派に類似点が多く、多少連絡しているように思える。豆満江は、政治上からいえばまったく国境になっているが、人種学上からいえば区域がないまったく打ち通しになっている。

   五、結論


 要するに、南方系の女巫おんなみこは北方系の男覡より原始的で、おそらくは古代にあっては、これが朝鮮人に一般に広くおこなわれておったものであろう。しかるに後に北方系の男覡ができ、女巫と競争するようになったようである。加之しかのみならず、男覡には道教の分子がじゅうぶんに入り、経典のようなものさえできている。なおかつ占術も入っている。この両巫覡ふげきの比較は、朝鮮シャーマンの発達史上もっとも注意すべきものであろう。
 以上は日本の神道、ことに日本固有の原始神道との比較研究上もっとも注目すべきものである。
 なお、この朝鮮の巫人と他のシャーマンとの比較については、次章において述べることとする。
(つづく)



底本:『日本周囲民族の原始宗教』岡書院
   1924(大正13)年9月20日発行
   1924(大正13)年12月1日3版発行
入力:しだひろし
校正:
xxxx年xx月xx日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。




日本周圍民族の原始宗教(二)

神話宗教の人種學的研究
鳥居龍藏

-------------------------------------------------------
【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)山《やま》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28]

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)人々《ひと/″\》
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
-------------------------------------------------------

   三、中部、南支那民族の宗教

     中部南支那
       漢族、苗族、※[#「けものへん+果」、U+7313]※[#「けものへん+羅」、U+7380]

 以上は東北方亞細亞民族であるが、尚ほ注意すべきは南部支那は如何かといふ問題である。漢民族それ自身は暫く措いて、南支那と云ふに意味があつて、此は人類學上言語學上、要するに南蠻の國である。漢民族は黄河の流域から南方楊子江[#「楊子江」は底本のまま]、後に南嶺山脈の南、所謂瘴癘の氣深き、廣東、廣西、福建等に移住して來て殖民したのであつて、古くから居たのは南蠻である。『書經』以來之れが接觸について記して居つて、呉楚越※[#「門<虫」、第3水準1-93-49]といふものも要するに其の土臺の民衆は此の南蠻である。故に南方支那を見るには北方の黄河流域と同一に見ることは出來ない。南蠻と云ふのは苗族の事で南支那に住んで居たのは昔のみではない。今日でも雲南、貴州全體、廣西、廣東、福建或は浙江省の一部、湖南の南方の山地、四川省等に、苗族が住して、固有の言語風俗習慣を有つて居る。此は漢民族とは違つて、人種學上、東京《トンキン》、安南、暹羅、緬甸等に居る印度支那民族と同じであつて、印度支那の連續である。彼等には固有の宗教があつて、神を信じ、特有の創世紀[#「創世紀」は底本のまま]がある。例へば、人間の祖先が竹或は桃から生れたと信じて居るのであつて、植物尊拜、桃尊拜、竹尊拜の思想はなか/\盛んであることは特に注意すべきである。氏《クラン》が桃の姓、柳の姓等から出來て居つて、樹木尊拜の風が汎く行はれて居る。亞細亞のチユクチ、コリヤーク或はベーリング海峽の前岸の北亞米利加のツリンキツト人ハイダ人等には動物のトーテムが盛んであるが、こゝでは植物尊拜である。桃太郎の話で、川で洗濯して居た女が流れて來た桃を拾つてそれを割ると男子が生れたといふことは、苗族の或るものにも傳へられて居つて、『後漢書』西南夷列傳に載せられてある。洪水の話もあつて、此は支那の黄河、禹の治水の説と何等かの關係がありはしまいかと思ふ。此は特に注意すべきことである。
 然らば是等南北の中間に位する漢民族自らは如何であるかといふに、儒教は一小部分で、一の實踐哲學を祖述するのみであり、帝政時代には、儒教が國家觀念と結びついたのであるが、民間では道教が行はれて居つた。それも彼の哲學化した道教ではなく、一の信仰として原始的道教が民間に存在して居るのである。即ち關帝廟、娘々宮、山神廟、龍王廟、財神廟等に祈祷を捧げるのである。山、海、川等にも皆、神があつて、香を焚いて禮拜する。占ひ其の他の迷信が盛んであり、鬼門の考もある。石敢當を建て、泰山府君を祀る。佛教の思想と結びついて、人が死ねば陰府へ行くといふ。町の中心には、城隍廟といふのがあつて、こゝには地獄極樂の泥像がある。
 要するに、漢民族の文化は進んで居るにかゝはらず、迷信が行はれ、祈祷を好み、儒教は單に表面に行はれるに止まるのである。
 朝鮮の上流社會では儒教を信じ、之を政治道徳の中心として居るが、それは單に表面のみのことで、民間には固有の信仰が存すると同じく、漢人にもそれがある。道教も支那南北で多少色彩を異にし楊子江[#「楊子江」は底本のまま]以南に在つては、北方のものに比べて多少變化して居るが、何れにしても兩者の關係が深い。余が大正十二年吉林省の山中を夜中馬車で通行した時、恰度物淋しく、氣味の惡るいやうな場所に來ると、馭者が馬車から降りて、凾から一つの鈴を取出して馬の胸に掛けた。それは虎頭鈴[#「虎頭鈴」に黒丸傍点]と云ふものである。何故にさうするのかと問うたが、たゞ色を失つて恐怖するばかりで、更に答へない。宿に着いてから初めて語る處によると、此は惡魔除けの鈴であつて、かゝる淋しい場處を通る際に、之れを用ひると、鈴の神靈と其の音に恐れて惡魔は近寄り得ないと信じてゐるのである。殊に虎は獸の王である。日本の古墳からも虎の顏を附した鈴が出る。これは些細の事ではあるが、彼等の間に迷信の深いことが察せられる。
 道教も民間には信仰となつて現はれるのであつて、日本の神道が儒佛二教と合して學者風の神道となつたと同じく、學者的の道教となつたが、支那の眞の道教は、今日現に見るが如く、信仰を主としたものであつたらうと思ふ。支那の道教については、尚ほ原始的研究の餘地がある。今日の學者の研究は哲學的のみであるが、原始神道の如くに遡つて研究を試みたい。
 こゝで考ふべきは支那の位置であつて、古來、南蠻北狄東夷西戎と言はれて居て、南には印度支那民族、南蠻があり、北にはトルコ、ツングース、モンゴルの三民族がある。前者には植物尊拜等が行はれて、後者にはシヤーマンが行はれる。支那の固有の道教には、兩民族の思想が混入して居るか[#「か」は底本のまま]、どこまでが漢族のものであるか、南北何れがどこまで入つたのであるかを學者は注意せねばならぬ。桃の傳説、惡魔惡靈を掃ふこと等は、南方の思想が漢族の間に入つたのであるらしい。加持祈祷の場合には、北方シヤーマンの風がある。古代に漢族には一種の巫覡が存在して居つたことが古い書物に見える。要するに支那固有の道教が、シヤーマン及び南方の宗教と結びついて、道教の中にもシヤーマンが入り、シヤーマンの中にも道教が入りて兩者の雜合を見るに至つたのである。
 支那民間の宗教については、研究上予は特別の注意を拂ひたい。日本の古い宗教に此の分子が加はつてゐる事は神代に於て既にそれが見え、更に平安朝の陰陽道は云ふまでもなく道教である。道教とシヤーマンとの區別が甚だ困難であつて、日本の神道にシヤーマン的の處があり、支那の民間信仰に道教があつて、道教とシヤーマンとは其の性質は違つて居ない。佛教に在つても密教の加持祈祷はシヤーマンになり安い。平安朝時代の事實に徴しても之れを知り得べく、物の怪を攘ふことなど皆シヤーマンである。平安朝の佛教は大乘教であるが、シヤーマン式であつて、喇嘛教が蒙古に入つてシヤーマン式であるのと相似て居る。密教の我が邦に入つたのは平安朝時代であるが、契丹にもシヤーマンがあつてこれと密教との關係も研究に値するのである。西藏人も固有のボン教を有つて居るが之れもシヤーマンの一種である。後に這入つた喇嘛信教にも影響して居る。故に東亞宗教史の研究は、佛教、道教と其の國固有の宗教とが渾合して居ることを研究することで、是等は吾々人類學者に取つて大に興味を覺ゆることである。

   四、南東亞細亞諸島民族の宗教
     フイリツピン――北部ルゾン
       イゴロ人

 次に日本から南の諸島に於ける例を擧げたい。先づフイリッピン諸島の土人の宗教觀を話さ [#「話さ 」は底本のまま]と思ふが、フィリッピンの内でも予は殊にルゾン島に居るイゴロ人のことについて少し精しく述べよう。
 イゴロ人は、靈魂のことについて大なる恐怖を有つて居る。靈魂に種々の別を立てて居るが、一般に之れをアニト(Anito)の信仰と呼ぶ事が出來る。アニトの信仰は、フィリッピン諸島は言ふに及ばず、臺灣の生蕃、南方諸島のマレー、ポリネシア等一般に汎く及んで居るが其の一例をフィリッピンのイゴロ人について話すと、イゴロは靈地[#「靈地」は底本のまま]を樣々に分類して居るが、實際に生活して居る人間の靈魂をタコーといふ。イゴロ人は、人間を二方面に分けて考へ、肉體の内 [#「内 」は底本のまま]靈魂が宿つて居るものと信じ、タコーは元來宿つて居るものであるから、肉體の外へ出ることの出來るものであつて、人間が眠つて居る時は、往々體外に離出することがある。之れは即ち文化人の夢である。人間が死ねば、此の肉體は消滅するが、靈のみは遺るのであつて、之れをアニトと云ふ。(此のアニトは南方諸島ではアンツ(Antu)とかアン(An)とか樣々の方言になるが、何れもアニトから來たのである。)前にも言つた通り、イゴロは靈魂を種々に分類する。例へば、ここでは首狩が盛んに行はれるが、首狩人によつて首を斬られたものの靈魂をピンテン(Pin-teng)といふ。又同じ人間であつても、聾唖者の靈をウルウル(Wul-wul)といひ、精神病者の靈をウオングオング(Wong-ong)と云ふ。アニトの内にも、社會から排斥せられる惡い靈があつて、之れをフターツ(Futa-tu)と云ふ。日本の神話中に靈《みたま》が樣々の名で呼ばれて居るが、此のイゴロが靈を種々に分けると同じやうであつたらうかと思ふ。人間の身體は死ねば其の存在を失ふのであるが、又、存在するが如くに考へることもある。例へば彼等の方でリムン(Li-mun)と云ふのは、靈的の名であつて、幽靈などは此のリムンである。人が死すれば靈のみであつて其の形は、他の人間の目に見えない筈であるが、之が靈體、靈《みたま》となつて現はれ、リムンが元の形にて人の目に見えるのであるといふ。要するに日本の幽靈であつて、面白い考である。リムンを盛んに信ずるのは、イゴロ中のプエブロ地方であつて、之れが實に見えるものと信じて居る。時には、死者自身の住んで居た家又は其の他の家に、リムンが來ることを信じて居る。
 又、イゴロでは、タコ(Ta-ko)即ち生きた人間の靈は、時としては身體を離れて他 [#「他 」は底本のまま]行くことがある、[#読点は底本のまま]けれども、全く置去りにして了ふのではなく、離れて行つた靈が身體へ歸ると、又元の形になつて再び活動するのであるが、出て行つてゐる間は、全く活動しない。殊に老人は非常に多く夢を見るが、其の場合には、自分の甞つて識つて居る人や兄弟姉妹兩親などを見るのであると云つて、かゝることは、靈の存在せること、アニトが生活して居ることの證と考へて居る。
 彼等の信仰中に、追放されたアニトの家庭がある。これらの住所は山上にあつて、甞て所有して居た豚、雛鳥などの家畜が、總べて靈の形にて山の上に存在する。此處でアニトの生活が行はれるのであつて、山上に住むアニトは靈の形で、實際に生活を營んで居る。而して彼等はそこに造つた家の内に住み開耕もすれば結婚もしてアニトの間に子供が生れ、遂に彼等は再び死んで又變化するのである。
 斯くの如くに、死んだ靈が、其の所有物家畜などを山上に持ち行きて、前の如く生活して一時を過ぎると、再び死んで、形が變ることとなるのである。併しアニトは、斯くして一時期を經て他へ行つて了ふのではなくて、度々の生活を續けるのである。ここで疑の起るのは、アニトの靈の生活は、何時頃まで續くものであるかといふことであるが、之れをイゴロに問うても知らない。イゴロの考によると、一家族が、魂祭を營んで種々の供物を供へると、先祖代々のアニトが其の家に歸つて來るといふのであつて、日本に行はれる盆の精靈祭とよほどよく似て居る。先祖代々の靈は、平素はその家と遠ざかつて居るが、此の魂祭の時には歸つて來る。してみれば靈の生活は決して消滅せぬものと彼等が信じて居ることが推知される。日本の神社に於ける神々の御靈、鎭魂祭などもかゝる意味のものでなかつたであらうか。尚ほアニトがその形を變じ、又それが無くなつた時は、如何なる風に變化するかといふに、それは蛇になると考へて居る。故にイゴロは、蛇はアニトの變化したものと信じて、家に害をする蛇の外は、決して之れを殺さない。或るものは、又、人が死ねば岩になると考へて居る。これらの岩は、ボントツク地方の北に當る山上にあると信じられて居つて、之れをミタマ岩と呼ぶ。併し死んだアニトの一般の形は、如何なるものであるかといふに、リフア(Li-fa)と稱して即ち鬼火である。彼等は鬼火を見ると死んだ靈魂の現はれたものだと考へる。山上の樹木の間に青い火の燃えるのを見ると、それは靈魂が彷徨うてゐるのであるといふ。
 人が夢を見ると、明らかに且つ細かにアニトの國を見ることが出來る。夢の内に現はれるアニトの國には分限者、貧乏人、老若等の差別がある。また結婚もするし、子供をも生み、かくて老いて死に至るのである。故にアニトは、實際吾々人間と同じ風の生活をしてゐると考へて居る。又、先祖の靈が或る場處に住んで居つて、其の次の代々の靈は、その先祖と一處に住むために、人が死ぬと、その靈が旅立つのである。それから、齒の痛むこと、死ぬ場合以外の病氣、不行跡等も多少アニトに關係を有つて居る。或る儀式を行へば、先祖のアニトが現はれて子孫に向ひよく注意を促すことがある。先祖の靈は、生きて居る子孫に害を與へやうとするアニトがあると、子孫の上に保護を加へる。例へば山上其の他の場所に居るアニトは、常に害を加へさせぬやうに他のアニトがそれを取卷いて居る。山上の樹木ある邊には、アニトが彷徨つて居る故、山を歩く時は、これらのアニトに觸れぬやうに注意する。山中を歩いてゐる際、頭髮の緩るく動くのを感ずる時は、その人の附近にアニトが來て居るのだといふ。故に通行人は、魔除の槍を持參する。此の槍をシナラウイタン(Sinalawitan)と呼んで、アニトの最も恐るるものであるから、彼等は山に行くには必らず之れを携へて行く、さうすればアニトは恐れ避けて決して害を加へないから安全であると信じられて居る。斯かることを考へると、彼等の間にアニトの信仰が盛んであり、之れを恐るる念の甚しいことが判る。
 以上は靈魂の話であるが、神樣についていふと、ルマウイグ(Lu-ma-wig)といふ神がある。イゴロは自然の力を自然其のものと見ず、之れを人格化し、人の形として考へて居る。之れが遂に偉大なる一の神となるのであつて、之れをルマウイグと云ふ。此は彼等の信ずる最上永久の神で、すべてのものを造り、總ての部分の創造者たるの勢力を有つ神である。此の神はボントツクに居るイゴロの祖先及び子孫を守護するため此の土に來り、又蒼人草に種々の事を教へ、又それからの人々に注意警戒させるためにここに降り來たのである。
 此の神は偉大なる御靈で、常に天空(Chauy-ya)の上に住んで居られる。イゴロは收穫の豐かならんことを、自分の家畜の繁殖、狩獵の獲物たる動物の多いこと、其の他自分たち人間の幸福を此の神に祈り、又、此の宇宙に居るあらゆる惡い靈の害を防ぐために、神の助力を請ひ、之れが爲に、隔月毎に儀式を行ひ、祭を營み、自分達の健康と果物の豐熟を祈るのである。プエブロー地方の彼等住民の内には或る世襲の階級の家(男)があつて此の祈祷を行ふのである。之れをパタイ(Pa-tay)と云ふ。パタイは男の覡子のことであつて、ここにも、覡子が神と人間との間を取次ぐのである。以上述べた處は、最上神たるルマウイグに就いてであるが、次にフニ(Fu-ni)カンブニヤン(Kan-buniyan)と呼ぶ神がある。けれども總ての物の最初の創造は前述のルマウイグに關係ないものはなく、此の土地は此の神の性格によつて造られたものと云はれて居る。
 水によつて、人間を始め總ての動物植物が造られたのであつて、太古ボントツクの低地は水で覆はれて居たのであるといふ。其の時、ルマウイグは、其の北方にあるポキス山の頂上で、二人の若い人間を見たのであるが、此の二人は、ファータンガと其の妹のフーカンとであつた。其の頃、人間は未だ火を用ひなかつたが、ルマウイグは、速くボントツクの南方に在るカロウイタンに到りて火を取て來る樣に彼等に勸めた。乃で兄のファータンガは教へられた場所へ火を取りに行つたが、歸つて見ると、其の妹は、子供が産れさうになつて身體が重くなつて居つた。ルマウイグは之れに鳥の飛ぶ如くに走ることを教へた。乃で彼の女を介抱して子供が生れたのであるが、斯くして居る内に、地上を覆うて居つた水が忽ち引き退いた。兄妹と赤兒との三人はプエブローに歸つた。爾後、漸々子供が殖えて、一の大なる家族が出來た。數代を經る間に驚くべき多數の人となり、斯くて暫く過ぎた後、ルマウイグは、彼等を助けてよい事を教へやうとて其の住處に來た。初めに彼はカロウイタンの山に留つて妻とすべき女を求め探し、自分の最も好きな女があらうかとて、山上からサバンガンと云ふ地方の若い女を隈なく臨み見た。併し此の地方に彼の氣に適る女は無かつた。何故かといふに、此の地方の女は、頭髮を短かくして居るからであつた。故にそこから更に又彼れはアルプに來て、瞰下して探したが、ここの女は身體が虚弱であるために氣に適らなかつた。彼れはツルビンに來たが、ここの女性で結婚期に近い娘は、殆ど甲状腺腫であつた爲め、大に驚いて直にここを立ち去つた。最後に彼れはボントツクに來た。或る日、彼れは花園にて或る姉妹を見て、それに近づいて暫くそこに座つて居つた。其の時、神は、「何故貴女等は自分の家に歸らないのか」と彼の女等に問うた。「吾等は今、豆を採る仕事をして居る」と答へたのを聞いて、神はそれを非常に樂しく面白いことに思つて、彼の女等と共に豆を採り、籠に入れるのを手傳つた。やがて豆は籠に滿ちた。遂に彼れは妹のフカと結婚した。後にチヤオウイと云ふ、今日のボントツク、プエブローの中央の地に住んで居つた。そこには、圓い扁平な石を垣のやうに並べたのが今日に遺つて居る。ここが神とイゴロの妹との結婚後の住家であると云ひ傳へられて居る。
 ルマウイグは、驚く程の力を有つて居る。それは初め小さな雛鳥が來たのを僅かな米粒を與へて養つて置くと、一時間ほど經つ内に非常に大きくなつた。此の大きくなつた雛鳥を米殼[#「米殼」は底本のまま]と共に籠の内に入れてそれ一ぱいに滿たすことが出來た。山上の樹木にて杖を作り、それにて此の大籠を擔つて自分の家に歸ることがあつた。彼れは或る時、ボントツク地方の北に在るイシル山に行つた折に、フアータンガが云ふには、「貴方は實につまらない人だ。此の山には飮む水さへも無いではないか。果して偉い神ならば、何故吾々に水を與へないのか」と。ルマウイグは之れを聞いて何をも答へず、無言のまゝで、鎗を取つて、山の側面を突き刺した。そこから泉が滾々として湧き出でた。水の無いのに困つて居たフアータンガは、嬉しさの餘り飛び立つて、直に水を飮まうとした。其の時、ルマウイグは之れを制して、「先づ他のものが飮んで後に、汝が飮め」と云つた。乃で他のものが先づ此の水を飮み終り、やがてフアータンガの番となつたので飮まうとすると、ルマウイグは堅く其の手を握つて止めた。さうして却て彼を外へ突き出したので、乃ち岩となつて水は岩を通して流れることになつた。此の岩は今も遺つてゐて、老人達の中には、之れを實見したといふものもある。
 アトチャコンに在るフイルランといふ花園で、ルマウイグは農業を教へ、樹を植ゑる事、作物を取り入れて穀倉に藏つて置くことなどをよく教へた。又彼の神は建築や其の他色々の事を教へた。尚ほ彼等[#「彼等」は底本のまま]は民衆の使用して居る物に名のあることを教へ、一々の物にそれ/″\の名を與へた。彼等にプエブローといふ名を與へ、本來の道徳心をも教へ、唯一人の妻を有つことの正しい事をも教へた。ルマウイグは彼等の元で、大切な神であつた。………彼等イゴロ人はかかる風に考へて居るのであつて、アニトの思想は可なり廣く分布して居る。

     臺灣 附 紅頭嶼
       インドネジアン――生蕃、熟蕃

 此の次には日本内地の近い處として臺灣について話して見たい。臺灣では、領臺後の我が同胞を除いて二つの民族がある。一は漢族で、一はインドネジアンである。インドネジアンはマレー族の事である。
 インドネジアンは古くから此處に住んで居つたが、漢族の方は、明末から清朝の康熙乾隆に掛けて盛んにここへ入つたので、之れを二つに分ける。一は福建省から來たもの、一は廣東省から來たものである。これらは極く新しく入り來つたもので、元から居るのはインドネジアン即ちマレー族である。此のマレー族は、もと臺灣の平地に住んで居つたのが、後に漢族に逐はれて山奧へ移つたので、彼等が山の生活をするやうになつたのは近頃のことであると一般に云はれて居るが、さうは思へない。舊とから平地に住んで居つたインドネジアンは、漢族に征服され、土地を奪はれて熟蕃となつたけれども、山に居る蕃人が漢人と接觸したのは近頃であつて、昔は何の關係がなかつた。山に居る生蕃は、自分達は先祖からここに住んで居つたと考へ、種々の傳説も附隨して居る。彼等も元來、平地から山上へ登つて來たのには違ひないが、それは遠い昔のことであつて、近頃になつて山へ移つて行つたものではない。彼等の間の傳説と山上生活とが合して居るのを見ても、彼等が如何に古くから此の山に居つたかが判る。
 臺灣生蕃は、殆ど一口にインドネジアン即ちマレー族であると云ふが、彼等の内には群族《グループ》として種々のものが交つて居る。北の方から云ふと、北方の山上にタイアル群があり、其の次の濁水溪方面にはブヌン群があり、阿里山の山上にはツオー群があり、尚ほ其の南にはツアリセン群あり、更に南方の山上から恒春へ至る方面には、パイワン群がある。又東海岸花蓮港から卑南までの間の平地にはアミ群あり、尚ほ臺灣の東西南[#「東西南」は底本のまま]に在る離れ島である紅頭嶼にはヤミ群が居る。
 斯樣に種々別れて居る數群も、學者から見れば等しくインドネジアンとかマレー語系の民族とかの名の下に入れるのであるが、彼等自身はそれぞれに神話傳説を有し、相互に何等の關係なく、言語さへ相通ぜず、彼等自身も各々、違つた祖先を有つて居るものと考へて居る。であるから、學者は之れを等しくマレー語系の民族であると云つても、神話傳説の各々相違して居るのを見ると、臺灣の生蕃は、必ずしも歴史的に同一なる祖先から出たものとは考へられないのである。生蕃中には、早くから此の臺灣に來たものもあらうし、晩く來たものもあらう。そして孰れもフィリッピンや其他の島々から移つたのであらうが、これらも亦其の來た地方の違つて居ることが判る。かくしてこれらの大群が、此の島のあちらこちらに來り、前後して出來たものが今日の生蕃であると言ひ得る。
 西海岸の平地に住む一族は、夙に漢族に征服せられて、自分固有の風習を忘れ、熟蕃の状態となつて遺つて居るのであるが、若しこれらを漢族の入る前の状態に還せば、尚ほ幾多の異なつた群族を數へ得るのである。さて生蕃の内で最も早く臺灣に入て來たのは、タイヤルであらうと予は考へる。そしてブヌン、ツオーもまた相當に古く、次にパイワン、ツアリセンが來り、アミは最も新しく這入つて來たと云ふ風に説明出來る。
 斯樣な風であるから、其の宗教を考へるにも一つに取扱ふことは出來ない。各群によつて夫々特有の信仰習慣を有つてゐる。例へば、死者に對する考も、タイヤルは、人が死ねば之れを自分の住んで居つた所の下に葬るのであつて、即ち自分等の寢床の下或は食事をする室の床下には、自分の祖父祖母兩親其他の人々 [#「人々 」は底本のまま]葬られて居るのである。此は如何なる考であるかといふに、同じフアミリーの者を他へやるに忍びないといふ友愛の情から來たことで、祖先に對して懷しみを有ち、死者と共に住んで居るといふ考へである [#「である 」は底本のまま]故に彼等の村落の荒廢した場所に土工作業をなした場合など、人家の跡から、死體を掘出すことが多い。
 それから東海岸に住むアミは如何かといふと、タイヤルと似て居るが、これは家の軒下に葬るのであつて、上に檳榔樹などを植ゑる。此は前のものと多少似た考で、自分の兩親や一族の靈が、自家の軒下に休んで居るといふ意味である。
 處でこれがパイワン、ツリセン[#「ツリセン」は底本のまま]の方になると、大に意味が違つて、ここでは人が死ぬと家を轉ずる、中には家の内に葬つて居るのもある、そこには、即ち死者と接觸關係するのを好まず、之れから遠ざからうとする考を有つて居るのであつて、日本の昔の奧津《おきつ》捨家《すてや》の考と似て居る。自分の一族が死んだ家には近寄らず、或る場處では、嘗て住んで居つた家が死者を葬つたまゝで棄てられて、家そのものがそのままで一の墓場となつて居るのがある。
 是れから考へても、同じインドネジアンでありながら、宗教上、死者に對する考はこれだけ違つて居るのである。されば臺灣生蕃の死者に對する考を云々する場合に、若しタイアルのことのみが傳説として遺つたとしたならば、臺灣の蕃族はすべて死者を床下に葬り之れと同じ家に住んで親しみを有つて居るといふことになるのであるが、實は前に述べた通り他に著しく違つた風習のものゝあることを考へねばならぬ。
 尚ほ臺灣の離れ島である紅頭嶼のヤミの方では如何かといふに、そこでは死者を恐れることが甚しい。彼等は、生蕃中で最も原始的状態に在るもので、此の點は吾々は大いに參考となるのである。予は二箇月ほど此の地に居つて調べたが、人が死ぬと、立膝にしたまゝで布にて捲き、それを墓場へ持つて行くのであるが、其の際には、二人で死體を擔ぎ、他の數人之れに從ひ、或ものは刀を拔いて前に進み、或ものは長い鎗を携へて之れを守つて行く。そして海岸パンダナスの林の中に在る墓場に埋める。此の途中で、死者が生前の食事に用ひた茶碗その他の品を路傍に棄て之れに觸れぬやうにする。死者を埋めて土を被せ、其の上に一つの石を置き終ると、武裝した五六の會葬人が、刀を振廻したり、鎗を以て突く眞似をしたり、不自然な態度で狂氣の如くに踊り狂ふ。此は靈魂に對する威嚇であつて、之れによつて生きて居る人間が靈魂の害を防ぐのであるとして居る。かくて一種の叫び聲を放ちつゝ自分の家に歸るのである。死者のあつた家の軒先には必ず一本の鎗(Shishikud)を立てゝ置く。鎗に對する神祕的の考へは、前にフィリッピン島のイゴロ人の處で述べた鎗を魔除にするといふことゝ同じ思想である。
 紅頭嶼のヤミはフィリッピンの北方の土人と似て居る。傳説によれば、彼等はルゾン島の東に在るババヤン島から渡つて來たと云つて居り、風俗習慣は兩者同じである。彼等は移住後、尚其故島の風を遺して居るのである。北方亞細亞では弓か[#「か」は底本のまま]威力あるものと考ふるが南方では鎗を以て威力あるものと考へて居る。
 紅頭嶼では、葬送を夜間に行ふのであるが、太陽が沒してから死者を葬るのは、他のものと似て居る。彼等の間にも亦フィリッピン島の如くにアニトが信じられ、アニトは恐しいものと思つて居る。靈を呼ぶにアニトの稱を用ふるなど、こゝにもアニト系式の宗教の行はれてゐることが考へ得られる。
 尚ほ紅頭嶼では、人が死ぬと天に一つの星が現はれるといふ。星は死んだ人の靈であると云ひ、星をマタノアニトと稱する。マタは眼といふ義で、あのピカピカした星の輝きは、アニトが下界を眺めて居るのであるといふ。斯樣にアニトの信仰が盛んであり、アニトを恐れ、それに犧牲を供し、種々の儀式を行ふこと等は、特に注意すべきである。こゝは、生蕃中最も原始的状態を保つてゐることゝ一方にフィリッピンとの連鎖に大なる興味がある。
 臺灣の生蕃では、五穀の實る時に祭を行ふ風がある。米よりも粟の祭の方が多い。朝夙く行ふのであつて、酋長がその儀式をする。北方のシベリアほどにシヤーマンが盛んでないが、巫子もあり、祈祷、禁厭などが行はれ、病氣はアニトに關係ありとして居る。又火は清めるものとして、村へ入るに火をまたいで行く風がある。其他彼等の神祭祀等で面白いものが中々多い。
 臺灣生蕃の風習中最も著しいのは首狩である。是れは漢人に首を取られた其の報復の爲だといふ説もあるが、さうではない。之はインドネジアンに特有のことであつてフィリッピン、ボルネオ等にも盛んに行はれる。首狩については種々の風俗習慣がある。子が青年期に達すると、父がそれを初陣として首狩に伴つて行く。首を取るためには、草の中、樹の間に幾日も隱れて其の機會を覘つて居る。取つた首を己が村落に持ち歸り之を或場所に据ゑて [#「据ゑて 」は底本のまま]酒を獻じ、供物を捧げ、周圍を踊り廻る。後には之れを首棚に置くのである。これらも宗教上の儀式として最も注意すべき點である。
 臺灣にも天地開闢の話があつて、タイヤルには、ピンサバカンとて太古山上に在る大岩石が分裂して生れたものは彼等の子孫だと云つて居る。ツオーの傳説によると、彼等の祖先は、今の新高山の如き高地に住んで居つたのであるが、互に仲間の者共が仲違ひして一致しなかつたため、一族中から離れそこを退却して或るものはマヤへ行つた。彼等は別れる時、留るものと立退くものとが後に會つた時の證據にとて、矢を取交はし、之れを二つに折り、互に一方を所持して別れた、[#読点は底本のまま]他日同じ之を互に持つてゐるものが祖先を同じくしてゐるといふことを知る手段とした。吾等と同じ祖先から出た此のマヤといふのは、何れに居るか探して居るが判らぬと彼等の間には傳へられて居る。
 アミの花連港[#「花連港」は底本のまま]に住むものは※[#「くさかんむり/奇」]莱派であつて、彼等は、その祖先は丸木船にて此處に着き、元と居た人間を征服して住み、種々の果物を持ち來つたと稱して居て、臺灣にブレツドフルートの遺つてゐるのはこゝのみである。古い丸木舟を模した物が今も遺つて居る。彼等の祖先が沖合からこゝに來て他種族を征服する有樣を劇的に仕組んで祭として演じることが行はれる。彼等の頭形、身長其他の點からカロリン島と餘程深い關係がある樣に思はれる。
 臺南平地に住む或る熟蕃では、一年中の或る時期に、關係ある村々から集つて盛んな踊りを行ふ。椰子の杓を用ひて、踊る者に酒を飮ませる。此の杓は、椰子の枝に葉の着いた形に擬して鳥の羽をつけたもので、此は彼等が椰子の生えた土地から來たといふことを示するもので、多くの人が集まるのである。
 斯かる風習によれば、各々祖先を異にして居ることが判るが、しかしその共通點としては孰れもアニトの信仰を有ち、神と稱するものが多くは人格的の人間であり、祖先の御靈《みたま》であること等は一致して居つて、一方から言へば祖先教である。パイアン、ツアリセンでは、家の柱、軒、棟木等に人の顏を彫刻するが、之れをボボ又はタウと云ふ。之れは何であるかといふと祖先の形を現はしたもので、一種の祖先禮拜の風を示すシムボルである。彼等の祖先の形は裸體であつて、兩手を屈し、足を曲げてゐる形を模樣化して畫いて居る。此は [#「此は 」は底本のまま]繪又は模樣、織物などにも現はされてゐて、かゝるシムボルをしてゐるものは自分等の一族であると彼等は言つて居る。此のボボ又はタウと稱せらるるものは、紅頭嶼のヤミには、タウタウと呼ばれ、シムボルとして用ひ、フィリッピン、ボルネオにも行はれ、祖先尊拜、アニト信仰、タウタウのことなど、一般にインドネジアンに廣く行はれる宗教的色彩のものと見るべきである。
 委しく言へば長いことであるが、臺灣の生蕃についても、斯かる宗教上の考へや儀式があつて、これらは、日本の宗教研究上、考への内に入れて置かねばならぬことである。

     太平洋諸島 附、ニュージーランド
       マリヨーポリネシヤ族、マオリー人

 次に南洋諸島のポリネシア、日本の占領に歸したミクロネシアの土人は所謂マレー語系に屬するマレヨーポリネシア族である、[#読点は底本のまま]これらの土人の宗教も亦注意せねばならぬ。
 ミクロネシア、ポリネシアについて注意すべきはアニトの信仰が盛んなことであつて、殆どアニト的宗教の名の下に入れてよい位である。アニトの關係、先祖尊拜、アニトの支配を受ける風習あり、臺灣にて死者の靈に親しむものと之れに遠ざからうとするものとの二つがあるか、ここでも此の傾向を有つて居る。
 ニユージーランドに居るマオリーの如きは、祖先に對して非常の親しみを有ち、死んだ祖先、祖父、親などについて話すのを自慢にしてゐる。彼等の神話傳説は祖先と結びついてゐて、吾が遠《とほ》い祖《みおや》はかゝる戰をしてかういふ手柄があつたとかいふことが子孫に傳へられて居る。之れが文字に現はれると例へば日本の『古事記』、『日本書紀』となるのである、[#読点は底本のまま]此處では文字がない、[#読点は底本のまま]口に傳へるのみであるが、アイヌのユカラの如く、ホーマーのイリアツドの樣に口語詩として遺つて居る。
 斯かる土地であると、祖先尊拜と結びつくのであるが、吾が占領に歸したミクロネジアの假令ばカロリン島の如きでは、アニトの信仰か[#「か」は底本のまま]盛んに行はれるが、人が死ねば、其の名をも口にせず、其の人の生前の仕事についても更に話さず、其の人を忘れるやうにするので、此はアニトを恐れる考へから來たことである。臺灣の方から云ふと、紅頭嶼のヤミが其の例で、死んだ人のことを言はぬ故に、祖先に遠ざかるのである。祖先尊拜はマウリー人から見ると、之れが益々存立して行くが、カロリン人の方から見ると祖先尊拜は成立しない事となる。因に云ふが、カロリン人は人が死ぬと海底の國へ行くのであつて、死者が遠い道を歩いて行くと大きい門がある。その内は眞闇であつて、門には二つの女神が兩側に立つて炬火をつけて居ると云つて居る。
 かかる點から考へると、臺灣、フィリッピン、マレー諸島、太平洋諸島等、日本附近の地の宗教は、すべてアニト形式の宗教であり、御靈に善惡があるのを説いてゐる。

   五、結論

 以上は日本の周圍に於ける原始民族と其古い原始状態を傳ふる宗教思想とである。祖先以來、周圍に斯樣な宗教思想を有つて居た日本の原始神道は、其の固有の宗教心と如何なる關係があつたか、這は日本宗教研究家の注意しなければならぬ點である。從來の研究は單に『記』『紀』に見ゆる事實のみによつて考へる學派と、或は單に歐羅巴の進んだ宗教のみについて比較してゐる學派とによつてなされたのであるが、今後の吾が固有宗教研究は、斯の如く、周圍との比較研究によつてなされねばならぬ。更に進んで、先づ道教、儒教、佛教等の色彩や衣裳を取り去つて見ねばならぬ。是等を取去つた赤裸々の所に純粹な吾人祖先の宗教心が存在し、我等祖先の信仰心、神々、祭祀、巫覡がどんなものであつたかは、以上の如き日本周圍の民族の其れと比較する事によつて闡明されるのである。
 最後に、余の觀る所を記して此の稿を結ぶ事とする。余既に記したる、シヤーマン巫覡、祭祀、靈等の諸點からして我が古代の宗教的色彩は、我國も亦シヤーマンの分布區域に屬するものである事を明に物語つて居る樣に思はれるのである。

[#改ページ]
 朝鮮の巫覡

[#ここからリード文]
朝鮮には今尚ほ彼等の固有宗教たるシヤーマン教か[#「か」は底本のまま]殘つて居つて、而かも其の巫覡の勢力は中々盛である。余は茲で其の一斑を話して見よう。
[#リード文ここまで]

   一、緒言――朝鮮の宗教

 朝鮮は一般に儒教國であると云はれて居る。又高麗が常に佛教を信じて居つたので其の反動として李朝になつて儒教を根本主義にした關係から、朝鮮人は全く儒教の下に存在して居ると斯う言ふ人が多いのである。尤も朝鮮でも學問をした兩班であるとか、儒生であるとか云ふ人々は漢學の素養の上から儒教と云ふものを知つて居るが、一般の人民はまださうとは言へないのである。素より朝鮮は古い時から支那との關係が非常に深かつた爲めに、不知不 [#「不 」は底本のまま]の間に風俗習慣の上に漢民族の影響を少からず受けて種々の點に其事実が見えるのである。例へば朝鮮の言語、即ち朝鮮語には漢語の混入が多く、今日では本當の朝鮮語は比較的少くなつた。其の點に至つては、蒙古語とか滿洲語等を比較すると其の状態が大に異つて居る。殊に蒙古は漢語の影響は極めて少い。此の言葉の上から見ても如何に朝鮮人と云ふものが古くから漢族との關係を有して居るかと云ふことが判る。故に朝鮮の風俗習慣と云ふものは人類學の上から研究するには最初に先づ是等を注意して掛からなければならぬのである。
 然るに茲に述べんとする處の巫覡の風俗習慣は、一見道教、一見佛教の如きものであるが、深く調べる時は、彼等の祖先から今日に傳はつて居る處の古い風習の遺物と云うて宜い。朝鮮の風俗習慣に於て、此風習が一番古いものである。必竟古い彼等の固有宗教の骨組に、道教の衣裳を着け、佛教の彩色を施したもので、是等を悉く取去れば全く昔の面影をしのぶことが出來る。其故に是れを人類學の上より見ると非常に面白い事實であつて、彼等の祖先の悌[#「悌」は底本のまま]が多少見えるのである。此等は原始宗教や民族心理を研究する人から見るとなか/\面白からうと思ふ。以下其概略の事實を記して見よう。

   二、巫人――巫覡
    巫人の社會的地位

 朝鮮には巫人と云ふのがある。是は各處に存在して、殆ど民間信仰上の勢力と云ふものは彼等が占めて居ると云うて宜い位である。彼の閔王妃の如きすらこれを大變信仰して居られて、王城の前の南山には巫堂がある位である。大院君が嘗て巫人の弊害と云ふ事を悟つて、巫人を京城から追ひ出した事もあつた。彼等は之まで宮中に於ても盛んな勢力を有してゐたのである。けれども巫人はあまり階級の好い處には居ないのである。朝鮮には李朝時代に八賤と云ふものがある。八賤とは、(一)中人、(二)常民、(三)宦官、(四)妓女、(五)商人、(六)農民、(七)巫卜、(風水とか地師と云ふものもこの中に這入つて居る)、(八)白丁(日本の舊特種部落民の如し)の八つである。かくの如く兎に角、巫人の種類は丁度日本の舊特種部落民より一つ上の階級にあるものであつて、如何に賤しまれて居るかと云ふ事が判るのである。けれども是れは表面の事であつて、彼等の實際の權力と云ふものは中々盛んである。

    巫の呼方

 巫のことを朝鮮の言葉でムータン(※[#ハングル、u+BB34]※[#ハングル、u+B2F9 か] Mu-tang,)又はムー(※[#ハングル、u+BB34] Mu)と云ふ。漢文字では『巫黨』等と書て居る。
 韓佛字典(Dictionnaire cor〔e'〕en-fran〔c,〕ais. par les missionnaires de cor〔e'〕e 1880, p,259)によるとかう書いてある。
 巫黨 ※[#ハングル、u+BB34]※[#ハングル、u+B2F9 か]、Mou-tirer 巫、Esp. de so ci〔e-〕re qui court les villages pour tirer la bonne aventure, jsder des sorts, change les maladies, ets. (c'est de la derni〔e-〕re classe des hommes)
 尚ほゲール氏の韓英字典(James S. Gale : Korean-English Dictio nary[#「Dictio nary」は底本のまま] 1897, p.353)によると、
 ※[#ハングル、u+BB34]※[#ハングル、u+B2F9 か]巫※[#ハングル、u+BB34] A witch ; a sorcess[#「sorcess」は底本のまま] ; a female fortune-teller.

    巫、覡の區別

 朝鮮の巫人の中には覡(男の巫)と巫(女の巫)との兩方がある。是れは餘程注意すべき點であると思ふ。即ち兩者は共にムータンと呼ばれて居るが、之れを地理學的に別けることが出來るのである。南方の巫人と北方の巫人とが即ちこれである。南方の巫人と云ふのは、咸鏡南道の北青の南から一方は平安北道全體に通じ、更に其以南の總ての朝鮮各道を含んで居る。其れから北青から北の方咸鏡北道豆滿江畔に至るまでが北方の巫人である。けれども此間に余は中間地帶を置きたい。それは何處であるかと云ふと、咸鏡南道の北青である。南北の何れにも附かないところの中間になつて居る場所である。斯樣に三つにも分け得るが、大別すれば二つに區別することが出來ようと思ふ。さうすると朝鮮の殆ど總ては南方派(北青も寧ろ南方系に入れるもの)で其の巫人は悉く女子即ち巫である。北方の巫人は悉く男で即ち覡である。尤も北方派の中にも女巫は少しも無いとは云へぬけれども、それは近頃南から移住したもので、咸鏡道土着の人は北青から北の方は悉く男である。而して北方の男覡は其中心は吉州にあるが南方の女巫は凡て朝鮮全體に渉つて居るものと云つて間違ない。

   三、巫――女巫

 先づ南方の女巫は前述の如く北青以南であるが、此れは又殆んど朝鮮全體に分布して居ると云うて宜いものである。即ち此れが日本の古い女巫に當るのである。尤も或處では男子も混じつて居るがそれは寧ろ男子が手傳して居るのであつて、本來の齋主となる巫と云ふものは悉く女である。男子の混じつて居る場合には單に音樂を助けて太皷を打つとか云ふやうなことをするだけであつて、その外は殆ど女子がやつて居ると云つて宜いのである。
 女巫となるには母親から讓受けてなるものもあるが、また他の女がなるのもある。その讓り受けずに他の者が突然巫になるのは何んな場合かと云ふと、大概病氣を癒されたとか或は悟る處があつたとか、或は神秘的の靈感を受けたとか云ふ樣な場合である。それから咸鏡南道に永興と云ふ所があるが、余が此處で彼等を調べた時に餘程面白い事を見聞した。即ち巫になるには鏡が必要である。其れ故女巫にならうとする者は、山に這入て何處か鏡のある處を發見して來なければならぬ。此鏡を得て初めて巫になると云ふのである。巫になつた者が肌身離さず一つの鏡を持つて居ると云ふのは斯樣な譯である。余は嘗て或所で『蒙古の固有宗教』を講演した事がある。其時「蒙古の女巫が懷中に鏡を持つて居る」と云ふことを云うたが、朝鮮の女巫にも矢張さう云ふ事がある。一度女巫になつた場合には、通常の人間よりも一層高い神祕的な一種の神的作用が其身體に受けらるゝ事となり、一種の神力――何か通常の人よりも變はつた者になる。これが爲に人にも尊び恐れられ、又自分もさう云ふ心持になつて來る。是れが第一に注意すべき状態である。であるから彼等は八賤の内の賤い階級に屬して居るけれども、矢張民間からの尊敬が非常にあるのである。南方の女巫は別に文字で書いた祝詞と云ふものを有つて居らぬ。(京城附近は別として)多くは口傳を以て教へられるか、又は弟子となつて不知不識の間に覺えるのである。
    祈祷
 彼等は女巫をして居ても、地方では一般に平生は何か商賣をして居る。そうして彼等が女巫として招かれた時に初めて女巫になつて行く。都會附近に於ては全く他の事をせずに巫專門のものもあるが田舍では少い。巫に御堂とか御寺と云ふものがあるかと云ふと田舍の巫には全くないが、京城附近になると南山とか鷺梁津とかには立派な巫の祈祷所が出來て居る。然し大概は病人があれば病家から招かれる。その時に彼等が其家に行つて祈祷をすると云ふ風なことが通例になつてゐる。けれども巫は決して病人ばかりではない、[#読点は底本のまま]例へば天下泰平、國家安穩、五穀豐穰の祈祷もする。例へば、今は最早さう云ふことはやらないが近年まで郡守あたりから頼まれて天下國家泰平を祈つたのである。又漁人等が大漁を祈る時、例へば、北青附近の海岸には朝鮮人の無くてはならぬ明太魚と云ふ魚が澤山取れるがさう云ふ所では始終女巫を呼んで祈祷させる。其他新築、船おろしなどにも巫女を招く。然し一般に云ふと矢張病人の爲めに祈祷すると云うてよいのである。
 女巫を呼んだ場合には何う云ふ風にするかと云ふと、女巫は一組が必ず三人に極つて居て、一人は齋主となつて舞ひ、一人は太皷を打ち、一人は鐃鉢を撃つ、(或は銅鑼)と云ふ風になつて居る。三人の中齋主となる者が眞の巫である。時間は通例數時間掛るが、尚甚しいのに至ては二晝夜、三晝夜、尚ほ數晝夜打通しでやる事もある。是は病氣が癒らぬ場合である。女巫の報酬は素より金錢を以てするのであるが、時に依つては衣類穀物を以てする事もある。また病人の死んだ場合などには病人の衣服等は女巫が貰つて金錢に替へる事もある。祈祷の際に供へたところの供物とか米とか麻布などはみな女巫が貰つて歸る。是れが爲に病人が出來ると非常な金が掛つて、一家が破産することさへもある。
 次に朝鮮人は病氣に對して大體こんな考を有つてゐる。即ち或惡い靈魂が其人の體内に這入る爲に病氣になる。であるから體内から其の靈魂が除かれた場合には病氣が直に癒ると云ふのである。其靈魂を除き去るのがムータン即ち巫の仕事になつて居るのである。其故に巫と云ふものは非常に必要になつて居る。病氣になつても藥を服まぬと云ふ事は此の原則から來て居るのである。それ故に「巫」は言葉を換へて云へば「體内の靈魂を除き去つて病氣を癒す人」と云ふ事になる。祈祷は畢竟體内の靈魂を外に誘ひ出す一つの方法に過ぎない。此誘ひ出すには即ち祈祷にはいろ/\の方法がある。言ひ換へれば、此の儀式にはいろ/\の種類がある。靈魂が體内に這入るのは、例へば、或靈魂が大變其人に對して恨みを抱いて居るが爲に怨をはらさうとして其人の體内に這入り、或は又食物に餓えた靈魂、即ち餓鬼が誰か人間の體内に這入て是を癒やさうと云ふ考へで這入て來る……是等が即ち病氣の原因となると云ふのである。而して靈魂は一家親類の者の來るのもあれば、又全く關係ない者の來るのもある。そこで通常の祈祷で體内の靈魂が出て來ない場合には、女巫は欺まし賺して、いろ/\の方法で引出すこともするが、又或時には大なる力を示して靈魂を驚かして引出す方法もとる。又或時には戰ふ眞似して靈魂を恐れしめて引出す事もある。要するに祈祷の種類と云ふものは、靈魂の出し方に就ての方 [#「方 」は底本のまま]から來て居るのである。然し一般に通じて居る處の儀式、即ち仕方と云ふものは舞踏が根本のものになつて居る。是れは一人の齋主たる者が舞つて、二人が樂器を奏するのである。即ちそれが先づ通常の方法である。
 前述の如く通常の祈祷は即ち舞踏であつて、之は三人で行ふのである。此の方法は先づ病人の寢て居る所に屏風を立て、机を置き、米、餅、麻布、其他の物を供へて神棚を拵へる。かうして重くない病人ならば坐らせ、又重病人であれば其まゝ寢かして置く。神棚の左右には一方に太皷を打つ者、一方に銅鑼 [#全角アキは底本のまま]又は鐃鉢)を撃つ者が居つて、中央には齋主の舞ふ者が立つ。最初に先づ神棚を拜して、次には四方の諸々の神樣を拜する。さうして東西南北四方一切の神々、靈魂、いろ/\な神靈を呼出す。此呼出す聲と云ふものは不自然ではない、一定の言ひ方で呼出しに來る。寧ろ音樂的になつて居る位である。あらゆる神々、神靈を呼出す。唯天地の神々のみならず、色々の災難で死んだ靈魂をも呼集める。さうして祈祷を始める。其時に當つて最も重いのは、眞中に立つて居る舞をする――女巫である。彼等の當日の服裝は、太皷を打つもの、或は銅鑼、鐃鉢を撃つものは通常の衣服であるが、眞中に居つて舞踏するものは、頭には男子の帽子を被り、腰には赤の裳を穿き、さうして紗で造つた極く軟い袖無の陣羽織樣のものを上に着る。之は裾は殆ど足に達するもので、蒙古婦女の着るオーチと同じ物である。其の舞方はなか/\面白い。主として太皷が拍子の本となる。その拍子の取り方はドヾン、ドン、ドン。幾らやつててもドヾン、ドン、ドンで其外に少しの變化もないのである。太皷が非常に速くな [#全角アキは底本のまま]たり遲くなつたりするが、是に足拍子を合せる。其舞ひ方が非常に面白い。蒙古のシヤーマンの太皷の打ち方もこれと同じく、ドヾン、ドン、ドンになつて居る。日本神道の神前神樂の太皷の打ち方なども、これ等と將來比較研究すると面白い事があらうと思ふ。さて舞ふ時には、前述の上に着て居る輕い細長い、腰の部分に割目のあるオーチの樣な者の裾を肩の上に載せて、一方の端と一方の端とを柔く指で握つて、靜かに動かす。即ち南洋のジヤバ島人の舞踊と同じやり方の樣に振るのである。我國古代のヒレを振ると云ふのも必竟此仕方であらう。兎に角この舞踏は足拍子が主となつてゐて、ドヾン、ドン、ドンと云ふので足拍子を靜かにやる。一體日本の舞樂も足拍子で舞つて居るのであるが、是も拍子は太皷が主になつて居る、[#読点は底本のまま]蒙古や西藏喇嘛の技樂[#「技樂」は底本のまま](面をかぶつて舞ふ)も太皷が主である。これは極東舞踊史などの上に餘程面白いことであらうと思ふ。(西比利亞、滿洲等のシヤマン巫人の太皷も注意すべきもの)
 彼等はかうして舞ふので、最初はドヾン、ドン、ドンの方でゆるやかに舞つて居つて、次第に激しくなつて倒れる迄舞ふ。其倒れる時は精神状態が非常に變つて來て狂人の樣になる。それが病人に對して必要な時である。即ち巫女は其時體内に居る靈魂と段々接近し始める有樣になつて來る。かう云ふ状態になると、女巫は既に一種の神的状態で神靈に憑りかかつて居ると云ふ意味に自分も考へ、又他の者も考へるのである。斯の如くにして靈魂の體内に潜んで居るのを誘ひ出す。いろ/\の神靈の力を女巫にかけて舞踊で誘ひ出す此の仕方が大變妙である。單にさう云ふ舞をして面白いとか可笑しいとか云ふ樣な事で靈魂を難なく誘ひ出す事が出來れば至つて樂であるが、尚執念強い靈魂になるとなか/\其位のことでは出て來ない場合がある。さう云ふ場合には又別の女巫が神前に供へた非常に長い麻布を所きらはず卷付ける。さうして病人の親族や女巫が合掌して靈魂を其麻布に附着せしめるのである。即ち或意味から云へば古語のオハス[#「オハス」に傍点]と云ふやうなものである。日本の神道で用ゐる處の幣束をはじめ、北方のギリヤーク、アイヌ、滿州人、蒙古人、ツングース諸族などの用ゐる幣束等も比較すべきものである。即ち是れに附着させて出して了ふと云ふ樣な方法であらう。もう一つ尚ほ靈魂が執念強い時には、小さい刀を二本座敷に置いてさうして舞つて居る内に女巫が知らずに其刀を取つて舞ふ。即ち靈魂を殺すと云ふ意味である。是は非常にむづかしい病人に對してするので、威して出すと云ふ方法である。或は草刈臺とか分銅とか云ふやうな頗る重いものを用ゐる。女巫が舞つて既に狂人の樣になり、一種の神靈の威力があると云ふ樣になると、かよわい女が草刈臺を齒で銜へて座敷中を廻るとか、或は重い分銅を齒で咬締めて恰も輕いものを持廻ると云ふ樣な風をして靈魂を威す方法もある。さうして出る時分には何うするかと云ふと、舞踊して呪文を唱へながら一歩々々宛退つて、次第に家の外に出て靈魂を出して了ふのである。其時に供へた餅を小く[#「小く」は底本のまま]切つて投げる。是は餓ゑて居る靈魂に供へると云ふ意味ださうである。余が咸鏡道と江原道との間で見た處では、巫が這入つて來る時に或る樹の小枝を折つて持つて來て之を神前に供へた。南方では笹に紙の幣束樣のものをかけて供へる所もある。之は昔の話であるが昔は病人の胸を切つて血を出し、さうして體内から靈魂の惡鬼を追退けると云ふ樣な方法もやつたさうである。尚南方系の女巫にはもう一つの方法がある。之は舞手が頭には紙袋の樣な頭巾(粗麻製)を被つて、下に赤い裳を附け、さうして通常の衣服の上に白い麻で拵へた處の大きな袖、裾の長い服を着て、其上から赤い襷樣のものを掛ける。さうして襷には小さな巾着の樣な物を色々附ける、(其中には金錢を入れる)是は昔は寶物を附けたものであらうと思ふが、今では唯々さう云ふものが遺つて居るだけである。其の舞ふ時には必ず右の手には鈴を持ち、(日本の三番叟或は神道の女巫の持つて居る鈴と變りはない)左には大きな扇を持つ。この舞踊で靈魂を誘ひ出すのである。之に就いて注意すべきは、鈴が日本の鈴と少しも違はないと云ふこと、それから鈴の使ひ方、扇の使ひ方、舞踊の具合などが日本の三番叟と違はぬと云ふことである。是等は日本の能樂の前身たる猿樂やそれ以前のものと余程比較研究すべきものではなからうかと思ふ。それから舞方は日本との關係を見るに餘程面白いのである。鈴を持つて舞ふ事は南方の女巫に限つて居て北方の男覡にはない。是も注意すべき事で將來比較宗教學や、いろ/\の事から研究すると餘程面白いだらうと思ふ。鈴は多く集合し、其下に握る位の長さの柄が附いて居つて、其柄には五色の細長い絹の垂れが附けられて居る。此の出たちで舞ふ所は、日本の神社の女巫と少し [#「少し 」は底本のまま]異なつた所がない。全く同一である。朝鮮の南方系の女巫と日本との風俗が斯樣に同一なのは最も注目すべき事である。女巫の掛けて居る赤い襷は日本古代に行はれた儀式のタスキと同じものであらう。

   四、覡――男覡

 次に北方は寧ろ巫の方でなくして覡の方である。男が主になつて居る。女がある樣に見えても是は南から移住した巫が居る爲めにさう見えるのであつて、實は北方は男ばかりである。北方の男覡は何處に居るかと云ふと、即ち前に述べた北青から北の方で、凡て滿州との境―豆滿江流域までである。殊に其中心は吉州である。吉州には有名な男覡が居る。北方の男覡は文字を知らずにやつて居るのもあるが、矢張書物もあつて、それを習つてやつて居る者もある。さうして北方は多少「易」とか「卜」とかの方に混同して來て居るやうに思はれる。是等も餘程注意すべきことであらう。是れは何うであるかと云ふと、最初病人は其の病氣が何う云ふ譯で起つたかと云ふことを知る爲めに、男覡の處に行かずして先づ賣卜者の方に行く。賣卜者は、是れは斯う斯う云ふ風の病であるから斯う云ふ神樣に祈れ、また何某の覡に依頼せよと話す。それから今度は其の男覡の處へ行つて、何某の賣卜者に聞いたら斯う云ふ神樣に祈つたら宜いと云つたと云ふ。それによつて男覡が、其神樣を主として祈つて病を癒す。と云ふ遣り方である。賣卜者は錢で卜ふのと筮竹で卜ふのとの兩方がある。筮竹と云ふ樣なものも最も簡單なもので或時代のものが遺つて居るかも知れない。また卜をする時の錢は一定した錢である。
    祈祷
 男巫の方も三人が一組であつて、一人が舞ひ、他の二人は太皷―鐃鉢とを打つ。男覡の舞方は、通常の衣服の上に袖の長い大きな赤いのを着けて、さうして袖に手を入れて舞ふ。其調子は前にいつたのと少しも變らない。
 北方の男覡について斯う云ふ傳説がある。
 昔或人が吉州に役人をして居つた。任期滿ちて都に歸つて行く途中で、丁度吉州から明川の峠に差しかゝつた時に太皷の音がした。是れは天から化物でも降りてきて樂んで居るのであらうかと近づいて見ると、男覡が祈祷して居る。この男覡は大變な老人であつた。そこで其の役人は男覡に向つて、御身に果して奇しき靈驗があるならば、丁度此處に天下大將軍(木で作つた人の形をしたもので朝鮮では各所に建つて居る)が朽ちて今にも崩れようとして居るが、之れを新たなるものとして建てることが出來るかと言ふと、「それは出來るけれども、それだけの謝禮を貰つたらする」と男覡が言ふから謝禮を與へた。そこで祷つた所果して新しいものになつたので、大變不思議なことだと考へた。さうすると老覡が「御覽なさい天の一方に星が現はれた。是を見ると、都に何か事變がある樣な星である」と云ふので、役人は老覡を同道して歸つて見ると、果して然うであつた。それは十二の倉に鍵がかゝつて居つて開かないので、多數の巫人に命じて祈祷せしめて居るが、一向駄目で困まつて居る時であつた。そこへ丁度吉州の老覡が行つて是れを自分が開けて見ようと云つた。「なに貴樣には出來まいけれどもやつて見よ」と云ふので、神樣に祈つた所が初めて倉が開いた。それで大變な名譽を得た。そして南方の巫より北方の巫が大變尊いものと云ふ事になつた。斯う云ふことを彼等の方で言つて居るのである。是等を見ると、或は或時代に南方の巫と北方の覡との間には爭のやうなことがあつたかも知れぬ。丁度支那へ佛教が這入て來た時分に、最初に道教と爭をして佛教が勝つたと云ふやうなことに似て居るのである。
 北方の男覡は、祈祷の時に最初に先づ東西南北と中との五の神靈を五方に向つて拜する。さうして東の方には大きな神樣が二十四、小さな神樣が二十七あり、西の方には大きな神樣が三十六、小さな神樣が三十六、南の方には大きな神樣が十四、小さな神樣が十四、北方には大神が六、小神が六、中央には大神が五、小神が一ある。こゝでは最早五行説になつて居るのである。東は木で青、西は金で白、南は火で赤、北は水で黒、中央は土で黄と云ふ樣な事を唱へて居る。さうして神樣には山の神と海の神とがある。山の神は山で死んだ者がなつて居り、海の神は海で死んだものがなつて居ると言傳へて居る。北方系のシヤーマンには道教の影響が充分ある事が分る。
 巫覡は地理學的に見れば以上の如く南方系と北方系との兩つに別たれる。尚彼の豆滿江附近を見ると、江を渉つた露領の沿海州に近い所の渾春[#「渾春」は底本のまま]には滿州人が住んで居る。一般に今日の滿州人と云ふものは、最早支那化されて、固有の彼等の事を知るに不便であるが、豆滿江の向ふの滿州人には未だ古い面影が殘つて居る。例へば滿州語を不完全ながら單語位知つて居る。又彼等の固有宗教も遺つて居る。即ら[#「ら」は底本のまま]シヤーマン教(薩瑪跳神)で、これは滿州の最古の風俗として遺つて居るのであるから、余は今の中に研究して置かなければならぬ事と思ひ種々調査した。其結果此のシヤーマンが咸鏡北道の北方派に類似點が多く、多少連絡して居るやうに思える。豆滿江は、政治上から云へば全く國境になつて居るが、人種學上から言へば區域がない全く打通しになつて居る。

   五、結論

 要するに、南方系の女巫は北方系の男覡より原始的で、恐らくは古代にあつては、之れが朝鮮人に一般に廣く行はれて居つたものであらう。然るに後に北方系の男覡が出來、女巫と競爭する樣になつた樣である。加之男覡には道教の分子が充分に這入り經典の樣なものさへ出來て居る。尚ほ且つ占術も這入つて居る。此兩巫覡の比較は朝鮮シヤーマンの發達史上最も注意すべきものであらう。
 以上は日本の神道殊に日本固有の原始神道との比較研究上最も注目すべきものである。
 尚ほこの朝鮮の巫人と他のシヤーマンとの比較に就ては、次章において述べることゝする。
(つづく)



※ 鼓と皷、献と獻、連と聯、タイアルとタイヤル、パイワンとパイアン、マリヨーとマレヨー、マオリーとマウリー、秘と祕の混用は底本のとおり。
底本:『日本周圍民族の原始宗教』岡書院
   1924(大正13)年9月20日發行
   1924(大正13)年12月1日三版發行
入力:しだひろし
校正:
xxxx年xx月xx日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。



*地名

(※ 市町村名は、平成の大合併以前の表記のまま。一般的な国名・地名などは解説省略。
  • 黄河 こうが (Huang He) (水が黄土を含んで黄濁しているからいう)中国第2の大河。青海省の約古宗列盆地の南縁に発源し、四川・甘粛省を経て陝西・山西省境を南下、汾河・渭河など大支流を合わせて東に転じ、華北平原を流れて渤海湾に注ぐ。しばしば氾濫し、人民共和国建国後に大規模な水利工事が行われた。近年下流部で水量の減少が著しい。全長5464km余。流域は中国古代文明の発祥地の一つ。河。
  • 揚子江 ようすこう (Yanzi Jiang) 長江の通称。本来は揚州付近の局部的名称。
  • 長江 ちょうこう (2) (Chang Jiang) 中国第一の大河。青海省南西部に発源、雲南・四川の省境を北東流し、重慶市を貫き、三峡を経て湖北省を横断、江西・安徽・江蘇3省を流れて東シナ海に注ぐ。全長約6300km。流域は古来交通・産業・文化の中心。揚子江。大江。江。
  • 南嶺山脈 なんれい さんみゃく (Nanling Shanmai) 中国南部、広東・広西・湖南・江西にまたがる、標高1000m前後の五つの山地の総称。長江水系と珠江水系との分水嶺で、華中と華南の境界をなす。
  • 広東 カントン (Guangdong) 中国南部の省。省都は広州。面積約18万平方km。別称、粤。華僑の出身地として古くから知られ、海外との経済交流が盛ん。民国時代には孫文ら革命派の根拠地として、北方軍閥に対立する革命勢力の拠点となった。
  • 広西 こうせい (Guangxi) 中国南部にあるチワン(壮)族自治区。もと広西省、1958年改称。南西はベトナムに接する。区都は南寧。面積約24万平方km。別称、桂・粤西。
  • 福建 ふっけん (Fujian) 中国南東部の省。台湾海峡に面する。省都は福州。面積約12万平方km。山地が9割を占める。略称は。古来、東アジア海上交通の中心地。また華僑の主要な出身地の一つ。米のほか、甘蔗・茶・果物などを産する。
  •  → 福建
  • 雲南 うんなん (Yunnan) 中国南西部の省。貴州・広西の西、四川の南に位置する高原地帯で、ミャンマー・ラオス・ベトナムと国境を接する。省都は昆明。20余の少数民族が住み、中国で民族の種類が最も多い省。面積39万平方km。略称、雲。別称、
  • 貴州 きしゅう (Guizhou) 中国南西部の省。四川省の南にある高原地帯。省都、貴陽。面積約18万平方km。略称、貴。別称、黔。苗(ミャオ)族・布依(プイ)族・(トン)族・彝(イ)族などの少数民族が多く居住。
  • 浙江 せっこう (Zhejiang) 中国南東部、東シナ海に面する省。長江下流の南を占め、銭塘江によって東西に分かれる。古くから商工業が盛ん。別称、浙・越。省都は杭州。面積約10万平方km。
  • 湖南 こなん (Hunan) 中国中部の省。長江中流の南部を占める。省都は長沙。面積約21万平方km。洞庭湖があり湘江が流れる。灌漑・水運が発達し、稲作を中心とした農業地帯が多い。別称、湘・楚南。
  • 四川 しせん (Sichuan) 中国の南西部にある省。長江上流の諸支流にまたがる地。省都は成都。面積約49万平方km。別称、蜀・巴蜀。略称は川。漢族のほか、苗(ミャオ)族・チベット族などの少数民族が居住。古来「天府の国」と呼ばれ、地味肥え、天然資源に富む。
  • 東京 トンキン Tonkin; Tongking ハノイを中心とするベトナム北部の古称。また、ハノイの旧称。
  • アンナン Annam・安南 中国人・フランス人などがかつてベトナムを呼んだ称。また、ベトナム人がこの地に建てた国家をもいう。唐がこの地に設けた安南都護府に由来。狭義には、北のトンキン、南のコーチシナとともに旧仏領インドシナの一行政区画の称。
  • シャム Siam・暹羅 タイ国の旧称。→シャムロ。
  • タイ Thai・泰 (Thailand)インドシナ半島中央部にある王国。旧称シャム。13世紀以後タイ人の国が起こり、先住のモン人・クメール人などを合わせ、1782年現ラタナコーシン王朝が成立、1932年立憲君主制。面積51万3000平方km。人口6020万(1995)。国民の大多数が仏教徒。首都バンコク。
  • ビルマ Burma・緬甸 東南アジア大陸部西部の国。ミャンマー連邦の旧称。
  • ミャンマー Myanmar 東南アジア大陸部の西部にある連邦国家。11〜13世紀パガン朝が栄え、19世紀イギリスの支配下に入ったが、1948年ビルマ連邦として独立。89年現名に改称。住民はビルマ人を主とし少数民族も多い。大半は仏教を信奉。面積67万6000平方km。人口4640万(1997)。首都ネピドー。
  • インドシナ 印度支那 (Indo-China)アジア大陸の南東部、太平洋とインド洋の間に突出する大半島。インドと中国の中間に位置するからいう。普通ベトナム・ラオス・カンボジア3国(旧仏領)を指し、広義にはタイ・ミャンマーをも含む。
  • ベーリング海峡 ベーリング かいきょう アラスカとシベリア東端のチュクチ半島との間の海峡。北極海とベーリング海を連結する。長さ96km。最狭部約86km。7〜10月以外は結氷。中央部を日付変更線と米ロ両国の国境線が南北に通る。
  • 北アメリカ
  • フィリピン Philippines・比律賓 (スペイン国王フェリーペ2世の名に因む) アジア大陸の東方、ルソン島を主島とし、ミンダナオ・サマル・ネグロス・パナイ・パラワンなど7000余の島嶼から成る共和国。マゼランの来航を経て、16世紀以来スペイン領、米西戦争の結果1899年アメリカ領、1946年独立。古くから日本と交渉をもつ。面積30万平方km。人口8266万(2004)。言語はセブアノ語・タガログ語など八大言語を含め、八十数種にのぼる。住民の大多数はカトリック。公用語はフィリピノ語・英語。首都マニラ。
  • フィリピン諸島
  • ルソン Luzon・呂宋 フィリピン群島の最北に位置する主要島。面積10万6000平方km。ほぼ中央にフィリピンの首都マニラがある。明初以来中国と交渉があり、1571年スペイン人がマニラを征服した頃から日本人もここに多く渡航・移住。
  • ババヤン島 バブヤン島か。ルゾン島の東。(本文)
  • バブヤン島
  • マレー Malay マレー半島南部の地。マライ。
  • マレー群島 マレーぐんとう アジア大陸とオーストラリア大陸との間にある群島。フィリピン諸島・スンダ列島・モルッカ諸島などから成り、ニューギニアを含めていうこともある。
  • プエブロ地方 フィリピン、ルソン島。イゴロ人の居住地区。(本文)
  • ボントック地方 Bontocs フィリピン・ルソン島北部の山岳地帯。(地名)
  • ポキス山 ボントック北方にある山。(本文)
  • カロウイタン ボントックの南方にある。(本文)
  • サバンガン
  • アルプ
  • ツルビン
  • チャオウイ ボントック、プエブローの中央の地。(本文)
  • イシル山 ボントック地方の北にある山。(本文)
  • アトチャコン
  • フィルラン アトチャコンにある花園。(本文)
  • [台湾]
  • 紅頭嶼 こうとうしょ 蘭嶼(らんしょ/ランユィ)。中国、台湾省南東部の島。台湾島南端の東70kmに位置。別称、紅頭嶼。面積46km2。北部に紅頭山(604m)がある。ヤミ族が椰油・魚人などの6集落に分かれて住み、漁業やタロイモ栽培がおこなわれる。南5kmに小蘭嶼がある。(外国地名コン)
  • 濁水渓 だくすいけい 台湾中部を流れる台湾で一番長い河川である。濁水渓は中央山脈の佐久間鞍部に源を発し西に流れ、台湾海峡に注ぐ。(Wikipedia)
  • 阿里山 ありさん (Alishan) 台湾、嘉義市の東部にある山。また、玉山(新高山)の西方一帯の山地の総称。主峰大塔山は標高2663m。桧の良材で名高い。 
  • 恒春 こうしゅん/ホンチゥェン 中国、台湾省南端の町。台湾島南端の恒春平野に位置。旧称、瑯※(第3水準1-47-89)(ろうきょう)。
  • 花蓮港 かれんこう → 花蓮
  • 花蓮 かれん/ホゥアリィェン Hualien 中国、台湾省東部の港湾都市。花蓮渓河口北側に位置。台東・基隆より鉄道の便あり。台北より直通列車が通じる鉄道・道路の要衝。(外国地名コン)
  • 卑南 ひなん 卑南郷は、台湾台東県に位置する郷。
  • 新高山 にいたかやま 台湾第一の高山である玉山の日本統治時代の呼称。
  • マヤ
  • 台南 たいなん (Tainan) 台湾南西岸にある台湾最古の都市。南部台湾の商工業の中心。安平はその外港。人口72万5千(1999)。
  • ボルネオ Borneo 世界第3の大島。ジャワ島の北、セレベス(スラウェシ)島の西に位置し、熱帯雨林の開発が進む。石油を産出。南部はもとオランダ領。1945年よりインドネシアの一部となりカリマンタンと呼ばれる。北部は19世紀半ば以降イギリスの勢力下にあったが、63年にサバ・サラワクがマレーシアに加入、残るブルネイも84年独立。面積74万平方km。カリマンタン島。
  • ジャワ島 Java・爪哇・闍婆 東南アジア大スンダ列島南東部の島。インドネシア共和国の中心をなし、首都ジャカルタがある。17世紀オランダによる植民地化が始まり、1945年まで同国領。面積は属島マドゥラを合わせて13万平方km。ジャヴァ。
  • [南洋諸島]
  • ポリネシア Polynesia (「多くの島」の意) 太平洋にあって、ハワイ・イースター島・ニュー‐ジーランドを頂点とする三角形に含まれる島々の総称。広大な面積に散在するが、共通した言語と文化をもつ。フランス領ポリネシア・クック諸島・サモア・トンガなど。
  • ミクロネシア Micronesia (「ごく小さな島」の意) (1) 赤道以北、経度180度線以西の太平洋に散在する小島嶼群の総称。北マリアナ・マーシャル・カロリン・ギルバート諸島などを含む。19世紀後半にドイツ領、第一次大戦後は日本の委任統治領、第二次大戦後はアメリカ・国連の信託統治領を経て、アメリカの自治領となった北マリアナ諸島を除き、マーシャル諸島・ミクロネシア連邦・パラオ・ナウルとして独立。ギルバート諸島はキリバスとして独立。南洋群島。
  • カロリン島 → カロリン諸島か
  • カロリン諸島 カロリンしょとう (Caroline Islands) 西太平洋、ミクロネシアの島嶼中、マリアナ・マーシャルの2諸島を除く島々の総称。
  • ニュージーランド New Zealand・新西蘭。(もとオランダ語「新ゼーラント」から。ゼーラントはオランダの州名) オーストラリアの東方約2000kmの南太平洋上にある国。南北二つの大島と付近の小島とから成る。先住民はポリネシア系のマオリ人。1840年イギリスとマオリ人とのワイタンギ条約により、イギリス領となる。1907年自治領、47年独立。農業・牧畜が盛んで、羊毛・乳製品を産する。面積27万平方km。人口354万(1995)。首都ウェリントン。
  • -----------------------------------
  •    朝鮮の巫覡
  • -----------------------------------
  • 朝鮮 ちょうせん (Choson; Korea) アジア大陸東部の大半島。南北に細長く突出し、南は朝鮮海峡を挟んで日本に対し、北は鴨緑江・豆満江を隔てて中国東北部およびシベリアに接している。面積22万平方km。ほぼ単一の朝鮮民族が住む。檀君・箕氏神話に反映される古朝鮮の時代の後、前2世紀初め衛氏朝鮮となったが、前108年漢の武帝はこれを滅ぼし、楽浪・臨屯・真番・玄菟の四郡をおいた。南部には韓族がおり馬韓・弁韓・辰韓(いわゆる三韓)の三部数十国に分かれていた。4世紀中ごろ高句麗・新羅・百済・伽耶が対立、7世紀に至り新羅が統一、10〜14世紀は高麗、14世紀以降は李氏朝鮮がこれをつぎ、いずれも中国に朝貢。のち日清・日露戦争によって日本が植民地化を進め、1910年日本に併合された(韓国併合)が、日本の敗戦により解放。北緯38度線を境に、48年8月南部に大韓民国が、9月北部に朝鮮民主主義人民共和国が成立。朝鮮の異称・雅号として青丘・鶏林・海東・槿域などがある。
  • 南山
  • 巫堂 ムータン Mutan ムーダン(mudang)。巫堂。朝鮮の職業的宗教者。クッとよばれる祭儀をつかさどり、激しい歌舞の中で憑依状態となり神託を宣べる。(カタカナコン)
  • 京城 けいじょう 日本支配期のソウルの称。李朝時代の王都漢城を、1910年(明治43)の韓国併合により改称。朝鮮総督府が置かれた。
  • ソウル Seoul (朝鮮語で首都の意) 大韓民国の首都。広域特別市。京畿道漢江の南北にまたがる。1394年李朝の太祖(李成桂)の時王都となり、漢城・漢陽と称した。景福宮などの宮殿があり、日本支配の間は京城と称し、総督府がおかれた。1946年ソウル特別市に改称。韓国総人口の約4分の1が住む。人口989万5千(2000)。
  • 鷺梁津 ノリャンジン 京城より仁川へ行く途中。(本文)
  • 咸鏡南道 かんきょう なんどう/ハムギョン ナムド (Hamgyong-nam-do) 朝鮮民主主義人民共和国北東部、日本海に臨む道。中央部に平野が広がり、咸興(ハムフン)などの工業都市がある。
  • 北青 プクチョン 北青郡は、朝鮮民主主義人民共和国咸鏡南道に属する郡。古くは高句麗・渤海・女真に属した。(Wikipedia)
  • 永興 えいこう 永興郡。朝鮮民主主義人民共和国咸鏡南道金野郡の旧名。永興湾に名を残す。(Wikipedia)
  • 平安北道 へいあん ほくどう/ピョンアン プクト (Pyongan-puk-to) 朝鮮民主主義人民共和国北西部、黄海に臨む道。北は鴨緑江を隔てて中国に接する。森林資源が豊富。道都は新義州(シンウィジュ)。
  • 咸鏡北道 かんきょう ほくどう/ハムギョン プクト 
  • (Hamgyong-puk-to) 朝鮮民主主義人民共和国北東部、日本海に臨む道。大部分が山岳地帯で、豆満江を隔てて中国・ロシアと接する。
  • 豆満江 とまんこう/トゥマン ガン (Tuman-gang) 朝鮮半島の大河。白頭山に発源、中国東北部およびロシアの沿海州(プリモルスキー)地方との国境をなし、日本海に注ぐ。長さ521km。中国名、図們江。
  • 咸鏡道 かんきょうどう 李氏朝鮮の道の一つ。現在の咸鏡北道・咸鏡南道にあたる。
  • 吉州 きっしゅう/キルジュぐん 朝鮮民主主義人民共和国咸鏡北道にある郡。1邑(町)、26里(村)からなる。郡所在地は吉州邑。2005年、北朝鮮の核実験基地として報じられている。古代には高句麗と渤海の地であり、その後は長く女真族が占拠していた。1107年に高麗領となったが、13世紀には元の領土に編入された。(Wikipedia)
  • 明川 ミョンチョン/めいせん Myeongcheon 北朝鮮北東部、咸鏡北道南部、明川郡の中心地。別称、明原。咸鏡南部炭田の市場町で、南西方の吉州との間における褐炭埋蔵量は同国の8割を占める。(外国地名コン)
  • 江原道 こうげんどう/カンウォンド (Kangwon-do) 朝鮮半島中部、日本海に臨む道。中央を北西から南東に太白山脈が走る。林産・鉱産資源に富む。軍事境界線によって南北に分けられ、北側の道庁所在地は元山(ウォンサン)、南側は春川(チュンチョン)。
  • 満州 まんしゅう 満州・満洲。中国の東北一帯の俗称。もと民族名。行政上は東北三省(遼寧・吉林・黒竜江)と内モンゴル自治区の一部にわたり、中国では東北と呼ぶ。
  • 渾春 → 琿春か
  • 琿春 こんしゅん ホゥェンチゥェン。中国、東北地区中部、吉林省東部の県。図們の東50km。琿春河中流右岸に位置。北朝鮮・ロシアと接する交通・貿易の要地。1895年の下関条約で通商地として開市された。住民の70%は朝鮮族。(外国地名コン)
  • [シナ][中国]
  • [モンゴル]
  • モンゴル Mongol 中国の北辺にあって、シベリアの南、新疆の東に位置する高原地帯。また、その地に住む民族。13世紀にジンギス汗が出て大帝国を建設し、その孫フビライは中国を平定して国号を元と称し、日本にも出兵した(元寇)。1368年、明に滅ぼされ、その後は中国の勢力下に入る。ゴビ砂漠以北のいわゆる外モンゴルには清末にロシアが進出し、1924年独立してモンゴル人民共和国が成立、92年モンゴル国と改称。内モンゴルは中華人民共和国成立により内モンゴル自治区となり、西モンゴルは甘粛・新疆の一部をなす。蒙古。
  • [ロシア]
  • 沿海州 えんかいしゅう プリモルスキーの訳名。
  • プリモルスキー Primorskii ロシア、シベリアの南東端、黒竜江(アムール川)・ウスリー川・日本海に囲まれた地方。1860年北京条約 (2) によりロシア領となる。中心都市ウラジヴォストーク。沿海地方。沿海州。
  • シベリア Siberia・西比利亜 アジア北部、ウラル山脈からベーリング海にわたる広大な地域。ロシア連邦の一地方でシベリア連邦管区を構成。西シベリア平原・中央シベリア高原・東シベリアに三分される。面積約1000万平方km。十月革命までは極東も含めてシベリアと称した。ロシア語名シビーリ。


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)。『コンサイス外国地名事典』第三版(三省堂、1998.4)『縮刷版 文化人類学事典』(弘文堂、1994.3)『新編東洋史辞典』(東京創元社、1980)『コンサイス・カタカナ語辞典 第四版』(三省堂編修所、2010.2)




*年表

  • 平安朝 へいあんちょう (1) 平安時代約400年間における朝廷。 (2) (→)平安時代に同じ。
  • 平安時代 へいあん じだい 桓武天皇の平安遷都から鎌倉幕府の成立まで約400年の間、政権の中心が平安京(京都)にあった時代。ふつう初・中・後の3期、すなわち律令制再興期・摂関期・院政期(末期は平氏政権期)に分ける。平安朝時代。
  • 康熙 こうき 中国、清の聖祖(康熙帝)朝の年号。(1662〜1722)
  • 乾隆 けんりゅう 中国、清の高宗朝の年号。(1736〜1795)
  • -----------------------------------
  • 高麗 こうらい (1) (ア) 朝鮮の王朝の一つ。王建が918年王位につき建国、936年半島を統一。都は開城(旧名、松岳・松都)。仏教を国教とし、建築・美術も栄え、後期には元に服属、34代で李成桂に滅ぼされた。高麗。(918〜1392)(イ) 高句麗。また、一般に朝鮮の称。
  • 李朝 りちょう 朝鮮の最後の王朝。1392年李成桂が高麗に代わって建て、対外的には朝鮮国と称す。1897年に国号を大韓帝国と改め、1910年(明治43)日本に併合されて、27代519年で滅んだ。国教は朱子学(儒学)。都は漢城(現ソウル)。朝鮮王朝。李氏朝鮮。(1392〜1910)


◇参照:『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)。



*人物一覧

(人名、および組織・団体名・神名)
  • 東北方アジア民族
  • 中部、南シナ民族
  • 漢族 かんぞく 中国文化と中国国家を形成してきた主要民族。現在中国全人口の約9割を占める。その祖は人種的には新石器時代にさかのぼるが、共通の民族意識が成立するのは、春秋時代に自らを諸夏・華夏とよぶようになって以降。それらを漢人・漢族と称するのは、漢王朝成立以後。その後も漢化政策により多くの非漢族が漢族に同化した。
  • 苗族 ミャオぞく (Miao) 中国南部からタイ北部・ミャンマー・ラオス・ベトナムの山地に住む民族の中国における名称。焼畑耕作による陸稲・トウモロコシ・イモ類・雑穀の栽培を主とする。言語はシナ‐チベット語族のミャオ‐ヤオ語派に属する。モンと自称。メオ族。
  •  ルオルオ/ロロ 雲南・貴州・四川を中心に住む、チベット系の少数民族の名。現在の公称は彝(イ)族。
  • インドシナ民族 インドシナ人。ベトナム、カンボジア、ラオスを含む領域の住民。民族構成は複雑で、人口の最大多数を占めているベトナム人(アンナン人)、カンボジア平原を中心に居住するクメール人、カンボジア方面の山地のチャム人、ラオ人、その他ミャオ、ヤオ、ロロなどの少数民族がいる。
  • チュクチ Chukchee チュクチ語。チュクチ・カムチャツカ語族に属する言語。シベリア北東端、チュクチ(チュコト)半島に住む少数民族のチュクチ族によって話される。かつてはルオラベトラン語とも呼ばれた。/Chukchi, Chukchee チュクチャ(Chukcha)ともいう。ユーラシア大陸の最東端のチュコト半島を中心に居住するソ連の少数民族の一つ。コリヤークと同様に内陸ツンドラ地帯のトナカイ・チュクチと海岸地帯の海岸チュクチとに大別できる。人口は約1万4000人(1979年)。17世紀以来、ロシアの支配に対して徹底抗戦をおこない、また、隣族のコリヤークとは“真の敵”と呼び合うほどの対立抗争を続けていたため、チュコト半島はソヴィエト政権が樹立されるまで、長らく戦争状態が続いた。文化要素ではエスキモーとの類似点も注目されている。(文化)
  • コリヤーク Koryak シベリア東端のオホーツク海岸からベーリング海、カムチャツカ半島にかけて住む少数民族。言語は古アジア諸語に属する。海岸部では海獣猟と漁労、内陸ツンドラ地帯ではトナカイの飼育を行う。
  • ツリンキット人
  • ハイダ人
  • 禹 う 中国古代伝説上の聖王。夏の始祖。鯀の子で、舜の時、治水に功をおさめ、天下を九州に分けて、貢賦を定めた。舜の禅譲を受けて位につき、安邑(山西省)に都し、国を夏と号し、禹の死後、世襲王朝となったという。大禹。夏禹。夏伯。
  • 漢民族 → 漢族
  • 南蛮
  • トルコ族 ヨーロッパの一部、シベリア、中央アジアに居住する民族。古く北蒙古にあったものは丁零、高車と呼ばれた。6世紀にはアルタイ山脈西南に突厥がおこり、その東部をウイグルが受け継いだ。西部では11世紀にセルジュク・トルコが帝国を建て、イラン、小アジア、シリアを支配。その滅亡後オスマン・トルコがこれに代わり、さらにケマル=アタチュクルの革命後トルコ共和国となった。
  • ツングース族 Tungus・通古斯。シベリアのエニセイ川からレナ川・アムール川流域やサハリン島、中国東北部にかけて広く分布するツングース諸語を話す民族の総称。漢代以降の鮮卑、唐代の靺鞨・契丹、宋代の女真、満州族などを含む。狭義にはそのうち北部のエヴェンキ人を指し、生業は狩猟・漁労・採集、トナカイ・馬・牛の飼育等を主とする。
  • モンゴル族 Mongol 中国の北辺にあって、シベリアの南、新疆の東に位置する高原地帯。また、その地に住む民族。13世紀にジンギス汗が出て大帝国を建設し、その孫フビライは中国を平定して国号を元と称し、日本にも出兵した(元寇)。1368年、明に滅ぼされ、その後は中国の勢力下に入る。ゴビ砂漠以北のいわゆる外モンゴルには清末にロシアが進出し、1924年独立してモンゴル人民共和国が成立、92年モンゴル国と改称。内モンゴルは中華人民共和国成立により内モンゴル自治区となり、西モンゴルは甘粛・新疆の一部をなす。蒙古。
  • 契丹 きったん 4世紀以来、内蒙古※(第3水準1-87-13)河(シラムレン)流域にいた、モンゴル系にツングース系の混血した遊牧民族。10世紀に耶律阿保機が諸部族を統一、その子太宗の時に国号を遼と称した。キタイ。
  • チベット人 チベット族。チベットに住む土着の民族。チベット語を話し、主に農耕・遊牧生活を送る。
  • イゴロ人
  • ルマウィグ Lu-ma-wig 最上神。
  • フニ Fu-ni 神。
  • カンブニヤン Kan-buniyan 神。
  • ファータンガ
  • フーカン ファータンガの妹。
  • インドネジアン → インドネシア人
  • インドネシア人 (2) インドネシアの先住民。蒙古人種に属するインドネシア-マライ人種の原マライ人(インドネシア人種)と第二次マライ人より成り、最古の先住民であるネグリートおよびウェッドイドも少数存在。
  • マレー族 マレー人。(Malay) マレー半島・インドネシア・フィリピンに広く分布し、オーストロネシア語族のマレー語を話す人々の総称。その多くはインド・中国・イスラム文化の影響を受け、人種的にも混交。水稲耕作・水牛飼育・漁労などを主な生業とし、交易にも活躍。
  • マレー語 マレーご マレー半島およびその周辺諸島で用いられる言語。オーストロネシア語族のインドネシア語派に属する。マライ語。
  • ジャワ島人
  • 康熙帝 こうきてい 1654-1722 清朝第4代の皇帝聖祖の称。諱は玄※(第3水準1-87-62)。世祖(順治帝)の第3子。中国歴代王朝を通じて最長の61年間の治政に文武の功業を挙げ、清帝国の地盤を確立、学術を振興。「康熙字典」「佩文韻府」などは当代の撰。(在位1661〜1722)
  • 莱派
  • マレヨーポリネシア族 → マライ-ポリネシア語族か
  • マライ-ポリネシア語族 → オーストロネシア語族
  • オーストロネシア語族 Austronesian 西はマダガスカル島、東はイースター島、北は台湾、ハワイ、南はニュージーランドに囲まれた東南アジア、オセアニアでおこなわれる同系統の現地語の総称で、その総数は約1000に達する。ただしマレー半島山間部、ニューギニアの内陸部、オーストラリアの現地語は除く。オーストロネシア(=南島)語族という名称は今世紀(20世紀か)初頭、シュミット(P.W. Schmidt)によって与えられたが、19世紀のフンボルト(W.von Humboldt)による名称、マライポリネシア語族(Malayo-Polynesian)も同義語として用いられる。(文化)
  • マオリー Maori マオリ。ニュー‐ジーランドのポリネシア系先住民。さつまいも・タローいも・ヤムいもなどの定着農耕と採集・狩猟・漁労を行う。ヨーロッパ人との接触によって多くの人口を失ったが、今日では再び増加している。
  • マウリー → マオリー
  • カロリン人 → カロリン諸島民か
  • カロリン諸島民 Caroline Islanders オセアニアのうち北西部、おおむね赤道の北にある諸島。ミクロネシアの主要部分。カロリン群島はパラオ、ヤップ、トラック、ポナペ、コスラエなどの火山島と環礁・隆起さんご礁の小さな島々ばかり。一般的にいって、カロリン群島を含むミクロネシアの文化は、複雑多岐なメラネシア文化と、ほぼ一様なポリネシア文化との中間に位置する。/身体形質的に中・東カロリンの人々はポリネシア人にやや近い。これに対して、西カロリンの人の身体形質は、フィリピン人もしくはインドネシア人に似ている。東西の地域差があるものの、大きく見て言語は共にオーストロネシア語族の中に分類され、人種的にモンゴロイドに属する。パンノキ・タロイモ・ヤムイモ・ココヤシの栽培と、礁湖や沖合での漁撈で毎日の生計を立てている。カロリン群島は母系領域。(文化)
  • ホーマー Homer ホメロスの英語名。
  • ホメロス Homeros 古代ギリシアの詩人。前8世紀頃小アジアに生まれ、吟遊詩人としてギリシア諸国を遍歴したと伝える。英雄叙事詩「イリアス」「オデュッセイア」の作者とされるが、この詩人が実在したか、この2作の作者だったかについては諸説がある。ホーマー。ホメール。
  • -----------------------------------
  •    朝鮮の巫覡
  • -----------------------------------
  • 朝鮮人 ちょうせんじん 朝鮮の人。朝鮮半島および周辺の島に分布する韓民族集団の総称。人種的にはモンゴロイド(蒙古人種)に属し、黒色・直毛の頭髪、高いほお骨などを特徴とする。
  • 閔王妃 → 閔妃か
  • 閔妃 びんひ 1851-1895 (Min-bi) 李氏朝鮮26代の国王高宗の妃。閔致禄の娘。大院君を斥け、閔氏一族による政権を立て、守旧的な政治を行なった。日清戦争の後、ロシアと結び日本排斥を図っていると見なされ、日本公使三浦梧楼の陰謀により1895年10月8日、日本守備隊および日本人壮士に惨殺された。ミン‐ピ。
  • 大院君 たいいんくん 1820-1898 (李朝で直系でない国王の生父の尊称) 李氏朝鮮第26代高宗(李熙)の父。名は〓応。興宣大院君。熙が王位に即くや1863年摂政となる。王権強化と攘夷に努めキリスト教を禁じ、閔妃一派と激しく対立、82年壬午軍乱により政権を握ったが、一時清国の保定に抑留。日清戦争後日本と結び、政権に復帰したが、失脚、引退。
  • ゲール James Scrath Gale ?-1937 カナダのプロテスタント宣教師。朝鮮に赴いて(1888)、アッペンツェラー、H.G. アンダウッド等と協力、聖書翻訳委員として朝鮮語聖書を完成し、また《朝鮮語辞典 Korean-English Dictionary,1898》を出版した。(岩波西洋人名)
  • ギリヤーク Gilyak (→)ニヴヒの旧称。
  • ニヴヒ Nivkhi アムール川(黒竜江)流域とサハリン(樺太)北部に住むロシアの少数民族。言語は古アジア諸語の一つで、周辺のツングース系諸語やアイヌ語の影響を受ける。漁労・海獣猟に従事。ニヴフ。旧称、ギリヤーク。
  • アイヌ Ainu (アイヌ語で人間の意) かつては北海道・樺太(サハリン)・千島列島に居住したが、現在は主として北海道に居住する先住民族。人種の系統は明らかでない。かつては鮭・鱒などの川漁や鹿などの狩猟、野生植物の採集を主とし、一部は海獣猟も行なった。近世以降は松前藩の苛酷な支配や明治政府の開拓政策・同化政策などにより、固有の慣習や文化の多くが失われ、人口も激減したが、近年文化の継承運動が起こり、地位向上をめざす動きが進む。口承による叙事詩ユーカラなどを伝える。
  • 満州人 → 満州族
  • 満州族 まんしゅうぞく 中国、東北地方に居住するツングース系の民族。その祖先にあたる靺鞨は7世紀末に渤海を建国し、女真は12世紀初めに金を建国した。15世紀末、建州左衛の首長ヌルハチが女真人を統合し、1616年に後金を建国。後金は中国を征服したのち、女真に代えて満州という民族名を用いるようになった。
  • モンゴル人 → モンゴル族
  • ツングース族 Tungus・通古斯。シベリアのエニセイ川からレナ川・アムール川流域やサハリン島、中国東北部にかけて広く分布するツングース諸語を話す民族の総称。漢代以降の鮮卑、唐代の靺鞨・契丹、宋代の女真、満州族などを含む。狭義にはそのうち北部のエヴェンキ人を指し、生業は狩猟・漁労・採集、トナカイ・馬・牛の飼育等を主とする。


◇参照:『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)『岩波西洋人名辞典増補版』。



*書籍

(書名、雑誌名、論文名、映画・能・狂言・謡曲などの作品名)
  • 『書経』 しょきょう 五経の一つ。尭舜から秦の穆公に至る政治史・教戒を記した中国最古の経典。20巻、58編(33編は今文尚書、25編は古文尚書にのみあるもの)。孔子の編と称する。成立年代は一定せず、殊に古文は魏・晋代の偽作とされている。初め書、漢代には尚書、宋代に書経といった。
  • 『後漢書』西南夷列伝
  • 『後漢書』 ごかんじょ 二十四史の一つ。後漢の事跡を記した史書。本紀10巻、列伝80巻は南朝の宋の范曄(398〜445)の撰。432年頃成立。志30巻は晋の司馬彪の「続漢書」の志をそのまま採用した。その「東夷伝」には倭に関する記事がある。
  • 『古事記』 こじき 現存する日本最古の歴史書。3巻。稗田阿礼が天武天皇の勅により誦習した帝紀および先代の旧辞を、太安万侶が元明天皇の勅により撰録して712年(和銅5)献上。上巻は天地開闢から鵜葺草葺不合命まで、中巻は神武天皇から応神天皇まで、下巻は仁徳天皇から推古天皇までの記事を収め、神話・伝説と多数の歌謡とを含みながら、天皇を中心とする日本の統一の由来を物語る。ふることぶみ。
  • 『日本書紀』 にほん しょき 六国史の一つ。奈良時代に完成した日本最古の勅撰の正史。神代から持統天皇までの朝廷に伝わった神話・伝説・記録などを修飾の多い漢文で記述した編年体の史書。30巻。720年(養老4)舎人親王らの撰。日本紀。
  • 『ユーカラ』 Yukar アイヌに口承されてきた叙事詩。孤児として育った少年ポイヤウンペが、両親の仇討や許嫁の奪還のために敵と交える激戦の数々の物語。節をつけて語る。広義には女性、自然神(カムイ)を主人公とする叙事詩を含む。ユカラ。
  • 『イリアッド』 Iliad イリアスの英語名。
  • 『イリアス』 Ilias 古代ギリシアの長編叙事詩。「オデュッセイア」と共にホメロス作と伝える。24巻。10年間にわたるトロイア戦争中の数十日間の出来事を描いたもので、アキレスの怒りを主題とし、トロイア・ギリシア両軍の戦況の推移を描く。英語名イリアッド。
  • 『記』 → 『古事記』
  • 『紀』 → 『日本書紀』
  • -----------------------------------
  •    朝鮮の巫覡
  • -----------------------------------
  • 『韓仏字典』 Dictionnaire coreen-francais. par les missionnaires de coree 1880, p,259。
  • 『韓英字典』 James S. Gale : Korean-English Dictio nary 1897 p.353。


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)。



*難字、求めよ

  • 南蛮 なんばん (南方の野蛮人の意) (1) 古く中国で、インドシナをはじめとする南海の諸国の称。←→北狄。
  • 瘴癘 しょうれい 気候・風土のために起こる伝染性の熱病。風土病。
  • 創世記 そうせいき (Genesis ラテン) 旧約聖書開巻第一の書。世界創造の物語からヨセフの死に至るまでのヘブライ人の神話と歴史物語を記したもの。
  • 氏族 しぞく 共通の祖先を認め合うことによって連帯感をもつ人々で、氏族名で弁別される。一般に父系または母系のどちらか一方の出自関係をたどって帰属が決まる。クラン。
  • クラン Clan 氏族のこと。
  • 尊拝 そんぱい 尊んで拝むこと。
  • 儒教 じゅきょう 孔子を祖とする教学。儒学の教え。四書・五経を経典とする。
  • 祖述 そじゅつ 師・先人の説をうけついで学問を進め述べること。
  • 帝政 ていせい (1) 帝者のまつりごと。帝道に基づく政治。(2) 帝王が統治する政治・政体。
  • 道教 どうきょう 中国漢民族の伝統宗教。黄帝・老子を教祖と仰ぐ。古来の巫術や老荘道家の流れを汲み、これに陰陽五行説や神仙思想などを加味して、不老長生の術を求め、符呪・祈祷などを行う。後漢末の五斗米道(天師道)に始まり、北魏の寇謙之によって改革され、仏教の教理をとり入れて次第に成長。唐代には宮廷の特別の保護をうけて全盛。金代には王重陽が全真教を始めて旧教を改革、旧来の道教は正一教として江南で行われた。民間宗教として現在まで広く行われる。
  • 関帝廟 かんていびょう 関羽を神としてまつった廟。これを信ずれば、戦時に関羽の霊が出現して敵を滅ぼすという。清朝建設の際、関羽の霊の助けを得たとして清朝の信仰厚く、孔子を祀る文廟と対をなすものとして中国各地に多数建てられた。武廟。老爺廟。
  • 娘々宮 ニャンニャンぐう? 娘娘(ニャンニャン)とは、近世の宮中では、皇太后・皇后のこと。また、子どもを授ける女神のこと。
  • 山神廟
  • 龍王廟
  • 財神廟
  • 祈祷 きとう 神仏にいのること。呪文をも含めてすべての儀礼の要素中、言語の形をとるもの。原始的には、対象や内容について別に限定なく、宗教的経験が自然に発露する独白のようなもの。
  • 鬼門 きもん (1) 陰陽道で、鬼が出入りするといって万事に忌み嫌う方角で、艮すなわち北東の称。鬼方。←→裏鬼門。
  • 石敢当 いしがんとう 沖縄や九州南部で、道路のつきあたりや門・橋などに、「石敢当」の3字を刻して建ててある石碑。中国伝来の民俗で、悪魔除けの一種。せきかんとう。
  • 泰山府君・太山府君 たいざん ふくん (タイサンブクンとも) (1) 中国で泰山の山神。人の寿命・福禄をつかさどるとして道家で祀る。仏教と習合して閻魔王の書記とも、地獄の一王ともされる。日本では本地は地蔵菩薩といい、比叡山の西坂本に赤山権現として祀られる。
  • 仏教 ぶっきょう (Buddhism) 仏陀(釈迦牟尼)を開祖とする世界宗教。前5世紀頃インドに興った。もともとは、仏陀の説いた教えの意。四諦の真理に目覚め、八正道の実践を行うことによって、苦悩から解放された涅槃の境地を目指す。紀元前後には大乗仏教とよばれる新たな仏教が誕生、さらに7〜8世紀には密教へと展開した。13世紀にはインド亜大陸からすがたを消したのと対照的に、インドを超えてアジア全域に広まり、各地の文化や信仰と融合しながら、東南アジア、東アジア、チベットなどに、それぞれ独自の形態を発展させた。
  • 陰府 いんぷ 冥土。よみじ。「府」は、集まるところ。
  • 城隍廟 じょうこうびょう 城隍神をまつったやしろ。
  • 城隍 じょうこう (1) 城とほり。また、城のほり。(2) 神の名。城の守護神。
  • 城隍神 じょうこうしん 中国で、土地の守護神をいう。その祭祀は南方の沿岸地方で始まり、のち各地で祭られるようになった。
  • 泥像
  • 虎頭鈴
  • 神道 しんとう 日本に発生した民族信仰。祖先神や自然神への尊崇を中心とする古来の民間信仰が、外来思想である仏教・儒教などの影響を受けつつ理論化されたもの。平安時代には神仏習合・本地垂迹があらわれ、両部神道・山王神道が成立、中世には伊勢神道・吉田神道、江戸時代には垂加神道・吉川神道などが流行した。明治以降は神社神道と教派神道(神道十三派)とに分かれ、前者は太平洋戦争終了まで政府の大きな保護を受けた。かんながらの道。
  • 巫覡 ふげき (ブゲキとも) 神と人との感応を媒介する者。神に仕えて人の吉凶を予言する者。女を巫、男を覡という。
  • 神代 かみよ 記紀神話で、天地開闢から※(第3水準1-94-73)※(第3水準1-94-66)草葺不合尊まで、神武天皇以前の神々の時代。じんだい。
  • 陰陽道 おんみょうどう/おんようどう 古代中国の陰陽五行説に基づいて天文・暦数・卜筮・卜地などをあつかう方術。大宝令に規定があり、陰陽寮がおかれたが、次第に俗信化し、宮廷・公家の日常を物忌・方違えなどの禁忌で左右した。平安中期以後、賀茂・安倍の両氏が分掌。
  • 密教 みっきょう 仏教の流派の一つ。深遠で、凡夫にうかがいえない秘密の教え。インドで大乗仏教の発展の極に現れ、中国・日本のほかネパール・チベットなどにも広まった。日本では、真言宗系の東密と天台宗系の台密とがある。秘密教。秘密仏教。←→顕教。
  • 加持 かじ 〔仏〕(1) 仏が不可思議な力で衆生を加護すること。(2) 真言密教で、仏と行者の行為が一体となること。災いを除き願いをかなえるため、仏の加護を祈ること。印を結び真言を唱える。(3) 供物・香水・念珠などを清めはらう作法。
  • もののけ 物の怪・物の気 死霊・生霊などが祟ること。また、その死霊・生霊。邪気。
  • 大乗教 → 大乗仏教
  • 大乗仏教 だいじょう ぶっきょう 紀元前後頃からインドに起こった改革派の仏教。従来の仏教が出家者中心・自利中心であったのを小乗仏教として批判し、それに対し、自分たちを菩薩と呼び利他中心の立場をとった。東アジアやチベットなどの北伝仏教はいずれも大乗仏教の流れを受けている。
  • ラマ教 ラマきょう 喇嘛教。(Lamaism) チベット仏教の俗称。
  • チベット仏教 チベットぶっきょう 仏教の一派。吐蕃王国時代にインドからチベットに伝わった大乗仏教と密教の混合形態。チベット大蔵経を用いる。のちモンゴル・旧満州(中国東北地方)・ネパール・ブータン・ラダックにも伝播した。主な宗派はニンマ派(紅教)・サキャ派・カギュー派・ゲルク派(黄教)の4派。俗称、ラマ教。
  • ボン教 ボンきょう Bon チベットに仏教が入る前から広くおこなわれていた宗教。従来、チベット在来の宗教といわれてきたけれども、最近の敦煌文献研究の成果によれば、これもシャンシュン国以西から移入されたものらしいことがわかってきた。現在の分布はアムド南部(青海省)、カム西北部(四川省)、ネパール北部に限られる。シェンラプ・ミウォを始祖とする豊富な神話体型を持つ。儀礼にシャーマニズム的なものが多いため、教理も教団組織も持たぬ民間信仰と誤解されがちだが、それは誤りである。(文化)
  • ラマ信教 → ラマ教か
  • 渾合 こんごう 混合に同じか。
  • アニト Anito ヘビはアニトの変化したものと信じている。(本文)
  • 生蕃 せいばん 教化に服さない異民族。台湾の先住民である高山族(高砂族)中、漢族に同化しなかった者を、清朝は熟蕃と区別してこう呼んだ。
  • タコー Ta-ko タコ。イゴロ人のいう、実際に生活している人間の霊魂。(本文)
  • 首狩 くびかり 共同体の豊作・繁栄を求める儀礼的な目的のために、共同体外部の人の首を獲って保存する呪的・社会的慣行。かつては西アフリカ、東南アジア(アッサムなどの山地、台湾の山地先住民、島嶼部)からオセアニアにかけて、さらに南米にも広く見られた。
  • ピンテン Pin-teng 首狩り人によって首を斬られたものの雲魂。(本文)
  • ウルウル Wul-wul 聾唖者の霊。(本文)
  • ウォングオング Wong-ong 精神病者の霊。(本文)
  • フターツ Futa-tu アニトのうち、社会から排斥せられる悪い霊。(本文)
  • リムン Li-mun 幽霊など。(本文)
  • 開耕 かいこう? 開広(かいこう)か。(1) 土地を切り開き、耕地を広くすること。
  • 魂祭 たままつり 霊祭。先祖の霊を招きまつるまつり。今日では、一般には盂蘭盆におこなわれる。精霊会。
  • 精霊祭 しょうりょうまつり 盂蘭盆の魂祭。
  • 御霊 ごりょう (1) 霊魂の尊敬語。のちに、尋常でない、祟りをあらわす「みたま」について言った。(2) 御霊会の略。
  • 鎮魂祭 ちんこんさい (1) たましずめのまつり。(2) 神葬で、死者の魂を鎮める祭典。
  • 鎮魂祭 たましずめのまつり 陰暦11月の中の寅の日(新嘗祭の前日)に、天皇・皇后・皇太子などの魂を鎮め、御代長久を祈るために宮内省で行われた祭事。一時廃絶、現在は綾綺殿で挙行。魂を身体に鎮め留める斎事という。御霊振。ちんこんさい。
  • 鎮魂 たましずめ (1) 生者の遊離した魂を招いて、その身体に鎮めること。(2) 「たましずめのまつり」の略。
  • リファ Li-fa 鬼火。死んだアニトの一般の形。
  • 鬼火 おにび (1) 火山などで、硫黄の燃える炎。(2) 湿地に小雨の降る闇夜などに燃え出て、空中に浮遊する青火。燐化水素の燃焼との説があるが、不明。陰火。ゆうれいび。きつねび。火の玉。(3) 出棺の時の門火。
  • 分限者 ぶげんしゃ 金持。ものもち。ぶげんもの。
  • 不行跡 ふぎょうせき 身持ちのよくないこと。
  • シナラウィタン Sinalawitan 魔除けの槍。(本文)
  • Chauy-ya 最上神ルマウイグの住む天空。(本文)
  • パタイ Pa-tay 男の覡子のこと。(本文)
  • 覡子
  • 漸々 ぜんぜん 次第次第に進むさま。徐々。
  • 気に適る/適らない 気に入る/入らない。
  • 瞰下 かんか みおろすこと。
  • 甲状腺腫 こうじょうせんしゅ 甲状腺の腫脹する疾患の総称。
  • 米穀 べいこく こめ。その他の穀物を含めてもいう。
  • 熟蕃 じゅくばん 教化されて帰順した異民族。清代、台湾の先住民である高山族(高砂族)中、平地に住み漢族に同化したものを呼んだ語。←→生蕃
  • 入り来たる いりきたる はいってくる。入来。
  • 蕃人 ばんじん (1) 未開人。えびす。(2) 外国人。(3) 台湾先住民に対する日本統治時代の呼称。→生蕃
  • 生蕃 せいばん 教化に服さない異民族。台湾の先住民である高山族(高砂族)中、漢族に同化しなかった者を、清朝は熟蕃と区別してこう呼んだ。
  • 群族 ぐんぞく/グループ 同族の人々。また、数多くの同族集団。
  • タイヤル群 Tayal, 中国語:泰雅族。別名アタヤル族)は、台湾原住民のなかでも2番目に多い8万5000人の人口規模を持つ民族集団。居住地域は台湾の北部から中部にかけての脊梁山脈地域。(Wikipedia)/Taiyal 北部山地を占拠していた台湾原住民の一集団。言語は、オーストロネシア語族ヘスペロネシア語派に属する。男たちは社会的信望と権威を得るために、首狩りや狩猟に腕を競いあった。かれらは近隣諸種族の間でその首狩りの猛威で恐れられていた。顔面に入墨をする習慣があり、男にとっては敵の首を取った勇者の標章であり、女にとっては、結婚適齢期であることの印であった。(文化)
  • ブヌン群 Bunun ブヌン族(布農族)は台湾原住民の一つ。南投県信義郷、仁愛郷、花蓮県卓渓郷、万栄郷の山岳部を中心にその他高雄県桃源郷、三民郷、台東県海端郷、延平郷などにも分布している。人口は約4万人。(Wikipedia)/台湾の中央山脈の最高峰玉山(3997m)を中心に中部山地に分布する高砂族の一派。アワを主作物とする焼畑農耕が伝統的な生業の中心をなす。オーストロネシア語族ヘスペロネシア語派に属する。ブヌン族は大家族を形成し、平均10人前後、時には20人から30人にもおよんだ。(文化)
  • ツォー群 ツォウか。Tsou 台湾の西部山地、阿里山の南北に居住する高砂族の中の小グループ。オーストロネシア語族ヘスペロネシア語派に属する。清朝時代に漢民族から伝染病をうつされ、著しく人口を減じたといわれている。ブヌン族に酷似した、小・中・大のピラミッド型の父系氏族組織を有し、4つの部族に分かれていた。その領域が狭く、人口も少なかった。(文化)
  • ツァリセン群 → ルカイ
  • ルカイ Rukai 大武山の北部の高山地帯に居住し、伝統的にはアワやサトイモを主作物とする焼畑農業を営む。北にブヌン族、南と西にパイワン族という大集団にはさまれた小グループ。オーストロネシア語族ヘスペロネシア語派に属する。早くからパイワン族と接触、同化し、風俗・習慣にはほとんど差異が認められない。また、パイワン族の北西地域の人々と合わせて、古くは傀儡(カリ)蕃、また、ツァリセン(山の人の意)とも呼ばれた。その後もパイワン族の一部として扱われ、ルカイ族固有の文化の研究は今なお非常に少ない。パイワン族との首狩りや猟場争いを防ぐために、首長家ではしばしばパイワン族の首長家との婚姻をおこなった。(文化)
  • パイワン群 排湾族。台湾南部に住むインドネシア語系に属する原住民である高砂族の一種族。広義にパイワン族と呼ばれるものには、北部より山地のルカイ族と北東部より平地のプユマ族とが含まれ、南部山地に分布するのが狭義のパイワン本族で、その北西部を除けば自らパイワンと称する。2000年の調査ではパイワン本族は70,331人。(Wikipedia)
  • アミ群 Ami 中国語:阿美族。別名:パンツァハ、パンツァ、Pangcah。台湾原住民のなかで一番多い14万8992人(2000年)の人口規模を持つ民族集団。台湾原住民の総人口の37.5% を占めている。居住地域は台湾の東部一帯、花蓮県・台東県・屏東県に亘る広い範囲。/高砂族中最大の人口を擁する集団で、自称“パングツァハ”、プユマ族からは“アミス”(北方の人の意)と呼ばれたが、アミが通称となっている。文化的偏差に基づいて、4つの群(最北の南勢アミ、中部の海岸アミと秀姑巒アミ、南部の卑南アミ、さらに台湾の最南端にまで移住した恒春アミ)に分けられる。オーストロネシア語族ヘスペロネシア語派に属する。多くは平野部に居住していたために、早くから漢民族と接触し、水稲耕作をはじめ、漢民族文化を受容してきた。しかし、最近まで彼らの固有の慣習を多く残していた。一般にアミ族は母系制を有し、婿入り婚がおこなわれ、ことに中部、南部のアミでは結婚後も姉妹が生家にとどまるので、母系大家族を形成していた。(文化)
  • ヤミ群 Yami タオ族。中国語:達悟族。台湾原住民のなかで唯一島嶼部に居住する民族集団。居住地域は台湾本島の南西沖の孤島蘭嶼。人口は4000人程。島内に6つの村落を構成する。ヤミ族(Yami、中国語:雅美族)とも呼ばれる。これは鳥居龍蔵によって命名された名称。/台湾本島最南端から約60km離れた太平洋上に浮かぶ蘭嶼(紅頭嶼)に居住する高砂族の一派。言語はフィリピンのイバタン語と関係が深く、オーストロネシア語族、ヘスペロネシア語派に属する。海岸沿いに6つの村を形成し、山の斜面では焼畑によるアワ、サツマイモなどを、また灌漑された水田では水イモ栽培をおこなう一方で、近海を回遊してくる飛魚を中心に漁撈活動が盛んな半農半漁民。この社会には、他の高砂族に一般的な喫煙、飲酒、首狩り習俗がなく、他方、死霊アニトを極度に恐れる信仰は彼ら固有のものである。(文化)
  • 檳榔樹 びんろうじゅ ヤシ科の常緑高木。インドネシア・マレー地方の原産。熱帯アジアや南太平洋諸島に広く栽培。幹は直立し、円柱形で環紋があり、高さ10〜25m。幹頂に濃緑色の大羽状複葉を集める。肉穂花序に単性花を開く。芽は食用。果実は鶏卵大で、キンマの葉に包んで噛み嗜好品とする。薬用・染料。同科のビロウ(蒲葵)は別属別種。
  • 奥津捨家 おきつ すてや 奥棄戸(おくつすたへ)か。「へ」は場所の意か、あるいは「瓮」の意か)奥のほうにある、人の棄て場所、あるいは人を棄てる瓮(かめ)。おきつすたへ。奥津棄戸。
  • 会葬人 かいそうにん 会葬者。葬式に参列するために集まった者。葬儀の参列者。
  • 会葬 かいそう 葬式に参会すること。
  • 葬送 そうそう 遺体を墓まで葬り送ること。また、葬るのを見送ること。送葬。
  • パンダナス 植物名か。pandanus タコノキ科タコノキ属の植物の総称。熱帯に分布し、日本には小笠原にタコノキ、琉球にアダンが自生するほか、温室で観賞用に栽培される。学名は Pandanus。
  • マタノアニト 紅頭嶼でいう星のこと。星は死んだ人の霊であるという。マタは眼の義。(本文)
  • 粟 あわ イネ科の一年生作物。五穀の一つ。原産地は東アジア。日本では畑地で重要な食用作物だったが、今ではほとんど栽培しない。果実は小粒で黄色。米と混ぜて飯とし、飴・酒の原料、また小鳥の飼料。「もちあわ」は餅とする。
  • 巫子 いちこ 神巫・巫子・市子。(1) 神前で神楽を奏する舞姫。(2) 生霊・死霊の意中を述べることを業とする女。くちよせ。梓巫。巫女。いたこ。
  • 禁厭 きんえん まじないをして悪事・災難を防ぐこと。
  • 首棚 くびだな?
  • 天地開闢 てんち かいびゃく (天地はもと混沌として一つであったのが分離したものとする中国古代の思想から) 世界の初め。
  • ピンサバカン 台湾に伝承する太古山上にある大岩石。ここから始祖が生まれたとする。(本文)
  • ブレッド・フルーツ breadfruit tree パンの樹。クワ科の常緑高木。原産は熱帯太平洋諸島。高さ約10m。葉は大形掌状で3〜9裂。雌雄同株。雄花は円柱状の肉穂花序、雌花は球状の花序をなす。果実は表面に突起があり小児の頭ほどある大形、楕円形の集合果で、澱粉が多く果質はサツマイモ状。生または煮て食用。
  • 祖先教 そせんきょう 祖先崇拝に同じ。
  • ボボ またはタウ。パイワン・ツァリセンで家の柱・軒・棟木などに人の顔を彫刻したもの。(本文)
  • アイヌ Ainu (アイヌ語で人間の意) かつては北海道・樺太(サハリン)・千島列島に居住したが、現在は主として北海道に居住する先住民族。人種の系統は明らかでない。かつては鮭・鱒などの川漁や鹿などの狩猟、野生植物の採集を主とし、一部は海獣猟も行なった。近世以降は松前藩の苛酷な支配や明治政府の開拓政策・同化政策などにより、固有の慣習や文化の多くが失われ、人口も激減したが、近年文化の継承運動が起こり、地位向上をめざす動きが進む。口承による叙事詩ユーカラなどを伝える。
  • 記紀 きき 古事記と日本書紀とを併せた略称。
  • 闡明 せんめい はっきりしていなかった道理や意義を明らかにすること。
  • -----------------------------------
  •    朝鮮の巫覡
  • -----------------------------------
  • ヤンパン 両班 ヤンバン。(朝鮮語yangban) 高麗朝・李朝の朝鮮で、文官(東班)と武官(西班)との総称。のちに主として特権的な文官の身分と、それを輩出した支配層を指す。族譜に基づく同族意識が強く、儒教倫理の実践を重んじ、独特の生活様式と気風を生んだ。両班特権は1894年廃止。
  • 儒生 じゅせい 儒学を修める者。儒者。
  • 朝鮮語 ちょうせんご (Korean) 朝鮮民族の言語。膠着語で、母音調和の現象が著しい。文法は日本語とよく似ている。系統は明らかではない。大韓民国では韓国語という。
  • 漢語 かんご (1) 漢字音から成る語。漢字の熟語。←→和語。(2) 漢民族の言語。中国語。
  • モンゴル語 モンゴルご (Mongolian) モンゴル国や中国の内モンゴル自治区・甘肅省などで用いられる言語。アルタイ語族のモンゴル語派に属する。母音調和および後置詞を有する。蒙古語。
  • 満州語 まんしゅうご 満州族の用いる言語。アルタイ語族ツングース語派に属する。特に17世紀後半以降、清朝の興隆とともに中国語の影響を受け、語彙および文法の面で変化。
  • 必竟 ひっきょう 畢竟。
  • 民族心理 みんぞく しんり → 民族心理学
  • 民族心理学 みんぞく しんりがく 習俗、道徳、神話、宗教、言語などの文化の発展から、その民族特有の心理を研究する心理学。特に原始民族の生活様式の特質を探求する心理学をさすこともある。
  • 巫人
  • 民間信仰 みんかん しんこう 民間に伝承されている信仰。民俗宗教。
  • 八賤 はっせん?
  • 中人 ちゅうにん/ちゅうじん 朝鮮王朝時代の社会身分。士族(両班、ヤンバンともいう)の下、常民の上に位置する。多くが都の漢城(現ソウル)に居住し、科挙の雑科を経て通訳・医師・陰陽師など、技術系中間官僚として政府に仕えた。実務を担当し、経済的実力は大きかった。(世界史)
  • 常民 じょうみん 高麗・朝鮮時代の3大身分の一つで、両班(ヤンバン)と奴婢の中間に位置する。農民や工匠・商人が含まれる。成人男子が軍役や徭役を負担する点が他身分と異なる。朝鮮後期富裕層の両班への上昇がみられ身分制変動の一要因となった。(世界史)
  • 宦官 かんがん 東洋諸国で後宮に仕えた去勢男子。特に中国で盛行、宮刑に処せられた者、異民族の捕虜などから採用したが、後には志望者をも任用した。常に君主に近接し、重用されて政権を左右することも多く、後漢・唐・明代にはその弊害が著しかった。宦者。寺人。閹官。閹人。刑余。※(第3水準1-93-52)寺。
  • 妓女 ぎじょ 芸妓や遊女。うたいめ。娼妓。
  • 商人 しょうにん
  • 農民 のうみん
  • 巫卜 ふぼく? 風水とか地師というものもこの中に入っている。
  • 白丁 ペクチョン/はくてい (1) 白人(ハクジン)、白民(ハクミン)、白衣(ハクイ)。無位無官の民。庶民。(2) 成人しても兵籍にはいらない者。(大漢和)/朝鮮王朝時代から現代に至るまで朝鮮半島に存在した被差別民。高麗時代には一般民をさす語だったが、朝鮮王朝初期に政府が非農耕民を新白丁という名称に指定したことから差別語化した。同じ賤民でも奴婢と異なって良民への身分の上昇の道は閉ざされ、柳器の製造販売や動物処理など職業も厳しく制限され、居住地・婚姻などで差別がおこなわれていた。1894年の甲午改革で身分解放がおこなわれた後も社会的差別は強く存在したので、彼らは1923年に衡平社を結成し、解放運動を開始した。(世界史)
  • 風水 ふうすい (2) 山川・水流などの様子を考え合わせて、都城・住宅・墳墓の位置などを定める術。特に、中国や李朝朝鮮では墓地の選定などに重視され、現在も普及。風水説。
  • 地師
  • 特殊部落 とくしゅ ぶらく 明治期に、行政用語として生まれた被差別部落の差別的呼称。
  • 部落 ぶらく (1) 比較的少数の家を構成要素とする地縁団体。共同体としてまとまりをもった民家の一群。村の一部。(2) 身分的・社会的に強い差別待遇を受けてきた人々が集団的に住む地域。江戸時代に形成され、その住民は1871年(明治4)法制上は身分を解放されたが、社会的差別は現在なお完全には根絶されていない。未解放部落。被差別部落。
  • 巫・覡 かんなぎ (古くはカムナキ。神なぎの意) 神に仕え、神楽を奏して神慮をなだめ、また、神意を伺い、神おろしを行いなどする人。男を「おかんなぎ(覡)」、女を「めかんなぎ(巫)」という。かみなぎ。こうなぎ。
  • ムータン Mu-tang 巫党。
  • ムー Mu
  • Dictionnaire 辞書
  • coreen 朝鮮の
  • francais フランス語
  • par 〜から
  • les
  • missionnaires 布教師・伝道師・宣教師
  • de
  • coree 朝鮮
  • moutier 修道院、僧院。
  • qui 〜するところの
  • court 短い、近い、狭い、不十分な、乏しい、容易な。
  • tirer (1) 引く。曳く。ひっぱる。(2) 引き抜く。引き出す。引き上げる。救い出す。
  • bonne 子守女。女中。
  • aventure 不意の出来事。事変。冒険。運、偶然。
  • des (1)(a の複数形)(2) 〜から、以来、〜の時からすでに。
  • sort 運命、天命、宿命、運、めぐりあわせ、身の上、境遇、運を決すること。くじ。勝負、占い。
  • maladie 病気、疾病。
  • c'est-a-dir すなわち、換言すれば、実は〜である。
  • derniere 最後の、最終の、最低の、最近の。
  • classe クラス。階級。
  • hommes 人。人間。
  • witch 魔女。ヨーロッパの民間伝説にあらわれる妖女。悪魔と結託して、魔薬を用いたり呪法を行なったりして、人に害を与えるとされた。
  • sorcess → sorceress か。女の魔法使い。魔術師。(英和)
  • fortune-teller 占う人。易者。(英和)
  • 男覡 → 男巫・男神子
  • 男巫・男神子 おとこみこ 神託を人に伝えることをつとめとする男のみこ。みこは、一般に女性であることが多いので、とくに男を付けて区別する。おとこかんなぎ。おかんなぎ。おのこかんなぎ。 
  • 女神子・女巫 おんなみこ 女の巫。/心身を清めて神につかえる女性。女のかんなぎ。←→男巫。
  • 鏡 かがみ (1) 滑らかな平面における光の反射を利用して容姿や物の像などをうつし見る道具。中国から渡来。古くは金属、特に銅合金を磨いたり錫を塗ったり、または錫めっきを施したりした。円形・方形・花形・稜形などに作り、室町時代から柄をつけるようになった。今日では、硝酸銀水溶液をガラス面に注ぎ、苛性ソーダなどによってコロイド状の銀をガラス面に沈着させ、その上に樹脂などの保護膜を塗る。鏡は古来、呪術的なものとして重視され、祭器や権威の象徴・財宝とされた。
  • 神力 しんりょく 神の威力。しんりき。
  • 祝詞 のりと 祭の儀式に唱えて祝福することば。現存する最も古いものは延喜式巻8の「祈年祭」以下の27編など。宣命体で書かれている。「中臣寿詞」のように祝意の強いものを特に寿詞ともいう。文末を「宣(の)る」とするものと「申す」とするものとがある。のりとごと。のっと。
  • 明太魚 めんたいぎょ 魚「すけとうだら(介党鱈)」の異名。
  • 船おろし ふなおろし 船卸し。(1) 新造の船を初めて水上に浮かべること。進水。
  • 斎主 いわいぬし 斎(いわい)に同じ。/さいしゅ 祭の儀式を中心になっておこなう人。
  • 鐃鉢 にょうはち 仏家・寺院で用いる二種の打楽器、鐃と※(第3水準1-93-6)。つねに組み合わせて用いられたところから併称される。のちには、※(第3水準1-93-6)を特にさしていう。にょうはつ。
  • 打ち通す うちとおす (1) 芝居などを千秋楽まで上演し続ける。(2) 難事を最後までやりぬく。
  • 畢竟 ひっきょう (「畢」も「竟」も終わる意) つまるところ。つまり。所詮。結局。
  • 欺まし賺して だましすかして?
  • 賺す すかす (1) だましいざなう。(2) おだてあげる。(3) 慰めなだめる。機嫌をとる。
  • 神棚 かみだな 家の中で、大神宮などの神符を祭る棚。
  • オーチ
  • 神前神楽
  • ヒレを振る 領巾を振る。昔、女性が人を招いたり別れを惜しんだりするさまの形容として用いた。
  • ひれ 領巾・肩巾 (風にひらめくものの意) (1) 古代、波をおこしたり、害虫・毒蛇などをはらったりする呪力があると信じられた、布様のもの。(2) 奈良・平安時代に用いられた女子服飾具。首にかけ、左右へ長く垂らした布帛。別れを惜しむ時などにこれを振った。(3) 平安時代、鏡台の付属品として、鏡をぬぐうなどに用いた布。(4) 儀式の矛などにつける小さい旗。
  • 足拍子 あしびょうし 舞踊などで足ぶみをしてとる拍子。
  • チベットラマ → ラマ教か
  • ラマ Bla-ma・喇嘛 チベット仏教の高僧。現在ではチベット仏教僧一般に対する敬称としても用いる。
  • 技楽 → 伎楽か
  • 伎楽 ぎがく (1) 古代日本の寺院屋外で供養として上演された無言仮面舞踊劇。612年に呉の国の楽舞を、百済から帰化した味摩之が伝えたとされるが、源流は諸説あって定まらない。伴奏は笛・腰鼓・銅拍子の3種。平安時代以降は漸次衰微。呉楽。くれのうたまい。(2) 仏典で供養楽または天人の奏楽。
  • 霊魂 れいこん (soul; spirit) (1) 肉体のほかに別に精神的実体として存在すると考えられるもの。たましい。←→肉体。(2) 人間の身体内にあって、その精神・生命を支配すると考えられている人格的・非肉体的な存在。病気や死は霊魂が身体から遊離した状態であるとみなされる場合が多く、また霊媒によって他人にも憑依しうるものと考えられている。性格の異なる複数の霊魂の存在を認めたり、動植物にも霊魂が存在するとみなしたりする民族もある。
  • 神霊 しんれい (1) たましい。霊魂。(2) 神のみたま。神の霊徳。
  • 所嫌わず ところきらわず 場所を問題とせずに。どこでもかまわずに。ところかまわず。
  • 幣束 へいそく (1) 神に捧げる物。にきて。ぬさ。(2) 裂いた麻や畳んで切った紙を、細長い木に挟んで垂らしたもの。御幣。
  • 粗麻 あらそ 粗製の苧麻。
  • 裳 も (1) 上代、女性が腰から下にまとった服。(2) (本来は「褶」と書いた) 男性の礼服で、表袴の上に着用したもの。(3) 平安時代以来の女房の装束で、腰から下の後方にまとった服。12または10枚の細長い台形に裁った綾や※(第4水準2-84-52)織を襞が立つように縫い、海浦などの文様を施し、裾を長く引く。(4) 僧侶が腰から下にまとう服。
  • 麻布 あさふ 大麻、苧麻、綱麻、亜麻などを材料にした布。特に夏用の着衣その他に使われる。
  • 麻 あさ (1) (ア) 大麻・苧麻・黄麻・亜麻・マニラ麻などの総称。また、これらの原料から製した繊維。糸・綱・網・帆布・衣服用麻布・ズックなどに作る。お。(イ) アサ科の一年草。中央アジア原産とされる繊維作物。茎は四角く高さ1〜3m。雌雄異株。夏、葉腋に単性花を生じ、花後、痩果を結ぶ。夏秋の間に茎を刈り、皮から繊維を採る。実は鳥の飼料とするほか、緩下剤として摩子仁丸の主薬とされる。紅花・藍とともに三草と呼ばれ、古くから全国に栽培された。ハシシュ・マリファナの原料。大麻。タイマソウ。あさお。お。(2) 麻布の略。
  • 鈴 すず (1) 主として金属製で球形の鳴物。内部は空洞で、下方に細長い孔を設け、内に銅の珠などを入れ、振り動かして鳴らすもの。(2) 「かぐらすず」の略。
  • 三番叟 さんばそう (1) 能の「翁」に出る狂言方の役とその担当部分。三番三。(2) 歌舞伎舞踊・三味線音楽の一系統。能の「翁」に取材し、(1) を主体に扱う。長唄「種蒔三番叟」「廓三番叟」「操三番叟」、清元・長唄掛合「舌出し三番叟」、清元「四季三葉草」、常磐津「子宝三番三」など。(3) (演目の初めに演じられることから)物事の始め。幕開き。
  • 扇 おうぎ (1) あおいで風を起こし涼をとる具。また、礼用や舞踊の具とする。中国の団扇に対し、平安前期日本で作り始める。桧扇と蝙蝠扇とがあり、それぞれ冬扇・夏扇ともいう。後者は幾本かの竹・木・鉄などを骨とし、その元を要で綴り合わせて軸とし、広げて紙を張り、折畳みのできるようにしたもの。すえひろ。せんす。
  • 能楽 のうがく 日本芸能の一つで、能と狂言との総称。平安時代以来の猿楽から鎌倉時代に歌舞劇が生まれ、能と呼ばれた。それに対して猿楽本来の笑いを主とする演技は科白劇の形を整えて、狂言と呼ばれた。両者は同じ猿楽の演目として併演されてきたが、明治になって猿楽の名称が好まれなくなり、能楽の名と置きかえられた。現在、観世・宝生・金春・金剛・喜多のシテ方5流のほか、ワキ方3流(宝生・福王・高安)、狂言方2流(大蔵・和泉)、囃子方14流がある。世界遺産。
  • 猿楽 さるがく 猿楽・申楽。(「散楽(さんがく)」の転訛という) (1) 平安時代の芸能。滑稽な物まねや言葉芸が中心で、相撲の節会や内侍所御神楽の夜などに演じた。後には一時の座興の滑稽な動作をも猿楽と呼んだ。広義には呪師・田楽などをも含む。鎌倉時代に入って演劇化し、能と狂言となる。「さるごう」とも。(2) 能楽の旧称。(3) 猿楽を演ずる人。また、その一座。
  • 比較宗教学 ひかく しゅうきょうがく 宗教学の一分野。種々の歴史的および心理的比較考察に基づいて各宗教の特性・意義・本質を研究する。
  • 易 えき 易経(周易)のこと。また、易経の説くところに基づいて、算木と筮竹とを用いて吉凶を判断する占法。中国に古く始まる。うらない。
  • 卜 ぼく 亀の甲を焼いて、そのひび割れで吉凶をうらなうこと。うらない。
  • 売卜者 ばいぼくしゃ 売卜を業とする人。うらないしゃ。
  • 売卜 ばいぼく 報酬を得て吉凶などを占うこと。
  • 筮竹 ぜいちく 占いに用いる、竹を削って作った長さ約40cmの細い棒。ふつう50本。
  • 太鼓 たいこ (1) 打楽器の一つ。胴の両面または片面に革を張り、打ち鳴らすものの総称。大太鼓・楽太鼓・締太鼓など多くの種類がある。(2) 日本では (1) のうち、中央のくびれた胴をもつ鼓を除いたものを指す。
  • 奇しき くしき (形容詞「くし」の連体形から) 不思議な。霊妙な。
  • 霊験 れいげん (レイケンとも) (1) 神仏などの通力にあらわれる不思議な験。祈願に対する霊妙な効験。利益。利生。
  • 天下大将軍 てんか たいしょうぐん? 木で作った人の形をしたもので朝鮮では各所に建っている。(本文)
  • 老覡 ろうげき?
  • 五行説 ごぎょうせつ 中国で、万象の生成変化を説明するための理論。宇宙間には木火土金水によって象徴される五気がはびこっており、万物は五気のうちのいずれかのはたらきによって生じ、また、万象の変化は五気の勢力の交換循環によって起こるとする。循環の順序を、木は土に、土は水に、水は火に、火は金に、金は木に勝つとして木金火水土の順とする相剋(勝)説と、木は火を、火は土を、土は金を、金は水を、水は木を生ずるとして木火土金水の順とする相生説とがある。中国、戦国時代中期の※(第4水準2-93-2)衍(すうえん)が、歴代王朝の交替を相勝の理で解いたことに始まり、季節、方角、色、臭から人の道徳に至るまで、あらゆる事象を五行のいずれかに配当するようになった。特に、木火金水には、方角では東南西北、色では青朱白玄、季節では春夏秋冬が割り当てられ、四獣(四神)の青龍・朱雀・白虎・玄武が配された。漢代になると陰陽説と結合し、暦法、医学などにも取り入れられて、長く中国人の公私の生活を拘束することとなった。五行の説。
  • 五行 ごぎょう 中国古来の哲理にいう、天地の間に循環流行して停息しない木・火・土・金・水の五つの元気。万物組成の元素とする。木から火を、火から土を、土から金を、金から水を、水から木を生じるを相生という。また、木は土に、土は水に、水は火に、火は金に、金は木に剋(か)つのを相剋という。これらを男女の性に配し、相生のもの相合すれば和合して幸福あり、相剋のもの相対すれば不和で災難が来るという。
  • 陰陽五行説 いんよう ごぎょうせつ 古代中国に起源をもつ哲理。一切の万物は陰・陽二気によって生じ、五行中、木・火は陽に、金・水は陰に属し、土はその中間にあるとし、これらの消長によって天地の変異、災祥、人事の吉凶を説明する。
  • 山の神 やまのかみ (1) 山を守り、山をつかさどる神。また、山の精。民間信仰では、秋の収穫後は近くの山に居り、春になると下って田の神となるという。
  • 海の神 うみのかみ (1) 海波をつかさどる神。海神。
  • 満州語 まんしゅうご 満州族の用いる言語。アルタイ語族ツングース語派に属する。特に17世紀後半以降、清朝の興隆とともに中国語の影響を受け、語彙および文法の面で変化。
  • シャーマン教 → 「シャーマニズム」に同じ。
  • シャーマニズム shamanism シャマニズム。シャマンを媒介とした霊的存在との交渉を中心とする宗教様式。極北・シベリア・中央アジア、北米の先住民に一般的で、類似の現象は南アジア・東南アジア・オセアニアなどにも見られる。中国・朝鮮・日本では巫術・巫俗等の名で知られる。シャーマニズム。
  • 薩瑪跳神
  • 打ち通し うちとおし 打通・打徹。「うちどおし」とも)(2) 絶え間なく続けること。
  • 経典 きょうてん 教徒の信ずべき信仰内容や守るべき信仰生活の訓戒・規範を示した文献。仏教の教義の典拠となる書籍、キリスト教の聖書、イスラム教のコーランの類。
  • 占術 せんじゅつ 自然的または人為的現象を観察して、将来の出来事や運命を判断・予知しようとする方術。受動的な点が呪術と異なる。うらない。


◇参照:『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)『日本国語大辞典 第二版』(小学館、2001.5)『縮刷版 文化人類学事典』(弘文堂、1994.3)。



*後記(工作員スリーパーズ日記)


書きかえメモ。
気に適る/適らなかった → 気に入る/入らなかった
彼の女等 → 彼女ら
ババヤン島 → バブヤン島
マリヨーポリネシヤ、マレヨーポリネシア → マレー・ポリネシア

 菊地明『京都見廻組 秘録』(歴史新書y、洋泉社、2011.8)読了。只三郎の実兄、手代木直右衛門の記述がちょっと弱い。
 大河について。
 今回も、輪王寺宮・能久親王の登場はないもよう。さすがに『週刊ステラ』コラムで、童門冬二氏は親王について言及。幕末もの、戊辰戦争もので能久親王を登場させないっていうのは、史実の半分を語っていないとぼくは思う。もしも突然、お忍びで天皇家の人が東北へやってきたとしたら……。現代人でもかなりの難問のはず。どこに案内すればいいのか、何を食わせたらいいのか、そもそも、親しく応対したり口をきいていいのやら。さわらぬ神に……と、逃げ腰になるのが関の山だろう。ましてやその人から、何かをしてほしいと頼まれたとしたら。よほど肝がすわってないと拒否はできない。依頼の内容にかかわらず。
 
 それにしても上野の寛永寺に、歴代天皇の皇子または天皇の猶子を住まわせ、寛永寺貫主・日光山主・天台座主を兼任させるというとんでもなくパラレルなシステムを思いついて実行したのは誰だろう。あるいは、徳川以前の武家政権にすでにその萌芽があったのだろうか。




*次週予告


第五巻 第四七号 
日本周囲民族の原始宗教(三)鳥居龍蔵


第五巻 第四七号は、
二〇一三年六月一五日(土)発行予定です。
定価:200円


T-Time マガジン 週刊ミルクティー 第五巻 第四六号
日本周囲民族の原始宗教(二)鳥居龍蔵
発行:二〇一三年六月八日(土)
編集:しだひろし / PoorBook G3'99
 http://www33.atwiki.jp/asterisk99/
出版:*99 出版
 〒994-0024 山形県天童市鎌田2丁目
 アパートメント山口A−202
販売:DL-MARKET
※ T-Timeは(株)ボイジャーの商標・製品です。